日本書紀に、斉明天皇は土木工事の好きな天皇として描かれる。二年是歳に「後飛鳥岡本宮」を造営し、また、多武峰に石垣を巡らせて「観」を建て、「両槻宮 」、別名、「天宮」としている。さらに、かなり長い渠を開削している。そして、舟二百隻を使い「石上山」の石を運び、宮の東の山に石垣を築いている。渠の掘削には三万人余、石垣の建設には七万人余の労働者を費やし、当時の人はこの渠を「狂心の渠」 と呼び非難したという。「吉野宮」も作ったとつづいている。
時に興事を好む。廼ち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗りて曰はく、「狂心の渠。功夫を損し費すこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材爛れ、山椒埋れたり」といふ。又、謗りて曰はく、「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。若しは未だ成らざる時に拠りて、此の謗を作せるか。(斉明紀二年是歳)(大系本日本書紀334~336頁)(注1)
石垣(明日香村酒船石遺跡付近)
この日本書紀の訓み方に対して、批判的な検討を加えるのではなく、否定的な見解があらわれた。神野志2021.である。新釈全訳日本書紀は訓読文を付さない。「現代語訳があれば、文語的になされる、いわゆる訓読文は不要だと考える。」(68頁)としている。日本書紀は歴史書だから、歴史を知るには大意がわかればそれで良かろうということらしい。お話にならない。日本書紀は漢字ばかりで書かれているが、中国語に訳して書いてあるわけではない。ヤマトの人がヤマトコトバを表記する際、そのすべを持たなかったから、流入してきた漢字、漢文の調べで書いてみた。すなわち、純然たるヤマトコトバの文章である。倭習とも呼ばれる、漢文らしからぬ漢文の個所が盛んに出てくる。漢字は表意文字だから、見ているだけでなんとなく意味が通じてしまい、わかった気になることができる。しかし、そこにとどまれば、当時の人が何をどのように考えていたのかがすり抜けてしまう。上っ面な議論になる。では、書く前のもともとのヤマトコトバを探るためにはどうしたら良いか。書記化してある和風の漢文からヤマトコトバを復元すること、とりもなおさず、文語になる訓読文を正しくすることを積み重ねていくしかない。日本書紀の書記官が工夫をこらして書いた行程を、逆にたどり返すことが何よりも大切である。新釈全訳日本書紀が訓読文を示すのを放棄してかまわないが、先学たちは訓読という手法で当時の人々のものの考えに近づこうとしていた。言葉使いの端々にまで及ばなければ、きちんと理解したことにならないからである。古い時代のことゆえ見当違いだったところもある。だからといって、百点の正解は望めないという理由から大意だけでかまわないとしてしまったら、表面的な理解にとどまって高が知れたものに終わる。
文語文のヤマトコトバをよくよく考えて行くと、見えてくることがたくさんある。なによりも日本書紀は、近代の概念における「歴史」(history)書ではない。話(咄・噺・譚)(story)が書いてある。無文字時代の人たちは話をして伝え合っていた。覚えていられる事しか言として残らない。コトが書いてあるのが日本書紀である。そのことはすなわち、ヤマトコトバに暮らしていた人たちは、後の時代の「日本語人」(田中克彦)とは違う言語感覚、違う文化圏に暮らしていたということである。未開社会の思惟の宝庫である。我々が歩むことをやめてしまった、人類のほかなる可能性を示唆してくれる。
神野志2021.では、上掲の出だしの一文、「時好二興事一。」について難癖をつけ、大系本日本書紀、新編全集本日本書紀を一刀両断に駄目出ししている。二書は同じ方向にあるものと思っているようであるが、筆者は、それぞれ別の考えをしていると捉えている。別の訓が付いているからである。日本書紀伝本の傍訓と釈日本紀、書紀集解もあげる。
時に興事を好む。(大系本日本書紀334頁)
時に、事を興すことを好みたまひ、(新編全集本日本書紀207頁)
時 好二 興 事一.(兼右本古訓、「好」左傍訓にコノム)
時 好 興事 .(北野本古訓、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142412/6)
時 好 興 事 .(穂久邇文庫本古訓、「興」左傍訓にヲコシ、「事」左傍訓にツカフコト)
好二興事一(釈日本紀、国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100238382/viewer/402)
時 好二興レ事。(河村秀根・書紀集解、国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100260460/viewer/826)
神野志2021.は、書紀集解の注に、「禮記王制曰司空執レ度量二地ノ遠近一興レ事任レ力鄭註ニ事ハ謂レ築二邑盧宿市一也」とあり、「興事」の「事」は動詞であることが示されていると指摘する。それに対して、大系本日本書紀の注には、文選・西都賦の李善注、「韓聞二秦之好レ興レ事欲レ罷、无レ令二東伐一、廼使二水工鄭国間説レ秦、令下鑿二涇水一、自二中山西一抵二瓠口一為レ渠、並北山東注レ洛、……収二皆畝税一鐘一、命曰二鄭国渠一」を引いている。「興レ事」とあるから、コトヲオコスと大系本日本書紀の編者は捉えていたはずで、「事」字を誤って認識していると見下している(注2)。
大系本日本書紀の編者は四人の碩学から成る。そういうことを言うために注に文選の李善注を載せているのではない。日本書紀を作成するにあたって書記官が書き方のお手本にしたものにはきっとこの個所があったのだろうと指摘している。そして、文選・西都賦のこの個所の李善注に対する本邦での標準的な訓み方は、「興レ事」であるからそれを示している。注の付け方と訓の付け方に齟齬があるとする神野志2021.の見方は浅い。出典を指摘することは、日本書紀の書記官が書き方の参考にした字面を明らかにすることで、その際に一字一字の語義に応用を効かせたとして何が悪いのだろう。書紀集解は、字面ではなく「事」字の訓詁を示すために鄭玄注を引いた。別のことを言っている。文選の李善注に、史記・河渠書にある「罷之」の「之」字が欠落している以上、「興レ事」と訓むようになっている。新編全集本日本書紀のように、日本書紀の「事」字の訓詁にそれを及ぼしたりはしていない。大系本日本書紀はそんな低レベルのところにはいない(注3)。
さて、ここからが本題である。筆者は、大系本日本書紀の碩学編者が李善注を引いて正しいことを証明し、なおかつ新たな「よみ」の高みを目指す。大系本日本書紀の李善注の引用で中略しているところは、「漑二舄鹵之地四万余頃一。」である。さらに、史記・河渠書では、その部分は、「三百余里、欲以漑田。中作而覚、秦欲殺鄭国。鄭国曰、始臣為間、然渠成、亦秦之利也。秦以為然、卒使就渠。渠就、用注填閼之水、漑沢鹵之地、四万余頃、」(注4)が略されていることになる。「三百」や「四万」などと数が出てくる。斉明紀でも、「二百隻」、「三万余」、「七万余」と数が出てくる。日本書紀は、明らかにこれら漢籍を踏み台にして作文されている。「事」を動詞にしているから史記等を引いたとする説も説としてあるかもしれないが、それは少し違うであろう。記事は後飛鳥岡本宮ができたこと、両槻宮(天宮)を作ったことにつづくもので、さらにつづけて吉野宮を作ったことに及んでいる。すばらしい都の様相をさまざまに述べているかのようである。しかし、よくよく読んでみると、それらしく見せかけて書いてあるばかりである。なかでも、「謗」の言葉が割り込んできている。これにより、都を褒め讃える西都賦のパロディとして書きあげていると知れる。大系本日本書紀は日本書紀書記官に、文選の李善注を見たな、と話しかけているのである(注5)。
なぜ数が出てきたのか。本稿の核心である。「好」の訓は再検討されて然るべきである。
時に興事を好す。(加藤良平新訓)
「よみす」は、良いと認めるという意味である。斉明天皇は土建国家を是としていたということである。「好」字を「よみす」と訓む例には次のようなものがある(注6)。
摩理勢は素より聖皇の好したまふ所なり。(舒明前紀、書陵部本訓、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430007/4577c33cc21742429c0a379afb7634cf(5/36))(注7)
好 呼到反 ヨシ コトムナシ カホヨシ ヨシヒ ヨミス ハタハタ ヲウナ ウルハシ コノム(観智院本名義抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586892/11)
斉明紀二年是歳条の記事のおもしろいところは、文選の賦のように褒め讃えるのに終始するわけではなく、「謗」が加えられている点である。そして、最後に但し書き的注釈が施されている。「若拠二未レ成之時、作二此謗一乎。」とある。こんなわざとらしい注を付ける意味はどこにあるのだろうか。それは、斉明紀の後段にある。
十一月の庚辰の朔壬午に、留守官蘇我赤兄臣、有間皇子に語りて曰はく、「天皇の治らす政事、三つの失有り。大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること、一つ。長く渠水を穿りて、公粮を損し費すこと、二つ。舟に石を載みて、運び積みて丘にすること、三つ」といふ。有間皇子、乃ち赤兄が己に善しきことを知りて、欣然びて報答へて曰はく、「吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり」といふ。甲申に、有間皇子、赤兄が家に向きて、楼に登りて謀る。夾膝自づからに断れぬ。是に、相の不祥を知りて、俱に盟ひて止む。皇子帰りて宿る。是の夜中に、赤兄、物部朴井連鮪を遣して、宮造る丁を率ゐて、有間皇子を市経の家に囲む。便ち駅使を遣して、天皇の所に奏す。(斉明紀四年十一月)(大系本日本書紀342~344頁)
蘇我赤兄が有間皇子に謀反をけしかけ、その気になった有間皇子を赤兄は裏切って謀反の罪を言い立てて捕え、自らの手柄にしようとたくらんでいる。赤兄は有間皇子を誘導するため、治世への謗りとして三点あげている。第一点目の「大起二倉庫一、積二-聚民財一」は別として、第二・三点目の「長穿二渠水一、損二-費公粮一」、「於レ舟載レ石、運積為レ丘」は「時人謗曰」に既出の事柄である。失政を指摘するのに一、二、三と数えあげている。数えあげることはヨム(読)という。声を出してヒトツ、フタツ、ミツと言い立てている。ヨムという語の本義が声を出してひとつひとつ確認していく作業であったことをよく表している(注8)。
「時好二興事一。」と言っていたことは、ここに着地点を迎える。「よみす(好)」だったから一、二、三とかぞえ「よみ(読・数)」している。いずれも、ヨは乙類、ミは甲類である。日本書紀の書記官は頭をひねって事の次第をきちんと正確に、そしてきちんと後代に伝わるように執筆している。彼らはヤマトコトバに生きていた。ヤマトコトバに物事を思考し、理解した。ヤマトコトバによくわかるからよくわかるようにして記し残したのである。これは訓読を求め続けることによってしか得られない収穫である。世にいう、読めたぞ、という理解である。新釈全訳日本書紀の訓読を付さない。このような洞察は行わないと宣言している。日本書紀を歴史書と定めておきながら、その謎が読めたぞ、という理解を求める気はないらしい。
「よみす」の話として一連の話はまとめられている。したがって、「有間皇子、乃知二赤兄之善レ己、」部分の訓についても気づかなくてはならない。有間皇子は、蘇我赤兄が自分に好意的であると知ったのは、「紀温湯」へ行幸している大嫌いな斉明天皇の失政を一つ、二つ、三つと「よみ(読・数)」あげて示したからである。そのとおりだと全肯定したのは、「よみ」の一致にほかならない(注9)。
有間皇子、乃ち赤兄が己に善するを知りて、(加藤良平新訓)
「善」字を「よみす」と訓む例には次のようなものがある。
王、其の言を善して駕を廻して返る。(石山寺本大唐西域記長寛点)
善 是闡反 ヨシ ヨミス ホム 禾是ン(観智院本名義抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586892/32)
「時好二興事一。」の文面は、有間皇子の謀反教唆事件について語るために、その基となる資料を提示すべく書かれたものであった。日本書紀書記官が文選の李善注を見て書いていることは、斉明紀を俯瞰したときに確かめられるのである。「夾膝自断」とは、有間皇子がもたれかかって頼りとしようとした蘇我赤兄が、寄るに値しないことを示すための譬え話である。元年是歳条の「随レ作自破」を対照している。そして、蘇我赤兄の発言には、元年是歳条に記されていたことと際立って違う点がある。第一点目の「大起二倉庫一、積二-聚民財一」がないことと、「つくる」というヤマトコトバの不在である。赤兄はそそのかすために話を盛っている。それはすなわち、作り話である。当然、そそのかすとき、相手にそれが作り話であると悟られないように、極力その真相を隠すようにする。よって、「つくる」という語を禁句にして使わない。赤兄は「長穿二渠水一、損二-費公粮一」、「於レ舟載レ石、運積為レ丘」と言っている。元年是歳条の「時人謗曰」には、「狂心の渠。功夫を損し費すこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材爛れ、山椒埋れたり」、「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」とあった。「つくる」という語があったのを消し去っている。そして、「大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること」はもとの「時人謗曰」にはない。
実際に「大起二倉庫一、積二-聚民財一」ことがあったのか不明である。本当のことなら重税だったことを意味し(注10)、民心が離反していて謀反も成功するかもしれない。けれども他に記載はない。赤兄の作り話の可能性が高い。「長穿二渠水一、損二-費公粮一」、「於レ舟載レ石、運積為レ丘」については、「時人謗曰」としてあったわけだが、それは元年是歳という「時」のことである。赤兄の有間皇子への謀反教唆は四年十一月である。ゴシップ記事は三年も経てば人々の記憶からほぼ消え去るものであろう。土木工事を終えてから三年経過して、当時の政策を検証する委員会が総括して報告書を作成しようが、人々の関心を再起してそれのみをもって社会運動へと突き動かすものではない。
結局、「是夜中、赤兄遣二物部朴井連鮪一、率二造レ宮丁一、囲二有間皇子於市経家一。」という次第になった。当たり前の話だが、「造レ宮丁」は宮殿造成計画が頓挫すれば失業する。有間皇子が斉明天皇とは反対に公共事業を減らす政策を考えていると吹聴すれば、訳もなくデモ隊に参加して有間皇子の家を取り囲むことにつながったであろう(注11)。わかりやすい記述がたんたんと述べられている。よくわからないと思うのは、基本的なスタンスが定まっていないからである。ヤマトコトバに暮らしていた人たちのコモンセンスを弁えるには、その暮らしとヤマトコトバのコモンセンスを確かにしていく必要がある。日本書紀を訓読しないで何としよう。大それた歴史哲学、教条的な思想など不要である。日本書紀は「日本」(注12)という国家の体裁を整えるためのものだから、内容はことごとく政権に都合よく仕立てられているなどと想定することは困難である。今回とりあげたわずかな部分だけでも、読んでみればわかることである。歴史(history)ではなく、念の入った話(咄・噺・譚)(story)が記されている。すべてヤマトコトバに理解されることを俟っている。確かな訓読の形に近づく努力を惜しまないことが肝要である(注13)。
(注)
(注1)本稿では現代の日本書紀研究のあり方についての議論を含む。正確を期すため大系本日本書紀の訓読文をそのまま記した。
(注2)新編全集本日本書紀ではそのように訓読している。本稿では、新編全集本日本書紀を考察の対象に含めない。
(注3)西都賦の李善注は、「李善曰、史記曰、韓聞……」とあるもので、神野志2021.が「『史記』(『漢書』)にもどって見ておくならばこういうことにはならなかったであろう。」(41頁)とあるのは筋違いの言いがかりである。四人の碩学が丹念なテキストを作り上げるにあたって、史記に戻って確認しなかったはずがないではないか。
(注4)中略しているため、返り点の付し方に違いが生ずるためここでは付さなかった。神野志2021.のようにレ点一つで誤読だなどといじめられたらかなわない。日本書紀の執筆に当たって漢籍をアンチョコにした時、誤読しているとかしていないとか議論すること自体ナンセンスである。ヤマトコトバに暮らし、ヤマトコトバを表すのに漢字の字面をコピペしながら思惟することに対して、今の学者が単に漢文の読解力を採点して何になるのだろうか。アーレントのような「偉大な誤読者」がいては不都合なのだろうか。
(注5)神野志2021.は、「大系(岩波文庫)……が、この訓点……のようなかたちで「西都賦」李善注をひくことにどういう意味があるのか。「秦の、事を興さんと好むことを聞いてそれをやめさせたいと思い、東への出兵をなからしめようとした」という理解(文意は、示された訓読では通じないが、一応このように訳される)のもとに注することは『日本書紀』理解にとってなにをもたらすというのか、解しがたい。「好興事」という字面の相似にひかれたのであろうが、それだけならば意味がない。」(41頁)とある。
「興事」はオコシツクルと訓む点で一致している。ヤマトコトバにオコシツクルといえば、第一義的に田圃を耕すことが考えられる。田起し、営り田である。斉明天皇の土木工事は営田と無関係である。溜池をつくったり、決壊する河川の堤防を整備するものでもない。さらには古墳の造成というのでもない。有らぬ事を事あらだててやっている。それは、天皇が、オコシツクルというヤマトコトバの義を拡大解釈し、身勝手な公共土木事業に熱心なことを意味する。日本書紀書記官は、その、事をあらだてている様子を活写するために、「興レ事」ととれるような文章を西都賦の李善注に見出して引いている。
誤読だとされている「秦の、事を興さん」とすることとは、事業を振興することではなく、周辺地域の平和に対して「事を興す」こと、現状変更を企てることである。それはやめさせたいと思うし、特に韓は東側への出兵をなからしめようとして鄭を味方にスパイ工作をしたということである。土木工事に「興事」であり、戦争に「興レ事」である。後述する有間皇子の「吾年始可レ用レ兵時矣。」は後者である。さらに七年正月以降の白村江へ向けての出兵も、無謀なる後者に当たると言えよう。そのような多重的多面的含意を表すために誤読を含んだ理解は必要なのであり、日本書紀書記官が見たのは李善注に違いなかろうと、大系本日本書紀は、その程度は不明ながら、推測したと推察される。
(注6)「よみす」は、「好いとする。愛でる。形容詞ヨシの語幹に接尾語ミのついた形を語幹とし、同様の構成のアシミス・アシンズに対する。」(時代別国語大辞典802頁)である。日本書紀の古訓に「よみす」とするものには以下の例が見られる。
其の人、朕が愛みすることを知らずして、適逢に獮獲たりと雖も、猶已むこと得ずして恨しきこと有り。(仁徳紀三十八年七月、前田本訓)
世、其の能を嘉せむとて実を以て譲りたまふを曰さく、「宜しきかな。兄弟怡々ぎて、天下徳に帰る。親族篤ぶるときは、民、仁を興す」とまをす。(顕宗前紀、兼右本訓)
唯し他非て汝是ば、我必ず他に忤ひて汝に従はむ。(舒明前紀、書陵部本訓、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430007/4577c33cc21742429c0a379afb7634cf(5/36))
(注7)「所」字を場所の意味以外にトコロと訓むのは、漢文訓読によって後に広まったもので、少なくとも奈良時代初めまでは行われておらず、「摩理勢は素より聖皇の好したまへれるなり。」などと訓まれるべきと考える。拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」参照。
(注8)拙稿「上代語の「数(かず)」と「数(かぞ)ふ」と「数(よ)む」について」参照。なお、斉明紀の有間皇子謀反事件においては、その伏線に天皇の紀温湯行幸記事がある。そのなかで、皇孫の建王の夭逝を悼む歌が連作されている。その歌に「其一」「其二」「其三」と注されくり返されている。同じくヨムことを意識させる目的があったからと考える。確からしさには裏打ちがある。有間皇子が紀温湯(「牟婁温湯」(三年九月))へ行っていいところ、病気もよくなったと吹聴したから、行幸する運びになっている。
(注9)旧訓の「有間皇子、乃ち赤兄が己に善しきことを知りて、」(大系本日本書紀344頁)という訓み方は不自然である。天皇の悪口を数えあげて言っているからといって、自分に対してウルハシキコトと知れるものではない。ウルハシという語は、「上代には、風景や相手を、壮麗だ、立派だとたたえる気持ちを表した。」(古典基礎語辞典211頁、この項、依田瑞穂)ものである。
(注10)大系本日本書紀に、「民財を積み聚むること」は、「租税が重かったことを指す。」(343頁)とある。蘇我赤兄の発言について解説しているだけである。歴史的な真相はわからない。
(注11)大系本日本書紀に、「宮造る丁」は、「人夫の監督は武装しているし、人夫も武器をとれば兵士となる。」(345頁)とあるが、有間皇子の家を取り囲んで軟禁状態にしているだけで、武器を手に攻撃しているわけではない。
(注12)「百済」はクダラ、「新羅」はシラキ、「日本」と書いてヤマトと訓んでいる。「廼ち大日本 日本、此には耶麻騰と云ふ。下皆此に效へ。豊秋津洲を生む。」(神代紀第四段本文)とあるから效わねばなるまい。百歩譲って仮に音読みをしたとして何と読んだのか。漢音にジツホンなのか不明である。今日でも自称するにニホン、ニッポン、ジャパンなどと適当である。「日本」という字面を国号として無批判に論ずる考え方には、表意文字を音読み、訓読み、戯書するといったヤマトコトバのトラップが見えていない。
(注13)「興事」のうちの「於二宮東山一、累レ石為レ垣。」や、蘇我赤兄の発言の「於レ舟載レ石、運積為レ丘」にある「為」字は、垣や丘のようにこしらえたという意味で、「つくる」と訓むことも可能である。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣ゑ」(紀1)と見える。しかし、斉明紀の古い伝本に、これらの「為」字部分に傍訓は見られない。筆者は、これらの「為」はサ変動詞とみて誤りないと考える。赤兄は「つくる」と言いたがらなかったわけであり、また、二年是歳条でも、悪口のなかに「つくる」という語が登場している。「つくる」の義に、「また、表面的な形を整える意を表して、それらしく似せて仕立てること、そう見えるふりをすることなどにもいう。」(古典基礎語辞典790頁、この項、依田瑞穂)とある。タブレココロに作られた酒船石遺跡付近に遺る石垣は、何のために山にめぐらされているのか皆目わからないほどそれらしさ感がない。
(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
神野志2021. 神野志隆光「解説─新釈全訳にあたって─ 3漢文として理解すること─指針となる『日本書紀通証』『書紀集解』─」神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
(English Summary)
Secretaries of Yamato court could write the story that had been transmitted in Yamato Kotoba by referring to Chinese books. It is Nihon Shoki. Sometimes it's a parody of Chinese books, sometimes it's an arrangement of them, and it completes nicely and is also like a joke. In this article, we will carefully read a sentence related to the ditch made by Queen Saimei's crazy heart. In recent years, there is a sect of fake scholars that doesn’t try to read it in Yamato kotoba. But that’s not enough. We will find that reading Nihon Shoki in Yamato kotoba is necessary to understand the way of thinking of the ancient Japanese. Because, they lived in a culture different from ours.
時に興事を好む。廼ち水工をして渠穿らしむ。香山の西より、石上山に至る。舟二百隻を以て、石上山の石を載みて、流の順に控引き、宮の東の山に石を累ねて垣とす。時の人の謗りて曰はく、「狂心の渠。功夫を損し費すこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材爛れ、山椒埋れたり」といふ。又、謗りて曰はく、「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」といふ。若しは未だ成らざる時に拠りて、此の謗を作せるか。(斉明紀二年是歳)(大系本日本書紀334~336頁)(注1)
石垣(明日香村酒船石遺跡付近)
この日本書紀の訓み方に対して、批判的な検討を加えるのではなく、否定的な見解があらわれた。神野志2021.である。新釈全訳日本書紀は訓読文を付さない。「現代語訳があれば、文語的になされる、いわゆる訓読文は不要だと考える。」(68頁)としている。日本書紀は歴史書だから、歴史を知るには大意がわかればそれで良かろうということらしい。お話にならない。日本書紀は漢字ばかりで書かれているが、中国語に訳して書いてあるわけではない。ヤマトの人がヤマトコトバを表記する際、そのすべを持たなかったから、流入してきた漢字、漢文の調べで書いてみた。すなわち、純然たるヤマトコトバの文章である。倭習とも呼ばれる、漢文らしからぬ漢文の個所が盛んに出てくる。漢字は表意文字だから、見ているだけでなんとなく意味が通じてしまい、わかった気になることができる。しかし、そこにとどまれば、当時の人が何をどのように考えていたのかがすり抜けてしまう。上っ面な議論になる。では、書く前のもともとのヤマトコトバを探るためにはどうしたら良いか。書記化してある和風の漢文からヤマトコトバを復元すること、とりもなおさず、文語になる訓読文を正しくすることを積み重ねていくしかない。日本書紀の書記官が工夫をこらして書いた行程を、逆にたどり返すことが何よりも大切である。新釈全訳日本書紀が訓読文を示すのを放棄してかまわないが、先学たちは訓読という手法で当時の人々のものの考えに近づこうとしていた。言葉使いの端々にまで及ばなければ、きちんと理解したことにならないからである。古い時代のことゆえ見当違いだったところもある。だからといって、百点の正解は望めないという理由から大意だけでかまわないとしてしまったら、表面的な理解にとどまって高が知れたものに終わる。
文語文のヤマトコトバをよくよく考えて行くと、見えてくることがたくさんある。なによりも日本書紀は、近代の概念における「歴史」(history)書ではない。話(咄・噺・譚)(story)が書いてある。無文字時代の人たちは話をして伝え合っていた。覚えていられる事しか言として残らない。コトが書いてあるのが日本書紀である。そのことはすなわち、ヤマトコトバに暮らしていた人たちは、後の時代の「日本語人」(田中克彦)とは違う言語感覚、違う文化圏に暮らしていたということである。未開社会の思惟の宝庫である。我々が歩むことをやめてしまった、人類のほかなる可能性を示唆してくれる。
神野志2021.では、上掲の出だしの一文、「時好二興事一。」について難癖をつけ、大系本日本書紀、新編全集本日本書紀を一刀両断に駄目出ししている。二書は同じ方向にあるものと思っているようであるが、筆者は、それぞれ別の考えをしていると捉えている。別の訓が付いているからである。日本書紀伝本の傍訓と釈日本紀、書紀集解もあげる。
時に興事を好む。(大系本日本書紀334頁)
時に、事を興すことを好みたまひ、(新編全集本日本書紀207頁)
時 好二 興 事一.(兼右本古訓、「好」左傍訓にコノム)
時 好 興事 .(北野本古訓、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1142412/6)
時 好 興 事 .(穂久邇文庫本古訓、「興」左傍訓にヲコシ、「事」左傍訓にツカフコト)
好二興事一(釈日本紀、国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100238382/viewer/402)
時 好二興レ事。(河村秀根・書紀集解、国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100260460/viewer/826)
神野志2021.は、書紀集解の注に、「禮記王制曰司空執レ度量二地ノ遠近一興レ事任レ力鄭註ニ事ハ謂レ築二邑盧宿市一也」とあり、「興事」の「事」は動詞であることが示されていると指摘する。それに対して、大系本日本書紀の注には、文選・西都賦の李善注、「韓聞二秦之好レ興レ事欲レ罷、无レ令二東伐一、廼使二水工鄭国間説レ秦、令下鑿二涇水一、自二中山西一抵二瓠口一為レ渠、並北山東注レ洛、……収二皆畝税一鐘一、命曰二鄭国渠一」を引いている。「興レ事」とあるから、コトヲオコスと大系本日本書紀の編者は捉えていたはずで、「事」字を誤って認識していると見下している(注2)。
大系本日本書紀の編者は四人の碩学から成る。そういうことを言うために注に文選の李善注を載せているのではない。日本書紀を作成するにあたって書記官が書き方のお手本にしたものにはきっとこの個所があったのだろうと指摘している。そして、文選・西都賦のこの個所の李善注に対する本邦での標準的な訓み方は、「興レ事」であるからそれを示している。注の付け方と訓の付け方に齟齬があるとする神野志2021.の見方は浅い。出典を指摘することは、日本書紀の書記官が書き方の参考にした字面を明らかにすることで、その際に一字一字の語義に応用を効かせたとして何が悪いのだろう。書紀集解は、字面ではなく「事」字の訓詁を示すために鄭玄注を引いた。別のことを言っている。文選の李善注に、史記・河渠書にある「罷之」の「之」字が欠落している以上、「興レ事」と訓むようになっている。新編全集本日本書紀のように、日本書紀の「事」字の訓詁にそれを及ぼしたりはしていない。大系本日本書紀はそんな低レベルのところにはいない(注3)。
さて、ここからが本題である。筆者は、大系本日本書紀の碩学編者が李善注を引いて正しいことを証明し、なおかつ新たな「よみ」の高みを目指す。大系本日本書紀の李善注の引用で中略しているところは、「漑二舄鹵之地四万余頃一。」である。さらに、史記・河渠書では、その部分は、「三百余里、欲以漑田。中作而覚、秦欲殺鄭国。鄭国曰、始臣為間、然渠成、亦秦之利也。秦以為然、卒使就渠。渠就、用注填閼之水、漑沢鹵之地、四万余頃、」(注4)が略されていることになる。「三百」や「四万」などと数が出てくる。斉明紀でも、「二百隻」、「三万余」、「七万余」と数が出てくる。日本書紀は、明らかにこれら漢籍を踏み台にして作文されている。「事」を動詞にしているから史記等を引いたとする説も説としてあるかもしれないが、それは少し違うであろう。記事は後飛鳥岡本宮ができたこと、両槻宮(天宮)を作ったことにつづくもので、さらにつづけて吉野宮を作ったことに及んでいる。すばらしい都の様相をさまざまに述べているかのようである。しかし、よくよく読んでみると、それらしく見せかけて書いてあるばかりである。なかでも、「謗」の言葉が割り込んできている。これにより、都を褒め讃える西都賦のパロディとして書きあげていると知れる。大系本日本書紀は日本書紀書記官に、文選の李善注を見たな、と話しかけているのである(注5)。
なぜ数が出てきたのか。本稿の核心である。「好」の訓は再検討されて然るべきである。
時に興事を好す。(加藤良平新訓)
「よみす」は、良いと認めるという意味である。斉明天皇は土建国家を是としていたということである。「好」字を「よみす」と訓む例には次のようなものがある(注6)。
摩理勢は素より聖皇の好したまふ所なり。(舒明前紀、書陵部本訓、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430007/4577c33cc21742429c0a379afb7634cf(5/36))(注7)
好 呼到反 ヨシ コトムナシ カホヨシ ヨシヒ ヨミス ハタハタ ヲウナ ウルハシ コノム(観智院本名義抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586892/11)
斉明紀二年是歳条の記事のおもしろいところは、文選の賦のように褒め讃えるのに終始するわけではなく、「謗」が加えられている点である。そして、最後に但し書き的注釈が施されている。「若拠二未レ成之時、作二此謗一乎。」とある。こんなわざとらしい注を付ける意味はどこにあるのだろうか。それは、斉明紀の後段にある。
十一月の庚辰の朔壬午に、留守官蘇我赤兄臣、有間皇子に語りて曰はく、「天皇の治らす政事、三つの失有り。大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること、一つ。長く渠水を穿りて、公粮を損し費すこと、二つ。舟に石を載みて、運び積みて丘にすること、三つ」といふ。有間皇子、乃ち赤兄が己に善しきことを知りて、欣然びて報答へて曰はく、「吾が年始めて兵を用ゐるべき時なり」といふ。甲申に、有間皇子、赤兄が家に向きて、楼に登りて謀る。夾膝自づからに断れぬ。是に、相の不祥を知りて、俱に盟ひて止む。皇子帰りて宿る。是の夜中に、赤兄、物部朴井連鮪を遣して、宮造る丁を率ゐて、有間皇子を市経の家に囲む。便ち駅使を遣して、天皇の所に奏す。(斉明紀四年十一月)(大系本日本書紀342~344頁)
蘇我赤兄が有間皇子に謀反をけしかけ、その気になった有間皇子を赤兄は裏切って謀反の罪を言い立てて捕え、自らの手柄にしようとたくらんでいる。赤兄は有間皇子を誘導するため、治世への謗りとして三点あげている。第一点目の「大起二倉庫一、積二-聚民財一」は別として、第二・三点目の「長穿二渠水一、損二-費公粮一」、「於レ舟載レ石、運積為レ丘」は「時人謗曰」に既出の事柄である。失政を指摘するのに一、二、三と数えあげている。数えあげることはヨム(読)という。声を出してヒトツ、フタツ、ミツと言い立てている。ヨムという語の本義が声を出してひとつひとつ確認していく作業であったことをよく表している(注8)。
「時好二興事一。」と言っていたことは、ここに着地点を迎える。「よみす(好)」だったから一、二、三とかぞえ「よみ(読・数)」している。いずれも、ヨは乙類、ミは甲類である。日本書紀の書記官は頭をひねって事の次第をきちんと正確に、そしてきちんと後代に伝わるように執筆している。彼らはヤマトコトバに生きていた。ヤマトコトバに物事を思考し、理解した。ヤマトコトバによくわかるからよくわかるようにして記し残したのである。これは訓読を求め続けることによってしか得られない収穫である。世にいう、読めたぞ、という理解である。新釈全訳日本書紀の訓読を付さない。このような洞察は行わないと宣言している。日本書紀を歴史書と定めておきながら、その謎が読めたぞ、という理解を求める気はないらしい。
「よみす」の話として一連の話はまとめられている。したがって、「有間皇子、乃知二赤兄之善レ己、」部分の訓についても気づかなくてはならない。有間皇子は、蘇我赤兄が自分に好意的であると知ったのは、「紀温湯」へ行幸している大嫌いな斉明天皇の失政を一つ、二つ、三つと「よみ(読・数)」あげて示したからである。そのとおりだと全肯定したのは、「よみ」の一致にほかならない(注9)。
有間皇子、乃ち赤兄が己に善するを知りて、(加藤良平新訓)
「善」字を「よみす」と訓む例には次のようなものがある。
王、其の言を善して駕を廻して返る。(石山寺本大唐西域記長寛点)
善 是闡反 ヨシ ヨミス ホム 禾是ン(観智院本名義抄、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586892/32)
「時好二興事一。」の文面は、有間皇子の謀反教唆事件について語るために、その基となる資料を提示すべく書かれたものであった。日本書紀書記官が文選の李善注を見て書いていることは、斉明紀を俯瞰したときに確かめられるのである。「夾膝自断」とは、有間皇子がもたれかかって頼りとしようとした蘇我赤兄が、寄るに値しないことを示すための譬え話である。元年是歳条の「随レ作自破」を対照している。そして、蘇我赤兄の発言には、元年是歳条に記されていたことと際立って違う点がある。第一点目の「大起二倉庫一、積二-聚民財一」がないことと、「つくる」というヤマトコトバの不在である。赤兄はそそのかすために話を盛っている。それはすなわち、作り話である。当然、そそのかすとき、相手にそれが作り話であると悟られないように、極力その真相を隠すようにする。よって、「つくる」という語を禁句にして使わない。赤兄は「長穿二渠水一、損二-費公粮一」、「於レ舟載レ石、運積為レ丘」と言っている。元年是歳条の「時人謗曰」には、「狂心の渠。功夫を損し費すこと、三万余。垣造る功夫を費し損すこと、七万余。宮材爛れ、山椒埋れたり」、「石の山丘を作る。作る随に自づからに破れなむ」とあった。「つくる」という語があったのを消し去っている。そして、「大きに倉庫を起てて、民財を積み聚むること」はもとの「時人謗曰」にはない。
実際に「大起二倉庫一、積二-聚民財一」ことがあったのか不明である。本当のことなら重税だったことを意味し(注10)、民心が離反していて謀反も成功するかもしれない。けれども他に記載はない。赤兄の作り話の可能性が高い。「長穿二渠水一、損二-費公粮一」、「於レ舟載レ石、運積為レ丘」については、「時人謗曰」としてあったわけだが、それは元年是歳という「時」のことである。赤兄の有間皇子への謀反教唆は四年十一月である。ゴシップ記事は三年も経てば人々の記憶からほぼ消え去るものであろう。土木工事を終えてから三年経過して、当時の政策を検証する委員会が総括して報告書を作成しようが、人々の関心を再起してそれのみをもって社会運動へと突き動かすものではない。
結局、「是夜中、赤兄遣二物部朴井連鮪一、率二造レ宮丁一、囲二有間皇子於市経家一。」という次第になった。当たり前の話だが、「造レ宮丁」は宮殿造成計画が頓挫すれば失業する。有間皇子が斉明天皇とは反対に公共事業を減らす政策を考えていると吹聴すれば、訳もなくデモ隊に参加して有間皇子の家を取り囲むことにつながったであろう(注11)。わかりやすい記述がたんたんと述べられている。よくわからないと思うのは、基本的なスタンスが定まっていないからである。ヤマトコトバに暮らしていた人たちのコモンセンスを弁えるには、その暮らしとヤマトコトバのコモンセンスを確かにしていく必要がある。日本書紀を訓読しないで何としよう。大それた歴史哲学、教条的な思想など不要である。日本書紀は「日本」(注12)という国家の体裁を整えるためのものだから、内容はことごとく政権に都合よく仕立てられているなどと想定することは困難である。今回とりあげたわずかな部分だけでも、読んでみればわかることである。歴史(history)ではなく、念の入った話(咄・噺・譚)(story)が記されている。すべてヤマトコトバに理解されることを俟っている。確かな訓読の形に近づく努力を惜しまないことが肝要である(注13)。
(注)
(注1)本稿では現代の日本書紀研究のあり方についての議論を含む。正確を期すため大系本日本書紀の訓読文をそのまま記した。
(注2)新編全集本日本書紀ではそのように訓読している。本稿では、新編全集本日本書紀を考察の対象に含めない。
(注3)西都賦の李善注は、「李善曰、史記曰、韓聞……」とあるもので、神野志2021.が「『史記』(『漢書』)にもどって見ておくならばこういうことにはならなかったであろう。」(41頁)とあるのは筋違いの言いがかりである。四人の碩学が丹念なテキストを作り上げるにあたって、史記に戻って確認しなかったはずがないではないか。
(注4)中略しているため、返り点の付し方に違いが生ずるためここでは付さなかった。神野志2021.のようにレ点一つで誤読だなどといじめられたらかなわない。日本書紀の執筆に当たって漢籍をアンチョコにした時、誤読しているとかしていないとか議論すること自体ナンセンスである。ヤマトコトバに暮らし、ヤマトコトバを表すのに漢字の字面をコピペしながら思惟することに対して、今の学者が単に漢文の読解力を採点して何になるのだろうか。アーレントのような「偉大な誤読者」がいては不都合なのだろうか。
(注5)神野志2021.は、「大系(岩波文庫)……が、この訓点……のようなかたちで「西都賦」李善注をひくことにどういう意味があるのか。「秦の、事を興さんと好むことを聞いてそれをやめさせたいと思い、東への出兵をなからしめようとした」という理解(文意は、示された訓読では通じないが、一応このように訳される)のもとに注することは『日本書紀』理解にとってなにをもたらすというのか、解しがたい。「好興事」という字面の相似にひかれたのであろうが、それだけならば意味がない。」(41頁)とある。
「興事」はオコシツクルと訓む点で一致している。ヤマトコトバにオコシツクルといえば、第一義的に田圃を耕すことが考えられる。田起し、営り田である。斉明天皇の土木工事は営田と無関係である。溜池をつくったり、決壊する河川の堤防を整備するものでもない。さらには古墳の造成というのでもない。有らぬ事を事あらだててやっている。それは、天皇が、オコシツクルというヤマトコトバの義を拡大解釈し、身勝手な公共土木事業に熱心なことを意味する。日本書紀書記官は、その、事をあらだてている様子を活写するために、「興レ事」ととれるような文章を西都賦の李善注に見出して引いている。
誤読だとされている「秦の、事を興さん」とすることとは、事業を振興することではなく、周辺地域の平和に対して「事を興す」こと、現状変更を企てることである。それはやめさせたいと思うし、特に韓は東側への出兵をなからしめようとして鄭を味方にスパイ工作をしたということである。土木工事に「興事」であり、戦争に「興レ事」である。後述する有間皇子の「吾年始可レ用レ兵時矣。」は後者である。さらに七年正月以降の白村江へ向けての出兵も、無謀なる後者に当たると言えよう。そのような多重的多面的含意を表すために誤読を含んだ理解は必要なのであり、日本書紀書記官が見たのは李善注に違いなかろうと、大系本日本書紀は、その程度は不明ながら、推測したと推察される。
(注6)「よみす」は、「好いとする。愛でる。形容詞ヨシの語幹に接尾語ミのついた形を語幹とし、同様の構成のアシミス・アシンズに対する。」(時代別国語大辞典802頁)である。日本書紀の古訓に「よみす」とするものには以下の例が見られる。
其の人、朕が愛みすることを知らずして、適逢に獮獲たりと雖も、猶已むこと得ずして恨しきこと有り。(仁徳紀三十八年七月、前田本訓)
世、其の能を嘉せむとて実を以て譲りたまふを曰さく、「宜しきかな。兄弟怡々ぎて、天下徳に帰る。親族篤ぶるときは、民、仁を興す」とまをす。(顕宗前紀、兼右本訓)
唯し他非て汝是ば、我必ず他に忤ひて汝に従はむ。(舒明前紀、書陵部本訓、書陵部所蔵資料目録・画像公開システムhttps://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Viewer/1000077430007/4577c33cc21742429c0a379afb7634cf(5/36))
(注7)「所」字を場所の意味以外にトコロと訓むのは、漢文訓読によって後に広まったもので、少なくとも奈良時代初めまでは行われておらず、「摩理勢は素より聖皇の好したまへれるなり。」などと訓まれるべきと考える。拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」参照。
(注8)拙稿「上代語の「数(かず)」と「数(かぞ)ふ」と「数(よ)む」について」参照。なお、斉明紀の有間皇子謀反事件においては、その伏線に天皇の紀温湯行幸記事がある。そのなかで、皇孫の建王の夭逝を悼む歌が連作されている。その歌に「其一」「其二」「其三」と注されくり返されている。同じくヨムことを意識させる目的があったからと考える。確からしさには裏打ちがある。有間皇子が紀温湯(「牟婁温湯」(三年九月))へ行っていいところ、病気もよくなったと吹聴したから、行幸する運びになっている。
(注9)旧訓の「有間皇子、乃ち赤兄が己に善しきことを知りて、」(大系本日本書紀344頁)という訓み方は不自然である。天皇の悪口を数えあげて言っているからといって、自分に対してウルハシキコトと知れるものではない。ウルハシという語は、「上代には、風景や相手を、壮麗だ、立派だとたたえる気持ちを表した。」(古典基礎語辞典211頁、この項、依田瑞穂)ものである。
(注10)大系本日本書紀に、「民財を積み聚むること」は、「租税が重かったことを指す。」(343頁)とある。蘇我赤兄の発言について解説しているだけである。歴史的な真相はわからない。
(注11)大系本日本書紀に、「宮造る丁」は、「人夫の監督は武装しているし、人夫も武器をとれば兵士となる。」(345頁)とあるが、有間皇子の家を取り囲んで軟禁状態にしているだけで、武器を手に攻撃しているわけではない。
(注12)「百済」はクダラ、「新羅」はシラキ、「日本」と書いてヤマトと訓んでいる。「廼ち大日本 日本、此には耶麻騰と云ふ。下皆此に效へ。豊秋津洲を生む。」(神代紀第四段本文)とあるから效わねばなるまい。百歩譲って仮に音読みをしたとして何と読んだのか。漢音にジツホンなのか不明である。今日でも自称するにニホン、ニッポン、ジャパンなどと適当である。「日本」という字面を国号として無批判に論ずる考え方には、表意文字を音読み、訓読み、戯書するといったヤマトコトバのトラップが見えていない。
(注13)「興事」のうちの「於二宮東山一、累レ石為レ垣。」や、蘇我赤兄の発言の「於レ舟載レ石、運積為レ丘」にある「為」字は、垣や丘のようにこしらえたという意味で、「つくる」と訓むことも可能である。「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごめに 八重垣作る その八重垣ゑ」(紀1)と見える。しかし、斉明紀の古い伝本に、これらの「為」字部分に傍訓は見られない。筆者は、これらの「為」はサ変動詞とみて誤りないと考える。赤兄は「つくる」と言いたがらなかったわけであり、また、二年是歳条でも、悪口のなかに「つくる」という語が登場している。「つくる」の義に、「また、表面的な形を整える意を表して、それらしく似せて仕立てること、そう見えるふりをすることなどにもいう。」(古典基礎語辞典790頁、この項、依田瑞穂)とある。タブレココロに作られた酒船石遺跡付近に遺る石垣は、何のために山にめぐらされているのか皆目わからないほどそれらしさ感がない。
(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
神野志2021. 神野志隆光「解説─新釈全訳にあたって─ 3漢文として理解すること─指針となる『日本書紀通証』『書紀集解』─」神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新釈全訳日本書紀 神野志隆光・金沢英之・福田武史・三上喜孝校注『新釈全訳日本書紀 上巻』講談社、2021年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集4 日本書紀③』小学館、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(四)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
(English Summary)
Secretaries of Yamato court could write the story that had been transmitted in Yamato Kotoba by referring to Chinese books. It is Nihon Shoki. Sometimes it's a parody of Chinese books, sometimes it's an arrangement of them, and it completes nicely and is also like a joke. In this article, we will carefully read a sentence related to the ditch made by Queen Saimei's crazy heart. In recent years, there is a sect of fake scholars that doesn’t try to read it in Yamato kotoba. But that’s not enough. We will find that reading Nihon Shoki in Yamato kotoba is necessary to understand the way of thinking of the ancient Japanese. Because, they lived in a culture different from ours.