古代四方山話

古代について日頃疑問に思っていること、思いついたことを徒然なるままに綴ってみたいと思っています

倭の国の人びと 2

2021-02-08 10:23:52 | 歴史

倭の国の人びとは縄文時代からすでに朝鮮半島や中国大陸と行き来をしています。

彼の地においては鏡が姿見として使われ、祭器として重要視されるようなものではないことも知っていたはずです。

それでも倭の国の人びとは鏡をレガリアのひとつに選びます。

勾玉は日本列島のものと考えられます。

剣はともかく、鏡や勾玉をレガリアとする人びとがはたして渡来系なのでしょうか。

 

変な墓も造ります。

四隅突出型墳丘墓にしても前方後方墳、前方後円墳にしても奇抜です。

前方後円墳の時代には、方墳は前方後円墳の下位に位置付けられたそうですし。

 

まつりごとの在り方も特殊です。

卑弥呼や台与などの鬼道の使い手である女王が統治する国です。

阿毎多利思比孤の時代になっても「倭王は天を兄とし、日を弟として天がまだ明けないときに出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねる」という体制でした。

 

時代が下っても鋳鉄ではなく鍛鉄を選びます。

奈良や鎌倉のような大きな青銅仏は中国や朝鮮半島では例がありません。

長きにわたり半島や大陸とは違った価値観を持っていた日本列島の人びとのリーダー達が渡来系だとは私には思えないのです。

 

ところで「倭」という字は初めから卑字だったのでしょうか?

委に鬼で「魏」。委に人で「倭」。

これは似て非なるものなのでしょうか?


倭の国の人びと ①

2021-02-05 17:01:19 | 歴史

中国での銅鏡は紀元前2000年頃の斉家文化のときには小型で薄いものが多く、姿見ではなく呪術的な用途で使われていたかもしれないそうです。

出現期の銅鏡は太陽を表すような文様が多く、太陽信仰と関係していたかもしれません。

戦国時代後期に急速に普及が進んだ銅鏡は、大型の姿見と小型の魔除け鏡の使い分けがあった様子。

そして玉璧の代用品として副葬されてきたといいます。

 

倭人は鏡をどうやって使っていたのでしょうか。

太陽信仰に関わる呪術的な使い方であれば、中国では魔除けに使われたらしい小型鏡のほうが向いているように感じます。

中国のものが朝鮮半島を通じて伝わったのなら、中国での使われ方に準じていてもよさそうなのに、倭では逆に大型の鏡を祭祀に用いていたのでしょうか。

もし単に玉璧の代用品・副葬のための品であれば破鏡の意味が解りませんし。

鏡だけでなく銅鐸もそうです。

たとえ起源が朝鮮式の鈴だったとしても、銅鐸は最初から朝鮮式の鈴とは「別物」ですよね。

武器型青銅器にしたって、鉄器普及より前に祭器化しています。

倭人は中国や朝鮮半島のものを取り入れるにしても、そのままの使い方をするつもりは更々ないように感じます。

 

串間市の王の山古墳から紀元前2世紀に漢王朝の工房で作られたと思しき玉璧が出土しています。

直径33.3センチの優品で、そっくりの璧が中国の南越王墓から40枚以上発見されているそうです。

交易でこのような王侯クラスの宝物を入手するのは不可能に近く、亡命した王などが倭に持参したと考えられています。

串間市から出土するということは、玉璧の持ち主はそこで暮らし亡くなったのでしょうか。

亡命者ゆえにひっそりと暮らしていた?

王侯クラスの人物であっても、倭において大きな権力を手にしたようにはみえないのですが。

 

倭人というのは中国や朝鮮半島とは違った価値観を持っていたように思えてなりません。

倭人の首長層が渡来系の人びとだったとは私にはどうしても思えません。


モモソヒメは讃岐の出身者ではないですか

2021-02-01 18:11:22 | 歴史

四道将軍は崇神天皇10年に地方の敵を帰順させるために派遣されたと日本書紀には書かれています。

北陸に大彦命を、東海に武淳川別命を、西道に吉備津彦を、丹波に丹波道主命をそれぞれ派遣しています。

わたくし、この四道将軍の派遣に疑問を持っています。

外来土器から考えるに東海は纏向遺跡を造る=初期ヤマト王権を主導した地域なのではないでしょうか。

前方後円墳の在り方から吉備は纏向で主導権を握っていたのではないかと考えられています。

纏向に集まった各地の首長たちを逆に纏向から各地に派遣した てい にした話が四道将軍なのではないかと疑っています。

吉備から纏向にやってきたのが吉備津彦、丹波から纏向にやってきたのが丹波道主なのでは。

 

武淳川別命は大彦命の子とされます。

もし大彦命がもともと北陸の首長であったなら、大彦命の勢力は纏向以前に北陸から東海へと進出していたのでしょうか。

名前の「○○わけ」は○○の子供という意でよく使われるようです。

この使われ方にあてはめると武淳川(タケヌナカワ)別はタケヌナカワの子供。

大彦命=タケヌナカワということになります。

 

もし纏向に集まった各地の首長たちを逆に纏向から各地に派遣した てい にして話をつくっていたならば、

俄然気になってくるのがモモソヒメの出自です。

モモソヒメも逆に讃岐から纏向にやってきた人だったりしませんか?

纏向古墳群内で最古級と考えられている纏向石塚古墳などは、吉備・讃岐・阿波・播磨などの特徴を併せ持つともいわれています。

讃岐も纏向に大きく関わっていたのではないでしょうか。

モモソヒメと吉備津彦が姉弟だとされるのは讃岐と吉備が同盟関係にあったということなのでは。

 

讃岐からモモソヒメが纏向へ赴いたのであれば、何をしに?

私は邪馬台国畿内論者ではありませんが、箸墓の主とされるモモソヒメが讃岐から纏向に巫女王としてやって来たのであれば、モモソヒメが卑弥呼なのかもしれないとちょっと思ったりします。

竹取の翁が讃岐造であることさえも、私の妄想をかきたてます。