(承前)
「愛」という語の本質と強要
愛すべき、また、うまし、という意味合いを、口頭語においてエ(e)一音にて表している。巧みな言葉である。イザナキとイザナミの掛け合いに使われているように、睦まじい間柄で、互いの距離がパーソナルスペースとされる45㎝以内で限りなく0㎝に近いところにあって言葉が交わされている(注14)。至近距離で交わす言葉には、言葉として短ければ短いものほど好まれる。もはや言葉などいらない時空である。「ねえ」、「うん」、「さあ」、「そう」、「うふ」、「ああ」などといった“言葉”とアイコンタクトだけで会話が成り立っている。互いの個は溶解している。
本稿でとり上げているサホビメとサホビコとのやりとりも、「面」で行われたことが示されている。
其のいろ妹に問ひて曰はく、「夫と兄と孰れか愛そ」といふ。答へて曰はく、「愛なるは兄そ」といふ。爾に沙本毘古王謀りて曰はく、「汝、寔に我を愛と思はば、吾と汝と天下を治めむ」といひて、……
爾に其の后、争ふべくもあらずと以為ひて、即ち天皇に白して言はく、「妾が兄沙本毘古王、妾に問ひて曰はく、夫と兄と孰れか愛そといふ。是に(注15)面に問ふに勝へぬが故に、妾答へて愛なるは兄そと曰ふか。……必ず是の表に有らむ」といふ。
是に、天皇の詔はく、「其の兄を怨むれども、猶愛なる其の后を得忍びず」とのりたまひき。故、即ち、后を得む心有り。……(垂仁記)
すべてはエ(e)の地口話である。端的な言葉づかいにして、口承文芸としての言い伝えに適している。サホビコは、少しずるいやり方で自分の妹に質問している。顔を近づけてきて、「夫と兄と孰れか愛そ」と聞いてきた。ヲと言うのとセと言うのとでは、どちらがエというに値するか? という問いである。それは、問いである。問いなのだから答えがなければならない。面と向かって迫られた究極の問いの答えは、yes か no かの二者択一である。特段に拒絶の態度で臨む相手ではないから、顔を近づけてきていても許容している。となれば、yes のことを聞いていると察知が行く。答えの yes という意味のヤマトコトバにはヲとセがある。いずれも応諾の意である(注16)。
否も諾も 欲しきまにまに 赦すべき 貌見ゆるかも 我も依りなむ(万3796)
何為むと 違ひは居らむ 否も諾も 友の並々 我も依りなむ(万3798)
鹿父の曰はく、「諾」といふ。(仁賢紀六年是秋)
ヲもセも、いずれも yes を表す。そのどちらが親しげで近い距離で使われる言葉かと言えば、セであろう。中古の例に、ヲは、距離のあるところから呼びかけ召す時の応答語としてあることが見える。セは、言い寄って近距離にある男と相手の女との間で語られている。
「いづら、この近江の君、こなたに」と召せば、「諾」と、いとけざやかに聞こえて出で来たり。(源氏物語・行幸)
又人の召す御いらへには、男は「よ」と申し、女は「を」と申す也。(古今著聞集・331)
親のまもりける女を、「否とも諾とも言ひ放て」と申ければ
否諾とも 言ひ放たれず 憂き物は 身を心とも せぬ世なりけり(後撰和歌集・937)
つまり、サホビコは、「面」に顔を近づけてきて、親しい気持ち、エ(愛)と形容できる応諾の言葉としては、ヲとセとどちらかと聞いてきた。だから、それはセということになりますね、とサホビメは答えている。裏の意味として、サホビコは、ヲ(夫)である天皇と、セ(兄)である自分と、どちらがエ、つまり愛すべき対象かと聞いてきていた。無文字時代の言葉遣いは音ばかりが頼りである。言葉は即ち事柄を表すとする言霊信仰のもとに暮らしていた。そうしなければ意味世界がカオスと化す。そのため、サホビメは、自らの答えた言葉(声)に呪縛されることとなった。エ(愛)であること、すなわち、親しげなる応諾の語はヲ(諾)よりもセ(諾)である、と言葉に発している。その途端に、エ(愛)なのはヲ(夫)よりもセ(兄)でなくてはならず、それが奇しくも応諾を意味するセ(諾)であったから、二重の束縛のなかで、サホビメはサホビコの謀に応諾する流れに飲み込まれた。今日的感覚では言葉の洒落にがんじがらめになるような二重拘束は不要と感じられるかもしれないが、無文字時代に言葉が言葉としてあるための担保は、発した言葉がその言葉自体を定義しつつあることが適切であると考えられていた。あたかも言葉を定義しながら用いるかのように、自然言語が組み上げられていたのである。表意文字である漢字を見て、何がしかの意味を理解する我々とは異なる言語生活を送っていたと言える。そういう話(咄・噺・譚)として物語られている。
それはずるいやり方だと気づいたから、天皇は「吾殆見欺乎。」と言っている。今日でも詐欺は、唐突に電話口で始まる。声のする距離が耳元0㎝である。困っているからお金を用意してほしいという相手は、「愛」と思える子や孫である。
サホビメが天皇の枕元にいて白状している状況に、「孰愛夫与兄。是不勝面問故、妾答曰、愛兄歟。」とあった。今となってよくよく考えてみると、サホビコと顔を近づけてのやりとりは、「ヲ(諾)とセ(諾)と孰れかエ(愛)そ」と聞かれたと思って、「エ(愛)なるはセ(諾)そ」と答えたつもりだったけれど、何か違うかったかしら? もうわからないわ、私、と言っている。「愛兄歟。」と「歟」字が付加されているのは、自分が答えたことに今更ながら疑問符を付けているということである。したがって、「歟」は直前の「愛兄」に付くのではなく、「答曰」を修飾している。あえて二重括弧にして表すとすれば、次のようになる。
「妾兄沙本毘古王問妾曰『孰愛夫与兄』。是不勝面問故妾答曰『愛兄』歟。……」
訓読文としては、上掲のように間接話法であることを示すようにすると伝わりやすい。最後の部分も、⑨同様のエ(愛)とエ(得)の音遊びに基づいた機知と理解される。其の后のことが愛(e)で仕方がないということから、得(e)ようとする心が見られると順接に承けていっている。接続詞「故」の意として正しい。この話は一貫して エ(e)の話なのである。
だから、サホビメがあと一歩のところで天皇に匕首を振るうのを止めた「哀情」も、エノココロと訓むべきとわかる。エ(愛・哀)とはどういうことなのか、その心情のあり様に胸ふさがれたという意味である。「三度挙而爾忍哀情」、「雖三度挙哀情忽起、不得刺頸而泣涙落沾於御面。」と、くり返し「三度」であると強調されるのも、エ(e)という言葉に、「愛」、「哀」、「得」の三つが出ているからであった。
もうひとつの「愛」と「故」
そして、状況は展開する。天皇は軍によってサホビコを討とうとするが、サホビコは稲城を作って応戦した。無文字文化の言霊信仰の下では、サホビメは兄に話したことをなかったことにはできず、宮の後ろの門から脱出して稲城に入っている。言を事とするように話の辻褄が合わされている。そのとき、其の后は妊娠していた。つづいて、天皇が攻勢をかけられなかった様子が描かれている。通常、次のように訓まれている。
此時其后妊身於是天皇不忍其后懐妊及愛重至于三年故廻其軍不急攻迫
此の時、其の后、妊身めり。是に天皇、其の后の懐妊めると、愛しみ重みして三年に至りぬるに忍びたまはず。故、其の軍を廻して、急けくも攻迫めたまはず。
后の妊娠しているのと愛して睦み合ったことが三年であったから我慢できなかった。だから、軍勢を稲城の周りに廻らせるばかりで、急襲することはなかった、という意に解されている。これでは「故」の語義が不明瞭である。
故廻其軍不急攻迫
故、廻れる其の軍、急けくは攻迫めず。
「故」以降の文の主語に「天皇」を補うのではなく、「廻其軍」が主語であると考えると、包囲している軍隊は天皇の気持ちを慮って急襲することはしなかった、という意に解せられる。「故」の意味がはっきりする。
於是天皇不忍其后懐妊及愛重至于三年
原文にこのようにある「愛」も、他と同様にエと訓まれるはずである。「此時其后妊身」を承けている文である。このとき后は妊娠していた。それに対して天皇は、懐妊していることを「忍」ことをしなかった。つまり、隠しおおすことなくオープンにしてしまった。だから、軍隊の方でもすぐに攻め立てることはできなくなったのである。すると、「及愛重至于三年」という文が何を表しているのかが問題となる。
「及」は助詞のトの意として、懐妊と三年にわたる恩寵とに耐えがたくなっていた、と解されてきた。天皇の感情ばかりが強調される形になっている。近代の小説風に、個人の内面を描写して煩悶ばかりを言い伝えることは不自然で考えにくい。無文字時代に口頭で話しているとするならただの愚痴の叙述になる。
記において、「及」は、接続詞のマタの意でも用いられている。
爾神倭伊波礼毘古命儵忽為遠延及御軍皆遠延而伏。
爾に、神倭伊波礼毘古命、儵忽に遠延為、及御軍皆遠延して伏しき。(神武記)
重文になっている。マタは、同様のことが重ねて行われるときに用いられる接続詞である。記において、「重」は三重・八重のヘ、序でカサヌの意に用いられている。ヘ(fe)は、宮の周囲を廻らす塀、垣根の意を表わすことがある。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
この場面でも、后のサホビメは「後門(トは甲類)より逃げ出でて」いた。宮の廻れる垣根より外へ出て行ったのである。御子が生まれてからも、「故、其の御子を出して、稲城の外に置きて、天皇に白さしむらく、……」というように、稲城の囲みの「外(トは甲類)」であることが示されている。それが一重なのか三重なのか八重なのかによらず、めぐりがあるから内と外は仕切られている。
すなわち、「愛」と言い続けることが何回にもわたって三年続いていることを表している。そう考えると、後文の「故廻其軍不急攻迫」の「廻其軍」が、稲城を何重にも取り囲んでいることにつながりわかりやすい。エ(e)という言葉(音)が重なり合った形に、エエ(ee)という言葉がある。軍隊を鼓舞する言葉である。次の例に見える「いのごふ」は、敵対の意を強く示し敵に向って攻勢の気勢をあげることである。
然くして、其の弟宇迦斯が献れる大饗は、悉く其の御軍に賜ひき。此の時に歌ひて曰はく、
宇陀の 高城に 鴫罠張る …… ええしやごしや(亞亞音引志夜胡志夜)此は、いのごふそ ああしやごしや(阿阿音引志夜胡志夜)此は、嘲咲ふぞ(記9)
したがって、次のように、重文+「故……」の形で訓むのが正しい(注17)。
此の時、其の后、妊身めり。是に天皇、其の后の懐妊めるを忍びず、及愛の重三年に至る。故、廻れる其の軍、急けくは攻迫めず。
天皇は、后の妊娠していることを隠さなかった。それでも軍隊の統率者であるから「ええ」と鼓舞していた。しかし、軍隊の方では、「ええ」は天皇の哀しい歎き声に聞こえ、「愛」「愛」とくり返す声に聞こえた。ああ、天皇は、本当に后のことが好きでたまらないんだなあと悟っている。最高司令官である天皇が、稲城を何重にも廻らしている軍に呼びかけられている鼓舞の声、「ええ」は、「愛」の重、くり返されている「愛」の気持ち、天皇の愛惜の吐露と受け取られた。だから攻められなかったのである。
「三年」は長い期間でありつつ節目でもある。御子が生まれて話が展開し始めている(注18)。
まとめ
垂仁記の「愛」字は、すべてエ(e)と訓む。「可愛」の意、愛すべき、の意味の口頭語に発した語と考えられる。すなわち、サホビメの物語は、同じ yes と認める語を使うとき、ヲ(諾)よりもセ(諾)のほうがエ(愛)的で親しげな言い回しであるという語感の説明に始まっている。サホビコはそれを頼りにして、ヲ(夫)よりもセ(兄)をエ(愛)とすべし、だからともに謀反を起こそう、という地口話をくり広げている。「謀」であり、「誂」であり、「欺」である。その発想はさらに展開される。天皇は后の懐妊を隠さなかったためにエ(愛)なる気持ちが強いと思われ、エエと軍を鼓舞する声を発しても、后をエ(愛)と思う声の反映と聞こえてしまい、稲城を取り囲んでいる軍は攻め立てていくことがないままであったと物語られている。
この話(咄・噺・譚)が歴史的に何を表すものかといった問いは、もはや問い自体がほとんどナンセンスである。悲劇的な反乱伝承で高度な文学的達成を成し遂げているとか、ヒメヒコ制の終焉を物語るとか、単なる反乱の失敗の顛末話であるとか、景行記への系譜的接合のために企てられたものであるといった解釈は、すべて無に帰されよう。無文字時代にヤマトコトバで話し、伝え、皆がわかり合った、そのことにこそ重きが置かれなければならない。言葉とはそういうものであり、当時、誰もが共有し得たからこそ伝えられてきた話(咄・噺・譚)なのである。言い換えれば、ヤマトコトバの用例集のような説話が展開されているともいえる。今日、高等教育を受けた者ばかりが、古事記は天皇制の正統化のために構想され、述作されたものであるなどと論述してみても、象牙の塔のなかの空論にすぎないだろう。
(注)
(注1)膨大な研究史については、荻原1998.の「研究史と展望」や、青木2015.の「垂仁記・沙本毗賣物語における会話文の性格」の〈注〉などを参照されたい。
なお、瀬間1994.に、サホビメ物語と経律異相とは字面が似ているから、下敷きにして潤色されているとする説がある。似ている個所を見れば似ているように見えてくるが、似ていないところをとり上げれば似ていない。書き方の例文集に使われたことを否定するものではないが、漢字の並びが似ている、似ていないで判断しようとしても、当時のヤマトコトバの利用実態とは関係のないことである。無文字時代の言葉を知るには、字面ではなく発せられた声こそが重要である。正確な訓読こそが求められている。
(注2)真福寺本・兼永筆本に、「三度挙而尓(=爾)忍哀情」とある部分、訓正古訓古事記による校訂で「三度挙而不忍哀情」とし、「三度挙りて哀しき情に忍へず、」のように訓まれている。三回も振り上げてはみたものの、しかし、哀しい気持ちを抑えかねて、の意であるとする。「而」には順接の接続関係「~て」を表すことが多いなか、逆接の関係の接続助詞であると解されている。これには、西宮1970.のように、この個所も、「テといふ国語の接続助詞に訓んで逆接の意をもたせ得るから、例外的に而と訓まなくてよい。」(235頁、漢字の旧字体は改めた)とする説も含まれる。逆接と捉えることが通行している。
「三度挙而尓忍哀情」(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184138/22)
筆者は、底本の原文どおりに訓むべきであると考える。「三度挙りて、爾に哀しき情を忍ぶ。」でいったん文章が切れ、「頸を刺すこと能はずて、泣く涙、御面に落ち溢れつ。」と続いている。すなわち、「三度挙而爾忍哀情。」と「不能刺頸而泣涙落溢於御面。」という2文は、(a)「〇〇て〇〇。」、(b)「△△て△△。」という2つの文章が続いていると解せられる。そして、「爾其后以紐小刀為刺其天皇之御頸、三度挙而、爾忍哀情。不能刺頸而、泣涙落溢於御面。」という文章が、その前文の「故天皇不知其之謀而、枕其后之御膝、為御寝坐也。」同様、平叙文であると認められる。天皇や其后の感情を表出するためではなく、もの静かに情景を説明するための地の文であると理解することができる。
「三度挙りて、爾に哀しき情を忍ぶ。」とは、一度や二度では「哀情」が起きて仕方がないのを、三回もふりあげれば慣れっこになって気にならなくなるあろうから、それを目指したということを言っている。現に、天皇の夢の表について問われたところでは、「是を以ちて御頸を刺さむと欲ひて、三度挙りしかども、哀しき情忽ちに起りて、頸を得刺さずて、泣く涙落ちて、御面を沾しつ。(是以欲刺御頸、雖三度挙、哀情忽起、不得刺頸而、泣涙落沾於御面。)」となっている。「雖三度挙、哀情忽起」とあるように、「三度挙」と「哀情忽起」とは逆接の連係だから「雖」という字が書かれている。小刀を三度も挙げていたら哀情は起こらなくなるであろうというのが常識的前提である。
新編全集本は、従来の校訂にしたがって意改して「不レ忍」とし、タヘズと訓む苦肉の策をとっている。兼永筆本傍訓に、「三度挙而尓忍哀情。」を、ミタビアゲ玉フ、スナハチシノビノカナシキココロアリと訓もうとした努力は顧みられなくてはならない。
そもそも、地の文で、「其后」の気持ちを先に説明してしまったら、そのあとで天皇の夢物語について長い語りがあったり、サホビメによるその表の種明かしが延々と解説されても、聞く側には興覚めになるであろう。話の展開を壊さないように筋立ては構成されており、順を追って話されている。三回小刀を振り上げることとは、湧きおこってくるはずの哀情が麻痺して耐性をつけるための鍛練を示すものといえる。
ネルソン2010.に、兵士の訓練の第一段階にコール・アンド・レスポンスがあるという。「「おまえたちは何者だ?」……「海兵隊員です!」「おまえたちのしたいことはなんだ?」「殺す!」「もう一度!」「殺す!」「スペルを言え!」「K、I、L、L! K、I、L、L! 殺す! 殺す! 殺す!」 最後は興奮状態になり、ウォ―という喚声が兵舎をゆるがすのです。」(49~50頁)、「人の殺し方も、……ナイフをどんな角度でつきたてると確実に殺すことができるか。敵ののどはどんなふうに切るのがよいのか。そんなおぞましいことが、まるで魚や肉の料理をするときのように、ことこまかに教えられるのです。」(52頁)とある。訓練の極意はくり返しにある。何回も小刀を振っている間に、殺すことなど何でもないと不感症になることを目指している。サホビメが何回も小刀をふるうことは、料理の包丁さばきの練習なのであった。
なお、「哀情」については、「哀しき情」ではなく、「哀の情」と訓むのが正解である。本文で後述する。
(注3)本居宣長・古事記伝に、「○謀は、下文には、誂とあるを、【書紀にも誂とあり、】此は謀反むとすることを、初て云フ処なれば、謀とあるぞ宜き、波加流は、神議など云て、人と相談ひ、論ひ定する事なればなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/50、漢字の旧字体は改めた)とある。「謀」→「誂」まではよいが、その先の捉え返しにあたる→「欺」の解釈を欠いている。
(注4)ライル1987.。
(注5)多くの訓読文で採用されている。青木2015.参照。また、会話文を二重括弧に換えることから敷衍させた議論も行われている。荻原1998.は、「渦中に陥った者[須佐之男命]が相手[天照大御神]に前場面[伊耶那岐命ト]の会話文の提示を通じて自身の真意を説明するという設定は、……沙本毗売命の天皇への会話文と等しい。」(181頁)とし、「この[沙本毘売命]物語の生成のプロセスが<神話>体系の編成と相応じているためではないか。……この人の代の物語は<神話>の流れの上に生まれており、そこに歌謡がないのは、一つには神話性に由来する物語の素姓に原因が求められるのではないかと思う。」(181頁)と感想を述べている。神話という語は近代の訳語であるが、荻原のいう「神話」、「神話性」が何のことを指し表しているのか不明である。
(注6)西郷2005.に、「文体上、気づくのは、そのほとんどがこれまで出てきたことばの反復から成っている点である。……これは文字以前の物語、または<原始的散文>ともいうべきものに固有な語り癖に他ならない。」(298~299頁)とある。それに対し、神野志2007.は批判する。言葉の反復における微細な違いによって、「躊躇なく兄に従って反逆に加担するサホビメと、ためらいのなかにあったサホビメと[ヲ]……重層化」し、「物語としてのふくらみがつくられ」、「視点を変えたできごとの構成をもって、できごとが複線化され、あるいは、重層化される」(128頁)という。そして、「これを、テキストにおいて方法化されたものとしてとらえるべきで……[、]会話は、訓で書き、ことがらを述べるという、地の文と同じ書記にあって、地の文のできごとの継起に対して、それと対応しながら、できごとを構成しなおし、複線化するという方法を、……担っている」(128頁)とまとめている。
神野志氏のこの発想は理解に苦しむものである。もし仮に古事記全編が歌謡同様に一音一字で書き表わされていたとして、あるいはローマ字で書き連ねられていたとしても、できごとの構成のし直し、複線化、重層化ができないとは思われない。長くなって一目で理解しにくいからそうは書かずに訓で書いてあるだけである。記序に、「全以レ音連者、事趣更長。」とあるとおりであろう。むしろ西郷の「語り癖」というシェーマを最適化させたほうがわかりやすい。なにしろ、地の文であれ、会話文であれ、歌謡であれ、すべては稗田阿礼の口頭語を記したものである。無文字の時代に行われた言語活動の問題を、すべて書記された“漢字テキスト”に還元して議論しても意味を成さない。未開社会にフィールドワークに入って、社会学的統計調査をもって理解したと済ませるのと同様の所業である。なぜ、話が反復されるのか。音声言語でも記憶に留まるように定着させるとともに、そのやりとりの内実について種明かしをする作業を行うためである。音声言語でしかない言語の重みに思いを致さなければならない。その多くは、その言葉自体を論理学的に説明する洒落になっている。記紀の説話に対しては、文化人類学的アプローチが必要である。
(注7)「其愛后」という字の並びになるとする考えもあるかもしれない。しかし、「其后」「其后」とつづいてきており、サホビコについても「其兄」と呼んでいる。この会話文に至って「其后」という言い方を放棄したら、さてそれは誰のことを語っているのか、口承文芸たる古事記説話の伝達に、大いなる疑義を呈することになる。口伝てに伝えて確かに次へとつながる語り口としては、「其后」で統一して述べるのが着実である。
「其后」という言い方が行われ続けている。サホビメは反乱に加わって敗北し、死んだ。反逆に加わった者を「后」と呼んでふさわしいのか。そういう点までも、言外にニュアンスとして含めようと工夫した結果なのであろう。品牟都和気命(本牟智和気御子)という皇子を設けているが、后の子であるのに天皇となっていない稀な例になっている。
(注8)岡本2004.は、「呼称[(伊呂妹・其后・其御祖)]の変化によって、沙本毘売という同一作中人物を、複数の角度から多面的に捉えることができるのだ。呼称が的確に用いられていることで、三つの関係性の中心にいる沙本毘売の、その箇所で必要なある一面だけを他と区別して切り出すことに成功しているのだ。そして、垂仁天皇・沙本毘古王・本牟智和気御子が、それぞれの関係性の中でまさに沙本毘売を中心として、結びつき、離れてゆくその悲劇を描くことに貢献している。」(12頁)という。そうではなく、今日、結婚している女性が、子どもの前では「母」であり、夫の前では「妻」であり、同居する実の父母から「娘」であるのと同じことを言っていると思われる。
(注9)倉塚1979.。国文学からは、総括するかのように、烏谷2016.に、「兄と夫の板ばさみになってなって揺れ動き、旧体制に翻弄されつつ、姫彦制の終焉と共に人生の幕をおろす沙本毘売には、信義を重んじる人間としての誇りと潔さが漂う。」(235頁)、「逆境の中で懸命に生き、信念を貫いて死を選びとるヒロイン像が形象される。」(236頁)とある。
(注10)今日、古事記の研究者の間では、古事記は天皇制を正統化するために8世紀初頭に構想されたものであると考えられている。雑駁に言えば、編纂された8世紀初頭において、お上に都合のいいように仕上げた作り話であるというのである。かなり大きな潮流で、ほとんど定説化している。しかるに、律令の文面を作り上げるほどに文明化した頭脳の持ち主が、稲羽の素菟のような荒唐無稽な話を作って何を語りたかったというのか。序に古事記自体の成り立ちが書かれており、無視することはできない。古事記偽書説は太安万侶の墓誌発掘で立ち消えた。旧辞を誦んだと書いてある稗田阿礼という人物も、虚構にして架空の存在であると決めてかかることなどできない。
(注11)小林1970.のいう「書記用漢字」、西條1998.のいう「和訓字」といった概念は、拡張して考えられるべきである。まず先にヤマトコトバがある。文字を持たなくても隆盛を極めていた。そして、そのヤマトコトバで稗田阿礼が誦んでいたお話を太安万侶が書き記した。漢字を使って文字化したわけである。本来的に、漢語としての漢字ではなく、和語としての漢字として、すべての筆記を理解することが求められる。多くの場合、漢土と本邦とで、言葉をカテゴライズするのに共通するところが多かった。だからこそうまく活用できたのであり、漢文に似せた書き方で書き綴ることが行われたという次第である。
(注12)通訓にこのように訓まれているわけではないが、紀126歌謡同様、発語の言葉として記されているからこのように訓んだほうが似つかわしい。最後の「ゑ」は付かずともかまわない。
(注13)万葉仮名に音訓の両面から作られているとおぼしきものがある。拙稿「万葉仮名「乃」と「杼」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c814f939aa73d5b569c974d556217cdd参照。
(注14)ホール1970.。
(注15)「是不勝面問」の「是」について、新編全集本に、「「是」をコノと読む説もあるが、それだと何を指すか、分明でない。カクと読むのがよい。」(199~200頁)とあり、「是く、面り問ふに勝へぬが故に、妾が答へて曰ひしく、『兄を愛しみするか』といひき。」としている。新編全集本は、「是」を前方照応的に、「カク、」と訓んでいる。しかし、カクは直接動詞を修飾したり、カクノゴト、カクユヱ、カクサマニ、カクテ、カクバカリ、カクモガ、カニカクニ、といった言い回しで使われている。「カク、」でいったん留める用法が上代にあるのか、筆者にはわからない。「妾兄沙本毘古王問妾曰、孰愛夫与兄。」を前方の事柄として照応して「是、」と捉えて、それが「不勝面問」につながるのかも疑問である。面前での問いかけであったのか、距離を置いての問いかけであったのかは、前文だけではわからないからである。
よく似た文章構成に、「我、兄と鉤を易へて其の鉤を失ふ。是に其の鉤を乞ふが故に、多の鉤を償へども受けず……(我与兄易鉤而失其鉤。是乞其鉤故雖償多鉤不受……)」(記上)とある。会話文中の「是……故」の形が共通する。「是に」は、既成の事柄をうけて次のことを言い起すための言葉である。現代語に、そして、と訳される。英語の and also に近い意である。この個所で前方照応的にカクと訓まない理由は、釣針をなくしたからといって釣針を乞うてくるとは限らないからである。垂仁記の例でも「是に」と訓むのが正しい。
(注16)拙稿「仁賢紀「母にも兄、吾にも兄」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/4822bacf4b44bf3d85db252f3eafa068参照。
(注17)このような形で訓まれたことがなかったわけではない。尾崎1966.に、「ここに天皇、その后の懐妊みませるに忍へず、また愛重みたまへることも、三年になりにければ、かれ、その軍を廻して急けくも攻めたまはざりき。」(374頁、漢字の旧字体は改めた)とあり、構文的には近い線を行っている。
度会延佳・鼇頭古事記に、「於是天皇不レ忍二其后懐妊一及二愛重一至二于三年一。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100181864/94?ln=ja、漢字の旧字体は改めた)とある。「是に天皇、其の后の懐妊めるに忍びず、愛重しみを及きて三年に至る。」と訓読されるのであろう。重文である。また、「及」を、しく、の意と取っていて興味深い。「愛の重を及きて三年に至る。」と訓むことを想定して書記された可能性も排除できない。エエ、エエという声が波のようにくり返し襲ってくることが三年にわたった、という意味である。文のつながりとしては意味的には陣痛の及くことの連想も働く訓みである。ただ、記に「及」をシクと訓む例は他に見えず、マタの用字の記の特徴として、「又」、「亦」のほかに、「且」、「及」と書いている。神武記の用例に従って「及」はマタと訓んでおく。このマタという語も、英語の and also に近い意である。
(注18)垂仁紀四年九月~五年十月条に同じような記述がある。ただ、「愛」の地口話としては描かれていない。いきなり、「皇后母兄狭穂彦王謀反、欲危社稷。」に始まっている。「語之曰、汝孰愛兄与夫焉。於是、皇后不知所問之意趣、輙対曰、愛兄也。則誂皇后曰、……」とあって記によく似るが、その後の狭穂彦王の語りは理屈っぽくなっている。狭穂姫の対応としても、「心裏兢戦、不知所如。然視兄王之志、便不可得諫。故受其匕首、独無所蔵、以著衣中。遂有諫兄之情歟。」と、心情が語られている。「愛」と「ええ」の洒落も見られない。話(咄・噺・譚)としてどのように脚本化するかにおいて、古事記のサホビメ説話の作成者は落語的なセンスを用いたということである。
(引用文献)
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※本稿は、2019年7月稿を2023年6月にルビ形式にしつつ加筆したものである。
「愛」という語の本質と強要
愛すべき、また、うまし、という意味合いを、口頭語においてエ(e)一音にて表している。巧みな言葉である。イザナキとイザナミの掛け合いに使われているように、睦まじい間柄で、互いの距離がパーソナルスペースとされる45㎝以内で限りなく0㎝に近いところにあって言葉が交わされている(注14)。至近距離で交わす言葉には、言葉として短ければ短いものほど好まれる。もはや言葉などいらない時空である。「ねえ」、「うん」、「さあ」、「そう」、「うふ」、「ああ」などといった“言葉”とアイコンタクトだけで会話が成り立っている。互いの個は溶解している。
本稿でとり上げているサホビメとサホビコとのやりとりも、「面」で行われたことが示されている。
其のいろ妹に問ひて曰はく、「夫と兄と孰れか愛そ」といふ。答へて曰はく、「愛なるは兄そ」といふ。爾に沙本毘古王謀りて曰はく、「汝、寔に我を愛と思はば、吾と汝と天下を治めむ」といひて、……
爾に其の后、争ふべくもあらずと以為ひて、即ち天皇に白して言はく、「妾が兄沙本毘古王、妾に問ひて曰はく、夫と兄と孰れか愛そといふ。是に(注15)面に問ふに勝へぬが故に、妾答へて愛なるは兄そと曰ふか。……必ず是の表に有らむ」といふ。
是に、天皇の詔はく、「其の兄を怨むれども、猶愛なる其の后を得忍びず」とのりたまひき。故、即ち、后を得む心有り。……(垂仁記)
すべてはエ(e)の地口話である。端的な言葉づかいにして、口承文芸としての言い伝えに適している。サホビコは、少しずるいやり方で自分の妹に質問している。顔を近づけてきて、「夫と兄と孰れか愛そ」と聞いてきた。ヲと言うのとセと言うのとでは、どちらがエというに値するか? という問いである。それは、問いである。問いなのだから答えがなければならない。面と向かって迫られた究極の問いの答えは、yes か no かの二者択一である。特段に拒絶の態度で臨む相手ではないから、顔を近づけてきていても許容している。となれば、yes のことを聞いていると察知が行く。答えの yes という意味のヤマトコトバにはヲとセがある。いずれも応諾の意である(注16)。
否も諾も 欲しきまにまに 赦すべき 貌見ゆるかも 我も依りなむ(万3796)
何為むと 違ひは居らむ 否も諾も 友の並々 我も依りなむ(万3798)
鹿父の曰はく、「諾」といふ。(仁賢紀六年是秋)
ヲもセも、いずれも yes を表す。そのどちらが親しげで近い距離で使われる言葉かと言えば、セであろう。中古の例に、ヲは、距離のあるところから呼びかけ召す時の応答語としてあることが見える。セは、言い寄って近距離にある男と相手の女との間で語られている。
「いづら、この近江の君、こなたに」と召せば、「諾」と、いとけざやかに聞こえて出で来たり。(源氏物語・行幸)
又人の召す御いらへには、男は「よ」と申し、女は「を」と申す也。(古今著聞集・331)
親のまもりける女を、「否とも諾とも言ひ放て」と申ければ
否諾とも 言ひ放たれず 憂き物は 身を心とも せぬ世なりけり(後撰和歌集・937)
つまり、サホビコは、「面」に顔を近づけてきて、親しい気持ち、エ(愛)と形容できる応諾の言葉としては、ヲとセとどちらかと聞いてきた。だから、それはセということになりますね、とサホビメは答えている。裏の意味として、サホビコは、ヲ(夫)である天皇と、セ(兄)である自分と、どちらがエ、つまり愛すべき対象かと聞いてきていた。無文字時代の言葉遣いは音ばかりが頼りである。言葉は即ち事柄を表すとする言霊信仰のもとに暮らしていた。そうしなければ意味世界がカオスと化す。そのため、サホビメは、自らの答えた言葉(声)に呪縛されることとなった。エ(愛)であること、すなわち、親しげなる応諾の語はヲ(諾)よりもセ(諾)である、と言葉に発している。その途端に、エ(愛)なのはヲ(夫)よりもセ(兄)でなくてはならず、それが奇しくも応諾を意味するセ(諾)であったから、二重の束縛のなかで、サホビメはサホビコの謀に応諾する流れに飲み込まれた。今日的感覚では言葉の洒落にがんじがらめになるような二重拘束は不要と感じられるかもしれないが、無文字時代に言葉が言葉としてあるための担保は、発した言葉がその言葉自体を定義しつつあることが適切であると考えられていた。あたかも言葉を定義しながら用いるかのように、自然言語が組み上げられていたのである。表意文字である漢字を見て、何がしかの意味を理解する我々とは異なる言語生活を送っていたと言える。そういう話(咄・噺・譚)として物語られている。
それはずるいやり方だと気づいたから、天皇は「吾殆見欺乎。」と言っている。今日でも詐欺は、唐突に電話口で始まる。声のする距離が耳元0㎝である。困っているからお金を用意してほしいという相手は、「愛」と思える子や孫である。
サホビメが天皇の枕元にいて白状している状況に、「孰愛夫与兄。是不勝面問故、妾答曰、愛兄歟。」とあった。今となってよくよく考えてみると、サホビコと顔を近づけてのやりとりは、「ヲ(諾)とセ(諾)と孰れかエ(愛)そ」と聞かれたと思って、「エ(愛)なるはセ(諾)そ」と答えたつもりだったけれど、何か違うかったかしら? もうわからないわ、私、と言っている。「愛兄歟。」と「歟」字が付加されているのは、自分が答えたことに今更ながら疑問符を付けているということである。したがって、「歟」は直前の「愛兄」に付くのではなく、「答曰」を修飾している。あえて二重括弧にして表すとすれば、次のようになる。
「妾兄沙本毘古王問妾曰『孰愛夫与兄』。是不勝面問故妾答曰『愛兄』歟。……」
訓読文としては、上掲のように間接話法であることを示すようにすると伝わりやすい。最後の部分も、⑨同様のエ(愛)とエ(得)の音遊びに基づいた機知と理解される。其の后のことが愛(e)で仕方がないということから、得(e)ようとする心が見られると順接に承けていっている。接続詞「故」の意として正しい。この話は一貫して エ(e)の話なのである。
だから、サホビメがあと一歩のところで天皇に匕首を振るうのを止めた「哀情」も、エノココロと訓むべきとわかる。エ(愛・哀)とはどういうことなのか、その心情のあり様に胸ふさがれたという意味である。「三度挙而爾忍哀情」、「雖三度挙哀情忽起、不得刺頸而泣涙落沾於御面。」と、くり返し「三度」であると強調されるのも、エ(e)という言葉に、「愛」、「哀」、「得」の三つが出ているからであった。
もうひとつの「愛」と「故」
そして、状況は展開する。天皇は軍によってサホビコを討とうとするが、サホビコは稲城を作って応戦した。無文字文化の言霊信仰の下では、サホビメは兄に話したことをなかったことにはできず、宮の後ろの門から脱出して稲城に入っている。言を事とするように話の辻褄が合わされている。そのとき、其の后は妊娠していた。つづいて、天皇が攻勢をかけられなかった様子が描かれている。通常、次のように訓まれている。
此時其后妊身於是天皇不忍其后懐妊及愛重至于三年故廻其軍不急攻迫
此の時、其の后、妊身めり。是に天皇、其の后の懐妊めると、愛しみ重みして三年に至りぬるに忍びたまはず。故、其の軍を廻して、急けくも攻迫めたまはず。
后の妊娠しているのと愛して睦み合ったことが三年であったから我慢できなかった。だから、軍勢を稲城の周りに廻らせるばかりで、急襲することはなかった、という意に解されている。これでは「故」の語義が不明瞭である。
故廻其軍不急攻迫
故、廻れる其の軍、急けくは攻迫めず。
「故」以降の文の主語に「天皇」を補うのではなく、「廻其軍」が主語であると考えると、包囲している軍隊は天皇の気持ちを慮って急襲することはしなかった、という意に解せられる。「故」の意味がはっきりする。
於是天皇不忍其后懐妊及愛重至于三年
原文にこのようにある「愛」も、他と同様にエと訓まれるはずである。「此時其后妊身」を承けている文である。このとき后は妊娠していた。それに対して天皇は、懐妊していることを「忍」ことをしなかった。つまり、隠しおおすことなくオープンにしてしまった。だから、軍隊の方でもすぐに攻め立てることはできなくなったのである。すると、「及愛重至于三年」という文が何を表しているのかが問題となる。
「及」は助詞のトの意として、懐妊と三年にわたる恩寵とに耐えがたくなっていた、と解されてきた。天皇の感情ばかりが強調される形になっている。近代の小説風に、個人の内面を描写して煩悶ばかりを言い伝えることは不自然で考えにくい。無文字時代に口頭で話しているとするならただの愚痴の叙述になる。
記において、「及」は、接続詞のマタの意でも用いられている。
爾神倭伊波礼毘古命儵忽為遠延及御軍皆遠延而伏。
爾に、神倭伊波礼毘古命、儵忽に遠延為、及御軍皆遠延して伏しき。(神武記)
重文になっている。マタは、同様のことが重ねて行われるときに用いられる接続詞である。記において、「重」は三重・八重のヘ、序でカサヌの意に用いられている。ヘ(fe)は、宮の周囲を廻らす塀、垣根の意を表わすことがある。
八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を(記1)
この場面でも、后のサホビメは「後門(トは甲類)より逃げ出でて」いた。宮の廻れる垣根より外へ出て行ったのである。御子が生まれてからも、「故、其の御子を出して、稲城の外に置きて、天皇に白さしむらく、……」というように、稲城の囲みの「外(トは甲類)」であることが示されている。それが一重なのか三重なのか八重なのかによらず、めぐりがあるから内と外は仕切られている。
すなわち、「愛」と言い続けることが何回にもわたって三年続いていることを表している。そう考えると、後文の「故廻其軍不急攻迫」の「廻其軍」が、稲城を何重にも取り囲んでいることにつながりわかりやすい。エ(e)という言葉(音)が重なり合った形に、エエ(ee)という言葉がある。軍隊を鼓舞する言葉である。次の例に見える「いのごふ」は、敵対の意を強く示し敵に向って攻勢の気勢をあげることである。
然くして、其の弟宇迦斯が献れる大饗は、悉く其の御軍に賜ひき。此の時に歌ひて曰はく、
宇陀の 高城に 鴫罠張る …… ええしやごしや(亞亞音引志夜胡志夜)此は、いのごふそ ああしやごしや(阿阿音引志夜胡志夜)此は、嘲咲ふぞ(記9)
したがって、次のように、重文+「故……」の形で訓むのが正しい(注17)。
此の時、其の后、妊身めり。是に天皇、其の后の懐妊めるを忍びず、及愛の重三年に至る。故、廻れる其の軍、急けくは攻迫めず。
天皇は、后の妊娠していることを隠さなかった。それでも軍隊の統率者であるから「ええ」と鼓舞していた。しかし、軍隊の方では、「ええ」は天皇の哀しい歎き声に聞こえ、「愛」「愛」とくり返す声に聞こえた。ああ、天皇は、本当に后のことが好きでたまらないんだなあと悟っている。最高司令官である天皇が、稲城を何重にも廻らしている軍に呼びかけられている鼓舞の声、「ええ」は、「愛」の重、くり返されている「愛」の気持ち、天皇の愛惜の吐露と受け取られた。だから攻められなかったのである。
「三年」は長い期間でありつつ節目でもある。御子が生まれて話が展開し始めている(注18)。
まとめ
垂仁記の「愛」字は、すべてエ(e)と訓む。「可愛」の意、愛すべき、の意味の口頭語に発した語と考えられる。すなわち、サホビメの物語は、同じ yes と認める語を使うとき、ヲ(諾)よりもセ(諾)のほうがエ(愛)的で親しげな言い回しであるという語感の説明に始まっている。サホビコはそれを頼りにして、ヲ(夫)よりもセ(兄)をエ(愛)とすべし、だからともに謀反を起こそう、という地口話をくり広げている。「謀」であり、「誂」であり、「欺」である。その発想はさらに展開される。天皇は后の懐妊を隠さなかったためにエ(愛)なる気持ちが強いと思われ、エエと軍を鼓舞する声を発しても、后をエ(愛)と思う声の反映と聞こえてしまい、稲城を取り囲んでいる軍は攻め立てていくことがないままであったと物語られている。
この話(咄・噺・譚)が歴史的に何を表すものかといった問いは、もはや問い自体がほとんどナンセンスである。悲劇的な反乱伝承で高度な文学的達成を成し遂げているとか、ヒメヒコ制の終焉を物語るとか、単なる反乱の失敗の顛末話であるとか、景行記への系譜的接合のために企てられたものであるといった解釈は、すべて無に帰されよう。無文字時代にヤマトコトバで話し、伝え、皆がわかり合った、そのことにこそ重きが置かれなければならない。言葉とはそういうものであり、当時、誰もが共有し得たからこそ伝えられてきた話(咄・噺・譚)なのである。言い換えれば、ヤマトコトバの用例集のような説話が展開されているともいえる。今日、高等教育を受けた者ばかりが、古事記は天皇制の正統化のために構想され、述作されたものであるなどと論述してみても、象牙の塔のなかの空論にすぎないだろう。
(注)
(注1)膨大な研究史については、荻原1998.の「研究史と展望」や、青木2015.の「垂仁記・沙本毗賣物語における会話文の性格」の〈注〉などを参照されたい。
なお、瀬間1994.に、サホビメ物語と経律異相とは字面が似ているから、下敷きにして潤色されているとする説がある。似ている個所を見れば似ているように見えてくるが、似ていないところをとり上げれば似ていない。書き方の例文集に使われたことを否定するものではないが、漢字の並びが似ている、似ていないで判断しようとしても、当時のヤマトコトバの利用実態とは関係のないことである。無文字時代の言葉を知るには、字面ではなく発せられた声こそが重要である。正確な訓読こそが求められている。
(注2)真福寺本・兼永筆本に、「三度挙而尓(=爾)忍哀情」とある部分、訓正古訓古事記による校訂で「三度挙而不忍哀情」とし、「三度挙りて哀しき情に忍へず、」のように訓まれている。三回も振り上げてはみたものの、しかし、哀しい気持ちを抑えかねて、の意であるとする。「而」には順接の接続関係「~て」を表すことが多いなか、逆接の関係の接続助詞であると解されている。これには、西宮1970.のように、この個所も、「テといふ国語の接続助詞に訓んで逆接の意をもたせ得るから、例外的に而と訓まなくてよい。」(235頁、漢字の旧字体は改めた)とする説も含まれる。逆接と捉えることが通行している。
「三度挙而尓忍哀情」(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184138/22)
筆者は、底本の原文どおりに訓むべきであると考える。「三度挙りて、爾に哀しき情を忍ぶ。」でいったん文章が切れ、「頸を刺すこと能はずて、泣く涙、御面に落ち溢れつ。」と続いている。すなわち、「三度挙而爾忍哀情。」と「不能刺頸而泣涙落溢於御面。」という2文は、(a)「〇〇て〇〇。」、(b)「△△て△△。」という2つの文章が続いていると解せられる。そして、「爾其后以紐小刀為刺其天皇之御頸、三度挙而、爾忍哀情。不能刺頸而、泣涙落溢於御面。」という文章が、その前文の「故天皇不知其之謀而、枕其后之御膝、為御寝坐也。」同様、平叙文であると認められる。天皇や其后の感情を表出するためではなく、もの静かに情景を説明するための地の文であると理解することができる。
「三度挙りて、爾に哀しき情を忍ぶ。」とは、一度や二度では「哀情」が起きて仕方がないのを、三回もふりあげれば慣れっこになって気にならなくなるあろうから、それを目指したということを言っている。現に、天皇の夢の表について問われたところでは、「是を以ちて御頸を刺さむと欲ひて、三度挙りしかども、哀しき情忽ちに起りて、頸を得刺さずて、泣く涙落ちて、御面を沾しつ。(是以欲刺御頸、雖三度挙、哀情忽起、不得刺頸而、泣涙落沾於御面。)」となっている。「雖三度挙、哀情忽起」とあるように、「三度挙」と「哀情忽起」とは逆接の連係だから「雖」という字が書かれている。小刀を三度も挙げていたら哀情は起こらなくなるであろうというのが常識的前提である。
新編全集本は、従来の校訂にしたがって意改して「不レ忍」とし、タヘズと訓む苦肉の策をとっている。兼永筆本傍訓に、「三度挙而尓忍哀情。」を、ミタビアゲ玉フ、スナハチシノビノカナシキココロアリと訓もうとした努力は顧みられなくてはならない。
そもそも、地の文で、「其后」の気持ちを先に説明してしまったら、そのあとで天皇の夢物語について長い語りがあったり、サホビメによるその表の種明かしが延々と解説されても、聞く側には興覚めになるであろう。話の展開を壊さないように筋立ては構成されており、順を追って話されている。三回小刀を振り上げることとは、湧きおこってくるはずの哀情が麻痺して耐性をつけるための鍛練を示すものといえる。
ネルソン2010.に、兵士の訓練の第一段階にコール・アンド・レスポンスがあるという。「「おまえたちは何者だ?」……「海兵隊員です!」「おまえたちのしたいことはなんだ?」「殺す!」「もう一度!」「殺す!」「スペルを言え!」「K、I、L、L! K、I、L、L! 殺す! 殺す! 殺す!」 最後は興奮状態になり、ウォ―という喚声が兵舎をゆるがすのです。」(49~50頁)、「人の殺し方も、……ナイフをどんな角度でつきたてると確実に殺すことができるか。敵ののどはどんなふうに切るのがよいのか。そんなおぞましいことが、まるで魚や肉の料理をするときのように、ことこまかに教えられるのです。」(52頁)とある。訓練の極意はくり返しにある。何回も小刀を振っている間に、殺すことなど何でもないと不感症になることを目指している。サホビメが何回も小刀をふるうことは、料理の包丁さばきの練習なのであった。
なお、「哀情」については、「哀しき情」ではなく、「哀の情」と訓むのが正解である。本文で後述する。
(注3)本居宣長・古事記伝に、「○謀は、下文には、誂とあるを、【書紀にも誂とあり、】此は謀反むとすることを、初て云フ処なれば、謀とあるぞ宜き、波加流は、神議など云て、人と相談ひ、論ひ定する事なればなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/50、漢字の旧字体は改めた)とある。「謀」→「誂」まではよいが、その先の捉え返しにあたる→「欺」の解釈を欠いている。
(注4)ライル1987.。
(注5)多くの訓読文で採用されている。青木2015.参照。また、会話文を二重括弧に換えることから敷衍させた議論も行われている。荻原1998.は、「渦中に陥った者[須佐之男命]が相手[天照大御神]に前場面[伊耶那岐命ト]の会話文の提示を通じて自身の真意を説明するという設定は、……沙本毗売命の天皇への会話文と等しい。」(181頁)とし、「この[沙本毘売命]物語の生成のプロセスが<神話>体系の編成と相応じているためではないか。……この人の代の物語は<神話>の流れの上に生まれており、そこに歌謡がないのは、一つには神話性に由来する物語の素姓に原因が求められるのではないかと思う。」(181頁)と感想を述べている。神話という語は近代の訳語であるが、荻原のいう「神話」、「神話性」が何のことを指し表しているのか不明である。
(注6)西郷2005.に、「文体上、気づくのは、そのほとんどがこれまで出てきたことばの反復から成っている点である。……これは文字以前の物語、または<原始的散文>ともいうべきものに固有な語り癖に他ならない。」(298~299頁)とある。それに対し、神野志2007.は批判する。言葉の反復における微細な違いによって、「躊躇なく兄に従って反逆に加担するサホビメと、ためらいのなかにあったサホビメと[ヲ]……重層化」し、「物語としてのふくらみがつくられ」、「視点を変えたできごとの構成をもって、できごとが複線化され、あるいは、重層化される」(128頁)という。そして、「これを、テキストにおいて方法化されたものとしてとらえるべきで……[、]会話は、訓で書き、ことがらを述べるという、地の文と同じ書記にあって、地の文のできごとの継起に対して、それと対応しながら、できごとを構成しなおし、複線化するという方法を、……担っている」(128頁)とまとめている。
神野志氏のこの発想は理解に苦しむものである。もし仮に古事記全編が歌謡同様に一音一字で書き表わされていたとして、あるいはローマ字で書き連ねられていたとしても、できごとの構成のし直し、複線化、重層化ができないとは思われない。長くなって一目で理解しにくいからそうは書かずに訓で書いてあるだけである。記序に、「全以レ音連者、事趣更長。」とあるとおりであろう。むしろ西郷の「語り癖」というシェーマを最適化させたほうがわかりやすい。なにしろ、地の文であれ、会話文であれ、歌謡であれ、すべては稗田阿礼の口頭語を記したものである。無文字の時代に行われた言語活動の問題を、すべて書記された“漢字テキスト”に還元して議論しても意味を成さない。未開社会にフィールドワークに入って、社会学的統計調査をもって理解したと済ませるのと同様の所業である。なぜ、話が反復されるのか。音声言語でも記憶に留まるように定着させるとともに、そのやりとりの内実について種明かしをする作業を行うためである。音声言語でしかない言語の重みに思いを致さなければならない。その多くは、その言葉自体を論理学的に説明する洒落になっている。記紀の説話に対しては、文化人類学的アプローチが必要である。
(注7)「其愛后」という字の並びになるとする考えもあるかもしれない。しかし、「其后」「其后」とつづいてきており、サホビコについても「其兄」と呼んでいる。この会話文に至って「其后」という言い方を放棄したら、さてそれは誰のことを語っているのか、口承文芸たる古事記説話の伝達に、大いなる疑義を呈することになる。口伝てに伝えて確かに次へとつながる語り口としては、「其后」で統一して述べるのが着実である。
「其后」という言い方が行われ続けている。サホビメは反乱に加わって敗北し、死んだ。反逆に加わった者を「后」と呼んでふさわしいのか。そういう点までも、言外にニュアンスとして含めようと工夫した結果なのであろう。品牟都和気命(本牟智和気御子)という皇子を設けているが、后の子であるのに天皇となっていない稀な例になっている。
(注8)岡本2004.は、「呼称[(伊呂妹・其后・其御祖)]の変化によって、沙本毘売という同一作中人物を、複数の角度から多面的に捉えることができるのだ。呼称が的確に用いられていることで、三つの関係性の中心にいる沙本毘売の、その箇所で必要なある一面だけを他と区別して切り出すことに成功しているのだ。そして、垂仁天皇・沙本毘古王・本牟智和気御子が、それぞれの関係性の中でまさに沙本毘売を中心として、結びつき、離れてゆくその悲劇を描くことに貢献している。」(12頁)という。そうではなく、今日、結婚している女性が、子どもの前では「母」であり、夫の前では「妻」であり、同居する実の父母から「娘」であるのと同じことを言っていると思われる。
(注9)倉塚1979.。国文学からは、総括するかのように、烏谷2016.に、「兄と夫の板ばさみになってなって揺れ動き、旧体制に翻弄されつつ、姫彦制の終焉と共に人生の幕をおろす沙本毘売には、信義を重んじる人間としての誇りと潔さが漂う。」(235頁)、「逆境の中で懸命に生き、信念を貫いて死を選びとるヒロイン像が形象される。」(236頁)とある。
(注10)今日、古事記の研究者の間では、古事記は天皇制を正統化するために8世紀初頭に構想されたものであると考えられている。雑駁に言えば、編纂された8世紀初頭において、お上に都合のいいように仕上げた作り話であるというのである。かなり大きな潮流で、ほとんど定説化している。しかるに、律令の文面を作り上げるほどに文明化した頭脳の持ち主が、稲羽の素菟のような荒唐無稽な話を作って何を語りたかったというのか。序に古事記自体の成り立ちが書かれており、無視することはできない。古事記偽書説は太安万侶の墓誌発掘で立ち消えた。旧辞を誦んだと書いてある稗田阿礼という人物も、虚構にして架空の存在であると決めてかかることなどできない。
(注11)小林1970.のいう「書記用漢字」、西條1998.のいう「和訓字」といった概念は、拡張して考えられるべきである。まず先にヤマトコトバがある。文字を持たなくても隆盛を極めていた。そして、そのヤマトコトバで稗田阿礼が誦んでいたお話を太安万侶が書き記した。漢字を使って文字化したわけである。本来的に、漢語としての漢字ではなく、和語としての漢字として、すべての筆記を理解することが求められる。多くの場合、漢土と本邦とで、言葉をカテゴライズするのに共通するところが多かった。だからこそうまく活用できたのであり、漢文に似せた書き方で書き綴ることが行われたという次第である。
(注12)通訓にこのように訓まれているわけではないが、紀126歌謡同様、発語の言葉として記されているからこのように訓んだほうが似つかわしい。最後の「ゑ」は付かずともかまわない。
(注13)万葉仮名に音訓の両面から作られているとおぼしきものがある。拙稿「万葉仮名「乃」と「杼」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c814f939aa73d5b569c974d556217cdd参照。
(注14)ホール1970.。
(注15)「是不勝面問」の「是」について、新編全集本に、「「是」をコノと読む説もあるが、それだと何を指すか、分明でない。カクと読むのがよい。」(199~200頁)とあり、「是く、面り問ふに勝へぬが故に、妾が答へて曰ひしく、『兄を愛しみするか』といひき。」としている。新編全集本は、「是」を前方照応的に、「カク、」と訓んでいる。しかし、カクは直接動詞を修飾したり、カクノゴト、カクユヱ、カクサマニ、カクテ、カクバカリ、カクモガ、カニカクニ、といった言い回しで使われている。「カク、」でいったん留める用法が上代にあるのか、筆者にはわからない。「妾兄沙本毘古王問妾曰、孰愛夫与兄。」を前方の事柄として照応して「是、」と捉えて、それが「不勝面問」につながるのかも疑問である。面前での問いかけであったのか、距離を置いての問いかけであったのかは、前文だけではわからないからである。
よく似た文章構成に、「我、兄と鉤を易へて其の鉤を失ふ。是に其の鉤を乞ふが故に、多の鉤を償へども受けず……(我与兄易鉤而失其鉤。是乞其鉤故雖償多鉤不受……)」(記上)とある。会話文中の「是……故」の形が共通する。「是に」は、既成の事柄をうけて次のことを言い起すための言葉である。現代語に、そして、と訳される。英語の and also に近い意である。この個所で前方照応的にカクと訓まない理由は、釣針をなくしたからといって釣針を乞うてくるとは限らないからである。垂仁記の例でも「是に」と訓むのが正しい。
(注16)拙稿「仁賢紀「母にも兄、吾にも兄」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/4822bacf4b44bf3d85db252f3eafa068参照。
(注17)このような形で訓まれたことがなかったわけではない。尾崎1966.に、「ここに天皇、その后の懐妊みませるに忍へず、また愛重みたまへることも、三年になりにければ、かれ、その軍を廻して急けくも攻めたまはざりき。」(374頁、漢字の旧字体は改めた)とあり、構文的には近い線を行っている。
度会延佳・鼇頭古事記に、「於是天皇不レ忍二其后懐妊一及二愛重一至二于三年一。」(国文学研究資料館・国書データベースhttps://kokusho.nijl.ac.jp/biblio/100181864/94?ln=ja、漢字の旧字体は改めた)とある。「是に天皇、其の后の懐妊めるに忍びず、愛重しみを及きて三年に至る。」と訓読されるのであろう。重文である。また、「及」を、しく、の意と取っていて興味深い。「愛の重を及きて三年に至る。」と訓むことを想定して書記された可能性も排除できない。エエ、エエという声が波のようにくり返し襲ってくることが三年にわたった、という意味である。文のつながりとしては意味的には陣痛の及くことの連想も働く訓みである。ただ、記に「及」をシクと訓む例は他に見えず、マタの用字の記の特徴として、「又」、「亦」のほかに、「且」、「及」と書いている。神武記の用例に従って「及」はマタと訓んでおく。このマタという語も、英語の and also に近い意である。
(注18)垂仁紀四年九月~五年十月条に同じような記述がある。ただ、「愛」の地口話としては描かれていない。いきなり、「皇后母兄狭穂彦王謀反、欲危社稷。」に始まっている。「語之曰、汝孰愛兄与夫焉。於是、皇后不知所問之意趣、輙対曰、愛兄也。則誂皇后曰、……」とあって記によく似るが、その後の狭穂彦王の語りは理屈っぽくなっている。狭穂姫の対応としても、「心裏兢戦、不知所如。然視兄王之志、便不可得諫。故受其匕首、独無所蔵、以著衣中。遂有諫兄之情歟。」と、心情が語られている。「愛」と「ええ」の洒落も見られない。話(咄・噺・譚)としてどのように脚本化するかにおいて、古事記のサホビメ説話の作成者は落語的なセンスを用いたということである。
(引用文献)
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※本稿は、2019年7月稿を2023年6月にルビ形式にしつつ加筆したものである。