古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

カバネ(姓)雑考

2021年02月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 日本古代に姓(かばね)という制度がある。姓とは、ヤマト王権において、大王(天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号のことである。姓と書いてカバネと訓むことについては、古くから議論されている。岩波古語辞典に「「姓」をカバネと読むのは、新羅の社会制度で位置の上下を示すに「骨品」の語を用いたので、「骨」にあたる日本語カバネが用いられたものか。」(316頁)とある。この考えは古く谷川士清、 また宮崎道三郎、中田薫らに指摘されている。新羅の骨品制によるとし、古代朝鮮語の「骨」(겨레(kyöröi))の使われ方と同じようにカバネという言葉を屍、姓の意に用いているとされている。中田薫は、ヤマトの姓の制度自体、輸入されたものであると考えている(注1)
 姓は、豪族の身分を表す。臣・連・君・直・造・首などといった称号が豪族の首長に付いていたら、物部目連、物部守屋連といった例に示されるように、代々受け継がれていくことが前提とされていたと考えられる。ヤマトの人がカバネ(姓)の意と同じ使い方に、新羅で「骨」を使うと知っていたかいないかは関係がないのではないか。なぜなら、骨(ほね)は born 、屍(かばね)は corpse だからである。屍はたくさんの骨で構成されている。ホネのネとカバネのネとは共通にする言葉であろうが、ホネとカバネは違う言葉である。カバネ(姓)はカバネ(屍)の意に完全に重なるはずである。
 問題はそこにあるのではなく、死んだらカバネ(屍・尸)となって完結するはずなのに、カバネ(姓)という称号のほうは代々受け継がれて行っている点である。それでもそのことを矛盾しないものとして、ヤマトの人たちは使っていた。なぜであろうか。
 ヤマトの人は、そういった語用論的な問題点を、かえっておもしろがって使う傾向があったのではないか。親のカバネ(屍)を大事にしている人、その人たちにはカバネ(屍)を与えるという意味である。つまり、祖先祭祀をきちんと行っているということであり、それだけの家柄であることへの示唆を必然的に内包している言葉ということになる。豪族は地方豪族を含め、古墳時代に古墳を作って埋葬している。古墳には屍を入れる。追葬墓とした例もある。確かにカバネは続くものなのだと感じられるようになっている。庶民は古墳を作らずに野辺送りしている。祖先を祭らなかったとは言えないが、両墓制につながるように、祭る場所に私はいません、千の風になって吹き渡っていますということであり、百姓(おほみたから)にカバネ(姓)を付けて呼ぶことはないのである。
 その考えに一役買っているのが、允恭天皇の事績である。允恭天皇は氏姓の乱れを正そうとした。いわゆる盟神探湯(くかたち)である。なぜ彼が氏姓の乱れを正すことに執着したのか。それが日本書紀に実は書いてある。理由として書いてあるのではなく、事実として書いてある。ヤマトコトバの真意がわかっていれば、なるほどと了解できる記述である。
 允恭天皇は即位にあたり長く固辞していた。いろいろ話しては嫌がって断っている。その話のなかで病気にまつわるエピソードがある。幼少時に骨折して、「不歩行」状態になっている。しかも、親の言うことを聞かずに自分勝手な治療法を行ってしまい、なかなか良くならなかった。おかげで親(仁徳天皇)や兄(履中・反正天皇)から散々に言われてきた(注2)。それで天皇の位を継ぐような器ではないと自ら卑下してしまったのである。結果、なかなか天皇に就かなかったことについて縷々記されている。もちろん成人して骨折は治っており、元気だったのであるが、コンプレックスを抱いたままなのであった。
 そんな記事がわざわざ日本書紀に載っている。その後に盟神探湯のことが描かれている。両者に通底する事柄として、カバネ(屍・姓)のことが念頭にあったと考えられる。体の格となる骨のことが骨身にしみていた。一つ骨のことではなく、体の骨全部のこと、すなわち、カバネ(屍)である。記紀の允恭天皇のところに氏姓を正すための盟神探湯が行われたという記述がある理由は、それが前提になっている(注3)
 姓という漢字をカバネと訓むという発想は、新羅の骨品制によるとは言い難いのである。新羅では真骨、聖骨、骨品、姓骨、貴骨、第一骨、第二骨という記し方がされていて、骨という字が中心である。ヤマトの人がヤマトコトバのうちに、ホネではなくてカバネ(屍)に倣ってカバネ(姓)という言葉を作り、姓をいう字を使い、カバネ(姓)概念を理解している。カバネは屍でもあり、姓でもあるということを、まるごとそのまま納得しているから、カバネという言葉は生きている。姓という字をカバネと訓んだ、ないしは、カバネという言葉に姓という字を当てた理由としては、ヤマトの人の漢字に対する何らかの理解があったと考えられる。
 漢字の理解には、輸入された辞書が大いに用いられたことであろう。説文に、「姓 人所生也。古之神聖母、感天而生子、故称天子。从女从生、生亦声。春秋伝曰、天子因生以賜姓。」とある。白川1996.は、「「人の生まるる所なり。古の神聖人、母、天に感じて子を生む。故に、天子と称す」(段注本)と、感生帝説話を以て解する。姓の起原が多く神話の形態で語られているからであろう。」(899頁、漢字の旧字体は改めた。)と説明する。漢字の説明としての当否については確かめられないが、本邦に無文字時代からようやく文字時代へと移行し始める初学段階において、とやかく異論を唱えたとは思われない。理解することに躍起になっていたと考えられる。記されているとおりに解釈し、姓は天子にまず第一義的に付与されたものと考えたであろう。そして、その天子から派生した人々に姓が与えられ、臣・連・君・直・造・首など定めている。それらを賜与したのは天子たる天皇である。
 このことは、次のような記述状況からも明らかになる。記紀には、「○○連等之祖」、「○○臣之遠祖」のように記されることが多い。それに関して、氏族伝承を反映して自らの氏族の正統性を誇示しようとするために後から付会したとする説がある。しかし、記紀の書かれた時点で諸氏が懇願して文章中に盛り込んでもらったものであったり、後から補筆されて挿入されたものであるとも考えにくい。都合のいいように作ったら、直ちに盟神探湯(くかたち)をしなければならなくなる。話はむしろ逆である。もとをたどれば由緒があるということは、ヤマトの国を構成している豪族たちは、多くはもとが一つであることを示していることになる。人類はみな兄弟、と言っているまでである。
 問題は、「○○等之祖」などという書き方である。確かに、「中臣(大伴、物部)之遠祖」(神武前紀)「物部遠祖」(崇神前紀)という表記がないわけではないが、非常に限られている。ウヂ(氏)とは血縁集団のことだから、血のつながりこそオヤ(祖)を定めるのにふさわしいはずなのに、それよりも姓の称号が用いられている。カバネがウヂにそのまま乗っかって称されていたからとも考えられ、カバネの定義をそのように定めて論じ変える向きもある。けれども、筆者には、それはレトリックのトリックに引っ掛かっているばかりのように感じられる。
 記紀に○○のオヤ(祖)と表示される場合、オヤ(祖)が神様であることがある。神様と人間との間に血のつながりはない。そのとき、ウジ(氏)の血縁性が目立つと意味が通らなくなる。対してカバネ(姓)は、古の神聖人というのは、母が天に感じて生んだ子のことで天子と言っていたように、授かりもの、賜りもののことを言っている。カバネ(姓)は天から賜った天子たる天皇の、そのまた天皇から豪族への賜りもののことを指す。その擬制的なつながりを何のつながりと考えたかが焦点である。神様と人間との間は、放っておけば離れてしまう。きちんとお祀りをするからつながることができる。神祇祭祀と古墳祭祀は擬制されてできあがっていた。信ずるものは救われるのである。
 それを何に例えたか。ほねつぎである。怪我をした際にきちんと治すには添え木が必要である。その材料に、加工のしやすいニワトコの木が利用された。ニワトコの樹勢は骨を接いで行っているように見える。一本の骨を祭るのではなく、体を構成する骨のつながりの骨格、すなわち、屍のことが類推される。古墳には亡骸を棺に入れて納めていた。持統天皇のように火葬してぐじゃぐじゃになった骨を納めたのではない。
 ニワトコは、古語にヤマタヅ、ミヤツコギ(造木)という。加工しやすいから、造木(みやつこぎ)と呼ぶらしく、枝を煎じ詰めたものが湿布薬にもなるともされている。

 君が往(ゆ)き 日(け)長くなりぬ 造木(やまたづ)の 迎へを行(ゆ)かむ 待つには待たじ〈此の、山多豆(やまたづ)と云ふは、是今の造木(みやつこぎ)ぞ。〉(允恭記)(注4)
 女貞 拾遺本草に云はく、女貞は一名、冬青〈太豆乃岐(たづのき)、楊氏抄に比女都波岐(ひめつばき)と云ふ。〉は冬月青翠にして、故に以て之れを名づくといふ。(和名抄)
 接骨木 本草に云はく、接骨木〈和名、美於都古岐(みやつこぎ)〉といふ。(和名抄)
左:ニワトコ(神代植物公園)、右:人体解剖模型(江戸時代、19世紀、木造、東博「養生と医学」展展示品))
 ミヤツコ(造)とは、ミ(御)+ヤツコ(奴)の意である。奴とは召使の意である。骨がつながって全体を構成して格となるようにする添え木とは、召し仕える関係にほかならない。代々召し仕えるから、家の格としてカバネ(姓)という語は正しい。国造(くにのみやつこ)などと呼ばれるように、姓の名としてその発祥当初からあったよく知られていた。このことを前提として、允恭天皇の即位譚は語られていたのであり、姓名を正しくするための盟神探湯(くかたち)も行われていた。ぐるぐるっとめぐりめぐって論理哲学的に整合性を保つ理解が可能となっている。当時の人々の観念の有りようが垣間見られている。
 以上が、歴史学で言えば大化前代における姓の本質である。召し使えること、仕え奉ること、そういう間柄であることをきちんと示すために、臣・連・君・直・造・首などといったカバネ(姓)を付けて呼ぶようにしていた。それぞれの姓の意味合いについてはなお検討の余地はあるものの、すでに論じられていることに大きな誤りはない。歴史学が古代の真相を探りたいのであれば、近現代の歴史学の視座や枠組みを古代にそのまま当てはめて解を得ようとするのではなく、古代のものの見方、考え方そのものに迫らなければならない。

(注)
(注1)歴史学の辞典、論文に、カバネ(姓)について、それが何であるかに関して、発生・生成段階に注目し、語源を含めてその本質を見極めようとする姿勢は見られない。臣、連などが姓の種類として所与のものとして語られ、どうしてオミ(臣)、ムラジ(連)なる名がカバネ(姓)なるものなのか、という問題は回避されている。わからないからである。
 他方、中田薫の論には、オミ(臣)、ムラジ(連)なども古代朝鮮語を引き写したものであるとする考えまで披歴している。骨品制の骨の意とカバネ(屍)の意とは通じるが、骨(겨레)kyöröiという音と姓(かばね)kabaneという音とは似て聞こえるわけではなく、考え方が似ているというだけである。それは、中国文化と日本文化が同じように概念把握し、「山」という漢字をヤマと訓読みするのと同じことではないか。カバネ(姓)の由来を骨品制に強いて求める理由が筆者には理解できない。
(注2)允恭天皇の発言に次のようにある。「我が不天(さきはひなきこと)、久しく篤(おも)き疾(やまひ)に離(かか)りて、歩行(ある)くこと能はず。且(また)我(やつかれ)既に病を除(や)めむとして独(ひとり)奏言(まを)さずして、而(しか)も密(ひそか)に身を破(やぶ)りて病を治むれども、猶ほ差(い)ゆること勿し。是に由りて、先(さき)の皇(みかど)、責めて曰はく、『汝、病患(やまひ)と雖も、縦(ほしきまま)に身を破れり。不孝(おやにもたばぬこと)、孰(いづれ)か茲(これ)より甚しからむ。其れ長(このかみ)に生(い)けりとも、遂に継業(あまつひつぎしら)すこと得じ』とのたまふ。亦我が兄(いろえ)の二(ふたりはしら)の天皇、我を愚(おろか)なりとして軽(かろみ)したまふ。……」(允恭前紀)。「不歩行」の病は、整形外科に受診すべきものである。拙稿「允恭天皇即位固辞の理由について」参照。
 小谷2018.は、允恭天皇即位の条について、日本書紀と古事記を比べている。そして、「『日本書紀』は帝位につくまでのいきさつを延々と述べて、天皇たる器量について演説しているが、もしこれを読み上げれば、話のおもしろさを期待している聴き手なら眠ってしまうであろう。」(299頁)と評している。話がわかっていない。
(注3)歴史学の研究に、盟姓探湯(くかたち)について、なぜそれが允恭天皇の時代に行われたのか、明確な解答が得られているわけではない。問題を反転させ、氏姓の乱れを正すことが概ねその頃であったのだから、姓の制度はいつ頃から定まってきたものかを推測している。一次資料としての日本書紀は、読み込まれていると言える状況にはない。
(注4)ヤマタヅノという言葉については、一般に、葉が対生のため「迎へ」の枕詞になっていると解されている。その仮説を否定することはできないが、葉が対生する植物はあまりにも多い。筆者は、骨接ぎのための添え木として用いていたからであると考えている。動詞ムカフ(向・対・迎)は正対することをいい、寸法がピタリと合っていなければ完全な意味での「迎へ」にならない。加工がしやすいニワトコならではのオーダーメイドということになる。

(引用・参考文献)
阿部1960. 阿部武彦『氏姓』至文堂、昭和35年。
岩波古語辞典 大野晋・佐竹昭広・前田金五郎編『岩波古語辞典』岩波書店、1974年。
小谷2018. 小谷博泰『小谷博泰著作集 第三巻―木簡・金石文と記紀の研究―』和泉書院、2018年。
白川1996. 白川静『字通』平凡社、 1996年。
孫2004. 孫大俊「新羅の骨品と日本のカバネについて」『法政史学』第61巻、2004年3月。法政大学学術機関リポジトリhttps://hosei.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=11501&item_no=1&page_id=13&block_id=83
谷川1748. 谷川士清『日本書紀通証』延享5年著、宝暦12年出版。(新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200005047/viewer/46~47参照。)
中田1906. 中田薫「河婆根(姓)考」『史学雑誌』第16巻第12号、明治38年、『同』第17巻第2号、明治39年。(中田薫『日本法制史論集 第三巻下』岩波書店、1971年所収。)
前之園1987. 前之園亮一「ウヂとカバネ」大林太良編『日本の古代11 ウヂとイエ』中央公論社、昭和62年。(同、中公文庫、1996年所収。)
宮崎1906. 宮崎道三郎「姓氏雑考」『法学協会雑誌』第23巻第2号、明治38年2月。(中田薫『宮崎先生法制史論集』岩波書店、昭和4年所収。)

(English Summary)
Kabane(姓) were hereditary titles used in ancient Japan to denote rank and political standing. They were given to powerful clans by the emperor in ancient Japan to indicate the relationship and status with the kingship. In this paper, we will examine why their titles were called Kabane, which also meant corpse in ancient Japanese, Yamato-kotoba. This academic study reveals a part of the idea system of ancient Japanese people.

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