石川女郎と大伴田主の歌合戦
万葉集巻2・126~128番歌は、石川女郎と大伴田主の二人による歌問答である。三首目の万128番歌を含めた一歌群であり、三首目まで通観されて理解が得られないうちは正解とは言えない。
石川女郎の大伴宿祢田主に贈る歌一首〈即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣と曰ふ〉
遊士と 吾は聞けるを 屋戸貸さず 吾を還せり おその風流士(万126)
大伴田主は字を仲郎と曰へり。容姿佳艶しく風流秀絶れたり。見る人聞く者、歎息かざるは靡し。時に石川女郎といふもの有り。 自ら雙栖の感を成して、恒に独守の難きを悲しぶ。意に書を寄せむと欲ふも未だ良信に逢はず。爰に方便を作して賤しき嫗に似せて己堝子を提げて寝の側に到りて、音に哽び足に蹢きて戸を叩き諮ひて曰はく、「東の隣の貧しき女、将に火を取らむと来れり」といふ。是に仲郎、暗き裏に冒隠せる形を識らず。慮の外にして拘接の計に堪へず。念の任に火を取り、跡に就きて帰し去らしめき。明けて後、女郎、既に自ら媒の愧づべきを恥ぢ、復心の契の果さざるを恨む。因りて斯の歌を作り贈るを以て謔戯とす。
大伴宿祢田主、報へ贈る歌一首
遊士に 吾はありけり 屋戸貸さず 還しし吾そ 風流士にはある(万127)
同じ石川女郎、更に大伴田主中郎に贈る歌一首
吾が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足痛く吾が背 勤め給ぶべし(万128)
右、中郎の足の疾に依りて此の歌を贈りて問訊ふそ。
石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首〈即佐保大納言大伴卿之第二子母曰巨勢朝臣也〉
遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曽能風流士
大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未逢良信爰作方便而似賤嫗己提堝子而到寝側哽音蹢足叩戸諮曰東隣貧女将取火来矣於是仲郎暗裏非識冒隠之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡歸去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈謔戯焉
大伴宿祢田主報贈歌一首
遊士尓吾者有家里屋戸不借令還吾曽風流士者有
同石川女郎更贈大伴田主中郎歌一首
吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思
右依中郎足疾贈此歌問訊也
通説では、一・二首に「みやびを」問答が行われていて、それとは意を異にする歌が三首目に追加されかのように前提されて論じられている。一・二首目の解釈において、その語義にばかり注意が走り、あたかも「みやびを」論争の体を成している。最適解は遠い(注1)。
今日、「遊士」「風流士」という用字はミヤビヲと訓まれている。古くはアソビヲ、タハレヲと訓まれたこともあり、ミヤビヲという訓で正しいのかさえ疑われている。筆者は正しいと考える。そしてまた、「風流」という漢字の意味とヤマトコトバのミヤビとがどのように対照されるのかが疑問視され、決着がつかないままに置かれている。
これらは歌われた歌にすぎない。歌なのだから声をあげて歌われている。したがって、「風流」という漢語の意味合いなどどうでも構わない。万126番歌に左注が施されており、それがおおむね漢文調だから惑わされている。しかし、左注は歌われた歌を説明しているだけである。主役は歌である。歌はヤマトコトバで歌われた。その説明もヤマトコトバで行われた。漢語の奥義まで考える必要はない、ないしは、括弧に入れて考えれば良いことである。漢語で考えたいなら、漢詩に作られていない理由を問わなければならない。
用字「風流」・「遊」
菊池2000.の指摘は傾聴に値する。都市化、都会化がもたらした人々の心情への変化を的確に捉えている(注2)。
「遊士」の「遊」という字はヤマトコトバにアソブにほかならない。人は誰しも遊ぶものと思うのは、上代の語義と乖離する。一般の人は年がら年中仕事をしている。年に数回、お祭りや宴会をしてあそぶ。夜の街の接客業のように、遊びを職業としているわけではない。古代において、「遊ぶ」は、歌舞音曲を楽しむことが原義とされている。葬祭業に「遊部」があった。葬送や招魂の儀礼に歌い奏で、哭き喚き、舞い踊ることをした。それ以外では、動詞に「遊ばす」とあるように、高貴な人の行為を指して言った。生産活動をしないで遊んでばかりいる人たちに対して使われている。そのような人は宮都にいる。今日でも遊びに行くといえば大都会の歓楽街へくり出すことをいう場合が多いのは、そこに遊びの本質を見ているからであろう。高等遊民と呼ばれているらしい人たちも、生活が安定しているか否かに関わらず大都会にしかいない。ポツンと一軒家に暮らしている人たちは、自身では遊んでいると思っているかもしれないが、はたから見ていると農林畜産の作業に没頭している。山奥で窯を開いたりアート作品を創作している人も、何かを作っていることに変わりない。遊びの本質には蕩尽があり、何かを生み出すと途端に反することになる。
古代において大都会は宮都にしかなかった。したがって、「遊士」なる人は、ミヤビヲと訓まれて確からしいとわかる。そして、ミヤビという言葉は、宮が大都会と化す過程において生まれた言葉と考えられる。菊池2000.の指摘に付け加えるならば、ビという接尾語は、そのような状態にするという意味であるから、その言葉の形成過程、時代背景がそのままその言葉に宿ることになっている。言葉の定義を言葉のなかに展開して言葉のなかに収斂してしまうことは、無文字時代のヤマトコトバならではの発想といえよう。
このようにして生まれた「みやびを」という言葉に対して、どのように書き表すか考えた時、漢語に倣って「遊士」「風流士」と書いてしまおうとした。ただ単にうまく当てはまるからそう書いた。漢語上、「風流」の意味合いが時代により変化していっているなどという小難しいことは眼中にない。難しいことを勉強して考え定めているのではなく、ただ単に歌を歌って贈り合っていて、それをただ単に記録に留め置こうとしている。漢土における同字の文字表現例やその思想に拘泥することは考え違いである。
「みやびを」についての歌い合い
諸説に、石川女郎と大伴田主との間で「みやびを」についての認識に違いがあり、あるいは、概念の多様さを突いて悪口を言い合っているかのように捉えられてきたが誤りである。言葉は空中を飛び交っている。そしてすぐに消える。ああ言えばこう言いの議論をしているのではなく、極めて簡潔な短歌のやり取りをしている。「みやびを」について二首、追加してもう一首あるだけである。語義の曖昧さから議論しているのではなく、言葉の音を捉えて言い返している。なぜそうわかるかと言えば、音声言語はすぐに消えていくからである。ぐずぐずと反論に反論を繰り返すようなことが起こらないのは、あっという間に過去のことになる一回性の音声言語芸術だからである。うまいことを言うねえと互いに認め合っているのが歌の問答である。口喧嘩をしているのではなく、洒落を交わしている。
石川の女郎の言い分はこうである。あなたは洗練された都会人、ミヤビヲですよね。ミ(御)+ヤ(屋・舎)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)というのだから、ミヤ(御屋、宮)に止めてくれたっていいじゃないか。全く名前ばっかり格好つけておいて、のろまで間抜けなミヤビヲではないですか、と言っている。
それに対して大伴田主は、ミ(御)+ヤ(輻)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)なんですよ私は、宿泊業者ではなくてタクシー業者なのですよ、だからきちんとお送りしたのですよ、と答えている。ミヤ(宮)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)にふさわしく、道路が舗装された宮都らしいミヤビヲでしょう、というものである。車輪のスポークに当たるヤ(輻)が製作、維持管理できるようになったとき、はじめて車両は利用可能になった。本邦では牛車に限られる。そして、牛車は、宮都において貴人を乗せて運行している。平安時代でも牛車はもっぱら京の都のなかで用いられ、貴族専用のマイカーであった(注3)。遠出をしたとしても、石山寺、長谷寺、石清水八幡宮ぐらいまでではないか(注4)。車が宮都以外で人を乗せて運行した例は、明治になって人力車が誕生してからのことである。ミヤビな乗り物は、ヤ(輻)に支えられていたのであり、製作技術者がいなければミヤビを続けることができない。
左:輻付き車出土状況(桜井市小立古墳、7世紀後半、産経新聞、平成13年(西暦2001年)12月5日)、中:車作(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592444/17をトリミング)、右:路面に残された轍(長岡京跡二条条間北大路、竹井治雄「長岡京期の京都」『昔むかし・・・』京都府埋蔵文化財調査研究センターhttp://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/mukashi/mukashi-top.htm(88頁)をトリミング)
その次第について、126番歌の左注に詳しく説明されている。「仲郎」とわざわざ「字」、すなわち、呼び名が記されている。チウロウなどと音読みしていては当時の呼び名らしくない。ナカチコである。ナ(勿・莫)+カチ(徒歩)+コ(子)という意に聞こえる。移動に歩いたりしないミヤビな男という名を負っている。以下の左注の文章についてもヤマトコトバに読まなければ意味が通らない。火を乞われ、言われるがままに火を与えて「就レ跡」に帰らせたのは、タクシー業者の所業である。彼女が来た時、「蹢レ足」で来ている。足を引きずってできた「跡」とは、点々とついた足跡ではなく、線状に二本伸びた跡である。そんな跡を忠実に「就」くためには、車を出して轍が重なるようにするよりほかない(注5)。
万128番歌の左注に、大伴田主は足に障害があったように記されているが、貴人にしてそういう状況下に置かれていたら、必ず牛車を利用していたに違いあるまいという推測が行われている。なにしろ、彼の名は「田主」といい、大規模経営の田圃の主は耕作に牛馬を飼っていたことは、実際はどうであれ、言葉の上に明らかである。このことによってのみ、万128番歌の追補が必然的なものと受け取ることができる。「みやびを」問答に負けた石川女郎が悔し紛れに捨て台詞を吐いているわけではない。「国語」の授業でそうであるように、答えは本文の中に書いてある。
「葦若未乃」はアシカビノ
本文の校異として、万126番歌の左注最後に、「因作斯歌以贈諺戯焉」(西本願寺本)を諸本から「因作斯歌以贈謔戯焉」とし、また、万128番歌に、同じく「葦若未乃」を「葦若末乃」と意改している(注6)。「葦若末乃」は「足の末の」と訓みたがることから来るが、アシカビノで正しいのであろう。孤例であるが「足」にかかる枕詞とする説があり、その説に従うには根拠がある。「可美葦牙彦舅尊」(神代紀第一段一書第二・三)とあり、「彦舅、此には比古尼と云ふ。」と訓注が付き、記に、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」と対応している。彦舅とは良い夫の意である。これも枕詞に該当しよう。アシカビ、葦の芽生えは、種からのモヤシ(糵)であることもあるが、卑近に知られるのは大群生であり、地下茎の伸展によってもたらされる。白っぽい地下茎が伸びていって発根、発芽を見る。それは枝から小枝が分岐伸長することに同じであり、ヒコバエ(櫱・蘖)と同じだと考えられよう。地上に枝分かれするのではなく、地中、水面下にて枝分かれしているところをおもしろがって枕詞が作られている。よって、アシカビはヒコ(彦)にかかる。
アシの地下茎(ウィキペディア「ヨシ」、Kenraiz様、https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨシ)
ヒコ(彦)というニュアンスに、ヒク(引)という音は重なっている。ヒはともに甲類である。足を引くから「足痛」をアシヒクと訓むことが確かめられる。左注にも「足疾」とあり、アシナヘ(躄、足萎)のことを言っている。和名抄に、「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閉、此の間に那閉久と云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。ナヘとは、苗のこと、すなわち、カビである。言葉の連関がかなっているからこの歌は成立している。石川女郎のしていたことは、「似二賤嫗一己提二堝子一而到二寝側一哽レ音蹢レ足叩レ戸諮」であった。身をやつして火を貰いに行くのに、なにもわざわざ「堝子」を持って行ったことまで注さなくてかまわないはずであるところ、三首目にナヘ(萎)のことを言っているからというので、左注を付けた人が脚色していると推察される。「葦若未乃」という原文どおりにみてアシカビノと訓まれなければならない。
このように、言葉の音を頼りにした歌が歌われている。言葉の音ばかり気にしているというのは、無文字時代の言語活動からしていえば当たり前のことで、言葉そのものに拘っているということに他ならない。「不レ堪二拘接之計一」して、「拘レ言」しているということである。すると、万126番歌左注に「因作斯歌以贈諺戯焉」とあるのはあながち誤りとすることもできなくなる。石川女郎が「みやびを」問答を確かにその通りだ、アハ体験したと追認することで「みやびを」のやりとりは結に至る。そのとおりに終っているから、全体は言葉問答に終始していると理解される。言い出しっぺの石川女郎は、自らの行動を恥じるとともに、つれなくあしらわれたことに対する恨みを述べている。タハブレ、つまり、ふざけてお茶らかして誤魔化した、ないしは、男を意気地なしだとからかったとばかり評するのは外れている。事の焦点は言葉にある。「因作斯歌以贈諺戯焉」は、「因レ作二斯歌一以贈諺戯焉」、「因りて斯の歌を作りて贈り諺戯とす」などと訓むのかもしれない。「諺」のコトワザという常訓は、上代に、言葉の変化球をもってずばりと言い当てた短い言辞のことをいう。記紀に「諺」の例がいくつか伝えられている(注7)。この「諺戯」は、タハワザ、タハコトといった訓も試されようが、自らの「計」を覆いつくさなければならないから歌を作っているのである。タバカリゴトと言えば計略として「方便」に老婆に変装して訪問したことについて、自分のとった行動を完璧に取り繕うことを表す。タハケ、タハレ、タハブレなど、「戯」や「淫」字で表す意にの類音としてまとめたものと考えられる。
「耳」はヒコ
最後に残された課題は、万128番歌の「耳」である。再掲する。
吾が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足痛く吾が背 勤め給ぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)
今日までの解説に、「耳」とは、耳にした事柄、聞いた噂のことを表すとされている。通じないことはないが、「吾が聞きし 耳によく似る」という言い方は饒舌にすぎる。「我が聞きし 言によく似る」と理由が説明できず、上代語に他の用例を見ることもない。ほかに「耳」字をヤマトコトバに訓めないか検討の余地がある。「耳」字には、ジョウ・ニョウと発音する他義があって、七代あるいは八代目の子孫のことを示す。和名抄に、「仍孫 爾雅に云はく、昆孫の子を仍孫〈仍は重なり、今案ふるに七代の孫なり〉と為といふ。漢書注に耳孫と云ふ。仍と耳の声、相近し、蓋し一つの号なり。」とある。訓み方は特に記されていない。ただし、先に述べた「彦舅」に関連して、ヒコ(ヒ・コは甲類)と訓んだ可能性がある。和名抄に、「曽孫 爾雅に云はく、孫の子を曽孫〈曽は疎なり、和名は比々古〉と為といふ。」とある高松本には「曽孫」と右傍訓がある。また、皇極前紀に、「渟中倉太珠敷天皇曽孫」(兼右本右傍訓)、延喜式・神祇八祝詞・出雲国造神賀詞に、「阿遅須伎高孫根乃命」とある。新撰字鏡には、「杪 亡少・弥少二反、木末也、木細枝也、梢也、木高也、木乃枝、又比古江」とある。ここに、校異の「未」・「末」は実はいずれにせよアシカビノと訓まれ得るとわかる。漢土ほどに祖先崇拝が盛んであったとは考えにくい本邦においては、遠い子孫のことは皆、ヒコで一括して捉えられてかまわないように思われる。
「耳」字をヒコに用いて憚らない理由は、「聞」字に引きずられつつひと捻りされているからとも考えられる。山彦である。万葉集の用字に、「山彦」(万971・1762・1937)のほか、「山響」(万1761)とある。本邦に知恵ある人がいて、ヒコがかなり遠い孫のことを表すことを思えば、音の聯なり順は正しいけれど、かなり遠くで発せられて耳にかすかなもののことを山彦と命名したのである。なるほどそういうことかと合点が行って、ヒコに「耳」字を当てて書いている。
そしてまた、孫、ならびに子孫一般のことは、ムマゴとも呼ばれた。和名抄に、「孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈音は尊、和名は無麻古〉と為といふ。」とある。ムマゴはウマゴとも言い、馬子、すなわち、仔馬のことである。その仔馬に「好似」、よく似たものにロバ(驢馬)がいる。遠く百済から献上されたものとして、「驢一匹」(推古紀七年九月)と訓まれている(注8)。和名抄にも、「驢騾 説文に云はく、驢〈力居反、閭と同じ、宇佐岐無末〉は馬に似て長き耳なり、騾〈音は螺〉は驢の父、馬の母の生む所なりといふ。」とある。ウサギのように耳が長いところからの命名とされている。かなり遠いけれど子孫のようなヒコには、「耳」という特徴があるということになる。
この考えを推し進めると、大伴田主が石川女郎を送った車は、ひょっとすると馬車であったかもしれないことになる。本邦古代に馬車の行われたとする記録はなく、また、漢土に馬車の行われているとの知識からの用字であるかもしれないが、田の経営に、牛耕、馬耕はともに行われていた。貴族の乗り物として牛車が文化的存在として確かなものになったのは平安京においてである。それよりも百年ほど前の藤原京にどの程度普及していたか未詳である。万128番歌の左注に、「足疾」と殊更に記されていることについて、無文字時代の言語感覚から推測を加えるなら、大伴田主がほんとうに「足疾」であったことを意味して皮肉なもの謂いなのかもしれないが、車を引く動力源が「足疾」の動物であった可能性も浮上する。主人も家畜もともに「足疾」であることは、声として飛んで消えていく言葉を納得ずくで理解する際の言語活動としてとてもふさわしい。二つの次元で「足疾」なのだから、まことにうまく言い当てていると考え落ちることになる。馬は本来、早く走るもので、「疾」走するものであるところ、馬の遠い孫のロバのようにのろまな「足疾」に堕してしまったものがいて、そんな「足疾」の馬に引かれる馬車に乗せられて帰された石川女郎の口をついて出たヒコは、ウサギウマ(驢馬)に値していると考えて「耳」と筆録されたのではないか。「おその風流士」のオソとは、遅い動きをする(注9)ものであり、この三首が一歌群を成していることをよく物語っている。
ロバ(オナジャー)の馬車(ウルのスタンダード「戦争の場面」、大英博物館蔵、ウィキメディアコモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Standard_of_Ur_-_War.jpgをトリミング)
「耳」字をヒコと訓むと次のようになる。
吾が聞きし ひこによく似る 葦かびの 足痛く吾が背 勤め給ぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)
(大意)私が聞いた「the 男」を表すヒコという言葉のヒコバエとよく似ている、葦の発芽もやしに当たる地下茎の引き伸びていく葦かびの、その足を引くあなた様、ご自愛ください。
石川女郎にとって、帰されるにしても車に乗せられて帰されるだなんて想定外だったのである。言うに事欠いてミ(御)+ヤ(輻)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)などと言って来た。どうして車がスタンバイしてあるのよ、御身足がお悪いからですかねえ、ということで言葉を切り返している。歌の切り返しは、道行きの切り返しに対応し、即応している。瞬時の頓智が歌を報贈する要である。状況の説明を歌のなかに入れ込むことで、発した言葉がその言葉をその瞬間に自己拘束的に定義する作為が行われている。上代の無文字時代の思考に合致しており、その賜物というにふさわしい歌である。
おわりに─万葉集研究の現状に対して─
石川女郎と大伴田主との間でくり広げられた三首の歌は、皆、ヤマトコトバの音に基づいた機知、頓智の歌であった。これまでの説に唱えられていたように、宋玉・登徒子好色賦や司馬相如・美人賦、徐陵・玉台新詠序、遊仙窟など漢籍由来の典故があるわけではない。左注をつけた人は、歌の内容を説明するためにヤマトコトバを書記するために、漢籍の文字面をアンチョコにしているにすぎない。むろん、漢籍を典拠に歌が歌われていないと証明することはできない。厩戸皇子が厩に生まれたとするのはキリスト生誕伝承が伝わったからだとする主張を否定できないのと同じである。悪魔の証明に立ち入るには及ばない(注10)。
とはいえ、状況を考えてみれば、漢籍由来の典故で歌が歌われているとする考え方には無理がある。フ(ウ)リウ(風流)が歌に歌われているわけではなく、ミヤビが歌に歌われている。音が空中を飛んでいる。そしてまた、漢籍を典故としているとするならば、石川女郎、大伴田主、さらにこの歌を書き記した万葉集巻二の編者はもとより、同時代の多くの人々の間で共通の認識として漢籍を典故にしていると認識されていなければ歌として成り立たない。人に聞いてもらえるから歌なのであって、周りにいるのは舎人や采女など無教養にして平凡な人たちである。当時学校はなかったから、どうやって漢籍の知識を多くの人が身につけたか問われなければならない。漢籍を繙いて勉強する暇があったら、舎人・采女よ、働け、と言われたであろう。舎人・采女は身の回り、家事全般の雑事に携わるシャドウワーカーである。無観客の歌合戦が配信されることもないまま行われてもおもしろいものではない。記録されればいいとは考えられない。万葉集に記されて、さて誰が閲覧して喜んだのか不明である。平安時代に読むことさえ難しく、その状況は一部、今日へと続いている。歌が歌われた時には皆がわかっていたから歌われていた。わからないことの朗誦に付き合っていた奇特な人が万葉集編者であったとは考えられない。
大伴田主は「遊士」だから働かなくて良かったかもしれず、左注にあるとおりいい男であったかもしれない。だが、漢籍の勉強家であったとも思われない。今でもそうであるように、勉強ができるからといってモテるというわけではない。文学好きな人が文学に詳しい異性に惚れるのはマニアックなことであって、「容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡レ不二歎息一也」とは無関係である。歌い出しているのは石川女郎の方だから、彼女が漢籍の知識を自家薬籠中にするぐらい勉強家だった可能性がないわけではないし、昨今のハロウィーンのように老婆に変装することもあったかもしれないが、そうなると今度はそのギャップを埋める新たな理屈が求められなければならない。
そして、もし少しでも知識において互いの間、それは歌の応酬をしている二人の間、ならびに歌を歌う人と周りで聞く人との間の両方であるが、共有しきれていない内容が歌われていたとすると、そのときにはすでに歌の基盤に瑕疵が生じていることになる。声に出して歌っているのだから、多くの人は聞いてすぐに理解しなければならない。どんどん声は消えてなくなってしまう。瞬時に理解できない人が多く出てきたら、歌はもはやコミュニケーションツールとして機能していないことになる。歌はモノローグでもなければ、ダイアローグでもない。 その場にいる人々の間で互いに言葉を確かめ合っては即時共有されるものである。共有される言葉をもってしか歌われることはない(注11)。
(注)
(注1)先行研究には筆者を困らせるものが多い。歌の問答を、評判にも似ぬ間抜けな風流人よ→女を泊めずに帰した私こそ風流人→噂どおり葦の葉先のようにふらふらと足をひきずっている貴方お大事に、というやりとりであるとする説が有力視されているが、それでは子どもの言い合いということになってしまう。石川女郎と大伴田主の「みやびを」像の違いを漢籍の典拠の違い、ないし、その評価の違いに求める説があるが、追補されて左注の人が説明を付すに何ら疑問を持たない万128番歌はなにゆえそこにあるのか、提題さえなされずに議論されている。歌群全体について、作り物語、虚構の作品、中国文学に暗示を得たフィクション的小説といった捉え方、また、左注は大伴田主の作文とする説まであるが、なぜわざわざ仮構したのか、その目的についての言及はなく、単なる印象論がまかり通っている。歌群の全体構成の図面が読めないままでは建物は建たず、議論のための議論に終始している。石川女郎、大伴田主という人物が実在の人物か、そして誰なのか、といったことも検討されているが、事実を求めているのか、史実を求めているのか、とても曖昧である。歌とは何か、言葉とは何か、本質を抜きにした“注釈”、“解説”、“論考”は、感想文にすぎない。
(注2)「みやぶ」「みやび」という語を、宮廷風にふるまうこと、文雅を解する宮廷人の意とする安直な説が見られるが、語の本義を掴めていない。「みやぶ」「みやび」の対義語は「ひなぶ」「ひなび」である。鄙へ行って宮廷風にふるまうことは難しい。宮廷文学に触れられなくて残念というばかりではない。今日、アウトレットモールが各地に点在するが、銀座や表参道、新宿でブランド品を買うこととは買い物という行為に質的な違いがある。“文化資本”(ブルデュー)の萌芽を「みやぶ」「みやび」という語の発生は物語っている。後述するように、牛車生活を送ろうにも車師、車作がいなければそうはいかない。物質的なものを排して精神的に「~風にふるまう」ことなどできない。
(注3)京樂2017.は、「牛車は、都の文化そのものなのであった。」(26頁)と端的に述べている。
(注4)櫻井2012.に、「牛車の運行地域は、全国的にみると極めて限定されていた。それは平安京を中心にして畿内の主要道が走る地域であった。これ以外で牛車の使用が確認できるのは、斎王群行での伊勢道、鎌倉幕府の中心・鎌倉、『一遍上人絵伝』での薩摩・大隅八幡宮、江戸時代の和宮降嫁等であり、荷物運搬の牛車では江戸である。あと、平安時代末期の『更級日記』で上総国(千葉県)での乗車記述があるが、牛車か腰車かがわからない。」 (39頁)とある。
(注5)「跡」は、足跡のことばかりでない。春秋左氏伝・昭公十二年に、「昔穆王欲レ肆二其心一、周行二天下一、将皆必有二車轍馬跡一焉。」などと見える。
(注6)澤瀉1958.126~128頁参照。
(注7)「雉の頓使」、「地得ぬ玉作」、「さば海人」、「堅石も酔人を避く」、「海人なれや、己が物から泣く」の類である。拙稿「記紀の諺」の諸稿参照。
(注8)この時、「百済、駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻を貢れり。」と、まことに遠い大陸奥地の珍しい動物が贈られている。距離にして、百済が子なら、唐は孫だが、それより遠い曽孫にあたるモンゴル、タクラマカン、チベットの動物と捉えられよう。
(注9)オソについては、拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。
(注10)上代の日本文学と中国文学の関係についての検討は注意を要する。「人草」(記上)とあってヒトクサと訓む言葉はヤマトコトバがある。中国にジンソウという語は見られない。ものを考えるのに母語をもって考えるのがふつうであり、今日ほどに外国語教育が進んでいてもバイリンガルな人は数少ない。ラブレターに英語で書いてきたら詐欺を疑ったほうが賢明であったりする。記紀万葉に見られる漢語の面をした表記に対し、ようやく見つけた出典のとおりの意味であると定められようはずはない。仮に万葉歌が漢語の背景を豊富に盛り込んだものであるとして、その後の和歌文学へ伝承されていないことはどう説明されるのか。ヤマトコトバとしか考えられないのに意味のはっきりしない枕詞となぜ同居しているのか。思いめぐらした論考を見ない。
(注11)上代の日本文学と中国文学の関係について検討を加えて過度に評価することの危険性はここにも存する。研究者が何年もかかって見つけた“新典故”のことを、実際に歌が歌われている最中の数秒の間に、付近にたまたま居合わせた舎人や采女がどうして知っているのか、ということに思い至っていない。「歌」とは何かを無視した研究者の自己満足ではないか。
(引用・参考文献)
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古代交通研究第13号 古代交通研究会編『古代交通研究』第13号、同発行、2004年5月。
櫻井2012. 櫻井芳昭『牛車(ぎっしゃ)』法政大学出版局、2012年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
鈴木2006. 鈴木淳「みやびを考」『國學院雑誌』第107巻第11号、2006年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
仁平2000. 仁平道明『和漢比較文学論考』武蔵野書院、平成12年。
(English Summary)
Manyoshu Vol. 2. No.126-128, the questions and answers of poems by Ishikawa-nö-Iratume and Öfötömö-nö-Tanusi have been misunderstood as a matter of sophistication, Chinese「風流」. However, since poems of Manyoshu were completely chanted as Japanese vocal language, Yamato Kotoba, we must think only of sounds. Thinking so, it turns out that the word "Miyabï 「みやび」" was interpreted as a joke about an accommodation business, or it about a passenger transportation business. And we can be confident that No.128 poem was also one of a series of ones.
※本稿は、2021年7月稿を2023年12月にルビ形式に改め、2025年1月に誤っている部分を削除したものである。
万葉集巻2・126~128番歌は、石川女郎と大伴田主の二人による歌問答である。三首目の万128番歌を含めた一歌群であり、三首目まで通観されて理解が得られないうちは正解とは言えない。
石川女郎の大伴宿祢田主に贈る歌一首〈即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母を巨勢朝臣と曰ふ〉
遊士と 吾は聞けるを 屋戸貸さず 吾を還せり おその風流士(万126)
大伴田主は字を仲郎と曰へり。容姿佳艶しく風流秀絶れたり。見る人聞く者、歎息かざるは靡し。時に石川女郎といふもの有り。 自ら雙栖の感を成して、恒に独守の難きを悲しぶ。意に書を寄せむと欲ふも未だ良信に逢はず。爰に方便を作して賤しき嫗に似せて己堝子を提げて寝の側に到りて、音に哽び足に蹢きて戸を叩き諮ひて曰はく、「東の隣の貧しき女、将に火を取らむと来れり」といふ。是に仲郎、暗き裏に冒隠せる形を識らず。慮の外にして拘接の計に堪へず。念の任に火を取り、跡に就きて帰し去らしめき。明けて後、女郎、既に自ら媒の愧づべきを恥ぢ、復心の契の果さざるを恨む。因りて斯の歌を作り贈るを以て謔戯とす。
大伴宿祢田主、報へ贈る歌一首
遊士に 吾はありけり 屋戸貸さず 還しし吾そ 風流士にはある(万127)
同じ石川女郎、更に大伴田主中郎に贈る歌一首
吾が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足痛く吾が背 勤め給ぶべし(万128)
右、中郎の足の疾に依りて此の歌を贈りて問訊ふそ。
石川女郎贈大伴宿祢田主歌一首〈即佐保大納言大伴卿之第二子母曰巨勢朝臣也〉
遊士跡吾者聞流乎屋戸不借吾乎還利於曽能風流士
大伴田主字曰仲郎容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡不歎息也時有石川女郎自成雙栖之感恒悲獨守之難意欲寄書未逢良信爰作方便而似賤嫗己提堝子而到寝側哽音蹢足叩戸諮曰東隣貧女将取火来矣於是仲郎暗裏非識冒隠之形慮外不堪拘接之計任念取火就跡歸去也明後女郎既恥自媒之可愧復恨心契之弗果因作斯歌以贈謔戯焉
大伴宿祢田主報贈歌一首
遊士尓吾者有家里屋戸不借令還吾曽風流士者有
同石川女郎更贈大伴田主中郎歌一首
吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思
右依中郎足疾贈此歌問訊也
通説では、一・二首に「みやびを」問答が行われていて、それとは意を異にする歌が三首目に追加されかのように前提されて論じられている。一・二首目の解釈において、その語義にばかり注意が走り、あたかも「みやびを」論争の体を成している。最適解は遠い(注1)。
今日、「遊士」「風流士」という用字はミヤビヲと訓まれている。古くはアソビヲ、タハレヲと訓まれたこともあり、ミヤビヲという訓で正しいのかさえ疑われている。筆者は正しいと考える。そしてまた、「風流」という漢字の意味とヤマトコトバのミヤビとがどのように対照されるのかが疑問視され、決着がつかないままに置かれている。
これらは歌われた歌にすぎない。歌なのだから声をあげて歌われている。したがって、「風流」という漢語の意味合いなどどうでも構わない。万126番歌に左注が施されており、それがおおむね漢文調だから惑わされている。しかし、左注は歌われた歌を説明しているだけである。主役は歌である。歌はヤマトコトバで歌われた。その説明もヤマトコトバで行われた。漢語の奥義まで考える必要はない、ないしは、括弧に入れて考えれば良いことである。漢語で考えたいなら、漢詩に作られていない理由を問わなければならない。
用字「風流」・「遊」
菊池2000.の指摘は傾聴に値する。都市化、都会化がもたらした人々の心情への変化を的確に捉えている(注2)。
ミヤブの名詞形であるミヤビは、宮廷的・都会的なことであり、洗練された文化的な感覚を基調に、上品で優雅なことを内容とする美的理念であった。……年代的に早いのは、藤原の宮の時代の作である大伴田主と石川女郎の贈答歌……のミヤビヲの例である。藤原の宮の時代は、律令国家の形成にともない文物が整えられた時代である。しかも、都は都城制へと移行する……。この時代に整えられた文物が、中央の宮廷を中心とすることはいうまでもなく、都城が恒常化するなかで、そうした文物はひとつの文化的規範として定着することになる。『万葉集』でミヤビの用例がこの時代にみえはじめるのも、こうした時代状況を反映してのことであった。……梅の花がみやびな花としてさかんにうたわれた万葉の後期には、梅に限らず、周囲の自然は官人・貴族たちの宴席を彩る景物として、みやびな目でとらえられ、しだいに季節の景物として固定した。万葉の自然は信仰を基盤としつつも、その一方で、季節を彩る景物としてその美を見いだされたのである。それは、信仰から美へという日本の美意識の展開における基本的な構図でもあった。(253~255頁)
「遊士」の「遊」という字はヤマトコトバにアソブにほかならない。人は誰しも遊ぶものと思うのは、上代の語義と乖離する。一般の人は年がら年中仕事をしている。年に数回、お祭りや宴会をしてあそぶ。夜の街の接客業のように、遊びを職業としているわけではない。古代において、「遊ぶ」は、歌舞音曲を楽しむことが原義とされている。葬祭業に「遊部」があった。葬送や招魂の儀礼に歌い奏で、哭き喚き、舞い踊ることをした。それ以外では、動詞に「遊ばす」とあるように、高貴な人の行為を指して言った。生産活動をしないで遊んでばかりいる人たちに対して使われている。そのような人は宮都にいる。今日でも遊びに行くといえば大都会の歓楽街へくり出すことをいう場合が多いのは、そこに遊びの本質を見ているからであろう。高等遊民と呼ばれているらしい人たちも、生活が安定しているか否かに関わらず大都会にしかいない。ポツンと一軒家に暮らしている人たちは、自身では遊んでいると思っているかもしれないが、はたから見ていると農林畜産の作業に没頭している。山奥で窯を開いたりアート作品を創作している人も、何かを作っていることに変わりない。遊びの本質には蕩尽があり、何かを生み出すと途端に反することになる。
古代において大都会は宮都にしかなかった。したがって、「遊士」なる人は、ミヤビヲと訓まれて確からしいとわかる。そして、ミヤビという言葉は、宮が大都会と化す過程において生まれた言葉と考えられる。菊池2000.の指摘に付け加えるならば、ビという接尾語は、そのような状態にするという意味であるから、その言葉の形成過程、時代背景がそのままその言葉に宿ることになっている。言葉の定義を言葉のなかに展開して言葉のなかに収斂してしまうことは、無文字時代のヤマトコトバならではの発想といえよう。
このようにして生まれた「みやびを」という言葉に対して、どのように書き表すか考えた時、漢語に倣って「遊士」「風流士」と書いてしまおうとした。ただ単にうまく当てはまるからそう書いた。漢語上、「風流」の意味合いが時代により変化していっているなどという小難しいことは眼中にない。難しいことを勉強して考え定めているのではなく、ただ単に歌を歌って贈り合っていて、それをただ単に記録に留め置こうとしている。漢土における同字の文字表現例やその思想に拘泥することは考え違いである。
「みやびを」についての歌い合い
諸説に、石川女郎と大伴田主との間で「みやびを」についての認識に違いがあり、あるいは、概念の多様さを突いて悪口を言い合っているかのように捉えられてきたが誤りである。言葉は空中を飛び交っている。そしてすぐに消える。ああ言えばこう言いの議論をしているのではなく、極めて簡潔な短歌のやり取りをしている。「みやびを」について二首、追加してもう一首あるだけである。語義の曖昧さから議論しているのではなく、言葉の音を捉えて言い返している。なぜそうわかるかと言えば、音声言語はすぐに消えていくからである。ぐずぐずと反論に反論を繰り返すようなことが起こらないのは、あっという間に過去のことになる一回性の音声言語芸術だからである。うまいことを言うねえと互いに認め合っているのが歌の問答である。口喧嘩をしているのではなく、洒落を交わしている。
石川の女郎の言い分はこうである。あなたは洗練された都会人、ミヤビヲですよね。ミ(御)+ヤ(屋・舎)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)というのだから、ミヤ(御屋、宮)に止めてくれたっていいじゃないか。全く名前ばっかり格好つけておいて、のろまで間抜けなミヤビヲではないですか、と言っている。
それに対して大伴田主は、ミ(御)+ヤ(輻)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)なんですよ私は、宿泊業者ではなくてタクシー業者なのですよ、だからきちんとお送りしたのですよ、と答えている。ミヤ(宮)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)にふさわしく、道路が舗装された宮都らしいミヤビヲでしょう、というものである。車輪のスポークに当たるヤ(輻)が製作、維持管理できるようになったとき、はじめて車両は利用可能になった。本邦では牛車に限られる。そして、牛車は、宮都において貴人を乗せて運行している。平安時代でも牛車はもっぱら京の都のなかで用いられ、貴族専用のマイカーであった(注3)。遠出をしたとしても、石山寺、長谷寺、石清水八幡宮ぐらいまでではないか(注4)。車が宮都以外で人を乗せて運行した例は、明治になって人力車が誕生してからのことである。ミヤビな乗り物は、ヤ(輻)に支えられていたのであり、製作技術者がいなければミヤビを続けることができない。
左:輻付き車出土状況(桜井市小立古墳、7世紀後半、産経新聞、平成13年(西暦2001年)12月5日)、中:車作(蒔絵師源三郎ほか・人倫訓蒙図彙、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2592444/17をトリミング)、右:路面に残された轍(長岡京跡二条条間北大路、竹井治雄「長岡京期の京都」『昔むかし・・・』京都府埋蔵文化財調査研究センターhttp://www.kyotofu-maibun.or.jp/data/mukashi/mukashi-top.htm(88頁)をトリミング)
その次第について、126番歌の左注に詳しく説明されている。「仲郎」とわざわざ「字」、すなわち、呼び名が記されている。チウロウなどと音読みしていては当時の呼び名らしくない。ナカチコである。ナ(勿・莫)+カチ(徒歩)+コ(子)という意に聞こえる。移動に歩いたりしないミヤビな男という名を負っている。以下の左注の文章についてもヤマトコトバに読まなければ意味が通らない。火を乞われ、言われるがままに火を与えて「就レ跡」に帰らせたのは、タクシー業者の所業である。彼女が来た時、「蹢レ足」で来ている。足を引きずってできた「跡」とは、点々とついた足跡ではなく、線状に二本伸びた跡である。そんな跡を忠実に「就」くためには、車を出して轍が重なるようにするよりほかない(注5)。
万128番歌の左注に、大伴田主は足に障害があったように記されているが、貴人にしてそういう状況下に置かれていたら、必ず牛車を利用していたに違いあるまいという推測が行われている。なにしろ、彼の名は「田主」といい、大規模経営の田圃の主は耕作に牛馬を飼っていたことは、実際はどうであれ、言葉の上に明らかである。このことによってのみ、万128番歌の追補が必然的なものと受け取ることができる。「みやびを」問答に負けた石川女郎が悔し紛れに捨て台詞を吐いているわけではない。「国語」の授業でそうであるように、答えは本文の中に書いてある。
「葦若未乃」はアシカビノ
本文の校異として、万126番歌の左注最後に、「因作斯歌以贈諺戯焉」(西本願寺本)を諸本から「因作斯歌以贈謔戯焉」とし、また、万128番歌に、同じく「葦若未乃」を「葦若末乃」と意改している(注6)。「葦若末乃」は「足の末の」と訓みたがることから来るが、アシカビノで正しいのであろう。孤例であるが「足」にかかる枕詞とする説があり、その説に従うには根拠がある。「可美葦牙彦舅尊」(神代紀第一段一書第二・三)とあり、「彦舅、此には比古尼と云ふ。」と訓注が付き、記に、「宇摩志阿斯訶備比古遅神」と対応している。彦舅とは良い夫の意である。これも枕詞に該当しよう。アシカビ、葦の芽生えは、種からのモヤシ(糵)であることもあるが、卑近に知られるのは大群生であり、地下茎の伸展によってもたらされる。白っぽい地下茎が伸びていって発根、発芽を見る。それは枝から小枝が分岐伸長することに同じであり、ヒコバエ(櫱・蘖)と同じだと考えられよう。地上に枝分かれするのではなく、地中、水面下にて枝分かれしているところをおもしろがって枕詞が作られている。よって、アシカビはヒコ(彦)にかかる。
アシの地下茎(ウィキペディア「ヨシ」、Kenraiz様、https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨシ)
ヒコ(彦)というニュアンスに、ヒク(引)という音は重なっている。ヒはともに甲類である。足を引くから「足痛」をアシヒクと訓むことが確かめられる。左注にも「足疾」とあり、アシナヘ(躄、足萎)のことを言っている。和名抄に、「蹇 説文に云はく、蹇〈音は犬、訓は阿之奈閉、此の間に那閉久と云ふ〉は行くこと正しからざるなりといふ。」とある。ナヘとは、苗のこと、すなわち、カビである。言葉の連関がかなっているからこの歌は成立している。石川女郎のしていたことは、「似二賤嫗一己提二堝子一而到二寝側一哽レ音蹢レ足叩レ戸諮」であった。身をやつして火を貰いに行くのに、なにもわざわざ「堝子」を持って行ったことまで注さなくてかまわないはずであるところ、三首目にナヘ(萎)のことを言っているからというので、左注を付けた人が脚色していると推察される。「葦若未乃」という原文どおりにみてアシカビノと訓まれなければならない。
このように、言葉の音を頼りにした歌が歌われている。言葉の音ばかり気にしているというのは、無文字時代の言語活動からしていえば当たり前のことで、言葉そのものに拘っているということに他ならない。「不レ堪二拘接之計一」して、「拘レ言」しているということである。すると、万126番歌左注に「因作斯歌以贈諺戯焉」とあるのはあながち誤りとすることもできなくなる。石川女郎が「みやびを」問答を確かにその通りだ、アハ体験したと追認することで「みやびを」のやりとりは結に至る。そのとおりに終っているから、全体は言葉問答に終始していると理解される。言い出しっぺの石川女郎は、自らの行動を恥じるとともに、つれなくあしらわれたことに対する恨みを述べている。タハブレ、つまり、ふざけてお茶らかして誤魔化した、ないしは、男を意気地なしだとからかったとばかり評するのは外れている。事の焦点は言葉にある。「因作斯歌以贈諺戯焉」は、「因レ作二斯歌一以贈諺戯焉」、「因りて斯の歌を作りて贈り諺戯とす」などと訓むのかもしれない。「諺」のコトワザという常訓は、上代に、言葉の変化球をもってずばりと言い当てた短い言辞のことをいう。記紀に「諺」の例がいくつか伝えられている(注7)。この「諺戯」は、タハワザ、タハコトといった訓も試されようが、自らの「計」を覆いつくさなければならないから歌を作っているのである。タバカリゴトと言えば計略として「方便」に老婆に変装して訪問したことについて、自分のとった行動を完璧に取り繕うことを表す。タハケ、タハレ、タハブレなど、「戯」や「淫」字で表す意にの類音としてまとめたものと考えられる。
「耳」はヒコ
最後に残された課題は、万128番歌の「耳」である。再掲する。
吾が聞きし 耳によく似る 葦かびの 足痛く吾が背 勤め給ぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)
今日までの解説に、「耳」とは、耳にした事柄、聞いた噂のことを表すとされている。通じないことはないが、「吾が聞きし 耳によく似る」という言い方は饒舌にすぎる。「我が聞きし 言によく似る」と理由が説明できず、上代語に他の用例を見ることもない。ほかに「耳」字をヤマトコトバに訓めないか検討の余地がある。「耳」字には、ジョウ・ニョウと発音する他義があって、七代あるいは八代目の子孫のことを示す。和名抄に、「仍孫 爾雅に云はく、昆孫の子を仍孫〈仍は重なり、今案ふるに七代の孫なり〉と為といふ。漢書注に耳孫と云ふ。仍と耳の声、相近し、蓋し一つの号なり。」とある。訓み方は特に記されていない。ただし、先に述べた「彦舅」に関連して、ヒコ(ヒ・コは甲類)と訓んだ可能性がある。和名抄に、「曽孫 爾雅に云はく、孫の子を曽孫〈曽は疎なり、和名は比々古〉と為といふ。」とある高松本には「曽孫」と右傍訓がある。また、皇極前紀に、「渟中倉太珠敷天皇曽孫」(兼右本右傍訓)、延喜式・神祇八祝詞・出雲国造神賀詞に、「阿遅須伎高孫根乃命」とある。新撰字鏡には、「杪 亡少・弥少二反、木末也、木細枝也、梢也、木高也、木乃枝、又比古江」とある。ここに、校異の「未」・「末」は実はいずれにせよアシカビノと訓まれ得るとわかる。漢土ほどに祖先崇拝が盛んであったとは考えにくい本邦においては、遠い子孫のことは皆、ヒコで一括して捉えられてかまわないように思われる。
「耳」字をヒコに用いて憚らない理由は、「聞」字に引きずられつつひと捻りされているからとも考えられる。山彦である。万葉集の用字に、「山彦」(万971・1762・1937)のほか、「山響」(万1761)とある。本邦に知恵ある人がいて、ヒコがかなり遠い孫のことを表すことを思えば、音の聯なり順は正しいけれど、かなり遠くで発せられて耳にかすかなもののことを山彦と命名したのである。なるほどそういうことかと合点が行って、ヒコに「耳」字を当てて書いている。
そしてまた、孫、ならびに子孫一般のことは、ムマゴとも呼ばれた。和名抄に、「孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈音は尊、和名は無麻古〉と為といふ。」とある。ムマゴはウマゴとも言い、馬子、すなわち、仔馬のことである。その仔馬に「好似」、よく似たものにロバ(驢馬)がいる。遠く百済から献上されたものとして、「驢一匹」(推古紀七年九月)と訓まれている(注8)。和名抄にも、「驢騾 説文に云はく、驢〈力居反、閭と同じ、宇佐岐無末〉は馬に似て長き耳なり、騾〈音は螺〉は驢の父、馬の母の生む所なりといふ。」とある。ウサギのように耳が長いところからの命名とされている。かなり遠いけれど子孫のようなヒコには、「耳」という特徴があるということになる。
この考えを推し進めると、大伴田主が石川女郎を送った車は、ひょっとすると馬車であったかもしれないことになる。本邦古代に馬車の行われたとする記録はなく、また、漢土に馬車の行われているとの知識からの用字であるかもしれないが、田の経営に、牛耕、馬耕はともに行われていた。貴族の乗り物として牛車が文化的存在として確かなものになったのは平安京においてである。それよりも百年ほど前の藤原京にどの程度普及していたか未詳である。万128番歌の左注に、「足疾」と殊更に記されていることについて、無文字時代の言語感覚から推測を加えるなら、大伴田主がほんとうに「足疾」であったことを意味して皮肉なもの謂いなのかもしれないが、車を引く動力源が「足疾」の動物であった可能性も浮上する。主人も家畜もともに「足疾」であることは、声として飛んで消えていく言葉を納得ずくで理解する際の言語活動としてとてもふさわしい。二つの次元で「足疾」なのだから、まことにうまく言い当てていると考え落ちることになる。馬は本来、早く走るもので、「疾」走するものであるところ、馬の遠い孫のロバのようにのろまな「足疾」に堕してしまったものがいて、そんな「足疾」の馬に引かれる馬車に乗せられて帰された石川女郎の口をついて出たヒコは、ウサギウマ(驢馬)に値していると考えて「耳」と筆録されたのではないか。「おその風流士」のオソとは、遅い動きをする(注9)ものであり、この三首が一歌群を成していることをよく物語っている。
ロバ(オナジャー)の馬車(ウルのスタンダード「戦争の場面」、大英博物館蔵、ウィキメディアコモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:Standard_of_Ur_-_War.jpgをトリミング)
「耳」字をヒコと訓むと次のようになる。
吾が聞きし ひこによく似る 葦かびの 足痛く吾が背 勤め給ぶべし〔吾聞之耳尓好似葦若未乃足痛吾勢勤多扶倍思〕(万128)
(大意)私が聞いた「the 男」を表すヒコという言葉のヒコバエとよく似ている、葦の発芽もやしに当たる地下茎の引き伸びていく葦かびの、その足を引くあなた様、ご自愛ください。
石川女郎にとって、帰されるにしても車に乗せられて帰されるだなんて想定外だったのである。言うに事欠いてミ(御)+ヤ(輻)+ビ(接尾語)+ヲ(士・男)などと言って来た。どうして車がスタンバイしてあるのよ、御身足がお悪いからですかねえ、ということで言葉を切り返している。歌の切り返しは、道行きの切り返しに対応し、即応している。瞬時の頓智が歌を報贈する要である。状況の説明を歌のなかに入れ込むことで、発した言葉がその言葉をその瞬間に自己拘束的に定義する作為が行われている。上代の無文字時代の思考に合致しており、その賜物というにふさわしい歌である。
おわりに─万葉集研究の現状に対して─
石川女郎と大伴田主との間でくり広げられた三首の歌は、皆、ヤマトコトバの音に基づいた機知、頓智の歌であった。これまでの説に唱えられていたように、宋玉・登徒子好色賦や司馬相如・美人賦、徐陵・玉台新詠序、遊仙窟など漢籍由来の典故があるわけではない。左注をつけた人は、歌の内容を説明するためにヤマトコトバを書記するために、漢籍の文字面をアンチョコにしているにすぎない。むろん、漢籍を典拠に歌が歌われていないと証明することはできない。厩戸皇子が厩に生まれたとするのはキリスト生誕伝承が伝わったからだとする主張を否定できないのと同じである。悪魔の証明に立ち入るには及ばない(注10)。
とはいえ、状況を考えてみれば、漢籍由来の典故で歌が歌われているとする考え方には無理がある。フ(ウ)リウ(風流)が歌に歌われているわけではなく、ミヤビが歌に歌われている。音が空中を飛んでいる。そしてまた、漢籍を典故としているとするならば、石川女郎、大伴田主、さらにこの歌を書き記した万葉集巻二の編者はもとより、同時代の多くの人々の間で共通の認識として漢籍を典故にしていると認識されていなければ歌として成り立たない。人に聞いてもらえるから歌なのであって、周りにいるのは舎人や采女など無教養にして平凡な人たちである。当時学校はなかったから、どうやって漢籍の知識を多くの人が身につけたか問われなければならない。漢籍を繙いて勉強する暇があったら、舎人・采女よ、働け、と言われたであろう。舎人・采女は身の回り、家事全般の雑事に携わるシャドウワーカーである。無観客の歌合戦が配信されることもないまま行われてもおもしろいものではない。記録されればいいとは考えられない。万葉集に記されて、さて誰が閲覧して喜んだのか不明である。平安時代に読むことさえ難しく、その状況は一部、今日へと続いている。歌が歌われた時には皆がわかっていたから歌われていた。わからないことの朗誦に付き合っていた奇特な人が万葉集編者であったとは考えられない。
大伴田主は「遊士」だから働かなくて良かったかもしれず、左注にあるとおりいい男であったかもしれない。だが、漢籍の勉強家であったとも思われない。今でもそうであるように、勉強ができるからといってモテるというわけではない。文学好きな人が文学に詳しい異性に惚れるのはマニアックなことであって、「容姿佳艶風流秀絶見人聞者靡レ不二歎息一也」とは無関係である。歌い出しているのは石川女郎の方だから、彼女が漢籍の知識を自家薬籠中にするぐらい勉強家だった可能性がないわけではないし、昨今のハロウィーンのように老婆に変装することもあったかもしれないが、そうなると今度はそのギャップを埋める新たな理屈が求められなければならない。
そして、もし少しでも知識において互いの間、それは歌の応酬をしている二人の間、ならびに歌を歌う人と周りで聞く人との間の両方であるが、共有しきれていない内容が歌われていたとすると、そのときにはすでに歌の基盤に瑕疵が生じていることになる。声に出して歌っているのだから、多くの人は聞いてすぐに理解しなければならない。どんどん声は消えてなくなってしまう。瞬時に理解できない人が多く出てきたら、歌はもはやコミュニケーションツールとして機能していないことになる。歌はモノローグでもなければ、ダイアローグでもない。 その場にいる人々の間で互いに言葉を確かめ合っては即時共有されるものである。共有される言葉をもってしか歌われることはない(注11)。
(注)
(注1)先行研究には筆者を困らせるものが多い。歌の問答を、評判にも似ぬ間抜けな風流人よ→女を泊めずに帰した私こそ風流人→噂どおり葦の葉先のようにふらふらと足をひきずっている貴方お大事に、というやりとりであるとする説が有力視されているが、それでは子どもの言い合いということになってしまう。石川女郎と大伴田主の「みやびを」像の違いを漢籍の典拠の違い、ないし、その評価の違いに求める説があるが、追補されて左注の人が説明を付すに何ら疑問を持たない万128番歌はなにゆえそこにあるのか、提題さえなされずに議論されている。歌群全体について、作り物語、虚構の作品、中国文学に暗示を得たフィクション的小説といった捉え方、また、左注は大伴田主の作文とする説まであるが、なぜわざわざ仮構したのか、その目的についての言及はなく、単なる印象論がまかり通っている。歌群の全体構成の図面が読めないままでは建物は建たず、議論のための議論に終始している。石川女郎、大伴田主という人物が実在の人物か、そして誰なのか、といったことも検討されているが、事実を求めているのか、史実を求めているのか、とても曖昧である。歌とは何か、言葉とは何か、本質を抜きにした“注釈”、“解説”、“論考”は、感想文にすぎない。
(注2)「みやぶ」「みやび」という語を、宮廷風にふるまうこと、文雅を解する宮廷人の意とする安直な説が見られるが、語の本義を掴めていない。「みやぶ」「みやび」の対義語は「ひなぶ」「ひなび」である。鄙へ行って宮廷風にふるまうことは難しい。宮廷文学に触れられなくて残念というばかりではない。今日、アウトレットモールが各地に点在するが、銀座や表参道、新宿でブランド品を買うこととは買い物という行為に質的な違いがある。“文化資本”(ブルデュー)の萌芽を「みやぶ」「みやび」という語の発生は物語っている。後述するように、牛車生活を送ろうにも車師、車作がいなければそうはいかない。物質的なものを排して精神的に「~風にふるまう」ことなどできない。
(注3)京樂2017.は、「牛車は、都の文化そのものなのであった。」(26頁)と端的に述べている。
(注4)櫻井2012.に、「牛車の運行地域は、全国的にみると極めて限定されていた。それは平安京を中心にして畿内の主要道が走る地域であった。これ以外で牛車の使用が確認できるのは、斎王群行での伊勢道、鎌倉幕府の中心・鎌倉、『一遍上人絵伝』での薩摩・大隅八幡宮、江戸時代の和宮降嫁等であり、荷物運搬の牛車では江戸である。あと、平安時代末期の『更級日記』で上総国(千葉県)での乗車記述があるが、牛車か腰車かがわからない。」 (39頁)とある。
(注5)「跡」は、足跡のことばかりでない。春秋左氏伝・昭公十二年に、「昔穆王欲レ肆二其心一、周行二天下一、将皆必有二車轍馬跡一焉。」などと見える。
(注6)澤瀉1958.126~128頁参照。
(注7)「雉の頓使」、「地得ぬ玉作」、「さば海人」、「堅石も酔人を避く」、「海人なれや、己が物から泣く」の類である。拙稿「記紀の諺」の諸稿参照。
(注8)この時、「百済、駱駝一匹・驢一匹・羊二頭・白雉一隻を貢れり。」と、まことに遠い大陸奥地の珍しい動物が贈られている。距離にして、百済が子なら、唐は孫だが、それより遠い曽孫にあたるモンゴル、タクラマカン、チベットの動物と捉えられよう。
(注9)オソについては、拙稿「女鳥王物語─「機」の誕生をめぐって─」参照。
(注10)上代の日本文学と中国文学の関係についての検討は注意を要する。「人草」(記上)とあってヒトクサと訓む言葉はヤマトコトバがある。中国にジンソウという語は見られない。ものを考えるのに母語をもって考えるのがふつうであり、今日ほどに外国語教育が進んでいてもバイリンガルな人は数少ない。ラブレターに英語で書いてきたら詐欺を疑ったほうが賢明であったりする。記紀万葉に見られる漢語の面をした表記に対し、ようやく見つけた出典のとおりの意味であると定められようはずはない。仮に万葉歌が漢語の背景を豊富に盛り込んだものであるとして、その後の和歌文学へ伝承されていないことはどう説明されるのか。ヤマトコトバとしか考えられないのに意味のはっきりしない枕詞となぜ同居しているのか。思いめぐらした論考を見ない。
(注11)上代の日本文学と中国文学の関係について検討を加えて過度に評価することの危険性はここにも存する。研究者が何年もかかって見つけた“新典故”のことを、実際に歌が歌われている最中の数秒の間に、付近にたまたま居合わせた舎人や采女がどうして知っているのか、ということに思い至っていない。「歌」とは何かを無視した研究者の自己満足ではないか。
(引用・参考文献)
阿蘇1999. 阿蘇瑞枝「石川郎女の歌─大伴田主との歌を中心に─」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第一巻 初期万葉の歌人たち』和泉書院、1999年。
阿蘇2007. 阿蘇瑞枝『万葉集全歌講義 第一巻』笠間書院、2007年。
池原2016. 池原陽斉『萬葉集訓読の資料と方法』笠間書院、2016年。
伊藤1995. 伊藤博『萬葉集釈注一』集英社、1995年。
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澤瀉1958. 澤瀉久孝『萬葉集注釈 巻第二』中央公論社、昭和33年。
菊池2000. 菊池義裕「社会と文化」櫻井満監修『万葉集を知る事典』東京堂出版、平成12年。
京樂2017. 京樂真帆子『牛車で行こう─平安貴族と乗り物文化─』吉川弘文館、2017年。
胡2017. 胡志昂「石川郎女と大伴田主の贈答歌群を巡って」『埼玉学園大学紀要 人間科学部篇』第17号、2017年12月。埼玉学園大学・川口短期大学機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1354/00001112/
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中』塙書房、昭和39年。
古代交通研究第13号 古代交通研究会編『古代交通研究』第13号、同発行、2004年5月。
櫻井2012. 櫻井芳昭『牛車(ぎっしゃ)』法政大学出版局、2012年。
新大系本萬葉集 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
鈴木2006. 鈴木淳「みやびを考」『國學院雑誌』第107巻第11号、2006年。
大系本萬葉集 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系4 萬葉集一』岩波書店、昭和32年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
中西1978. 中西進『万葉集 全訳注原文付(一)』講談社(講談社文庫)、1978年。
仁平2000. 仁平道明『和漢比較文学論考』武蔵野書院、平成12年。
(English Summary)
Manyoshu Vol. 2. No.126-128, the questions and answers of poems by Ishikawa-nö-Iratume and Öfötömö-nö-Tanusi have been misunderstood as a matter of sophistication, Chinese「風流」. However, since poems of Manyoshu were completely chanted as Japanese vocal language, Yamato Kotoba, we must think only of sounds. Thinking so, it turns out that the word "Miyabï 「みやび」" was interpreted as a joke about an accommodation business, or it about a passenger transportation business. And we can be confident that No.128 poem was also one of a series of ones.
※本稿は、2021年7月稿を2023年12月にルビ形式に改め、2025年1月に誤っている部分を削除したものである。