(承前)
(注)
(注1)長野1998.に、「『古事記』がどうしてこの葛城山の説話を雄略記に記したかという、編者の意向は一向に見えてこず、その意図の根底にある『古事記』の理念も不明なままである。要するに、作品を全面的に解明するにはまだ至っていないと思われる。」(288頁)とある。
(注2)例えば、井上1985.は、「これは葛城氏がほろび、その祭祀権を皇室が奪ったことを意味する話ではあるまいか。」(70頁)とする。
(注3)例えば、長野1998.は、「雄略記の葛城山を二話一連とみたとき、第一話で葛城山の神を冒瀆して失敗した天皇が、第二話ではその神に畏敬の念を表して山入りし、逆に神の敬意を受けて両者が宥和した有様を語る説話だということになる。」(288頁)とする。
(注4)阿岐豆野と一回目の葛城之山の部分は次のとおりである。
即ち、阿岐豆野(あきづの)に幸(いでま)して、御獦(みかり)したまふ時に、天皇、御呉床(みあぐら)に坐(いま)す。爾くして𧉫(あむ)、御腕(みただむき)を咋(く)ふに、即ち蜻蛉(あきづ)来て、其の𧉫を咋ひて飛びき。是に御歌を作りたまふ。其の歌に曰はく、
み吉野の 小室(をむろ)が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)そ 大前(おほまへ)に奏(まを)す やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 呉床(あぐら)に坐し 白栲(しろたへ)の 袖着そなふ 手腓(たこむら)に 𧉫かき着き 其の𧉫を 蜻蛉早咋ひ かくの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭(やまと)の国を 蜻蛉島(あきづしま)とふ(記96)
故、其の時より、其の野を号けて阿岐豆野(あきづの)と謂ふ。
又、一時(あるとき)、天皇、葛城之山(かづらきのやま)の上に登り幸す。爾くして大き猪(ゐ)出づ。即ち、天皇、鳴鏑(かぶら)を以て其の猪を射たまふ時に、其の猪、怒(いか)りて、うたき依り来(く)。故、天皇、其のうたきを畏みて、榛(はり)の上に登り坐す。爾くして歌ひて曰はく、
やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪(しし)の 病み猪の うたき畏み 我が逃げ登りし 在(あ)り丘(を)の 榛の木の枝(えだ)(記97)
(注5)遠山1993.や青木2015.は賛同している。それに対して、大野1947.では、一言主大神という「「畏き大神が、現しき此の世の人の姿でいらつしやらうとは思ひもおかけ致しませんでした」と解すべきであつて、形見えざる筈の神自身が姿を現したが為にそれと知らず恐き無礼を働いたことに恐懼した言葉と解されるのである。」(56頁、漢字の旧字体は改めた。)としている。また、毛利2014.では、「「宇都志意美」とは、……主君に仕える現実の臣下という、一般的な人間としての臣下の謂いである」(27頁、傍線は省略した。)としている。
(注6)奥村1983.に、「「うつせみ」という言葉は、上代から「空蟬」とも表記されたが、勿論、蟬と関係もなく、万葉集の用例では、「現世」あるいは「現世の人」と解されるのが普通である。」(34頁)とある。
(注7)時代別国語大辞典に、「つがふ[番](動詞) 未詳。順序に従うなどの意か。」(460頁)としている。「医博士・易博士・暦博士等、番(つがひ)に依りて上(まうで)き下(まか)れ。」(欽明紀十四年六月)の例は、「交代制で勤仕すること。上下は参上退下。」(大系本日本書紀305頁)としている。日本国語大辞典(245頁)の説くように、ツガフはツギ(継)アフ(合)の約であろう。矢について使うのは、弓矢という武器は、矢を構えている時には敵は寄って来ないが、一度放たれて外れてしまうと無防備だから、矢継ぎ早につがえることが必要だからである。「いやつぎつぎに(弥継継)」という表現が万29・4098に見られるが、その的確性も指摘できる。
(注8)ポラニー1980.に、「暗黙知は、意味をともなった一つの関係を二つの項目のあいだにうちたてる。そこで、暗黙知とは、この二つの項目の協力によって構成されるある包括的な存在を理解することである、と考えられる。」(28頁)とある。ヤマトコトバは言=事であるとする(筆者の言う)言霊信仰に成り立てようとしていた。そのため、記紀の諸説話は、一つのことがらについてまるで辞書を繰り続けるようにぐずぐずと dwell on していくような筆致で記されている。一般には言葉に依ることのできないとされる暗黙知の領域まで言葉にしてしまおうと試行していた形跡のように見受けられる。後述するように、擬声語から感動詞、助詞へと言葉が展開しつつ言葉の原義を意識の俎上に据えたままにしている。包括的な存在をひっくるめて理解することを自ずと促すように導く特性を、ヤマトコトバは内に含んでいたのである。
(注9)白川1995.の「よ〔代・世・齢(齡)〕」の項に、「「節(よ)」と同根の語で、一くぎりの時間を意味する。また人の生きる世間、その世間のさまをいう。ヨは乙類。」(783頁)とある。節(よ)の具体物は、竹の節(ふし)のことであるが、古語の「節(よ)」という語は、ふしくれだって太くなっている部分を指してみたり、その間のまっすぐに伸びている部分を指してみたり、両刀遣いである。人生の時間をヨ(代・世・齢)とする考えからすれば、節(ふし)と節(ふし)との一区切りのまっすぐに伸びている部分とみる見方が妥当と思われながらも、なお深い意味を含有したものなのかもしれない。すなわち、竹を割った時に互いがぴったりと合わさる点、割符として利用されるほどの写像性を、ヨ(乙類)という語は表そうとしたのではないか。
(注10)岩波古語辞典に、枕詞ウツセミノについて、「奈良時代には、はかないという意味は必ずしも持っていなかったが、平安時代以降は、蟬のぬけがらの意と解したので、はかないという意味になった。」(173頁)とある。蝉の抜け殻を鋳型とする考え方から、直截的にはかないという意味は生まれない。
(注11)塚口2014.に、「以上を要約すると、木霊(こだま)(山彦)を念頭に置いて作られたと思われる『記』の雄略天皇と葛城一言主大神に関する話は、雄略朝における大王と葛城地方の土着勢力との関係を象徴的に語っているものと考えられるのである。」(113頁)とある。木霊・山彦の話はあくまでも木霊・山彦の話(咄・噺・譚)であり、話のどこにも土着勢力葛城氏の姿は見えない。象徴的な物語を仕立てる理由も見当たらず、まして無文字時代に象徴的な思考は具体的な象徴性、トーテミズム以外に考えにくい。文字という記号を持たなければ、象徴的な思考は保ちがたいからである。近接する日本書紀に、他の氏の人はふつうに登場しており、葛城氏ばかり名を伏せる理由も見当たらない。
(注12)山彦をテーマにした話には、すでにヤマトタケルノミコトの名前譚がある。拙稿「ヤマトタケルノミコト考」参照。
(注13)藤澤2016.に、「[古事記で]「大神」とされる神は、極めて丁重な扱いを要求し、王権全体に影響を及ぼすほどの力を持った神であるといえよう。」(97頁)とある。古事記が「大神」との間で王権にまつわりトラブルになっているのか、筆者の認識の及ぶところではない。
アラヒトカミ(ヒは甲類、トは乙類、ミは乙類)については、「現人之神」(雄略紀)のほかに、日本武尊の記述として、蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)とのやりとりで、「吾は是、現人神(あらひとかみ)の子なり。」(景行紀四十年是歳)と宣言している。同じくタケルと名づけられた皇族であり、どちらも会話文の中の主張である。狼のような残虐性を持っていたことを示している。景行記に、倭建命が若くして小碓命(をうすのみこと)と呼ばれていたころ、天皇から兄の大碓命(おほうすのみこと)が朝夕の食膳に出てこないことを懇ろに「ねぎ」して諭すように言われ、手足をもぎ取る意の「ねぎ」して殺してしまったとある。また、アラヒトカミは、万葉集にも例がある。
…… 懸(か)けまくも ゆゆし恐(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 荒人神(あらひとがみ) 船(ふな)の舳(へ)に 領(うしは)き給ひ 着き給はむ ……(万1020・1021)
住吉の神が現人神である由縁は、仲哀記に、「亦、底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神ぞ。〈此の時に、其の三柱の大神の御名は顕れき。〉」とあるのによるのであろう。神さまの方から名前を名告って顕現している点は、一言主大神に同じである。航海の神様は、海の上面だけでなく、中ほどや底の部分にも存在しているとしている。隅から隅まで遍在している点から、スミノエという地名によくマッチしている。海の荒れる時とは、表面に波が立つばかりでなく、中層、底層と、隅から隅まで海水が大きく動き流れまわる。そういう大変危険な側面を持っているのが、海の神、「墨江大神」(仲哀記)であり、それは荒天時で、どす黒い、墨を磨った時の色をしている。海の潮が船体を洗うのが海の神の洗礼ということである。よって、ヤマトコトバにおいて、スミノエという場所に、アラヒ(洗、ヒは甲類)+ト(処、トは乙類発祥)+カミ(神)は現れている。和名抄に、「現人神 日本紀私記に云はく、現人神〈阿良比度加美(あらひとかみ)〉といふ。」とある。
(注14)「相似」は、古訓にタウバレリとある。前田本(写、京都大学付属図書館蔵、京都大学貴重資料デジタルアーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013274#?c=0&m=0&s=0&cv=36&r=0&xywh=1400%2C1010%2C1361%2C275(37/99))、書陵部本(書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266a(10/38))参照。新編全集本日本書紀に、「面貌容儀、天皇に相似れり。」と記の訓に近づけた新訓を施しているが、記とは文脈が異なる。その点は、藤澤2016.が、「[『古事記』]で雄略が一言主之大神と初めて遭遇した時、天皇と一言主之大神の行列が「相似不レ傾」と記されている。一方、『日本書紀』では天皇と一事主神の容貌が「相以[ママ]」とある。」(97頁)と指摘している点である。そこでは、紀が天皇と一事主神の個対個レベルであるのに対して、記では王権全体の権威レベルで対峙しているとしている(98頁)。
(注15)托鉢の姿は早く絵因果経に描かれているが、言葉としては「乞食」として記される例が古い。葛城の一言主神は、早い時代から役小角と関連づけられて語られるようになっている。外来宗教との因縁から偏って解釈されていったようである。永藤1994.参照。
(注16)尾崎1966.に、「束装」のことを「当時の官人の美装である。」(699頁)とする。新編全集本古事記347頁、中西2007.433頁、藤澤2016.98頁も古代の官人の格式ばった正装であると考えている。
(注17)裲襠は、養老令では、衣服令・武官礼服に「繍(ぬひもの)の裲襠(りゃうとう)加へよ。」とあって、義解に「謂。一片当レ背。一片当レ胸。故曰二裲襠一也。」とあり、つづく朝服に、「〈会集(ゑしふ)等の日には、錦の裲襠、赤き脛巾(はばき)加へよ。……〉」とある。延喜式では、神祇二・四時祭下・鎮魂祭に「帔(うちかけ)一条〈帛二丈〉」、縫殿寮・鎮魂祭服に「緋(あけ)の帔(うちかけ)四条〈緋の表、帛の裏、別(でうごと)に一丈五尺〉」、同・正月斎会衆僧法服に「深紫の羅の帔(うちかけ)二条〈別に一丈六尺〉」とあり、金剛寺本傍注に「如二被物一云々。」と記される。また、斎院司・人給料に、「赤紫の絹四疋〈……一疋三丈は同じき袷の襠(うちかけ)の料、各九尺〉」などとあり、いずれも袖なしの貫頭衣スタイルの上着である。他の衣類に助数詞は「領」であるが、ウチカケ(帔・襠)は一筋のものを表す「条」となっている。縫い合わせてネックラインを作るのではなく、穴をあけていた。
左:武官の礼服、右:舞楽の裲襠(関根正直・装束図解、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190523/97~98をトリミング、モノクロ加工等)
(注18)続紀には、「辛卯に、葛井・船・津文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉す。其の服は並びに青摺(あをずり)の細布(ほそぬの)の衣を着、 紅(あけ)の長紐を垂れ、男女相並び、行(つら)を分けて徐(しづか)に進む。歌ひて曰く、
乙女(をとめ)らに 男(をとこ)立ち添ひ 踏み平(なら)す 西の都は 万代(よろづよ)の宮(続紀6)(辛卯、葛井・船・津文・武生・蔵六氏男女二百三十人、供二-奉歌垣一。其服並着二青摺細布衣一、垂二紅長紐一、男女相並、分レ行徐進。……)」(続日本紀・宝亀元年三月)とある。
歌垣のときに着す特徴的な衣類である。歌垣の歌に、「大君の 御帯(みおび)の倭文織(しつはた) 結び垂れ 誰(たれ)やし人も 相思はなくに」(紀93歌謡)とある倭文織は、本邦に旧来からの織り方であるとされている。弥生時代から続く衣類は貫頭衣であり、袖なしで幅の狭いものに適合する。ヤマトコトバに「衣(そ、ソは甲類)」という。古式ゆかしい姿をとどめていることを強調するために、「紅紐」はクレナヰノヒモではなく、アケノヒモと訓むべきであろう。
正倉院に残る半臂については、背縫いされているものばかりで貫頭衣とは言えない。紐(緒)を垂らしているものとして検討した。「忘緒」は後世の命名である。貫頭衣形式のものとしては正倉院に布衫の例がある。関根1974.参照。
新校古事記に、「「百官人等」は目的語を動詞に先行させて記述したもので、主体はこの上に「天皇登幸葛城山之時」と記された雄略と理解される。」(298頁)として新訓を呈しているが、句末の「服」は通訓のとおりキルと訓まなければ、後文の「脱百官人等所服之衣服」の「脱」、一字目の「服」が活きてこない。そして、「著二紅紐一之青摺衣」の「衣」はソと訓む。特徴を一言で語っていて、一言主大神の話にふさわしい。
(注19)今泉2000.に、「このニホンオオカミは体が非常に小さく、大陸などのハイイロオオカミとはまったく別の種であり、オオカミというよりはむしろヤマイヌという名の方が適切な種名であるといわれることもある。かつては本州、四国、九州に広く分布したが、その生態に関してはほとんど不明のうちに絶滅している。世間一般に伝わる話から生態を類推すると、ニホンオオカミは昼間も活動する薄明性であり、二~三頭、とき五~六頭で小群を作り、人里にも堂々と姿を現し、飼い犬を攻撃する習性がある。岩の上などで遠吠えし、その声はきわめて恐ろしいものだった。そのときの声は、オス・メスとも「ウォーン」と張り上げ、中途から終わりにかけて、唸るように大きくなる。その唸り声はごく近距離だと障子などが震えるほど強かったという。ニホンオオカミはたくさんの個体が集まって大きな群れをなすこともあるらしいが、それでもその頭数は、おそらく一〇頭以下だっただろう。〝送りオオカミ〟の習性があり、人が縄張りの外に出るまで後をつけてくる(この場合、人が転ぶと襲いかかってくるので気をつけろと昔からいわれている)。ニホンオオカミの主食はシカで、群れで追いつめて捕食していたらしい。彼らの体色は周囲にとけ込むような色合いで、夏冬でそれぞれ目だたない毛色に変わった。山裾に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで三頭ほどの子どもを生む。しかしすべての子どもが親になったのではなく、シカの個体数につれてオオカミの数も年によって変化したらしい。」(272~273頁)とある。雄略天皇一行も、転ばないように注意して帰ってきたことであろう。
(注20)ツィーメン2007.に、「晩に観察を終えたあと、私はふたたびウマに乗って家に帰った。そのとき毎回必ずといってよいほどオオカミたちは、私が観察用の小屋と囲い地から数百メートル離れた小高い所まで到達する頃に遠吠えをした。」(108頁)とある。
(注21)古典集成本古事記に、「言霊信仰(善い言葉を発すればその言葉どおりに善い事が現れ、悪い言葉だとその逆になる、という言葉の呪力に対する信仰)に基づき、それを「一言」で言い放つ託宣の神である。」(248頁)とある。
(注22)書陵部本に両訓ある。書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266a(10/38)参照。
(注23)紀で神に送られた地点、「来目水」は、クメ(メは乙類)という語が枕詞ミツミツシがかかる点で、やはり繰り返し言葉である。拙稿「天の石屋(いわや)に尻くめ縄をひき渡す」参照。
記の「百官人等」の「百官」はモモノツカサ、「人等」はヒトドモ、ヒトラ、ヒトタチなどと訓まれている。繰り返し言葉が記にも好まれているとするなら、「百官(つかさつかさ)」の「人等(ひとびと)」といった訓み方が正しいであろう。
(注24)記の葛城之山の大猪の言い伝えは、雄略天皇が狩猟に行った時の話である。雄略紀五年二月条には、「天皇乃与二皇后一上レ車帰。」とあり、あくまでも話の上のことでは皇后とともに車に乗っている。ただし、芸文類聚にもとづく修文と考えられている。雄略朝において、本邦に馬車や牛車があったかさえわからない。記の記述に、「其束装之状及人衆、相似不レ傾」とあるのは、車の傾きのことではない。牛車が傾くとなるともはや進むことはない。山道だから輿に乗って担いでもらっている。天武天皇が壬申の乱に際して山越えをした時や、平安時代の熊野詣も同様であった。そんな輿において、担ぎ手がしっかりしていてけっして傾かないことを述べている。
紀では、「皇輿(すめらみこと)巡り幸(いでま)す。」(神武紀三十一年四月)とあるのは漢語の使い回しである。住んでいる御殿のことで大名などを「殿」と言ったように、乗っている乗り物のことで天皇を「皇輿」と記している。「自ら輿より堕ちて死(みまかり)ぬ。」(垂仁紀十五年八月)の場合は、竹野媛という女性の旅程であるが、話として確かに輿に乗っている。雄略天皇が葛城山に「鹵簿」を整えて行った際も輿に乗っていた。そう言えるのは、「不レ傾」をカタブカズと訓んでいて、カタ(肩)と同じ音で表されているからである。輿は肩に担がれた。平安時代になって、腰の部分に提げ持つ姿勢も加わったとされる。
輿は駕輿丁が肩に担いだ。職員令・令義解に、「主殿寮 頭一人。掌下供御輿輦〈謂。擧行曰レ輿。輓行曰レ輦也。〉……等事上。」とある。櫻井2011.参照。また、宮衛令に、「凡車駕出入。諸従レ駕人。当按次第。如二鹵簿図一。」とある。「車駕(きょが)」は行幸時の天子に対する尊称である。鹵簿図がどのようなものだったかは、令集解に、「穴云。儀制令唐答。鹵簿隊仗之名也。問。鹵簿図在二誰司一哉。答。不レ見レ文。臨時行幸之時。而諸司造耳。非。或云。師云。鹵簿図常可レ有。但在二其司一不レ見。同。但別司可レ有。在レ穴。」などとある。台記別記・巻五・仁平元年八月十日条の「行列図」には「御車」と記されており(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100151907/viewer/459参照)、牛車が描かれている。輿による行列は、年中行事絵巻、北野天神縁起、枕草子絵詞などに描かれている。
(注25)拙稿「ヤマトタケルノミコト論」参照。
(注26)書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266a(3/38)参照。
(注27)雄略天皇がカッとなったり即殺した例としては、「天皇、乃ち刀を抜きて斬りたまひつ。」(即位前紀)、「天皇、忿怒(みいかり)弥盛(いやさかり)なり。」(同)、「天皇、尚誅(みなころ)したまひつ。」(同)、「大きに怒りたまひて刀を抜きて御者(おほうまそひのひと)大津馬飼を斬りたまふ。」(二年十月)など多数描写されている。
(引用・参考文献)
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岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
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壬生1991. 壬生幸子「仁徳記・丸邇臣口子の青摺衣と「紅紐」の訓」『共栄学園短期大学研究紀要』第7号、1991年3月。file:///C:/Users/user/Downloads/KJ00000173301.pdf
毛利2014. 毛利正守「「うつしおみ」と「うつせみ・うつそみ」考」萬葉語学文学研究会編『萬葉語文研究』第10集、和泉書院、2014年。
有職故実大辞典 鈴木敬三編『有職故実大辞典』吉川弘文館、平成16年。
※本稿は、2017年10月稿を加筆、整理し、2021年2月に改稿したものである。
(English Summary)
There is an anecdote of “Fitökötönusi-nö-öꜰökamï” of Mt. Kadurakï in the articles of Emperor Yuryaku in Kojiki and Nihon Shoki. In this paper, I redefine the concept of the word “utusiömi” that appears there, and point out that its anecdote is described as a mirror image in video and audio. “Fitökötö” means one word or one matter, and “öꜰökamï” means deity or wolf in ancient Japanese, Yamatokotoba. And it can be understood that it is a narrative of the howling wolf's voice and their chorus “wo”, and one word “wo” is a particle indicating objectification in Yamatokotoba. So, “wo” makes the matter. How logical and philosophical it is. Yamatokotoba had copied the world, and Yamatokotoba had been equal to the world.
(注)
(注1)長野1998.に、「『古事記』がどうしてこの葛城山の説話を雄略記に記したかという、編者の意向は一向に見えてこず、その意図の根底にある『古事記』の理念も不明なままである。要するに、作品を全面的に解明するにはまだ至っていないと思われる。」(288頁)とある。
(注2)例えば、井上1985.は、「これは葛城氏がほろび、その祭祀権を皇室が奪ったことを意味する話ではあるまいか。」(70頁)とする。
(注3)例えば、長野1998.は、「雄略記の葛城山を二話一連とみたとき、第一話で葛城山の神を冒瀆して失敗した天皇が、第二話ではその神に畏敬の念を表して山入りし、逆に神の敬意を受けて両者が宥和した有様を語る説話だということになる。」(288頁)とする。
(注4)阿岐豆野と一回目の葛城之山の部分は次のとおりである。
即ち、阿岐豆野(あきづの)に幸(いでま)して、御獦(みかり)したまふ時に、天皇、御呉床(みあぐら)に坐(いま)す。爾くして𧉫(あむ)、御腕(みただむき)を咋(く)ふに、即ち蜻蛉(あきづ)来て、其の𧉫を咋ひて飛びき。是に御歌を作りたまふ。其の歌に曰はく、
み吉野の 小室(をむろ)が岳に 猪鹿(しし)伏すと 誰(たれ)そ 大前(おほまへ)に奏(まを)す やすみしし 我が大君の 猪鹿(しし)待つと 呉床(あぐら)に坐し 白栲(しろたへ)の 袖着そなふ 手腓(たこむら)に 𧉫かき着き 其の𧉫を 蜻蛉早咋ひ かくの如(ごと) 名に負はむと そらみつ 倭(やまと)の国を 蜻蛉島(あきづしま)とふ(記96)
故、其の時より、其の野を号けて阿岐豆野(あきづの)と謂ふ。
又、一時(あるとき)、天皇、葛城之山(かづらきのやま)の上に登り幸す。爾くして大き猪(ゐ)出づ。即ち、天皇、鳴鏑(かぶら)を以て其の猪を射たまふ時に、其の猪、怒(いか)りて、うたき依り来(く)。故、天皇、其のうたきを畏みて、榛(はり)の上に登り坐す。爾くして歌ひて曰はく、
やすみしし 我が大君の 遊ばしし 猪(しし)の 病み猪の うたき畏み 我が逃げ登りし 在(あ)り丘(を)の 榛の木の枝(えだ)(記97)
(注5)遠山1993.や青木2015.は賛同している。それに対して、大野1947.では、一言主大神という「「畏き大神が、現しき此の世の人の姿でいらつしやらうとは思ひもおかけ致しませんでした」と解すべきであつて、形見えざる筈の神自身が姿を現したが為にそれと知らず恐き無礼を働いたことに恐懼した言葉と解されるのである。」(56頁、漢字の旧字体は改めた。)としている。また、毛利2014.では、「「宇都志意美」とは、……主君に仕える現実の臣下という、一般的な人間としての臣下の謂いである」(27頁、傍線は省略した。)としている。
(注6)奥村1983.に、「「うつせみ」という言葉は、上代から「空蟬」とも表記されたが、勿論、蟬と関係もなく、万葉集の用例では、「現世」あるいは「現世の人」と解されるのが普通である。」(34頁)とある。
(注7)時代別国語大辞典に、「つがふ[番](動詞) 未詳。順序に従うなどの意か。」(460頁)としている。「医博士・易博士・暦博士等、番(つがひ)に依りて上(まうで)き下(まか)れ。」(欽明紀十四年六月)の例は、「交代制で勤仕すること。上下は参上退下。」(大系本日本書紀305頁)としている。日本国語大辞典(245頁)の説くように、ツガフはツギ(継)アフ(合)の約であろう。矢について使うのは、弓矢という武器は、矢を構えている時には敵は寄って来ないが、一度放たれて外れてしまうと無防備だから、矢継ぎ早につがえることが必要だからである。「いやつぎつぎに(弥継継)」という表現が万29・4098に見られるが、その的確性も指摘できる。
(注8)ポラニー1980.に、「暗黙知は、意味をともなった一つの関係を二つの項目のあいだにうちたてる。そこで、暗黙知とは、この二つの項目の協力によって構成されるある包括的な存在を理解することである、と考えられる。」(28頁)とある。ヤマトコトバは言=事であるとする(筆者の言う)言霊信仰に成り立てようとしていた。そのため、記紀の諸説話は、一つのことがらについてまるで辞書を繰り続けるようにぐずぐずと dwell on していくような筆致で記されている。一般には言葉に依ることのできないとされる暗黙知の領域まで言葉にしてしまおうと試行していた形跡のように見受けられる。後述するように、擬声語から感動詞、助詞へと言葉が展開しつつ言葉の原義を意識の俎上に据えたままにしている。包括的な存在をひっくるめて理解することを自ずと促すように導く特性を、ヤマトコトバは内に含んでいたのである。
(注9)白川1995.の「よ〔代・世・齢(齡)〕」の項に、「「節(よ)」と同根の語で、一くぎりの時間を意味する。また人の生きる世間、その世間のさまをいう。ヨは乙類。」(783頁)とある。節(よ)の具体物は、竹の節(ふし)のことであるが、古語の「節(よ)」という語は、ふしくれだって太くなっている部分を指してみたり、その間のまっすぐに伸びている部分を指してみたり、両刀遣いである。人生の時間をヨ(代・世・齢)とする考えからすれば、節(ふし)と節(ふし)との一区切りのまっすぐに伸びている部分とみる見方が妥当と思われながらも、なお深い意味を含有したものなのかもしれない。すなわち、竹を割った時に互いがぴったりと合わさる点、割符として利用されるほどの写像性を、ヨ(乙類)という語は表そうとしたのではないか。
(注10)岩波古語辞典に、枕詞ウツセミノについて、「奈良時代には、はかないという意味は必ずしも持っていなかったが、平安時代以降は、蟬のぬけがらの意と解したので、はかないという意味になった。」(173頁)とある。蝉の抜け殻を鋳型とする考え方から、直截的にはかないという意味は生まれない。
(注11)塚口2014.に、「以上を要約すると、木霊(こだま)(山彦)を念頭に置いて作られたと思われる『記』の雄略天皇と葛城一言主大神に関する話は、雄略朝における大王と葛城地方の土着勢力との関係を象徴的に語っているものと考えられるのである。」(113頁)とある。木霊・山彦の話はあくまでも木霊・山彦の話(咄・噺・譚)であり、話のどこにも土着勢力葛城氏の姿は見えない。象徴的な物語を仕立てる理由も見当たらず、まして無文字時代に象徴的な思考は具体的な象徴性、トーテミズム以外に考えにくい。文字という記号を持たなければ、象徴的な思考は保ちがたいからである。近接する日本書紀に、他の氏の人はふつうに登場しており、葛城氏ばかり名を伏せる理由も見当たらない。
(注12)山彦をテーマにした話には、すでにヤマトタケルノミコトの名前譚がある。拙稿「ヤマトタケルノミコト考」参照。
(注13)藤澤2016.に、「[古事記で]「大神」とされる神は、極めて丁重な扱いを要求し、王権全体に影響を及ぼすほどの力を持った神であるといえよう。」(97頁)とある。古事記が「大神」との間で王権にまつわりトラブルになっているのか、筆者の認識の及ぶところではない。
アラヒトカミ(ヒは甲類、トは乙類、ミは乙類)については、「現人之神」(雄略紀)のほかに、日本武尊の記述として、蝦夷(えみし)の賊首(ひとごのかみ)とのやりとりで、「吾は是、現人神(あらひとかみ)の子なり。」(景行紀四十年是歳)と宣言している。同じくタケルと名づけられた皇族であり、どちらも会話文の中の主張である。狼のような残虐性を持っていたことを示している。景行記に、倭建命が若くして小碓命(をうすのみこと)と呼ばれていたころ、天皇から兄の大碓命(おほうすのみこと)が朝夕の食膳に出てこないことを懇ろに「ねぎ」して諭すように言われ、手足をもぎ取る意の「ねぎ」して殺してしまったとある。また、アラヒトカミは、万葉集にも例がある。
…… 懸(か)けまくも ゆゆし恐(かしこ)し 住吉(すみのえ)の 荒人神(あらひとがみ) 船(ふな)の舳(へ)に 領(うしは)き給ひ 着き給はむ ……(万1020・1021)
住吉の神が現人神である由縁は、仲哀記に、「亦、底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神ぞ。〈此の時に、其の三柱の大神の御名は顕れき。〉」とあるのによるのであろう。神さまの方から名前を名告って顕現している点は、一言主大神に同じである。航海の神様は、海の上面だけでなく、中ほどや底の部分にも存在しているとしている。隅から隅まで遍在している点から、スミノエという地名によくマッチしている。海の荒れる時とは、表面に波が立つばかりでなく、中層、底層と、隅から隅まで海水が大きく動き流れまわる。そういう大変危険な側面を持っているのが、海の神、「墨江大神」(仲哀記)であり、それは荒天時で、どす黒い、墨を磨った時の色をしている。海の潮が船体を洗うのが海の神の洗礼ということである。よって、ヤマトコトバにおいて、スミノエという場所に、アラヒ(洗、ヒは甲類)+ト(処、トは乙類発祥)+カミ(神)は現れている。和名抄に、「現人神 日本紀私記に云はく、現人神〈阿良比度加美(あらひとかみ)〉といふ。」とある。
(注14)「相似」は、古訓にタウバレリとある。前田本(写、京都大学付属図書館蔵、京都大学貴重資料デジタルアーカイブhttps://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013274#?c=0&m=0&s=0&cv=36&r=0&xywh=1400%2C1010%2C1361%2C275(37/99))、書陵部本(書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266a(10/38))参照。新編全集本日本書紀に、「面貌容儀、天皇に相似れり。」と記の訓に近づけた新訓を施しているが、記とは文脈が異なる。その点は、藤澤2016.が、「[『古事記』]で雄略が一言主之大神と初めて遭遇した時、天皇と一言主之大神の行列が「相似不レ傾」と記されている。一方、『日本書紀』では天皇と一事主神の容貌が「相以[ママ]」とある。」(97頁)と指摘している点である。そこでは、紀が天皇と一事主神の個対個レベルであるのに対して、記では王権全体の権威レベルで対峙しているとしている(98頁)。
(注15)托鉢の姿は早く絵因果経に描かれているが、言葉としては「乞食」として記される例が古い。葛城の一言主神は、早い時代から役小角と関連づけられて語られるようになっている。外来宗教との因縁から偏って解釈されていったようである。永藤1994.参照。
(注16)尾崎1966.に、「束装」のことを「当時の官人の美装である。」(699頁)とする。新編全集本古事記347頁、中西2007.433頁、藤澤2016.98頁も古代の官人の格式ばった正装であると考えている。
(注17)裲襠は、養老令では、衣服令・武官礼服に「繍(ぬひもの)の裲襠(りゃうとう)加へよ。」とあって、義解に「謂。一片当レ背。一片当レ胸。故曰二裲襠一也。」とあり、つづく朝服に、「〈会集(ゑしふ)等の日には、錦の裲襠、赤き脛巾(はばき)加へよ。……〉」とある。延喜式では、神祇二・四時祭下・鎮魂祭に「帔(うちかけ)一条〈帛二丈〉」、縫殿寮・鎮魂祭服に「緋(あけ)の帔(うちかけ)四条〈緋の表、帛の裏、別(でうごと)に一丈五尺〉」、同・正月斎会衆僧法服に「深紫の羅の帔(うちかけ)二条〈別に一丈六尺〉」とあり、金剛寺本傍注に「如二被物一云々。」と記される。また、斎院司・人給料に、「赤紫の絹四疋〈……一疋三丈は同じき袷の襠(うちかけ)の料、各九尺〉」などとあり、いずれも袖なしの貫頭衣スタイルの上着である。他の衣類に助数詞は「領」であるが、ウチカケ(帔・襠)は一筋のものを表す「条」となっている。縫い合わせてネックラインを作るのではなく、穴をあけていた。
左:武官の礼服、右:舞楽の裲襠(関根正直・装束図解、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1190523/97~98をトリミング、モノクロ加工等)
(注18)続紀には、「辛卯に、葛井・船・津文・武生・蔵の六氏の男女二百三十人、歌垣に供奉す。其の服は並びに青摺(あをずり)の細布(ほそぬの)の衣を着、 紅(あけ)の長紐を垂れ、男女相並び、行(つら)を分けて徐(しづか)に進む。歌ひて曰く、
乙女(をとめ)らに 男(をとこ)立ち添ひ 踏み平(なら)す 西の都は 万代(よろづよ)の宮(続紀6)(辛卯、葛井・船・津文・武生・蔵六氏男女二百三十人、供二-奉歌垣一。其服並着二青摺細布衣一、垂二紅長紐一、男女相並、分レ行徐進。……)」(続日本紀・宝亀元年三月)とある。
歌垣のときに着す特徴的な衣類である。歌垣の歌に、「大君の 御帯(みおび)の倭文織(しつはた) 結び垂れ 誰(たれ)やし人も 相思はなくに」(紀93歌謡)とある倭文織は、本邦に旧来からの織り方であるとされている。弥生時代から続く衣類は貫頭衣であり、袖なしで幅の狭いものに適合する。ヤマトコトバに「衣(そ、ソは甲類)」という。古式ゆかしい姿をとどめていることを強調するために、「紅紐」はクレナヰノヒモではなく、アケノヒモと訓むべきであろう。
正倉院に残る半臂については、背縫いされているものばかりで貫頭衣とは言えない。紐(緒)を垂らしているものとして検討した。「忘緒」は後世の命名である。貫頭衣形式のものとしては正倉院に布衫の例がある。関根1974.参照。
新校古事記に、「「百官人等」は目的語を動詞に先行させて記述したもので、主体はこの上に「天皇登幸葛城山之時」と記された雄略と理解される。」(298頁)として新訓を呈しているが、句末の「服」は通訓のとおりキルと訓まなければ、後文の「脱百官人等所服之衣服」の「脱」、一字目の「服」が活きてこない。そして、「著二紅紐一之青摺衣」の「衣」はソと訓む。特徴を一言で語っていて、一言主大神の話にふさわしい。
(注19)今泉2000.に、「このニホンオオカミは体が非常に小さく、大陸などのハイイロオオカミとはまったく別の種であり、オオカミというよりはむしろヤマイヌという名の方が適切な種名であるといわれることもある。かつては本州、四国、九州に広く分布したが、その生態に関してはほとんど不明のうちに絶滅している。世間一般に伝わる話から生態を類推すると、ニホンオオカミは昼間も活動する薄明性であり、二~三頭、とき五~六頭で小群を作り、人里にも堂々と姿を現し、飼い犬を攻撃する習性がある。岩の上などで遠吠えし、その声はきわめて恐ろしいものだった。そのときの声は、オス・メスとも「ウォーン」と張り上げ、中途から終わりにかけて、唸るように大きくなる。その唸り声はごく近距離だと障子などが震えるほど強かったという。ニホンオオカミはたくさんの個体が集まって大きな群れをなすこともあるらしいが、それでもその頭数は、おそらく一〇頭以下だっただろう。〝送りオオカミ〟の習性があり、人が縄張りの外に出るまで後をつけてくる(この場合、人が転ぶと襲いかかってくるので気をつけろと昔からいわれている)。ニホンオオカミの主食はシカで、群れで追いつめて捕食していたらしい。彼らの体色は周囲にとけ込むような色合いで、夏冬でそれぞれ目だたない毛色に変わった。山裾に広がるススキの原などにある岩穴を巣とし、そこで三頭ほどの子どもを生む。しかしすべての子どもが親になったのではなく、シカの個体数につれてオオカミの数も年によって変化したらしい。」(272~273頁)とある。雄略天皇一行も、転ばないように注意して帰ってきたことであろう。
(注20)ツィーメン2007.に、「晩に観察を終えたあと、私はふたたびウマに乗って家に帰った。そのとき毎回必ずといってよいほどオオカミたちは、私が観察用の小屋と囲い地から数百メートル離れた小高い所まで到達する頃に遠吠えをした。」(108頁)とある。
(注21)古典集成本古事記に、「言霊信仰(善い言葉を発すればその言葉どおりに善い事が現れ、悪い言葉だとその逆になる、という言葉の呪力に対する信仰)に基づき、それを「一言」で言い放つ託宣の神である。」(248頁)とある。
(注22)書陵部本に両訓ある。書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266a(10/38)参照。
(注23)紀で神に送られた地点、「来目水」は、クメ(メは乙類)という語が枕詞ミツミツシがかかる点で、やはり繰り返し言葉である。拙稿「天の石屋(いわや)に尻くめ縄をひき渡す」参照。
記の「百官人等」の「百官」はモモノツカサ、「人等」はヒトドモ、ヒトラ、ヒトタチなどと訓まれている。繰り返し言葉が記にも好まれているとするなら、「百官(つかさつかさ)」の「人等(ひとびと)」といった訓み方が正しいであろう。
(注24)記の葛城之山の大猪の言い伝えは、雄略天皇が狩猟に行った時の話である。雄略紀五年二月条には、「天皇乃与二皇后一上レ車帰。」とあり、あくまでも話の上のことでは皇后とともに車に乗っている。ただし、芸文類聚にもとづく修文と考えられている。雄略朝において、本邦に馬車や牛車があったかさえわからない。記の記述に、「其束装之状及人衆、相似不レ傾」とあるのは、車の傾きのことではない。牛車が傾くとなるともはや進むことはない。山道だから輿に乗って担いでもらっている。天武天皇が壬申の乱に際して山越えをした時や、平安時代の熊野詣も同様であった。そんな輿において、担ぎ手がしっかりしていてけっして傾かないことを述べている。
紀では、「皇輿(すめらみこと)巡り幸(いでま)す。」(神武紀三十一年四月)とあるのは漢語の使い回しである。住んでいる御殿のことで大名などを「殿」と言ったように、乗っている乗り物のことで天皇を「皇輿」と記している。「自ら輿より堕ちて死(みまかり)ぬ。」(垂仁紀十五年八月)の場合は、竹野媛という女性の旅程であるが、話として確かに輿に乗っている。雄略天皇が葛城山に「鹵簿」を整えて行った際も輿に乗っていた。そう言えるのは、「不レ傾」をカタブカズと訓んでいて、カタ(肩)と同じ音で表されているからである。輿は肩に担がれた。平安時代になって、腰の部分に提げ持つ姿勢も加わったとされる。
輿は駕輿丁が肩に担いだ。職員令・令義解に、「主殿寮 頭一人。掌下供御輿輦〈謂。擧行曰レ輿。輓行曰レ輦也。〉……等事上。」とある。櫻井2011.参照。また、宮衛令に、「凡車駕出入。諸従レ駕人。当按次第。如二鹵簿図一。」とある。「車駕(きょが)」は行幸時の天子に対する尊称である。鹵簿図がどのようなものだったかは、令集解に、「穴云。儀制令唐答。鹵簿隊仗之名也。問。鹵簿図在二誰司一哉。答。不レ見レ文。臨時行幸之時。而諸司造耳。非。或云。師云。鹵簿図常可レ有。但在二其司一不レ見。同。但別司可レ有。在レ穴。」などとある。台記別記・巻五・仁平元年八月十日条の「行列図」には「御車」と記されており(国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100151907/viewer/459参照)、牛車が描かれている。輿による行列は、年中行事絵巻、北野天神縁起、枕草子絵詞などに描かれている。
(注25)拙稿「ヤマトタケルノミコト論」参照。
(注26)書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430004/3945aff6b628401fb9b609e5baac266a(3/38)参照。
(注27)雄略天皇がカッとなったり即殺した例としては、「天皇、乃ち刀を抜きて斬りたまひつ。」(即位前紀)、「天皇、忿怒(みいかり)弥盛(いやさかり)なり。」(同)、「天皇、尚誅(みなころ)したまひつ。」(同)、「大きに怒りたまひて刀を抜きて御者(おほうまそひのひと)大津馬飼を斬りたまふ。」(二年十月)など多数描写されている。
(引用・参考文献)
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有職故実大辞典 鈴木敬三編『有職故実大辞典』吉川弘文館、平成16年。
※本稿は、2017年10月稿を加筆、整理し、2021年2月に改稿したものである。
(English Summary)
There is an anecdote of “Fitökötönusi-nö-öꜰökamï” of Mt. Kadurakï in the articles of Emperor Yuryaku in Kojiki and Nihon Shoki. In this paper, I redefine the concept of the word “utusiömi” that appears there, and point out that its anecdote is described as a mirror image in video and audio. “Fitökötö” means one word or one matter, and “öꜰökamï” means deity or wolf in ancient Japanese, Yamatokotoba. And it can be understood that it is a narrative of the howling wolf's voice and their chorus “wo”, and one word “wo” is a particle indicating objectification in Yamatokotoba. So, “wo” makes the matter. How logical and philosophical it is. Yamatokotoba had copied the world, and Yamatokotoba had been equal to the world.