古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

崇神紀四年条の「聿」について

2023年06月26日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 崇神紀四年条に次のようにある。

 四年冬十月庚申朔壬午、詔曰、惟我皇祖、諸天皇等、光臨宸極者、豈為一身乎。蓋所以司牧人神、経綸天下。故、能世闡玄功、時流至徳。今朕奉承大運、愛育黎元。何当聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。

 このうち、「何当聿遵皇祖之跡」の「聿」字を何と訓んだらいいのかが課題である。「聿」は紀のなかでここにしか使われていない。古訓には次のようにある。

 何当聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。
 何当いかにしてか皇祖みおやみあとしたがひて、ながきはまりあまつひつぎたもたむ。(北野本訓)
 何当いかにしてかつひ皇祖みおやの跡にしたがひて、永窮無きさいわひたもたむ。(熱田本訓、ツヒニは左傍訓)

 すべての文字に傍訓が施されているわけではない。今日の標準的な訓み方として大系本日本書紀をあげ、考察対象の確認とする。

 四年のふゆ十月かむなづき庚申かのえさるの朔壬午みづのえうまのひに、みことのりしてのたまはく、「これ皇祖みおやもろもろのすめらみことたちあまつひつぎ光臨しらししことは、あに一身ひとはしらみためならむや。けだ人神ひと司牧ととのへて、天下あめのした経綸をさめたまふ所以ゆゑなり。かれよよ玄功はるかなるいたはりひろめ、とき至徳いたれるうつくしびく。いまわれ大運あまつひつぎ奉承うけたまはりて、黎元おほみたからめぐやしなふ。何当いかにしてかつひ皇祖みおやみあとしたがひて、ながきはまりあまつひつぎたもたむ。群卿まへつきみたち百僚もものつかさいましたち忠貞ただしきことつくして、とも天下あめのしたやすみせむこと、またからざらむや」とのたまふ。(大系本日本書紀276頁)

 大系本日本書紀の注に、「聿は、述也ともあって、ノベとも訓めるが、熱本の訓に従い、ツヒニと訓む。尚書・湯誥「聿求元聖」の孔氏伝に「聿、遂也」。下文の永保の永に対する語。」(277頁)とある。この考え方は支持を得ている。

 崇神紀四年十月条の詔に、
    ┌─聿遵皇祖之跡
  何当
    ─永保無窮之祚
とみえる。これは対句である以上、「聿遵ノベシタガ(ヒ)テ」(北野本)と訓むのは具合がわるく、「聿」は「永」の対となる副詞に訓むべきである。「聿」は、『尚書』湯誥「聿求元聖」の孔氏伝に「遂也」 とみえ、「ツヒニ」は「ナガク」 と対をなす(「正義」に、前のことを述べげる意から「聿」は「遂」の意となる、という)。古訓のうち熱田本「ツヒニ」 に従うべきである。(小島2019.200頁)

 最近の注釈書でも、「聿」はツヒニと解され、次のような現代語訳が行われている。

 四年(紀元前九四年)冬十月庚申の朔の壬午(二十三日)、天皇は詔して、「そもそも、我が皇祖の天皇たちがみな皇位に即かれてきたのは、ただ一身のためなどではない。思うに、人の身と心を養い天下を治めるためである。だからこそ、よく世々に深遠な功績を顕し、時々に最上の徳を行きわたらせることができたのだ。今、私は皇位に即くべきさだめを謹んで承け、民を愛育することとなった。どうすれば遂に皇祖の事跡に従い、永く窮まりのない皇位を保つことができるだろうか。群卿百僚よ、お前たちが忠誠を尽くし、共に天下を平安に治めるのが良いではないか」と言った。(新釈全訳日本書紀378頁)

 この考え方に対する反論は、中村1993.にある。

 ……書紀のこの文では、ツヒニと訓んではこの聿字は何を承けて何に続くのかが示されない。 出典の『後漢書』の文も、「明帝聿遵」で始まり、聿は先行の何等の事柄も承けてはいない。文調も 「明帝△△□□、〇〇●●」と二字ずつまとまる簡潔な句で、聿遵●●は切り離せる音調とは思えない。故に、聿は、聿、循也(玉篇)とあるように下字遵字と同義であり、聿遵は重言であると理解する。諸本のノベシタガヒの訓は正しく、文意も明瞭である。ツヒニの訓に改める必要はない箇所と考える。他にも、
 臣今所言、験之往古前典、事無難解、不至願。(後漢書梁統伝)の聿=循の例が見える。(82頁)

 出典を後漢書の「明帝聿遵」に決めているのは、書紀集解に引かれているからである。いささか弱るのは、今日、「聿」は今日、「ここに」と訓まれることが多い点である。

 明帝はここに先旨に遵ひ、宮教頗る脩まり、嬪后を登建するに必ずうるはしき徳を先にし、内にはこんより出づるの言無く、権はできの授無く、其のへいただせりと謂ふ可し。(明帝聿遵先旨、宮教頗脩、登-建嬪后、必先令徳、内無閫之言、権無私溺之授、可謂矯其敝矣。)(後漢書・皇后紀上)
 宜しく今事を比方して、之を往古に験すべく、ここに前典に遵へば、事は改め難きこと無し。至願にへず、願はくは召見せらるることを得て、……(宜比-方今事、験之往古、聿遵前典、事無改。不至願、願得召見、……)(後漢書・梁統伝)
 なんぢの祖をおもふこと無かれ、ここの徳を脩め、永くここに命を配し、もつて多福を求めよ。(無爾祖、聿脩厥徳。永言配命、自求多福。)(詩経・大雅・文王)

 詩経の例では、集伝に「聿、発語辞」と説明がありココニと訓まれるようになっているが、古く毛伝には「聿、述」とあり、その前に「無念、念也」と注され、王が祖先の王たちの徳について縷々述べ脩めたという意であるとしていた(注1)。日本書紀の場合、対句に訓むべき根拠は文体以外には特にないから旧訓のように訓まれていたということになる。小島氏は、「聿」と「永」とが並んで出て来ているから聿=遂の意ととり、ことさらに対句である点を強調したわけだが、詩経の今日的解釈でも古代的解釈でもその限りではないことになっている。ややこしい話である。
 こうなると、日本書紀の編纂執筆者が何を見てそのように書いたかということばかりを気にしなくてはならなくなる。類書を引いたとみるのが蓋然性として高い。

 夫至仁至徳、垂風垂化、内脩訓範、外陶氓俗、百年之教、淳道載凝。而百年既終、遺愛斯軫、莫不肅虔寑廟、著名全石、貽其後昆、聿遵前典。是以禹堂既毀、増飾丹青。堯碑載焚、重覩刊勒。(芸文類聚・巻二十一・譲・梁陸雲太伯碑)

 「聿遵前典」の形は後漢書・梁統伝と同じである(注2)。今風に「ここに前典にしたがふ」ではなく、「前典にしたがふ」、あるいは中村氏の指摘する聿=循、説文に「述 循也、从辵术声。」とあるところから、「前典に聿遵したがふ」と訓んだのかもしれない。
 崇神紀の記述も同様に解釈すれば納得できるかと言うと、どことなく落ち着かないところがある。だから、ツヒニという別訓に惹かれる人がいる。前典にシタガフはわかるが、皇祖之跡にシタガフという言い方では舌足らずな感じがする。皇祖之跡にノベシタガフも、皇祖の事跡を述べて思い出し、それに遵うということなのかもしれないが、はたしてそのことをこのように表現するのか疑問である。出典の問題ではなく、ヤマトコトバの表現にかかわることである。
 「皇祖之跡」を問題にしている。ミオヤノ(ミ)アトをなぞるようなことを言わんがために「聿遵」と書いている。聿の字義には、「聿 所-以書也。楚謂之聿、呉謂之不律、燕謂之弗。从𦘒一声。凡聿之属皆从聿。」(説文)がある。聿=筆の意である。筆記具を表す名詞は関係なかろうと決めてかかるのは、言葉というものについて深く極めようとする姿勢を持たない人である。筆の古語はフミテである。疑問は氷解する。跡を踏むと言うではないか。先人の事跡を学んでそれを手本として行うこと、踏襲することである。そして、文字のことをフミという根拠として、嘘か誠か不確かながら鳥の足跡説が行われていた。

 前に立てる人の言はく、「汝、此の河にり、能く我があとめ」といひて、あとみてわたらしむ。……」といふ。(霊異記・下・九)
 筆 張華博物志に云はく、蒙恬、筆〈古文に笔に作る、布美天ふみて〉を造るといふ。(和名抄)
 吾が背子が あとみ求め 追ひ行かば 紀の関守い 留めてむかも(万545)
 Curaiuo fumu.(位を践む)官位に昇る.(日葡辞書169頁)
 問。書字不美フミ読。其由如何。答。師説、昔、新羅所上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲地而踏。自其後、訓云不美フミ也。今案、蒼頡見鳥踏地而所往之跡、作文字不美フミ云訓、依此而起歟。」(釈日本紀・巻第十六秘訓一)
 いとあやしき梵字とかいふやうなるあとにはべめれど、御覧じとどむべき節もや混じりはべるとてなむ。(源氏物語・若菜上)

 何当いかにしてか皇祖みおやみあとふみてしたがひ、ながきはまりあまつひつぎたもたむ。(崇神紀四年十月条、加藤良平訓)

 日本書紀の執筆者は興味深い記述を残している。中国は文字の国である。「聿遵前典」の「前典」は成文化されている。それを読み上げてそのとおりにするということが遵守するためのやりかたである。しかし、ヤマトの国には文字はなかった。つまり、「前典」はなくて、人の記憶の中に「皇祖之跡」があるばかりである。文字がないとは、字を書く道具、フミテ(聿)もないわけだが、足跡はあるから後続の者はそれを踏みて進めば遭難せずに目的地に辿り着けることを知っている。野生の思考にもとづくやり方を文明の思考のもとに書き表しているのである。あるいは、そういうことができるように当時のヤマトコトバは体裁を整えていっていた、ということである(注3)。とてもたくましい言語能力であると思う。まとめとして再掲する。

 惟我皇祖、諸天皇等、光-臨宸極者、豈為一身乎。蓋所-以司-牧人神、経-綸天下。故、能世闡玄功、時流至徳。今、朕奉-承大運、愛-育黎元。何当聿-遵皇祖之跡、永保窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。(原)
 これ皇祖みおやもろもろのすめらみことたちあまつひつぎ光臨しらししことは、あに一身ひとはしらみためならむや。けだ人神ひと司牧ととのへて、天下あめのした経綸をさめたまふ所以ゆゑなり。かれよよ玄功はるかなるいたはりひろめ、とき至徳いたれるうつくしびく。いまわれ大運あまつひつぎ奉承うけたまはりて、黎元おほみたからめぐやしなふ。何当いかにしてか皇祖みおやみあとふみてしたがひ、ながきはまりあまつひつぎたもたむ。群卿まへつきみたち百僚もものつかさいましたち忠貞ただしきことつくして、とも天下あめのしたやすみせむこと、またからざらむや。(訓)
 そもそも、我が皇祖の天皇たちが天子の位に即いてこられたのは、ただ自分の身一身のためなどではありません。思うに、人の身と心を養い天下を治め整えるためなのです。だからこそ、代々、奥深い功績をよくあらわし、時には最上の徳を行きわたらせることができました。今、私は、皇位に即くべき定めを謹んで承けまして、民をめぐみ養う運びとなっています。どうしたら皇祖の跡を踏んでそれにしたがうことになり、永く窮まりのない皇統を保つことができるのでしょうか。そう、群卿百官たちよ、あなたたちが忠貞を尽くし、私と一緒に天下を安く平らかに治めるということは、それはそれだけで良いことになるのではありませんか。(今後ともよろしく。)(訳)

 うまく行ってきたことがこれからも続くようにするためには踏襲することが大事である。だから、「群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下」であることも良いことだ、と言っている。天皇自身が「何当いかにしてか」と自問し、それを承ける形で群卿百僚に呼びかけている。自問した途端に問題は解決しているから、このような文の並びのままで演説が成立している。「聿」をノブやツヒニ、あるいはココニと訓んでいては、自問した問題は問いのまま残されていて、群卿百僚に呼びかけるには至らなかったであろう。すべては、フミテによってうまくいくと悟った瞬間を活写するために書かれている。
 このことは、後の天皇の代替わりごとに大臣や大連が引き続き就任することの拠りどころにもなっている。日本書紀では天皇代ごとに大連、大臣などが「如故」就任する記事が多く見られる。

 元年春正月戊戌朔壬子、命有司、設壇場於磐余甕栗、陟天皇位。遂定宮焉。尊葛城韓媛皇太夫人。以大伴室屋大連大連、平群真鳥大臣為大臣、並如故。臣連伴造等、各依職位焉。(清寧紀)
 是日、即天皇位。以大伴金村大連大連、許勢男人大臣為大臣、物部麁鹿火大連為大連、並如故。是以、大臣大連等各依職位焉。(継体紀元年)
 是月、以大伴大連大連、物部麁鹿火大連為大連、並如故。(安閑前紀)
 二月壬申朔、以大伴金村大連大連、物部麁鹿火大連為大連、並如故。又以蘇我稲目宿禰大臣。阿倍大麻呂臣為大夫。(宣化紀元年)
 冬十二月庚辰朔甲申、天国排開広庭皇子、即天皇位。時年若干。尊皇后皇太后。大伴金村大連・物部尾輿大連為大連、及蘇我稲目宿禰大臣為大臣、並如故。(欽明前紀)
 元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子即天皇位。尊皇后皇太后。是月、宮于百済大井。以物部弓削守屋大連大連故、以蘇我馬子宿禰為大臣。(敏達紀)
 九月甲寅朔戊午、天皇即天皇位。宮於磐余、名曰池辺双槻宮。以蘇我馬子宿禰大臣、物部弓削守屋連為大連、並如故。(用明前紀)
 八月癸卯朔甲辰、炊屋姫尊與群臣、勧-進天皇即天皇之位。以蘇我馬子宿禰大臣故、卿大夫之位亦如故。(崇峻前紀)
 元年春正月丁巳朔辛未、皇后即天皇位。以蘇我臣蝦夷大臣故。(皇極紀)

 それ以外の場合、特に古い時代では記されない例が見られる。崇神紀でも名が残されているわけではないのは、大臣や大連といった制度がなかった、あるいは伝えられていなかったからであろう。反対に、雄略紀や孝徳紀のように新任ばかりのこともある。倭王武や大化改新のことを念頭に置けば、その含意するところは自ずと知られよう。
 古代中国において、王朝は文字によって永続が図られていた。一方、ヤマトにあってはちょっとした頓智の才覚を分かち合い、皇祖の跡をフミテしたがえば永く保たれることとなっている(注4)。馬鹿と鋏と言葉は使いようということである。街に哲学者あり、の時代であった(注5)
 以上、日本書紀執筆者が、「聿遵皇祖之跡」と書いて表そうとしていたところについて検討した。

(注)
(注1)古注本と新注本の訓みは次のとおりである。

 爾の祖を念ふ無しや、厥の徳をべ脩む。永言 命に改め、自 多福を求む。(古注本)
 爾の祖を念ふこと無からんや、ついに厥の徳を脩め、永く言れ命に配せば、おのづから多福を求めん。(新注本)

(注2)後漢書・梁統伝は、古く次のようにも訓まれていた。

 宜しく今の事にならならへて、之を往古験し前典にしたがふべし。事改め難きこと無し。至願に勝へず。願はくは召見を得ん。

(注3)フミテという語は、フミ(文)+テ(手)の意と考えられており、それがフンデと撥音化し、やがてフデと約されたとされている。では、そもそもの初めのフミテがどうして起こったかということについては、釈日本紀のフミという語についての、今日では評判の良くない不思議な説から捉えようとするのが本筋であろう。近世、近代に唱えられた語源説ではなく、平安時代にすでに行われていたからである。言葉がさまざまに活躍することによって互いにもたれ合いながら確かなものとなっていたことが検証され、当たらずと言えども遠からずな考えであったようである。
 コセリウ2014.に次のようにある。

 言語が変化するのは、それがまだできあがっていない﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅からではなく、その活動によって絶えずからにほかならない。別のことばで言えば、言語が変化するのは話されるからであり、それがの技術と様式としてのみ存在するからである。話す行為は創造的で自由で目的をもったいとなみであり、またそれはひとそれぞれに異なる、次々に現れる新たな表現目的によってきまるという点で常に新しい。話し手は、かれの言語的知識が提供する、すでに準備された技術と資材を利用しつつ、表現を創り出し、あるいは構築する。言語とは、したがって話し手にのではなく、提供されるものである。つまり話し手は、自分の表現の自由を実現するためにそれを使するのである。(104頁)

(注4)彼我に「聿」の果たす役割は同じと見た、ないし、見なすようにしたということである。
(注5)日本書紀から“学ぶ”べきことはソシュールを超えて多い。研究“対象”にしてしまっては取り返しがきかない。

(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37巻、天理大学国語国文学会、1993年3月。天理大学学術情報リポジトリhttps:/opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
コセリウ2014. E・コセリウ著、田中克彦訳『言語変化という問題─共時態、通時態、歴史─』岩波書店(岩波文庫)、2014年。(エウジェニオ・コセリウ著、田中克彦・かめいたかし訳『うつりゆくこそことばなれ─サンクロニー・ディアクロニー・ヒストリア─』クロノス、1981年。)

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