日本書紀は古い時代から訓まれてきた。原文の漢字に振り仮名や送り仮名が付されている。それを古訓と称し、「古訓の漢土訓詁学上より見て極めて正確なる」(神田1983.414頁、漢字の旧字体は改めた、以下同じ)ものであると攷証されている。一方で、現代的感覚ないし今日の漢文理解からはよくわからずに、不審であるとか不適切であると説かれることも多い。
新釈全訳日本書紀は、日本書紀のなかで「顧」字をヒソカニと訓んでいる例を不審としている。神武前紀戊午年十月条の「顧」について、「古訓はヒソカニとあるが不審。下文に「密旨」とあり、文脈に応じて訓んだものと思われる。「顧謂皇后」(雄略即位前紀)「而顧謂之曰」(同八年二月)の「顧」も古訓はヒソカニとし、大系は両者を、新編全集は後者を古訓によるが、文脈的に合うかもしれないというだけで、字義にかなわず適切ではない。いずれもカヘリミテと訓むべきであろう。」(319頁)としている(注1)。
筆者は、この考えは誤っており、「顧」字をヒソカニと訓むことは「訓詁学上より見て極めて正確なる」ものであると考えている。本稿はその証明である。神田氏は、攷証の結果得られた観点として、「古訓には今日古典の正統的注釈書と認めらるるものに、必ずしも依拠せざるものの多きこと」(415頁)をあげている。
正統的注釈書からすれば、詩経・檜風・匪風の「顧瞻周道、中心怛兮」の鄭箋「迴首曰顧」や、同・小雅・蓼莪の「顧我復我」の鄭箋「顧、旋視也」などから、「顧」は振り返る、かえりみる、の意であると考えられる。そして、その意で用いられた箇所は紀のなかでも数多い。
ところが、「顧」字は「眷」字と通じるところがある。詩経・大雅・皇矣の「乃眷西顧」の鄭箋に「乃眷然運視」とあり、釈文に「眷、本又作睠。又親属也」ともある。眷然とは思いをかけて回視することをいい、懇ろな思いをいだく対象としてもっとも該当するのは眷属にあたる血族、親族、ファミリー、身内、仕えている家来である。それは「公」に対する「私」の領域である。情をかける仲にある「私」について、その字をヒソカニと訓むことに疑念は生じない。「訓詁学上より見て極めて正確なる」訓である。愛顧する意をもって肉親を眷属というのである。名義抄に「眷 音巻、コヒシカヘリミル、シタシ、禾化ン」と見える。だから、「顧」字はヒソカニと訓むことがあって当然なのである。
字形を考えてみても、「顧」字は、頁(あたま)を雇(わくをかまえて、そのなかに鳥や動物をかかえこむこと)することと思われ、眷属が垣根に囲まれた屋敷のなかに集まって暮らしているさまを表していると理解される。私的空間に私人として生きている。公にしないで私的に睦ましく話をするさまを表現するなら、公表する時に大声を張るのに対してもの静かに耳元でささやくような仕種こそがふさわしい。それを示すヤマトコトバとしてヒソカニが使われた。ミソカニが平安時代の和文系、ヒソカニが漢文訓読系に用いられたとされている。両者の使い分けについては当面、問題とならない。ヒソカニは、秘・密・潜・私・陰といった字で記されている。眷も顧もヒソカニと訓まれる条件が揃っている。
日本書紀中の例をもって検証する。新釈全訳日本書紀の注釈についての詳論として福田2018.があり、そこでとりあげられている。
既にして余の党猶繁くして、其の情測り難し。乃ち顧に道臣命に勅すらく、「汝、大来目部を帥ゐて、大室を忍坂邑に作りて、盛に宴饗を設けて、虜を誘りて取れ」とのたまふ。道臣命、是に密の旨を奉りて、窨を忍坂に掘りて、我が猛き卒を選びて、虜と雑ぜ居う。(既而余党猶繁、其情難測。乃顧勅道臣命、汝宜帥大来目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之。道臣命、於是奉密旨、掘窨於忍坂、而選我猛卒、与虜雑居。)(神武前紀戊午年十月)
福田氏は、「顧」字はかえりみる、の意ではあるが、下文の「道臣命於是奉密旨」(道臣命はその密命を受けて)とのかかわりから文脈に即して訓読してヒソカニと訓んだものと捉えている。秘密の計略を授ける場面だから、他人に漏れ聞こえることのないようにしたと解されるからとしている。この考え方には無理がある。後ろを振り向くこととヒソカニ話すこととは必ずしも一致しない。上に述べたとおり、「顧」字にすでにヒソカニと訓むべき、あるいは、ヒソカニという言葉を「顧」字で書き表すべき意が含まれていると理解されていたからそう記されてある。
なぜといって、「勅」する相手は「道臣命」である。ミチノオミと呼ばれる家来が行軍の並び順として、天皇の前にいるか後ろにいるか考えたらすぐわかることである。ミチノオミは導くからミチノオミである。天皇より前にいる。天皇が前にいるミチノオミに話しかけるのに後ろを振り返ることはない。字面を見たその時点で、「顧」を振り返るの義に解することは滑稽だとわかる。
日本書紀に現れる「顧」字でヒソカニと訓んでいる場合、他の二例でも話しかける相手の立ち位置として振り返ることのない状況のものばかりである。
三年の八月に、穴穂天皇、沐浴まむと意して、山宮に幸す。遂に楼に登りまして遊目びたまふ。因りて酒を命して肆宴す。爾して乃ち情盤楽極りて、間ふるに言談を以てして、顧に皇后【去来穂別天皇の女、中蒂姫皇女と曰す。更の名は長田大娘皇女。大鷦鷯天皇の子大草香皇子、長田皇女を娶きて、眉輪王を生めり。後に穴穂天皇、根臣の讒を用ゐて、大草香皇子を殺して、中蒂姫皇女を立てて皇后としたまふ。語は穴穂天皇紀に在り。】に謂らひて曰はく、「吾妹、【妻を称ひて妹とすることは、蓋し古の俗か。】汝は親しく昵しと雖も、朕、眉輪王を畏る」とのたまふ。眉輪王、幼年くして楼の下に遊戯びて、悉に所談を聞きつ。既にして穴穂天皇、皇后の膝に枕したまひて、昼酔ひて眠臥したまふ。是に、眉輪王、其の熟睡ませるを伺ひて、刺し弑せまつりつ。(三年八月、穴穂天皇意将沐浴、幸于山宮。遂登楼兮遊目。因命酒兮肆宴。爾乃情盤楽極、間以言談、顧謂皇后【去来穂別天皇女曰中蒂姫皇女。更名長田大娘皇女也。大鷦鷯天皇子大草香皇子、娶長田皇女、生眉輪王也。於後穴穂天皇用根臣讒、殺大草香皇子、而立中蒂姫皇女為皇后。語在穴穂天皇紀也。】曰、吾妹【称妻為妹、蓋古之俗乎。】汝雖親昵、朕畏眉輪王。眉輪王幼年遊戯楼下、悉聞所談。既而穴穂天皇枕皇后膝、昼酔眠臥。於是眉輪王伺其熟睡、而刺弑之。(雄略前紀)
頃有りて、高麗の軍士一人、取仮に国に帰る。時に新羅人を以て典馬【典馬、此には于麻柯比と云ふ。】とす。而して顧に謂りて曰はく、「汝の国は、吾が国の為に破られむこと久に非じ」といふ。【一本に云はく、汝が国、果して吾が土に成ること久に非じといふ。】其の典馬、聞きて、陽りて其の腹を患むまねにして、退りて在後れぬ。遂に国に逃げ入りて、其の所語を説く。(有頃、高麗軍士一人取仮帰国。時以新羅人為典馬【典馬、此云于麻柯比。】而顧謂之曰、汝国為吾国所破非久矣【一本云、汝国果成吾土非久矣。】其典馬聞之、陽患其腹、退而在後。遂逃入国、説其所語。)(雄略紀八年二月)
雄略前紀の例で、宴会を開いて楽しみ極まり、話に花が咲いている時、「顧謂二皇后一」とある「顧」を振り返っての意とすることは不自然である。穴穂天皇(安康)は中蒂姫皇女を皇后にしているが、その夫を殺害しての略奪婚である。「情盤楽極、間以二言談一」の最中、天皇が話しかけている相手はもっぱら好きで好きでたまらない皇后であろう。皇后の方を向いて、その顔、笑顔を見ながら話している。後ろに控えているわけがない。山あいの別荘に行って観覧台で遊んでいて、酒を飲みながら仲睦まじく話している。すなわち、眉輪王のことに触れるに至ったときに声を潜めたのである。
雄略紀八年条の例では、高麗軍士一人は「以二新羅人一為二典馬一」を相手に話しかけている。高麗軍士は馬に騎乗していて、その馬を典馬は引いていると思われる。高麗軍士から見て前に位置する典馬に対して「顧」字が振り返るの意であることはない。すなわち、雇用した新羅人は金が目当てで付き従っている。自らが所有する馬を手放して新羅へ帰るはずはなく、高麗が新羅を攻略して焦土と化したとしても、お前は高麗で平穏な生活が送れるから幸せ者だよなあ、と小声で言っている。大きな声で言わないのは、他に新羅人が随伴しているかもしれず、その場合、馬を預けているわけではなく、身一つで荷物を運んだりしていたなら、行軍から離れて家族のもとへ帰国することもあり得るからである。典馬に家族があったかは不明ながら、典馬にとっての家族とは馬一頭であるという流れであったかと推量される。
騎乗者と口取り(馬引き)(石山寺縁起摸本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0055261.jpgをトリミング)(注2)
さらに一例、「顧」をカヘリミルと訓まない例がある。
是に、天皇、其の行状を聞きて、人を遣して徴し入る。而るに来肯へず。顧に河内母樹馬飼首御狩を以て京に奉詣でしめて、奏して曰さく、「臣、未だ勅の旨を成さずして京郷に還入ば、労へられて往きて、虚しくして帰れるなり。慙しく恧きこと安か措かむ。伏して願はくは、陛下、国命を成して、朝に入りて謝罪まをさむを待ちたまへ」とまをす。使を奉して後に、更自ら謨りて曰はく、「其れ調吉士は、亦是皇華の使なり。若し吾より先ちて取帰りて、依実に奏聞せば、吾が罪過、必ず重からむものぞ」といふ。乃ち調吉士を遣して、衆を率て伊斯枳牟羅城を守らしむ。(於是、天皇聞其行状、遣人徴入。而不肯来。顧以河内母樹馬飼首御狩奉詣於京、而奏曰、臣未成勅旨還入京郷、労往虚帰。慙恧安措。伏願、陛下待成国命、入朝謝罪。奉使之後、更自謨曰、其調吉士、亦是皇華之使。若先吾取帰、依実奏聞、吾之罪過必応重矣。乃遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城。)(継体紀二十四年九月)
この例では、「顧」字は古訓でシノビニと訓まれている(注3)。福田2018.は、「「顧」はさきに見た[雄略紀の]二例とは異なり、内省するの意(『尚書』康誥に「用康乃心、顧乃徳」孔伝「用是誠道、安汝心、顧省汝徳、無令有非」)である。いろいろと考えをめぐらした結果、恭順の意を表することにしたものの、使者派遣後にさらに思慮した結果(「更自謨」)、それが自身の身を危うくすることに思いが至り、調吉士の妨害を図るに及んだという物語としてよむことができる。一方、古訓「ヒソカニ」に従えば、人目につかないように使者を本国に派遣したということになる。この場合、明解があるわけではないが、はじめからやましい気持ちがあり、使者の派遣に気が引けていたのだと理解できるのではないだろうか。」(18頁)としている。
シノビニであれヒソカニであれ、「顧」は述部である「奉詣……奏曰」にかかる副詞で使役形に用いられている。密使を派遣していることを表しており、内省するの意には当たらない。「一に云はく、沙至比跪、天皇の怒を知りて、敢へて公に還らず。乃ち自ら竄伏る。其の妹、皇宮に幸ること有り。比跪、密に使人を遣して、天皇の怒解けぬるや不やを問はしむ。(一云、沙至比跪知天皇怒、不敢公還。乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者。比跪密遣使人、問天皇怒解不。)」(神功紀六十二年)、「時に密に舎人を遣して、装飾を視察しむ。(時密遣舎人、視察装飾。)」(雄略紀十四年四月)と同様の用例が見える。神功紀の用例に「公」と対義的に「密」が使われている。「顧」字が眷属の「眷」の意を持つことは述べたとおりで、公/私の別として「私」側に「顧」字はあるのだから、シノビニという訓に何ら支障は生じない。
そして、話しかけている相手は「河内母樹馬飼首御狩」である。「馬飼」という名を帯びている。前にいる相手か後ろにいる相手かといえば、名に負うこととして前にいることがふさわしいから前にいるものとして想念されている。よって振り返ることはない。
この箇所で「顧」を、ヒソカニとシノビニのいずれで訓んだら良いかと言えば、語の出自からしてシノビニがふさわしいであろう。神武前紀、雄略前紀、雄略紀八年の例では、「顧勅」「顧謂」と言葉を発する動詞にかかる副詞である。ひそひそ話をするのだからヒソカニである。ヒソという擬音語をもとにして成った語であると考えられている。一方、継体紀二十四年の例は、「奉詣」にかかる副詞である。秘密裏に、こっそりと、包み隠して、の意である。シノビ(密・忍・隠)の意に重きを置くから、シノビニがふさわしいと知れる(注4)。
以上、日本書紀古訓の、「顧」をヒソカニと訓むことが「訓詁学上より見て極めて正確な」ことを、無理解な検討(注5)を反面として追加するに至った。
(注)
(注1)武田1988.は神武前紀例を「かへりみて」と訓んでいる。
(注2)上の一騎、緋色の狩衣を着た騎乗者は振り返っていて馬引きに「謂」ることはないが、下の紺色の狩衣を着た者はしっかり馬をなだめよと馬引きに「謂」っているかもしれない。
(注3)前田本、書陵部本。兼右本では右傍にシノヒ、左傍にヒソカと付されている。
(注4)神武紀六十二年条の「密」はヒソカニと訓まれることもある(北野本)が、シノビニがふさわしい。
(注5)福田氏は、「顧」をヒソカニと訓むことは意訳から生まれ、「一度成立した「誤読」が、ほかの文脈に浸食していく」(17頁)と解している。そして、「古訓とともにあった『日本書紀』を私たちはまだ十分によみこんでいないのではないかという問題提起をして本論のまとめとする。」(19頁)としている。しかるに、大系本日本書紀で古訓に従っていたのは、「顧」の字義とも当然のことと理解していたからではないか。大系本日本書紀の訓読及び漢文の注解は神田喜一郎氏の指示も仰いで成っている。神田1983.の挙例はいずれも熟語についてのものであることからしても、漢文力ならびに古文力が低下しているだけのことかもしれない。
(引用・参考文献)
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集Ⅱ』明治書院、昭和58年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』『同3 日本書紀②』小学館、1994・1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』『同(二)』『同(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
武田1988. 武田祐吉訳『訓読日本書紀』臨川書店、昭和53年。
福田2018. 福田武史「『日本書紀』古訓をよむ」『国文学研究資料館 共同研究(特定研究(課題))研究成果報告書 読書─人・モノ・時空─』国文学研究資料館、平成30(2018)年。
新釈全訳日本書紀は、日本書紀のなかで「顧」字をヒソカニと訓んでいる例を不審としている。神武前紀戊午年十月条の「顧」について、「古訓はヒソカニとあるが不審。下文に「密旨」とあり、文脈に応じて訓んだものと思われる。「顧謂皇后」(雄略即位前紀)「而顧謂之曰」(同八年二月)の「顧」も古訓はヒソカニとし、大系は両者を、新編全集は後者を古訓によるが、文脈的に合うかもしれないというだけで、字義にかなわず適切ではない。いずれもカヘリミテと訓むべきであろう。」(319頁)としている(注1)。
筆者は、この考えは誤っており、「顧」字をヒソカニと訓むことは「訓詁学上より見て極めて正確なる」ものであると考えている。本稿はその証明である。神田氏は、攷証の結果得られた観点として、「古訓には今日古典の正統的注釈書と認めらるるものに、必ずしも依拠せざるものの多きこと」(415頁)をあげている。
正統的注釈書からすれば、詩経・檜風・匪風の「顧瞻周道、中心怛兮」の鄭箋「迴首曰顧」や、同・小雅・蓼莪の「顧我復我」の鄭箋「顧、旋視也」などから、「顧」は振り返る、かえりみる、の意であると考えられる。そして、その意で用いられた箇所は紀のなかでも数多い。
ところが、「顧」字は「眷」字と通じるところがある。詩経・大雅・皇矣の「乃眷西顧」の鄭箋に「乃眷然運視」とあり、釈文に「眷、本又作睠。又親属也」ともある。眷然とは思いをかけて回視することをいい、懇ろな思いをいだく対象としてもっとも該当するのは眷属にあたる血族、親族、ファミリー、身内、仕えている家来である。それは「公」に対する「私」の領域である。情をかける仲にある「私」について、その字をヒソカニと訓むことに疑念は生じない。「訓詁学上より見て極めて正確なる」訓である。愛顧する意をもって肉親を眷属というのである。名義抄に「眷 音巻、コヒシカヘリミル、シタシ、禾化ン」と見える。だから、「顧」字はヒソカニと訓むことがあって当然なのである。
字形を考えてみても、「顧」字は、頁(あたま)を雇(わくをかまえて、そのなかに鳥や動物をかかえこむこと)することと思われ、眷属が垣根に囲まれた屋敷のなかに集まって暮らしているさまを表していると理解される。私的空間に私人として生きている。公にしないで私的に睦ましく話をするさまを表現するなら、公表する時に大声を張るのに対してもの静かに耳元でささやくような仕種こそがふさわしい。それを示すヤマトコトバとしてヒソカニが使われた。ミソカニが平安時代の和文系、ヒソカニが漢文訓読系に用いられたとされている。両者の使い分けについては当面、問題とならない。ヒソカニは、秘・密・潜・私・陰といった字で記されている。眷も顧もヒソカニと訓まれる条件が揃っている。
日本書紀中の例をもって検証する。新釈全訳日本書紀の注釈についての詳論として福田2018.があり、そこでとりあげられている。
既にして余の党猶繁くして、其の情測り難し。乃ち顧に道臣命に勅すらく、「汝、大来目部を帥ゐて、大室を忍坂邑に作りて、盛に宴饗を設けて、虜を誘りて取れ」とのたまふ。道臣命、是に密の旨を奉りて、窨を忍坂に掘りて、我が猛き卒を選びて、虜と雑ぜ居う。(既而余党猶繁、其情難測。乃顧勅道臣命、汝宜帥大来目部、作大室於忍坂邑、盛設宴饗、誘虜而取之。道臣命、於是奉密旨、掘窨於忍坂、而選我猛卒、与虜雑居。)(神武前紀戊午年十月)
福田氏は、「顧」字はかえりみる、の意ではあるが、下文の「道臣命於是奉密旨」(道臣命はその密命を受けて)とのかかわりから文脈に即して訓読してヒソカニと訓んだものと捉えている。秘密の計略を授ける場面だから、他人に漏れ聞こえることのないようにしたと解されるからとしている。この考え方には無理がある。後ろを振り向くこととヒソカニ話すこととは必ずしも一致しない。上に述べたとおり、「顧」字にすでにヒソカニと訓むべき、あるいは、ヒソカニという言葉を「顧」字で書き表すべき意が含まれていると理解されていたからそう記されてある。
なぜといって、「勅」する相手は「道臣命」である。ミチノオミと呼ばれる家来が行軍の並び順として、天皇の前にいるか後ろにいるか考えたらすぐわかることである。ミチノオミは導くからミチノオミである。天皇より前にいる。天皇が前にいるミチノオミに話しかけるのに後ろを振り返ることはない。字面を見たその時点で、「顧」を振り返るの義に解することは滑稽だとわかる。
日本書紀に現れる「顧」字でヒソカニと訓んでいる場合、他の二例でも話しかける相手の立ち位置として振り返ることのない状況のものばかりである。
三年の八月に、穴穂天皇、沐浴まむと意して、山宮に幸す。遂に楼に登りまして遊目びたまふ。因りて酒を命して肆宴す。爾して乃ち情盤楽極りて、間ふるに言談を以てして、顧に皇后【去来穂別天皇の女、中蒂姫皇女と曰す。更の名は長田大娘皇女。大鷦鷯天皇の子大草香皇子、長田皇女を娶きて、眉輪王を生めり。後に穴穂天皇、根臣の讒を用ゐて、大草香皇子を殺して、中蒂姫皇女を立てて皇后としたまふ。語は穴穂天皇紀に在り。】に謂らひて曰はく、「吾妹、【妻を称ひて妹とすることは、蓋し古の俗か。】汝は親しく昵しと雖も、朕、眉輪王を畏る」とのたまふ。眉輪王、幼年くして楼の下に遊戯びて、悉に所談を聞きつ。既にして穴穂天皇、皇后の膝に枕したまひて、昼酔ひて眠臥したまふ。是に、眉輪王、其の熟睡ませるを伺ひて、刺し弑せまつりつ。(三年八月、穴穂天皇意将沐浴、幸于山宮。遂登楼兮遊目。因命酒兮肆宴。爾乃情盤楽極、間以言談、顧謂皇后【去来穂別天皇女曰中蒂姫皇女。更名長田大娘皇女也。大鷦鷯天皇子大草香皇子、娶長田皇女、生眉輪王也。於後穴穂天皇用根臣讒、殺大草香皇子、而立中蒂姫皇女為皇后。語在穴穂天皇紀也。】曰、吾妹【称妻為妹、蓋古之俗乎。】汝雖親昵、朕畏眉輪王。眉輪王幼年遊戯楼下、悉聞所談。既而穴穂天皇枕皇后膝、昼酔眠臥。於是眉輪王伺其熟睡、而刺弑之。(雄略前紀)
頃有りて、高麗の軍士一人、取仮に国に帰る。時に新羅人を以て典馬【典馬、此には于麻柯比と云ふ。】とす。而して顧に謂りて曰はく、「汝の国は、吾が国の為に破られむこと久に非じ」といふ。【一本に云はく、汝が国、果して吾が土に成ること久に非じといふ。】其の典馬、聞きて、陽りて其の腹を患むまねにして、退りて在後れぬ。遂に国に逃げ入りて、其の所語を説く。(有頃、高麗軍士一人取仮帰国。時以新羅人為典馬【典馬、此云于麻柯比。】而顧謂之曰、汝国為吾国所破非久矣【一本云、汝国果成吾土非久矣。】其典馬聞之、陽患其腹、退而在後。遂逃入国、説其所語。)(雄略紀八年二月)
雄略前紀の例で、宴会を開いて楽しみ極まり、話に花が咲いている時、「顧謂二皇后一」とある「顧」を振り返っての意とすることは不自然である。穴穂天皇(安康)は中蒂姫皇女を皇后にしているが、その夫を殺害しての略奪婚である。「情盤楽極、間以二言談一」の最中、天皇が話しかけている相手はもっぱら好きで好きでたまらない皇后であろう。皇后の方を向いて、その顔、笑顔を見ながら話している。後ろに控えているわけがない。山あいの別荘に行って観覧台で遊んでいて、酒を飲みながら仲睦まじく話している。すなわち、眉輪王のことに触れるに至ったときに声を潜めたのである。
雄略紀八年条の例では、高麗軍士一人は「以二新羅人一為二典馬一」を相手に話しかけている。高麗軍士は馬に騎乗していて、その馬を典馬は引いていると思われる。高麗軍士から見て前に位置する典馬に対して「顧」字が振り返るの意であることはない。すなわち、雇用した新羅人は金が目当てで付き従っている。自らが所有する馬を手放して新羅へ帰るはずはなく、高麗が新羅を攻略して焦土と化したとしても、お前は高麗で平穏な生活が送れるから幸せ者だよなあ、と小声で言っている。大きな声で言わないのは、他に新羅人が随伴しているかもしれず、その場合、馬を預けているわけではなく、身一つで荷物を運んだりしていたなら、行軍から離れて家族のもとへ帰国することもあり得るからである。典馬に家族があったかは不明ながら、典馬にとっての家族とは馬一頭であるという流れであったかと推量される。
騎乗者と口取り(馬引き)(石山寺縁起摸本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://image.tnm.jp/image/1024/E0055261.jpgをトリミング)(注2)
さらに一例、「顧」をカヘリミルと訓まない例がある。
是に、天皇、其の行状を聞きて、人を遣して徴し入る。而るに来肯へず。顧に河内母樹馬飼首御狩を以て京に奉詣でしめて、奏して曰さく、「臣、未だ勅の旨を成さずして京郷に還入ば、労へられて往きて、虚しくして帰れるなり。慙しく恧きこと安か措かむ。伏して願はくは、陛下、国命を成して、朝に入りて謝罪まをさむを待ちたまへ」とまをす。使を奉して後に、更自ら謨りて曰はく、「其れ調吉士は、亦是皇華の使なり。若し吾より先ちて取帰りて、依実に奏聞せば、吾が罪過、必ず重からむものぞ」といふ。乃ち調吉士を遣して、衆を率て伊斯枳牟羅城を守らしむ。(於是、天皇聞其行状、遣人徴入。而不肯来。顧以河内母樹馬飼首御狩奉詣於京、而奏曰、臣未成勅旨還入京郷、労往虚帰。慙恧安措。伏願、陛下待成国命、入朝謝罪。奉使之後、更自謨曰、其調吉士、亦是皇華之使。若先吾取帰、依実奏聞、吾之罪過必応重矣。乃遣調吉士、率衆守伊斯枳牟羅城。)(継体紀二十四年九月)
この例では、「顧」字は古訓でシノビニと訓まれている(注3)。福田2018.は、「「顧」はさきに見た[雄略紀の]二例とは異なり、内省するの意(『尚書』康誥に「用康乃心、顧乃徳」孔伝「用是誠道、安汝心、顧省汝徳、無令有非」)である。いろいろと考えをめぐらした結果、恭順の意を表することにしたものの、使者派遣後にさらに思慮した結果(「更自謨」)、それが自身の身を危うくすることに思いが至り、調吉士の妨害を図るに及んだという物語としてよむことができる。一方、古訓「ヒソカニ」に従えば、人目につかないように使者を本国に派遣したということになる。この場合、明解があるわけではないが、はじめからやましい気持ちがあり、使者の派遣に気が引けていたのだと理解できるのではないだろうか。」(18頁)としている。
シノビニであれヒソカニであれ、「顧」は述部である「奉詣……奏曰」にかかる副詞で使役形に用いられている。密使を派遣していることを表しており、内省するの意には当たらない。「一に云はく、沙至比跪、天皇の怒を知りて、敢へて公に還らず。乃ち自ら竄伏る。其の妹、皇宮に幸ること有り。比跪、密に使人を遣して、天皇の怒解けぬるや不やを問はしむ。(一云、沙至比跪知天皇怒、不敢公還。乃自竄伏。其妹有幸於皇宮者。比跪密遣使人、問天皇怒解不。)」(神功紀六十二年)、「時に密に舎人を遣して、装飾を視察しむ。(時密遣舎人、視察装飾。)」(雄略紀十四年四月)と同様の用例が見える。神功紀の用例に「公」と対義的に「密」が使われている。「顧」字が眷属の「眷」の意を持つことは述べたとおりで、公/私の別として「私」側に「顧」字はあるのだから、シノビニという訓に何ら支障は生じない。
そして、話しかけている相手は「河内母樹馬飼首御狩」である。「馬飼」という名を帯びている。前にいる相手か後ろにいる相手かといえば、名に負うこととして前にいることがふさわしいから前にいるものとして想念されている。よって振り返ることはない。
この箇所で「顧」を、ヒソカニとシノビニのいずれで訓んだら良いかと言えば、語の出自からしてシノビニがふさわしいであろう。神武前紀、雄略前紀、雄略紀八年の例では、「顧勅」「顧謂」と言葉を発する動詞にかかる副詞である。ひそひそ話をするのだからヒソカニである。ヒソという擬音語をもとにして成った語であると考えられている。一方、継体紀二十四年の例は、「奉詣」にかかる副詞である。秘密裏に、こっそりと、包み隠して、の意である。シノビ(密・忍・隠)の意に重きを置くから、シノビニがふさわしいと知れる(注4)。
以上、日本書紀古訓の、「顧」をヒソカニと訓むことが「訓詁学上より見て極めて正確な」ことを、無理解な検討(注5)を反面として追加するに至った。
(注)
(注1)武田1988.は神武前紀例を「かへりみて」と訓んでいる。
(注2)上の一騎、緋色の狩衣を着た騎乗者は振り返っていて馬引きに「謂」ることはないが、下の紺色の狩衣を着た者はしっかり馬をなだめよと馬引きに「謂」っているかもしれない。
(注3)前田本、書陵部本。兼右本では右傍にシノヒ、左傍にヒソカと付されている。
(注4)神武紀六十二年条の「密」はヒソカニと訓まれることもある(北野本)が、シノビニがふさわしい。
(注5)福田氏は、「顧」をヒソカニと訓むことは意訳から生まれ、「一度成立した「誤読」が、ほかの文脈に浸食していく」(17頁)と解している。そして、「古訓とともにあった『日本書紀』を私たちはまだ十分によみこんでいないのではないかという問題提起をして本論のまとめとする。」(19頁)としている。しかるに、大系本日本書紀で古訓に従っていたのは、「顧」の字義とも当然のことと理解していたからではないか。大系本日本書紀の訓読及び漢文の注解は神田喜一郎氏の指示も仰いで成っている。神田1983.の挙例はいずれも熟語についてのものであることからしても、漢文力ならびに古文力が低下しているだけのことかもしれない。
(引用・参考文献)
神田1983. 神田喜一郎「日本書紀古訓攷證」『神田喜一郎全集Ⅱ』明治書院、昭和58年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝訳・校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』『同3 日本書紀②』小学館、1994・1996年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』『同(二)』『同(三)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
武田1988. 武田祐吉訳『訓読日本書紀』臨川書店、昭和53年。
福田2018. 福田武史「『日本書紀』古訓をよむ」『国文学研究資料館 共同研究(特定研究(課題))研究成果報告書 読書─人・モノ・時空─』国文学研究資料館、平成30(2018)年。