古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古事記のサホビメ物語について 其の一 

2023年06月29日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに

 垂仁記には、后であったサホビメがその兄のサホビコと謀反を起こす事件が物語られている。心情の躍動を経て悲劇的な結末をむかえているように読むことができて注目され、多くの論考をあつめるに至っている(注1)。本稿では、原典に立ち返ってその意味するところを検討し、今日的解釈の誤解を指摘しつつ、無文字時代の言語活動の特性を繙くものである。
 最初に、サホビメ物語の前半から中盤部分の、今日流布している訓読と原文を示す。

 此の天皇すめらみこと沙本毘売さほびめを以てきさきたまひし時に、沙本毘売命さほびめのみこと沙本毘古王さほびこのみこ、 其のいろに問ひて曰はく、「いづれかうるはしき」といひ、答へて曰はく、「兄ぞ愛しき」といふ。ここに沙本毘古王はかりて曰はく、「なれまことあれを愛しと思はば、吾と汝と天下あめのしたをさめむ」といひて、即ち八塩折やしほをり紐小刀ひもかたなを作り、其のいもに授けて曰はく、「此の小刀かたなを以て、天皇のねたるを刺し殺せ」といふ。かれ、天皇、其のはかりことを知らさずて、其の后の御膝みひざきて御寝みねしき。爾に其の后、紐小刀を以て、其の天皇の御頸みくびを刺さむと為、三度みたびりて哀しきこころへず、頸を刺すこと能はずて、泣くなみた御面みおもに落ちあぶれつ。乃ち天皇、驚き起きたまひ其の后に問ひてのたまはく、「吾はしきいめ見つ。 沙本さほの方より暴雨むらさめり来て、にはかにおもぬらしつ。又、錦の色の小さきへみ、我が頸に纏繞まつはりつ。如此かくいめみつるは、是何のしるしにか有らむ」とのたまふ。爾に其の后、争ふべくもあらずと以為おもひて、即ち天皇にまをして言はく、「沙本毘古王、あれに問ひて曰はく、『いづれか愛しき』といふ。まなたりに問ふにへぬが故に、妾答へて曰はく、『兄ぞ愛しき』といふ。爾に、妾にあとらへて曰はく、『吾と汝と、共に天下を治めむ。かれ、天皇を殺すべし』と云ひて、八塩折の紐小刀を作りて妾に授く。是を以て御頸を刺さむとおもひて、三度挙りしかども、哀しきこころたちまちに起りて、頸を刺さずて、泣く涙落ちて、御面をぬらしつ。必ず是の表に有らむ」といふ。
 爾に天皇のりたまはく、「吾はほとほとあざむかえつるかも」とのりたまひて、乃ちいくさおこして沙本毘古王を撃つ時に、其の王、稲城いなきを作りて待ち戦ふ。此の時、沙本毘売命、其の忍びずて、後門しりつとより逃げ出でて、其の稲城にりぬ。此の時、其の后、妊身はらめり。是に天皇、其の后の懐妊はらめると、うつくしみおもみしたまひて三年みとせりぬるに忍びたまはず。故、其のいくさめぐらして、すむやけくも攻迫めたまはず。如此かく逗留とどまれる間に、其のはらめる御子既にれましぬ。故、其の御子をいだして、稲城のに置きて、天皇にまをさしむらく、「若し此の御子を天皇の御子と思ほしさば、治め賜ふべし」とまをさしむ。是に、天皇の詔はく、「其の兄を怨むれども、猶其の后をうつくしぶるに得忍びず」とのりたまふ。故、即ち、后を得たまはむ心有り。……(垂仁記)
 此天皇、以沙本毘売為后之時、沙本毘売命之兄沙本毘古王、問其伊呂妹曰、孰愛夫与兄歟。答曰、愛兄。爾沙本毘古王謀曰、汝寔思愛我者、将吾与汝治天下。而、即作八塩折之紐小刀、授其妹曰、以此小刀、刺殺天皇之寝。故天皇不知其之謀而、枕其后之御膝、為御寝坐也。爾其后以紐小刀為刺其天皇之御頸、三度挙而、不(注2)忍哀情、不能刺頸而、泣涙落溢於御面。乃天皇驚起問其后曰、吾見異夢。従沙本方暴雨零来急沾吾面。又錦色小蛇纒焼我頸。如此之夢是有何表也。爾其后以為不応争、即白天皇言、妾兄沙本毘古王問妾曰、孰愛夫与兄。是不勝面問故妾答曰、愛兄歟。爾誂妾曰、吾与汝共治天下、故当殺天皇云而、作八塩折之紐小刀授妾。是以欲刺御頸、雖三度挙哀情忽起、不得刺頸而、泣涙落沾於御面。必有是表焉。
 爾天皇詔之、吾殆見欺乎。乃興軍撃沙本毘古王之時、其王作稲城以待戦。此時沙本毘売命不得忍其兄、自後門逃出而、納其之稲城。此時其后妊身。於是天皇不忍其后懐妊及愛重至于三年。故廻其軍不急攻迫。如此逗留之間、其所妊之御子既産。故出其御子置稲城外、令白天皇、若此御子矣天皇之御子所思看者、可治賜。於是天皇詔、雖怨其兄猶不得忍愛其后。故即有得后之心。……

「詐」とは何か

 内容の理解には、訓読文、ないしは、読み下し文と呼ばれているものが不可欠である。古事記原典は漢字ばかりの和風漢文で書かれている。それを、漢字仮名交じりの当時読まれていたであろう文章に置き換えて読み下している。そうすれば、日本語の古語の文章だから、今日の人にもわかるようになる。その際の訓読という作業は、外国語である漢籍を訓読という技を使って日本語的に理解しようとすることとは異なる。太安万侶が工夫して文章化したものを、もともと稗田阿礼が誦んでいた形のヤマトコトバに戻すことを目途にしている。字面の使い方が上手かどうかは太安万侶の書記のテクニックの次元であるが、元のヤマトコトバの話がうまいかどうかは稗田阿礼の語り口によっている。当時の人々の観念体系と今日のそれとは時として違い、現代の物差しで測ると見誤りかねない。それでも日本語はヤマトコトバを母体に成立しているから、たいていの場合、訓読文を読んでよく理解されるのならまずまず正しいと言える。反対に、疑問点や矛盾点が浮かぶのなら訓読の仕方に誤りがあるか、当時のヤマトコトバが指し示す語義について十分に理解していないかである。概して、古事記の文章の意が通じないところは、訓読に誤りがあることが多い。
 垂仁記のサホビメ物語について具体的に検討していく。今日オーソドックスに行われている上のような訓み方には、肝心なところでいくつも疑問が生じている。これから述べる最初の疑問は、いまだ議論されることすらないようである。夢のしるしを了解した天皇は、「吾はほとほとあざむかえつるかも」と言っている。この「欺く」という言葉は、「人の欠点につけ入って、誤った方向に進ませる。いつわって人をだますことをいう。」(白川1995.62頁)。心の隙につけ込まれて詐欺被害を受けたということにほかなるまい。それは、サホビコの「はかりこと(注3)がために欺かれたということに違いない。そして、サホビメも自らがその誘導に引っ掛かったと気づいたから、「誂」という表現で天皇に白状していると考えられる。ところが、何をだまされたというのかはっきりしない。サホビコのことを良くしてやっていたのに恩を仇で返したという意味ならば、そのように記されていて然るべきであろう。けれども、語られているのは、夢の「しるし」の解き明かしのことで、話しているのはサホビメ一人である。何をどのようにされたから「欺」と表現されているのか。つまりは、「謀」はどのような詐術で、どうしてサホビメは誘導されてしまったのか、その点をきちんと見定めなければこの話はわかったことにならない。

「歟」の移動的異同

 第二の疑問点に進む。最初の兄妹の問答の事実説明文と、天皇に問われて答えた回想説明文とで、字句に微妙なずれがある。問答の部分を抽出すると次のようになる。

 「孰愛夫与兄歟。答曰、        愛兄 。」
 「孰愛夫与兄。 是不勝面問故、妾答曰、愛兄歟。」

 「歟」字の位置が動いている。後者の「歟」字について、古典集成本は、「前[者]……では、兄に対して「兄ぞしき」と答えているが、ここでは「兄ぞ愛しきか」と疑問の助詞「か」を添えている。これは、天皇に対しての発言だからで、天皇と兄との愛の板ばさみになった女の心の揺曳たゆたいが見事に表現されたことになる。」(144頁)、新編全集本は、「疑念を表す「歟」字がある。……沙本毘古王への答えでは、単に「愛兄」と断定的であったが、ここは天皇への応答であるため、口調を弱めたもの。なお、「兄ぞ愛しきか」などと読む説もあるが、係り結びとしての連体形に、さらにカが付くことはない。」(200頁)としている。
 一方、西郷2005.は、「最後の「歟」字は、……誤って下にずれたまでと考えられる。」(300頁)とし、後者を「兄ぞ愛[(ハ)]しき」と訓むのは文献学的 fallacy というもので、日本語の文脈としては成りたたないと思う。」(300頁)としている。
 いま少し検討する必要がある。後者において、「歟」字が回答文に付加されている点だけでなく、「歟」字がどうして疑問文から外されているのかについても考究されなければならない。前者は実際の状況を語っている。兄が問い、其の妹が答えている。
 「孰愛夫与兄歟。」→「愛兄。」
 他方、後者は、天皇との間での会話として、其の后が自分の兄とのやりとりを再現してみせている。
 「孰愛夫与兄。」→「愛兄歟。」
 この両者を同一の次元で考えてしまうと、「カテゴリー錯誤」(ライル)(注4)について正しく見極められなくなる。そのためなのか、後者は、「 」のなかの『 』、二重括弧であるかのように論じられることもある(注5)。しかし、それならば直接話法なのだから、やりとりしている両者の文章は完全に同一であることが求められ、二重括弧内の問答の言葉は、物真似のように声色まで似せて口に出されたはずである。しかし、そうはなっていない。ここは間接的な直接話法により、夢のしるしについて説明調で語られている(注6)。2つの問答の間にある相違は、ただ回想したというだけで起こるものではない。それはまた、サホビメが誰を相手に話しているかの違いによる言葉尻の言い換えでもない。カテゴリーの違いがありつつ、その違いがあること自体を伝えようとしているから違えている。
 通説では、面と向かって親しげに聞かれたから、つい、兄さんあなたですよ、と答えてしまいました、と解釈されている。表面上の言葉づかいの問題として、単に幼いころから共に過ごしてきた同母兄弟、それもサホという同じ名を負った親密な関係からであると、現代人が創りあげた古代人のイメージでわかった気になっている。目の前の相手が変われば態度は変わり、言葉づかいも変わることなど当たり前のことである。伝えていくことがとても困難な口伝てという方法において、当たり前のことをわざわざ伝えるとは思われない。どうしてそのように答えたのか、その源泉はどこに求められるか。この部分の解釈はさらに深める必要があり、そのためには第三の疑問点に向き合わなければならない。
 天皇の言葉に、「其の兄を怨むれども、猶其の后を愛しぶるに得忍びず」とあり、それに対して、「故、即ち、后を得む心有り。」と承けている。本居宣長・古事記伝は、「○故即二字、読べからず、【上の礼婆レバと訓る辞に、故の意はあるなり、】」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/56、漢字の旧字体は改めた)と誤魔化している。新編全集本に、「これには、后を取りもどそうという心があったのである。」(201頁)、古典集成本に、「こうおっしゃったのは[后ヲ]取り戻したい心があったからだ」(146頁)と訳している。しかし、それでは、「かれ」という語の使い方として不自然になる。第三の疑問点である。

「故」の疑問

 時代別国語大辞典は、「かれ[故・爾](接)①ゆえに。上の文や句を原因理由として受けて、下に接続する。カは指示副詞、レはアレで、バを添えずに已然形で言い放つ形である。ただし確実な用例はない。……②すなわち。そこで。ここに。ことばを起こすときに用いる。」(234頁)とする。白川1995.は、「かれ〔故〕 ゆえに。「か」は「かく」、「れ」は「有り」、「かく有り」が条件句となって、「かかれば」となる。それで上文を承け、下文を起す接続詞となる。漢文訓読の語としては、上文を承ける理由説明の文に用いるが、〔記〕〔紀〕では物語の展開につれて、軽い接続詞として多用する。〔記〕には「かれしかして」という形をとるものも多い。「そこで」の意。」(263頁)とする。
 この個所は、軽く言葉を起こしているのではなく、前文を承けているものと考えられる。上の文や句を原因理由として承けていなければならない。天皇の発言があり、だから、まったくもって、后のことを取り返そうという心があることが如実にわかる、という文脈で地の文が述べられているはずである。ところが、その論理的なつながりを単純に追ってしまうと、奇異な事態が生じる。后を取り返そうという気持があって、后のことがいとおしくて仕方がないという発言に至るのならわかるが、后がいとおしくて仕方がないという発言ゆえに、后を取り返そうという心があるのだ、という接続になっている。論理の展開が逆転している。
 これら二つの疑問とも、その部分にまつわる訓が、もともと不適切、不都合であるからとしか考えられない。これまで行われてきた訓読の例を見てみる。

 「そのあにを怨みつれども、なほそのきさきうつくしぶるにえ忍びず」(古典集成本146頁)
 「其の兄をうらみつれども、なほ其の后をうつくしむにしのびず」(西郷2005.303頁)
 「うらむれども、なほ其のきさきうつくしぶるにふること得ず」(新編全集本201頁)
 「其のいろせうらみつれども、なほ其の后をうつくしむに忍びず」(全集本197頁)
 「そのいろえうらむれども、なほその后をうつくしむにしのびず」(次田1980.107頁)
 「其のを怨みつれども、なほ其の后をうつくしぶるにえへず」(中村2009.124頁)
 「うらめども、なほきさきうつくしぶるにふることず」(新校古事記、89頁)
 「うらみつれドモなほきさきうつくしむにしノ。」(思想大系本、163頁)
 「其の兄をうらみつれども、なほ其の后をうつくしむに忍びず。」(倉野1979.、26頁)
 「その兄をきらひたまへども、なほその后を愛しとおもふに忍へず」(尾崎1966.、374頁)

 これらの訓は、原文の「雖怨其兄、猶不得忍愛其后」を、次のように解している。
 「雖其兄、猶不得忍一レ其后。」
 「雖其兄、猶不其后。」
 筆者は、この訓み方は意味的に少しおかしいと感じる。かわいいという思いが高じてじっとこらえていることができない、という意味にとっている。そのことを、其の后のことを、うつくしぶることがしのび難い、うつくしむのはえ難い、という言い回しで書いてあるとしている。持って回りすぎている。その意味でなら、
 「雖怨其兄、猶不得忍愛其后」ではなく、
 「雖怨其兄、猶愛其后而不得忍」
などと書けばよりわかりやすい。そうしていないのは、そういう意味を書いているわけではないからであろう。すなわち、この個所には別の訓法が求められている。幸い先学に異なる訓み方が提示されている。

 「其のいろせをばうらむれども、猶うつくしき其の后を得忍びず」(尾崎1972.155頁)
 「いろせをこそ怨むといへ、しきの后を、忍びざらまし」(古典全書本、109頁)
 「雖其兄、猶不-忍愛其后。」
 I can’t stand being separated from my dear wife, no matter how hard I hate her elder brother.

 目的語に「愛其后」というまとまりを作っていて、それに対する動詞は「忍」ひとつで回りくどくない。「愛」字について、これを何と訓むべきかについては後に詳しく検討するが、ひとまず「其后」を修飾している語であって動詞ではないことを確認されたい。
 あるいは、「其后」に前置して形容詞が冠する点に疑問が浮かぶかもしれない。サホビメは后とわかっているから、単に「愛后」とするはずとの考えである(注7)。とはいえ、天皇には何人も夫人がいる。垂仁記には皇統譜だけで、佐波遅比売命さはぢひめのみこと(サホビメの異名)、氷羽州比売命ひばすひめのみこと沼羽田之入毘売命ぬばたのいりびめのみこと阿耶美能伊理毘売命あざみのいりびめのみこと迦具夜比売命かぐやひめのみこと苅羽田刀弁かりはたとべ弟苅羽田刀弁おとかりはたとべの名が記されている。そのなかで今話題にしたいのは、后であるサホビメのことばかりである。そして、その兄のサホビコとの関連性が取り沙汰される話である(注8)。サホビコがサホビメを使って天皇を無き者にし、その暁には「其」の兄と妹の二人で天下を取ろうと唆している。

唆された沙本毘売命

 ではなぜサホビメは、サホビコの唆しに軽々と乗ってしまったのであろうか。
 今日、この説話の捉え方としては、同母の兄への情の深さによる悲劇的な反乱伝承であり、その結果、高度な文学的達成を成し遂げていると考えられるとする説が有力である。神話学の立場からは、大胆にも本邦の歴史を大枠で捉えて、ヒメヒコ制の終焉を物語るものであるとも捉えられている(注9)。それに対して、新編全集本のように、后の兄に対する気持ちは「愛」でも、天皇に対しては匕首で刺そうとしたときに思い浮かんだ「哀」の心情だけであり、話の「主眼は、反乱が失敗に帰する経緯を描くことである。」(198頁)との指摘もある。矢嶋1992.では、「垂仁記の景観の異質さとは、景行記への系譜的接合に関わる物語が過多であることに帰着するであろう。」(右55頁)と、所謂文学性を脱色して見せてもいる。
 見解に大きなバイアスが生じている。まるで現代文の解釈を見るようである。しかるに、古事記のテキストは口承文芸で、しかも無文字時代に言い伝えられたものである(注10)。言い伝えにしか伝えられていない事柄に、多様な解釈が起こってよしとするはずはない。伝言ゲームで多様な解釈が可能なら、最初の人と最後の人とで言っていることはまったく異なり頓珍漢になってしまう。そのような混乱のままに置かれている現状は、もととなる原文を正確に訓んでいないことによる。評価以前に解釈があり、解釈以前に訓読がある。言い伝えの現場で取り交わされているヤマトコトバにたち返って検討する必要がある。
 サホビコの唆しにサホビメが軽々と乗ってしまった理由として、サホ(沙本)という名を共にする同母の兄に対して「愛」の感情があり、だから反乱に加わったのだと捉えられてきた。しかし、そのような漠然とした模糊なる言葉だけで納得がいくものではない。すべては話として聞いている。聞いただけでハイわかりましたと理解され、次の人にきちんと同じ内容を伝えていくためには、その言葉によって皆が得心を抱くほどでなければならない。「謀」の巧みさゆえに「誂」こととなっていて、それを補足的に強調するために、サホビコ・サホビメという対の呼称が付けられているということであろう。
 多くの論考は、「愛」をその字面ばかりで論じている。「うるはし」、「うつくし」、「し」といった訓が試みられてきて、概ねそのような意味であって大差はないと捉えられている。動詞の場合は「うつくしむ」、「うつくしぶ」としている。「愛」の感情をもってサホビメは兄に従って反乱に加わり、「愛」の感情をもって天皇はサホビメを取り返そうとしていると考えられている。そのとき、おそらく、「愛」はアイと音読みしてわかった気になって全体の文意に合致しているとされているのであろう。
 しかし、伝承を口にしている稗田阿礼は「愛」という字を知らない。すべての漢字(文字)を知らない。音読みの「アイ」という言葉もその概念も知らない。ところが、太安万侶は「愛」という字で書記している。それは、漢語の「アイ」観念、ないしは、仏教語の「アイ」観念を表現したくて書いているわけではない。稗田阿礼の誦んでいる音声言語であるヤマトコトバを表わそうとして書いている(注11)。だから、古事記の表記から逆算して、稗田阿礼が発していた言葉を定めていくことが求められている。すなわち、該当するヤマトコトバがわからなければ、言っていることを理解したことにならない。記されている「愛」字は、ウルハシ、ウツクシ、ハシか、それ以外の何かである。それが何かきちんと見定め、聞き定めて、はじめて音声言語でしかなかった無文字時代のヤマトコトバの説話を理解することができる。

「愛」字の訓

 垂仁記の当該部分7つ以外に見られる古事記の「愛」字の例は、次のとおりである。

①先言「阿那邇夜志袁登古袁。此十字以音、下效此。」後伊耶那岐命言「阿那邇夜志袁登売袁。」(記上)
②伊予国謂比売 此三字以音、下效此也、(記上)
③故爾、伊耶那岐命詔之「我那邇妹命乎 那邇二字以音、下效此。謂子之一木乎。」(記上)
④伊耶那岐命語詔之「我那邇妹命、吾与汝所作之国、未作竟。故、可還。」爾伊耶那美命答白「悔哉、不速来、吾者為黄泉戸喫。然、我那勢命 那勢二字以音、下效此 入来坐之事恐。故、欲還、且与黄泉神相論。莫我。」(記上)
⑤度事戸之時、伊耶那美命言「我那勢命、為此者、汝国之人草、一日絞-殺千頭。」爾伊耶那岐命詔「我那邇妹命、汝為然者、吾一日立千五百産屋。」(記上)
⑥於是其妻、取牟久木実与赤土、授其夫、故咋-破其木実、含赤土唾出者、其大神、以-為咋-破呉公唾出而、於心思而寝。(記上)
⑦於是阿遅志貴高日子根神、大怒曰「我者有故弔来耳。何吾比穢死人。」云而、抜御佩之十掬剣、切-伏其喪屋、以足蹶離遣。(記上)
⑧於是天皇、問大山守命与大雀命詔「汝等者、孰兄子与弟子。」天皇所以発是問者、宇遅能和紀郎子有天下之心也。爾大山守命白「兄子。」次大雀命、知天皇所問賜之大御情而白「兄子者、既成人、是無悒。弟子者、未人、是。」(応神記)
⑨於是天皇大驚「吾既忘先事。然汝守志待命、徒過盛年、是甚悲。」心裏欲婚、悼其亟老、不一レ婚而、賜御歌。(雄略記)

 「阿那邇夜志愛袁登古袁」は音を以てアナニヤシエヲトコヲ(ananiyasiewötökowö)と訓む。「愛」は上声でエ、ア行のエ(e)と発音する。②も同じである。③④⑤については、「愛我那邇妹命」をウツクシキわ・あがなにみこと、ウルハシキ我がなに妹の命、メグシトオモフ我がなに妹の命、などと訓まれてきた。「愛我那勢命」も同様である。⑥の「於心思愛而寝」は、心にウツクシと思ひてねき、心にイツクシと思ひてねたり、心にハシク思ほしてみねましき、などと訓まれてきた。⑦の「我者愛友故」は、我はウルハシキ友に有るが故に、我はウツクシキともがきの故に、などと訓まれてきた。⑧の「汝等者、孰愛兄子与弟子。」は、問題としている垂仁記の例にほぼ同じ用法である。汝等なむちらは、の子とおとの子といづれかウツクシブル、汝等いましたちは、いろえの子といろとの子と孰れかウルハシキ、汝等は、あになる子とおとなる子と孰れかハシキ、などと訓まれてきた。⑨の「是甚愛悲」は、これいとウツクシク悲し、是甚ウルハシク悲し、是甚イトホシ、などと訓まれてきた。
 これらを見渡してみると、①②は「愛」をエと音仮名として訓み、③~⑨は「愛」を形容詞として訓もうとしてウツクシ、ウルハシ、ハシ、メグシ、イツクシなどと、好みで選んでいるとわかる。
 青木2015.も、古事記の「愛」字を検討している。そして、「阿那邇夜志愛袁登古袁」や「愛比売」は、「仮名書き例なので一応除くと、他の用例すべてが会話文(心話表現を含む)中にみられることに、まず注目したい。「愛」をハシ・ウツクシ・ウルハシのいずれで訓んでも、男女、親子、友人、兄弟間の個的心情表現としての働きをもつ。その意味で会話文中にみえるのには必然性がある」(435頁)と指摘している。③~⑨の「愛」字が心情表現であり、会話文中に現れているという指摘は重要である。

「愛」字の訓のコペルニクス的転回

 翻ってみて①は、会話文中の心情表現である。アナニヤシエヲトコヲと発語する時のエは、名詞について愛すべきの意を表す接頭語である。口頭語と言っていいであろう。となると、③~⑨の「愛」についても、同じくエと訓むことも可能なのではないか。コペルニクス的転回をもって、「愛」字はすべてエと訓むべき統一的な用字法なのであると仮定して③~⑨に付訓してみると、次のようになる。

③④⑤「我那邇妹命」……え我がなに妹の命、「我那勢命」……え我がなせの命
⑥「於心思而寝」……心にえと思ひてねき
⑦「我者有友故」……我はえ友に有るが故に
⑧「汝等者、孰兄子与弟子」……汝等なむちらは、兄の子と弟の子といづれかえそ
⑨「是甚悲」……是いとえ悲しゑ

 最初に⑨の例を検討する。雄略天皇が若いころに召し入れると約束していながら忘れていて、80歳になった引田部ひけたべの赤猪子あかゐこが参内して来た。天皇は驚いて心情を吐露している。「愛」はエという感動詞で、ああ、と発する声である。類例をあげ、⑨の個所の全体を訓読する。

 み吉野の 吉野の鮎 鮎こそは 島傍しまへ(ye)き え(e)苦しゑ(愛倶流之衛) 水葱なぎもと 芹の下あれは苦しゑ(紀126)
 是に天皇、大きに驚きて、「吾は既に先の事を忘れたり。然れども汝、志を守り、みことを待ち、いたづらに盛りの年を過しつ。これいと悲しゑ(是甚愛悲)」(注12)と心のうちはむとおもへども、其のきはめて老いしを憚りて、まぐはひをさずて、御歌を賜ひき。(雄略記)

 この訓の魅力は、いかにも感慨を表すのにふさわしい言葉であることと、「(e)」と「(e)」とが掛かりあっている点にある。
 ①にエヲトコ、エヲトメとあり、ヲトコ(男)、ヲトメ(女)という名詞に冠する接頭語になっている。意味的に愛すべき、の意である。同じく接頭語として、③④⑤⑦は説明される。
 また、①にエヲトコ、エヲトメとあるのは、イザナキ・イザナミが互いに呼び合う声である。両者の関係は、同母の兄弟姉妹の関係である。母親を同じくする兄弟姉妹の親密な関係性の会話が、当該垂仁記の例と⑧の応神記の例にも当てはまる。意味的に愛すべき、の意を表す。同じ使い方で⑥も説明される。
 ②の「愛比売」の「愛」が借音の仮名書きと目されるものも、国を擬人化した名前として、エヒメ(愛姫)という女性の名を負っているものである。愛すべき姫という意味である。

 此の島は身一つにしておもて四つ有り。面ごとに名有り。故、伊予国は愛比売えひめと謂ひ、讃岐国は飯依比古いひよりひこと謂ひ、……(記上)

 ⑨は感動詞の、ああ、という発声で、その心情には、愛おしさが満ちている。
 愛らしくて、愛おしさが増して、愛すべきと感じている状態を言葉に表したものが、エ(e)というヤマトコトバであったと推定されるのである。
 この推論は、上代の話し言葉にエ(e)という言葉を新たに認めるものであり、批判もあるだろう。しかし、古事記の音仮名にエ(e)を「愛」としている点は洞察されなくてはならない。大野1962.に、「愛の仮名の使用は,漢韓の音訳との関係は考へられず,好字としての義字的用字に始る事が認められる.愛の用法はかなり特殊なので寧ろ準常用仮名とすべきかとも思はれるが,エの仮名としては比較的用例が多いので一往常用仮名と認めておく.愛は衣・依に比して遥かに重厚な用字である.愛は多画ではあるが(多画なるが故に重厚さは増す),可愛への聯想もあつて好字として技巧的表記に比較的よく用ゐられたのであらう.愛の現存最古例は和銅5年(712)の古事記の例であるが,愛は比較的新しい仮名と考へられ,8世紀に用ゐられ始めたのかも知れない.」(146~147頁)とある。
 「愛」をエ(e)の音仮名にする例は、上の例の以外に、「蝦夷えみし(愛瀰詩)」(紀11歌謡)、「たつも 今に得てしか(伊麻勿愛弖之可)」(万806)とあるほか、念を押すような例が日本書紀に載る。上例①に当たる個所などである。

 「姸哉あなにゑや可愛少男をとこを」……「姸哉、可愛少女をとめを」……可愛、此にはと云ふ。(神代紀第四段一書第一)
 因りて筑紫の日向の可愛 此にはと云ふ。山陵みさざきはぶりまつる。(神代紀第九段本文)

 すなわち、「」は「可愛」と同義にして同音であるとするのである。紀では「可愛」をエ(e)としているから、「愛」は音と訓の両用をもって仮名としているものと考えられる(注13)。ヤマトコトバに、うまし、というのと同義のものとして、エ(e)という語があったらしいことが確かめられる。
(つづく)

※本稿は、2019年7月稿を2023年6月にルビ形式にしつつ加筆したものである。

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