花咲あさひ の 心神とともに。古神道と和の仕組の復活への道

感謝・反省・謙虚・奉仕・素直・勇気・結び・歓び・怒りあと1つの心柱は?
観世音菩薩は裸足で山を飛び出して行きました。

首の皮一枚

2023年02月27日 10時04分08秒 | 祭祀と和の国

互いに支え 助け合い 足りないところを補い続け

共に手を取り 手を握り 

互いの違いを認め合い 互いの違いを尊重し合う

如何なることにも先ずは感謝を

謙虚さ忘れずこうべを垂れて 

自ら手を挙げ名乗り出る真の勇気と素直さと

時には省み反省し 人への奉仕を忘れずに

歓びもちて結びとすれば 

怒りの心を鎮められん

 

こんにちは。

何年か前に,富士山を御神体とする神社「富士山本宮浅間大社」へ参拝させていただいた時に,

降ろされた祝詞「心御柱祝詞」の前段の一部です。

毎日,大祓祝詞のあとに神棚に奏上させていただいております。

祝詞を唱える度に,世界の中の日本がいよいよ試されてくる時代へと移行したように日々感じております。

日本人の親をもち,日本で生まれ,日本で育つことが本当に日本人であるといえるのか?

そんなことを最近は考えてもいます。

それは,今年の10月を過ぎたころから様々な事柄として際立ち始めて来るのではないでしょうか。

姥捨山が復活し。餓死する人もたくさん出てくる。これまでに経験したことのない大不況。

治安は乱れ,犯罪も増え,人が人を信じなくなり,孤立していく。

人々は,自己保身を第一と考え,人のことなどどうでもよくなり,自己責任論が浸透する。

神も仏もあるものかと祈る人も居なくなり,自分だけが生き残れば良いと云う人が多くなっていく。

日本人も首の皮一枚です。相互扶助を取り戻さない限り。

 

花咲 あさひ 拝


授けてあるぞ神の御霊を。

2022年11月22日 11時11分56秒 | 素直の心柱

日々の仕事が祭事と云うこと未だ判らんか。

祈り行じて省みると云うこと解らんのか。

自分が進む方向性とそこに辿り着く道のりをごちゃまぜにしてはならん。

正解ばかり探すからそうなるのだぞ。

心で想う良きことと頭で考える良きことが一致せんことになるぞ。

合点承知になっておらん。

心が先だと云うこと忘れたか。

道のり厳しいと,つい自分が進む方向性を見失い,疑い,わけが解らんことになるぞ。

己が正しいと感じることは方向性は合っているのだけれど,遠回りしての道だから息切れして,

あっちの道じゃ,こっちの道じゃ。向こうは良いらしい。

そのまた向こうも良いらしいとウロウロすることになるのぞ。

くたびれもうけとはそのことを言うぞ。それでは永遠に目的地には着かん。

それでは何一つ役に立てん。

目的地に辿り着く道は何通りもあるぞ。一本であって一本ではないぞ。

途中で枝分かれしているだけのこと。

時には,寂しくなる時もあろうが。悲しくなる時もあろう。

孤独を感じ,周りが羨ましくなる時もあるぞ。

ならば,突き進め。とことん突き進め。

迷わず,疑わず,ただ突き進め。素直になれば判ること。

道に迷いし時こそ,訪ねよ。

己の内に問えよ。

授けてあるぞ神の御霊を。


むすび、あさひちゃんに質問して見たの件。

2022年11月14日 20時20分16秒 | 結びの心柱

3年ほど前に掲載した記事です。

 

こんばんは!!

ピンチヒッターは昨日で、終わったはずなのですが(汗)。。。

                 あと2日間、延長になってしまいました~・・・。

そういうことで、今日は少し真面目に。

あさひちゃんは、なぜ神社やお寺の護持?をしているのか聞いて見た件。

すると、あさひお姉ちゃんは真剣な眼差しでこんなことを話していましたの巻。。。

 むすびは何で観音さまお地蔵さん裸足でいるのか解かる?

わたしが正直に分からない答えると・・・。

神社お寺には、それぞれ違った想いを持った人たちが大勢くる。

何か自分のために祈願をしたり、家族の健康事業成功祈り来る人も当然いる。

そんな中で、生きることに疲れ、死に場所を求めて来る人もいるの。

わたしもそう言った人たちにたくさん出会って来た。

でも、いまの宗教家は、

たとえば、そんなお金のない人よりもお金を持った人を優先して自分の周囲に置こうとするの。

本来、宗教家は、

生きることに疲れてしまった人たちにこそ寄り添い合わなければならないはず。

だから神社やお寺に来

「明日もまた生きてみよう」と少しでも感じてもらえれば、それだけで良いと思ってる。

私の護持「仕組みつくり」に対する源流は、そこにある。原点ってことね。

今から7年くらい前だったと思うけど、

あるお寺の復興をするので事務局をしてたときに起きた忘れられない出来事があったから・・・

お金を稼ぎたいと思うのであれば続かないよ。

日本は世界的に観てもとても裕福な国で、とても自然に恵まれている国でもあるけれど。

しかし、この日本の社会に、世の中には、首に縄をつけ彷徨っている人たちがたくさんいる。

誰にも頼ることすら出来ないで。お前(むすび)はまだ解からないだろうと思うけど、

今、こうしている間にもご飯が食べることが出来なくて死んじゃう人が本当に、

この日本にはいるんだよ。

餓死するんだよ。この五穀豊穣を祈る国で。

こんなことで神さま仏さま。わたしたちの祖先が本当に歓ぶと想う?

いろんなことを言う人も居るけど、

今の時代に餓死する人は身体の不自由な人に集中的に起きているの。

両親も既に他界していて、自分一人では生きて行けない人。

兄弟や姉妹だけで暮らしていて、どちらかが精神疾患を患い生活している人。

所謂、人の助けや力が必要な人たちが大勢いるのよ。

わたしも仕事で関わったからよく知っているけど、切実な事柄なの。

だから宗教家がやらないのであれば、私がやる。

そういう仕組みつくりを考える。

誰かがやらなければ本当に、この国家に未来はないよ。

むすびももっと沢山、いろんなことを経験して、人に奉仕出来るような人になること。

人に感謝されることは、自分も確かに嬉しいと素直に思うけど、

自分がやったとか自分の手柄だなんて考えちゃダメだよ。

それは、やがて選民意識に変わっちゃうから。

人は、選民意識と所有の概念を持つと紛争することを覚えてしまうから。

特に、この世で社会的地位の高いと言われる人に多くいる。

そういう人と仕事なんかで出会ったりすると、心が渇いているのが直ぐに判る。

心に潤いがなければ、心柱(みはしら)は枯れ、やがて倒れる。

 こんな内容のことを話していました。が!

  さらに、むすびは質問してみたの件。あしたに書きます。

地蔵菩薩とともに。花咲 むすび 拝

 

太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


生きることが辛く苦しい人へ。再掲載

2022年11月07日 18時01分18秒 | 素直の心柱

 

こんにちは。

がんばって!と言っても,最早そんな言葉は通用しないほど何かに傷ついてしまったり,人が誰も信用できないくらいまで落ち込んでしている人もいらっしゃると思います。ですが,どうかそんな時にでも心の燈火だけは消さないでいて下さい。種火でも良いので心の燈火を消さないで戴きたいのです。人のことを棚に上げて,こんなことを書かせていただく立場ではありませんが,清く生きよう・正しく生きよう・美しく生きよう・正義が絶対と考えれば考える程,わたしは真理から遠ざかってしまう気がするのです。

これは,とても誤解を招く言い方かも知れません。清く正しく美しく生きることがどうして真理から遠ざかってしまうのだと言われれば返す言葉は,わたしにはありません。しかし,これらの言葉の本当の意味は違ったところにあるのではないかと考えています。たとえば,清らかな水だけを呑んでいては,濁を呑み合わせることが出来ません。清濁併せ呑むと云う言葉が示す通り両方を知ることで本当の清らかさが判るのではないでしょうか。蓮の花も然り,綺麗な蓮の花を咲かせるためには濁水が必要で在るようにです。

わたしたちが想い悩むことが自分の私利私欲のことであるならば,その想い悩みは消え失せることはないようにも感じています。なぜならば,たとえその問題に答えが見つかり,解決できたとしても人間は,さらなる欲を抱き,迷い込んでしまうからであります。人はなぜ生まれ,なぜ生きるのか?これは人生最大のテーマだとも思います。なかなか答えを見つけ出すこともできません。辛く,自分だけの力ではどうすることも出来ない困難な事に直面すると,正直な話し,つい他人と自分を比較してしまうこともあります。

そう云った意味においては,わたしも同じであります。ただ目の前のことに全力で取り組んでいても,心のどこかで自分はなぜ生まれて来たのか?どうして生きているのかを心神と自問自答している日々でありました。しかし,もしかすると私たち人が生まれ,生きる本当の目的と云うものは人を養うことにあるのではないかと感じるようになって行ったのです。更に,人を養うと云うことは凄いことなんだと云うことも理解出来ました。人を養うと言っても,例えば,親や家族の生活を養うと云うことだけではありません。

自分のことだけではなく,誰かの為に,何かの為にと云う気持ちです。

そう自問自答しているといつの間にか人は強く成長できるのだと云うことも解かりました。わたしの場合,その一念で毎日生きて居られるようなものです。たぶん,自分の事だけを考えて生きて来たら,今の自分は居なかったと思っています。ただ,それも自分の事だけを考えて来た結果に過ぎず,自分の事だけを考えて来たことで得られたのだとも思っています。たとえば,お釈迦さまが悟りをひらいたと云われる話しに,苦行が悟りをもたらしたと云う説が一般的ですが,わたしの感じるままに言わせてもらえば,これは全く違います。お釈迦さまが悟りを啓くことが出来たのは,貧しい女性による慈悲「思いやり」であります。苦行ではないのです。

人の優しさ,思いやりに触れた瞬間にお釈迦さまは悟りを啓くことが出来たのです。肉体を酷使させるような厳しい諸々の修行が悟りを啓かせたのではありません。これが後世になって,お釈迦さまの悟りは苦行によるものだと云う解釈が定説となってしまったのです。こうのようなことを書くと,なら山伏や禅僧の修行は間違いなのか?と言われるかも知れませんが,山伏や禅僧の修行は,そもそも意味合いが異なります。山伏「修験道」や禅僧がする修行は「同体思想」「同根思想」と云う内観に通じるものであります。

今日も纏まりのない記事になってしまい恐縮ですが,どうか自分自身を必要以上に傷つけることだけはしないで戴きたいのです。他人と比較しても迷いの淵に落ちるだけです。山に篭り,滝に打たれを繰り返していても手にしようとしているものは手に出来ません。人を養うと云うことが,この世での最高の慈悲であります。人の為に,何かの為に生きているからこそ人は成長できるように思います。これが本当の修行であるとも感じています。今,生きることが辛く苦しいと感じていても変わる時は一瞬で変わります。

心神を忘れずに居れば,なにがあっても絶対に大丈夫です。

心神とともに。

 

太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことを大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心柱神社 心神とともに。花咲あさひ 拝


太陽神と日本人。心神の岩戸隠れ

2022年10月31日 08時05分37秒 | 感謝の心柱

 

こんにちは。

先日の記事,古神道の秘儀「自励拝」に続きまして,今日も縄文時代以前から続く古神道の秘儀(ちょっと大袈裟ですが)を書かせて戴きます。これは結構,多くの方が健康や体内循環を良くする目的で実行されていることだろうと思います。それは早朝の太陽拝「日拝」と云うものです。私も毎日,早朝の7時から8時の太陽神の名「アマテラスオホミカミ」を10回唱えて祈りを奉げております。この日拝は,古神道家でなくても提唱されている方々もたくさんおりますし,医師などの医療関係者も実際に薦められることがあるようです。日拝を現代語に訳すと日光浴とでも言うのでしょうか?日光浴は,気持ちが良くて健康に良い。これは正解です。

古神道と云うのは,大自然と直接,自分自身が繋がり,自分自身の心の中の心神「しんしん」に言ってみれば気を向ける・意識することでありますから奇異的なものではありません。私は,奇異的なことが嫌いなので,自分でもすることはありませんし,決して人に薦めるようなこともしません。ただ目の前にある大自然「神さま」と自然「精霊」と直接,自分自身が繋がることだけなのです。

その理由もいたって簡単で,自分の心の中に神さまの分魂「心神」を宿しているからです。しかし,真に残念なことに,神さまの分魂「心神」が岩戸に隠れたままになっている人々も多いのです。自分を傷つけ,相手も傷つけ,されに自然を穢すことを繰り返して行く内に,心神は心の奥深くに御隠れになられます。逆に,岩戸開きをしている方は,まるで後光が射しているような感じが実際にします。よく,あの人はオーラがあるとか眩しい人だとか言ったりもします。外観的なものではなく内面的に光り出すのです。

こう云った人間の心を物語にした有名なお話が御座います。それが,私たちの国に伝わる日本神話であります。日本神話の中に,天岩屋戸と云う物語が御座います。天岩戸や天岩屋とも云われることもありますが,実は,この日本神話に登場する物語の大半は自然と人間が共生することの大切さを教えていたり,又,人の心の中の様子を物語としていることが多いのです。その物語の中でも,特にこの天岩戸と云う物語ほど人の心の様子を見事に物語として伝えたと感じています。太陽神「天照太御神」が岩戸(洞窟)に御隠れになってしまったことで暗黒の世界へと変わってしまうと云う御話です。神社の祭り事や日本のお祭りの起源でもあります。

祭り事だけではなく,民主主義も家族会議の起源でもあります。何か問題が起きた場合,皆で話し合い,互いに知恵を出し合い,皆で協力し合って問題を解決して行くことの大切さを日本の神話は教えてくれています。それはまるで,わたしたち国民一人ひとりに困難に直面した時の対処法を教えてくれているかのようです。

日本神話と聞くと無理やり天皇家と結び付けたり,戦いの物語の方向に話を持って行きたがる人もおりますが全く違います。互いに支え,助け合い,足りないところを補い続け,共に手を取り,手を握り,互いの違いを認め合い,互いの違いを尊重し合うのが大和の魂を宿した真の日本人であり,日本人としての誇りなのです。

毎朝の日拝は,心の岩戸開きの意味があります。

 ※ 目の保護の意味で,太陽を直視しないように致しましょう。

大和の国で暮らす 和の住人でした。

花咲 あさひ 拝


水の神より人へ

2022年10月28日 21時00分31秒 | 美しき水の国

夜空に輝く星々たちは 水に恋をし光り輝く

太古の人はそれを知り 星の輝き目印に 水の湧き出る大地を求め

種々の種植え鎮守の森に 水を穢さず 水を汚さず

人の出入りを固く禁じ 水に感謝し 水を奉る。

水が如何ほど尊いか 水は人の命の源 知る人少なき哀れなことよ。

水は万物恵みを与え 誇らず競わず素直に流るる 下へ下へとその身を任せん。

なれど必要あればすべてを祓い 必要あらばすべてを清めん。

穢すなかれよ 汚すなかれ

水を穢せばその身も気枯れ 水を汚せば空も怒り荒れん。

水の如く素直に生きよ 水の如く謙虚であれよ。

逆らわず 競いもあわず 争わず ただ己の身を低くして

多くの人に恵みを与えよ。

 

夜間の配達も無事に終わり,

郵便局に戻る途中,しばし休憩しています。

今日も一日ありがとう御座いました。

花咲 あさひ 拝


急ぎ馳せ参じ候。胡坐をかいた宗教家たち。

2022年10月24日 12時22分06秒 | 祭祀と和の国

 

以下の記事は,2019.11.28に掲載した過去の記事です。

宗教家のみさなん。

何故,観音さまが裸足でいるのか説明できますか?

こんにちは。

今日も生意気にも私,花咲あさひは宗教家に物申します。

最近,たくさんの人が日本古来の古神道に触れて頂けることは素直に嬉しく思っています。古神道を理解してしまえば,今だけ・カネだけ・自分だけの宗教家やスピ何者や霊能者云々の詐欺紛いの事件も少しは減って来ると思いますし,苦しむ人々も減るからです。その前に,そう言った人たちを頼ろうとも思わなくなります。

又,人としての和を重んじて行くようになるからでもあります。

そして,最後には自分の心の中の心神と云う存在に気が付きます。

ただ,なかなか腰を上げようとしない人たちもいらっしゃいます。それが,神社の宮司さんをはじめ,神職さんやお寺の住職さんたちであります。もう冷めてしまっているのか,それとも神職や住職を1つの職業として割り切っているのか,安住の地から離れられないのかは存じませんが,所謂,御座敷にあがる立場の白足袋衆がなかなか動こうとしません。

神社や寺院の護持は黒足袋衆に任せておいて,自分たち白足袋衆は今すぐにでも困っている人たちや社会的に弱い立場に立たされている人々の元へ急ぎ馳せ参じ候なのに,じっと胡坐をかいたままです。ただ難しいことはなく,目の前にいる参拝者や檀家さんへ何気なく声を掛ければ良いだけです。

胡坐をかいたままで,うちの神社には参拝者が来ないとか,うちのお寺は檀家が増えないとかはただの言い訳です。

胡坐をかいたままでは参拝者も増えません。檀家も増えません。企業であればとっくに倒産しています。

今の世の中は,大変便利なインターネットなどもありますしSNSなどを使ってどんどん積極的に発信して行けば良いと思います。たとえば,ブログなどで記事を掲載して読んでもらったりするのもとても有効な手段だと思いますし,本を出版されても良いと思います。ある程度,大きな神社ならばマスコミや出版会社の人との繋がりもありますからとにかくじっと受け身ではなく能動的に活動されて見ては如何でしょうか?やはり,日本人は神社や寺院が理由もなく好きなのです。どこか心が落ち着くと申しますか安心できると申しますか理屈ではなく純粋に好きなのであります。

ですから,神社が主催するイベントに多くの方が来社されるのです。

日本人が神社や寺院が好きな理由は,わたしは遺伝子「DNA」の関係がとても強く作用していると考えているのですが,いずれにしても神社や寺院が今すべきことは,日本人としての和の心を再び伝えていくことだと考えます。その伝承者たる人が本来は,神社の宮司さんをはじめ神職さんやお寺の住職さんの役割であるのであります。その役割を忘れた結果が今の神社界・仏教界の姿のように私は感じています。

つまり,一般の人々に信仰心がなくなったのではなく,神社の神職さんやお寺の住職さんたちに信仰心がなくなったのです。その結果,スピ何者や新手な霊能者云々が跋扈するようになって行ったのです。これは宗教家の責任であります。

何かと云えば御利益御利益と言って来たと思いますが,もう若い人たちにはそんな話は通用しません。

若い人たちは,本当のことが知りたいのです。御利益とかそう言ったことでは無いのです。

たとえば,わたしもいろいろな人から「あさひちゃん。なにかおススメの本はない?」とよく聞かれることがことがあります。そんな際に,私が必ずお勧めする本は,このブログでも何度も書かせて戴いて来た春日大社の元宮司さんでいらした葉室頼昭先生の著書です。今でも葉室先生の本は人気があり,古本市場でも入手が困難な状態です。宗教や信仰は嫌いと言う人でも葉室先生の書いた本は人気があります。いまだに葉室先生の言霊は本の中で生き続けています。特に現代の会社経営者は必読書だと思っています。

それは何故でしょうか?難しい宗教用語や意味不明な言葉や理解できないような話がほとんど無いからだと私は思っています。又,以前,葉室先生の本を紹介したあるお寺の住職さんは,葉室先生の本を読み態々,関東地方から奈良の春日大社まで参拝に行かれた程です。その後,なんとそのお寺の住職さんは,檀家さんをはじめ親類縁者に至るまで困っている人の役に立とうと決心し,活動を開始されています。

まさに,山を下りた観世音菩薩の後を追った宗教家の御一人です。檀家数の少ない田舎にある小さなお寺ですが,住職さんの心意気は大寺院にも負けないほどです。それだけ,真の宗教家の伝える言葉と云うものは大切なのであります。大袈裟と思われるかも知れませんが,人の人生に大きな影響を与えるほどなのです。

そのことをもっと自覚して頂きたいと思います。

この期に及んでなぜ,宗教家は胡坐をかき続けるのか。

今すぐ山を下りよ。

苦しむ人々を救済し,観世音菩薩の後を追え!

天はすべてを観ています。祈


山の神より人へ

2021年10月26日 07時33分31秒 | 祭祀と和の国

富士は不死なり 不二の山なり

本より不二は遙拝の御神地

人が容易く立ち入ることならず

遠方より祈りを捧げし尊き御山

 

神の御山に御無礼無きよう 

麓の神に祈るが先よ

 

山を穢せば浄化激しく

己の願望欲望を

人は願えど無駄な願いよ

 

神に真を捧げるならば

遠方からでも神は聞き

必要あらばすべてを与えん

 

遠い近いは人の都合よ

おろせよしかと神の願いを

 

不二を穢す人々よ

富士を汚す人々よ

穢れに汚れて何を祈るや


耳を塞がず,目を閉じず。

2021年08月09日 07時38分34秒 | 素直の心柱

こんにちは。

イランカラプテ(アイヌ語で,こんにちは)と云う意味です。

昨日は,少しアイヌ民族のことを勉強していました。神学としての古神道を深く考察して行くと考古学や民俗学なども学ぶことになるのです。アイヌ民族も沖縄の琉球民族の信仰は,古神道であると私は結論付けています。

アイヌ民族も琉球民族も人間の能力を超えるものはすべて神としていました。たとえば,食器類においても御椀でも鍋でもシャモジでもみんな神さまの分霊が宿っていると考えていたのです。

さらに,役割が終わった食器類に対しては丁寧に供養までしていたのであります。まさに古神道の分魂思想そのものです。自然崇拝と祖霊祭祀を根本とし,この世のありとあらゆるものには神さまの分霊を宿していると云う基本概念です。

アイヌ民族の先祖も琉球民族の先祖も和人の先祖もみんな縄文人です。

だから日本人は,大きな和。大和の民となって大和民族となりました。

人と云うのは本当に不思議なもので,はじめは自分にこんなこと無理だと不安に感じていたことが,いつの間にか熟せるようになり,振り返ると懐かしく感じることがあると思います。

それだけ自分自身が成長したと云うことで宜しいのではないでしょうか。

成長するまでの間,たくさんの人に支えられ,多くの人に鍛えられ,今の自分が存在しています。すべてに感謝を奉げるとは難しいことではないようです。

祈りの本質は「感謝」にあります。

アイヌ民族のことを勉強していてあらためてそう感じていました。

いろいろ難しいことは,偶には横において置いて。生きる目的を見失ってしまったり,日々の生活に疲れてしまった時などは,自然に触れて見ては如何でしょうか?きっと,目の前にある大自然と直接,自分自身が繋がることによって何かを想い起させてくれるように感じています。

都会に住んでいる方は,自然と触れ合う機会があまりないようにも思いますが,そんなとき時間に余裕があるようであれば少し遠くに出掛けてみるのも良いかも知れません。だって,わたし達は,自然の一部なのですから自然から離れてしまえば心にも身体にも良い訳がありません。神社や寺院で祈願信仰に奔走するよりもいろいろな意味でも余程,良いと思っています。

それを心と体が教えてくれているのです。

耳を塞がず,目を閉じず,そのことをいつも私自身も思いながら大自然(神さま)に活かされながら自然(精霊)と共に生きています。

ニフェーデービル(琉球語で,ありがとうございます)と言う意味です。

大自然に感謝。拝


言葉の魔力

2021年08月07日 19時51分25秒 | 祭祀と和の国

過去記事です。

こんにちは。

今日も昨日の続きを掲載させて頂く予定でしたが,急遽,別の事柄を書かせて頂きたいと思います。

近年,よく耳にする言葉に「個人主義」と云う言葉を聞く回数がだんだんと多くなってきた気がしています。

ですが,この「個人主義」と云う言葉の意味を理解している人は案外少ないようにも思えます。このブログを長く読んでくださっている方はご存知であろうと思いますが,私は,主に神社と寺院の護持をしています。

ただ,神社と寺院の護持だけでは到底,食べていく事は出来ませんので郵便局で配達員の仕事も兼ねています。

神社や寺院の護持と云うものは,大きく区分けして3種に分類できます。

三本柱と表現する事も出来ますが,

その1つは御本殿や本堂などの礼拝堂施設の護持,

もう1つは,氏子崇敬者さんや檀家さん,

一般にお参りに来られる参拝者の護持,そして神社や寺院本体の護持です。

この内,どれが先で,どれが一番大切かと言った事ではなく,その時・その場・その状況で優先順位が変わってきます。

つまり,神社や寺院の護持は三本柱で支えられているのです。

そして,護持をする上で,私たち護持司が最も気を使うのが,参拝者の皆さまに「また明日も生きてみよう」と感じて戴ける事です。

この記事を読まれている方の中には,生きてみようなんて随分と大袈裟だなと感じるかも知れません。私もおそらく,護持司でなければそのように感じる事もあるのかなと思います。

しかしながら,生きる事に疲れ,生きている事が苦痛に感じている人々も神社や寺院には沢山参拝に来られます。そう云った方々が,神社や寺院に参って「また明日も生きてみよう」とほんの少しでも感じてくれれば良いなと考えながら護持をさせていただいています。ささえな事で元気になられる方もいらっしゃいますが,本当に残念な事ですが,亡くなった方もいます。

最近は特に,個人主義と云う言葉があちらこちらで平然と使われるようになりました。

確かに,個人主義と云う言葉は魅力的に感じるかも知れません。

ですが,

私は,この「個人主義」と云う言葉に,とても強い魔力を感じています。世界の個人主義思想の元は,自然権思想や天賦人権説に基づいた思想です。

つまり,人は誰であっても生まれながらにして人権と言う目には見えないものを宿し,その時の権力者によって人権を与えられるものではないと云った考え方です。当然,私たちの国の憲法にも書かれている憲法の核に相当するものです。それを「個人の尊重」と言います。

しかし,私たちが日常的に口にする「個人主義」は「個人の尊重」と同じ意味で使われているでしょうか?私には,どうもそうは思えないのです。

つまり,個人主義と個人の尊重を履き違えているように見えます。

私たちの住むこの日本は大変歴史が長い国でもあります。

しかしながら,長い民族史を持つ日本に個人主義だの自己責任と言った時代は一度もありません。もし,一度でもそう云った時代が過去に存在していたら,きっと,日本民族は滅びていたと感じます。

個人主義が行き過ぎると,私たちは,自己責任と云う恐ろしい言葉を何の違和感も嫌悪感も抱かずに平然と使い始めます。

それが,今の日本ではないでしょうか?

私たちの国には,自己責任と云う言葉は存在しないのだと言う事から改めて学んで行かなければならず,このままでは本当に滅びるのを待つのみです。

誰であっても,明日は我が身です。自分は安全だなんて言える人はもういません。先日も記事で書かせていただきましたとおり,今,日本が抱えるいくつもの問題は,すべて中途半端な状態のままです。

その一つひとつの問題や課題に個人主義や自己責任論を当てはめるとどう云ったことになるでしょう。考えるだけでも嫌になるくらいです。

古神道の世界観では,日本の諸問題は,世界に先駆けて起きます。したがいまして,日本のとる対応が今後の世界で同様に起こる問題の悪い見本にならない様にしなければなりません。

なら,どうすれば乗り越えられるか?

それは,本来の日本人の姿勢である相互扶助でしか乗り越えることは出来ないと,わたしは考えます。

花咲あさひ 拝


観世音菩薩

2021年08月04日 19時22分34秒 | 勇気の心柱

だいぶ前に書いた,過去記事です。

こんにちは。

先日,動画サイトにて宗教団体なのか宗教サークルなのか解りませんが「観音様に呼ばれる人」と云うことをテーマにした勉強会のような動画サイトがありました。動画でしたが映像はなく音声のみでしたが,私の思い考えることと相違があるなと云う意味で興味深いものでした。

観音様はどんな存在ですか?と聞かれると,多くの人が困っている人を救ってくれる存在であり,願い事を叶えてくれる存在とお答えになると思います。

確かに,仏教寺院の僧侶もその様に観音様の存在を伝えていますし,観音経と云う経典の一部にもその様に書かれております。今日は,私たちにとても身近な観音様の存在を少し書かせて頂きたいと思います。

まず観音様と云っても観音様には○○観音と云うようにたくさんの観音様がいらっしゃいます。たとえば,仏教の六道思想に観るように天界を担当する如意輪観音,人間界を担当する准胝観音,修羅道を担当する十一面観音,畜生道を担当する馬頭観音,餓鬼道を担当する千手観音,そして,地獄道を担当する聖観音を六観音と申します。その六観音の内,今日は,地獄の世界で人々を救済される聖観世音菩薩についてです。私たちが一般的に呼ぶ観音さまとは,この聖観世音菩薩を観音様と呼んでいます。仏教の経典の般若心経や観音経で唱える観音様も聖観世音菩薩です。

つまり,仏教界のスーパーヒーローと云ったところでしょうか。

観音様は,困っている人や弱い立場にある人を救済することを唯一の任務とされております。つまり,困っている人や弱い立場にある人を救済できるだけ強いとも言い換えることが出来ます。さらに,地獄の淵まで降りて行くことが出来る存在です。したがいまして,本当の観音様と云うのは,観音様自ら地獄まで降りて行って困っている人や弱い立場にある人の元へ行き救済するのです。

決して高い場所から声を掛けて叫び続けることではありません。

まさに,着の身着のまま裸足で飛び出して行くのが,私たちが祈りを捧げる観世音菩薩の真の御姿です。いろいろと諸説ありますが,私個人的には,聖観世音菩薩は,神界のスーパーヒーローが人々を救済する際に用いる御姿だと思っています。蒼き神の素戔嗚大神様で御座います。

黄泉の国を統治する神は,素戔嗚大神様です。

その動画サイトで話されていた内容は「普通の人は観音様のところで厄を落としに行くんだ」しかしながら「私たちは役を貰いに行くんだ」と云う内容でした。つまり,自分たちが観世音菩薩のように菩薩行をする人になるのだと云う趣旨の話でした。ここまでの話は,私たちもいろいろなところでよく聞く話です。新興宗教でも何かと多く引き合いに出されるのが観音様です。

しかし,私が思い感じたことは,何故,そこで話を止めるのか?その奥の話をされないのか?が疑問でした。なぜならば,ここまでの話を聴いて実際に人の厄を貰い,人の役に立てると信じて菩薩行を実践しても実感が感じられないどころかこの世では厳しい立場つまり,環境に立たされることが多いのです。

その主な理由は2つあります。

1つ目は,

物質世界に人の価値観を見出すことではなく,生き方や道徳,精神世界に真の価値を見出すからです。

2つ目は,

私たちは常に見返りを期待してしまう様になってしまっているからです。

先にも申したように,観音様は困っている人や立場の弱い人を救う尊い存在です。しかし,ここだけに着目してもその先にある本当の姿を観ることは出来ません。たとえば,細かい日常的な事柄ですが,自分から人に挨拶をして,相手から挨拶がなければ嫌な気持ちになります。何か人に良い事をして,相手から何も感謝もされない。ありがとうも言ってもらえないと寂しい気持ちになります。中には,人に良くしてもらったら感謝するのは当たり前だ。こんなに自分はしてあげてるのにと怒り出す人も居るかも知れません。

それは何故か?です。日常生活によく在りがちな話でもあります。

どうして,私たちは,その様に感じてしまうのでしょうか。もし,その様な不平や不満を抱くのであれば,それは菩薩行とはかけ離れたものです。

その様な気持ちはやがて,人を恨み心を穢すことになってしまいます。

菩薩行には,感謝されること。ありがとうと言ってもらえることは,はじめから予定されていないことです。つまり,一方的な行為が観音様の菩薩行ですから,相手に感謝されるとか有難うと云ってもらうとか言う話にはならないのであります。物質的な見返りがないのが菩薩行であると考えていた方が,逆に,何ら見返りを期待せず,執着することなく済みます。

花咲あさひ 拝


独り言

2021年04月10日 19時03分10秒 | 豊葦原瑞穂国新聞

東京はゴーストタウンに。

「いろんな意味で東京はオススメ出来ない」

都は奈良?京都?

働き方も今の私たちが考えてるよりもはるかにかわる。

ダブルワークが当たり前になり,

パート,アルバイト,派遣に正社員なんて形態もなくなる。

皆が個人事業主に。「大切なのは情熱

好きなことを職業にする。

創造出来ることが必要。

そろそろ配達の時間なのでまた。

(^_^)/~


祭りを忘れた日本人

2021年04月04日 20時08分33秒 | 感謝の心柱

 

こちらも2年程前の記事です。

こんにちは。

最近のニュースを見ても,新聞を読んでも暗くなるようなものばかりが報道され続けています。政治の世界でもそうですし,宗教界でも同じであります。ほとんどが性非行か金銭的な事柄です。なんだか暗くなるようなニュース以外は報道しないようにしているのか?と思えて来てしまうような社会になってしまいました。これは,私たち個人に与える影響は良くないものであり,まして子供たちのことを考えると複雑な気持ちになって来てしまいます。そうかといって,事実を報道しないと云う報道姿勢ではいけません。

本来,私たちの国の政治も経済も祭であるのです。その祭りの意味を取り違えしてしまっている期間が少し長すぎてしまって,いつの間にか政治の祭,経済の祭を忘れてしまったようです。祭を忘れてはなりません。日本と云う国家は祭を主体とした和の國であります。食事をすることは直会(なおらい)と云う生命を維持する祭事です。お風呂に入るということは禊と云う祭事です。身を浄める・清めるとも云われています。掃除でも同じように埃や塵を払う祓事と云う祭事なのです。こんなにたくさん国民の日常生活に祭事が存在する国家は,世界中の国々をどんなに探しても日本「和の國」以外に存在することはありません。日本人は祭人です。

故に,特に西洋人には不思議な民族として見られているようです。日本人と聞くと礼儀正しく,清潔で,真面目と云う代名詞のように感じられていますが,それもそのはず。これだけ祭事が国民一人ひとりの生活の中に浸透しているのです。日本人からすると何も特別な意識すら以ていないのであります。つまり,当たり前と云う前提がそこにはあります。しかしながら,その前提がいま大きく崩れかけて来てしまっています。これは日本と云う国家と日本人と云う国民にとっての存亡にかかわることではないでしょうか。

たとえば,生命を維持するために私たちは,食事「直会:なおらい」と云う祭事をします。その食事が出来までの過程を見てみると五穀豊穣を祈る五穀豊穣祭と云う祭事からはじまり,天と地のエネルギーを十分に吸収した作物を収穫します。無事に収穫できたことを天と地の神さまに感謝申し上げます。そうして私たちは自分の身体に吸収できる訳です。食事「直会」を通じて感謝の気持ちを育むことを小さな子供のころから私たち日本人は教育されて来たのであります。それを自分の身体で表現したカタチが食事をする際の「いただきます」と云う祈りの姿です。この祈りの姿とは何を意味するものなのか?ここにも祭の重要な意味があるのです。

それは,動植物供養祭と云う祀り事です。

何気ない食事と云うことでも五穀豊穣祭からはじまり,天と地のエネルギーを吸収して育つ生育祭,そして,無事に収穫出来たことへの収穫感謝祭,さらに,私たちが食事できることへの感謝祭と生命を戴くことへの動植物供養祭と単なる食事だけでもこれだけの祭事があるのであります。しかし,こう云った祭事が日本からどんどん減って行ってしまっています。食事をするときの「いただきます」と云う言葉には動植物への供養の意味が籠められているのですが,それすら出来ない人がおります。

食事の祭事でけではありませんが,冒頭でも書かせて戴いたお風呂にしても同じであります。お風呂は禊ぎするだけではなく,自分の身と心を癒やしてくれる大切な癒し所でもあります。水への感謝の場所でもあります。最近は,湯船にはつからずシャワーだけで済ませる日本人が多いようですが,湯船につかると云うことも大切な祭事であるのです。よく落武者が戦場で負傷した刀傷を治癒するために温泉を探していたり,発見したと云う話を聞かれたことはないでしょうか?温泉は,身体の内部の病気だけに効果がある訳ではなく,外傷にも効果があることを昔の人々は知っていたのであります。現代医学でも温泉療法は有効であるとされています。

私たちの日常生活からさまざまな祭事が減って行き,消えて行ってしまうと日本はどうなるのでしょうか?このままでは,日本人が西洋人化してしまう日が本当に来ると私は感じています。企業社会では,ほぼ西洋化してしまいました。ちょっと前に,社内用語をすべて英語にすると云うことで話題になっておりました。もしかすると,戦後の占領統治政策は終わっていないのかも知れません。私たちが暮らすこの日本から祭事を無くしては決していけません。私たちが祭事を失ってしまえば,日本人は日本に住みながらにして日本人ではなくなってしまうのです。既に,西洋人化している面も多々ありますが,しかしまだ間に合うようにも思います。

日本弥栄!あなたも弥栄!

祭人 Asahi Hanasaki 


塵を払い垢を除かん

2021年04月03日 20時06分55秒 | 祭祀と和の国

だいぶ前に書いた過去記事です。

こんにちは。

松下幸之助さんは,とても信心深く神社や寺院に多額の寄付をされて来た人でも有名であります。きっと,学歴もなく病気がちであった自分を世界的な企業にまでさせてくれたのは神仏と先祖のおかげであることを誰よりも御存知であったのではないかと思います。少し事業が上手く行きだし,お金にも恵まれて行くと人は誰しも自分の力だと勘違いを起こしてしまいます。

これは,悲しいかな人間の持つ性(さが)なのかも知れません。ひとつの企業が成長して行く過程において,たくさんの人の支えがあってはじめて成長できるものです。そこには,企業競争に敗れた相手とその家族もたくさん存在しています。当然,努力が実らずに定年を迎えた人々,途中で挫折してしまい終えた従業員も居たはずであります。そんな人たちのある意味犠牲の上で企業は成長して行くのですから,経営者は常にそのことを忘れてはならないのではないのでしょうか。そして,そう言った物事に対する姿勢が経営者の人格を磨いて行く様にも感じています。敗れた相手,忘れ去られた人々を決して忘れない考え方は和の基本姿勢です。

松下幸之助さんが実現したかった社会とは「和の仕組」だと私は感じています。何よりも素直に生きることが大切であると以前,松下幸之助さんの本を読んで書かれていたことをよく憶えています。確か,本のタイトルは素直な心に成るためにだったと思います。又,松下幸之助さんは,将来日本の為に活躍できる人材を育てる目的である塾を創設させました。そこで様々な事柄を学び教育されますが,私が一番感心したのは「掃除」にありました。なんでもその塾では,やる事がなければ掃除をしろと言うことが徹底されているようです。きっと,掃除の持つ御力をよく知っていたからではないかと思います。アップルコンピューターの創業者であるジョブズさんもマイクロソフトのビルゲイツさんも掃除の持つ御力をとても理解されていました。これは本当にその通りであります。

禅をこよなく愛した松下幸之助さん,ジョブズさん,ビルゲイツさんならではの考え方でもあり,非常に実践的なことであるとも思います。掃除は禅の基本で根本と言っても良いかも知れません。福井県の永平寺に行くと深夜1時から若いき雲水が懐中電灯を額に着け一生懸命にただひたすら掃除をしている場所があるのです。その中でも特に,水と水回りの掃除はとても大事であります。つまり,水が流れ出る場所です。私たちが暮らす個人の家においても同様であります。浴室や洗面所などが汚れるとその家に住む人の健康や運気に悪いと古神道では言い伝えられています。水は穢れを流し,掃除には祓いの御力が込められているのであります。

今日は,なんだか常日頃から私が考えていたことを先人も同様に考えていたんだと云うことで,松下幸之助さんを記事にさせて頂きました。そして,先人から背中を押して頂いている気がして嬉しくもなりました。やはり,いつどんな時代であろうと和が基本であり,その和の仕組みは,わたしたちが暮らす和の国から始まるのであります。明るく温かいと言うのが人の基本です。暗く冷たいと言うのはやはり可笑しい。人を人と思わず,人を物として来た1つの時代,世の中がもうすぐ終わります。和の仕組みの復活です。

花咲 あさひ 拝


森羅万象の中心の坐が感謝です。

2021年04月01日 18時02分48秒 | 祭祀と和の国

2年程前の過去記事です。

こんにちは。今日は,一之宮に御酒を奉納して,神札を新しい神札に交換して参ります。私は一年間の間に3回くらいは神札を新しい神札に交換しています。最近,昔に比べると神社に参拝される人が何だか増えているように感じています。それも比較的,若い人たちが多くなって来ているようです。若い人たちが,自分の住む地域の氏神さまに素直に感謝を捧げることが出来ると云うことは,とても良いことです。何か自分の願いを叶えて貰おうとする参拝ではなく,日々の生活に感謝できる心と云うものは尊いことです。

できますれば,多くの人々が,大自然に感謝の気持ちを誰も介在させることなく出来れば良いなと思っています。純粋無垢な感謝の気持ちは必ず大自然に届いています。そしてその素直な想念は,自分自身に反射されて来ることなります。特別,何か呪文のような言葉を捧げるのではなく「ありがとう」これだけで良いのであります。なぜならば,この「ありがとう」と云う言葉は感謝を表す言葉として私たちは何気なく使っていますが,これは言霊信仰の中心でもあり,最強の祝詞でもあるからです。理屈を超越します。

わたしたちの国「日本」には,一つひとつの言葉,つまり一音一音に神さまの分霊が宿ると云われています。言霊信仰と云われて来た古の信仰形態です。たとえば,ひらがなの50音の一つひとつに神さまの分霊が宿っているのです。一音一音を組み合わせ,それを繋げて私たちは普段何気なく会話をしています。その一音一音の組み合わせの中でも森羅万象を顕す言葉「言霊」があるのです。

それが「ありがとう」と云う5音であります。ありがとうと云う5音の言葉「言霊」の組み合わせと繋がりは,実は,宇宙の根源的存在「根源神」は,自分の心の中に坐します云う意味があるのです。これが世界すべての宗教や信仰の元の本であると私は感じています。万物・物事の始まりであり,物事の中心でもあり,和の中心でもあるのが「ありがとう」と云う言葉の意味であるのです。

つまり,森羅万象,万物の中心なのです。私たちに馴染の深い現代の神社神道も仏教も「ありがとう」が起点となっています。人間の心は宇宙と繋がっていると言われる所以でもあります。大自然に感謝を捧げること氏神神社で感謝を捧げることの意味もここにあるのです。したがいまして,神社や寺院に行って自分のお願い事を金銭を払ってするような祈願信仰とは全く違うのです。

素直に感謝のありがとうだけで十分です。こんな事を書くと,神社やお寺の宗教家のみなさんに怒られると思いますが,ちゃんと護持や国体・政体を勉強して頂きたいと思いますし,それこそ神さまを商売に利用しているよなものです。そもそも発想が貧困ではないでしょうか。神社やお寺で交通安全の祈願をすると本当に事故を起こさないのですか?身体健康の祈願をすると本当に健康でいられるのですか?そんなことは小学生でも判ることです。それは,私たちの国「日本」にあるべき本来の信仰ではありません。

太古の昔から日本人の性質は互いに支え,助け合い,足りないところを補い続けた民族でした。

私たちの祖先は,それを相互扶助とし和の仕組みとしました。

日本が和の国と呼ばれる所以です。

又,人にはそれぞれ違いがあり,その違いを認め合い,尊重し合うことをとても大切にして来ました。

それが祈りの民族と云われる大和の民。

大和民族です。

菊の紋章は世界祭祀の継承者としての証であり,世界で唯一,太陽を国旗にする国でもあるのです。

わたし達の心の中には根源神の分魂が内在しています。

高天原は,わたし達の心の中に存在します。

心神とともに。花咲あさひ 拝