古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

オニ(鬼)のはじまり

2016年09月02日 | 和名類聚抄
 ヤマトコトバにオニ(鬼)という言葉は、飛鳥時代ごろに生まれたものと考えられる。本稿では、オニ(鬼)という言葉のはじまりを探り、温故知新としたい。

鬼のパンツは虎の皮?
 鬼のパンツが虎の皮に定着するようになったのは、近世以降、さらには昭和になってからのようである。蔵王権現の引敷、下帯などとされる虎皮(豹皮もある)が現れて以後、時代的にかなり下るもので、連動的に考えられてはいない。江戸時代の鬼のパンツがなぜ虎皮なのかについては、うしとらの方角との関係を推測されることもある。鬼も、人間の頭の中の面倒な話に巻き込まれて迷惑であろう。もちろん、人間の頭のなかで作りだされたものが鬼である。宮崎成身・視聴草みききぐさに、享保年間(1716~36)の落書に地獄の倹約令があり、鬼のパンツも狐や狸にせよとの件がある。
宮崎成身『視聴草みききぐさ』(国立公文書館「ようこそ地獄、たのしい地獄」展展示(……一 鬼共豹虎の皮の下帯ハ茨木皇子・石熊童子の外一切無用たるへし 下々の鬼共蜜々に法外之義於有之ハ吃度呵責すへし 但し狸狐等之皮ハ苦るしからさる事……)、「国立公文書館・旗本御家人Ⅱ」参照。)
十王像(閻魔王)(絹本着色、室町時代、15世紀、東博展示品)
 そんなパンツの鬼も、仏教が中国に入って道教の影響を受けたものが日本へ流れて来て、地獄の獄卒として活躍しているという次第のようである。それ以前からいた日本の鬼、波状的に中国の思想が到来している鬼としては、物の怪とも呼ばれる鬼、鬼やらいの鬼などがあり、多様な様相を示している。オニ(鬼)という言葉は一語にしてとても使い勝手が良く、重宝されて多用された。鬼瓦(注1)、鬼退治、鬼に金棒、鬼の形相、仕事の鬼、鬼嫁、渡る世間に鬼……、銘酒「鬼ころし」、椿鬼奴、……。
山水鬼神文磚(韓国扶余窺岩面出土、三国時代(百済)、6~7世紀、東博展示品)
鬼面文鬼瓦(奈良県中山町中山瓦窯跡出土、奈良時代、8世紀、奈良文化財研究所、東博展示品)
鬼瓦の変遷(竹中大工道具館「千年の甍─古代瓦を葺く─」展解説パネル。飛鳥時代の鬼面文軒丸瓦としては川原寺跡、大官大寺、雷丘北方遺跡、地光寺跡に見られる)

和名抄の著者、源順を擁護する
 筆者は、いわゆる語源を探るという立場に立たない。ヤマトコトバの語源は、現代でのネーミング、商標権などと異なり、極められるものではない。とはいえ、飛鳥時代に、当該語の音の響きを人々がどのように感じ取っていたか、当時の人々の語感のようなことは、万葉集の表記などから推測することができる。むしろそれが、当時の人たちの心の真相であろうと考える。万葉集の用字に、助詞のカモを鳥類の「鴨」という字を多く用いていた。すると鳥類のカモを見つけるたびに、もしかしたら、といった意味合いを見て取ってしまうということになった。結果、洒落として把握していた可能性がある。
駅ポスター
 紀に、次のようにある。

 かれ時人ときのひと、改めて其の河をなづけて、挑河いどみがはと曰ふ。今、泉河いづみがはと謂ふはよこなばれるなり。(崇神紀十年九月)
 故、其のところ堕国おちくにと謂ふ。今、弟国おとくにと謂ふは訛れるなり。(垂仁紀十五年八月)

 地名の由来が語られている。訛ったのだと真面目に述べられている。今日、このような地名譚について、それを地名の語源と主張する人はいない。真に受けていては気が変だと思われかねない。笑い話ということで何の不都合も生じない。しかし、こういった地名譚ばかりでなく、記紀説話すべてが洒落なのかもしれない。筆者の考えは完全にそちらへ傾いているが、その証明にはすべての説話について検討が必要となる(注2)
 地名の訛り譚と同じノリで、源順(911~983)が和名抄を記しているとするとどう考えられるか。

 人神 周易云人神曰鬼〈居傳反和名於邇或説云於邇者隠奇之訛也鬼物隠而不欲顕形故以稱也〉唐韻云呉人曰鬼越人曰〓(「幾」字の「人」の代わりに鬼、魕の異体字)〈音蟻又音祈〉四聲字苑云鬼人死神魂也(高松本による。「傳」は「偉」の誤りか。)
 人神 周易に云はく、人神を鬼〈居偉反、和名は於邇おに。或説に云はく、於邇おに隠奇オンキの訛れるなりといふ。鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称すなり〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は〓〈音は蟻、又、音は祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神の魂なりといふ。

 オニ(鬼)の語源説として、隠の字音、オンが訛ったものだと言われていている。和名抄のこの記事に依っている。和名抄の諸本のうち、「隠奇」となく、「隠」だけのものがあり、銭(ゼン→ぜに)、盆(ボン→ぼに)のように、撥音便を避けているものと思われている。源順自身が言っているのは、「或説云」だけである。彼が「按」じているのではない。そういう説があると紹介しているだけである。
 和名抄に、言葉の謂れを記した記述は各種ある。「云」、「謂」、「言」、「云」、「読」などと、巧みに書き分けている。文選に登場する語で、なるほど納得、知恵の働いた訓が付けられているものだなあと、源順が感動したものについては、「文選……読」という表記が採られている(注3)
 それに対し、ここでは、「或説云」という無責任な表記が行われている。彼自身、言葉として大して興味をそそられるようなものではなかったのだろう。オニがどうしてオニと言われるのか? ある説では、このように述べられている、と言っている。
 今日から振り返ったとき、オニ(鬼)という言葉が多義化して膨らんで、いろいろと便利に用いられているから、もう少ししっかりした語源的なものがあるような気がすることがある。しかし、言葉とは、それほど科学的にはできていない。「泉河」が「挑河」の訛った形であるということと同列に捉えれば、別に事を荒立ててオニ(鬼)という言葉が「隠」の字音、オンの訛ったものだと言っていて構わない。しかも、当時の大学者である源順自身のぶち上げた説ではなく、そんなことらしいという話として定着している。

新撰字鏡の「鬼」
 オニ(鬼)という言葉について、今後新しい語源説が唱えられ、検証されることがあるかもしれない。けれども、和名抄の記述に異議を唱えても仕方がないものである。オニ(鬼)=「隠」の字音「オン」の音訛説は、平安時代にそういう説が歴史的事実としてあり、そう考える人たちが当時少なからずいたということである。中古語ばかりでなく上代語を理解するうえでこの点は肝要である。
 山口2016.に、新撰字鏡を誤読した解釈が行われている。

 鬼 九偉反、上。人神曰鬼。慧也、帰也、送身也、遠也。(新撰字鏡)

「この『遠』はヲニという音を写していると考えられる。つまりオニを表記する(於邇)の前身に、(遠)という表記があったのである。平安時代にはヲとオが混同されるようになっていたから(6)、ヲニ(遠)がオニ(於邇)となるのに不都合はない。」(36頁。「注」は、「(6)大坪併治著『改訂訓点語の研究』上、風間書房、平成四年刊。」(51頁)。)としている(注4)
 新撰字鏡は字書である。漢漢辞典のなかに、パラパラと万葉仮名で和訓が記されている。万葉仮名で記されているのが和訓で、「○○也」と書いてあるのは、漢漢辞典、漢字の字義の説明を漢字でしているところである。ここは、「鬼 九偉反、上[声]。人神は鬼(クヰ)と曰ふ。慧也、帰也、身を送る也、遠也。」とあって、鬼の説明として、さといものであること、(あの世に)帰るものであること、身は送って残った霊魂のようなものであること、そして「遠」であるものであること、と記されている。和訓は記されていない。「遠」は、論語・学而に、「曽子曰く、終りを慎み遠きを追へば、民の徳厚きに帰す。(曽子曰、慎終追遠、民徳帰厚矣。)」とある「遠」の意で、先祖のことである。「人神」を「鬼」と言っている。亡くなったご先祖様のことである。
 中国で道教や民間信仰が盛んであったことは確かであるものの、それ以上に儒教が盛んであったことも事実である。なかでも論語は基本である。新撰字鏡の著者、昌住(9世紀)はお坊さんである。学問全般に通じていて、中国由来の思想、儒・仏・道・陰陽・神仙などのいずれをも視野に字書が作られているものと思われる。「遠」はご先祖様のことであるから「也」と断じられている。「遠」は万葉仮名として記しているのではなく、「也」も衍字ではない。
 他の「遠」字の例を垣間見てみる。新撰字鏡の天治本と享和本を校異しながら、

 悠々 思也、遠也。宇加大礼、又大伊々々志久。

とあるらしい箇所は、「悠々 思也、遠也。宇加太礼うかだれ、又、大伊々々志久おほいおほいしく」と読み、書かれてあるのは、悠々の字義は思いやるほどのこと、遠くはなれていることのことで、和訓ではウカダレ、また、オホイオホイシクである、と言っている。ウカダレやオホイオホイシクなど、滅多にお目に掛かれない和語を知れる素晴らしい字書である。「太皇太后宮おほいおほいきさいのみや」という言い方がある。天皇の祖母でむかし皇后であったおおおばあ様には、悠々自適にお暮しになられることを望みたいものですとの表明である。

斉明紀のオニ(鬼)=神功皇后の「人神」
 万葉集で「鬼」字はすべてモノと訓まれている。では、当時、オニ(鬼)という言葉はヤマトコトバになかったかと言えば、筆者はあったと考える。歌語ではないから万葉集ではそうは訓まないということであろう。紀に、「鬼」字にオニと古訓が振られている。平安時代に付けられたものだから、飛鳥時代にはそうは呼ばれていなかったと言えなくはないが、まずはそう振られているから、騙されたつもりであれそう読まなければ話が始まらない。
 斉明天皇は女帝で、舒明天皇の皇后、その後を襲って皇極天皇として位に就き、大化改新時に退位して「皇祖母尊すめみおやのみこと」と呼ばれていた。そんなおばあさんが重祚して斉明天皇となり、悠々自適には過ごされずに白村江の戦いに臨もうと九州まで来たところ客死された。その場所で「鬼」が出てくる。

 五月の乙未の朔癸卯に、天皇すめらみこと朝倉橘広庭宮あさくらのたちばなのひろにはのみやうつりておはします。是の時に、朝倉社あさくらのやしろの木をはらひて、此の宮を作る故に、神忿いかりて殿おほとのこほつ。亦、宮の中に鬼火おにびあらはれぬ。是に由りて、大舎人とねり及び諸の近侍ちかくはべるひと、病みてまかれる者おほし。(斉明七年五月)
 秋七月の甲午の朔丁巳に、天皇、朝倉宮にかむあがりましぬ。八月の甲子の朔に、皇太子ひつぎのみこ、天皇のみも奉徒ゐまつりて、還りて磐瀬宮いはせのみやに至る。是のよひに、朝倉山の上に、おに有りて、大笠おほかさを着て、喪のよそほひを臨みる。ひとびと嗟怪あやしぶ。(斉明紀七年七月~八月)

 この部分の「鬼火」を火の玉のこととすると現代科学では解明されているらしいが、よくわからない神秘的な火としてオニビと呼んだのであろうと推測される。モノビという言い方は知られていない。人の前に神が姿を現すことは、雄略天皇の前に葛城の一言主大神が現われたといった記事にある。姿を現した一言主大神は「神」である。他方、「鬼」は、和名抄に、「鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称すなり」とある。姿が不明瞭なのをオニと呼んだということになる。「大物主神」という場合、「もの」は物の怪のモノに当たるのであろうが、それを祀るべく対象として把握できている、つまり、「かみ」として崇めてしまうことによってオニではなくなったということではないか。この点については諸説ある。
 「人神」にして、「隠」れていて「遠」なるものとは、遠いご先祖様の霊魂のようなものと考えることができる。朝倉宮で人々が怖がった「鬼」とは、斉明天皇のご先祖様であろう。その場合、儒教では父系をたどる。斉明天皇がご先祖様と仰いで同じように朝鮮半島へ派兵しようとしているのは、神功皇后に違いない。古く新羅親征を行って成功を収めた。すなわち、神功皇后の霊が「鬼火」となり、「鬼」となってぼやぼやっと顕れるか顕れないかしたということが活写されているということになる。むろん、斉明紀の記述においてそうあるというだけである。古代の人びとの一般的、普遍的なものの考え方はわかるはずはない。それでも、斉明天皇の行軍の様子は、神功皇后の新羅親征を準えていて、宮廷社会の人々にとっては、もはや常識であったと言えるのではないか。そして、斉明七年(661)時点におけるオニとは、ご先祖様の亡霊のことを指していると言えそうである。後々、オニという言葉が、いろいろな意味にも転用されるようになる出発点として、初めの一歩はそうであったろうと定められる。和名抄の「周易云、人神曰」という説明は当を得ていると言える。

 以上、ヤマトコトバのオニ(鬼)の原初的形態について垣間見た。興味深いテーマである。歴史はその後1200年続いて今日に至っている。幅広い諸相のオニ(鬼)を見ることができる。

(注)
(注1)林1996.に、「[広州龍生崗の鬼瓦の附く屋根(陶製明器)]は鬼瓦の古い形である。その名称は今のところ不明である。」(191頁)とある。平城京の屋根に載せられた鬼瓦を当時の人が何と呼んでいたか、筆者にも今のところ不明である。
(注2)筆者の研究の基本姿勢である。
(注3)個々の事例については、拙稿「和名抄の『文選読』について」参照。
(注4)山口2016.の論述では、「瘟」がメインで、「瘧鬼」、「疫鬼」に和語のオニのルーツを求めている。導入部分に「遠」字が出ている。

(引用・参考文献)
林1996. 林巳奈夫編『漢代の文物』朋友書店、1996年。
山口2016. 山口建治『オニ考─コトバでたどる民間信仰─』辺境社発行、勁草書房発売、2016年。

※本稿は、2016年9月稿「オニ(鬼)考序説」を2017年10月に改題、改稿したものを2020年8月に整理し、2024年10月にルビ形式にしたものである。

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