一
上代に見られるヲグナ(童男)という語については、オミナ(嫗)─ヲミナ(少女)と対照させ、オキナ(翁)─ヲグナ(少年)の関係にあると考えられている
(注1)。年長(オ)に対する年少(ヲ)という論理であるという。ところが、このヲグナの例は数が少ない。ヤマトタケルの別名と、雄略天皇の若い時の様子を指して言った例だけである。
吾は、
纏向の
日代宮に
坐して
大八島国を知らす、
大帯日子淤斯呂和気天皇の御子、名は、
倭男具那王ぞ。おれ
熊曽建二人、
伏はず
礼無しと
聞し
看して、おれを取り殺せと
詔ひて、
遣せり。(景行記)
是の
小碓尊は、亦の
名は
日本童男 童男、此には烏具奈と云ふ。亦は、
日本武尊と曰ふ。
幼くして
雄略しき
気有します。
壮に
及りて
容貌魁偉し。
身長一丈、
力能く鼎を
扛げたまふ。(景行紀二年三月)
吾は是、
大足彦天皇の
子なり。名は
曰本童男と曰ふ。(景行紀二十七年十二月)
爾くして、
大長谷王子は、
当時童男なりき。即ち此の事を聞きて
慷愾り
忿怒りて、乃ち其の
兄、
黒日子王の
許に到りて曰く、「人、天皇を取りつ。
那何にか
為む」といふ。然れども、其の黒日子王、驚かずて
怠緩なる心有り。是に大長谷王、其の兄を
詈りて言はく、「一つには天皇と
為り、一つには
兄弟と為るに、何か
恃む心も無くて、其の兄を殺すと聞きて驚かずて
怠かにある」といひて、即ち其の
衿を
握りて
控き出で、
刀を抜きて打ち殺しき。亦、其の兄、
白日子王に到りて、
状を告ぐること、
前の如し。
緩かなることも、亦、黒日子王の如し。即ち其の衿を握りて引き率来て、
小治田に到りて、穴を堀りて立て
随ら
埋みしかば、腰を埋む時に至りて、