仁徳天皇の生前の名、オホサザキについて、その名の由来は、①鳥の名サザキによるものであるとする説、②御陵のことをいうミサザキによるものであるとする説が唱えられている。仁徳紀にそれぞれ論拠となりそうな記述があり、どちらも「異(あや)し」という言葉が出てくる因縁譚である(注1)。「異(あや)し」い出来事で、「異し」い言葉ができている。
では、オホサザキという天皇の名前は、そのどちらに由来するものか。その正統性を問おうとするのははなはだ愚かである。異しい“都市伝説”に翻弄されてはならない。サザキという名前は、いまに佐々木さんであろう。とてもたくさんいらっしゃる。佐々木さんの名の由来を問うて限定させてどうなるのか、筆者には不可解である。古い時代に名づけられてあったこと、そのことについて検討が加えられなければならない。
先行研究をいくつか見てみる。①の鳥名由来説に傾いているものとして、古市2010.は、他にサザキの名のついた武烈、崇峻天皇のことから考えると、「王名サザキは巨大な王陵ではなく、鳥の名に因む。」(66頁)とする立場に立つ。また、川崎・梶田2009.は、鷦鷯=ウグイス説を唱えられ、「……古墳時代に、古墳に葬られるような貴人が小鳥になるという考え方があったためではないか。」(24頁)とする。一方、②の陵の語由来説に傾いているものとして、和田1996.は、「『古事記』『日本書紀』では、仁徳のオホサザキという名を鳥と結びつけているが、あるいはミサザキという言葉に関連があるかもしれない。仁徳紀には、仁徳陵が寿陵(じゅりょう)(生前から造っておく山陵)として造営されたことを伝えており、また巨大な墳丘をオホミサザキとよんで、それが仁徳のオホサザキという名となった可能性はある。」(62頁)(注2)とする。また、三浦2011.は、「仁徳というのは後世の呼称で、ほんとうの名前はオホサザキ(古事記では大雀命、日本書紀では大鷦鷯尊)という。サザキというのは、漢字表記からもわかるようにミソサザイという小鳥の名とされているが、大きなミソサザイというのでは言語矛盾をきたす。たぶんこの説明は後から加えられたもので、もとは「大きな墓=オホサザキ」という意味だった。生存中から築造が行われていたのか、死後の呼び名かはわからないが、大墓を意味するオホサザキは、いつのまにやら、大きなミソサザイという意味の大王オホサザキになった。」(233頁)とする。
新撰字鏡に、「鷯 聊音、鷦 加也久支(かやくき)、又佐々支(さざき)」、和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼二音、佐々岐(さざき)は小鳥也。蒿萊の間に生れ、藩籬の下に長ずといふ。」とある。他方、御陵のことは、「山陵〈埴輪附〉 日本紀私記に云はく、山陵〈美佐々岐(みさざき)〉といふ。埴輪〈波迩和(はにわ)〉は山陵の縁辺に埴人形を作り、車輪の如く立てる者也といふ。」とある。上代において、なにゆえか、サザキという言葉をもって、鳥類のミソサザイと大王などの墓のことが、同じサザキという言葉で表現されている。すでにそのように表現されている。2つのほとんど関わりがないように思われる事柄が、同じ言葉(音)で表わされている。それは、一方から他方へ意味があてがわれたのかもしれないが、そのあてがわれた時点は、けっして仁徳天皇が大きな寿陵を作ったときに求められるものではない。それ以前から、天皇が葬られるお墓も、ミソサザイという鳥も、ともにサザキと呼ばれていたと考えられる。無文字文化のなかにあって、人々が互いに納得し合うためには、既定の事実として、言葉(音)が前提として存在しなければならない。言葉が音でしかなかったのだから、そうでなければ混乱をきたす。オホサザキという人がいるから、大きな御陵(みさざき)を作ってあげようじゃないか、と皆の意見が一致している。そうすれば、オホサザキ(大御陵)に葬られた人は、オホサザキ(「大雀命」(記)・「大鷦鷯」(紀))という人であったことは間違いないことであったと返ってくる。言葉がそのとおり事柄となり、反対に事柄が言葉になる。それこそが言霊信仰である。言葉が音でしか存在しないから、言霊信仰を行わなければ世界の秩序は崩れてしまう。詐欺だらけの世の中になる。
鳥のサザキがなぜサザキと呼ばれるのか、その語源を探ることは不可能である。日本国語大辞典第二版は、「「ササ」が擬声語であるとすれば、古代語の「サ」の音価は tsa に近いと考えられているので、鳴き声からの名か。」(⑥11頁)とする擬声語+接尾語説を記している。しかし、ツァと鳴いていると思う鳥はたくさんいる。そのように聞けばそのように聞けるし、そうでないと思えばそうでない。犬の鳴き声は、日本人にワンワンでも、英米の人には bowwow らしい。dog のことを表す日本語に、①イヌ、②ワンワン(幼児語)の2種があり、②は鳴き声によるものと“推定”されている。①のイヌについて、エヌからの転とする不可思議な説がある。なるほど dog が甘える声で、エヌと鳴いているように聞こえることがあり、和名抄に、「犬〈犬子付〉 兼名苑に云はく、犬は一名に尨〈莫江反〉といふ。爾雅集注に云はく、㺃〈音は苟、恵沼(ゑぬ)、又、犬と同じ〉は犬の子なりといふ。」とある。では、エヌ(ヱヌ)が“語源”でイヌに転じたかと言えば、確かなことはもはやわからない。当然、鳥のサザキがなぜサザキと呼ばれたのか、わかろうはずはない。わかっていることは、古墳時代に、おそらくは今いうミソサザイという鳥がサザキと呼ばれ、陵墓のこともサザキと呼ばれていたということである。呼ばれるもの、それが名である(注3)。
和名抄には、鷦鷯のひとつ前に「巧婦」の項がある。「巧婦 兼名苑に云はく、巧婦〈太久美止利(たくみどり)〉は好く葦皮を割きて中の虫を食べる、故に亦蘆児と名くといふ。」とある。狩谷棭斎の箋注倭名抄に、「鷦鷯、巣を造るに人の髪、或は馬の尾を以て蘆花を綴り、其の形、襪(したぐつ)の如し。巧緻を愛す可し。是、巧婦の名を有する所以なり。剖葦は則ち然らず。稲稈、蘆を縛り以て巣と為し已りて観るに足らざること絶ゆ。然らば則ち太久美止利(たくみどり)は、以て鷦鷯を訓ずる可くして、剖葦を訓ずること得ざる也。」とある。狩谷棭斎は「鷦鷯」の項で、「陳蔵器に曰く、林藪の間に在りて窠を為(つく)り、窠は小嚢の如しといふ。埤雅に云はく、其の喙の尖利なること錐の如し。茅秀を取りて巣と為す。巣は精密に至し、麻を以て之れを紩(ぬ)ふこと韈を刺すが如し。故に又一名、韈雀といふ。」などとしている。巣を造るのが巧みなタクミドリという鳥がいて、それは鷦鷯と記すサザキ、今のミソサザイのことであると言っている。
この考えは正しいであろう。林・小海途2011.に、ミソサザイの「巣の特徴:岩の陰など薄暗い場所にコケで球形(壺形)の巣を作る。外側に小枝、枯れ葉などを張りつける場合もある。産座には特に何も敷かない。大きさ:外径約13×11cm、高さ約15cm、出入り口の広さ約3×3cm、深さ(奥行き)約7cm。」(124頁)とある。ミソサザイはとても小さな鳥でありながら、とても上手に巣をつくっている。外敵に襲われないように、立ち入れないようなところに巧みに拵えている。足場、櫓(やぐら)でも仮設しなければつくれないものを、それすら立てられそうもない場所につくっている。高所作業もする宮大工のことを「木工(こだくみ)」(雄略紀十三年九月)というのだから、これをタクミドリと呼ばずして、他に候補となる鳥はいるのであろうか。
ミソサザイの巣(森林インストラクター Mr.トリックのブログ様「ミソサザイの巣」http://blog.livedoor.jp/akagera7/archives/51795487.html)(注4)
巣の周りに水がある。近寄れないようになっている。どこかで見たことがある。御陵(ミサザキ)である。濠をめぐらせて中に古墳が築かれている。仁徳天皇陵ともされる大仙古墳は、濠がめぐらされたとても大きな古墳である。ミソサザイの巣の形は、壺型であることが多くあり、それを横に倒して見れば、前方後円墳にとても似通っている(注5)。生前に、オホサザキと呼ばれた人が、亡くなった後に暮らす巣をつくるとするなら、とても大きな前方後円墳にして、周囲に濠がめぐらされているところがふさわしいということになる。ヤマトコトバでそう言われているのだから、そうすることが言霊信仰に適う。皆が納得する事柄となる。大きなサザキ(ミソサザイ)とあるのは言語矛盾であるとする解釈は、無文字文化時代のヤマトコトバの論理が理解されていないとの誹りを免れないであろう。
大仙陵絵図(享保年間)(大正14年写、堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブhttp://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0010999をトリミング)
樋部分の現在の様子
山陵図(天治元年(1864)、百舌鳥耳原中陵荒蕪、公文書館蔵、堺市博物館パネル展示、“文久の修陵”工事前で拝所なし)
仁徳天皇正辰祭(2017.2.8)
大仙陵(昭和5年(1930)、谷村為海氏撮影ガラス乾板写真、堺市博物館蔵、同パネル展示品)
州の描き方(松平伊予守(池田綱政)作成、備前国絵図、元禄十三年(1700)、岡山大学池田家文庫絵図公開データベースシステム(http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/ezu/metadata/21))
ヤマトコトバにおいて、鳥の巣のスという言葉は、鳥が巣食うところである。それは卵を産んで雛をかえし、少しして巣立っていったら打ち捨てられるものである。鳥の巣は、役目を終えたら放置される。そう認識されていたことは、同音の語、「す(州・洲)」が、川の中州(中洲)や河口に見られる州(洲)などの意味であり、水面上に出ていたと思っていたら川や潮の流れによって水面下に消えてしまい、再び現れるときには違う場所であったりするのと同じであることから確かめられる。同じスという言葉(音)を以てして、状態を形容したことから「す」(巣、州(洲))という言葉は成り立っている。仁徳天皇は、陵墓に埋葬されて儀式を済ませたら、その大土木工事のレガシーは、ほとんど放置されるだけのものとなった。「す」だからそれがふさわしい。江戸時代の絵図に見る大仙陵にも水門がついている。灌漑用溜池として利用されていたのであろうか。開ければ水が抜かれて濠は空堀となり、地続きの古墳となる。そうなったとき、もはやミサザキ(御陵)ではないということになる。それは、ツカ(塚)である。つき固められてできている。和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ。豆賀(つか)〉は塚塋地也といふ。広雅に云はく、塚塋〈𠖥營二音〉は葬地也といふ。方言に云はく、土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉は並の塚の名也といふ。」とある(注6)。
「異(あや)し」い話は以上である。サザキという言葉は、ミソサザイという鳥が水をまわりにめぐらせておいて守りとするように巧みに作る巣のことの謂いであり、そのことを観察した結果として、上代の人はサザキとその鳥を呼んでいる。それは、周濠のある陵墓の造りと同じことであるから、御陵のことも同じ言葉で呼び、尊称ミ(御、美)を付けてミサザキとしている。当該の鳥の名における語、サザキ→ミソサザイへの変遷については、語史の検討課題である(注7)。ミゾ(溝)という語が接頭しているのは、濠のことが頭から離れなかったためであるらしい。
(注)
(注1)サザキがササキと清音のみの構成で言われていたこともあったかとおもわれるが、清濁について議論しない。仁徳紀に名の謂れと思われる個所を提示しておく。
初め天皇(すめらみこと)の生れます日に、木菟(つく)、産殿(うぶとの)に入(とびい)れり。明旦(くるつあした)、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうちのすくね)を喚(め)して語りて曰はく、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ。大臣対へて言さく、「吉き祥(さが)なり。復(また)昨日(きのふ)、臣(やつかれ)が妻(め)の産(こう)む時に当りて、鷦鷯(さざき)産屋(うぶや)に入れり。是亦異(あや)し」とまをす。爰に天皇曰はく、「今し朕(わ)が子と大臣の子と、同じ日に共に産れたり。並びに瑞有り。是天(あま)つ表(しるし)なり。以為(おも)へらく、其の鳥の名を取りて、各(おのもおのも)相易へて子に名けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて太子(みこ)に名け、大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ)と曰(まを)し、木菟の名を取りて大臣の子に号け、木菟宿禰(つくのすくね)と曰ふ。是、平群臣(へぐりのおみ)が始祖(はじめのおや)なり。(仁徳紀元年正月)
……河内(かふち)の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)して、陵地(みさざきのところ)を定めたまふ。丁酉(ひのとのとりのひ)に、始めて陵を築(つ)く。是の日、鹿(か)有りて、忽ちに野の中に起りて走りて役民(えたみ)の中に入りて仆(たふ)れ死ぬ。時に其の忽ちに死ぬることを異(あや)しびて、其の痍(きず)を探(もと)む。即ち百舌鳥(もず)、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉くに咋ひ割(か)き剥(は)げり。故、其の処を号けて百舌鳥耳原(もずのみみから)と曰ふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。(仁徳紀六十七年十月)
(注2)和田1996.では、「「陵」は、元来、大きな丘の意で、転じて天使の墓を意味した。「山陵」は山岳と丘陵の意で、天子の墓を秦(しん)では「山」、漢代には「陵」といったところから、通じて「山稜」というようになった(『水経注(すいけいちゅう)』渭水(いすい)注)。」(62頁)と字義解説され、「記紀にみえる山稜と御墓」については、古事記は「御陵」、「陵」ばかりであり、日本書紀では歴代の天皇には「陵」、それ以外は、「日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)之墓」(垂仁紀三十二年七月)、「皇祖母命(すめみおやのみこと)之墓」(皇極紀二年九月)、「玖賀媛(くがひめ)之墓」(仁徳紀十六年七月)、「武内宿禰(たけしうちのすくね)之墓域(はかのうち)」(允恭紀五年七月)、「桃原(ももはら)墓」(推古紀三十四年五月)といった例をあげ、基本的には区別されているとする。そして、例外として、蘇我蝦夷・入鹿のつくった寿陵、「双墓(ならびのはか)」を、「大陵(おほみさざき)」、「小陵(こみさざき)」と呼ばせたこと、日本武尊(やまとたけるのみこと)の「能褒野陵(のぼののみさざき)」、「白鳥陵(しらとりのみさざき)」(景行紀四十年是歳)、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の「箸墓(はしのみはか)」(崇神紀十年九月)が「箸陵(はしのはか)」(天武前紀元年七月)と記されていることをあげている。これは表記研究である。
森1996.に、「〝ミササキ〟を地名とするものは、その当否はともかく今日宮内庁の管理下にある大型の前方後円墳が多い。重要なものでも百舌鳥陵山(もずみささぎやま)(履中(りちゅう))とかだ佐紀陵山(さきみささぎやま)(日葉酢媛(ひばすひめ))のほか、〝ミサンザイ〟も〝ミササキ〟に由来するとすれば、岡ミサンザイ(仲哀(ちゅうあい))、土師(はぜ)ニ(ミ)サンザイ(参考地)、鳥屋(とりや)ミサンザイ(宣化(せんか))などがある。ただしこれらの古墳の地名がいつまでさかのぼって確認できるかは明らかではなく、……藤ノ木古墳の中世での使用例[ミササキ]はその意味でも価値が高い。」(28頁)とある。これは地名研究である。
(注3)名について、個々の語源をたどろうと探究されるのは、あまり生産的なことではない。何とかして言葉として成り立たせるべく知恵を捻ってある形に落ち着いた、それが名であるという基本原則に立ち戻る必要がある。うまい綽名が定着するのは、なるほどうまいことを言うなぁと、誰もが感心するほどの造語力をもってしての力作だからである。上代において、名詞に動詞の連用形として知られるものがある。反対に、名詞にサ変のス(スル)(為)を付けて動詞化したものは、後の時代の産物である。(筆者は、はじめて「チンする」という言葉に接した時、言い知れぬ言語感覚を味わった。けれども、相手に恋心を「コクる(告)」という言葉に接した時はそうでもなかった。)記紀に登場する神々の名も、何かを連ねあわせて形作られているとはわかりつつ、その名の意味するところが多義的で俄かには決め難いものが多い。これは何を意味するか。呼び表わす深度が、上代において異様に深いことである。どうしても名前の語源を探りたい方には、同じように、ある動詞の語源を探っていただきたいと願う。「真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。」(夏目1986.、306頁)である。
(注4)仁淀ブルー通信「新連載! <仁淀川野鳥生活記>1 小さなミソサザイのパワーあふれるさえずり」http://niyodo-blue.com/entries/item/000289/参照。
(注5)筆者は、前方後円墳全般において、その周濠を伴ったものについて、このサザキという言葉によって説明できると主張するものではない。仁徳紀にサザキという語で謂れが書いてあるのは、(注1)に見るとおり、仁徳天皇の名易えの話と、仁徳天皇の陵墓の話である。本稿では、その話からサザキという言葉の深奥について探ったまでである。また、他の天皇の陵墓や蘇我氏の墓をミサザキと称したことについて、日本書紀に“話(咄・噺・譚)”として書いてあるようには思われない。確かに言えることは、仁徳紀のこの部分は、“話(咄・噺・譚)”として書いてあり、“話(咄・噺・譚)”として具現化されていることである。歴史学や考古学では、仁徳天皇の御陵は大仙陵ではないのではないか、といった問題提起がされている。筆者の「読む」立場からは、おそらく、この書き方からして、河内平野のモズ(百舌鳥)地域の最も大きな陵墓こそ、仁徳天皇陵であろうと考える。仁徳紀の御陵の記述は、古代における古墳や陵墓のこと全般を語るものではなく、仁徳天皇の御陵のことしか述べていない。ツカ、ハカ、ミサザキという呼称の区別について、仁徳紀以外のことは“話(咄・噺・譚)”のネタにされていないのだから、わからないということである。
古墳には、周濠のあるもの、その形のさまざま、2重、3重になるもの、空堀すらないものなどいろいろある。考古学では、自然地形を利用して多少整形を加えたものを「井辺八幡山型」、平地に人工の墳丘をつくったものを「百舌鳥御廟山型」と呼んで大別しようとする試みも行われた。周りを掘って高く積み上げて築(つ)いて作った結果として周濠のある古墳ができたとする素朴な視点は大切にされながらも、丘陵をそのまま活用したようなものも多くあって、それらを言葉の上でどう区別していたのか説明できない。記紀万葉に出てくるヤマトコトバからは、何か証明となるような企てがあったとは(今のところ)思われない。仁徳紀において、サザキとスの2語によって言い表したかったことからは、逆にそれ以上には言い表そうとしていないことが窺い知れる。古墳時代は、古墳という独特のお墓が築かれているからそう呼ばれているが、当時の人にとって、関心の中心が特に古墳にあったわけではないことは、認めなければならないであろう。
(注6)和名抄のこの部分、諸本に、「墳墓(つか)……大言土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉並塚名也」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545187/70)とあるが、狩谷棭斎は、「方言云墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉並塚名也」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209953/81)としている。
なお、前方後円墳の形態について、長頸壺を横倒しした形に似ているとの説がある。先人の知恵であり、形の相同性を検討して頂きたいために下に例をあげておく。ミソサザイの巣が壺形(「其の形、襪(したぐつ)の如し」)で(まわりに水が)あることとの関連性について、サザキ(陵墓)にはサザキ(ミソサザイの巣)を以て当てようとする思考経路が、仁徳天皇時代においてあったことは確かであろう。ただし、弥生時代に遡る棺において、ミソサザイが小さな鳥であることから、小さな子供や小さな犬の遺骨を入れることから始まったようにも思われる。そして、古墳の淵源は前方後円墳とは別しているように考えられていることもあり、考古学との接点はかなり遠いように思われる。筆者は、ツカ(塚)やハカ(塋)一般の議論をしているのではなく、ミサザキ(御陵)に限っての話をしている。逆言すれば、古墳時代にすでになぞなぞが流行っていたと主張するものである。
子供を埋葬した壺(長頸壺、日明山式土器、弥生文化博物館展示品)
犬の棺(長頸壺、弥生時代後期、2世紀、桜井市大福遺跡、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
(注7)佐藤2001.参照。
(引用・参考文献)
川崎・梶田2009. 川崎保・梶田学「古代天皇陵をなぜミササギと呼ぶか」『古代学研究』181号、古代学研究会、2009年。
佐藤2001. 佐藤武義「『鷦鷯(みそさざい)』の語史」『語文』109号、2001年3月。
日本国語大辞典第二版 『日本国語大辞典 第二版 第六巻』小学館、2001年。
夏目1986. 夏目漱石「日記」三好行雄編『漱石文明論集』岩波書店(岩波文庫)、1986年。
林・小海途2011. 林良博監修・小海途銀次郎著『決定版日本の野鳥巣と卵図鑑』世界文化社、2011年。
古市2010. 古市晃「王名サザキについて」栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010年。
三浦2011. 三浦祐之『古事記を旅する』文芸春秋(文春文庫)、2011年。
森1996. 森浩一「考古学と天皇陵」同編『天皇陵古墳』大巧社、1996年。
和田1996. 和田萃「日本古代・中世の陵墓」『天皇陵古墳』大巧社、1996年。
※本稿は、2017年2月稿に2022年1月、わずかに書き加えたものである。
では、オホサザキという天皇の名前は、そのどちらに由来するものか。その正統性を問おうとするのははなはだ愚かである。異しい“都市伝説”に翻弄されてはならない。サザキという名前は、いまに佐々木さんであろう。とてもたくさんいらっしゃる。佐々木さんの名の由来を問うて限定させてどうなるのか、筆者には不可解である。古い時代に名づけられてあったこと、そのことについて検討が加えられなければならない。
先行研究をいくつか見てみる。①の鳥名由来説に傾いているものとして、古市2010.は、他にサザキの名のついた武烈、崇峻天皇のことから考えると、「王名サザキは巨大な王陵ではなく、鳥の名に因む。」(66頁)とする立場に立つ。また、川崎・梶田2009.は、鷦鷯=ウグイス説を唱えられ、「……古墳時代に、古墳に葬られるような貴人が小鳥になるという考え方があったためではないか。」(24頁)とする。一方、②の陵の語由来説に傾いているものとして、和田1996.は、「『古事記』『日本書紀』では、仁徳のオホサザキという名を鳥と結びつけているが、あるいはミサザキという言葉に関連があるかもしれない。仁徳紀には、仁徳陵が寿陵(じゅりょう)(生前から造っておく山陵)として造営されたことを伝えており、また巨大な墳丘をオホミサザキとよんで、それが仁徳のオホサザキという名となった可能性はある。」(62頁)(注2)とする。また、三浦2011.は、「仁徳というのは後世の呼称で、ほんとうの名前はオホサザキ(古事記では大雀命、日本書紀では大鷦鷯尊)という。サザキというのは、漢字表記からもわかるようにミソサザイという小鳥の名とされているが、大きなミソサザイというのでは言語矛盾をきたす。たぶんこの説明は後から加えられたもので、もとは「大きな墓=オホサザキ」という意味だった。生存中から築造が行われていたのか、死後の呼び名かはわからないが、大墓を意味するオホサザキは、いつのまにやら、大きなミソサザイという意味の大王オホサザキになった。」(233頁)とする。
新撰字鏡に、「鷯 聊音、鷦 加也久支(かやくき)、又佐々支(さざき)」、和名抄に、「鷦鷯 文選鷦鷯賦に云はく、鷦鷯〈焦遼二音、佐々岐(さざき)は小鳥也。蒿萊の間に生れ、藩籬の下に長ずといふ。」とある。他方、御陵のことは、「山陵〈埴輪附〉 日本紀私記に云はく、山陵〈美佐々岐(みさざき)〉といふ。埴輪〈波迩和(はにわ)〉は山陵の縁辺に埴人形を作り、車輪の如く立てる者也といふ。」とある。上代において、なにゆえか、サザキという言葉をもって、鳥類のミソサザイと大王などの墓のことが、同じサザキという言葉で表現されている。すでにそのように表現されている。2つのほとんど関わりがないように思われる事柄が、同じ言葉(音)で表わされている。それは、一方から他方へ意味があてがわれたのかもしれないが、そのあてがわれた時点は、けっして仁徳天皇が大きな寿陵を作ったときに求められるものではない。それ以前から、天皇が葬られるお墓も、ミソサザイという鳥も、ともにサザキと呼ばれていたと考えられる。無文字文化のなかにあって、人々が互いに納得し合うためには、既定の事実として、言葉(音)が前提として存在しなければならない。言葉が音でしかなかったのだから、そうでなければ混乱をきたす。オホサザキという人がいるから、大きな御陵(みさざき)を作ってあげようじゃないか、と皆の意見が一致している。そうすれば、オホサザキ(大御陵)に葬られた人は、オホサザキ(「大雀命」(記)・「大鷦鷯」(紀))という人であったことは間違いないことであったと返ってくる。言葉がそのとおり事柄となり、反対に事柄が言葉になる。それこそが言霊信仰である。言葉が音でしか存在しないから、言霊信仰を行わなければ世界の秩序は崩れてしまう。詐欺だらけの世の中になる。
鳥のサザキがなぜサザキと呼ばれるのか、その語源を探ることは不可能である。日本国語大辞典第二版は、「「ササ」が擬声語であるとすれば、古代語の「サ」の音価は tsa に近いと考えられているので、鳴き声からの名か。」(⑥11頁)とする擬声語+接尾語説を記している。しかし、ツァと鳴いていると思う鳥はたくさんいる。そのように聞けばそのように聞けるし、そうでないと思えばそうでない。犬の鳴き声は、日本人にワンワンでも、英米の人には bowwow らしい。dog のことを表す日本語に、①イヌ、②ワンワン(幼児語)の2種があり、②は鳴き声によるものと“推定”されている。①のイヌについて、エヌからの転とする不可思議な説がある。なるほど dog が甘える声で、エヌと鳴いているように聞こえることがあり、和名抄に、「犬〈犬子付〉 兼名苑に云はく、犬は一名に尨〈莫江反〉といふ。爾雅集注に云はく、㺃〈音は苟、恵沼(ゑぬ)、又、犬と同じ〉は犬の子なりといふ。」とある。では、エヌ(ヱヌ)が“語源”でイヌに転じたかと言えば、確かなことはもはやわからない。当然、鳥のサザキがなぜサザキと呼ばれたのか、わかろうはずはない。わかっていることは、古墳時代に、おそらくは今いうミソサザイという鳥がサザキと呼ばれ、陵墓のこともサザキと呼ばれていたということである。呼ばれるもの、それが名である(注3)。
和名抄には、鷦鷯のひとつ前に「巧婦」の項がある。「巧婦 兼名苑に云はく、巧婦〈太久美止利(たくみどり)〉は好く葦皮を割きて中の虫を食べる、故に亦蘆児と名くといふ。」とある。狩谷棭斎の箋注倭名抄に、「鷦鷯、巣を造るに人の髪、或は馬の尾を以て蘆花を綴り、其の形、襪(したぐつ)の如し。巧緻を愛す可し。是、巧婦の名を有する所以なり。剖葦は則ち然らず。稲稈、蘆を縛り以て巣と為し已りて観るに足らざること絶ゆ。然らば則ち太久美止利(たくみどり)は、以て鷦鷯を訓ずる可くして、剖葦を訓ずること得ざる也。」とある。狩谷棭斎は「鷦鷯」の項で、「陳蔵器に曰く、林藪の間に在りて窠を為(つく)り、窠は小嚢の如しといふ。埤雅に云はく、其の喙の尖利なること錐の如し。茅秀を取りて巣と為す。巣は精密に至し、麻を以て之れを紩(ぬ)ふこと韈を刺すが如し。故に又一名、韈雀といふ。」などとしている。巣を造るのが巧みなタクミドリという鳥がいて、それは鷦鷯と記すサザキ、今のミソサザイのことであると言っている。
この考えは正しいであろう。林・小海途2011.に、ミソサザイの「巣の特徴:岩の陰など薄暗い場所にコケで球形(壺形)の巣を作る。外側に小枝、枯れ葉などを張りつける場合もある。産座には特に何も敷かない。大きさ:外径約13×11cm、高さ約15cm、出入り口の広さ約3×3cm、深さ(奥行き)約7cm。」(124頁)とある。ミソサザイはとても小さな鳥でありながら、とても上手に巣をつくっている。外敵に襲われないように、立ち入れないようなところに巧みに拵えている。足場、櫓(やぐら)でも仮設しなければつくれないものを、それすら立てられそうもない場所につくっている。高所作業もする宮大工のことを「木工(こだくみ)」(雄略紀十三年九月)というのだから、これをタクミドリと呼ばずして、他に候補となる鳥はいるのであろうか。
ミソサザイの巣(森林インストラクター Mr.トリックのブログ様「ミソサザイの巣」http://blog.livedoor.jp/akagera7/archives/51795487.html)(注4)
巣の周りに水がある。近寄れないようになっている。どこかで見たことがある。御陵(ミサザキ)である。濠をめぐらせて中に古墳が築かれている。仁徳天皇陵ともされる大仙古墳は、濠がめぐらされたとても大きな古墳である。ミソサザイの巣の形は、壺型であることが多くあり、それを横に倒して見れば、前方後円墳にとても似通っている(注5)。生前に、オホサザキと呼ばれた人が、亡くなった後に暮らす巣をつくるとするなら、とても大きな前方後円墳にして、周囲に濠がめぐらされているところがふさわしいということになる。ヤマトコトバでそう言われているのだから、そうすることが言霊信仰に適う。皆が納得する事柄となる。大きなサザキ(ミソサザイ)とあるのは言語矛盾であるとする解釈は、無文字文化時代のヤマトコトバの論理が理解されていないとの誹りを免れないであろう。
大仙陵絵図(享保年間)(大正14年写、堺市立図書館地域資料デジタルアーカイブhttp://e-library.gprime.jp/lib_city_sakai/da/detail?tilcod=0000000013-S0010999をトリミング)
樋部分の現在の様子
山陵図(天治元年(1864)、百舌鳥耳原中陵荒蕪、公文書館蔵、堺市博物館パネル展示、“文久の修陵”工事前で拝所なし)
仁徳天皇正辰祭(2017.2.8)
大仙陵(昭和5年(1930)、谷村為海氏撮影ガラス乾板写真、堺市博物館蔵、同パネル展示品)
州の描き方(松平伊予守(池田綱政)作成、備前国絵図、元禄十三年(1700)、岡山大学池田家文庫絵図公開データベースシステム(http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/ikedake/ezu/metadata/21))
ヤマトコトバにおいて、鳥の巣のスという言葉は、鳥が巣食うところである。それは卵を産んで雛をかえし、少しして巣立っていったら打ち捨てられるものである。鳥の巣は、役目を終えたら放置される。そう認識されていたことは、同音の語、「す(州・洲)」が、川の中州(中洲)や河口に見られる州(洲)などの意味であり、水面上に出ていたと思っていたら川や潮の流れによって水面下に消えてしまい、再び現れるときには違う場所であったりするのと同じであることから確かめられる。同じスという言葉(音)を以てして、状態を形容したことから「す」(巣、州(洲))という言葉は成り立っている。仁徳天皇は、陵墓に埋葬されて儀式を済ませたら、その大土木工事のレガシーは、ほとんど放置されるだけのものとなった。「す」だからそれがふさわしい。江戸時代の絵図に見る大仙陵にも水門がついている。灌漑用溜池として利用されていたのであろうか。開ければ水が抜かれて濠は空堀となり、地続きの古墳となる。そうなったとき、もはやミサザキ(御陵)ではないということになる。それは、ツカ(塚)である。つき固められてできている。和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ。豆賀(つか)〉は塚塋地也といふ。広雅に云はく、塚塋〈𠖥營二音〉は葬地也といふ。方言に云はく、土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉は並の塚の名也といふ。」とある(注6)。
「異(あや)し」い話は以上である。サザキという言葉は、ミソサザイという鳥が水をまわりにめぐらせておいて守りとするように巧みに作る巣のことの謂いであり、そのことを観察した結果として、上代の人はサザキとその鳥を呼んでいる。それは、周濠のある陵墓の造りと同じことであるから、御陵のことも同じ言葉で呼び、尊称ミ(御、美)を付けてミサザキとしている。当該の鳥の名における語、サザキ→ミソサザイへの変遷については、語史の検討課題である(注7)。ミゾ(溝)という語が接頭しているのは、濠のことが頭から離れなかったためであるらしい。
(注)
(注1)サザキがササキと清音のみの構成で言われていたこともあったかとおもわれるが、清濁について議論しない。仁徳紀に名の謂れと思われる個所を提示しておく。
初め天皇(すめらみこと)の生れます日に、木菟(つく)、産殿(うぶとの)に入(とびい)れり。明旦(くるつあした)、誉田天皇(ほむたのすめらみこと)、大臣(おほおみ)武内宿禰(たけしうちのすくね)を喚(め)して語りて曰はく、「是、何の瑞(みつ)ぞ」とのたまふ。大臣対へて言さく、「吉き祥(さが)なり。復(また)昨日(きのふ)、臣(やつかれ)が妻(め)の産(こう)む時に当りて、鷦鷯(さざき)産屋(うぶや)に入れり。是亦異(あや)し」とまをす。爰に天皇曰はく、「今し朕(わ)が子と大臣の子と、同じ日に共に産れたり。並びに瑞有り。是天(あま)つ表(しるし)なり。以為(おも)へらく、其の鳥の名を取りて、各(おのもおのも)相易へて子に名けて、後葉(のちのよ)の契(しるし)とせむ」とのたまふ。則ち鷦鷯の名を取りて太子(みこ)に名け、大鷦鷯皇子(おほさざきのみこ)と曰(まを)し、木菟の名を取りて大臣の子に号け、木菟宿禰(つくのすくね)と曰ふ。是、平群臣(へぐりのおみ)が始祖(はじめのおや)なり。(仁徳紀元年正月)
……河内(かふち)の石津原(いしつのはら)に幸(いでま)して、陵地(みさざきのところ)を定めたまふ。丁酉(ひのとのとりのひ)に、始めて陵を築(つ)く。是の日、鹿(か)有りて、忽ちに野の中に起りて走りて役民(えたみ)の中に入りて仆(たふ)れ死ぬ。時に其の忽ちに死ぬることを異(あや)しびて、其の痍(きず)を探(もと)む。即ち百舌鳥(もず)、耳より出でて飛び去りぬ。因りて耳の中を視るに、悉くに咋ひ割(か)き剥(は)げり。故、其の処を号けて百舌鳥耳原(もずのみみから)と曰ふは、其れ是の縁(ことのもと)なり。(仁徳紀六十七年十月)
(注2)和田1996.では、「「陵」は、元来、大きな丘の意で、転じて天使の墓を意味した。「山陵」は山岳と丘陵の意で、天子の墓を秦(しん)では「山」、漢代には「陵」といったところから、通じて「山稜」というようになった(『水経注(すいけいちゅう)』渭水(いすい)注)。」(62頁)と字義解説され、「記紀にみえる山稜と御墓」については、古事記は「御陵」、「陵」ばかりであり、日本書紀では歴代の天皇には「陵」、それ以外は、「日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)之墓」(垂仁紀三十二年七月)、「皇祖母命(すめみおやのみこと)之墓」(皇極紀二年九月)、「玖賀媛(くがひめ)之墓」(仁徳紀十六年七月)、「武内宿禰(たけしうちのすくね)之墓域(はかのうち)」(允恭紀五年七月)、「桃原(ももはら)墓」(推古紀三十四年五月)といった例をあげ、基本的には区別されているとする。そして、例外として、蘇我蝦夷・入鹿のつくった寿陵、「双墓(ならびのはか)」を、「大陵(おほみさざき)」、「小陵(こみさざき)」と呼ばせたこと、日本武尊(やまとたけるのみこと)の「能褒野陵(のぼののみさざき)」、「白鳥陵(しらとりのみさざき)」(景行紀四十年是歳)、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)の「箸墓(はしのみはか)」(崇神紀十年九月)が「箸陵(はしのはか)」(天武前紀元年七月)と記されていることをあげている。これは表記研究である。
森1996.に、「〝ミササキ〟を地名とするものは、その当否はともかく今日宮内庁の管理下にある大型の前方後円墳が多い。重要なものでも百舌鳥陵山(もずみささぎやま)(履中(りちゅう))とかだ佐紀陵山(さきみささぎやま)(日葉酢媛(ひばすひめ))のほか、〝ミサンザイ〟も〝ミササキ〟に由来するとすれば、岡ミサンザイ(仲哀(ちゅうあい))、土師(はぜ)ニ(ミ)サンザイ(参考地)、鳥屋(とりや)ミサンザイ(宣化(せんか))などがある。ただしこれらの古墳の地名がいつまでさかのぼって確認できるかは明らかではなく、……藤ノ木古墳の中世での使用例[ミササキ]はその意味でも価値が高い。」(28頁)とある。これは地名研究である。
(注3)名について、個々の語源をたどろうと探究されるのは、あまり生産的なことではない。何とかして言葉として成り立たせるべく知恵を捻ってある形に落ち着いた、それが名であるという基本原則に立ち戻る必要がある。うまい綽名が定着するのは、なるほどうまいことを言うなぁと、誰もが感心するほどの造語力をもってしての力作だからである。上代において、名詞に動詞の連用形として知られるものがある。反対に、名詞にサ変のス(スル)(為)を付けて動詞化したものは、後の時代の産物である。(筆者は、はじめて「チンする」という言葉に接した時、言い知れぬ言語感覚を味わった。けれども、相手に恋心を「コクる(告)」という言葉に接した時はそうでもなかった。)記紀に登場する神々の名も、何かを連ねあわせて形作られているとはわかりつつ、その名の意味するところが多義的で俄かには決め難いものが多い。これは何を意味するか。呼び表わす深度が、上代において異様に深いことである。どうしても名前の語源を探りたい方には、同じように、ある動詞の語源を探っていただきたいと願う。「真面目に考へよ。誠実に語れ。摯実に行へ。」(夏目1986.、306頁)である。
(注4)仁淀ブルー通信「新連載! <仁淀川野鳥生活記>1 小さなミソサザイのパワーあふれるさえずり」http://niyodo-blue.com/entries/item/000289/参照。
(注5)筆者は、前方後円墳全般において、その周濠を伴ったものについて、このサザキという言葉によって説明できると主張するものではない。仁徳紀にサザキという語で謂れが書いてあるのは、(注1)に見るとおり、仁徳天皇の名易えの話と、仁徳天皇の陵墓の話である。本稿では、その話からサザキという言葉の深奥について探ったまでである。また、他の天皇の陵墓や蘇我氏の墓をミサザキと称したことについて、日本書紀に“話(咄・噺・譚)”として書いてあるようには思われない。確かに言えることは、仁徳紀のこの部分は、“話(咄・噺・譚)”として書いてあり、“話(咄・噺・譚)”として具現化されていることである。歴史学や考古学では、仁徳天皇の御陵は大仙陵ではないのではないか、といった問題提起がされている。筆者の「読む」立場からは、おそらく、この書き方からして、河内平野のモズ(百舌鳥)地域の最も大きな陵墓こそ、仁徳天皇陵であろうと考える。仁徳紀の御陵の記述は、古代における古墳や陵墓のこと全般を語るものではなく、仁徳天皇の御陵のことしか述べていない。ツカ、ハカ、ミサザキという呼称の区別について、仁徳紀以外のことは“話(咄・噺・譚)”のネタにされていないのだから、わからないということである。
古墳には、周濠のあるもの、その形のさまざま、2重、3重になるもの、空堀すらないものなどいろいろある。考古学では、自然地形を利用して多少整形を加えたものを「井辺八幡山型」、平地に人工の墳丘をつくったものを「百舌鳥御廟山型」と呼んで大別しようとする試みも行われた。周りを掘って高く積み上げて築(つ)いて作った結果として周濠のある古墳ができたとする素朴な視点は大切にされながらも、丘陵をそのまま活用したようなものも多くあって、それらを言葉の上でどう区別していたのか説明できない。記紀万葉に出てくるヤマトコトバからは、何か証明となるような企てがあったとは(今のところ)思われない。仁徳紀において、サザキとスの2語によって言い表したかったことからは、逆にそれ以上には言い表そうとしていないことが窺い知れる。古墳時代は、古墳という独特のお墓が築かれているからそう呼ばれているが、当時の人にとって、関心の中心が特に古墳にあったわけではないことは、認めなければならないであろう。
(注6)和名抄のこの部分、諸本に、「墳墓(つか)……大言土墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉並塚名也」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545187/70)とあるが、狩谷棭斎は、「方言云墳〈扶云反〉壟〈力腫反〉並塚名也」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1209953/81)としている。
なお、前方後円墳の形態について、長頸壺を横倒しした形に似ているとの説がある。先人の知恵であり、形の相同性を検討して頂きたいために下に例をあげておく。ミソサザイの巣が壺形(「其の形、襪(したぐつ)の如し」)で(まわりに水が)あることとの関連性について、サザキ(陵墓)にはサザキ(ミソサザイの巣)を以て当てようとする思考経路が、仁徳天皇時代においてあったことは確かであろう。ただし、弥生時代に遡る棺において、ミソサザイが小さな鳥であることから、小さな子供や小さな犬の遺骨を入れることから始まったようにも思われる。そして、古墳の淵源は前方後円墳とは別しているように考えられていることもあり、考古学との接点はかなり遠いように思われる。筆者は、ツカ(塚)やハカ(塋)一般の議論をしているのではなく、ミサザキ(御陵)に限っての話をしている。逆言すれば、古墳時代にすでになぞなぞが流行っていたと主張するものである。
子供を埋葬した壺(長頸壺、日明山式土器、弥生文化博物館展示品)
犬の棺(長頸壺、弥生時代後期、2世紀、桜井市大福遺跡、橿原考古学研究所附属博物館展示品)
(注7)佐藤2001.参照。
(引用・参考文献)
川崎・梶田2009. 川崎保・梶田学「古代天皇陵をなぜミササギと呼ぶか」『古代学研究』181号、古代学研究会、2009年。
佐藤2001. 佐藤武義「『鷦鷯(みそさざい)』の語史」『語文』109号、2001年3月。
日本国語大辞典第二版 『日本国語大辞典 第二版 第六巻』小学館、2001年。
夏目1986. 夏目漱石「日記」三好行雄編『漱石文明論集』岩波書店(岩波文庫)、1986年。
林・小海途2011. 林良博監修・小海途銀次郎著『決定版日本の野鳥巣と卵図鑑』世界文化社、2011年。
古市2010. 古市晃「王名サザキについて」栄原永遠男編『日本古代の王権と社会』塙書房、2010年。
三浦2011. 三浦祐之『古事記を旅する』文芸春秋(文春文庫)、2011年。
森1996. 森浩一「考古学と天皇陵」同編『天皇陵古墳』大巧社、1996年。
和田1996. 和田萃「日本古代・中世の陵墓」『天皇陵古墳』大巧社、1996年。
※本稿は、2017年2月稿に2022年1月、わずかに書き加えたものである。