古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

一言主大神について 其の一

2021年02月17日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 雄略天皇時代に、葛城の一言主大神(一事主神)の逸話がある。記紀ともに載せている。

 又、一時(あるとき)に、天皇(すめらみこと)の葛城山(かづらきやま)に登り幸(いでま)しし時、百官(つかさつかさ)の人等(ひとびと)、悉(ことごと)く紅(あけ)の紐を著けし青摺(あをずり)の衣(そ)を給はり服(け)せり。彼(そ)の時に、其の向へる山の尾より、山の上に登る人有り。既に天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等しく、亦、其の装束(よそひ)の状(かたち)と人衆(ひとかず)、相(あひ)似(の)りて傾(かたぶ)かず。爾(しか)くして天皇、望みて問はしめて曰く、「茲(こ)の倭国(やまとのくに)に、吾を除(お)きて亦、王(きみ)は無し。今、誰人(たれ)ぞ如此(かく)行(ゆ)く」といふに、即ち答へ曰ふ状も、亦、天皇の命(みこと)の如し。是に、天皇、大きに忿(いか)りて矢刺し、百官の人等、悉く矢刺す。爾くして其の人等も亦、皆矢刺す。故、天皇、亦、問ひて曰く、「然らば其の名を告(の)れ。爾くして各(おのもおのも)名を告りて矢を弾(はな)たむ」といふ。是に、答へて曰く、「吾先づ問はえつ。故、吾、先づ名告りを為む。吾は、悪しき事も一言(ひとこと)、善き事も一言、言ひ離つ神、葛城之一言主大神(かづらきのひとことぬしのおほかみ)なり」といふ。天皇、是に惶(おそ)り畏(かしこ)みて白さく、「恐(かしこ)し、我が大神。うつしおみに有れば覚らず」と白して、大御刀(おほみたち)と弓矢とを始めて、百官の人等の服せる衣服(そ)を脱かしめて、拝(をろが)み献る。爾くして其の一言主大神、手打ちて其の奉り物を受く。故、天皇の還り幸す時、其の大神、山の末に満(いは)みて、長谷の山口に送り奉る。故、是の一言主之大神は、彼(そ)の時に顕(あらは)れたるぞ。(雄略記)
  四年の春二月に、天皇、葛城山に射猟(かり)したまふ。忽に長(たきたか)き人を見る。来たりて丹谷(たにかひ)に望(あひのぞ)めり。面貌(かほ)容儀(すがた)、天皇に相似(たうば)れり。天皇、是れ神なりと知(しろ)しめせれども、猶(なほ)故(ことたへ)に問ひて曰(のたま)はく、「何処(いづこ)の公(きみ)ぞ」とまをす。長き人、対へて曰はく、「現人之神(あらひとがみ)ぞ。先づ王(きみ)の諱(みな)を称(なの)れ。然(しかう)して後に噵(い)はむ」とのたまふ。天皇、答へて曰はく、「朕(おのれ)は是、幼武尊(わかたけのみこと)なり」とまをす。長き人、次(つぎて)に称(なの)りて曰はく、「僕(やつかれ)は是、一事主神(ひとことぬしのかみ)なり」とのたまふ。遂に与(とも)に遊田(かり)を盤(たのし)びて、一(ひとつ)の鹿(しし)を駈逐(お)ひて、箭(や)発(はな)つこと相(こもごも)辞(ゆづ)りて、轡(うまのくち)を並べて馳騁(は)す。言詞(ことことば)恭(ゐやゐや)しく恪(つつし)みて、仙(ひじり)に逢ふ若きこと有(ま)します。是に、日晩(く)れて田(かり)罷(や)みぬ。神、天皇を侍送(おく)りたてまつりたまひて、来目水(くめのかは)までに至(まういた)る。是の時に、百姓(おほみたから)咸(ことごと)に言さく、「徳(おむおむ)しく有(ま)します天皇なり」とまをす。(雄略紀四年二月)

 この話が何の話なのか定説はない(注1)。記の下巻において、現実に神があらわれる唯一の個所のため不思議がられている。話の舞台が葛城山に設定されていることから、歴史学の立場から、天皇と有力豪族葛城氏との関係を示すものであるとする説が提出されている(注2)しかし、葛城氏との関係を示したいのなら、他の記事にある「葛城之野伊呂売」、「葛城之高額比売命(葛城高顙媛)」、「葛城之曽都毘古(葛城襲津彦)」、「葛城円大臣」など同様、葛城○○と人名をあげて書き表わせば良いのにそうしていない。葛城山でのお話である。本稿では、記の話を中心に、何をどのように物語ろうとしているのか考える。
 雄略記は、出かけての話ばかりで構成されている。皇統譜につづき、河内幸行、美和河遊行、吉野宮行幸、阿岐豆野幸、葛城之山登幸、葛城山登幸、春日幸行と連続する。その次にようやく都であった長谷での豊楽記事があって歌謡が載り、最後に享年と陵墓の所在を記している。阿岐豆野へは狩りに行っている。次の葛城之山では大きな猪に遭遇している。それに続き再び葛城山へ登って一言主大神に出会っている(注3)。「即幸阿岐豆野而御獦之時」に続いて「又一時……」、「又一時……」とあるのだから、それぞれの話は独立した譚でありつつ、三連続で狩りの話をしていると見受けられる(注4)

ウツシオミについて

 天皇の発語にあるウツシオミ(宇都志意美)という語について、どのように捉えたらよいか議論されてきた。本居宣長・古事記伝の「現大身」説は上代仮名遣いのミの甲乙の違いによって否定されており、現在では「現し臣」説がとられている。奥村1983.は、類例と比較して考察している。

 其大県主、懼畏、稽首白、奴有者、随奴不覚而、過作、甚畏。故、献能美之御幣物、〈能美二字以音。〉(雄略記)
 天皇、於是、惶畏而白、恐、我大神。有宇都志意美者、〈自宇下五字以音也。〉不覚、白而……(雄略記)

 この2文のうち、「これ[上文]は、「奴(やつこ)ながら(奴の本性で)」という副詞句が入っているが、言い回しは「ウツシオミにあれば覚らず」と同じである。両者は、共に自分より上位の者に対して非礼をはたらき、「不覚」でしたと詫びる言葉に、己(おの)れの卑小さを理由として「詰らぬ者でございますから」と相手の高貴さに対照させつつ恭順の意を強調しているのである。大県主の場合は、対する相手が主上の天皇なので、「奴(やつこ)」(主人に対する家僕)と卑称し、葛城山では、相手が大神なので、天皇の方が自らを「現(うつ)し臣」(この世の臣下)と卑下したのである。天皇は、顕界の一国では最高位の存在であるが、幽界の神に対すれば、これにまつろう一臣下にすぎない。恐らく、上古の日本人が、諸々の自然現象の背後に、人間以上の威力ある存在=神を認め、これを祀り上げて、従い仕える習慣が定まって以来、神々は隠れたる幽界の主上、人間は現れたる顕界の臣下という君臣の観念が生じたのであろう。」(42頁)としている。雄略記の「宇都志意美」は発語者の天皇自身のことを指すとしている。
  神に対して人がどのように振舞ったかについては、必ずしも一様ではない。神の示唆を夢にお告げとして聞いて自らの行動に反映させたケースに、神武天皇の東征行軍の困難時や、崇神天皇時代の疫病の流行時、神功皇后の新羅親征の際など諸例見られる。その際、神がどのように示唆しているのか、俄かにはわからず、祀り方を失敗してうまくいかないこともあった。神に会って驚き、「唯々(をを)」(神武前紀戊午年六月)と感嘆することがあった。神様にはいろいろいて、必ずしも上げ奉るべき対象とは言い切れない。祟り神には静かにしてくださいとお願いし、猿田毘古神はサルが想定されているから、旅の折に拝むことはあっても、それ以上の御利益を願ったりはしない。そこに、神と人との間の“君臣”関係は築かれない。
  大県主の文章には、副詞句「随奴」が入って過剰な表現になっている。わざわざ過剰な表現にしているのには理由があるであろう。「奴(やつこ)にし有れば、奴の随(まま)に覚(さと)らずて」というのが志幾の大県主の言い訳の主眼である。「堅魚(かつを)」、すなわち、鰹木を屋根の上に載せたゴージャスな「舎屋」を造り、それを見た天皇は、宮城に似せて造っていることにけしからんとして焼こうとした。「懼(お)ぢ畏(かしこ)みて、稽首(ぬかつ)きて」言っている。ヤツコ(奴)とは、ヤ(家)+ツ(連体助詞)+コ(子)の意である。ヤ(家)というものに関心があり、執着があったためだというのが大県主の主張である。鰹木が特権的なものであろうことぐらい、承知のうえであったが、天皇の行幸によって非を咎められ、弁解している。大県主に天皇と対抗しようとする意図があったのではなく、天皇に恭順する「奴」であると述べて「御幣物」を犬に運ばせているのだからと天皇は許している。君臣関係の確認以上に、「奴」というヤマトコトバを中心に話が展開している。
 「うつしおみに有れば覚らず。」について、新編全集本古事記は、「私は人間なので、あなたが神であることに気付かなかったの意。……オミ(臣)は、キミ(君)に対して、仕える者の意。」(348頁)と解説している。奥村1983.の説く、雄略天皇が自分のことを卑下して、神に対してへりくだって言っているとする考えが踏襲されている(注5)。しかし、ここもヤマトコトバを中心に、話(咄・噺・譚)が構成されていると見るべきであろう。対応する紀の個所でも、天皇の一事主神との受け答えに動揺、当惑するそぶりは見られない。「天皇、知是神」と最初から気づいていたことが述べられている。
 ウツシオミという語は、他に例のない特異な語である。それをわざわざ呈示しているからには、それなりの理由があるに違いない。万葉集には、ウツセミ、ウツソミという語があり、その原義が雄略記のウツシオミであると考えられている。万葉集の原文のウツセミ、ウツセミ・ウツソミの仮名書き表記には、「宇都世美」(万3456など全9例)、「宇都勢美」(万4160など全4例)、その他「蝉」字を含まないもの8例以外に、「空蝉」(万24など全8例)、「虚蝉」(万13など全9例)、「打蝉」(万199など全6例)、その他「蝉」字を含むもの2例がある。管見ではあるが、諸説に、特に字義を考慮することはなく、単なる借字として片付けられている(注6)。しかし、これほど多数の用例が登場しているとなると、何かしら意味的な連関が、上代の人の念頭に去来していていたと考えられる。
 「蝉」のニュアンスとしては、蝉の抜け殻のことが思い起こされる。蝉の成虫は抜け出て飛んでいってしまっている。抜け殻だけが木にしがみつくなどしたまま残されている。当時の人は、銅剣や銅鐸、鋳銭、文様付きの瓦、金銅の仏像など、鋳型を作ってから本体を製作することがあった。両者を同等のことがらであると捉えることは、無文字文化にして類推思考をもっぱらとした“野生の思考”(C・レヴィ-ストロース)にとって、何ら不自然なことではない。蝉の抜け殻を見て、鋳型で像を作ることを教えられたものだと感慨に耽っていた。それが上代人の心なのではないか。
セミの羽化(「春休みのデッサン室」様(http://blog.goo.ne.jp/morikayy/e/bc70966c19606d34f76a1f797d7b6e50))
四尊連坐磚仏と塼仏笵(奈良県桜井市山田寺跡出土、飛鳥時代、7世紀、東博展示品)
復元瓦(焼成前)と笵(左)(竹中大工道具館「千年の甍(いらか)-古代瓦を葺く-」企画展、ギャラリーエークワッド展示品)
中細形銅戈(佐賀県唐津市浜王町谷口出土)と銅戈鋳型(佐賀市久保泉町上和泉出土、ともに弥生時代、前2~前1世紀、東博展示品)
 ウツセミという言葉、ならびにその原形と目されるウツシオミという言葉は、鋳型的な物言いであることが理解される。そう考えることは、オミを臣、すなわち、君臣の関係で捉えることと相反しない。臣は君に従っている。君が言(みこと)のままに臣は事(こと)をする。鋳型と鋳造物との関係に同じである。白川1995.に、「おみ〔臣〕 臣下をいう。もと「神(かみ)」に対する語で、神あるいは神につかえるものをいった語であろう。」(191頁)とある。神との対立概念ではなく、神に仕えるものである。君臣の関係は、互いに対立する関係と捉えることはできない。
 オミには、「臣」以外に「使主」という用字が行われている。

 倭漢直(やまとのあやのあたひ)の祖(おや)阿知使主(あちのおみ)、其の子都加使主(つかのおみ)、並びに己が党類(ともがら)十七県(とをあまりななつのこほり)を率(ゐ)て、来帰(まうけ)り。(応神紀二十年九月)
 帳内(とねり)日下部連使主(くさかべのむらじおみ)〈使主は日下部の名なり。使主、此には於瀰(おみ)と云ふ。〉と吾田彦(あたひこ)〈吾田彦は、使主の子なり。〉と、窃(ひそか)に天皇と億計王(おけのみこ)とを奉(ゐまつ)りて、難(わざはひ)を丹波国(たにはのくに)の余社郡(よざのこほり)に避く。(顕宗前紀)
 ……使はされし臣(まへつきみ)根使主(ねのおみ)に附けて、敢へて奉献(たてまつ)る。(安康紀元年二月)
 時に、使主(おみ)裴世清(はいせいせい)、親(みづか)ら書(ふみ)を持ちて、両度(ふたより)再拝(をが)みて、使の旨を言上(まを)して立つ。(推古紀十六年八月)

 渡来人の姓(かばね)に与えられている。外国からの使者のうちの偉い人を「使主」と記して、それは外国の君主の言葉をきちんと伝える人のことだから、確かに仕える者、本当の使いのことだから、オミという呼び方で正しいとされてそう呼ばれているのであろう。すなわち、ツカフ(仕・使)ことに特化した存在、それがオミである。また、「臣の子」という言い方もある。

 臣の子の 八重や唐垣(からかき) 許せとや御子(紀88)
 臣の子の 八節(やふ)の柴垣(しばかき) 下動(とよ)み 地震(なゐ)が震(よ)り来ば 破(や)れむ柴垣(紀91)
 臣の子の 八重の紐解く 一重だに 未だ解かねば 御子の紐解く(紀127)

 使者は伝言を続ける。伝えて、伝えて、伝えていく。親が、子に、孫にと命(いのち)を伝えるように、命(みこと)を伝えるから、「臣の子」という表現はヤマトコトバに確かなものとなっている。「八(や)」を導いているのは、矢(や)を番(つが)えることを使(仕)えることとを同じことであるとする頓智に負っている(注7)
 白川1995.の「つかひ〔使〕」の項に、「「使ふ」は「仕ふ」の他動詞形である。使者。仕える者として、主命を代行するもの。伝言のために使いすることが多い。のち召使・従者たちをいう。」(502頁)とある。使役することと服事することとが鏡のように写像を成してツカフという言葉は成立している。神であれ、君であれ、言葉を発してそれをそのとおり事柄とすることが、オミ(臣・使主)の役割であった。言霊信仰の体現こそ、ツカフことなのである(注8)
 ウツシオミのウツシの義に、「現し」の字義のみに限って考えるこれまでの捉え方は狭量である。白川1995.の「うつし〔現・顕(顯)〕」の項に、「「移る」「映(うつ)る」「寫(うつ)す」など、みな同根の語であろう。実在するものが、一時的にそこにあらわれるというほどの意をもつ語で」(154頁)、「うつす〔写(寫)・映〕」の項に、「本来のものを他に移して、その色や形を再現すること。また「現(うつ)」「顯(うつ)」とも同根の語である。」(同頁)とある。新撰字鏡に、「摹 亡夫反、平、冩也。志太加太於支天宇豆須(したかたおきてうつす)」とある。幽冥のうちにあらわれるものを真として一時的に顕現した姿を「現(顕)(うつ)し」と捉えることができるのは、幽冥のうちに下描き、範型となる鋳型があって、その型の像として現れていると認められる。型も像もヤマトコトバにカタである。動詞ウツス(写・映・移・遷)の義の熟成をもって、形容詞ウツシ(現・顕)の義は像を結んでいる。鋳型と鋳出された物とは、形に陰陽の反転関係にあるが、それはすなわち鏡像と呼ぶことができる。鏡とは写すものである。神や君が言ったことを、臣(使主)は写して事としている。よって、ウツシオミとはウツシ(写)+オミ(臣・使主)である。オミ(臣・使主)はそもそも神や君の言葉を写すものであるから、ウツシオミという言い方は、転々と転がるというような言葉の自己定義色の強い言葉として成り立っている。もととなる型があるから像を結ぶことができる。写されて今「現(顕)し」と見ているものが、型どおりのものであると強調していることになる。
 ウツシオミという語は、ウツセミ、ウツソミといった短縮形へ語展開し、枕詞ウツセミノという決まり文句としても使われるようになった。ウツセミノは人や世(よ、ヨは乙類)(注9)や命(いのち)にかかる。人、世、命とは、生れて死ぬる生涯のことであるが、継がれ、継ぎ合い、番(つが)うものである。鋳型によって既に決められて現れているものと考えられたようである。だから、人はその姿が親に似ている。世の中はそれ以前の時代の経緯によって情勢が決まってくる。寿命も長寿遺伝子が知られていたわけではなくても、長寿の家系に生まれれば長寿、短命の家系では短命である。自分の思うようにはならない。人呼んで運命という(注10)。人が鋳型に生まれたものとするなら、単に写したものであるにすぎず、枕詞ウツセミノが、人、世、命にかかるのは尤もなことだと納得される。次節で述べる鏡像関係も、ひと番いのペアの関係によく表れている 。

鏡像としての映像と音声

 記紀の一言主大神(一事主神)は、一言で言い放つ神である。その話は、雄略天皇の一行と、一言主神の一行が、谷を間にして山の稜線を並進するものである。写像となっている。話は映像として語り始められているが、実は音声に基づいて創案された話であると確かめられる。すなわち、山々の峰々が並び立っているなら、一方から他方へ呼びかければ声は返ってくる。山彦(木霊)である。葛城山系で山彦に向いたスポットがあるかどうかは特に問題ではない。すべては話である。話としてきちんと把握しようとすれば、話として具体的で現実味を帯び、ありありと理解できることになる(注11)
 山彦の話である。山彦とは、山で反響・共鳴して音が返ってくる現象である(注12)。山においてそれとよく似た音の響きに、オオカミの遠吠えがある。オオカミが仲間同士で呼び合う声である。古事記に、葛城の一言主大神は、伊耶那伎大神、黄泉津大神、大物主大神、猿田毘古大神などが伊耶那岐神、黄泉神、大物主神、猿田毘古神などと略されるのと異なり、必ず「大神」と尊称されている(注13)。狼のことだから大神としている。遠吠えするオオカミのことを神様だとしたこと、そのことがこの話の眼目であろう。wolf のことをどうしてオオカミと呼ぶのか、それこそが焦点なのである。「悪事一言、善事一言、言離神」とあれば、何でも一言で言い当てるとばかりうる。「悪」をアシ、「善」をヨシと言ったのでは、もはや二言である。同じ言葉ですべてを言ってしまうこと、それを一言主と称している。オオカミが吠え声で伝えるとき、オオカミどうしにはあるいは異なって聞こえているのかもしれないが、我々人間には同じ一言のうちに喋っているように聞こえる。
ニホンオオカミ剥製(国立科学博物館展示品、ウィキペディア、Momotarou2012氏撮影https://ja.wikipedia.org/wiki/ニホンオオカミ)
 そして、雄略天皇の一行と一言主大神の一行とは、写像関係にあった。雄略天皇も言葉を一言のうち、すなわち、多義性を解さずに残忍なことをする姿が描かれている。挙動が発作的で、言語感覚が短絡的にして、周囲の家来を殺すことがあったことが紀に記されている。狩りの後の宴席で、天皇からの問いかけに対して群臣が答えに窮していたので御者を殺したことがあった。「天皇、大きに怒りたまひて、刀(たち)を抜きて御者(おほうまそひのひと)大津馬飼(おほつのうまかひ)を斬(き)りたまふ。」(雄略紀二年十月)。評されて、「天皇、心を以て師(さかし)としたまふ。誤りて人を殺したまふこと衆(おほ)し。」(雄略紀二年十月是月)とある。また、一回目の葛城山狩猟の際には、猪の襲撃に怖気づいた舎人を殺そうとしている。皇后は、天皇の行動を制止するために諭している。「嗔猪(しし)の故を以て、舎人を斬りたまふ。陛下(きみ)、譬えば豺狼(おほかみ)に異(け)なること無し。」(雄略紀五年二月)と言っている。天皇は狼によく似ていて、狼の子であることが暗示されている。狼(大神)の子だから、「現人之神」と称されているのである。
 紀にある「相似」は、タウバレリと訓んでいる(注14)。タウバルは賜ると同根の語である。子が親に似ているのは、その「面貌容儀」を親から賜っていることの謂いである。鋳型と像の関係に同じである。雄略天皇と一事主神とが互いによく似ていることを言うのに、賜わりものであるという考えに基づいて示している。一方、記では、「相似不傾」をアヒニテカタブカズなどと訓まれている。「似」は上代語にノル(ノは乙類)とも訓む。
 「此の神の形貌(かたち)、自づからに天稚彦と恰然(ひとしく)相(あひ)似(の)れり。」(神代紀第九段一書第一)とある。この部分も、アヒノリテカタブカズと訓むべきであろう。なぜなら、天皇はこの葛城山登幸において、馬に騎乗しているであろうからである。馬を上手に乗(の、ノは乙類)りこなせているから、「不傾」なのである。紀では、「並轡馳騁」と記されている。騎馬であることが、話の前提にある。
記では、最終的に、一言主大神は「手打受其捧物」している。狼が手を打つか不明ながら、狼を家畜化した犬を見ると「お手」をしている。しつけの進化形として、飼い主との間の究極の主従関係を示している。そこで、手を使うことが注目されているようである。一言主大神の場合、「手打」をしている。すなわち、拍手(かしはで)を打っているということである。その音は、パチ、バチといった音であろう。上代に書記すれば、ハチである。ハチは鉢、托鉢のハチである(注15)。仏者同様のこととなり、大御刀、弓矢、衣服といった捧げ物を受け取るにふさわしい。鉢は鋳造で、蝉とその抜け殻の関係を持っている。
金銅鉢(鉢支附、金銅製鋳造、奈良時代、8世紀、東博展示品。)
 鉢に献じられた「衣服」は、「百官人等所服之衣服」である。当初、「百官人等、悉給紅紐之青摺衣服。」とあった。この「著紅紐之青摺衣」がどのようなものかが問題である。仁徳記にも、「其の臣、紅の紐を著(つ)けたる青摺の衣を服(け)せり。故、水潦(にはたみづ)、紅の紐に払(ふ)れて、青きは皆紅の色に変りき。」(仁徳記)とある。これまでの解釈では、格式ばった立派な正装のこととされている(注16)
 しかし、この箇所でも仁徳記でも、着ているのは「百官人等」、「丸邇臣口子(わにのおみくちこ)」という臣下の立場の人で、高い位の人ではない。天皇などの為政者と服従している庶民とは、身なりに差をつけてはっきりと区別していたと考えられる。可視化されるとわかりやすい。すると、臣下として正式な装束とは、貫頭衣の系統のものであろうと推測される。紅紐がついている青摺り衣のことは、名称として何と呼ばれていたか確定はできないが、打掛(帔、裲襠)(うちかけ)(注17)と呼ばれるものに当たるのであろう。衣服の上にうちかけて着るものである。一言主大神は手を「打」って受けている。和名抄に、「裲襠 唐令に云はく、襠〈音は当〉、両襠は衣の名也といふ。釈名に云はく、両襠〈今、両は或に裲に作ると案ふ。宇知加介(うちかけ)〉は其の一を胸に当て、其の一を背に当てる也といふ。唐令に云はく、慶善楽舞四人碧綾𧛾襠〈上の音は若盍反〉といふ。」とある。儀仗用の布帛製の鎧のこと、また、行幸の際に輦(輿)の轅を担ぐ駕輿丁が肩あてに使った貫頭衣、さらに、舞楽や田楽の装束として用いられた。
裲襠を着けた駕輿丁(松平定信・輿車図考、写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1287484/6をトリミング)
 似たような袖なし、また半袖のものに半臂があり、和名抄に、「半臂 蔣魴切韻に云はく、半臂〈此の間に名は字の如し、但し下の音は比〉は衣の名也といふ。」とある。足さばきをよくする襴(らん)が付き、結ぶ帯を小紐、左脇に垂らす飾り紐を忘緒(わすれお)という。
 青く染めた貫頭衣風のチョッキのような上着に赤い紐が垂れており、踊るに従って揺れて合コンのダンスパーティにもふさわしい衣装である(注18)。仁徳記に「爾、匍匐進赴、跪于庭中時、水潦至腰。……故、水潦払紅紐、青皆変紅色。」とあるのは、丈が短くて腰までもないところから垂らしている忘緒が水に浸かり、浸透して全体に色染まりしたと言っている。これら袖なしの衣類のことは、上代に「衣(そ、ソは甲類)」と呼ばれた。つまり、天皇は、ソ(甲類)を狼に呈上している。それが正しいのは、狩りに騎馬が前提だからである。馬を追う声は、擬声語に、ソ(甲類)と言っていた。話の落ちとして、とてもおもしろくわかりやすいものである。

 左奈都良(さなつら)の 岡に粟蒔き かなしきが 駒は食(た)ぐとも 吾(わ)はそと追(も)はじ(万3451)
 宮材(みやき)引く 泉の杣(そま)に〔泉之追馬喚犬二〕 立つ民の 息(やす)む時なく 恋ひわたるかも(万2645)
 …… 烟(けぶり)立つ 春の日暮らし 真澄鏡(まそかがみ)〔喚犬追馬鏡〕 見れど飽かねば  ……(万3324)

 天皇が宮へ還るとき、長谷朝倉宮へ向けて進んだ。一言主大神もついて来て送ってくれている。送り狼という語として残っている(注19)。記に、大神が「満山末」とあるのは、当初、「其自向之山尾」登っている似た姿を見つけたことと好対照をなしている。登山口から山に入り、同じ登山口から出て行っている。「山末」とは、山際の「山尾」のこと、すなわち、ヲであると言っている。「大神満」とは、狼がヲ、ヲ、ヲ、ヲ……と遠吠えする声が轟いていることを示している(注20)
 ヲという言葉は、擬声語、感動詞から間投助詞、格助詞へと展開して行っている。小田2015.の解説に、「目的格もまた、本来、無助詞で表したが、特に動作の対象であることを明示したい場合には、助詞「を」が用いられた。
 (1)父母[父母乎]見れば尊し(万800)
……
 (1)のような「を」は、(2)(3)のような、感動詞「を」から生じた間投助詞「を」に由来し、特に目的格表示として固定していったものと考えられる。
 (2)宇治川を船乗せと[船令渡呼跡]呼ばへども(万1138)
 (3)生るればつひにも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくあらな[楽乎有名](万349)」(372頁)とある。対象化する際に用いる言葉の要件とは、事態が事態であるかさえ不鮮明な状態から、ひとつの事柄としてとり上げるということである。すなわち、一言主大神の、「雖悪事而一言、雖、善事而一言、言離」時に用いるということに等しい。ヲと言って目的語に据えるということは、状況に枠組みを与えて言立てることを包含している。一言主大神とは、曖昧模糊の漠としたシーンを言葉に“見える化”する神であった。紀に、一事主神と記されて同義なのは、言(こと)と事(こと)とは同じであるし、それを志向する考え方が定着していたからである。これを筆者は、言霊信仰と呼んでいる。一般に言霊信仰とは、言葉に呪力があるという立場に立っている(注21)が、訳の分からないことは、「狂語(たはこと)」・「逆言(およづれこと)」(万1408)である。仮に言葉に呪力が備わるのなら、何であれ言葉どおりに世界は成るはずであるが、もとよりそのようなことは起っておらず、起り得ることでもない。言霊信仰の立脚点は、言葉と事柄との間を一致させようと励んだ上代の人々の言語活動にある。言っていることと起っていることとを同一にしようと努めなければ、言語世界はカオスに陥ってしまう。無文字時代に証文は取れない。
 紀では話のまとめとして、「有徳天皇也」との賞賛の声があがったとされている。これを文字どおり、人徳が有ってすばらしいと評価されたとする捉え方は誤りである。二年十月是月条に、「天下(あめのした)、誹謗(そし)りて言(まを)さく、「大(はなは)だ悪(あ)しくまします天皇なり」とまをす。」と、正反対の評価がある。当時の人民からの評価としては、そちらの方が真実味がある。では、四年二月条の「有徳天皇也」で、何を言いたいのか。それは、古訓に明らかである。「オムオムシク有(ま)します天皇」である。オムオムシクはオモオモシク(重々)の音訛である。ヤマトコトバの畳語として、同じ音を2つ重ねている。
 紀では話の最初から、「長(たきたか)き人」とある。タキ(丈)とタカ(高)とは同根の語である。山のなかでの話だから、丈が高いとは木の高さをにおわせる。新撰字鏡に、「森々 所金反、木長㒵、今取至意、伊与々加尓(いよよかに)」とある。いよいよ高いという意味である。「望丹谷」とあって、タニカヒ、タニムカヒに面している(注22)。山の稜線のV字形に交差するところを「峡(かひ)」といい、そこは谷を形成するから、強調語としてタニカヒと呼ばれるようである。大系本日本書紀に、「丹谷」のことを「仙境。奥深い谷。丹は、丹丘・丹台・丹薬など、神仙に関して用いられる字。文選、七命に「登翠嶺丹谷」。古訓ではタニカヒ。谷の交わるところの意。」(35頁)とある。はたしてそうであろうか。タニ(谷)とは両側から切り込んだ低いところである。カヒ(峡)とは山裾と山裾の交わるところである。どちらも同じことを言っている。谷どうしが交わっているのではなく、谷の奥深いところの表現である。また、「丹谷」を神仙思想の表れと見て、「長人」との出会いを「逢仙」と書いているとして、中国思想の感化を過大視する向きもある。しかし、実態は、字面や表現を借りているだけであると考える。「丹」字は音にタン、和語にするのに撥音を嫌って tan に i が付いて tani(たに)となる。「丹波(たには)」(神武記、雄略紀、万3071)というよく知られる地名の例もある。つまり、紀の筆録者が「丹谷」と書いて表したかったのは、タニタニというヤマトコトバの繰り返し表現であったと考える。
 この繰り返し表現は、オムオムシク、タキタカキばかりではない。「称(なの)る」ことも二度行われている。天皇側と長人側とである。記では「各(おのおの)名を告(の)りて」となっている。また、箭を放つことも「相(こもごも)辞(ゆづ)」っている(注23)。「轡(うまのくち)」を並べてとある。実際に狩りをする段になって、引いてきた馬に天皇は騎乗したということであろう。轡のことは、クツワヅラという。和名抄に、「轡 兼名苑に云はく、轡〈音は秘、訓は久豆和都良(くつわづら)、俗に久都和(くつわ)と云ふ〉は一に钀〈魚列反〉と名づくといふ。楊氏漢語抄に云はく、韁鞚〈薑貢の二音、和名上に同じ〉は一に馬鞚と名づくといふ。」とある。ツラツラな状態にあった。記でも、「鹵簿(みゆきのつら)」とあって、ツラツラ状態が設定されている。
 鹵簿(ロボ)は、二列縦隊に隊列を組んだ天子行幸の列である。天子は輿または(牛)車に揺られていく(注24)。輿の場合、担ぎ手が左右前後の四方向、すなわち二列になる。牛車でも、お付きの人は左右の轅(ながえ)に側立ち、轍ができていく。もちろん、葛城山へは狩りに行っているのであって、そのうち天皇は馬に乗るから随伴させていくのであるが、天皇は武士ではないから騎乗のまま行進したとは考えにくい。また、さすがに車が進めるほどには官道は整備されていないであろうから、牛車ではなく輿で進んだと思われる。だから、駕輿丁以下、狩りのための行幸の随伴者に、打掛(帔・裲襠)が支給されている。設定は「葛城山(かづらきのやま)」である。カヅラ(鬘)とは、ウィッグを含めた髪飾り全般のこと、髪(かみ)+蔓(つら)の約とされている。動詞に、カヅラクは、カヅラを作って着すことを言う。

 君が行(ゆ)きもし 久にあらば 梅柳 誰(たれ)とともにか 吾(わ)が蘰(かづら)かむ(万4238)
 あしひきの 山下日蔭(ひかげ) 蘰(かづら)ける 上にやさらに 梅をしのはむ(万4278)

 カヅラキ(葛城、キは乙類)と、動詞カヅラク(蘰)の連用形カヅラキ(キは乙類)とは同音である。新撰字鏡に、「葛 加豆良(かづら)」とあり、それは鬘にされる蔓性植物のことをいう。万4278の「日蔭」はヒカゲカヅラのことを指している。鬘にする木として代表的にヤナギ(柳・楊)があげられる。ヤナギという語は、ヤ(矢・箭)+ナ(助詞ノの転形)+ギ(木)の意であろうとされている。記紀で矢(箭)を放つことが話頭にのぼっているのは、この点に由来するようである。
 二列縦隊にミユキノツラが進んでいる。ツラツラの話である。「言詞(ことことば)」と繰り返され、「恭(ゐやゐや)し」と形容されている。最終的に、「咸(ことごと)く」オムオムシと言われている。これほど畳語が展開されているのは、話が山彦のことだからである。相似する人の姿を描いて互いに同じように発語することを示すのに、一語一語の言葉の中身まで繰り返し言葉にしてわかりやすくされている。
 天皇の評価において「有徳」であるとは見せかけのお追従であり、畳語のオムオムこそ重視すべき点である。オモオモといえば、面(おも)の繰り返し、ツラツラの関連語である。馬面が左右対称に、鏡像に見えることによる洒落である。鬣はとってつけたような鬘に譬えられよう。そんな横顔ばかりが目立つ動物として、狼が登場してきている。狼の顔は馬ほどではないけれど鼻先が尖っていて、ツラツラな顔立ちをして大口を切って開けている。狩りは狼が得意で、人も馬を使えばそれに近くうまくいく。狼が大口を開けて遠吠えする声と馬を追っていく人の声が山に響き合っている。そんな声が話の焦点である。狼の遠吠えの声が山彦となり、オーム、オームとも聞こえたということであろう。
ツラ(左:道産子(多摩動物公園)、右:オオカミ(博物館獣譜・オオカミ、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0030067をトリミング))
ツラのない例(狆、ウィキペディア、T.shinzaemon様「狆の仔犬」https://ja.wikipedia.org/wiki/狆)

逸話創作の舞台裏

 以上が、葛城の一言主大神のお話の楽しみどころである。では、上代の人々は、何に由縁してこのような話を創りあげたのであろうか。それは、雄略天皇の名、大長谷若建(大泊瀬稚武)と、葛城という地名によっていると考えられる。中央政権の主要人物にタケルと形容することは適切なこととは言えない。タケルとは、兇猛で野蛮な荒々しい動物の本性丸出しの誥び声をあげることをいう。よって、雅なはずの天皇や皇族の名にふさわしくないと指摘されている。そこで知恵を働かせ、ヤマト+タケル+ノ+ミコと言わずに、ヤマ+ト+タケル+ノ+ミコトと称することで矛盾を回避していた。それはまた、タケルことが、山彦のように反響を呼ぶような声をあげることであったから、紀の古訓に、ヤマトタケルではなく、ヤマトタケと縮まった形で表わされていたのである。ヤマトタケルーと叫んでも、ヤマトタケ……ぐらいにしか返って来ないのが山彦である(注25)。ここで雄略天皇の名は、紀では、大泊瀬稚武とあり、古訓に、オホハツセワカタケとある(注26)。ワカタケルと今日通称しているが、ワカタケと縮まった形が慣用であった。
 その理由は、ヤマトタケルの場合と同じであろう。記では、允恭・安康記に大長谷命、大長谷王とあったのが、雄略記に至って大長谷若建命となっている。後から、「ワカタケル」が添加されている。理由は記されていないが、身内に当たる何人もの政敵を殺していって位に就いた人物である。紀では、激怒型の人物で、すぐにカッとなって人を殺していたことが伝えられている(注27)。怒声が内から噴き出してくるところから、湧いてくるようだと思われて、ワカタケルと呼ばれるようになったのではないか。名とは何か。それは呼ばれるものである。本質的に綽名に同じである。そのワカタケルを「若建」、「稚武」と表記した。
 絶対的な権力を握った天皇に対する綽名である。表立って悪口を言うわけにはいかない。若々しいと褒めているものと取り繕っている。ワカシ(若・稚)の類義語はヲサナシである。ヲサ(長)+ナシ(無)の意であり、未熟なことを表す。人間的に未熟であることをよく物語っている。ここに対極の存在、「長人」の登場が期待される。また、タケルことは、その本質において狼の吠えることに同じである。雄略紀五年二月条に、皇后から、「陛下譬無於豺狼也。」と諭されている。大神(おほかみ)が登場する条件は揃っている。
 そして、ワカと冠してしまったら、若い人の特徴を語る必要性が生じる。若年のしるしには髪形がある。髪が伸びきらず、成人のように結い上げることができない。総角(あげまき)に至らないとき、髫髪(うなゐ)などと呼ばれる。また、童(わらは)のことは、禿(かぶろ)とも呼ばれる。允恭前紀に、「岐㠜(かぶろ)にましますより総角(あげまき)に至るまでに」と髪型をもって幼・少年期を伝えている。おかっぱ頭のことからそう呼んでいる。和名抄・疾病部に、「瘍〈禿附〉 説文に云はく、瘍〈音は楊、賀之良加佐(かしらかさ)〉は頭瘡也といふ。周礼注に云はく、禿〈土木反、加不路(かぶろ)〉は頭瘡也といふ。野王案に無髪也とす。」とある。カブロ(禿)とは、カミ(髪)+ウロ(疎)の約、カムロの転とされている。髪の毛の全体量が少ないことを指している。あるいは、雄略天皇は、髪の薄い人物であったかもしれない。そのような場合、カモフラージュする鬘(かづら)を着けていた。髪飾りに誰しも付けているのだから、抵抗感、違和感なく隠し果せることができた。すなわち、ワカタケルという人名は、カヅラクという言葉を具現化した名詞形、カヅラキのヤマが言葉の上で求められている。語呂合わせの連想ゲームのように思われるかもしれないが、無文字時代の言葉の確認作業としては、至極一般的なことであると考える。一語一語を記憶に留めつつ、言葉の深意を見極める作業が展開されている。人が言葉を理解し、覚え、伝えていくためには、ひとつひとつの言葉の語義を定めていく工程が欠かせない。漢字のような表意文字を得た後代、文字を見て、その偏や旁から言葉の意味を推測することが可能となったが、その分、言葉に対して丁寧に、厳密に向き合う姿勢は失われた。上代においては、言葉に対し、感性を鋭く研ぎ澄ましていた。無文字時代のヤマトコトバとは、その成立要件として、言葉の哲学を伴っていた。文字という媒介項を経ずに言葉を伝えるため、相手が納得するだけの、言葉による言葉が必要とされていた。発せられる言葉は、自己定義しながら一歩一歩前に進むものとして使われていたのであった。
(つづく)

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