サクラ(桜)という言葉
サクラの語源については、これまでにさまざまな意見が示されている。今日の主要な見解としては、次の3つの例があげられる。(1)サク(咲)+ラ(名詞にする接尾語)とする説、(2)サ(穀霊、稲田の神霊)+クラ(座、宿ります場所)とする説、(3)神名のコノハナノサクヤビメのサクヤの転とする説である。筆者は、地名を含めてすべての言葉について、言葉の語源を探るという立場に立たない。問題の焦点は、上代において、人々が当該の言葉をどのように捉えていたかにあると考える。それが上代人の心性を知るうえで最も重要であり、逆言すれば、言=事とする言霊信仰の時代にあっては、歴史という事柄を知る方法の基底に据えられるべきものであると考えている。文献史学にとっての文字史料である記紀万葉は、その時代の人々の認識を基に記されているのだから、ひとつひとつの言葉の当時の意味合いを知らなければ、問題をはき違えたり見逃したりすることになるであろう。
万葉集に載る植物としては、数え方にもよるが、萩は141首、梅は118首、橘は68首、桜は40首、藤は27首、撫子は25首、卯の花は24首である。サクラは今日考えられているほど花の代表格ではない。また、サクラの歌われ方を見ると、咲く花として22首、散る花として16首と多く、ほかに、待つ花として4首、蕾として1首、木材として1首である。花の特徴としては、咲くことと散ることに目が行っているようである。本稿では、まず、万葉集におけるサクラの使われ方から、ついで、履中紀の「稚桜宮」記事から、サクラという語は、サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)であると感じられていたとする説を提唱する。
従来の(1)説によれば、ヤマザクラは雑木から成る春の山において、芽吹きに先立って花を咲かせるところから「咲く」ことに注目が行っているという。万葉歌の用字にサクラは、「櫻」、「佐宿木」、「作樂」、「佐久良」のみである(允恭紀八年二月条歌謡に「佐區羅」(紀67)とある)。うち、単独でサクラとあるのは、「櫻」(万1440・1887・3787・4151)、「佐久良」(万3967)である。連語でサクラバナは、題詞を含め、「櫻花」17例(万257・260・971・1047・1212・1425(山櫻花)・1776・1855・1864・1866・1870・1872・3129・3305・4074・4361・4395題詞)、「佐久良婆奈」3例(万3970(夜麻左久良婆奈)・3973・4077)、「佐久良婆那」(万829)、「佐久良波奈」(万4395)、「作樂花」(万3309)各1例の計23例である。また、サクラノハナは、「櫻花」14例(万1429・同題詞・1430・1456題詞・1458・1459・1747・1749・1750・1751・1752・1854・1869・3786)、「佐宿木花」(万1867)1例の計15例である(履中紀三年十一月条にも「櫻花」とある)。単独でサクラと使う例に、カケタルサクラ ハナサカバ(「繋有櫻 花開者」(万3787))、サケルサクラノ ハナノミユベク(「開有櫻之 花乃可見」(万1887))とハナという語を伴う歌が2例ある。花を指す際に単独にサクラと使うのは、ヤマノサクラハ イカニアルラム(「山能櫻者 何如有良武」(万1440))、サケルサクラヲ タダヒトメ(「佐家流佐久良乎 多太比等米」(万3967))、ヲノヘノサクラ カクサキニケリ(「峯上之櫻 如此開尓家里」(万4151))の3例に限られる。ほかに、サクラダ「櫻田」(万271)、ヤマサクラド「山櫻戸」(万2617)、サクラコ「櫻兒」(万3786題詞)、サクラヲ「櫻麻」(万2687・3049)がある(履中記にワカサクラノミヤ(若櫻宮)、履中紀三年十一月条にワカサクラノミヤ「稚櫻宮」などとある)。このように、Cherry Blossom を表すのに、サクラバナ、サクラノハナと、説明調に語るところを見ると、サクラという語自体は樹種として捉えられていた可能性が高いといえる。
万葉集歌には、語呂合わせ的な言葉の連なりを好んだ例が数多い。サクラバナ コノクレシゲニ(「木乃晩茂尓」(万257)、「木暗茂」(万260))、サクラバナ コノクレゴモリ(「木晩窂」(万1047))とある。木が茂って下かげの暗いところを言う語を、桜の花の咲いた時の誇張表現として使っている。サクラのクラを暗い意と感じて連想したに違いあるまい。こういう例がありながら、サクラに、「咲良」、「開等」といった用字が一例も見られない。サクラという語の語源については措くとしても、万葉語においては、当時の人にとって、咲くからサクラであるとは意識されていなかったらしいとわかる。
(2)説によれば、民俗学で桜の花の付き具合で豊凶を占ったとされ、農耕の時期を知らせて咲くからとも説かれている。しかし、記紀万葉に、そのような民俗的視点から桜が取り上げられている例を見ない。証拠がひとつもないのに説がひとり歩きしている。また、早苗に見られる稲の霊を指すというサについても、桜の花は、早乙女が活躍する五月蠅(さばえ)なす旧暦の五月には咲かない。和名抄に、「櫻 文字集略に云はく、櫻〈烏茎反、佐久良(さくら)〉は、子(み)の大きさ栢(かへ)の端の如し、赤・白・黒き者有る也といふ。」とある。これらは木類に分類されており、果蓏類ではない。本草和名には、「櫻桃 ……和名は波々加乃美(ははかのみ)、一名に加爾波佐久良乃美(かにはざくらのみ)」とある。櫻字は、中国ではユスラウメを指す。礼記・月令に、「是[仲夏]の月や、……羞(すす)むるに含桃を以てし、先づ寝廟に薦む。(是月也、……羞以二含桃一、先薦二寝廟一。)」とある。ここから仮に意訳したとしても、五月にサクランボをお供えしたという話にしかならない。そのうえ、日本における植物の桜はもとヤマザクラであり、人々の生活圏とは少し離れていたともされる。サ(穀霊)の乗るクラ(鞍)がお出でになるという話がどこから持ち上がっているのか不明である。
(3)説に関して、コノハナノサクヤビメには類音にコノハナチルビメがいる。「此の花散る姫」の対が、「此の花ノ咲くヤ姫」と過剰に助詞が入っている。曰く因縁を持った神名ということであろう。ヤは反語の助詞である。記紀と同時代と考えられる万葉歌に、桜の花は咲くものとも散るものともされている。二神を表す非対称な語の一方を取り上げて、サクラという語に思いが及んだと比定することは適当とは言えない。また、万葉集にコノハナノサクヤビメと関連させて作歌された例も見当たらない。以上のように、今日行われているサクラの語源説なるものは、記紀万葉の時代の言語感覚とは一致しないものばかりである。
材としてのサクラ
筆者は、飛鳥時代において、サクラは材として利用されることが多かったから、それとの関連でイメージされていた語ではないかと考えている。材としてのサクラとしては、何よりもその樹皮である。色艶が美しく、薄く削っていっても丈夫で切れず、曲物の綴じ材や、弓や太刀、剣、斧、鍬などの柄の巻皮に用いられた。「桜皮(かには)」である。和名抄に、「朱櫻 本草に云はく、櫻桃は一名に朱櫻〈波々加(ははか)、一に迩波佐久良(にはさくら)〉といふ。」とある。「迩波佐久良」は「加迩波佐久良」であろう。
味さはふ 妹が目離(か)れて 敷細(しきたへ)の 枕も巻かず 櫻皮(かには)纏(ま)き 作れる舟に 真梶貫き 吾が榜(こ)ぎ来れば……(万942)
天児屋命(あめのこやのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)を召して、天の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天のははかを取りて、占合(うらな)ひまかしめて……(記上)
カニハが「皮(かは)」のことを特に指すところから、訛ってカバという。シラカバ、ダケカンバなどをカバとするのは、樹皮のさまが横に縞模様が入り、サクラと似ているからである。和漢三才図会に、「按櫻謂レ子不レ謂レ花何耶。」と、和名抄に花についての言及がないのを不思議がっているが、もともと実用性に注目が行っていた木であった。源氏物語・幻に「樺桜」とあるのは、ヤマザクラのことであろうとされている。万942歌では、纏くものとしてのカニハを導くのに、異性を纏くための道具のマクラをあげている。サクラと音が似通っている。この歌のこの箇所の機智はそこにある。また、記の天石屋条では、鹿卜の際に焼けた木の棒を鹿の肩の骨にあてがい、できたひび割れをみて占いをしている。その材料の「天之波々迦(あめのははか)」もカニハザクラというヤマザクラである。伴信友・正卜考に、万葉歌の「天降(も)りつく 天(神)の香具山 …… 櫻花」(万257(260))とあるのは、天石屋条の伝承によった作例かもしれないとする(注1)。さらに、象焼きでは熱が奪われて火が消えやすいから、燃えやすいカニハザクラの樹皮の付いた部分を使ったのであろうとも指摘している。実生活に用いられて木の名が現れている。ハハカ、カニハといった語が先に存在し、サクラという語を新たに作った可能性もある。
曲物をサクラの皮で綴じる点について、名久井2012.は、「弥生時代から現代に至るさまざまな時代の遺跡から発見されている「板製」曲げ物を見ると、例えば中世の遺跡から発掘された井筒のように分厚い板を曲げて作ったものから、現代の弁当入れのように薄い板を曲げて作ったものまで、その用途によつて大きさも形も側板の厚さもまちまちだ。そうした各様の大きさや形態の曲げ物でも、側板の端どうしを重ねて綴り合わせる素材として使われてきたのは一貫してサクラの表皮だった……。その薄さにも関わらずサクラの表皮ほど強靭で側板の綴じ紐に最適な素材がほかになかったからだろう。……「板製」 曲げ物の側板を綴じる紐の素材という、それほど長くなくても足りる樹皮の効率的な入手の仕方は、ある程度幅広く横に剥ぎ、そこから必要な幅を切り出すことだった。したがって「板製」曲げ物の製作技術があるところには必ずサクラの樹皮の「横剥ぎ型剥離法」が伴ったとみてよいことになる。そんなわけで、弥生時代から現代まで途切れることなく受け継がれてきた「板製」曲げ物の製作技術には常に樹皮の「横剥ぎ型剥離法」が伴っていたと言える……。」(153~154頁)とする。サクラという樹木は曲物技術として人々に分節、認知されていたのである。
ヤマザクラの樹皮剥ぎ(「角館樺細工」https://www.nigiwai-dougu.com/marche_category/221/pg-221-171122101228.pdf)
サクラという語は、(a)花樹の桜のこと、のほか、(b)馬肉、(c)店で仕込んだ偽装客のことをも指す。馬肉については、肉の色が桜の花の色のようであるとか、桜の花の咲く頃がおいしいという説があるが、説得力に乏しい。偽装客については、賑やかなさまが桜の花に似ているとか、すぐ散ってしまうことを譬えているという説もあるが、そう考えるとずいぶん婉曲的な表現ということになる。サクラという言葉を(b)(c)も含めて納得するためには、花の様子から離れないといけないようである。
もともと、樹の Cherry を見て、その桜皮にばかり気が行っている。実用的な用途から、特に曲物細工における綴じ材として注目されていた。箍(たが)で締める結桶が鎌倉時代に登場する以前は、「麻笥(をけ)」に由来する捲桶(わげおけ)が多用されていた。和名抄に、「桶 蒋魴切韻に云はく、桶〈佳惣反、上声の重、又他孔反、乎介(をけ)〉は井に於て水を汲む器也といふ。」、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、介(け)〉は食を盛る器也といふ。」とある。
左:「麻笥」、右:水桶(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055245をトリミング)
平城京跡出土漆塗り曲物(国立歴史民俗博物館展示品)
現代の発泡プラスチック製の弁当箱
猿の座
万葉歌や允恭紀などに、「櫻」の字が使われている。中国でユスラウメを表す櫻の字が、ヤマトでは Cherry に選択的にあてがわれている。旁の嬰は、女が首にかける首飾りのことで、めぐらすことを示したり、また、嬰児をいう。首飾りを思い出させるのは、猿回しの猿である。木の赤ん防を思わせるものは、木の子たるキノコ、サルノコシカケである。すなわち、サル(猿)+クラ(座)→サクラである。万葉集の原文に「佐宿木花」(万1867)とあったのをサクラバナと訓んでいた。神座(かみくら)→神楽(かぐら)と同様の転化である。地名には、猿投(さなげ)、猿島(さじま)などと訓む例がある。
ソメイヨシノについたサルノコシカケ
猿の座とは何か。(a)サルノコシカケ、(b)サルの座るようなところ、(c)まわし者のサルを懲らしめるために座らせるところ、の三つの意が考えられる。ヤマザクラの皮を剥いで採取すると当然ながらその木は弱る。サルノコシカケは、枯れ木や樹勢の弱った木に取り付いて大きくなる木の子(キノコ)である。いったん木にキノコ菌がとりつくと、木全体にまわってさらに弱らせながらキノコとして表面に現れる。表面に現れたキノコを取っても再び現れるから、榾木(ほたぎ)に菌を植え付けてシイタケ栽培などが行われている。木にくっついている子のことは、本邦に人間よりもひとまわり小さいニホンザルのことを思い浮かべたに相違あるまい。そしてまた、桜皮で綴じて曲物、曲げわっぱを作り、猿回しのサルの首輪とすることも可能である。サルが皮を剥いだとして、懲らしめるために首枷(くびかせ)を嵌めることにしたのだと推量することもできる(注2)。
チェアとして、サルが座るようなものだとされるものに、胡床、床几などと呼ばれる折り畳みできる背もたれのない腰掛がある。今日、神社などを中心に尻受けに白布が張られたものを目にするが、古代に、革、縄などを張ったものもあったとされている。延喜式に、「大儀〈元日、即位及び蕃国の使の表を受くるを謂ふ〉」に際して列席する武官は、「並(みな)胡床(あぐら)に居(すわ)れ〈少将以上の胡床は各虎の皮を敷け〉。」(左右近衛府式)とあり、上に虎皮を敷いている。規定に、「凡そ胡床三百基の緒の料の緋の糸は、基別(ごと)に八両、塗る料の漆は基別に一合」(同)とある。X字状に支柱を組み違えて作られており、脚を畳んでいつでも移動することができる。跡形もなく去ることができるからサルの腰掛と言えるようである。支柱間の継ぎ手は枢(くるる)構造になっていて、枢のことは猿とも言っていた(注3)。猿回しにくるくると回らせて楽しんでいるのは、枢を見ているのと同じということになる。
胡床(左:北斉校書図、ウィキメディア・コモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:北齊校書圖.jpg?uselang=jaをトリミング、右:年中行事絵巻、谷文晁写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591099/41をトリミング)
四脚を組んで立てた高くない脚立のことを鞍掛(くらがけ)ともいう。馬の鞍は使わないときは馬の背から外し、同じく鞍掛と呼ばれる台に掛けておく。乗馬の練習のために使われ、鞍掛馬、また木馬(きうま・もくば)ともいう。本来、鞍は馬に掛けて人がその上に座るものである。対して、鞍が主役になって座すことになるのが鞍掛である。一まわり小さな物だから、猿の腰掛と呼ぶに値する。つまり、猿の座は馬そのものということになる。だから、馬の肉はサクラである。猿回しの大道芸が始まると人々は集まって来て盛んだが、終わって見物料の御祝儀(纏頭、はな)を貰い受ける段になるとお金を渋って人々はすぐ散っていく。それは、店側の仕込んだ偽装客が、契約時間が明ければ一気に消えてなくなるのに似ている。サクラの花の咲き散るさまによく似ている。
木馬(高槻市立しろあと歴史館展示品)
令制に、縫殿寮に属した猿女は人事考課に当たっていた。養老令・職員令に、「縫殿寮 頭一人。掌らむこと、女王、及び内外の命婦、宮人の名帳、考課のこと、……」とある(注4)。些細なことでも上の者に報告する、人の顔をした人でなしである。そんなまわし者の猿を懲らしめるには、相手が猿なのだから木馬責めがふさわしい。木馬の背を三角形に尖らせ、その上に跨らせて脚に重石を付け、股間をさいなませる私刑である。十訓抄(1252年)に、「俊綱大にいかりて「人をあざむきすかすは、其の咎かろからぬ事なり」とて、雑色所へくだして木馬にのせんとする間、成方いはく……」(巻七・第二十五)などとある。猿はお上の御用を働いており、鞭打ちや流罪といった公に存した刑罰にあてられず、また、仮にお上に知られたとしても、ただ座らせていただけだと抗弁できるものである。特に猿女の場合は女性だから、面白いことになるという理屈であろう(注5)。
稚桜宮
履中紀に「稚桜宮」、「稚桜部」と記されている。
三年の冬十一月の丙寅の朔の辛未に、天皇、両枝船(ふたまたぶね)を磐余(いはれ)の市磯池(いちしのいけ)に泛べたまふ。皇妃(みめ)と各分(わか)ち乗りて遊宴(あそ)びたまふ。膳臣余磯(かしはでのおみあれし)、酒(おほみさけ)献る、時に桜の花、御盞(おほみさかづき)に落(おちい)れり。天皇、異しびたまひて、則ち物部長真膽連(もののべのながまいのむらじ)を召して、詔して曰はく、「是の花、非時(ときじく)にして来れり。其れ何処(いどこ)の花ならむ。汝(いまし)、自ら求む可し」とのたまふ。是に、長真膽連、独り花を尋ねて、掖上(わきのかみ)の室山(むろのやま)に獲て、献る。天皇、其の希有(めづら)しきことを歓びて、即ち宮の名としたまふ。故、磐余の稚桜宮(わかさくらのみや)と謂(まを)す。其れ此の縁(ことのもと)なり。是の日に、長真膽連の本姓(もとのかばね)を改めて、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)と曰ふ。又、膳臣余磯を号けて、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)と曰ふ。(履中紀三年十一月)
天皇は、両枝船に乗って遊んでいた。両枝船は、太い幹が枝分かれした部分を刳り抜いて作った船のことであろう(注6)。天皇は皇妃と二人で、枝分かれした二手に分かれて乗っていたのである。今日のボート遊びのように向かい合って乗っていたわけではない。ペダルを踏んで進むスワンのボートにように並んで乗っているのでもない。両枝船に乗りながら遊宴をしており、膳職に酒を次がれている。面倒くさい状況設定は深い意味があってのことであろう。すなわち、両枝船は、股が裂ける木馬のことや、ヤマザクラの株立ちを連想させて、サクラの花が散ってくることを伏線として導いているのである。
株立ちになるヤマザクラ
今日の感覚では、旧暦の十一月に花が咲く桜としてはヒマラヤザクラなどを思い浮かべるかもしれないが、「非時」とあるように狂い咲きをしたと考えるべきであろう。この「非時」のものを求めさせる話としては、垂仁紀九十年~九十九年明年条の「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」の話が名高い。田道間守(たじまもり)という人が、天皇の命をうけて、「常世国(とこよのくに)」へ探しに行き、「非時香菓」なる橘を持ち帰ってきた。ところが、天皇はすでに亡くなっていて、悲しみのために御陵で自死したという話である。履中紀の場合、物部長真膽連は、一人で桜を探し、掖上の室山に見つけて獲ってきて献っている。掖上の室山は、「常世国」や「神仙秘区(ひじりのかくれたるくに)」には相当せず、里の裏山のようなところであろう。
天皇は、なぜ物部氏に依頼したのか。物部氏は、大和朝廷で軍事や刑罰に当たる戦闘員の部民である。それがこの出来事の結果、改姓させられて、稚桜部造長真膽連となっている。膳臣余磯の方は稚桜部臣と号したとあるから、一代限りの渾名が付けられたということであろう。物部氏が全員改姓させられたわけではなく、長真膽という名の一族が分家的に稚桜部造になっている。ナガマイという名からは、長い柄を細縄などで鍔元まで巻きつけた太刀のことをいう長巻(ながまき)のことが連想される。ナガマキのイ音便としてその名が語られていると思われる。天皇としては、桜の花のついた枝を取って来いと命じたつもりであったかもしれないが、ナガマイという人は、太刀の柄に巻くとすべらなくてよい桜皮を螺旋状に長く採ってきた(注7)。名に負うて職務に忠実だと顕彰して、武家のなかでも武具作りの専門職たるにふさわしい姓に改めさせたということであろう。
長巻の握り部分(呉竹鞘御杖刀、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010090&index=0をトリミング)
「花ぐはし桜」
允恭紀に「桜」の登場する歌のやりとりがある。
八年の春二月に、藤原に幸(いでま)す。密(しのび)に衣通郎姫(そとほしのいらつめ)の消息(あるかたち)を察(み)たまふ。是夕(こよひ)、衣通郎姫、天皇を恋(しの)びたてまつりて独り居(はべ)り。其れ天皇の臨(いでま)せることを知らずして歌(うたよみ)して曰く、
我が背子が 来べき夕(よひ)なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕著しも(紀65)
天皇、是の歌を聆(きこ)しめして、則ち感(め)でたまふ情(こころ)有(おは)します。而して歌(みうたよみ)して曰はく、
ささらがた 錦の紐を 解き放(さ)けて 数(あまた)は寝ずに 唯一夜のみ(紀66)
明旦(くるつあした)、天皇、井の傍(ほとり)の桜の華を見(みそこなは)して、歌して曰はく、
花ぐはし 桜(佐區羅)の愛(め)で こと愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
とのたまふ。(允恭紀八年二月)
天皇は、「衣通郎姫(そとほしのいらつめ)」への恋慕の情を歌っている。彼女は皇后の妹で、天皇のお召しになかなか応じず、仁徳紀にあった倭直吾子籠の家に留まったりしている。
弟姫(おとひめ)、容姿(かほ)絶妙(すぐ)れて比(ならび)無し。其の艶(うるは)しき色、衣(そ)より徹りて晃(て)れり。是を以て、時の人、号けて、衣通郎姫と曰す。(允恭紀七年十二月)
記には、允恭天皇の娘の一人の別名に、「衣通郎女(そとほりのいらつめ)」とある。
軽大郎女(かるのおほいらつめ)、亦の名は衣通郎女。〈御名を衣通王(そとほりのみこ)と負はせる所故(ゆゑ)は、其の身の光、衣より通し出づればなり。〉(允恭記)
ソトホシ、ソトホリという名は、肌の美しさが衣を通して光映えていることの表現とされている。それはその通りなのであろうが、衣を通して美しい体が見えるのは、オーガンジーのような透け感のある着物だったからであろう。シースルーの上等の着物としては、錦のうちでも薄手の「綺(かにはた)」が挙げられる。文様が斜めになっており、蟹が斜めに進むところから、カニ(蟹)+ハタ(機)が語源であろうとされている。和名抄に、「綺 蒋魴切韻に云はく、綺〈虚仮反、岐(キ)、一に於利毛能(をりもの)と云ふ。又、一に加无波太(かむはた)と云ふ〉は錦に似て薄き者也といふ。釈名に云はく、綺は棊也、方丈の棊の如きを謂ふ也といふ。」、華厳音義私記に、「綺 加尼波多(かにはた)と訓む」とある。垂仁紀三十四年三月条に、「綺戸辺(かにはたとべ)」という美人を後宮に入れたという記事が載る。綺麗な人ということである。
カニハタからはカニハ(桜皮)が連想され、ほんのりと赤みを帯びた肌が美しかったのであろうとわかる。つまり、紀66歌で彼女の衣を脱がせて一夜を共にしたのは、まるで桜の木の皮を横剥ぎにすることと同じであったということである。桜の皮を剥ぐ好機は、後述のように、花の咲いた頃のみずみずしい時季である。そこが紀67歌の巧みさである。やっとかなった情事を、桜の皮剥ぎに譬えている。弟姫という言葉には、妹の姫という意味と、年若い姫といういう意味がある。
ワカという形容
履中紀では、磐余の地の宮の名が稚桜宮になっていた。宮号が、ワカと冠したサクラノミヤという名になっている。ワカという語は、古語拾遺に注目すべき記述がある。「天照大神、吾勝尊(あかつのみこと)を育(ひだ)したまひて、特甚(おぎろ)に愛(いつくしみ)を鐘(あつ)めたまふ。常に腋の下に懐(いだ)きたまふ。称(なづ)けて腋子(わきご)と曰ふ。」とある。時代別国語大辞典の「わくご【若子】」の項の【考】にこの例が載り、「上代人の一つの語源解釈を示すものであろう。」(816頁)とする。上代人の語源解釈とは、ことほど左様に怪しいものであり、駄洒落解釈を示したものがきわめて多い。しかるに、それこそが言=事とする言霊信仰に生きた当時の人にとっては大事なことなのである。
白川1995.に、「わかし〔若・稚〕 「わか」の形容詞形。生れてまだ多くの年月を経ていないことをいう。「わかゆ」「わかやる」は動詞形、「わかやか」は副詞形。類義語の「をさなし」は「長(をさ)無(な)し」で未熟の意。「いたいけらし」は見るからに心がいたむほどの愛らしさをいう。……国語の「わか」の語源は明らかでないが、人には「をさなし」「いたいけ」という。「わか」を冠した語には、若草・若薦(わかこも)・若竹・若木・若海藻(わかみる)など、草木の類をいうことが多いことからみて、そのようにあらたに生え出たものをいう語であったかと思われる。それならば穀の未熟なことをいう「稚(わか)し」と、同様の発想をもつ語である。」(798~799頁)とある。
このワカの語については、同書の「わく〔沸・涌〕」の項に、「国語の「わく」も湧き水の意が原義。沸騰する意に用いるのは、おそらくその展開義であろう。」(800頁)とあることと関係があろう。春、草木の芽が出て勢いがつくと、葉先から水滴があふれ出ることがある。そんなみずみずしい状態を、ワカシと表現したのではなかろうか。それは、サクラの木についても同様である。名久井2011.には、「新芽が萌え、樹種ごとに少しずつ色を異にする新緑が日ごとに濃くなって、やがて全山がしたたる緑に包まれる。どうかするとサクラの葉先から滴がこぼれ落ちたり、切られたヤマブドウの蔓が盛んに樹液を出すのもこの季節である。梅雨どきから七月にかかるこのころ、樹木の活動は最も活発となって水分の吸い上げが著しいのである。樹皮を剥いで利用しようとする人々が山に入るのはちょうどこの時期で、……サクラは花が咲けば樹皮を剥ぐことができるようになるという。」(98頁)とある。そんな時期のサクラの皮を剥いで水を汲む桶は作られている。類推思考によって水が涌いてくることを導いているわけである。掘り井戸の内側の井筒も曲物で作られていることが多い。サクラという語に冠する語としては、ワカばかりが適切ということになる。
曲物の井筒の例(後通遺跡(平安時代前期)、「文化財センター速報」公益財団法人千葉県教育振興財団、平成24年5月http://www.echiba.org/pdf/sokuhou/120501_ushirodori.pdf)
井戸側の上の曲物(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055270をトリミング)
物部長真膽は、冬なのに花が咲いたサクラを探しに行った。それは、樹勢が盛んで葉先から滴が霧のように立つものである。つまり、サクラの木(け、ケは乙類)には、サクラの気(け、ケは乙類)が満ち溢れていた。樹皮を採って曲物を綴じることなどに用いるのが目的である。サクラで笥(け、ケは乙類)を作るためである。見つけた場所は、ワキのカミ(ミは甲類)のムロのヤマである。ムロのヤマとは、食糧の越年保存のために山の斜面などに作られた土坑のあるところをイメージしているであろう。橋口2006.によれば、縄文時代から貯蔵穴は確認されており、弥生時代には稲籾用のものが普遍化していったという。ただし、西日本を中心にした貯蔵穴は後期になると激減し、古墳時代に入るとまったくなくなっているという。この点については、人は「室山」をやめたが、猿はまだやっているという頓智を紛れ込ませているとも解釈できよう。人に顔のワキのほうにもカミ(髪、ミは甲類)がある人は少なく、対して猿には必ずあるということとも関連してこよう。髪の毛の脇の方へ伸びたところで室のような穴倉の上の山とは、獣であるサルの顔のもみあげのところということである。もみあげに、揉み上げと籾上げとを掛けているのかもしれない。毛(け、ケは乙類)のところにて笥に相当する頬嚢を発見した。
ニホンザルの頬嚢(日本モンキーセンター様「飼育の部屋」2019年6月24日記事、大島様撮影)
頬嚢
すなわち、サルの頬嚢とは、サル(猿)+クラ(倉・蔵)の意であり、サクラなのである。和名抄に、「猨嗛 爾雅注に云はく、猨嗛〈菅簟反、佐流保々(さるほほ)〉は猿の頬の内の食を蔵する処也といふ。」とある。サルの頬嚢は口の中にある内ポケットで、たくさんの餌があるといったん頬袋に詰め込んで膨らませ、安全な場所に移動してから貯えた食物をゆっくり食べる。サルにとって頬とは、人間にとっては料理を入れる食器や、後で食べるために包んで持ち帰るタッパーのような容器に当たる。現代にプラスチックやビニールが担っているその用途には、竹の皮やへぎ、経木、柏の葉、朴の木の葉が用いられていた。サルノコシカケのようなキノコのことをタケ(菌)ともいうのは、猿頬同様の菓子折、曲物とのつながりからも裏付けられた言葉のようである。貝のサルボオも、その色が馬肉同様に朱色っぽいこととも連動する命名と思われる。
これまでの謎掛けの論調から、朴の木の葉は猿頬と同じホホであるとの駄洒落を言っているとわかる。朴の木は落葉高木で、日本各地の山林に自生し、初夏に、香りのある黄白色の大きな花をつける。材質は柔らかくきめが細かいので各種器材に用いられた。朴歯下駄と称される下駄の歯などの細工物にしたり、水に強く手触りが良いため和包丁の柄やまな板に用いられたり、また、ヤニが少なく加工しやすいため太刀の鞘にも加工された。樹皮は厚朴または和厚朴といい、生薬にした。新撰字鏡に、「厚朴 九・十月に皮を採りて陰干しす。保ゝ加志波(ほほがしは)」、和名抄に、「厚朴〈重皮附〉 本草に云はく、厚朴は一名、厚皮〈漢語抄に厚木を云ふ。保々加之波乃岐(ほほがしはのき)〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波(ほほのかは)〉は厚朴の皮の名也といふ。」とある。
葉は大きくて裏が白い。食物を包んだり、食器代わりに食物を盛ったり、杯の代りにした。また、神事においても同様の用いられ方をした。6世紀の王塚古墳からは、玄室で杯の下に敷かれていた状態でその葉が出土している(注8)。万葉集にも例がある。
攀(よ)ぢ折れるほほがしは〔保寶葉〕を見たる歌二首
吾が背子が 捧げて持てる ほほがしは〔保寶我之婆〕 あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)(万4204)
皇神祖(すめろき)の 遠御代(とほみよ)御代は い布(し)き折り 酒(き)飲みきといふそ このほほがしは〔此保寶我之波〕(万4205)
万4205番歌から、酒器としてホホガシハの葉が用いられたことが窺える。ホホガシハといっているのは、柏餅などに使われるカシハと用途が同じからであろう。神饌を盛る葉盤(ひらで)はカシハを綴り合わせて作られている。いずれの葉も幅広く大きい(注9)。
左:朴、右:柏
イハレ
履中天皇の都した磐余の地の宮号が、「稚桜宮(若桜宮)」となった理由について見る。磐余という地名の由来は上代文献に記されないものの、「謂(いは)れ」のことをイメージしていたことは確かと考えられる。言=事とするのが上代の人々のモットーだからである。理由、訳のこと、記紀には、「縁(ことのもと)」、「所以(ゆゑ)」と記される言葉に当たる。西郷2005.に、神武天皇の名、「神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)(記)(「神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)(紀))」の由来について示唆的な指摘がある。
[神倭いはれびこ命]の名を大和の地磐余にもとづくとする通説には従いがたい。……この名はやはり、日本の古代王権が大和に都して天下を支配するに至ったそのイハレ(由縁、来歴)を負うところの初代君主という意であり、それが神武の事績にたいする解釈としても一番ふさわしいと思う。神武紀には、磐余の地に大軍が「満」めりとか八十梟帥が「屯聚」みいたりとかいう話を載せているが、これらはイハレビコの名にあとでひっかけた地名説話にすぎないだろう。諡号は記紀に共通した話にもとづいているはずだ。
イハレという語は当時の文献にまだ見えぬというかも知れぬ。しかし、イフ(云)の受身形のイハルは、万葉に「われ故に、人にこちたく、イハレしものを」(一一・二五三五)ほか数例みえるから、その名詞化になるイハレという語がまだなかったとは断定できぬだろう。万葉集十六の有由縁歌の「由縁」もイハレと訓める。少なくとも以下の話が、初代君主の手でいかにして都が大和に定められ、宮廷がいかに君臨するに至ったかそのイハレをかたったものであるのは確かで、神武はいうなれば最初の culture-hero である。(17~18頁)
神武紀の「満(いは)」めりとか、「屯聚(いは)」みいたりとする話は、「あとでひっかけた地名説話」であることは正しかろう。culture-hero 論についてはさておき、万葉集中のイハレの形についてのみ考えることとすると、集中には、動詞イフ(言・云・謂)の未然形に受身の助動詞ルの連用形のつづいたものが5例、地名イハレ(磐余)が5例見られる。
昔こそ 難波田舎と いはれ(所言)けめ 今は京(みやこ)引き 都びにけり(万312)
山菅の 実成らぬことを 吾に依せ いはれ(言礼)し君は 誰とか宿(ぬ)らむ(万564)
をみなへし 咲く野に生ふる 白(しら)つつじ 知らぬこともて いはれ(所言)し吾が背(万1905)
おほろかの 行(わざ)とは思(も)はじ われ故に 人に事痛(こちた)く いはれ(所云)しものを(万2535)
…… ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ いはれ(所言)にし我が身(万3300)
つのさはふ いはれ(石村)も過ぎず 泊瀬山 何時(いつ)かも越えむ 夜は更けにつつ(万282)
ももづたふ いはれ(磐余)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雪隠りなむ(万416)
つのさはふ いはれ(石村)の道を 朝さらず 行きけむ人の ……(万423)
…… 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の道ゆ つのさはふ いはれ(石村)を見つつ 神(かむ)葬(はふ)り ……(万3324)
つのさはふ いはれ(石村)の山に 白栲(しろたへ)に 懸れる雲は 大君にかも(万3325)
地名のイハレにかかる枕詞として、「つのさはふ」と「ももづたふ」が登場している。モモヅタフという語感からは、いろいろと伝承されてきたことを表しているように思われる。ツノサハフからは、角が障害物に接触して進みにくいことを表しているように感じられる。「謂れ」という語の意味する名詞のユヱ(故)の語義に、(1)物事の起こった理由、原因、また、由来のこと、(2)さしさわり、支障のこと、がある。後者の例としては、噂話の災いもなくあってほしいとという意味で用いられている。
…… 我が思へる 君に依りては 言の故(ゆゑ)も 無く有りこそと ……(万3288)
謂れにいろいろと事情があり、触れたくなかったり、触れられたくなかったりすることについて、特段に取りあげないで静かにしておくのが大人の対応というものである。そういうところから、ツノサハフといった枕詞が用いられていると考えられる。
日本国語大辞典第二版の「ゆえ(ゆゑ)【故】」の項の「語誌」に、「事物に本質的に備わっている原因をいう。これに対して、類義語「よし(由)」は、要因を事物のうちに求めることに重点があり、両者は本来、意味を異にする語と思われる。しかし、すでに上代から「ゆえよし」という語形が存し、また古辞書類でも同一字にユヱ・ヨシ両訓が認められることなどから、古くから両者の意味は近接していたと思われる。」(369~370頁)とある。その、よし(由・因・縁)という語は、寄(よ)すと同根で、物事に関係づけていくことの意である。具体的に目に見えることでいえば、曲物製作において、板をたわめ曲げて両端を近くに寄せることが思い浮かぶ。その後、底板を嵌めて桜皮で綴じて完成する。つまり、ヨシとは曲物のことである。
所以のことをいうユヱという語には、湯坐・湯人という語がある。神代紀第十段一書第三に、「亦云はく、彦火火出見尊、婦人(をみな)を取りて乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)、及び飯嚼(いひかみ)・湯坐(ゆゑびと)としたまふ。」とあり、雄略紀三年四月条に、「湯人、此には臾衛(ゆゑ)といふ。」との訓注がある。ユヱとは、湯を用意して入浴の準備をする人のこと、ユ(湯)+ウヱ(据)の約である。当然、湯を入れる桶か盥がなければならない。古代には結桶はなく、曲物の桶が一般的であった。その曲物であるが、材料となるスギやヒノキの板を取ってからその板を曲げるには、湯桶につけて柔らかくし、ホタと呼ばれる丸太に押し付けるように添わせて力を入れて曲げていった。そして、曲げまわした板をパンチとなる木挟みで挟んで留めて固め、底を張って桜の皮で綴じた。つまり、曲物を作るにはそれ以前にすでになる曲物が必要である。これは、言葉でいえば同語反復であり、当該語を説明するのに当該語を用いる自己言及が起こっていることになる。もともとのもとはそれ自身ということである。すなわち、曲物とは、イハレという言葉の謂れを的確に物語っている。
曲物作り
そんな曲物を作るのに必要な曲物の、最初の曲物を作ったのは誰であろうか。今日の人が一元的な記述のもとに歴史を解釈すると、垂仁紀にある物部長真膽(稚桜部造長真膽)や膳臣余磯(稚桜部臣余磯)かとも考えてしまうであろう。しかし、当時の人のなぞなぞ的な言葉遊びの多元的な記述から考えれば、最初に曲物を作ったのは人間ではないと言い切れるであろう。神が作ったといった今日の人の一元的な解釈ではなく、板を曲げまわして曲物は作られているのだから、敵の、ないし、お上のまわし者が作ったに決まっているのである。つまり、猿である。縫殿寮に属しているような輩である。猿は人よりも一まわり小さく、それに当てて押し曲げたということである。キノコを榾木(ほたぎ)に育てたようにである。
[正倉院宝物の曲物]は厚さ3.5~4.0mmのヒノキの剥ぎ板製である.身の側板の両端を次第に減じる「まち」……の長さを18cmとし,両端2ヶ所を樺皮[=桜皮]で綴じている.材を曲げる技法については,現在ならば,煮沸軟化して行う.しかし,長さ約100cmもの側板を煮沸する容器のなかった時代では,曲げる材の内側に12条の白書きまた白引と呼ばれる小刀を用いて,繊維方向と直角に切り目を施して処理している.(成田1996.39~40頁)
他の遺物も、古い時代では「しらびき」を施したものが多く、七十一番職人歌合の図にその技法が描かれている。成田氏は、煮沸する容器がなかったからとしているが、大仏を建立するほどの時代である。技術的な問題ではなかったと考える。折敷様の製法で実用上構わないから、そのようにしていたに過ぎないのであろう。また、岩井1994.に、曲物の廃材を用いて作られた絵馬から見て、木目と直角方向の、曲物の縦方向に何条もの刻み目を入れるやり方以外に、斜めに交差するように刻み目を入れて菱形の模様になっているものがあって、刻みによる上下の歪みを少なくなるように工夫されていたと考えられると指摘がある。綺の文様が斜めに交差して菱形になっていることと似通っている。
檜物師(狩野晴川・狩野勝川模、七十一番職人歌合、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017452)
曲物(木製)(平安京西市跡、平安時代、京都市考古資料館展示品)
もちろん、技巧的にはしらびきを入れるのは邪道であり、一段劣るものと言わざるを得ない。そんな技法は、板に猿がひっかき傷をつけて作ったようなものであるとからかわれたに相違あるまい。ののしったり、あざけったりするときにも、猿頬という言葉は使われる。しらびきによって作られた曲物は、サルの頬嚢のようなもので、宴会のお下がりを折りに詰めて持ち帰るのに値する。使い捨て的に用いられることを前提に、お上のほうの要望で大量生産されたのがしらびき製造の曲物であったのではないか。匠の魂を売った檜物師が、粗悪品を作って出回っている。
以上見てきたように、サクラという語はサル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)の約で、曲物と曰く因縁があり、その謂れを語っている言葉であった。花とは無関係にサクラという言葉は考えられていたのであった。
(注)
(注1)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760505/60参照。
(注2)飯田2010.は、猿回しの淵源を探っている。大道芸のほか、門付けや廐の祈祷といった形態も存在していた。文献では吾妻鏡、絵画では年中行事絵巻の別本、フリーア本融通念仏縁起などを初見とする。絵画に描かれた猿回し、猿引きの図の首輪の様子はほとんど定かではない。融通念仏縁起清凉寺本や洛中洛外図屏風歴博乙本右隻の第四扇下部では、紐を首に巻いているように見える。一方、石山寺縁起絵巻や一遍聖絵に描かれた廐猿は鎖に繋がれているようで、首輪をしているように見受けられる。
(注3)枢戸の鍵として落し猿が使われている。回転を留めるものが猿なのだから、枢構造の胡床を留めるのは座面に乗った猿なのであるという発想であろう。腰掛けることで安定を維持している。
(注4)小さな木製の腰掛も確認されているから、その携帯版ということであろう。そのような腰掛は、台座が一体となっている刳り物のものと、臍を開けて脚を組み込むものとがあった。小泉2012.参照。
(注5)清朝のものとして、性器を突く仕掛けの施されたものが伝えられているが、本邦上代にそのようなものがあったか不明である。
(注6)仁徳紀に次のような記事がある。
……遠江国司(とほつあふみのくにのみこともち)、表上言(まを)さく、「大きなる樹有りて、大井川より流れて、河曲(かはくま)り停(とどま)れり。其の大きさ十囲(とうだき)。本は壱(ひとつ)にして末は両(またまた)なり」とまをす。時に倭直(やまとのあたひ)吾子籠(あごこ)を遣(つかは)して船に造らしむ。而して南海(みなみのみち)より運(めぐら)して、難波津に将て来りて、御船に充てつ。(仁徳紀六十二年五月)
(注7)樹皮の螺旋剥ぎについて、名久井2012.参照。すでに縄文時代の是川遺跡から出土例がある。日本財団図書館「自然と文化」71号https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00708/contents/026.htm参照。
(注8)柳沢2004.参照。
(注9)古事記にも用例がある。
……天皇、豊明を聞し看す日に、髪長比売に大御酒(おほみき)の柏を握(と)らしめ、其の太子(おほみこ)に賜ひき。(応神記)
是に、大后(おほきさき)石之日売命(いはのひめのみこと)、自ら大御酒の柏を取りて、諸の氏々の女等に賜ひき。(仁徳記)
(引用・参考文献)
飯田2010. 飯田道夫『猿まわしの系図』人間社、2010年。
岩井1994. 岩井宏實『曲物(まげもの)』法政大学出版局、1994年。
小泉2012. 小泉和子「出土腰掛の研究」『家具道具室内史』第4号、2012年5月。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
名久井2011. 名久井文明『樹皮の文化史』吉川弘文館、2011年。
名久井2012. 名久井文明『伝承された縄紋技術─木の実・樹皮・木製品─』吉川弘文館、2012年。
成田1996. 成田壽一郎『曲物・箍物』理工学社、1996年。
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十三巻』小学館、2002年。
橋口2006. 橋口尚武『食の民俗考古学』同成社、2006年。
柳沢2004. 柳沢一男『描かれた黄泉の世界 王塚古墳』新泉社、2004年。
※本稿は、2012年6月稿を2014年8月に改稿したものにさらに加筆修正を施したものである。
(English Summary)
There are several etymologies for the word “sakura” (櫻) that is cherry, but etymology is a hypothesis. We should pay attention to how the word was felt in ancient Japan. Then, it can be understood that “sakura” means “saru”(猿) that is a monkey + “kura”(鞍) that is a saddle.
サクラの語源については、これまでにさまざまな意見が示されている。今日の主要な見解としては、次の3つの例があげられる。(1)サク(咲)+ラ(名詞にする接尾語)とする説、(2)サ(穀霊、稲田の神霊)+クラ(座、宿ります場所)とする説、(3)神名のコノハナノサクヤビメのサクヤの転とする説である。筆者は、地名を含めてすべての言葉について、言葉の語源を探るという立場に立たない。問題の焦点は、上代において、人々が当該の言葉をどのように捉えていたかにあると考える。それが上代人の心性を知るうえで最も重要であり、逆言すれば、言=事とする言霊信仰の時代にあっては、歴史という事柄を知る方法の基底に据えられるべきものであると考えている。文献史学にとっての文字史料である記紀万葉は、その時代の人々の認識を基に記されているのだから、ひとつひとつの言葉の当時の意味合いを知らなければ、問題をはき違えたり見逃したりすることになるであろう。
万葉集に載る植物としては、数え方にもよるが、萩は141首、梅は118首、橘は68首、桜は40首、藤は27首、撫子は25首、卯の花は24首である。サクラは今日考えられているほど花の代表格ではない。また、サクラの歌われ方を見ると、咲く花として22首、散る花として16首と多く、ほかに、待つ花として4首、蕾として1首、木材として1首である。花の特徴としては、咲くことと散ることに目が行っているようである。本稿では、まず、万葉集におけるサクラの使われ方から、ついで、履中紀の「稚桜宮」記事から、サクラという語は、サル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)であると感じられていたとする説を提唱する。
従来の(1)説によれば、ヤマザクラは雑木から成る春の山において、芽吹きに先立って花を咲かせるところから「咲く」ことに注目が行っているという。万葉歌の用字にサクラは、「櫻」、「佐宿木」、「作樂」、「佐久良」のみである(允恭紀八年二月条歌謡に「佐區羅」(紀67)とある)。うち、単独でサクラとあるのは、「櫻」(万1440・1887・3787・4151)、「佐久良」(万3967)である。連語でサクラバナは、題詞を含め、「櫻花」17例(万257・260・971・1047・1212・1425(山櫻花)・1776・1855・1864・1866・1870・1872・3129・3305・4074・4361・4395題詞)、「佐久良婆奈」3例(万3970(夜麻左久良婆奈)・3973・4077)、「佐久良婆那」(万829)、「佐久良波奈」(万4395)、「作樂花」(万3309)各1例の計23例である。また、サクラノハナは、「櫻花」14例(万1429・同題詞・1430・1456題詞・1458・1459・1747・1749・1750・1751・1752・1854・1869・3786)、「佐宿木花」(万1867)1例の計15例である(履中紀三年十一月条にも「櫻花」とある)。単独でサクラと使う例に、カケタルサクラ ハナサカバ(「繋有櫻 花開者」(万3787))、サケルサクラノ ハナノミユベク(「開有櫻之 花乃可見」(万1887))とハナという語を伴う歌が2例ある。花を指す際に単独にサクラと使うのは、ヤマノサクラハ イカニアルラム(「山能櫻者 何如有良武」(万1440))、サケルサクラヲ タダヒトメ(「佐家流佐久良乎 多太比等米」(万3967))、ヲノヘノサクラ カクサキニケリ(「峯上之櫻 如此開尓家里」(万4151))の3例に限られる。ほかに、サクラダ「櫻田」(万271)、ヤマサクラド「山櫻戸」(万2617)、サクラコ「櫻兒」(万3786題詞)、サクラヲ「櫻麻」(万2687・3049)がある(履中記にワカサクラノミヤ(若櫻宮)、履中紀三年十一月条にワカサクラノミヤ「稚櫻宮」などとある)。このように、Cherry Blossom を表すのに、サクラバナ、サクラノハナと、説明調に語るところを見ると、サクラという語自体は樹種として捉えられていた可能性が高いといえる。
万葉集歌には、語呂合わせ的な言葉の連なりを好んだ例が数多い。サクラバナ コノクレシゲニ(「木乃晩茂尓」(万257)、「木暗茂」(万260))、サクラバナ コノクレゴモリ(「木晩窂」(万1047))とある。木が茂って下かげの暗いところを言う語を、桜の花の咲いた時の誇張表現として使っている。サクラのクラを暗い意と感じて連想したに違いあるまい。こういう例がありながら、サクラに、「咲良」、「開等」といった用字が一例も見られない。サクラという語の語源については措くとしても、万葉語においては、当時の人にとって、咲くからサクラであるとは意識されていなかったらしいとわかる。
(2)説によれば、民俗学で桜の花の付き具合で豊凶を占ったとされ、農耕の時期を知らせて咲くからとも説かれている。しかし、記紀万葉に、そのような民俗的視点から桜が取り上げられている例を見ない。証拠がひとつもないのに説がひとり歩きしている。また、早苗に見られる稲の霊を指すというサについても、桜の花は、早乙女が活躍する五月蠅(さばえ)なす旧暦の五月には咲かない。和名抄に、「櫻 文字集略に云はく、櫻〈烏茎反、佐久良(さくら)〉は、子(み)の大きさ栢(かへ)の端の如し、赤・白・黒き者有る也といふ。」とある。これらは木類に分類されており、果蓏類ではない。本草和名には、「櫻桃 ……和名は波々加乃美(ははかのみ)、一名に加爾波佐久良乃美(かにはざくらのみ)」とある。櫻字は、中国ではユスラウメを指す。礼記・月令に、「是[仲夏]の月や、……羞(すす)むるに含桃を以てし、先づ寝廟に薦む。(是月也、……羞以二含桃一、先薦二寝廟一。)」とある。ここから仮に意訳したとしても、五月にサクランボをお供えしたという話にしかならない。そのうえ、日本における植物の桜はもとヤマザクラであり、人々の生活圏とは少し離れていたともされる。サ(穀霊)の乗るクラ(鞍)がお出でになるという話がどこから持ち上がっているのか不明である。
(3)説に関して、コノハナノサクヤビメには類音にコノハナチルビメがいる。「此の花散る姫」の対が、「此の花ノ咲くヤ姫」と過剰に助詞が入っている。曰く因縁を持った神名ということであろう。ヤは反語の助詞である。記紀と同時代と考えられる万葉歌に、桜の花は咲くものとも散るものともされている。二神を表す非対称な語の一方を取り上げて、サクラという語に思いが及んだと比定することは適当とは言えない。また、万葉集にコノハナノサクヤビメと関連させて作歌された例も見当たらない。以上のように、今日行われているサクラの語源説なるものは、記紀万葉の時代の言語感覚とは一致しないものばかりである。
材としてのサクラ
筆者は、飛鳥時代において、サクラは材として利用されることが多かったから、それとの関連でイメージされていた語ではないかと考えている。材としてのサクラとしては、何よりもその樹皮である。色艶が美しく、薄く削っていっても丈夫で切れず、曲物の綴じ材や、弓や太刀、剣、斧、鍬などの柄の巻皮に用いられた。「桜皮(かには)」である。和名抄に、「朱櫻 本草に云はく、櫻桃は一名に朱櫻〈波々加(ははか)、一に迩波佐久良(にはさくら)〉といふ。」とある。「迩波佐久良」は「加迩波佐久良」であろう。
味さはふ 妹が目離(か)れて 敷細(しきたへ)の 枕も巻かず 櫻皮(かには)纏(ま)き 作れる舟に 真梶貫き 吾が榜(こ)ぎ来れば……(万942)
天児屋命(あめのこやのみこと)・布刀玉命(ふとたまのみこと)を召して、天の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内抜きに抜きて、天の香山の天のははかを取りて、占合(うらな)ひまかしめて……(記上)
カニハが「皮(かは)」のことを特に指すところから、訛ってカバという。シラカバ、ダケカンバなどをカバとするのは、樹皮のさまが横に縞模様が入り、サクラと似ているからである。和漢三才図会に、「按櫻謂レ子不レ謂レ花何耶。」と、和名抄に花についての言及がないのを不思議がっているが、もともと実用性に注目が行っていた木であった。源氏物語・幻に「樺桜」とあるのは、ヤマザクラのことであろうとされている。万942歌では、纏くものとしてのカニハを導くのに、異性を纏くための道具のマクラをあげている。サクラと音が似通っている。この歌のこの箇所の機智はそこにある。また、記の天石屋条では、鹿卜の際に焼けた木の棒を鹿の肩の骨にあてがい、できたひび割れをみて占いをしている。その材料の「天之波々迦(あめのははか)」もカニハザクラというヤマザクラである。伴信友・正卜考に、万葉歌の「天降(も)りつく 天(神)の香具山 …… 櫻花」(万257(260))とあるのは、天石屋条の伝承によった作例かもしれないとする(注1)。さらに、象焼きでは熱が奪われて火が消えやすいから、燃えやすいカニハザクラの樹皮の付いた部分を使ったのであろうとも指摘している。実生活に用いられて木の名が現れている。ハハカ、カニハといった語が先に存在し、サクラという語を新たに作った可能性もある。
曲物をサクラの皮で綴じる点について、名久井2012.は、「弥生時代から現代に至るさまざまな時代の遺跡から発見されている「板製」曲げ物を見ると、例えば中世の遺跡から発掘された井筒のように分厚い板を曲げて作ったものから、現代の弁当入れのように薄い板を曲げて作ったものまで、その用途によつて大きさも形も側板の厚さもまちまちだ。そうした各様の大きさや形態の曲げ物でも、側板の端どうしを重ねて綴り合わせる素材として使われてきたのは一貫してサクラの表皮だった……。その薄さにも関わらずサクラの表皮ほど強靭で側板の綴じ紐に最適な素材がほかになかったからだろう。……「板製」 曲げ物の側板を綴じる紐の素材という、それほど長くなくても足りる樹皮の効率的な入手の仕方は、ある程度幅広く横に剥ぎ、そこから必要な幅を切り出すことだった。したがって「板製」曲げ物の製作技術があるところには必ずサクラの樹皮の「横剥ぎ型剥離法」が伴ったとみてよいことになる。そんなわけで、弥生時代から現代まで途切れることなく受け継がれてきた「板製」曲げ物の製作技術には常に樹皮の「横剥ぎ型剥離法」が伴っていたと言える……。」(153~154頁)とする。サクラという樹木は曲物技術として人々に分節、認知されていたのである。
ヤマザクラの樹皮剥ぎ(「角館樺細工」https://www.nigiwai-dougu.com/marche_category/221/pg-221-171122101228.pdf)
サクラという語は、(a)花樹の桜のこと、のほか、(b)馬肉、(c)店で仕込んだ偽装客のことをも指す。馬肉については、肉の色が桜の花の色のようであるとか、桜の花の咲く頃がおいしいという説があるが、説得力に乏しい。偽装客については、賑やかなさまが桜の花に似ているとか、すぐ散ってしまうことを譬えているという説もあるが、そう考えるとずいぶん婉曲的な表現ということになる。サクラという言葉を(b)(c)も含めて納得するためには、花の様子から離れないといけないようである。
もともと、樹の Cherry を見て、その桜皮にばかり気が行っている。実用的な用途から、特に曲物細工における綴じ材として注目されていた。箍(たが)で締める結桶が鎌倉時代に登場する以前は、「麻笥(をけ)」に由来する捲桶(わげおけ)が多用されていた。和名抄に、「桶 蒋魴切韻に云はく、桶〈佳惣反、上声の重、又他孔反、乎介(をけ)〉は井に於て水を汲む器也といふ。」、「笥 礼記注に云はく、笥〈思吏反、介(け)〉は食を盛る器也といふ。」とある。
左:「麻笥」、右:水桶(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055245をトリミング)
平城京跡出土漆塗り曲物(国立歴史民俗博物館展示品)
現代の発泡プラスチック製の弁当箱
猿の座
万葉歌や允恭紀などに、「櫻」の字が使われている。中国でユスラウメを表す櫻の字が、ヤマトでは Cherry に選択的にあてがわれている。旁の嬰は、女が首にかける首飾りのことで、めぐらすことを示したり、また、嬰児をいう。首飾りを思い出させるのは、猿回しの猿である。木の赤ん防を思わせるものは、木の子たるキノコ、サルノコシカケである。すなわち、サル(猿)+クラ(座)→サクラである。万葉集の原文に「佐宿木花」(万1867)とあったのをサクラバナと訓んでいた。神座(かみくら)→神楽(かぐら)と同様の転化である。地名には、猿投(さなげ)、猿島(さじま)などと訓む例がある。
ソメイヨシノについたサルノコシカケ
猿の座とは何か。(a)サルノコシカケ、(b)サルの座るようなところ、(c)まわし者のサルを懲らしめるために座らせるところ、の三つの意が考えられる。ヤマザクラの皮を剥いで採取すると当然ながらその木は弱る。サルノコシカケは、枯れ木や樹勢の弱った木に取り付いて大きくなる木の子(キノコ)である。いったん木にキノコ菌がとりつくと、木全体にまわってさらに弱らせながらキノコとして表面に現れる。表面に現れたキノコを取っても再び現れるから、榾木(ほたぎ)に菌を植え付けてシイタケ栽培などが行われている。木にくっついている子のことは、本邦に人間よりもひとまわり小さいニホンザルのことを思い浮かべたに相違あるまい。そしてまた、桜皮で綴じて曲物、曲げわっぱを作り、猿回しのサルの首輪とすることも可能である。サルが皮を剥いだとして、懲らしめるために首枷(くびかせ)を嵌めることにしたのだと推量することもできる(注2)。
チェアとして、サルが座るようなものだとされるものに、胡床、床几などと呼ばれる折り畳みできる背もたれのない腰掛がある。今日、神社などを中心に尻受けに白布が張られたものを目にするが、古代に、革、縄などを張ったものもあったとされている。延喜式に、「大儀〈元日、即位及び蕃国の使の表を受くるを謂ふ〉」に際して列席する武官は、「並(みな)胡床(あぐら)に居(すわ)れ〈少将以上の胡床は各虎の皮を敷け〉。」(左右近衛府式)とあり、上に虎皮を敷いている。規定に、「凡そ胡床三百基の緒の料の緋の糸は、基別(ごと)に八両、塗る料の漆は基別に一合」(同)とある。X字状に支柱を組み違えて作られており、脚を畳んでいつでも移動することができる。跡形もなく去ることができるからサルの腰掛と言えるようである。支柱間の継ぎ手は枢(くるる)構造になっていて、枢のことは猿とも言っていた(注3)。猿回しにくるくると回らせて楽しんでいるのは、枢を見ているのと同じということになる。
胡床(左:北斉校書図、ウィキメディア・コモンズhttps://commons.wikimedia.org/wiki/File:北齊校書圖.jpg?uselang=jaをトリミング、右:年中行事絵巻、谷文晁写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591099/41をトリミング)
四脚を組んで立てた高くない脚立のことを鞍掛(くらがけ)ともいう。馬の鞍は使わないときは馬の背から外し、同じく鞍掛と呼ばれる台に掛けておく。乗馬の練習のために使われ、鞍掛馬、また木馬(きうま・もくば)ともいう。本来、鞍は馬に掛けて人がその上に座るものである。対して、鞍が主役になって座すことになるのが鞍掛である。一まわり小さな物だから、猿の腰掛と呼ぶに値する。つまり、猿の座は馬そのものということになる。だから、馬の肉はサクラである。猿回しの大道芸が始まると人々は集まって来て盛んだが、終わって見物料の御祝儀(纏頭、はな)を貰い受ける段になるとお金を渋って人々はすぐ散っていく。それは、店側の仕込んだ偽装客が、契約時間が明ければ一気に消えてなくなるのに似ている。サクラの花の咲き散るさまによく似ている。
木馬(高槻市立しろあと歴史館展示品)
令制に、縫殿寮に属した猿女は人事考課に当たっていた。養老令・職員令に、「縫殿寮 頭一人。掌らむこと、女王、及び内外の命婦、宮人の名帳、考課のこと、……」とある(注4)。些細なことでも上の者に報告する、人の顔をした人でなしである。そんなまわし者の猿を懲らしめるには、相手が猿なのだから木馬責めがふさわしい。木馬の背を三角形に尖らせ、その上に跨らせて脚に重石を付け、股間をさいなませる私刑である。十訓抄(1252年)に、「俊綱大にいかりて「人をあざむきすかすは、其の咎かろからぬ事なり」とて、雑色所へくだして木馬にのせんとする間、成方いはく……」(巻七・第二十五)などとある。猿はお上の御用を働いており、鞭打ちや流罪といった公に存した刑罰にあてられず、また、仮にお上に知られたとしても、ただ座らせていただけだと抗弁できるものである。特に猿女の場合は女性だから、面白いことになるという理屈であろう(注5)。
稚桜宮
履中紀に「稚桜宮」、「稚桜部」と記されている。
三年の冬十一月の丙寅の朔の辛未に、天皇、両枝船(ふたまたぶね)を磐余(いはれ)の市磯池(いちしのいけ)に泛べたまふ。皇妃(みめ)と各分(わか)ち乗りて遊宴(あそ)びたまふ。膳臣余磯(かしはでのおみあれし)、酒(おほみさけ)献る、時に桜の花、御盞(おほみさかづき)に落(おちい)れり。天皇、異しびたまひて、則ち物部長真膽連(もののべのながまいのむらじ)を召して、詔して曰はく、「是の花、非時(ときじく)にして来れり。其れ何処(いどこ)の花ならむ。汝(いまし)、自ら求む可し」とのたまふ。是に、長真膽連、独り花を尋ねて、掖上(わきのかみ)の室山(むろのやま)に獲て、献る。天皇、其の希有(めづら)しきことを歓びて、即ち宮の名としたまふ。故、磐余の稚桜宮(わかさくらのみや)と謂(まを)す。其れ此の縁(ことのもと)なり。是の日に、長真膽連の本姓(もとのかばね)を改めて、稚桜部造(わかさくらべのみやつこ)と曰ふ。又、膳臣余磯を号けて、稚桜部臣(わかさくらべのおみ)と曰ふ。(履中紀三年十一月)
天皇は、両枝船に乗って遊んでいた。両枝船は、太い幹が枝分かれした部分を刳り抜いて作った船のことであろう(注6)。天皇は皇妃と二人で、枝分かれした二手に分かれて乗っていたのである。今日のボート遊びのように向かい合って乗っていたわけではない。ペダルを踏んで進むスワンのボートにように並んで乗っているのでもない。両枝船に乗りながら遊宴をしており、膳職に酒を次がれている。面倒くさい状況設定は深い意味があってのことであろう。すなわち、両枝船は、股が裂ける木馬のことや、ヤマザクラの株立ちを連想させて、サクラの花が散ってくることを伏線として導いているのである。
株立ちになるヤマザクラ
今日の感覚では、旧暦の十一月に花が咲く桜としてはヒマラヤザクラなどを思い浮かべるかもしれないが、「非時」とあるように狂い咲きをしたと考えるべきであろう。この「非時」のものを求めさせる話としては、垂仁紀九十年~九十九年明年条の「非時香菓(ときじくのかくのこのみ)」の話が名高い。田道間守(たじまもり)という人が、天皇の命をうけて、「常世国(とこよのくに)」へ探しに行き、「非時香菓」なる橘を持ち帰ってきた。ところが、天皇はすでに亡くなっていて、悲しみのために御陵で自死したという話である。履中紀の場合、物部長真膽連は、一人で桜を探し、掖上の室山に見つけて獲ってきて献っている。掖上の室山は、「常世国」や「神仙秘区(ひじりのかくれたるくに)」には相当せず、里の裏山のようなところであろう。
天皇は、なぜ物部氏に依頼したのか。物部氏は、大和朝廷で軍事や刑罰に当たる戦闘員の部民である。それがこの出来事の結果、改姓させられて、稚桜部造長真膽連となっている。膳臣余磯の方は稚桜部臣と号したとあるから、一代限りの渾名が付けられたということであろう。物部氏が全員改姓させられたわけではなく、長真膽という名の一族が分家的に稚桜部造になっている。ナガマイという名からは、長い柄を細縄などで鍔元まで巻きつけた太刀のことをいう長巻(ながまき)のことが連想される。ナガマキのイ音便としてその名が語られていると思われる。天皇としては、桜の花のついた枝を取って来いと命じたつもりであったかもしれないが、ナガマイという人は、太刀の柄に巻くとすべらなくてよい桜皮を螺旋状に長く採ってきた(注7)。名に負うて職務に忠実だと顕彰して、武家のなかでも武具作りの専門職たるにふさわしい姓に改めさせたということであろう。
長巻の握り部分(呉竹鞘御杖刀、宮内庁ホームページhttps://shosoin.kunaicho.go.jp/treasures?id=0000010090&index=0をトリミング)
「花ぐはし桜」
允恭紀に「桜」の登場する歌のやりとりがある。
八年の春二月に、藤原に幸(いでま)す。密(しのび)に衣通郎姫(そとほしのいらつめ)の消息(あるかたち)を察(み)たまふ。是夕(こよひ)、衣通郎姫、天皇を恋(しの)びたてまつりて独り居(はべ)り。其れ天皇の臨(いでま)せることを知らずして歌(うたよみ)して曰く、
我が背子が 来べき夕(よひ)なり ささがねの 蜘蛛の行ひ 是夕著しも(紀65)
天皇、是の歌を聆(きこ)しめして、則ち感(め)でたまふ情(こころ)有(おは)します。而して歌(みうたよみ)して曰はく、
ささらがた 錦の紐を 解き放(さ)けて 数(あまた)は寝ずに 唯一夜のみ(紀66)
明旦(くるつあした)、天皇、井の傍(ほとり)の桜の華を見(みそこなは)して、歌して曰はく、
花ぐはし 桜(佐區羅)の愛(め)で こと愛でば 早くは愛でず 我が愛づる子ら(紀67)
とのたまふ。(允恭紀八年二月)
天皇は、「衣通郎姫(そとほしのいらつめ)」への恋慕の情を歌っている。彼女は皇后の妹で、天皇のお召しになかなか応じず、仁徳紀にあった倭直吾子籠の家に留まったりしている。
弟姫(おとひめ)、容姿(かほ)絶妙(すぐ)れて比(ならび)無し。其の艶(うるは)しき色、衣(そ)より徹りて晃(て)れり。是を以て、時の人、号けて、衣通郎姫と曰す。(允恭紀七年十二月)
記には、允恭天皇の娘の一人の別名に、「衣通郎女(そとほりのいらつめ)」とある。
軽大郎女(かるのおほいらつめ)、亦の名は衣通郎女。〈御名を衣通王(そとほりのみこ)と負はせる所故(ゆゑ)は、其の身の光、衣より通し出づればなり。〉(允恭記)
ソトホシ、ソトホリという名は、肌の美しさが衣を通して光映えていることの表現とされている。それはその通りなのであろうが、衣を通して美しい体が見えるのは、オーガンジーのような透け感のある着物だったからであろう。シースルーの上等の着物としては、錦のうちでも薄手の「綺(かにはた)」が挙げられる。文様が斜めになっており、蟹が斜めに進むところから、カニ(蟹)+ハタ(機)が語源であろうとされている。和名抄に、「綺 蒋魴切韻に云はく、綺〈虚仮反、岐(キ)、一に於利毛能(をりもの)と云ふ。又、一に加无波太(かむはた)と云ふ〉は錦に似て薄き者也といふ。釈名に云はく、綺は棊也、方丈の棊の如きを謂ふ也といふ。」、華厳音義私記に、「綺 加尼波多(かにはた)と訓む」とある。垂仁紀三十四年三月条に、「綺戸辺(かにはたとべ)」という美人を後宮に入れたという記事が載る。綺麗な人ということである。
カニハタからはカニハ(桜皮)が連想され、ほんのりと赤みを帯びた肌が美しかったのであろうとわかる。つまり、紀66歌で彼女の衣を脱がせて一夜を共にしたのは、まるで桜の木の皮を横剥ぎにすることと同じであったということである。桜の皮を剥ぐ好機は、後述のように、花の咲いた頃のみずみずしい時季である。そこが紀67歌の巧みさである。やっとかなった情事を、桜の皮剥ぎに譬えている。弟姫という言葉には、妹の姫という意味と、年若い姫といういう意味がある。
ワカという形容
履中紀では、磐余の地の宮の名が稚桜宮になっていた。宮号が、ワカと冠したサクラノミヤという名になっている。ワカという語は、古語拾遺に注目すべき記述がある。「天照大神、吾勝尊(あかつのみこと)を育(ひだ)したまひて、特甚(おぎろ)に愛(いつくしみ)を鐘(あつ)めたまふ。常に腋の下に懐(いだ)きたまふ。称(なづ)けて腋子(わきご)と曰ふ。」とある。時代別国語大辞典の「わくご【若子】」の項の【考】にこの例が載り、「上代人の一つの語源解釈を示すものであろう。」(816頁)とする。上代人の語源解釈とは、ことほど左様に怪しいものであり、駄洒落解釈を示したものがきわめて多い。しかるに、それこそが言=事とする言霊信仰に生きた当時の人にとっては大事なことなのである。
白川1995.に、「わかし〔若・稚〕 「わか」の形容詞形。生れてまだ多くの年月を経ていないことをいう。「わかゆ」「わかやる」は動詞形、「わかやか」は副詞形。類義語の「をさなし」は「長(をさ)無(な)し」で未熟の意。「いたいけらし」は見るからに心がいたむほどの愛らしさをいう。……国語の「わか」の語源は明らかでないが、人には「をさなし」「いたいけ」という。「わか」を冠した語には、若草・若薦(わかこも)・若竹・若木・若海藻(わかみる)など、草木の類をいうことが多いことからみて、そのようにあらたに生え出たものをいう語であったかと思われる。それならば穀の未熟なことをいう「稚(わか)し」と、同様の発想をもつ語である。」(798~799頁)とある。
このワカの語については、同書の「わく〔沸・涌〕」の項に、「国語の「わく」も湧き水の意が原義。沸騰する意に用いるのは、おそらくその展開義であろう。」(800頁)とあることと関係があろう。春、草木の芽が出て勢いがつくと、葉先から水滴があふれ出ることがある。そんなみずみずしい状態を、ワカシと表現したのではなかろうか。それは、サクラの木についても同様である。名久井2011.には、「新芽が萌え、樹種ごとに少しずつ色を異にする新緑が日ごとに濃くなって、やがて全山がしたたる緑に包まれる。どうかするとサクラの葉先から滴がこぼれ落ちたり、切られたヤマブドウの蔓が盛んに樹液を出すのもこの季節である。梅雨どきから七月にかかるこのころ、樹木の活動は最も活発となって水分の吸い上げが著しいのである。樹皮を剥いで利用しようとする人々が山に入るのはちょうどこの時期で、……サクラは花が咲けば樹皮を剥ぐことができるようになるという。」(98頁)とある。そんな時期のサクラの皮を剥いで水を汲む桶は作られている。類推思考によって水が涌いてくることを導いているわけである。掘り井戸の内側の井筒も曲物で作られていることが多い。サクラという語に冠する語としては、ワカばかりが適切ということになる。
曲物の井筒の例(後通遺跡(平安時代前期)、「文化財センター速報」公益財団法人千葉県教育振興財団、平成24年5月http://www.echiba.org/pdf/sokuhou/120501_ushirodori.pdf)
井戸側の上の曲物(石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055270をトリミング)
物部長真膽は、冬なのに花が咲いたサクラを探しに行った。それは、樹勢が盛んで葉先から滴が霧のように立つものである。つまり、サクラの木(け、ケは乙類)には、サクラの気(け、ケは乙類)が満ち溢れていた。樹皮を採って曲物を綴じることなどに用いるのが目的である。サクラで笥(け、ケは乙類)を作るためである。見つけた場所は、ワキのカミ(ミは甲類)のムロのヤマである。ムロのヤマとは、食糧の越年保存のために山の斜面などに作られた土坑のあるところをイメージしているであろう。橋口2006.によれば、縄文時代から貯蔵穴は確認されており、弥生時代には稲籾用のものが普遍化していったという。ただし、西日本を中心にした貯蔵穴は後期になると激減し、古墳時代に入るとまったくなくなっているという。この点については、人は「室山」をやめたが、猿はまだやっているという頓智を紛れ込ませているとも解釈できよう。人に顔のワキのほうにもカミ(髪、ミは甲類)がある人は少なく、対して猿には必ずあるということとも関連してこよう。髪の毛の脇の方へ伸びたところで室のような穴倉の上の山とは、獣であるサルの顔のもみあげのところということである。もみあげに、揉み上げと籾上げとを掛けているのかもしれない。毛(け、ケは乙類)のところにて笥に相当する頬嚢を発見した。
ニホンザルの頬嚢(日本モンキーセンター様「飼育の部屋」2019年6月24日記事、大島様撮影)
頬嚢
すなわち、サルの頬嚢とは、サル(猿)+クラ(倉・蔵)の意であり、サクラなのである。和名抄に、「猨嗛 爾雅注に云はく、猨嗛〈菅簟反、佐流保々(さるほほ)〉は猿の頬の内の食を蔵する処也といふ。」とある。サルの頬嚢は口の中にある内ポケットで、たくさんの餌があるといったん頬袋に詰め込んで膨らませ、安全な場所に移動してから貯えた食物をゆっくり食べる。サルにとって頬とは、人間にとっては料理を入れる食器や、後で食べるために包んで持ち帰るタッパーのような容器に当たる。現代にプラスチックやビニールが担っているその用途には、竹の皮やへぎ、経木、柏の葉、朴の木の葉が用いられていた。サルノコシカケのようなキノコのことをタケ(菌)ともいうのは、猿頬同様の菓子折、曲物とのつながりからも裏付けられた言葉のようである。貝のサルボオも、その色が馬肉同様に朱色っぽいこととも連動する命名と思われる。
これまでの謎掛けの論調から、朴の木の葉は猿頬と同じホホであるとの駄洒落を言っているとわかる。朴の木は落葉高木で、日本各地の山林に自生し、初夏に、香りのある黄白色の大きな花をつける。材質は柔らかくきめが細かいので各種器材に用いられた。朴歯下駄と称される下駄の歯などの細工物にしたり、水に強く手触りが良いため和包丁の柄やまな板に用いられたり、また、ヤニが少なく加工しやすいため太刀の鞘にも加工された。樹皮は厚朴または和厚朴といい、生薬にした。新撰字鏡に、「厚朴 九・十月に皮を採りて陰干しす。保ゝ加志波(ほほがしは)」、和名抄に、「厚朴〈重皮附〉 本草に云はく、厚朴は一名、厚皮〈漢語抄に厚木を云ふ。保々加之波乃岐(ほほがしはのき)〉といふ。釈薬性に云はく、重皮〈保々乃可波(ほほのかは)〉は厚朴の皮の名也といふ。」とある。
葉は大きくて裏が白い。食物を包んだり、食器代わりに食物を盛ったり、杯の代りにした。また、神事においても同様の用いられ方をした。6世紀の王塚古墳からは、玄室で杯の下に敷かれていた状態でその葉が出土している(注8)。万葉集にも例がある。
攀(よ)ぢ折れるほほがしは〔保寶葉〕を見たる歌二首
吾が背子が 捧げて持てる ほほがしは〔保寶我之婆〕 あたかも似るか 青き蓋(きぬがさ)(万4204)
皇神祖(すめろき)の 遠御代(とほみよ)御代は い布(し)き折り 酒(き)飲みきといふそ このほほがしは〔此保寶我之波〕(万4205)
万4205番歌から、酒器としてホホガシハの葉が用いられたことが窺える。ホホガシハといっているのは、柏餅などに使われるカシハと用途が同じからであろう。神饌を盛る葉盤(ひらで)はカシハを綴り合わせて作られている。いずれの葉も幅広く大きい(注9)。
左:朴、右:柏
イハレ
履中天皇の都した磐余の地の宮号が、「稚桜宮(若桜宮)」となった理由について見る。磐余という地名の由来は上代文献に記されないものの、「謂(いは)れ」のことをイメージしていたことは確かと考えられる。言=事とするのが上代の人々のモットーだからである。理由、訳のこと、記紀には、「縁(ことのもと)」、「所以(ゆゑ)」と記される言葉に当たる。西郷2005.に、神武天皇の名、「神倭伊波礼毘古(かむやまといはれびこ)(記)(「神日本磐余彦(かむやまといはれびこ)(紀))」の由来について示唆的な指摘がある。
[神倭いはれびこ命]の名を大和の地磐余にもとづくとする通説には従いがたい。……この名はやはり、日本の古代王権が大和に都して天下を支配するに至ったそのイハレ(由縁、来歴)を負うところの初代君主という意であり、それが神武の事績にたいする解釈としても一番ふさわしいと思う。神武紀には、磐余の地に大軍が「満」めりとか八十梟帥が「屯聚」みいたりとかいう話を載せているが、これらはイハレビコの名にあとでひっかけた地名説話にすぎないだろう。諡号は記紀に共通した話にもとづいているはずだ。
イハレという語は当時の文献にまだ見えぬというかも知れぬ。しかし、イフ(云)の受身形のイハルは、万葉に「われ故に、人にこちたく、イハレしものを」(一一・二五三五)ほか数例みえるから、その名詞化になるイハレという語がまだなかったとは断定できぬだろう。万葉集十六の有由縁歌の「由縁」もイハレと訓める。少なくとも以下の話が、初代君主の手でいかにして都が大和に定められ、宮廷がいかに君臨するに至ったかそのイハレをかたったものであるのは確かで、神武はいうなれば最初の culture-hero である。(17~18頁)
神武紀の「満(いは)」めりとか、「屯聚(いは)」みいたりとする話は、「あとでひっかけた地名説話」であることは正しかろう。culture-hero 論についてはさておき、万葉集中のイハレの形についてのみ考えることとすると、集中には、動詞イフ(言・云・謂)の未然形に受身の助動詞ルの連用形のつづいたものが5例、地名イハレ(磐余)が5例見られる。
昔こそ 難波田舎と いはれ(所言)けめ 今は京(みやこ)引き 都びにけり(万312)
山菅の 実成らぬことを 吾に依せ いはれ(言礼)し君は 誰とか宿(ぬ)らむ(万564)
をみなへし 咲く野に生ふる 白(しら)つつじ 知らぬこともて いはれ(所言)し吾が背(万1905)
おほろかの 行(わざ)とは思(も)はじ われ故に 人に事痛(こちた)く いはれ(所云)しものを(万2535)
…… ありなみすれど 言ひづらひ ありなみすれど ありなみ得ずぞ いはれ(所言)にし我が身(万3300)
つのさはふ いはれ(石村)も過ぎず 泊瀬山 何時(いつ)かも越えむ 夜は更けにつつ(万282)
ももづたふ いはれ(磐余)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雪隠りなむ(万416)
つのさはふ いはれ(石村)の道を 朝さらず 行きけむ人の ……(万423)
…… 麻裳(あさも)よし 城上(きのへ)の道ゆ つのさはふ いはれ(石村)を見つつ 神(かむ)葬(はふ)り ……(万3324)
つのさはふ いはれ(石村)の山に 白栲(しろたへ)に 懸れる雲は 大君にかも(万3325)
地名のイハレにかかる枕詞として、「つのさはふ」と「ももづたふ」が登場している。モモヅタフという語感からは、いろいろと伝承されてきたことを表しているように思われる。ツノサハフからは、角が障害物に接触して進みにくいことを表しているように感じられる。「謂れ」という語の意味する名詞のユヱ(故)の語義に、(1)物事の起こった理由、原因、また、由来のこと、(2)さしさわり、支障のこと、がある。後者の例としては、噂話の災いもなくあってほしいとという意味で用いられている。
…… 我が思へる 君に依りては 言の故(ゆゑ)も 無く有りこそと ……(万3288)
謂れにいろいろと事情があり、触れたくなかったり、触れられたくなかったりすることについて、特段に取りあげないで静かにしておくのが大人の対応というものである。そういうところから、ツノサハフといった枕詞が用いられていると考えられる。
日本国語大辞典第二版の「ゆえ(ゆゑ)【故】」の項の「語誌」に、「事物に本質的に備わっている原因をいう。これに対して、類義語「よし(由)」は、要因を事物のうちに求めることに重点があり、両者は本来、意味を異にする語と思われる。しかし、すでに上代から「ゆえよし」という語形が存し、また古辞書類でも同一字にユヱ・ヨシ両訓が認められることなどから、古くから両者の意味は近接していたと思われる。」(369~370頁)とある。その、よし(由・因・縁)という語は、寄(よ)すと同根で、物事に関係づけていくことの意である。具体的に目に見えることでいえば、曲物製作において、板をたわめ曲げて両端を近くに寄せることが思い浮かぶ。その後、底板を嵌めて桜皮で綴じて完成する。つまり、ヨシとは曲物のことである。
所以のことをいうユヱという語には、湯坐・湯人という語がある。神代紀第十段一書第三に、「亦云はく、彦火火出見尊、婦人(をみな)を取りて乳母(ちおも)・湯母(ゆおも)、及び飯嚼(いひかみ)・湯坐(ゆゑびと)としたまふ。」とあり、雄略紀三年四月条に、「湯人、此には臾衛(ゆゑ)といふ。」との訓注がある。ユヱとは、湯を用意して入浴の準備をする人のこと、ユ(湯)+ウヱ(据)の約である。当然、湯を入れる桶か盥がなければならない。古代には結桶はなく、曲物の桶が一般的であった。その曲物であるが、材料となるスギやヒノキの板を取ってからその板を曲げるには、湯桶につけて柔らかくし、ホタと呼ばれる丸太に押し付けるように添わせて力を入れて曲げていった。そして、曲げまわした板をパンチとなる木挟みで挟んで留めて固め、底を張って桜の皮で綴じた。つまり、曲物を作るにはそれ以前にすでになる曲物が必要である。これは、言葉でいえば同語反復であり、当該語を説明するのに当該語を用いる自己言及が起こっていることになる。もともとのもとはそれ自身ということである。すなわち、曲物とは、イハレという言葉の謂れを的確に物語っている。
曲物作り
そんな曲物を作るのに必要な曲物の、最初の曲物を作ったのは誰であろうか。今日の人が一元的な記述のもとに歴史を解釈すると、垂仁紀にある物部長真膽(稚桜部造長真膽)や膳臣余磯(稚桜部臣余磯)かとも考えてしまうであろう。しかし、当時の人のなぞなぞ的な言葉遊びの多元的な記述から考えれば、最初に曲物を作ったのは人間ではないと言い切れるであろう。神が作ったといった今日の人の一元的な解釈ではなく、板を曲げまわして曲物は作られているのだから、敵の、ないし、お上のまわし者が作ったに決まっているのである。つまり、猿である。縫殿寮に属しているような輩である。猿は人よりも一まわり小さく、それに当てて押し曲げたということである。キノコを榾木(ほたぎ)に育てたようにである。
[正倉院宝物の曲物]は厚さ3.5~4.0mmのヒノキの剥ぎ板製である.身の側板の両端を次第に減じる「まち」……の長さを18cmとし,両端2ヶ所を樺皮[=桜皮]で綴じている.材を曲げる技法については,現在ならば,煮沸軟化して行う.しかし,長さ約100cmもの側板を煮沸する容器のなかった時代では,曲げる材の内側に12条の白書きまた白引と呼ばれる小刀を用いて,繊維方向と直角に切り目を施して処理している.(成田1996.39~40頁)
他の遺物も、古い時代では「しらびき」を施したものが多く、七十一番職人歌合の図にその技法が描かれている。成田氏は、煮沸する容器がなかったからとしているが、大仏を建立するほどの時代である。技術的な問題ではなかったと考える。折敷様の製法で実用上構わないから、そのようにしていたに過ぎないのであろう。また、岩井1994.に、曲物の廃材を用いて作られた絵馬から見て、木目と直角方向の、曲物の縦方向に何条もの刻み目を入れるやり方以外に、斜めに交差するように刻み目を入れて菱形の模様になっているものがあって、刻みによる上下の歪みを少なくなるように工夫されていたと考えられると指摘がある。綺の文様が斜めに交差して菱形になっていることと似通っている。
檜物師(狩野晴川・狩野勝川模、七十一番職人歌合、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttp://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0017452)
曲物(木製)(平安京西市跡、平安時代、京都市考古資料館展示品)
もちろん、技巧的にはしらびきを入れるのは邪道であり、一段劣るものと言わざるを得ない。そんな技法は、板に猿がひっかき傷をつけて作ったようなものであるとからかわれたに相違あるまい。ののしったり、あざけったりするときにも、猿頬という言葉は使われる。しらびきによって作られた曲物は、サルの頬嚢のようなもので、宴会のお下がりを折りに詰めて持ち帰るのに値する。使い捨て的に用いられることを前提に、お上のほうの要望で大量生産されたのがしらびき製造の曲物であったのではないか。匠の魂を売った檜物師が、粗悪品を作って出回っている。
以上見てきたように、サクラという語はサル(猿)+クラ(鞍・倉・蔵)の約で、曲物と曰く因縁があり、その謂れを語っている言葉であった。花とは無関係にサクラという言葉は考えられていたのであった。
(注)
(注1)国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/760505/60参照。
(注2)飯田2010.は、猿回しの淵源を探っている。大道芸のほか、門付けや廐の祈祷といった形態も存在していた。文献では吾妻鏡、絵画では年中行事絵巻の別本、フリーア本融通念仏縁起などを初見とする。絵画に描かれた猿回し、猿引きの図の首輪の様子はほとんど定かではない。融通念仏縁起清凉寺本や洛中洛外図屏風歴博乙本右隻の第四扇下部では、紐を首に巻いているように見える。一方、石山寺縁起絵巻や一遍聖絵に描かれた廐猿は鎖に繋がれているようで、首輪をしているように見受けられる。
(注3)枢戸の鍵として落し猿が使われている。回転を留めるものが猿なのだから、枢構造の胡床を留めるのは座面に乗った猿なのであるという発想であろう。腰掛けることで安定を維持している。
(注4)小さな木製の腰掛も確認されているから、その携帯版ということであろう。そのような腰掛は、台座が一体となっている刳り物のものと、臍を開けて脚を組み込むものとがあった。小泉2012.参照。
(注5)清朝のものとして、性器を突く仕掛けの施されたものが伝えられているが、本邦上代にそのようなものがあったか不明である。
(注6)仁徳紀に次のような記事がある。
……遠江国司(とほつあふみのくにのみこともち)、表上言(まを)さく、「大きなる樹有りて、大井川より流れて、河曲(かはくま)り停(とどま)れり。其の大きさ十囲(とうだき)。本は壱(ひとつ)にして末は両(またまた)なり」とまをす。時に倭直(やまとのあたひ)吾子籠(あごこ)を遣(つかは)して船に造らしむ。而して南海(みなみのみち)より運(めぐら)して、難波津に将て来りて、御船に充てつ。(仁徳紀六十二年五月)
(注7)樹皮の螺旋剥ぎについて、名久井2012.参照。すでに縄文時代の是川遺跡から出土例がある。日本財団図書館「自然と文化」71号https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/2002/00708/contents/026.htm参照。
(注8)柳沢2004.参照。
(注9)古事記にも用例がある。
……天皇、豊明を聞し看す日に、髪長比売に大御酒(おほみき)の柏を握(と)らしめ、其の太子(おほみこ)に賜ひき。(応神記)
是に、大后(おほきさき)石之日売命(いはのひめのみこと)、自ら大御酒の柏を取りて、諸の氏々の女等に賜ひき。(仁徳記)
(引用・参考文献)
飯田2010. 飯田道夫『猿まわしの系図』人間社、2010年。
岩井1994. 岩井宏實『曲物(まげもの)』法政大学出版局、1994年。
小泉2012. 小泉和子「出土腰掛の研究」『家具道具室内史』第4号、2012年5月。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
名久井2011. 名久井文明『樹皮の文化史』吉川弘文館、2011年。
名久井2012. 名久井文明『伝承された縄紋技術─木の実・樹皮・木製品─』吉川弘文館、2012年。
成田1996. 成田壽一郎『曲物・箍物』理工学社、1996年。
日本国語大辞典第二版 日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞書編集部編『日本国語大辞典 第二版 第十三巻』小学館、2002年。
橋口2006. 橋口尚武『食の民俗考古学』同成社、2006年。
柳沢2004. 柳沢一男『描かれた黄泉の世界 王塚古墳』新泉社、2004年。
※本稿は、2012年6月稿を2014年8月に改稿したものにさらに加筆修正を施したものである。
(English Summary)
There are several etymologies for the word “sakura” (櫻) that is cherry, but etymology is a hypothesis. We should pay attention to how the word was felt in ancient Japan. Then, it can be understood that “sakura” means “saru”(猿) that is a monkey + “kura”(鞍) that is a saddle.