いわゆる記紀神話の最後に登場するウカヤフキアハセズノミコトは、記に、「天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命」、紀に、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊」とあって、ヒコホホデミノミコト(日子穂穂手見尊、彦火火出見尊)とトヨタマビメ(豊玉毘売、豊玉姫)の子で、母親の妹のタマヨリビメ(玉依毘売、玉依姫)に育てられた後、妻として迎えて神武天皇が生まれた話へとつながっている。紀ではウカヤフキアハセズノミコトまでを神代、神武天皇以降を人代としており、「神話」の最後の神さまということになっている。ウカヤフキアハセズノミコトの名は、母親のトヨタマビメが海辺に産屋を造る時、鵜の羽で屋根を葺こうとしたが葺き終らないうちに陣痛が始まり、その中に入って産んだことに由来するとされている。お産の現場を見るなと言ったのに見られて恥をかかされたといって、トヨタマビメはお里へ帰ってしまい、妹のタマヨリビメが代わりに遣わされて乳母になり、育てられたことになっている。
是に海神の女豊玉毘売命、自ら参ゐ出でて白さく、「妾已に妊身めり。今産む時に臨みて、此を念ふに、天つ神の御子は海原に生むべからず。故、参ゐ出で到る」とまをす。爾くして、即ち其の海辺の波限に、鵜の羽を以て葺草にして、産殿を造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹の急なるに忍へず。故、産殿に入り坐す。爾くして、方に産まむとする時に、其の日子に白して言はく、「凡そ他国の人は、産む時に臨みて、本国の形を以て産生むぞ。故、妾、今本の身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言を奇しと思ひて、竊に其の方に産まむとするを伺へば、八尋わにと化りて匍匐ひ委蛇ふ。即ち見驚き畏みて遁げ退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、心恥しと以為ひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、恒に海道を通りて往来はむと欲へり。然れども吾が形を伺ひ見つること是甚怍し」とまをして、即ち海坂を塞へて返り入りき。是を以て、其の産める御子を名けて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と謂ふ。波限を訓みて那芸佐と云ふ。葺草を訓みて加夜と云ふ。然くして後は、其の伺ひし情を恨むれども、恋ふる心に忍へずして、其の御子を治養す縁に因りて、其の弟玉依毘売に附けて、歌を献る。其の歌に曰はく、
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり(記7)
爾くして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
沖つ鳥 鴨着く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世の尽に(記8)(記上)
後に豊玉姫、果して前の期の如く、其の女弟玉依姫を将ゐて、直に風波を冒して、海辺に来到る。臨産む時に逮びて、請ひて曰さく、「妾産まむ時に、幸はくはな看ましそ」とまをす。天孫猶忍ぶること能はずして、窃に往きて覘ひたまふ。豊玉姫、方に産むときに龍に化為りぬ。而して甚だ慙ぢて曰はく、「如し我を辱しめざること有りせば、海陸相通はしめて、永く隔て絶つこと無からまし。今既に辱みつ。将に何を以てか親昵しき情を結ばむ」といひて、乃ち草を以て児を裹みて、海辺に棄てて、海途を閉ぢて俓に去ぬ。故、因りて児を名けまつりて、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と曰す。(神代紀第十段本文)
是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容に語りて曰さく、「妾已に有身めり。風濤壮からむ日を以て、海辺に出で到らむ。請ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其の言の如く来至る。火火出見尊に謂して曰さく、「妾、今夜産まむとす。請ふ、な臨ましそ」とまをす。火火出見尊、聴しめさずして、猶櫛を以て火を燃して視す。時に豊玉姫、八尋の大熊鰐に化為りて、匍匐ひ逶虵ふ。遂に辱められたるを以て恨しとして、則ち俓に海郷に帰る。其の女弟玉依姫を留めて、児を持養さしむ。児の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と称す所以は、彼の海浜の産屋に、全く鸕鷀の羽を用て草にして葺けるに、甍合へぬ時に、児即ち生れませるを以ての故に、因りて名けたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
是より先に、豊玉姫、天孫に謂して曰さく、「妾已に有娠めり。天孫の胤を、豈海の中に産むべけむや。故、産まむ時には、必ず君が処に就でむ。如し我が為に屋を海辺に造りて、相待ちたまはば、是所望なり」とまをす。故、彦火火出見尊、已に郷に還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋を為る。屋の蓋未だ合へぬに、豊玉姫、自ら大亀に馭りて、女弟玉依姫を将ゐて、海を光して来到る。時に孕月已に満ちて、産む期方に急りぬ。此に由りて、葺き合ふを待たずして、俓に入り居す。已にして従容に天孫に謂して曰さく、「妾方に産むときに、請ふ、な臨ましそ」とまをす。天孫、心に其の言を怪びて窃に覘ふ。則ち八尋大鰐に化為りぬ。而も天孫の視其私屏したまふことを知りて、深く慙恨みまつることを懐く。既に児生れまして後に、天孫就きて問ひて曰はく、「児の名は何に称けば可けむ」といふ。対へて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。言し訖りて、乃ち海を渉りて俓に去ぬ。時に、彦火火出見尊、乃ち歌して曰はく、
沖つ鳥 鴨着く島に 我が率寝し 妹は忘らじ 世の尽も(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人を取りて乳母・湯母、及び飯嚼・湯坐としたまふ。凡て諸部備行りて、養し奉る。時に、権に他婦を用りて、乳を以て皇子を養す。此、世に乳母を取りて、児を養す縁なり。是の後に、豊玉姫、其の児の端正しきことを聞きて、心に甚だ憐び重めて、復帰りて養さむと欲す。義に於きて可からず。故、女弟玉依姫を遣して、来して養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌奉りて曰さく、
赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装ひし 貴くありけり(紀6)
凡て此の贈答二首、号けて挙歌と曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
是より先に、豊玉姫、出で来りて、当に産まむとする時に、皇孫に請して曰さく、云々。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「吾が言を用ゐずして、我に屈辱せつ。故、今より以往、妾が奴婢、君が処に至らば、復な放還しそ。君が奴婢、妾が処に至らば、亦復還さじ」といふ。遂に真床覆衾及び草を以て、其の児を裹みて波瀲に置き、即ち海に入りて去ぬ。此、海陸相通はざる縁なり。一に云はく、「児を波瀲に置くは非し。豊玉姫命、自ら抱きて去くといふ。久しくして曰はく、「天孫の胤を、此の海の中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をして持かしめて送り出しまつる。初め、豊玉姫、別去るる時に、恨言既に切なり。故、火折尊、其の復会ふべからざることを知しめして、乃ち歌を贈ること有り。已に上に見ゆ。(神代紀第十段一書第四)
最初に、名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは、本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受と云る、甚宜し、必ス古き拠ぞありけむ、是レに従ひて訓べし、阿波世受を切めて、阿閇受と云は、古言なり、下巻朝倉ノ宮ノ段ノ御哥に、麻那婆志良、袁由岐阿閇とあるも、尾行令レ合なり、此ノ他にも令レ合を阿閇と云る例多し、【フキアハセズノ命と訓ムはわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調あしきは無きをや、】さて凡て屋を葺には、此方彼方の軒より、葺上りて、棟にて葺合せて、終ることなる故に、葺キ終るを、葺合すとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺キ終るを、葺合すとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。
常の恋 いまだ止まぬに 都より 馬に恋ひ来ば 荷ひ堪へむかも(万4083)
アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺き屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)。
常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
話(咄・噺・譚)に、水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以二此鳥羽一葺二産屋一。有二由緒一哉、如何。先師申云、無二慥所見一。但、廻二今案一、鸕口喉広、飲二-入魚一、又吐二-出之一、容易之鳥也。是以象二産出平安一、令レ葺二此羽於産屋一者歟。以二産屋一、称二鷀葺屋一者、以二鸕鷀羽一令レ葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜、cormorant)という鳥の名がことさらに叫ばれており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)。
何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
「以二鵜羽一為二葺草一、造二産殿一。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に、「訓二葺草一云二加夜一」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点で、ススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。
羽を乾かす鵜
鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は、陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていて、絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草にして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は、疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。
慨哉、大丈夫にして、慨哉、此には于黎多棄伽夜と云ふ。虜が手を被傷ひて、報いずしてや死みなむとよ。(神武前紀戊午年五月)
この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以二鵜羽一為二葺草一」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとは一体全体どういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草と為るかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものである以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそなるほど納得の言葉遣いであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以二鵜羽一為二葺草一」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語で、ヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。
松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹が 裳の裾濡れぬ(万855)
家づとに 貝を拾ふと 沖辺より 寄せ来る波に 衣手濡れぬ(万3709)
嘆きつつ 大夫の 恋ふれこそ わが髪結の 漬ぢてぬれけれ(万118)
たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに 掻き入れつらむか〈三方沙弥〉(万123)
束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。完成には至らない。
出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容に天孫に謂して曰さく、「妾方に産むときに、請ふ、な臨ましそ」とまをす。天孫、心に其の言を怪びて窃に覘ふ。則ち八尋大鰐に化為りぬ。而も天孫の視其私屏したまふことを知りて、深く慙恨みまつることを懐く。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容に」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。練供養のような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦を練ることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思ったであろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とは、ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているものと考えられる。
…… 大き戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも(紀18)
御真木入日子はや 御真木入日子はや 己が緒を 盗み殺せむと 後つ戸よ い行き違ひ 前つ戸よ い行き違ひ 窺はく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
この岳に 小牡鹿履み起こし 窺狙ひ かもかもすらく 君故にこそ(万1576)
窺狙ふ 跡見山雪の いちしろく 恋ひば妹が名 人知らむかも(万2346)
古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「今産む時に臨みて、此を念ふに、天つ神の御子は海原に生むべからず。故、参ゐ出で到る」とまをす。爾くして、即ち其の海辺の波限に、鵜の羽を以て葺草にして、産殿を造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原では駄目で、海辺の波限に来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原→海辺への移動は何を物語るのか。海辺(の波限)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれることになり、屋根は完成しなかった。
ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として、同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「其の剣を号けて草薙剣と曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋を作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊を草などで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「鵜川(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだが、それがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方は、その言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に、「屋脊 伊良加 甍 上に同じ」、和名抄に、「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙ふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)。
和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一書第一に、「甍未レ合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、一書第三の「屋蓋未レ及レ合」もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用二鸕鷀羽一為レ草葺之」、「即以二鸕鷀之羽一、葺為二産屋一」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
カワウの巣(大阪市立自然史博物館「日本の鳥の巣と卵427」展展示品)
オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「胸」「棟」「宗」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。
二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万の国の極宗なり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
此則西方南海法徒之大帰矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
妄に去就して其の緒を虧くこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
語言は異なりと雖も大に印度に同じ。(同)
蓋天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、和カイ(名義抄)
名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。苫はチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。
賊虜の拠る所は、皆是要害の地なり。(神武前紀戊午年九月)
凡そ政要は軍事なり。(天武紀十三年閏四月)
新羅に要害の地を授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)
このヌミには、ヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた、一音でヌともいい、ヌには、瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。
行方無み 隠れる小沼の 下思に 吾そ物思ふ このころの間(万3022)
廼ち天之瓊 瓊は玉なり。此には努と云ふ。矛を以て、指し下して探る。(神代紀第四段本文)
其の左の髻に纏かせる五百箇の統の瓊の綸を解き、瓊響も瑲瑲に、天渟名井に濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)
以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の記述の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得るのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けることによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、面白がることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。
(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるであろう。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには、経律異相と一致するところがあると論じている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0c9178d94e7bad106c7159a74fd78ad1参照。
(注6)記でも、産気づいて「入二-坐産屋一」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木の棘のことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神の 殿の盖に ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草によって葺こうとしている。海原→海辺(の波限)で作ろうとしていたから気づかなかった。もし海辺ではなく川辺へと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。川辺のことは川原とも言う。同音に瓦がある。瓦というヤマトコトバは、防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。
冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕を造り起てて、瓦覆に擬将とす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮に災けり。故、飛鳥川原宮に遷り居します。(斉明紀元年十月~是冬)
尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(①338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(①1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺ふいた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。産屋を造る伝とは別に、草などで子を裹んだとする文がある。「乃以レ草裹レ児、棄二之海辺一、閉二海途一而俓去矣。」(紀本文)、「遂以二真床覆衾及草一、裹二其児一置二之波瀲一、即入レ海去矣。此海陸不二相通一之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからであろう。ただし、茅葺き屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考えられる。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)
家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかになっている。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273
※本稿は、2018年3月稿を2020年8月に整理したものについて、2025年1月に誤りを正した新稿である。
是に海神の女豊玉毘売命、自ら参ゐ出でて白さく、「妾已に妊身めり。今産む時に臨みて、此を念ふに、天つ神の御子は海原に生むべからず。故、参ゐ出で到る」とまをす。爾くして、即ち其の海辺の波限に、鵜の羽を以て葺草にして、産殿を造る。是に其の産殿未だ葺き合へぬに、御腹の急なるに忍へず。故、産殿に入り坐す。爾くして、方に産まむとする時に、其の日子に白して言はく、「凡そ他国の人は、産む時に臨みて、本国の形を以て産生むぞ。故、妾、今本の身を以て産まむとす。願はくは、妾をな見たまひそ」といふ。是に其の言を奇しと思ひて、竊に其の方に産まむとするを伺へば、八尋わにと化りて匍匐ひ委蛇ふ。即ち見驚き畏みて遁げ退く。爾くして、豊玉毘売命、其の伺ひ見し事を知りて、心恥しと以為ひて、乃ち其の御子を生み置きて白さく、「妾、恒に海道を通りて往来はむと欲へり。然れども吾が形を伺ひ見つること是甚怍し」とまをして、即ち海坂を塞へて返り入りき。是を以て、其の産める御子を名けて、天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命と謂ふ。波限を訓みて那芸佐と云ふ。葺草を訓みて加夜と云ふ。然くして後は、其の伺ひし情を恨むれども、恋ふる心に忍へずして、其の御子を治養す縁に因りて、其の弟玉依毘売に附けて、歌を献る。其の歌に曰はく、
赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装ひし 貴くありけり(記7)
爾くして、其のひこぢ、答ふる歌に曰はく、
沖つ鳥 鴨着く島に 我が率寝し 妹は忘れじ 世の尽に(記8)(記上)
後に豊玉姫、果して前の期の如く、其の女弟玉依姫を将ゐて、直に風波を冒して、海辺に来到る。臨産む時に逮びて、請ひて曰さく、「妾産まむ時に、幸はくはな看ましそ」とまをす。天孫猶忍ぶること能はずして、窃に往きて覘ひたまふ。豊玉姫、方に産むときに龍に化為りぬ。而して甚だ慙ぢて曰はく、「如し我を辱しめざること有りせば、海陸相通はしめて、永く隔て絶つこと無からまし。今既に辱みつ。将に何を以てか親昵しき情を結ばむ」といひて、乃ち草を以て児を裹みて、海辺に棄てて、海途を閉ぢて俓に去ぬ。故、因りて児を名けまつりて、彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と曰す。(神代紀第十段本文)
是より先に、別れなむとする時に、豊玉姫、従容に語りて曰さく、「妾已に有身めり。風濤壮からむ日を以て、海辺に出で到らむ。請ふ、我が為に産屋を造りて待ちたまへ」とまをす。是の後に、豊玉姫、果して其の言の如く来至る。火火出見尊に謂して曰さく、「妾、今夜産まむとす。請ふ、な臨ましそ」とまをす。火火出見尊、聴しめさずして、猶櫛を以て火を燃して視す。時に豊玉姫、八尋の大熊鰐に化為りて、匍匐ひ逶虵ふ。遂に辱められたるを以て恨しとして、則ち俓に海郷に帰る。其の女弟玉依姫を留めて、児を持養さしむ。児の名を彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と称す所以は、彼の海浜の産屋に、全く鸕鷀の羽を用て草にして葺けるに、甍合へぬ時に、児即ち生れませるを以ての故に、因りて名けたてまつる。(神代紀第十段一書第一)
是より先に、豊玉姫、天孫に謂して曰さく、「妾已に有娠めり。天孫の胤を、豈海の中に産むべけむや。故、産まむ時には、必ず君が処に就でむ。如し我が為に屋を海辺に造りて、相待ちたまはば、是所望なり」とまをす。故、彦火火出見尊、已に郷に還りて、即ち鸕鷀の羽を以て、葺きて産屋を為る。屋の蓋未だ合へぬに、豊玉姫、自ら大亀に馭りて、女弟玉依姫を将ゐて、海を光して来到る。時に孕月已に満ちて、産む期方に急りぬ。此に由りて、葺き合ふを待たずして、俓に入り居す。已にして従容に天孫に謂して曰さく、「妾方に産むときに、請ふ、な臨ましそ」とまをす。天孫、心に其の言を怪びて窃に覘ふ。則ち八尋大鰐に化為りぬ。而も天孫の視其私屏したまふことを知りて、深く慙恨みまつることを懐く。既に児生れまして後に、天孫就きて問ひて曰はく、「児の名は何に称けば可けむ」といふ。対へて曰さく、「彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊と号くべし」とまをす。言し訖りて、乃ち海を渉りて俓に去ぬ。時に、彦火火出見尊、乃ち歌して曰はく、
沖つ鳥 鴨着く島に 我が率寝し 妹は忘らじ 世の尽も(紀5)
亦云はく、彦火火出見尊、婦人を取りて乳母・湯母、及び飯嚼・湯坐としたまふ。凡て諸部備行りて、養し奉る。時に、権に他婦を用りて、乳を以て皇子を養す。此、世に乳母を取りて、児を養す縁なり。是の後に、豊玉姫、其の児の端正しきことを聞きて、心に甚だ憐び重めて、復帰りて養さむと欲す。義に於きて可からず。故、女弟玉依姫を遣して、来して養しまつる。時に、豊玉姫命、玉依姫に寄せて、報歌奉りて曰さく、
赤玉の 光はありと 人は言へど 君が装ひし 貴くありけり(紀6)
凡て此の贈答二首、号けて挙歌と曰ふ。(神代紀第十段一書第三)
是より先に、豊玉姫、出で来りて、当に産まむとする時に、皇孫に請して曰さく、云々。皇孫従ひたまはず。豊玉姫、大きに恨みて曰はく、「吾が言を用ゐずして、我に屈辱せつ。故、今より以往、妾が奴婢、君が処に至らば、復な放還しそ。君が奴婢、妾が処に至らば、亦復還さじ」といふ。遂に真床覆衾及び草を以て、其の児を裹みて波瀲に置き、即ち海に入りて去ぬ。此、海陸相通はざる縁なり。一に云はく、「児を波瀲に置くは非し。豊玉姫命、自ら抱きて去くといふ。久しくして曰はく、「天孫の胤を、此の海の中に置きまつるべからず」といひて、乃ち玉依姫をして持かしめて送り出しまつる。初め、豊玉姫、別去るる時に、恨言既に切なり。故、火折尊、其の復会ふべからざることを知しめして、乃ち歌を贈ること有り。已に上に見ゆ。(神代紀第十段一書第四)
最初に、名号の訓み方について確認しておく。紀の伝本の傍訓にはフキアハセズとある(鴨脚本、兼方本、丹鶴本など)。フキアヘズと訓みたがるのは、本居宣長・古事記伝による。「○葺不合は、……不合を、阿閇受と云る、甚宜し、必ス古き拠ぞありけむ、是レに従ひて訓べし、阿波世受を切めて、阿閇受と云は、古言なり、下巻朝倉ノ宮ノ段ノ御哥に、麻那婆志良、袁由岐阿閇とあるも、尾行令レ合なり、此ノ他にも令レ合を阿閇と云る例多し、【フキアハセズノ命と訓ムはわろし、あはせずと云言、御名に似つかはしからず、凡て上代の名に、然詞の調あしきは無きをや、】さて凡て屋を葺には、此方彼方の軒より、葺上りて、棟にて葺合せて、終ることなる故に、葺キ終るを、葺合すとは云なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/443~444、漢字の旧字体は改めた)とある。「葺キ終るを、葺合すとは云なり」と断じていながら、「御名に似つかはしからず」として退けており、必ずしも歯切れのいいものではない。ただ、現行の解釈ではどれもフキアヘズとなっている。葺き終わらないうちに生まれたことを表すという。アフは「敢」、「堪」などの字を当てる下二段活用の動詞で、補助動詞として、終わりまで持ちこたえる意を表している。しっかと〜する、〜しおおせる、の意になっている。一例をあげる。
常の恋 いまだ止まぬに 都より 馬に恋ひ来ば 荷ひ堪へむかも(万4083)
アフという語は、打消、疑問、反語と結んで、不可能や困難な意を表すことが多い。すなわち、ウカヤフキアヘズという言い方は、そもそもが鵜の羽を茅葺き屋根のように最後まで葺くことなどできようはずがない、ということを含意していると考えられる(注1)。
常識をもって考えれば、鵜の羽をもって屋根を葺くなどという話は奇想天外である。そんな話(咄・噺・譚)が構想され、創作され、伝達されている。天才作家が機智、頓智を駆使して意図的に物語を拵えたものであろう。上代の人たちは、話のなかに散りばめられている機智、頓智をとてもおもしろく感じ、互いによろこびながら話し伝えたものと想像される。
話(咄・噺・譚)に、水鳥のウ(「鵜」(記)・「鸕鷀」(紀))の羽をもってして屋根を葺いている。この発想はとてもユニークである。古く釈日本紀に、「大問云、以二此鳥羽一葺二産屋一。有二由緒一哉、如何。先師申云、無二慥所見一。但、廻二今案一、鸕口喉広、飲二-入魚一、又吐二-出之一、容易之鳥也。是以象二産出平安一、令レ葺二此羽於産屋一者歟。以二産屋一、称二鷀葺屋一者、以二鸕鷀羽一令レ葺之本縁也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/12866187/1/25~26、返り点等を付した)とする説が載る。納得できるものではない。産屋とはウム(生)+ガ(助詞)+ヤ(屋)のことだからウ(鵜)+カヤ(草)であろうとする俗説は、着想として考えた場合には当たっているかもしれない(注2)。とはいえ、ウ(鵜、cormorant)という鳥の名がことさらに叫ばれており、その羽を葺き草に使ったことを皇子の名前に反映させている。ガチョウやアヒルの羽をもって羽毛布団を作ったというのなら現実的でわかりやすいが、鵜の羽を産屋の屋根材に用いると言っている(注3)。比喩として話しているとしか考えられない(注4)。
何が変か。他の鳥ではなく鵜が選ばれているところである。
「以二鵜羽一為二葺草一、造二産殿一。」(記)などとある。草で屋根を葺くように鵜の羽を使っていると考えられている。訓注に、「訓二葺草一云二加夜一」とある。カヤとは、屋根を葺くのに適した丈の長い葉をした比較的堅い草の総称である。近代に伝わる茅葺屋根の例としては、ススキやアシ、チガヤ、スゲ、カリヤス、ムギなどが用いられた。耐久性の点で、ススキやアシは好まれたらしい。イナワラを使うこともあったが、数年で駄目になってしまう。それらの草を刈り取って乾燥させて束ねたものを屋根材に使っている。話(咄・噺・譚)ではその代わりに「鵜羽」を用いたことになっている。実際にあり得ないどころか想定することも滑稽である。鵜の実状を見ればわかる。
羽を乾かす鵜
鵜という水鳥は潜水に特化した種とされている。一般的な水鳥、ハクチョウやカモなどでは、尾脂腺から脂肪分の多い分泌物を出し、嘴を使ってそれを羽に塗りつけることで水をはじいている。浮き進む時、船のように見える。他方、ウの場合、脂が羽に付いておらず、水上で浮かんで進む様子も潜水艦が浮上運行しているように見える。そして魚を捕まえようと水に潜ってはびしゃびしゃになっている。目的を果たした後は、陸に上がっては羽を大きく広げ、バタつかせて乾かしている。
そんな鳥の羽をわざわざ選んで屋根材にしようなどとは誰も思わない。雨漏りしてかなわないではないか。つまり、名義のウカヤフキアへズという言い方自体、自己矛盾を抱えていて、絶対的に肯定されているのである。鵜の羽を葺草にして屋根を葺くなどということはあり得ないし、仮に着手して時間をかけたとしても屋根には仕上がらない。論理学的禅問答を名としているのであった。
その証拠に、名のなかにカヤという言葉が含まれている。助詞のカヤ(カ、ヤ)は、疑問の意を表す。また、詠嘆を表すこともある。
慨哉、大丈夫にして、慨哉、此には于黎多棄伽夜と云ふ。虜が手を被傷ひて、報いずしてや死みなむとよ。(神武前紀戊午年五月)
この例は、何ともいまいましいことよ、の意である。カ(終助詞)+ヤ(間投助詞)の構成である。他に、カ(係助詞)+ヤ(間投助詞)の形で、特にトカヤという形をとって、……といったか、……とかいうことである、の意を表す場合、また、カ(係助詞)+ヤ(係助詞)の形で、活用語の連体形に下接し、疑問や反語の意を表す場合がある。それらのカヤという意味合いをカヤ(「葺草」)という言葉に塗り込める使い方を行っていると仮定すると、「以二鵜羽一為二葺草一」という言い方は、鵜の羽をもって葺草とするとは一体全体どういうことなのか、これはまた何とすごいことか、そんなことはとてもあり得ないよ、といった激しい気持ちを吐露する表現となっている。説明調に置き換えてみれば、「鵜の羽を以て葺草と為るかや」などと畳み重ねた言い方になる。それを簡潔に記している。無文字時代、言語のすべてが口頭の音声言語によるものである以上、いま発した言葉に自己循環的な論法で言及し、それをこそなるほど納得の言葉遣いであると考えたに相違あるまい。すなわち、「以二鵜羽一為二葺草一」という珍妙な形容は、その言葉自体にその言葉のからくりが語られている。鵜の羽でカヤにするとはねぇ、何たることだろうねぇ、という意味を包含しており、言辞自体がわざとらしい珍奇な言い分であることを主張している。
鵜の羽は始終濡れている。濡れるは古語で、ヌル(濡)という。ヌルには髪などがゆるんでほどける意がある。
松浦川 川の瀬光り 鮎釣ると 立たせる妹が 裳の裾濡れぬ(万855)
家づとに 貝を拾ふと 沖辺より 寄せ来る波に 衣手濡れぬ(万3709)
嘆きつつ 大夫の 恋ふれこそ わが髪結の 漬ぢてぬれけれ(万118)
たけばぬれ たかねば長き 妹が髪 この頃見ぬに 掻き入れつらむか〈三方沙弥〉(万123)
束ねようにもほどけてしまうのがヌルである。鵜の羽は濡れていて、屋根材に適用するために束ねようにもその段階からしてできないのである。鳥の名はウ(鵜)である。否応なく、なかば強制的に応諾させられる際の発語は、同音のウ(諾)である(注5)。ウ、ウ、ウと言葉に詰まりながら認めざるを得なくなっている。鵜の羽は屋根材のカヤに当たらないのに、葺けと強要されて否応なくそうしている。完成には至らない。
出産を迎えるに当たってトヨタマビメは、その場面を見るなとオモフルニ言っている。ホホデミノミコトはその禁を破って見てしまう。いわゆる見るなのタブーを冒した顛末が描かれている。紀一書第三に、「已にして従容に天孫に謂して曰さく、「妾方に産むときに、請ふ、な臨ましそ」とまをす。天孫、心に其の言を怪びて窃に覘ふ。則ち八尋大鰐に化為りぬ。而も天孫の視其私屏したまふことを知りて、深く慙恨みまつることを懐く。」とある。話として古事記とよく似ており、神代紀本文にも「従容に」要請する描写がある。どうしてオモフルニと形容しているのか。オモフルニはゆったりしたさまを表す。語源はともかく音感からは、オモ(面)+フル(振)ことをしていると感じられる。オモ(面)+フル(振)こととは左右を見ながらゆっくりと歩くことである。練供養のような所作である。トヨタマビメは用心深く作戦を練ることをしている。聞かされたヒコホホデミノミコトは、いやに用心深いではないかと思ったであろう。相手がネルことをしてきているのだから、こちらはその真相をネラフことで対処しようとする。それが言葉の理にかなっている。ネラフ(狙)とは、ひそかに獲ようと目をつけることである。動物を狩るときの行為である。彼はもともと山幸彦(山佐知毘古)であった。獲物を捕らえるには物陰に隠れて狙う。斥候(窺見)をするようにウカカフ(覘、窺、伺)のである。他者に知られないように周囲に目を配りながら相手の真意や事の真相をつかもうとすることである。そういう展開にふさわしい言葉が選ばれている。そして、ウカカフという言葉の名詞形、ウカカヒ(ヒは甲類)は、隙を狙うことを表す。生まれてきた子の名前に絡んでいる。ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)とよく似た音である。上代の人にとって、鵜とは、ウカヒ(鵜飼、ヒは甲類)のために飼育された動物であった。彼らに動物分類学的な種の同定の意識は薄く、実用面から鵜飼に使う鳥 cormorant のことをウと呼んだのである。一旦飲み込んだ魚をウッと吐き出すからウと名づけたと考える。この箇所に鵜を登場させているのは、山幸彦が海神の宮へ行って学んだ、魚に対する狩猟法こそが鵜飼なのだということを述べているものと考えられる。
…… 大き戸より 窺ひて 殺さむと すらくを知らに 姫遊すも(紀18)
御真木入日子はや 御真木入日子はや 己が緒を 盗み殺せむと 後つ戸よ い行き違ひ 前つ戸よ い行き違ひ 窺はく 知らにと 御真木入日子はや(記23)
この岳に 小牡鹿履み起こし 窺狙ひ かもかもすらく 君故にこそ(万1576)
窺狙ふ 跡見山雪の いちしろく 恋ひば妹が名 人知らむかも(万2346)
古事記には、トヨタマビメが到来していることについて、「今産む時に臨みて、此を念ふに、天つ神の御子は海原に生むべからず。故、参ゐ出で到る」とまをす。爾くして、即ち其の海辺の波限に、鵜の羽を以て葺草にして、産殿を造る。」と語られている。出産するのに実家のある海原では駄目で、海辺の波限に来ている。そこに産屋を造って出産準備を整えている。民俗的風習としては、母屋とは別に産屋を造ることは珍しいことではない。だが、実家で出産することに問題があるとは考えにくい。農耕を主体とする人と漁撈を主体とする人との間の関係を示すものとも考えられている。その際、海原→海辺への移動は何を物語るのか。海辺(の波限)は海岸の波打ち際のことだから、漁民の領域であるようにも思われる。そんなところへ産屋を建てるのはおかしなことである。満潮時、水に濡れてしまう。だからこそ、鵜の羽はゆるんでほどける意のぬれることになり、屋根は完成しなかった。
ナギサ(波限、波瀲、渚、汀)の語源は不明であるが、語の音感として、同根の語と思われるナグ(凪、和)と関係がありそうで、海の波が穏やかであることを表すように思われる。と同時に、草が薙ぎ払われたように横倒しになっている様子もイメージされる。「其の剣を号けて草薙剣と曰ふといふ。」(景行紀四十年是歳)とある。ふだんは静かでも台風などが来れば生えていた草も家もなぎ倒される。だから、産屋は完成に至っていない。
記紀の話の五伝(記、紀本文、紀一書第一、第三、第四)のうち、産屋を作ったとする話が三伝(記、紀一書第一、第三)、生まれてきた赤ん坊を草などで裹んだとする話が二伝(紀本文、紀一書第四)にある。このうち、産屋を作ったとする話では、ヒコホホデミノミコトが造ったように語られている。紀一書第一や第三では、トヨタマビメ側から造って待っているようにと要請されている(注6)。鵜飼に使う鵜の羽を使って産屋を建てようとしている。鵜に首結いをつけて、大きな魚は食道に留まるようにして、それを吐かせて獲物とした。そのように鵜自体を使って魚を捕まえるばかりでなく、鵜の羽を竿やロープに付けておいて、それを川面に叩きつけるなどしてあたかも鵜が近づいて来たかのように魚に思わせ、驚いて逃げていくところを一網打尽に網で捕獲する漁も行われていた。それも鵜飼の一種とされ、万葉集では「鵜川(を)立つ」(万38・3991・4023・4190・4191)と言い表している。囲っておいて鵜が来たようにして逃げ惑う魚を捕ったのである。もちろん、その囲い立てに屋根はない。
鵜の羽だけを使った鵜飼をする場合、鳥の鵜はおらず、つまり、ふつうなら鵜は魚を飲み込んで胸を膨らませているところだが、それがない。鮎を飲み込んでふくらんだ大きな胸は見られないのである。鵜のオホムネ(大胸)が見られないということは、鵜の羽ではオホムネ(大棟)は作れないということである。そのことは鵜の観察から証明されている。鵜の両翼は、背のいちばん高いところへ被さるわけではない。羽を広げて乾かす時など、羽根のない背中が露出している。尾脂腺から脂が出ないから、背中の頂部に羽毛をまとうには及ばない。すなわち、ウカヤフキアハセズという言い方は、その言葉自体で論理が完結している。ウカヤなるものが仮にあったとしても、それはフキアフ(葺合)ことは体現され得ず、完成されることは決して望めないものであることがまたしても証明されているのである。
大棟とは屋根のいちばん高いところのことである。棟木が渡されており、そこを覆う屋根のことをイラカ(甍)と呼んでいる。新撰字鏡に、「屋脊 伊良加 甍 上に同じ」、和名抄に、「甍 釈名に云はく、屋の脊を甍〈音は萌、伊良加〉と曰ひ、上に在りて屋を覆蒙ふなりといふ。兼名苑に云はく、甍は一名を棟〈音は多貢反、訓は異なる故に別に置く〉といふ。」とある(注7)。
和名抄では、また、「棟 爾雅に云はく、棟は之れを桴〈音は敷、一音に浮、無祢〉と謂ふといふ。唐韻に云はく、檼〈隠の音、去声〉は棟なりといふ。」とある。紀一書第一に、「甍未レ合時」(一書第一)をイラカオキアヘヌトキニ、一書第三の「屋蓋未レ及レ合」もヤノイラカイマダフキアヘヌニと訓んでいる。それぞれその前に「全用二鸕鷀羽一為レ草葺之」、「即以二鸕鷀之羽一、葺為二産屋一」と断られている。鵜飼は鵜飼でもやり方が違うからできないのだとわかるようになっている。産屋は産屋でも、鵜の羽で造るということは、鵜の巣にするのがせいぜいのものであって、いわゆるお椀形にしかならない。ウ(鵜)+ス(巣)の形はウス(臼)の形である。甍を載せることなどないのである。
カワウの巣(大阪市立自然史博物館「日本の鳥の巣と卵427」展展示品)
オホムネのないことが語られている。白川1995.に、「おほむね〔概(槪)・略〕 中心となる重要な点。「むね」は趣旨のあるところで、「胸」「棟」「宗」と同根の語。本来名詞であるが、のち副詞的に用いることがあった。副詞としては概・略などの字を用いる。」(191頁)とある。話の主旨のことから概略のことまで表している。
二に曰はく、篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰、万の国の極宗なり。(推古紀十二年四月、寛文版本にヲホムネ、岩崎本傍訓に「極」にキハメ、「宗」にムネ、その下にナリとある)
此則西方南海法徒之大帰矣。(南海寄帰内法伝・第一、長和五年頃点)
妄に去就して其の緒を虧くこと有ること无れ。(大唐西域記・第三、長寛元年点)
語言は異なりと雖も大に印度に同じ。(同)
蓋天子之孝也。(古文孝経・天子章第二、仁治二年点)
盖 居泰反、フタ、ケダシ、オホフ、キヌガサ、オホムネ、フタ、カブル、和カイ(名義抄)
名義抄では、大垣・大分・大都・大底・槩・概・梗槩・略・枑・率・盖といった字にオホムネの訓みを載せている。なかでも「蓋(盖)」をオホムネと訓む例は示唆的である。「屋蓋」(一書第三)はヤノイラカであり、屋根に蓋をすることである。説文に、「蓋 苫なり、艸に从ひ盍声」とある。苫はチガヤの類で、菅茅を編んで作った覆いをいう。覆い被せてフタのように雨露から守る肝心なところがオホムネということになっている。ウカヤフキアヘズとは、主旨も概略もないということ、まとめとして何かがあるということではなく、事の次第としてそうなったのだということを物語っていると考えられる。
肝心要のオホムネの類義語に、要害、要衝の地、大切な場所を表すヌミという語がある。
賊虜の拠る所は、皆是要害の地なり。(神武前紀戊午年九月)
凡そ政要は軍事なり。(天武紀十三年閏四月)
新羅に要害の地を授けたまひ、(欽明紀二十三年六月、兼右本左傍訓)
このヌミには、ヌマという別訓も見られる。同音に沼の意がある。古形は一音のヌである。足をア、水をミと言っていたのと同様とされる。幸田露伴『音幻論』に、「沼はヌであり、塗はヌルであり、……海苔・糊・血はすべてノリである。」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366/38~39)とあり、ヌには、濡れていて、どろどろしていて、ぬめりのあるものの意があり、糊状のものとは塗るべき対象であるとしている。そして、沼はまた、一音でヌともいい、ヌには、瓊の意がある。瓊が塗るべき対象かといえば、勾玉を磨く時に、砥石に水を塗ってそこで磨いていくとやがてどろどろとぬめりを帯びてくる。そこで、タマ(玉、瓊)のこともヌと呼ぶことがあったものと思われる。トヨタマビメやタマヨリビメという女性役は、「たけばぬれ」る髪の毛を持っていたと措定していたのではなかろうか。
行方無み 隠れる小沼の 下思に 吾そ物思ふ このころの間(万3022)
廼ち天之瓊 瓊は玉なり。此には努と云ふ。矛を以て、指し下して探る。(神代紀第四段本文)
其の左の髻に纏かせる五百箇の統の瓊の綸を解き、瓊響も瑲瑲に、天渟名井に濯ぎ浮く。(神代紀第七段一書第三)
以上、ウガヤフキアヘズノミコトの誕生の説話について考究した。民俗的な風習があってそれを表すために説話が構想されたものではない。ヤマトコトバの理解のために、言葉を循環的に説明すると必然的に生じるおかしな話(咄・噺・譚)が述べられている。今日の人が神話として読みたがる記紀の説話には、ヤマトコトバの自己言及的語釈の記述の要素が必ず含まれている。無文字時代の言語が言語としてあり得るのは、その言葉を声に出して絶えることなく発し続けることによる。記録する手段の文字がなく、記憶のみによって残された言葉であった。言葉が言葉として成立する前提がすべて発声に負っているのだから、民族の記憶庫から忘れらないようにときどきは声に出して諳んじてみなければならない。その場合、単なる棒暗記では対応できない。棒暗記の共有は、教育勅語の強制に見られたように限界がある。誰もが興味深く感じ、なるほどと思い、面白がることのできるテキストが求められる。洒落と頓智の入り混じった話(咄・噺・譚)がかなっている。記憶を確かなものにして、多くの人へ、また、次の世代に伝えていくのに役立つ。社会言語学的に言えば、ヤマトコトバの世界征服の魂胆が、頓智話に籠められているといえる。記紀説話を創作した構想の一端には、ヤマトコトバファーストをモットーとして、ヤマトコトバ語族を広げて確かならしめようとする野望のようなものが垣間見られる。その限りにおいてのみ、記紀の叙述は、古代において支配の正統性を担保するものであったと言える。
(注)
(注1)筆者旧稿の考えを改め、現行の解釈を凌ぐものとなっている。
(注2)思想大系本古事記に、「鵜の羽で産殿を葺いたというのは、鵜の羽に安産の霊力があると信じられていたためであるという説(可児弘明)がある。鵜の羽を持っていると安産できるという俗信がかつて沖縄にあり、また中国では妊婦が鵜を抱いて安産を願う信仰があったという。ただし産殿(うぶや)の意にあたる「うみがや(うむがや、生むが屋)」の転化がウガヤとなり、そのウが鵜に結びつけられたとする解釈もある。」(361頁)とある。可児1966.には、「豊玉姫神話がウの安産に関してもつ霊力を反映したものだとすれば、なぜ羽だけに限定されたかは別にして、ウによって安産を願う日本の宗教思想はウの胎生説とともに中国から渡ってきたにちがいない。」(49~50頁)と、かなり乱暴な議論が行われている。
(注3)そのようなことは歴史を遡ってみても聞いたことがないばかりか、試そうという気にすらなれない。民俗慣行のおまじないにヒントを求めても、話のなかで鵜の羽をわざわざとり上げて屋根を葺いている理由を説明しきれるものではない。
(注4)仏典に膨大な比喩の話を典拠とするなら、典拠を示すことで研究は完成、終了ということになるであろう。瀬間1994.は、海宮訪問の表記とストーリーには、経律異相と一致するところがあると論じている。書き方の問題は太安万侶の筆には関わろうが、稗田阿礼の誦習とは無関係である。
(注5)拙稿「事代主の応諾について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/0c9178d94e7bad106c7159a74fd78ad1参照。
(注6)記でも、産気づいて「入二-坐産屋一」とあるから、それまではそこに近づいていなかったことがわかり、トヨタマビメが自ら産屋を造っていたのではない。
(注7)イラカは、屋根の最も高いところ、大棟の上を覆って雨を屋根の左右へ別ける役割を果たしている。イラカという語については、イロコ(鱗)と同根とする説と、イラ(莿・苛)+カ(処)という構成とする説がある(注11)。イラという語には、草木の棘のことを指すほか、魚の背びれの棘のことも言う。鱗にしても背びれの棘にしても海神の宮にあったとしたらよくかなうものである。異国風の情景を思わせるために、瓦製の甍のことがイラカという言葉の原初であるかもしれない。「海神の 殿の盖に ……」(万3791)とある。瓦葺き屋根は波立つ海面の様子にもよく似ている。
それに対して山幸彦であるヒコホホデミノミコトは、屋根のすべてを葺草によって葺こうとしている。海原→海辺(の波限)で作ろうとしていたから気づかなかった。もし海辺ではなく川辺へと河口から川を遡っていたら気づいたかもしれない。川辺のことは川原とも言う。同音に瓦がある。瓦というヤマトコトバは、防火対策に特段の効果があるから注目された結果なのだろう。川原に建物を建てて消防用水に恵まれることと同様だと考えられて和訓となった可能性が高い。
冬十月の丁酉の朔にして己酉に、小墾田に宮闕を造り起てて、瓦覆に擬将とす。……是の冬に、飛鳥板蓋宮に災けり。故、飛鳥川原宮に遷り居します。(斉明紀元年十月~是冬)
尤も、イラカという言葉がすべて瓦製のことを指していたとは思われない。
イラカという語については、角川古語大辞典に、和名抄の解説を受けて、「「甍」の字義よりすれば、瓦葺きの屋根の棟(むね)、また、その棟瓦をさし、「屋背」の字義よりすれば屋根の棟をさし、「在上覆蒙屋」の字義は、棟をさすとも、屋根一般をさすともとれる。しかし上代の用例では、一般の屋根にはいわず、瓦とは断定できないが、みな立派な御殿についていい、中古以降は特に瓦屋根の意に用いられる。」(①338頁)とある。また、日本国語大辞典の「語誌」には、「語源については、その形態上の類似から、古来「鱗(いろこ)」との関係で説明されることが多かった。確かにアクセントの面からも、両者はともに低起式の語であり、同源としても矛盾はしないが、上代においては「甍(いらか)」が必ずしも瓦屋根のみをさすとは限らなかったことを考慮すると、古代の屋根の材質という点で、むしろ植物性の「刺(いら)」に同源関係を求めた方がよいのではないかとも考えられる。」(①1375頁)とある。また、古典基礎語辞典の「解説」には、「瓦で葺ふいた屋根のいちばん高い所。」(157頁、この項、西郷喜久子)とある。上代の用例にイラカ(甍)が瓦製かどうか、文例から完全には掌握できないため何とも言えない。筆者は、元来が他の屋根部分とは異なる造りであることを示した言葉ではないかと考える。結果的に素材の違いになって現れることもあったということである。
板葺き(杮葺き)や樹皮葺き(檜皮葺)の屋根でも、棟部分だけ、他とは別に丸く包んで押さえる方法がとられている。棟包みと呼ばれる桟に当たるものを使い、棟の端から端まですべてを途切れることなくつなぎ覆っている。産屋を造る伝とは別に、草などで子を裹んだとする文がある。「乃以レ草裹レ児、棄二之海辺一、閉二海途一而俓去矣。」(紀本文)、「遂以二真床覆衾及草一、裹二其児一置二之波瀲一、即入レ海去矣。此海陸不二相通一之縁也。」(紀一書第四)。苞にして贈り物を贈るやり方でパッケージングしているのは、屋根の甍の造りと同様だからであろう。ただし、茅葺き屋根の棟部分にのみ棟瓦を敷き置いて被覆する方法は、瓦巻き、瓦棟などと呼ばれて現在残されているが、この棟仕舞は明治時代以降の流行と言われている。
まとめると、面として屋根を葺いたのとは別仕立てで、大棟部分から雨が侵入しないように工夫したところをイラカと呼ぶことにしていたものと考えられる。イラ(棘)のある籬を動物が避けるように、イラのあるところを雨は左右へ避けるのである。雨は屋根の最下部まで伝って行って流れ落ちている。
左から、天平の甍(新薬師寺)、家形埴輪(今城塚古墳出土、古墳時代、6世紀、今城塚古代歴史館展示品)、東三条殿?(年中行事絵巻模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574885/18をトリミング)、イワヒバを冠した芝棟(川崎市立日本民家園)
家形埴輪の例は鰹木を載せたイラカとなっている。家や屋根の傾斜以上に大棟部分が肥大して作られており、甍形埴輪の様相である。当時の人々の関心の所在が明らかになっている。
(引用・参考文献)
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典 補訂版』岩波書店、1990年。
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第一巻』角川書店、昭和57年。
可児1966. 可児弘明『鵜飼─よみがえる民俗と伝承─』中央公論社(中公新書)、昭和41年。
幸田露伴『音幻論』 幸田露伴「音幻論」『露伴随筆集(下)』岩波書店(岩波文庫)、1993年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126366
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
白川1995. 白川静『字訓 新装版』平凡社、1995年。
瀬間1994. 瀬間正之『記紀の文字表現と漢訳仏典』おうふう、平成6年。
日本国語大辞典 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典 第二版 第一巻』小学館、2000年。
山田1935. 山田孝雄『漢文の訓読によりて伝へられたる語法』宝文館、1935年。国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870273
※本稿は、2018年3月稿を2020年8月に整理したものについて、2025年1月に誤りを正した新稿である。