古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

貂、あるいは手について

2017年03月18日 | 和名類聚抄
ホンドテン(キテン)(「動物写真のホームページ」様http://www.ax.sakura.ne.jp/~hy4477/link/zukan/niku/hondoten.htm)
 テンである。毛色によってキテン(明色型)とスステン(冬でも灰褐色型)に分けられている。キテンの冬毛は特に光沢があってきれいでやわらかい。テンの毛皮のことは、中古文学に「ふるき」とある。

  聴(ゆる)し色のわりなう上白みたる一襲(ひとかさね)、なごりなう黒き袿(うちぎ)重ねて、表着(うはぎ)には 黒貂(ふるき)の皮衣(かはぎぬ)、いときよらに香ばしきを着たまへり。(源氏物語・末摘花)
 赤色の織物の直垂(ひたたれ)、 綾のにも綿入れて、 白き綾の袿重ねて、 六尺ばかりの黒貂の裘(かはぎぬ)、 綾の裏つけて綿入れたる、 御包に包ませたまふ。(うつほ物語・蔵開中)

「黒貂」と記されるそれは、渤海などからの輸入品らしいと解されている。けれども、日本に棲息しているテンの夏毛が、あたかも毛皮が古くなったものと見立ててフルキと命名している可能性の方が高いと考える(注1)。夏毛と冬毛を上手に着替えるドレッサーとして貂という動物は認知されていた。それを後から渤海などからの輸入品の名にまで当てがってフルキと総称したとするのが語学的には正解であろう。
 そして、そのテンの胴を抜いて筒にすれば、アームウォーマーにそのまま使えるのではないかと感じられる。
黒貂のアームウォーマー(いらすとや様https://www.irasutoya.com/2016/02/blog-post_333.html)
 和名抄に次のように記載される。

 貂 同[四声字]苑に云はく、貂〈音は凋、天(て)〉は鼠に似て黄色〈皮は裘(かはごろも)を作るに堪ふ〉といふ。
 黒貂 唐韻に云はく、貂に黄貂有り、東北夷に出づ〈黒貂は布流岐(ふるき)〉といふ。

 万葉仮名に「天」はテと訓む。和名抄の伊勢十巻本、前田本、高松宮本に、「貂」にテと傍訓が記され、ノイタチとも書かれている。「天」字には声点が「上」に一点記されている。つまり、奈良時代、平安時代初めに、貂のことは、高い声でテと言っていた。「手」については、一般に平声とされるが、和名抄伊勢十巻本、「杻」の項、「天加之(てかし)」に上上平と点せられている。同じくテという言葉である。やはり、貂はアームウォーマーとされたようである。実際にしていたかどうかは毛皮は遺物に残らないからわからないが、上代に「手(て)」の意味は、人体の①肩から指先までの部分全体、②腕や手首、③手首から先、のいずれをも指す語である。仮に貂のことを手に相当すると考えるなら、①肩から指先までの部分全体を表す意、と捉え返すことができる。貂の長い胴が人の一の腕、長い尾が人の二の腕に当たるように感じられる。人の手の甲が貂の頭頂、掌が顔面の白い部分に当たるという観察である。人は、手の甲と掌とで色がとても違っている。うまく擬せられているわけである。
 なお、和名抄の、「東北夷」が渤海に当たるのか、陸奥・蝦夷方面に当たるのか、筆者には定め切ることができない(注2)。また、和名抄の、「黒貂 唐韻云貂有黄―出東北夷〈黒貂布流岐〉」の反復略字は、「貂」一字ではなく「黒貂」と見るべきなのかもしれない。狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄には、「黒貂 唐韻云、貂有黄貂黒貂東北夷〈黒貂、布流岐〉」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991790(68/94))ととっている。
 残念ながら、貂をテと訓む例は、文献上、和名抄以外に見られない。古今著聞集(1254年)に「てん」の形であらわれている。かといって、撥音便のンは上代になかったから、テムなどという外来語系の形であったかといえば、列島に在来種がいたことが確実でありその可能性は限りなく低い。縄文人以来、人が野放しにしておくとは考えられないからである。したがって、和名抄の記述などを見た人が、それまでテと呼ばれていた動物を、字音でテンと呼ぶようになっていったと考えるのが妥当である。古語辞典や索引の類に、「貂(て)」と載せていないのは遺憾なことである。

(注)
(注1)古くさい、流行遅れの、という意に解する説と、古体の、という意に解する説があるが、偕老同穴の議論である。フルキがあるならアラタキがありそうだからである。夏毛と冬毛とでまるで変わってしまう毛皮の色・質のことを物語るヤマトコトバであろう。黒貂の毛皮を男性が堂々と着していたと記録されている。江家次第に、「昔蕃客参入時、重明親王乗鴨毛車、着黒貂裘八重。見物此間蕃客纔以件裘一領持来、為重物八重、大慙云云。」(巻第五・春日祭、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2573672?tocOpened=1(37/192))とある。黄金色に輝くようなホンドテンの冬毛に対してフルキという語は作られていると考える。重明親王が着ていたのは、ホンドテン、あるいはエゾクロテンの夏毛を使ったものと考えれば、珍しかろうとわざわざ舶来品を持ってきた使節が「大慙」をかいた理由も納得がいく。
(注2)記録として交易品のリストに載る可能性は極めて高く、常日頃からそこらへんで調達しているものについては記録しないのが世の常である。源順に聞いてみるよりほかわからないのであるが、渤海国を「東北夷」と呼び捨てていたとするのであろうか。

(参考文献)
大舘大學「東アジアにおけるクロテンの皮衣―特に古代日本の「ふるきのかわぎぬ」の実像をめぐって―」蓑島栄紀編著『アイヌ史を問いなおす:生態・交流・文化継承 アジア遊学139』 勉誠出版、2011年3月。北海道大学学術成果コレクションhttps://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/56459/1/bensei.pdf
河添房江『光源氏が愛した王朝ブランド品』角川学芸出版、2008年。
白柳秀湖『日本民族文化史考』文理書院、昭和22年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041547/101?tocOpened=1
鈴木靖民「入唐求法巡礼行記の世界の背景―渤海国家の交易と交流―」http://www.junreikoki.jp/pdf/suzuki.pdf

※本稿は、2017年3月稿をもとにして2020年8月に大幅に書き改めたものである。

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