(承前)
(注11)上代語のシキヰは、茣蓙や莚のように、座るために敷く物のことをいう。「席」(武烈紀八年三月、斉明紀五年是歳)、「座」(敏達紀十二年是歳)、「床席」(天智紀三年十二月是月)、「班」(欽明紀六年十一月)とある。単位は枚である。シキミのほうは、「閾」(仁徳記)、正倉院文書には「敷見」、「敷弥」などとあり、単位は枝である。両者の区別ははっきりしていた。あるいは、神仏のいますところが「座」で、その手下が門番をするところが閾といえるのであろう。
(注12)窪1996.参照。庚申信仰として今日に伝わる有名な文句がある。抱朴子・内篇・微旨篇に、「又言ふ、身中に三尸(さんし)有り。三尸の物為(た)る、形無しと雖も実に魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。此尸は当に鬼と作(な)ることを得て、自づから放縦遊行して、人の祭酹(まつり)を享(う)くべし。是を以て庚申の日に到る毎に、輒(すなは)ち天に上りて司命に白して、人の為(つく)る所の過失を道(い)ふ。又、月晦(つごもり)の夜には、竈神も亦天に上りて人の罪状を白す。大なれば紀を奪ふ。紀とは三百日なり。小なれば算を奪ふ。算とは三日なり。吾亦未だ能く此の事の有無を審らかにせざるなり。然れども天道は邈遠(はるか)にして、鬼神は明らかにし難し。(又言、身中有二三尸一。三尸之為レ物、雖レ無レ形而実魂霊鬼神之属也。欲二使レ人早死一。此尸当三得レ作レ鬼、自放縦遊行、享二人祭酹一。是以毎レ到二庚申之日一、輒上レ天白二司命一、道二人所レ為過失一。又月晦之夜、竈神亦上レ天白二人罪状一。大者奪レ紀。紀者三百日也。小者奪レ算。算三日也。吾亦未三能審二此事之有無一也。然天道邈遠、鬼神難レ明。)」とある。
(注13)平川2000.310頁、352~353頁、373頁。芝山町庄作遺跡五八号住居跡の土師器坏の底部外面に、「竈神」という墨書のあるものが出土し、その状況からそのように考えられるとしている。竈と冥府とが、ヤマトの人の観念において近しいと考えられていた証左としては、これら文字資料によるしかなく、無文字時代にいかに考えられていたか確証をあげることはできない。また、時代の経過とともに祭祀形態に変化もあろうから、詳しいことは推測の域を出ない。荒井2006.参照。とはいえ、竈が外来文化であることと、竈神についての抱朴子の思想が知られていることのうち、文化の受容においてモノだけを受け入れていたと定めるほうが難しいことも事実である。さらに、竈ですべてを焼き尽くすことと火葬とが似ていると考えられて、ある地域で一時期、火葬骨蔵器を天地逆さにして伏せて埋葬されていた形跡も残っている。後考を俟ちたい。
火葬骨蔵器の出土状況(横浜市歴史博物館展示パネル)
モノを専門とする考古学では、竈の導入は須恵器の導入と時期が重なり、互いに関連する出来事と考えられ、また、竈周辺から鉄製品が出土することから、鍛冶や鉄生産とも関連があるのではないかとも指摘されている。セットで進んだ5世紀の技術革新について、記上や神代紀の説話は譬え話に拵えた。その際、口頭だけで伝えられる魅力を維持しようと工夫していたと考える。生活様式全体の大きな変革を多くの人々が理解するためには、それに見合った思考の枠組みが求められる。パラダイムチェンジである。例えば、「贅沢は敵だ」というスローガンから、「贅沢は素敵だ」というキャッチコピーへ衣替えして戦後日本は完成した。そして、話に仕立てて伝えていくべきこととは、それまでとは違った目新しいこと、特筆すべきことである。今日でも、朝起きて、学校へ行って、夕方帰ってきて、ご飯を食べて寝ました、などという当たり前のことは作文にしない。
(注14)山上憶良は、その沈痾自哀文に抱朴子を引いている。一方、推古紀二十一年十二月条には、聖徳太子が片岡に遊行した折の路傍の飢者とのやりとりが記されている。太子は食べ物と自分の衣裳とを与え、次の日に使者を遣わして様子を見に行かせたところ亡くなっていたので埋葬させた。数日後、太子は、先日の飢者は「凡人(ただひと)に非ず。必ず真人(ひじり)ならむ。」と言って再度確認させたところ、遺骨はなくなり衣裳だけが棺の上に畳まれていた。そこで、その衣裳をまた身に着けた。人々は、「聖(ひじり)の聖を知ること、それ実(まこと)なるかな。」と言ってますます畏れかしこまったとある。神仙となって肉体が消え去る尸解仙(しかいせん)は、抱朴子・内篇・論仙篇に同様の例が載る。そして、「按ずるに仙経に云はく、上士は形を挙げて虚に昇る、之を天仙と謂ふ。中士は名山に遊ぶ、之を地仙と謂ふ。下士は先づ死して後に蛻(もぬ)く、之を尸解仙と謂ふ。(按仙経云、上士挙レ形昇レ虚、謂二之天仙一。中士遊三於二名山一、謂二之地仙一。下士先死後蛻、謂二之尸解仙一。)」と解釈されている。増尾2008.によると、中国では、尸解仙になるためには道教の修行だけでなく儒教的な徳行が求められ、仏教でも僧侶の徳仙を列挙する例があって、儒仏道の習合があった。そのような思想的な基底から、推古紀に見られる伝承が生じたとする。山上憶良が用いた「可麻度(かまど)」(万892)は、実体としてのカマドだけでなく、その思想的背景を読み取って積極的に使っていたということになるのかもしれない。
(注15)ヘツヒという語が類カマドから起こったとする説は、語学的な思考から成り立っているものではない。消去法として、大陸伝来の「竈」をカマドとするなら、ヘツヒという語はどこから起ったか、当てずっぽうをしているに過ぎない。「豊竈(とよへつひ) 御遊びすらしも ひさかたの 天の河原に ひさの声する ひさの声する」(神楽歌81)とあるのが古い用例で、はたして弥生時代に出現をみたものの名称であると呼べるのか疑問である。
最近の考古学の知見からは、朝鮮半島南部地域で竈が普及・定着するのは2世紀後半~3世紀以降のことで、定着に数百年の年月がかかっているという。本邦においても、竈の普及期である5世紀後葉でさえ、炉の住居は残存しており、炉から竈への転換は漸移的なものであったことが確認されている。高久2016.に、「竈に適合した煮沸具への交換など、火処にとどまらない生活様式の大きな変化がともなうためであったこともその要因のひとつであったと予想される。」(57頁)とする。つまり、今日の考古学的な整理による炉、類カマド、竈が並立しているなかで、ヘツヒとカマドという語を識別することは困難であると考えられるのである。釜のあるところがカマドという概念形成と、ヘ(瓮)+ツ(助詞)+ヒ(霊)の約かともされるヘツヒの概念形成は同等ではない。特に、ヘ(瓮)とヘ(戸)との親近性は、「戸籍(へのふみた)」の必要性が、渡来人の掌握のために始められたであろうこと(欽明紀元年八月)から考えると、類カマド由来説は矛盾を来していると言わざるを得ない。
(注16)本邦の住居の火処が、炉から類カマド、竈へと変遷を遂げていった様相については、合田2013.にまとめられている。地域差や漸移性はあるものの、古墳時代中期から竈が広がりをみせている。
(注17)石川2002.によれば、楚辞九章に、橘と天狗の観念との間にはつながりがあるとしている。橘頌篇で橘の美しさを称えた結果、非回風篇の最後に主人公は崑崙山と岷山に達して飛翔能力を獲得したのであり、橘は異次元世界の世界樹に相当するという。楚辞の詩的世界について、上代のヤマトでどのように受け止められていたか、浅学にしてわからない。「天狗」の語の初出は、舒明紀九年二月条である。「大きなる星、東(ひむがし)より西に流る。便ち音有りて雷(いかづち)に似たり。時の人曰く、「流星(ながれぼし)の音なり」といふ。亦は曰く、「地雷(つちのいかづち)なり」といふ。是に、僧旻僧(そうみんほふし)が曰く、「流星に非ず。是天狗(あまつきつね)なり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ」といふ。」。ここでいう天狗は、天空を飛び、天と山とをつなぎ、大声を発し、異変をもたらす妖怪的な動物とされている。史記・天官書に、「天狗は、状(かたち)、大奔星(だいほんせい)の如くにして、声有り。其の下(くだ)りて地に止(とど)まるときは、狗に類(に)たり。(天狗、状如二大奔星一、有レ声。其下止レ地、類レ狗。)」と、流星として記されているものに由来する。隕石の落下現象を指すのであろう。僧旻が舶来思想を披瀝した記事のようであるが、紀の編纂者が、なぞなぞを解く鍵として残したものかもしれない。
(注18)いま、「黄泉国」と竈との相同性を検討しているが、さらに横穴式石室も相同と捉えることができるのか、後考を俟つことにしたい。以下にミニチュアの韓竈をとり上げる。古墳の祭祀において、供膳具としての坏形の土器にご馳走を盛ったらしいことは、想像の翼を羽ばたかせれば閻魔王への賄賂に当たるものと考えることも可能ではあるものの、筆者は否定的に感じている。
(注19)拙稿「蜻蛉・秋津嶋・ヤマトについて」参照。
(注20)拙稿「上代におけるケガレについて」参照。
(注21)中村2000.は、黄泉国を墳墓内のことと措定し、「伊耶那岐命が黒御縵を投げ棄てると蒲子が生ったとか、湯津々間櫛からは笋が生るというのは、幻術の知識を前提とするもので、それは漢墓内の石(塼)刻画を通じてのものである。」(153頁)とする。画像石の拓本がもたらされていたとでもいうのであろうか。土生田1998.には、「葡萄は、一房に多くの実がなることから、逞しい生命力の象徴と考えられていたのであろう。隋・唐代に盛行した葡萄唐草文はそれを施した製品が列島にももたらされているが、中国では瑞祥的意味で受け取られていたことが指摘されている。……筍……も成長の速さや成育した竹が持つ神秘的な空洞が、古代人をして呪的な存在であると考えさせたものと思われる。」(312~313頁)とある。桃を含めて呪物とひとくくりにされるが、効果があったりなかったりする理由は説かれていない。
(注22)合田2013.に、「古墳時代、炉から竈へと火処が交代したことは、生活における一大画期であった。古墳時代に導入された竈は、東アジアからの文化の導入の経路とともに、その後の日本列島における文化の受容のあり方を示す興味がつきない資料である。」(103頁)とある。高久2016.にいうとおり、炉の生活から竈の生活に変えることは、生活様式全般を変えることに当たるから、とり入れるには例えば新築する必要があって、それに合わせた新しい暮らしを始めたら、元に戻るには中古物件を居抜きにするぐらいしかない。そして、竈を使うとなると、ご飯を蒸して食べるようになったと考えられる。その場合には、栽培するイネの品種についても調整が行われ、耕作の仕方もいくらか変わったに違いあるまい。というように、ドミノ式に生活全体が変わってしまうのである。なお、特に東日本の民俗に、竈よりも囲炉裏の好まれる傾向がある。絵巻物の資料にも、煙道を持たない竈が描かれていても使われずに、その前で五徳を用いて調理している光景が描かれることもある。そのとき、住居は竪穴式ではなく、掘立式であることが多い。民俗建築の茅葺屋根は、囲炉裏を焚いて起こる煤煙が虫や黴の駆除に役立ち、30~40年も長持ちしていた。幾度もの生活様式の変遷を経て、今日に至っているといえる。
(注23)大藤1968.に、「産の忌は血忌であることから、これを単にさけるだけでなく、一種の畏怖の念をもって見られていた。ことに漁民や狩猟者がこれを忌みきらった。」(41頁)、「群馬県勢多郡東村でも、岩手県和賀郡沢内村でも、産後一週間は夫はもちろん、家の者が山仕事をすることを禁じられていた。狩猟に出る者、狩小屋、炭焼小屋などはすべて産火を極端にきらう。」(42頁)、「タタラ師(鉄鉱から鉄をとる仕事)も、狩猟者に劣らぬほど産の忌をやかましくいう。産婦は六十一日過ぎねばタタラ場へ行くことはできなかった。」(42頁)とある。炭焼きや金山彦との関連が窺われる。
(注24)継体紀三年二月条に、「任那の日本(やまと)の県邑(あがたのむら)に在(はべ)る、百済の百姓(たみ)の、浮逃(に)げて貫(へ)絶えたること、三四世(みつぎよつぎ)なりたる者をさへ括(ぬ)き出して、並に百済に遷して、貫に附く。」とある。竈(へ)、かまどの盛んなる朝鮮半島情勢である。貫の字が使われているのは、戸籍が木簡を貫くものであったためであろう。紀125歌謡に、橘を貫くものとして描写されているのは、本貫地を表す戸籍と同等であるとの譬喩である。
(注25)飯島2007.に、「魔除けの魔というのは、いわばマ(間)であって、この[産屋で産婦が籠って出産に臨む]空虚な時空という人間の認識にとってこの上もなく恐ろしい不安な状態を無事に通過し、日常的な社会秩序の中に一定の状態を確保するために火が焚かれるのである」との指摘がある。しかし、産小屋の竈の火は、母屋の火とは別にする火である。魔、ないし、間は、変化させる要素が出てくるイメージに通じている。人間の消化管は、口と肛門によって外部に通じている。穴の開いた袋物である点が、竪穴式住居内の煙道付きの竈と似通っている。和名抄に、「胃 中黄子に云はく、胃〈音渭、久曽布久路(くそぶくろ)〉は五穀の府為りといふ。」とある。
(注26)ほとんどの解説書に、桃は邪気を払うと信じられていたとある。芸文類聚・菓部上に、「[荊楚]歳時記に、桃は五行の精なり。邪気を圧伏し、百鬼を制す。(歳時記、桃者五行之精、壓伏邪気、制百鬼。)」とあったり、春秋左氏伝・昭公四年に、「桃弧・棘矢、以て其の災を除く。(桃弧・棘矢、以除二其災一。)」とあるなど、中国での桃にまつわる観念にしたがって捉えられている。それをそのまま本邦の言い伝えの話に持ち込むことには賛同できない。中国の思想が漸次伝来してきたことを否定するものではないが、上代に流通していたとは考えがたい。用字の「黄泉国」の黄=土を意味するのは五行思想に負うが、それはあくまでもヨミノクニ、ヨモツクニというヤマトコトバを表記するうえで用いられている。クワウセン(黄泉)が語られているわけでも、タウ(桃)が語られているわけでもない。記紀にオリジナルに語られている話は、母語のヤマトコトバによって捻り創られ、理解し伝えられた。漢字を知らず、読めず、したがって漢語によって思考することはない。
(注27)聖徳太子伝暦に、「[推古天皇]三年、乙卯春、三月、土佐の南海に、夜(よるよる)、大なる光有り。亦声有りて雷の如し。三十箇月を経て、夏四月、淡路嶋の南の岸に着く。嶋の人、沈水と知らずして、薪に交へて竈に焼く。太子、使ひを遣はして献ら令む。其の大きさ一囲(ひとたき)、長さ八尺なり。其の香(か)、異(こと)に薫(かを)れり。太子観たまひて太(おほ)いに悦び、奏して曰く、「是を沈水香と為る者なり。此の木は栴檀(せんだん)と名づく。香木なり。南天竺国の南海の岸に生いたり。夏の月は諸蛇此の木を相繞(まと)へり。冷(すず)しきが故になり。人、矢を以て射る。冬の月に蛇蟄(かく)れて、即ち斫りて之を採る。其の実は鶏舌、其の花は丁子、其の脂(やに)は薫陸。水に沈みて久しきをば沈水香とし、久しからざるをば浅香とす。而るに今陛下、釈教を興隆し、肇めて仏像を造りたまふ。故に釈梵徳に感じて、此の木を漂(ただよ)はし送れり。」即ち勅有りて、百済の工に命じて、檀像を刻め造りて、観音菩薩を作(な)す。高さ数尺なり。吉野の比蘇寺に安ず。時々(よりより)光を放ちたまふ。」とある。伝暦の成立年代については十世紀とされるものの、以前からの聖徳太子の伝承を含んでいることには違いあるまい。沈水香のどんぶらこ状態については、推古紀にある595年の出来事であったと推察される。記事の雷の件は、舒明紀の637年、僧旻のいうところの天狗の話を髣髴とさせる。舶来思想が僧旻ひとりの知識でなく、それ以前の太子等にも知られていた事柄ならば、それはつまり、沈水香は天狗、魔の変化したもので、竈とゆかりが深いものと考えられていたということになる。水垢離が天狗、修験者の一所作で、金属溶鉱炉と関係があることと対をなしている。なお、神楽歌に、竈殿遊歌(かまどのあそびのうた)として、「豊竈(とよへつひ) 御遊(みあそび)すらしも ひさかたの 天(あま)の河原(かはら)に 比左(ひさ)の声する 比左の声する」とある。比左(ヒは甲類)は瓠(ひさご、ヒ・ゴの甲乙は不明)のことで、神楽で拍子を打つカスタネットではないかという。マラカスは伝わらないから、そうなのであろう。泉津日狭女(ヒは甲類)とは、「天狗(あまつきつね)」(舒明紀九年二月)が天空で大きな音を出すのが瓠の音のようであるところから付けられた別称なのかもしれない。
(注28)拙稿「上代における死のケガレについて」参照。
(注29)本邦でシキミ、コリに梱の字を当てていることには、黄泉国説話が由来していると考える。小さな門の付いた竪穴式住居に相似形の竈がその中に設置されている。だから、瓮(へ)をもって戸(へ)として正しいと決定されている。香(こり)を梱包するばかりでなく、行李の身と蓋が相似形である点を合同と考えたのであろう。
(注30)「黄泉国(よもつくに・よみのくに)」という語も、竈の到来並びにそれをこのような話にまとめ上げるうちに成立したものと考えられる。ヨミの語源説に、(1)「闇(やみ)」の音転説、(2)「夜見(よみ)」説、(3)「山」説、(4)サンスクリット語の「ヤマ」(中国語に閻魔のいる下界の暗黒世界)が仏典とともに流入したとする説がある。黄泉のヨ・ミは乙類で、(2)「夜見(よみ、ヨは甲類)」説は当たらない。工藤2013.は、(5)「〝(死者の世界に対する)忌み〟」(171頁)とする飯田武郷・日本書紀通釈などにも見える説を唱え、「[(1)~(4)の]いずれも、〈よみ〉という発音の最古層にまで迫る姿勢が無い。特に仏典が日本に入ったのは五〇〇年代なので、それ以前の縄文・弥生期まで視野に入れたときには、サンスクリット語の「ヤマ」説は有効性が無い。」(170頁)と捨てている。上に述べたとおり、黄泉国の話は竈の伝来譚にして、天狗、魔とのかかわりから作られたいわゆる和訓語である。ヨモツクニ・ヨミノクニという言葉が、縄文・弥生期に遡ることはない。なお、岩波古語辞典に、「よもつ【黄泉】《ヨモは、ヨミの古形。ツは連体助詞》」(1395頁)とある。ヨモをヨミの古形とする考えには、ヨミをヨモの音転とする考えがあるのかもしれないが、根拠がどこにあるのか不明である。
筆者は、記上や神代紀に載る説話は、高度な頓智的な言語活動を伴った、複雑にして独創的なものであると感じる。他の諸民族が有する世界の創生譚、神話の語り口が平板であるとさえ思えるほど、その難しさは異次元のレベルにある。その特徴は、使われているヤマトコトバに顕著である。単に死後世界を語りたいのなら、「あの世」、「死にし後に往く国」と言えばいいところを、「黄泉国」、「根の国」、「根の堅州国(かたすくに)」(記上)、「遠き根国」(神代紀第五段一書第二)、「常世郷(とこよのくに)」(神代紀第八段一書第六)、「泉国(したつくに)」(欽明紀二年七月)などと言葉が分かち書きされている。また、鬘や櫛や桃の実といった小道具を持ち出して興に入り、ともすれば荒唐無稽に捉えられかねない話に加工されている。記上や神代紀にはほかにも、ウキジマリ、アマヒノミなど、今日なお不明な語を用いて語られている。多義性のもとに言い込めてしまうような工夫を、言葉自らのなかに凝らしたゆえであろう。ヤマトコトバは論理学的な難しさまで伴いながら発達しており、記紀に載る説話は“神話”ではなく、技術革新によって生じた生活の大転換を言い表した譬え話なのである。
(引用文献)
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増尾2008.増尾伸一郎「道教・神仙思想と仏教」古橋信孝編『万葉集を読む』吉川弘文館、2008年。
横浜市歴史博物館2012.横浜市歴史博物館編『企画展 火の神生命の神―古代のカマド信仰を探る―』横浜市ふるさと歴史財団発行、2012年。
若尾2012.若尾五雄「鬼伝説の研究―金工史の視点から―」谷川健一・大和岩雄編『民衆史の遺産 第二巻 鬼』大和書房、2012年。(大和書房、1981年初出)
※本稿は、2011年7月に発表した稿を大幅に加筆修正したものである。
(注11)上代語のシキヰは、茣蓙や莚のように、座るために敷く物のことをいう。「席」(武烈紀八年三月、斉明紀五年是歳)、「座」(敏達紀十二年是歳)、「床席」(天智紀三年十二月是月)、「班」(欽明紀六年十一月)とある。単位は枚である。シキミのほうは、「閾」(仁徳記)、正倉院文書には「敷見」、「敷弥」などとあり、単位は枝である。両者の区別ははっきりしていた。あるいは、神仏のいますところが「座」で、その手下が門番をするところが閾といえるのであろう。
(注12)窪1996.参照。庚申信仰として今日に伝わる有名な文句がある。抱朴子・内篇・微旨篇に、「又言ふ、身中に三尸(さんし)有り。三尸の物為(た)る、形無しと雖も実に魂霊鬼神の属なり。人をして早く死せしめんと欲す。此尸は当に鬼と作(な)ることを得て、自づから放縦遊行して、人の祭酹(まつり)を享(う)くべし。是を以て庚申の日に到る毎に、輒(すなは)ち天に上りて司命に白して、人の為(つく)る所の過失を道(い)ふ。又、月晦(つごもり)の夜には、竈神も亦天に上りて人の罪状を白す。大なれば紀を奪ふ。紀とは三百日なり。小なれば算を奪ふ。算とは三日なり。吾亦未だ能く此の事の有無を審らかにせざるなり。然れども天道は邈遠(はるか)にして、鬼神は明らかにし難し。(又言、身中有二三尸一。三尸之為レ物、雖レ無レ形而実魂霊鬼神之属也。欲二使レ人早死一。此尸当三得レ作レ鬼、自放縦遊行、享二人祭酹一。是以毎レ到二庚申之日一、輒上レ天白二司命一、道二人所レ為過失一。又月晦之夜、竈神亦上レ天白二人罪状一。大者奪レ紀。紀者三百日也。小者奪レ算。算三日也。吾亦未三能審二此事之有無一也。然天道邈遠、鬼神難レ明。)」とある。
(注13)平川2000.310頁、352~353頁、373頁。芝山町庄作遺跡五八号住居跡の土師器坏の底部外面に、「竈神」という墨書のあるものが出土し、その状況からそのように考えられるとしている。竈と冥府とが、ヤマトの人の観念において近しいと考えられていた証左としては、これら文字資料によるしかなく、無文字時代にいかに考えられていたか確証をあげることはできない。また、時代の経過とともに祭祀形態に変化もあろうから、詳しいことは推測の域を出ない。荒井2006.参照。とはいえ、竈が外来文化であることと、竈神についての抱朴子の思想が知られていることのうち、文化の受容においてモノだけを受け入れていたと定めるほうが難しいことも事実である。さらに、竈ですべてを焼き尽くすことと火葬とが似ていると考えられて、ある地域で一時期、火葬骨蔵器を天地逆さにして伏せて埋葬されていた形跡も残っている。後考を俟ちたい。

モノを専門とする考古学では、竈の導入は須恵器の導入と時期が重なり、互いに関連する出来事と考えられ、また、竈周辺から鉄製品が出土することから、鍛冶や鉄生産とも関連があるのではないかとも指摘されている。セットで進んだ5世紀の技術革新について、記上や神代紀の説話は譬え話に拵えた。その際、口頭だけで伝えられる魅力を維持しようと工夫していたと考える。生活様式全体の大きな変革を多くの人々が理解するためには、それに見合った思考の枠組みが求められる。パラダイムチェンジである。例えば、「贅沢は敵だ」というスローガンから、「贅沢は素敵だ」というキャッチコピーへ衣替えして戦後日本は完成した。そして、話に仕立てて伝えていくべきこととは、それまでとは違った目新しいこと、特筆すべきことである。今日でも、朝起きて、学校へ行って、夕方帰ってきて、ご飯を食べて寝ました、などという当たり前のことは作文にしない。
(注14)山上憶良は、その沈痾自哀文に抱朴子を引いている。一方、推古紀二十一年十二月条には、聖徳太子が片岡に遊行した折の路傍の飢者とのやりとりが記されている。太子は食べ物と自分の衣裳とを与え、次の日に使者を遣わして様子を見に行かせたところ亡くなっていたので埋葬させた。数日後、太子は、先日の飢者は「凡人(ただひと)に非ず。必ず真人(ひじり)ならむ。」と言って再度確認させたところ、遺骨はなくなり衣裳だけが棺の上に畳まれていた。そこで、その衣裳をまた身に着けた。人々は、「聖(ひじり)の聖を知ること、それ実(まこと)なるかな。」と言ってますます畏れかしこまったとある。神仙となって肉体が消え去る尸解仙(しかいせん)は、抱朴子・内篇・論仙篇に同様の例が載る。そして、「按ずるに仙経に云はく、上士は形を挙げて虚に昇る、之を天仙と謂ふ。中士は名山に遊ぶ、之を地仙と謂ふ。下士は先づ死して後に蛻(もぬ)く、之を尸解仙と謂ふ。(按仙経云、上士挙レ形昇レ虚、謂二之天仙一。中士遊三於二名山一、謂二之地仙一。下士先死後蛻、謂二之尸解仙一。)」と解釈されている。増尾2008.によると、中国では、尸解仙になるためには道教の修行だけでなく儒教的な徳行が求められ、仏教でも僧侶の徳仙を列挙する例があって、儒仏道の習合があった。そのような思想的な基底から、推古紀に見られる伝承が生じたとする。山上憶良が用いた「可麻度(かまど)」(万892)は、実体としてのカマドだけでなく、その思想的背景を読み取って積極的に使っていたということになるのかもしれない。
(注15)ヘツヒという語が類カマドから起こったとする説は、語学的な思考から成り立っているものではない。消去法として、大陸伝来の「竈」をカマドとするなら、ヘツヒという語はどこから起ったか、当てずっぽうをしているに過ぎない。「豊竈(とよへつひ) 御遊びすらしも ひさかたの 天の河原に ひさの声する ひさの声する」(神楽歌81)とあるのが古い用例で、はたして弥生時代に出現をみたものの名称であると呼べるのか疑問である。
最近の考古学の知見からは、朝鮮半島南部地域で竈が普及・定着するのは2世紀後半~3世紀以降のことで、定着に数百年の年月がかかっているという。本邦においても、竈の普及期である5世紀後葉でさえ、炉の住居は残存しており、炉から竈への転換は漸移的なものであったことが確認されている。高久2016.に、「竈に適合した煮沸具への交換など、火処にとどまらない生活様式の大きな変化がともなうためであったこともその要因のひとつであったと予想される。」(57頁)とする。つまり、今日の考古学的な整理による炉、類カマド、竈が並立しているなかで、ヘツヒとカマドという語を識別することは困難であると考えられるのである。釜のあるところがカマドという概念形成と、ヘ(瓮)+ツ(助詞)+ヒ(霊)の約かともされるヘツヒの概念形成は同等ではない。特に、ヘ(瓮)とヘ(戸)との親近性は、「戸籍(へのふみた)」の必要性が、渡来人の掌握のために始められたであろうこと(欽明紀元年八月)から考えると、類カマド由来説は矛盾を来していると言わざるを得ない。
(注16)本邦の住居の火処が、炉から類カマド、竈へと変遷を遂げていった様相については、合田2013.にまとめられている。地域差や漸移性はあるものの、古墳時代中期から竈が広がりをみせている。
(注17)石川2002.によれば、楚辞九章に、橘と天狗の観念との間にはつながりがあるとしている。橘頌篇で橘の美しさを称えた結果、非回風篇の最後に主人公は崑崙山と岷山に達して飛翔能力を獲得したのであり、橘は異次元世界の世界樹に相当するという。楚辞の詩的世界について、上代のヤマトでどのように受け止められていたか、浅学にしてわからない。「天狗」の語の初出は、舒明紀九年二月条である。「大きなる星、東(ひむがし)より西に流る。便ち音有りて雷(いかづち)に似たり。時の人曰く、「流星(ながれぼし)の音なり」といふ。亦は曰く、「地雷(つちのいかづち)なり」といふ。是に、僧旻僧(そうみんほふし)が曰く、「流星に非ず。是天狗(あまつきつね)なり。其の吠ゆる声雷に似たらくのみ」といふ。」。ここでいう天狗は、天空を飛び、天と山とをつなぎ、大声を発し、異変をもたらす妖怪的な動物とされている。史記・天官書に、「天狗は、状(かたち)、大奔星(だいほんせい)の如くにして、声有り。其の下(くだ)りて地に止(とど)まるときは、狗に類(に)たり。(天狗、状如二大奔星一、有レ声。其下止レ地、類レ狗。)」と、流星として記されているものに由来する。隕石の落下現象を指すのであろう。僧旻が舶来思想を披瀝した記事のようであるが、紀の編纂者が、なぞなぞを解く鍵として残したものかもしれない。
(注18)いま、「黄泉国」と竈との相同性を検討しているが、さらに横穴式石室も相同と捉えることができるのか、後考を俟つことにしたい。以下にミニチュアの韓竈をとり上げる。古墳の祭祀において、供膳具としての坏形の土器にご馳走を盛ったらしいことは、想像の翼を羽ばたかせれば閻魔王への賄賂に当たるものと考えることも可能ではあるものの、筆者は否定的に感じている。
(注19)拙稿「蜻蛉・秋津嶋・ヤマトについて」参照。
(注20)拙稿「上代におけるケガレについて」参照。
(注21)中村2000.は、黄泉国を墳墓内のことと措定し、「伊耶那岐命が黒御縵を投げ棄てると蒲子が生ったとか、湯津々間櫛からは笋が生るというのは、幻術の知識を前提とするもので、それは漢墓内の石(塼)刻画を通じてのものである。」(153頁)とする。画像石の拓本がもたらされていたとでもいうのであろうか。土生田1998.には、「葡萄は、一房に多くの実がなることから、逞しい生命力の象徴と考えられていたのであろう。隋・唐代に盛行した葡萄唐草文はそれを施した製品が列島にももたらされているが、中国では瑞祥的意味で受け取られていたことが指摘されている。……筍……も成長の速さや成育した竹が持つ神秘的な空洞が、古代人をして呪的な存在であると考えさせたものと思われる。」(312~313頁)とある。桃を含めて呪物とひとくくりにされるが、効果があったりなかったりする理由は説かれていない。
(注22)合田2013.に、「古墳時代、炉から竈へと火処が交代したことは、生活における一大画期であった。古墳時代に導入された竈は、東アジアからの文化の導入の経路とともに、その後の日本列島における文化の受容のあり方を示す興味がつきない資料である。」(103頁)とある。高久2016.にいうとおり、炉の生活から竈の生活に変えることは、生活様式全般を変えることに当たるから、とり入れるには例えば新築する必要があって、それに合わせた新しい暮らしを始めたら、元に戻るには中古物件を居抜きにするぐらいしかない。そして、竈を使うとなると、ご飯を蒸して食べるようになったと考えられる。その場合には、栽培するイネの品種についても調整が行われ、耕作の仕方もいくらか変わったに違いあるまい。というように、ドミノ式に生活全体が変わってしまうのである。なお、特に東日本の民俗に、竈よりも囲炉裏の好まれる傾向がある。絵巻物の資料にも、煙道を持たない竈が描かれていても使われずに、その前で五徳を用いて調理している光景が描かれることもある。そのとき、住居は竪穴式ではなく、掘立式であることが多い。民俗建築の茅葺屋根は、囲炉裏を焚いて起こる煤煙が虫や黴の駆除に役立ち、30~40年も長持ちしていた。幾度もの生活様式の変遷を経て、今日に至っているといえる。
(注23)大藤1968.に、「産の忌は血忌であることから、これを単にさけるだけでなく、一種の畏怖の念をもって見られていた。ことに漁民や狩猟者がこれを忌みきらった。」(41頁)、「群馬県勢多郡東村でも、岩手県和賀郡沢内村でも、産後一週間は夫はもちろん、家の者が山仕事をすることを禁じられていた。狩猟に出る者、狩小屋、炭焼小屋などはすべて産火を極端にきらう。」(42頁)、「タタラ師(鉄鉱から鉄をとる仕事)も、狩猟者に劣らぬほど産の忌をやかましくいう。産婦は六十一日過ぎねばタタラ場へ行くことはできなかった。」(42頁)とある。炭焼きや金山彦との関連が窺われる。
(注24)継体紀三年二月条に、「任那の日本(やまと)の県邑(あがたのむら)に在(はべ)る、百済の百姓(たみ)の、浮逃(に)げて貫(へ)絶えたること、三四世(みつぎよつぎ)なりたる者をさへ括(ぬ)き出して、並に百済に遷して、貫に附く。」とある。竈(へ)、かまどの盛んなる朝鮮半島情勢である。貫の字が使われているのは、戸籍が木簡を貫くものであったためであろう。紀125歌謡に、橘を貫くものとして描写されているのは、本貫地を表す戸籍と同等であるとの譬喩である。
(注25)飯島2007.に、「魔除けの魔というのは、いわばマ(間)であって、この[産屋で産婦が籠って出産に臨む]空虚な時空という人間の認識にとってこの上もなく恐ろしい不安な状態を無事に通過し、日常的な社会秩序の中に一定の状態を確保するために火が焚かれるのである」との指摘がある。しかし、産小屋の竈の火は、母屋の火とは別にする火である。魔、ないし、間は、変化させる要素が出てくるイメージに通じている。人間の消化管は、口と肛門によって外部に通じている。穴の開いた袋物である点が、竪穴式住居内の煙道付きの竈と似通っている。和名抄に、「胃 中黄子に云はく、胃〈音渭、久曽布久路(くそぶくろ)〉は五穀の府為りといふ。」とある。
(注26)ほとんどの解説書に、桃は邪気を払うと信じられていたとある。芸文類聚・菓部上に、「[荊楚]歳時記に、桃は五行の精なり。邪気を圧伏し、百鬼を制す。(歳時記、桃者五行之精、壓伏邪気、制百鬼。)」とあったり、春秋左氏伝・昭公四年に、「桃弧・棘矢、以て其の災を除く。(桃弧・棘矢、以除二其災一。)」とあるなど、中国での桃にまつわる観念にしたがって捉えられている。それをそのまま本邦の言い伝えの話に持ち込むことには賛同できない。中国の思想が漸次伝来してきたことを否定するものではないが、上代に流通していたとは考えがたい。用字の「黄泉国」の黄=土を意味するのは五行思想に負うが、それはあくまでもヨミノクニ、ヨモツクニというヤマトコトバを表記するうえで用いられている。クワウセン(黄泉)が語られているわけでも、タウ(桃)が語られているわけでもない。記紀にオリジナルに語られている話は、母語のヤマトコトバによって捻り創られ、理解し伝えられた。漢字を知らず、読めず、したがって漢語によって思考することはない。
(注27)聖徳太子伝暦に、「[推古天皇]三年、乙卯春、三月、土佐の南海に、夜(よるよる)、大なる光有り。亦声有りて雷の如し。三十箇月を経て、夏四月、淡路嶋の南の岸に着く。嶋の人、沈水と知らずして、薪に交へて竈に焼く。太子、使ひを遣はして献ら令む。其の大きさ一囲(ひとたき)、長さ八尺なり。其の香(か)、異(こと)に薫(かを)れり。太子観たまひて太(おほ)いに悦び、奏して曰く、「是を沈水香と為る者なり。此の木は栴檀(せんだん)と名づく。香木なり。南天竺国の南海の岸に生いたり。夏の月は諸蛇此の木を相繞(まと)へり。冷(すず)しきが故になり。人、矢を以て射る。冬の月に蛇蟄(かく)れて、即ち斫りて之を採る。其の実は鶏舌、其の花は丁子、其の脂(やに)は薫陸。水に沈みて久しきをば沈水香とし、久しからざるをば浅香とす。而るに今陛下、釈教を興隆し、肇めて仏像を造りたまふ。故に釈梵徳に感じて、此の木を漂(ただよ)はし送れり。」即ち勅有りて、百済の工に命じて、檀像を刻め造りて、観音菩薩を作(な)す。高さ数尺なり。吉野の比蘇寺に安ず。時々(よりより)光を放ちたまふ。」とある。伝暦の成立年代については十世紀とされるものの、以前からの聖徳太子の伝承を含んでいることには違いあるまい。沈水香のどんぶらこ状態については、推古紀にある595年の出来事であったと推察される。記事の雷の件は、舒明紀の637年、僧旻のいうところの天狗の話を髣髴とさせる。舶来思想が僧旻ひとりの知識でなく、それ以前の太子等にも知られていた事柄ならば、それはつまり、沈水香は天狗、魔の変化したもので、竈とゆかりが深いものと考えられていたということになる。水垢離が天狗、修験者の一所作で、金属溶鉱炉と関係があることと対をなしている。なお、神楽歌に、竈殿遊歌(かまどのあそびのうた)として、「豊竈(とよへつひ) 御遊(みあそび)すらしも ひさかたの 天(あま)の河原(かはら)に 比左(ひさ)の声する 比左の声する」とある。比左(ヒは甲類)は瓠(ひさご、ヒ・ゴの甲乙は不明)のことで、神楽で拍子を打つカスタネットではないかという。マラカスは伝わらないから、そうなのであろう。泉津日狭女(ヒは甲類)とは、「天狗(あまつきつね)」(舒明紀九年二月)が天空で大きな音を出すのが瓠の音のようであるところから付けられた別称なのかもしれない。
(注28)拙稿「上代における死のケガレについて」参照。
(注29)本邦でシキミ、コリに梱の字を当てていることには、黄泉国説話が由来していると考える。小さな門の付いた竪穴式住居に相似形の竈がその中に設置されている。だから、瓮(へ)をもって戸(へ)として正しいと決定されている。香(こり)を梱包するばかりでなく、行李の身と蓋が相似形である点を合同と考えたのであろう。
(注30)「黄泉国(よもつくに・よみのくに)」という語も、竈の到来並びにそれをこのような話にまとめ上げるうちに成立したものと考えられる。ヨミの語源説に、(1)「闇(やみ)」の音転説、(2)「夜見(よみ)」説、(3)「山」説、(4)サンスクリット語の「ヤマ」(中国語に閻魔のいる下界の暗黒世界)が仏典とともに流入したとする説がある。黄泉のヨ・ミは乙類で、(2)「夜見(よみ、ヨは甲類)」説は当たらない。工藤2013.は、(5)「〝(死者の世界に対する)忌み〟」(171頁)とする飯田武郷・日本書紀通釈などにも見える説を唱え、「[(1)~(4)の]いずれも、〈よみ〉という発音の最古層にまで迫る姿勢が無い。特に仏典が日本に入ったのは五〇〇年代なので、それ以前の縄文・弥生期まで視野に入れたときには、サンスクリット語の「ヤマ」説は有効性が無い。」(170頁)と捨てている。上に述べたとおり、黄泉国の話は竈の伝来譚にして、天狗、魔とのかかわりから作られたいわゆる和訓語である。ヨモツクニ・ヨミノクニという言葉が、縄文・弥生期に遡ることはない。なお、岩波古語辞典に、「よもつ【黄泉】《ヨモは、ヨミの古形。ツは連体助詞》」(1395頁)とある。ヨモをヨミの古形とする考えには、ヨミをヨモの音転とする考えがあるのかもしれないが、根拠がどこにあるのか不明である。
筆者は、記上や神代紀に載る説話は、高度な頓智的な言語活動を伴った、複雑にして独創的なものであると感じる。他の諸民族が有する世界の創生譚、神話の語り口が平板であるとさえ思えるほど、その難しさは異次元のレベルにある。その特徴は、使われているヤマトコトバに顕著である。単に死後世界を語りたいのなら、「あの世」、「死にし後に往く国」と言えばいいところを、「黄泉国」、「根の国」、「根の堅州国(かたすくに)」(記上)、「遠き根国」(神代紀第五段一書第二)、「常世郷(とこよのくに)」(神代紀第八段一書第六)、「泉国(したつくに)」(欽明紀二年七月)などと言葉が分かち書きされている。また、鬘や櫛や桃の実といった小道具を持ち出して興に入り、ともすれば荒唐無稽に捉えられかねない話に加工されている。記上や神代紀にはほかにも、ウキジマリ、アマヒノミなど、今日なお不明な語を用いて語られている。多義性のもとに言い込めてしまうような工夫を、言葉自らのなかに凝らしたゆえであろう。ヤマトコトバは論理学的な難しさまで伴いながら発達しており、記紀に載る説話は“神話”ではなく、技術革新によって生じた生活の大転換を言い表した譬え話なのである。
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※本稿は、2011年7月に発表した稿を大幅に加筆修正したものである。