古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について

2023年07月04日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 上代に見られるヲグナ(童男)という語については、オミナ(嫗)─ヲミナ(少女)と対照させ、オキナ(翁)─ヲグナ(少年)の関係にあると考えられている(注1)。年長(オ)に対する年少(ヲ)という論理であるという。ところが、このヲグナの例は数が少ない。ヤマトタケルの別名と、雄略天皇の若い時の様子を指して言った例だけである。

 あれは、纏向まきむく日代宮ひしろのみやいまして大八島国おほやしまくにを知らす、大帯日子淤斯呂和気天皇おほたらしひこおしろわけのすめらみことの御子、名は、倭男具那王やまとをぐなのみこぞ。おれ熊曽建くまそたける二人、したがはずゐや無しときこして、おれを取り殺せとのりたまひて、つかはせり。(景行記)
 是の小碓尊をうすのみことは、亦のみな日本童男やまとをぐな 童男、此には烏具奈をぐなと云ふ。亦は、日本武尊やまとたけると曰ふ。わかくして雄略ををしきいきします。をとこざかりいたりて容貌みかほ魁偉すぐれたたはし。身長みたき一丈ひとつゑみちから能く鼎をげたまふ。(景行紀二年三月)
 吾は是、大足彦天皇おほたらしひこのすめらみことみこなり。名は曰本童男やまとをぐなと曰ふ。(景行紀二十七年十二月)
 爾くして、大長谷王子おほはつせのみこは、当時そのかみ童男をぐななりき。即ち此の事を聞きて慷愾いきどほ忿怒いかりて、乃ち其のいろえ黒日子王くろひこのみこもとに到りて曰く、「人、天皇を取りつ。那何いかにかむ」といふ。然れども、其の黒日子王、驚かずて怠緩おほろかなる心有り。是に大長谷王、其の兄をりて言はく、「一つには天皇とり、一つには兄弟はらからと為るに、何かたのむ心も無くて、其の兄を殺すと聞きて驚かずておほろかにある」といひて、即ち其のころものくびりてき出で、たちを抜きて打ち殺しき。亦、其の兄、白日子王しろひこのみこに到りて、かたちを告ぐること、さきの如し。おほろかなることも、亦、黒日子王の如し。即ち其の衿を握りて引き率来て、小治田をはりだに到りて、穴を堀りて立てながうづみしかば、腰を埋む時に至りて、ふたつの目、走り抜けて死にき。(安康記)

 これらの例から帰納される点は、ヤマトタケルとオホハツセの二人は御子でありながら、猛々しく荒々しい性格をしていて、実の兄弟を殺すことに躊躇がなく、また、その際、言葉の解釈に偏りが見られるところである。



 景行記の倭男具那王やまとをぐなのみこも、兄の大碓命おほうすのみことを殺している。

 天皇、小碓命をうすのみことのりたまはく、「何とかもなむちが兄の朝夕あさゆふ大御食おほみけに参ゐ出で来ぬ。もはら汝、ねぎ教へ覚せ〔専汝泥疑教覚〕」泥疑の二字は音を以ゐよ。下此に效へ。如此かく詔ひてより以後のち、五日に至るまで、猶参ゐ出でず。爾くして、天皇、小碓命に問ひ賜はく、「何とかも汝の兄の久しく参ゐ出でぬ。若し未だをしへず有りや」ととひたまふに、答へて白さく、「既にねぎつ〔既為泥疑也〕」とまをしき。又、詔はく、「如何にかねぎつる〔如何泥疑之〕」とのりたまふに、答へて白さく、「朝署あさけかはやに入りし時に、待ち捕へひだきて、其の枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ」とまをしき。(景行記)

 「ねぎ(泥疑)」という語について、天皇の言っていることと小碓命の受け取った意味とが齟齬を起こしている。そのため、大碓命を殺害するに至っている。古事記で「泥疑」と仮名書きされて確実にそう訓むように求められている。この「ねぎ」という語の二義について、「ぐ」の意を言葉どおりにねぎらうこととし、それを他方で、かわいがる、の意が痛めつけることであるように、ボコボコにする意と両義的であるとする説がある(注2)。しかしそれは誤りである。天皇は「教覚」、「誨」ことを求めていた。その形容に「ねぎ」と言っている。ねんごろに教えよ、という意である。対する小碓命の答えに「教覚」、「誨」という語は見られず、「為泥疑」ばかりである(注3)
 中村2009.は、新撰字鏡の「麻採 祢具ねぐ」の意として小碓命は取り違えたのだとしている。考え方自体は正しい。ただ、「「ねぐ」に摘む・もぎとる意があり、意味をとり違える物語。ブラックユーモア。」(133~134頁)と説明している。「麻採」とはどういうことなのかきちんと理解したい。



 麻の栽培には繊維を獲得するためと実を獲得するための二法がある。篠崎2014.に、「アサの栽培目的は繊維の採取と実の採取の2つが考えられているが,民俗事例を見る限り,両者は分けて考える必要がある。繊維を採取するためのアサは,枝分かれを防ぐために密植し,花が咲く前に収穫する。そして,冷涼でやせ地の方が良質な繊維が採取できる。逆に,実を採取するためのアサは肥沃な土地の方が有利であり,枝分かれを促すために疎に植える。」(405頁)とまとめられている(注4)。繊維に使えるから「麻採」わけだが、その方法としては、衣服ほか繊維製品の原料とするために人工栽培し、その直立した茎を採取することを目的として刈り取ることと、栽培のために種を収穫するために、なかば野生に生えて分岐が多くたくさんの種をつけたものを摘み取ることの二通りが考えられる。天皇から「ねぐ」ように命じられた時、小碓命は当初、繊維を取るためのことと理解していただろう。なぜなら、アサケ(朝餉)に出て来ないというのだから、アサケ(麻笥)が求められていると思ったのである。ヲケ(桶)はもともとヲ(麻)+ケ(笥)の意である。繊維にするための工程において、麻の茎から皮を剥ぎ、績んだものを入れる容器のことであった。だから彼は、アサケ(朝署=朝曙)の刻に大碓命を捕まえている。場所はカハヤ(厠)である。植物の皮を採って繊維にしようと思っていた。つまり、皮屋だと決めつけていた。ここにも小碓命の意味の取り違えがあり、言葉を偏向して受け取っている。そのつもりでいたところ、繊維を取ろうにも大碓命は枝分かれしていた。手足があったということである。枝分かれしていると繊維にするのに向かない。そこで翌年、密に植えて繊維が得られるようにと、種の入った実をもぎ取って、薦に裹んで打っ棄っておいたというのである。相手は麻ではなく、大碓命であった。
 「ねぐ」をこの用法で用いた例は垂仁紀にも見られる。皇后のサホビメは兄のサホビコから天皇が寝ている時に頸を刺して殺すように匕首を渡されて唆されている。皇后の膝枕に天皇が寝るという絶好の機会が訪れたのだが、皇后は逡巡して涙をこぼした。天皇は目覚めて、夢の内容を語って皇后に問うている。皇后はすべてを白状した。サホビコの経略は、「是の匕首をころもの中に佩びて、天皇の寝ませらむときに、廼ち頸を刺してせまつれ」(垂仁紀四年九月)というものであった。それをまさに実行しようとしていたと述べている。

 是に、やつこ一たび思へらく、若し狂へるめのこ有りて、兄のこころを成すものならば、適遇ただいま是の時に、不労以成功乎。(垂仁紀五年十月)

 今日、最後の箇所は「いたつかずしてことげむ。」(大系本日本書紀28頁)、「いたつかずしてことさむか。」(新編全集本日本書紀309~310頁)と訓まれている。「不労」は苦労なく、労せずして、の意であり、古訓のネギラハズシテは慰労の意に当たるから意味を取り違えていると決めつけて改変している(注5)。しかし、それは賢しらな考えによる誤りで、古訓のままで正しい。ネギラフという語は、ネグ(麻採)から派生した語であろう。手足のように枝分かれしたものをもぎ取るまでもなく、の意である。寝ているところを匕首で頸動脈を掻き切れば、抵抗に合うことなく出血多量で殺すことができる。匕首は太刀や刀のように大きく打撃しながら伐ることを狙っているのではなく、頸のウィークポイント一点を刺せば絶命させることができるものであった。細かく分かれた枝を刈り取るには及ばないすぐれ物で、ネグことをくり返し行って疲れることにはならないからネギラフまでもないのである。
 相手を植物であるかのように扱って殺そうとする記述は他にも見られる(注6)

 爾くして、其の建御名方神の手を取らむとおもひて、乞ひ帰して取りたまへば、若葦わかあしを取るが如くひだきて投げ離ちたまへば、即ち逃げ去にき。故、追ひ往きて、科野国の州羽海に迫め到りて、殺さむとしたまふ時、建御名方神白さく、「かしこし。我をな殺したまひそ。……」とまをしき。(記上)

 「若葦」は景行記の「其枝」同様植物の比喩で、「搤批」、「投離」と似たように表現している。ネグという語を小碓命は「麻採」の意で捉えていたことが確かめられる。
 このように意味の取り違えを起こすことは、日常的な言葉の使い方、受け取るときの解釈に偏りが見られるということである。小碓命はネグについてねぎらう意味にとらずに、「麻採」の意味に解して憚るところがない。言語活動においてバランスを欠き、乱れが生じている。十分に成熟しているとはいえず、かといって未熟というわけではなく、曲げて解する輩である(注7)



 その傾向を表す語に、「くなたぶる(頑狂)」、「かたくな(頑)」といった語があげられる。「くな」はクネルと同根であり、曲がっていること、判断が行き届かず偏っていることを指している。
 すなわち、ヲグナ(童男)の語構成は、ヲ(男)+クナ(頑・拗・逶)である。
 「童」は説文に、「童 男につみ有るを奴と曰ひ、奴を童と曰ひ、女を妾と曰ふ。䇂に从ひ、重省声」とある。罪人は結髪を許されなかったから、髪を束ねずにばらばらなまま垂らしていた。同じ髪型をするのが子どもであり、それをワラハといい、そこから童子のことをもワラハと呼んでいた(注8)。紀の「童男」には少年の義ばかりでなく、「男有辠」=「奴」=「童」の義をも表していると考えられる。年齢的に前後の話と矛盾するという指摘は当たらない。角立っていて猛々しいところがある様子をうまく言い当てた表記である。パンクロックな髪型の者を指している。
 安康記の大長谷王子の言動、「人、天皇を取りつ。那何いかにかむ〔人取天皇。為那何〕」も同じである。人が天皇を取った、と聞いて即座に、天皇の命が奪われたという意に解することはできない。時の天皇は穴穂天皇である。筆者は、允恭記の「軽箭」と「穴穂箭」の表現から、「軽」はカルガモ(軽鴨)のカル、「穴穂」はタカ(鷹)のことを言っていると考えている(注9)。「人取天皇」と「当時」聞き、ジョークのセンスをふつうに持ち合わせていれば、人が鷹を手に取ったのだな、と思っただろう。「為那何」も何もないのであって、行きたければ鷹狩に着いて行けばよく、スポーツを好まないのであれば放っておけばよいと考えただろうと理解できる。だから、黒日子王は、「不驚而有怠緩之心」であった。「怠緩之心」は古訓にオホロカナルココロと訓まれている(注10)。オホロカはぼんやりしていること、はっきりしないこと、粗略な態度でいることを表す。この訓はかなり正しい。鷹狩についてどうするかと聞かれたと思ったら、遊びのことだからどうだってかまわないといい加減な対応をとるのはごくごく自然なことである。かたくなな態度で対するほうがどうかしている。



 白日子王の殺害の仕方は特徴的である。「亦到其兄白日子王而、告状如前。緩亦如黒日子王。即握其衿以引率来、到小治田、掘穴而随立埋者、至腰時、両目走抜而死。」とある。何を言っているのだろうか。
 小治田まで連行して処刑している。その方法として穴を掘って埋めている。場所はヲハリダというところである。田の終わっているところ、つまり、耕作を放棄した休耕田ということであろう。湿地帯であったから稲を栽培していたわけで、止めれば葦などが生えてくる。葦は葦で住居の屋根を葺くのに用いられたからそのまま放って置かれたのだろう。そこに穴を掘って白日子王を埋め込んでいる。シロヒコというのだから何かの代わりになるもの、シロ(代)という意味合いで対処された。ヲハリダは稲を栽培することを止めてその代りに葦を栽培していたのだから、刑場にはもってこいの場所ということになる。そして、アシダ(葦田)に穴を掘って、その空いたところへシロヒコを埋め込んでいる。アシダ(葦田)の代りになるものとしてアシダ(足駄)を入れたということに違いあるまい(注11)。和名抄に、「屐 兼名苑に云はく、屐〈音は奇逆反、阿師太あしだ〉は一名に足下といふ。」とある。
足駄を履いた女(伴大納言絵詞写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574901/30をトリミング)
 掘った穴に、ぴったり同じ形、サイズの足駄を無理やり押し込んだことを想定している。足駄は高下駄だから湿地でもなんとか堪えられそうだが、腰に当たるところまで埋め込んでしまうと、鼻緒のところへ下から水圧がかかり、鼻緒が取れてそこから水が噴き出し、水没して死んだと言っているようである。「目」とは結び目のことである。鼻緒の括り目が穴から走り抜けて水が入ってきた。ククル(括)ところからククル(潜)こと、水が漏れ流れることになっている。シロヒコという名に値するように、言葉のシロ(代)による死の描写が行われている(注12)

 …… 玉こそは 緒の絶えぬれば 括りつつ〔八十一里喚鶏〕 またも合ふといへ またも逢はぬものは 妻にしありけり(万3330)
 敷栲の 枕ゆ潜る〔枕従久々流〕 涙にそ 浮寝をしける 恋の繁きに(万507)
 
 以上、上代語のネグとヲグナについて明らかにした。記紀の説話や万葉集の歌に見られる言葉づかいは、大局的に見れば辞書の用例集とさえ位置づけられるものである。

(注)
(注1)例えば、阪倉1978.21頁。他の説もある。山口1985.は、「ク(児)はコ(児)の母音交替形である。「童男 烏具奈」(景行記)の語構成は未詳とされているが、「ヲ(男)+ク(児)+ナ(接尾辞、オキナ・オミナ・ヲミナなど)」と考えるべきである。」(39頁)としている。角川古語大辞典や吉井1967.は、語構成は考えず、「童男」と記述される点から神秘的能力の保持者として造形しているとしている。
(注2)西宮1979.に、「天皇が小碓命に命じた「ねぐ」の意味が、小碓命には暴力的な「ねぐ」の意味にとられた。今日でも「かわいがる」が「やさしくする」と逆に「痛めつける」の意に、卑俗に使われることがある。」(157頁)、西郷2006.に、「ネグは慰労するとか、いたわるとかの意だが、彼は兄の手足をもぎとったばかり、ごていねい・・・・・にも、それを薦につつんで投げすてたのだ。ヤクザ仲間で痛めつけるのを可愛がるといい、練習でしごくのをそうよんだりする運動部もあるようだが、ここも父が「汝ねぎ教へサトせ」といったのを逆手にとって小碓は、兄をこのように手厚く扱ったというわけである。」(40~41頁)、新編全集本古事記に、「聖武天皇の「酒を節度使の卿等に賜ふ御歌」に、「天皇朕われ すめら 珍の御手もち かき撫でそ ねぎたまふ うち撫でそ ねぎたまふ」(『万葉』九七三)とあることでわかるように、「かき撫で」「うち撫で」て身体的にいたわることをいう。いま小碓命は、兄の四肢をもぎとって、ご丁寧にも薦に包んで「ねぎし」たというわけである。「ねぎ」という言葉をめぐる行き 違いの中に小碓命の荒々しい残酷さが印象づけられる。」(217頁) とある。
(注3)山口1995.は、「古事記においては、名詞を動詞化する場合、〈為+名詞〉の形を取らせることが多い。」(394頁)とし、「為目合而(メクハセシテ)」、「為嫉妬(ウハナリネタミシキ)」、「為男建而(ヲタケビシテ)」、「為名告(ナノリセム)」、「為美斗能麻具波比。(ミトノマグハヒセム)」、「為阿藝登比(アギトヒシキ)」、「為 宇礼豆玖。(ウレヅクセム)」と訓むように「為」はスと訓まれる。また、「為」字が上置されない「禊祓也。(ミソギシキ)」、「因言挙、(コトアゲセシニ)」、「朝参(ミカドマヰリス)」のような場合にも、スを補読する。そこで、「一つの解釈として、「泥疑」……を動詞の連用形でなく、名詞形と見なし、スを補読して……訓む案を提出したい。」(394頁)としている。「既為泥疑也。」は「スデニネギツ」ではなく「スデニネギツ」、「如何泥疑之。」は「イカニカネギツル」ではなく「イカニカネギツル」と訓むものとしている。
 筆者はその考え方に与しない。「為」字によって必ずサ変動詞を表したとする確証はなく、「為」字がないところにまで敷衍して補読する必然性は見られない。以下に見るとおり、新校古事記では「為目合而」と「目合而」とを訓み分けている。そう訓むことに問題が生じていない。

 故、らすみことまにまに、須佐之男命の御所みもとに参ゐ到れば、其のむすめ須勢理毘売出で見て、目合めあひして相婚ひ〔為目合而相婚〕、還り入りて、其の父に白して言はく、「いとうるはしき神来たぬ」といふ。(記上)
 爾くして、豊玉毘売命、あやしと思ひ、出で見て、乃ち見かまけ、目合めあひて〔目合而〕、其の父に白して曰はく、「吾が門にうるはしき人有り」といふ。(記上)

 また、逆に、「為」字を下接する語が動詞であることのマーカーであると捉えることも可能であり、そう訓まれてきた。

 爾くして神倭伊波礼毘古命、倐忽にはかにをえし〔倐忽為遠延〕、また御軍みいくさも皆をえて伏しき〔及御軍皆遠延而伏〕。遠延の二字は音を以てす。(神武記)

(注4)苧麻からむしは宿根草であり、まっすぐ伸びることを期待して囲われることもある。
苧麻畑(教草、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0034220をトリミング)
(注5)飯田武郷・日本書紀通釈(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/pid/1115832/1/22)、新釈全訳日本書紀(423頁)も同様に解している。しかし、よくよく考えてみると古訓はなかなかに正確であるとする指摘は、神田1983.に詳しい。また、拙稿「日本書紀古訓考証─「顧」(ヒソカニ)について─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/ffb13a9e7d748e08d594135612625a76参照。
(注6)松本2008.4~5頁にも指摘されている。植物扱いしているから、大碓命の「存亡イキシニらえず」(本居宣長・古事記伝、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/106)でかまわないのである。
(注7)詭弁、強弁、屁理屈などは、今日においてもコミュニケーションの場において厄介な問題を引き起こしている。言葉をあやつるがゆえの永遠の課題である。
(注8)本居宣長・古事記伝は、「凡て袁具那ヲグナとは、其齢にカヽハらず、童の髪の形にてあるを云るなるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/421、漢字の旧字体は改めた)としている。
(注9)拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/41dd83e8fc7373229a8677f48d3202a2、「古事記の軽太子と軽大郎女の近親相姦譚─兄妹相姦は知られていないのか?─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/6a7c42cacf17227ba93b19800f339cf0参照。
(注10)新編全集本古事記は、オホロカは字義に合わないとし、「「怠」はオコタルと読み、心がたるんでなすべき事をしないの意。「緩」はユルフ(第三音節は清音)と読み、緊張を失う・だらけるの意。」(331頁)としている。しかし、それでは大長谷王子のものの見方、考え方からしか捉えられていない。同音異義語による言葉づかいの多義性が意思の疎通を妨げ、大長谷王子の暴虐につながっていることがきちんと創られ語られている。だから話として飽きさせずに通じていた。
(注11)アシダ(葦田)とはいえ田なのだから田下駄を使うだろうと考えるのはおよそナンセンスである。話にならない。言葉が掛けられているから成り立っている。そしてまた、田下駄のように新鮮味のないものを話題にあげることも妙味に欠ける。古墳時代中期に現れた目新しい文化的素材だからアシダ(足駄)を話に盛り込んでいると考える。
(注12)古事記の記事はお話である。話(咄・噺・譚)として綿密に構成されて人から人へと受け継がれてきた。話し言葉でなるほどとわかることが要件となる。当たり前のことであるが、わかって伝わることに重きが置かれており、実際がどうであったかは二の次である。近代的な視座による“歴史”という尺度で読み解こうとしたり、当てられている文字の出典が当時の人々の常識であったとするのは筋違いである。書き言葉に直すとき、漢籍(仏典を含む)をアンチョコとして活用した。書き記した太安万侶の手腕と、後の時代の勉強家が読んだときの読み方は別物である。そのことは日本書紀でもほぼ当てはまる。ヤマトコトバを母語としてヤマトコトバを書き表すために漢字を使ったのが書記化の始まりで、だからこそ記紀万葉に多彩な記し方がそれぞれに、また、それぞれのなかでもさまざまに行われている。何のために書いたのか。次の人に伝えるためであってそれ以外の何ものでもない。中国人に読んでもらおうと遣唐使船に載せたなどという記録は見られない。

(引用・参考文献)
秋田2002. 秋田裕毅『下駄─神のはきもの─』法政大学出版会、2002年。
板橋2016. 板橋零「『古事記』における小碓命(倭建命)の「ねぐ」についての一考察」『滝川国文』第32巻、2016年。J-STAGE https://doi.org/10.24626/kokutand.32.0_53
角川古語大辞典 中村幸彦・岡見正雄・阪倉篤義編『角川古語大辞典 第五巻』角川書店、平成11年。
管2018. 管浩然「『古事記』「甚為嫉妬」の「為」をめぐって」『皇學館論叢』第51巻第1号(通号300号)、2018年2月。皇學館大学学術リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1543/00000278/
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集Ⅱ』明治書院、昭和58年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第六巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
阪倉1978. 阪倉篤義『日本語の語源』講談社(講談社現代新書)、昭和53年。
篠﨑2014. 篠崎茂雄「アサ利用の民俗学的研究─縄文時代のアサ利用を考えるため─」『国立歴史民俗博物館研究報告』第187巻、2014年7月。国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリhttp://doi.org/10.15024/00000298
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
長野1988. 長野一雄「安康記の大長谷王像」『古代文学』第28号、1988年。古代文学会ホームページhttp://kodaibungakukai.sakura.ne.jp/wp/zassi_top/zassi_soumokuji/zassi_21-30(『古事記説話の表現と構想の研究』(おうふう、1998年)所収)
永原1990. 永原慶二『新・木綿以前のこと─苧麻から木綿へ─』中央公論社、1990年。
中村2009. 中村啓信訳注『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
西宮1979. 西宮一民校注『新潮日本古典集成 古事記』新潮社、昭和54年。
畠山2011. 畠山篤「倭建命の熊曽征討物語の生成(上)」『紀要』第47号、弘前学院大学文学部、2011年3月。弘前学院大学学術情報リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1610/00000079/
松本2008. 松本弘毅「倭建命の追放」『国文学研究』第155巻、早稲田大学国文学会、2008年6月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/44050(『古事記と歴史叙述』(新典社、平成23年)所収)
万葉語誌 新谷正雄「ねぐ【祈ぐ・労ぐ】」多田一臣編『万葉語誌』筑摩書房、2014年。
本村2022. 本村充保『下駄の考古学』同成社、2022年。
守屋1986. 守屋俊彦「厠の中にて─大碓命と小碓命─」『上代文学』第57号、1986年11月。上代文学会http://jodaibungakukai.org/02_contents.html(『ヤマトタケル伝承序説』(和泉書院、昭和63年)所収)
山口1985. 山口佳紀『古代日本語文法の成立の研究』有精堂、昭和60年。
山口1995. 山口佳紀『古事記の表記と訓読』有精堂、平成7年。
吉井1967. 吉井巖『天皇の系譜と神話 一』塙書房、昭和42年。

この記事についてブログを書く
« 日本書紀古訓考証─「顧」(ヒ... | トップ | 「大君は神にしませば」歌(... »