湯原王の鳴く鹿の歌一首〔湯原王鳴鹿歌一首〕
秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声の遥けさ〔秋芽之落乃乱尓呼立而鳴奈流鹿之音遥者〕(万1550)
鉄野2011.の訳ならびに「鑑賞」をあげる。
秋萩が華やかに散り乱れている辺りで、妻を呼び立てて鳴く鹿の声の、なんと遥かなことよ。
萩と鹿とは夫婦一対のように見なされることが多い。この鹿は散り行く秋萩を惜しんで鳴くのであろうか。その声の「遥けさ」に、この歌の抒情の焦点がある。この語によって、 周囲の静けさが表され、空間が情趣に満たされる。視覚による近景(萩)と聴覚による遠景(鹿鳴)。遠近法によって、風景が立体的に構成されている……。遥かに聞こえてくる音に対する関心は、やはり「地は迥かにして遥蟬を聞く」(斉・謝眺「張斉興に答ふ」詩)といった六朝・初唐詩に喚起されたのであろう。鹿鳴は『毛詩』(小雅)に詠われているが、その後の詩には余り見えない。この歌は日本的な景物を、漢詩的な描写法で捉えたものといえよう。湯原王は、詩の方法を摂取した先駆者として、大伴家持に影響を与えたと見られる点でも注目される(注1)(注2)。(105頁)
的外れな解釈である。
文法的に、「鳴くなる鹿の」の「なる」は伝聞が表すことは指摘のとおりである。一方、「散りのまがひに」の助詞「に」は、「散り乱れる時にの意。」(稲岡2002.340頁)ではなく、動作の状態を表す用法である。
時雨の雨 間なくな降りそ 紅に にほへる山の 散らまく惜しも(万1594)
ゆくりなく 今も見が欲し 秋萩の しなひにあらむ 妹が姿を(万2284)
天廻む 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く(記83)
慣用句として用いられている言葉づかいが「散りのまがひ」や「声の遥けさ」に見られる。
…… 大船の 渡の山の 黄葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず ……(万135)
世間は 数なきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば(万3963)
夏山の 木末の繁に 霍公鳥 鳴き響むなる 声の遥けさ(万1494)
今夜の おほつかなきに 霍公鳥 鳴くなる声の 音の遥けさ(万1952)
慣用表現を並べて湯原王は何を詠おうとしているのか。
秋の萩の花が散りまがうような状態に、雌鹿を呼び立てて鳴くという牡鹿の声は、遥かなるものであると歌っている。
この意が何を意味するのか理解されるに至っていない。なのに、名歌と評されている。
秋萩に絡めて鹿の鳴く声の遥かなことを歌っている。この「秋萩」という語の使い方は万葉歌に特有のものである。
吾妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを〔吾妹兒尓戀乍不有者秋芽之咲而散去流花尓有猿尾〕(万120)
ズハについて、上代の特殊用法などと誤解されている。「は」の前で表している内容は、「は」の後で表している内容と同じことである。たまたま、「は」の前で表している内容に「ず」が含まれている。ただそれだけなのだから、PデナイノハQデアル、つまり、~P≒Qとでも書ける様相を呈している。
「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「(花にあらませば)秋萩の咲きて散りぬる花にあらまし」ヲ
彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に自分が花であるとしたら、秋のハギが咲いて、散ってしまった、その花であったらよいのになあ、というのと同じことである、という意味である。
花のなかには椿の花のように花の形をとどめたままに散るものもあるし、蓮の花びらのように散華として手厚く思われるものもある。ソメイヨシノの散る様子を花吹雪として愛でることもある。しかし、一般には、散ってしまった花は見る影もないものが多い。とりわけ萩は花びらが小さく、塵くずのように見える。そんな萩を「秋萩」として歌に採用している。アキハギ(キは甲類、ギは乙類)という言葉(音)は、ハ(葉)とキ(木、キは乙類)(ハギで濁音化)がアキ(飽、キは甲類)てしまった様子を示しているように聞こえる。つまり、散ってしまったあの小さな花弁は、ハ(葉)ギ(木)に飽きられて捨てられた残骸である。花のなかでも恋を表す点では最低、最悪の花、それが「秋萩の咲きて散りぬる花」である。そんな最低、最悪の花になりたいわけはなく(反実仮想)、彼女に恋しつづけると宣言している。PでないのハQであるモノヲ、という論理式風の構文に作っているわけである(注3)。
アキハギ
湯原王の万1550番歌では、そんな秋萩が散りまがうという。ハ(葉)とキ(木)にアキ(飽)られてどこへ行ったかわからない散り方をしている。ちょうど同じように、鹿が異性を呼んで鳴く声が入り乱れていて、それらの声は遠いところから聞こえている。雌鹿に飽きられた牡鹿は、心理的に遠いところにあり、物理的にも遠いところにいるのがふさわしい。
遠いところから未練がましく鳴いている。どんなふうに聞こえたら一番その状態をよく表すか。
鳴く牡鹿には角がある。秋になって角が立派になった頃、発情期を迎えて盛んに鳴く。体格がよく角が立派で力の強い牡鹿一頭が十頭ほどの雌鹿を囲うハーレムを形成する。まれに他の強い牡鹿にハーレムごと乗っ取られることもあるが、弱い牡鹿は近づこうとしてはすぐに撃退されている。実際に繁殖するに当たっては、牡鹿一頭が種付けするのには肉体的にも時間的にも限度があり、周囲にいた牡鹿が隙を見て抜け駆け的に子孫を残すことも多いと言われている。それでも、十頭以上の雌鹿を一頭が牛耳っているように観察される。すなわち、他の牡鹿は離れたところでむなしく鳴き声をあげていることになる。
牡鹿には角がある。異名をカセギというのは、先の分かれた角の様子が糸をかけて巻くのに使う桛によく似ているからである。遥か遠くからカセを頭に着ける鹿の鳴く声が聞こえている。声は風に乗って届いているようなものである。カセ(桛)とカゼ(風)の洒落、ヤマトコトバの概念体系に確かなことを述べている。頓智の効いた歌いっぷりである。遠い所からいくつもの声が同時に聞こえてきている。一つ一つを聞き分けることができずにまがうことになっている。秋萩の花が散ってしまい、もとどこについていた花弁なのかさっぱりわからず、まがうのと同じだというわけである。
一頭しかハーレムのボスにはなれないから、多くの牡鹿が鳴く声は重なり合って何を言っているのか聞き分けられず、まがうものとなっている。何と言っているのかはっきり聞き取れない声を表すには、「云々いへり。」(注4)という言い方をした。言葉を表わす際に省略するやり方だが、何と言っているのかわからないながらも発言は確かにあったという場合にも用いられる。ハーレムに近寄れずに遠くから鳴いて呼び掛けるばかりのたくさんの牡鹿の声は、「云々いへり。」でまさに合っている。鹿だけにシカシカ言っているというのである。
湯原王はアキハギという言葉に興趣を感じ、繁殖期の鹿のハーレムのあり様を理解しつつ、群れに近寄れない発情期の牡鹿の鳴き声について秋萩になぞらえる形で歌を詠んでいる。ヤマトコトバのおもしろさに感じ入って、なぞなぞのような歌に仕上げている。既存のヤマトコトバを既存のヤマトコトバによって循環的に解説しておもしろがっている。ヤマトコトバを使って知恵の輪を作っている。それ以上のこともそれ以外のことも、何も足し引きしていない。つまりは、この歌には叙景も抒情もない。地口的技巧によって作られた歌、今日の評価基準でいえばくだらない歌である。ヤマトコトバとはいかなる言語体系か、その点を抜きにして万葉びとの心に近づくことはできない。
萩と鹿の組み合わせは萩の花の咲き散るのと鹿の繁殖期とが秋という季節で合致することはするのであるが、それは単に条件であって、頓智的言葉遊びにかなうことをもって、興趣をそそって多用されるに至ったものである。古典文学で常套的に組み合わせられているのは、その極意が不明になって以降に伝統化していったものである。
(注)
(注1)ほかにも、中西2019.に、「鳴く鹿をよんだものだが、すでに秋萩は視野をまぎらして散りつづけている。その中で鳴く鹿は、姿を明瞭にしがたいのだが、さらに鹿は声だけだという。そして声は遙けきそれであるという。すべては分明でない。しかしそれは 朦朧と霞みこめて不分明なのではない。……王の歌に現れる動物は……すべて鳴き声だけで、姿は一つも歌われていない。王は清らかな物を見る目を持っていたと同時に、鋭敏な聴覚の所有者だったのである。」(219~220頁) とされている。
(注2)鉄野氏は、「万葉集に歌を収める貴族たちにとって漢詩漢文は第一の教養としてあった。何より彼らがかかわる律令制による統治体制がそれをもとめた。 万葉集を可能にした、歌を文字で記し、それを歌集としてまとめるという営み自体、漢詩漢文の教養がなければできないものである。 彼らの漢詩作の一端は『懐風藻』などの漢詩集に見ることができる。万葉集でも漢詩や漢文による序が、とくに山上憶良、大伴旅人・家持にかかわる巻五、十七~十九に見られる。そうした教義の基盤の上に彼らは歌を構想し、表現を模索したのである。」(105頁)と、万葉集作歌の背景に漢詩文があると決めつけているが、防人歌や東歌を並列させて一つの歌集「万葉集」として編むものだろうか。漢詩文の教養をひけらかしたければ漢詩を披露する機会があるのだからそこですればいい。
人間の思考は母語に基づいて形成される。懐風藻にも万葉集の漢詩文風な序も、はたまた記紀の表記においても、倭習とも呼ばれるエセ漢文が記されている。中国人にわからせるために書記されているのではなく、ヤマトの人たちがどうやって母語を表記したらいいか、模索の過程でさまざまな方法をとり、副産物、派生物としていろいろな形となったと考えるのが妥当である。今日のように外国の文化、特に欧米の文化を受け容れてそれを基にしたテーマパークで楽しんでいても、一般に日常会話を英語で交わしているわけではない。会社でも海外事業を除けば、英語が公用語化されるケースはきわめて稀である。通じ合わなければ共同作業にならない。万葉集でも歌の作者がいくら漢詩文を勉強して表現の幅を広げてみせたところで、相手に通じなければ話にならない。だからそのようなことはせず、慣用表現を組み合わせて少しアレンジして、聞き手の誰もがなるほどと思えるようなものを思案して歌としていた。舎人や采女が聞いているところでウケない歌を詠んだりはしないものである。飛鳥・奈良時代の歌びとは、学校の教室でウケない講義を続けるほど感覚が鈍麻してはおらず、また、万葉集は講義ノートでもない。
(注3)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」についてhttps://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7d5cf1b67913a2b256382737e8b8d4b3参照。
ハの前の文で「つつ」とある。二つながらにあることを示している。PハQ、と助詞ハでつながっているから、ハの後の文でも、「咲きて」と「散りぬる」にきちんと照応させてある。あるいはまた、「は(葉)」と「ぎ(木)」でもあり、「はぎ(萩)」=「は(葉)」+「ぎ(木)」と「花」とでもあるのだろう。正確な言葉遊びの才覚を駆使しながら、否定と否定とを両立させる高等表現を展開している。
(注4)「策して曰はく、「咨、爾軽皇子」と云々のたまふ。〔策曰咨爾軽皇子云々〕」(孝徳前紀)のような例が日本書紀に見える。
(引用・参考文献)
鉄野2011. 鉄野昌弘「湯原王」神野志隆光監修『別冊太陽 日本のこころ180 万葉集入門』平凡社、2011年4月。
中西2019. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち』KADOKAWA、令和元年。(『万葉の歌びとたち 万葉読本2』1980年。)
秋萩の 散りのまがひに 呼び立てて 鳴くなる鹿の 声の遥けさ〔秋芽之落乃乱尓呼立而鳴奈流鹿之音遥者〕(万1550)
鉄野2011.の訳ならびに「鑑賞」をあげる。
秋萩が華やかに散り乱れている辺りで、妻を呼び立てて鳴く鹿の声の、なんと遥かなことよ。
萩と鹿とは夫婦一対のように見なされることが多い。この鹿は散り行く秋萩を惜しんで鳴くのであろうか。その声の「遥けさ」に、この歌の抒情の焦点がある。この語によって、 周囲の静けさが表され、空間が情趣に満たされる。視覚による近景(萩)と聴覚による遠景(鹿鳴)。遠近法によって、風景が立体的に構成されている……。遥かに聞こえてくる音に対する関心は、やはり「地は迥かにして遥蟬を聞く」(斉・謝眺「張斉興に答ふ」詩)といった六朝・初唐詩に喚起されたのであろう。鹿鳴は『毛詩』(小雅)に詠われているが、その後の詩には余り見えない。この歌は日本的な景物を、漢詩的な描写法で捉えたものといえよう。湯原王は、詩の方法を摂取した先駆者として、大伴家持に影響を与えたと見られる点でも注目される(注1)(注2)。(105頁)
的外れな解釈である。
文法的に、「鳴くなる鹿の」の「なる」は伝聞が表すことは指摘のとおりである。一方、「散りのまがひに」の助詞「に」は、「散り乱れる時にの意。」(稲岡2002.340頁)ではなく、動作の状態を表す用法である。
時雨の雨 間なくな降りそ 紅に にほへる山の 散らまく惜しも(万1594)
ゆくりなく 今も見が欲し 秋萩の しなひにあらむ 妹が姿を(万2284)
天廻む 軽の嬢子 甚泣かば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下泣きに泣く(記83)
慣用句として用いられている言葉づかいが「散りのまがひ」や「声の遥けさ」に見られる。
…… 大船の 渡の山の 黄葉の 散りのまがひに 妹が袖 さやにも見えず ……(万135)
世間は 数なきものか 春花の 散りのまがひに 死ぬべき思へば(万3963)
夏山の 木末の繁に 霍公鳥 鳴き響むなる 声の遥けさ(万1494)
今夜の おほつかなきに 霍公鳥 鳴くなる声の 音の遥けさ(万1952)
慣用表現を並べて湯原王は何を詠おうとしているのか。
秋の萩の花が散りまがうような状態に、雌鹿を呼び立てて鳴くという牡鹿の声は、遥かなるものであると歌っている。
この意が何を意味するのか理解されるに至っていない。なのに、名歌と評されている。
秋萩に絡めて鹿の鳴く声の遥かなことを歌っている。この「秋萩」という語の使い方は万葉歌に特有のものである。
吾妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを〔吾妹兒尓戀乍不有者秋芽之咲而散去流花尓有猿尾〕(万120)
ズハについて、上代の特殊用法などと誤解されている。「は」の前で表している内容は、「は」の後で表している内容と同じことである。たまたま、「は」の前で表している内容に「ず」が含まれている。ただそれだけなのだから、PデナイノハQデアル、つまり、~P≒Qとでも書ける様相を呈している。
「吾妹子に恋ひつつあらず」ハ「(花にあらませば)秋萩の咲きて散りぬる花にあらまし」ヲ
彼女に対して恋しつづけないということは、どういうことかというと、もし仮に自分が花であるとしたら、秋のハギが咲いて、散ってしまった、その花であったらよいのになあ、というのと同じことである、という意味である。
花のなかには椿の花のように花の形をとどめたままに散るものもあるし、蓮の花びらのように散華として手厚く思われるものもある。ソメイヨシノの散る様子を花吹雪として愛でることもある。しかし、一般には、散ってしまった花は見る影もないものが多い。とりわけ萩は花びらが小さく、塵くずのように見える。そんな萩を「秋萩」として歌に採用している。アキハギ(キは甲類、ギは乙類)という言葉(音)は、ハ(葉)とキ(木、キは乙類)(ハギで濁音化)がアキ(飽、キは甲類)てしまった様子を示しているように聞こえる。つまり、散ってしまったあの小さな花弁は、ハ(葉)ギ(木)に飽きられて捨てられた残骸である。花のなかでも恋を表す点では最低、最悪の花、それが「秋萩の咲きて散りぬる花」である。そんな最低、最悪の花になりたいわけはなく(反実仮想)、彼女に恋しつづけると宣言している。PでないのハQであるモノヲ、という論理式風の構文に作っているわけである(注3)。
アキハギ
湯原王の万1550番歌では、そんな秋萩が散りまがうという。ハ(葉)とキ(木)にアキ(飽)られてどこへ行ったかわからない散り方をしている。ちょうど同じように、鹿が異性を呼んで鳴く声が入り乱れていて、それらの声は遠いところから聞こえている。雌鹿に飽きられた牡鹿は、心理的に遠いところにあり、物理的にも遠いところにいるのがふさわしい。
遠いところから未練がましく鳴いている。どんなふうに聞こえたら一番その状態をよく表すか。
鳴く牡鹿には角がある。秋になって角が立派になった頃、発情期を迎えて盛んに鳴く。体格がよく角が立派で力の強い牡鹿一頭が十頭ほどの雌鹿を囲うハーレムを形成する。まれに他の強い牡鹿にハーレムごと乗っ取られることもあるが、弱い牡鹿は近づこうとしてはすぐに撃退されている。実際に繁殖するに当たっては、牡鹿一頭が種付けするのには肉体的にも時間的にも限度があり、周囲にいた牡鹿が隙を見て抜け駆け的に子孫を残すことも多いと言われている。それでも、十頭以上の雌鹿を一頭が牛耳っているように観察される。すなわち、他の牡鹿は離れたところでむなしく鳴き声をあげていることになる。
牡鹿には角がある。異名をカセギというのは、先の分かれた角の様子が糸をかけて巻くのに使う桛によく似ているからである。遥か遠くからカセを頭に着ける鹿の鳴く声が聞こえている。声は風に乗って届いているようなものである。カセ(桛)とカゼ(風)の洒落、ヤマトコトバの概念体系に確かなことを述べている。頓智の効いた歌いっぷりである。遠い所からいくつもの声が同時に聞こえてきている。一つ一つを聞き分けることができずにまがうことになっている。秋萩の花が散ってしまい、もとどこについていた花弁なのかさっぱりわからず、まがうのと同じだというわけである。
一頭しかハーレムのボスにはなれないから、多くの牡鹿が鳴く声は重なり合って何を言っているのか聞き分けられず、まがうものとなっている。何と言っているのかはっきり聞き取れない声を表すには、「云々いへり。」(注4)という言い方をした。言葉を表わす際に省略するやり方だが、何と言っているのかわからないながらも発言は確かにあったという場合にも用いられる。ハーレムに近寄れずに遠くから鳴いて呼び掛けるばかりのたくさんの牡鹿の声は、「云々いへり。」でまさに合っている。鹿だけにシカシカ言っているというのである。
湯原王はアキハギという言葉に興趣を感じ、繁殖期の鹿のハーレムのあり様を理解しつつ、群れに近寄れない発情期の牡鹿の鳴き声について秋萩になぞらえる形で歌を詠んでいる。ヤマトコトバのおもしろさに感じ入って、なぞなぞのような歌に仕上げている。既存のヤマトコトバを既存のヤマトコトバによって循環的に解説しておもしろがっている。ヤマトコトバを使って知恵の輪を作っている。それ以上のこともそれ以外のことも、何も足し引きしていない。つまりは、この歌には叙景も抒情もない。地口的技巧によって作られた歌、今日の評価基準でいえばくだらない歌である。ヤマトコトバとはいかなる言語体系か、その点を抜きにして万葉びとの心に近づくことはできない。
萩と鹿の組み合わせは萩の花の咲き散るのと鹿の繁殖期とが秋という季節で合致することはするのであるが、それは単に条件であって、頓智的言葉遊びにかなうことをもって、興趣をそそって多用されるに至ったものである。古典文学で常套的に組み合わせられているのは、その極意が不明になって以降に伝統化していったものである。
(注)
(注1)ほかにも、中西2019.に、「鳴く鹿をよんだものだが、すでに秋萩は視野をまぎらして散りつづけている。その中で鳴く鹿は、姿を明瞭にしがたいのだが、さらに鹿は声だけだという。そして声は遙けきそれであるという。すべては分明でない。しかしそれは 朦朧と霞みこめて不分明なのではない。……王の歌に現れる動物は……すべて鳴き声だけで、姿は一つも歌われていない。王は清らかな物を見る目を持っていたと同時に、鋭敏な聴覚の所有者だったのである。」(219~220頁) とされている。
(注2)鉄野氏は、「万葉集に歌を収める貴族たちにとって漢詩漢文は第一の教養としてあった。何より彼らがかかわる律令制による統治体制がそれをもとめた。 万葉集を可能にした、歌を文字で記し、それを歌集としてまとめるという営み自体、漢詩漢文の教養がなければできないものである。 彼らの漢詩作の一端は『懐風藻』などの漢詩集に見ることができる。万葉集でも漢詩や漢文による序が、とくに山上憶良、大伴旅人・家持にかかわる巻五、十七~十九に見られる。そうした教義の基盤の上に彼らは歌を構想し、表現を模索したのである。」(105頁)と、万葉集作歌の背景に漢詩文があると決めつけているが、防人歌や東歌を並列させて一つの歌集「万葉集」として編むものだろうか。漢詩文の教養をひけらかしたければ漢詩を披露する機会があるのだからそこですればいい。
人間の思考は母語に基づいて形成される。懐風藻にも万葉集の漢詩文風な序も、はたまた記紀の表記においても、倭習とも呼ばれるエセ漢文が記されている。中国人にわからせるために書記されているのではなく、ヤマトの人たちがどうやって母語を表記したらいいか、模索の過程でさまざまな方法をとり、副産物、派生物としていろいろな形となったと考えるのが妥当である。今日のように外国の文化、特に欧米の文化を受け容れてそれを基にしたテーマパークで楽しんでいても、一般に日常会話を英語で交わしているわけではない。会社でも海外事業を除けば、英語が公用語化されるケースはきわめて稀である。通じ合わなければ共同作業にならない。万葉集でも歌の作者がいくら漢詩文を勉強して表現の幅を広げてみせたところで、相手に通じなければ話にならない。だからそのようなことはせず、慣用表現を組み合わせて少しアレンジして、聞き手の誰もがなるほどと思えるようなものを思案して歌としていた。舎人や采女が聞いているところでウケない歌を詠んだりはしないものである。飛鳥・奈良時代の歌びとは、学校の教室でウケない講義を続けるほど感覚が鈍麻してはおらず、また、万葉集は講義ノートでもない。
(注3)拙稿「万葉集「恋ひつつあらずは」の歌について─「ズハ」の用法を中心に─」についてhttps://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/7d5cf1b67913a2b256382737e8b8d4b3参照。
ハの前の文で「つつ」とある。二つながらにあることを示している。PハQ、と助詞ハでつながっているから、ハの後の文でも、「咲きて」と「散りぬる」にきちんと照応させてある。あるいはまた、「は(葉)」と「ぎ(木)」でもあり、「はぎ(萩)」=「は(葉)」+「ぎ(木)」と「花」とでもあるのだろう。正確な言葉遊びの才覚を駆使しながら、否定と否定とを両立させる高等表現を展開している。
(注4)「策して曰はく、「咨、爾軽皇子」と云々のたまふ。〔策曰咨爾軽皇子云々〕」(孝徳前紀)のような例が日本書紀に見える。
(引用・参考文献)
鉄野2011. 鉄野昌弘「湯原王」神野志隆光監修『別冊太陽 日本のこころ180 万葉集入門』平凡社、2011年4月。
中西2019. 中西進『新装版 万葉の歌びとたち』KADOKAWA、令和元年。(『万葉の歌びとたち 万葉読本2』1980年。)