用明前紀に、酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)が伊勢神宮で日神の祭祀に奉仕した記事が載る。そのなかで、「見二炊屋姫天皇紀一。」とありながら、実際に炊屋姫天皇(かしきやひめのすめらみこと)の紀、すなわち、推古紀を探すと不明であるとされている。
九月の甲寅の朔にして戊午に、天皇、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。磐余(いはれ)に宮つくる。名けて池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と曰ふ。蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)を以て大臣(おほおみ)とし、物部弓削守屋連(もののべのゆげのもりやのむらじ)を大連(おほむらじ)とすること、並に故(もと)の如し。壬申に、詔して曰へらく、云々(しかしかのたまふ)。酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)を以て、伊勢神宮(いせのかむみや)に拝(め)して、日神(ひのかみ)の祀(まつり)に奉(つかへまつ)らしむ。是の皇女(ひめみこ)、此の天皇の時(みとき)より炊屋姫天皇(かしきやひめのすめらみこと)の世(みよ)に逮(およ)ぶまでに、日神の祀に奉る。自ら葛城(かづらき)に退(しりぞ)きて薨(みう)せましぬ。炊屋姫天皇の紀(みまき)に見ゆ。或本(あるふみ)に云はく、三十七年の間、日神の祀に奉る。自ら退きて薨せましぬといふ。
元年の春正月の壬子の朔に、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后(きさき)とす。是四(よたり)の男(ひこみこ)を生(あ)れます。其の一を厩戸皇子と曰す。更(また)の名(みな)は豊耳聡聖徳。或いは豊聡耳法大王と名く。或いは法主王と云ふ。是の皇子、初め上宮(かみつみや)に居(ましま)しき。後に斑鳩に移りたまふ。豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)の世(みよ)に、東宮(みこのみや)に位居(ましま)し、万機(よろづのまつりごと)を総摂(ふさねかは)りて天皇事(みかどわざ)行(し)たまふ。語(こと)は豊御食炊屋姫天皇の紀に見ゆ。其の二を来目皇子と曰し、其の三を殖栗皇子と曰し、其の四を茨田皇子と曰す。蘇我大臣稲目宿禰の女(むすめ)石寸名(いしきな)を立てて嬪(みめ)とす。是田目皇子を生めり。更の名は豊浦皇子。葛城直磐村(かづらきのあたひいはむら)が女(むすめ)広子、一の男、一の女(ひめみこ)を生めり。男を麻呂子皇子と曰し、此当麻公の先(おや)なり。女を酢香手姫皇女と曰し、三代(みつのよ)を歴(へ)て日神に奉れり。(用明前紀~元年正月)
記事に、酢香手姫皇女と厩戸皇子のことは推古紀にも記されているから「見」るといいと書いてある。そして、推古紀のほうには、厩戸皇子の事績は推古紀に記されているが、酢香手姫皇女のことは推古紀のどこを探しても見つからない(注1)。日本書紀の編纂作業に杜撰なところがあったのではないかとも推測されている。しかし、よく読んでみるとそうではない。
酢香手姫皇女については、分注の箇所に、「見二炊屋姫天皇紀一。」とあり、厩戸皇子については、本文に、「語見二豊御食炊屋姫天皇紀一。」とある。大きな違いがある。分注か本文かの違いではなく、「語(こと)」という字が入るか入らないかの違いである。「於二豊御食炊屋姫天皇世一、位二-居東宮一。総二-摂万機一、行二天皇事一。」という「語」は推古紀に書いてある。一方、「自二此天皇時一、逮二乎炊屋姫天皇之世一、奉二日神祀一。自退二葛城一而薨。」の「語」は書いていないけれど見ようと思えば見えるのである、と言っている。厩戸皇子の方は事績として書かないわけにはいけないほどのものがあるから推古紀に書いてあるが、酢香手姫皇女の方は、「自退二葛城一而薨。」という程度のことは、事(「語」)立てて記すほどのことではない。推古紀に酢香手姫皇女の「自退二葛城一而薨。」にかかわる記述としては、亡くなったとされる葛城の地にまつわる話が載っている。曰くありげな記事である。
冬十月の癸卯の朔に、大臣、阿曇連名を闕(もら)せり。・阿倍臣摩侶、二(ふたり)の臣(まへつきみ)を遣(まだ)して、天皇(すめらみこと)に奏(まを)さしめて曰(まを)さく、「葛城県(かづらきのあがた)は、元(もと)臣(やつかれ)が本居(うぶすな)なり。故(かれ)、其の県に因りて姓名(かばねな)を為せり。是を以て、糞(ねが)はくは、常(ときは)に其の県を得(たまは)りて、臣が封県(よさせるあがた)とせむと欲(ねが)ふ」とまをす。是に、天皇、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「今朕(われ)は蘇何(そが)より出でたり。大臣は亦朕が舅(をぢ)たり。故、大臣の言(こと)をば、夜に言(まを)さば夜も明さず、日(あした)に言さば日も晩(くら)さず、何(いづれ)の辞(こと)をか用ゐざらむ。然るに今朕が世にして、頓(ひたふる)に是の県を失ひてば、後の君の曰はまく、『愚(おろか)に痴(かたくな)しき婦人(めのこ)、天下(あめのした)に臨(きみとしのぞ)みて頓に其の県を亡(ほろぼ)せり』とのたまはむ。豈(あに)独り朕不賢(をさなき)のみならむや。大臣も不忠(つたな)くなりなむ。是後の葉(よ)の悪しき名ならむ」とのたまひて、聴(ゆる)したまはず。(推古紀三十二年十月)
大臣の蘇我馬子が、天皇の直轄領である葛城県を割譲して欲しいと言ってきたが、天皇は拒絶したという記事である。史実としてはそれだけのことである。しかし、馬子が葛城県をねだる理由として挙げているのは、第一にもともと自分の「本居(うぶすな)」が葛城県であるからという点と、それによって「姓名(かばねな)」となっているからという点であるとしている。
「本居」は、蘇我氏が葛城氏と同族であるからという主張、または、蘇我馬子が葛城県で育ったからということと考えられている。古墳の発掘など、蘇我氏の古跡地として考古学調査は進んでいる。一方、「姓名」については、聖徳太子伝暦に、「葛城寺〈又名二妙安寺一賜二蘓我葛城臣一〉」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544997/30)とあって、蘇我氏の「姓名」がすでにそのように呼称されていた形跡があるとされている。しかし、紀に、「蘇我葛城臣」と記されているわけではない。歴史学に、蘇我氏と葛城氏に深い繋がりがあると考える向きがあるが、氏の話ではなく、「姓名」の話である(注2)。蘇我馬子の「姓(かばね)」は何か。「蘇我馬子宿禰」という表記が多く、先代も「蘇我稲目宿禰」と言っている。「宿禰」というのは姓ではなく単なる尊称とされている。オホエ(大兄)に対するスクネ(スクナ(少)+エ(兄)の約)の意と考えられている。覇を競っていた相手方は、「物部弓削守屋連」(用明前紀)と記されている。「蘇我臣」(欽明紀十六年二月)という記述も見られはするが、舒明紀以降にならないと個別名に現れない。舒明紀以降、「蘇我蝦夷臣」(舒明前紀)、「蘇我倉麿呂臣」(舒明前紀)、「蘇我臣蝦夷」(皇極紀元年正月)、「蘇我臣入鹿」(皇極元年七月)、「蘇我倉山田石川麻呂臣」(孝徳前紀)、「蘇我臣日向」(孝徳紀大化五年三月)、「蘇我赤兄臣」(斉明紀四年十一月)などと一般化している。もともと人名に添えた尊称であった「宿禰」の名称は、天武朝に設けられた八色(やくさ)の姓(かばね)の第三位に位置づけられている。蘇我馬子の姓が何であったか、クエスチョンマークが付く(注3)。
「姓名」という用字は、紀にほかに5例ある。
仰ぎて君の容(みかほ)を視(み)れば、人倫(ひと)に秀(すぐ)れたまへり。若(けだ)し神か。姓名(みな)を知(うけたまは)らむ。(景行紀四十年是歳)
上古(いにしへ)治(くにをさ)むること、人民(おほみたから)所を得て、姓名(かばねな)錯(たが)ふこと勿(な)し。(允恭紀四年九月)
今欲(ねが)はくは、吾と礼(ゐやまひ)を以て問(とひ)答ふべき者(ひと)の姓名(うぢな)年(とし)位(くらゐ)を早く知らむ。(欽明紀十四年十月)
時に飢者(うゑたるひと)、道の垂(ほとり)に臥(こや)せり。仍りて姓名(かばねな)を問ひたまふ。而(しか)るに言(まを)さず。(推古紀二十一年十二月)
相模国司(さがむのくにのみこともち)布勢朝臣色布智等(ふせのあそみしこふちら)・御浦郡少領(みうらのこほりのすけのみやつこ)姓名(うぢな)を闕(もら)せり。と、赤烏(あかきからす)獲たる者鹿嶋臣櫲樟(かしまのおみくす)、位(くらゐ)及び禄(もの)賜ふ。(持統紀六年七月)
古代にウヂ(氏)とは、血縁関係のつながりにある一族が、大王への貢納奉仕を前提に他と区別するために唱える名称のことである。中村2009.は、「政治組織であり、王権との政治的関係を指標するものである、という考えが通説的な立場であろう。」(5頁)とする(注4)。一方、カバネ(姓)とは、古代の豪族の社会的政治的な上下を示すために用いられた世襲の称号のことで、臣(おみ)・連(むらじ)・造(みやつこ)・君(きみ)・首(おびと)など数十種がある。中村2009.は、「姓は氏の体(テイ・体裁や性格などの意)を示すもの……[で]姓は氏の職掌・出自・本拠地・格などを総合して賜与されたもので」(7頁)であるとしている。
「姓名」と書いてカバネナと訓む例は、允恭紀の盟神探湯、推古紀の片岡山の聖、そして蘇我馬子の発言させた3例に限られる。ウヂナと訓んでいるウヂは、血縁関係のつながりにある一族が、大王への貢納奉仕を前提に他と区別するために唱える名称で、王権との政治的関係を指標するものである。漢字と訓みとは一対一対応ではなかったから、ウヂは氏とばかり記されているわけではないのである。姓=カバネ、氏=ウヂというように一対一対応ではない理由は、ヤマトコトバの表記術として創成期であったから、模索が(つい最近に至るまで)続いていたということであり、それを誤字であると考えるのは、学習指導要領のようなものに管理化されているにすぎない。
景行紀、允恭紀、欽明紀の例は、蘇我馬子が人を派遣して陳情している際と同じように、会話文中の発語としてある。固有名詞のナ(名)とは呼ばれるもの、呼ばれてはじめてあるものだから、会話文中にあってこそ本領を発揮する。
「姓名」をカバネナと訓むのは次の例である。允恭紀では、氏姓制度が混乱しているからそれを正そうとする政策であった。姓を偽って自分を高い地位の人物であるかのように装う人がいて混乱を来していた。そこで熱湯に手を入れさせて嘘をつくのをやめさせようとしたのである。盟神探湯(くかたち)として知られる。推古紀では、太子が片岡に遊行してそこで出会った食べ物に困っている人物に、どこの誰かを尋ねる場面である。雰囲気に高貴さが感じられたらしく、どれほどの格式にある人物か知りたくて姓を聞いている。聖が聖を知るという話として知られている。
それ以外の、 景行紀の例では、蝦夷の賊首(ひとごのかみ)が日本武尊の王船の威勢に怖れをなして聞いてきている。蝦夷の人たちに、姓という考え方はなかったと考えられ(注5)、ただ名前を聞いているはずだからミナ(御名)と言っている。
欽明紀の例は、高麗(こま)に侵入した百済の王子余昌のもとへ、高麗側の兵士が訪れ、姓名、年齢、位を聞いている。「姓名年位」とあるから、「位」が大化前代の臣・連・造などに当たり、「姓名」はウヂナのことであろうとわかる。
持統紀の例は、御浦郡少領(みうらのこほりのすけのみやつこ)という役職はわかっているが、誰だか名が記録されていないということである。国司や当の赤烏の発見者の名は知れているが、それを取り次いだ郡司次官の名前は記録されていなかったということであろう。それが誰なのかを知るのに、下級官吏のカバネなど問題にならないから、「姓名」はウヂナのことであろうと理解される(注6)。
以上の例から、「姓名」をカバネナと訓む場合、きちんとカバネ(姓)とナ(名)の二つの要素を示しているものである。蘇我馬子のカバネは、「蘇我臣」などと仮に通称されていたとするのであれば、「蘇我臣」である。「其の県に因りて姓名(かばねな)を為せり。」とあるのは、葛城県にちなんで、カバネを「蘇我臣」とし、ナを「馬子」とし、その両方が成り立っているという意味である。蘇我葛城臣という言い方が当時からあったとしてもカバネの説明ばかりであって、ナについては触れていない。
「馬子」という名が「葛城県」に因るものであるとはどういうことか。言い伝えに、「葛城」は、一言主大神(一事主神)の顕現したところである。雄略天皇の時代のことである。狩りに行く天皇の行列を鏡に映したようなものが現れ、問答を交わしている。連なる行列のツラツラな面貌を面白がった話であった。一言主大神は、狼のようにヲと遠吠えし、天皇のほうはソと馬追いの声を発していた(注7)。
このような説話が飛鳥時代の人々、とりわけヤマト朝廷のなかで共通認識として記憶されていたとすれば、葛城というところは、馬追いと関係する場所、すなわち、馬子がいるはずのところであることが人々に浸透していたであろう。そして、それは確かなことである。なぜなら、無文字文化のなかに暮らしており、その言語活動は、記紀に記され残っている逸話の体系が前提となっていたからである。そうでなければ、当時、人間の知は組み立てられていないことになり、社会も国家も成り立つべくもない。
つまり、葛城に起因して「馬子」という名はできている。「蘇我馬子」という氏名全体についても、馬追いから生まれたものと認めることができる。「蘇我(そが、ソは甲類)」のソ(甲類)は馬追いの声である。つまり、ソ(馬追いの声)+ガ(連体助詞)+ウマコ(馬子)である。循環論法の強調表現としての論理術が語られている。ここで、蘇我馬子は、自らが「蘇我臣馬子」であることを説明するのに、端的に一言で言えば、ソであることを語っている。 一言主大神の逸話そのままに、ソの一言を発して彼は自らがウツシオミであると説いている。「現(うつ)し臣」として推古朝に現在しており、一言主大神の逸話を写して推古天皇の「写(うつ)し臣」となっていると論じている(注8)。
「馬子」という名が本当のところ何によって成っているかは問題ではない。蘇我馬子がそう主張して、推古天皇はその意を理解している。天皇の言葉に、「今朕則自二蘇何一出之、大臣亦為二朕舅一也。故大臣之言、夜言矣夜不レ明、日言矣則日不レ晩、何辞不レ用。然今朕之世、頓失二是県一、後君曰、愚疾婦人臨二天下一以頓亡二其県一。豈独朕不レ賢耶、大臣亦不レ忠。是、後葉之悪名。」とある。夜に聞いたら夜中じゅう、朝聞いたら昼間じゅう考えて、蘇我馬子の言葉の真意を政治政策に用いなかったことはなかったと言っている。なぜ夜に言ったことを一晩じゅう、朝に聞いたことを昼の間じゅう考えなければならないのか。それは、一言主大神の逸話さながらに、蘇我馬子が一言でずばりと発言していたからであろう。その一言の真意をよくよく考えるのに時間がかかった。よくよく考えれば、なるほどその通りだと思わないことはなかったと言っている。
今回の申し入れも、謂わんとしていることがわからないわけではない。一見その通りに見えるけれど、葛城県を割譲したら後世、愚かな女帝であったと評価されるし、それは大臣をしている蘇我臣にとっても不忠者と呼ばれることになると言っている。なぜといって、次世代に、次の大臣として、馬子の子の蘇我臣蝦夷に任ずることを予定していてそうした時、もはや「姓名」において「葛城」とのつながりはない。蝦夷は不忠者であるとされるがそれで宜しいか、と天皇は言っている。馬子自身の主張に、自分をウツシオミであると言っており、オミとは伝えていく人、「使主(おみ)」の意も含まれ(注8)、次代へと伝えることが内包されている。そこに矛盾が露呈することになる。だから許すことはなかった。
この記事は、ひるがえって、葛城という地についての情報を提供することになっている。そこは、一言主大神と因縁浅からぬ伝承地であり、切っても切り離せない地名を負っているという点である。本稿は、酢香手姫皇女についての用明前紀の分注に、「見二炊屋姫天皇紀一。」とある記述を追っている。彼女は、用明天皇と葛城直磐村の娘の広子との間に生まれている。そして、用明・崇峻・推古の三代の天皇の時期に長く伊勢神宮で日神の祀に奉仕していた。老いて任にかなわないと悟り、自ら葛城の地に隠居している。生まれ故郷だからである。故郷のことは、古語に「本居(うぶすな)」である。蘇我馬子も「本居」が葛城県だと言っていたが、よく斎宮の任にたえた酢香手姫皇女が人生の最後の時間を「本居」で過ごしたという重みにはかなわない。
そのことは酢香手姫皇女という名に明らかである。スカテと聞けば、文字を持たなかった当時の人たちには、ス(酢)+カテ(合・揉)と聞こえたであろう。酢の物、酢の和え物のことである。
酢 本草に云はく、酢酒、味は酸し、温に毒無し〈酢は倉故反、字は亦、醋に作る、須(す)、音は素官反〉といふ。陶隠居に曰く、俗に呼びて苦酒〈今、鄙語に酢を加良佐介(からさけ)と謂ふは此の類也と案ふ〉と為(す)といふ。(和名抄)
醤酢(ひしほす)に 蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて 鯛(たひ)願ふ 吾(われ)にな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの)(万3829)
大坂(おほさか)に 継(つ)ぎ登れる 石群(いしむら)を 手逓伝(たごし)に越さば 越しかてむかも(紀19)
敷栲(しきたへ)の 衣手(ころもで)離(か)れて 玉藻なす 靡(なび)きか寝(ぬ)らむ 吾(わ)を待ちがてに(万2483)
韲 四声字苑に云はく、韲〈即嵆反、訓は安不(あふ)、一に阿倍毛乃(あへもの)と云ふ〉は薑蒜を擣(つ)き醋を以て之を和すといふ。(和名抄)
秋去れば 置く露霜に 堪(あ)へずして 都の山は 色づきぬらむ(万3699)
白川1995.に、「かつ〔勝(〓(勝の旧字))・克〕 四段。敵の攻撃に堪えて、現状を守りつづける意。克くするの意から、敵にうち勝つ意となった。……「かて」に「難」の字をあてるのは、「かて」を「難し」の意に解したものであろうが、「かて」は可能を表わす「かつ」の未然形。「かてに」は「かてぬ」「あへぬ」の意であり、勝はその正訓の字である。」(234頁)、「あふ〔敢・堪〕 下二段。「合ふ」と同根の語。ことの推移に合せて、適合するように行動する、そのことによく対処して、ことを行なうことをいう。打消しや疑問・反語の形をとり、不可能や困難であることを示すことが多い。」(82頁)とある。酢の和え物については、正倉院文書に索餅(むぎなは)の例が示されている。今日に、冷やし中華に酢をかけて食べることをイメージすれば良いのではないか(注9)。酢糟で茄子を漬けたとも見える。
索餅の酢の韲(冷やし中華、市販の生中華麺(太麺)を撚って製作)
つまり、飛鳥時代に酢香手姫皇女という人物は、山椒は小粒でもぴりりと辛い存在として名をとどろかせていたのである。浮かれることのない人生をよく我慢し、斎宮としての祭祀を全うした。それは、蘇我氏の威圧に対しても堪えることを意味し(注10)、天皇家の現状を守り通している。重鎮として隠然たる勢力を誇っていた蘇我馬子でも、酸っぱいものを食らい、苦虫を噛み潰したような顔をしたことであろう。
一言主大神はオホカミであり、それに対した雄略天皇はウツシオミであると述べられていた。日神の祭祀とは天照大御神(天照大神)(あまてらすおほみかみ)の祭祀である。天皇家の祖先崇拝がもとである。酢香手姫皇女は、天皇家にとって大切な祭祀を長期間つつがなく行ってくれていた。オホミカミに対した彼女こそ、本物の立派なウツシオミであった。そんな彼女の祖父は葛城直磐村であった。蘇我臣と葛城直との家格の違いや、葛城氏が当時どのような事情であったのかなど、論理展開において露ほども問題とならない。人々の思考は言語の上に築かれる。蘇我臣馬子と自称する大臣の論理展開もそのヤマトコトバに負っていた。酢香手姫皇女と葛城の地のことを考えるなら、蘇我馬子宿禰改め、蘇我臣馬子(蘇我馬子臣)という姓名だからとむざむざ天皇家から離すことはできない。そういう思考回路を示すべく、「見二炊屋姫天皇紀一。」ときちんと記されている。
日本書紀は、文字は漢字を用いて文体は漢文表記に倣っているが、ヤマトコトバで書かれている。無文字時代の思考をよみがえらせるためには、漢字の字面をただ追っていくだけでは駄目である。近世、近代の日本書紀研究には、漢文漢籍の姿に惑わされてその出典を探ることに興味が注がれてきた側面があり、それはそれで成果を上げてきたものの、その先に、当時ヤマトに暮らした人々の思考や思想の跡を見出すことはできない。日本書紀を研究して何を得ようとしているのか、その本来の目的が問われるところである。日本書紀は、まだまだ読めていないところが多い。
(注)
(注1)諸解説に推古紀に見えないとされているのはふつうなのであるが、井上1987.に、「現在の『書紀』には該当記事がない。」(410頁)とし、当初あった記事が削除されたかのように述べられている。テキストの解説書にこのようにあると、議論好きな輩は暴論を吐いてしまう。
(注2)津田1930.は、「「葛城県者元臣之本居也、故因其県為姓名、」は甚だ解し難い文字である」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041707/88、漢字の旧字体は改めた。)として検討を加えているが、結局、要領を得ずに今日に至っている。
(注3)管見であるが、歴史学に、蘇我氏がいつからオミ(臣)になったかこだわる見解は見られない。なお、姓については、拙稿「カバネ(姓)雑考」参照。
(注4)本居宣長・古事記伝の見解に見るべきものがあるとして引いているのでここに記しておく。
さて古は氏々の職業各定まりて、世々相継て仕ヘ奉りつれば、其職即其家の名なる故に、【氏々の職業は、もと其先祖の徳功に因リてうけたまはり仕奉るなれば、是も賛たる方にて名なり、】即其職業を指ても名と云り、さて其は其家に世々に伝はる故に其名即又姓の如し、されば名々と云は職々にて即此も氏々と云にひとしきなり、……可婆禰と云は、宇遅を尊みたる号にして即宇遅をも云り、……又朝臣宿禰など、宇遅の下に著て呼ふ物をも云り、此は固賛尊みたる号なり、又宇遅と朝臣宿禰の類とを連ねても加婆禰と云り、【藤原朝臣大伴宿禰などの如し、】されば宇遅と云は、源平藤原の類に局り、【朝臣宿禰の類を宇遅と云ることは無し、】加婆禰と云は、宇遅にも朝臣宿禰の類にも、連て呼ふにも亘る号なり、……加婆禰に姓字は、当る処と当らぬ処とあり、(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/394~395、漢字の旧字体は改めた。)
なお、古事記伝には、蘇我氏についての記述もある。
○蘇賀石河宿禰、蘇賀は、居地名にして、神名帳に大和国高市郡、宗我坐宗我都比古神社あり、此地なり、万葉十二二十七丁に、真菅吉宗我乃河原とよめるも、此処なり、……書紀推古巻に、蘇我馬子大臣、令レ奏二于天皇一日、葛城県者、元臣之本居也、故因二其県一、為二姓名一云々、【因ニ其県一為二姓名一と云ること、心得ず、皇極紀に、蘇我蝦蛦大臣、祖廟を葛城高宮に立し事もあり、】とあるを以見れば、蘇賀は、葛城郡にあるべきが如くなれど、今も曾我村高市郡に在リて、葛城下郡の堺に近ければ、古は此あたりまで、葛城県の内にもや有けむ、石河は、和名抄に、河内国石川【以之加波】郡これなり、三代実録三十二に、石川朝臣木村言、始祖大臣武内宿禰男、宗我石川、生二於河内国石川別業一、故以二石川一為レ名、賜二宗我大家一為レ居、因賜二姓宗我宿禰一云々、【賜二姓宗我宿禰一と云は、誤なり、此時宿禰は、たゞ名に附たる称にこそあれ、姓に附たる加婆泥には非ず、
……(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/576、漢字の旧字体は改めた。)
(注5)当時のヤマトの人の考え方に、蝦夷に王権はなく、ただ群れ集って暮らしているだけの部族社会であると考えられていたのかを定めることは困難であるが、クラストル1989.参照。
(注6)紀のカバネナ記事としては、ほかに「姓字」と記されたものがある。「奉(たてまつ)る娘子(をみな)は誰そ。姓字(かばねな)を知らむと欲(おも)ふ。」(允恭紀七年十二月)、「是の日、大舎人(おほとねり)姓字(かばねな)を闕(もら)せり。驟(はし)りて天皇に言(まを)して曰さく、……」(雄略前紀)の二例である。允恭紀の例は、皇后の妹の姫君を後宮に入れさせようとするもので、由緒ある家柄の娘子に限って答えさせようとする天皇の物言いとしてカバネナという訓みが正しい。雄略前紀の例は、雄略天皇の即位に関して重要な役目を果たしているから、天皇から姓(かばね)を賜っていておかしくないとの判断が背景にあると考えられる。ほかに「姓字」とあるものに、「寐驚(みゆめさ)めて使(つかひ)を遣して普(あまね)く求むれば、山背国の紀郡(きのこほり)の深草里(ふかくさのさと)より得つ。姓字(うじな)、果して所夢(みそなは)ししが如し。」(欽明前紀)と、「姓字」をウヂナと訓んでいる。夢で見た人物は「秦大津父(はだのおほつち)」という人で、ウヂが「秦」、ナが「大津父」であったからである。
(注7)拙稿「一言主大神について」参照。
(注8)蘇我馬子宿禰ではなく蘇我臣馬子であると言っている。允恭天皇代の盟神探湯(くかたち)に値する詐称である。 この点を含めて後世、不忠者と呼ばれるであろうと推古天皇は諭しているのかもしれないが、姓についてはルーズな点が多く、また、大臣(おほおみ)に就いている時点で「臣」であったも同然であると考えられていたかもしれない。
(注9)正倉院文書に次のように見える。
酢三斗〈五月十一日請〉/用四斗三升〈一斗三升乗用〉/八升供時々索餅韲料/三斗五升経師装潢一千一百六十七人料〈人別三夕〉(宝亀二年五月二十九日)(東京大学史料編纂所・大日本古文書https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0006/0183?m=all&s=0135&n=20(183/606))
酢壱瓺弐斛捌斗肆升伍合/二斗八升〈七月三日請〉/二斛五斗六升五合〈以同月十二日請瓺納米二斛八斗五升〉得汁〈斛別九斗〉/用六斗七升九合五夕/五斗九升九合五夕〈経師一千十三人装潢一百八十六人并一千一百九十九人料人別五夕〉/八升〈供勘経僧并経師装潢等時々索餅韲料〉/残二斛一斗六升五合五夕
酢糟七斗/七月中請〈二斗三日五斗十二日〉/用尽/三斗漬茄子一十三斛四斗六升料/二斗〈自進五百十六人仕丁四百九人并九百廿五人料人別二夕〉/二斗依臰不用(神護景雲四年九月二十九日)(同上(93~94/606))
また、延喜式・大膳司式に、「……右十一月一日より来年十月三十日に迄、供御料。女孺(めのわらは)女丁(にょてい)を率(ゐ)て、内膳司に向ひ、司と与(とも)に料理(つく)り、日別(ひごと)に供(くう)ぜよ。但し韲(あへもの)は内膳儲(ま)け備へよ。手束(たづか)の索餅(むぎなは)の料、小麦十七斛七斗〈御(おん)並びに中宮、各八石八斗五升〉、粉米五石三斗一升、紀伊の塩八斗九升、醤(ひしほ)、未醤(みそ)各一斛四斗二升六合、酢七斗一升二合、薪(みかまき)日毎に三十斤〈主計寮より請けよ〉。……」(分量が違うだけなので前段と後段をカットした。)とある。
索餅は、和名抄に、「索餅 釈名に云はく、蝎餅・髄金餅・索餅〈無岐奈波(むぎなは)、大膳式に手束索餅は多都加(たづか)と云ふ〉は皆、形に従ひて之を名く。」とある。麺をよじるかもじるかして、スープが絡みやすくなっている。
(注10)推古紀三十二年十月条の記事自体を、逆賊蘇我氏の専横を示すために捏造されたものとする説もあるが、そのようなことがあるとは考えられない。なぜなら日本書紀を編纂した当時、それは天武天皇の詔に「令レ記二‐定帝紀及上古諸事。」(天武紀十年二月)と記されている時期であるが、ヤマトの言語体系は無文字時代の言霊信仰に負っていたと考えられるからである。筆者は言霊信仰という言葉を、巷間に通説として使われる誤用とは異なり、言葉と事柄とが必ず一致するように目指していたことを示すものとして述べている。文字がない時代に、言葉を事柄と一致させなければ、ないしは、一致させるように鋭意努めなければ、世界はカオスに陥ってしまう。基本姿勢として人々が皆守るようにしていたから、それはひとつの信仰と呼んでふさわしい。デュルケーム1971.が、近代社会において、人格と個人の尊厳性へ畏敬を払うことは、新たな宗教と呼べるものであると捉えたことと等価にあたる表現である。
今日の情報化社会においては、技術の進展に伴い、文字、音声、映像のすべてを遠隔、かつ広範に、さらに加工まで加えて伝播することができるようになり、フェイクニュースが拡散されている。対するに古代においては、言葉(音声言語)ばかりを人づてに伝えていくしか伝達手段を持たなかった。伝える人がきちんと理解して言葉を選んで伝え、受け取る人はその言葉をひとつひとつ納得することでようやく伝達が可能となる。納得感が十分に得られなければ情報は安定せず、次に伝わることがない。もはや伝達は起こらず、言葉は消え、すべては失せる。切迫感が違うのである。
(引用・参考文献)
井上1987. 井上光貞『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
クラストル1989. ピエール・クラストル著、渡辺公三訳『国家に抗する社会―政治人類学研究―』書肆風の薔薇発行、白馬書房発売、1987年。原著 Clastres, Pierre, La Société contre l'État. Recherches d’anthropologie politique, Paris: Editions de Minuit, 1974.
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
津田1930. 津田左右吉『日本上代史研究』岩波書店、昭和5年。
デュルケーム1971. エミール・デュルケーム著、田原音和訳『社会分業論』青木書店、1971年。(筑摩書房 (ちくま学芸文庫)、2017年所収。)原著 Durkheim, Émile, De la division du travail social. Étude sur l’organisation des sociétés supérieures, Paris: Presses universitaires de France, 1893.
中村2009. 中村友一『日本古代の氏姓制』八木書店、2009年。
(English Summary)
In the volume of Emperor Yōmei of Nihon Shoki, there is an article about Princess Sukateꜰime-nö-ꜰimemiko serving at the Ise Jingu Shrine. In it, it was written that "we are able to see the same content in the volume of Queen Suiko", but it was actually not found in it. However, if we look closely, we will find it in it. Now, we will understand what is written there, thoroughly examining the ancient Japanese, Yamato‐kotoba.
九月の甲寅の朔にして戊午に、天皇、即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。磐余(いはれ)に宮つくる。名けて池辺双槻宮(いけのへのなみつきのみや)と曰ふ。蘇我馬子宿禰(そがのうまこのすくね)を以て大臣(おほおみ)とし、物部弓削守屋連(もののべのゆげのもりやのむらじ)を大連(おほむらじ)とすること、並に故(もと)の如し。壬申に、詔して曰へらく、云々(しかしかのたまふ)。酢香手姫皇女(すかてひめのみこ)を以て、伊勢神宮(いせのかむみや)に拝(め)して、日神(ひのかみ)の祀(まつり)に奉(つかへまつ)らしむ。是の皇女(ひめみこ)、此の天皇の時(みとき)より炊屋姫天皇(かしきやひめのすめらみこと)の世(みよ)に逮(およ)ぶまでに、日神の祀に奉る。自ら葛城(かづらき)に退(しりぞ)きて薨(みう)せましぬ。炊屋姫天皇の紀(みまき)に見ゆ。或本(あるふみ)に云はく、三十七年の間、日神の祀に奉る。自ら退きて薨せましぬといふ。
元年の春正月の壬子の朔に、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を立てて皇后(きさき)とす。是四(よたり)の男(ひこみこ)を生(あ)れます。其の一を厩戸皇子と曰す。更(また)の名(みな)は豊耳聡聖徳。或いは豊聡耳法大王と名く。或いは法主王と云ふ。是の皇子、初め上宮(かみつみや)に居(ましま)しき。後に斑鳩に移りたまふ。豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのすめらみこと)の世(みよ)に、東宮(みこのみや)に位居(ましま)し、万機(よろづのまつりごと)を総摂(ふさねかは)りて天皇事(みかどわざ)行(し)たまふ。語(こと)は豊御食炊屋姫天皇の紀に見ゆ。其の二を来目皇子と曰し、其の三を殖栗皇子と曰し、其の四を茨田皇子と曰す。蘇我大臣稲目宿禰の女(むすめ)石寸名(いしきな)を立てて嬪(みめ)とす。是田目皇子を生めり。更の名は豊浦皇子。葛城直磐村(かづらきのあたひいはむら)が女(むすめ)広子、一の男、一の女(ひめみこ)を生めり。男を麻呂子皇子と曰し、此当麻公の先(おや)なり。女を酢香手姫皇女と曰し、三代(みつのよ)を歴(へ)て日神に奉れり。(用明前紀~元年正月)
記事に、酢香手姫皇女と厩戸皇子のことは推古紀にも記されているから「見」るといいと書いてある。そして、推古紀のほうには、厩戸皇子の事績は推古紀に記されているが、酢香手姫皇女のことは推古紀のどこを探しても見つからない(注1)。日本書紀の編纂作業に杜撰なところがあったのではないかとも推測されている。しかし、よく読んでみるとそうではない。
酢香手姫皇女については、分注の箇所に、「見二炊屋姫天皇紀一。」とあり、厩戸皇子については、本文に、「語見二豊御食炊屋姫天皇紀一。」とある。大きな違いがある。分注か本文かの違いではなく、「語(こと)」という字が入るか入らないかの違いである。「於二豊御食炊屋姫天皇世一、位二-居東宮一。総二-摂万機一、行二天皇事一。」という「語」は推古紀に書いてある。一方、「自二此天皇時一、逮二乎炊屋姫天皇之世一、奉二日神祀一。自退二葛城一而薨。」の「語」は書いていないけれど見ようと思えば見えるのである、と言っている。厩戸皇子の方は事績として書かないわけにはいけないほどのものがあるから推古紀に書いてあるが、酢香手姫皇女の方は、「自退二葛城一而薨。」という程度のことは、事(「語」)立てて記すほどのことではない。推古紀に酢香手姫皇女の「自退二葛城一而薨。」にかかわる記述としては、亡くなったとされる葛城の地にまつわる話が載っている。曰くありげな記事である。
冬十月の癸卯の朔に、大臣、阿曇連名を闕(もら)せり。・阿倍臣摩侶、二(ふたり)の臣(まへつきみ)を遣(まだ)して、天皇(すめらみこと)に奏(まを)さしめて曰(まを)さく、「葛城県(かづらきのあがた)は、元(もと)臣(やつかれ)が本居(うぶすな)なり。故(かれ)、其の県に因りて姓名(かばねな)を為せり。是を以て、糞(ねが)はくは、常(ときは)に其の県を得(たまは)りて、臣が封県(よさせるあがた)とせむと欲(ねが)ふ」とまをす。是に、天皇、詔(みことのり)して曰(のたま)はく、「今朕(われ)は蘇何(そが)より出でたり。大臣は亦朕が舅(をぢ)たり。故、大臣の言(こと)をば、夜に言(まを)さば夜も明さず、日(あした)に言さば日も晩(くら)さず、何(いづれ)の辞(こと)をか用ゐざらむ。然るに今朕が世にして、頓(ひたふる)に是の県を失ひてば、後の君の曰はまく、『愚(おろか)に痴(かたくな)しき婦人(めのこ)、天下(あめのした)に臨(きみとしのぞ)みて頓に其の県を亡(ほろぼ)せり』とのたまはむ。豈(あに)独り朕不賢(をさなき)のみならむや。大臣も不忠(つたな)くなりなむ。是後の葉(よ)の悪しき名ならむ」とのたまひて、聴(ゆる)したまはず。(推古紀三十二年十月)
大臣の蘇我馬子が、天皇の直轄領である葛城県を割譲して欲しいと言ってきたが、天皇は拒絶したという記事である。史実としてはそれだけのことである。しかし、馬子が葛城県をねだる理由として挙げているのは、第一にもともと自分の「本居(うぶすな)」が葛城県であるからという点と、それによって「姓名(かばねな)」となっているからという点であるとしている。
「本居」は、蘇我氏が葛城氏と同族であるからという主張、または、蘇我馬子が葛城県で育ったからということと考えられている。古墳の発掘など、蘇我氏の古跡地として考古学調査は進んでいる。一方、「姓名」については、聖徳太子伝暦に、「葛城寺〈又名二妙安寺一賜二蘓我葛城臣一〉」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2544997/30)とあって、蘇我氏の「姓名」がすでにそのように呼称されていた形跡があるとされている。しかし、紀に、「蘇我葛城臣」と記されているわけではない。歴史学に、蘇我氏と葛城氏に深い繋がりがあると考える向きがあるが、氏の話ではなく、「姓名」の話である(注2)。蘇我馬子の「姓(かばね)」は何か。「蘇我馬子宿禰」という表記が多く、先代も「蘇我稲目宿禰」と言っている。「宿禰」というのは姓ではなく単なる尊称とされている。オホエ(大兄)に対するスクネ(スクナ(少)+エ(兄)の約)の意と考えられている。覇を競っていた相手方は、「物部弓削守屋連」(用明前紀)と記されている。「蘇我臣」(欽明紀十六年二月)という記述も見られはするが、舒明紀以降にならないと個別名に現れない。舒明紀以降、「蘇我蝦夷臣」(舒明前紀)、「蘇我倉麿呂臣」(舒明前紀)、「蘇我臣蝦夷」(皇極紀元年正月)、「蘇我臣入鹿」(皇極元年七月)、「蘇我倉山田石川麻呂臣」(孝徳前紀)、「蘇我臣日向」(孝徳紀大化五年三月)、「蘇我赤兄臣」(斉明紀四年十一月)などと一般化している。もともと人名に添えた尊称であった「宿禰」の名称は、天武朝に設けられた八色(やくさ)の姓(かばね)の第三位に位置づけられている。蘇我馬子の姓が何であったか、クエスチョンマークが付く(注3)。
「姓名」という用字は、紀にほかに5例ある。
仰ぎて君の容(みかほ)を視(み)れば、人倫(ひと)に秀(すぐ)れたまへり。若(けだ)し神か。姓名(みな)を知(うけたまは)らむ。(景行紀四十年是歳)
上古(いにしへ)治(くにをさ)むること、人民(おほみたから)所を得て、姓名(かばねな)錯(たが)ふこと勿(な)し。(允恭紀四年九月)
今欲(ねが)はくは、吾と礼(ゐやまひ)を以て問(とひ)答ふべき者(ひと)の姓名(うぢな)年(とし)位(くらゐ)を早く知らむ。(欽明紀十四年十月)
時に飢者(うゑたるひと)、道の垂(ほとり)に臥(こや)せり。仍りて姓名(かばねな)を問ひたまふ。而(しか)るに言(まを)さず。(推古紀二十一年十二月)
相模国司(さがむのくにのみこともち)布勢朝臣色布智等(ふせのあそみしこふちら)・御浦郡少領(みうらのこほりのすけのみやつこ)姓名(うぢな)を闕(もら)せり。と、赤烏(あかきからす)獲たる者鹿嶋臣櫲樟(かしまのおみくす)、位(くらゐ)及び禄(もの)賜ふ。(持統紀六年七月)
古代にウヂ(氏)とは、血縁関係のつながりにある一族が、大王への貢納奉仕を前提に他と区別するために唱える名称のことである。中村2009.は、「政治組織であり、王権との政治的関係を指標するものである、という考えが通説的な立場であろう。」(5頁)とする(注4)。一方、カバネ(姓)とは、古代の豪族の社会的政治的な上下を示すために用いられた世襲の称号のことで、臣(おみ)・連(むらじ)・造(みやつこ)・君(きみ)・首(おびと)など数十種がある。中村2009.は、「姓は氏の体(テイ・体裁や性格などの意)を示すもの……[で]姓は氏の職掌・出自・本拠地・格などを総合して賜与されたもので」(7頁)であるとしている。
「姓名」と書いてカバネナと訓む例は、允恭紀の盟神探湯、推古紀の片岡山の聖、そして蘇我馬子の発言させた3例に限られる。ウヂナと訓んでいるウヂは、血縁関係のつながりにある一族が、大王への貢納奉仕を前提に他と区別するために唱える名称で、王権との政治的関係を指標するものである。漢字と訓みとは一対一対応ではなかったから、ウヂは氏とばかり記されているわけではないのである。姓=カバネ、氏=ウヂというように一対一対応ではない理由は、ヤマトコトバの表記術として創成期であったから、模索が(つい最近に至るまで)続いていたということであり、それを誤字であると考えるのは、学習指導要領のようなものに管理化されているにすぎない。
景行紀、允恭紀、欽明紀の例は、蘇我馬子が人を派遣して陳情している際と同じように、会話文中の発語としてある。固有名詞のナ(名)とは呼ばれるもの、呼ばれてはじめてあるものだから、会話文中にあってこそ本領を発揮する。
「姓名」をカバネナと訓むのは次の例である。允恭紀では、氏姓制度が混乱しているからそれを正そうとする政策であった。姓を偽って自分を高い地位の人物であるかのように装う人がいて混乱を来していた。そこで熱湯に手を入れさせて嘘をつくのをやめさせようとしたのである。盟神探湯(くかたち)として知られる。推古紀では、太子が片岡に遊行してそこで出会った食べ物に困っている人物に、どこの誰かを尋ねる場面である。雰囲気に高貴さが感じられたらしく、どれほどの格式にある人物か知りたくて姓を聞いている。聖が聖を知るという話として知られている。
それ以外の、 景行紀の例では、蝦夷の賊首(ひとごのかみ)が日本武尊の王船の威勢に怖れをなして聞いてきている。蝦夷の人たちに、姓という考え方はなかったと考えられ(注5)、ただ名前を聞いているはずだからミナ(御名)と言っている。
欽明紀の例は、高麗(こま)に侵入した百済の王子余昌のもとへ、高麗側の兵士が訪れ、姓名、年齢、位を聞いている。「姓名年位」とあるから、「位」が大化前代の臣・連・造などに当たり、「姓名」はウヂナのことであろうとわかる。
持統紀の例は、御浦郡少領(みうらのこほりのすけのみやつこ)という役職はわかっているが、誰だか名が記録されていないということである。国司や当の赤烏の発見者の名は知れているが、それを取り次いだ郡司次官の名前は記録されていなかったということであろう。それが誰なのかを知るのに、下級官吏のカバネなど問題にならないから、「姓名」はウヂナのことであろうと理解される(注6)。
以上の例から、「姓名」をカバネナと訓む場合、きちんとカバネ(姓)とナ(名)の二つの要素を示しているものである。蘇我馬子のカバネは、「蘇我臣」などと仮に通称されていたとするのであれば、「蘇我臣」である。「其の県に因りて姓名(かばねな)を為せり。」とあるのは、葛城県にちなんで、カバネを「蘇我臣」とし、ナを「馬子」とし、その両方が成り立っているという意味である。蘇我葛城臣という言い方が当時からあったとしてもカバネの説明ばかりであって、ナについては触れていない。
「馬子」という名が「葛城県」に因るものであるとはどういうことか。言い伝えに、「葛城」は、一言主大神(一事主神)の顕現したところである。雄略天皇の時代のことである。狩りに行く天皇の行列を鏡に映したようなものが現れ、問答を交わしている。連なる行列のツラツラな面貌を面白がった話であった。一言主大神は、狼のようにヲと遠吠えし、天皇のほうはソと馬追いの声を発していた(注7)。
このような説話が飛鳥時代の人々、とりわけヤマト朝廷のなかで共通認識として記憶されていたとすれば、葛城というところは、馬追いと関係する場所、すなわち、馬子がいるはずのところであることが人々に浸透していたであろう。そして、それは確かなことである。なぜなら、無文字文化のなかに暮らしており、その言語活動は、記紀に記され残っている逸話の体系が前提となっていたからである。そうでなければ、当時、人間の知は組み立てられていないことになり、社会も国家も成り立つべくもない。
つまり、葛城に起因して「馬子」という名はできている。「蘇我馬子」という氏名全体についても、馬追いから生まれたものと認めることができる。「蘇我(そが、ソは甲類)」のソ(甲類)は馬追いの声である。つまり、ソ(馬追いの声)+ガ(連体助詞)+ウマコ(馬子)である。循環論法の強調表現としての論理術が語られている。ここで、蘇我馬子は、自らが「蘇我臣馬子」であることを説明するのに、端的に一言で言えば、ソであることを語っている。 一言主大神の逸話そのままに、ソの一言を発して彼は自らがウツシオミであると説いている。「現(うつ)し臣」として推古朝に現在しており、一言主大神の逸話を写して推古天皇の「写(うつ)し臣」となっていると論じている(注8)。
「馬子」という名が本当のところ何によって成っているかは問題ではない。蘇我馬子がそう主張して、推古天皇はその意を理解している。天皇の言葉に、「今朕則自二蘇何一出之、大臣亦為二朕舅一也。故大臣之言、夜言矣夜不レ明、日言矣則日不レ晩、何辞不レ用。然今朕之世、頓失二是県一、後君曰、愚疾婦人臨二天下一以頓亡二其県一。豈独朕不レ賢耶、大臣亦不レ忠。是、後葉之悪名。」とある。夜に聞いたら夜中じゅう、朝聞いたら昼間じゅう考えて、蘇我馬子の言葉の真意を政治政策に用いなかったことはなかったと言っている。なぜ夜に言ったことを一晩じゅう、朝に聞いたことを昼の間じゅう考えなければならないのか。それは、一言主大神の逸話さながらに、蘇我馬子が一言でずばりと発言していたからであろう。その一言の真意をよくよく考えるのに時間がかかった。よくよく考えれば、なるほどその通りだと思わないことはなかったと言っている。
今回の申し入れも、謂わんとしていることがわからないわけではない。一見その通りに見えるけれど、葛城県を割譲したら後世、愚かな女帝であったと評価されるし、それは大臣をしている蘇我臣にとっても不忠者と呼ばれることになると言っている。なぜといって、次世代に、次の大臣として、馬子の子の蘇我臣蝦夷に任ずることを予定していてそうした時、もはや「姓名」において「葛城」とのつながりはない。蝦夷は不忠者であるとされるがそれで宜しいか、と天皇は言っている。馬子自身の主張に、自分をウツシオミであると言っており、オミとは伝えていく人、「使主(おみ)」の意も含まれ(注8)、次代へと伝えることが内包されている。そこに矛盾が露呈することになる。だから許すことはなかった。
この記事は、ひるがえって、葛城という地についての情報を提供することになっている。そこは、一言主大神と因縁浅からぬ伝承地であり、切っても切り離せない地名を負っているという点である。本稿は、酢香手姫皇女についての用明前紀の分注に、「見二炊屋姫天皇紀一。」とある記述を追っている。彼女は、用明天皇と葛城直磐村の娘の広子との間に生まれている。そして、用明・崇峻・推古の三代の天皇の時期に長く伊勢神宮で日神の祀に奉仕していた。老いて任にかなわないと悟り、自ら葛城の地に隠居している。生まれ故郷だからである。故郷のことは、古語に「本居(うぶすな)」である。蘇我馬子も「本居」が葛城県だと言っていたが、よく斎宮の任にたえた酢香手姫皇女が人生の最後の時間を「本居」で過ごしたという重みにはかなわない。
そのことは酢香手姫皇女という名に明らかである。スカテと聞けば、文字を持たなかった当時の人たちには、ス(酢)+カテ(合・揉)と聞こえたであろう。酢の物、酢の和え物のことである。
酢 本草に云はく、酢酒、味は酸し、温に毒無し〈酢は倉故反、字は亦、醋に作る、須(す)、音は素官反〉といふ。陶隠居に曰く、俗に呼びて苦酒〈今、鄙語に酢を加良佐介(からさけ)と謂ふは此の類也と案ふ〉と為(す)といふ。(和名抄)
醤酢(ひしほす)に 蒜(ひる)搗(つ)き合(か)てて 鯛(たひ)願ふ 吾(われ)にな見えそ 水葱(なぎ)の羹(あつもの)(万3829)
大坂(おほさか)に 継(つ)ぎ登れる 石群(いしむら)を 手逓伝(たごし)に越さば 越しかてむかも(紀19)
敷栲(しきたへ)の 衣手(ころもで)離(か)れて 玉藻なす 靡(なび)きか寝(ぬ)らむ 吾(わ)を待ちがてに(万2483)
韲 四声字苑に云はく、韲〈即嵆反、訓は安不(あふ)、一に阿倍毛乃(あへもの)と云ふ〉は薑蒜を擣(つ)き醋を以て之を和すといふ。(和名抄)
秋去れば 置く露霜に 堪(あ)へずして 都の山は 色づきぬらむ(万3699)
白川1995.に、「かつ〔勝(〓(勝の旧字))・克〕 四段。敵の攻撃に堪えて、現状を守りつづける意。克くするの意から、敵にうち勝つ意となった。……「かて」に「難」の字をあてるのは、「かて」を「難し」の意に解したものであろうが、「かて」は可能を表わす「かつ」の未然形。「かてに」は「かてぬ」「あへぬ」の意であり、勝はその正訓の字である。」(234頁)、「あふ〔敢・堪〕 下二段。「合ふ」と同根の語。ことの推移に合せて、適合するように行動する、そのことによく対処して、ことを行なうことをいう。打消しや疑問・反語の形をとり、不可能や困難であることを示すことが多い。」(82頁)とある。酢の和え物については、正倉院文書に索餅(むぎなは)の例が示されている。今日に、冷やし中華に酢をかけて食べることをイメージすれば良いのではないか(注9)。酢糟で茄子を漬けたとも見える。
索餅の酢の韲(冷やし中華、市販の生中華麺(太麺)を撚って製作)
つまり、飛鳥時代に酢香手姫皇女という人物は、山椒は小粒でもぴりりと辛い存在として名をとどろかせていたのである。浮かれることのない人生をよく我慢し、斎宮としての祭祀を全うした。それは、蘇我氏の威圧に対しても堪えることを意味し(注10)、天皇家の現状を守り通している。重鎮として隠然たる勢力を誇っていた蘇我馬子でも、酸っぱいものを食らい、苦虫を噛み潰したような顔をしたことであろう。
一言主大神はオホカミであり、それに対した雄略天皇はウツシオミであると述べられていた。日神の祭祀とは天照大御神(天照大神)(あまてらすおほみかみ)の祭祀である。天皇家の祖先崇拝がもとである。酢香手姫皇女は、天皇家にとって大切な祭祀を長期間つつがなく行ってくれていた。オホミカミに対した彼女こそ、本物の立派なウツシオミであった。そんな彼女の祖父は葛城直磐村であった。蘇我臣と葛城直との家格の違いや、葛城氏が当時どのような事情であったのかなど、論理展開において露ほども問題とならない。人々の思考は言語の上に築かれる。蘇我臣馬子と自称する大臣の論理展開もそのヤマトコトバに負っていた。酢香手姫皇女と葛城の地のことを考えるなら、蘇我馬子宿禰改め、蘇我臣馬子(蘇我馬子臣)という姓名だからとむざむざ天皇家から離すことはできない。そういう思考回路を示すべく、「見二炊屋姫天皇紀一。」ときちんと記されている。
日本書紀は、文字は漢字を用いて文体は漢文表記に倣っているが、ヤマトコトバで書かれている。無文字時代の思考をよみがえらせるためには、漢字の字面をただ追っていくだけでは駄目である。近世、近代の日本書紀研究には、漢文漢籍の姿に惑わされてその出典を探ることに興味が注がれてきた側面があり、それはそれで成果を上げてきたものの、その先に、当時ヤマトに暮らした人々の思考や思想の跡を見出すことはできない。日本書紀を研究して何を得ようとしているのか、その本来の目的が問われるところである。日本書紀は、まだまだ読めていないところが多い。
(注)
(注1)諸解説に推古紀に見えないとされているのはふつうなのであるが、井上1987.に、「現在の『書紀』には該当記事がない。」(410頁)とし、当初あった記事が削除されたかのように述べられている。テキストの解説書にこのようにあると、議論好きな輩は暴論を吐いてしまう。
(注2)津田1930.は、「「葛城県者元臣之本居也、故因其県為姓名、」は甚だ解し難い文字である」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041707/88、漢字の旧字体は改めた。)として検討を加えているが、結局、要領を得ずに今日に至っている。
(注3)管見であるが、歴史学に、蘇我氏がいつからオミ(臣)になったかこだわる見解は見られない。なお、姓については、拙稿「カバネ(姓)雑考」参照。
(注4)本居宣長・古事記伝の見解に見るべきものがあるとして引いているのでここに記しておく。
さて古は氏々の職業各定まりて、世々相継て仕ヘ奉りつれば、其職即其家の名なる故に、【氏々の職業は、もと其先祖の徳功に因リてうけたまはり仕奉るなれば、是も賛たる方にて名なり、】即其職業を指ても名と云り、さて其は其家に世々に伝はる故に其名即又姓の如し、されば名々と云は職々にて即此も氏々と云にひとしきなり、……可婆禰と云は、宇遅を尊みたる号にして即宇遅をも云り、……又朝臣宿禰など、宇遅の下に著て呼ふ物をも云り、此は固賛尊みたる号なり、又宇遅と朝臣宿禰の類とを連ねても加婆禰と云り、【藤原朝臣大伴宿禰などの如し、】されば宇遅と云は、源平藤原の類に局り、【朝臣宿禰の類を宇遅と云ることは無し、】加婆禰と云は、宇遅にも朝臣宿禰の類にも、連て呼ふにも亘る号なり、……加婆禰に姓字は、当る処と当らぬ処とあり、(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/394~395、漢字の旧字体は改めた。)
なお、古事記伝には、蘇我氏についての記述もある。
○蘇賀石河宿禰、蘇賀は、居地名にして、神名帳に大和国高市郡、宗我坐宗我都比古神社あり、此地なり、万葉十二二十七丁に、真菅吉宗我乃河原とよめるも、此処なり、……書紀推古巻に、蘇我馬子大臣、令レ奏二于天皇一日、葛城県者、元臣之本居也、故因二其県一、為二姓名一云々、【因ニ其県一為二姓名一と云ること、心得ず、皇極紀に、蘇我蝦蛦大臣、祖廟を葛城高宮に立し事もあり、】とあるを以見れば、蘇賀は、葛城郡にあるべきが如くなれど、今も曾我村高市郡に在リて、葛城下郡の堺に近ければ、古は此あたりまで、葛城県の内にもや有けむ、石河は、和名抄に、河内国石川【以之加波】郡これなり、三代実録三十二に、石川朝臣木村言、始祖大臣武内宿禰男、宗我石川、生二於河内国石川別業一、故以二石川一為レ名、賜二宗我大家一為レ居、因賜二姓宗我宿禰一云々、【賜二姓宗我宿禰一と云は、誤なり、此時宿禰は、たゞ名に附たる称にこそあれ、姓に附たる加婆泥には非ず、
……(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/576、漢字の旧字体は改めた。)
(注5)当時のヤマトの人の考え方に、蝦夷に王権はなく、ただ群れ集って暮らしているだけの部族社会であると考えられていたのかを定めることは困難であるが、クラストル1989.参照。
(注6)紀のカバネナ記事としては、ほかに「姓字」と記されたものがある。「奉(たてまつ)る娘子(をみな)は誰そ。姓字(かばねな)を知らむと欲(おも)ふ。」(允恭紀七年十二月)、「是の日、大舎人(おほとねり)姓字(かばねな)を闕(もら)せり。驟(はし)りて天皇に言(まを)して曰さく、……」(雄略前紀)の二例である。允恭紀の例は、皇后の妹の姫君を後宮に入れさせようとするもので、由緒ある家柄の娘子に限って答えさせようとする天皇の物言いとしてカバネナという訓みが正しい。雄略前紀の例は、雄略天皇の即位に関して重要な役目を果たしているから、天皇から姓(かばね)を賜っていておかしくないとの判断が背景にあると考えられる。ほかに「姓字」とあるものに、「寐驚(みゆめさ)めて使(つかひ)を遣して普(あまね)く求むれば、山背国の紀郡(きのこほり)の深草里(ふかくさのさと)より得つ。姓字(うじな)、果して所夢(みそなは)ししが如し。」(欽明前紀)と、「姓字」をウヂナと訓んでいる。夢で見た人物は「秦大津父(はだのおほつち)」という人で、ウヂが「秦」、ナが「大津父」であったからである。
(注7)拙稿「一言主大神について」参照。
(注8)蘇我馬子宿禰ではなく蘇我臣馬子であると言っている。允恭天皇代の盟神探湯(くかたち)に値する詐称である。 この点を含めて後世、不忠者と呼ばれるであろうと推古天皇は諭しているのかもしれないが、姓についてはルーズな点が多く、また、大臣(おほおみ)に就いている時点で「臣」であったも同然であると考えられていたかもしれない。
(注9)正倉院文書に次のように見える。
酢三斗〈五月十一日請〉/用四斗三升〈一斗三升乗用〉/八升供時々索餅韲料/三斗五升経師装潢一千一百六十七人料〈人別三夕〉(宝亀二年五月二十九日)(東京大学史料編纂所・大日本古文書https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/view/idata/850/8500/05/0006/0183?m=all&s=0135&n=20(183/606))
酢壱瓺弐斛捌斗肆升伍合/二斗八升〈七月三日請〉/二斛五斗六升五合〈以同月十二日請瓺納米二斛八斗五升〉得汁〈斛別九斗〉/用六斗七升九合五夕/五斗九升九合五夕〈経師一千十三人装潢一百八十六人并一千一百九十九人料人別五夕〉/八升〈供勘経僧并経師装潢等時々索餅韲料〉/残二斛一斗六升五合五夕
酢糟七斗/七月中請〈二斗三日五斗十二日〉/用尽/三斗漬茄子一十三斛四斗六升料/二斗〈自進五百十六人仕丁四百九人并九百廿五人料人別二夕〉/二斗依臰不用(神護景雲四年九月二十九日)(同上(93~94/606))
また、延喜式・大膳司式に、「……右十一月一日より来年十月三十日に迄、供御料。女孺(めのわらは)女丁(にょてい)を率(ゐ)て、内膳司に向ひ、司と与(とも)に料理(つく)り、日別(ひごと)に供(くう)ぜよ。但し韲(あへもの)は内膳儲(ま)け備へよ。手束(たづか)の索餅(むぎなは)の料、小麦十七斛七斗〈御(おん)並びに中宮、各八石八斗五升〉、粉米五石三斗一升、紀伊の塩八斗九升、醤(ひしほ)、未醤(みそ)各一斛四斗二升六合、酢七斗一升二合、薪(みかまき)日毎に三十斤〈主計寮より請けよ〉。……」(分量が違うだけなので前段と後段をカットした。)とある。
索餅は、和名抄に、「索餅 釈名に云はく、蝎餅・髄金餅・索餅〈無岐奈波(むぎなは)、大膳式に手束索餅は多都加(たづか)と云ふ〉は皆、形に従ひて之を名く。」とある。麺をよじるかもじるかして、スープが絡みやすくなっている。
(注10)推古紀三十二年十月条の記事自体を、逆賊蘇我氏の専横を示すために捏造されたものとする説もあるが、そのようなことがあるとは考えられない。なぜなら日本書紀を編纂した当時、それは天武天皇の詔に「令レ記二‐定帝紀及上古諸事。」(天武紀十年二月)と記されている時期であるが、ヤマトの言語体系は無文字時代の言霊信仰に負っていたと考えられるからである。筆者は言霊信仰という言葉を、巷間に通説として使われる誤用とは異なり、言葉と事柄とが必ず一致するように目指していたことを示すものとして述べている。文字がない時代に、言葉を事柄と一致させなければ、ないしは、一致させるように鋭意努めなければ、世界はカオスに陥ってしまう。基本姿勢として人々が皆守るようにしていたから、それはひとつの信仰と呼んでふさわしい。デュルケーム1971.が、近代社会において、人格と個人の尊厳性へ畏敬を払うことは、新たな宗教と呼べるものであると捉えたことと等価にあたる表現である。
今日の情報化社会においては、技術の進展に伴い、文字、音声、映像のすべてを遠隔、かつ広範に、さらに加工まで加えて伝播することができるようになり、フェイクニュースが拡散されている。対するに古代においては、言葉(音声言語)ばかりを人づてに伝えていくしか伝達手段を持たなかった。伝える人がきちんと理解して言葉を選んで伝え、受け取る人はその言葉をひとつひとつ納得することでようやく伝達が可能となる。納得感が十分に得られなければ情報は安定せず、次に伝わることがない。もはや伝達は起こらず、言葉は消え、すべては失せる。切迫感が違うのである。
(引用・参考文献)
井上1987. 井上光貞『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
クラストル1989. ピエール・クラストル著、渡辺公三訳『国家に抗する社会―政治人類学研究―』書肆風の薔薇発行、白馬書房発売、1987年。原著 Clastres, Pierre, La Société contre l'État. Recherches d’anthropologie politique, Paris: Editions de Minuit, 1974.
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
関根1969. 関根真隆『奈良朝食生活の研究』吉川弘文館、昭和44年。
津田1930. 津田左右吉『日本上代史研究』岩波書店、昭和5年。
デュルケーム1971. エミール・デュルケーム著、田原音和訳『社会分業論』青木書店、1971年。(筑摩書房 (ちくま学芸文庫)、2017年所収。)原著 Durkheim, Émile, De la division du travail social. Étude sur l’organisation des sociétés supérieures, Paris: Presses universitaires de France, 1893.
中村2009. 中村友一『日本古代の氏姓制』八木書店、2009年。
(English Summary)
In the volume of Emperor Yōmei of Nihon Shoki, there is an article about Princess Sukateꜰime-nö-ꜰimemiko serving at the Ise Jingu Shrine. In it, it was written that "we are able to see the same content in the volume of Queen Suiko", but it was actually not found in it. However, if we look closely, we will find it in it. Now, we will understand what is written there, thoroughly examining the ancient Japanese, Yamato‐kotoba.