万葉集に「怨恨」の歌がある。もっぱら大伴坂上郎女と紀郎女の歌が取り上げられ、彼女らが男性に対して怨恨を抱いたうらみの心情を吐露した歌であると考えられている。しかし、それ以外にも「怨恨」という字面は題詞や左注に現れている。「怨恨」という字面の持っているおどろおどろしさ、ただしそれは現代人が抱いていることにすぎないのであるが、それをもって何か特別なことを二人の女性は言いたかったのではないかとする説が通行している。そして、「怨恨」というお題を一ジャンルとして歌作されていたとまで捉えられている(注1)。筆者は、上代において、ウラムというヤマトコトバを書き表すのに「怨恨」と書記したにすぎないものと考える。「怨恨」、「恨」、「怨」とある表記は、いずれもウラムを書き表したものであろう。
本稿は、前半において、万葉集巻第四に所載の紀郎女の「怨恨」歌について、それがどのような背景から生まれた「怨恨」であったかを見極めながら検討し、訓みと歌意について修正を求める。後半において、題詞や左注にウラムと記された歌の本質を理解することに努める。現状での解釈を示すため、以下にあげる用例には新大系文庫本の訳をあわせて呈示するが、訓においては従っていない箇所もある。
① 紀郎女の怨恨の歌三首 鹿人大夫の女、名を小鹿と曰ふ。安貴王の妻なり。〔紀郎女怨恨謌三首 鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也〕
世の中の 女にしあらば 吾が渡る 痛背の川を 渡りかねめや〔世間之女尓思有者吾渡痛背乃河乎渡金目八〕(万643)
(訳)世の常の女であったら、私の渡るあなせの川を渡りかねることなどありましょうか。((一)395頁)
今は吾は わびそしにける 息の緒に 思ひし君を ゆるさく思へば〔今者吾羽和備曽四二結類氣乃緒尓念師君乎縦左久思者〕(万644)
(訳)今は私はつらくてたまりません。一筋に命かけて思っていたあなたを手放すと思うと。(同頁)
白栲の 袖別るべき 日を近み 心に咽ひ 音のみし泣かゆ〔白細乃袖可別日乎近見心尓咽飯哭耳四所泣〕(万645)
(訳)(白たへの)袖の別れが近いので、心の中でむせび悲しみ、声をあげて泣くばかりです。(同頁)
題詞の脚注に紀郎女が誰であるか記されており、安貴王の妻であると断られている。安貴王の妻である人が「怨恨」の心を抱いた。歌中でも男性との別れに心を痛めている様子が語られている。後二首でその気持ちは素直に詠まれている。三首連作なのだから、一首目でもそれと相反しない、ないしはその境地へと導く内容が歌われているはずである。心をひどく痛めているのだから、原文に「痛背乃河」とあれば、アナセノカハではなく、イタセノカハと訓まれるべきであろう(注2)。
新大系文庫本は、「この「怨恨」が誰に向けられたものかは不明。「痛背の川」は「ああ背の君よ」の意を掛けるか。所在未詳。「川を渡る」ことにも寓意があるか。→一一六。男との別れを目前にして、世の常の女のように思い切ったことができないのを嘆くのであろう。」(同頁)と解説する。参照すべき万116番歌は次のとおりである。
② 但馬皇女の、高市皇子の宮に在りし時、竊かに穂積皇子に接はり、事既に形はれて御作りたまひし歌一首〔但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首〕
人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る〔人事乎繁美許知痛美己世尓未渡朝川渡〕(万116)
(訳)但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に、ひそかに穂積皇子と関係を結び、その事が露見して、お作りになった歌一首
人の噂がしきりなので煩わしく思って、私の生涯にまだ渡ったことのない、朝の川を渡ります。((一)135頁)
ここで「痛」字はコチタシの ita 音に使われている。噂が立てられて心が痛むので、誰の目にもつかないように朝の早い時間帯に川を渡ったというのである。そんな薄暗がりのなか川を渡ることは危ないことだから、良い子も良い大人も真似をしてはならない。
①の万643番歌にあるイタセノカハについて、そういう名称の川があったことは知られない。女が男のもとへ通うと噂を立てられて心がひどく痛むことを比喩にしたもので、激しい急流で渡るのに難儀する瀬のある川という意に用いられているのであろう。それでも相手の男のこと、それは「背」と呼ぶ相手である安貴王のことが好きだから、「瀬」を渡るのである。「吾が渡る」とあるのだから、私(紀郎女)は渡っている。同じように、世の中のふつうの女性であれば、渡ることができないなんてことはあるだろうか、いやいやない、と言っている。「渡りかねめや」の主語は、冒頭の「世の中の女」である。自分のような気持ちの小さな人間でも素敵な安貴王のところへ渡っているのだから誰だって渡るものだ、という意である。紀郎女は、自分が「思い切ったことができないのを嘆」いているわけではない。恋のライバルがいて、同じように安貴王のもとへと通っていることに気づいてしまったのである。だから、二首目以降へとつながる(注3)。
その恋敵とは誰か。多く指摘されているように、因幡の八上釆女であろう。注目されるべき記述は、万葉集巻第四において既出である。
③ 安貴王の歌一首 并せて短歌〔安貴王謌一首 并短謌〕
遠妻の ここにあらねば 玉桙の 道をた遠み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言問ひ 吾がために 妹も事無く 妹がため 吾も事無く 今も見るごと 副ひてもがも〔遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見思空安莫國嘆虚不安物乎水空徃雲尓毛欲成高飛鳥尓毛欲成明日去而於妹言問為吾妹毛事無為妹吾毛事無久今裳見如副而毛欲得〕(万534)
(訳)遠くにいる妻がここにいないので、(玉梓の)道の遠さに、思う心は安らかでなく、嘆く心も苦しいので、大空を行く雲でありたいな。高く飛ぶ鳥でありたいな。明日にでも行って妻と語らい、私のために妻も安穏で、妻のために私も無事で、今もまざまざと思い見ているように、二人寄り添っていたいものだ。(同頁)
反歌〔反謌〕
敷栲の 手枕巻かず 間置きて 年そ経にける 逢はなく思へば〔敷細乃手枕不纒間置而年曽經来不相念者〕(万535)
右は、安貴王、因幡の八上釆女を娶りて、係念極めて甚しく、愛情尤も盛りなりき。時に勅して不敬の罪に断め、本郷に退却らしむ。ここに王、意を悼み怛びて聊かに此の歌を作れり。〔右安貴王娶因幡八上釆女係念極甚愛情尤盛於時勅断不敬之罪退却本郷焉于是王意悼怛聊作此歌也〕
(訳)(しきたへの)手枕も巻かないで、遠く離れたまま年が過ぎてしまった。あなたに逢えないでいることを思うと。
右、安貴王が因幡の八上采女を娶ったが、思いは極めて強く、愛情は極めて深かった。然るに、勅命が下って王は不敬の罪に処せられ、(采女は)本国(因幡)に帰された。王はこれを悼み悲しみ、取り敢えずこの歌を作ったという。((一)355頁)
左注に事情が記されている。安貴王は天皇に仕える身分である采女と恋仲になった。もちろん、当時、采女に手を出すことは禁じられている。紀郎女の歌が歌われたことにより人々に知られるところとなり、不敬の罪に当たるとして本郷に退却するようにと勅断が下されている。安貴王は会えなくなるので心痛が激しくなり、八上采女に向けて想いのたけを伝える歌を歌っている。
多くの注釈書では「退却本郷焉」について、安貴王に対して断罪するわけにはいかず、八上采女のほうを「本郷」である因幡へ戻したのであろうとしている。しかし、この文章は安貴王を主語として書き始められている。「時勅断不敬之罪退却本郷焉」は天皇が主語であるが、後に続く「于是王意悼怛聊作此歌也」も安貴王を主語として扱っている。「退二‐却八上采女本郷一焉」とは記されていない。したがって、「退却本郷焉」は「退二‐却安貴王本郷一焉」の意であるはずである。
そんなことは考えられない、安貴王は都の人ではないか、そのまま都にいるではないか、というのが今日の人の常識なのだろう。しかし、原文にそう書いてあるのだから、我々は我々の常識の殻を破らなければならない。
「因幡八上」なる名を聞いて、当時の人なら誰でも思い出すことがあった。言い伝えに聞いている八上比売のことである(注4)。古事記のなかで、大国主神が稲羽の素菟に出くわすシーンに登場する。稲羽の八上比売と結婚しようと大国主神の兄弟たちである八十神は稲羽へ出掛けた。そのとき、大国主神、別名、大穴牟遅神に袋を背負わせ、従者として連れて行っている。結果、八上比売は大穴牟遅神を選んで結婚しているが、一緒に帰ろうとすると八上比売は大穴牟遅神の正妻である須世理比売のことを憚って、産んだ子を木の俣に挟んで自分は返ってしまっている。その子は、木俣神と名づけられている。
大穴牟遅神が帰って来ていたところ、それが「本郷」である。そして、そこは、「木俣」のあるところ、すなわち、木の国である。木の国とは紀の国のことである。キは乙類である。安貴王の正妻である「紀郎女」のことを指して相同する。古事記のなかで気の多い神として扱われている八千矛神は別名で、大国主神、大穴牟遅神と同じ神である。同様に気の多い安貴王よ、紀郎女のところへ戻りなさい、と「勅断」を受けたのである。
紀郎女のことは「小鹿」と言うのだと題詞脚注に断られている。通説にヲシカと訓まれている(注5)。「牡鹿」とあってもヲシカである。「鹿人大夫」の娘子なのだから「小鹿」と書いているが、オスのシカ、サヲシカのことと同音で呼んでいたようである。角が生えている。「木俣」のようになっている。
万535番歌の左注の謎が解けた。となれば、万643~645番歌の「紀郎女怨恨歌三首」の作歌事情も理解に難くない。紀郎女は、八上采女との恋の争いに敗れていると気づき、もう嫌だ、安貴王とは別れようと思って三首の歌を作った。自分の気持ちを吐露する「怨恨」の歌と標榜されている。それがため「勅断」が下ることとなった。そう考えるのに十分な歌である。
万葉集巻第四において、万535番と万643~645番とは位置が離れている。そのため、これまでの説では、紀郎女の人生経験において時間が経過していると考えられてきた。「巻四はゆるやかな編年配列に内容別分類を所所に加えて編集していると考えられる。」(島田1997.22頁)とされているからである。安貴王の歌は養老五年(723)以後神亀元年(724)以前の作、紀郎女の三首は天平四年(733)以後天平六年(735)以前の作と推定されている。その間9~12年隔たっているというのである。しかし、年代順に排されているという確実な証拠はない。紀郎女の三首の作歌時期を挟み定める年次記事のある歌は、万621番歌の「西海道節度使」が天平四年八月に任命されたものとわかり、また、「天皇」(万530・624・626・721・725の各題詞)が聖武天皇のことという点や、「久邇京に在りて……」歌(万765)は天平十二年(740)十二月から十六年(744)二月の作であるととれる程度で、他は作者の没年を参照しながら定められている。すなわち、紀郎女の三首が天平四年(733)以後天平六年(735)以前の作であると決めつけられはしないのである。万643番歌前の題詞にわざわざ脚注が付けられていることに注目するなら、上に述べた推測のほうが説得力があるであろう。
今一度、紀郎女の怨恨歌についての現状の解釈を振り返ってみよう。影山2022.は、「鬱々とした心情を抱きつつ歌主[紀郎女]は「川」をいま渡っていて、しかし「世の常の女」でない自分はそれをついに「渡りかねる」というのである。嫉妬や怨念や後悔が胸中に満ちた状態は誰にとっても苦しい。「川」を渡るだけでも十分に困難を伴うものなのに。……すなわち一首の趣旨は、自身が世間並みの女ではないという自負のもとに、夫の浮気の事実を知りながらこのまま結婚生活を続けるという、世間的には肯定される選択──しかし、自身にとっては苦しくてしかたのない選択──を放棄して、夫と潔く離別するという決意であろう。」(176~177頁)としている。この議論は二重の意味で誤解がある。
第一に、万643番歌で、「吾が渡る」と言いながら「渡りかね」るというのが「歌主」であるとするのは、最後の助詞「や」の反語に対して曲解している。すでに述べたとおり、私が渡る川を世間並みの女が渡りおおせないなどということがあろうか、の意である。第二に、古代の一夫多妻制において、夫の浮気を許さない通念などなかったであろうことに思い至っていない。紀郎女が気にかけたのは、夫の安貴王の別の相手が、よりによって采女の立場にあったから問題だと思ったのである。不敬の罪に当たるとされた。そのことを知りながら黙っていれば、紀郎女とて連座せねばならなかったかもしれない。そこで、歌をもって訴え出たという次第である。それが「紀郎女怨恨歌三首」を真っ当に受け取ったときの事の真相である。紀郎女が「怨恨」んでいるのは、浮気に走っている夫に対して忸怩たる思いを述べているといった単純なことではなく、なにもよりによって不敬の罪に当たる采女に通じることはなかろうと言っているのである。
紀郎女が「怨恨歌三首」を歌わなければ、安貴王の不敬の罪は継続していたかもしれない。しかし、彼女は「怨恨歌三首」を歌った。自らの心情を歌うようにかこつけて、白日の下に曝け出したのである。連座制などたまったものではない。わざわざ声をあげて恨み節を公表している理由に思いを致せば、万葉歌はモノローグでも私小説でもなかったことを再確認させられよう。告発するための方便として、ウラム歌が詠まれていると考えられるのである。ウラム歌が詠まれるということは、それがウラム歌であるということばかりではなく、その歌がウラムものであると表明しているというその状況を指し示していて、その両者を兼ねているわけである。
そう考えると、注意しなければならない点が浮かびあがってくる。万葉集において、「怨恨」だけでなく、「怨」、「恨」、また仮名書きされたウラム(ウラミ、ウラメシ)の例がある。いずれの表記であっても、歌のなかや序のなかに用いられている場合と、題詞や左注に用いられている場合とは区別して考えなければならないのである。歌中などにウラムとある場合、対象をウラムと述べるにとどまる。表現自体で完結する使用法である。他方、題詞などにウラム歌とある場合、作者がウラム状態にあること、ウラム立場に置かれていることを伝えていることを自ずと示すことになっている。歌の作者は、いま苦しい立場に置かれていると相手に訴えかけている。紀郎女は、安貴王の振舞いをウラムばかりか、現状が打開されることを聞き手となる大勢の人に乞うていることになっている。
ウラムという語については、古典基礎語辞典の解説に、「ウラ(心)ミル(見る)の転とする語源説がある。ウラはウラガナシ(心悲し)・ウラゴヒシ(心恋し)・ウラナシ(心無し)などのウラと同じである。不当な扱いを受けて、不満や不快感を抱きつつも、それに対してやり返したり、事態を変えたりすることができず、しかもずっとそのことにこだわり続け、こういうことをする相手の本心は何なのだろうとじっと思いつめること。転じて、恨みごとを言う、怨みを晴らす行為や仕返しをするの意。」(208頁、この項、白井清子)とあり、白川1995.に、「「心」を活用したものには、「うらがなし」「うらさぶ」「うらぶる」など、失意の情をいうものが多い。」(165頁)としている。
自分の意のままにならぬことが起きる。自分のウラ(心)と相手のウラ(心)とが一致せず、どうすることもできない思いを抱え込むことになる。相手のウラ(心)を操作することはできないから、自分のウラ(心)は忸怩たる思いに沈む。そのことを口に出して相手に直接言ってみたところで、気持ちが通じて簡単に形勢に変化が生じるというものではない。その段階はすでに終わっている。互いの気持ちはもはや同じ方向を向いておらず、やすやすとは通じなくなっている。だからウラムのだが、その言葉にノロフ(呪・詛)やトゴフ(呪・詛)、カシル(呪・詛)のような呪詛、呪言の類の力は持たない。ではなぜそれを口に出しているのか(注6)。上述のとおり、ウラムものであると公表することで、置かれている状況の枠組みを転換させることができる可能性があるからである。当事者間どうしの話し合いでは埒が明かないことでも、第三者の知るところとなれば一気に局面の打開に結びつくことがある。
万葉集にある他のウラム歌について確認する。「怨恨」とあるのは、題詞に他に3例、左注に1例見える。
④ 大伴坂上郎女の怨恨の歌一首 并せて短歌〔大伴坂上郎女怨恨謌一首 并短哥〕
おしてる 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡 磨ぎし心を ゆるしてし その日の極み 波の共 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の たのめる時に ちはやぶる 神か離くらむ うつせみの 人か禁ふらむ 通はしし 君も来まさず 玉梓の 使も見えず なりぬれば いたもすべ無み ぬばたまの 夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども しるしを無み 思へども たづきを知らに 幼婦と 言はくもしるく 手童の 音のみ泣きつつ たもとほり 君が使を 待ちやかねてむ〔押照難波乃菅之根毛許呂尓君之聞四手年深長四云者真十鏡磨師情乎縦手師其日之極浪之共靡珠藻乃云々意者不持大船乃𠗦有時丹千磐破神哉将離空蟬乃人歟禁良武通為君毛不来座玉梓之使母不所見成奴礼婆痛毛為便無三夜干玉乃夜者須我良尓赤羅引日母至闇雖嘆知師乎無三雖念田付乎白二幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管俳佪君之使乎待八兼手六〕(万619)
(訳)(おしてる)難波の菅のねんごろにあなたがおっしゃって、年久しく長い間私に言うので、(まそ鏡)研ぎ澄ました志操を緩めたその日を境として、波とともに靡く玉藻のようにあちらこちら揺れ動く心は持たず、あなたを(大船の)頼りにしきっていた時に、(ちはやぶる)神が引き離すのか、(うつせみの)人が妨げるのか、かよって来られたあなたもお越しでなく、(玉梓の)お使いの者も来なくなってしまったので、どうにも為すすべがないままに、(ぬばたまの)夜は夜通し、(赤らひく)日も暮れるまで嘆くけれども、そのかいもなくて、思うけれど、どうしたらよいのか手だても分からず、かよわい女と言われる通り、幼な子のように声を上げて泣きながら、うろうろしてあなたのお使いを待ち切れずにいることでしょうか。((一)385頁)
反歌〔反謌〕
初めより 長く言ひつつ たのめずは かかる思ひに 逢はましものか〔従元長謂管不令恃者如是念二相益物歟〕(万620)
(訳)会った初めから長い間言いつづけてあなたが頼りにさせなかったら、こんな思いに会ったことでしょうか。((一)387頁)
⑤ 二十二日に、判官久米朝臣広縄に贈れる、霍公鳥の怨恨の歌一首 并せて短歌〔廿二日贈判官久米朝臣廣縄霍公鳥怨恨歌一首 并短哥〕
此間にして 背向に見ゆる わが背子が 垣内の谷に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥 吾が屋戸の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは怨みず しかれども 谷片付きて 家居せる 君が聞きつつ 告げなくも憂し〔此間尓之氐曽我比尓所見和我勢故我垣都能谿尓安氣左礼婆榛之狭枝尓暮左礼婆藤之繁美尓遙々尓鳴霍公鳥吾屋戸能殖木橘花尓知流時乎麻太之美伎奈加奈久曽許波不怨之可礼杼毛谷可多頭伎氐家居有君之聞都々追氣奈久毛宇之〕(万4207)
(訳)二十二日に、判官久米朝臣広縄に贈ったホトトギスの怨恨の歌一首と短歌
ここから後ろに見えるあなたの御領地の谷で、夜明けには榛の枝で、夕方には藤の繁みで、はるかに鳴くホトトギス。我が家に植えた橘が、花に開きながら散ってゆく時がまだ来ないので、来て鳴かないこと、それは怨まない。けれども、谷に接して住んでいるあなたが、聞いていながらそれと知らせてくれないのは残念なことです。((五)141頁)
反歌一首〔反歌一首〕
吾が幾許 待てど来鳴かぬ 霍公鳥 ひとり聞きつつ 告げぬ君かも〔吾幾許麻氐騰来不鳴霍公鳥比等里聞都追不告君可母〕(万4208)
(訳)私がこんなに待っているのに来て鳴かないホトトギスを、一人聞きながら知らせてくれない、あなただなあ。((五)143頁)
⑥ 独り江の水に浮かび漂へる糞を見て、貝玉の依らざるを怨恨みて作る歌一首〔獨見江水浮漂糞怨恨貝玉不依作歌一首〕
堀江より 朝潮満ちに 寄る木屑 貝にありせば 裹にせましを〔保理江欲利安佐之保美知尓与流許都美可比尓安里世波都刀尓勢麻之乎〕(万4396)
(訳)一人で堀江の水に浮き漂う芥を見て、貝の玉が寄って来ないことを恨んで作った歌一首
堀江に朝の潮が満ちるにつれて寄って来る木屑、これが貝だったら家へのみやげにしようものを。((五)243頁)
⑦ 商返し めすとの御法 あらばこそ 吾が下衣 返し賜はめ〔商變領為跡之御法有者許曽吾下衣反賜米〕(万3809)
右は伝へて云はく、「時に幸らえし娘子有りき。 姓名未だ詳らかならず。寵薄れし後に、寄物 俗にかたみと云ふ。を還し賜ひき。ここに娘子怨恨みて、聊かにこの歌を作りて献上りき」といふ。〔右傳云時有所幸娘子也 姓名未詳 寵薄之後還賜寄物 俗云可多美 於是娘子怨恨聊作斯歌獻上〕
(訳)売買の取り消しを許可する法律があるのなら、私の下衣をお返し下さってもいいでしょうが。
右は、言い伝えによると、「ある時、寵幸される娘子がいた〈姓名は未詳〉。寵愛薄らいだ後、相手は預かり物〈俗に「かたみ」と言う〉をお戻しになった。そこで娘子は怨みに思ってこの歌を作って差し上げた」という。((四)271頁)
④の例は、①同様に恋の「怨恨」である。この恋の対象については不明であり、誰をウラムことになっているのかわからない。一般論として歌を作っているようにも思えるため、中国詩文との関係が取り沙汰されているようである。だが、募る恋心に翻弄されているのを相手のせいにして歌に作っていると見ることもできる。そんなことを公にされたら、相手の男性はよしよしわかったと言って愛情をふりそそぐよりほか解決のしようはない。そううまく運んだのが④の「大伴坂上郎女怨恨歌」だったのではないか。結果的に相手が誰か知られないままに終わっているのは、丸く収まり、事荒立てることではなくなって、情報として要らないからだろう。
⑤の「怨恨」の対象は鳴かない「霍公鳥」ではなく、それが鳴いたことを教えてくれない久米広縄である。ホトトギスがこちらが思うように鳴いてくれないのは仕方がないが、ホトトギスの鳴き声を聞いていながら聞いたと言ってこない峡谷住まいの久米広縄に対し、ウラムと大仰に言っている。些細なことなのに大袈裟な物言いにしているところがミソである。仲がいいから、ウラムと言ってもかえって笑いながら許されるのであり、作者の大伴家持から送られた、もっと気さくに付き合って欲しいというメッセージとなっている。
⑥の例は、万4397番歌の左注に、「右三首二月十七日兵部少輔大伴家持作之」とあるうちの一首である。この歌では「糞」が漂って「貝玉」が寄り付かないことをうらんでいる。きれいな貝があればお土産に持って帰ろうと思って浜辺へ出てみたが、木屑ばかり漂着していて話にならないと言っている。お土産にしようとしていたのにかなわなかったことを、ウラム気持ちがあふれたことにしている。ウラムと公表しておけば、その実どうであったかはともあれ、お土産なしの帰郷でも気にはかけていたという言い訳として最高のものとなっている。
⑦では、形見の品のつもりで置いてきた下着を返して寄こすのはあまりにひどいと憤慨している。共に楽しく過ごした夜のことを人生の1ページとして互いにいい思い出として持って行きましょうという思いで下衣を置いてきているのに、それすら送り返して来て、なかったことにしようとする相手の気持ちに苛立ち、ウラム思いが炸裂している。メモリーとして置いておいたつもりなのに、と恨み節を歌えば、確かに一夜を共に過ごした事実が逆にあからさまになり、文字どおり、公然の形見と化している。
大したことではないことについて積極的にウラム気持ちを表明することは、認知的に不協和な状態を低減させる効果がある。歌い手とその対象者ばかりでなく歌の聞き手のオーディエンスを巻き込むことで、互いの気持ちを近づけることに資するのである。もう少し打ち解けて話をしようとか、自分のことを考えてくれてはいたと許してしまったり、なるほど道理でそういうことだったのね、などと納得してもらうことができる。この点が、万葉集でウラム歌が行われた理由である。紀郎女や大伴坂上郎女の題詞に「怨恨」とある歌は、黙っていれば表立たない男女関係について、それを露呈させることで、関係を“是正”させる方向へと作用したものであった。
単字で「怨」「恨」とある例は題詞に6例、左注に5例ある。⑰以外、訳は省略する。
⑧ 忌部首黒麻呂の、友の賖く来るを恨むる歌一首〔忌部首黒麿恨友賖来謌一首〕
山の端に いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が 夜はくたちつつ〔山之葉尓不知世経月乃将出香常我待君之夜者更降管〕(万1008)
⑨ 大伴家持の霍公鳥の晩く喧くを恨むる歌二首〔大伴家持恨霍公鳥晩喧謌二首〕
吾が屋前の 花橘を 霍公鳥 来鳴かず地に 散らしてむとか〔吾屋前之花橘乎霍公鳥来不喧地尓令落常香〕(万1486)
⑩ 立夏の四月は既に累日を経て、由未だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作る恨みの歌二首〔立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨謌二首〕
あしひきの 山も近きを 霍公鳥 月立つまでに 何か来鳴かぬ〔安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥尓奈仁加吉奈可奴〕(万3983)
⑪ 鶯の晩く哢くを怨むる歌一首〔怨鶯晩哢歌一首〕
鶯は 今は鳴かむと 片待てば 霞たなびき 月は経につつ〔宇具比須波伊麻波奈可牟等可多麻氐婆可須美多奈妣吉都奇波倍尓都追〕(万4030)
⑫ 更に霍公鳥の哢くことの晩きを怨むる歌三首〔更怨霍公鳥哢晩歌三首〕
霍公鳥 鳴き渡りぬと 告ぐれども 吾聞き継がず 花は過ぎつつ〔霍公鳥喧渡奴等告礼騰毛吾聞都我受花波須疑都追〕(万4194)
⑬ 霍公鳥の喧かぬを恨むる歌一首〔恨霍公鳥不喧歌一首〕
家に行きて 何を語らむ あしひきの 山霍公鳥 一声も鳴け〔家尓去而奈尓乎将語安之比奇能山霍公鳥一音毛奈家〕(万4203)
判官久米朝臣広縄〔判官久米朝臣廣縄〕
⑭ 古事記に曰はく「軽太子、軽太郎女に奸く。故、其の太子を伊予の湯に流す」といふ。此の時、衣通王、恋慕に堪へずして追ひ徃く時の歌に曰はく、〔古事記曰軽太子奸軽太郎女故其太子流於伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而追徃時歌曰〕
君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを往かむ 待つには待たじ ここに山たづと云ふは、今の造木なり。〔君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎将徃待尓者不待 此云山多豆者是今造木者也〕(万90)
右の一首の歌は……時に皇后、難波の済に到りて、天皇の八田皇女を合ひつと聞かして大くこれを恨みたまひ云々……〔右一首歌……時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云々……〕
⑮ 石川女郎の、大伴宿祢田主に贈る歌一首 即ち佐保大納言大伴卿の第二子なり。母は巨勢朝臣と曰ふ。〔石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首 即佐保大納言大伴卿之第二子母曰巨勢朝臣也〕
遊士と 吾は聞けるを 屋戸貸さず 吾を還せり おその風流士〔遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曽能風流士〕(万126)
大伴田主、字を仲郎と曰ふ。容姿佳艶しく、風流秀絶れたり。見る人聞く者、歎息せざるはなし。時に石川女郎有り。自から双栖の感を成して、恒に独守の難きを悲しぶ。意に書を寄せむと欲ひて、未だ良信に逢はず。ここに方便を作して賤しき嫗に似せて、己れ堝子を提げて寝の側に到り、哽音蹢足して戸を叩き諮りて曰はく、「東の隣の貧しき女、将に火を取らむと来る」といふ。ここに仲郎、暗き裏に冒隠の形を識るに非ざれば、慮の外に拘接の計りごとに堪へず。念ひのまにまに火を取り、跡に就きて帰り去らしむ。明けて後、女郎すでに自媒の愧づべきを恥ぢ、また心の契の果さざるを恨む。因りてこの歌を作り、以て贈りて謔戯とす。〔大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未逢良信爰作方便而似賤嫗己提堝子而到寝側哽音蹢足叩戸諮曰東隣貧女将取火来矣於是仲郎暗裏非識冒隠之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡帰去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈謔戯焉〕
⑯ 或る書の反歌一首〔或書反歌一首〕
哭沢の 神社に神酒据ゑ 祷祈れども わご大君は 高日知らしぬ〔哭澤之神社尓三輪須恵雖禱祈我王者高日所知奴〕(万202)
右の一首は類聚歌林に曰はく、「檜隈女王の泣沢の神社を怨むる歌なり」といふ。日本紀を案ふるに云はく、「十年丙申の秋七月辛丑の朔庚戌、後皇子尊薨りましぬ」といふ。〔右一首類聚歌林曰檜隈女王怨泣澤神社之歌也案日本紀云十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨〕
⑰味飯を 水に醸みなし 吾が待ちし 代はさねなし 直にしあらねば〔味飯乎水尓醸成吾待之代者曽无直尓之不有者〕(万3810)
右は伝へに云はく、「昔娘子有りき。その夫に相別れ、望み恋ひて年を経たり。爾の時に夫の君更に他妻を娶りて、正身には来らずして、徒に裹物のみを贈れり。此に因りて、娘子、この恨みの歌を作りて、還し酬へき」といへり。〔右傳云昔有娘子也相別其夫望戀經年尓時夫君更娶他妻正身不来徒贈褁物因此娘子作此恨歌還酬之也〕
(訳)おいしいご飯を醸(かも)してお酒にして、私が待ったかいは全くありません。直接お目にかからないので。
右は、言い伝えによると、「昔、娘子がいた。夫に別れ、恋慕しつつ何年かが過ぎた。その時、夫は新たに他の妻を娶って、自分自身は来ずにただ贈り物だけをよこした。 そこで娘子はこの恨みの歌を作って、それを送り返して答えた」という。((四)271頁)
⑱ 心には ゆるふことなく 須加の山 すかなくのみや 恋ひ渡りなむ〔情尓波由流布許等奈久須加能夜麻須可奈久能未也孤悲和多利奈牟〕(万4015)
右は、射水郡の古江村に蒼鷹を取り獲たり。……因りて恨みを却く歌を作りて、式ちて感信を旌せり。守大伴宿祢家持 九月二十六日の作なり。〔右射水郡古江村取獲蒼鷹……因作却恨之歌式旌感信守大伴宿祢家持 九月廾六日作也〕
⑧は気の置けない友が遅刻したことについて、大仰に言って戯れている。⑨~⑬はホトトギスやウグイスがなかなか鳴かない、あるいはまったく鳴かないことをウラムと言っている。鳥に対してウラムと言っても鳥は傷つかないし、歌を聞いた人も笑い話として受け取ることができる。⑭は仁徳天皇時代の故事のことを言っていて、嫉妬深い皇后がウラムことがあったと述べている。歌自体とは関係がない逸話である。⑮はつれない対応に対する恨み節を公にして、自らのとった行動を自虐しながら諧謔へと転じている。⑯は挽歌の反歌として加えられた歌である。祈ったが甲斐がなかったことをウラム歌にし、追悼の言葉に代えている。⑰は⑭同様、伝説上の物語を言っている。元カレが自身は来ないで物を贈って寄こしたので、物を返さずに歌を返した。そのことが歌の中の言葉、「代」に掛けられている。歌全体の表現に奥深さがあり、ウラムというきつい言い方も許容できる。昔話でもあるから穏やかに聞いていられる。⑱は鷹狩の鷹を逃がしてしまったことをウラムと言っている。相手は鳥である。
これらの例からは、ウラム歌と言っても今現在においての深刻さは乏しいとわかる。そして、万葉集のなかでウラム歌は数が限られている。その理由は、歌というものはそもそもの前提として、本来、公表されることが期待されているからである。歌われるのが歌である。ぐじぐじとウラム内容を披露して、聞いた側がハッピーになれることはほとんどない。思い余ってウラム言葉を口にして公表した時、得られるものもあるが失うものも多い。裁判所に調停を申し立てたり、弁護士を介してしか話をしないことになれば、もはや関係の修復は難しい。事実であれ公になることによってプライバシーは侵され、互いの信頼は失われる。誹謗、中傷の域に達しかねないことは、今日のSNS事情からも伺い知ることができるであろう。万葉集のウラム歌のなかでは、紀郎女の作が本気で一か八かの掛けとして恨み節を吐露したものであったと考えられる。大伴坂上郎女のそれは、長歌に贅言を尽くしながらおしゃべりを展開しているところからして、ウラム歌と題した甘えの歌であったと捉えるのがふさわしかろう。それ以外のホトトギス問題をウラムとしたような諧謔の歌は、聞いた側までかえって笑いに包まれるほがらかな機知として喜ばれたものであったろう。昔話の場合は、ハナシとして楽しまれたのだろう。そういった次第でウラム歌は万葉集にいくつか残されていると考えられる。
(注)
(注1)怨恨を漢語のエンコンと考え、中国の詩文の影響と見る向きが多い。玉台新詠に見られる「怨詩」、例えば班婕妤・怨詩一首并序などを学び、和歌でも試作しようとしたとする説が唱えられている。浅野1984.、佐野2009.、東1994.、大谷2016.など参照。清水1987.は、中国の漢詩のなかに「怨恨」という詩題はないことを指摘しつつ、大伴坂上郎女は漢詩文の影響下に「うらみ」というテーマに合うように歌を作っているとしている。小野寺1989.も、大伴坂上郎女は漢詩の怨詩の詠法を採り入れているわけではなく、詩題だけを受け入れて「怨恨歌」は生まれているとしている。しかるに、そもそも大伴坂上郎女が万619・620番歌で、紀郎女が万643~645番歌でそれぞれ1回だけ行ったことについて、女の恋歌において「怨恨」が歌題化、文芸化したと措定できるものであろうか。坂上郎女が玉台新詠の怨詩から女性の歌のパターンを学んだなどと主張するのは飛躍がすぎる。彼女らは字が読めたのかさえ疑問である。ならびに、それらの女性の作った歌だけを選んで、他の「怨恨歌」である用例、⑤⑥⑦をオミットして議論は成り立つとも思われない。漢詩文との関係を検討する以前に研究の姿勢が問われるところである。
(注2)西本願寺本、元暦校本などで「痛背乃河」はアナセノカハと訓まれている。類例に「痛足河」(万1087)があり、穴師川のことである。万葉集の歌句において「痛」字をアナと訓んでいるのは他に、万344・575・1050・2302番歌の諸例が感動詞の意で訓んでいる。他方、集中において、「痛」字をイタムやイタシ、イタ、コチタシの意に使う例は40例を超えている。
(注3)文章の構成上、誤解の余地はないと考えるが、現代の注釈書には曲解しているものばかり目につく。「渡りかねめや」の主語を取り違えたり、割り込ませて多重に解したり、川を渡ることの意味を深読みして意を動顛させたり、訳としては正しそうに見えるのに小難しく考える傾向にある。「痛背乃河」をアナセノカハと訓むところに問題があるらしい。
土屋1950.は、「世間普通の女であるならば、吾が渡る痛背の川を渡りかねはすまいが、吾は夫に去られて居るので、其の連想のある此の川をば渡りがたくするのである。」(172頁)としている。
武田1957.は、「世間の女だつたら、私の渡る痛背の川を渡りかねることはないでしよう。」(229頁)としつつ、「痛背の河を渡るということの意味がはつきりしない。……獨りよがりの歌というべきだ。」(同頁)と解している。
澤瀉1959.は、「世間普通の女であつたら私の渡る痛背川をこんなに渡りかねる事がありませうか。」(389頁)とし、「世の常の女であつたら今私が渡りかねてるやうにこの川を渡りかねるやうな事をしようか、ずんずん渡り切つてしまふ事でもあらうか、といふ風な意味に解される。」(同頁)としている。
大系本萬葉集に、「世間普通の女であれば、思いに耐えかねて私の渡る穴師川を、誰でも思いきって渡ってしまうにちがいない。」(286頁)としている。
窪田1966.は、「この世に生きている女である限りは、今吾が渡っている痛背の河を渡るということをしかねようか、しかねはしない。」(458頁)としつつ、「歌は女郎が、痛背の河を渡りながら発した感慨で、一方ではその事の尋常でないのを思いつつ、同時に他方では、これは当然なことである、これは吾のみのすることではなく、この世に生きている女である限り、誰しもせずにはいられないことであると、そのことを押返して肯定した心のものである。痛背の河を渡るのを尋常でないとするのは、この河は女郎とその夫の家との間にあるもので、平常だとその河を渡るのは夫であるのに、今は妻の女郎がしているので、尋常ではないとするものと解される。この尋常でないことをあえてするのは、夫が女郎を疎遠にし、関係を絶とうとしているので、それに昂奮しての行動と見なければ、この歌は解せないものとなる。歌そのものも、題詞も、その事をかなりまで明らかに示しているといえる。強い感情と理性との溶け合っている歌といえる。」(458~459頁)と解している。
古典全集本萬葉集は、「世の常の 女だったら わたしが渡る 痛背の川を 渡りきれないことがあろうか」(352頁)としつつ、「実際は、作者は世間一般の女でないから渡れないでいることをいう。私だけは夫の裏切りを我慢できないという寓意。」(351頁)と説明する。
古典集成本萬葉集は、「私がもし世の常の女であったなら、渡るにつけて「あああなた」と我が胸を痛めるこの痛瀬川を、渡りかねてためらうことなどけっしてありますまい。」とし、「自分の川を渡ってでも逢いに行く……世の常の女のせっぱつまった行為すらできない自分の立場を怨む歌。」(313頁)と解している。
中西1978.は、「私が世間尋常の女だったら、「あな背」の川を渡りかねるでしょうか。不運な女だからこそ、この「あな背」という川も渡りなずむのです。」(318頁)とし、「川を渡ることが恋の成就を意味する。」(319頁)と解している。
木下1983.は、「世間並みの女であったら わたしが渡っている痛背の川を 渡れないことがあろうか。」(272頁)とし、「作者は世間一般の女でないために川を渡れないでいるのである。」(273頁)と解している。
新編全集本萬葉集は、「世の常の 女だったら わたしが渡りかけている 痛背の川を 渡れないことがあろうか」(331頁)としつつ、「安貴王の妻という身分が邪魔して奔放に振る舞えないことを嘆いていったのであろう。……アナセに感動詞のアナと背(夫)とをかけて、自分を裏切った男に対する痛恨の情を込めたものか。……川を渡るということは恋の冒険、不倫な関係を結ぶことを暗示する。……作者はなまじ身分があるばかりに今のところ誘惑にかろうじて耐えているというのであろう。」(同頁)と説明する。
鴻巣1987.は、「世間ノ普通ノ女ナラバ私ガ渡ル痛足川ヲ渡リカネルコトハアルマイニ。私ハ夫ノ後ヲ慕ッテ来テ、痛足川ヲ渡リカネテ困ツタガ、我ナガラ腑甲斐ナイコトダ。」(572頁、漢字の旧字体は改め、傍線は割愛した)とし、「夫の安貴王の変心を怨んで、その後を慕って、痛足河を渡り悩みつつよんだものか。少し意味の分明しない憾はあるが、ともかく強烈な感じが出てゐる。」(同頁)と解している。
伊藤1996.は、「私がもし世の常の女であったなら、渡るにつけて「ああ、あなた」と私が胸を痛める痛言の川、この川を渡りかねてためらうなどということはけっしてありますまい。」(563頁)とし、「自分の方から川を渡ってでも逢いに行くというのが恋におちいった世の常の女と考えられていたのであろう……。その世の女の行為もなしえない自分の立場を恨んでいる。女が川を渡ることには世間の妨害に抵抗することを意味するのが当時の習い。」(同頁)と解している。
稲岡1997.は、「私が世間普通の女であったならば……私の渡っている「ああ、あなた」という名の痛背の川を渡りかねてためらうようなことしないでしょう。」(347頁)とし、「題詞に「怨恨歌」とするのは、安貴王に対する怨恨を意味すると思われるが自分の弱さに対する嘆きとする説もある。」(同頁)と解している。
阿蘇2006.は、「世間の普通の女であったら、私が渡ろうとして渡れないでいる、この痛背の川を渡れないことはないでしょう。」(654頁)とし、「六四三は、通常の女性であったら自分の恋を成就させるために実行するであろう行為を、自分は踏み切れず自制してしまうくやしさを詠む。紀女郎の、感情よりも理性を重んじる性格とプライドからくるのであろう。理性もプライドも捨てて相手を引き留めたいと思いながら、それができず、相手を解放しようと心にきめながら、気力をなくしてしまったと詠まずにはいられない六四四、別れの日が近づくにつれて、新たな悲しみがこみ上げ泣かずにはいられない六四五、と三首の歌で、愛する人との別れを悲しむ気持ちを吐露している。作者の悲しみは、相手の心変わりよりも、相手を引き留められない自分自身を責めているようで、題詞の「怨恨」は、相手ではなく自分の奥へ奥へと向けられているようでもある。だが、これは相手に贈った歌で、だからこそ、万葉に記録される機会をもったのであろう。編者は、作歌事情について触れないが、安貴王との別離に際してのものであろう。」(同頁)と解説する。
多田2009.に、「私が世の中の常の女であるのなら、私が渡ろうとする「あな背(ああ、わが背の君よ)の川」を渡りかねるなどということがあろうか。」(108頁)とし、「世間の女なら穴師川はふつうに渡る。だが、私にはその背の君との逢瀬の川を、とても渡ることができない。裏に男の不誠実をなじる意がある。不誠実ゆえに逢えない、という意。」(同頁)と解している。
(注4)大森1994.も気づいてはいて、「神話的世界との一体化という憧憬の思いを貴紳たちに強くさせた女性であったとも考えられる。」(5頁)と述べている。
(注5)紀郎女は「小鹿」(万762・782・1452)、「紀少鹿女郎」(万1648・1661)とも記され、万1452番歌では大矢本にヲシカと振られている。
(注6)そこで思いつきで導入された安直な考え方が、漢詩の怨詩のあり方を適用したとするものであった。
(引用・参考文献)
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新大系文庫本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『万葉集(一)・(四)・(五)』岩波書店(岩波文庫)、2013・2014・2015年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、1994年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
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多田2009. 多田一臣訳注『万葉集全解2』筑摩書房、2009年。
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東1994. 東茂美『大伴坂上郎女』笠間書院、1994年。
本稿は、前半において、万葉集巻第四に所載の紀郎女の「怨恨」歌について、それがどのような背景から生まれた「怨恨」であったかを見極めながら検討し、訓みと歌意について修正を求める。後半において、題詞や左注にウラムと記された歌の本質を理解することに努める。現状での解釈を示すため、以下にあげる用例には新大系文庫本の訳をあわせて呈示するが、訓においては従っていない箇所もある。
① 紀郎女の怨恨の歌三首 鹿人大夫の女、名を小鹿と曰ふ。安貴王の妻なり。〔紀郎女怨恨謌三首 鹿人大夫之女名曰小鹿也安貴王之妻也〕
世の中の 女にしあらば 吾が渡る 痛背の川を 渡りかねめや〔世間之女尓思有者吾渡痛背乃河乎渡金目八〕(万643)
(訳)世の常の女であったら、私の渡るあなせの川を渡りかねることなどありましょうか。((一)395頁)
今は吾は わびそしにける 息の緒に 思ひし君を ゆるさく思へば〔今者吾羽和備曽四二結類氣乃緒尓念師君乎縦左久思者〕(万644)
(訳)今は私はつらくてたまりません。一筋に命かけて思っていたあなたを手放すと思うと。(同頁)
白栲の 袖別るべき 日を近み 心に咽ひ 音のみし泣かゆ〔白細乃袖可別日乎近見心尓咽飯哭耳四所泣〕(万645)
(訳)(白たへの)袖の別れが近いので、心の中でむせび悲しみ、声をあげて泣くばかりです。(同頁)
題詞の脚注に紀郎女が誰であるか記されており、安貴王の妻であると断られている。安貴王の妻である人が「怨恨」の心を抱いた。歌中でも男性との別れに心を痛めている様子が語られている。後二首でその気持ちは素直に詠まれている。三首連作なのだから、一首目でもそれと相反しない、ないしはその境地へと導く内容が歌われているはずである。心をひどく痛めているのだから、原文に「痛背乃河」とあれば、アナセノカハではなく、イタセノカハと訓まれるべきであろう(注2)。
新大系文庫本は、「この「怨恨」が誰に向けられたものかは不明。「痛背の川」は「ああ背の君よ」の意を掛けるか。所在未詳。「川を渡る」ことにも寓意があるか。→一一六。男との別れを目前にして、世の常の女のように思い切ったことができないのを嘆くのであろう。」(同頁)と解説する。参照すべき万116番歌は次のとおりである。
② 但馬皇女の、高市皇子の宮に在りし時、竊かに穂積皇子に接はり、事既に形はれて御作りたまひし歌一首〔但馬皇女在高市皇子宮時竊接穂積皇子事既形而御作歌一首〕
人言を 繁み言痛み 己が世に いまだ渡らぬ 朝川渡る〔人事乎繁美許知痛美己世尓未渡朝川渡〕(万116)
(訳)但馬皇女が高市皇子の宮にいた時に、ひそかに穂積皇子と関係を結び、その事が露見して、お作りになった歌一首
人の噂がしきりなので煩わしく思って、私の生涯にまだ渡ったことのない、朝の川を渡ります。((一)135頁)
ここで「痛」字はコチタシの ita 音に使われている。噂が立てられて心が痛むので、誰の目にもつかないように朝の早い時間帯に川を渡ったというのである。そんな薄暗がりのなか川を渡ることは危ないことだから、良い子も良い大人も真似をしてはならない。
①の万643番歌にあるイタセノカハについて、そういう名称の川があったことは知られない。女が男のもとへ通うと噂を立てられて心がひどく痛むことを比喩にしたもので、激しい急流で渡るのに難儀する瀬のある川という意に用いられているのであろう。それでも相手の男のこと、それは「背」と呼ぶ相手である安貴王のことが好きだから、「瀬」を渡るのである。「吾が渡る」とあるのだから、私(紀郎女)は渡っている。同じように、世の中のふつうの女性であれば、渡ることができないなんてことはあるだろうか、いやいやない、と言っている。「渡りかねめや」の主語は、冒頭の「世の中の女」である。自分のような気持ちの小さな人間でも素敵な安貴王のところへ渡っているのだから誰だって渡るものだ、という意である。紀郎女は、自分が「思い切ったことができないのを嘆」いているわけではない。恋のライバルがいて、同じように安貴王のもとへと通っていることに気づいてしまったのである。だから、二首目以降へとつながる(注3)。
その恋敵とは誰か。多く指摘されているように、因幡の八上釆女であろう。注目されるべき記述は、万葉集巻第四において既出である。
③ 安貴王の歌一首 并せて短歌〔安貴王謌一首 并短謌〕
遠妻の ここにあらねば 玉桙の 道をた遠み 思ふそら 安けなくに 嘆くそら 苦しきものを み空行く 雲にもがも 高飛ぶ 鳥にもがも 明日行きて 妹に言問ひ 吾がために 妹も事無く 妹がため 吾も事無く 今も見るごと 副ひてもがも〔遠嬬此間不在者玉桙之道乎多遠見思空安莫國嘆虚不安物乎水空徃雲尓毛欲成高飛鳥尓毛欲成明日去而於妹言問為吾妹毛事無為妹吾毛事無久今裳見如副而毛欲得〕(万534)
(訳)遠くにいる妻がここにいないので、(玉梓の)道の遠さに、思う心は安らかでなく、嘆く心も苦しいので、大空を行く雲でありたいな。高く飛ぶ鳥でありたいな。明日にでも行って妻と語らい、私のために妻も安穏で、妻のために私も無事で、今もまざまざと思い見ているように、二人寄り添っていたいものだ。(同頁)
反歌〔反謌〕
敷栲の 手枕巻かず 間置きて 年そ経にける 逢はなく思へば〔敷細乃手枕不纒間置而年曽經来不相念者〕(万535)
右は、安貴王、因幡の八上釆女を娶りて、係念極めて甚しく、愛情尤も盛りなりき。時に勅して不敬の罪に断め、本郷に退却らしむ。ここに王、意を悼み怛びて聊かに此の歌を作れり。〔右安貴王娶因幡八上釆女係念極甚愛情尤盛於時勅断不敬之罪退却本郷焉于是王意悼怛聊作此歌也〕
(訳)(しきたへの)手枕も巻かないで、遠く離れたまま年が過ぎてしまった。あなたに逢えないでいることを思うと。
右、安貴王が因幡の八上采女を娶ったが、思いは極めて強く、愛情は極めて深かった。然るに、勅命が下って王は不敬の罪に処せられ、(采女は)本国(因幡)に帰された。王はこれを悼み悲しみ、取り敢えずこの歌を作ったという。((一)355頁)
左注に事情が記されている。安貴王は天皇に仕える身分である采女と恋仲になった。もちろん、当時、采女に手を出すことは禁じられている。紀郎女の歌が歌われたことにより人々に知られるところとなり、不敬の罪に当たるとして本郷に退却するようにと勅断が下されている。安貴王は会えなくなるので心痛が激しくなり、八上采女に向けて想いのたけを伝える歌を歌っている。
多くの注釈書では「退却本郷焉」について、安貴王に対して断罪するわけにはいかず、八上采女のほうを「本郷」である因幡へ戻したのであろうとしている。しかし、この文章は安貴王を主語として書き始められている。「時勅断不敬之罪退却本郷焉」は天皇が主語であるが、後に続く「于是王意悼怛聊作此歌也」も安貴王を主語として扱っている。「退二‐却八上采女本郷一焉」とは記されていない。したがって、「退却本郷焉」は「退二‐却安貴王本郷一焉」の意であるはずである。
そんなことは考えられない、安貴王は都の人ではないか、そのまま都にいるではないか、というのが今日の人の常識なのだろう。しかし、原文にそう書いてあるのだから、我々は我々の常識の殻を破らなければならない。
「因幡八上」なる名を聞いて、当時の人なら誰でも思い出すことがあった。言い伝えに聞いている八上比売のことである(注4)。古事記のなかで、大国主神が稲羽の素菟に出くわすシーンに登場する。稲羽の八上比売と結婚しようと大国主神の兄弟たちである八十神は稲羽へ出掛けた。そのとき、大国主神、別名、大穴牟遅神に袋を背負わせ、従者として連れて行っている。結果、八上比売は大穴牟遅神を選んで結婚しているが、一緒に帰ろうとすると八上比売は大穴牟遅神の正妻である須世理比売のことを憚って、産んだ子を木の俣に挟んで自分は返ってしまっている。その子は、木俣神と名づけられている。
大穴牟遅神が帰って来ていたところ、それが「本郷」である。そして、そこは、「木俣」のあるところ、すなわち、木の国である。木の国とは紀の国のことである。キは乙類である。安貴王の正妻である「紀郎女」のことを指して相同する。古事記のなかで気の多い神として扱われている八千矛神は別名で、大国主神、大穴牟遅神と同じ神である。同様に気の多い安貴王よ、紀郎女のところへ戻りなさい、と「勅断」を受けたのである。
紀郎女のことは「小鹿」と言うのだと題詞脚注に断られている。通説にヲシカと訓まれている(注5)。「牡鹿」とあってもヲシカである。「鹿人大夫」の娘子なのだから「小鹿」と書いているが、オスのシカ、サヲシカのことと同音で呼んでいたようである。角が生えている。「木俣」のようになっている。
万535番歌の左注の謎が解けた。となれば、万643~645番歌の「紀郎女怨恨歌三首」の作歌事情も理解に難くない。紀郎女は、八上采女との恋の争いに敗れていると気づき、もう嫌だ、安貴王とは別れようと思って三首の歌を作った。自分の気持ちを吐露する「怨恨」の歌と標榜されている。それがため「勅断」が下ることとなった。そう考えるのに十分な歌である。
万葉集巻第四において、万535番と万643~645番とは位置が離れている。そのため、これまでの説では、紀郎女の人生経験において時間が経過していると考えられてきた。「巻四はゆるやかな編年配列に内容別分類を所所に加えて編集していると考えられる。」(島田1997.22頁)とされているからである。安貴王の歌は養老五年(723)以後神亀元年(724)以前の作、紀郎女の三首は天平四年(733)以後天平六年(735)以前の作と推定されている。その間9~12年隔たっているというのである。しかし、年代順に排されているという確実な証拠はない。紀郎女の三首の作歌時期を挟み定める年次記事のある歌は、万621番歌の「西海道節度使」が天平四年八月に任命されたものとわかり、また、「天皇」(万530・624・626・721・725の各題詞)が聖武天皇のことという点や、「久邇京に在りて……」歌(万765)は天平十二年(740)十二月から十六年(744)二月の作であるととれる程度で、他は作者の没年を参照しながら定められている。すなわち、紀郎女の三首が天平四年(733)以後天平六年(735)以前の作であると決めつけられはしないのである。万643番歌前の題詞にわざわざ脚注が付けられていることに注目するなら、上に述べた推測のほうが説得力があるであろう。
今一度、紀郎女の怨恨歌についての現状の解釈を振り返ってみよう。影山2022.は、「鬱々とした心情を抱きつつ歌主[紀郎女]は「川」をいま渡っていて、しかし「世の常の女」でない自分はそれをついに「渡りかねる」というのである。嫉妬や怨念や後悔が胸中に満ちた状態は誰にとっても苦しい。「川」を渡るだけでも十分に困難を伴うものなのに。……すなわち一首の趣旨は、自身が世間並みの女ではないという自負のもとに、夫の浮気の事実を知りながらこのまま結婚生活を続けるという、世間的には肯定される選択──しかし、自身にとっては苦しくてしかたのない選択──を放棄して、夫と潔く離別するという決意であろう。」(176~177頁)としている。この議論は二重の意味で誤解がある。
第一に、万643番歌で、「吾が渡る」と言いながら「渡りかね」るというのが「歌主」であるとするのは、最後の助詞「や」の反語に対して曲解している。すでに述べたとおり、私が渡る川を世間並みの女が渡りおおせないなどということがあろうか、の意である。第二に、古代の一夫多妻制において、夫の浮気を許さない通念などなかったであろうことに思い至っていない。紀郎女が気にかけたのは、夫の安貴王の別の相手が、よりによって采女の立場にあったから問題だと思ったのである。不敬の罪に当たるとされた。そのことを知りながら黙っていれば、紀郎女とて連座せねばならなかったかもしれない。そこで、歌をもって訴え出たという次第である。それが「紀郎女怨恨歌三首」を真っ当に受け取ったときの事の真相である。紀郎女が「怨恨」んでいるのは、浮気に走っている夫に対して忸怩たる思いを述べているといった単純なことではなく、なにもよりによって不敬の罪に当たる采女に通じることはなかろうと言っているのである。
紀郎女が「怨恨歌三首」を歌わなければ、安貴王の不敬の罪は継続していたかもしれない。しかし、彼女は「怨恨歌三首」を歌った。自らの心情を歌うようにかこつけて、白日の下に曝け出したのである。連座制などたまったものではない。わざわざ声をあげて恨み節を公表している理由に思いを致せば、万葉歌はモノローグでも私小説でもなかったことを再確認させられよう。告発するための方便として、ウラム歌が詠まれていると考えられるのである。ウラム歌が詠まれるということは、それがウラム歌であるということばかりではなく、その歌がウラムものであると表明しているというその状況を指し示していて、その両者を兼ねているわけである。
そう考えると、注意しなければならない点が浮かびあがってくる。万葉集において、「怨恨」だけでなく、「怨」、「恨」、また仮名書きされたウラム(ウラミ、ウラメシ)の例がある。いずれの表記であっても、歌のなかや序のなかに用いられている場合と、題詞や左注に用いられている場合とは区別して考えなければならないのである。歌中などにウラムとある場合、対象をウラムと述べるにとどまる。表現自体で完結する使用法である。他方、題詞などにウラム歌とある場合、作者がウラム状態にあること、ウラム立場に置かれていることを伝えていることを自ずと示すことになっている。歌の作者は、いま苦しい立場に置かれていると相手に訴えかけている。紀郎女は、安貴王の振舞いをウラムばかりか、現状が打開されることを聞き手となる大勢の人に乞うていることになっている。
ウラムという語については、古典基礎語辞典の解説に、「ウラ(心)ミル(見る)の転とする語源説がある。ウラはウラガナシ(心悲し)・ウラゴヒシ(心恋し)・ウラナシ(心無し)などのウラと同じである。不当な扱いを受けて、不満や不快感を抱きつつも、それに対してやり返したり、事態を変えたりすることができず、しかもずっとそのことにこだわり続け、こういうことをする相手の本心は何なのだろうとじっと思いつめること。転じて、恨みごとを言う、怨みを晴らす行為や仕返しをするの意。」(208頁、この項、白井清子)とあり、白川1995.に、「「心」を活用したものには、「うらがなし」「うらさぶ」「うらぶる」など、失意の情をいうものが多い。」(165頁)としている。
自分の意のままにならぬことが起きる。自分のウラ(心)と相手のウラ(心)とが一致せず、どうすることもできない思いを抱え込むことになる。相手のウラ(心)を操作することはできないから、自分のウラ(心)は忸怩たる思いに沈む。そのことを口に出して相手に直接言ってみたところで、気持ちが通じて簡単に形勢に変化が生じるというものではない。その段階はすでに終わっている。互いの気持ちはもはや同じ方向を向いておらず、やすやすとは通じなくなっている。だからウラムのだが、その言葉にノロフ(呪・詛)やトゴフ(呪・詛)、カシル(呪・詛)のような呪詛、呪言の類の力は持たない。ではなぜそれを口に出しているのか(注6)。上述のとおり、ウラムものであると公表することで、置かれている状況の枠組みを転換させることができる可能性があるからである。当事者間どうしの話し合いでは埒が明かないことでも、第三者の知るところとなれば一気に局面の打開に結びつくことがある。
万葉集にある他のウラム歌について確認する。「怨恨」とあるのは、題詞に他に3例、左注に1例見える。
④ 大伴坂上郎女の怨恨の歌一首 并せて短歌〔大伴坂上郎女怨恨謌一首 并短哥〕
おしてる 難波の菅の ねもころに 君が聞こして 年深く 長くし言へば まそ鏡 磨ぎし心を ゆるしてし その日の極み 波の共 靡く玉藻の かにかくに 心は持たず 大船の たのめる時に ちはやぶる 神か離くらむ うつせみの 人か禁ふらむ 通はしし 君も来まさず 玉梓の 使も見えず なりぬれば いたもすべ無み ぬばたまの 夜はすがらに 赤らひく 日も暮るるまで 嘆けども しるしを無み 思へども たづきを知らに 幼婦と 言はくもしるく 手童の 音のみ泣きつつ たもとほり 君が使を 待ちやかねてむ〔押照難波乃菅之根毛許呂尓君之聞四手年深長四云者真十鏡磨師情乎縦手師其日之極浪之共靡珠藻乃云々意者不持大船乃𠗦有時丹千磐破神哉将離空蟬乃人歟禁良武通為君毛不来座玉梓之使母不所見成奴礼婆痛毛為便無三夜干玉乃夜者須我良尓赤羅引日母至闇雖嘆知師乎無三雖念田付乎白二幼婦常言雲知久手小童之哭耳泣管俳佪君之使乎待八兼手六〕(万619)
(訳)(おしてる)難波の菅のねんごろにあなたがおっしゃって、年久しく長い間私に言うので、(まそ鏡)研ぎ澄ました志操を緩めたその日を境として、波とともに靡く玉藻のようにあちらこちら揺れ動く心は持たず、あなたを(大船の)頼りにしきっていた時に、(ちはやぶる)神が引き離すのか、(うつせみの)人が妨げるのか、かよって来られたあなたもお越しでなく、(玉梓の)お使いの者も来なくなってしまったので、どうにも為すすべがないままに、(ぬばたまの)夜は夜通し、(赤らひく)日も暮れるまで嘆くけれども、そのかいもなくて、思うけれど、どうしたらよいのか手だても分からず、かよわい女と言われる通り、幼な子のように声を上げて泣きながら、うろうろしてあなたのお使いを待ち切れずにいることでしょうか。((一)385頁)
反歌〔反謌〕
初めより 長く言ひつつ たのめずは かかる思ひに 逢はましものか〔従元長謂管不令恃者如是念二相益物歟〕(万620)
(訳)会った初めから長い間言いつづけてあなたが頼りにさせなかったら、こんな思いに会ったことでしょうか。((一)387頁)
⑤ 二十二日に、判官久米朝臣広縄に贈れる、霍公鳥の怨恨の歌一首 并せて短歌〔廿二日贈判官久米朝臣廣縄霍公鳥怨恨歌一首 并短哥〕
此間にして 背向に見ゆる わが背子が 垣内の谷に 明けされば 榛のさ枝に 夕されば 藤の繁みに はろはろに 鳴く霍公鳥 吾が屋戸の 植木橘 花に散る 時をまだしみ 来鳴かなく そこは怨みず しかれども 谷片付きて 家居せる 君が聞きつつ 告げなくも憂し〔此間尓之氐曽我比尓所見和我勢故我垣都能谿尓安氣左礼婆榛之狭枝尓暮左礼婆藤之繁美尓遙々尓鳴霍公鳥吾屋戸能殖木橘花尓知流時乎麻太之美伎奈加奈久曽許波不怨之可礼杼毛谷可多頭伎氐家居有君之聞都々追氣奈久毛宇之〕(万4207)
(訳)二十二日に、判官久米朝臣広縄に贈ったホトトギスの怨恨の歌一首と短歌
ここから後ろに見えるあなたの御領地の谷で、夜明けには榛の枝で、夕方には藤の繁みで、はるかに鳴くホトトギス。我が家に植えた橘が、花に開きながら散ってゆく時がまだ来ないので、来て鳴かないこと、それは怨まない。けれども、谷に接して住んでいるあなたが、聞いていながらそれと知らせてくれないのは残念なことです。((五)141頁)
反歌一首〔反歌一首〕
吾が幾許 待てど来鳴かぬ 霍公鳥 ひとり聞きつつ 告げぬ君かも〔吾幾許麻氐騰来不鳴霍公鳥比等里聞都追不告君可母〕(万4208)
(訳)私がこんなに待っているのに来て鳴かないホトトギスを、一人聞きながら知らせてくれない、あなただなあ。((五)143頁)
⑥ 独り江の水に浮かび漂へる糞を見て、貝玉の依らざるを怨恨みて作る歌一首〔獨見江水浮漂糞怨恨貝玉不依作歌一首〕
堀江より 朝潮満ちに 寄る木屑 貝にありせば 裹にせましを〔保理江欲利安佐之保美知尓与流許都美可比尓安里世波都刀尓勢麻之乎〕(万4396)
(訳)一人で堀江の水に浮き漂う芥を見て、貝の玉が寄って来ないことを恨んで作った歌一首
堀江に朝の潮が満ちるにつれて寄って来る木屑、これが貝だったら家へのみやげにしようものを。((五)243頁)
⑦ 商返し めすとの御法 あらばこそ 吾が下衣 返し賜はめ〔商變領為跡之御法有者許曽吾下衣反賜米〕(万3809)
右は伝へて云はく、「時に幸らえし娘子有りき。 姓名未だ詳らかならず。寵薄れし後に、寄物 俗にかたみと云ふ。を還し賜ひき。ここに娘子怨恨みて、聊かにこの歌を作りて献上りき」といふ。〔右傳云時有所幸娘子也 姓名未詳 寵薄之後還賜寄物 俗云可多美 於是娘子怨恨聊作斯歌獻上〕
(訳)売買の取り消しを許可する法律があるのなら、私の下衣をお返し下さってもいいでしょうが。
右は、言い伝えによると、「ある時、寵幸される娘子がいた〈姓名は未詳〉。寵愛薄らいだ後、相手は預かり物〈俗に「かたみ」と言う〉をお戻しになった。そこで娘子は怨みに思ってこの歌を作って差し上げた」という。((四)271頁)
④の例は、①同様に恋の「怨恨」である。この恋の対象については不明であり、誰をウラムことになっているのかわからない。一般論として歌を作っているようにも思えるため、中国詩文との関係が取り沙汰されているようである。だが、募る恋心に翻弄されているのを相手のせいにして歌に作っていると見ることもできる。そんなことを公にされたら、相手の男性はよしよしわかったと言って愛情をふりそそぐよりほか解決のしようはない。そううまく運んだのが④の「大伴坂上郎女怨恨歌」だったのではないか。結果的に相手が誰か知られないままに終わっているのは、丸く収まり、事荒立てることではなくなって、情報として要らないからだろう。
⑤の「怨恨」の対象は鳴かない「霍公鳥」ではなく、それが鳴いたことを教えてくれない久米広縄である。ホトトギスがこちらが思うように鳴いてくれないのは仕方がないが、ホトトギスの鳴き声を聞いていながら聞いたと言ってこない峡谷住まいの久米広縄に対し、ウラムと大仰に言っている。些細なことなのに大袈裟な物言いにしているところがミソである。仲がいいから、ウラムと言ってもかえって笑いながら許されるのであり、作者の大伴家持から送られた、もっと気さくに付き合って欲しいというメッセージとなっている。
⑥の例は、万4397番歌の左注に、「右三首二月十七日兵部少輔大伴家持作之」とあるうちの一首である。この歌では「糞」が漂って「貝玉」が寄り付かないことをうらんでいる。きれいな貝があればお土産に持って帰ろうと思って浜辺へ出てみたが、木屑ばかり漂着していて話にならないと言っている。お土産にしようとしていたのにかなわなかったことを、ウラム気持ちがあふれたことにしている。ウラムと公表しておけば、その実どうであったかはともあれ、お土産なしの帰郷でも気にはかけていたという言い訳として最高のものとなっている。
⑦では、形見の品のつもりで置いてきた下着を返して寄こすのはあまりにひどいと憤慨している。共に楽しく過ごした夜のことを人生の1ページとして互いにいい思い出として持って行きましょうという思いで下衣を置いてきているのに、それすら送り返して来て、なかったことにしようとする相手の気持ちに苛立ち、ウラム思いが炸裂している。メモリーとして置いておいたつもりなのに、と恨み節を歌えば、確かに一夜を共に過ごした事実が逆にあからさまになり、文字どおり、公然の形見と化している。
大したことではないことについて積極的にウラム気持ちを表明することは、認知的に不協和な状態を低減させる効果がある。歌い手とその対象者ばかりでなく歌の聞き手のオーディエンスを巻き込むことで、互いの気持ちを近づけることに資するのである。もう少し打ち解けて話をしようとか、自分のことを考えてくれてはいたと許してしまったり、なるほど道理でそういうことだったのね、などと納得してもらうことができる。この点が、万葉集でウラム歌が行われた理由である。紀郎女や大伴坂上郎女の題詞に「怨恨」とある歌は、黙っていれば表立たない男女関係について、それを露呈させることで、関係を“是正”させる方向へと作用したものであった。
単字で「怨」「恨」とある例は題詞に6例、左注に5例ある。⑰以外、訳は省略する。
⑧ 忌部首黒麻呂の、友の賖く来るを恨むる歌一首〔忌部首黒麿恨友賖来謌一首〕
山の端に いさよふ月の 出でむかと 我が待つ君が 夜はくたちつつ〔山之葉尓不知世経月乃将出香常我待君之夜者更降管〕(万1008)
⑨ 大伴家持の霍公鳥の晩く喧くを恨むる歌二首〔大伴家持恨霍公鳥晩喧謌二首〕
吾が屋前の 花橘を 霍公鳥 来鳴かず地に 散らしてむとか〔吾屋前之花橘乎霍公鳥来不喧地尓令落常香〕(万1486)
⑩ 立夏の四月は既に累日を経て、由未だ霍公鳥の喧くを聞かず。因りて作る恨みの歌二首〔立夏四月既經累日而由未聞霍公鳥喧因作恨謌二首〕
あしひきの 山も近きを 霍公鳥 月立つまでに 何か来鳴かぬ〔安思比奇能夜麻毛知可吉乎保登等藝須都奇多都麻泥尓奈仁加吉奈可奴〕(万3983)
⑪ 鶯の晩く哢くを怨むる歌一首〔怨鶯晩哢歌一首〕
鶯は 今は鳴かむと 片待てば 霞たなびき 月は経につつ〔宇具比須波伊麻波奈可牟等可多麻氐婆可須美多奈妣吉都奇波倍尓都追〕(万4030)
⑫ 更に霍公鳥の哢くことの晩きを怨むる歌三首〔更怨霍公鳥哢晩歌三首〕
霍公鳥 鳴き渡りぬと 告ぐれども 吾聞き継がず 花は過ぎつつ〔霍公鳥喧渡奴等告礼騰毛吾聞都我受花波須疑都追〕(万4194)
⑬ 霍公鳥の喧かぬを恨むる歌一首〔恨霍公鳥不喧歌一首〕
家に行きて 何を語らむ あしひきの 山霍公鳥 一声も鳴け〔家尓去而奈尓乎将語安之比奇能山霍公鳥一音毛奈家〕(万4203)
判官久米朝臣広縄〔判官久米朝臣廣縄〕
⑭ 古事記に曰はく「軽太子、軽太郎女に奸く。故、其の太子を伊予の湯に流す」といふ。此の時、衣通王、恋慕に堪へずして追ひ徃く時の歌に曰はく、〔古事記曰軽太子奸軽太郎女故其太子流於伊豫湯也此時衣通王不堪戀慕而追徃時歌曰〕
君が行き 日長くなりぬ 山たづの 迎へを往かむ 待つには待たじ ここに山たづと云ふは、今の造木なり。〔君之行氣長久成奴山多豆乃迎乎将徃待尓者不待 此云山多豆者是今造木者也〕(万90)
右の一首の歌は……時に皇后、難波の済に到りて、天皇の八田皇女を合ひつと聞かして大くこれを恨みたまひ云々……〔右一首歌……時皇后到難波濟聞天皇合八田皇女大恨之云々……〕
⑮ 石川女郎の、大伴宿祢田主に贈る歌一首 即ち佐保大納言大伴卿の第二子なり。母は巨勢朝臣と曰ふ。〔石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首 即佐保大納言大伴卿之第二子母曰巨勢朝臣也〕
遊士と 吾は聞けるを 屋戸貸さず 吾を還せり おその風流士〔遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曽能風流士〕(万126)
大伴田主、字を仲郎と曰ふ。容姿佳艶しく、風流秀絶れたり。見る人聞く者、歎息せざるはなし。時に石川女郎有り。自から双栖の感を成して、恒に独守の難きを悲しぶ。意に書を寄せむと欲ひて、未だ良信に逢はず。ここに方便を作して賤しき嫗に似せて、己れ堝子を提げて寝の側に到り、哽音蹢足して戸を叩き諮りて曰はく、「東の隣の貧しき女、将に火を取らむと来る」といふ。ここに仲郎、暗き裏に冒隠の形を識るに非ざれば、慮の外に拘接の計りごとに堪へず。念ひのまにまに火を取り、跡に就きて帰り去らしむ。明けて後、女郎すでに自媒の愧づべきを恥ぢ、また心の契の果さざるを恨む。因りてこの歌を作り、以て贈りて謔戯とす。〔大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未逢良信爰作方便而似賤嫗己提堝子而到寝側哽音蹢足叩戸諮曰東隣貧女将取火来矣於是仲郎暗裏非識冒隠之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡帰去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈謔戯焉〕
⑯ 或る書の反歌一首〔或書反歌一首〕
哭沢の 神社に神酒据ゑ 祷祈れども わご大君は 高日知らしぬ〔哭澤之神社尓三輪須恵雖禱祈我王者高日所知奴〕(万202)
右の一首は類聚歌林に曰はく、「檜隈女王の泣沢の神社を怨むる歌なり」といふ。日本紀を案ふるに云はく、「十年丙申の秋七月辛丑の朔庚戌、後皇子尊薨りましぬ」といふ。〔右一首類聚歌林曰檜隈女王怨泣澤神社之歌也案日本紀云十年丙申秋七月辛丑朔庚戌後皇子尊薨〕
⑰味飯を 水に醸みなし 吾が待ちし 代はさねなし 直にしあらねば〔味飯乎水尓醸成吾待之代者曽无直尓之不有者〕(万3810)
右は伝へに云はく、「昔娘子有りき。その夫に相別れ、望み恋ひて年を経たり。爾の時に夫の君更に他妻を娶りて、正身には来らずして、徒に裹物のみを贈れり。此に因りて、娘子、この恨みの歌を作りて、還し酬へき」といへり。〔右傳云昔有娘子也相別其夫望戀經年尓時夫君更娶他妻正身不来徒贈褁物因此娘子作此恨歌還酬之也〕
(訳)おいしいご飯を醸(かも)してお酒にして、私が待ったかいは全くありません。直接お目にかからないので。
右は、言い伝えによると、「昔、娘子がいた。夫に別れ、恋慕しつつ何年かが過ぎた。その時、夫は新たに他の妻を娶って、自分自身は来ずにただ贈り物だけをよこした。 そこで娘子はこの恨みの歌を作って、それを送り返して答えた」という。((四)271頁)
⑱ 心には ゆるふことなく 須加の山 すかなくのみや 恋ひ渡りなむ〔情尓波由流布許等奈久須加能夜麻須可奈久能未也孤悲和多利奈牟〕(万4015)
右は、射水郡の古江村に蒼鷹を取り獲たり。……因りて恨みを却く歌を作りて、式ちて感信を旌せり。守大伴宿祢家持 九月二十六日の作なり。〔右射水郡古江村取獲蒼鷹……因作却恨之歌式旌感信守大伴宿祢家持 九月廾六日作也〕
⑧は気の置けない友が遅刻したことについて、大仰に言って戯れている。⑨~⑬はホトトギスやウグイスがなかなか鳴かない、あるいはまったく鳴かないことをウラムと言っている。鳥に対してウラムと言っても鳥は傷つかないし、歌を聞いた人も笑い話として受け取ることができる。⑭は仁徳天皇時代の故事のことを言っていて、嫉妬深い皇后がウラムことがあったと述べている。歌自体とは関係がない逸話である。⑮はつれない対応に対する恨み節を公にして、自らのとった行動を自虐しながら諧謔へと転じている。⑯は挽歌の反歌として加えられた歌である。祈ったが甲斐がなかったことをウラム歌にし、追悼の言葉に代えている。⑰は⑭同様、伝説上の物語を言っている。元カレが自身は来ないで物を贈って寄こしたので、物を返さずに歌を返した。そのことが歌の中の言葉、「代」に掛けられている。歌全体の表現に奥深さがあり、ウラムというきつい言い方も許容できる。昔話でもあるから穏やかに聞いていられる。⑱は鷹狩の鷹を逃がしてしまったことをウラムと言っている。相手は鳥である。
これらの例からは、ウラム歌と言っても今現在においての深刻さは乏しいとわかる。そして、万葉集のなかでウラム歌は数が限られている。その理由は、歌というものはそもそもの前提として、本来、公表されることが期待されているからである。歌われるのが歌である。ぐじぐじとウラム内容を披露して、聞いた側がハッピーになれることはほとんどない。思い余ってウラム言葉を口にして公表した時、得られるものもあるが失うものも多い。裁判所に調停を申し立てたり、弁護士を介してしか話をしないことになれば、もはや関係の修復は難しい。事実であれ公になることによってプライバシーは侵され、互いの信頼は失われる。誹謗、中傷の域に達しかねないことは、今日のSNS事情からも伺い知ることができるであろう。万葉集のウラム歌のなかでは、紀郎女の作が本気で一か八かの掛けとして恨み節を吐露したものであったと考えられる。大伴坂上郎女のそれは、長歌に贅言を尽くしながらおしゃべりを展開しているところからして、ウラム歌と題した甘えの歌であったと捉えるのがふさわしかろう。それ以外のホトトギス問題をウラムとしたような諧謔の歌は、聞いた側までかえって笑いに包まれるほがらかな機知として喜ばれたものであったろう。昔話の場合は、ハナシとして楽しまれたのだろう。そういった次第でウラム歌は万葉集にいくつか残されていると考えられる。
(注)
(注1)怨恨を漢語のエンコンと考え、中国の詩文の影響と見る向きが多い。玉台新詠に見られる「怨詩」、例えば班婕妤・怨詩一首并序などを学び、和歌でも試作しようとしたとする説が唱えられている。浅野1984.、佐野2009.、東1994.、大谷2016.など参照。清水1987.は、中国の漢詩のなかに「怨恨」という詩題はないことを指摘しつつ、大伴坂上郎女は漢詩文の影響下に「うらみ」というテーマに合うように歌を作っているとしている。小野寺1989.も、大伴坂上郎女は漢詩の怨詩の詠法を採り入れているわけではなく、詩題だけを受け入れて「怨恨歌」は生まれているとしている。しかるに、そもそも大伴坂上郎女が万619・620番歌で、紀郎女が万643~645番歌でそれぞれ1回だけ行ったことについて、女の恋歌において「怨恨」が歌題化、文芸化したと措定できるものであろうか。坂上郎女が玉台新詠の怨詩から女性の歌のパターンを学んだなどと主張するのは飛躍がすぎる。彼女らは字が読めたのかさえ疑問である。ならびに、それらの女性の作った歌だけを選んで、他の「怨恨歌」である用例、⑤⑥⑦をオミットして議論は成り立つとも思われない。漢詩文との関係を検討する以前に研究の姿勢が問われるところである。
(注2)西本願寺本、元暦校本などで「痛背乃河」はアナセノカハと訓まれている。類例に「痛足河」(万1087)があり、穴師川のことである。万葉集の歌句において「痛」字をアナと訓んでいるのは他に、万344・575・1050・2302番歌の諸例が感動詞の意で訓んでいる。他方、集中において、「痛」字をイタムやイタシ、イタ、コチタシの意に使う例は40例を超えている。
(注3)文章の構成上、誤解の余地はないと考えるが、現代の注釈書には曲解しているものばかり目につく。「渡りかねめや」の主語を取り違えたり、割り込ませて多重に解したり、川を渡ることの意味を深読みして意を動顛させたり、訳としては正しそうに見えるのに小難しく考える傾向にある。「痛背乃河」をアナセノカハと訓むところに問題があるらしい。
土屋1950.は、「世間普通の女であるならば、吾が渡る痛背の川を渡りかねはすまいが、吾は夫に去られて居るので、其の連想のある此の川をば渡りがたくするのである。」(172頁)としている。
武田1957.は、「世間の女だつたら、私の渡る痛背の川を渡りかねることはないでしよう。」(229頁)としつつ、「痛背の河を渡るということの意味がはつきりしない。……獨りよがりの歌というべきだ。」(同頁)と解している。
澤瀉1959.は、「世間普通の女であつたら私の渡る痛背川をこんなに渡りかねる事がありませうか。」(389頁)とし、「世の常の女であつたら今私が渡りかねてるやうにこの川を渡りかねるやうな事をしようか、ずんずん渡り切つてしまふ事でもあらうか、といふ風な意味に解される。」(同頁)としている。
大系本萬葉集に、「世間普通の女であれば、思いに耐えかねて私の渡る穴師川を、誰でも思いきって渡ってしまうにちがいない。」(286頁)としている。
窪田1966.は、「この世に生きている女である限りは、今吾が渡っている痛背の河を渡るということをしかねようか、しかねはしない。」(458頁)としつつ、「歌は女郎が、痛背の河を渡りながら発した感慨で、一方ではその事の尋常でないのを思いつつ、同時に他方では、これは当然なことである、これは吾のみのすることではなく、この世に生きている女である限り、誰しもせずにはいられないことであると、そのことを押返して肯定した心のものである。痛背の河を渡るのを尋常でないとするのは、この河は女郎とその夫の家との間にあるもので、平常だとその河を渡るのは夫であるのに、今は妻の女郎がしているので、尋常ではないとするものと解される。この尋常でないことをあえてするのは、夫が女郎を疎遠にし、関係を絶とうとしているので、それに昂奮しての行動と見なければ、この歌は解せないものとなる。歌そのものも、題詞も、その事をかなりまで明らかに示しているといえる。強い感情と理性との溶け合っている歌といえる。」(458~459頁)と解している。
古典全集本萬葉集は、「世の常の 女だったら わたしが渡る 痛背の川を 渡りきれないことがあろうか」(352頁)としつつ、「実際は、作者は世間一般の女でないから渡れないでいることをいう。私だけは夫の裏切りを我慢できないという寓意。」(351頁)と説明する。
古典集成本萬葉集は、「私がもし世の常の女であったなら、渡るにつけて「あああなた」と我が胸を痛めるこの痛瀬川を、渡りかねてためらうことなどけっしてありますまい。」とし、「自分の川を渡ってでも逢いに行く……世の常の女のせっぱつまった行為すらできない自分の立場を怨む歌。」(313頁)と解している。
中西1978.は、「私が世間尋常の女だったら、「あな背」の川を渡りかねるでしょうか。不運な女だからこそ、この「あな背」という川も渡りなずむのです。」(318頁)とし、「川を渡ることが恋の成就を意味する。」(319頁)と解している。
木下1983.は、「世間並みの女であったら わたしが渡っている痛背の川を 渡れないことがあろうか。」(272頁)とし、「作者は世間一般の女でないために川を渡れないでいるのである。」(273頁)と解している。
新編全集本萬葉集は、「世の常の 女だったら わたしが渡りかけている 痛背の川を 渡れないことがあろうか」(331頁)としつつ、「安貴王の妻という身分が邪魔して奔放に振る舞えないことを嘆いていったのであろう。……アナセに感動詞のアナと背(夫)とをかけて、自分を裏切った男に対する痛恨の情を込めたものか。……川を渡るということは恋の冒険、不倫な関係を結ぶことを暗示する。……作者はなまじ身分があるばかりに今のところ誘惑にかろうじて耐えているというのであろう。」(同頁)と説明する。
鴻巣1987.は、「世間ノ普通ノ女ナラバ私ガ渡ル痛足川ヲ渡リカネルコトハアルマイニ。私ハ夫ノ後ヲ慕ッテ来テ、痛足川ヲ渡リカネテ困ツタガ、我ナガラ腑甲斐ナイコトダ。」(572頁、漢字の旧字体は改め、傍線は割愛した)とし、「夫の安貴王の変心を怨んで、その後を慕って、痛足河を渡り悩みつつよんだものか。少し意味の分明しない憾はあるが、ともかく強烈な感じが出てゐる。」(同頁)と解している。
伊藤1996.は、「私がもし世の常の女であったなら、渡るにつけて「ああ、あなた」と私が胸を痛める痛言の川、この川を渡りかねてためらうなどということはけっしてありますまい。」(563頁)とし、「自分の方から川を渡ってでも逢いに行くというのが恋におちいった世の常の女と考えられていたのであろう……。その世の女の行為もなしえない自分の立場を恨んでいる。女が川を渡ることには世間の妨害に抵抗することを意味するのが当時の習い。」(同頁)と解している。
稲岡1997.は、「私が世間普通の女であったならば……私の渡っている「ああ、あなた」という名の痛背の川を渡りかねてためらうようなことしないでしょう。」(347頁)とし、「題詞に「怨恨歌」とするのは、安貴王に対する怨恨を意味すると思われるが自分の弱さに対する嘆きとする説もある。」(同頁)と解している。
阿蘇2006.は、「世間の普通の女であったら、私が渡ろうとして渡れないでいる、この痛背の川を渡れないことはないでしょう。」(654頁)とし、「六四三は、通常の女性であったら自分の恋を成就させるために実行するであろう行為を、自分は踏み切れず自制してしまうくやしさを詠む。紀女郎の、感情よりも理性を重んじる性格とプライドからくるのであろう。理性もプライドも捨てて相手を引き留めたいと思いながら、それができず、相手を解放しようと心にきめながら、気力をなくしてしまったと詠まずにはいられない六四四、別れの日が近づくにつれて、新たな悲しみがこみ上げ泣かずにはいられない六四五、と三首の歌で、愛する人との別れを悲しむ気持ちを吐露している。作者の悲しみは、相手の心変わりよりも、相手を引き留められない自分自身を責めているようで、題詞の「怨恨」は、相手ではなく自分の奥へ奥へと向けられているようでもある。だが、これは相手に贈った歌で、だからこそ、万葉に記録される機会をもったのであろう。編者は、作歌事情について触れないが、安貴王との別離に際してのものであろう。」(同頁)と解説する。
多田2009.に、「私が世の中の常の女であるのなら、私が渡ろうとする「あな背(ああ、わが背の君よ)の川」を渡りかねるなどということがあろうか。」(108頁)とし、「世間の女なら穴師川はふつうに渡る。だが、私にはその背の君との逢瀬の川を、とても渡ることができない。裏に男の不誠実をなじる意がある。不誠実ゆえに逢えない、という意。」(同頁)と解している。
(注4)大森1994.も気づいてはいて、「神話的世界との一体化という憧憬の思いを貴紳たちに強くさせた女性であったとも考えられる。」(5頁)と述べている。
(注5)紀郎女は「小鹿」(万762・782・1452)、「紀少鹿女郎」(万1648・1661)とも記され、万1452番歌では大矢本にヲシカと振られている。
(注6)そこで思いつきで導入された安直な考え方が、漢詩の怨詩のあり方を適用したとするものであった。
(引用・参考文献)
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