崇神紀四年条に次のようにある。
四年冬十月庚申朔壬午、詔曰、惟我皇祖、諸天皇等、光臨宸極者、豈為一身乎。蓋所以司牧人神、経綸天下。故、能世闡玄功、時流至徳。今朕奉承大運、愛育黎元。何当聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。
このうち、「何当聿遵皇祖之跡」の「聿」字を何と訓んだらいいのかが課題である。「聿」は紀のなかでここにしか使われていない。古訓には次のようにある。
何当聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。
何当にしてか皇祖の跡に聿べ遵ひて、永く窮無き祚を保たむ。(北野本訓)
何当にしてか聿に皇祖の跡に遵ひて、永窮無き祚を保たむ。(熱田本訓、ツヒニは左傍訓)
すべての文字に傍訓が施されているわけではない。今日の標準的な訓み方として大系本日本書紀をあげ、考察対象の確認とする。
四年の冬十月の庚申の朔壬午に、詔して曰はく、「惟我が皇祖、諸天皇等、宸極を光臨ししことは、豈一身の為ならむや。蓋し人神を司牧へて、天下を経綸めたまふ所以なり。故、能く世玄功を闡め、時に至徳を流く。今、朕大運に奉承りて、黎元を愛み育ふ。何当にしてか聿に皇祖の跡に遵ひて、永く窮無き祚を保たむ。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭して、共に天下を安せむこと、亦可からざらむや」とのたまふ。(大系本日本書紀276頁)
大系本日本書紀の注に、「聿は、述也ともあって、ノベとも訓めるが、熱本の訓に従い、ツヒニと訓む。尚書・湯誥「聿求二元聖一」の孔氏伝に「聿、遂也」。下文の永保の永に対する語。」(277頁)とある。この考え方は支持を得ている。
崇神紀四年十月条の詔に、
┌─聿遵二皇祖之跡一、
何当│
└─永保二無窮之祚一。
とみえる。これは対句である以上、「聿遵」(北野本)と訓むのは具合がわるく、「聿」は「永」の対となる副詞に訓むべきである。「聿」は、『尚書』湯誥「聿求二元聖一」の孔氏伝に「遂也」 とみえ、「ツヒニ」は「ナガク」 と対をなす(「正義」に、前のことを述べ遂げる意から「聿」は「遂」の意となる、という)。古訓のうち熱田本「ツヒニ」 に従うべきである。(小島2019.200頁)
最近の注釈書でも、「聿」はツヒニと解され、次のような現代語訳が行われている。
四年(紀元前九四年)冬十月庚申の朔の壬午(二十三日)、天皇は詔して、「そもそも、我が皇祖の天皇たちがみな皇位に即かれてきたのは、ただ一身のためなどではない。思うに、人の身と心を養い天下を治めるためである。だからこそ、よく世々に深遠な功績を顕し、時々に最上の徳を行きわたらせることができたのだ。今、私は皇位に即くべきさだめを謹んで承け、民を愛育することとなった。どうすれば遂に皇祖の事跡に従い、永く窮まりのない皇位を保つことができるだろうか。群卿百僚よ、お前たちが忠誠を尽くし、共に天下を平安に治めるのが良いではないか」と言った。(新釈全訳日本書紀378頁)
この考え方に対する反論は、中村1993.にある。
……書紀のこの文では、ツヒニと訓んではこの聿字は何を承けて何に続くのかが示されない。 出典の『後漢書』の文も、「明帝聿遵」で始まり、聿は先行の何等の事柄も承けてはいない。文調も 「明帝△△□□、〇〇●●」と二字ずつまとまる簡潔な句で、聿遵は切り離せる音調とは思えない。故に、聿は、聿、循也(玉篇)とあるように下字遵字と同義であり、聿遵は重言であると理解する。諸本のノベシタガヒの訓は正しく、文意も明瞭である。ツヒニの訓に改める必要はない箇所と考える。他にも、
臣今所レ言、験二之往古一、聿二循前典一、事無二難解一、不レ勝二至願一。(後漢書梁統伝)の聿=循の例が見える。(82頁)
出典を後漢書の「明帝聿遵」に決めているのは、書紀集解に引かれているからである。いささか弱るのは、今日、「聿」は今日、「ここに」と訓まれることが多い点である。
明帝は聿に先旨に遵ひ、宮教頗る脩まり、嬪后を登建するに必ず令しき徳を先にし、内には閫より出づるの言無く、権は私溺の授無く、其の敝を矯せりと謂ふ可し。(明帝聿二遵先旨一、宮教頗脩、登二-建嬪后一、必先二令徳一、内無二出レ閫之言一、権無二私溺之授一、可レ謂矯二其敝一矣。)(後漢書・皇后紀上)
宜しく今事を比方して、之を往古に験すべく、聿に前典に遵へば、事は改め難きこと無し。至願に勝へず、願はくは召見せらるることを得て、……(宜比二-方今事一、験二之往古一、聿遵二前典一、事無レ難レ改。不レ勝二至願一、願得二召見一、……)(後漢書・梁統伝)
爾の祖を念ふこと無かれ、聿に厥の徳を脩め、永く言に命を配し、自て多福を求めよ。(無レ念二爾祖一、聿脩二厥徳一。永言配レ命、自求二多福一。)(詩経・大雅・文王)
詩経の例では、集伝に「聿、発語辞」と説明がありココニと訓まれるようになっているが、古く毛伝には「聿、述」とあり、その前に「無念、念也」と注され、王が祖先の王たちの徳について縷々述べ脩めたという意であるとしていた(注1)。日本書紀の場合、対句に訓むべき根拠は文体以外には特にないから旧訓のように訓まれていたということになる。小島氏は、「聿」と「永」とが並んで出て来ているから聿=遂の意ととり、ことさらに対句である点を強調したわけだが、詩経の今日的解釈でも古代的解釈でもその限りではないことになっている。ややこしい話である。
こうなると、日本書紀の編纂執筆者が何を見てそのように書いたかということばかりを気にしなくてはならなくなる。類書を引いたとみるのが蓋然性として高い。
夫至仁至徳、垂風垂化、内脩訓範、外陶氓俗、百年之教、淳道載凝。而百年既終、遺愛斯軫、莫不肅虔寑廟、著名全石、貽其後昆、聿遵前典。是以禹堂既毀、増飾丹青。堯碑載焚、重覩刊勒。(芸文類聚・巻二十一・譲・梁陸雲太伯碑)
「聿遵前典」の形は後漢書・梁統伝と同じである(注2)。今風に「聿に前典に遵ふ」ではなく、「前典に聿べ遵ふ」、あるいは中村氏の指摘する聿=循、説文に「述 循也、从レ辵术声。」とあるところから、「前典に聿遵ふ」と訓んだのかもしれない。
崇神紀の記述も同様に解釈すれば納得できるかと言うと、どことなく落ち着かないところがある。だから、ツヒニという別訓に惹かれる人がいる。前典にシタガフはわかるが、皇祖之跡にシタガフという言い方では舌足らずな感じがする。皇祖之跡にノベシタガフも、皇祖の事跡を述べて思い出し、それに遵うということなのかもしれないが、はたしてそのことをこのように表現するのか疑問である。出典の問題ではなく、ヤマトコトバの表現にかかわることである。
「皇祖之跡」を問題にしている。ミオヤノ(ミ)アトをなぞるようなことを言わんがために「聿遵」と書いている。聿の字義には、「聿 所二-以書一也。楚謂二之聿一、呉謂二之不律一、燕謂二之弗一。从レ𦘒一声。凡聿之属皆从レ聿。」(説文)がある。聿=筆の意である。筆記具を表す名詞は関係なかろうと決めてかかるのは、言葉というものについて深く極めようとする姿勢を持たない人である。筆の古語はフミテである。疑問は氷解する。跡を踏むと言うではないか。先人の事跡を学んでそれを手本として行うこと、踏襲することである。そして、文字のことをフミという根拠として、嘘か誠か不確かながら鳥の足跡説が行われていた。
前に立てる人の言はく、「汝、此の河に没り、能く我が蹤を践め」といひて、躅を踏みて度らしむ。……」といふ。(霊異記・下・九)
筆 張華博物志に云はく、蒙恬、筆〈古文に笔に作る、布美天〉を造るといふ。(和名抄)
吾が背子が 跡履み求め 追ひ行かば 紀の関守い 留めてむかも(万545)
Curaiuo fumu.(位を践む)官位に昇る.(日葡辞書169頁)
〽問。書字乃訓於不美止読。其由如何。〽答。師説、昔、新羅所レ上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲レ地而踏。自レ其後、訓云二不美一也。今案、蒼頡見二鳥踏レ地而所レ往之跡一、作二文字一。不美止云訓、依レ此而起歟。」(釈日本紀・巻第十六秘訓一)
いとあやしき梵字とかいふやうなる跡にはべめれど、御覧じとどむべき節もや混じりはべるとてなむ。(源氏物語・若菜上)
何当にしてか皇祖の跡を聿遵ひ、永く窮無き祚を保たむ。(崇神紀四年十月条、加藤良平訓)
日本書紀の執筆者は興味深い記述を残している。中国は文字の国である。「聿遵前典」の「前典」は成文化されている。それを読み上げてそのとおりにするということが遵守するためのやりかたである。しかし、ヤマトの国には文字はなかった。つまり、「前典」はなくて、人の記憶の中に「皇祖之跡」があるばかりである。文字がないとは、字を書く道具、フミテ(聿)もないわけだが、足跡はあるから後続の者はそれを踏みて進めば遭難せずに目的地に辿り着けることを知っている。野生の思考にもとづくやり方を文明の思考のもとに書き表しているのである。あるいは、そういうことができるように当時のヤマトコトバは体裁を整えていっていた、ということである(注3)。とてもたくましい言語能力であると思う。まとめとして再掲する。
惟我皇祖、諸天皇等、光二-臨宸極一者、豈為二一身一乎。蓋所下-以司二-牧人神一、経中-綸天下上。故、能世闡二玄功一、時流二至徳一。今、朕奉二-承大運一、愛二-育黎元一。何当聿二-遵皇祖之跡一、永保二無レ窮之祚一。其群卿百僚、竭二爾忠貞一、共安二天下一、不二亦可一乎。(原)
惟我が皇祖、諸天皇等、宸極を光臨ししことは、豈一身の為ならむや。蓋し人神を司牧へて、天下を経綸めたまふ所以なり。故、能く世玄功を闡め、時に至徳を流く。今、朕大運に奉承りて、黎元を愛み育ふ。何当にしてか皇祖の跡を聿遵ひ、永く窮無き祚を保たむ。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭して、共に天下を安せむこと、亦可からざらむや。(訓)
そもそも、我が皇祖の天皇たちが天子の位に即いてこられたのは、ただ自分の身一身のためなどではありません。思うに、人の身と心を養い天下を治め整えるためなのです。だからこそ、代々、奥深い功績をよくあらわし、時には最上の徳を行きわたらせることができました。今、私は、皇位に即くべき定めを謹んで承けまして、民をめぐみ養う運びとなっています。どうしたら皇祖の跡を踏んでそれにしたがうことになり、永く窮まりのない皇統を保つことができるのでしょうか。そう、群卿百官たちよ、あなたたちが忠貞を尽くし、私と一緒に天下を安く平らかに治めるということは、それはそれだけで良いことになるのではありませんか。(今後ともよろしく。)(訳)
うまく行ってきたことがこれからも続くようにするためには踏襲することが大事である。だから、「群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下」であることも良いことだ、と言っている。天皇自身が「何当」と自問し、それを承ける形で群卿百僚に呼びかけている。自問した途端に問題は解決しているから、このような文の並びのままで演説が成立している。「聿」をノブやツヒニ、あるいはココニと訓んでいては、自問した問題は問いのまま残されていて、群卿百僚に呼びかけるには至らなかったであろう。すべては、フミテによってうまくいくと悟った瞬間を活写するために書かれている。
このことは、後の天皇の代替わりごとに大臣や大連が引き続き就任することの拠りどころにもなっている。日本書紀では天皇代ごとに大連、大臣などが「如レ故」就任する記事が多く見られる。
元年春正月戊戌朔壬子、命二有司一、設二壇場於磐余甕栗一、陟天皇位。遂定レ宮焉。尊二葛城韓媛一為二皇太夫人一。以二大伴室屋大連一為二大連一、平群真鳥大臣為二大臣一、並如レ故。臣連伴造等、各依二職位一焉。(清寧紀)
是日、即天皇位。以二大伴金村大連一為二大連一、許勢男人大臣為二大臣一、物部麁鹿火大連為二大連一、並如レ故。是以、大臣大連等各依二職位一焉。(継体紀元年)
是月、以二大伴大連一為二大連一、物部麁鹿火大連為二大連一、並如レ故。(安閑前紀)
二月壬申朔、以二大伴金村大連一為二大連一、物部麁鹿火大連為二大連一、並如レ故。又以二蘇我稲目宿禰一為二大臣一。阿倍大麻呂臣為二大夫一。(宣化紀元年)
冬十二月庚辰朔甲申、天国排開広庭皇子、即天皇位。時年若干。尊二皇后一曰二皇太后一。大伴金村大連・物部尾輿大連為二大連一、及蘇我稲目宿禰大臣為二大臣一、並如レ故。(欽明前紀)
元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子即天皇位。尊二皇后一曰二皇太后一。是月、宮二于百済大井一。以二物部弓削守屋大連一為二大連一如レ故、以蘇我馬子宿禰為二大臣一。(敏達紀)
九月甲寅朔戊午、天皇即天皇位。宮二於磐余一、名曰二池辺双槻宮一。以二蘇我馬子宿禰一為二大臣一、物部弓削守屋連為二大連一、並如レ故。(用明前紀)
八月癸卯朔甲辰、炊屋姫尊與二群臣一、勧二-進天皇一即天皇之位。以二蘇我馬子宿禰一為二大臣一如レ故、卿大夫之位亦如レ故。(崇峻前紀)
元年春正月丁巳朔辛未、皇后即天皇位。以二蘇我臣蝦夷一為二大臣一如レ故。(皇極紀)
それ以外の場合、特に古い時代では記されない例が見られる。崇神紀でも名が残されているわけではないのは、大臣や大連といった制度がなかった、あるいは伝えられていなかったからであろう。反対に、雄略紀や孝徳紀のように新任ばかりのこともある。倭王武や大化改新のことを念頭に置けば、その含意するところは自ずと知られよう。
古代中国において、王朝は文字によって永続が図られていた。一方、ヤマトにあってはちょっとした頓智の才覚を分かち合い、皇祖の跡をフミテしたがえば永く保たれることとなっている(注4)。馬鹿と鋏と言葉は使いようということである。街に哲学者あり、の時代であった(注5)。
以上、日本書紀執筆者が、「聿遵皇祖之跡」と書いて表そうとしていたところについて検討した。
(注)
(注1)古注本と新注本の訓みは次のとおりである。
爾の祖を念ふ無しや、厥の徳を聿べ脩む。永言 命に改め、自 多福を求む。(古注本)
爾の祖を念ふこと無からんや、聿に厥の徳を脩め、永く言れ命に配せば、自から多福を求めん。(新注本)
(注2)後漢書・梁統伝は、古く次のようにも訓まれていた。
宜しく今の事に比へ方へて、之を往古験し前典に聿べ遵ふべし。事改め難きこと無し。至願に勝へず。願はくは召見を得ん。
(注3)フミテという語は、フミ(文)+テ(手)の意と考えられており、それがフンデと撥音化し、やがてフデと約されたとされている。では、そもそもの初めのフミテがどうして起こったかということについては、釈日本紀のフミという語についての、今日では評判の良くない不思議な説から捉えようとするのが本筋であろう。近世、近代に唱えられた語源説ではなく、平安時代にすでに行われていたからである。言葉がさまざまに活躍することによって互いにもたれ合いながら確かなものとなっていたことが検証され、当たらずと言えども遠からずな考えであったようである。
コセリウ2014.に次のようにある。
言語が変化するのは、それがまだできあがっていないからではなく、その活動によって絶えずできつつあるからにほかならない。別のことばで言えば、言語が変化するのは話されるからであり、それが話す行為の技術と様式としてのみ存在するからである。話す行為は創造的で自由で目的をもったいとなみであり、またそれはひとそれぞれに異なる、次々に現れる新たな表現目的によってきまるという点で常に新しい。話し手は、かれの言語的知識が提供する、すでに準備された技術と資材を利用しつつ、表現を創り出し、あるいは構築する。言語とは、したがって話し手に強制されるのではなく、提供されるものである。つまり話し手は、自分の表現の自由を実現するためにそれを駆使するのである。(104頁)
(注4)彼我に「聿」の果たす役割は同じと見た、ないし、見なすようにしたということである。
(注5)日本書紀から“学ぶ”べきことはソシュールを超えて多い。研究“対象”にしてしまっては取り返しがきかない。
(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37巻、天理大学国語国文学会、1993年3月。天理大学学術情報リポジトリhttps:/opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
コセリウ2014. E・コセリウ著、田中克彦訳『言語変化という問題─共時態、通時態、歴史─』岩波書店(岩波文庫)、2014年。(エウジェニオ・コセリウ著、田中克彦・かめいたかし訳『うつりゆくこそことばなれ─サンクロニー・ディアクロニー・ヒストリア─』クロノス、1981年。)
四年冬十月庚申朔壬午、詔曰、惟我皇祖、諸天皇等、光臨宸極者、豈為一身乎。蓋所以司牧人神、経綸天下。故、能世闡玄功、時流至徳。今朕奉承大運、愛育黎元。何当聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。其群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下、不亦可乎。
このうち、「何当聿遵皇祖之跡」の「聿」字を何と訓んだらいいのかが課題である。「聿」は紀のなかでここにしか使われていない。古訓には次のようにある。
何当聿遵皇祖之跡、永保無窮之祚。
何当にしてか皇祖の跡に聿べ遵ひて、永く窮無き祚を保たむ。(北野本訓)
何当にしてか聿に皇祖の跡に遵ひて、永窮無き祚を保たむ。(熱田本訓、ツヒニは左傍訓)
すべての文字に傍訓が施されているわけではない。今日の標準的な訓み方として大系本日本書紀をあげ、考察対象の確認とする。
四年の冬十月の庚申の朔壬午に、詔して曰はく、「惟我が皇祖、諸天皇等、宸極を光臨ししことは、豈一身の為ならむや。蓋し人神を司牧へて、天下を経綸めたまふ所以なり。故、能く世玄功を闡め、時に至徳を流く。今、朕大運に奉承りて、黎元を愛み育ふ。何当にしてか聿に皇祖の跡に遵ひて、永く窮無き祚を保たむ。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭して、共に天下を安せむこと、亦可からざらむや」とのたまふ。(大系本日本書紀276頁)
大系本日本書紀の注に、「聿は、述也ともあって、ノベとも訓めるが、熱本の訓に従い、ツヒニと訓む。尚書・湯誥「聿求二元聖一」の孔氏伝に「聿、遂也」。下文の永保の永に対する語。」(277頁)とある。この考え方は支持を得ている。
崇神紀四年十月条の詔に、
┌─聿遵二皇祖之跡一、
何当│
└─永保二無窮之祚一。
とみえる。これは対句である以上、「聿遵」(北野本)と訓むのは具合がわるく、「聿」は「永」の対となる副詞に訓むべきである。「聿」は、『尚書』湯誥「聿求二元聖一」の孔氏伝に「遂也」 とみえ、「ツヒニ」は「ナガク」 と対をなす(「正義」に、前のことを述べ遂げる意から「聿」は「遂」の意となる、という)。古訓のうち熱田本「ツヒニ」 に従うべきである。(小島2019.200頁)
最近の注釈書でも、「聿」はツヒニと解され、次のような現代語訳が行われている。
四年(紀元前九四年)冬十月庚申の朔の壬午(二十三日)、天皇は詔して、「そもそも、我が皇祖の天皇たちがみな皇位に即かれてきたのは、ただ一身のためなどではない。思うに、人の身と心を養い天下を治めるためである。だからこそ、よく世々に深遠な功績を顕し、時々に最上の徳を行きわたらせることができたのだ。今、私は皇位に即くべきさだめを謹んで承け、民を愛育することとなった。どうすれば遂に皇祖の事跡に従い、永く窮まりのない皇位を保つことができるだろうか。群卿百僚よ、お前たちが忠誠を尽くし、共に天下を平安に治めるのが良いではないか」と言った。(新釈全訳日本書紀378頁)
この考え方に対する反論は、中村1993.にある。
……書紀のこの文では、ツヒニと訓んではこの聿字は何を承けて何に続くのかが示されない。 出典の『後漢書』の文も、「明帝聿遵」で始まり、聿は先行の何等の事柄も承けてはいない。文調も 「明帝△△□□、〇〇●●」と二字ずつまとまる簡潔な句で、聿遵は切り離せる音調とは思えない。故に、聿は、聿、循也(玉篇)とあるように下字遵字と同義であり、聿遵は重言であると理解する。諸本のノベシタガヒの訓は正しく、文意も明瞭である。ツヒニの訓に改める必要はない箇所と考える。他にも、
臣今所レ言、験二之往古一、聿二循前典一、事無二難解一、不レ勝二至願一。(後漢書梁統伝)の聿=循の例が見える。(82頁)
出典を後漢書の「明帝聿遵」に決めているのは、書紀集解に引かれているからである。いささか弱るのは、今日、「聿」は今日、「ここに」と訓まれることが多い点である。
明帝は聿に先旨に遵ひ、宮教頗る脩まり、嬪后を登建するに必ず令しき徳を先にし、内には閫より出づるの言無く、権は私溺の授無く、其の敝を矯せりと謂ふ可し。(明帝聿二遵先旨一、宮教頗脩、登二-建嬪后一、必先二令徳一、内無二出レ閫之言一、権無二私溺之授一、可レ謂矯二其敝一矣。)(後漢書・皇后紀上)
宜しく今事を比方して、之を往古に験すべく、聿に前典に遵へば、事は改め難きこと無し。至願に勝へず、願はくは召見せらるることを得て、……(宜比二-方今事一、験二之往古一、聿遵二前典一、事無レ難レ改。不レ勝二至願一、願得二召見一、……)(後漢書・梁統伝)
爾の祖を念ふこと無かれ、聿に厥の徳を脩め、永く言に命を配し、自て多福を求めよ。(無レ念二爾祖一、聿脩二厥徳一。永言配レ命、自求二多福一。)(詩経・大雅・文王)
詩経の例では、集伝に「聿、発語辞」と説明がありココニと訓まれるようになっているが、古く毛伝には「聿、述」とあり、その前に「無念、念也」と注され、王が祖先の王たちの徳について縷々述べ脩めたという意であるとしていた(注1)。日本書紀の場合、対句に訓むべき根拠は文体以外には特にないから旧訓のように訓まれていたということになる。小島氏は、「聿」と「永」とが並んで出て来ているから聿=遂の意ととり、ことさらに対句である点を強調したわけだが、詩経の今日的解釈でも古代的解釈でもその限りではないことになっている。ややこしい話である。
こうなると、日本書紀の編纂執筆者が何を見てそのように書いたかということばかりを気にしなくてはならなくなる。類書を引いたとみるのが蓋然性として高い。
夫至仁至徳、垂風垂化、内脩訓範、外陶氓俗、百年之教、淳道載凝。而百年既終、遺愛斯軫、莫不肅虔寑廟、著名全石、貽其後昆、聿遵前典。是以禹堂既毀、増飾丹青。堯碑載焚、重覩刊勒。(芸文類聚・巻二十一・譲・梁陸雲太伯碑)
「聿遵前典」の形は後漢書・梁統伝と同じである(注2)。今風に「聿に前典に遵ふ」ではなく、「前典に聿べ遵ふ」、あるいは中村氏の指摘する聿=循、説文に「述 循也、从レ辵术声。」とあるところから、「前典に聿遵ふ」と訓んだのかもしれない。
崇神紀の記述も同様に解釈すれば納得できるかと言うと、どことなく落ち着かないところがある。だから、ツヒニという別訓に惹かれる人がいる。前典にシタガフはわかるが、皇祖之跡にシタガフという言い方では舌足らずな感じがする。皇祖之跡にノベシタガフも、皇祖の事跡を述べて思い出し、それに遵うということなのかもしれないが、はたしてそのことをこのように表現するのか疑問である。出典の問題ではなく、ヤマトコトバの表現にかかわることである。
「皇祖之跡」を問題にしている。ミオヤノ(ミ)アトをなぞるようなことを言わんがために「聿遵」と書いている。聿の字義には、「聿 所二-以書一也。楚謂二之聿一、呉謂二之不律一、燕謂二之弗一。从レ𦘒一声。凡聿之属皆从レ聿。」(説文)がある。聿=筆の意である。筆記具を表す名詞は関係なかろうと決めてかかるのは、言葉というものについて深く極めようとする姿勢を持たない人である。筆の古語はフミテである。疑問は氷解する。跡を踏むと言うではないか。先人の事跡を学んでそれを手本として行うこと、踏襲することである。そして、文字のことをフミという根拠として、嘘か誠か不確かながら鳥の足跡説が行われていた。
前に立てる人の言はく、「汝、此の河に没り、能く我が蹤を践め」といひて、躅を踏みて度らしむ。……」といふ。(霊異記・下・九)
筆 張華博物志に云はく、蒙恬、筆〈古文に笔に作る、布美天〉を造るといふ。(和名抄)
吾が背子が 跡履み求め 追ひ行かば 紀の関守い 留めてむかも(万545)
Curaiuo fumu.(位を践む)官位に昇る.(日葡辞書169頁)
〽問。書字乃訓於不美止読。其由如何。〽答。師説、昔、新羅所レ上之表、其言詞、太不敬。仍怒擲レ地而踏。自レ其後、訓云二不美一也。今案、蒼頡見二鳥踏レ地而所レ往之跡一、作二文字一。不美止云訓、依レ此而起歟。」(釈日本紀・巻第十六秘訓一)
いとあやしき梵字とかいふやうなる跡にはべめれど、御覧じとどむべき節もや混じりはべるとてなむ。(源氏物語・若菜上)
何当にしてか皇祖の跡を聿遵ひ、永く窮無き祚を保たむ。(崇神紀四年十月条、加藤良平訓)
日本書紀の執筆者は興味深い記述を残している。中国は文字の国である。「聿遵前典」の「前典」は成文化されている。それを読み上げてそのとおりにするということが遵守するためのやりかたである。しかし、ヤマトの国には文字はなかった。つまり、「前典」はなくて、人の記憶の中に「皇祖之跡」があるばかりである。文字がないとは、字を書く道具、フミテ(聿)もないわけだが、足跡はあるから後続の者はそれを踏みて進めば遭難せずに目的地に辿り着けることを知っている。野生の思考にもとづくやり方を文明の思考のもとに書き表しているのである。あるいは、そういうことができるように当時のヤマトコトバは体裁を整えていっていた、ということである(注3)。とてもたくましい言語能力であると思う。まとめとして再掲する。
惟我皇祖、諸天皇等、光二-臨宸極一者、豈為二一身一乎。蓋所下-以司二-牧人神一、経中-綸天下上。故、能世闡二玄功一、時流二至徳一。今、朕奉二-承大運一、愛二-育黎元一。何当聿二-遵皇祖之跡一、永保二無レ窮之祚一。其群卿百僚、竭二爾忠貞一、共安二天下一、不二亦可一乎。(原)
惟我が皇祖、諸天皇等、宸極を光臨ししことは、豈一身の為ならむや。蓋し人神を司牧へて、天下を経綸めたまふ所以なり。故、能く世玄功を闡め、時に至徳を流く。今、朕大運に奉承りて、黎元を愛み育ふ。何当にしてか皇祖の跡を聿遵ひ、永く窮無き祚を保たむ。其れ群卿百僚、爾の忠貞を竭して、共に天下を安せむこと、亦可からざらむや。(訓)
そもそも、我が皇祖の天皇たちが天子の位に即いてこられたのは、ただ自分の身一身のためなどではありません。思うに、人の身と心を養い天下を治め整えるためなのです。だからこそ、代々、奥深い功績をよくあらわし、時には最上の徳を行きわたらせることができました。今、私は、皇位に即くべき定めを謹んで承けまして、民をめぐみ養う運びとなっています。どうしたら皇祖の跡を踏んでそれにしたがうことになり、永く窮まりのない皇統を保つことができるのでしょうか。そう、群卿百官たちよ、あなたたちが忠貞を尽くし、私と一緒に天下を安く平らかに治めるということは、それはそれだけで良いことになるのではありませんか。(今後ともよろしく。)(訳)
うまく行ってきたことがこれからも続くようにするためには踏襲することが大事である。だから、「群卿百僚、竭爾忠貞、共安天下」であることも良いことだ、と言っている。天皇自身が「何当」と自問し、それを承ける形で群卿百僚に呼びかけている。自問した途端に問題は解決しているから、このような文の並びのままで演説が成立している。「聿」をノブやツヒニ、あるいはココニと訓んでいては、自問した問題は問いのまま残されていて、群卿百僚に呼びかけるには至らなかったであろう。すべては、フミテによってうまくいくと悟った瞬間を活写するために書かれている。
このことは、後の天皇の代替わりごとに大臣や大連が引き続き就任することの拠りどころにもなっている。日本書紀では天皇代ごとに大連、大臣などが「如レ故」就任する記事が多く見られる。
元年春正月戊戌朔壬子、命二有司一、設二壇場於磐余甕栗一、陟天皇位。遂定レ宮焉。尊二葛城韓媛一為二皇太夫人一。以二大伴室屋大連一為二大連一、平群真鳥大臣為二大臣一、並如レ故。臣連伴造等、各依二職位一焉。(清寧紀)
是日、即天皇位。以二大伴金村大連一為二大連一、許勢男人大臣為二大臣一、物部麁鹿火大連為二大連一、並如レ故。是以、大臣大連等各依二職位一焉。(継体紀元年)
是月、以二大伴大連一為二大連一、物部麁鹿火大連為二大連一、並如レ故。(安閑前紀)
二月壬申朔、以二大伴金村大連一為二大連一、物部麁鹿火大連為二大連一、並如レ故。又以二蘇我稲目宿禰一為二大臣一。阿倍大麻呂臣為二大夫一。(宣化紀元年)
冬十二月庚辰朔甲申、天国排開広庭皇子、即天皇位。時年若干。尊二皇后一曰二皇太后一。大伴金村大連・物部尾輿大連為二大連一、及蘇我稲目宿禰大臣為二大臣一、並如レ故。(欽明前紀)
元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子即天皇位。尊二皇后一曰二皇太后一。是月、宮二于百済大井一。以二物部弓削守屋大連一為二大連一如レ故、以蘇我馬子宿禰為二大臣一。(敏達紀)
九月甲寅朔戊午、天皇即天皇位。宮二於磐余一、名曰二池辺双槻宮一。以二蘇我馬子宿禰一為二大臣一、物部弓削守屋連為二大連一、並如レ故。(用明前紀)
八月癸卯朔甲辰、炊屋姫尊與二群臣一、勧二-進天皇一即天皇之位。以二蘇我馬子宿禰一為二大臣一如レ故、卿大夫之位亦如レ故。(崇峻前紀)
元年春正月丁巳朔辛未、皇后即天皇位。以二蘇我臣蝦夷一為二大臣一如レ故。(皇極紀)
それ以外の場合、特に古い時代では記されない例が見られる。崇神紀でも名が残されているわけではないのは、大臣や大連といった制度がなかった、あるいは伝えられていなかったからであろう。反対に、雄略紀や孝徳紀のように新任ばかりのこともある。倭王武や大化改新のことを念頭に置けば、その含意するところは自ずと知られよう。
古代中国において、王朝は文字によって永続が図られていた。一方、ヤマトにあってはちょっとした頓智の才覚を分かち合い、皇祖の跡をフミテしたがえば永く保たれることとなっている(注4)。馬鹿と鋏と言葉は使いようということである。街に哲学者あり、の時代であった(注5)。
以上、日本書紀執筆者が、「聿遵皇祖之跡」と書いて表そうとしていたところについて検討した。
(注)
(注1)古注本と新注本の訓みは次のとおりである。
爾の祖を念ふ無しや、厥の徳を聿べ脩む。永言 命に改め、自 多福を求む。(古注本)
爾の祖を念ふこと無からんや、聿に厥の徳を脩め、永く言れ命に配せば、自から多福を求めん。(新注本)
(注2)後漢書・梁統伝は、古く次のようにも訓まれていた。
宜しく今の事に比へ方へて、之を往古験し前典に聿べ遵ふべし。事改め難きこと無し。至願に勝へず。願はくは召見を得ん。
(注3)フミテという語は、フミ(文)+テ(手)の意と考えられており、それがフンデと撥音化し、やがてフデと約されたとされている。では、そもそもの初めのフミテがどうして起こったかということについては、釈日本紀のフミという語についての、今日では評判の良くない不思議な説から捉えようとするのが本筋であろう。近世、近代に唱えられた語源説ではなく、平安時代にすでに行われていたからである。言葉がさまざまに活躍することによって互いにもたれ合いながら確かなものとなっていたことが検証され、当たらずと言えども遠からずな考えであったようである。
コセリウ2014.に次のようにある。
言語が変化するのは、それがまだできあがっていないからではなく、その活動によって絶えずできつつあるからにほかならない。別のことばで言えば、言語が変化するのは話されるからであり、それが話す行為の技術と様式としてのみ存在するからである。話す行為は創造的で自由で目的をもったいとなみであり、またそれはひとそれぞれに異なる、次々に現れる新たな表現目的によってきまるという点で常に新しい。話し手は、かれの言語的知識が提供する、すでに準備された技術と資材を利用しつつ、表現を創り出し、あるいは構築する。言語とは、したがって話し手に強制されるのではなく、提供されるものである。つまり話し手は、自分の表現の自由を実現するためにそれを駆使するのである。(104頁)
(注4)彼我に「聿」の果たす役割は同じと見た、ないし、見なすようにしたということである。
(注5)日本書紀から“学ぶ”べきことはソシュールを超えて多い。研究“対象”にしてしまっては取り返しがきかない。
(引用・参考文献)
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・井上光貞・家永三郎・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
中村1993. 中村宗彦「『日本書紀』訓釈十題」『山邊道』第37巻、天理大学国語国文学会、1993年3月。天理大学学術情報リポジトリhttps:/opac.tenri-u.ac.jp/opac/repository/metadata/3066/
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1995年。
コセリウ2014. E・コセリウ著、田中克彦訳『言語変化という問題─共時態、通時態、歴史─』岩波書店(岩波文庫)、2014年。(エウジェニオ・コセリウ著、田中克彦・かめいたかし訳『うつりゆくこそことばなれ─サンクロニー・ディアクロニー・ヒストリア─』クロノス、1981年。)