ヤマトに自然発生した相撲の強力者は、仏教の中国化した金剛力士を観念の上で受容する際に基盤となっていると考えられる(注1)。大陸の思想において、力士には辟邪の気持ちが込められている。金剛力士は、相撲を取るほどに強い門衛の人として捉えられたのである。本邦の金剛力士像としては、法隆寺中門金剛力士像や長谷寺法華説相図が古い。それ以前のものとして参照される像としては、埴輪の力士像があげられる。厳密にいえば、それはチカラビト像である。ここではまず、造形のうえで特徴的な酒巻14号墳出土の力士埴輪について検討する。着衣の上から褌をつけている。さらに褌に鈴をつけ、突起のある履をはき、頭部表現にも特徴がある。
左:力士埴輪(埼玉県行田市酒巻14号墳出土、古墳時代、行田市郷土博物館蔵、行田市教育委員会https://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/sakamaki14goufunsyutudohaniwa.html)、右:金剛力士(銅板法華説相図、奈良県長谷寺蔵、飛鳥時代、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/長谷寺銅板法華説相図(部分))
行田市郷土博物館2015.に、力士埴輪について一般的な見解が述べられている。そのなかで、着衣の上から褌をつけた特異な力士像である酒巻14号墳出土の力士埴輪について、高句麗の古墳壁画に見られる力士像との関係を指摘している。装飾品や衣服、履などに、ルーツが感じられるという。さらに、髪型にも共通性が見て取れるのではないかとする。高句麗の通溝(洞溝)四神塚の羨道東壁の力士像の頭部は、髷を結っており、その髻を結紐で結んで後方へリボンのようにたなびかせている。酒巻14号墳の力士埴輪や、和名埴輪窯跡出土の力士埴輪頭部には、笄帽の表現や上げみずらとともに側頭部に剥落痕があって、リボンが付いていたのではないかと推測されている。結果、「「何かをしている」表現ではなく、「その場にある」ことに意味があると考えられ、「相撲」ではなく「力士」として僻邪を担っていたのだと考えられるだろう。」(43頁、この項、浅見貴子)という。
力士像(通溝四神塚羨道東壁、中国輯安、6世紀、http://blog.daum.net/ppbird/15553539)
相撲ではなく力士、何かをしているのではなくその場にいることに重きを置いたとしても、いつでも格闘としての相撲を取れることが力士の条件である。日頃から稽古に精進していなければならない。それは当たり前のことだから、「相撲」と「力士」とを事立てて区別することに積極的な意味はない。日々の稽古の積み重ねが本場所にあらわれる。
視野を広げて考えてみる。力士形態の文化的伝播、享受の過程においては、仏教の金剛力士が中国の北魏時代に異民族的な形相で出現している。中国に古くからある邪悪なものを避ける思想と融合する形で、仏教の執金剛神が門番として二神に分かれ、金剛力士として造形化されるに至ったとされる。八木2004.は、金剛力士像の異形的な顔つきの発生について、「直接的な祖形を西方に求めることはできない。……これらの像形式は、中国における独自の展開(漢民族化)により生まれたと考えられる。」(9頁)とする。「漢民族化」によって、漢民族とは異なる顔つきを指向されたのが、門神としての金剛力士像であった。一般の人々にとって、異形の様相は恐れを惹起させる。恐いから近寄らないようにする。それは、守ってもらう館内の人にとっても当初は同じであったが、そんな恐ろしい存在を味方につければ、とても力強いこととなる。悪霊を味方につければ、他の悪霊の攻撃から守られることになると考えたのである。
金剛力士像(龍門石窟賓陽中洞左壁、中国、北魏時代、「aquacompass 7」https://aquacompass7.wordpress.com/2014/01/23/go-around-the-world-of-buddha-statues-9-the-statues-of-korea-and-japan/5龍門石窟金剛力士/)
龍門石窟の金剛力士像に見るとおり、その顔つきは異形の面持ちである。高句麗の古墳壁画に見られる角抵図などにも、一方は高句麗人、他方は鼻の高い西域の人を表すとする見解も見られるが、北魏に勃興した金剛力士像の、顔全体に広がる異人的ないかつさは見られない。さらに世界に目を広げれば、メソポタミアにいかつい顔をした像が見られる。パズズ像である。
パズズ像(アッシリア、前1000年紀、ルーブル美術館蔵、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/パズズ)
古代メソポタミアの代表的な悪霊で、目を見開き、獣のように口を開けた恐ろしい顔つきをしている。逆にパズズを所有すれば、その他の悪霊の災いから身を守れると信じられていたとされている。パズズと仁王とは時代的にかけ離れており、文化的な伝播と捉えることには無理があるが、同じく辟邪の考え方に当たる。強面のいかつい顔立ちにすることは、人類に共通する観念ではないかと考えられる。構造主義的に考えれば、自然とそうなるということである。
このように比較図像学を繰り広げれば、通溝四神塚の力士像は、相撲取としての力士像というよりも、金剛力士に近い造形のように感じられる。むろん、仏教絵画そのものとしてあるのではない。一人単独で走っている。それでも、右手に槍か鉾のものを持ち、左手には鉄槌形の武器か博山炉か舎利容器のようなものを握っている。相撲を取ることよりも警備員としての役目を担っているものではないかと推測される。
酒巻14号墳出土の褌に鈴をつけた着衣の力士像も、いまこれから相撲を取るというために控えている力士ではなく、力の強い悪者がいつ現れても対抗できるように、24時間体制で警備している守衛ではないかと思われる。取っ組み合えば必ず鈴が鳴り、周囲に危険を知らせることができる。畑の獣除けや、建物の機械警備、あるいはJアラートのように働く装置として機能している。突起の付いた履は、踏まれたとしても相手の足の裏に刺さり、ダメージを与えて先へ進めなくする。完全武装した兵士との違いは、敵に対して囮となるところである。下手に武器を持っていれば、隙をつかれて奪われた場合、かえって攻撃されることになる。そんな役割を門番として担っていたのは、古代に隼人たちである。
是を以て、火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗して奉事る者なり。(神代紀第十段一書第二)
大泊瀬天皇を丹比高鷲原陵に葬りまつる。時に、隼人、昼夜、陵の側に哀号ぶ。食を与へども喫はず。七日にして死む。有司、墓を陵の北に造りて、礼を以て葬す。(清寧紀元年十月)
三輪君逆、隼人をして殯の庭に相距かしむ。(敏達紀十四年八月)
是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と、朝廷に相撲る。大隅の隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月)
群官初めて入るとき、隼人声を発し、立ち定まらば乃ち止めよ。楯の前に進みて、手を拍ち歌儛せよ。(延喜式・践祚大嘗祭式)
神代紀の記述に、イヌ(狗)と形容されている。軍隊でなく警察としての機能とは、警備してイヌのように吠えて威嚇しつづければ、何だ何だと野次馬が集まってきて、闖入者は身柄を拘束されることとなる。警報装置が作動することこそ、警備の一番の決め手である。すると、警備員として雇うべき人材は、力持ちの相撲取であることもさることながら、別に凶暴なドーベルマンでなくてもかまわず、よく吠えて異常を知らせる役割を持っていればいいとわかる。隼人の人たちは、ヤマトの人よりも小柄であったことが知られている。そんな隼人に相撲を取らせるのは、子供相撲、ないしは相撲節に際しての前相撲のようなものではないかと感じられる。本来的に、異常を知らせるセンサーとしてイヌを飼っている。ペットの犬に服を着せていることも最近では目にするようになっている。そのようなことに思いを巡らせれば、酒巻14号墳の力士埴輪に、着衣の上に褌を着て鈴をつけた像が作られていることへの違和感は薄らぐ。
現今の日本の警備員が、体格的にさほど優れない点や、わずか数名でワゴン車の現金輸送を行っていることに、外国人から疑問視されることがある。本邦の治安がいいから可能なのであるが、隼人による警備の歴史的伝統を引き継いでいるのかもしれない。力士埴輪は、古墳時代、実際に豪族の居館を守ったものを造形化したのではなく、古墳というお墓を守る形にしたものにすぎない。とはいえ、日本書紀の記事に記されているとおり、犬のように吠えることで守護、守衛の役割を十分に担っていた形跡も見られる。広く認められた意見ではないが、盾持人埴輪とは、隼人が盾をもって守る姿が写し取られて造形されているのではないか。中世の十字軍の騎士と違い、左手に盾、右手に剣ではなく、盾で防御するばかりである。デモ隊と対峙する前線の機動隊員のように、専守防衛である。盾と完全に一体化した人物像が盾持人埴輪である。文字通り、人間の楯と言って間違いでない。笑っているような顔に見えるものもあるが、入って来ないで下さいよと笑ってごまかしているところなのかもしれず、横広がりの口はイヌのようでもある。盾を持たされているだけで、あとは声をあげて助けを呼ぶしかない。盾は基本的に防御具であり、攻撃具ではない。
左:盾持人埴輪(埼玉県本庄市前の山古墳出土、古墳時代、6世紀、本庄市ホームページhttp://www.city.honjo.lg.jp/kanko_bunkazai/bunkazai/1405402694640.html)、中:盾持人埴輪(茅原大墓古墳出土、古墳時代中期初頭頃(4世紀末頃)、桜井市埋蔵文化財センター展示品)、右:埴輪 犬(群馬県伊勢崎市境上武士出土、古墳時代、6世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0010502をトリミング)
隼人がどれほどヤマトの人に異形の顔つきと思われたか、記録されていない。南九州の交通の便の悪いところへ行くと、縄文顔と呼ばれる濃い顔の人たちが多い。西郷隆盛の顔を代表と考えればいい(注2)。その異形の顔つきをさらに目立たせるために、隼人は顔に入れ墨したり色を塗ったりしていたようである。歌舞伎の隈取の元祖と言っても間違いではないであろう。金剛力士の見得を切った姿と源が同じである。
番犬として隼人が飼われていたのである。護衛として働いている。それが在所から遠く離れたところの場合、ヤマトコトバで「守部」として記される。守部は、山や野、田畑、陵墓などを守る人のことである。山守、津守、防人など、特定の名称を持つこともある。居宅を守る人の意には使われない。
大君の 境ひたまふと 山守居ゑ 守るといふ山に 入らずは止まじ(万950)
住吉の 津守網引の 浮子の緒の 浮かれか去なむ 恋ひつつあらずは(万2646)
防人に 立ちし朝明の 金戸出に 手放れ惜しみ 泣きし子らばも(万3569)
…… あしひきの 彼面此面に 鳥網張り 守部をすゑて ……(万4011)
泉守道者(神代紀第五段一書第十)
盾持人埴輪は、人物埴輪のなかでももっとも早く現れたとされている。盾持人埴輪の特徴としては、大型であること、耳が横に張り出すなど強調されていること、顔に入れ墨を示す線刻や赤く彩色されていること、容貌が怪異であること、頭部の表現が個性的であること、石を植えつけて歯を表現していることなどがあり、その置かれたところも前方後円墳の前方部前面に単独で配置されることがあった。墓の守部として据えられている。顔については仮面を装着しているとの見解もある。塩谷2014.は、「中国の葬送儀礼や神仙界に登場する辟邪の方相氏を原型としている……。その後展開する人物および形象埴輪群は、おのずと他界の情景を演出したものと考えられ、被葬者への奉仕の具象化を中心に古墳における神仙界の拡充・整備を図ったものと推測される。」(184頁)とする。辟邪の発想は等しくとも、本邦で方相氏ばかり先行して取り入れたとする見解は当たらないであろう。なぜなら、ヤマトの人にとって、何だかわからないからである。中国の方相氏の古い図像に、盾が前面に押し出されているものはない(注3)。盾持人埴輪の顔に入れ墨や彩色が見えるのは、人の最大の注目点、顔について、顔を有することを否定しているという一点につきる。盾持人は人としての人格を認められておらず、船や馬、水鳥を象った埴輪と同時期に出現している。意味もなく笑わされるのが、あるいは引きつった笑い顔をするのが、自由意思を持たない守部の隼人、番犬のさまなのである(注4)。
狛犬(鎌倉市鶴岡八幡宮)
ここまで、本邦における埴輪以降の力士的造形の本質は、彫像の金剛力士にまで下って再現すると想定してきた。ただし、その間に一つだけ特異な力士像が見られる(注5)。天寿国繍帳のなかに、金剛力士ではないかと思われる像が刺繍されている。一般には「鬼形」と称されるものである。綾地に刺繍されていて退色の進んだ部分のため、鎌倉時代に復元、新調された部分とされている。眉は盛り上がり、頬骨は出っ張り、顎は張っている。髪は引き詰めて髷に結っている。裸の上半身は筋骨隆々である。右手は鉾状のものを持ち、左手は指を広げて張っている。腰蓑のようなミニスカートを着けていて、胡座をかくように座っている。天衣のようなものが背後になびいている。
天寿国繍帳の鬼形(中宮寺ホームページhttp://www.chuguji.jp/oldest-embroidery/からトリミングと塗りつぶし)
胡座をかいて座っている金剛力士像は、他に管見に入らない。だからといって、これが金剛力士を意識したものでないかといえば、かなりの確度で意識していると考える。高瀬2003.に、頭頂から一条に伸びる部分を見て、牢度跋提と呼ばれるものかとする説がある。天寿国繍帳全体を、観弥勒菩薩上生兜率天経の示す世界を示したものとする考えへと敷衍する。けれども、異人的な顔つきを強調する図像は、金剛力士として伝わるものが一般的である。
仁王に表される力士が天寿国を守っているとすると、それは、「据ゑ」ているものと思われたと筆者は考える。「据う」とは、物や人、生き物をふさわしい場所に安定的に配置させることをいう。根を下ろさせるようにしっかりとそこへ植え付けるように置くこと、場所を決めてとどまらせて居させること、ある位置や役職につかせて安定させることをいい、人や生き物については、姿勢的には座らせることに当たる。すなわち、金剛力士が守部として据えられているとするなら、ヤマトコトバの語義説明として、立った姿勢で見得を切るようには造形せず、座らせて守らせたかったからではないかと感じられるのである。随身像の多くが座っているようにである。
筆者は、上代の人々が、無文字文化の下での言霊信仰に浸ったヤマトコトバ第一主義者であり、原理主義的ヤマトコトバ信奉者であったと考えている。筆者は、天寿国とは、太子と母王とがテムジクニ(天竺に)生まれ変わることと思って止まない橘大女郎の錯乱妄想であり、それを慰撫するために作られた刺繍製の帳、病室のカーテンと見ている(注6)。テムジクニ(天寿国)なる国は、在所から遠いところである。そこを守る警備員は、守部と考えられたに違いない。守部は据えられるべき存在である。長期にわたることもあり、座って居ることがヤマトコトバの理に適っている。銘文に、天寿国繍帳は、采女たちが作ったと記されている。ヤマトに暮らしながら空想の産物として「天寿国」は描写されている。橘大女郎という世俗の人が思い描く仏教世界とは、すなわち、天竺国(インド)のことであると認識としており、それは采女の思い描くものと似たり寄ったりであったろう。学問を積んだわけではなくて、聖徳太子の妻であったにすぎず、知識的には采女と同程度である。そんな人のために帳を作るには、仏教の教学とは程遠いものこそふさわしい。そうして結実した絵本の見開き一ページ(両サイドに掛けられたから二ページ)として、天寿国繍帳はあったと考えられる。天寿国の守部として、仁王さんのような力士が図中に据えられている。その人にわかることだけが、その人にとって真実なのだから、精神を病んでいる橘大女郎へのお見舞いには、仏教世界を教え込ませる難解な曼荼羅ではなく、大丈夫だよと安心させるつてとしてのみ機能していたに違いあるまい。繍帳の銘文に記されるように、「住生之状」を見たいと言って作られた代物である。スマヒ(住生、相撲)の様を表す力士に、座っている金剛力士を登場させたと考える。
以上、上代の人が力士に何を期待し、どのようなものと思っていたか検討した。
(注)
(注1)本稿で参照した設楽2011.は、「[塩谷説で条件としてあげている3点のうち]①の戟あるいは戈をもつ盾持人埴輪は2~3例にとどまり,②の仮面をつけたような顔の表現は仮面上に突起した例が見つかっておらず」(132頁)としながら、③の頭部のつくりの多様性に盾持人埴輪は方相氏を起源としているとする意見に賛同している。とても学問的態度とは言えない。「方相氏の画像は北魏の時代の金剛力士像とみ間違えられることもあるとされ……[上田1988.374頁],その姿態の表現は漢代にさかのぼる。力士やそれが演じる相撲も,辟邪の役割を伴って古墳時代の初期に大陸から将来されたのだろう。」(133頁)とある。チカラビトやスマヒはヤマトコトバとしてあった。訓読語とは思われない。古墳時代になってはじめて取っ組み合う競技が行われたとする考え方は、子どもが誰からも教えられなくとも自然と取っ組み合いの競技として sumo-wrestling をしていることへの洞察を欠いている。
(注2)ただし、彼の身長はとても高かったし、現在目にする肖像画は親族の顔を合成したものであるという。
(注3)周礼・夏官司馬には、「方相氏。掌蒙熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隷而時難、以索室敺疫。大喪、先匶、及墓、入壙、以戈撃四隅、歐方良。」とある。方相氏的思想が持ち込まれて古墳にいるとするなら、四つ目に作られたり、誰かを引き連れていたりしなければならない。一部四つ目ととる例も知られるが、上の二つは目ではなく、隼人=犬と考えての犬の耳の形象であろう。方相氏の図像だけ持ち込まれたとするなら、漢代以降の磚画などには見られない、盾持人埴輪のトレードマークの盾がどこから生じたのか説明されなければならない。
獣首人身怪獣(磚、中国鎮江市畜牧場出土、東晋隆安二年(398年)、網干善教「キトラ古墳壁画十二支像の持物について」『関西大学博物館紀要』第11号、2005年3月、関西大学学術リポジトリhttp://hdl.handle.net/10112/3322(11/16))
(注4)狛犬像では、獬豸のように頭に角をつけたものもよく見られる。盾持人埴輪に歯を植えつけている点は、犬以外に何を表したいのか、芸術家のご意見を拝聴したい。上田、前掲書に、藤ノ木古墳出土の鞍金具後輪の海部に、方相氏が文様として描かれているとする。あるいは鬼神像かもしれないが、他に象や鳳凰、小さな鬼面も彫りだされていて、パルメット文も鮮やかである。その彫金が何を表しているかについては措くとして、いずれ鞍の後輪のデザインである。それに対して、盾持人埴輪は、埴輪のデザインであるが、埴輪をデザインしたものではなく、何かを埴輪でデザインしたものである。後輪にデザインしたものとの違いを無視して、図像の近親性を見出して両者を同等に扱うことはできない。一昔前の著作を繙くと、水野1971.に、「楯を持つ武人の一群─門部」(260頁)とある。武人とは言えないが、門部なる概念で捉えている点は十分に評価されて然るべきである。
(注5)藤ノ木古墳出土の鞍金具後輪海部の、あるいは方相氏とされる彫金は、それが何であるかを理解されないまま文様として描いているものではないか。方相氏は、本邦で、追儺の儀式に鬼役で追われる存在に回る。パズズで見た流れとは逆に、邪なるもの(穢れたもの)として辟される存在へと転じている。このことは、周礼にある方相氏の概念が、定着していなかったことを予感させる。「方相氏」を訓読みした例は上代文献に知られない。鬼の名前でそう呼ばれていただけで、そのオニという語も、「隠」に読み癖のついたものと考えられている。無文字の古墳時代に人々に了解されるためには、ヤマトコトバに言葉としてなければ、概念として抱くことは不可能であると考える。
(注6)拙稿「天寿国繍帳銘を銘文の内部から読む」参照。
(引用・参考文献)
上田1988. 上田早苗「方相氏の諸相」『橿原考古学研究所論考 第十集』吉川弘文館、昭和63年。
行田市郷土博物館2015. 行田市郷土博物館編『相撲─いにしえの力士の姿─』同発行、平成27年。
塩谷2014. 塩谷修『前方後円墳の築造と儀礼』同成社、2014年。
設楽2011. 設楽博己「盾持人埴輪の遡源」川西宏幸編『東国の地域考古学』六一書房、2011年。
高瀬2003. 高瀬多聞「天寿国繡帳小考」林雅彦編『生と死の図像学─アジアにおける生と死のコスモロジー─』至文堂、平成15年。
水野1971. 水野正好「埴輪芸能論」『古代の日本2 風土と生活』角川書店、昭和46年。
八木2004. 八木春生『中国仏教美術と漢民族化─北魏時代後期を中心として─』法蔵館、2004年。
※本稿は、2017年9月稿を2020年11月に整理し、2024年9月に加筆しつつルビ形式にしたものである。
左:力士埴輪(埼玉県行田市酒巻14号墳出土、古墳時代、行田市郷土博物館蔵、行田市教育委員会https://www.city.gyoda.lg.jp/41/03/10/bunkazai_itiran/sakamaki14goufunsyutudohaniwa.html)、右:金剛力士(銅板法華説相図、奈良県長谷寺蔵、飛鳥時代、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/長谷寺銅板法華説相図(部分))
行田市郷土博物館2015.に、力士埴輪について一般的な見解が述べられている。そのなかで、着衣の上から褌をつけた特異な力士像である酒巻14号墳出土の力士埴輪について、高句麗の古墳壁画に見られる力士像との関係を指摘している。装飾品や衣服、履などに、ルーツが感じられるという。さらに、髪型にも共通性が見て取れるのではないかとする。高句麗の通溝(洞溝)四神塚の羨道東壁の力士像の頭部は、髷を結っており、その髻を結紐で結んで後方へリボンのようにたなびかせている。酒巻14号墳の力士埴輪や、和名埴輪窯跡出土の力士埴輪頭部には、笄帽の表現や上げみずらとともに側頭部に剥落痕があって、リボンが付いていたのではないかと推測されている。結果、「「何かをしている」表現ではなく、「その場にある」ことに意味があると考えられ、「相撲」ではなく「力士」として僻邪を担っていたのだと考えられるだろう。」(43頁、この項、浅見貴子)という。
力士像(通溝四神塚羨道東壁、中国輯安、6世紀、http://blog.daum.net/ppbird/15553539)
相撲ではなく力士、何かをしているのではなくその場にいることに重きを置いたとしても、いつでも格闘としての相撲を取れることが力士の条件である。日頃から稽古に精進していなければならない。それは当たり前のことだから、「相撲」と「力士」とを事立てて区別することに積極的な意味はない。日々の稽古の積み重ねが本場所にあらわれる。
視野を広げて考えてみる。力士形態の文化的伝播、享受の過程においては、仏教の金剛力士が中国の北魏時代に異民族的な形相で出現している。中国に古くからある邪悪なものを避ける思想と融合する形で、仏教の執金剛神が門番として二神に分かれ、金剛力士として造形化されるに至ったとされる。八木2004.は、金剛力士像の異形的な顔つきの発生について、「直接的な祖形を西方に求めることはできない。……これらの像形式は、中国における独自の展開(漢民族化)により生まれたと考えられる。」(9頁)とする。「漢民族化」によって、漢民族とは異なる顔つきを指向されたのが、門神としての金剛力士像であった。一般の人々にとって、異形の様相は恐れを惹起させる。恐いから近寄らないようにする。それは、守ってもらう館内の人にとっても当初は同じであったが、そんな恐ろしい存在を味方につければ、とても力強いこととなる。悪霊を味方につければ、他の悪霊の攻撃から守られることになると考えたのである。
金剛力士像(龍門石窟賓陽中洞左壁、中国、北魏時代、「aquacompass 7」https://aquacompass7.wordpress.com/2014/01/23/go-around-the-world-of-buddha-statues-9-the-statues-of-korea-and-japan/5龍門石窟金剛力士/)
龍門石窟の金剛力士像に見るとおり、その顔つきは異形の面持ちである。高句麗の古墳壁画に見られる角抵図などにも、一方は高句麗人、他方は鼻の高い西域の人を表すとする見解も見られるが、北魏に勃興した金剛力士像の、顔全体に広がる異人的ないかつさは見られない。さらに世界に目を広げれば、メソポタミアにいかつい顔をした像が見られる。パズズ像である。
パズズ像(アッシリア、前1000年紀、ルーブル美術館蔵、ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/パズズ)
古代メソポタミアの代表的な悪霊で、目を見開き、獣のように口を開けた恐ろしい顔つきをしている。逆にパズズを所有すれば、その他の悪霊の災いから身を守れると信じられていたとされている。パズズと仁王とは時代的にかけ離れており、文化的な伝播と捉えることには無理があるが、同じく辟邪の考え方に当たる。強面のいかつい顔立ちにすることは、人類に共通する観念ではないかと考えられる。構造主義的に考えれば、自然とそうなるということである。
このように比較図像学を繰り広げれば、通溝四神塚の力士像は、相撲取としての力士像というよりも、金剛力士に近い造形のように感じられる。むろん、仏教絵画そのものとしてあるのではない。一人単独で走っている。それでも、右手に槍か鉾のものを持ち、左手には鉄槌形の武器か博山炉か舎利容器のようなものを握っている。相撲を取ることよりも警備員としての役目を担っているものではないかと推測される。
酒巻14号墳出土の褌に鈴をつけた着衣の力士像も、いまこれから相撲を取るというために控えている力士ではなく、力の強い悪者がいつ現れても対抗できるように、24時間体制で警備している守衛ではないかと思われる。取っ組み合えば必ず鈴が鳴り、周囲に危険を知らせることができる。畑の獣除けや、建物の機械警備、あるいはJアラートのように働く装置として機能している。突起の付いた履は、踏まれたとしても相手の足の裏に刺さり、ダメージを与えて先へ進めなくする。完全武装した兵士との違いは、敵に対して囮となるところである。下手に武器を持っていれば、隙をつかれて奪われた場合、かえって攻撃されることになる。そんな役割を門番として担っていたのは、古代に隼人たちである。
是を以て、火酢芹命の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮墻の傍を離れずして、代に吠ゆる狗して奉事る者なり。(神代紀第十段一書第二)
大泊瀬天皇を丹比高鷲原陵に葬りまつる。時に、隼人、昼夜、陵の側に哀号ぶ。食を与へども喫はず。七日にして死む。有司、墓を陵の北に造りて、礼を以て葬す。(清寧紀元年十月)
三輪君逆、隼人をして殯の庭に相距かしむ。(敏達紀十四年八月)
是の日に、大隅の隼人と阿多の隼人と、朝廷に相撲る。大隅の隼人勝ちぬ。(天武紀十一年七月)
群官初めて入るとき、隼人声を発し、立ち定まらば乃ち止めよ。楯の前に進みて、手を拍ち歌儛せよ。(延喜式・践祚大嘗祭式)
神代紀の記述に、イヌ(狗)と形容されている。軍隊でなく警察としての機能とは、警備してイヌのように吠えて威嚇しつづければ、何だ何だと野次馬が集まってきて、闖入者は身柄を拘束されることとなる。警報装置が作動することこそ、警備の一番の決め手である。すると、警備員として雇うべき人材は、力持ちの相撲取であることもさることながら、別に凶暴なドーベルマンでなくてもかまわず、よく吠えて異常を知らせる役割を持っていればいいとわかる。隼人の人たちは、ヤマトの人よりも小柄であったことが知られている。そんな隼人に相撲を取らせるのは、子供相撲、ないしは相撲節に際しての前相撲のようなものではないかと感じられる。本来的に、異常を知らせるセンサーとしてイヌを飼っている。ペットの犬に服を着せていることも最近では目にするようになっている。そのようなことに思いを巡らせれば、酒巻14号墳の力士埴輪に、着衣の上に褌を着て鈴をつけた像が作られていることへの違和感は薄らぐ。
現今の日本の警備員が、体格的にさほど優れない点や、わずか数名でワゴン車の現金輸送を行っていることに、外国人から疑問視されることがある。本邦の治安がいいから可能なのであるが、隼人による警備の歴史的伝統を引き継いでいるのかもしれない。力士埴輪は、古墳時代、実際に豪族の居館を守ったものを造形化したのではなく、古墳というお墓を守る形にしたものにすぎない。とはいえ、日本書紀の記事に記されているとおり、犬のように吠えることで守護、守衛の役割を十分に担っていた形跡も見られる。広く認められた意見ではないが、盾持人埴輪とは、隼人が盾をもって守る姿が写し取られて造形されているのではないか。中世の十字軍の騎士と違い、左手に盾、右手に剣ではなく、盾で防御するばかりである。デモ隊と対峙する前線の機動隊員のように、専守防衛である。盾と完全に一体化した人物像が盾持人埴輪である。文字通り、人間の楯と言って間違いでない。笑っているような顔に見えるものもあるが、入って来ないで下さいよと笑ってごまかしているところなのかもしれず、横広がりの口はイヌのようでもある。盾を持たされているだけで、あとは声をあげて助けを呼ぶしかない。盾は基本的に防御具であり、攻撃具ではない。
左:盾持人埴輪(埼玉県本庄市前の山古墳出土、古墳時代、6世紀、本庄市ホームページhttp://www.city.honjo.lg.jp/kanko_bunkazai/bunkazai/1405402694640.html)、中:盾持人埴輪(茅原大墓古墳出土、古墳時代中期初頭頃(4世紀末頃)、桜井市埋蔵文化財センター展示品)、右:埴輪 犬(群馬県伊勢崎市境上武士出土、古墳時代、6世紀、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0010502をトリミング)
隼人がどれほどヤマトの人に異形の顔つきと思われたか、記録されていない。南九州の交通の便の悪いところへ行くと、縄文顔と呼ばれる濃い顔の人たちが多い。西郷隆盛の顔を代表と考えればいい(注2)。その異形の顔つきをさらに目立たせるために、隼人は顔に入れ墨したり色を塗ったりしていたようである。歌舞伎の隈取の元祖と言っても間違いではないであろう。金剛力士の見得を切った姿と源が同じである。
番犬として隼人が飼われていたのである。護衛として働いている。それが在所から遠く離れたところの場合、ヤマトコトバで「守部」として記される。守部は、山や野、田畑、陵墓などを守る人のことである。山守、津守、防人など、特定の名称を持つこともある。居宅を守る人の意には使われない。
大君の 境ひたまふと 山守居ゑ 守るといふ山に 入らずは止まじ(万950)
住吉の 津守網引の 浮子の緒の 浮かれか去なむ 恋ひつつあらずは(万2646)
防人に 立ちし朝明の 金戸出に 手放れ惜しみ 泣きし子らばも(万3569)
…… あしひきの 彼面此面に 鳥網張り 守部をすゑて ……(万4011)
泉守道者(神代紀第五段一書第十)
盾持人埴輪は、人物埴輪のなかでももっとも早く現れたとされている。盾持人埴輪の特徴としては、大型であること、耳が横に張り出すなど強調されていること、顔に入れ墨を示す線刻や赤く彩色されていること、容貌が怪異であること、頭部の表現が個性的であること、石を植えつけて歯を表現していることなどがあり、その置かれたところも前方後円墳の前方部前面に単独で配置されることがあった。墓の守部として据えられている。顔については仮面を装着しているとの見解もある。塩谷2014.は、「中国の葬送儀礼や神仙界に登場する辟邪の方相氏を原型としている……。その後展開する人物および形象埴輪群は、おのずと他界の情景を演出したものと考えられ、被葬者への奉仕の具象化を中心に古墳における神仙界の拡充・整備を図ったものと推測される。」(184頁)とする。辟邪の発想は等しくとも、本邦で方相氏ばかり先行して取り入れたとする見解は当たらないであろう。なぜなら、ヤマトの人にとって、何だかわからないからである。中国の方相氏の古い図像に、盾が前面に押し出されているものはない(注3)。盾持人埴輪の顔に入れ墨や彩色が見えるのは、人の最大の注目点、顔について、顔を有することを否定しているという一点につきる。盾持人は人としての人格を認められておらず、船や馬、水鳥を象った埴輪と同時期に出現している。意味もなく笑わされるのが、あるいは引きつった笑い顔をするのが、自由意思を持たない守部の隼人、番犬のさまなのである(注4)。
狛犬(鎌倉市鶴岡八幡宮)
ここまで、本邦における埴輪以降の力士的造形の本質は、彫像の金剛力士にまで下って再現すると想定してきた。ただし、その間に一つだけ特異な力士像が見られる(注5)。天寿国繍帳のなかに、金剛力士ではないかと思われる像が刺繍されている。一般には「鬼形」と称されるものである。綾地に刺繍されていて退色の進んだ部分のため、鎌倉時代に復元、新調された部分とされている。眉は盛り上がり、頬骨は出っ張り、顎は張っている。髪は引き詰めて髷に結っている。裸の上半身は筋骨隆々である。右手は鉾状のものを持ち、左手は指を広げて張っている。腰蓑のようなミニスカートを着けていて、胡座をかくように座っている。天衣のようなものが背後になびいている。
天寿国繍帳の鬼形(中宮寺ホームページhttp://www.chuguji.jp/oldest-embroidery/からトリミングと塗りつぶし)
胡座をかいて座っている金剛力士像は、他に管見に入らない。だからといって、これが金剛力士を意識したものでないかといえば、かなりの確度で意識していると考える。高瀬2003.に、頭頂から一条に伸びる部分を見て、牢度跋提と呼ばれるものかとする説がある。天寿国繍帳全体を、観弥勒菩薩上生兜率天経の示す世界を示したものとする考えへと敷衍する。けれども、異人的な顔つきを強調する図像は、金剛力士として伝わるものが一般的である。
仁王に表される力士が天寿国を守っているとすると、それは、「据ゑ」ているものと思われたと筆者は考える。「据う」とは、物や人、生き物をふさわしい場所に安定的に配置させることをいう。根を下ろさせるようにしっかりとそこへ植え付けるように置くこと、場所を決めてとどまらせて居させること、ある位置や役職につかせて安定させることをいい、人や生き物については、姿勢的には座らせることに当たる。すなわち、金剛力士が守部として据えられているとするなら、ヤマトコトバの語義説明として、立った姿勢で見得を切るようには造形せず、座らせて守らせたかったからではないかと感じられるのである。随身像の多くが座っているようにである。
筆者は、上代の人々が、無文字文化の下での言霊信仰に浸ったヤマトコトバ第一主義者であり、原理主義的ヤマトコトバ信奉者であったと考えている。筆者は、天寿国とは、太子と母王とがテムジクニ(天竺に)生まれ変わることと思って止まない橘大女郎の錯乱妄想であり、それを慰撫するために作られた刺繍製の帳、病室のカーテンと見ている(注6)。テムジクニ(天寿国)なる国は、在所から遠いところである。そこを守る警備員は、守部と考えられたに違いない。守部は据えられるべき存在である。長期にわたることもあり、座って居ることがヤマトコトバの理に適っている。銘文に、天寿国繍帳は、采女たちが作ったと記されている。ヤマトに暮らしながら空想の産物として「天寿国」は描写されている。橘大女郎という世俗の人が思い描く仏教世界とは、すなわち、天竺国(インド)のことであると認識としており、それは采女の思い描くものと似たり寄ったりであったろう。学問を積んだわけではなくて、聖徳太子の妻であったにすぎず、知識的には采女と同程度である。そんな人のために帳を作るには、仏教の教学とは程遠いものこそふさわしい。そうして結実した絵本の見開き一ページ(両サイドに掛けられたから二ページ)として、天寿国繍帳はあったと考えられる。天寿国の守部として、仁王さんのような力士が図中に据えられている。その人にわかることだけが、その人にとって真実なのだから、精神を病んでいる橘大女郎へのお見舞いには、仏教世界を教え込ませる難解な曼荼羅ではなく、大丈夫だよと安心させるつてとしてのみ機能していたに違いあるまい。繍帳の銘文に記されるように、「住生之状」を見たいと言って作られた代物である。スマヒ(住生、相撲)の様を表す力士に、座っている金剛力士を登場させたと考える。
以上、上代の人が力士に何を期待し、どのようなものと思っていたか検討した。
(注)
(注1)本稿で参照した設楽2011.は、「[塩谷説で条件としてあげている3点のうち]①の戟あるいは戈をもつ盾持人埴輪は2~3例にとどまり,②の仮面をつけたような顔の表現は仮面上に突起した例が見つかっておらず」(132頁)としながら、③の頭部のつくりの多様性に盾持人埴輪は方相氏を起源としているとする意見に賛同している。とても学問的態度とは言えない。「方相氏の画像は北魏の時代の金剛力士像とみ間違えられることもあるとされ……[上田1988.374頁],その姿態の表現は漢代にさかのぼる。力士やそれが演じる相撲も,辟邪の役割を伴って古墳時代の初期に大陸から将来されたのだろう。」(133頁)とある。チカラビトやスマヒはヤマトコトバとしてあった。訓読語とは思われない。古墳時代になってはじめて取っ組み合う競技が行われたとする考え方は、子どもが誰からも教えられなくとも自然と取っ組み合いの競技として sumo-wrestling をしていることへの洞察を欠いている。
(注2)ただし、彼の身長はとても高かったし、現在目にする肖像画は親族の顔を合成したものであるという。
(注3)周礼・夏官司馬には、「方相氏。掌蒙熊皮、黄金四目、玄衣朱裳、執戈揚盾、帥百隷而時難、以索室敺疫。大喪、先匶、及墓、入壙、以戈撃四隅、歐方良。」とある。方相氏的思想が持ち込まれて古墳にいるとするなら、四つ目に作られたり、誰かを引き連れていたりしなければならない。一部四つ目ととる例も知られるが、上の二つは目ではなく、隼人=犬と考えての犬の耳の形象であろう。方相氏の図像だけ持ち込まれたとするなら、漢代以降の磚画などには見られない、盾持人埴輪のトレードマークの盾がどこから生じたのか説明されなければならない。
獣首人身怪獣(磚、中国鎮江市畜牧場出土、東晋隆安二年(398年)、網干善教「キトラ古墳壁画十二支像の持物について」『関西大学博物館紀要』第11号、2005年3月、関西大学学術リポジトリhttp://hdl.handle.net/10112/3322(11/16))
(注4)狛犬像では、獬豸のように頭に角をつけたものもよく見られる。盾持人埴輪に歯を植えつけている点は、犬以外に何を表したいのか、芸術家のご意見を拝聴したい。上田、前掲書に、藤ノ木古墳出土の鞍金具後輪の海部に、方相氏が文様として描かれているとする。あるいは鬼神像かもしれないが、他に象や鳳凰、小さな鬼面も彫りだされていて、パルメット文も鮮やかである。その彫金が何を表しているかについては措くとして、いずれ鞍の後輪のデザインである。それに対して、盾持人埴輪は、埴輪のデザインであるが、埴輪をデザインしたものではなく、何かを埴輪でデザインしたものである。後輪にデザインしたものとの違いを無視して、図像の近親性を見出して両者を同等に扱うことはできない。一昔前の著作を繙くと、水野1971.に、「楯を持つ武人の一群─門部」(260頁)とある。武人とは言えないが、門部なる概念で捉えている点は十分に評価されて然るべきである。
(注5)藤ノ木古墳出土の鞍金具後輪海部の、あるいは方相氏とされる彫金は、それが何であるかを理解されないまま文様として描いているものではないか。方相氏は、本邦で、追儺の儀式に鬼役で追われる存在に回る。パズズで見た流れとは逆に、邪なるもの(穢れたもの)として辟される存在へと転じている。このことは、周礼にある方相氏の概念が、定着していなかったことを予感させる。「方相氏」を訓読みした例は上代文献に知られない。鬼の名前でそう呼ばれていただけで、そのオニという語も、「隠」に読み癖のついたものと考えられている。無文字の古墳時代に人々に了解されるためには、ヤマトコトバに言葉としてなければ、概念として抱くことは不可能であると考える。
(注6)拙稿「天寿国繍帳銘を銘文の内部から読む」参照。
(引用・参考文献)
上田1988. 上田早苗「方相氏の諸相」『橿原考古学研究所論考 第十集』吉川弘文館、昭和63年。
行田市郷土博物館2015. 行田市郷土博物館編『相撲─いにしえの力士の姿─』同発行、平成27年。
塩谷2014. 塩谷修『前方後円墳の築造と儀礼』同成社、2014年。
設楽2011. 設楽博己「盾持人埴輪の遡源」川西宏幸編『東国の地域考古学』六一書房、2011年。
高瀬2003. 高瀬多聞「天寿国繡帳小考」林雅彦編『生と死の図像学─アジアにおける生と死のコスモロジー─』至文堂、平成15年。
水野1971. 水野正好「埴輪芸能論」『古代の日本2 風土と生活』角川書店、昭和46年。
八木2004. 八木春生『中国仏教美術と漢民族化─北魏時代後期を中心として─』法蔵館、2004年。
※本稿は、2017年9月稿を2020年11月に整理し、2024年9月に加筆しつつルビ形式にしたものである。