万葉集のなかに、序詞で「鳥」と言い、「目」を導いた歌が二首ある。巻十二「古今相聞往来の歌の類の下」の「物に寄せて思ひを陳ぶる歌」と巻十四「東歌」の「常陸国の相聞往来の歌十首」のなかのそれぞれ一首である。
小竹の上に 来居て鳴く鳥 目を安み 人妻故に 吾恋ひにけり〔小竹之上尓来居而鳴鳥目乎安見人妻姤尓吾恋二来〕(万3093)
小筑波の 繁き木の間よ 立つ鳥の 目ゆか汝を見む さ寝ざらなくに〔乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左祢射良奈久尓〕(万3396)
万3096番歌から見ていく。
小竹の上に 来居て鳴く鳥 目を安み 人妻故に 吾恋ひにけり(万3093)
一・二句の「小竹の上に来居て鳴く鳥」が序詞で、「目」を導いていると考えられている。四・五句は、人妻なのに私は恋したことだ、と「故に」の「に」は逆接と解されている。万葉集中の「人妻故に」三例の内、万21・1999番歌が類例である。
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも(万21)
あからひく しき妙の子を 数見れば 人妻故に 吾恋ひぬべし(万1999)
うち日さす 宮道に逢ひし 人妻故に 玉の緒の 思ひ乱れて 寝る夜しそ多き(万2365)(注1)
序詞のかかり方については諸説ある。結果、三句目の「目を安み」の意が定まらない。見るに快い(美しい)、見た目が安らかなので、見ることがたやすいので、と捉え方に差が出ている。
①群の意のメにかかる序詞とする説(賀茂真淵・冠辞考(国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/864336/1/22))。
②篠の末に巻いた葉があるのを「芽」というので、そこへ来て居る鳥の心は安かるからとする説(契沖・代匠記精撰本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979064/1/282))。
➂初二句は「目安し」(見た目がよい、一目見たすばらしさ、姿がよい、見にくからず)を起こす序と考えればよいとする説(北村季吟・萬葉拾穂抄(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007744/727?ln=ja)、土屋1977.、稲岡2006.、阿蘇2010.)。
➃笹の葉の上に来て鳴く鳥はありふれていて、ありふれて逢うことがしやすい人妻であるとする説(折口信夫・口訳萬葉集(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1663261/1/61))。
➄「目を安み」の「目」について、鳥の名にメ(乙類)という接尾語が付く例が多い(カマメ、スズメ、ヒメ、ツバメなど)ので、メは古く鳥を意味したのではないかと考えて序詞とする説。安心した気持で逢えるので、の意(大系本)。
⑥「目」を網の目と捉え、羅網、鳥網の目の危険がないので心安らかなように、見ることが易しいので、の表裏の意をかけ合わせた修辞とする説(井手1957.)。
⑥´羅網が張られていないので小鳥たちが安心して篠の上にやってくる、その夫人に逢う機会が多かった(澤瀉1963.)。
⑥´´網目にかかる心配がない、見た印象がよい(集成本、伊藤1997.)。
⑥´´´網の目を気にしていない、人目に立つことはないと気を許して(中西1981.)。
➆篠の上に止まっている鳥のように、目にすることが容易であるとする説(武田1956.、新大系本)。
⑧「目」は人目のことで、篠の葉末にいる鳥は人目に立つことがないので、人目を安心なものと見、ひそかに思いを寄せる意を重ねたとする説(多田2009.)。
どの説も歯切れが悪い。
古代の人たちは鳥をよく観察し、それに基づいて言葉にして歌に表し、聞いた人もなるほどうまいことを言うねえと感心したのだと思う。コミュニケーションが成り立っているから歌としてあり、4500首余りが万葉集に収められている。
この歌で、「鳥」が「来居て鳴く」場所は、「小竹の上」である。篠とも書くシノは竹の類のなかで小型のもので、笹よりは大型のものを指したようである。小鳥でも笹の上には止まることはできず、シノの上になんとか止まっていると想定しているらしい。湾曲した指を使ってシノを握っている。どこでも止まれるかといえばそうではない。指が回ってしまう細いところではかなり苦労する。飼育されている文鳥の例で考えれば、8㎜の枝にはつかまりたがらず、指が止まり木の三分の一程度を余す12㎜程度以上あるものが好まれている。シノに適用して考えれば、節間の部分では指が回ってしまい、盛り上がっている節のところを握るようにして止まることになる。むろん、歌は写生によって成っているのではなく、相手をおもしろがらせるための機知として言葉を継いでいる。
鳥の止まり木模式図(左:細すぎて止まれない、右:ちょうど良い)
鳥が来て止まって鳴いているのはシノのフシ(節)ということである。フシ(節)に止まれば安定しくつろげ、鳥はフシ(伏、臥)の状態に入ることができる。目を閉じて寝られるのである(注2)。だから、「目を安み」と続けている。しっかり握りつかめ、体が安定するから、ストレスなく目を休めて寝ることができる。「目を安み」の「目」は人間が鳥を見る「目」などではなく、鳥自身の「目」である。それがこの序詞のかかり方の妙である。よって「寄レ物陳レ思歌」として成り立っている。
小竹の上に 来居て鳴く鳥 目を安み 人妻故に 吾恋ひにけり(万3093)
篠の上に来て止まって鳴く鳥は、その節のところを握って体が安定するので目を休めて臥して寝るというように、相手がたとえ人妻であっても共寝をしたくなるような恋を私はしたことだ。
万3396番歌も、同様に「鳥」の「目」を比喩として使っていると考えられる。
小筑波の 繁き木の間よ 立つ鳥の 目ゆか汝を見む さ寝ざらなくに(万3396)
小筑波の山の繁茂した木々の間から一斉に飛び立っていく多数の鳥のなかの一羽のようにしか、あなたのことを見られないことになるのだろうか、共寝しなかったわけではないのに(注3)。
「目ゆか」の「ゆ」は経由を表し、手段を示すとする説が通行している。類例として次の歌があげられている。
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ(万4417)
徒歩で、というのと、鳥の目で、というのはちょっと勝手が違う(注4)。助詞「ゆ」は本来、動作の行われるところ、経過するところを表したり、動作の起点を表す。場所の場合でも時間の場合でも同じように使っている。現代語では、ヲ、カラに当たる。
巻向の 痛足の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む(万1100)
……… 白たへの 手本を別れ 柔びにし 家ゆも出でて 緑児の 泣くをも置きて ……(万481)
川を行く水、家から出て、の意であるが、「動作が行なわれる対象そのものを指すという性格はヨリよりも濃い。」(時代別777頁)ものである。川をこそ通って行く水、家からまでも出て、のような自己言及的、陳述副詞的な意味合いを持っている。「立つ鳥の 目ゆか汝を見む」という言い方は、立つ鳥の目なんかからあなたを見ることになるのだろうか、の意であると考えられる。つまり、あなたを見ることが、異性として見ることさえかなわず、人ではない鳥として見る、それも群れを成して飛び立つうちの一羽の目からしか見ることができない、ということを言おうとしている。そういう扱いをあなたは私にされるのでしょうか、共寝をした間柄だのに、と愚痴っていると解される。そんな比喩を使っているところからすれば、相手はとても人気のある人だったのだろう。たくさんの人たちの注目を浴びている。そのなかから選ばれて自分は共寝する関係になった。なのに相手は過去のこと、なかったことにしてきた。どうでもいい有象無象にされてしまったと未練がましい歌を歌っているのである。
そんな群鳥の居場所を小筑波としている。ヲ(尾)にハ(羽)がツク(着)と聞こえ、鳥が密集しているとわかるのである。
うちなびく 春さり来れば 小竹の末に 尾羽うち触れて 鶯鳴くも(万1830)
(注)
(注1)万2365番歌も、「人妻故に」が「玉の緒の思ひ乱れて」までにかかると考えれば、ふつうなら恋しく思うはずのない人妻なのに思いが乱れる、という意とも解される。「宮道」は「玉」砂利が敷かれているところを言い、「玉の緒」が切れたから道に散乱しているのだと譬えている。今日までのところ、そのように解した注釈書は管見に入らない。
(注2)文鳥のほか小鳥の多くはスズメ目で、三前趾足をしている。我々には膝に見えつつ逆に曲がっているところは、骨格上、踵に当たる。その踵を落とすと足裏側の腱が引っ張られて自動的に指が閉じるため、木の枝をぎゅっと握った状態で保つことができ、枝に止まったまま安定するので眠ることができている。
フス(伏、臥、俯)という言葉は、「うつむいた状態で、床や地面に接する意」(岩波古語辞典1156頁)で、腹ばいになること、うつぶすこと、横たわることや寝ること、を指す。眠っているとは限らないわけだが、居眠りが体勢を立て直しながら行うように落ち着かないことに比べ、伏して横たわることが身を安んずることにつながる。小鳥の場合は踵を落とした姿勢である。
さ雄鹿の 朝伏す小野の 草若み 隠ろひかねて 人に知らゆな(万2267)
むし衾 柔やが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも(万524)
家人の 待つらむものを つれもなき 荒磯をまきて 偃せる君かも(万3341)
なお、竹類には例外的に、節間の部分が膨らんだホテイチク、ブッタンチクのような品種もある。
(注3)水島1986.は、「一首は男の歌で、一度ならず自分に許したことのある女性が、如何なる事情によるのか、共寝を拒むようになったことを、いぶかしみ、悲しく思うのであろう。」と解している。阿蘇2011.は個人的抒情歌としての理解は疑問であるとしているが、歌で歌いたいことはその内容ではなく形容である。うまいこと言えているだろうと誇示しているだけで、経験や本心とは無関係であって何ら問題ない。作者を問わずに収集している東歌には、採用の観点からして言葉遊びを重視する傾向が強くなって当然である。
(注4)「加志由加也良牟」を「徒歩ゆか遣らむ」と訓んで、「徒歩」は徒歩の上代東国方言であるとされている。ただし、「枷ゆか遣らむ」、足枷をつけて送致するようなことになるのだろうか、の意と解することもできる。新撰字鏡に「鏁?鎻 三形同、思果反、䥫也、又璅字、連也、足加志、又加奈保太志」とある。「多摩の横山」は多摩川沿いの丘陵地でアップダウンがきつく、足が棒になるほど疲れることを歌っていることに違いはなく、防人に赴任することはまるで罪を犯して流刑になるようなものだという認識があったなら、囚人の護送のようだと歌ったとした方が比喩表現としてより巧みであると考える。
(引用・参考文献)
阿蘇2010. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第6巻』笠間書院、2010年。
阿蘇2011. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第7巻』笠間書院、2011年。
伊藤1997. 伊藤博『萬葉集釈注 六』集英社、1997年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。
井手1957. 井手至「目をやすみ」『萬葉』第24号、昭和32年7月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1957(『遊文録 萬葉篇一』和泉書院、1993年。)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
澤瀉1963. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第十二巻』中央公論社、昭和38年。
時代別 上代語辞典編修委員会編『時代別国語時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎『新潮日本古典集成 萬葉集 三』新潮社、昭和55年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系3 萬葉集 三』岩波書店、2002年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解5』筑摩書房、2009年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 九』角川書店、昭和31年。
土屋1977. 土屋文明『萬葉集私注 六 新訂版』筑摩書房、昭和52年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
水島1956. 水島義治『萬葉集全注 巻第十四』有斐閣、昭和61年。
小竹の上に 来居て鳴く鳥 目を安み 人妻故に 吾恋ひにけり〔小竹之上尓来居而鳴鳥目乎安見人妻姤尓吾恋二来〕(万3093)
小筑波の 繁き木の間よ 立つ鳥の 目ゆか汝を見む さ寝ざらなくに〔乎都久波乃之氣吉許能麻欲多都登利能目由可汝乎見牟左祢射良奈久尓〕(万3396)
万3096番歌から見ていく。
小竹の上に 来居て鳴く鳥 目を安み 人妻故に 吾恋ひにけり(万3093)
一・二句の「小竹の上に来居て鳴く鳥」が序詞で、「目」を導いていると考えられている。四・五句は、人妻なのに私は恋したことだ、と「故に」の「に」は逆接と解されている。万葉集中の「人妻故に」三例の内、万21・1999番歌が類例である。
紫草の にほへる妹を 憎くあらば 人妻故に 吾恋ひめやも(万21)
あからひく しき妙の子を 数見れば 人妻故に 吾恋ひぬべし(万1999)
うち日さす 宮道に逢ひし 人妻故に 玉の緒の 思ひ乱れて 寝る夜しそ多き(万2365)(注1)
序詞のかかり方については諸説ある。結果、三句目の「目を安み」の意が定まらない。見るに快い(美しい)、見た目が安らかなので、見ることがたやすいので、と捉え方に差が出ている。
①群の意のメにかかる序詞とする説(賀茂真淵・冠辞考(国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/864336/1/22))。
②篠の末に巻いた葉があるのを「芽」というので、そこへ来て居る鳥の心は安かるからとする説(契沖・代匠記精撰本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/979064/1/282))。
➂初二句は「目安し」(見た目がよい、一目見たすばらしさ、姿がよい、見にくからず)を起こす序と考えればよいとする説(北村季吟・萬葉拾穂抄(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/200007744/727?ln=ja)、土屋1977.、稲岡2006.、阿蘇2010.)。
➃笹の葉の上に来て鳴く鳥はありふれていて、ありふれて逢うことがしやすい人妻であるとする説(折口信夫・口訳萬葉集(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1663261/1/61))。
➄「目を安み」の「目」について、鳥の名にメ(乙類)という接尾語が付く例が多い(カマメ、スズメ、ヒメ、ツバメなど)ので、メは古く鳥を意味したのではないかと考えて序詞とする説。安心した気持で逢えるので、の意(大系本)。
⑥「目」を網の目と捉え、羅網、鳥網の目の危険がないので心安らかなように、見ることが易しいので、の表裏の意をかけ合わせた修辞とする説(井手1957.)。
⑥´羅網が張られていないので小鳥たちが安心して篠の上にやってくる、その夫人に逢う機会が多かった(澤瀉1963.)。
⑥´´網目にかかる心配がない、見た印象がよい(集成本、伊藤1997.)。
⑥´´´網の目を気にしていない、人目に立つことはないと気を許して(中西1981.)。
➆篠の上に止まっている鳥のように、目にすることが容易であるとする説(武田1956.、新大系本)。
⑧「目」は人目のことで、篠の葉末にいる鳥は人目に立つことがないので、人目を安心なものと見、ひそかに思いを寄せる意を重ねたとする説(多田2009.)。
どの説も歯切れが悪い。
古代の人たちは鳥をよく観察し、それに基づいて言葉にして歌に表し、聞いた人もなるほどうまいことを言うねえと感心したのだと思う。コミュニケーションが成り立っているから歌としてあり、4500首余りが万葉集に収められている。
この歌で、「鳥」が「来居て鳴く」場所は、「小竹の上」である。篠とも書くシノは竹の類のなかで小型のもので、笹よりは大型のものを指したようである。小鳥でも笹の上には止まることはできず、シノの上になんとか止まっていると想定しているらしい。湾曲した指を使ってシノを握っている。どこでも止まれるかといえばそうではない。指が回ってしまう細いところではかなり苦労する。飼育されている文鳥の例で考えれば、8㎜の枝にはつかまりたがらず、指が止まり木の三分の一程度を余す12㎜程度以上あるものが好まれている。シノに適用して考えれば、節間の部分では指が回ってしまい、盛り上がっている節のところを握るようにして止まることになる。むろん、歌は写生によって成っているのではなく、相手をおもしろがらせるための機知として言葉を継いでいる。
鳥の止まり木模式図(左:細すぎて止まれない、右:ちょうど良い)
鳥が来て止まって鳴いているのはシノのフシ(節)ということである。フシ(節)に止まれば安定しくつろげ、鳥はフシ(伏、臥)の状態に入ることができる。目を閉じて寝られるのである(注2)。だから、「目を安み」と続けている。しっかり握りつかめ、体が安定するから、ストレスなく目を休めて寝ることができる。「目を安み」の「目」は人間が鳥を見る「目」などではなく、鳥自身の「目」である。それがこの序詞のかかり方の妙である。よって「寄レ物陳レ思歌」として成り立っている。
小竹の上に 来居て鳴く鳥 目を安み 人妻故に 吾恋ひにけり(万3093)
篠の上に来て止まって鳴く鳥は、その節のところを握って体が安定するので目を休めて臥して寝るというように、相手がたとえ人妻であっても共寝をしたくなるような恋を私はしたことだ。
万3396番歌も、同様に「鳥」の「目」を比喩として使っていると考えられる。
小筑波の 繁き木の間よ 立つ鳥の 目ゆか汝を見む さ寝ざらなくに(万3396)
小筑波の山の繁茂した木々の間から一斉に飛び立っていく多数の鳥のなかの一羽のようにしか、あなたのことを見られないことになるのだろうか、共寝しなかったわけではないのに(注3)。
「目ゆか」の「ゆ」は経由を表し、手段を示すとする説が通行している。類例として次の歌があげられている。
赤駒を 山野に放し 捕りかにて 多摩の横山 徒歩ゆか遣らむ(万4417)
徒歩で、というのと、鳥の目で、というのはちょっと勝手が違う(注4)。助詞「ゆ」は本来、動作の行われるところ、経過するところを表したり、動作の起点を表す。場所の場合でも時間の場合でも同じように使っている。現代語では、ヲ、カラに当たる。
巻向の 痛足の川ゆ 行く水の 絶ゆることなく またかへり見む(万1100)
……… 白たへの 手本を別れ 柔びにし 家ゆも出でて 緑児の 泣くをも置きて ……(万481)
川を行く水、家から出て、の意であるが、「動作が行なわれる対象そのものを指すという性格はヨリよりも濃い。」(時代別777頁)ものである。川をこそ通って行く水、家からまでも出て、のような自己言及的、陳述副詞的な意味合いを持っている。「立つ鳥の 目ゆか汝を見む」という言い方は、立つ鳥の目なんかからあなたを見ることになるのだろうか、の意であると考えられる。つまり、あなたを見ることが、異性として見ることさえかなわず、人ではない鳥として見る、それも群れを成して飛び立つうちの一羽の目からしか見ることができない、ということを言おうとしている。そういう扱いをあなたは私にされるのでしょうか、共寝をした間柄だのに、と愚痴っていると解される。そんな比喩を使っているところからすれば、相手はとても人気のある人だったのだろう。たくさんの人たちの注目を浴びている。そのなかから選ばれて自分は共寝する関係になった。なのに相手は過去のこと、なかったことにしてきた。どうでもいい有象無象にされてしまったと未練がましい歌を歌っているのである。
そんな群鳥の居場所を小筑波としている。ヲ(尾)にハ(羽)がツク(着)と聞こえ、鳥が密集しているとわかるのである。
うちなびく 春さり来れば 小竹の末に 尾羽うち触れて 鶯鳴くも(万1830)
(注)
(注1)万2365番歌も、「人妻故に」が「玉の緒の思ひ乱れて」までにかかると考えれば、ふつうなら恋しく思うはずのない人妻なのに思いが乱れる、という意とも解される。「宮道」は「玉」砂利が敷かれているところを言い、「玉の緒」が切れたから道に散乱しているのだと譬えている。今日までのところ、そのように解した注釈書は管見に入らない。
(注2)文鳥のほか小鳥の多くはスズメ目で、三前趾足をしている。我々には膝に見えつつ逆に曲がっているところは、骨格上、踵に当たる。その踵を落とすと足裏側の腱が引っ張られて自動的に指が閉じるため、木の枝をぎゅっと握った状態で保つことができ、枝に止まったまま安定するので眠ることができている。
フス(伏、臥、俯)という言葉は、「うつむいた状態で、床や地面に接する意」(岩波古語辞典1156頁)で、腹ばいになること、うつぶすこと、横たわることや寝ること、を指す。眠っているとは限らないわけだが、居眠りが体勢を立て直しながら行うように落ち着かないことに比べ、伏して横たわることが身を安んずることにつながる。小鳥の場合は踵を落とした姿勢である。
さ雄鹿の 朝伏す小野の 草若み 隠ろひかねて 人に知らゆな(万2267)
むし衾 柔やが下に 臥せれども 妹とし寝ねば 肌し寒しも(万524)
家人の 待つらむものを つれもなき 荒磯をまきて 偃せる君かも(万3341)
なお、竹類には例外的に、節間の部分が膨らんだホテイチク、ブッタンチクのような品種もある。
(注3)水島1986.は、「一首は男の歌で、一度ならず自分に許したことのある女性が、如何なる事情によるのか、共寝を拒むようになったことを、いぶかしみ、悲しく思うのであろう。」と解している。阿蘇2011.は個人的抒情歌としての理解は疑問であるとしているが、歌で歌いたいことはその内容ではなく形容である。うまいこと言えているだろうと誇示しているだけで、経験や本心とは無関係であって何ら問題ない。作者を問わずに収集している東歌には、採用の観点からして言葉遊びを重視する傾向が強くなって当然である。
(注4)「加志由加也良牟」を「徒歩ゆか遣らむ」と訓んで、「徒歩」は徒歩の上代東国方言であるとされている。ただし、「枷ゆか遣らむ」、足枷をつけて送致するようなことになるのだろうか、の意と解することもできる。新撰字鏡に「鏁?鎻 三形同、思果反、䥫也、又璅字、連也、足加志、又加奈保太志」とある。「多摩の横山」は多摩川沿いの丘陵地でアップダウンがきつく、足が棒になるほど疲れることを歌っていることに違いはなく、防人に赴任することはまるで罪を犯して流刑になるようなものだという認識があったなら、囚人の護送のようだと歌ったとした方が比喩表現としてより巧みであると考える。
(引用・参考文献)
阿蘇2010. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第6巻』笠間書院、2010年。
阿蘇2011. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義 第7巻』笠間書院、2011年。
伊藤1997. 伊藤博『萬葉集釈注 六』集英社、1997年。
稲岡2006. 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。
井手1957. 井手至「目をやすみ」『萬葉』第24号、昭和32年7月。萬葉学会ホームページhttps://manyoug.jp/memoir/1957(『遊文録 萬葉篇一』和泉書院、1993年。)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
澤瀉1963. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 第十二巻』中央公論社、昭和38年。
時代別 上代語辞典編修委員会編『時代別国語時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
集成本 青木生子・井手至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎『新潮日本古典集成 萬葉集 三』新潮社、昭和55年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系3 萬葉集 三』岩波書店、2002年。
多田2009. 多田一臣『万葉集全解5』筑摩書房、2009年。
大系本 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
武田1956. 武田祐吉『増訂 萬葉集全註釈 九』角川書店、昭和31年。
土屋1977. 土屋文明『萬葉集私注 六 新訂版』筑摩書房、昭和52年。
中西1981. 中西進『万葉集 全訳注原文付(三)』講談社(講談社文庫)、1981年。
水島1956. 水島義治『萬葉集全注 巻第十四』有斐閣、昭和61年。