(承前)
(注6)宮本・薗部1992.参照。
(注7)列島の人々は、容器の歴史が瓢箪を始源としない特異な文化にあるといわれている。土器がきわめて盛んに利用されていた。それがベースにあって、そのうえで須恵器について語られなければならない。
佐々木1984.、和田1995.によれば、三輪山から出土した須恵器74点の大半は陶邑に由来しており、陶邑で焼成された須恵器を用いての三輪山祭祀は、5世紀後半から始まり、6世紀前半、6世紀後半がピークで、7世紀には急速に衰退したようである。この考古学的事実と、古事記に残る三輪山伝承とを勘案して、“歴史”的経緯を見出そうとするのは有りがちな議論である。佐々木先生ご自身、「伝承と史実とが混乱してくる」(27頁)ことを恐れられている。三輪山神婚譚は、「神と巫女との関係を神話的に表現したもの」として処理されている。話(咄・噺・譚)なのだという融通が利かなくなっている。筆者は、歴史学的なものの考え方をする立場にない。記紀万葉をありのままに読むことを念頭に読解を行っている。近代の歴史学や神話学というフィルターがいったんかかったら、もはや上代の人の心に触れることはできないと考える。
和田1995.のあげる疑問点を記しておく。「[①]三輪山山麓集団の実態は何か、[②]須恵器が堅牢で祭器として優れていても、そのことが何故陶邑と三輪の集団を結び付ける機縁となりえたのか、[③]渡来系氏族を母体とする三輪君がどうして「君」姓のカバネをもつのか、[④]六世紀以降、三輪山祭祀が国家的祭祀として行なわれたものとすれば、どうして三輪の神が国つ神として位置付けられねばならなかったのか、等の疑問が残る。」(45頁)とある。いま、筆者にすぐ用意できる回答としては、①については関知しない。②はスヱとミワという言葉が縁語だからである。③は「猿女「君」」と同等の事柄として研究すべき課題であろう。④は本稿の中心テーマである。ミワとは、半月(はにわり)、黄門、paṇḍakaと深い結びつきがある言葉で、交わることが禁忌とされてしかるべき祓えの対象、国つ罪であり、国つ罪に対するのは国つ神なのである。異種交配のタブーがついて回る場所がミワという地だから、誰が祭祀しようが、国つ罪であることに変わりはない。罪の種類によって神の種類が変わってくるということであろう。
(注8)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注9)田中1984.に、「絵巻物のなかに描かれている牛車の輻は、刻明に1本ずつ描かれているものもあるが、他の物のかげになったり、疾走中の様をあらわすため輻が流してあったりして、その本数を数えられないものもある。ここでは数えることのできた8絵巻、28台についての調査結果を述べる。……輻数はすべて3の倍数になっている。……牛車の輪の構造から……部材の1片から3本の輻が出るので、輻数=3×(部材……の片数)が忠実に描かれているのではないかと考えられる。」(30頁)とあり、実際に絵巻物の絵のなかの車輻の数を調査されている。それによると、
伴大納言絵詞21本1台
吉備大臣入唐絵詞24本1台
年中行事絵巻(住吉本)21本7台、24本1台
北野天神縁起(承久本)24本1台、33本2台
西行物語絵巻21本1台
駒競行幸絵巻24本1台
平治物語絵巻18本1台、21本5台、24本5台
小野雪見御幸絵巻24本1台(別場面で23本に誤る)
となっているという(31頁)。3の倍数である点は、作り方を知っていればそう描くであろう。そして、いちばん外側の輞の部品、大羽に3本ずつ、輻が対応するように装着させるパターンから、やはり輻を伴う車輪が「三輪」なのだと納得がいく。
鶏鉾車輪(組立)(京町家再生研究会・京町家net様「京町家はいま」http://www.kyomachiya.net/saisei/ima/49.html)
しかし、周礼・考工記に忠実な、ちょうど30本の例が見られないのは不思議である。(注10)に示すとおり、90は卆で縁起が悪いと言い伝えられて避けられているのであろうか。他の絵巻にも牛車は描かれているから、調査する価値はありそうである。なお、井上2004.は数え方が違うようである。
(注10)「卒」のシュツ(シュチ)の音は、ヲハル、ツキル、シヌの意である。爾雅に、「卒 尽也、已也、終也、死也、既也」とある。万葉集では、題詞に、「石田王卒之時丹生作歌一首」(万420)、「同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首」(万423)とある。「卒(みまか)りし時に」と訓むのが通例である。ほかに、「坂本財臣卒りぬ」(天武紀元年五月)、「凡そ百官身(み)亡(まう)しなば、親王及び三位以上は薨(こう)と称せよ。五位以上及び皇親は卒(そち)と称せよ。六位以下、庶民に達るまでは死と称せよ」(喪葬令)とある。
扶桑略記第廿九、康平三年(1065)条に、大僧正明尊の九十の賀の記録がある。「十一月廿六日、関白従一位〔経通〕於二白河別業一被レ賀二大僧正明尊九十之筭一。図二-絵釈迦如来像一鋪一。書二-写妙法蓮華経九十部一。其詞曰。伏惟大僧正法印大和尚位。戒定瑩レ器。忍辱裁レ衣。一乗圓融之嶺、開顕之花春鮮。五部惣持之園、智慧之菓秋盛。旁究二学海之波浪一、早為二佛家之棟梁一。弟子従二弱冠之始一、迄二携杖之今一、依二其護持之力一、全二此愚昧之身一。方今和尚春秋之筭。九旬全盈、可レ喜可レ懼、正是其時也。仍掃二白河之勝形一、敬致二丹地之懇念一。彼姫公旦之在二洛邑一也。未レ開二花文於禅林之月一。智法師之老二蘇州一也。誰賀二松年於巨川之波一。今日之事少超二古人一。又源亜相〔師房〕述二和歌序一、其詞云、三冬之仲、子月下旬。関白尊閤忽排二白河之花亭一。設二緇素之宴席一。盖賀二大僧正法印和尚九十筭一也。和尚戒定内明。智行外朗。早為二一宗之棟梁一。久経二数代之朝廷一。過二八十八廻一、如来猶以不レ尓、超二九々九歲一、筭師所レ難レ量也。是以因二无漏无為之功徳一。證二不老不死之妙文一者歟。遂感二希代之鶴齢一、命二佳会之鸚盞一。〈已上〉左大臣〔教通〕以下皆参。
如来がそうではなく、筭師も計算できない年齢まで生きることは、人の齢の概念を打破する。今までの考え方をヲハリ(卆)にしなければならないということか。霊異記・上・第五話に、「[大部屋栖野古(おほとものやすのこ)]春秋九十余にして卒(みまか)りき」とある。「よみがえりの連(むらじ)の公」のお話である。
(注11)拙稿「餓鬼について」参照。
(注12)木下2010.に、「おそらく、古代から室町時代までは、シログワイとクログワイの両方を、クワイと総称していたと思われる。中華料理の食材にある黒慈姑は、……シロクワイの改良品である……。……『本草和名』、『和名抄』にクワイという名がありながら、万葉集ではなぜヱグと称したのだろうか。一つの考えとして、クワイは本草家の命名による烏芋という漢名に対してつけられた名であり、古くからある土名がヱグであったと思われる。ヱグイモすなわち「ゑぐい芋」の短縮形と考えられ、食べられるといってもかなりゑぐ味があり、かろうじて食べられるという程度のものであるから、正鵠を射た名といえるだろう。冬は食料の乏しい時期であり、米や雑穀の在庫が少なくなった場合、古代ではこんな芋でもご馳走であったにちがいない。」(626頁)とある。筆者は、クワイがまずいかどうかについて、コメントを差し控えたい。命名については、クワヰという何とも元来のヤマトコトバ調でない点に、いわゆる和訓の臭いを感じている。
また、図説江戸時代食生活事典に、「クワイは地下の塊茎を食用とするが、昔から正月のお節料理や三月の節供料理には欠かせなかった。香気が高く風味も高尚で、今では高級料理に用いられている。また、クワイは性欲を抑制する効があると信じられて、ことに僧徒に食され、さらにこの俗説にちなんだ艶笑小話もいくつか作られている。」(117頁、この項、植木敏弌)とある。本稿の主張する三輪山伝説半月説に関わりがあるように思われてならない。
また、ヱグシイモ、クワヰのヱグ味については、灰汁(あく)の味も思い浮かべられる。
饕餮文甗(青銅製、中国、西周時代、前11~10世紀、坂本キク氏寄贈、東博展示品)
甗(ゲン)は釜と甑が一体のものである。一説に、異民族を狩ってその頭部を蒸したともいわれる。「饅頭」にある「頭」字の由来なのだそうである。ところが、蒸すのに重要な蓋の仕方がよくわからない。蓋の素材が何か、また、把手を避けて蓋をするにはそれなりの仕方でなければならない。筆者の推測では、蓋は青銅ではなく木製で、落し蓋に見えるような入り方ながらご飯を炊く時に用いるようなある程度厚い蓋ではなかったかと思う。この、沸いている湯へ血が滴り落ちていたことをヤマトの人が伝え聞いて、とても野蛮な行為、“ひとでなし”であると感じていたとすると、(注28)に示した3つの波紋円の重なり合いによるクワヰの葉の形の出来上がりについて、甗の下部の鼎のような三脚のつくりからして、甗のなかを見るような思いがしたということになる。血の湯のアクの残り方が、蒸発により湯量が減るにつけてそのようになる。アクに関する語に次の例を見る。第一例は本文と重出である。
醅〈釃字附〉 説文に云はく、醅〈音は典、盃に同じ、漢語抄に加須古女(かすこめ)と云ひ、俗に糟米と云ふ〉は醇(かたさけ)の未だ釃(した)まざる也といふ。唐韻に云はく、釃〈所宜反、又上声、釃酒は佐介之多无(さけしたむ)、俗に阿久(あく)と云ふ〉は下酒也といふ。(和名抄)
灰汁 弁色立成に云はく、灰汁〈阿久(あく)〉は淋灰〈阿久太流(あくだる)、上の音は林〉といふ。(和名抄)
鐖 アグ(釣針の返し)
悪 アク(三宝絵上(984年訓))
酒をシタムと、漉す器の箄(したみ)のいちばん上に輪状に白くアクが残る。灰汁は、上澄みの水を媒染剤などに用いる。植物のなかに含まれるえぐみや、肉を煮た時の肉汁の表面に浮かぶ茶白い泡もアクという。冷しゃぶを作った後、鍋の水面すれすれに汚れの輪がついている。同じことが甗の鬲(レキ)の部分でも起こって、人でなしとは「三輪」なのだということである。釣針の返しの民俗用語にアグというのは、腸抉の矢の返しと同じ効果がある。魚は一度飲みこむと、吐き出そうとすればするほど引っ掛かって取れにくく刺さっていく。道徳的に悖ることが漢語の「悪(アク)」である。本稿で述べた事柄と合致する意味ばかり登場している。
(注13)釈日本紀・巻第七・述義三に、備後風土記逸文を所引する。
素戔嗚ノ尊、乞二宿をヲ於衆神一。
備後国風土記曰。疫隅国社。昔北海坐志武塔神。南海神之女子乎与波比爾坐爾。日暮。彼所蘇民将来二人在伎。兄蘇民将来甚貧窮。弟将来富饒。屋倉一百在伎。爰塔神借二宿処一。惜而不レ借。兄蘇民将来借奉。即以二粟柄(カラ)一為レ座。以二粟飯等一饗奉。々々既畢出坐。後爾経レ年率二八柱子一還来天詔久。我将奉レ之為報答。曰。汝子孫其家爾在哉止問給。蘇民将来答申久。已女子与二斯婦一侍止申。即詔久。以二茅輪一令レ着二於腰上一。随二詔令一着。即夜(ソノヨ)爾蘇民与女子二人乎置天。皆悉許呂志保呂保志(コロシホロホシ)天伎。即詔久。吾者速須佐雄能(ハヤスサノヲノ)神也。後世仁疫気在者。汝蘇民将来之子孫止云天(トイヒテ)、以>二茅輪一着二腰上一詔(ノタマフ)。随二詔令一着。即家在人者将免止詔伎。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/319)
(注14)大森1958.には、次のようにもある。
大神神社で、茅の輪の行事を、本社の祭としないで、その境内にある綱越神社の祭と認めてゐるのは、なぜであろうか。綱越神社は茅の輪行事を司る社である。このやうに茅の輪行事の司会の神を祀った例が他にもあるかどうかは知らないが、少くとも大神神社においては、茅の輪行事が極めて重要な行事であったために、その行事を職掌とする神が祀られることになったものと思はれる。境内の小社の小さな祀であるのではなく、特に司会する神の社がたてられるほど、重大な行事であったと見るのである。その社が一の鳥居の外にあるのは、そこが茅の輪行事が行はれて来た位置であることを示してゐる。茅の輪くぐりが祓であるかぎり、祓は本殿からなるべく遠いところで行はれるべきで、鳥居の外がその場所に選ばれるのは、順当である。……
ナゴシは夏越とも記され、語源もその文字に即してゐるやうに思はれがちであるが、〈夏を越す〉とはどういふことか明らかではない。これは夏の行事であるために音の類似から夏の字があてられたまでであって、ナツコシがナゴシになるといふ音韻変化も解しがたい。名越・夏越ともに宛て字であらう。
ナゴシをナゴスといふ動詞と関係があると見て、「神を和す」意味であるといふ解釈があり、和儺といふ記載法を作り、大言海などもその説を掲げてゐるが、これも行事の実際とは合はない。和儺はシナの儺・追儺に対する造字で、茅の輪の行事は、家家で個人個人の祓除をすること節分・大晦日の追儺に類してゐるけれども、これらの行事は、狭義の〈まつり〉とは言ひがたい。……みそぎはらへは、神へ近づく過程であり、手段であって、神への奉仕そのものではない……。……三輪を除いては、茅の輪行事は、人間のためにあるもので、神神をナゴメるためにあるとは言ひがたい。拾遺集に
さばへなすあらぶる神もおしなべて今日はなごしのはらへなりけり
といふのは、語呂あはせに類する駄じゃれにすぎない。
神を和ごすといふ言葉づかひも問題かと思ふが、さうした意味をこの行事が直接に負うてゐることはないのである。この解釈も言葉が先にあって、それに類似した言葉をおしあてた机上の解釈にすぎないと思はれる。(6~8頁)
後半部において、ナゴシの祓の語源について論究がある。およそ語源は確証が得られるものではない。上に批判されているナゴスという動詞との関係は、あながち間違いともいえないように思われる。八雲御抄に、「邪神をはらひなごむ祓ゆゑになごしと云也」、書言字考節用集に、「名越祓(ナゴシノハラヒ) 和儺(ナゴシ) 荒和(同)〈或いは夏越に作る〉」などとある。暴れる鬼のような存在を和ませることが、祓の本質に近いかもしれない。ケガレ(穢)という語が、ケ(褻)+カレ(涸・枯)の意ではないかとする説が有力な説としてあり、ハレ→ケ→ケガレを時間軸に据えて循環過程として論じられることがある。褻が涸れて来たら、祓をして元気を更新しようというのである。どうして元気がなくなるかは、日常生活がルーチンワークで、マンネリ化してつまらないからであろう。特に梅雨時の田んぼの草取りなど、嫌になって逃げ出したくなる。それは、心のなかの鬼がつまらない考えを起こしているともいえる。鬼というものを実体としてどう考えるかは難しいが、自分の中に在るのは、自分がどこから来たかにかかっているはずである。形而上学的な宗教でいかに考えるかはさておき、動物として生れて来たからには、当の本人はその親から生れてきている。親が亡くなってご先祖様になると、そんなつまらない考えを起こした原因も、ご先祖様が引き起こしたとして納得がいく。それを鬼と呼び、人神と言っている。今日と大きな違いは、前近代の平均寿命が40歳ほどである点である。親から“独立”して、などと悠長なことを言っている場合ではなかった。(注4)の老子・河上公注にも、「治身者、当除情去慾、使五蔵空虚、神之帰之也。」、「腹中有神、畏其形之消亡也。」などとあった。大物主神とはそんな鬼なのだから、つまらない考え方を起させる心の鬼を和ませることを、卆(90)日÷半割(はにわり=1/2)=180日でもって行うことに、計算上不自然さはない。儺という鬼やらいの字を当てて「和儺」と表記した人には、それなりの知恵があったと筆者は考えている。
田んぼの雑草のなかには、鬼のような葉をしたクワヰも生えている。クワヰは抜かずに放置することもある。えぐいながらも塊根は食べられるからである。それはまた、水田稲作農耕を始める前のご先祖さまの時代、ヱグ(クワヰ)はふつうに食べていたからでもある。雑草として扱うなど、バチが当たるというものである。祓の対象となる罪かもしれない。お節料理として永らく残ってきたのには、正月に米を隠して里芋を食べる風習の残っていた地域のあったこととの関わりから探るべき課題であろう。坪井1979.参照。
なお、時代別国語大辞典に、「わ【輪・曲・勾】」の「考」に、「なお「尾張国阿育知郡片蕝(ワ)〈和(ワ)〉里」(霊異記上三話)「愛知郡片蕝(ワ)〈和(ワ)〉里」(霊異記中二七話)のワは未詳であるが、「蕝」は子芮切または子悦切で、茅(ちがや)を束ねて立て、酒をしたたらせてこすものをいう。ワの訓は茅をたばねたもの、すなわち、茅の輪の意によるものであろうか。」(812頁)とある。茅の輪に一の茅の葉をたどっていくと、捩じれ回りながら輪に回ってもとに戻っている。ヤマトコトバにワという語意が、転回することを含意した曲郭であることから、まことにふさわしいものと考えられる。どこかへ行くかと思えば戻っていていらいらするもの、道徳的に悖るものであるかに思われながら、老子のいう無用の用を果たすのが、ワということに当たる。蘇民将来の話は、情けは人の為ならずの考えに通じるところがある。世の中は、巡り巡って戻ってくる因果応報的な循環、すなわち、ワがあると説いているのかもしれない。しかも、酒を釃(した)むことと関わるらしい。説文に、「蕝 朝会束茅表位に曰く、蕝 艸に从ひ絶声といふ。春秋国語に曰く、茅蕝表坐に致すといふ」とあるのは、円座(藁座(わらうだ))状にしたものを指すのであろうか。
(注15)一条兼良(1402~1481)・公事根源・大祓(オホバラヘ) 同日条に次のようにある。
大ばらへといふは、百官ことごとく朱雀門にあつまりて、祓をし侍るなり。六月十二月二たびあり。天武天皇の御時より始まる。解除(ゲヂヨ)は觸穢などの時もあり。神事を行ふ時は、臨時にも常にあれども、この大祓は百官一同にあつまりて、祓をするなり。またけふは家々に輪をこゆる事あり。
みな月のなごしの祓する人は、千年のいのちのぶといふなり。
此の歌をとのふるとぞ申し伝へ侍る。然るに法性寺関白ノ記には
思ふ事皆つきねとて麻の葉をきりにきりてもはらへつるかな
此の歌を詠ずべしと見えたり。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771887/25)
大麻の作法については、丸山2015.参照。
(注16)それが三輪山の禁足地などに見られる祭祀遺跡かどうかについては他に委ねたい。
(注17)櫻井1981.に、「三ツ鳥居及び瑞垣は昭和三十四年に修理され、墨書及び発見文書より明治十六年に再建されたことが判明した。なお、三ツ鳥居の石製唐居敷には、使用されていない扉軸受穴があり、修理工事報告書では類例から推して、唐居敷の使用年代は鎌倉から平安時代まで遡りうるかとしている。」(827~830頁)とある。扉軸受穴がどの位置に当たるかわからず、戸(扉)の設置位置が推定できないのが残念である。
左:三輪山(南都名所集、国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200006152/viewer/224をトリミング)、右:三ツ鳥居(三輪明神 大神神社http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/)
(注18)六月(水無月)の祓が一般化しているのは、この三輪山伝説に発端があると考えられる。三輪山は紡錘車に糸を撚りあげた形になっている。ミナツキのミナ(ミは甲類)には、同音にミナ(螺、ミは甲類)がある。今のカワニナやタニシの類である。その貝殻の形は、ぐるぐるっと巻いて積み上がるようになっている。形がよく似ていることにより、言葉と行為とを合致させるべく言霊信仰下の人々は動いた。その結果が、ミナ(螺)月はツミ(罪・紡錘車)な月だからお祓をするのがふさわしいことだと考えるように発展していったと考えられる。言うまでもないが、万葉人の語感の問題で、“語源”とは無関係である。科学的(?)な語源探究など、上代の人の解することではない。
(注19)本邦には、はいたが、宦官は存しなかったようである。三田村2012.参照。とはいえ、三宝絵詞に見られるように、そういう人があり得ることは認識されていたであろう。そして、それを“人(ひと)”と呼んでよいのかについての論理矛盾について、上代の人は面白がり、それがいわゆる三輪山伝説に通底するモチーフであると考える。“人でなし”概念が導入されたのである。
(注20)宮中で平安時代に行われた大祓の場所、「祓所(はらへど・はらへどころ)」が、朱雀門や、まれに建礼門のところであったのには、古くからの言い伝えとして黄門のことがあったからではないかと推測はされるが、実証は困難である。三宅1995.参照。また、半分に割れる門戸を、時に観音開きという。内に納められる仏像が観音像であったことに因むのであろうが、観音像の印象として両性どちらともつかない点があげられよう。半月(はにわり)の話と絡めて認識されていたのかもしれない。
(注21)中川2009.に、「古事記の文章に漢訳仏典の影響がみられることが指摘されており、……古事記編者は大智度論や経律異相などの漢訳仏典の、阿難が神通力によってカギアナを通るエピソードをヒントにして、〝神壮夫(カミヲトコ)〟―美和山の大物主大神―の霊威を示すために、三輪山神話において、カギアナをもち出したのではないだろうか。」(166~167頁)とある。中川の言う「古事記編者」とは誰のことか不明である。また、仏教という壮大な思想体系のなかの断片を切り取ってきたとして、単に「霊威」を示す表現に活用しただけで、その出来上がった話を聞くヤマトの人の側が理解できたのか不明である。仏教思想のバックボーンなしにカギアナを通ることが、すなわち、霊威あることであるとは感じられないであろう。聞く側が納得して了解しなければ、後世に伝えようとするものではない。稗田阿礼誦習とは、文字を持たないまま口づてに伝えたことを意味する。人々になるほどと思われて腑に落ちる話でなければ、話(咄・噺・譚)として伝わること、伝えることはできない。カギアナを話の焦点に持ってきていることの根幹を探る必要がある。稗田阿礼の話(咄・噺・譚)が先、太安万侶の表記は後である。
(注22)合田1998.参照。「鏁子の[助数詞の]「具」は牡・牝で一体となる錠前と鍵とが一組みになっていたであろうことが想定され、鎰(鑰)[の助数詞]に「勾」が付されていることは、その形状が鈎型に大きく折れ曲がっていることを想起させることや、「柄」の場合は鉤(クルル鉤)の木質の把手部分を指したであろうことが容易に想像される。」(108頁)とある。
(注23)なぜ杉が登場してくるのか、大神神社にしるしの杉となるのかについても、語学的には、罪のことを示す過失の「過ぎ(ギは乙類)」と「杉(すぎ、ギは乙類)」との洒落、ないしは、言霊信仰にあっては同じ言葉は同じ意味をもつに違いないとする考えに基づいているものと考えられる。万葉集ではほかに、次のような例が見られる。
三諸の 神の神杉(ギは乙類) …(訓未定)… 寝(い)ねぬ夜ぞ多き(156)
何時の間も 神さびけるか 香山(かぐやま)の 鉾椙(ほこすぎ)が本 薜(こけ)生すまでに(259)
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(422)
御幣帛(みぬさ)取り 神(みわ)の祝が 鎮斎(いは)ふ杉原 燎木(たきぎ)伐(こ)り 殆(ほとほと)しくに 手斧取らえぬ(1403)
神南備(かむなび)の 神依板(かむよりいた)に する杉の 念(おも)ひも過ぎず 恋の茂きに(1773)
石上 布留の神杉 神びにし 吾やさらさら 恋にあひにける(1927)
石上 布留の神杉 神さびて 恋をも我は 更にするかも(2417)
神名備の 三諸の山に 隠蔵(いは)ふ杉 思ひ過ぎめや 蘿(こけ)生すまでに(3228)
「杉」と「過ぎ」との洒落が、第3・5・8例目に見える。いずれも「思ひ過ぎ」の意として使われ、思いが消えて忘れてしまうことを表している。ヤマトコトバのスギ(過)は、変化の程度が限度を超えて消えてなくなることを表し、人の場合、死ぬ意味に用いる。常訓とする漢字「過」は、論語に、「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし。(過猶レ不レ及。)」、「過(あやま)ちては則ち改むるに憚ること勿れ。(過則勿レ憚レ改。)」などとあるように、行き過ぎてよろしくないことである。悪意をもってなされた犯罪ではなく、つい過って犯してしまった過失、軽犯罪に近い。死罪、流罪、笞罪にあてるべきではなく、示談、説諭、訓告で解決してかまわない。祓の対象領域である。
万712番歌に、下級神官の「祝(はふり)」が「忌(いは)ふ」のは、祓の対象となる程度の罪を祓うお祓いをするということである。大宮司は神を祀ることが仕事である。また、「石上(いそのかみ)」には「布留(ふる)」という地がもともとあり、それが「古(ふる)」とも、「振る」とも通じるから、古くから大麻(大幣)(おおぬさ)を振るって祓っていたに違いない。言霊信仰における言行一致につながっていったということであろう。万2417番歌に「更にする」とあるのは、フル(布留)というフル(古)の事柄をフル(振)ことによって更新させようということである。同様に、万1927番歌に、「さらさら」とあるのも、サラ(更)にすることによる言い回しであろう。そして、酒造にはお米を蒸すために甑が必須で、杉板の上で麹米を作ることが言葉の上でめぐりめぐって合致するようになっている。澱粉を糖にしなければアルコールはできないから、麹を使って糖化するのであるが、そのためには米は蒸さなければならない。その際、シタミ(箄)が要にある点については、本文に述べた。また、石の甕=イシノカメ→石上=イソノカミという音訛を楽しんでいたと考えられる点については、拙稿「「石上(いそのかみ)布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」というスケッチを参照されたい。
(注24)デュルケーム1993.に次のようにわかりやすくある。
道徳も法と同じ対象をもっている。道徳もまた社会秩序を確保する機能をもつ。それ故にこそ道徳は、法と同じく、必要に応じて拘束が義務として課す命令によって、構成されている。ただこの拘束は、外的で機械的な圧力を本質とするのではなく、もっと内面的で心理的な特性をもっている。それを行使するのは国家ではなく、社会全体である。その基本条件である力は、明確に規定された何人かの手に集中しているのではなく、全国民社会に分散したようになっている。それは、社会的地位の上から下まで、何人もそれから免れられない世論の権威にほかならないのである。道徳はきちんとした明確な方式に固定化されていないから、法よりも柔軟で自由な何物かをもっており、またそうであることが必要である。国家は、人間の心の余りにも複雑な動きを規制するには、余りに荒削りなメカニズムである。反対に、世論が行使する道徳的拘束はいかなる障害によっても阻止されることはない。それは空気のように微妙で、いたるところに浸透し、「家族の団欒にも王座の階段にも」はいりこむ。それ故に、法はたんに外的特性によってばかりでなく、内的差異によって道徳と区別されるのである。(108~109頁)
上代において、社会秩序のために、中国に範をとった律令を導入しようとする以前から、道徳の内面化こそが必要なのだと気づいていたらしい。年2回の祓という儀式へとまとめ上げていたように思われる。祓とは、心の問題であり、その人の内面の秩序化が実はいちばんの基礎なのだと理解していたということである。良心というものが欠落していたら、何をしでかそうと呵責を起こすことがなくなる。社会に無益なら命が奪われても構わないとして実行したり、仕事がはかどって成績があがるなら何をしてもいいと思ったり、相手の気持ちを考えずに独りよがりな振る舞いを続けたとしても、悪いことをしているという自覚がなければ対処のしようがない。これを、“人でなし”と考え、あるいは「鬼」として対処した。人間へのこの深い洞察からみて、古事記の三輪山伝説を創作したのは、例えば聖徳太子のような偉大な人物であったと推測している。
(注25)竹内1989.に、紡錘車を使った糸撚りの方法が解説されている。紡錘車の出土例が数多いのは、半湿りのままにして置いておきながら、次々と作業をして行くためであったからとされている。
紡錘を使っての撚りのかけ方を図示すると、図13のようになる。右利きの人が右手で紡茎を持ち、時計の回転方向に回すものと仮定する。まず、紡茎の紡輪直上部分に糸の端を結ぶ。紡茎の上端部分で糸をひとひねりして輪を作ってから上端にからませ、紡錘ごと吊り下げる。こうすると紡茎上端に鉤をつけなくても糸は固定される。紡茎上端の30~40㎝ぐらいの部分を左手の指2本で押える。そして右手で紡茎を回すと、紡錘の回転が紡茎の上端から糸に伝わり、下から順に糸に撚りがかかり、左手で押えた部分まで撚りが行きわたる。好みの撚りの強さになるまで、適当に右手で回転を続ける。撚りがかかったら紡茎上端の糸の輪をはずし、紡輪上端に接して出来上がった糸を巻く。そして先ほどのように紡茎の上端で糸をひとひねりしておくと、紡茎に巻きつけた糸はズルズルと出てくることはない。このような動作を繰り返し、続きの糸に順に撚りをかけてゆく。なお、S撚りの糸が必要なら紡茎を左に(逆時計回り)、Z撚りならば右に(時計回り)回す。撚りをかけ終って紡茎に巻きつけた糸玉は「三角錐」の形をしている。糸はあらかじめ湿らせてあるので、半湿りの状態の糸玉をそのままにして乾燥させると撚りを固定させることができる。このとき連続して撚りかけを行うためには、複数の紡錘を所持していなければならない。(12~13頁)
(注26)白川1995.に、「底(てい)は氐(てい)声。〔説文〕九下に「山居なり」とするが、「止居なり」の誤りとみられ、建物の地を平低にすることをいう。」(433頁)と、説文に対するテキストクリティークでは異議を唱えているものの、解釈では、「底は到りつくことであるから柢(いた)るといい、至(し)・致(ち)・臻(しん)などもその系列に属する字。国語でいえば「そこひ」「そこへ」というのに近い。」(同頁)とある。三輪山伝説に、至り止まったのが山だったとするのは、厳密な学としての哲学ではなく、口語のお話(咄・噺・譚)なのだからそれでかまわないと考える。稗田阿礼の記憶は、“字書”ではない。太安万侶が説文の誤字(?)について掘り下げたとも思われない。
古の 七(なな)の賢(さか)しき 人どもも 欲りせしものは 酒にし有るらし(万340))
竹林の七賢人に見られる隠遁の思想も伝えられていた。彼らは好んで酒を飲んだ。徹底的な賢さは、山居して飲酒することにあると考えていたかもしれない。
(注27)律令時代に、調(みつき)は、絹・糸・布・鉄・塩・農水産加工品・手工業製品などのさまざまであるが、その輸送には、地方の公民が、貢調使引率のもと、食料自弁で当たった。庸調の脚夫は、帰りは勝手に帰るように放任されたため、途中で餓死、病死するものが多かったと続紀以下に記されている。五畿七道を整備する政策の当初の主眼は、徒歩での運送のためではなく、船や馬、荷車をもって行わんがために企図されたものではなかったかと筆者は推測する。本邦の乗物史では、後世、車を捨てて駕籠へと退化している。大陸と違い、陸路を進むには必ず河口に程近い場所で、川の急流を横切らなければならない。そんな国土の特色も影響するのであろう。ミツキ(調・貢)なのだから、上に論じたヤマトコトバの洒落からすれば車を使って運ぼうという理念があったに違いないと考えられる。語学的推測である。しかし、そんなヤマトコトバ上のコンセプトは、五畿七道のグランドデザインまでは行き、古代のアウトバーンは各地に出土するものの、実地段階において失敗したように思われる。他方の、車の側の問題、エンジンとなる牛馬の不足もあったのであろう。生産性からいって、農耕に用いた方が効率的であった。列島にヒツジやヤギ、ロバがいなかったのは、移入されても高温多湿の環境に適さなかったから途絶えたのではなく、牧畜よりも水田稲作農耕や麻栽培の方が、単位面積当たりの食料供給、繊維獲得の面で圧倒的に有利であったからであろう。羊毛が得たいからとヒツジを飼い、田んぼに勝手に入られてイネを食べつくされたのでは堪ったものではない。人が多くて雑多に扱われて脚夫が帰路に餓死したという国と、人が少なくて異民族を狩ってきて隷人(宦官を含む)として扱ったのとでは、人とは何かという根本的な思想基盤に違いが出てくる。人口が過剰だから、駕籠を使って人が人を運んでいる。雇用が確保されている。
(注28)山中1994.にも次のようにある。
これ[多氏古事記の話]は『書紀』と同じく女は倭迹迹姫、しかも『古事記』の鈎穴などなくて、小道具は針と綜麻だけだから、三輪の地名起源伝説としても、もう一時代古い伝承と思われる。麻によってあらわされる紡織のことは、農耕のはじまりと時期を等しくする。……『日本書紀』ではこの麻糸さえ除かれて、蛇が出現、神人共食の箸と、巫女の死によって終る、神婚悲傷となる。加上されている墓のことを除けば、最も簡明で、異教の霊異のものとのまぐわいを、蛇への畏怖と人間との親近をあらわす、農耕民の最も古い伝承ではなかろうか。あるいは縄文期、採集農業時代の面影をのこすものと考えられる。その最も古い異類神婚伝説に、百襲姫の名が結ばれたのである。(40~41頁)
この解説は、古事記の三輪山伝説を語ろうと始められたものながら、古事記本文から離れてしまっている。そして、説話の作者が何を企図していたかについて、思いがめぐらされていない。蛇の譬えが確かならしめられずに終わっている。仮に蛇のとぐろを巻く状態が、エッシャーの版画にあるようであると考えたとするなら、そこには幾何学的な思索がある。3つの水滴の波紋の輪が重なり合って、ちょうど沢瀉紋にあるクワヰの葉のようであると見て取るなら、ミワ(三輪)とミモロ(三諸)との関係も見出せる。箄(したみ)から三滴、水がしたたり落ちる。箄の形は上はまるく、下は方形のはずが、下が三角になっているものを仮想してみる。その角から、それぞれ水がしたたり落ちる。ミ(水・三、ミは甲類)+タリ(垂)である。半月(はにわり)は、女ではなくて足がもう1本あるらしい。その正体をミタリ(見、ミは甲類)である。波紋は干渉を起して峰をつくっている。三諸なる両刃の剣が三方向へ伸びた沢瀉紋(クワヰの葉形)が浮かび上がる。
左から、M・C・エッシャー「蛇」(1969年、木版画、https://www.quietlunch.com/musing-on-the-impossible-the-holographic-worlds-of-m-c-escher-at-industry-city-brooklyn/?utm_source=SocialAutoPoster&utm_medium=Social&utm_campaign=Pinterest)、三輪(三円)の干渉でクワヰ(オモダカ)紋ができる概念図、水野沢潟(波沢潟)紋(ウィキペディア、Mukai 様「沢潟紋」https://ja.wikipedia.org/wiki/沢瀉紋)、腸抉の鏃の入れ墨(盾持人物埴輪、古墳時代後期、6世紀前半、奈良県磯城郡田原本町羽子田1号墳出土、田原本町唐子・鍵 総合サイトhttp://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/museum/search/3/haniwanosekai/hagotakofungun/tatemochijimbutsuhaniwa/7634.html、威嚇するに十分である。)
(注29)歴史的な「連枷」の変遷については、劉2015.参照。新撰字鏡に、「枷 古牙、枷は鎖、又連枷は打穀具也」とある。和名抄には、「楇」字が打つ意としてある。紡錘車を示す「鍋」字の別字としても楇は使われていた。楇字は、①車の轂のなかにさす膏を盛る容器、あぶらづつのこと、②糸を紡ぐ紡錘車、③横に打つ杖のこと、をいう。車輪の回転、紡錘車の回転、連枷の回転、すべて回転に関係する語と捉えられる。説文に、「咼 口戻りて正しからざる也。口に从ひ冎声」とあり、「禍(わざはひ)」の初文である。曲がりに曲がって一周して元に戻る回転で、災い転じて福となるのだと、源順も認識していたのではないか。そのためには、「過」、つまり、ちょっと度が過ぎたことを後悔して、お祓いをしようということであったのかもしれない。
本邦において、文献上で実在したらしい確かな「車」は、「轜車(きくるま)」(孝徳紀大化二年三月)である。殯(もがり)していた棺を載せて運ぶ霊柩車のようである。もともと軋むからキクルマ(キの甲乙不明)で、車にも泣かせて泣女の役割を担ってもらおうとする発想であったかとも思われる。釭(かりも)が車に仕組まれた車に載せると、轂は安定してくるから軋まなくなる。和名抄に、「釭 説文に云はく、釭〈古紅反、古雙反、車乃加利毛(くるまのかりも)〉は轂の口鉄也といふ。」とある。轂が摩滅しないようにするために嵌めこむ鉄の管である。新撰字鏡には、「釭 又𨊧に作る。古紅反、平、轂の口鉄也。燈也。毛地(もぢ)」とある。捩ることと関係する語であろうか。名義抄には、「釭 工江二音、カモ、クルマノカモ、マロフ、コフ、コガネヌリ、又𨊧 トモシヒ」とある。釭があってあぶらを注したら音がしなくなる。楇には回転を円滑にするという字義が認められるようである。霊魂が戻るようにし、鬼として浮遊しないで帰ってくださいということらしい。そういう仮定をすると、ワという転じ進むことを表す言葉の方が、これまでよりよく戻り、よく帰ることに当たる。「もがり」→「かりもがり」→「かりも」の洒落である。以上は、車の足回り部品の新技術によって、弔いの文化が変化したのではないかという推論である。
なお、名義抄に、釭をカモとも呼んでいたことは重要である。崇神記の三輪山伝説記事には割注の付けたりがある。
此の意富多多泥古命は、神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)が祖(おや)ぞ。
三輪氏や賀茂氏の祖先神話が天皇の神話である古事記に紛れ込んで云々、という議論が見られる。その実は、釭(かも)の話だよ、という符牒として、あるいは、話からして賀茂氏は関わらなければならないよ、ということを強調しているばかりである。大伴氏がオホトモという名だから、鞆(とも)、つまり、弓を扱う時の防具を表わし、矢を入れる靫(ゆき)を負っていると自負するに至るのと同じことである。万478・480・1086・4332・4465番歌がその例である。万葉後期の大伴家持の歌にあり、上代語のものの考え方として定着していたことの証である。
(注30)日本書紀の音仮名を除く「鬼」の例をあげる。
桃を用て鬼(おに)を避(ふせ)く縁(ことのもと)なり。(神代紀上)
葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲ふ。(神代紀下)
是に、二の神、諸々の順(まつろ)はぬ鬼神等(かみたち)を誅(つみな)ひて、……(神代紀下)
郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(おに)有り。(景行紀四十年七月)
亦、鬼魅(おに)なりと言(まを)して、敢へて近つかず。(欽明紀五年十二月)
是の邑(さと)の人、必ず魃鬼(おに)の為に迷惑(まど)はされむ。(欽明紀五年十二月)
若し此の盟(ちかひ)に弍(そむ)かば、天(あめ)災(わざはひ)し地(つち)妖(わざはひ)し、鬼(おに)誅(ころ)し人伐たむ。(孝徳前紀)
亦、宮の中に鬼火(おにび)見(あらは)れぬ。(斉明紀七年五月、北野本)
是の夕(よひ)に、朝倉山の上に、鬼(おに)有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。(斉明紀七年八月)
第一例の、桃でオニを退治するという話から、桃には邪悪なるものを遮る霊力があったとされていたとする説が昨今定着しつつある。そんなことはあるまい。モモ(桃)と同音のモモ(百)が、九十(卆)に上回るという洒落にすぎない。いずれの例も、得体が知れず、扱いに困る存在として描かれている。ハラフ(掃・祓・払)ことでお引き取り頂きたい対象である。得体が知れないからお祓いぐらいしかできないのである。
(注31)プロットさえ似ていれば本邦へ伝播されたと考えたがる研究者は多い。千野2000.に、「今のところ中国、日本、朝鮮、ベトナムを通じて「蛇婿入、苧環型」に対応する最も古い類話は、『古事記』(八世紀)の三輪山神婚譚とされる。」(157頁)、「同じ「蛇婿入、苧環型」といっても、日本と朝鮮半島、大陸の伝承の質に決定的な違いがみられる。」(162頁)、「三輪山神婚譚では異類の血筋は聖性を持ち、畏怖と尊崇の対象となる反対に、半島や大陸では、異類は貶められ、人間に殺されるほど弱々しい。海を隔てて、異類と人間の力関係は逆転するのである。」(162頁)、「両者の性質の違いから、宋太祖出自譚などの王朝始祖譚は三輪山神婚譚の直接の源流とすることはできない。」(161頁)とある。妥当な判断である。
瀬間2015.は、13世紀に著された三国遺事の10世紀の記事に三輪山伝説と似た「以二長糸一貫レ針刺二其衣一。従レ之、至レ明尋レ糸」なる記述を見出して、「伽耶土器とその製作方法を伝えた集団の中で、[三輪山伝説は]伝承されていた可能性が残されることは留意される。」(90頁)とする。仮に伝わったものと考えるなら、時間の流れに従い、三輪山伝説が朝鮮半島へ伝わったととるのがふつうであろう。
福島1988.は、三輪山伝説に「赤土」を散らしている点を、須恵器の製作者により伝承・保存されたからと考え、「朝鮮半島から将来された「三輪山伝説」が、陶工により伝承・保存される間に、女の許に通う男の住処・正体を知る目的で使用される糸は、轆轤と陶土との分離に其れが用いられる関係で欠落させられることなく、新たに「赤土」云々の一条を付加されたのであろう。」(436頁)と推測する。陶工が伝承、保存しているのは、伝説ではなくて陶芸の技術である。彼らは噺家ではない。
古橋1992.には、苧環型(崇神記)、丹塗矢型(神武記)、箸墓型(崇神紀)とバリエーションがある点について、同じ神話的幻想から発生しているとし、「苧環型でいえば、針と糸という小道具をもって神話となりうる。……苧環型は、毎夜通って来るということはおそらく訪婚という習俗からの幻想であろうし、針と糸で神の正体を確かめるというのは始祖譚が要求されたゆえと考えてよいだろう。」(127頁)とある。本末転倒の創作裏話が虚構されている。
佐竹1954.に、「神衣を調える為の機織を重要な任務として帯びている巫女を女主人公にした神話、否こうした巫女達が生み出して伝承したであろう神話に、父を探知する方法として苧環の糸が繰り出されるようになるという次第は、殆んど自然発生的でさえある。」(8頁、漢字の旧字体は改めた。)といった伝承裏話をひっくり返そうとした試みがある。なぜ、屋上屋を築きたがるのか。古事記にあるのは、「以二閇蘇紡麻一貫レ針」である。
本居宣長・古事記伝は、「紡麻はたゞ袁(ヲ)と訓べし【續麻(ウミヲ)と云ことも、万葉などに多く見えて、古言なれば、此も然訓べきが如くなれども、既に閇蘇と云うへは、紡(ウミ)たる麻なることは、固(モトヨリ)なれば、煩(ワヅラ)はしく宇美袁(ウミヲ)と云むはいかゞなり、然るに紡ノ字をしも添へて書るは、例の漢文なり、】」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171996/220)と断じている。けれども、績んだだけの平らな麻長繊維の連続に、紡錘車で撚りをかけて丈夫にしたものが糸であり、それを針仕事に使う。糸に撚ってから「貫レ針」と思われる。「閇蘇(へそ)の紡麻(うみを)」をそのまま「針に貫」くことはしない。弱いからである。撚りかけて糸にすることも、そのまえの捩ってつなぐことも、同じくウムという一語にまとめて呼んでしまっているため混乱が生じている。古事記の語り口では、聞き耳を立てさせて、話(咄・噺・譚)の枕にしている。古代のように糸づくりの現場が卑近にあれば、変なことを言い出したと気づく。
東村2012.に、「製糸 苧麻と大麻の糸づくりはほぼ同じである。まず、繊維を細かく裂く。繊維の長さは茎の長さに制限されるので、はじめに1本ずつ撚りつなげ、苧桶に貯める(苧績(おう)み)。次に、湿り気を与えながら紡錘で撚りをかけ、紡茎に巻き取る(①撚りかけ)。糸が一杯になると、桛に巻き上げる。桛は、糸を乾燥させて撚りを安定させるとともに、糸の分量を計るための道具である(②綛(かせ)上げ)。桛から外すと、糸が幾重にも輪状に束ねられた綛(かせいと)ができている。」(16~17頁)と簡潔に説明されている。
山菱文錦褥の麻芯(麻製、飛鳥時代、7世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
いわゆる「苧環」、ヲ(麻)+タマキ(環)とは何か。それはヘソであろう。紡錘車、後の時代の糸車にかけられる前の段階で、繊維のつながりを巻いた半製品である。糸になる前のことを言っている。始祖譚が要求されて創作したのではなく、言葉によって話(咄・噺・譚)を創ったらそれは始祖譚と同じことだった、ということである。本稿のはじめに述べたとおり、ヘソという言葉こそ考究されなければならない。ウミ(績・産)という音が、「閇蘇(へそ)」と「臍(へそ)」とが同じ意であったことを証明してくれる。ヘソの話をしたら始祖譚にしかなり得ない。古事記にあるお話(咄・噺・譚)とは、言葉をもって言葉を説明した自己循環的な辞書、事典である。無文字文化なのだから、そうやって人に言葉=事柄を伝えたのである。言霊信仰ここに在り、である。
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※本稿は、2016年9~10月稿を2020年10月に改稿したものである。
(注6)宮本・薗部1992.参照。
(注7)列島の人々は、容器の歴史が瓢箪を始源としない特異な文化にあるといわれている。土器がきわめて盛んに利用されていた。それがベースにあって、そのうえで須恵器について語られなければならない。
佐々木1984.、和田1995.によれば、三輪山から出土した須恵器74点の大半は陶邑に由来しており、陶邑で焼成された須恵器を用いての三輪山祭祀は、5世紀後半から始まり、6世紀前半、6世紀後半がピークで、7世紀には急速に衰退したようである。この考古学的事実と、古事記に残る三輪山伝承とを勘案して、“歴史”的経緯を見出そうとするのは有りがちな議論である。佐々木先生ご自身、「伝承と史実とが混乱してくる」(27頁)ことを恐れられている。三輪山神婚譚は、「神と巫女との関係を神話的に表現したもの」として処理されている。話(咄・噺・譚)なのだという融通が利かなくなっている。筆者は、歴史学的なものの考え方をする立場にない。記紀万葉をありのままに読むことを念頭に読解を行っている。近代の歴史学や神話学というフィルターがいったんかかったら、もはや上代の人の心に触れることはできないと考える。
和田1995.のあげる疑問点を記しておく。「[①]三輪山山麓集団の実態は何か、[②]須恵器が堅牢で祭器として優れていても、そのことが何故陶邑と三輪の集団を結び付ける機縁となりえたのか、[③]渡来系氏族を母体とする三輪君がどうして「君」姓のカバネをもつのか、[④]六世紀以降、三輪山祭祀が国家的祭祀として行なわれたものとすれば、どうして三輪の神が国つ神として位置付けられねばならなかったのか、等の疑問が残る。」(45頁)とある。いま、筆者にすぐ用意できる回答としては、①については関知しない。②はスヱとミワという言葉が縁語だからである。③は「猿女「君」」と同等の事柄として研究すべき課題であろう。④は本稿の中心テーマである。ミワとは、半月(はにわり)、黄門、paṇḍakaと深い結びつきがある言葉で、交わることが禁忌とされてしかるべき祓えの対象、国つ罪であり、国つ罪に対するのは国つ神なのである。異種交配のタブーがついて回る場所がミワという地だから、誰が祭祀しようが、国つ罪であることに変わりはない。罪の種類によって神の種類が変わってくるということであろう。
(注8)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注9)田中1984.に、「絵巻物のなかに描かれている牛車の輻は、刻明に1本ずつ描かれているものもあるが、他の物のかげになったり、疾走中の様をあらわすため輻が流してあったりして、その本数を数えられないものもある。ここでは数えることのできた8絵巻、28台についての調査結果を述べる。……輻数はすべて3の倍数になっている。……牛車の輪の構造から……部材の1片から3本の輻が出るので、輻数=3×(部材……の片数)が忠実に描かれているのではないかと考えられる。」(30頁)とあり、実際に絵巻物の絵のなかの車輻の数を調査されている。それによると、
伴大納言絵詞21本1台
吉備大臣入唐絵詞24本1台
年中行事絵巻(住吉本)21本7台、24本1台
北野天神縁起(承久本)24本1台、33本2台
西行物語絵巻21本1台
駒競行幸絵巻24本1台
平治物語絵巻18本1台、21本5台、24本5台
小野雪見御幸絵巻24本1台(別場面で23本に誤る)
となっているという(31頁)。3の倍数である点は、作り方を知っていればそう描くであろう。そして、いちばん外側の輞の部品、大羽に3本ずつ、輻が対応するように装着させるパターンから、やはり輻を伴う車輪が「三輪」なのだと納得がいく。
鶏鉾車輪(組立)(京町家再生研究会・京町家net様「京町家はいま」http://www.kyomachiya.net/saisei/ima/49.html)
しかし、周礼・考工記に忠実な、ちょうど30本の例が見られないのは不思議である。(注10)に示すとおり、90は卆で縁起が悪いと言い伝えられて避けられているのであろうか。他の絵巻にも牛車は描かれているから、調査する価値はありそうである。なお、井上2004.は数え方が違うようである。
(注10)「卒」のシュツ(シュチ)の音は、ヲハル、ツキル、シヌの意である。爾雅に、「卒 尽也、已也、終也、死也、既也」とある。万葉集では、題詞に、「石田王卒之時丹生作歌一首」(万420)、「同石田王卒之時山前王哀傷作歌一首」(万423)とある。「卒(みまか)りし時に」と訓むのが通例である。ほかに、「坂本財臣卒りぬ」(天武紀元年五月)、「凡そ百官身(み)亡(まう)しなば、親王及び三位以上は薨(こう)と称せよ。五位以上及び皇親は卒(そち)と称せよ。六位以下、庶民に達るまでは死と称せよ」(喪葬令)とある。
扶桑略記第廿九、康平三年(1065)条に、大僧正明尊の九十の賀の記録がある。「十一月廿六日、関白従一位〔経通〕於二白河別業一被レ賀二大僧正明尊九十之筭一。図二-絵釈迦如来像一鋪一。書二-写妙法蓮華経九十部一。其詞曰。伏惟大僧正法印大和尚位。戒定瑩レ器。忍辱裁レ衣。一乗圓融之嶺、開顕之花春鮮。五部惣持之園、智慧之菓秋盛。旁究二学海之波浪一、早為二佛家之棟梁一。弟子従二弱冠之始一、迄二携杖之今一、依二其護持之力一、全二此愚昧之身一。方今和尚春秋之筭。九旬全盈、可レ喜可レ懼、正是其時也。仍掃二白河之勝形一、敬致二丹地之懇念一。彼姫公旦之在二洛邑一也。未レ開二花文於禅林之月一。智法師之老二蘇州一也。誰賀二松年於巨川之波一。今日之事少超二古人一。又源亜相〔師房〕述二和歌序一、其詞云、三冬之仲、子月下旬。関白尊閤忽排二白河之花亭一。設二緇素之宴席一。盖賀二大僧正法印和尚九十筭一也。和尚戒定内明。智行外朗。早為二一宗之棟梁一。久経二数代之朝廷一。過二八十八廻一、如来猶以不レ尓、超二九々九歲一、筭師所レ難レ量也。是以因二无漏无為之功徳一。證二不老不死之妙文一者歟。遂感二希代之鶴齢一、命二佳会之鸚盞一。〈已上〉左大臣〔教通〕以下皆参。
如来がそうではなく、筭師も計算できない年齢まで生きることは、人の齢の概念を打破する。今までの考え方をヲハリ(卆)にしなければならないということか。霊異記・上・第五話に、「[大部屋栖野古(おほとものやすのこ)]春秋九十余にして卒(みまか)りき」とある。「よみがえりの連(むらじ)の公」のお話である。
(注11)拙稿「餓鬼について」参照。
(注12)木下2010.に、「おそらく、古代から室町時代までは、シログワイとクログワイの両方を、クワイと総称していたと思われる。中華料理の食材にある黒慈姑は、……シロクワイの改良品である……。……『本草和名』、『和名抄』にクワイという名がありながら、万葉集ではなぜヱグと称したのだろうか。一つの考えとして、クワイは本草家の命名による烏芋という漢名に対してつけられた名であり、古くからある土名がヱグであったと思われる。ヱグイモすなわち「ゑぐい芋」の短縮形と考えられ、食べられるといってもかなりゑぐ味があり、かろうじて食べられるという程度のものであるから、正鵠を射た名といえるだろう。冬は食料の乏しい時期であり、米や雑穀の在庫が少なくなった場合、古代ではこんな芋でもご馳走であったにちがいない。」(626頁)とある。筆者は、クワイがまずいかどうかについて、コメントを差し控えたい。命名については、クワヰという何とも元来のヤマトコトバ調でない点に、いわゆる和訓の臭いを感じている。
また、図説江戸時代食生活事典に、「クワイは地下の塊茎を食用とするが、昔から正月のお節料理や三月の節供料理には欠かせなかった。香気が高く風味も高尚で、今では高級料理に用いられている。また、クワイは性欲を抑制する効があると信じられて、ことに僧徒に食され、さらにこの俗説にちなんだ艶笑小話もいくつか作られている。」(117頁、この項、植木敏弌)とある。本稿の主張する三輪山伝説半月説に関わりがあるように思われてならない。
また、ヱグシイモ、クワヰのヱグ味については、灰汁(あく)の味も思い浮かべられる。
饕餮文甗(青銅製、中国、西周時代、前11~10世紀、坂本キク氏寄贈、東博展示品)
甗(ゲン)は釜と甑が一体のものである。一説に、異民族を狩ってその頭部を蒸したともいわれる。「饅頭」にある「頭」字の由来なのだそうである。ところが、蒸すのに重要な蓋の仕方がよくわからない。蓋の素材が何か、また、把手を避けて蓋をするにはそれなりの仕方でなければならない。筆者の推測では、蓋は青銅ではなく木製で、落し蓋に見えるような入り方ながらご飯を炊く時に用いるようなある程度厚い蓋ではなかったかと思う。この、沸いている湯へ血が滴り落ちていたことをヤマトの人が伝え聞いて、とても野蛮な行為、“ひとでなし”であると感じていたとすると、(注28)に示した3つの波紋円の重なり合いによるクワヰの葉の形の出来上がりについて、甗の下部の鼎のような三脚のつくりからして、甗のなかを見るような思いがしたということになる。血の湯のアクの残り方が、蒸発により湯量が減るにつけてそのようになる。アクに関する語に次の例を見る。第一例は本文と重出である。
醅〈釃字附〉 説文に云はく、醅〈音は典、盃に同じ、漢語抄に加須古女(かすこめ)と云ひ、俗に糟米と云ふ〉は醇(かたさけ)の未だ釃(した)まざる也といふ。唐韻に云はく、釃〈所宜反、又上声、釃酒は佐介之多无(さけしたむ)、俗に阿久(あく)と云ふ〉は下酒也といふ。(和名抄)
灰汁 弁色立成に云はく、灰汁〈阿久(あく)〉は淋灰〈阿久太流(あくだる)、上の音は林〉といふ。(和名抄)
鐖 アグ(釣針の返し)
悪 アク(三宝絵上(984年訓))
酒をシタムと、漉す器の箄(したみ)のいちばん上に輪状に白くアクが残る。灰汁は、上澄みの水を媒染剤などに用いる。植物のなかに含まれるえぐみや、肉を煮た時の肉汁の表面に浮かぶ茶白い泡もアクという。冷しゃぶを作った後、鍋の水面すれすれに汚れの輪がついている。同じことが甗の鬲(レキ)の部分でも起こって、人でなしとは「三輪」なのだということである。釣針の返しの民俗用語にアグというのは、腸抉の矢の返しと同じ効果がある。魚は一度飲みこむと、吐き出そうとすればするほど引っ掛かって取れにくく刺さっていく。道徳的に悖ることが漢語の「悪(アク)」である。本稿で述べた事柄と合致する意味ばかり登場している。
(注13)釈日本紀・巻第七・述義三に、備後風土記逸文を所引する。
素戔嗚ノ尊、乞二宿をヲ於衆神一。
備後国風土記曰。疫隅国社。昔北海坐志武塔神。南海神之女子乎与波比爾坐爾。日暮。彼所蘇民将来二人在伎。兄蘇民将来甚貧窮。弟将来富饒。屋倉一百在伎。爰塔神借二宿処一。惜而不レ借。兄蘇民将来借奉。即以二粟柄(カラ)一為レ座。以二粟飯等一饗奉。々々既畢出坐。後爾経レ年率二八柱子一還来天詔久。我将奉レ之為報答。曰。汝子孫其家爾在哉止問給。蘇民将来答申久。已女子与二斯婦一侍止申。即詔久。以二茅輪一令レ着二於腰上一。随二詔令一着。即夜(ソノヨ)爾蘇民与女子二人乎置天。皆悉許呂志保呂保志(コロシホロホシ)天伎。即詔久。吾者速須佐雄能(ハヤスサノヲノ)神也。後世仁疫気在者。汝蘇民将来之子孫止云天(トイヒテ)、以>二茅輪一着二腰上一詔(ノタマフ)。随二詔令一着。即家在人者将免止詔伎。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991097/319)
(注14)大森1958.には、次のようにもある。
大神神社で、茅の輪の行事を、本社の祭としないで、その境内にある綱越神社の祭と認めてゐるのは、なぜであろうか。綱越神社は茅の輪行事を司る社である。このやうに茅の輪行事の司会の神を祀った例が他にもあるかどうかは知らないが、少くとも大神神社においては、茅の輪行事が極めて重要な行事であったために、その行事を職掌とする神が祀られることになったものと思はれる。境内の小社の小さな祀であるのではなく、特に司会する神の社がたてられるほど、重大な行事であったと見るのである。その社が一の鳥居の外にあるのは、そこが茅の輪行事が行はれて来た位置であることを示してゐる。茅の輪くぐりが祓であるかぎり、祓は本殿からなるべく遠いところで行はれるべきで、鳥居の外がその場所に選ばれるのは、順当である。……
ナゴシは夏越とも記され、語源もその文字に即してゐるやうに思はれがちであるが、〈夏を越す〉とはどういふことか明らかではない。これは夏の行事であるために音の類似から夏の字があてられたまでであって、ナツコシがナゴシになるといふ音韻変化も解しがたい。名越・夏越ともに宛て字であらう。
ナゴシをナゴスといふ動詞と関係があると見て、「神を和す」意味であるといふ解釈があり、和儺といふ記載法を作り、大言海などもその説を掲げてゐるが、これも行事の実際とは合はない。和儺はシナの儺・追儺に対する造字で、茅の輪の行事は、家家で個人個人の祓除をすること節分・大晦日の追儺に類してゐるけれども、これらの行事は、狭義の〈まつり〉とは言ひがたい。……みそぎはらへは、神へ近づく過程であり、手段であって、神への奉仕そのものではない……。……三輪を除いては、茅の輪行事は、人間のためにあるもので、神神をナゴメるためにあるとは言ひがたい。拾遺集に
さばへなすあらぶる神もおしなべて今日はなごしのはらへなりけり
といふのは、語呂あはせに類する駄じゃれにすぎない。
神を和ごすといふ言葉づかひも問題かと思ふが、さうした意味をこの行事が直接に負うてゐることはないのである。この解釈も言葉が先にあって、それに類似した言葉をおしあてた机上の解釈にすぎないと思はれる。(6~8頁)
後半部において、ナゴシの祓の語源について論究がある。およそ語源は確証が得られるものではない。上に批判されているナゴスという動詞との関係は、あながち間違いともいえないように思われる。八雲御抄に、「邪神をはらひなごむ祓ゆゑになごしと云也」、書言字考節用集に、「名越祓(ナゴシノハラヒ) 和儺(ナゴシ) 荒和(同)〈或いは夏越に作る〉」などとある。暴れる鬼のような存在を和ませることが、祓の本質に近いかもしれない。ケガレ(穢)という語が、ケ(褻)+カレ(涸・枯)の意ではないかとする説が有力な説としてあり、ハレ→ケ→ケガレを時間軸に据えて循環過程として論じられることがある。褻が涸れて来たら、祓をして元気を更新しようというのである。どうして元気がなくなるかは、日常生活がルーチンワークで、マンネリ化してつまらないからであろう。特に梅雨時の田んぼの草取りなど、嫌になって逃げ出したくなる。それは、心のなかの鬼がつまらない考えを起こしているともいえる。鬼というものを実体としてどう考えるかは難しいが、自分の中に在るのは、自分がどこから来たかにかかっているはずである。形而上学的な宗教でいかに考えるかはさておき、動物として生れて来たからには、当の本人はその親から生れてきている。親が亡くなってご先祖様になると、そんなつまらない考えを起こした原因も、ご先祖様が引き起こしたとして納得がいく。それを鬼と呼び、人神と言っている。今日と大きな違いは、前近代の平均寿命が40歳ほどである点である。親から“独立”して、などと悠長なことを言っている場合ではなかった。(注4)の老子・河上公注にも、「治身者、当除情去慾、使五蔵空虚、神之帰之也。」、「腹中有神、畏其形之消亡也。」などとあった。大物主神とはそんな鬼なのだから、つまらない考え方を起させる心の鬼を和ませることを、卆(90)日÷半割(はにわり=1/2)=180日でもって行うことに、計算上不自然さはない。儺という鬼やらいの字を当てて「和儺」と表記した人には、それなりの知恵があったと筆者は考えている。
田んぼの雑草のなかには、鬼のような葉をしたクワヰも生えている。クワヰは抜かずに放置することもある。えぐいながらも塊根は食べられるからである。それはまた、水田稲作農耕を始める前のご先祖さまの時代、ヱグ(クワヰ)はふつうに食べていたからでもある。雑草として扱うなど、バチが当たるというものである。祓の対象となる罪かもしれない。お節料理として永らく残ってきたのには、正月に米を隠して里芋を食べる風習の残っていた地域のあったこととの関わりから探るべき課題であろう。坪井1979.参照。
なお、時代別国語大辞典に、「わ【輪・曲・勾】」の「考」に、「なお「尾張国阿育知郡片蕝(ワ)〈和(ワ)〉里」(霊異記上三話)「愛知郡片蕝(ワ)〈和(ワ)〉里」(霊異記中二七話)のワは未詳であるが、「蕝」は子芮切または子悦切で、茅(ちがや)を束ねて立て、酒をしたたらせてこすものをいう。ワの訓は茅をたばねたもの、すなわち、茅の輪の意によるものであろうか。」(812頁)とある。茅の輪に一の茅の葉をたどっていくと、捩じれ回りながら輪に回ってもとに戻っている。ヤマトコトバにワという語意が、転回することを含意した曲郭であることから、まことにふさわしいものと考えられる。どこかへ行くかと思えば戻っていていらいらするもの、道徳的に悖るものであるかに思われながら、老子のいう無用の用を果たすのが、ワということに当たる。蘇民将来の話は、情けは人の為ならずの考えに通じるところがある。世の中は、巡り巡って戻ってくる因果応報的な循環、すなわち、ワがあると説いているのかもしれない。しかも、酒を釃(した)むことと関わるらしい。説文に、「蕝 朝会束茅表位に曰く、蕝 艸に从ひ絶声といふ。春秋国語に曰く、茅蕝表坐に致すといふ」とあるのは、円座(藁座(わらうだ))状にしたものを指すのであろうか。
(注15)一条兼良(1402~1481)・公事根源・大祓(オホバラヘ) 同日条に次のようにある。
大ばらへといふは、百官ことごとく朱雀門にあつまりて、祓をし侍るなり。六月十二月二たびあり。天武天皇の御時より始まる。解除(ゲヂヨ)は觸穢などの時もあり。神事を行ふ時は、臨時にも常にあれども、この大祓は百官一同にあつまりて、祓をするなり。またけふは家々に輪をこゆる事あり。
みな月のなごしの祓する人は、千年のいのちのぶといふなり。
此の歌をとのふるとぞ申し伝へ侍る。然るに法性寺関白ノ記には
思ふ事皆つきねとて麻の葉をきりにきりてもはらへつるかな
此の歌を詠ずべしと見えたり。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/771887/25)
大麻の作法については、丸山2015.参照。
(注16)それが三輪山の禁足地などに見られる祭祀遺跡かどうかについては他に委ねたい。
(注17)櫻井1981.に、「三ツ鳥居及び瑞垣は昭和三十四年に修理され、墨書及び発見文書より明治十六年に再建されたことが判明した。なお、三ツ鳥居の石製唐居敷には、使用されていない扉軸受穴があり、修理工事報告書では類例から推して、唐居敷の使用年代は鎌倉から平安時代まで遡りうるかとしている。」(827~830頁)とある。扉軸受穴がどの位置に当たるかわからず、戸(扉)の設置位置が推定できないのが残念である。
左:三輪山(南都名所集、国文学資料館・新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200006152/viewer/224をトリミング)、右:三ツ鳥居(三輪明神 大神神社http://oomiwa.or.jp/keidaimap/02-mitsutorii/)
(注18)六月(水無月)の祓が一般化しているのは、この三輪山伝説に発端があると考えられる。三輪山は紡錘車に糸を撚りあげた形になっている。ミナツキのミナ(ミは甲類)には、同音にミナ(螺、ミは甲類)がある。今のカワニナやタニシの類である。その貝殻の形は、ぐるぐるっと巻いて積み上がるようになっている。形がよく似ていることにより、言葉と行為とを合致させるべく言霊信仰下の人々は動いた。その結果が、ミナ(螺)月はツミ(罪・紡錘車)な月だからお祓をするのがふさわしいことだと考えるように発展していったと考えられる。言うまでもないが、万葉人の語感の問題で、“語源”とは無関係である。科学的(?)な語源探究など、上代の人の解することではない。
(注19)本邦には、はいたが、宦官は存しなかったようである。三田村2012.参照。とはいえ、三宝絵詞に見られるように、そういう人があり得ることは認識されていたであろう。そして、それを“人(ひと)”と呼んでよいのかについての論理矛盾について、上代の人は面白がり、それがいわゆる三輪山伝説に通底するモチーフであると考える。“人でなし”概念が導入されたのである。
(注20)宮中で平安時代に行われた大祓の場所、「祓所(はらへど・はらへどころ)」が、朱雀門や、まれに建礼門のところであったのには、古くからの言い伝えとして黄門のことがあったからではないかと推測はされるが、実証は困難である。三宅1995.参照。また、半分に割れる門戸を、時に観音開きという。内に納められる仏像が観音像であったことに因むのであろうが、観音像の印象として両性どちらともつかない点があげられよう。半月(はにわり)の話と絡めて認識されていたのかもしれない。
(注21)中川2009.に、「古事記の文章に漢訳仏典の影響がみられることが指摘されており、……古事記編者は大智度論や経律異相などの漢訳仏典の、阿難が神通力によってカギアナを通るエピソードをヒントにして、〝神壮夫(カミヲトコ)〟―美和山の大物主大神―の霊威を示すために、三輪山神話において、カギアナをもち出したのではないだろうか。」(166~167頁)とある。中川の言う「古事記編者」とは誰のことか不明である。また、仏教という壮大な思想体系のなかの断片を切り取ってきたとして、単に「霊威」を示す表現に活用しただけで、その出来上がった話を聞くヤマトの人の側が理解できたのか不明である。仏教思想のバックボーンなしにカギアナを通ることが、すなわち、霊威あることであるとは感じられないであろう。聞く側が納得して了解しなければ、後世に伝えようとするものではない。稗田阿礼誦習とは、文字を持たないまま口づてに伝えたことを意味する。人々になるほどと思われて腑に落ちる話でなければ、話(咄・噺・譚)として伝わること、伝えることはできない。カギアナを話の焦点に持ってきていることの根幹を探る必要がある。稗田阿礼の話(咄・噺・譚)が先、太安万侶の表記は後である。
(注22)合田1998.参照。「鏁子の[助数詞の]「具」は牡・牝で一体となる錠前と鍵とが一組みになっていたであろうことが想定され、鎰(鑰)[の助数詞]に「勾」が付されていることは、その形状が鈎型に大きく折れ曲がっていることを想起させることや、「柄」の場合は鉤(クルル鉤)の木質の把手部分を指したであろうことが容易に想像される。」(108頁)とある。
(注23)なぜ杉が登場してくるのか、大神神社にしるしの杉となるのかについても、語学的には、罪のことを示す過失の「過ぎ(ギは乙類)」と「杉(すぎ、ギは乙類)」との洒落、ないしは、言霊信仰にあっては同じ言葉は同じ意味をもつに違いないとする考えに基づいているものと考えられる。万葉集ではほかに、次のような例が見られる。
三諸の 神の神杉(ギは乙類) …(訓未定)… 寝(い)ねぬ夜ぞ多き(156)
何時の間も 神さびけるか 香山(かぐやま)の 鉾椙(ほこすぎ)が本 薜(こけ)生すまでに(259)
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の山なる 杉群の 思ひ過ぐべき 君にあらなくに(422)
御幣帛(みぬさ)取り 神(みわ)の祝が 鎮斎(いは)ふ杉原 燎木(たきぎ)伐(こ)り 殆(ほとほと)しくに 手斧取らえぬ(1403)
神南備(かむなび)の 神依板(かむよりいた)に する杉の 念(おも)ひも過ぎず 恋の茂きに(1773)
石上 布留の神杉 神びにし 吾やさらさら 恋にあひにける(1927)
石上 布留の神杉 神さびて 恋をも我は 更にするかも(2417)
神名備の 三諸の山に 隠蔵(いは)ふ杉 思ひ過ぎめや 蘿(こけ)生すまでに(3228)
「杉」と「過ぎ」との洒落が、第3・5・8例目に見える。いずれも「思ひ過ぎ」の意として使われ、思いが消えて忘れてしまうことを表している。ヤマトコトバのスギ(過)は、変化の程度が限度を超えて消えてなくなることを表し、人の場合、死ぬ意味に用いる。常訓とする漢字「過」は、論語に、「過ぎたるは猶ほ及ばざるがごとし。(過猶レ不レ及。)」、「過(あやま)ちては則ち改むるに憚ること勿れ。(過則勿レ憚レ改。)」などとあるように、行き過ぎてよろしくないことである。悪意をもってなされた犯罪ではなく、つい過って犯してしまった過失、軽犯罪に近い。死罪、流罪、笞罪にあてるべきではなく、示談、説諭、訓告で解決してかまわない。祓の対象領域である。
万712番歌に、下級神官の「祝(はふり)」が「忌(いは)ふ」のは、祓の対象となる程度の罪を祓うお祓いをするということである。大宮司は神を祀ることが仕事である。また、「石上(いそのかみ)」には「布留(ふる)」という地がもともとあり、それが「古(ふる)」とも、「振る」とも通じるから、古くから大麻(大幣)(おおぬさ)を振るって祓っていたに違いない。言霊信仰における言行一致につながっていったということであろう。万2417番歌に「更にする」とあるのは、フル(布留)というフル(古)の事柄をフル(振)ことによって更新させようということである。同様に、万1927番歌に、「さらさら」とあるのも、サラ(更)にすることによる言い回しであろう。そして、酒造にはお米を蒸すために甑が必須で、杉板の上で麹米を作ることが言葉の上でめぐりめぐって合致するようになっている。澱粉を糖にしなければアルコールはできないから、麹を使って糖化するのであるが、そのためには米は蒸さなければならない。その際、シタミ(箄)が要にある点については、本文に述べた。また、石の甕=イシノカメ→石上=イソノカミという音訛を楽しんでいたと考えられる点については、拙稿「「石上(いそのかみ)布留(ふる)」の修飾と「墫(もたひ)」のこと」というスケッチを参照されたい。
(注24)デュルケーム1993.に次のようにわかりやすくある。
道徳も法と同じ対象をもっている。道徳もまた社会秩序を確保する機能をもつ。それ故にこそ道徳は、法と同じく、必要に応じて拘束が義務として課す命令によって、構成されている。ただこの拘束は、外的で機械的な圧力を本質とするのではなく、もっと内面的で心理的な特性をもっている。それを行使するのは国家ではなく、社会全体である。その基本条件である力は、明確に規定された何人かの手に集中しているのではなく、全国民社会に分散したようになっている。それは、社会的地位の上から下まで、何人もそれから免れられない世論の権威にほかならないのである。道徳はきちんとした明確な方式に固定化されていないから、法よりも柔軟で自由な何物かをもっており、またそうであることが必要である。国家は、人間の心の余りにも複雑な動きを規制するには、余りに荒削りなメカニズムである。反対に、世論が行使する道徳的拘束はいかなる障害によっても阻止されることはない。それは空気のように微妙で、いたるところに浸透し、「家族の団欒にも王座の階段にも」はいりこむ。それ故に、法はたんに外的特性によってばかりでなく、内的差異によって道徳と区別されるのである。(108~109頁)
上代において、社会秩序のために、中国に範をとった律令を導入しようとする以前から、道徳の内面化こそが必要なのだと気づいていたらしい。年2回の祓という儀式へとまとめ上げていたように思われる。祓とは、心の問題であり、その人の内面の秩序化が実はいちばんの基礎なのだと理解していたということである。良心というものが欠落していたら、何をしでかそうと呵責を起こすことがなくなる。社会に無益なら命が奪われても構わないとして実行したり、仕事がはかどって成績があがるなら何をしてもいいと思ったり、相手の気持ちを考えずに独りよがりな振る舞いを続けたとしても、悪いことをしているという自覚がなければ対処のしようがない。これを、“人でなし”と考え、あるいは「鬼」として対処した。人間へのこの深い洞察からみて、古事記の三輪山伝説を創作したのは、例えば聖徳太子のような偉大な人物であったと推測している。
(注25)竹内1989.に、紡錘車を使った糸撚りの方法が解説されている。紡錘車の出土例が数多いのは、半湿りのままにして置いておきながら、次々と作業をして行くためであったからとされている。
紡錘を使っての撚りのかけ方を図示すると、図13のようになる。右利きの人が右手で紡茎を持ち、時計の回転方向に回すものと仮定する。まず、紡茎の紡輪直上部分に糸の端を結ぶ。紡茎の上端部分で糸をひとひねりして輪を作ってから上端にからませ、紡錘ごと吊り下げる。こうすると紡茎上端に鉤をつけなくても糸は固定される。紡茎上端の30~40㎝ぐらいの部分を左手の指2本で押える。そして右手で紡茎を回すと、紡錘の回転が紡茎の上端から糸に伝わり、下から順に糸に撚りがかかり、左手で押えた部分まで撚りが行きわたる。好みの撚りの強さになるまで、適当に右手で回転を続ける。撚りがかかったら紡茎上端の糸の輪をはずし、紡輪上端に接して出来上がった糸を巻く。そして先ほどのように紡茎の上端で糸をひとひねりしておくと、紡茎に巻きつけた糸はズルズルと出てくることはない。このような動作を繰り返し、続きの糸に順に撚りをかけてゆく。なお、S撚りの糸が必要なら紡茎を左に(逆時計回り)、Z撚りならば右に(時計回り)回す。撚りをかけ終って紡茎に巻きつけた糸玉は「三角錐」の形をしている。糸はあらかじめ湿らせてあるので、半湿りの状態の糸玉をそのままにして乾燥させると撚りを固定させることができる。このとき連続して撚りかけを行うためには、複数の紡錘を所持していなければならない。(12~13頁)
(注26)白川1995.に、「底(てい)は氐(てい)声。〔説文〕九下に「山居なり」とするが、「止居なり」の誤りとみられ、建物の地を平低にすることをいう。」(433頁)と、説文に対するテキストクリティークでは異議を唱えているものの、解釈では、「底は到りつくことであるから柢(いた)るといい、至(し)・致(ち)・臻(しん)などもその系列に属する字。国語でいえば「そこひ」「そこへ」というのに近い。」(同頁)とある。三輪山伝説に、至り止まったのが山だったとするのは、厳密な学としての哲学ではなく、口語のお話(咄・噺・譚)なのだからそれでかまわないと考える。稗田阿礼の記憶は、“字書”ではない。太安万侶が説文の誤字(?)について掘り下げたとも思われない。
古の 七(なな)の賢(さか)しき 人どもも 欲りせしものは 酒にし有るらし(万340))
竹林の七賢人に見られる隠遁の思想も伝えられていた。彼らは好んで酒を飲んだ。徹底的な賢さは、山居して飲酒することにあると考えていたかもしれない。
(注27)律令時代に、調(みつき)は、絹・糸・布・鉄・塩・農水産加工品・手工業製品などのさまざまであるが、その輸送には、地方の公民が、貢調使引率のもと、食料自弁で当たった。庸調の脚夫は、帰りは勝手に帰るように放任されたため、途中で餓死、病死するものが多かったと続紀以下に記されている。五畿七道を整備する政策の当初の主眼は、徒歩での運送のためではなく、船や馬、荷車をもって行わんがために企図されたものではなかったかと筆者は推測する。本邦の乗物史では、後世、車を捨てて駕籠へと退化している。大陸と違い、陸路を進むには必ず河口に程近い場所で、川の急流を横切らなければならない。そんな国土の特色も影響するのであろう。ミツキ(調・貢)なのだから、上に論じたヤマトコトバの洒落からすれば車を使って運ぼうという理念があったに違いないと考えられる。語学的推測である。しかし、そんなヤマトコトバ上のコンセプトは、五畿七道のグランドデザインまでは行き、古代のアウトバーンは各地に出土するものの、実地段階において失敗したように思われる。他方の、車の側の問題、エンジンとなる牛馬の不足もあったのであろう。生産性からいって、農耕に用いた方が効率的であった。列島にヒツジやヤギ、ロバがいなかったのは、移入されても高温多湿の環境に適さなかったから途絶えたのではなく、牧畜よりも水田稲作農耕や麻栽培の方が、単位面積当たりの食料供給、繊維獲得の面で圧倒的に有利であったからであろう。羊毛が得たいからとヒツジを飼い、田んぼに勝手に入られてイネを食べつくされたのでは堪ったものではない。人が多くて雑多に扱われて脚夫が帰路に餓死したという国と、人が少なくて異民族を狩ってきて隷人(宦官を含む)として扱ったのとでは、人とは何かという根本的な思想基盤に違いが出てくる。人口が過剰だから、駕籠を使って人が人を運んでいる。雇用が確保されている。
(注28)山中1994.にも次のようにある。
これ[多氏古事記の話]は『書紀』と同じく女は倭迹迹姫、しかも『古事記』の鈎穴などなくて、小道具は針と綜麻だけだから、三輪の地名起源伝説としても、もう一時代古い伝承と思われる。麻によってあらわされる紡織のことは、農耕のはじまりと時期を等しくする。……『日本書紀』ではこの麻糸さえ除かれて、蛇が出現、神人共食の箸と、巫女の死によって終る、神婚悲傷となる。加上されている墓のことを除けば、最も簡明で、異教の霊異のものとのまぐわいを、蛇への畏怖と人間との親近をあらわす、農耕民の最も古い伝承ではなかろうか。あるいは縄文期、採集農業時代の面影をのこすものと考えられる。その最も古い異類神婚伝説に、百襲姫の名が結ばれたのである。(40~41頁)
この解説は、古事記の三輪山伝説を語ろうと始められたものながら、古事記本文から離れてしまっている。そして、説話の作者が何を企図していたかについて、思いがめぐらされていない。蛇の譬えが確かならしめられずに終わっている。仮に蛇のとぐろを巻く状態が、エッシャーの版画にあるようであると考えたとするなら、そこには幾何学的な思索がある。3つの水滴の波紋の輪が重なり合って、ちょうど沢瀉紋にあるクワヰの葉のようであると見て取るなら、ミワ(三輪)とミモロ(三諸)との関係も見出せる。箄(したみ)から三滴、水がしたたり落ちる。箄の形は上はまるく、下は方形のはずが、下が三角になっているものを仮想してみる。その角から、それぞれ水がしたたり落ちる。ミ(水・三、ミは甲類)+タリ(垂)である。半月(はにわり)は、女ではなくて足がもう1本あるらしい。その正体をミタリ(見、ミは甲類)である。波紋は干渉を起して峰をつくっている。三諸なる両刃の剣が三方向へ伸びた沢瀉紋(クワヰの葉形)が浮かび上がる。
左から、M・C・エッシャー「蛇」(1969年、木版画、https://www.quietlunch.com/musing-on-the-impossible-the-holographic-worlds-of-m-c-escher-at-industry-city-brooklyn/?utm_source=SocialAutoPoster&utm_medium=Social&utm_campaign=Pinterest)、三輪(三円)の干渉でクワヰ(オモダカ)紋ができる概念図、水野沢潟(波沢潟)紋(ウィキペディア、Mukai 様「沢潟紋」https://ja.wikipedia.org/wiki/沢瀉紋)、腸抉の鏃の入れ墨(盾持人物埴輪、古墳時代後期、6世紀前半、奈良県磯城郡田原本町羽子田1号墳出土、田原本町唐子・鍵 総合サイトhttp://www.town.tawaramoto.nara.jp/karako_kagi/museum/search/3/haniwanosekai/hagotakofungun/tatemochijimbutsuhaniwa/7634.html、威嚇するに十分である。)
(注29)歴史的な「連枷」の変遷については、劉2015.参照。新撰字鏡に、「枷 古牙、枷は鎖、又連枷は打穀具也」とある。和名抄には、「楇」字が打つ意としてある。紡錘車を示す「鍋」字の別字としても楇は使われていた。楇字は、①車の轂のなかにさす膏を盛る容器、あぶらづつのこと、②糸を紡ぐ紡錘車、③横に打つ杖のこと、をいう。車輪の回転、紡錘車の回転、連枷の回転、すべて回転に関係する語と捉えられる。説文に、「咼 口戻りて正しからざる也。口に从ひ冎声」とあり、「禍(わざはひ)」の初文である。曲がりに曲がって一周して元に戻る回転で、災い転じて福となるのだと、源順も認識していたのではないか。そのためには、「過」、つまり、ちょっと度が過ぎたことを後悔して、お祓いをしようということであったのかもしれない。
本邦において、文献上で実在したらしい確かな「車」は、「轜車(きくるま)」(孝徳紀大化二年三月)である。殯(もがり)していた棺を載せて運ぶ霊柩車のようである。もともと軋むからキクルマ(キの甲乙不明)で、車にも泣かせて泣女の役割を担ってもらおうとする発想であったかとも思われる。釭(かりも)が車に仕組まれた車に載せると、轂は安定してくるから軋まなくなる。和名抄に、「釭 説文に云はく、釭〈古紅反、古雙反、車乃加利毛(くるまのかりも)〉は轂の口鉄也といふ。」とある。轂が摩滅しないようにするために嵌めこむ鉄の管である。新撰字鏡には、「釭 又𨊧に作る。古紅反、平、轂の口鉄也。燈也。毛地(もぢ)」とある。捩ることと関係する語であろうか。名義抄には、「釭 工江二音、カモ、クルマノカモ、マロフ、コフ、コガネヌリ、又𨊧 トモシヒ」とある。釭があってあぶらを注したら音がしなくなる。楇には回転を円滑にするという字義が認められるようである。霊魂が戻るようにし、鬼として浮遊しないで帰ってくださいということらしい。そういう仮定をすると、ワという転じ進むことを表す言葉の方が、これまでよりよく戻り、よく帰ることに当たる。「もがり」→「かりもがり」→「かりも」の洒落である。以上は、車の足回り部品の新技術によって、弔いの文化が変化したのではないかという推論である。
なお、名義抄に、釭をカモとも呼んでいたことは重要である。崇神記の三輪山伝説記事には割注の付けたりがある。
此の意富多多泥古命は、神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)が祖(おや)ぞ。
三輪氏や賀茂氏の祖先神話が天皇の神話である古事記に紛れ込んで云々、という議論が見られる。その実は、釭(かも)の話だよ、という符牒として、あるいは、話からして賀茂氏は関わらなければならないよ、ということを強調しているばかりである。大伴氏がオホトモという名だから、鞆(とも)、つまり、弓を扱う時の防具を表わし、矢を入れる靫(ゆき)を負っていると自負するに至るのと同じことである。万478・480・1086・4332・4465番歌がその例である。万葉後期の大伴家持の歌にあり、上代語のものの考え方として定着していたことの証である。
(注30)日本書紀の音仮名を除く「鬼」の例をあげる。
桃を用て鬼(おに)を避(ふせ)く縁(ことのもと)なり。(神代紀上)
葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむと欲ふ。(神代紀下)
是に、二の神、諸々の順(まつろ)はぬ鬼神等(かみたち)を誅(つみな)ひて、……(神代紀下)
郊(のら)に姦(かだま)しき鬼(おに)有り。(景行紀四十年七月)
亦、鬼魅(おに)なりと言(まを)して、敢へて近つかず。(欽明紀五年十二月)
是の邑(さと)の人、必ず魃鬼(おに)の為に迷惑(まど)はされむ。(欽明紀五年十二月)
若し此の盟(ちかひ)に弍(そむ)かば、天(あめ)災(わざはひ)し地(つち)妖(わざはひ)し、鬼(おに)誅(ころ)し人伐たむ。(孝徳前紀)
亦、宮の中に鬼火(おにび)見(あらは)れぬ。(斉明紀七年五月、北野本)
是の夕(よひ)に、朝倉山の上に、鬼(おに)有りて、大笠を着て、喪の儀(よそほひ)を臨み視る。(斉明紀七年八月)
第一例の、桃でオニを退治するという話から、桃には邪悪なるものを遮る霊力があったとされていたとする説が昨今定着しつつある。そんなことはあるまい。モモ(桃)と同音のモモ(百)が、九十(卆)に上回るという洒落にすぎない。いずれの例も、得体が知れず、扱いに困る存在として描かれている。ハラフ(掃・祓・払)ことでお引き取り頂きたい対象である。得体が知れないからお祓いぐらいしかできないのである。
(注31)プロットさえ似ていれば本邦へ伝播されたと考えたがる研究者は多い。千野2000.に、「今のところ中国、日本、朝鮮、ベトナムを通じて「蛇婿入、苧環型」に対応する最も古い類話は、『古事記』(八世紀)の三輪山神婚譚とされる。」(157頁)、「同じ「蛇婿入、苧環型」といっても、日本と朝鮮半島、大陸の伝承の質に決定的な違いがみられる。」(162頁)、「三輪山神婚譚では異類の血筋は聖性を持ち、畏怖と尊崇の対象となる反対に、半島や大陸では、異類は貶められ、人間に殺されるほど弱々しい。海を隔てて、異類と人間の力関係は逆転するのである。」(162頁)、「両者の性質の違いから、宋太祖出自譚などの王朝始祖譚は三輪山神婚譚の直接の源流とすることはできない。」(161頁)とある。妥当な判断である。
瀬間2015.は、13世紀に著された三国遺事の10世紀の記事に三輪山伝説と似た「以二長糸一貫レ針刺二其衣一。従レ之、至レ明尋レ糸」なる記述を見出して、「伽耶土器とその製作方法を伝えた集団の中で、[三輪山伝説は]伝承されていた可能性が残されることは留意される。」(90頁)とする。仮に伝わったものと考えるなら、時間の流れに従い、三輪山伝説が朝鮮半島へ伝わったととるのがふつうであろう。
福島1988.は、三輪山伝説に「赤土」を散らしている点を、須恵器の製作者により伝承・保存されたからと考え、「朝鮮半島から将来された「三輪山伝説」が、陶工により伝承・保存される間に、女の許に通う男の住処・正体を知る目的で使用される糸は、轆轤と陶土との分離に其れが用いられる関係で欠落させられることなく、新たに「赤土」云々の一条を付加されたのであろう。」(436頁)と推測する。陶工が伝承、保存しているのは、伝説ではなくて陶芸の技術である。彼らは噺家ではない。
古橋1992.には、苧環型(崇神記)、丹塗矢型(神武記)、箸墓型(崇神紀)とバリエーションがある点について、同じ神話的幻想から発生しているとし、「苧環型でいえば、針と糸という小道具をもって神話となりうる。……苧環型は、毎夜通って来るということはおそらく訪婚という習俗からの幻想であろうし、針と糸で神の正体を確かめるというのは始祖譚が要求されたゆえと考えてよいだろう。」(127頁)とある。本末転倒の創作裏話が虚構されている。
佐竹1954.に、「神衣を調える為の機織を重要な任務として帯びている巫女を女主人公にした神話、否こうした巫女達が生み出して伝承したであろう神話に、父を探知する方法として苧環の糸が繰り出されるようになるという次第は、殆んど自然発生的でさえある。」(8頁、漢字の旧字体は改めた。)といった伝承裏話をひっくり返そうとした試みがある。なぜ、屋上屋を築きたがるのか。古事記にあるのは、「以二閇蘇紡麻一貫レ針」である。
本居宣長・古事記伝は、「紡麻はたゞ袁(ヲ)と訓べし【續麻(ウミヲ)と云ことも、万葉などに多く見えて、古言なれば、此も然訓べきが如くなれども、既に閇蘇と云うへは、紡(ウミ)たる麻なることは、固(モトヨリ)なれば、煩(ワヅラ)はしく宇美袁(ウミヲ)と云むはいかゞなり、然るに紡ノ字をしも添へて書るは、例の漢文なり、】」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1171996/220)と断じている。けれども、績んだだけの平らな麻長繊維の連続に、紡錘車で撚りをかけて丈夫にしたものが糸であり、それを針仕事に使う。糸に撚ってから「貫レ針」と思われる。「閇蘇(へそ)の紡麻(うみを)」をそのまま「針に貫」くことはしない。弱いからである。撚りかけて糸にすることも、そのまえの捩ってつなぐことも、同じくウムという一語にまとめて呼んでしまっているため混乱が生じている。古事記の語り口では、聞き耳を立てさせて、話(咄・噺・譚)の枕にしている。古代のように糸づくりの現場が卑近にあれば、変なことを言い出したと気づく。
東村2012.に、「製糸 苧麻と大麻の糸づくりはほぼ同じである。まず、繊維を細かく裂く。繊維の長さは茎の長さに制限されるので、はじめに1本ずつ撚りつなげ、苧桶に貯める(苧績(おう)み)。次に、湿り気を与えながら紡錘で撚りをかけ、紡茎に巻き取る(①撚りかけ)。糸が一杯になると、桛に巻き上げる。桛は、糸を乾燥させて撚りを安定させるとともに、糸の分量を計るための道具である(②綛(かせ)上げ)。桛から外すと、糸が幾重にも輪状に束ねられた綛(かせいと)ができている。」(16~17頁)と簡潔に説明されている。
山菱文錦褥の麻芯(麻製、飛鳥時代、7世紀、法隆寺献納宝物、東博展示品)
いわゆる「苧環」、ヲ(麻)+タマキ(環)とは何か。それはヘソであろう。紡錘車、後の時代の糸車にかけられる前の段階で、繊維のつながりを巻いた半製品である。糸になる前のことを言っている。始祖譚が要求されて創作したのではなく、言葉によって話(咄・噺・譚)を創ったらそれは始祖譚と同じことだった、ということである。本稿のはじめに述べたとおり、ヘソという言葉こそ考究されなければならない。ウミ(績・産)という音が、「閇蘇(へそ)」と「臍(へそ)」とが同じ意であったことを証明してくれる。ヘソの話をしたら始祖譚にしかなり得ない。古事記にあるお話(咄・噺・譚)とは、言葉をもって言葉を説明した自己循環的な辞書、事典である。無文字文化なのだから、そうやって人に言葉=事柄を伝えたのである。言霊信仰ここに在り、である。
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※本稿は、2016年9~10月稿を2020年10月に改稿したものである。