允恭記に、軽太子と軽大郎女の同母の兄妹の近親相姦の説話が、いわゆる歌謡説話(注1)の形で載っている。
天皇崩りましし後に、木梨之軽太子の日継を知らすことを定めたるに、未だ位に即かぬ間に、其のいろ妹、軽大郎女を姦して、歌ひて曰はく、
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下訪ひに 我が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ(記78)
此は、志良宜歌ぞ。 又、歌ひて日はく、
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば(記79)
此は、夷振の上歌ぞ。
是を以て、百官と天の下の人等、軽太子を背きて、穴穂御子に帰りき。爾くして、軽太子、畏みて、大前小前宿禰大臣が家に逃げ入りて、兵器を備へ作りき。爾の時に作れる矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ。穴穂王子も亦、兵器を作りき此の王子の作れる矢は、即ち今時の矢ぞ。是は、穴穂箭と謂ふ。是に、穴穂御子、軍を興して、大前小前宿禰が家を囲みき。爾くして、其の門に到りし時に、大氷雨零りき。故、歌ひて曰はく、
大前 小前宿禰が かな門蔭 斯く寄り来ね 雨立ち止めむ(記80)
爾くして、 其の大前小前宿禰、 手を挙げ膝を打ちて、儛ひかなで、 歌ひて参ゐ来つ。其の歌に曰はく、
宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ(記81)
此の歌は、宮人振ぞ。
如此歌ひて、参ゐ帰りて、白ししく、「我が天皇の御子、いろ兄の王に兵を及ること無かれ。若し兵を及らば、必ず人、咲はむ。 僕、捕へて貢進らむ」とまをしき。爾くして、兵を解きて、退き坐しき。故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、率て参ゐ出でて貢進りき。其の太子、捕へらえて歌ひて曰はく、
あまだむ 軽の嬢子 甚なかば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下鳴きになく(記82)
又、歌ひて曰はく、
あまだむ 軽嬢子 したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(記83)
故、其の軽太子は、伊余湯に流しき。亦、流さむとせし時に、歌ひて曰はく、
あまとぶ 鳥も使そ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね(記84)
此の三つの歌は、天田振ぞ。(允恭記)
この軽太子説話の解釈は、研究者の間で大きく異なる。日本書紀では、允恭紀に木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女との近親相姦譚があり、安康紀に皇位継承争いで穴穂御子に敗れた話が載っており、全体が二本立てで作られている。密通が人々に知られて人心の離反をまねき、皇位を嗣ぐことができなかったと理解されている。従来、古事記でも同じ流れで捉えられてきていたが、記ではそれら二つの話が一体化しているため、歌の文句の細部に誤謬が生まれる可能性があった。そこで、近親相姦の事実は公に知られないままそのこととは無関係に人心が離れ、皇位継承争いにおいて軽太子は敗れたことを物語っているとする見方が神野志1985.によって提出された(注2)。従来の「露見」説に対して「非露見」説と呼ばれている。
具体的には、記82番歌謡に「人知りぬべし」とある点について、密通が人の知るところとなっていたらこのような言は出るはずがないから、インセストタブーとされていた同母の兄妹間の近親相姦はまだ世間に露見していなかったとし、遡る記79番歌の後の「是以」という接続の仕方は、「即位にいたらないところで、ということをふくんで話をつなぐものと見れば」(9頁)一連の整合性は保たれるというのである。紀では卜で姦通が露見したとする記述があるが記にはないから、記と紀は別のストーリーなのであって、古事記を一つの“作品”として考えていく立場からは、非露見に話が進んでいるとする“読み”が正しいと主張している。
二十四年の夏六月に、御膳の羹汁、凝以作氷れり。天皇、異びたまひて、其の所由を卜はしむ。卜へる者の曰さく、「内の乱有り。蓋し親親相姧けたるか」とまをす。時に人有りて曰さく、「木梨軽太子、同母妹軽大娘皇女を姧けたまへり」とまをす。因りて、推へ問ふ。辞既に実なり。太子は、是、儲君たり、加刑すること得ず。 則ち大娘皇女を伊予に移す。(允恭紀二十四年六月)
反論としては、身崎1994.が、記の「是以」の用法は「単純な接続あるいは発語の辞というようなものではなく、確実に先行部分をうけとめるはたらきを有する語とみるべき」(187頁)であり、軽太子の不義密通は露見していたと考えられるとしている(注3)。また、阪下2012.は、百官、天下の人等が理由もなく「日継所知すに定まれる」軽太子に背いたといった「語り口」はおよそありそうにないとしている。ほかにも、金井2005.は、人々は噂話に兄妹相姦の事実を聞いていただけで確証は得ておらず、軽太子は否認していたが、もしここで「甚泣かば」、「人知りぬべし」ことになるからそうならないようにしようと画策しているとしている(注4)。
筆者には、神野志氏の主張やそれに対する批判は、どれも地に足のついた議論に思えない。上代の人たちが受け取っていたように古事記の文章を読もうとしていていないのではないかと疑ってしまう。記82番歌謡の「人知りぬべし」という言葉使いについて、軽箭・穴穂箭製作合戦や、穴穂皇子による大前小前宿禰の屋敷を包囲したときに伴われる記80・81番歌謡をなかったかのように飛ばして遡り、記79番歌の後の「是以」との関係で整合性がとれるかどうかを検討している。解釈の議論として必ずしも誤りではないものの、素朴にお話を理解するという観点とは相容れない。議論のための議論に陥っている。
記82番歌謡を歌っているのは軽太子で、事件の中心人物である。一連の話では、そのまわりを渦巻く形で穴穂皇子や大前小前宿禰が活躍し、記80・81番歌謡も成っている。それらを飛ばして記82番歌謡のなかの言葉づかいを「是以」から検討することは、この途中の話を聞いていなかったか、聞いてはいたが理解できなかった場合にしか起こらない。話を聞いていなかったり理解していなかったら、口承の言い伝えとして次の人に伝わることはない。途中の話も含めて伝わっている形が古事記である。当時の人たちは聞いていたし、理解していた。理解していないのは現代の学者たちである。
筆者は、軽箭・穴穂箭の考察から、軽太子と穴穂皇子がそれぞれカルガモと鷹とに見立てられていることをみた(注5)。そしてまた、記80・81番歌謡の考察から、大前小前宿禰はホンダワラのことをいう神馬藻(なのりそ)のことを指しているとみた(注6)。そして、鷹狩の鷹が鈴をつけていることについて、記81歌謡で想起させていることをみた。「宮人」は軽太子、「里人」は穴穂皇子を指示している。「足結」に「小鈴」をつけていた「宮人」が、落とした鈴にこだわって探し回る無様な姿をあげつらい、対する「里人」は、鷹狩に出て、尾に着けた鈴が落ちようが鈴を探すのではなく、獲物を探すことが当たり前であることを大前小前宿禰は述べ、小童を武装してやっつけるまでもないことだと穴穂皇子に諭しているものであることを確認した。
これらに連続して話が進んでいる。記81番歌謡で「宮人」「里人」と分け隔てて言っていたのが、記82番歌謡では「人」「知りぬべし」と歌われている。この歌を歌っているのは「宮人」たる軽太子である。「人知りぬべし」の「人」は、軽太子から見て第三者であろう。記81番歌謡の文脈なら「里人」のことになる。すなわち、ここに、宮廷人が「宮人」であるという構図は崩れ去っていることが見て取れる。軽太子は「宮人」を自認していたところ裸の王様になっていた。自分以外の「百官と天の下の人等」全員が「人」(記82)になっている。そのことは相姦した時点で自ら気づいていて歌に歌っている。
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下訪ひに 我が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは やすく肌触れ(記78)
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば(記79)
記79番歌謡に「人は離ゆとも」とある(注7)。「率寝てむ後は 人は離ゆとも」かまわない、「さ寝しさ寝てば …… 乱れば乱れ」てもかまわないと、思いと並行して述べている。「乱る」は、「保たれていた秩序や保たれるべき秩序を失わせる意。」(古典基礎語辞典1148頁、この項、依田瑞穂)のことである。状態としては散乱するさまであり、心中が乱れる場合も千々に乱れるのである(注8)。軽太子と軽大郎女の二者が離別することを示すには不適当である。世の中の秩序がどうなってもかまわないという意に解すのがふさわしく、同母の兄妹の近親相姦という禁忌を冒すことで社会の定めを失わせることを言っていて、語の選択としてふさわしいと考える。
記79番歌謡は記82番歌謡で「人知りぬべし」と歌うのと同じく軽太子の作である。記81番歌謡の文脈に引き戻せば、その「人」は「里人」のことであり、鷹狩の参加者ということになる。
あまだむ 軽の嬢子 甚なかば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下鳴きになく(記82)
(あまだむ)軽の乙女よ、ひどく泣いたら声が聞こえて居場所が人に知られてしまうでしょう、波佐の山の鳩が声を忍ばせて鳴いているのは鷹に知られないためですよ。
人に知られては困る内容は、軽大郎女の潜んでいるその存在である。これまでは、露見・非露見のいずれの立場も、近親相姦の事実を人が知ることだと先入観を持ち誤解が続いていた。軽箭・穴穂箭製作合戦や、穴穂皇子による大前小前宿禰の屋敷を包囲したときに伴われる記80・81番歌謡を考慮に入れていなかったからである。
「人知りぬべし」という句の形は、恋愛関係にあること、思慕していることを他の人が知ることになるだろう、それがとても憚られることだ、という意を表す常套句として用いられている(注9)。しかし、語義や文法の上から、絶対に恋情の露呈を示す表現でなければならないと言葉が規制しているものではない。万葉集中でも、「人」「知る」「べし」を使った言い方に次のような例が見られる。
大伴の 遠つ神祖の 奥津城は しるく標立て 人の知るべく(万4096)
先祖の墓だと人々にはっきりわかるように標柱を立てよという歌である。ここに大伴の墓があると、顕著にしるしを立てて人々が知るように、という意味である。同様に、「甚なかば 人知りぬべし」(記82)は、ひどく声を立ててないたら、きっと人々がその隠れているところを知ることになるだろう、そうしたら逮捕されてしまうだろうという意味である。大前提として、そういう言い方として「人知りぬべし」という句を用いている。軽大郎女の身の上を案じたもので、隠れていなさいと言っている。
ただし、軽太子は、二人の関係を知られてしまって逮捕されている。それを皮肉り、あるいは自虐して、あたかも知られていない状況にあるかのように、秘めた恋の常套句の「人知りぬべし」という言葉を使っていると取ることも不可能ではない。軽太子の恋情の深さを表すものとしてである。とはいえ、それを「悲恋」という現代的な捉え方、枠組みによって解釈して肩を持つような見解は正答ではない。秘めた恋を歌う場合、冷やかされることに気まずくなる初心さがあるが、軽太子は、「安く肌触れ」(記78)、「乱れば乱れ」(記79)と、大胆不敵に社会に反逆している。結果、禁忌違反から人心が離反し、皇位継承にふさわしからぬとされて掃討されている。与した郎党は一人もいない。秩序を失わせると社会は壊れるから、世にあってはならない存在であり、大祓の対象といっても過言ではない(注10)。「人」のふるまいとして認められない。換言すれば軽太子、軽大郎女は、すでに「人」ではないのである。記82歌謡は、はからずもそのことを“正しく”受け取れるような歌に仕上がっている(注11)。
太子、軽大郎女は「人」ではなく何になっているのか。その名からカルガモであると知れるように鳥になっている。あるいは、大祓の対象の「鶏婚」の類と定位されていたのかもしれない。だから、鳩の鳴き方をとりあげている。恋の露見に対する気兼ねや葛藤を伝える修辞として使われるべき「人知りぬべし」という句は、もはや社会的存在として「人」でなくなった者の言い分として、心を隠すのではなくて姿が顕れないようにと心配する意となっている。
歌の後半は、「波佐の山の 鳩の 下鳴きになく」とある。この「下鳴きになく」について、軽大郎女が泣くのか、軽太子が泣くのか議論されている。「鳩の」の「の」を、…のように、と捉えている。連体助詞に出発した「の」は格助詞となり、下の用言に対して「…の属性として」「…の性質として」の意、「…のように」の意に用いられる。よって、波佐の山の鳩のヨウニ下鳴きに泣く人は誰か、が検討されることとなっている。だが、「の」には単に主格を表すだけの用法もある。その場合、同じく主格をあらわす助詞の「が」とは異なり、下に体言や連体形が来る。
青山を 横切る雲の いちしろく 吾と咲まして 人に知らゆな(万688)
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふが如く 今盛りなり(万328)
上は、「横切る雲」がはっきりと誰の目にも見えるように、自分からはっきりと笑いかけて、という意である。下は、「咲く花」が「にほふ」のであり、奈良の都が実際に「にほふ」わけではない。隠喩と直喩の違いになっている。ただ、「横切る雲のいちしろく」の「の」や「咲く花のにほふ」の「の」の主語に当たる言葉は何かといえば、いずれも上にある「横切る雲」や「咲く花」であることに違いはない。したがって、「波佐の山の鳩の下鳴きになく」とある場合も、「下鳴きになく」の主語は「鳩」である。そして、「の」は下に体言や連体形をとるから、「下鳴きになく」の「なく」は四段活用の連体形で終わっていることになっている(注12)。下鳴きになくモノという扱いである。それを、下鳴きになくモノノヨウニ(誰かが泣く)と、前にある「(誰かが)甚泣かば 人知りぬべし」の関係からともに補いながら解釈する必要はなく、単に、下鳴きに鳴くモノダ、下鳴きに鳴くモノヨ、と詠嘆していると解せられる(注13)。
その点は、実は歌詞にすでに表れている。「波佐の山の鳩」である。なぜハサの山と固有名詞に限られているのか。ハサ、ハトの音の下の音、「下鳴き」なのだから下の音を聞けばわかる。サト(里)である。「里人」は鷹狩に出向いている。「下鳴きに」静かに鳩が鳴くのは、「里人」たる鷹狩一行からなんとか免れるためである。「里人」は鈴が落ちても気を取られることなく捕まえに来て、軽太子は捕まってしまった。いま、鷹狩一行が狩りに来ている。ひどく泣いたら居場所が知られて捕まること必定である。「甚鳴かば人知りぬべし」と仮定条件に述べているのは、軽大郎女よ、声をあげずにいておくれ、という伝言なのである。
近親相姦は社会的禁忌であった。それを冒せば犯罪である。犯罪者に対して、社会は二通りの対処法をとる。一つは罪を咎め犯罪者を糾弾することである。これはまだ、相手を「人」として認めている。もう一つはそもそも社会に「人」として存在していなかったことにすることである。考えても仕方のない、更生の余地のない相手である(注14)。記紀では、そのような相手にしがたい相手は、「神やらひにやらふ」者として語られる(注15)。
古事記の軽太子と軽大郎女の話には、はじめから同母兄弟の近親相姦が開示されている。強くタブー視されていた事柄で、話全体が軽太子という存在を抹消するための次第なのであった。くり返しになるが、それを悲恋だと同情することや、皇位継承問題での敗者の文学などと評価するには及ばない。事件は、大祓をしたくなるような、社会が無視すべき出来事であった。麻薬のような「恋」とでもいえばよいのであろうか(注16)。
大前小前宿禰は記81番歌謡を歌うとともに穴穂皇子に諭している。「若及レ兵者、必人、咲。」と言っている。第一に相手は軽太子一人であること、第二に軽太子はカルガモに譬えられるほど鷹狩の獲物として不足であること、第三に「神やらひにやらふ」べき存在だからである。もはや「人」ではない相手をまともに相手してはならない。当初から誰も相手にしなくなっていたことは明記されている。「百官及天下人等、背二軽太子一而、帰二穴穂皇子一。」である。これを皇位継承争いばかりのことに矮小化することはできない。群臣や百官が背いて穴穂皇子についたというのならまだしも、民主主義でもないのに天の下の人等、つまり、世間一般の人まで離反するのにはそれなりの、ここでは道徳的な違背があったからと認められよう。目には目を、歯には歯を、「背く」には「背く」をが世論の対応である。
あまだむ 軽嬢子 下谷も 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(記83)
(あまだむ)軽乙女よ、下の谷の安全と思われるところでも、寄り集まって横になるように伏して通過しなさい、カルガモの子どもたちよ。
この歌によくわからないとされていた点は、「したたにも」という言葉と、「軽嬢子」と助詞の「の」を省いた表現になっていること、「軽嬢子ども」と複数形になっているところである。「したたにも」については、「したたに」は「下々に」の約で忍び忍びに、の意とする説(賀茂真淵・古事記和歌略注、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118607/75)のほか、「した堅く」や「したたか」の類語でしっかりと、たしかに、の意とする説(橘守部・稜威言別、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872839/37)がある(注17)。この言葉は孤例だから確かめようはないのであるが、昨今は、「寄り寝て通れ」を、ここに立ち寄って寝て、あるいは、私と寄り添って寝て、などの意と解して「したたにも」の意を確定させようとしている。
カルガモの親子(「まぁ~のどうぐばこ」様https://maamarimari.com/kamo/)
「軽嬢子」は軽いのだから天を廻るようにアマダムと枕詞が冠されていると考えられる。次の記84番歌謡に、「あまとぶ 鳥の使そ」とあるところは、天高く飛ぶ鳥を想定した枕詞、ないしは形容なのであろう。すなわち、記83番歌謡は、カルガモの様子を見ながらのもの言いと考えられる。鷹狩に襲われないようにするには、隠れて見えないように思える「下」の「谷」筋でさえも、「寄り寝て通れ」と命令忠告している。一羽では動きが読まれてきっと捕まってしまうから、寄り集まって地に伏して匍匐前進するように通過しなさい、と言っているのではないか。だからもはや「軽の嬢子」と人の名を呼ぶのではなく、「軽嬢子」と「の」が省かれ、また、「軽嬢子ども」と複数形で呼びかけている(注18)。猛禽に対して動きを攪乱させるために採る生き残り戦略である。
以上のように見てくれば、記82・83番歌謡がどのように歌われたか、その状況が見えてくる。「人知りぬべし」は二人の関係を秘匿しようというのではなく、まだ捕まっていない軽大郎女に追手から逃れる術を訴えるもので、どこかにいる彼女に向けて大きな声で歌われたものであったと想定される(注19)。
(注)
(注1)歌謡物語、ウタモノガタリという呼称で概念化されて論じられることがある。記紀の地の文と歌謡とが渾然一体となっている話について検討されている。ウタ(歌)、モノガタリ(物語)とは何かが深度をもって語られているとは言えない。物語(story)─歴史(hi-story)という関係を時間を追った構造化と捉えるなら、記紀の説話は羅列されているだけで構造化は起こっていない。その性質を文体によるものとし、散文が出来事を線条的、継起的、箇条書き的に構成し、歌が物語の当事者の実感を表して場面をつくる役割を果たしていると捉える傾きがあるが誤りである。地の文、歌謡はどちらも、声の文化に属する話(咄・噺・譚)にすぎない。話の落ちを表明するのに散文(ナレーション)がするのが適当か、歌(アテレコ)がするのが適当か、使い分けているばかりである。稗田阿礼の語り口(narrative)を表記したものが古事記である。歴史でないばかりでなく、文字に書かれた物語でもないのだから、構造化とはおよそ無縁である。古事記という話の寄せ集めに“構造”を問うのはおよそナンセンスである。
(注2)そもそも口頭で伝承された話、つまりは伝言ゲームのような言語ゲームにおいて、込み入った状況を設定することなど不可能である。ふだんづかいの言葉の実情を顧みず、“古事記学”なるものを打ち立てたがって議論されている。根の深い問題である。
(注3)身崎1994.は、古事記における「是以」全39例、「その大部分は直接にすぐまえの部分をうけてそれを原因・理由としてあとにつづける用法、つまり「これによって」「このために」というふうに解せるものだ。」(186頁)、例外的な例を含めても、「『古事記』の「是以」はそのうける範囲の大小はあっても先行部分の叙述をうけてつぎの叙述にかかわらせることばだとみてあやまらないだろう。当面の例に即していえば、軽太子の近親相姦の顚末をかたってきたところで、その内容全体をうけて「是以」という、とみるべきなのだ。」(187~188頁)としている。例外的な曖昧例とされるのは次の3例である。
故、其所レ謂黄泉比良坂者、今、謂二出雲国之伊賦夜坂一也。是以、伊耶那伎大神詔、吾者、到二於伊那志許米 志許米岐 以音。 穢国一而在祁理。以音。 故、吾者、為二御身之禊一而、到二-坐竺紫日向之橘小門之阿波岐 以音。 原一而、禊祓也。(記上)
爾、思レ怪、以二御刀之前一刺割而見者、在二都牟刈之大刀一。故、取二此大刀一、思二異物一而、白三-上於二天照大御神一也。是者草那芸之大刀也。以音。 故、是以、其速須佐之男命、宮可二造作一之地求二出雲国一。(記上)
故、大毘古命者、随二先命一而、罷二-行高志国一。爾、自二東方一所レ遣建沼河別与其父大毘古、共往二遇于相津一。故、其地謂二相津一也。是以、各和二-平所レ遣之国政一而、覆奏。(崇神記)
神野志2007.は、次のように再反論している。「「是以」(ここをもちて)は、因果関係で前後をつなぐとはかぎらないものです。たとえば、
是者草那芸之大刀也。以音。 故是以、其速須佐之男命、宮可造作之地求出雲国。
というのは、ヤマタノオロチを退治したスサノオが宮をつくることになる件です。オロチを退治して得た剣を「草なぎの大刀」だと確かめ、「故是以」として宮を作ったと続きます。「故是以」は、因果関係をふくまず、ここで区切りをつけるという以上ではありません。」(151~152頁)
筆者は、よりによって「故」までついている箇所を反証のために用いていることに驚かされる。時代別国語大辞典に、「かれ[故・爾](接)①故に。上の文や句を原因理由として受けて、下に接続する。カは指示副詞、レはアレで、バを添えずに已然形で言い放つ形である。……②すなわち。そこで。ここに。ことばを起こすときに用いる。」(234頁)とある。②の用例は、古事記の「爾」字のものばかりである。筆者は、②の「爾」はシカクシテ、ココニなどと訓むものと考える。「故」字を用いる①がカレという語そのものである。
ヲロチを退治して得た剣を「草なぎの大刀」だと確かめ、だから、それをもって、宮を作るべき地を他のどこかではなく出雲国に求めた、と記されている。この因果関係は、大刀が草を薙ぎ倒すものとしての名を確かめたからイヅモがいいよね、ということになったということである。一般に、草刈りには鎌を使う。大刀などは使わない。ヤマトタケルはそれしか持ち合わせておらず、使ってみると「草なぎの大刀」は草を薙ぎ倒すのに都合がよかった。草刈りができるなら、藻刈りもできるに違いない。ならば、藻が至るところにイヅモ(出藻)してイツモ(厳藻)状態になっていると目される出雲国に移住しようと言っている。「草なぎの大刀」を所持していて家財として持ち込めば、出雲国に住めば都だからそこに宮を造ろうという発想である。取り放題だし枯渇することもない。そういう地名である。宮のあるところを都(ミヤ(宮)+コ(処))という。話(噺・咄・譚)は言葉でできている。ヤマトコトバにおいて因果関係は明瞭である。区切りをつけるだけ、内容全体をうけるだけ、と主張して恥ずかしくない人は、お粗末にも洒落の通じない人である。
ついでに、「是以」の残り2例について触れておく。
黄泉ひら坂は今の出雲国のイフヤ坂というところである。「是以」イザナキは口走っている。「吾は、いなしこめ⤴、しこめき穢き国に到りて在りけり。」汚らわしいものを見てきて心に起こった興奮、動揺を隠せず、言葉が乱れている。「伊那志許米 」と声注がついている。声が裏返っている。うまく喋れていない。前文にイフヤ坂とあって、言ふや言はずやわからぬ状態を示している。言語の障害を表す。斉明紀四年五月条に、啞者であった皇孫の建王が夭逝した記事があり、天皇がそのとき3首「作歌」し、さらに紀温湯行幸の十月条にもさらに3首「口号」している。五年是歳条に、出雲国の神宮を修厳させようとした時、「狗、死人の手臂を言屋社に噛ひ置けり。言屋、此には伊浮瑘と云ふ。天子の崩りまさむ兆なり。」という記事が見える。垂仁天皇の皇子、本牟智和気御子は出雲大神の祟りで言語に障害があったが、出雲へ派遣して参拝することで喋れるようになっている話があり、オーバーラップしている。「言ふ」ことができなくなること、「口号」できなくなることを暗示するため、紀の編纂者は記しているものと思われる。すなわち、この個所の「是以」は前を全体的に受けるばかりか、端的にイフヤという言葉の深意を受けている。
大毘古命と建沼河別とは相津に遇っている。アフという語は、遭遇するという意だけでなく、闘うという意がある。どちらも一つの地点に会することである。
楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも(万30)
香具山と 耳成山と 闘ひし時 立ちて見に来し 印南国原(万14)
大毘古命と建沼河別とは父子の関係であり、ともに崇神天皇の同じ命を受けて別の行路で派遣されている。両者がアフことになったとき、それは闘うことでも逢うことでもあると解される。実際には味方同士だから戦闘にはならず、アフと同時に和平を結ぶこととなっている。どちらから見ても戦わずして勝っている。だから、「各遣さえし国の政を和平げて、覆奏しき。」に決着している。復命において、両者は口々にまったく同じことを言うのである。それをカヘリコトと呼ぶことは、循環論に陥っていて語義の上ではまことに当を得ている。「是以」は前を全体的に受けるばかりか、端的にアフという言葉の重層性を受けている。
話は話されて流れていく。「是以」とわざわざ言っている。頓智がわかるかな?(You know what?)と話の合間に挿入して、一方的に話しているにもかかわらず話されている場において双方向のコミュニケーションとなっている。川田2001.は、「一般に音のコミュニケーション……[は]、言述においても韻律的特徴など、概念化された意味よりは情動的な伝達力を強くもち、伝達行為の状況依存性が大きく、現前する受信者を「巻き込む」ような形で伝達が行なわれることが多い」(230頁)と指摘する。古事記のテキストは、音のコミュニケーションの場の「巻き込む」形がそのまま残されているわけである。「是以」は聞く人の興味を引きつつ話を続けていくには効果的な文句であり、口承の言語ならではの論理性が顕れている。落語を聞くのに真面目な顔をしてテキスト“ブック”ばかりのぞき込み、理屈を捏ね回しても仕方があるまい。
(注4)大浦2013.は、「記82について、従来の論においては、すでに密通が露見している文脈において「いた泣かば 人知りぬべし」と歌うことの矛盾が取り上げられて来たが、そもそも捕縛され、引き渡された時に「歌曰」ということ自体に問題性が孕まれているのではないか。それは記83についても同様である。小声で歌った、あるいは一人の時に歌ったなどと合理化するのは無意味であろう。」(68頁)と常識的な見解を示している。ただし、「記82・83の歌謡は、物語の中に響きわたりながらも、所伝の語る継起的な事柄の進行とは別次元に置かれているのだと見なければなるまい。」と、「古事記歌謡物語」は「素材の異なる所伝と歌謡によって織りなされたテキストであ」(73頁)ることにされてしまっている。
(注5)拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」参照。
(注6)拙稿「記紀の穴穂御子と大前小前宿禰の歌問答について」参照。
(注7)この部分の「人」を思う人、軽大郎女のこととする説が新編全集本古事記に見られる。「十分に共寝ができたら後は別れるようなことにもなってもよいと、会ってなお飽かぬ思いを述べる。」(320頁)とある。古典文学全集本、佐佐木2010.、馬場2020.もこの説を推している。説明としては、神野志1985.に、「人は離ゆとも」「乱れば乱れ」について、「太子配流につながるところまで含意するというのは、歌の解釈としては足ののばしすぎというべきだろう。」(11頁)という印象論が述べられている。軽太子が軽大郎女と会えなくなってもかまわないという意とする。だが、そう歌いたいのなら、「妹(いも)は離(か)ゆとも」「別れば別れ」となぜしないのだろうか。記78番歌謡に「妹」とも「妻」ともある。相手の軽大郎女は、sister でありかつ lover でもある。「妹」という言葉は絶妙な語ではないか。また、馬場2020.は、「「人」を第三者とする理解は、相聞歌としてこの歌の表現を見る限り成り立たないだろう。」(55頁)とするが、記79番歌謡は問答歌ではなく、「志良宜歌」につづけられた「夷振の上歌」である。
一方、井ノ口2008.は、古事記の歌謡における「人〔比登〕」の用例は、允恭記の2例以外に6首7例あり、そのいずれも「「人間・人」、「他人」、もしくは形式名詞としての「ある人」を指し示している。」(125頁)点を指摘し、また、「自らの欲望を遂げるためには、「人は離ゆ」という事態さえも辞さなかった軽と、「人咲はむ」という諫言を受け入れ、他者の裁定を重んじた穴穂という二皇子の差異は明白である。」(同頁) と本質的な読みをしている。
(注8)馬場2020.は「乱る」について、男女の関係が途切れることを言うとし、次の万葉歌を例に挙げている。
み吉野の 水隈が菅を 編まなくに 刈りのみ刈りて 乱りてむとや(万2837)
群生しているスゲを菅笠に編むわけでもなく刈るだけ刈って放置、散乱していることを、異性に心をもてあそばれていることの譬喩に使っている。千々に乱れているのは我が心であって二人の関係ではない。
(注9)「人」「知る」「べし」を伴い、多く恋の露呈を意味する句となる。「人知りぬべし」(2387)、「母知りぬべし」・「父知りぬべし」(万3312)、「人知りぬべみ」(万207・1383・1787・3276)、「人の知るべく」(万1370・2604・2791・3021・3023・3133・3935)、「人の知るべき」(万1297)といった例がある。
(注10)仲哀記に、「爾くして驚き懼ぢて、殯宮に坐せて、更に国の大ぬさを取りて、種々に生剥・逆剥・あ離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鶏婚の罪の類を求めて、国の大祓を為て、亦、建内宿禰、さ庭に居て、神の命を請ひき。」とある。
(注11)記紀の説話には、このように逐語逐時的に言い放つ語り口が見られる。発した言葉がそのまま論理学的に言いくるめてしまうやり方である。彼らは、言葉に発したその言葉をその時、その場で再定義を施して正当性を獲得する術を心得ていた。厳密な学としてヤマトコトバはあったのである。なぜなら、言葉は音声でしかなく、それが確かなものなのかの担保要件を空間的にも時間的にも持たなかったからである。
(注12)本居宣長・古事記伝に、「斯多那岐爾那久は、下泣に泣なり、但し此ノ結は必ス那気はあるべきことなり、【那久にては上に、倍志とあると、語のかけあひ調はず、】……若シ書紀の如く、倍美ならば、那久と結めて調ふなり、其時は、人の知るべきに依て下に泣クと云意なり、然れども此レは、那気とあるべき御哥なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/405、漢字の旧字体は改めた)と述べている。
(注13)係助詞を伴わずに連体形で結ぶ例としては次のような例があげられる。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(万20)
吾が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 吾が立ち濡れし(万105)
かくのみに ありける君を 衣にあらば 下にも着むと 吾が思へりける(万2964)
葦原の 穢しき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し(記19)
(注14)今日でも、責任能力を欠いた状態にあったと解されることや、悪い心を持った人ではなくて心というものをそもそも持たない者として語られることがある。それが全体主義の社会にどのように顕現するかについてはハンナ・アーレントらの諸論に詳しい。古代からそのような“人物像”をきちんと把握していたことは、歴史心理学(?)的に興味深い。
(注15)スサノヲの扱いに明瞭である。
(注16)現代的な思潮、LGBTQ+といったことは古事記に問題とされない。
(注17)折口1966.156頁には、シタシ(親し)の語幹の重なりの可能性もあるとしている。
(注18)石田2009.に、「相姦は露見していないという文脈把握に立てば、第三者に二人の関係を知られぬようキナシノカルがカルノオホイラツメに呼びかけた表現として矛盾なく解せる。つまり、軽地域の若い女性一般に呼びかける体で[複数形で「軽嬢子ども」と]うたいながら、そのじつカルノオホイラツメに向けたメッセージであることが当事者間にのみ了解される歌として定位されているとみなせるのである。」(19頁)とするが、なかなかに考えにくい設定である。周りにいて歌声を聞く人はそれほど魯鈍なのであろうか。稗田阿礼の話を聞く段階でも周りの人は鈍感だなあと思いながら聞くのであろうか。
(注19)山口2010.は、使者を軽大郎女のもとへ送り、軽大郎女のみに知られるような形で太子が送ったものとしている。この説はあり得ない。太子は捕まってから歌っているので、秘密裏に使者を遣わすことなどできない。残された軽大郎女へ向け、最後の悪あがきのように歌っている。
(引用・参考文献)
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井ノ口2014. 井ノ口史「「天田振」三首─『古事記』「軽太子物語」論(2)─」『京都語文』第21号、佛教大学国文学会、2014年11月。佛教大学論文目録リポジトリhttps://archives.bukkyo-u.ac.jp/repository/baker/rid_KG002100007790
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山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。
天皇崩りましし後に、木梨之軽太子の日継を知らすことを定めたるに、未だ位に即かぬ間に、其のいろ妹、軽大郎女を姦して、歌ひて曰はく、
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下訪ひに 我が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは 安く肌触れ(記78)
此は、志良宜歌ぞ。 又、歌ひて日はく、
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば(記79)
此は、夷振の上歌ぞ。
是を以て、百官と天の下の人等、軽太子を背きて、穴穂御子に帰りき。爾くして、軽太子、畏みて、大前小前宿禰大臣が家に逃げ入りて、兵器を備へ作りき。爾の時に作れる矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ。穴穂王子も亦、兵器を作りき此の王子の作れる矢は、即ち今時の矢ぞ。是は、穴穂箭と謂ふ。是に、穴穂御子、軍を興して、大前小前宿禰が家を囲みき。爾くして、其の門に到りし時に、大氷雨零りき。故、歌ひて曰はく、
大前 小前宿禰が かな門蔭 斯く寄り来ね 雨立ち止めむ(記80)
爾くして、 其の大前小前宿禰、 手を挙げ膝を打ちて、儛ひかなで、 歌ひて参ゐ来つ。其の歌に曰はく、
宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ(記81)
此の歌は、宮人振ぞ。
如此歌ひて、参ゐ帰りて、白ししく、「我が天皇の御子、いろ兄の王に兵を及ること無かれ。若し兵を及らば、必ず人、咲はむ。 僕、捕へて貢進らむ」とまをしき。爾くして、兵を解きて、退き坐しき。故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、率て参ゐ出でて貢進りき。其の太子、捕へらえて歌ひて曰はく、
あまだむ 軽の嬢子 甚なかば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下鳴きになく(記82)
又、歌ひて曰はく、
あまだむ 軽嬢子 したたにも 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(記83)
故、其の軽太子は、伊余湯に流しき。亦、流さむとせし時に、歌ひて曰はく、
あまとぶ 鳥も使そ 鶴が音の 聞えむ時は 我が名問はさね(記84)
此の三つの歌は、天田振ぞ。(允恭記)
この軽太子説話の解釈は、研究者の間で大きく異なる。日本書紀では、允恭紀に木梨軽太子と同母妹の軽大娘皇女との近親相姦譚があり、安康紀に皇位継承争いで穴穂御子に敗れた話が載っており、全体が二本立てで作られている。密通が人々に知られて人心の離反をまねき、皇位を嗣ぐことができなかったと理解されている。従来、古事記でも同じ流れで捉えられてきていたが、記ではそれら二つの話が一体化しているため、歌の文句の細部に誤謬が生まれる可能性があった。そこで、近親相姦の事実は公に知られないままそのこととは無関係に人心が離れ、皇位継承争いにおいて軽太子は敗れたことを物語っているとする見方が神野志1985.によって提出された(注2)。従来の「露見」説に対して「非露見」説と呼ばれている。
具体的には、記82番歌謡に「人知りぬべし」とある点について、密通が人の知るところとなっていたらこのような言は出るはずがないから、インセストタブーとされていた同母の兄妹間の近親相姦はまだ世間に露見していなかったとし、遡る記79番歌の後の「是以」という接続の仕方は、「即位にいたらないところで、ということをふくんで話をつなぐものと見れば」(9頁)一連の整合性は保たれるというのである。紀では卜で姦通が露見したとする記述があるが記にはないから、記と紀は別のストーリーなのであって、古事記を一つの“作品”として考えていく立場からは、非露見に話が進んでいるとする“読み”が正しいと主張している。
二十四年の夏六月に、御膳の羹汁、凝以作氷れり。天皇、異びたまひて、其の所由を卜はしむ。卜へる者の曰さく、「内の乱有り。蓋し親親相姧けたるか」とまをす。時に人有りて曰さく、「木梨軽太子、同母妹軽大娘皇女を姧けたまへり」とまをす。因りて、推へ問ふ。辞既に実なり。太子は、是、儲君たり、加刑すること得ず。 則ち大娘皇女を伊予に移す。(允恭紀二十四年六月)
反論としては、身崎1994.が、記の「是以」の用法は「単純な接続あるいは発語の辞というようなものではなく、確実に先行部分をうけとめるはたらきを有する語とみるべき」(187頁)であり、軽太子の不義密通は露見していたと考えられるとしている(注3)。また、阪下2012.は、百官、天下の人等が理由もなく「日継所知すに定まれる」軽太子に背いたといった「語り口」はおよそありそうにないとしている。ほかにも、金井2005.は、人々は噂話に兄妹相姦の事実を聞いていただけで確証は得ておらず、軽太子は否認していたが、もしここで「甚泣かば」、「人知りぬべし」ことになるからそうならないようにしようと画策しているとしている(注4)。
筆者には、神野志氏の主張やそれに対する批判は、どれも地に足のついた議論に思えない。上代の人たちが受け取っていたように古事記の文章を読もうとしていていないのではないかと疑ってしまう。記82番歌謡の「人知りぬべし」という言葉使いについて、軽箭・穴穂箭製作合戦や、穴穂皇子による大前小前宿禰の屋敷を包囲したときに伴われる記80・81番歌謡をなかったかのように飛ばして遡り、記79番歌の後の「是以」との関係で整合性がとれるかどうかを検討している。解釈の議論として必ずしも誤りではないものの、素朴にお話を理解するという観点とは相容れない。議論のための議論に陥っている。
記82番歌謡を歌っているのは軽太子で、事件の中心人物である。一連の話では、そのまわりを渦巻く形で穴穂皇子や大前小前宿禰が活躍し、記80・81番歌謡も成っている。それらを飛ばして記82番歌謡のなかの言葉づかいを「是以」から検討することは、この途中の話を聞いていなかったか、聞いてはいたが理解できなかった場合にしか起こらない。話を聞いていなかったり理解していなかったら、口承の言い伝えとして次の人に伝わることはない。途中の話も含めて伝わっている形が古事記である。当時の人たちは聞いていたし、理解していた。理解していないのは現代の学者たちである。
筆者は、軽箭・穴穂箭の考察から、軽太子と穴穂皇子がそれぞれカルガモと鷹とに見立てられていることをみた(注5)。そしてまた、記80・81番歌謡の考察から、大前小前宿禰はホンダワラのことをいう神馬藻(なのりそ)のことを指しているとみた(注6)。そして、鷹狩の鷹が鈴をつけていることについて、記81歌謡で想起させていることをみた。「宮人」は軽太子、「里人」は穴穂皇子を指示している。「足結」に「小鈴」をつけていた「宮人」が、落とした鈴にこだわって探し回る無様な姿をあげつらい、対する「里人」は、鷹狩に出て、尾に着けた鈴が落ちようが鈴を探すのではなく、獲物を探すことが当たり前であることを大前小前宿禰は述べ、小童を武装してやっつけるまでもないことだと穴穂皇子に諭しているものであることを確認した。
これらに連続して話が進んでいる。記81番歌謡で「宮人」「里人」と分け隔てて言っていたのが、記82番歌謡では「人」「知りぬべし」と歌われている。この歌を歌っているのは「宮人」たる軽太子である。「人知りぬべし」の「人」は、軽太子から見て第三者であろう。記81番歌謡の文脈なら「里人」のことになる。すなわち、ここに、宮廷人が「宮人」であるという構図は崩れ去っていることが見て取れる。軽太子は「宮人」を自認していたところ裸の王様になっていた。自分以外の「百官と天の下の人等」全員が「人」(記82)になっている。そのことは相姦した時点で自ら気づいていて歌に歌っている。
あしひきの 山田を作り 山高み 下樋を走せ 下訪ひに 我が訪ふ妹を 下泣きに 我が泣く妻を 今夜こそは やすく肌触れ(記78)
笹葉に 打つや霰の たしだしに 率寝てむ後は 人は離ゆとも 愛しと さ寝しさ寝てば 刈薦の 乱れば乱れ さ寝しさ寝てば(記79)
記79番歌謡に「人は離ゆとも」とある(注7)。「率寝てむ後は 人は離ゆとも」かまわない、「さ寝しさ寝てば …… 乱れば乱れ」てもかまわないと、思いと並行して述べている。「乱る」は、「保たれていた秩序や保たれるべき秩序を失わせる意。」(古典基礎語辞典1148頁、この項、依田瑞穂)のことである。状態としては散乱するさまであり、心中が乱れる場合も千々に乱れるのである(注8)。軽太子と軽大郎女の二者が離別することを示すには不適当である。世の中の秩序がどうなってもかまわないという意に解すのがふさわしく、同母の兄妹の近親相姦という禁忌を冒すことで社会の定めを失わせることを言っていて、語の選択としてふさわしいと考える。
記79番歌謡は記82番歌謡で「人知りぬべし」と歌うのと同じく軽太子の作である。記81番歌謡の文脈に引き戻せば、その「人」は「里人」のことであり、鷹狩の参加者ということになる。
あまだむ 軽の嬢子 甚なかば 人知りぬべし 波佐の山の 鳩の 下鳴きになく(記82)
(あまだむ)軽の乙女よ、ひどく泣いたら声が聞こえて居場所が人に知られてしまうでしょう、波佐の山の鳩が声を忍ばせて鳴いているのは鷹に知られないためですよ。
人に知られては困る内容は、軽大郎女の潜んでいるその存在である。これまでは、露見・非露見のいずれの立場も、近親相姦の事実を人が知ることだと先入観を持ち誤解が続いていた。軽箭・穴穂箭製作合戦や、穴穂皇子による大前小前宿禰の屋敷を包囲したときに伴われる記80・81番歌謡を考慮に入れていなかったからである。
「人知りぬべし」という句の形は、恋愛関係にあること、思慕していることを他の人が知ることになるだろう、それがとても憚られることだ、という意を表す常套句として用いられている(注9)。しかし、語義や文法の上から、絶対に恋情の露呈を示す表現でなければならないと言葉が規制しているものではない。万葉集中でも、「人」「知る」「べし」を使った言い方に次のような例が見られる。
大伴の 遠つ神祖の 奥津城は しるく標立て 人の知るべく(万4096)
先祖の墓だと人々にはっきりわかるように標柱を立てよという歌である。ここに大伴の墓があると、顕著にしるしを立てて人々が知るように、という意味である。同様に、「甚なかば 人知りぬべし」(記82)は、ひどく声を立ててないたら、きっと人々がその隠れているところを知ることになるだろう、そうしたら逮捕されてしまうだろうという意味である。大前提として、そういう言い方として「人知りぬべし」という句を用いている。軽大郎女の身の上を案じたもので、隠れていなさいと言っている。
ただし、軽太子は、二人の関係を知られてしまって逮捕されている。それを皮肉り、あるいは自虐して、あたかも知られていない状況にあるかのように、秘めた恋の常套句の「人知りぬべし」という言葉を使っていると取ることも不可能ではない。軽太子の恋情の深さを表すものとしてである。とはいえ、それを「悲恋」という現代的な捉え方、枠組みによって解釈して肩を持つような見解は正答ではない。秘めた恋を歌う場合、冷やかされることに気まずくなる初心さがあるが、軽太子は、「安く肌触れ」(記78)、「乱れば乱れ」(記79)と、大胆不敵に社会に反逆している。結果、禁忌違反から人心が離反し、皇位継承にふさわしからぬとされて掃討されている。与した郎党は一人もいない。秩序を失わせると社会は壊れるから、世にあってはならない存在であり、大祓の対象といっても過言ではない(注10)。「人」のふるまいとして認められない。換言すれば軽太子、軽大郎女は、すでに「人」ではないのである。記82歌謡は、はからずもそのことを“正しく”受け取れるような歌に仕上がっている(注11)。
太子、軽大郎女は「人」ではなく何になっているのか。その名からカルガモであると知れるように鳥になっている。あるいは、大祓の対象の「鶏婚」の類と定位されていたのかもしれない。だから、鳩の鳴き方をとりあげている。恋の露見に対する気兼ねや葛藤を伝える修辞として使われるべき「人知りぬべし」という句は、もはや社会的存在として「人」でなくなった者の言い分として、心を隠すのではなくて姿が顕れないようにと心配する意となっている。
歌の後半は、「波佐の山の 鳩の 下鳴きになく」とある。この「下鳴きになく」について、軽大郎女が泣くのか、軽太子が泣くのか議論されている。「鳩の」の「の」を、…のように、と捉えている。連体助詞に出発した「の」は格助詞となり、下の用言に対して「…の属性として」「…の性質として」の意、「…のように」の意に用いられる。よって、波佐の山の鳩のヨウニ下鳴きに泣く人は誰か、が検討されることとなっている。だが、「の」には単に主格を表すだけの用法もある。その場合、同じく主格をあらわす助詞の「が」とは異なり、下に体言や連体形が来る。
青山を 横切る雲の いちしろく 吾と咲まして 人に知らゆな(万688)
あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふが如く 今盛りなり(万328)
上は、「横切る雲」がはっきりと誰の目にも見えるように、自分からはっきりと笑いかけて、という意である。下は、「咲く花」が「にほふ」のであり、奈良の都が実際に「にほふ」わけではない。隠喩と直喩の違いになっている。ただ、「横切る雲のいちしろく」の「の」や「咲く花のにほふ」の「の」の主語に当たる言葉は何かといえば、いずれも上にある「横切る雲」や「咲く花」であることに違いはない。したがって、「波佐の山の鳩の下鳴きになく」とある場合も、「下鳴きになく」の主語は「鳩」である。そして、「の」は下に体言や連体形をとるから、「下鳴きになく」の「なく」は四段活用の連体形で終わっていることになっている(注12)。下鳴きになくモノという扱いである。それを、下鳴きになくモノノヨウニ(誰かが泣く)と、前にある「(誰かが)甚泣かば 人知りぬべし」の関係からともに補いながら解釈する必要はなく、単に、下鳴きに鳴くモノダ、下鳴きに鳴くモノヨ、と詠嘆していると解せられる(注13)。
その点は、実は歌詞にすでに表れている。「波佐の山の鳩」である。なぜハサの山と固有名詞に限られているのか。ハサ、ハトの音の下の音、「下鳴き」なのだから下の音を聞けばわかる。サト(里)である。「里人」は鷹狩に出向いている。「下鳴きに」静かに鳩が鳴くのは、「里人」たる鷹狩一行からなんとか免れるためである。「里人」は鈴が落ちても気を取られることなく捕まえに来て、軽太子は捕まってしまった。いま、鷹狩一行が狩りに来ている。ひどく泣いたら居場所が知られて捕まること必定である。「甚鳴かば人知りぬべし」と仮定条件に述べているのは、軽大郎女よ、声をあげずにいておくれ、という伝言なのである。
近親相姦は社会的禁忌であった。それを冒せば犯罪である。犯罪者に対して、社会は二通りの対処法をとる。一つは罪を咎め犯罪者を糾弾することである。これはまだ、相手を「人」として認めている。もう一つはそもそも社会に「人」として存在していなかったことにすることである。考えても仕方のない、更生の余地のない相手である(注14)。記紀では、そのような相手にしがたい相手は、「神やらひにやらふ」者として語られる(注15)。
古事記の軽太子と軽大郎女の話には、はじめから同母兄弟の近親相姦が開示されている。強くタブー視されていた事柄で、話全体が軽太子という存在を抹消するための次第なのであった。くり返しになるが、それを悲恋だと同情することや、皇位継承問題での敗者の文学などと評価するには及ばない。事件は、大祓をしたくなるような、社会が無視すべき出来事であった。麻薬のような「恋」とでもいえばよいのであろうか(注16)。
大前小前宿禰は記81番歌謡を歌うとともに穴穂皇子に諭している。「若及レ兵者、必人、咲。」と言っている。第一に相手は軽太子一人であること、第二に軽太子はカルガモに譬えられるほど鷹狩の獲物として不足であること、第三に「神やらひにやらふ」べき存在だからである。もはや「人」ではない相手をまともに相手してはならない。当初から誰も相手にしなくなっていたことは明記されている。「百官及天下人等、背二軽太子一而、帰二穴穂皇子一。」である。これを皇位継承争いばかりのことに矮小化することはできない。群臣や百官が背いて穴穂皇子についたというのならまだしも、民主主義でもないのに天の下の人等、つまり、世間一般の人まで離反するのにはそれなりの、ここでは道徳的な違背があったからと認められよう。目には目を、歯には歯を、「背く」には「背く」をが世論の対応である。
あまだむ 軽嬢子 下谷も 寄り寝て通れ 軽嬢子ども(記83)
(あまだむ)軽乙女よ、下の谷の安全と思われるところでも、寄り集まって横になるように伏して通過しなさい、カルガモの子どもたちよ。
この歌によくわからないとされていた点は、「したたにも」という言葉と、「軽嬢子」と助詞の「の」を省いた表現になっていること、「軽嬢子ども」と複数形になっているところである。「したたにも」については、「したたに」は「下々に」の約で忍び忍びに、の意とする説(賀茂真淵・古事記和歌略注、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1118607/75)のほか、「した堅く」や「したたか」の類語でしっかりと、たしかに、の意とする説(橘守部・稜威言別、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872839/37)がある(注17)。この言葉は孤例だから確かめようはないのであるが、昨今は、「寄り寝て通れ」を、ここに立ち寄って寝て、あるいは、私と寄り添って寝て、などの意と解して「したたにも」の意を確定させようとしている。
カルガモの親子(「まぁ~のどうぐばこ」様https://maamarimari.com/kamo/)
「軽嬢子」は軽いのだから天を廻るようにアマダムと枕詞が冠されていると考えられる。次の記84番歌謡に、「あまとぶ 鳥の使そ」とあるところは、天高く飛ぶ鳥を想定した枕詞、ないしは形容なのであろう。すなわち、記83番歌謡は、カルガモの様子を見ながらのもの言いと考えられる。鷹狩に襲われないようにするには、隠れて見えないように思える「下」の「谷」筋でさえも、「寄り寝て通れ」と命令忠告している。一羽では動きが読まれてきっと捕まってしまうから、寄り集まって地に伏して匍匐前進するように通過しなさい、と言っているのではないか。だからもはや「軽の嬢子」と人の名を呼ぶのではなく、「軽嬢子」と「の」が省かれ、また、「軽嬢子ども」と複数形で呼びかけている(注18)。猛禽に対して動きを攪乱させるために採る生き残り戦略である。
以上のように見てくれば、記82・83番歌謡がどのように歌われたか、その状況が見えてくる。「人知りぬべし」は二人の関係を秘匿しようというのではなく、まだ捕まっていない軽大郎女に追手から逃れる術を訴えるもので、どこかにいる彼女に向けて大きな声で歌われたものであったと想定される(注19)。
(注)
(注1)歌謡物語、ウタモノガタリという呼称で概念化されて論じられることがある。記紀の地の文と歌謡とが渾然一体となっている話について検討されている。ウタ(歌)、モノガタリ(物語)とは何かが深度をもって語られているとは言えない。物語(story)─歴史(hi-story)という関係を時間を追った構造化と捉えるなら、記紀の説話は羅列されているだけで構造化は起こっていない。その性質を文体によるものとし、散文が出来事を線条的、継起的、箇条書き的に構成し、歌が物語の当事者の実感を表して場面をつくる役割を果たしていると捉える傾きがあるが誤りである。地の文、歌謡はどちらも、声の文化に属する話(咄・噺・譚)にすぎない。話の落ちを表明するのに散文(ナレーション)がするのが適当か、歌(アテレコ)がするのが適当か、使い分けているばかりである。稗田阿礼の語り口(narrative)を表記したものが古事記である。歴史でないばかりでなく、文字に書かれた物語でもないのだから、構造化とはおよそ無縁である。古事記という話の寄せ集めに“構造”を問うのはおよそナンセンスである。
(注2)そもそも口頭で伝承された話、つまりは伝言ゲームのような言語ゲームにおいて、込み入った状況を設定することなど不可能である。ふだんづかいの言葉の実情を顧みず、“古事記学”なるものを打ち立てたがって議論されている。根の深い問題である。
(注3)身崎1994.は、古事記における「是以」全39例、「その大部分は直接にすぐまえの部分をうけてそれを原因・理由としてあとにつづける用法、つまり「これによって」「このために」というふうに解せるものだ。」(186頁)、例外的な例を含めても、「『古事記』の「是以」はそのうける範囲の大小はあっても先行部分の叙述をうけてつぎの叙述にかかわらせることばだとみてあやまらないだろう。当面の例に即していえば、軽太子の近親相姦の顚末をかたってきたところで、その内容全体をうけて「是以」という、とみるべきなのだ。」(187~188頁)としている。例外的な曖昧例とされるのは次の3例である。
故、其所レ謂黄泉比良坂者、今、謂二出雲国之伊賦夜坂一也。是以、伊耶那伎大神詔、吾者、到二於伊那志許米 志許米岐 以音。 穢国一而在祁理。以音。 故、吾者、為二御身之禊一而、到二-坐竺紫日向之橘小門之阿波岐 以音。 原一而、禊祓也。(記上)
爾、思レ怪、以二御刀之前一刺割而見者、在二都牟刈之大刀一。故、取二此大刀一、思二異物一而、白三-上於二天照大御神一也。是者草那芸之大刀也。以音。 故、是以、其速須佐之男命、宮可二造作一之地求二出雲国一。(記上)
故、大毘古命者、随二先命一而、罷二-行高志国一。爾、自二東方一所レ遣建沼河別与其父大毘古、共往二遇于相津一。故、其地謂二相津一也。是以、各和二-平所レ遣之国政一而、覆奏。(崇神記)
神野志2007.は、次のように再反論している。「「是以」(ここをもちて)は、因果関係で前後をつなぐとはかぎらないものです。たとえば、
是者草那芸之大刀也。以音。 故是以、其速須佐之男命、宮可造作之地求出雲国。
というのは、ヤマタノオロチを退治したスサノオが宮をつくることになる件です。オロチを退治して得た剣を「草なぎの大刀」だと確かめ、「故是以」として宮を作ったと続きます。「故是以」は、因果関係をふくまず、ここで区切りをつけるという以上ではありません。」(151~152頁)
筆者は、よりによって「故」までついている箇所を反証のために用いていることに驚かされる。時代別国語大辞典に、「かれ[故・爾](接)①故に。上の文や句を原因理由として受けて、下に接続する。カは指示副詞、レはアレで、バを添えずに已然形で言い放つ形である。……②すなわち。そこで。ここに。ことばを起こすときに用いる。」(234頁)とある。②の用例は、古事記の「爾」字のものばかりである。筆者は、②の「爾」はシカクシテ、ココニなどと訓むものと考える。「故」字を用いる①がカレという語そのものである。
ヲロチを退治して得た剣を「草なぎの大刀」だと確かめ、だから、それをもって、宮を作るべき地を他のどこかではなく出雲国に求めた、と記されている。この因果関係は、大刀が草を薙ぎ倒すものとしての名を確かめたからイヅモがいいよね、ということになったということである。一般に、草刈りには鎌を使う。大刀などは使わない。ヤマトタケルはそれしか持ち合わせておらず、使ってみると「草なぎの大刀」は草を薙ぎ倒すのに都合がよかった。草刈りができるなら、藻刈りもできるに違いない。ならば、藻が至るところにイヅモ(出藻)してイツモ(厳藻)状態になっていると目される出雲国に移住しようと言っている。「草なぎの大刀」を所持していて家財として持ち込めば、出雲国に住めば都だからそこに宮を造ろうという発想である。取り放題だし枯渇することもない。そういう地名である。宮のあるところを都(ミヤ(宮)+コ(処))という。話(噺・咄・譚)は言葉でできている。ヤマトコトバにおいて因果関係は明瞭である。区切りをつけるだけ、内容全体をうけるだけ、と主張して恥ずかしくない人は、お粗末にも洒落の通じない人である。
ついでに、「是以」の残り2例について触れておく。
黄泉ひら坂は今の出雲国のイフヤ坂というところである。「是以」イザナキは口走っている。「吾は、いなしこめ⤴、しこめき穢き国に到りて在りけり。」汚らわしいものを見てきて心に起こった興奮、動揺を隠せず、言葉が乱れている。「伊那志許米 」と声注がついている。声が裏返っている。うまく喋れていない。前文にイフヤ坂とあって、言ふや言はずやわからぬ状態を示している。言語の障害を表す。斉明紀四年五月条に、啞者であった皇孫の建王が夭逝した記事があり、天皇がそのとき3首「作歌」し、さらに紀温湯行幸の十月条にもさらに3首「口号」している。五年是歳条に、出雲国の神宮を修厳させようとした時、「狗、死人の手臂を言屋社に噛ひ置けり。言屋、此には伊浮瑘と云ふ。天子の崩りまさむ兆なり。」という記事が見える。垂仁天皇の皇子、本牟智和気御子は出雲大神の祟りで言語に障害があったが、出雲へ派遣して参拝することで喋れるようになっている話があり、オーバーラップしている。「言ふ」ことができなくなること、「口号」できなくなることを暗示するため、紀の編纂者は記しているものと思われる。すなわち、この個所の「是以」は前を全体的に受けるばかりか、端的にイフヤという言葉の深意を受けている。
大毘古命と建沼河別とは相津に遇っている。アフという語は、遭遇するという意だけでなく、闘うという意がある。どちらも一つの地点に会することである。
楽浪の 志賀の大わだ 淀むとも 昔の人に またも逢はめやも(万30)
香具山と 耳成山と 闘ひし時 立ちて見に来し 印南国原(万14)
大毘古命と建沼河別とは父子の関係であり、ともに崇神天皇の同じ命を受けて別の行路で派遣されている。両者がアフことになったとき、それは闘うことでも逢うことでもあると解される。実際には味方同士だから戦闘にはならず、アフと同時に和平を結ぶこととなっている。どちらから見ても戦わずして勝っている。だから、「各遣さえし国の政を和平げて、覆奏しき。」に決着している。復命において、両者は口々にまったく同じことを言うのである。それをカヘリコトと呼ぶことは、循環論に陥っていて語義の上ではまことに当を得ている。「是以」は前を全体的に受けるばかりか、端的にアフという言葉の重層性を受けている。
話は話されて流れていく。「是以」とわざわざ言っている。頓智がわかるかな?(You know what?)と話の合間に挿入して、一方的に話しているにもかかわらず話されている場において双方向のコミュニケーションとなっている。川田2001.は、「一般に音のコミュニケーション……[は]、言述においても韻律的特徴など、概念化された意味よりは情動的な伝達力を強くもち、伝達行為の状況依存性が大きく、現前する受信者を「巻き込む」ような形で伝達が行なわれることが多い」(230頁)と指摘する。古事記のテキストは、音のコミュニケーションの場の「巻き込む」形がそのまま残されているわけである。「是以」は聞く人の興味を引きつつ話を続けていくには効果的な文句であり、口承の言語ならではの論理性が顕れている。落語を聞くのに真面目な顔をしてテキスト“ブック”ばかりのぞき込み、理屈を捏ね回しても仕方があるまい。
(注4)大浦2013.は、「記82について、従来の論においては、すでに密通が露見している文脈において「いた泣かば 人知りぬべし」と歌うことの矛盾が取り上げられて来たが、そもそも捕縛され、引き渡された時に「歌曰」ということ自体に問題性が孕まれているのではないか。それは記83についても同様である。小声で歌った、あるいは一人の時に歌ったなどと合理化するのは無意味であろう。」(68頁)と常識的な見解を示している。ただし、「記82・83の歌謡は、物語の中に響きわたりながらも、所伝の語る継起的な事柄の進行とは別次元に置かれているのだと見なければなるまい。」と、「古事記歌謡物語」は「素材の異なる所伝と歌謡によって織りなされたテキストであ」(73頁)ることにされてしまっている。
(注5)拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」参照。
(注6)拙稿「記紀の穴穂御子と大前小前宿禰の歌問答について」参照。
(注7)この部分の「人」を思う人、軽大郎女のこととする説が新編全集本古事記に見られる。「十分に共寝ができたら後は別れるようなことにもなってもよいと、会ってなお飽かぬ思いを述べる。」(320頁)とある。古典文学全集本、佐佐木2010.、馬場2020.もこの説を推している。説明としては、神野志1985.に、「人は離ゆとも」「乱れば乱れ」について、「太子配流につながるところまで含意するというのは、歌の解釈としては足ののばしすぎというべきだろう。」(11頁)という印象論が述べられている。軽太子が軽大郎女と会えなくなってもかまわないという意とする。だが、そう歌いたいのなら、「妹(いも)は離(か)ゆとも」「別れば別れ」となぜしないのだろうか。記78番歌謡に「妹」とも「妻」ともある。相手の軽大郎女は、sister でありかつ lover でもある。「妹」という言葉は絶妙な語ではないか。また、馬場2020.は、「「人」を第三者とする理解は、相聞歌としてこの歌の表現を見る限り成り立たないだろう。」(55頁)とするが、記79番歌謡は問答歌ではなく、「志良宜歌」につづけられた「夷振の上歌」である。
一方、井ノ口2008.は、古事記の歌謡における「人〔比登〕」の用例は、允恭記の2例以外に6首7例あり、そのいずれも「「人間・人」、「他人」、もしくは形式名詞としての「ある人」を指し示している。」(125頁)点を指摘し、また、「自らの欲望を遂げるためには、「人は離ゆ」という事態さえも辞さなかった軽と、「人咲はむ」という諫言を受け入れ、他者の裁定を重んじた穴穂という二皇子の差異は明白である。」(同頁) と本質的な読みをしている。
(注8)馬場2020.は「乱る」について、男女の関係が途切れることを言うとし、次の万葉歌を例に挙げている。
み吉野の 水隈が菅を 編まなくに 刈りのみ刈りて 乱りてむとや(万2837)
群生しているスゲを菅笠に編むわけでもなく刈るだけ刈って放置、散乱していることを、異性に心をもてあそばれていることの譬喩に使っている。千々に乱れているのは我が心であって二人の関係ではない。
(注9)「人」「知る」「べし」を伴い、多く恋の露呈を意味する句となる。「人知りぬべし」(2387)、「母知りぬべし」・「父知りぬべし」(万3312)、「人知りぬべみ」(万207・1383・1787・3276)、「人の知るべく」(万1370・2604・2791・3021・3023・3133・3935)、「人の知るべき」(万1297)といった例がある。
(注10)仲哀記に、「爾くして驚き懼ぢて、殯宮に坐せて、更に国の大ぬさを取りて、種々に生剥・逆剥・あ離・溝埋・屎戸・上通下通婚・馬婚・牛婚・鶏婚の罪の類を求めて、国の大祓を為て、亦、建内宿禰、さ庭に居て、神の命を請ひき。」とある。
(注11)記紀の説話には、このように逐語逐時的に言い放つ語り口が見られる。発した言葉がそのまま論理学的に言いくるめてしまうやり方である。彼らは、言葉に発したその言葉をその時、その場で再定義を施して正当性を獲得する術を心得ていた。厳密な学としてヤマトコトバはあったのである。なぜなら、言葉は音声でしかなく、それが確かなものなのかの担保要件を空間的にも時間的にも持たなかったからである。
(注12)本居宣長・古事記伝に、「斯多那岐爾那久は、下泣に泣なり、但し此ノ結は必ス那気はあるべきことなり、【那久にては上に、倍志とあると、語のかけあひ調はず、】……若シ書紀の如く、倍美ならば、那久と結めて調ふなり、其時は、人の知るべきに依て下に泣クと云意なり、然れども此レは、那気とあるべき御哥なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821/405、漢字の旧字体は改めた)と述べている。
(注13)係助詞を伴わずに連体形で結ぶ例としては次のような例があげられる。
あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る(万20)
吾が背子を 大和へ遣ると さ夜更けて 暁露に 吾が立ち濡れし(万105)
かくのみに ありける君を 衣にあらば 下にも着むと 吾が思へりける(万2964)
葦原の 穢しき小屋に 菅畳 いや清敷きて 我が二人寝し(記19)
(注14)今日でも、責任能力を欠いた状態にあったと解されることや、悪い心を持った人ではなくて心というものをそもそも持たない者として語られることがある。それが全体主義の社会にどのように顕現するかについてはハンナ・アーレントらの諸論に詳しい。古代からそのような“人物像”をきちんと把握していたことは、歴史心理学(?)的に興味深い。
(注15)スサノヲの扱いに明瞭である。
(注16)現代的な思潮、LGBTQ+といったことは古事記に問題とされない。
(注17)折口1966.156頁には、シタシ(親し)の語幹の重なりの可能性もあるとしている。
(注18)石田2009.に、「相姦は露見していないという文脈把握に立てば、第三者に二人の関係を知られぬようキナシノカルがカルノオホイラツメに呼びかけた表現として矛盾なく解せる。つまり、軽地域の若い女性一般に呼びかける体で[複数形で「軽嬢子ども」と]うたいながら、そのじつカルノオホイラツメに向けたメッセージであることが当事者間にのみ了解される歌として定位されているとみなせるのである。」(19頁)とするが、なかなかに考えにくい設定である。周りにいて歌声を聞く人はそれほど魯鈍なのであろうか。稗田阿礼の話を聞く段階でも周りの人は鈍感だなあと思いながら聞くのであろうか。
(注19)山口2010.は、使者を軽大郎女のもとへ送り、軽大郎女のみに知られるような形で太子が送ったものとしている。この説はあり得ない。太子は捕まってから歌っているので、秘密裏に使者を遣わすことなどできない。残された軽大郎女へ向け、最後の悪あがきのように歌っている。
(引用・参考文献)
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