古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

玉鉾の道

2021-02-18 18:17:26 | 歴史

今日は(も?)妄想モード全開です…

信濃にかかる枕詞「みすずかる」は褐鉄鉱と関係すると考えていることは以前触れました。

今回は道にかかる枕詞「 たまほこの」についての妄想話です。

 

「たまほこ」とは鉾の美称、あるいは玉で飾った鉾とされ道にかかる理由は未詳です。

「たま」と「ほこ」別々のものであったり、美称や玉で飾られた鉾でも構いませんが、

たまほこは玉を飾るというより玉をじゃらじゃらと垂らしてある鉾で「瓊音」をたてるものだったと想像します。

私は神事に使う鉾はサナギ鈴や玉をつけて鳴らすことで霊力を発揮するものではなかったかと疑っています。

 

さて「道」で思い浮かぶのが宗像三女神「道主貴」です。

これを道主の中で一番貴いのが宗像三女神という意味と解釈します。

他にもいる道主の中で一番なのだと。

丹波道主も氷沼道主もいます。

かつて「道主」がいわゆる「日本海ネットワーク」内の各地区に配置されていたのかも?と妄想しています。

 

「日本海ネットワーク」が「道」と呼ばれており、「道」の各地区の首長が〇〇道主と呼ばれていた…

玉鉾で瓊音もゆらに神事を行っていた地域が日本海ネットワークだったから「玉鉾の」が道にかかる枕詞だったらおもしろいと思うのです。

 

「たまほこの」は手向けの神にもかかります。

手向けの神、猿田彦=みちひらきの大神ですね。こちらは鉾に かかるでしょうとも という感じです。

猿田彦は「道」案内の神であり、手に持つ「鉾」で天地四方を切り開きます。

猿田彦も日本海ネットワークの関係者でしょうか。


草薙剣と越の国

2021-02-16 16:47:39 | 歴史

三種神器の剣、天叢雲剣。

この剣がヤマタノオロチのもので、ヤマタノオロチが越の国の首長であるなら

草薙剣という別名は草=クシであり、薙=蛇だと考えます。

クシとは越の女王であるヌナカワヒメの父親・祖父の名前の「クシイ」と同じだと思っています。

クとコは音韻転換しやすいでしょうし、今のクとコの間の音だったかもしれません。

関西人が木のことを「きぃ」といい「木の国」が紀伊国と同様に「く(こ)しぃ」が越の国だったと思うのです。

越の国の神剣であったことを隠すために、ヤマトタケルが草を薙ぎはらったから草薙という伝説を作ったのではないのでしょうか。

櫛稲田姫の名前だってそうです。

ヤマタノオロチに関わる姫の名前として相応しいのは「くしぃ・なだ姫」だと思うのです。

くしぃ=越、なだ=蛇 で越の国の蛇にまつわるお姫様。

それを隠したいために、貴いあるいは櫛の霊力を秘めた、稲田のお姫様って名前を漢字であてた…。

 

越を平定したとされる天語久山命。今も弥彦神社に祀られます。

越神、天香語山の子神の中にその名も天村雲命がいるのは偶然にしてはできすぎでしょう?

 

ヤマトタケルも天武天皇も「草薙剣」に見放されて死んでいくように思えます。

草薙剣こそが王の象徴なのでしょうか。

いや、それであれば熱田神宮に祀ったままはあり得ないか…

 

スサノオが天叢雲剣を見て異しいと思ったのは、都牟刈=曲がった刀だったから?

摘む、刈るということなら薙鎌を想像したくなりますねぇ。ク「サナギ」ですし。

中谷大宮諏訪神社には諏訪大社からの神授品である長さ59センチメートルもの

薙鎌が伝わっているそうです。

かつては刀とみまごうばかりの薙鎌があってもよいような…。

…また妄想が過ぎました💦


天叢雲剣と尾張氏

2021-02-14 21:28:45 | 歴史

三種の神器の中で剣だけに固有の名前がついていることにずっと引っ掛かっています。

鏡も勾玉も「八咫」「八尺(瓊)」と寸法がそのまま名前となっているのに、剣だけは「天叢雲」「草薙」という固有名詞で名前がついているのは何故なのでしょうか。

鏡や勾玉は自分たちで作ったもので、剣はヤマタノオロチから奪ったものだったからなのでしょうか。

武力の象徴たる剣がもともとはヤマト王権のものではないことにも違和感があります。

 

ヤマタノオロチの頭上には常に雲がかかっていたから「天叢雲剣」と命名、

火攻めにあったヤマトタケルが剣で草を薙ぎはらい敵を倒したから「草薙剣」と命名、

いかにも後付け伝説っぽい話だと感じています。

既に名前の有った霊剣の名を奪うことは不吉だから、名前の由来を後付けしてそのまま使ったのでしょうか?

 

尾張氏の系譜にある「天村雲命」あるいは度会神主等の祖「天牟羅雲命」と関係ある剣なのでしょうか。

尾張氏の天村雲命は天香語山の子とされます。

天香語山の名前は大和三山のひとつ、天香久山とそっくりです。

神武天皇が大和を征服する際、天香久山の土を採取し甍を作り呪術に用いています。

崇神天皇の御代には吾田媛が天香久山の土を取り「これは倭国之物実」といって呪いをかけます。

大和を手中におさめるには何故三輪山ではなく天香久山なのでしょうか。

天香久山と天香語山が同一で、三種神器の剣が子の天村雲のものであったなら、尾張氏とは一体どういう存在だったのでしょうね。

その他大勢の豪族とは思えません。


振ることによって生じる霊力

2021-02-12 15:52:44 | 歴史

叱られそうな話ですが、十種神宝の図、鏡・剣・玉・比礼に見えますか??

鏡の図はどちらかというとまだ銅鐸に見えませんか。

玉の図も玉には思えないし、比礼だって我々の思うようなストール状のものではありません。

品物火禮は例えるなら化粧まわし?

 

単なる妄想話です。聞き流してください。

「布留」「ゆらゆらとフル」・・・

十種神宝は「振る」ことによって霊力を発揮する宝だったように思えます。

紗などでできたストールのような比礼をヒラヒラと振る。(あるいは化粧まわしのような比礼をユラユラと振る)

八坂瓊の御統などを 瓊音もゆらに 振る。(十種神宝の玉の図は御統とはかけ離れていますが・・・)

祭祀に用いる銅剣や銅鏡も「振る」ことによって霊力が発揮されるものだったのかもしれません。

剣の舞、鏡の舞としてユラユラと振る…。

十種神宝の鏡が実は銅鐸だったなら、振ることによって霊力を発揮する祭器としてピッタリだと思います。

物部氏が銅鐸と関係すると考える研究者も多いことですし。

しかし鏡だとはっきり言っていることはさすがに無視できませんねぇ…

 

季節外れながら「さなぶり」とはもともとは「サナキ振り」神事だったのではなかったかと思っています。

田植えと関係するさなぶり。

かつては山の中腹に登って行っていたところもあるようで、神戸の桜が丘銅鐸の出土地なんて、サナキ振りの地としてふさわしく思います。

「さ」の神の神器、サナキを振り豊作を祈ったのではないでしょうか。


卑弥呼 ー消えた鉛丹五十斤ー

2021-02-09 07:51:11 | 歴史

卑弥呼が魏から下賜された「鉛丹五十斤」はどうなったのでしょうか。

鉛丹は水銀朱やベンガラ朱と並ぶ赤色顔料です。施朱の風習は世界的にみられました。

古墳時代に日本列島で使われたのは水銀朱やベンガラ朱であり、鉛丹の使用例は今のところ見つかっていないそうです。

 

平原王墓からの出土品は大変立派ですが、撒かれた朱は鉛丹ではありません。

この方形周溝墓から鉛丹が出ていたなら邪馬台国論争に決着がついていたかもしれませんね。

いやぁそれでもつかないかぁ…

 

昨今、箸墓の年代がどんどん卑弥呼の時代に近づいてきました。

もしも箸墓と平原王墓がさほど変わらない時代に造られたものであれば、その大きさがあまりにも違うことに驚きます。

平原王墓は12メートル×14メートルの方形周溝墓。

かたや箸墓は278メートルの前方後円墳。

 

たとえ一部であれ北部九州の協力なくしてヤマトの繁栄はないと思うのです。

日本海航路、瀬戸内海航路いずれをとるにせよ、海外からの文物は北部九州のどこかを経由して入ってきたはずです。

…平原王墓は伊都国の王墓なのかな??

 

鉛丹と封泥が同じ地域から同時に出たら、もう私の邪馬台国は決りでしょう。

それが沖縄であろうと、東北であろうとも。