允恭天皇のあと、軽太子と穴穂皇子との間で後継争いが生じている。記紀の話では、軽太子は同母の兄妹相姦などから人心が離れたため、穴穂皇子と戦おうと大前宿禰の屋敷に隠れて武器を製作して準備していたとある。穴穂皇子は屋敷を包囲し、大前宿禰との間で歌問答が行われている。
是を以て、百官と天の下の人等、軽太子を背きて、穴穂御子に帰りき。爾くして、軽太子、畏みて、大前小前宿禰大臣が家に逃げ入りて、兵器を備へ作りき。爾の時に作れる矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ。穴穂王子も、亦、兵器を作りき。此の王子の作れる矢は、即ち今時の矢ぞ。是は、穴穂箭と謂ふ。是に、穴穂御子、軍を興して、大前小前宿禰が家を囲みき。爾くして、其の門に到りし時に、大氷雨零りき。故、歌ひて曰はく、
大前 小前宿禰が 金門蔭 斯く寄り来ね 雨立ち止めむ(記80)
爾くして、 其の大前小前宿禰、 手を挙げ膝を打ちて、儛ひかなで、 歌ひて参ゐ来つ。其の歌に曰はく、
宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ(記81)
此の歌は、宮人振ぞ。 如此歌ひて、参ゐ帰りて、白ししく、「我が天皇の御子、いろ兄の王に兵を及ること無かれ。若し兵を及らば、必ず人、咲はむ。 僕、捕へて貢進らむ」とまをしき。爾くして、兵を解きて、退き坐しき。故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、率て参ゐ出でて、貢進りき。(允恭記)
是の時に、太子、行暴虐行て、婦女に淫けたまふ。国人謗りまつる。群臣従へまつらず。悉に穴穂皇子に隸きぬ。爰に太子、穴穂皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。穴穂皇子、復兵を興して戦かはむとす。故、穴穂括箭、軽括箭、始めて此の時に起れり。時に太子、群臣従へまつらず、百姓乖き違へることを知りて、乃ち出でて、物部大前宿禰の家に匿れたまふ。穴穂皇子、聞しめして則ち囲む。大前宿禰、門に出でて迎へたてまつる。穴穂皇子、歌して曰はく、
大前 小前宿禰が 金門蔭 斯く立ち寄らね 雨立ち止めむ(紀72)
大前宿禰、答歌して曰さく、
宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ(紀73)
乃ち皇子に啓して曰さく、「願はくは、太子をな害したまひそ。臣、議らむ」とまをす。是に由りて、太子、自ら大前宿禰の家に死せましぬ。一に云はく、伊予国に流しまつるといふ。(安康即位前紀)
この歌問答の真意についてはよくわかっていない。歌の問答前後の状況説明は古事記の方が詳しい。流れをつかむのに状況説明はあった方がわかりやすく、とはいえ、なかったからと言って意味が変わってくるというものでもないであろう。記では、大氷雨が降ってきたので雨宿りに大前小前宿禰(注1)の金門の蔭に入って止むのを待とうと呼びかけ、それを聞きつけた大前小前宿禰が舞いながら現れ、宮人が小鈴を落として大騒ぎするような真似はするなという歌を返している。
紀では、誰と誰の問答なのか簡潔に記されている。穴穂皇子が歌いかけ、大前宿禰が答えている。したがって、「宮人の ……」歌は、大前(小前)宿禰が穴穂皇子に対してゆめゆめ宮人のようなことにならないようにと諭す歌と考えられる。諭しの歌とすると、宮に仕える人が動きやすいように袴を縛る足結をし、そこに小さな鈴をつけていたらその鈴が落ちてしまい、宮に仕える人は騒ぎ立てている、そのようなお粗末なことにならないように、里人であるあなたはお気をつけなさい、という意味であろう。そう考えると、宮人に当たるのは軽太子、里人に当たるのは穴穂皇子ということになる。軽太子は宮育ちで世間知らずである。
足結の小鈴(埴輪 盛装の男子、古墳時代・6世紀、群馬県藤岡市白石字滝出土、東京国立博物館蔵、国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-23089?locale=ja)
足結は袴をかかげて膝の下で紐で結ぶことを言い、労働、武装、旅行などに際して動きやすくするためである。舞いの時には鈴をつけて華やかにしていたようで、埴輪にもその姿が写されている。軽太子は宮を出て大前小前宿禰の屋敷に逃げ込んだ。それが人に知られてしまったのは、足結の小鈴を落したためではなく、落したことを騒ぎ立てて探しに出た者がいたからではなかろうか。足結に鈴をつける必要はないけれど、宮中で暮らしていて足結を目にするのは舞いの時しかなかったから、移動の際には足結はつけるものだという固定概念に縛られていたようである。さらに間抜けなことに、静かにしていればいいところ、落したことに囚われて騒ぎ立てて探したからどこに隠れたか知られるところとなった。本末転倒をしてはならないという諭しとして里人に語っている。サトすためにサトびとに歌っているのであろう。
記で、「其大前小前宿禰、挙レ手打レ膝、儛訶那伝、歌参来。」とある。歌を歌うときに膝を打つのは、皇太神宮儀式帳に、「其[なほらひ]の歌は、「さこくしろ 五十鈴の宮に 御食立てて うつなる膝は 宮もとどろに〔佐古久志侶。伊須々乃宮仁。御気立止。字都奈留比佐婆。宮毛止女侶爾〕」」と見え、足結を鳴らしてタンバリンの役目を果たしたのであろう(注2)。大前小前宿禰も足結をして鈴をつけていたという状況を示すものと思われる。
穴穂皇子の歌を承けて歌っている。オホマヘヲマヘと聞いたから、マヘ(舞)と命令されているとして舞っている。マヘのヘは前、舞ともに甲類である。カナデているのも、カナトに即応したものである。古語のカナヅ(奏)は、腕(かいな)を伸ばして振る舞う所作を表す。「挙レ手打レ膝」が腕を使うことをよく示している(注3)。
カナトカゲのカナトは、一般に金門のこと、金属製の門のことではないかとされている(注4)が疑問も呈されている。時代別国語大辞典に、「金属で扉や柱を堅め飾るためにカナ戸というといわれる。トが門の意であることは、水ナ門、島門など例が多いが、カナについてはなお考慮の余地があろう。」(203頁)とある。他の例に次のようなものがある。
常世にと 吾が行かなくに 小金門に〔小金門尓〕 もの悲しらに 思へりし ……(万723)
金門にし〔金門尓之〕 人の来立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてそ逢ひける(万1739)
泊瀬川 夕渡り来て 我妹子が 家の門に〔家門〕 近づきにけり(万1775、人麻呂歌集歌)
さを鹿の 伏すや草むら 見えずとも 児ろが金門よ〔兒呂我可奈門欲〕 行かくし良しも(万3530)
金門田を〔可奈刀田乎〕 荒掻きま斎み 日が照れば 雨を待とのす 君をと待とも(万3561)
防人に 立ちし朝明の 金門出に〔可奈刀〓(イ偏に弖)尓〕 手放れ惜しみ 泣きし児らはも(万3569)
東歌に用いられている例まである。大前小前宿禰の屋敷の門に金属が施されていておかしくはないが、それ以外の例まで金属を施した門であるとは考えにくい。金銭的事情ばかりか、歌のなかでゴージャスさを強調する理由が見出せない。
大伴宿禰家持の娘子の門に到りて作る歌一首
妹が家の 門田を見むと うち出来し 情もしるく 照る月夜かも(万1596)
このカドタと万3561番歌のカナトダに、意を異にするとは思われない。カナトが約されてカドとなっているとも考えられている。したがって、カナトという語は別の所以があると思われる。 水ナ門の例から推せば、楫ナ門、すなわち、船の楫(檝、舵)の櫓を動かすのに、櫓臍に嵌める形で操作することに戸の仕組みを譬えたものではないか。
左:櫓臍(櫓杭)と入子のついた櫓(外した状態。歌舞伎座ギャラリー展示品)、右:枢戸(金沢文庫称名寺)
戸ぼそに戸まらを嵌めてくるくると回るようになっているのが開き戸である。万3569番歌で集落を守る門は、夜になったら閂で鎖す門であっただろう。回転扉を開け閉めすることは、扉が寄せては返すように見える。記80・紀72で「斯く寄り来ね」とあるのは、人に対して寄っておいでという以前に、カナト自体が「寄り来」るものだから「斯く」と言って正しいと言えるのであろう。
記では「斯く寄り来ね 雨立ち止めむ」として「大氷雨」から逃れる雨宿りとし、紀では「斯く立ち寄らね 雨立ち止めむ」としているが雨降りの描写はない。伝承の過程によって異なっていると考えられるものの、雨宿りのため「かな門」に屋根がついていたからであるとする説はいただけない。当時の人たちの共通認識として、他の「かな戸」の例から屋根付き、ないしは楼門のようなものと考えることはできない。開き戸であるとするなら、そればかりが何かから防ぐための作用を果しているとすべきである。このような、開き戸が何かから防ぐための戸として機能している例は、記紀の伝承によく知られている。アマテラスが天の石屋に隠れた時のことである。開き戸を鎖してなかに籠り、世界は真っ暗になってしまっている(注5)。日(ひ、ヒは甲類)が遮られている。いま、記に氷(ひ、ヒは甲類)から免れるために開き戸が使われている。この点からも、「かな戸」は開き戸を指すとわかる(注6)。
「斯く寄り来ね」の「ね」は相手への願望を表す助詞である。その相手については見解が分かれており、今日まで、穴穂皇子が軍勢を率いていてその軍に呼びかけているとする説が有力である。しかし、歌問答は穴穂皇子と大前宿禰との間に行われている。すぐに答歌が歌われていることからも、呼びかけは大前宿禰に対するもので、このように寄っておいでよ、と言っているものと思われる(注7)。つづく「雨立ち止めむ」までを、「汝御方ニ参ラハ門ノ陰ニ雨ヲ止ル如ク世ノ乱ヲ治メムト喩ヘテヨマセタマフナルヘシ」(契沖・厚顔抄、国文学研究資料館新日本古典文学総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001746/viewer/123、漢字の旧字体は改めた)、「たゞ御方の軍士に門まで進みよりて攻よと云ことを、雨やどりせむと云に託て詔へるのみなり」(本居宣長・古事記伝、同https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001755/viewer/2853)、「吾が如く、軍士等も立よりて、雨を止メよとなり、さて御方の為には、かく何事なくうたハして、宿祢には、此ノ彳み居る間に、さるへく計ラへとの、みさとし也、」(橘守部・稜威言別、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872839/32)と解することは困難である。
また、「大氷雨」の説明のない紀では、「雨立ち止めむ」は、「天断ち止めむ」の意で、天上世界の断絶をやめようよ、の意に解釈できる。タヂカラノヲを戸のそばに立たせて石屋の戸を開けてアマテラスを引き出して世界を元通りにしている。それと同じようにしようと、「かな戸」で大仰に歌っているものと位置づけられる。
対して、大前小前宿禰は、「儛訶那伝、歌参来。」ている。屋敷の中から彼は出てきたのだろうから、戸は開いていて互いに相手のことが見えていた。アマテラスの石屋籠りなどに準えられては困るわけである。大それたこととは認められない。大ごとにすることではないと言おうとしている。
大前小前宿禰は、「我天皇之御子、於二伊呂兄王一無レ及レ兵。」(記)と言っている。戦をするなということであるが、それを承けて穴穂皇子はただ侵攻しないでいたということでもない。忠告を聞いて、「爾、解レ兵、退坐。」と武装解除している。ここでの武装は、前段に「軽箭」や「穴穂箭」のことが詳述されているから、もっぱら弓具のことを指していると考えられる。。「軽箭」は銅を入れているから弩級でもなければ遠くへは飛ばない。「穴穂箭」は実践的ではあるが、弓矢の利用で気をつけたいのは、いったん発射して当たり損ねると直ちにその矢は敵方の武器となる点である。「反矢畏むべし」(神代紀第九段本文)、「反矢畏るべし」(同一書第一)と戒めの言葉に残されているとおりである。「足結」をして「小鈴」を落して大騒ぎするようなことと同じではないかということである。初めから「足結」などしなければいいように、弓から弦を外しておけばいい。
大前小前宿禰という人物が歌っている。「大前」とは神や天皇の前を尊び、それ自身を指すこともある。
…… 鹿猪伏すと 誰かこの事 大前に奏す 一本、大前に奏す、といふを以て、大君に奏す、といふに易へたり ……(紀75)(注8)
辞別きて伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく、……(延喜式・祝詞・祈念祭)
また、「小前」という音、コマヘ(コ・ヘは甲類)は、コマ(駒)+ヘ(方)の意と聞き取ることができる。つまり、大前小前とは、神駒の方向という意味である。ヘ(方向)という語はまた、モとも言った。オモ(面)の頭音の略である。そしてまた、モには藻の意がある。つまり、大前小前という言い方は、神馬藻のことを伝えている。和名抄に、「莫鳴菜 本朝式に莫鳴菜〈奈々利曽〉と云ふ。楊氏漢語抄に神馬藻〈奈能利曽、今案ふるに本文は未だ詳らかならず。但し神馬は莫騎りその義なり〉と云ふ。」とある。海藻のホンダワラのことである。けっして名のるな、の意と掛けて歌に詠まれることが多くあった。
大前小前宿禰の役割は、けっして無駄口を言うな、足結の小鈴が落ちたなどと騒ぎ立てるな、相手に悟られるような言動は慎め、能ある鷹は爪を隠すのがよい、と述べることであったようである。自分が穴穂皇子だと名のれば、それはすぐに穴穂矢のことを連想させ、武装していると知られるから静かにしておきなさいということである。そのために、「今時之矢者也。」のことをわざわざ「是謂二穴穂箭一也。」と注しているのであろう。
穴穂皇子という名は鷹のことを指し、軽太子はカルガモのことを指すと対比されていたものと思われる(注9)。
酒君、則ち韋の緡を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。(仁徳紀四十三年九月)
…… 大夫の 友誘ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て ……(万4011)
鈴喫岡 鈴喫と号くる所以は、品太の天皇の世、此の岡に田したまひしに、鷹の鈴堕落ちて、求むれども得ざりき。故、鈴喫岡と号く。(播磨風土記・揖保郡)
鷹の鈴(鷹匠埴輪、古墳時代後期・6世紀末、「オクマン山古墳」太田市教育委員会文化財課、平成24年3月。https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/okuman.pdf)
鈴は尾羽につけることが行われていた(注10)。草むらや藪に入ると所在がわからなくなるからである。ただ、羽が抜けると落ちる。その際、鈴の行方を探すことはせず、鷹の行方を探ることに専念する。鈴ごときで大騒ぎしないようにというのが大前小前宿禰の諭しである。獲物が逃げて行ってしまう。すなわち、それは名のりをあげているのと同じことである。大前小前という名の「なのりそ(神馬藻)」が示唆する、けっして名のるな、とは、声をひそめ、気配を消しておいて急襲するのが狩りを成功させる秘訣ですよという諭しであった。
鷹狩で鷹を使って狩りをする対象としては、キジ、ヤマドリ、カモ、ガン、ツル、ウサギ、また、コジカなどである。主に食肉を目的とする。軽太子のことをあだ名と聞き、カルガモのことと考えた。カルガモは、あまりおいしいものではなく、わざわざ好んで狩りの対象に加えることはない。もし鷹狩でカルガモを捕まえて喜んでいたら、「必人笑。」ことになるだろうというのである。
そして、大前宿禰は、「僕、捕以貢進。」(記)、「臣将議。」(紀)と穴穂皇子に言い、軽太子と交渉に及んでいる。結果、軽太子は捕まったり自刃したりしている。大前小前がナノリソ(神馬藻)という海藻の役を担うのであれば、それを前にした軽太子は、カルという名を負っているのだから必然的に刈ることになる。名のるな、と命じてきているのに、とっさに行動に刈ってしまっていて、それはつまり、軽太子は名のっていることであり、論理学的語学“じゃんけん”は大前小前宿禰の勝利するところとなるものである。だから、「故、大前小前宿禰、捕二其軽太子一、率参出以貢進。」(記)、「由レ是、太子自死二于大前宿禰之家一。一云、流二伊予国一。」(紀)という結果に終わっている。
言葉は事柄と同じコトであった。言葉が表しているとおり事態が推移しているのは、事態の推移を言葉で表すために、それが最もうまく言い当てていてすべての人に了解されて伝えられるのに適しているからである。無文字時代の上代語、ヤマトコトバは、ひとつひとつの言葉や言葉の連なりによる表現方法ばかりでなく、体系としての言葉のあり方が、言葉=事柄となるように指向する傾きにあったのである。「説話の発想と語の命名の心理とが完全に平行していると目される」(佐竹2000.73頁)ことが生じている。「言葉の側から説話発想の心理の分析に参与して行く途は、今後に期待されて然るべき」(同頁)ことについて、筆者は述べつづけている。
(注)
(注1)大前小前宿禰という名について、大前宿禰と小前宿禰の兄弟2人いたのを混同したもの、大前宿禰と小前宿禰が同居していたとする考えが本居宣長・古事記伝にある。旧事本紀に記載があるとする。事実がどうであるかを問題とすることには意味がない。この逸話で登場しているのは大前宿禰1人である。思想大系本古事記は、「恐らく、……歌謡八〇の原型から、詞書的に抽出されてきた人名であろう。……「小前」は語調の関係で「大前」に連なって出てきた語。」(458頁)としている。筆者は、それに加え、衆人に伝えられるべく声をする歌謡においては、「大前小前宿禰」という語呂が、聞く人に新たな意味をもたらせるためであったと考える。
(注2)万3807番歌の左注に、風流な采女がいて「王の膝を撃ちて、此の歌を詠みき。」とあって一例とされることもある。
(注3)本居宣長・古事記伝に、「今大前宿禰の如此為る由ハ、穴穂皇子の囲攻賜ふに防禦ふ意なく、又驚怖るゝことなく心ハ安く楽めることを示せるなるべし、」(国文学研究資料館・新日本古典文学データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001755/viewer/2855、漢字の旧字体は改めた)、橘守部・稜威言別に、「穴穂ノ御子の、穏ひしくものして、孰にも咎をさせじと、雨にかこつけて、彳み給ふ御心づかひを、甚く歓喜るありさま也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872839/32、漢字の旧字体は改めた)、新編全集本古事記に、「穴穂皇子が、大前小前宿禰が事態を収拾するのを待つ意向を示したのに対して、喜んでみせる所作。」(321頁)といったことではなく、武田1956.に、「儛と歌とを叙し、次の歌が、舞曲また歌曲であることを示している。」(174頁)、相磯1962.に、「当時の演舞の実状その儘の記録であり、巫女の舞い奏でる時の様子を物語る描写に相違ない。」(240頁)、土橋1972.に、「演劇的所作に基づく文章表現かと思われる。」(299頁)、山路1973.に、「当時の舞の手ぶりの実際を具体的にのべたものである」(189頁)、鈴木1999.に、「あたかも宮廷内の儀礼としての、所作であり歌であり言葉であるかのようである。」(78頁)といったことでもない。歌いかけられた歌の言葉をきちんと聞いていて答える歌を歌うために、言葉尻をとらえたものである。 記紀の説話は口頭言語で言い伝えられている。允恭・安康天皇代の記録として、どのような感情を抱いているか、どのような舞い方がされていたかなど、話を聞く人にとって第一義的な関心とはならない。覚える気にならなければ次の人へ伝えられることもない。しかし、伝わっているところからして、感情移入ならぬ(疑似)体験移入が成り立っていたと考えられる。伝達はヤマトコトバによって行われているから、そのヤマトコトバのなかにしか秘訣はない。言葉に体験移入できるから、無文字時代の言葉は力を発揮して伝承世界は形成されている。語呂が合わなければ辻褄が合わず、彼らが想定する“世界”は崩れることになる。
(注4)「小かなとは小門なり。……かとの戸ひら、柱なとのかさりに、金物作りて、つくるものなれは、金門といふなり。しかれは門をかとゝいふは、金戸といふの略語とそ聞えたる。」(契沖・万葉代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979062/508、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注5)天の石屋(石窟)の戸については次のように記されている。そのつくりについては、拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」参照。
故是に、天照大御神、見畏み、天の石屋の戸を開きて、刺しこもり坐しき。……天手力男神、戸の掖に隠り立ちて、……。是に、天照大御神、恠しと以為ひ、天の石屋の戸を細く開きて、内に告らししく、……天照大御神、逾よ奇しと思ひて、稍く戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男命、尻くめ縄を以て其の御後方に控き度して、白して言ひしく、「此より以内に得還り入りまさじ」といひき。(記)
此に由りて、発慍りまして、乃ち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。……亦、手力雄神を以て、磐戸の側に立てて、……。……乃ち御手を以て、細に磐戸開けて◆(穴冠に視)す。時に手力雄神、則ち天照大神の手を奉承りて、引き奉出る。……則ち端出之縄 縄、亦云はく、左縄の端出すといふ。此には斯梨倶梅儺波と云ふ。界す。乃ち請して曰さく、「復な還幸りましそ」とまをす。(神代紀第七段本文)
紀で手力雄神が最後に言い放った言葉は人口に膾炙していたのであろう。「勿レ復還幸」は、「な……そ」の構文を表している。「神馬藻」と同じ形である。
(注6)雨は上から降るから「かな戸」が開き戸であるだけでは防ぐことはできないから誤りであると考えることはおよそナンセンスである。洒落の通じない輩とは縁がない。
(注7)紀歌謡において、大久間・居駒2008.に、「散文との関係から言えば、「雨宿りをしよう」という兵士たちへの呼びかけを物部大前宿祢にも聞かせることで、[軽]皇子側に時間的猶予を与え、自ら折れてくるのを待ったものという文脈理解が成り立つ。」(257頁、この項、大館真晴)とするが、紀72・73番歌は「穴穂皇子歌之曰」、「大前宿禰答歌之曰」として記されている。穴穂皇子が雨宿りをしようと誘っている相手は大前宿禰と考えるのが筋である。新編全集本古事記は「大前小前宿禰への呼びかけ。」(321頁)とし、正しい。
(注8)「大前」を天皇に用いている例は、自尊感情の強い雄略天皇が自称した例に特異なものかとも考えられる。
(注9)拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」、「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」参照。
(注10)新修鷹経の「着レ鈴繋法」項(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535853/25~26)、放鷹の「鷹道具」項(宮内省式部職編『放鷹』吉川弘文館、昭和7年、373頁。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/212)など参照。
(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全注解』有精堂出版、昭和37年。
居駒2019. 居駒永幸「允恭記の歌と散文(I) 表現空間の解読と注釈」『明治大学教養論集』545号、2019年12月。明治大学学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10291/20704
大久間・居駒2008. 大久間喜一郎・居駒永幸編『日本書紀歌全注釈』笠間書院、平成20年。
基峰修「鷹甘の文化史的考察─考古資料の分析を中心として─」『人間社会環境研究』第30号、2015年9月。金沢大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/2297/43394
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第七巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
佐佐木2010a. 佐佐木隆『古事記歌謡簡注』おうふう、平成22年。
佐佐木2010b. 佐佐木隆『日本書紀歌謡簡注』おうふう、平成22年。
佐竹2000. 佐竹昭広『萬葉集抜書』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。(1980年刊。初出は、佐竹昭広「古代の言語における内部言語形式の問題」久松潜一編『古事記大成 第3巻─言語文化篇─』平凡社、1957年。今西祐一郎・出雲路修・大谷雅夫・谷川恵一・上野英二編『佐竹昭広集 第2巻 ─言語の深奥─』(岩波書店、2009年)に所収。)
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
鈴木1999. 鈴木日出男『王の歌─古代歌謡論─』筑摩書房、1999年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
武田1956. 武田祐吉『記紀歌謡全講』明治書院、昭和31年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
土橋1976. 土橋寛『古代歌謡全注釈 日本書紀編』角川書店、昭和51年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。
(English Summary)
In Yamato Kotoba in the non-literal era, the human thinking about the naming of words or the change of meaning took the same route as creating narratives. It was the result of language activities that tried to make words and things as identical as possible. The singing and answering between Prince Anafo and Omafe Komafe Sukune in the Emperor Ingyo and Anko era were also made into a narrative as one of the manifestations. We can only verify individual narratives and songs of Kojiki, Nihon-Shoki and Manyoshu by looking at the actual language usage from the inside, by scrutinizing the words like matching pieces in a jigsaw puzzle, rather than reading them according to the modern framework. Because the ancient Japanese had a different language system from ours.
是を以て、百官と天の下の人等、軽太子を背きて、穴穂御子に帰りき。爾くして、軽太子、畏みて、大前小前宿禰大臣が家に逃げ入りて、兵器を備へ作りき。爾の時に作れる矢は、其の箭の内を銅にせり。故、其の矢を号けて軽箭と謂ふ。穴穂王子も、亦、兵器を作りき。此の王子の作れる矢は、即ち今時の矢ぞ。是は、穴穂箭と謂ふ。是に、穴穂御子、軍を興して、大前小前宿禰が家を囲みき。爾くして、其の門に到りし時に、大氷雨零りき。故、歌ひて曰はく、
大前 小前宿禰が 金門蔭 斯く寄り来ね 雨立ち止めむ(記80)
爾くして、 其の大前小前宿禰、 手を挙げ膝を打ちて、儛ひかなで、 歌ひて参ゐ来つ。其の歌に曰はく、
宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ(記81)
此の歌は、宮人振ぞ。 如此歌ひて、参ゐ帰りて、白ししく、「我が天皇の御子、いろ兄の王に兵を及ること無かれ。若し兵を及らば、必ず人、咲はむ。 僕、捕へて貢進らむ」とまをしき。爾くして、兵を解きて、退き坐しき。故、大前小前宿禰、其の軽太子を捕へて、率て参ゐ出でて、貢進りき。(允恭記)
是の時に、太子、行暴虐行て、婦女に淫けたまふ。国人謗りまつる。群臣従へまつらず。悉に穴穂皇子に隸きぬ。爰に太子、穴穂皇子を襲はむとして、密に兵を設けたまふ。穴穂皇子、復兵を興して戦かはむとす。故、穴穂括箭、軽括箭、始めて此の時に起れり。時に太子、群臣従へまつらず、百姓乖き違へることを知りて、乃ち出でて、物部大前宿禰の家に匿れたまふ。穴穂皇子、聞しめして則ち囲む。大前宿禰、門に出でて迎へたてまつる。穴穂皇子、歌して曰はく、
大前 小前宿禰が 金門蔭 斯く立ち寄らね 雨立ち止めむ(紀72)
大前宿禰、答歌して曰さく、
宮人の 足結の小鈴 落ちにきと 宮人響む 里人もゆめ(紀73)
乃ち皇子に啓して曰さく、「願はくは、太子をな害したまひそ。臣、議らむ」とまをす。是に由りて、太子、自ら大前宿禰の家に死せましぬ。一に云はく、伊予国に流しまつるといふ。(安康即位前紀)
この歌問答の真意についてはよくわかっていない。歌の問答前後の状況説明は古事記の方が詳しい。流れをつかむのに状況説明はあった方がわかりやすく、とはいえ、なかったからと言って意味が変わってくるというものでもないであろう。記では、大氷雨が降ってきたので雨宿りに大前小前宿禰(注1)の金門の蔭に入って止むのを待とうと呼びかけ、それを聞きつけた大前小前宿禰が舞いながら現れ、宮人が小鈴を落として大騒ぎするような真似はするなという歌を返している。
紀では、誰と誰の問答なのか簡潔に記されている。穴穂皇子が歌いかけ、大前宿禰が答えている。したがって、「宮人の ……」歌は、大前(小前)宿禰が穴穂皇子に対してゆめゆめ宮人のようなことにならないようにと諭す歌と考えられる。諭しの歌とすると、宮に仕える人が動きやすいように袴を縛る足結をし、そこに小さな鈴をつけていたらその鈴が落ちてしまい、宮に仕える人は騒ぎ立てている、そのようなお粗末なことにならないように、里人であるあなたはお気をつけなさい、という意味であろう。そう考えると、宮人に当たるのは軽太子、里人に当たるのは穴穂皇子ということになる。軽太子は宮育ちで世間知らずである。
足結の小鈴(埴輪 盛装の男子、古墳時代・6世紀、群馬県藤岡市白石字滝出土、東京国立博物館蔵、国立文化財機構所蔵品統合検索システムhttps://colbase.nich.go.jp/collection_items/tnm/J-23089?locale=ja)
足結は袴をかかげて膝の下で紐で結ぶことを言い、労働、武装、旅行などに際して動きやすくするためである。舞いの時には鈴をつけて華やかにしていたようで、埴輪にもその姿が写されている。軽太子は宮を出て大前小前宿禰の屋敷に逃げ込んだ。それが人に知られてしまったのは、足結の小鈴を落したためではなく、落したことを騒ぎ立てて探しに出た者がいたからではなかろうか。足結に鈴をつける必要はないけれど、宮中で暮らしていて足結を目にするのは舞いの時しかなかったから、移動の際には足結はつけるものだという固定概念に縛られていたようである。さらに間抜けなことに、静かにしていればいいところ、落したことに囚われて騒ぎ立てて探したからどこに隠れたか知られるところとなった。本末転倒をしてはならないという諭しとして里人に語っている。サトすためにサトびとに歌っているのであろう。
記で、「其大前小前宿禰、挙レ手打レ膝、儛訶那伝、歌参来。」とある。歌を歌うときに膝を打つのは、皇太神宮儀式帳に、「其[なほらひ]の歌は、「さこくしろ 五十鈴の宮に 御食立てて うつなる膝は 宮もとどろに〔佐古久志侶。伊須々乃宮仁。御気立止。字都奈留比佐婆。宮毛止女侶爾〕」」と見え、足結を鳴らしてタンバリンの役目を果たしたのであろう(注2)。大前小前宿禰も足結をして鈴をつけていたという状況を示すものと思われる。
穴穂皇子の歌を承けて歌っている。オホマヘヲマヘと聞いたから、マヘ(舞)と命令されているとして舞っている。マヘのヘは前、舞ともに甲類である。カナデているのも、カナトに即応したものである。古語のカナヅ(奏)は、腕(かいな)を伸ばして振る舞う所作を表す。「挙レ手打レ膝」が腕を使うことをよく示している(注3)。
カナトカゲのカナトは、一般に金門のこと、金属製の門のことではないかとされている(注4)が疑問も呈されている。時代別国語大辞典に、「金属で扉や柱を堅め飾るためにカナ戸というといわれる。トが門の意であることは、水ナ門、島門など例が多いが、カナについてはなお考慮の余地があろう。」(203頁)とある。他の例に次のようなものがある。
常世にと 吾が行かなくに 小金門に〔小金門尓〕 もの悲しらに 思へりし ……(万723)
金門にし〔金門尓之〕 人の来立てば 夜中にも 身はたな知らず 出でてそ逢ひける(万1739)
泊瀬川 夕渡り来て 我妹子が 家の門に〔家門〕 近づきにけり(万1775、人麻呂歌集歌)
さを鹿の 伏すや草むら 見えずとも 児ろが金門よ〔兒呂我可奈門欲〕 行かくし良しも(万3530)
金門田を〔可奈刀田乎〕 荒掻きま斎み 日が照れば 雨を待とのす 君をと待とも(万3561)
防人に 立ちし朝明の 金門出に〔可奈刀〓(イ偏に弖)尓〕 手放れ惜しみ 泣きし児らはも(万3569)
東歌に用いられている例まである。大前小前宿禰の屋敷の門に金属が施されていておかしくはないが、それ以外の例まで金属を施した門であるとは考えにくい。金銭的事情ばかりか、歌のなかでゴージャスさを強調する理由が見出せない。
大伴宿禰家持の娘子の門に到りて作る歌一首
妹が家の 門田を見むと うち出来し 情もしるく 照る月夜かも(万1596)
このカドタと万3561番歌のカナトダに、意を異にするとは思われない。カナトが約されてカドとなっているとも考えられている。したがって、カナトという語は別の所以があると思われる。 水ナ門の例から推せば、楫ナ門、すなわち、船の楫(檝、舵)の櫓を動かすのに、櫓臍に嵌める形で操作することに戸の仕組みを譬えたものではないか。
左:櫓臍(櫓杭)と入子のついた櫓(外した状態。歌舞伎座ギャラリー展示品)、右:枢戸(金沢文庫称名寺)
戸ぼそに戸まらを嵌めてくるくると回るようになっているのが開き戸である。万3569番歌で集落を守る門は、夜になったら閂で鎖す門であっただろう。回転扉を開け閉めすることは、扉が寄せては返すように見える。記80・紀72で「斯く寄り来ね」とあるのは、人に対して寄っておいでという以前に、カナト自体が「寄り来」るものだから「斯く」と言って正しいと言えるのであろう。
記では「斯く寄り来ね 雨立ち止めむ」として「大氷雨」から逃れる雨宿りとし、紀では「斯く立ち寄らね 雨立ち止めむ」としているが雨降りの描写はない。伝承の過程によって異なっていると考えられるものの、雨宿りのため「かな門」に屋根がついていたからであるとする説はいただけない。当時の人たちの共通認識として、他の「かな戸」の例から屋根付き、ないしは楼門のようなものと考えることはできない。開き戸であるとするなら、そればかりが何かから防ぐための作用を果しているとすべきである。このような、開き戸が何かから防ぐための戸として機能している例は、記紀の伝承によく知られている。アマテラスが天の石屋に隠れた時のことである。開き戸を鎖してなかに籠り、世界は真っ暗になってしまっている(注5)。日(ひ、ヒは甲類)が遮られている。いま、記に氷(ひ、ヒは甲類)から免れるために開き戸が使われている。この点からも、「かな戸」は開き戸を指すとわかる(注6)。
「斯く寄り来ね」の「ね」は相手への願望を表す助詞である。その相手については見解が分かれており、今日まで、穴穂皇子が軍勢を率いていてその軍に呼びかけているとする説が有力である。しかし、歌問答は穴穂皇子と大前宿禰との間に行われている。すぐに答歌が歌われていることからも、呼びかけは大前宿禰に対するもので、このように寄っておいでよ、と言っているものと思われる(注7)。つづく「雨立ち止めむ」までを、「汝御方ニ参ラハ門ノ陰ニ雨ヲ止ル如ク世ノ乱ヲ治メムト喩ヘテヨマセタマフナルヘシ」(契沖・厚顔抄、国文学研究資料館新日本古典文学総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001746/viewer/123、漢字の旧字体は改めた)、「たゞ御方の軍士に門まで進みよりて攻よと云ことを、雨やどりせむと云に託て詔へるのみなり」(本居宣長・古事記伝、同https://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001755/viewer/2853)、「吾が如く、軍士等も立よりて、雨を止メよとなり、さて御方の為には、かく何事なくうたハして、宿祢には、此ノ彳み居る間に、さるへく計ラへとの、みさとし也、」(橘守部・稜威言別、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872839/32)と解することは困難である。
また、「大氷雨」の説明のない紀では、「雨立ち止めむ」は、「天断ち止めむ」の意で、天上世界の断絶をやめようよ、の意に解釈できる。タヂカラノヲを戸のそばに立たせて石屋の戸を開けてアマテラスを引き出して世界を元通りにしている。それと同じようにしようと、「かな戸」で大仰に歌っているものと位置づけられる。
対して、大前小前宿禰は、「儛訶那伝、歌参来。」ている。屋敷の中から彼は出てきたのだろうから、戸は開いていて互いに相手のことが見えていた。アマテラスの石屋籠りなどに準えられては困るわけである。大それたこととは認められない。大ごとにすることではないと言おうとしている。
大前小前宿禰は、「我天皇之御子、於二伊呂兄王一無レ及レ兵。」(記)と言っている。戦をするなということであるが、それを承けて穴穂皇子はただ侵攻しないでいたということでもない。忠告を聞いて、「爾、解レ兵、退坐。」と武装解除している。ここでの武装は、前段に「軽箭」や「穴穂箭」のことが詳述されているから、もっぱら弓具のことを指していると考えられる。。「軽箭」は銅を入れているから弩級でもなければ遠くへは飛ばない。「穴穂箭」は実践的ではあるが、弓矢の利用で気をつけたいのは、いったん発射して当たり損ねると直ちにその矢は敵方の武器となる点である。「反矢畏むべし」(神代紀第九段本文)、「反矢畏るべし」(同一書第一)と戒めの言葉に残されているとおりである。「足結」をして「小鈴」を落して大騒ぎするようなことと同じではないかということである。初めから「足結」などしなければいいように、弓から弦を外しておけばいい。
大前小前宿禰という人物が歌っている。「大前」とは神や天皇の前を尊び、それ自身を指すこともある。
…… 鹿猪伏すと 誰かこの事 大前に奏す 一本、大前に奏す、といふを以て、大君に奏す、といふに易へたり ……(紀75)(注8)
辞別きて伊勢に坐す天照大御神の大前に白さく、……(延喜式・祝詞・祈念祭)
また、「小前」という音、コマヘ(コ・ヘは甲類)は、コマ(駒)+ヘ(方)の意と聞き取ることができる。つまり、大前小前とは、神駒の方向という意味である。ヘ(方向)という語はまた、モとも言った。オモ(面)の頭音の略である。そしてまた、モには藻の意がある。つまり、大前小前という言い方は、神馬藻のことを伝えている。和名抄に、「莫鳴菜 本朝式に莫鳴菜〈奈々利曽〉と云ふ。楊氏漢語抄に神馬藻〈奈能利曽、今案ふるに本文は未だ詳らかならず。但し神馬は莫騎りその義なり〉と云ふ。」とある。海藻のホンダワラのことである。けっして名のるな、の意と掛けて歌に詠まれることが多くあった。
大前小前宿禰の役割は、けっして無駄口を言うな、足結の小鈴が落ちたなどと騒ぎ立てるな、相手に悟られるような言動は慎め、能ある鷹は爪を隠すのがよい、と述べることであったようである。自分が穴穂皇子だと名のれば、それはすぐに穴穂矢のことを連想させ、武装していると知られるから静かにしておきなさいということである。そのために、「今時之矢者也。」のことをわざわざ「是謂二穴穂箭一也。」と注しているのであろう。
穴穂皇子という名は鷹のことを指し、軽太子はカルガモのことを指すと対比されていたものと思われる(注9)。
酒君、則ち韋の緡を以て其の足に著け、小鈴を以て其の尾に著けて、腕の上に居ゑて、天皇に献る。(仁徳紀四十三年九月)
…… 大夫の 友誘ひて 鷹はしも あまたあれども 矢形尾の 我が大黒に 白塗の 鈴取り付けて 朝猟に 五百つ鳥立て 夕猟に 千鳥踏み立て ……(万4011)
鈴喫岡 鈴喫と号くる所以は、品太の天皇の世、此の岡に田したまひしに、鷹の鈴堕落ちて、求むれども得ざりき。故、鈴喫岡と号く。(播磨風土記・揖保郡)
鷹の鈴(鷹匠埴輪、古墳時代後期・6世紀末、「オクマン山古墳」太田市教育委員会文化財課、平成24年3月。https://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/kankoubutu/files/okuman.pdf)
鈴は尾羽につけることが行われていた(注10)。草むらや藪に入ると所在がわからなくなるからである。ただ、羽が抜けると落ちる。その際、鈴の行方を探すことはせず、鷹の行方を探ることに専念する。鈴ごときで大騒ぎしないようにというのが大前小前宿禰の諭しである。獲物が逃げて行ってしまう。すなわち、それは名のりをあげているのと同じことである。大前小前という名の「なのりそ(神馬藻)」が示唆する、けっして名のるな、とは、声をひそめ、気配を消しておいて急襲するのが狩りを成功させる秘訣ですよという諭しであった。
鷹狩で鷹を使って狩りをする対象としては、キジ、ヤマドリ、カモ、ガン、ツル、ウサギ、また、コジカなどである。主に食肉を目的とする。軽太子のことをあだ名と聞き、カルガモのことと考えた。カルガモは、あまりおいしいものではなく、わざわざ好んで狩りの対象に加えることはない。もし鷹狩でカルガモを捕まえて喜んでいたら、「必人笑。」ことになるだろうというのである。
そして、大前宿禰は、「僕、捕以貢進。」(記)、「臣将議。」(紀)と穴穂皇子に言い、軽太子と交渉に及んでいる。結果、軽太子は捕まったり自刃したりしている。大前小前がナノリソ(神馬藻)という海藻の役を担うのであれば、それを前にした軽太子は、カルという名を負っているのだから必然的に刈ることになる。名のるな、と命じてきているのに、とっさに行動に刈ってしまっていて、それはつまり、軽太子は名のっていることであり、論理学的語学“じゃんけん”は大前小前宿禰の勝利するところとなるものである。だから、「故、大前小前宿禰、捕二其軽太子一、率参出以貢進。」(記)、「由レ是、太子自死二于大前宿禰之家一。一云、流二伊予国一。」(紀)という結果に終わっている。
言葉は事柄と同じコトであった。言葉が表しているとおり事態が推移しているのは、事態の推移を言葉で表すために、それが最もうまく言い当てていてすべての人に了解されて伝えられるのに適しているからである。無文字時代の上代語、ヤマトコトバは、ひとつひとつの言葉や言葉の連なりによる表現方法ばかりでなく、体系としての言葉のあり方が、言葉=事柄となるように指向する傾きにあったのである。「説話の発想と語の命名の心理とが完全に平行していると目される」(佐竹2000.73頁)ことが生じている。「言葉の側から説話発想の心理の分析に参与して行く途は、今後に期待されて然るべき」(同頁)ことについて、筆者は述べつづけている。
(注)
(注1)大前小前宿禰という名について、大前宿禰と小前宿禰の兄弟2人いたのを混同したもの、大前宿禰と小前宿禰が同居していたとする考えが本居宣長・古事記伝にある。旧事本紀に記載があるとする。事実がどうであるかを問題とすることには意味がない。この逸話で登場しているのは大前宿禰1人である。思想大系本古事記は、「恐らく、……歌謡八〇の原型から、詞書的に抽出されてきた人名であろう。……「小前」は語調の関係で「大前」に連なって出てきた語。」(458頁)としている。筆者は、それに加え、衆人に伝えられるべく声をする歌謡においては、「大前小前宿禰」という語呂が、聞く人に新たな意味をもたらせるためであったと考える。
(注2)万3807番歌の左注に、風流な采女がいて「王の膝を撃ちて、此の歌を詠みき。」とあって一例とされることもある。
(注3)本居宣長・古事記伝に、「今大前宿禰の如此為る由ハ、穴穂皇子の囲攻賜ふに防禦ふ意なく、又驚怖るゝことなく心ハ安く楽めることを示せるなるべし、」(国文学研究資料館・新日本古典文学データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/200001755/viewer/2855、漢字の旧字体は改めた)、橘守部・稜威言別に、「穴穂ノ御子の、穏ひしくものして、孰にも咎をさせじと、雨にかこつけて、彳み給ふ御心づかひを、甚く歓喜るありさま也。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/872839/32、漢字の旧字体は改めた)、新編全集本古事記に、「穴穂皇子が、大前小前宿禰が事態を収拾するのを待つ意向を示したのに対して、喜んでみせる所作。」(321頁)といったことではなく、武田1956.に、「儛と歌とを叙し、次の歌が、舞曲また歌曲であることを示している。」(174頁)、相磯1962.に、「当時の演舞の実状その儘の記録であり、巫女の舞い奏でる時の様子を物語る描写に相違ない。」(240頁)、土橋1972.に、「演劇的所作に基づく文章表現かと思われる。」(299頁)、山路1973.に、「当時の舞の手ぶりの実際を具体的にのべたものである」(189頁)、鈴木1999.に、「あたかも宮廷内の儀礼としての、所作であり歌であり言葉であるかのようである。」(78頁)といったことでもない。歌いかけられた歌の言葉をきちんと聞いていて答える歌を歌うために、言葉尻をとらえたものである。 記紀の説話は口頭言語で言い伝えられている。允恭・安康天皇代の記録として、どのような感情を抱いているか、どのような舞い方がされていたかなど、話を聞く人にとって第一義的な関心とはならない。覚える気にならなければ次の人へ伝えられることもない。しかし、伝わっているところからして、感情移入ならぬ(疑似)体験移入が成り立っていたと考えられる。伝達はヤマトコトバによって行われているから、そのヤマトコトバのなかにしか秘訣はない。言葉に体験移入できるから、無文字時代の言葉は力を発揮して伝承世界は形成されている。語呂が合わなければ辻褄が合わず、彼らが想定する“世界”は崩れることになる。
(注4)「小かなとは小門なり。……かとの戸ひら、柱なとのかさりに、金物作りて、つくるものなれは、金門といふなり。しかれは門をかとゝいふは、金戸といふの略語とそ聞えたる。」(契沖・万葉代匠記、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/979062/508、漢字の旧字体は改めた)とある。
(注5)天の石屋(石窟)の戸については次のように記されている。そのつくりについては、拙稿「天の石屋(石窟)の戸について─聖徳太子の創作譚─」参照。
故是に、天照大御神、見畏み、天の石屋の戸を開きて、刺しこもり坐しき。……天手力男神、戸の掖に隠り立ちて、……。是に、天照大御神、恠しと以為ひ、天の石屋の戸を細く開きて、内に告らししく、……天照大御神、逾よ奇しと思ひて、稍く戸より出でて臨み坐す時に、其の隠り立てる天手力男命、尻くめ縄を以て其の御後方に控き度して、白して言ひしく、「此より以内に得還り入りまさじ」といひき。(記)
此に由りて、発慍りまして、乃ち天石窟に入りまして、磐戸を閉して幽り居しぬ。……亦、手力雄神を以て、磐戸の側に立てて、……。……乃ち御手を以て、細に磐戸開けて◆(穴冠に視)す。時に手力雄神、則ち天照大神の手を奉承りて、引き奉出る。……則ち端出之縄 縄、亦云はく、左縄の端出すといふ。此には斯梨倶梅儺波と云ふ。界す。乃ち請して曰さく、「復な還幸りましそ」とまをす。(神代紀第七段本文)
紀で手力雄神が最後に言い放った言葉は人口に膾炙していたのであろう。「勿レ復還幸」は、「な……そ」の構文を表している。「神馬藻」と同じ形である。
(注6)雨は上から降るから「かな戸」が開き戸であるだけでは防ぐことはできないから誤りであると考えることはおよそナンセンスである。洒落の通じない輩とは縁がない。
(注7)紀歌謡において、大久間・居駒2008.に、「散文との関係から言えば、「雨宿りをしよう」という兵士たちへの呼びかけを物部大前宿祢にも聞かせることで、[軽]皇子側に時間的猶予を与え、自ら折れてくるのを待ったものという文脈理解が成り立つ。」(257頁、この項、大館真晴)とするが、紀72・73番歌は「穴穂皇子歌之曰」、「大前宿禰答歌之曰」として記されている。穴穂皇子が雨宿りをしようと誘っている相手は大前宿禰と考えるのが筋である。新編全集本古事記は「大前小前宿禰への呼びかけ。」(321頁)とし、正しい。
(注8)「大前」を天皇に用いている例は、自尊感情の強い雄略天皇が自称した例に特異なものかとも考えられる。
(注9)拙稿「允恭記の軽箭と穴穂箭について」、「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」参照。
(注10)新修鷹経の「着レ鈴繋法」項(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2535853/25~26)、放鷹の「鷹道具」項(宮内省式部職編『放鷹』吉川弘文館、昭和7年、373頁。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1213512/212)など参照。
(引用・参考文献)
相磯1962. 相磯貞三『記紀歌謡全注解』有精堂出版、昭和37年。
居駒2019. 居駒永幸「允恭記の歌と散文(I) 表現空間の解読と注釈」『明治大学教養論集』545号、2019年12月。明治大学学術成果リポジトリhttp://hdl.handle.net/10291/20704
大久間・居駒2008. 大久間喜一郎・居駒永幸編『日本書紀歌全注釈』笠間書院、平成20年。
基峰修「鷹甘の文化史的考察─考古資料の分析を中心として─」『人間社会環境研究』第30号、2015年9月。金沢大学学術情報リポジトリhttp://hdl.handle.net/2297/43394
西郷2006. 西郷信綱『古事記注釈 第七巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2006年。
佐佐木2010a. 佐佐木隆『古事記歌謡簡注』おうふう、平成22年。
佐佐木2010b. 佐佐木隆『日本書紀歌謡簡注』おうふう、平成22年。
佐竹2000. 佐竹昭広『萬葉集抜書』岩波書店(岩波現代文庫)、2000年。(1980年刊。初出は、佐竹昭広「古代の言語における内部言語形式の問題」久松潜一編『古事記大成 第3巻─言語文化篇─』平凡社、1957年。今西祐一郎・出雲路修・大谷雅夫・谷川恵一・上野英二編『佐竹昭広集 第2巻 ─言語の深奥─』(岩波書店、2009年)に所収。)
思想大系本古事記 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集3 日本書紀②』小学館、1996年。
鈴木1999. 鈴木日出男『王の歌─古代歌謡論─』筑摩書房、1999年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
武田1956. 武田祐吉『記紀歌謡全講』明治書院、昭和31年。
土橋1972. 土橋寛『古代歌謡全注釈 古事記編』角川書店、昭和47年。
土橋1976. 土橋寛『古代歌謡全注釈 日本書紀編』角川書店、昭和51年。
山路1973. 山路平四郎『記紀歌謡評釈』東京堂出版、昭和48年。
(English Summary)
In Yamato Kotoba in the non-literal era, the human thinking about the naming of words or the change of meaning took the same route as creating narratives. It was the result of language activities that tried to make words and things as identical as possible. The singing and answering between Prince Anafo and Omafe Komafe Sukune in the Emperor Ingyo and Anko era were also made into a narrative as one of the manifestations. We can only verify individual narratives and songs of Kojiki, Nihon-Shoki and Manyoshu by looking at the actual language usage from the inside, by scrutinizing the words like matching pieces in a jigsaw puzzle, rather than reading them according to the modern framework. Because the ancient Japanese had a different language system from ours.