古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

鵜葺草葺不合命(鸕鷀草葺不合尊)の名義について

2025年01月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津あまつ日高日子ひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあはせずのみこと」、紀に、「ひこ波瀲なぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみこと」とあって、ヒコホホデミノミコト(日子穂穂手見尊、彦火火出見尊)とトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)の子で、母親の妹のタマヨリビメ(玉依毘売、玉依姫)に育てられた後、妻として迎えて神武天皇が生まれた話へとつながっている。紀ではウカヤフキアハセズノミコトまでを神代、神武天皇以降を人代としており、「神話」の最後の神さまということになっている。ウカヤフキアハセズノミコトの名は、母親のトヨタマビメが海辺に産屋うぶやを造る時、鵜の羽で屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに陣痛が始まり、その中に入って産んだことに由来するとされている。お産の現場を見るなと言ったのに見られて恥をかかされたといって、トヨタマビメはお里へ帰ってしまい、妹のタマヨリビメが代わりに遣わされて乳母になり、育てられたことになっている。

 是に海神わたつみむすめ豊玉毘売命とよたまびめのみことみづかでてまをさく、「あれすで妊身はらめり。今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其の海辺うみへ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹みはらにはかなるにへず。故、産殿に入りす。爾くして、まさに産まむとする時に、其の日子ひこぢまをして言はく、「おほよ他国あたしくにの人は、産む時に臨みて、本国もとつくにの形を以て産生むぞ。故、妾、今もとの身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言をあやしと思ひて、ひそかに其のまさに産まむとするをうかかへば、八尋やひろわにとりて匍匐はらば委蛇もごよふ。即ち見驚きかしこみて退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、うらはづかしと以為おもひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、つね海道うみつぢとほりて往来かよはむとおもへり。然れども吾が形を伺ひ見つること是いとはづかし」とまをして、即ち海坂うなさかへて返り入りき。是を以て、其の産める御子をなづけて、天津日高日子あまつひこひこ波限なぎさたけ葺草かや葺不合命ふきあへずのみことと謂ふ。波限を訓みて那芸佐なぎさと云ふ。葺草を訓みて加夜かやと云ふ。しかくしてのちは、其のうかかひしこころうらむれども、ふる心にへずして、其の御子を治養ひたよしに因りて、其のおと玉依毘売たまよりびめけて、歌をたてまつる。其の歌に曰はく、
  赤玉あかだまは さへ光れど 白玉しらたまの 君がよそひし たふとくありけり(記7)
 しかくして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘れじ 世のことごとに(記8)(記上)
 後に豊玉姫とよたまびめはたしてさきちぎりの如く、其の女弟いろど玉依姫たまよりびめひきゐて、ただ風波かざなみをかして、海辺うみへた来到きたる。臨産こうむ時におよびて、ひてまをさく、「やつここうまむ時に、ねがはくはなましそ」とまをす。天孫あめみまなほしのぶることあたはずして、ひそかきてうかかひたまふ。豊玉姫、みざかりに産むときにたつ化為りぬ。しかうして甚だぢて曰はく、「し我をはづかしめざること有りせば、海陸うみくが相通かよはしめて、永くへだて絶つこと無からまし。今既にはぢみつ。まさに何を以てか親昵むつましきこころを結ばむ」といひて、乃ちかやを以てみこつつみて、海辺にてて、海途うみつみちを閉ぢてただぬ。かれ、因りて児をなづけまつりて、彦波瀲武ひこなぎさたけ鸕鷀草葺かや不合尊ふきあへずのみことまをす。(神代紀第十段本文)
 是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容おもふるに語りてまをさく、「やつこ已に有身はらめり。風濤かざなみはやからむ日を以て、海辺に出で到らむ。ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其のことごと来至きたる。火火出見尊ほほでみのみことまをして曰さく、「妾、今夜こよひこうまむとす。請ふ、なましそ」とまをす。火火出見尊、きこしめさずして、猶櫛を以て火をともしてみそなはす。時に豊玉姫、八尋やひろ大熊鰐わに化為りて、匍匐逶虵もごよふ。遂にはづかしめられたるを以てうらめしとして、則ちただ海郷わたつみのくにに帰る。其の女弟いろど玉依姫たまよりびめを留めて、みこ持養ひたさしむ。児のみなを彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊とまを所以ゆゑは、の海浜の産屋に、また鸕鷀かやにして葺けるに、いらかおきあへぬ時に、児即ちれませるを以てのゆゑに、因りてなづけたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
 是より先に、豊玉姫、天孫あめみままをして曰さく、「妾已に有娠はらめり。天孫のみこを、あに海の中に産むべけむや。かれこうまむ時には、必ず君がみもとまうでむ。如し我が為にうぶやを海辺に造りて、相ちたまはば、是所望ねがひなり」とまをす。故、彦火火出見尊、已にくにに還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋うぶやつくる。いらか未だふきあへぬに、豊玉姫、自ら大亀おほかめりて、女弟いろど玉依姫をひきゐて、海をてらして来到いたる。時に孕月うむがつき已に満ちて、こうときみざかりせまりぬ。これに由りて、葺き合ふを待たずして、ただに入りす。已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかがふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。既にみこれまして後に、天孫きて問ひてのたまはく、「児のみないかなづけばけむ」といふ。こたへて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。まををはりて、すなはわたわたりてただぬ。時に、彦火火出見尊、乃ちうたよみしてのたまはく、
  沖つ鳥 鴨く島に 我が率寝ゐねし いもは忘らじ 世のことごとも(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人をみなを取りて乳母ちおも湯母ゆおも、及び飯嚼いひかみ湯坐ゆゑびととしたまふ。すべ諸部もろとものを備行そなはりて、ひたし奉る。時に、かり他婦あたしをみなりて、を以て皇子みこを養す。これよのなかに乳母を取りて、を養すことのもとなり。是の後に、豊玉姫、其のみこ端正きらぎらしきことを聞きて、心にはなはあはれあがめて、また帰りて養さむとおもほす。ことわりきてからず。かれ女弟いろど玉依姫をまだして、きたして養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌かへしうたたてまつりてまをさく、
  赤玉あかだまの 光はありと 人は言へど 君がよそひし たふたくありけり(紀6)
凡て此の贈答二首ふたうたなづけて挙歌あげうたと曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
 是より先に、豊玉姫、出できたりて、まさこうまむとする時に、皇孫すめみままをして曰さく、云々しかしかいふ。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「やつこことを用ゐずして、あれ屈辱はじみせつ。故、今より以往ゆくさきやつこ奴婢つかひびと、君がみもとに至らば、また放還かへしそ。君が奴婢、もとに至らば、亦復還かへさじ」といふ。遂に真床覆衾まとこおふふすま及びかやを以て、其のみこつつみて波瀲なぎさに置き、即ち海に入りてぬ。此、海陸うみくがあひかよはざることのもとなり。あるに云はく、「児を波瀲に置くはし。豊玉姫命、自らいだきてくといふ。ややひさしくして曰はく、「天孫のみこを、此のわたの中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をしていだかしめて送りいだしまつる。初め、豊玉姫、別去わかるる時に、恨言うらみごと既にひたぶるなり。故、火折尊ほのをりのみこと、其のまた会ふべからざることをしろしめして、乃ちみうたを贈ること有り。已にかみに見ゆ。(神代紀第十段一書第四)

 最初に、名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは、本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受アヘズと云る、イト宜し、必古きヨリドコロぞありけむ、是に従ひて訓べし、阿波世受アハセズツヾめて、阿閇受アヘズと云は、古言なり、下巻朝倉御哥に、麻那婆志良マナバシラ袁由岐阿閇ヲユキアヘとあるも、ユキアハなり、此ホカにもアハ阿閇アヘと云る例多し、【フキアハセズノ○○○○○○○命と訓はわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調シラベあしきは無きをや、】さて凡て屋をフクには、ナタナタノキより、葺上フキノボりて、ムネにて葺合フキアハせて、ヲフることなる故に、葺終るを、葺合フキアハすとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺終るを、葺合フキアハすとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。

 常の恋 いまだまぬに 都より 馬に恋ひば になへむかも(万4083)

 アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺き屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)
 常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
 話(咄・噺・譚)に、水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以此鳥羽産屋。有由緒哉、如何。先師申云、無慥所見。但、廻今案、鸕口喉広、飲-入魚、又吐-出之、容易之鳥也。是以象産出平安、令此羽於産屋者歟。以産屋、称鷀葺屋者、以鸕鷀羽葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜、cormorant)という鳥の名がことさらに叫ばれており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)
 何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
 「以鵜羽葺草、造産殿。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に、「訓葺草加夜」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点で、ススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。
羽を乾かす鵜
 鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は、陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
 そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていて、絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草かやにして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
 その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は、疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。

 慨哉うれたきかや大丈夫ますらをにして、慨哉、此には于黎多棄伽夜うれたきかやと云ふ。いやしきやつこが手を被傷ひて、報いずしてやみなむとよ。(神武前紀戊午年五月)

 この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以鵜羽葺草」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとは一体全体どういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草かやるかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものである以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそなるほど納得の言葉遣いであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以鵜羽葺草」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
 鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語で、ヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。

 松浦川まつらがは 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせるいもが すそれぬ(万855)
 家づとに 貝をひりふと 沖辺おきへより 寄せ来る波に 衣手ころもで濡れぬ(万3709)
 嘆きつつ 大夫ますらをのこの 恋ふれこそ わが髪結かみゆひの ぢてぬれけれ(万118)
 たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに き入れつらむか〈三方沙弥〉(万123)

 束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。完成には至らない。
 出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容おもふるに天孫に謂して曰さく、「妾みざかりに産むときに、請ふ、なましそ」とまをす。天孫、みこころに其の言をあやしびてひそかうかかふ。則ち八尋大鰐やひろのわに化為りぬ。しかも天孫の視其私屏かきまみしたまふことを知りて、深く慙恨はぢうらみまつることをいだく。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容おもふるに」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。練供養ねりくようのような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦をることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思ったであろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候うかみ(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とは、ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているものと考えられる。

 …… おほき戸より うかかひて 殺さむと すらくをらに 姫遊ひめなそびすも(紀18)
 御真木入日子はや 御真木入日子はや おのを 盗みせむと しりつ戸よ いたがひ 前つ戸よ い行き違ひ うかかはく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
 このをかに 小牡鹿をしかみ起こし 窺狙うかねらひ かもかもすらく 君ゆゑにこそ(万1576)
 窺狙うかねらふ 跡見とみ山雪の いちしろく 恋ひばいもが名 人知らむかも(万2346)

 古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「今む時にのぞみて、これおもふに、天つ神の御子は海原うなはらに生むべからず。かれ、参ゐ出で到る」とまをす。しかくして、即ち其の海辺うみへ波限なぎさに、鵜のを以て葺草かやにして、産殿うぶやを造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原うなはらでは駄目で、海辺うみへ波限なぎさに来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原うなはら海辺うみへへの移動は何を物語るのか。海辺うみへ(の波限なぎさ)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれ○○ることになり、屋根は完成しなかった。
 ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として、同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「其の剣を号けて草薙剣くさなぎと曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
 記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋うぶやを作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊をかやなどで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「鵜川うかは(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
 鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだが、それがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方は、その言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
 大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に、「屋脊 伊良加いらか 甍 上に同じ」、和名抄に、「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加いらか〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙おほふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)
 和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢むね〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一書第一に、「甍未合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、一書第三の「屋蓋未合」もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用鸕鷀羽草葺之」、「即以鸕鷀之羽、葺為産屋」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
カワウの巣(大阪市立自然史博物館「日本の鳥の巣と卵427」展展示品)
 オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「むね」「むね」「むね」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。

 二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰をはりのよりどころよろづの国の極宗おほむねなり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
 此則西方南海法徒之大帰オホムネ矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
 みだりに去就して其のおほむねくこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
 語言は異なりと雖もおほむねに印度に同じ。(同)
 ヲホムネ天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
 盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、和カイ(名義抄)

 名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。とまはチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
 肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。

 賊虜あたる所は、皆是要害ぬみところなり。(神武前紀戊午年九月)
 凡そ政要まつりごとのぬみ軍事いくさのことなり。(天武紀十三年閏四月)
 新羅に要害ぬまところを授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)

 このヌミには、ヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた、一音でヌともいい、ヌには、瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。

 行方ゆくへ無み こもれる小沼をぬの 下思したもひに われそ物思ふ このころのあひだ(万3022)
 廼ち天之瓊あまのぬ 瓊は玉なり。此にはと云ふ。ほこを以て、指し下してかきさぐる。(神代紀第四段本文)
 其の左のもとどりかせる五百箇いほつみすまるたまひきとき、瓊響ぬなと瑲瑲もゆらに、あまの渟名井まなゐに濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)

 以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の記述の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得るのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けることによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、面白がることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。

(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるであろう。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには、経律異相と一致するところがあると論じている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0c9178d94e7bad106c7159a74fd78ad1参照。
(注6)記でも、産気づいて「入-坐産屋」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木のとげのことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神わたつみの 殿のいらかに ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
 それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草かやによって葺こうとしている。海原うなはら海辺うみへ(の波限なぎさ)で作ろうとしていたから気づかなかった。もし海辺うみへではなく川辺かはへへと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。川辺かはへのことは川原かはらとも言う。同音にかはらがある。かはらというヤマトコトバは、防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。

 冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕おほみやを造りてて、瓦覆かはらぶき擬将せむとす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮あすかいたぶきのみやひつけり。かれ飛鳥川原宮あすかのかはらのみやうつおはします。(斉明紀元年十月~是冬)

 尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
 イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(①338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(①1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺いた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
 板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。産屋を造る伝とは別に、かやなどで子を裹んだとする文がある。「乃以草裹児、棄之海辺、閉海途而俓去矣。」(紀本文)、「遂以真床覆衾及草、裹其児之波瀲、即入海去矣。此海陸不相通之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからであろう。ただし、茅葺き屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
 まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考えられる。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)
 家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかになっている。

(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記  青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273

※本稿は、2018年3月稿を2020年8月に整理したものについて、2025年1月に誤りを正した新稿である。