記紀説話に見られる殯(もがり)の際のキサリ(岐佐理・傾頭)について検討する。キサリという語は、天若日子(天稚彦)の殯の記事に登場する。
故、天若日子が妻(め)、下照比売が哭く声、風と響きて天に到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と其の妻子(めこ)と、聞きて降り来て哭き悲しび、乃ち其処(そこ)に喪屋(もや)を作りて、河鴈(かはかり)をきさり持と為(し)、鷺を掃持(ははきもち)と為、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為、雀(すずめ)を碓女(うすめ)と為、雉(きぎし)を哭女(なきめ)と為、 如此(かく)行ひ定(さだ)めて、日(ひ)八日(やか)夜(よ)八夜(やよ)以て遊びき。(記上)
天稚彦が妻下照姫、哭き泣(いさ)ち悲哀(かなし)びて、声天に達(きこ)ゆ。是の時に、天国玉、其の哭(おら)ぶ声を聞きて、則ち夫(か)の天稚彦の已に死れたることを知り、乃ち疾風(はやち)を遣して尸(かばね)を挙げて天に致さしむ。便ち喪屋(もや)を造りて殯(もがり)す。即ち川鴈(かはかり)を以て持傾頭者(きさりもち)及び持帚者(ははきもち)とし。一(ある)に云(い)はく、鶏(かけ)を以て持傾頭者とし、川鴈を以て持帚者とすといふ。又雀(すずみ)を以て舂女(つきめ)とす。一に云はく、乃ち川鴈を以て持傾頭者とし、亦(また)持帚者とす。鴗(そび)を以て尸者(ものまさ)とす。雀を以て舂者(つきめ)とす。鷦鷯(さざき)を以て哭者(なきめ)とす。鵄(とび)を以て造綿者(わたつくり)とす。烏(からす)を以て宍人者(ししひと)とす。凡(すべ)て衆(もろもろ)の鳥を以て任事(ことよさ)す。而(しかう)して八日(やか)八夜(やよ)、啼(おら)び哭き悲しび歌(しの)ぶ。(神代紀第九段本文)
記の記述では、妻の下照比売の泣く声は、風に乗って天まで届いたので、天若日子の父の天津国玉神や妻子たちは降って来て、泣き悲しんでそこに喪屋を作り、河鴈はきさり持ち、鷺は箒持ち、翡翠(カワセミ)は使者のための料理人、雀は米を臼でつく女、雉は泣き女と分担を決め、殯の儀礼を八日八晩行ったとする。
儀式をいろいろな鳥が執り行っている。ガンのことを「河雁」、「川鴈」とあるのは、カモメのことを海雁(海鴈)と認識していたことによるとされている。水面に浮かび、三趾間にある蹼を使って進み、広い嘴で草の種子や葉を集め食べる。ガンにまつわる言い伝えは多い。青森県の陸奥湾の西側、外ヶ浜には雁風呂と呼ばれる風習が伝わる。雁は秋に飛来するとき、そこまでは海を渡ってくるため、途中で海上でも休めるように木をくわえてくる。そこからは陸地続きだから、木ぎれは外ヶ浜に置いていく。翌春、北へ帰るときに外ヶ浜に立ち寄って、ふたたび木をくわえて旅立つという。残った木は、越冬できずに死んだ雁の忘れ形見である。付近の人は、浜辺の木を集めて風呂を焚き、雁の供養にするという。
また、奈良時代の僧侶の名を冠する行基図という古地図がある。通称、金沢文庫蔵日本図は、南を上にした地図である。14世紀頃のものと推測され、遠江、越後より東は欠いている。そして、日本の周囲の海には鱗状の帯があり、これは日本が龍に囲まれた様子だとされている。対馬、隠岐もその外側になっている。さらに図からはみ出すように異域がある。「龍及(琉球)」、「雨見(奄美)」、「唐土」、「高麗ヨリ蒙古」、「新羅」のほか、「羅刹国」、「雁道」なる不明の地名が載っている。「羅刹国」は地図上方の南に位置し、「女人萃(あつ)まり、来る人還らず(女人萃来人不還)」とある。他方、「雁道」は「新羅国」の隣にあって、「城有りと雖も人には非ず(雖有城非人)」とある。これがどこなのかは議論が残る。いずれにせよ雁は渡り鳥で、来ては去っていく鳥である。
天若日子の殯の話に、どうして河雁(川鴈)(かはかり)が主役級に抜擢されているかと言えば、第一に、カリとモガリ(殯)とが音に通うからであろう。殯はカリモガリとも訓む。仮に葬る段階であることによるとされている。むろん、無文字文化のなかで言葉を使っているのだから、音の似通いは何がしかの義、すなわち、概念的結びつきを感じさせていると考えられる。
殯とは古代の葬制で、人の死後、埋葬するまでの間、遺体を棺に収めた状態で喪屋のうちに安置して、参列者が誄(しのびごと)を述べるなど、弔いの最初の段階を指す。一説に、招魂儀礼をする習俗であるといわれ、喪上がりが訛って殯(もがり)というと考えられている(注1)。時代別国語大辞典に、「【考】「神上(カムアガ)り上(アガ)りいましぬ」(万一六七)や「不思(オモ)保佐佐流(ホサザル)外尓卒(ミマカリ)上(アガリ)太利(たり)」(高橋氏文)「无火殯斂、此謂二褒那之阿餓利(ホナシアガリ)一」(仲哀紀九年訓注)などのアガリから、語源は喪(モ)=アガリだといわれている。しかしアガルが動詞として使われた場合はともかく、死、もしくは葬の意の名詞アガリが存在したかどうかは確かでない。また喪屋(モヤ)・モガリの語は主として日本書紀古訓に見えるが、後にはない。葬礼の変遷に伴ってこの語も用いられなくなったものか。ちなみに「殯」は死者を埋葬するまでに棺におさめて置くこと、および埋葬することの意。」(738頁)とある。行われていることは、壮大なお通夜である。儀礼・士喪礼や礼記・喪大記などにあるように、中国では復と呼ぶ。魏志倭人伝に、「其の死するや、棺(かん)有りて槨(かく)無く、土を封じて冢(つか)を作る。始め死するや、喪を停むること十余日、時に当りて肉を食はず、喪主(そうしゅ)は哭泣(こくきゅう)し、他人は就きて歌舞飲食す。已に葬(はふ)むれば、家を挙げて水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如くす」とある。考古学では、殯の儀礼が完成したころに横穴式石室が採用されたと考えられている(注2)。それが後の両墓制へと発展していく土壌であると解釈されている。のち、火葬の習慣が広がったこともあり、殯の本来の様相はわかっていない。とはいえ、現在でも地方の葬制におもかげを残すものがあると考えられている(注3)。
殯(高橋士郎「伝統と創作」http://www.tamabi.ac.jp/idd/shiro/process/tradition/tradition.html)
モガリの語義については、元来カキの意であるとする説もある。中田1979.に、「もともと特殊な葬制用語ではなく、広く、かき・籬・矢来などと同義の言葉であると解される。この言葉が特殊な葬制用語の如くになったのは、死屍は「かき」をもってしなければならない存在であったからであり、恐ろしい、また、他の魔性のものの侵入をさけねばならぬタブー的存在であったからと理解する。死霊におかされた人間の霊魂は、いわゆる「凶癘魂」であり、肉親の情の上からもこれを慰め、哭泣し、誄(しのびごと)をしなければならない性格のものであった。すなわち、鎮魂(鎮霊)の儀礼を経なければならないものであったと理解せられる。そこで、「殯」とは、かかる「凶癘魂」すなわち不安定なアラブル霊魂から、和平なる霊魂へと導びくその儀礼を指していったものであり、それを中国の文字を借りて表現したのである。そして、古代の遊部はこのアラブル霊魂を和平なる霊魂へと鎮魂(鎮霊)することを職掌としたものであろう。……従って「殯」の儀礼には招魂性など認められない。殯を行なおうとしている時点では最早や死は厳然たる事実として受けとられていたのである。しかし、時として行なわれている招魂の儀礼(咒術)は、これを「殯」とは区別して考えるのが適当であろう。」(119~120頁)とする。令集解・喪葬令の令釈に、「遊部。隔二幽顕境一。鎮二凶癘魂一之氏也。終レ身勿レ事。故云二遊部一。」とある。そこで遊部は、殯において荒魂を和魂に転ずる役目と考えられている。しかし主眼は、死霊を鎮めて悪さを働かないように幽顕の境を隔てること、つまり、死と生とをはっきり区別することにあるのであろう。死者が蘇ることを目途としているのではない。天若日子(天若彦)の殯においても、死んだ天若日子と生きている阿遅志貴高日子根神(味耜高彦根神)とを混同したことに、阿遅志貴高日子根神は大激怒し、「何ぞ吾を穢き死人に比ふる」(記上)と言って喪屋を切り伏せて蹶り飛ばしてしまっている。殯をしている意味がないから壊しにかかっている。死者は死者の世界、生者は生者の世界にいて、両者は別世界なのだと確認するための装置こそ、殯であったと考えるべきである。したがって、定説をみていない岐佐理持(きさりもち)(持傾頭者)のキサリ(キは甲類)とは、死者の霊魂が死者のなかにとどまり、他の生きている霊魂とは混ざらないようにするための葬具であると仮定される。
これまでの説としては、時代別国語大辞典に、「葬送の時、死者の食物をもって行く人の意という。……頭部の曲がった斧や矛の類の、悪霊をおいはらうための呪術的儀器とみる説がある。「河鴈」や「鶏」をキサリモチとしたのは頸の形の類似から起こったものか。」(240頁)とある。はやく宣賢本日本書紀神代巻抄には、「持傾頭(キサリモチ)者、謂下挙二死人之頭首一者上也、」とある。
キサリモチを死者の食物をもって行く人の意とする説は、記伝に見られる。本居宣長・古事記伝・神代十一之巻に、「熟(ツラツラ)思ふに、笥飯背垂持(ケヒタリモチ)と云ことならむか、祁比(ケヒ)は伎(キ)、勢多(セタ)は佐(サ)と約まる、背垂(セタリ)とは、俗ノ言に、物を負(オフ)を勢多良負(セタラオフ)と云ことあり、そは肩よりかけて背(セ)へ垂負(タレオフ)と云意なり、されば私記に戴(イタダク)とあるは、正(タダ)しく頂上(イタダキ)に置(オク)にはあらで、頭を前(マヘ)へ傾(カタムケ)俯(ウツム)きて、項(ウナジ)より背(セ)へかけて、飯笥(イヒケ)を居(スヱ)て行(ユク)なるべし、故レ書紀に傾頭とは書るか、若シ然(シカ)ならば、持ノ字は、傾頭を持ツには非ずて、持て傾クルレ頭ヲなり、然らば持食傾頭者などこそ書べきに、食など云字なくて、たゞにその持たる状(サマ)をのみ書るは、いかゞなれども、こは若シくは食ノ字などの有しが、後に脱たるか、さらずとも、如此(カク)する役は、他ノ事には例なきを、たゞ葬にのみ有て、頭を傾け俯て行クがめづらしき故に、其ノ形状を以テ名ヅけたれば、其意を得て、字も形状を以テ書るにやあらむ、又事(コト)は右の如くにて、名の意は、頗傾背垂持(カブシセタリモチ)にてもあらむか、加夫志(カブシ)は伎(キ)と切(ツヅマ)る、さて右の如くして持テ行ク故に、其飯の名を、頗傾背垂(カブシセタリ)と云を約(ツヅメ)て、伎佐理(キサリ)と云ヒならはしたりけむ、其ノ伎佐理(キサリ)の飯を持ツ意なり、如此(カク)見るときは、書紀の傾頭ノ二字、即チ飯のことなり、さて私記に、片行とあるは、中に向ノ字など脱(オチ)て、片向行(カタムキユク)などにや、然らざれば、片行と云こと心得がたし、彼此(カニカク)に此ノ片行に、傾頭ノ字の意(ココロ)ばへ有リげに見ゆ、さて河鴈の頸(クビ)のさま、此ノ伎佐理持(キサリモチ)の形状(カタチ)に類(ニ)たることある故に、此ノ役(ワザ)を充(アテ)たるなるべし、」とある。また、飯田武郷・日本書紀通釈・巻之十五に、「私記に。死人之食ヲ持と有り。戴二死者食一と云は。今の大原女の。柴薪を戴行か如く。飯笥を戴て。持運ひたりし故に。物を持ては頭の傾く故に。其義を以て。持傾頭者とは書れたるなるへし。こゝに黒川春村か碩鼠漫筆に。此名義を解て云る説に。笥飾持(ケカサリモチ)の義なるへくおもはる。……しかおもひとらるゝ所以は。左京大夫権大夫信実朝臣の。書画一筆とて。聞え高き絵師草紙の巻末に。外居(ホカ井)やうのものゝ。八脚なるに。覆ひしたるを。女の戴き持たる図あり。此は方今稲荷山の社に。神饌を運ひ備ふるさまも。全此風俗なりと。故高島千春云りき。その絵師草紙の絵やう。」(710頁)ともある。
「河鴈」や「鶏」の類推から頭部の曲がった斧や矛の形の呪術的儀器とみる説としては、兼俱本日本書紀神代巻抄に、「以二川鴈(カハカリ)一―上古ハ、野葬ニシテ鳥ニクワスルソ、一義云、此鳥カ喪礼ノスカタヲスルソ、持二傾頭一(キサリモチ)及持レ帚(ハハキモチ)ト云ハ、葬礼ヲシテ、沐浴ノ皃ヲスルソ、」とある。小林1983.に、「紀の「傾頭」は、頭槌(かぶつち)とか頭椎(くぶつち)、それから都牟刈などの刀剣(ないし呪具)と同じような形状を示すための用字なのであろう。すなわち、〝雁首(がんくび)〟状のものなどだ。」(73頁)とある。五来2009a.に、「「きさり」(傾頭)は、いろいろの形で今の葬墓制にのこっているとおもう。その一つは柴神や峠(手向)の神へ手向ける鉤形の枝(柴折)であり、またサンギッチョに下げたり、墓に挿し立てたりする鎌や鍬である。またそれよりも大きな残存は「龍頭」であるとおもう。……葬列には幡を下げない龍頭が竿の先につけられて行列することがあり、それどころか「たつ」と称して、竿の先を鉤形に曲げて麻糸で縛り(
)、何の飾装もなしに立てるところもある。これこそ「傾頭(きさり)」と呼ぶに価するとおもう。」(316~317頁)とある。ただし、言葉の説明としては、松岡1929.の「(原)キサヒの転か。(義)木製の鉏(サヒ)をいふのであらう。」(497頁)とする説に等しく、「鉤状の木の枝(きさり)に呪力をみとめて、死者の荒魂を鎮める鎮魂呪具とした」(317頁)としている。この説は上代には通用しない。記に「岐佐理持」とあり、キサリモチ(キは甲類、モは乙類)である。木(き、キは乙類)とは音が異なる。
記の「掃持(ははきもち)」、紀の「持帚者」は、帚を持っていく役と考えられる。今日も、葬列に露払い的な形で竹箒をかざす地方があり、その名残ではないかともいわれている。また、民俗調査では、棺を安置していた座敷を、出棺後に清めるために、目籠ころがし(笊ころがし)と箒での掃き出しを行う風習のある地域がある(注4)。記紀の話に登場するのは殯の場面であるから、後者の方がより近いものと理解されよう。ただ、これまでのところ、籠をもって記の「岐佐理持」、紀の「持傾頭者」のキサリとするとする説は勢いを得ていない。
キサリと似た音のクサリが何かについては知られている。鎖はつなぐもので、切れることはない。したがって、腐れ縁とは鎖縁である。似た音つづきで同義を表すことから考えると、キサリも同様に何らかの原因によって逃れることができない状態を言い表していると推測される。そして、紀の用字「傾頭」の表意は、頭が傾いていることである。頭が傾くと斜めになる。頭が傾いていて逃れることができないようなものと措定してみれば、それは、傾斜のある漢字で表わすために目を七目(ななめ)にデザインして強調しているトラガシラ(虍)であると気づく。生きた虎を人が目にするためには、堅牢な檻が必要である。檻に入れられた頭をゆらゆらさせる虎と、キサリという語は関係があるようである。トラはネコ科ではあるが、ネコと比べると体躯に対して圧倒的に頭部が大きく、単独行動でなわばり維持のために首を振りながら徘徊している。繁殖期だけ番い、母虎だけが子育てする。子が成長すればそれぞれ単独で暮らす。
ヤマトにいない虎(コ)という動物について、ヤマトコトバでトラと呼んでいる。実際の生きた姿を話に聞くばかりでなく、毛皮によって知るところとなっていたと思われる。ヤマトの人々の間で了解される言葉としてトラという音で表された。蕩(とら)くという動詞から派生した語とおぼしい。
……密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。(神武紀元年正月)
残れる骨并(と)余れる髪の縦横(とらけ)て地の中に在るを見、(西大寺本金光経最勝王経平安初期点)
我が子を誰ぞ屠(ほふ)り割(き)りて、骨のみを余して地に散(とら)けたる。(西大寺本金光経最勝王経平安初期点)
仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留(わかる)、又止良久(とらく)(新撰字鏡)
酒を呑んで酔っぱらうことをトラという。声が自然と大きくなり、ふつうに話しているつもりでも喧嘩しているように受け取られる。また、感覚が弛緩してまっすぐ立っていられなくなり、頭が右に左に揺れてふらふらし、正体がなくなる。古語の蕩(とら)くとは、かたまっていたものがばらばらになったり、溶解したり、緩みなごむことをいう。今日でも酔っ払いが犯罪を犯し、自分がしでかした重大事を覚えていないことがよくある。中国で虎(コ)と呼ばれている実物は見たことのない動物は、形は猫のようでいて頭の割合が大きいと聞く。そのためか、顔を阿りながら歩いて行き、猫と違って大声で吼えるのが特徴という。すなわち、酔っ払いをトラと呼んでいたのが先で、tiger には後からトラと名づけたと知れる。和名抄に、「虎 説文に云はく、虎〈乎古反、止良(とら)〉は山獣の君也といふ。」とある。
しかし、虎をキサリと訓む直接の理由は見当たらない。姿としては、法隆寺に伝わる玉虫厨子の捨身飼虎図に見られる。トラ同様に見たことのない動物にはゾウ elephant がいる。姿としては、正倉院に伝わった臈纈屏風の象木に見られる。象の古語はキサ(キは甲類)である。
是の月に、天皇、使を遣して、袈裟・金鉢・象牙(きさのき)・沈水香・栴檀香、及び諸の珍財(めずらしきもの)を法興寺の仏に奉らしめたまふ。(天智紀十年十月)
象 四声字苑に云はく、象〈祥両反、上声之重、字は亦象に作る、岐佐(きさ)〉は獣の名なり、水牛に似て大耳長鼻眼細牙長なる者也といふ。(和名抄)
象の字は象形文字で、上部が頭、下部が胴体と足である。首がとってつけたようである。木目のこともキサという。赤貝のこともキサと呼ぶ。象牙や赤貝の貝殻にある模様が年輪状であったからそう名づけられたのであろうとされている。象の字は像に通じ、ヤマトコトバにカタである。
……[思兼神(おもひかねのかみ)]彼(そ)[天照大神]の神の象(みかた)を図(あらは)し造りて、招祷(を)き奉らむ」とまをす。(紀第七段一書第一)
通字とする像は、白川1995.に、「模範や図像の意に用い……様(よう)(樣)と声義の関係があろう。様は模様・様式のように用いる字である。」(225頁)とある。同様の年輪のような木目的な文様の連なりが、虎の毛皮には見られる。縦縞模様である。つまり、トラの毛皮は象(きさ)を有している。
ゾウを表す字には他に、為(爲)がある。冠の爪の部分が人の手、下部が elephant である。人がゾウを手懐けているさまという。偽の字は像の字同様、その手懐けていることを強調する形である。手懐けられた行いは、作為的に映る。すべてがきわめて精巧に模倣された偽者、贋物の意味合いとなる。贋作という語は、雁が担っている事柄である。雁の字は、格好よく∧の形に角めをつけて編隊を成して飛んでいく鳥のことを指す。それに貝の字を加えて、形よく整えた財物の意味から、表面だけを似せたもののことを表すようになった。似の字は、以が木の耜の形である。道具を使って物の形を整えるところから、にせるの意味になった。上手に真似たものがキサリであったと推測される。何を真似たか。殯にかかわりがあるのだから、後述するとおり対象となるご遺体であろう。
先に示したとおり、モガリには殯以外に、虎落(もがり)がある。竹を筋違いに組み合わせて縄で結い固めた柵のことで、竹矢来の一種である。砦(とりで)の防護柵に用いられた。殯にも荒い柵状の屋舎をしつらえているから、ヤマトコトバでは、にわか作りの檻のような立て屋をモガリと称したということらしい。漢語で虎落と書いた理由は定かではないが、猛獣の虎が入れないか出られないかする柵であると思われる。ヤマトコトバでは、落ちることを落(あ)ゆといって消の意味である。肖(あ)ゆ、肖(あやか)るとは、肖似の像を肖像というように、似せて小型につくることをいう。小さな月(にくづき)である。つまり、虎落とは、機能的に、外敵を寄せつけない虎に似たものと納得できる。見方を反転させれば、虎が外へ脱出できない檻であると理解できる。そして、相撲取りを指す取手(とりで)とは、護っている力強い存在だが、敵方へ出陣することはない。いったん砦を出てしまうと守りが薄くなり、落城してしまうからである。モガルという語に、逆らう、嫌がる、抵抗するという意味があるのは、相撲のことをいう古語、スマヒが、拒(すま)ひの義であることに同じということである。
このほか虎の字を用いた熟語には、虎杖と書いてイタドリと訓んでいる。イタドリ Reynoutria japonica の別名はタヂヒである。高さは2m近くに達し、穂状の花をつけるタデ(蓼)科の多年草で山野に自生する。反正即位前紀に「多遅(たぢ)の花は、今の虎杖(いたどり)の花なり。」とある。若い茎はウドやタケノコに似ていて淡い紫色の斑点がある。それをそのまま、また塩漬けにしたものを刺身や膾の薬味とした。酸味や辛味をおぼえる刺激が強いものである。長く這う根は漢方の虎杖根とされ、生理不順や利尿、緩下剤とされた。痛取りの意であろう。漢語で虎杖と記した理由を考えると、虎は猫と比べて身長に対する頭部の割合が大きい。当然、頭は傾くであろう。イタドリは、しな垂れかかるように生えている。杖を使わないと立たないということを示すようである。
虎の杖を暗示させるものに、虎の歯のような刃のついた杖、すなわち、板取りになる鋸、古語でノホキリが考えられる。縦挽きも可能な鋸によって、堅い材であっても木材の自然な裂け目に従わずに一定面積以上の薄い板を得ることができるようになった(注5)。その結果、中心から輪を描くように年輪の現れる木目の板目の板が得られた。木目のキサを有していて、ヤマトコトバの解釈に合致している。
イタドリの異名、タヂヒとはマムシ(蝮)のことでもある。虎も蝮もまだらの模様である。曼陀羅をマダラともいう。マムジというと卍である。死後世界を説く仏教とゆかり深い言葉である。また、斑(ふ)と同音の節(ふ)は、竹に代表される。銅虎符と竹使符をあわせて虎竹という。模様を合わせることでしるしとした。相撲取りは頭を傾けて仕切り、間合いを合わせる。頻(しきり)は頻繁の意で、古語の及(し)く(如く)、つまり、後から後から続くという意味の動詞の名詞形である。虎の斑も竹の節も、後から後から同じようでいながら少しずつ異なる模様が現れる。陣痛のことを陣(しきり)といい、後から後から痛みが襲ってくる。虎杖根は痛め止めに利用された。戦陣の場合は虎落を設けて、敵兵が近づけない仕切りを作り野営した。兵を発する時に用いられたのが虎符である。
銅虎符(杜虎符、西安南郊山門口出土、Wikimedia Commons、https://commons.wikimedia.org/wiki/File:杜虎符.jpg、Antolavoasio撮影)
キサリとは、雁同様、来ては去ることを表しているのであろう。虎はなわばりを持ち巡回するから、来ては去る存在である。縦縞模様の虎が殯と関係するとするなら、ご遺体にゆくゆく現れてくるあばら骨のことが連想として結びつく。すなわち、ご遺体の上に虎の毛皮を被せて安置したのであろう。カハカリ(河鴈)が重要な役を担っていたのは、皮を借りていたと示したいからであった。そのことの残存伝承に、猫が死人の上を飛び越すと死人がムクムクと起き上がるとか、飛び越えた猫が猫股という怪物になって悪さを働くとか、猫が火車となって死者を地獄へと連れて行くという怪しい話が各地に残っている(注6)。そのため、通夜では寝ずの番をしたり、刃物を置いておいて猫が来ないようにしていた(注7)。舶来で高価な虎の毛皮が掛けられないからといって、ご遺体がその場できちんと白骨化していくことが妨げられることがないようにと考えられたのであろう。虎ならうまくいくことが、猫によっては反対の作用をする。和名抄に、「猫 野王案ずるに、猫〈音苗、祢古麻(ねこま)〉は虎に似て小さく、能く鼠を捕へて粮と為るとあんず。」とある。虎の毛皮が掛けられていたら、猫は恐くて寄り付かない。しかし、そうでないとまだらの猫が遺体に触れて虎と化し、暴れまわることになる。死者の霊が蕩けて乗り移りかねないということである。
猫また(鳥山石燕・百鬼夜行、文化2年(1805)、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2553975(12/40))
虎の毛皮(カナロコ2017年06月17日https://www.kanaloco.jp/article/entry-14317.html)
縦縞模様のあばら骨(歌川国芳・相馬の古内裏、天保後期、千葉市美術館http://www.ccma-net.jp/collection_img/collection_02-15_kuniyoshi.html#pagetop)
すなわち、来ては去るもの、それが虎の毛皮である。仏教に、来ては去り、去っては来るものとして、如来のことを如去(にょこ)ともいう。人格の完成者、真理の体現者を表す。如とは真理のことである。このように(tathā)来た(agatā)、ないし、去った(gata)の約である。そもそも仏(佛)をホトケ(ト・ケは共に乙類)という語は、中国上古音を日本語風にホトケと写したものとされている。彷彿(髣髴)を彷仏とも書き、ぼんやりと見えること、はっきりしないがそれらしいことをいう。ホトが女性器を指すとおり、それ自体は空洞にして実体ではないことを示している。ケは接尾語ゲの古形で、なにげなくなどと今日も用い、そのように見える、……らしい、……そう、の意、つまり、如きものである。したがってホトケは、形があるようでいて本当はないものというのが原義で、ご遺体や仏像を指す。それは、虎の毛皮に同等であると考えられた。虎の毛皮は斑(ふ)になっている。いかにも恐そうで獲物を捕(とら)えそうに見えるが、動くことはない。完全なる囚(とら)われの身として存在している。だからヤマトコトバにトラフ(虎斑・捕ふ)なのである。殯の形状には、五来2009a.に、青山型、忌垣型、モンドリ型(円錐形)、霊屋型、スヤ型、籠型(注8)、幕垣型、積石型、洞窟型といった類型化が行われている。籠型にして霊屋型のような形態もあり、虎の胴体の縞模様を表しているようにも思われる。
四十九院(長沢2010.http://seikouminzoku.sakura.ne.jp/sub7-12.html)
斎宮忌詞で、仏像のことは中子(なかこ)、また、立ち竦(すく)みという(注9)。動かないから立ち竦みである。中子というのは、ふつう厨子の中に安置されるからともいわれるが、堂の中のことかも知れず、むしろ仏像に胎内仏のある例があるほど、乾漆造、金銅鋳造、木造など、中空に作られることが一般であったことによるのであろう。中(ナカ)+籠(カゴ)の意であろうと了解される。無用の用の究極として考えられている。内部が空洞であるものこそホトケ(仏)であると観念されてきたらしい。そして、像の表面には痩せて体に浮き出したあばら骨、ないしは薄く身にまとった衣の衣文が表されている。まるで虎の毛皮にある縞模様のようにである。
如来立像(飛鳥時代、7世紀、銅製鋳造鍍金、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0016167をトリミング)
百済の聖明王、更(また)の名は聖王、西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣(まだ)して、釈迦の仏(なかこ)の金銅像(かねのみかた)一躯(ひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこら)・経論若干巻を献る。(欽明紀十三年十月)
「傾頭」は考える人を思わせる。カムカフ(カンガフ)には、勘合の意がある。室町期、日明貿易に使われた割符は「勘合(かんがふ)」である。竹の節目によって合わせた時の確認をしたのに始まるとされている。唐代の割符に虎符(こふ)があり、銅製で虎の形をしており、中に空洞部分を作っている。節度使に徴兵や指揮の役目を授けた証拠にした。虎の皮を半分に割いて、模様が合うかどうかで試すことに同じと考えたのであろう。キサリが「傾頭」であることが検証される。
殯は喪屋(もや)で営まれる。船をつなぐことは「舫(もや)ふ」という。水底に差し込んだ杙(かし)に船をつないで潮の干満に任せている。キサリが「傾頭」と、カシグ+カシラと重ねてわかりやすいとされた理由でもあろう。疑問の助詞と係助詞の連結したモヤという形は、……も……であろうかの意である。景行紀四年二月条、天武紀元年六月条に「不便(もやもやもあらず)」とある。夫婦の相性が問答無用なほどよくないとか、遠いために問いただすこともできないという箇所に用いられている。モヤのモはいずれも乙類である。そして、いずれも美濃の話である。美濃(ミ、ノはともに甲類)は、御野(みの、ミ、ノはともに甲類)と意識されたのであろう。野は、「東(ひむかし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて ……」(万48)ともあるように、靄(もや)のかかりやすいところと思われていたようである。日葡辞書に、「Мoya. モヤ(靄) 湿気を含み,雨を催す一種の霧.例,Мoyaga vorita(靄が下りた)このような霧が下りた,あるいは,かかった.」(428頁)とある。視界を遮るものは何もないはずなのに、大気中の水蒸気がいたずらして靄ってしまう。曖昧模糊、ないし、如去にして、見えにくい。数々の困難を乗り越えることのできたスーパースター、倭建命(やまとたけるのみこと)も、同じく美濃の伊吹山で油断して遭難している。そして、三重の能煩野(能褒野)(のぼの)で力尽きて亡くなっている。さらに当地に造られた御陵から、八尋の白ち鳥となって天を翔け渡ったという話になっている。つまり、野辺送り以前の段階においても、予行演習的に靄のかかるような喪屋に安置されていると示しているのである。
殯は古代に首長層において行なわれ、大化の薄葬令や火葬の普及によって完全に失われた。したがって、その形跡を示す遺物は、ハエや便の痕跡を残す程度でほとんど存在しない。上に論じたキサリ=虎の皮とする説も、考古学から証明することは不可能である。語学的には、相撲をさせて楽しみ見た隼人を殯の警備員に当てていることから、取手、砦、虎落、殯、拒(すま)ひ、もがる、という言葉の連鎖によって納得了解されていたと考えられるのである。
三輪君逆は、隼人をして殯の庭に相距(ふせ)かしむ。(敏達紀十四年八月)(注10)
無文字時代に流通したヤマトコトバは、言葉自体によってすべてが理解されるように構想されていた。網の目のように張りめぐらされたヤマトコトバの体系を繙くことで、古代に暮らした人々の観念は解き明かすことができる。
(注)
(注1)谷川士清・和訓栞に、「もがり 日本紀に殯をよめり。喪許の義なるへし。一説にもあがりを略す。」(句点を補った。)、日本書紀通證・巻六に、「殯ハ喪阿我利也。仲哀紀ニ无火殯斂、此ニハ云ト二褒那之阿餓利一、今ノ俗竣ルレ事曰二阿我利一是也。重遠曰、殯ハ謂三以レ竹設二行馬(ヤラヒ)ヲ一也。今猶国忌有二此式一。俗称二行馬一曰二喪我里一是其縁也ト。然ルニ行馬云二夜良比一遂フ也。禁二闌入一者毛我里、曲鉤也。如二行馬一而毎節僅ニ存レ枝者可二以掛レ物曝乾一、故世俗指二愎狠拗戻ノ者一為二毛我里一、譬二触則必怒二一也。漢書ニ所レ謂虎落近レ之。」(漢字の旧字体は改め、句読点を補った。)とある。
殯についての先行研究として、折口信夫の提題がとり上げられることがある。折口1996.に、「日本人は、人が死んでも、死んだかどうか判断がつかない。死んだと思つた状態から、蘇生する事が多かつた。今は技術も進み、判断力にも富んで来たが、昔は社会全体が遅れてゐて、死に切らない中に騒いだりして、とにかく、死と生との境が訣らない。それで、或場所に据ゑておいて、生きかへるか死に切るか、はつきりと見定めなければならなかつた。その期間に、魂を身体につける事の呪術を一心に行つた。その招魂術に呼び寄せられて、身体に魂がうまくをさまると、生きかへる事になる。昔はさうした呪術によつて、無造作に活力を持ち直す事も多かつたのである。併し、どうしても魂がもとの身体にかへらなければ、その時から死が始まる。そして、死が始まると俄に、怖しいものになる。その為に、死んだときまつて後は、葬(ハフ)りを急にしてしまふのである。日本の葬制では、死んだと定まつた後の事は、伝へてゐないので、よく訣らない。怖しいので、詳しくは伝へなかつたのである。」(607~608頁)とある。とても論評するに足る議論とは思われない。
(注2)和田1995.。殯がいつから行われていたかを確かめることは不可能である。
(注3)五来2009b.に、埋め墓と詣り墓とを持つ両墓制について、「……古代の殯は二年、三年にわたり、庶民は共同の葬地(三昧)に殯葬されたため、両墓制と呼ぶ墓制が発生したと私はかんがえている。」(238頁)とある。
(注4)目籠ころがし(笊ころがし)は、茨城県や栃木県など北関東で見られる風習で、通夜を営んだ座敷から葬列が出た後、目籠(笊)を縁側の方へ転がすものである。死霊の舞い戻ることのないようにする呪法と考えられており、箒で掃きだすこととセットになっている。
(注5)吉川1976.に、「鉄弓がどこまでも挽ける構造をもつことは、[群馬県松井田市愛宕山住居址出土(8世紀)の]「愛宕山鋸」が、たとえ小幅の板にしろ、板を生産する目的の鋸だったことを示している。」(37頁)とある。正倉院に伝わる赤漆文欟木厨子の玉杢の一枚板の製造には、そのような鋸がなくては不可能であろうという。
(注6)葬送習俗における死者と猫に関する伝承には、各地でさまざまなものがある。井之口1977.所載「猫のたましい」参照。基本的に、魂の抜けた死体に魔性、動物霊が入ることを防ぐために、刃物を置いたり、逆さ屏風を立てめぐらせたり、逆さ箒を立てたりしたと解釈されている。虎落のことをサカモガリ、または逆茂木ともいう。棘のある木の枝を立て並べて結い合わせた柵である。逆さ箒に知られるように、逆さまにして侵入を拒み、早く退散してもらうことを期待している。近づいた猫も、箒で叩かれたり、灰を撒いた膳に猫の足跡がついたら箒で掃きだすことが行われていた。和田1982.に、最近まで日本に一番よくわかる形で残る伝承も、もとは「かつての中国においても猫を死者より隔離しないと、死者が床上を跳ね起きたり、人に害を与えたりするものと考えられて大変恐れられていた」(38頁)ことが伝わったことを基盤にしているとされている。京極・多田2000.に、「肉食性の猫は腐臭をかぎわける能力が高く、死体に近づく習性もあった。そのため不吉とされて、死体を飛び越せば、魔が入って死人が動き出すとも、屍体が蘇(よみがえ)って「猫股」というものになるとも信じられた。そうした俗信から「火車(かしゃ)」という異なる妖怪とも同一視され、屍体を狙って奪い去る妖怪とされることもあった。」(171頁)とある。なお、勝田2012.に、猫が火車とされたのは17世紀末のこととされている。
(注7)その解釈については、井之口1954.に、「死者の魂は呼び戻してでも、元の体に納めて蘇らせたいという念願は痛切であるが、そういう無縁の魂が死体に入り込んでは困る。死体の枕許や胸の上には刃物を横たえて、無縁の魂の侵入を防いでいる。死者の胸の上を猫が跳び超えると、猫魂が入って死者が起き上るとか、火車(かしゃ)が死体を取りにくるとかいう俗説は、すべて無縁の魂をいろいろな形に想定したための結果なのである。墓には狼はじき・犬はじきの竹を立てて防備を怠らない。死体を縛り上げる風習の主因も、ここに求め得べきもののようである。」(23頁)とある。これに対して、五来2009a.に、「時代が下るとともに人間性が発達し、死者への哀惜と親愛が増してくる。死霊への恐れもあるが、それを上まわるほど哀惜と親愛が大きくなると、モガリの宗教的機能は逆になる。すなわち死者を保護するものとなって、「犬はじき」「狼はじき」とよばれるように、死者を犬や狼からまもるという説明にかわるのである。現存民俗調査などでモガリの聞書をとれば、かならずこの段階の説明をきくであろう。しかしだからといって、モガリははじめから使者を保護する構造物とかんがえるならば、古代的霊魂観念や他界観念、あるいは呪術意識などを無視する歴史的錯誤をおかすことになる。」(40~41頁)とある。
古代の霊魂についての観念は、記紀万葉の文献によって知ることが第一である。招魂か鎮魂かという次元で議論することは実は危うい。蘇るということについて、黄泉から還ることと考えられている。それが絶対的に良いことかと言えば、記紀の説話にイザナキは還ってきていてもイザナミは還ってきていない。むしろ、両者は別世界なのだと峻別すべきであるという観念が底流としてあって説話化されていると考えられる。ご遺体に添える具は、当初、死者から魂が抜け出て他の生き物に乗り移ることを警戒したものではなかったか。他の生き物が近づかないように、刃物や狼はじき・犬はじきの竹は設けられ、反対に魂が出て行かないように死体を縛り上げる風習も行われていたと考える。
(注8)目籠ころがしの風習について、籠型殯との関係を捉えつつ籠の呪術性を説く議論が五来2009a.にある。「……私は籠の呪術性はその封鎖呪術にあることを主張したい。殯(もがり)の機能が封鎖呪術にあることはすでにしばしばのべたところであるが、メカゴ出しにも目に見えむ邪霊、死霊に対して、捕獲幽因[ママ]される危険を知らせる標示ということができる。」(143頁)。籠一般の呪術性から説いているが、古代において本当に籠に呪術性を見ていたか不明である。さらに、ことさら目籠ころがしに当てはめて論ずることについても、根拠は薄弱であると言わざるを得ない。
(注9)仏のことを表す斎宮忌詞に、皇大神宮儀式帳、延喜式・斎宮式では「中子」、倭姫命世記では「立須久美」とある。
(注10)三輪君逆が、どうしてサカフと呼ばれていたのかについては、後考を俟つ。
(引用・参考文献)
井之口1954. 井之口章次『仏教以前』古今書院、昭和29年。
井之口1977. 井之口章次『日本の葬式』筑摩書房、1977年。
折口1996. 『折口信夫全集16』中央公論社、1996年。
勝田2012. 勝田至「火車の誕生」『国立歴史民俗博物館研究報告』第174集、2012年3月。国立歴史民俗博物館学術情報リポジトリhttp://doi.org/10.15024/00002026
京極・多田2000. 京極夏彦・多田克己『妖怪図巻』国書刊行会、2000年。
小林1983. 小林吉一「「岐佐理持」覚書」『国学院雑誌』第84巻第5号、昭和58年5月。
五来2009a. 『五来重著作集 第十一巻 葬と供養(上)』法蔵館、2009年。
五来2009b. 『五来重著作集 第十二巻 葬と供養(下)』法蔵館、2009年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
長沢2010. 長沢利明「葬送施設としての四十九院」『民俗学の散歩道』第12回、西郊民俗談話会、2010年10月。http://seikouminzoku.sakura.ne.jp/sub7-12.html
中田1979. 中田太造「殯・(もがり)における民俗学的考察」『葬制墓制研究集成 第二巻 葬送儀礼』名著出版、昭和54年。後に、中田太造『大和の村落共同体と伝承文化』名著出版、平成3年に所収。
日葡辞書 土田忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
松岡1929. 松岡静雄『日本古語大辞典 語誌篇』刀江書院、昭和4年。
吉川1976. 吉川金次『鋸』法政大学出版局、1976年。
和田1982. 和田謙寿「仏教葬送事物の発展比較考 その三」『駒澤大学仏教学部研究紀要』第40号、昭和57年3月。駒澤大学学術機関リポジトリhttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18598/?lang=0&mode=0&opkey=R168542335162017&idx=2&codeno=&fc_val=
和田1995. 和田萃『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 上』塙書房、1995年。
※本稿は、2011年7月の旧稿を大幅に訂正、加筆したもので、主旨も変わるものとなった。
故、天若日子が妻(め)、下照比売が哭く声、風と響きて天に到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神(あまつくにたまのかみ)と其の妻子(めこ)と、聞きて降り来て哭き悲しび、乃ち其処(そこ)に喪屋(もや)を作りて、河鴈(かはかり)をきさり持と為(し)、鷺を掃持(ははきもち)と為、翠鳥(そにどり)を御食人(みけびと)と為、雀(すずめ)を碓女(うすめ)と為、雉(きぎし)を哭女(なきめ)と為、 如此(かく)行ひ定(さだ)めて、日(ひ)八日(やか)夜(よ)八夜(やよ)以て遊びき。(記上)
天稚彦が妻下照姫、哭き泣(いさ)ち悲哀(かなし)びて、声天に達(きこ)ゆ。是の時に、天国玉、其の哭(おら)ぶ声を聞きて、則ち夫(か)の天稚彦の已に死れたることを知り、乃ち疾風(はやち)を遣して尸(かばね)を挙げて天に致さしむ。便ち喪屋(もや)を造りて殯(もがり)す。即ち川鴈(かはかり)を以て持傾頭者(きさりもち)及び持帚者(ははきもち)とし。一(ある)に云(い)はく、鶏(かけ)を以て持傾頭者とし、川鴈を以て持帚者とすといふ。又雀(すずみ)を以て舂女(つきめ)とす。一に云はく、乃ち川鴈を以て持傾頭者とし、亦(また)持帚者とす。鴗(そび)を以て尸者(ものまさ)とす。雀を以て舂者(つきめ)とす。鷦鷯(さざき)を以て哭者(なきめ)とす。鵄(とび)を以て造綿者(わたつくり)とす。烏(からす)を以て宍人者(ししひと)とす。凡(すべ)て衆(もろもろ)の鳥を以て任事(ことよさ)す。而(しかう)して八日(やか)八夜(やよ)、啼(おら)び哭き悲しび歌(しの)ぶ。(神代紀第九段本文)
記の記述では、妻の下照比売の泣く声は、風に乗って天まで届いたので、天若日子の父の天津国玉神や妻子たちは降って来て、泣き悲しんでそこに喪屋を作り、河鴈はきさり持ち、鷺は箒持ち、翡翠(カワセミ)は使者のための料理人、雀は米を臼でつく女、雉は泣き女と分担を決め、殯の儀礼を八日八晩行ったとする。
儀式をいろいろな鳥が執り行っている。ガンのことを「河雁」、「川鴈」とあるのは、カモメのことを海雁(海鴈)と認識していたことによるとされている。水面に浮かび、三趾間にある蹼を使って進み、広い嘴で草の種子や葉を集め食べる。ガンにまつわる言い伝えは多い。青森県の陸奥湾の西側、外ヶ浜には雁風呂と呼ばれる風習が伝わる。雁は秋に飛来するとき、そこまでは海を渡ってくるため、途中で海上でも休めるように木をくわえてくる。そこからは陸地続きだから、木ぎれは外ヶ浜に置いていく。翌春、北へ帰るときに外ヶ浜に立ち寄って、ふたたび木をくわえて旅立つという。残った木は、越冬できずに死んだ雁の忘れ形見である。付近の人は、浜辺の木を集めて風呂を焚き、雁の供養にするという。
また、奈良時代の僧侶の名を冠する行基図という古地図がある。通称、金沢文庫蔵日本図は、南を上にした地図である。14世紀頃のものと推測され、遠江、越後より東は欠いている。そして、日本の周囲の海には鱗状の帯があり、これは日本が龍に囲まれた様子だとされている。対馬、隠岐もその外側になっている。さらに図からはみ出すように異域がある。「龍及(琉球)」、「雨見(奄美)」、「唐土」、「高麗ヨリ蒙古」、「新羅」のほか、「羅刹国」、「雁道」なる不明の地名が載っている。「羅刹国」は地図上方の南に位置し、「女人萃(あつ)まり、来る人還らず(女人萃来人不還)」とある。他方、「雁道」は「新羅国」の隣にあって、「城有りと雖も人には非ず(雖有城非人)」とある。これがどこなのかは議論が残る。いずれにせよ雁は渡り鳥で、来ては去っていく鳥である。
天若日子の殯の話に、どうして河雁(川鴈)(かはかり)が主役級に抜擢されているかと言えば、第一に、カリとモガリ(殯)とが音に通うからであろう。殯はカリモガリとも訓む。仮に葬る段階であることによるとされている。むろん、無文字文化のなかで言葉を使っているのだから、音の似通いは何がしかの義、すなわち、概念的結びつきを感じさせていると考えられる。
殯とは古代の葬制で、人の死後、埋葬するまでの間、遺体を棺に収めた状態で喪屋のうちに安置して、参列者が誄(しのびごと)を述べるなど、弔いの最初の段階を指す。一説に、招魂儀礼をする習俗であるといわれ、喪上がりが訛って殯(もがり)というと考えられている(注1)。時代別国語大辞典に、「【考】「神上(カムアガ)り上(アガ)りいましぬ」(万一六七)や「不思(オモ)保佐佐流(ホサザル)外尓卒(ミマカリ)上(アガリ)太利(たり)」(高橋氏文)「无火殯斂、此謂二褒那之阿餓利(ホナシアガリ)一」(仲哀紀九年訓注)などのアガリから、語源は喪(モ)=アガリだといわれている。しかしアガルが動詞として使われた場合はともかく、死、もしくは葬の意の名詞アガリが存在したかどうかは確かでない。また喪屋(モヤ)・モガリの語は主として日本書紀古訓に見えるが、後にはない。葬礼の変遷に伴ってこの語も用いられなくなったものか。ちなみに「殯」は死者を埋葬するまでに棺におさめて置くこと、および埋葬することの意。」(738頁)とある。行われていることは、壮大なお通夜である。儀礼・士喪礼や礼記・喪大記などにあるように、中国では復と呼ぶ。魏志倭人伝に、「其の死するや、棺(かん)有りて槨(かく)無く、土を封じて冢(つか)を作る。始め死するや、喪を停むること十余日、時に当りて肉を食はず、喪主(そうしゅ)は哭泣(こくきゅう)し、他人は就きて歌舞飲食す。已に葬(はふ)むれば、家を挙げて水中に詣(いた)りて澡浴(そうよく)し、以て練沐(れんもく)の如くす」とある。考古学では、殯の儀礼が完成したころに横穴式石室が採用されたと考えられている(注2)。それが後の両墓制へと発展していく土壌であると解釈されている。のち、火葬の習慣が広がったこともあり、殯の本来の様相はわかっていない。とはいえ、現在でも地方の葬制におもかげを残すものがあると考えられている(注3)。
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モガリの語義については、元来カキの意であるとする説もある。中田1979.に、「もともと特殊な葬制用語ではなく、広く、かき・籬・矢来などと同義の言葉であると解される。この言葉が特殊な葬制用語の如くになったのは、死屍は「かき」をもってしなければならない存在であったからであり、恐ろしい、また、他の魔性のものの侵入をさけねばならぬタブー的存在であったからと理解する。死霊におかされた人間の霊魂は、いわゆる「凶癘魂」であり、肉親の情の上からもこれを慰め、哭泣し、誄(しのびごと)をしなければならない性格のものであった。すなわち、鎮魂(鎮霊)の儀礼を経なければならないものであったと理解せられる。そこで、「殯」とは、かかる「凶癘魂」すなわち不安定なアラブル霊魂から、和平なる霊魂へと導びくその儀礼を指していったものであり、それを中国の文字を借りて表現したのである。そして、古代の遊部はこのアラブル霊魂を和平なる霊魂へと鎮魂(鎮霊)することを職掌としたものであろう。……従って「殯」の儀礼には招魂性など認められない。殯を行なおうとしている時点では最早や死は厳然たる事実として受けとられていたのである。しかし、時として行なわれている招魂の儀礼(咒術)は、これを「殯」とは区別して考えるのが適当であろう。」(119~120頁)とする。令集解・喪葬令の令釈に、「遊部。隔二幽顕境一。鎮二凶癘魂一之氏也。終レ身勿レ事。故云二遊部一。」とある。そこで遊部は、殯において荒魂を和魂に転ずる役目と考えられている。しかし主眼は、死霊を鎮めて悪さを働かないように幽顕の境を隔てること、つまり、死と生とをはっきり区別することにあるのであろう。死者が蘇ることを目途としているのではない。天若日子(天若彦)の殯においても、死んだ天若日子と生きている阿遅志貴高日子根神(味耜高彦根神)とを混同したことに、阿遅志貴高日子根神は大激怒し、「何ぞ吾を穢き死人に比ふる」(記上)と言って喪屋を切り伏せて蹶り飛ばしてしまっている。殯をしている意味がないから壊しにかかっている。死者は死者の世界、生者は生者の世界にいて、両者は別世界なのだと確認するための装置こそ、殯であったと考えるべきである。したがって、定説をみていない岐佐理持(きさりもち)(持傾頭者)のキサリ(キは甲類)とは、死者の霊魂が死者のなかにとどまり、他の生きている霊魂とは混ざらないようにするための葬具であると仮定される。
これまでの説としては、時代別国語大辞典に、「葬送の時、死者の食物をもって行く人の意という。……頭部の曲がった斧や矛の類の、悪霊をおいはらうための呪術的儀器とみる説がある。「河鴈」や「鶏」をキサリモチとしたのは頸の形の類似から起こったものか。」(240頁)とある。はやく宣賢本日本書紀神代巻抄には、「持傾頭(キサリモチ)者、謂下挙二死人之頭首一者上也、」とある。
キサリモチを死者の食物をもって行く人の意とする説は、記伝に見られる。本居宣長・古事記伝・神代十一之巻に、「熟(ツラツラ)思ふに、笥飯背垂持(ケヒタリモチ)と云ことならむか、祁比(ケヒ)は伎(キ)、勢多(セタ)は佐(サ)と約まる、背垂(セタリ)とは、俗ノ言に、物を負(オフ)を勢多良負(セタラオフ)と云ことあり、そは肩よりかけて背(セ)へ垂負(タレオフ)と云意なり、されば私記に戴(イタダク)とあるは、正(タダ)しく頂上(イタダキ)に置(オク)にはあらで、頭を前(マヘ)へ傾(カタムケ)俯(ウツム)きて、項(ウナジ)より背(セ)へかけて、飯笥(イヒケ)を居(スヱ)て行(ユク)なるべし、故レ書紀に傾頭とは書るか、若シ然(シカ)ならば、持ノ字は、傾頭を持ツには非ずて、持て傾クルレ頭ヲなり、然らば持食傾頭者などこそ書べきに、食など云字なくて、たゞにその持たる状(サマ)をのみ書るは、いかゞなれども、こは若シくは食ノ字などの有しが、後に脱たるか、さらずとも、如此(カク)する役は、他ノ事には例なきを、たゞ葬にのみ有て、頭を傾け俯て行クがめづらしき故に、其ノ形状を以テ名ヅけたれば、其意を得て、字も形状を以テ書るにやあらむ、又事(コト)は右の如くにて、名の意は、頗傾背垂持(カブシセタリモチ)にてもあらむか、加夫志(カブシ)は伎(キ)と切(ツヅマ)る、さて右の如くして持テ行ク故に、其飯の名を、頗傾背垂(カブシセタリ)と云を約(ツヅメ)て、伎佐理(キサリ)と云ヒならはしたりけむ、其ノ伎佐理(キサリ)の飯を持ツ意なり、如此(カク)見るときは、書紀の傾頭ノ二字、即チ飯のことなり、さて私記に、片行とあるは、中に向ノ字など脱(オチ)て、片向行(カタムキユク)などにや、然らざれば、片行と云こと心得がたし、彼此(カニカク)に此ノ片行に、傾頭ノ字の意(ココロ)ばへ有リげに見ゆ、さて河鴈の頸(クビ)のさま、此ノ伎佐理持(キサリモチ)の形状(カタチ)に類(ニ)たることある故に、此ノ役(ワザ)を充(アテ)たるなるべし、」とある。また、飯田武郷・日本書紀通釈・巻之十五に、「私記に。死人之食ヲ持と有り。戴二死者食一と云は。今の大原女の。柴薪を戴行か如く。飯笥を戴て。持運ひたりし故に。物を持ては頭の傾く故に。其義を以て。持傾頭者とは書れたるなるへし。こゝに黒川春村か碩鼠漫筆に。此名義を解て云る説に。笥飾持(ケカサリモチ)の義なるへくおもはる。……しかおもひとらるゝ所以は。左京大夫権大夫信実朝臣の。書画一筆とて。聞え高き絵師草紙の巻末に。外居(ホカ井)やうのものゝ。八脚なるに。覆ひしたるを。女の戴き持たる図あり。此は方今稲荷山の社に。神饌を運ひ備ふるさまも。全此風俗なりと。故高島千春云りき。その絵師草紙の絵やう。」(710頁)ともある。
「河鴈」や「鶏」の類推から頭部の曲がった斧や矛の形の呪術的儀器とみる説としては、兼俱本日本書紀神代巻抄に、「以二川鴈(カハカリ)一―上古ハ、野葬ニシテ鳥ニクワスルソ、一義云、此鳥カ喪礼ノスカタヲスルソ、持二傾頭一(キサリモチ)及持レ帚(ハハキモチ)ト云ハ、葬礼ヲシテ、沐浴ノ皃ヲスルソ、」とある。小林1983.に、「紀の「傾頭」は、頭槌(かぶつち)とか頭椎(くぶつち)、それから都牟刈などの刀剣(ないし呪具)と同じような形状を示すための用字なのであろう。すなわち、〝雁首(がんくび)〟状のものなどだ。」(73頁)とある。五来2009a.に、「「きさり」(傾頭)は、いろいろの形で今の葬墓制にのこっているとおもう。その一つは柴神や峠(手向)の神へ手向ける鉤形の枝(柴折)であり、またサンギッチョに下げたり、墓に挿し立てたりする鎌や鍬である。またそれよりも大きな残存は「龍頭」であるとおもう。……葬列には幡を下げない龍頭が竿の先につけられて行列することがあり、それどころか「たつ」と称して、竿の先を鉤形に曲げて麻糸で縛り(
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記の「掃持(ははきもち)」、紀の「持帚者」は、帚を持っていく役と考えられる。今日も、葬列に露払い的な形で竹箒をかざす地方があり、その名残ではないかともいわれている。また、民俗調査では、棺を安置していた座敷を、出棺後に清めるために、目籠ころがし(笊ころがし)と箒での掃き出しを行う風習のある地域がある(注4)。記紀の話に登場するのは殯の場面であるから、後者の方がより近いものと理解されよう。ただ、これまでのところ、籠をもって記の「岐佐理持」、紀の「持傾頭者」のキサリとするとする説は勢いを得ていない。
キサリと似た音のクサリが何かについては知られている。鎖はつなぐもので、切れることはない。したがって、腐れ縁とは鎖縁である。似た音つづきで同義を表すことから考えると、キサリも同様に何らかの原因によって逃れることができない状態を言い表していると推測される。そして、紀の用字「傾頭」の表意は、頭が傾いていることである。頭が傾くと斜めになる。頭が傾いていて逃れることができないようなものと措定してみれば、それは、傾斜のある漢字で表わすために目を七目(ななめ)にデザインして強調しているトラガシラ(虍)であると気づく。生きた虎を人が目にするためには、堅牢な檻が必要である。檻に入れられた頭をゆらゆらさせる虎と、キサリという語は関係があるようである。トラはネコ科ではあるが、ネコと比べると体躯に対して圧倒的に頭部が大きく、単独行動でなわばり維持のために首を振りながら徘徊している。繁殖期だけ番い、母虎だけが子育てする。子が成長すればそれぞれ単独で暮らす。
ヤマトにいない虎(コ)という動物について、ヤマトコトバでトラと呼んでいる。実際の生きた姿を話に聞くばかりでなく、毛皮によって知るところとなっていたと思われる。ヤマトの人々の間で了解される言葉としてトラという音で表された。蕩(とら)くという動詞から派生した語とおぼしい。
……密(しのび)の策(みこと)を奉承(う)けて、能く諷歌(そへうた)倒語(さかしまごと)を以て、妖気(わざはひ)を掃(はら)ひ蕩(とらか)せり。(神武紀元年正月)
残れる骨并(と)余れる髪の縦横(とらけ)て地の中に在るを見、(西大寺本金光経最勝王経平安初期点)
我が子を誰ぞ屠(ほふ)り割(き)りて、骨のみを余して地に散(とら)けたる。(西大寺本金光経最勝王経平安初期点)
仳 疋視反、平、別也、分也、醜面也、和加留(わかる)、又止良久(とらく)(新撰字鏡)
酒を呑んで酔っぱらうことをトラという。声が自然と大きくなり、ふつうに話しているつもりでも喧嘩しているように受け取られる。また、感覚が弛緩してまっすぐ立っていられなくなり、頭が右に左に揺れてふらふらし、正体がなくなる。古語の蕩(とら)くとは、かたまっていたものがばらばらになったり、溶解したり、緩みなごむことをいう。今日でも酔っ払いが犯罪を犯し、自分がしでかした重大事を覚えていないことがよくある。中国で虎(コ)と呼ばれている実物は見たことのない動物は、形は猫のようでいて頭の割合が大きいと聞く。そのためか、顔を阿りながら歩いて行き、猫と違って大声で吼えるのが特徴という。すなわち、酔っ払いをトラと呼んでいたのが先で、tiger には後からトラと名づけたと知れる。和名抄に、「虎 説文に云はく、虎〈乎古反、止良(とら)〉は山獣の君也といふ。」とある。
しかし、虎をキサリと訓む直接の理由は見当たらない。姿としては、法隆寺に伝わる玉虫厨子の捨身飼虎図に見られる。トラ同様に見たことのない動物にはゾウ elephant がいる。姿としては、正倉院に伝わった臈纈屏風の象木に見られる。象の古語はキサ(キは甲類)である。
是の月に、天皇、使を遣して、袈裟・金鉢・象牙(きさのき)・沈水香・栴檀香、及び諸の珍財(めずらしきもの)を法興寺の仏に奉らしめたまふ。(天智紀十年十月)
象 四声字苑に云はく、象〈祥両反、上声之重、字は亦象に作る、岐佐(きさ)〉は獣の名なり、水牛に似て大耳長鼻眼細牙長なる者也といふ。(和名抄)
象の字は象形文字で、上部が頭、下部が胴体と足である。首がとってつけたようである。木目のこともキサという。赤貝のこともキサと呼ぶ。象牙や赤貝の貝殻にある模様が年輪状であったからそう名づけられたのであろうとされている。象の字は像に通じ、ヤマトコトバにカタである。
……[思兼神(おもひかねのかみ)]彼(そ)[天照大神]の神の象(みかた)を図(あらは)し造りて、招祷(を)き奉らむ」とまをす。(紀第七段一書第一)
通字とする像は、白川1995.に、「模範や図像の意に用い……様(よう)(樣)と声義の関係があろう。様は模様・様式のように用いる字である。」(225頁)とある。同様の年輪のような木目的な文様の連なりが、虎の毛皮には見られる。縦縞模様である。つまり、トラの毛皮は象(きさ)を有している。
ゾウを表す字には他に、為(爲)がある。冠の爪の部分が人の手、下部が elephant である。人がゾウを手懐けているさまという。偽の字は像の字同様、その手懐けていることを強調する形である。手懐けられた行いは、作為的に映る。すべてがきわめて精巧に模倣された偽者、贋物の意味合いとなる。贋作という語は、雁が担っている事柄である。雁の字は、格好よく∧の形に角めをつけて編隊を成して飛んでいく鳥のことを指す。それに貝の字を加えて、形よく整えた財物の意味から、表面だけを似せたもののことを表すようになった。似の字は、以が木の耜の形である。道具を使って物の形を整えるところから、にせるの意味になった。上手に真似たものがキサリであったと推測される。何を真似たか。殯にかかわりがあるのだから、後述するとおり対象となるご遺体であろう。
先に示したとおり、モガリには殯以外に、虎落(もがり)がある。竹を筋違いに組み合わせて縄で結い固めた柵のことで、竹矢来の一種である。砦(とりで)の防護柵に用いられた。殯にも荒い柵状の屋舎をしつらえているから、ヤマトコトバでは、にわか作りの檻のような立て屋をモガリと称したということらしい。漢語で虎落と書いた理由は定かではないが、猛獣の虎が入れないか出られないかする柵であると思われる。ヤマトコトバでは、落ちることを落(あ)ゆといって消の意味である。肖(あ)ゆ、肖(あやか)るとは、肖似の像を肖像というように、似せて小型につくることをいう。小さな月(にくづき)である。つまり、虎落とは、機能的に、外敵を寄せつけない虎に似たものと納得できる。見方を反転させれば、虎が外へ脱出できない檻であると理解できる。そして、相撲取りを指す取手(とりで)とは、護っている力強い存在だが、敵方へ出陣することはない。いったん砦を出てしまうと守りが薄くなり、落城してしまうからである。モガルという語に、逆らう、嫌がる、抵抗するという意味があるのは、相撲のことをいう古語、スマヒが、拒(すま)ひの義であることに同じということである。
このほか虎の字を用いた熟語には、虎杖と書いてイタドリと訓んでいる。イタドリ Reynoutria japonica の別名はタヂヒである。高さは2m近くに達し、穂状の花をつけるタデ(蓼)科の多年草で山野に自生する。反正即位前紀に「多遅(たぢ)の花は、今の虎杖(いたどり)の花なり。」とある。若い茎はウドやタケノコに似ていて淡い紫色の斑点がある。それをそのまま、また塩漬けにしたものを刺身や膾の薬味とした。酸味や辛味をおぼえる刺激が強いものである。長く這う根は漢方の虎杖根とされ、生理不順や利尿、緩下剤とされた。痛取りの意であろう。漢語で虎杖と記した理由を考えると、虎は猫と比べて身長に対する頭部の割合が大きい。当然、頭は傾くであろう。イタドリは、しな垂れかかるように生えている。杖を使わないと立たないということを示すようである。
虎の杖を暗示させるものに、虎の歯のような刃のついた杖、すなわち、板取りになる鋸、古語でノホキリが考えられる。縦挽きも可能な鋸によって、堅い材であっても木材の自然な裂け目に従わずに一定面積以上の薄い板を得ることができるようになった(注5)。その結果、中心から輪を描くように年輪の現れる木目の板目の板が得られた。木目のキサを有していて、ヤマトコトバの解釈に合致している。
イタドリの異名、タヂヒとはマムシ(蝮)のことでもある。虎も蝮もまだらの模様である。曼陀羅をマダラともいう。マムジというと卍である。死後世界を説く仏教とゆかり深い言葉である。また、斑(ふ)と同音の節(ふ)は、竹に代表される。銅虎符と竹使符をあわせて虎竹という。模様を合わせることでしるしとした。相撲取りは頭を傾けて仕切り、間合いを合わせる。頻(しきり)は頻繁の意で、古語の及(し)く(如く)、つまり、後から後から続くという意味の動詞の名詞形である。虎の斑も竹の節も、後から後から同じようでいながら少しずつ異なる模様が現れる。陣痛のことを陣(しきり)といい、後から後から痛みが襲ってくる。虎杖根は痛め止めに利用された。戦陣の場合は虎落を設けて、敵兵が近づけない仕切りを作り野営した。兵を発する時に用いられたのが虎符である。
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キサリとは、雁同様、来ては去ることを表しているのであろう。虎はなわばりを持ち巡回するから、来ては去る存在である。縦縞模様の虎が殯と関係するとするなら、ご遺体にゆくゆく現れてくるあばら骨のことが連想として結びつく。すなわち、ご遺体の上に虎の毛皮を被せて安置したのであろう。カハカリ(河鴈)が重要な役を担っていたのは、皮を借りていたと示したいからであった。そのことの残存伝承に、猫が死人の上を飛び越すと死人がムクムクと起き上がるとか、飛び越えた猫が猫股という怪物になって悪さを働くとか、猫が火車となって死者を地獄へと連れて行くという怪しい話が各地に残っている(注6)。そのため、通夜では寝ずの番をしたり、刃物を置いておいて猫が来ないようにしていた(注7)。舶来で高価な虎の毛皮が掛けられないからといって、ご遺体がその場できちんと白骨化していくことが妨げられることがないようにと考えられたのであろう。虎ならうまくいくことが、猫によっては反対の作用をする。和名抄に、「猫 野王案ずるに、猫〈音苗、祢古麻(ねこま)〉は虎に似て小さく、能く鼠を捕へて粮と為るとあんず。」とある。虎の毛皮が掛けられていたら、猫は恐くて寄り付かない。しかし、そうでないとまだらの猫が遺体に触れて虎と化し、暴れまわることになる。死者の霊が蕩けて乗り移りかねないということである。
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すなわち、来ては去るもの、それが虎の毛皮である。仏教に、来ては去り、去っては来るものとして、如来のことを如去(にょこ)ともいう。人格の完成者、真理の体現者を表す。如とは真理のことである。このように(tathā)来た(agatā)、ないし、去った(gata)の約である。そもそも仏(佛)をホトケ(ト・ケは共に乙類)という語は、中国上古音を日本語風にホトケと写したものとされている。彷彿(髣髴)を彷仏とも書き、ぼんやりと見えること、はっきりしないがそれらしいことをいう。ホトが女性器を指すとおり、それ自体は空洞にして実体ではないことを示している。ケは接尾語ゲの古形で、なにげなくなどと今日も用い、そのように見える、……らしい、……そう、の意、つまり、如きものである。したがってホトケは、形があるようでいて本当はないものというのが原義で、ご遺体や仏像を指す。それは、虎の毛皮に同等であると考えられた。虎の毛皮は斑(ふ)になっている。いかにも恐そうで獲物を捕(とら)えそうに見えるが、動くことはない。完全なる囚(とら)われの身として存在している。だからヤマトコトバにトラフ(虎斑・捕ふ)なのである。殯の形状には、五来2009a.に、青山型、忌垣型、モンドリ型(円錐形)、霊屋型、スヤ型、籠型(注8)、幕垣型、積石型、洞窟型といった類型化が行われている。籠型にして霊屋型のような形態もあり、虎の胴体の縞模様を表しているようにも思われる。
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斎宮忌詞で、仏像のことは中子(なかこ)、また、立ち竦(すく)みという(注9)。動かないから立ち竦みである。中子というのは、ふつう厨子の中に安置されるからともいわれるが、堂の中のことかも知れず、むしろ仏像に胎内仏のある例があるほど、乾漆造、金銅鋳造、木造など、中空に作られることが一般であったことによるのであろう。中(ナカ)+籠(カゴ)の意であろうと了解される。無用の用の究極として考えられている。内部が空洞であるものこそホトケ(仏)であると観念されてきたらしい。そして、像の表面には痩せて体に浮き出したあばら骨、ないしは薄く身にまとった衣の衣文が表されている。まるで虎の毛皮にある縞模様のようにである。
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百済の聖明王、更(また)の名は聖王、西部姫氏達率怒唎斯致契等を遣(まだ)して、釈迦の仏(なかこ)の金銅像(かねのみかた)一躯(ひとはしら)・幡蓋(はたきぬがさ)若干(そこら)・経論若干巻を献る。(欽明紀十三年十月)
「傾頭」は考える人を思わせる。カムカフ(カンガフ)には、勘合の意がある。室町期、日明貿易に使われた割符は「勘合(かんがふ)」である。竹の節目によって合わせた時の確認をしたのに始まるとされている。唐代の割符に虎符(こふ)があり、銅製で虎の形をしており、中に空洞部分を作っている。節度使に徴兵や指揮の役目を授けた証拠にした。虎の皮を半分に割いて、模様が合うかどうかで試すことに同じと考えたのであろう。キサリが「傾頭」であることが検証される。
殯は喪屋(もや)で営まれる。船をつなぐことは「舫(もや)ふ」という。水底に差し込んだ杙(かし)に船をつないで潮の干満に任せている。キサリが「傾頭」と、カシグ+カシラと重ねてわかりやすいとされた理由でもあろう。疑問の助詞と係助詞の連結したモヤという形は、……も……であろうかの意である。景行紀四年二月条、天武紀元年六月条に「不便(もやもやもあらず)」とある。夫婦の相性が問答無用なほどよくないとか、遠いために問いただすこともできないという箇所に用いられている。モヤのモはいずれも乙類である。そして、いずれも美濃の話である。美濃(ミ、ノはともに甲類)は、御野(みの、ミ、ノはともに甲類)と意識されたのであろう。野は、「東(ひむかし)の 野に炎(かぎろひ)の 立つ見えて ……」(万48)ともあるように、靄(もや)のかかりやすいところと思われていたようである。日葡辞書に、「Мoya. モヤ(靄) 湿気を含み,雨を催す一種の霧.例,Мoyaga vorita(靄が下りた)このような霧が下りた,あるいは,かかった.」(428頁)とある。視界を遮るものは何もないはずなのに、大気中の水蒸気がいたずらして靄ってしまう。曖昧模糊、ないし、如去にして、見えにくい。数々の困難を乗り越えることのできたスーパースター、倭建命(やまとたけるのみこと)も、同じく美濃の伊吹山で油断して遭難している。そして、三重の能煩野(能褒野)(のぼの)で力尽きて亡くなっている。さらに当地に造られた御陵から、八尋の白ち鳥となって天を翔け渡ったという話になっている。つまり、野辺送り以前の段階においても、予行演習的に靄のかかるような喪屋に安置されていると示しているのである。
殯は古代に首長層において行なわれ、大化の薄葬令や火葬の普及によって完全に失われた。したがって、その形跡を示す遺物は、ハエや便の痕跡を残す程度でほとんど存在しない。上に論じたキサリ=虎の皮とする説も、考古学から証明することは不可能である。語学的には、相撲をさせて楽しみ見た隼人を殯の警備員に当てていることから、取手、砦、虎落、殯、拒(すま)ひ、もがる、という言葉の連鎖によって納得了解されていたと考えられるのである。
三輪君逆は、隼人をして殯の庭に相距(ふせ)かしむ。(敏達紀十四年八月)(注10)
無文字時代に流通したヤマトコトバは、言葉自体によってすべてが理解されるように構想されていた。網の目のように張りめぐらされたヤマトコトバの体系を繙くことで、古代に暮らした人々の観念は解き明かすことができる。
(注)
(注1)谷川士清・和訓栞に、「もがり 日本紀に殯をよめり。喪許の義なるへし。一説にもあがりを略す。」(句点を補った。)、日本書紀通證・巻六に、「殯ハ喪阿我利也。仲哀紀ニ无火殯斂、此ニハ云ト二褒那之阿餓利一、今ノ俗竣ルレ事曰二阿我利一是也。重遠曰、殯ハ謂三以レ竹設二行馬(ヤラヒ)ヲ一也。今猶国忌有二此式一。俗称二行馬一曰二喪我里一是其縁也ト。然ルニ行馬云二夜良比一遂フ也。禁二闌入一者毛我里、曲鉤也。如二行馬一而毎節僅ニ存レ枝者可二以掛レ物曝乾一、故世俗指二愎狠拗戻ノ者一為二毛我里一、譬二触則必怒二一也。漢書ニ所レ謂虎落近レ之。」(漢字の旧字体は改め、句読点を補った。)とある。
殯についての先行研究として、折口信夫の提題がとり上げられることがある。折口1996.に、「日本人は、人が死んでも、死んだかどうか判断がつかない。死んだと思つた状態から、蘇生する事が多かつた。今は技術も進み、判断力にも富んで来たが、昔は社会全体が遅れてゐて、死に切らない中に騒いだりして、とにかく、死と生との境が訣らない。それで、或場所に据ゑておいて、生きかへるか死に切るか、はつきりと見定めなければならなかつた。その期間に、魂を身体につける事の呪術を一心に行つた。その招魂術に呼び寄せられて、身体に魂がうまくをさまると、生きかへる事になる。昔はさうした呪術によつて、無造作に活力を持ち直す事も多かつたのである。併し、どうしても魂がもとの身体にかへらなければ、その時から死が始まる。そして、死が始まると俄に、怖しいものになる。その為に、死んだときまつて後は、葬(ハフ)りを急にしてしまふのである。日本の葬制では、死んだと定まつた後の事は、伝へてゐないので、よく訣らない。怖しいので、詳しくは伝へなかつたのである。」(607~608頁)とある。とても論評するに足る議論とは思われない。
(注2)和田1995.。殯がいつから行われていたかを確かめることは不可能である。
(注3)五来2009b.に、埋め墓と詣り墓とを持つ両墓制について、「……古代の殯は二年、三年にわたり、庶民は共同の葬地(三昧)に殯葬されたため、両墓制と呼ぶ墓制が発生したと私はかんがえている。」(238頁)とある。
(注4)目籠ころがし(笊ころがし)は、茨城県や栃木県など北関東で見られる風習で、通夜を営んだ座敷から葬列が出た後、目籠(笊)を縁側の方へ転がすものである。死霊の舞い戻ることのないようにする呪法と考えられており、箒で掃きだすこととセットになっている。
(注5)吉川1976.に、「鉄弓がどこまでも挽ける構造をもつことは、[群馬県松井田市愛宕山住居址出土(8世紀)の]「愛宕山鋸」が、たとえ小幅の板にしろ、板を生産する目的の鋸だったことを示している。」(37頁)とある。正倉院に伝わる赤漆文欟木厨子の玉杢の一枚板の製造には、そのような鋸がなくては不可能であろうという。
(注6)葬送習俗における死者と猫に関する伝承には、各地でさまざまなものがある。井之口1977.所載「猫のたましい」参照。基本的に、魂の抜けた死体に魔性、動物霊が入ることを防ぐために、刃物を置いたり、逆さ屏風を立てめぐらせたり、逆さ箒を立てたりしたと解釈されている。虎落のことをサカモガリ、または逆茂木ともいう。棘のある木の枝を立て並べて結い合わせた柵である。逆さ箒に知られるように、逆さまにして侵入を拒み、早く退散してもらうことを期待している。近づいた猫も、箒で叩かれたり、灰を撒いた膳に猫の足跡がついたら箒で掃きだすことが行われていた。和田1982.に、最近まで日本に一番よくわかる形で残る伝承も、もとは「かつての中国においても猫を死者より隔離しないと、死者が床上を跳ね起きたり、人に害を与えたりするものと考えられて大変恐れられていた」(38頁)ことが伝わったことを基盤にしているとされている。京極・多田2000.に、「肉食性の猫は腐臭をかぎわける能力が高く、死体に近づく習性もあった。そのため不吉とされて、死体を飛び越せば、魔が入って死人が動き出すとも、屍体が蘇(よみがえ)って「猫股」というものになるとも信じられた。そうした俗信から「火車(かしゃ)」という異なる妖怪とも同一視され、屍体を狙って奪い去る妖怪とされることもあった。」(171頁)とある。なお、勝田2012.に、猫が火車とされたのは17世紀末のこととされている。
(注7)その解釈については、井之口1954.に、「死者の魂は呼び戻してでも、元の体に納めて蘇らせたいという念願は痛切であるが、そういう無縁の魂が死体に入り込んでは困る。死体の枕許や胸の上には刃物を横たえて、無縁の魂の侵入を防いでいる。死者の胸の上を猫が跳び超えると、猫魂が入って死者が起き上るとか、火車(かしゃ)が死体を取りにくるとかいう俗説は、すべて無縁の魂をいろいろな形に想定したための結果なのである。墓には狼はじき・犬はじきの竹を立てて防備を怠らない。死体を縛り上げる風習の主因も、ここに求め得べきもののようである。」(23頁)とある。これに対して、五来2009a.に、「時代が下るとともに人間性が発達し、死者への哀惜と親愛が増してくる。死霊への恐れもあるが、それを上まわるほど哀惜と親愛が大きくなると、モガリの宗教的機能は逆になる。すなわち死者を保護するものとなって、「犬はじき」「狼はじき」とよばれるように、死者を犬や狼からまもるという説明にかわるのである。現存民俗調査などでモガリの聞書をとれば、かならずこの段階の説明をきくであろう。しかしだからといって、モガリははじめから使者を保護する構造物とかんがえるならば、古代的霊魂観念や他界観念、あるいは呪術意識などを無視する歴史的錯誤をおかすことになる。」(40~41頁)とある。
古代の霊魂についての観念は、記紀万葉の文献によって知ることが第一である。招魂か鎮魂かという次元で議論することは実は危うい。蘇るということについて、黄泉から還ることと考えられている。それが絶対的に良いことかと言えば、記紀の説話にイザナキは還ってきていてもイザナミは還ってきていない。むしろ、両者は別世界なのだと峻別すべきであるという観念が底流としてあって説話化されていると考えられる。ご遺体に添える具は、当初、死者から魂が抜け出て他の生き物に乗り移ることを警戒したものではなかったか。他の生き物が近づかないように、刃物や狼はじき・犬はじきの竹は設けられ、反対に魂が出て行かないように死体を縛り上げる風習も行われていたと考える。
(注8)目籠ころがしの風習について、籠型殯との関係を捉えつつ籠の呪術性を説く議論が五来2009a.にある。「……私は籠の呪術性はその封鎖呪術にあることを主張したい。殯(もがり)の機能が封鎖呪術にあることはすでにしばしばのべたところであるが、メカゴ出しにも目に見えむ邪霊、死霊に対して、捕獲幽因[ママ]される危険を知らせる標示ということができる。」(143頁)。籠一般の呪術性から説いているが、古代において本当に籠に呪術性を見ていたか不明である。さらに、ことさら目籠ころがしに当てはめて論ずることについても、根拠は薄弱であると言わざるを得ない。
(注9)仏のことを表す斎宮忌詞に、皇大神宮儀式帳、延喜式・斎宮式では「中子」、倭姫命世記では「立須久美」とある。
(注10)三輪君逆が、どうしてサカフと呼ばれていたのかについては、後考を俟つ。
(引用・参考文献)
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井之口1977. 井之口章次『日本の葬式』筑摩書房、1977年。
折口1996. 『折口信夫全集16』中央公論社、1996年。
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中田1979. 中田太造「殯・(もがり)における民俗学的考察」『葬制墓制研究集成 第二巻 葬送儀礼』名著出版、昭和54年。後に、中田太造『大和の村落共同体と伝承文化』名著出版、平成3年に所収。
日葡辞書 土田忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
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和田1982. 和田謙寿「仏教葬送事物の発展比較考 その三」『駒澤大学仏教学部研究紀要』第40号、昭和57年3月。駒澤大学学術機関リポジトリhttp://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/18598/?lang=0&mode=0&opkey=R168542335162017&idx=2&codeno=&fc_val=
和田1995. 和田萃『日本古代の儀礼と祭祀・信仰 上』塙書房、1995年。
※本稿は、2011年7月の旧稿を大幅に訂正、加筆したもので、主旨も変わるものとなった。