(承前)
意富多多泥古という人が神の子であると知れたのは、活玉依毘売が神と交わって生れた子であったからであると物語られている。「麗美壮夫」が「夜半之時」に現れたと語っている。「夕毎」に現われたという。活玉依毘売は未婚女性だから、当然、戸締りをしているはずである。それなのに、夜になると、「夜半」なのか「夕」なのか時刻は不定期ながら寝床に現われる。合鍵を渡していたとは記されず、どういうわけかわからないと言っている。とするなら、マスターキーのようなものを持っている門の管理人が怪しいということになる。後漢書・百官志三・少府に、「黄門侍郎、六百石。本注に曰く、員無し。左右に侍従して、中に給事し、中外に関通することを掌る。諸王の殿上に朝見するに及び、王を引きて坐に就かしむ、と。(黄門侍郎、六百石。本注曰、無レ員。掌侍二-従左右一、給二-事中一、関二-通中外一。及四諸王朝三-見於二殿上一、引レ王就レ坐。)」とある。ここに「黄門」とある官職名に使われる門は宮門の小門のことで、黄色く塗られていた。黄闥とも呼ばれる。その職は、後漢の時、宦官が担った。三宝絵(観智院本、984年)・下に、「カノ黄門ハツミ人の形也」とある。宮刑に処せられた宦官であることを本邦の人が認識している(注19)。宮門(注20)の開閉を掌る小者には、宦官が当てられたと理解されている。閹人とも呼ばれる。そして、仏教では、五種不男の第五番目の人(?)として記される。それを和名抄に、「半月 内典に云はく、五種の男ならざる其の五に曰く、半月〈俗に訛りて波迩和利(はにわり)と云ふ。或説に一月(ひとつき)三十日の其の十五日、男と為り、十五日、女と為りし義也と云ふ〉といふといふ。」とある。内典とは仏教経典のことである。仏教に、月のことは月輪である。
名義抄にも、「半月 ハニワリ」とある。文献上の用例はほとんど知られない。狩谷棭斎・箋注倭名抄に、「按二五種不男一、見二法華経安楽行品一。記云、五種不男、生劇妬変レ半也。半謂二半月一。半月列在二第五一。此所レ引蓋是。又四文律云、黄門者、生黄門・犍黄門・妬黄門・変黄門・半月黄門。半月黄門者、半月能男、半月不レ能レ男。亦半月在二第五一。十誦律云、五種五能男、二半月不能男、半月能淫、半月不レ能レ淫、是為二半月不能男一。亦是事、然与二此云第五一不レ同、又玄応音義云、般荼迦此云二黄門一、其類有二五種一、四博叉般荼迦、謂二半月作レ男、半月作一レ女。注所レ引或説即是。広本或説以下作下一云謂二其体男而不レ男、一月卅日、其陰十五日為レ男、十五日為一レ女、名二半月一也上。按二波邇和利一、蓋半割之義。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991784/94~95)とある。
サンスクリット語に、paṇḍaka を、般荼迦、半荼迦、半擇迦、半択などと漢語化し、意訳して黄門のこととしている。それをヤマトコトバにハニワリ(半月)と捉えている。ひと月のうち半分が男、半分が女のような存在、近代になって使われる、いわゆる男女(おとこおんな)である。後漢に、宦官の黄門は、宮門を自由に行き来している。閹人である。説文に、「閹 門の豎(こもの)也。宮中の奄、昏くなりて門を閉ぢる者、門に从ひ奄声」とある。門の鍵を預かっている。そんなハニワリ(半月)が「能男」となった時に、活玉依毘売は妊娠に至ったということであろう。「麗美壮夫」の登場時刻は、「夜半之時」ないし「夕」であった。夜半は夜の12時頃、東の空に現われる月は下弦の半月、夕刻に天上に見え始める月は、上弦の半月である。何としても、「半月」をほのめかそうと試みている。
活玉依毘売の父母は、初めから黄門役の「半月(はにわり)」を疑っている。「赤土(はに)」を床前に散らせている。和名抄に、「埴 釈名に云はく、土の黄にして細密なるを埴〈常職反、和名は波尓(はに)〉と曰ふといふ。」とある。記では「赤土」と表記されているが、意味的には黄色を意識している。赤色とのつながりは、月経時の血の色によるものであろう。そして、神妙ないでたちの裾に針を刺させている。朝には姿が見えなくなっているのは、朝には麻がどうなっているかという洒落でもあろうし、「鉤穴」を通り出ているということは、鉤を持っていたということの証拠である(注21)。「朝」、「麻」のアクセントは、平平で同じかと思われる。活玉依毘売が跡を辿って行っている際、それは、鉤を使って門が開けられていたということを言っている。彼女は鉤穴を通って見に行ったのではない。いつもなら閉まっているはずの門が開いていて、その開いている門を外に出て追跡している。「紡麻(うみを)」が鉤穴を通って出て行っているのは、紡麻が鉤に絡まっているから、門を閉めるはずであったところが閉まらずに、開いたままになってしまっていた。そういう事情を簡潔に表現している。
左:鈎穴と落とし(桟)(法隆寺金堂)、右:戸ぼそ後付け(横浜市金沢区・称名寺山門)
古代の鍵は、2種類に大別される。第一は、海老錠式の錠前である。第二は、クルル鉤と通称されるものである(注22)。記に、「鉤穴」とあるから、門戸に施されるクルル鉤の鉤穴である。「落とし」や「桟」、また「猿」などと呼ばれる錠となる桟を戸に設け、それを下の閾に開けた穴に下ろし、施錠するタイプである。開けるときは、鉤穴からクルル鉤と呼ばれる金属製の曲がった棒をさし入れ、桟の部分に上手に引っ掛けてひねりあげて門を開錠する。くるくるっと回すから、クルル鉤(クルリ鉤)と呼ばれ、その形もくるくるっと回ったような形状をしている。和名抄に、「鑰 四声字苑に云はく、鑰〈音は薬、字は亦、𨷲に作る。今案ずるに、俗人、印鑰の処に鎰字を用うは非也、鎰の音は溢、唐韻に見ゆ〉は関具也といふ。楊氏漢語抄に云はく、鑰匙〈門乃加岐(かぎ)〉といふ。」、「鈎匙 楊氏漢語抄に云はく、鈎匙〈戸乃加岐(かぎ)、一に加良加岐(からかぎ)と云ふ。鈎、音は古侯反〉といふ。」とあり、正倉院文書にその助数詞を「勾」とする。
記に、「閇蘇(へそ)」の緒が「三勾(みわ)」残ったと記す太安万侶のテクニックは鋭い。「勾」と用字を選ぶことによって、鉤穴を通っていく際のクルル鉤の様子まで表そうとしている。確実にそうであると言えるのは、それが門の鍵であり、その鍵がクルルという回転を言い表しているからである。門戸の形状は、枢(くるる)によって観音開きとなっている。1つの門が中央で分れて開く仕掛けである。半割、ハニワリなのが宮門、黄門である。戸(扉)の上下に凸となる戸まらを付け、下の閾(しきみ)や唐居敷と、上の楣(まぐさ)や鴨居にあけた凹となる戸ぼそを穿ち、そこに嵌め込んで回転させる仕組みである。後世の城門に見られるような頑丈な蝶番は古代には見られず、重い門戸に対応できなかったようである。すなわち、枢戸(くるるど)にクルル鉤があるのは、言葉の上で当然のことである。その鍵を預かって自由に出入りしていたのは、観音開きという半分に割れる門戸にゆかりのある、半月(はにわり)といわれる paṇḍaka 、黄門に相当する輩であった。性器がホゾになったりマラになったりする“人”、ヨリ正確には“人でなし”である。
半月(はにわり)は、月に半分男で、半分女と想定されている。つまり、「月」という女性の生理が、2カ月に1回しか訪れないということである。時間の経過が二分の一倍速である。となると、季節のめぐりも、はじめ(孟)、なか(仲)、すゑ(季)の3カ月サイクルが、6カ月サイクルへと転ずる。正月から始めて、6月の終わりがスヱに当たる。だから、祓の行事も、6月と12月の年2回でちょうど良いことになる。半月(はにわり)は祓をしなければならない対象である。仲哀記には、性に関するタブーが記されている。
……爾に驚き懼ぢて、殯宮(もがりのみや)に坐して、更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて、種種(くさぐさ)に生剥(いきはぎ)・逆剥(さかはぎ)・阿離(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・屎戸(くそへ)・上通下通婚(おやこくなぎ)・馬婚(うまくなぎ)・牛婚(うしくなぎ)・鷄婚(とりくなぎ)・犬婚(いぬくなぎ)の罪の類(たぐひ)を求(ま)ぎて、国の大祓を為て、……(仲哀記)
半月(はにわり)との交わりは挙げられていないが、あってはならないクナギ(婚、タハケ)であることに違いなく、国つ罪に該当すると考えられる。したがって、ミワ(三輪)と聞けばお祓いをしようという気運が働く。今日、三輪山は神の依りつく場所として崇められ、奉られ、とても神聖な場所とばかり捉えられているが、上代の人にとっては、ミワ(三輪)という言葉(音)は、まことに不適切で困ったところ、為にお祓いをしたくなるところ、お祓いのメッカとの印象が強かったのであろう。
味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が 忌(いは)ふ杉 手触れし罪か 君に逢ひ難き(712)
この万葉歌は、杉の木(注23)に触って神聖さを穢したというのではなく、ミワという穢れに抵触したことがいけないのである。罪になって、ないしは、罪人になって、すなわち、宮刑、腐刑にあったようなものである。男性ではなくなってしまったから、女性が逢ってくれなくなったと嘆いている。このあいだの酔っぱらった時の勃起不全は、一時的なものであるとの言い訳が聞こえてくる。この解釈は、通説以上に古代的な通念が感じられて面白いものと思われる。恋人同士のエロチックな親密さも伝わり、大人の歌として評価されよう。
女性の生理と月との関係が語られている。
爾くして美夜受比売(みやずひめ)、其の意須比(おすひ=襲衣)の襴(すそ)に、月経(さはり)を著けたり。故、其の月経を見て、御歌に曰く、
…… 汝(な)が着(け)せる 襲衣の襴に 月立ちにけり(記27)
爾くして美夜受比売、御歌に答へて曰く、
…… 我が着ける 襲衣の襴に 月立たなむよ(記28)(景行記)
「襲衣(おすひ)」は記2番歌謡、万379番歌にも見える。西郷2005.に解説されている。
襲(オスヒ) 頭からかぶって衣の上を蔽い、裾まで垂らした、後世の被衣(カヅキ)風のものといわれる。古事記では倭建命の歌……、万葉では大伴坂上郎女の祭神歌に「鹿猪(シシ)じもの、膝折り伏せて、た弱女の、オスヒ取り懸け」(三・三七九)とあり、さらに「延喜式」や「神宮儀式帳」などにその名が見える。これらからするとオスヒは婦人専用、それも主として祭式用であったらしく推測される。だが、かつては男もこれを用いたことは、女取王の「高行くや、速総別(ハヤブサワケ)の、御(ミ)オスヒ料(ガネ)」(仁徳記〔六七〕)という歌によって分る。男が女のもとに通うさいは顔を隠して行ったはずで、女鳥王が速総(隼)別のためにオスヒを織ると歌ったのも、彼が自分のもとにそれをかぶって通ってくるそのオスヒのことを意味しているに相違ない。八千矛神の出でたちもオスヒ姿であったことになる。オスヒはオソフ(重ねて着る)の名詞形オソヒの変形であろう。(93頁)
延喜式・神祇・伊勢大神宮、「大神宮の装束」条に、「帛の意須比(おすひ)八条〈長さ二丈五尺、広さ二幅〉」とある。虎尾2000.頭注に、「古代の女性の祭祀衣装で、衣服の上にかける広幅の布。」(231頁)とする。女のもとに通うための女装の小道具に転用されることは容易に想像できよう。半月であった「麗美壮夫」も、オスヒを着て活玉依毘売のもとに通ったに違いない。だから、父母は、その襴に針を刺せと命じている。「襴」のある衣装として、襲衣が一番適当であろう。「月立つ」こと、つまり、月経の跡がつく場所が、襲衣の襴として印象づけられていた。血が固まって血糊としてこびりつくから、針を刺しておいたときに引っぱられても抜けないはずであるという発想である。「閇蘇(へそ)」という言葉も、動物の臍に同じという気持ちがあったから血液の臭いがしている。女性特有の血の話である。ふつう、真っ直ぐの針を刺して仮に皮膚から血が出ても、針は容易に抜ける。それが、血が固まって抜けない状態にある。まるい月が輪を示しているなら、それもミワ(三輪)であるなら、輻を備えた車輪のことである。その輻(や)と同音の弓矢の矢(や)が抜けないとの謂いとなる。半月とは弓張月のことである。たいていは朔から数えて8日目、ヤマトコトバの数え方に、ヤ(八)である。音を聞けば矢のことが頭に浮かぶ。それも抜くに抜けない腸抉(わたくり)の矢である。返しがついており、回転によって肉体にねじ込まれているから、引き抜こうとすれば断腸の思いがするほどに痛い。罪人に対する刑罰のようなものである。
上に、「卒」の異体字「卆」について見た。説文に、「卒 隷人の事に給する者を卒と為す。古、衣を染むるを以て題識す。故に衣一に从ふ」とある。卒という字が「衣」+「一」を初文とするという見解である。真偽のほどはともかく、説文は、ヤマトの人にとって漢字文化を訳すに当たって典拠とされていた権威ある文献であった。衣に印をつけたのは、奴隷であることを表すと言っている。江戸時代に島送りにされた囚人が、入れ墨を施されていたことによく似ている。襴に印があるのなら、隷人、ここでは宦官のような半月ということとわかるという落ちになっている。paṇḍaka のような隷人と交わってしまった。血の輪が襴についている。穢れを祓わなければならない。代償に茅の輪くぐりをすることにしよう。「血」も「茅」もチ(アクセントはともに上声)で同じである。祓うこととは今に代償金を支払うことである。仲哀記に見られるように、ふつうとは違うやり方で動物の皮を剥いだり、灌漑設備に変な工作をしたり、倫理的に間違ったクナギをしたからといっても、それは金銭を以て贖えることと解釈されていた。謀反や殺人などとは異種の事柄なのである。むろん、モラルハザードは許されるものではない。モラルが侵犯されると、侵された人だけでなく、周囲の人から赤の他人に至るまで嫌悪感を覚える。何を信じたらいいかわからなくなり、社会がアノミー状態になる。そこで、定期的に、年2回、皆でお祓いをして、道徳のおさらい会になるように設定されている。反省し、悔い改める習慣を持つことは、大人の階段をのぼるための基本的な要件である。誰の智恵か知らないが、世の中を人心から安定させるうまい工夫である(注24)。
ミワが罪と関わる点については、その紡錘形の形状とも関係があろう。「閇蘇(へそ)の紡麻(うみを)」は、麻糸の製造工程のうち、繊維をつなぎあわせて半製品としたものである。次に、糸を撚る作業が控えている。絹と比べたとき、必ずしも均質とは言い難い麻も、撚りをかけていけば糸となって切れにくさが激増する。織物にも、また、釣糸のような糸単体としても便利である。ヘソは水に浸され、あるいは口でなめて、湿り気を含ませてから撚りをかける。湿り気がないと撚りをかけた時に撚りが安定しない。乾いていく過程で撚られた状態のまま繊維の絡み合いが定着し、強度が増す。水にじゃぼんと浸けられて湿っているから、床の前に散らされた「赤土(はに)」がついてくることになる。乾いた緒のままなら、「赤土」はついて来ない。話の素材として何の役割も果たさない。また、糸に撚る前の段階で針に緒を通すことはふつうしないから、「貫レ針」いていると断っていることは、話に種も仕掛けもあるとの明言になる。
紡錘車を使った糸撚り(志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574278/15をトリミング)
鉤穴を控き通り出て行った紡麻には、撚りがかけられて行っていると想像される。上にみたとおり、鉤穴を通る際、クルル鉤を操作している。くっついている紡麻も結果的にくるくるっと回されたであろう。撚りのかけ始めである。三輪山が紡錘形をしているということは、三輪山のなかに紡錘車が隠れていて、くるくると廻しながら糸を撚っていって形作られたもの、それが三輪山であると悟られている。紡錘車は、紡茎と紡輪とからなり、紡茎を回転軸、紡輪を回転盤とし、紡輪はその重さのために遠心力を生んで回転がスムーズにすすむ(注25)。糸撚りは指先でひと撚りひと撚り行うことも可能であり、行われることもあるが、紡錘車という道具のおかげで画期的に生産性が上がった。紡輪には石製、土器製、木製、金属製、種々出土する。重みがあるほど回転の勢いはつく。まことにありがたい輪である。それが、ミ(御)+ワ(輪)という名と重なったとき、人々の脳裏には、ミワという地は紡錘車で糸を撚りあげた形をしているのだと認識されるに至る。ミ(三)+ワ(輪)とこじつける場合も、紡茎が第一のワ(輪)、紡輪が第二のワ(輪)、撚りあげられて巻き取られた糸が第三のワ(輪)に相当するとも考えられる。
その紡錘車のことは、古語に、ツミ、ツムなどと呼ばれる。和名抄に、「鍋〈紡績附〉 字書に云はく、鍋〈音は戈、字は亦、楇に作る。漢語抄に都美(つみ)と云ふ〉は紡車の絲を収むる者也といふ。唐韻に云はく、紡〈芳両反、豆无久(つむぐ)〉は續[=績]む也といふ。蒋魴切韻に云はく、績〈則歴反、宇无(うむ)〉は麻苧を續む名也といふ。」とある。ここに、ツミと呼ばれたところから、それがツミ(罪、ミは甲類)であると洒落ていると考えられる。本当なら指先で手撚りしなければならないところを、手抜きの作業を犯している。「手末(たなすゑ)の才伎(てひと)」(雄略紀七年)とは、手の末の爪(つめ)自体が離れて道具化し、効率的に糸を撚ったり布を織ったりする手品師のような存在である。言霊信仰と呼ばれるヤマトコトバを大切に扱う人にとって、駄洒落レベルとはいえ言葉(音)は言葉(音)であるから、三輪山の紡錘形は紡錘車のツミによって撚られて積み上げられており、罪深い場所であると感じられたであろう。ツミ(積、ミは甲類)とも音が合っている。なお、ツミ(紡錘車)のミの甲乙は知られないものの、ツメ(爪、メは乙類)と関係するツム(摘)という動詞に関係する語ならば、その連用形ツミのミは甲類である。
三輪山は、紡錘車によって糸が撚りあげられた形をしている。三輪山伝説に、「三勾」残してすべては「至二三輪山一而留二神社一」まっている。そこで糸作りの工程はひと段落を迎える。紡錘車を使うのはそこまで、それで終っている。留まらせて、乾いてくるのを待ち、糸の撚りが安定すれば、今度は桛(かせ)にかけて巻き直される。つまり、此処(ここ、コはともに乙類)にあった麻(そ、ソは乙類)が終わって已んでいる。これは、漢字一文字で表せば、「卆」である。「九十」はヤマトコトバにココノソ(コはともに乙類、ソは甲類)である。また、上述の箄(したみ)に「下」のニュアンスがあった。説文に、「丅 底也。指事。下は篆文に丅なり」とあり、「底 山居也。一に曰く、下也と。广に从ひ氐声」ともある。米を研いで箄にあげて水を切ることも、濁り酒を漉して絞ることも、「下む」ことは底に至って山居することになる。いま、「閇蘇紡麻」は三輪山で山居している。三輪山が酒造と関係したり、此処の麻(ここのそ)が九十(ここのそ)となって、近称から中称へと転移し、あるいは前出の語句を受けて、「彼処(そこ、ソ・コは乙類)」にあるのは、「底(そこ、ソ・コは乙類)」に至りついたということである(注26)。語学的に言って、天才的な頓智、叡智である。
究極に到り着くこととは、月(つき、キは乙類)が満ちること、それは尽き(キは乙類)ることが満ちるという自己撞着的な表現になる。ミツ(満、ミは甲類)と同音がミツ(三、ミは甲類)、つまりミツキ(三月)の90日が表わされているし、同音のミツキ(御調、ミは甲類、キは乙類)、すなわち貢納品を示唆する。穢れを祓うために代償として貢ぎ物を神に差し出したことが、後に税として公のために朝廷に献上する物品となった。白川1995.に、「古くは祭祀の料として納入したもので、もとは宗教的な行為であった。」(724頁)とある。自己撞着までをも御破算で願いましてはにするのが、祓の本質ということになる(注27)。
西郷2005.は、崇神紀の記述から、「ここでは特に大物主が蛇身であったとあるのに目を留めたい。この点、古事記はそうハッキリとはいっていないものの、「戸の鉤穴」から外に出ていったというのは、このものがやはり蛇身であるのを暗示する。」(256頁)とする(注28)。雄略紀の次の記事にある蛇身は、大物主神を“表現”したものと考えるのが適当であろう。
天皇、少子部連蜾蠃(ちひさこべのむらじすがる)に詔して曰はく、「朕(われ)、三諸岳(みもろのをか)の神の形を見むと欲ふ。或に云はく、此の山の神をば大物主神と為(い)ふといふ。或に云はく、菟田(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)なりといふ。汝(いまし)、膂力人(ちからひと)に過ぎたり。自ら行きて捉(とらへゐ)て来(まうこ)」とのたまふ。蜾蠃、答へて曰(まを)さく、「試に往きて捉えむ」とまをす。乃ち三諸岳に登り、大蛇(をろち)を捉取(とら)へて天皇に示(み)せ奉る。天皇、斎戒(ものいみ)したまはず。其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて、目精(まなこ)赫赫(かがや)く。天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中(おほとの)に却入(かく)れたまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷(いかづち)とす。(雄略紀七年七月)
「白き猪と化れるは、……其の神の正身(むざね)」(景行記)、「形は我が子、実(むざね)は神人(かみ)にますこと」(景行紀四十年七月)、「主神(かむざね)の蛇(をろち)と化(な)れる」(景行紀四十年是歳)などといったムザネは、ミ(身)+サネ(核)の意とされている。三諸山、三輪山のムザネについて言及されることはない。表面上の見かけとして蛇がとぐろを巻いたように、紡錘車に撚り紡がれた糸が積み上がるようになっている。それを表現として使っている。古語にワダマル、ワダカマルという。新撰字鏡に、「蟠 扶園反、曲也、委也、鼠員虫也、屈也、為𪖇、字又𧑓▲(虫偏に員)也、志自万留(しじまる)、又和太万留(わだまる)」、和名抄に、「蟠 野王案に、蟠〈音は煩、訓は和太加末流(わだかまる)〉は龍蛇の臥す皃也とす。」とある。ワダマルという言い方は、ワ(輪)+タマル(貯・溜)という語呂からわかりやすい。残ったのは「三勾」だけで、すべて三輪山のほうに貯まっている。また、ワダカマルという言い方は、ワ(輪)+タカ(高)+マル(円)という語呂からわかりやすい。そして、本体が鉄でできているクルル鉤の形状は、蛇がとぐろを巻こうとしている様にもよく合致している。活玉依毘売は、残った「紡麻」の「三勾」から、輪を手繰って探しに行っている。ワ(輪)+タクリ(手繰)である。近世に木綿の製造工程で、綿繰(わたくり)という機械が用いられるが、それとは異なり、紡錘車によって糸を撚っていくことも、三輪山伝説の話からワタクリであると言えよう。
そのワタクリという語は、同音に腸抉(腸繰)がある。弓の矢に鏃に返し(返り)のついたものである。弓矢は、矢羽の仕掛けによってぶれずにまっすぐ飛ぶように回転が掛かっている。糸に撚りをかけるのと理屈は同じである。糸が糸として安定して丈夫なのは、撚りをかけていくとその撚りが戻ろうとする力が働くことによって、自ずと撚りが定まる仕掛けゆえである。腸抉の場合、刺さる時には回転が掛かって捩れながら刺さる。むやみに抜こうと引くと、返しが肉や内臓を傷つける。これはクルル鉤の原理にも同じである。鍵穴にちょうど合わさるように挿し入れ、捩じり回し、元のとおりに戻して引き抜かなければならない。鏃の返しの仕掛けは古く、石鏃の考古品にも見られる。
左:腸繰(伊勢貞丈・貞丈雑記・巻之十・弓矢之部、国文学資料館・日本古典籍ビューア http://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=100249523&pos=637&lang=jaをトリミング他)、右:石鏃(佐倉市下志津新田神楽場遺跡、小野良弘氏旧蔵、国学院大学博物館展示品)
糸の撚りが戻ることで安定するという語義は、言葉の上で、道徳的に悖ることと密接な関係にあるのだろう。白川1995.に、「「もとる」は曲◆(手偏に戾、捩の旧字)(きょくれい)、むりにまげねじらせること。正常に反して罪を得ることをいう。「もどる」は「◆(もぢ)る」「擬(もど)く」と同根の語で、「文(もどろ)く」系統の語であろうが、のち「もとる」と混じて「もどる」となった。「戾(もと)る」が「◆(もぢ)る」となるのと同様である。」(754頁)とある。腸抉の鏃の形は、三菱形に近く、三角形に尖ったオモダカやクワイの葉茎の形に相同している。一度刺されば引き抜こうとするほどに、鬼のように痛い矢、元に戻すのが耐えられない矢ということである。人道的に悖る、人でなしの武器である。漢字の「人」字に似るが、意味の上では人間らしさを失っている。人のようで人でないから人でなしであり、それは鬼という言い方が適切であろう。人神が祟り神となっている、とてつもなくいやらしい存在、厭わしい存在ということである。白川1995.に、「「いと」の語源は知られない。」(121頁)とあるが、筆者は、語源のことはともかく、上代に、忌み嫌う意味の「厭ふ」ことと「糸」とはニュアンスに関連があると感じられていたと考える。
糸作りの図(巻き返しか。画像石「曾参の母」、中国、後漢時代、1~2世紀、山東省嘉祥県出土、東博展示品)
紡錘車に撚りをかけた糸は、乾いたら桛(かせ)に巻き返す。桛とはH型をした木枠で、罪人を拘束する際に嵌めた枷(かせ)に形状、様態が同じなのでそう呼ばれたようである。罪の文脈がついて回っている。カセ(桛・枷)によって糸を巻き返すことは、ツミ(紡錘車・罪)を挽回するという意味合いを感じ取っていたのであろう。枕詞ミモロツクの例に、次のような歌がある。地名「鹿背山」の音、カセ(桛・枷)つながりで冠されているものと考えられる。
…… 三諸着く 鹿背山(かせやま)の際(ま)に 咲く花の 色めづらしく ……(万1059)
三諸つく 三輪山見れば 隠口(こもくり)の 始瀬(はつせ)の檜原(ひばら) 思ほゆるかも(万1095)
糸を桛からはずしてばらけないように捻りを加えたものが綛糸(かせいと)で、糸の染色はこの段階で行う。枷は凹型の板木2枚を使って首に巻くようにかけ、両者を固定して動きの取れない拘束具として使われた。本邦では縄で後ろ手に縛りあげる技術が巧みになり、近世にはそちらが常用された。腕に綛糸を巻き返す風情が、後ろ手でクロスしていると思えばいい。一方、首枷の例も見られる。そのなかに、連枷と呼ばれるものがある。2人を前後にいっぺんに拘束して搬送するのに用いられた。中国では異民族との戦いで奴隷として内地へ送る際、使われたようである。この「連枷」という語は、もともと農具の唐竿(からさお)のことも指した。説文に、「枷 柫(からさを)也、木に从ひ加声、淮南に之れを柍と謂ふ」、「柍 禾を撃つ連枷也。木に从ひ弗声」とある。和名抄に、「連枷 陸詞切韻に云はく、連枷〈音は加、賀良佐乎(からさを)〉は穀を打つ具也といふ。釈名に云はく、枷は加也、柄頭に加へ、穂を楇(う)〈陟爪反、打つ也〉ち穀を出す所以也といふ。或に曰く、枷三杖を羅(つら)ねて之れを用うといふ。」とある。和名抄に、拘束具の方は、「盤枷 唐令に云はく、若し鉗無き者は盤枷〈音は加、日本紀私記に久比加之(くびかし)と云ふ〉を著けよといふ。」とある。「鉗」は「釱」とも書くカナキのことを指す。農具の方は、民俗用語でクルリ棒、メグイ棒(回(めぐ)り棒)などとも呼ばれる。豆類の脱粒や麦などの芒落としに長く活躍した。古代はともかく、本邦の稲品種の脱穀には向かなかったようである。持ち手と叩き棒との間に軸が入っていて、車のようにくるくる回る仕掛けになっている。これを当時の人が、霊験あらたかな輪、ミ(御)+ワ(輪)とか、回転軸となるワ(輪)、それに巻きつける握り棒側のワ(輪)、叩き棒側のワ(輪)の3つのワから、ミ(三)+ワ(輪)と捉えたかどうかはわからないが、穀物を百叩きの刑に処するのに力の要らない優れものであると思えたことは首肯できよう(注29)。
左:連枷(拘束具)(因果関係様「中国酷刑(Chinese torture)その1-枷項-」http://blog-imgs-46.fc2.com/i/n/g/ingakankei/20100617093028f57.jpg)、右:連枷(脱穀具、唐竿)(須藤功『大絵馬ものがたり』第1巻、農文協ホームページhttp://www.ruralnet.or.jp/zensyu/ohema/contents.htm)
三輪山伝説の「床前」から「美和山」へ通り出て行ったのは「紡麻(うみを)」であった。三輪山の神は大物主神で、何か知れない鬼的存在である。万葉集の歌の用字の「鬼」は、一つもオニとは訓まない。モノ(万547・664・1350・1402・2578・2694・2717・2765・2780・2947)、シコ(万117・727・3062・3270(醜の意か))、「餓鬼(がき)」(万608・3840)、マ(万3250(魔の意か))とある。紀でも、「葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむ。」(神代紀第九段本文)とある(注30)。
三輪山に関する他の伝承も、同じモチーフを別の表現にして表した展開形であると知れる。
此間(ここ)に媛女(をとめ)有り。是、神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三嶋の湟咋(みぞくひ)が女(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、其の容姿(かたち)麗美(うるは)しきが故に、美和の大物主神、見感(みめ)でて、其の美人(をとめ)の大便(くそま)らむと為(せ)し時に、丹塗矢(にぬりや)と化りて、其の大便らむと為し溝より流れ下りて、其の美人のほとを突きき。爾に其の美人、驚きて、立ち走りていすすきき。乃ち、其の矢を将(も)ち来て、床の辺に置くに、忽ちに麗しき壮夫(をとこ)と成りき。即ち其の美人を娶りて生みし子の名は、富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)、亦の名は、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と謂ふ。是は、其のほとと云ふ事を悪みて、後に改めし名ぞ。故、是を以て神の御子と謂ふぞ。(神武記)
是の後、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめ)、大物主神の妻(みめ)と為る。然れども其の神常に昼は見えずして夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命、夫(せな)に語りて曰く、「君常に昼は見えたまはねば、分明(あきらか)に其の尊顔(みかほ)を視ること得ず。願はくは暫(しまし)留りたまへ。明旦(くつるあした)に、仰ぎて美麗(うるは)しき威儀(みすがた)を覲(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対へて曰はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。吾、明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰に倭迹迹姫命、心の裏(うち)に密に異(あやし)ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂(まこと)に美麗しき小蛇(をろち)有り。其の長さ大(ふと)さ衣紐(したひも)の如し。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。時に大神恥ぢて、忽ちに人形(ひとのかた)に化りたまふ。其の妻に謂りて曰はく、「汝、忍びずして吾に羞(はぢみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。仍りて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命、仰ぎ見て、悔いて急居(つきう)。急居、此には菟岐于(つきう)と云ふ。則ち箸に陰(ほと)を撞きて薨(かむあが)りましぬ。乃ち大市(おほち)に葬りまつる。故、時の人、其の墓を号けて箸墓(はしのみはか)と謂ふ。是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(つ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ。(崇神紀十年九月)
神武記に、「丹塗矢」とあるのは、腸抉の矢のことである。崇神紀に「櫛笥」に入っていたのは、クルル鉤に準えたくねった様の蛇である。「人形」となったとあるのは、人の形をして人ではない、人でなしの鬼の形容である。祓の行事では、古くから人の形に似せた形代を用いている。夏越の祓の茅の輪くぐりと並立する手法であった。人形代に息を吹きかけるなどし、それを流すことで穢れを“水に流す”のである。逆言すれば、水に流せる程度のことが、祓の対象の罪なのである。
木製人形代(袴狭遺跡、奈良~平安時代、兵庫県出石郡出石町、兵庫県教育委員会蔵、国学院大学博物館展示品)
和名抄・祭祀具に、「偶人 史記に云はく、土偶人・木偶人〈偶の音は五狗反、俗に比度加太(ひとがた)と云ふ〉は、野王案に、凡そ削り物を刻み人像と為(す)るを皆偶人と曰ふといふ。」とある。現在は紙製のものが使われているが、古くは木製の人形代が多く、出土例も多く見られる。その形は漢字の「人」字に似ているが、少し脚の間に広がりがあるばかりである。木簡の下部を割り削ったような形状に見える。ヒトガタと呼びながら、金銅仏などに型を取って作る際のリアルさを欠く。まず、腕の形象が表現されていない。しかし筆者は、それで良いのだと思う。人形は祓に使うのが目的だから、罪を背負った罪人として表されたのであろうと考える。罪人は、本邦に特有の拘束の仕方、縄を使って後ろ手に手を縛り上げられる。つまり、罪を祓うのが目的の人形に腕が示されていては、かえって意味がないことになってしまう。今日、使われている紙製のそれは、古代よりも意味を込める意識が薄らいだ代物といえよう。
以上が、三輪山伝説の語学的な考証である。ミワという言葉(音)は罪ある場所と解され、人々に祓の必要性を感じさせていた。そのミワという言葉(音)を話(咄・噺・譚)として展開したのが崇神記の三輪山伝説であり、神武記、崇神紀にバリエーションが見られた。言葉のやりくりとしていちばん出来のいい説話は、崇神記の三輪山伝説である。話(咄・噺・譚)のからくりのすべては、ヤマトコトバのなかにある。比較神話学や、漢訳仏典の表記法、東アジア世界に広がる似たプロットに由縁を探しても、三輪山伝説の理解にはほとんど役に立たない(注31)。なぜなら、当時のヤマトコトバに文字はなく、話(咄・噺・譚)として口づてに伝えるしかなかったからである。口づてに伝えるには、伝えたその場その場でなるほどと相手を納得に至らしめる手管、口管が必要である。納得が得られなければもはや覚えてはもらえず、次に伝えられることもない。お話にならないのである。そのためには、当の依って立つヤマトコトバにすがるしかない。すべては言葉のなかにある。話は言葉でできている。
(注)
(注1)荒川1991.に、「人類は前五〇〇〇年ごろまでには橇を手にしていた。丸木舟と並ぶ最古の運搬具である。……純粋の橇から車への移行。その動機としてよくあげられるのはコロ説である。……人類は経験的に、丸い棒を並べその上を走らせるならば容易に動かせることを知った。コロは滑り摩擦係数を減ずるとともに、コロが回転すれば摩擦はさらに小さくなる。ただ、橇が移動すると同時に、コロを車の前部に並べ換えねばならないという面倒がつきまとう。この面倒さを解消するために、コロが車体から離れずに一定位置で回転するよう工夫したのが最初の車であったと考えるのである。それゆえ、この仮説によると、最初の車輪は車軸と一体であったのであり、その後車輪は車軸から分離、車体に固定された車軸のまわりを回転する形式に改良された、と想定される。この改良によって、摩擦が小さくなったのに加えて、両輪が独立に回転可能となり、そのため車の方向の転換が楽になる。とくに機動性が求められる戦車には有効であったにちがいない。コロ説は一つの仮説であって、それを証明する資料を提示することはできない。といって、コロ説以上に説得力のある仮説を捜し当てることはできないので、私も、いまのところはコロ説に従っておきたい。」(16~17頁)とある。車以外の回転系の技術、紡錘車と轆轤についても言及されている。三輪山伝説について、本稿のとおり車輪と紡錘車をモチーフとしており、轆轤技術については、三輪山祭祀における陶邑の須恵器との関係が指摘されよう。言葉と技術とが相即的な関係にあるという、無文字文化であるなら当たり前のことが、現代の眼からも示されている。
(注2)荒川1993.に、「車の本格的な最初の改良は、シュメールに車が出現してからほぼ一〇〇〇年後、北メソポタミアに勢力を有していたミタンニ人が牛や驢馬よりも強力な馬を繋ぎ、そしてそれまでの円盤の車輪に代えて、輻(スポーク)つきの軽量な車輪を導入したときである。機動性に優れた戦車の追求から生まれたと考えられる。機動性ということでは、四輪車よりも小回りのきく二輪車が有利であるので戦車にはもっぱら二輪の馬車が使われた。軽戦車の出現である。」(15頁)とある。
本邦には牛車ばかりで、馬車の見られるのが明治維新に下る。乗用には二輪車ではなく飾り立てられた四輪の牛車が偏重されていた。荷車として石山寺縁起に見えるものも牛車である。どうしてそのような状況に置かれていたのか、とても興味深い課題である。本論とは別の事柄であるので深入りはしないものの、荒川1991.に、牛車や駕籠は「見栄をみたすための大道具」(144頁)であったこと、「急ぎの用ということでは騎馬があ」(139頁)ること、「労働事情[として]……過剰人口を抱いた国で……飼育や訓練に手間のかかる動物の利用に熱心にならなかった」(140頁)など、示唆に富む指摘が多くなされている。技術の歴史の一筋縄では説明できない不思議さを解き明かそうと試みている。
馭者の乗らない馬車の絵(長恨歌図屏風、筆者不詳、紙本金地着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
(注3)荒川1991.132頁を踏襲して、櫻井2012.に、「日本へ車の技術を伝えたのは、四~六世紀の高句麗からの渡来人であろうといわれている。大和王権の周辺に移り住んだ高句麗の工人たちが伝えた多くの新技術の一つに車もあったと考えられる。これは高句麗の古墳壁画に残る曲蓋式牛車と平安時代の牛車が外見や車の構造が似ているからである。」(2頁)とある。筆者には、日本の牛車が高句麗に由来するとの説に疑問が残る。通溝・舞踊塚古墳玄室奥左側の図は、狩猟図であり、牛車は幌付きの荷車である。そのような車は、牽引は馬ではあるが後漢の時代の画像石にも見られる。平安時代の貴族は、大陸に荷車であった幌付き牛車を乗用車にしたということであろうか。何が似ていて何が似ていないのか、論点がよくわからない。
左:舞踊塚古墳・狩猟図(수렵도<무용총>http://www.gwedu.net/technote7/board.php?board=koreanpainting&config=3&command=body&no=162&category=26)、中:陝北画像石墓 神木大保当画像石(後漢時代、看点快报https://kuaibao.qq.com/s/20191030A0K82X00?refer=spider)、右:三彩牛車・馭者(陶製、中国、唐時代、7世紀、横河民輔氏寄贈、東博展示品)
(注4)老子・無用第十一に、「卅(みそ)の輻(や)、一つの轂(こしき)を共(とも)にす。其の無に当りて車の用有り。埴(つち)を挻(こ)ねて以て器(うつわもの)を為(つく)る。其の無に当りて器の用有り。戸牖を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無に当りて室の用有り。故に有(う)の以て利と為(す)るは、無の以て用を為せばなり。」とある。阿部・山本ほか1966.は、「このような訳であるから、有すなわち存在するものが人々に利をもたらすのは、無すなわち存在しないもの隠れたるものが働きをなすからである。」(28頁)と無用の用について訳している。
老子のあげている例が、轂、土器、住まいであるのと、本稿で見渡した轂、甑、橧とがとてもよく対応している。そこには何らかの関係があるのか、祓という実質を伴わない“無用の用”的儀礼の意義にまで及ぶ事柄なのか、今のところ不明である。憲法十七条に、老子からの修辞に学んだ句が見える点に手掛かりが求められるかもしれない。後考を俟ちたい。(注23)参照。
(注5)樋口1987.に、次のようにある。今日の考古学上の通説とは異なる点があるかも知れないが、示唆の多い指摘である。
……東洋ではイネやオオムギの伝播に伴いで粒食が好まれた。中国新石器時代土器に袋形をなした三脚を有する鬲(れき)や底部に若干の小孔を穿った甑(こしき)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあり、これは明らかに穀類を粒のまま蒸すのに使用したもので、それらは青銅器時代に入っても同形に鋳造盛用されている。このような穀物を蒸す技術は、米の流入と共に日本に伝わったらしく、弥生式土器の前期のものにすでに甑が存在している。わが国における甑(こしき)の用法は、この中に布で包んだり、篭・笊に入れた米を入れて固く蓋をし、火にかけて湯の沸き立っている甕や鉢形土器の上に載せ、水蒸気で蒸した。古墳時代には甑、釜、竈(移動性のもの)がセットになった遺物が存在し、蒸す方法が一層発達したことが知られる。甑の底の蒸気孔の上には木の葉(カシワ、シイ潤葉樹やサトイモ、ハスの葉、マコモ、アシなどの葉や竹の編物)を敷いた場合も多く、そのことからカシワは炊事の代名詞となりその専従者をかしわで[かしはで](膳部)とよぶようになったとする説もある。蒸す方法は古代の米の調理法の代表とされ蒸した米をいひとよんだ。(70~71頁)
和名抄にある「箄(いひしたみ)」とは、蒸すためのシタミということになる。甑の中にセットされたものを指している可能性も残る。延喜式に、「籮」をカタミと訓んでいる。和名抄に、「笭簀 四声字苑に云はく、笭簀〈零青の二音、漢語抄に加太美(かたみ)と云ふ〉は小さき籠也といふ。」とあるもので、用途の違いではなく大きさの違いということである。小林1964.に、延喜式にある「煠籠[(あふりこ)]は『内膳司式』にいう漉籠[(したみこ)]と同一のものかと推定される。漉籠もまた、ゆで餅をゆでる時に用いたものである。」(160頁)とある。今日、麺類の湯切りをする行為も、シタムということのようになっている。ただし、和名抄では、「烝」と「茹」は別項である。「烝」に、「火気の上へ行く也」と説明されており、もともとは水分の上下動のための調理用具をシタミと考えたと思うがどうなのであろうか。
今日、ふかしざるには、金属製でフレキシブルに大きさを変えることのできる商品が出ている。酒米を蒸すためのサルは、甑の底部に逆さまに伏せて入れて蒸気の通りを良くしながら米粒を落とさない仕掛け用のものである。蒸気の水分を「下」に通して「火気の上へ行く也」といえる。反対に、蒸すための笊としては、甑の大きさに合わせた竹籠を編んだものかとも思われる。和名抄の「籮(したみ)」の説明に、「底を方にして上の円なる者」とあった。そういった形に作った竹籠ならば、穴が一つの甑に落とし込んだとき、底の穴にすっぽりと納まって、蒸し上がった時、箄ごと取り出せて甑を洗う手間が要らない。竃に嵌め殺しの甕では甕を洗うことができない。あるいは、甑も洗わなかった可能性まである。廣岡2014.に、「[弥生時代の底部穿孔土器]の蒸し方では、土器内のコメを均一に蒸し上げることは期待できない。それが弥生時代の技術的な限界であったと理解してよいのではなかろうか。」(10頁)とあるものの、山口2002.に、「蒸気エネルギーは穀粒などの隙間をまんべんなく通るので変成を均質にし、エネルギー効率が高い、というメリットがある。」(64頁)とする。何段にも重ねられた蒸籠のどの段でも粽が作られている。試してみればわかることである。特に酒造にとっては、蒸すことによってデキストリンとなった米澱粉を糖化してその糖を酵母菌がアルコールに変えるという同時進行の離れ業に有効であるとされる。てきぱきと作業するには箄内蔵方式が良いように思われる。
竈に嵌め殺しで築かれた甕に常に水が張られて湯が沸いており、そこへ甑を載せるとすると、どちらも土器である甕と甑の間の隙間から湯気が逃げて行くから、コシキワラノハヒ(甑帯灰)というものが、甕と甑との間の隙間を埋めるためにあてがった藁の焦げではないかとの想定もできる。いずれ机上の論にすぎない。
液体を濾過(画像石、中国山東省嘉祥県出土、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
(つづく)
意富多多泥古という人が神の子であると知れたのは、活玉依毘売が神と交わって生れた子であったからであると物語られている。「麗美壮夫」が「夜半之時」に現れたと語っている。「夕毎」に現われたという。活玉依毘売は未婚女性だから、当然、戸締りをしているはずである。それなのに、夜になると、「夜半」なのか「夕」なのか時刻は不定期ながら寝床に現われる。合鍵を渡していたとは記されず、どういうわけかわからないと言っている。とするなら、マスターキーのようなものを持っている門の管理人が怪しいということになる。後漢書・百官志三・少府に、「黄門侍郎、六百石。本注に曰く、員無し。左右に侍従して、中に給事し、中外に関通することを掌る。諸王の殿上に朝見するに及び、王を引きて坐に就かしむ、と。(黄門侍郎、六百石。本注曰、無レ員。掌侍二-従左右一、給二-事中一、関二-通中外一。及四諸王朝三-見於二殿上一、引レ王就レ坐。)」とある。ここに「黄門」とある官職名に使われる門は宮門の小門のことで、黄色く塗られていた。黄闥とも呼ばれる。その職は、後漢の時、宦官が担った。三宝絵(観智院本、984年)・下に、「カノ黄門ハツミ人の形也」とある。宮刑に処せられた宦官であることを本邦の人が認識している(注19)。宮門(注20)の開閉を掌る小者には、宦官が当てられたと理解されている。閹人とも呼ばれる。そして、仏教では、五種不男の第五番目の人(?)として記される。それを和名抄に、「半月 内典に云はく、五種の男ならざる其の五に曰く、半月〈俗に訛りて波迩和利(はにわり)と云ふ。或説に一月(ひとつき)三十日の其の十五日、男と為り、十五日、女と為りし義也と云ふ〉といふといふ。」とある。内典とは仏教経典のことである。仏教に、月のことは月輪である。
名義抄にも、「半月 ハニワリ」とある。文献上の用例はほとんど知られない。狩谷棭斎・箋注倭名抄に、「按二五種不男一、見二法華経安楽行品一。記云、五種不男、生劇妬変レ半也。半謂二半月一。半月列在二第五一。此所レ引蓋是。又四文律云、黄門者、生黄門・犍黄門・妬黄門・変黄門・半月黄門。半月黄門者、半月能男、半月不レ能レ男。亦半月在二第五一。十誦律云、五種五能男、二半月不能男、半月能淫、半月不レ能レ淫、是為二半月不能男一。亦是事、然与二此云第五一不レ同、又玄応音義云、般荼迦此云二黄門一、其類有二五種一、四博叉般荼迦、謂二半月作レ男、半月作一レ女。注所レ引或説即是。広本或説以下作下一云謂二其体男而不レ男、一月卅日、其陰十五日為レ男、十五日為一レ女、名二半月一也上。按二波邇和利一、蓋半割之義。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/991784/94~95)とある。
サンスクリット語に、paṇḍaka を、般荼迦、半荼迦、半擇迦、半択などと漢語化し、意訳して黄門のこととしている。それをヤマトコトバにハニワリ(半月)と捉えている。ひと月のうち半分が男、半分が女のような存在、近代になって使われる、いわゆる男女(おとこおんな)である。後漢に、宦官の黄門は、宮門を自由に行き来している。閹人である。説文に、「閹 門の豎(こもの)也。宮中の奄、昏くなりて門を閉ぢる者、門に从ひ奄声」とある。門の鍵を預かっている。そんなハニワリ(半月)が「能男」となった時に、活玉依毘売は妊娠に至ったということであろう。「麗美壮夫」の登場時刻は、「夜半之時」ないし「夕」であった。夜半は夜の12時頃、東の空に現われる月は下弦の半月、夕刻に天上に見え始める月は、上弦の半月である。何としても、「半月」をほのめかそうと試みている。
活玉依毘売の父母は、初めから黄門役の「半月(はにわり)」を疑っている。「赤土(はに)」を床前に散らせている。和名抄に、「埴 釈名に云はく、土の黄にして細密なるを埴〈常職反、和名は波尓(はに)〉と曰ふといふ。」とある。記では「赤土」と表記されているが、意味的には黄色を意識している。赤色とのつながりは、月経時の血の色によるものであろう。そして、神妙ないでたちの裾に針を刺させている。朝には姿が見えなくなっているのは、朝には麻がどうなっているかという洒落でもあろうし、「鉤穴」を通り出ているということは、鉤を持っていたということの証拠である(注21)。「朝」、「麻」のアクセントは、平平で同じかと思われる。活玉依毘売が跡を辿って行っている際、それは、鉤を使って門が開けられていたということを言っている。彼女は鉤穴を通って見に行ったのではない。いつもなら閉まっているはずの門が開いていて、その開いている門を外に出て追跡している。「紡麻(うみを)」が鉤穴を通って出て行っているのは、紡麻が鉤に絡まっているから、門を閉めるはずであったところが閉まらずに、開いたままになってしまっていた。そういう事情を簡潔に表現している。
左:鈎穴と落とし(桟)(法隆寺金堂)、右:戸ぼそ後付け(横浜市金沢区・称名寺山門)
古代の鍵は、2種類に大別される。第一は、海老錠式の錠前である。第二は、クルル鉤と通称されるものである(注22)。記に、「鉤穴」とあるから、門戸に施されるクルル鉤の鉤穴である。「落とし」や「桟」、また「猿」などと呼ばれる錠となる桟を戸に設け、それを下の閾に開けた穴に下ろし、施錠するタイプである。開けるときは、鉤穴からクルル鉤と呼ばれる金属製の曲がった棒をさし入れ、桟の部分に上手に引っ掛けてひねりあげて門を開錠する。くるくるっと回すから、クルル鉤(クルリ鉤)と呼ばれ、その形もくるくるっと回ったような形状をしている。和名抄に、「鑰 四声字苑に云はく、鑰〈音は薬、字は亦、𨷲に作る。今案ずるに、俗人、印鑰の処に鎰字を用うは非也、鎰の音は溢、唐韻に見ゆ〉は関具也といふ。楊氏漢語抄に云はく、鑰匙〈門乃加岐(かぎ)〉といふ。」、「鈎匙 楊氏漢語抄に云はく、鈎匙〈戸乃加岐(かぎ)、一に加良加岐(からかぎ)と云ふ。鈎、音は古侯反〉といふ。」とあり、正倉院文書にその助数詞を「勾」とする。
記に、「閇蘇(へそ)」の緒が「三勾(みわ)」残ったと記す太安万侶のテクニックは鋭い。「勾」と用字を選ぶことによって、鉤穴を通っていく際のクルル鉤の様子まで表そうとしている。確実にそうであると言えるのは、それが門の鍵であり、その鍵がクルルという回転を言い表しているからである。門戸の形状は、枢(くるる)によって観音開きとなっている。1つの門が中央で分れて開く仕掛けである。半割、ハニワリなのが宮門、黄門である。戸(扉)の上下に凸となる戸まらを付け、下の閾(しきみ)や唐居敷と、上の楣(まぐさ)や鴨居にあけた凹となる戸ぼそを穿ち、そこに嵌め込んで回転させる仕組みである。後世の城門に見られるような頑丈な蝶番は古代には見られず、重い門戸に対応できなかったようである。すなわち、枢戸(くるるど)にクルル鉤があるのは、言葉の上で当然のことである。その鍵を預かって自由に出入りしていたのは、観音開きという半分に割れる門戸にゆかりのある、半月(はにわり)といわれる paṇḍaka 、黄門に相当する輩であった。性器がホゾになったりマラになったりする“人”、ヨリ正確には“人でなし”である。
半月(はにわり)は、月に半分男で、半分女と想定されている。つまり、「月」という女性の生理が、2カ月に1回しか訪れないということである。時間の経過が二分の一倍速である。となると、季節のめぐりも、はじめ(孟)、なか(仲)、すゑ(季)の3カ月サイクルが、6カ月サイクルへと転ずる。正月から始めて、6月の終わりがスヱに当たる。だから、祓の行事も、6月と12月の年2回でちょうど良いことになる。半月(はにわり)は祓をしなければならない対象である。仲哀記には、性に関するタブーが記されている。
……爾に驚き懼ぢて、殯宮(もがりのみや)に坐して、更に国の大奴佐(おほぬさ)を取りて、種種(くさぐさ)に生剥(いきはぎ)・逆剥(さかはぎ)・阿離(あはなち)・溝埋(みぞうめ)・屎戸(くそへ)・上通下通婚(おやこくなぎ)・馬婚(うまくなぎ)・牛婚(うしくなぎ)・鷄婚(とりくなぎ)・犬婚(いぬくなぎ)の罪の類(たぐひ)を求(ま)ぎて、国の大祓を為て、……(仲哀記)
半月(はにわり)との交わりは挙げられていないが、あってはならないクナギ(婚、タハケ)であることに違いなく、国つ罪に該当すると考えられる。したがって、ミワ(三輪)と聞けばお祓いをしようという気運が働く。今日、三輪山は神の依りつく場所として崇められ、奉られ、とても神聖な場所とばかり捉えられているが、上代の人にとっては、ミワ(三輪)という言葉(音)は、まことに不適切で困ったところ、為にお祓いをしたくなるところ、お祓いのメッカとの印象が強かったのであろう。
味酒(うまさけ)を 三輪の祝(はふり)が 忌(いは)ふ杉 手触れし罪か 君に逢ひ難き(712)
この万葉歌は、杉の木(注23)に触って神聖さを穢したというのではなく、ミワという穢れに抵触したことがいけないのである。罪になって、ないしは、罪人になって、すなわち、宮刑、腐刑にあったようなものである。男性ではなくなってしまったから、女性が逢ってくれなくなったと嘆いている。このあいだの酔っぱらった時の勃起不全は、一時的なものであるとの言い訳が聞こえてくる。この解釈は、通説以上に古代的な通念が感じられて面白いものと思われる。恋人同士のエロチックな親密さも伝わり、大人の歌として評価されよう。
女性の生理と月との関係が語られている。
爾くして美夜受比売(みやずひめ)、其の意須比(おすひ=襲衣)の襴(すそ)に、月経(さはり)を著けたり。故、其の月経を見て、御歌に曰く、
…… 汝(な)が着(け)せる 襲衣の襴に 月立ちにけり(記27)
爾くして美夜受比売、御歌に答へて曰く、
…… 我が着ける 襲衣の襴に 月立たなむよ(記28)(景行記)
「襲衣(おすひ)」は記2番歌謡、万379番歌にも見える。西郷2005.に解説されている。
襲(オスヒ) 頭からかぶって衣の上を蔽い、裾まで垂らした、後世の被衣(カヅキ)風のものといわれる。古事記では倭建命の歌……、万葉では大伴坂上郎女の祭神歌に「鹿猪(シシ)じもの、膝折り伏せて、た弱女の、オスヒ取り懸け」(三・三七九)とあり、さらに「延喜式」や「神宮儀式帳」などにその名が見える。これらからするとオスヒは婦人専用、それも主として祭式用であったらしく推測される。だが、かつては男もこれを用いたことは、女取王の「高行くや、速総別(ハヤブサワケ)の、御(ミ)オスヒ料(ガネ)」(仁徳記〔六七〕)という歌によって分る。男が女のもとに通うさいは顔を隠して行ったはずで、女鳥王が速総(隼)別のためにオスヒを織ると歌ったのも、彼が自分のもとにそれをかぶって通ってくるそのオスヒのことを意味しているに相違ない。八千矛神の出でたちもオスヒ姿であったことになる。オスヒはオソフ(重ねて着る)の名詞形オソヒの変形であろう。(93頁)
延喜式・神祇・伊勢大神宮、「大神宮の装束」条に、「帛の意須比(おすひ)八条〈長さ二丈五尺、広さ二幅〉」とある。虎尾2000.頭注に、「古代の女性の祭祀衣装で、衣服の上にかける広幅の布。」(231頁)とする。女のもとに通うための女装の小道具に転用されることは容易に想像できよう。半月であった「麗美壮夫」も、オスヒを着て活玉依毘売のもとに通ったに違いない。だから、父母は、その襴に針を刺せと命じている。「襴」のある衣装として、襲衣が一番適当であろう。「月立つ」こと、つまり、月経の跡がつく場所が、襲衣の襴として印象づけられていた。血が固まって血糊としてこびりつくから、針を刺しておいたときに引っぱられても抜けないはずであるという発想である。「閇蘇(へそ)」という言葉も、動物の臍に同じという気持ちがあったから血液の臭いがしている。女性特有の血の話である。ふつう、真っ直ぐの針を刺して仮に皮膚から血が出ても、針は容易に抜ける。それが、血が固まって抜けない状態にある。まるい月が輪を示しているなら、それもミワ(三輪)であるなら、輻を備えた車輪のことである。その輻(や)と同音の弓矢の矢(や)が抜けないとの謂いとなる。半月とは弓張月のことである。たいていは朔から数えて8日目、ヤマトコトバの数え方に、ヤ(八)である。音を聞けば矢のことが頭に浮かぶ。それも抜くに抜けない腸抉(わたくり)の矢である。返しがついており、回転によって肉体にねじ込まれているから、引き抜こうとすれば断腸の思いがするほどに痛い。罪人に対する刑罰のようなものである。
上に、「卒」の異体字「卆」について見た。説文に、「卒 隷人の事に給する者を卒と為す。古、衣を染むるを以て題識す。故に衣一に从ふ」とある。卒という字が「衣」+「一」を初文とするという見解である。真偽のほどはともかく、説文は、ヤマトの人にとって漢字文化を訳すに当たって典拠とされていた権威ある文献であった。衣に印をつけたのは、奴隷であることを表すと言っている。江戸時代に島送りにされた囚人が、入れ墨を施されていたことによく似ている。襴に印があるのなら、隷人、ここでは宦官のような半月ということとわかるという落ちになっている。paṇḍaka のような隷人と交わってしまった。血の輪が襴についている。穢れを祓わなければならない。代償に茅の輪くぐりをすることにしよう。「血」も「茅」もチ(アクセントはともに上声)で同じである。祓うこととは今に代償金を支払うことである。仲哀記に見られるように、ふつうとは違うやり方で動物の皮を剥いだり、灌漑設備に変な工作をしたり、倫理的に間違ったクナギをしたからといっても、それは金銭を以て贖えることと解釈されていた。謀反や殺人などとは異種の事柄なのである。むろん、モラルハザードは許されるものではない。モラルが侵犯されると、侵された人だけでなく、周囲の人から赤の他人に至るまで嫌悪感を覚える。何を信じたらいいかわからなくなり、社会がアノミー状態になる。そこで、定期的に、年2回、皆でお祓いをして、道徳のおさらい会になるように設定されている。反省し、悔い改める習慣を持つことは、大人の階段をのぼるための基本的な要件である。誰の智恵か知らないが、世の中を人心から安定させるうまい工夫である(注24)。
ミワが罪と関わる点については、その紡錘形の形状とも関係があろう。「閇蘇(へそ)の紡麻(うみを)」は、麻糸の製造工程のうち、繊維をつなぎあわせて半製品としたものである。次に、糸を撚る作業が控えている。絹と比べたとき、必ずしも均質とは言い難い麻も、撚りをかけていけば糸となって切れにくさが激増する。織物にも、また、釣糸のような糸単体としても便利である。ヘソは水に浸され、あるいは口でなめて、湿り気を含ませてから撚りをかける。湿り気がないと撚りをかけた時に撚りが安定しない。乾いていく過程で撚られた状態のまま繊維の絡み合いが定着し、強度が増す。水にじゃぼんと浸けられて湿っているから、床の前に散らされた「赤土(はに)」がついてくることになる。乾いた緒のままなら、「赤土」はついて来ない。話の素材として何の役割も果たさない。また、糸に撚る前の段階で針に緒を通すことはふつうしないから、「貫レ針」いていると断っていることは、話に種も仕掛けもあるとの明言になる。
紡錘車を使った糸撚り(志貴山縁起写、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2574278/15をトリミング)
鉤穴を控き通り出て行った紡麻には、撚りがかけられて行っていると想像される。上にみたとおり、鉤穴を通る際、クルル鉤を操作している。くっついている紡麻も結果的にくるくるっと回されたであろう。撚りのかけ始めである。三輪山が紡錘形をしているということは、三輪山のなかに紡錘車が隠れていて、くるくると廻しながら糸を撚っていって形作られたもの、それが三輪山であると悟られている。紡錘車は、紡茎と紡輪とからなり、紡茎を回転軸、紡輪を回転盤とし、紡輪はその重さのために遠心力を生んで回転がスムーズにすすむ(注25)。糸撚りは指先でひと撚りひと撚り行うことも可能であり、行われることもあるが、紡錘車という道具のおかげで画期的に生産性が上がった。紡輪には石製、土器製、木製、金属製、種々出土する。重みがあるほど回転の勢いはつく。まことにありがたい輪である。それが、ミ(御)+ワ(輪)という名と重なったとき、人々の脳裏には、ミワという地は紡錘車で糸を撚りあげた形をしているのだと認識されるに至る。ミ(三)+ワ(輪)とこじつける場合も、紡茎が第一のワ(輪)、紡輪が第二のワ(輪)、撚りあげられて巻き取られた糸が第三のワ(輪)に相当するとも考えられる。
その紡錘車のことは、古語に、ツミ、ツムなどと呼ばれる。和名抄に、「鍋〈紡績附〉 字書に云はく、鍋〈音は戈、字は亦、楇に作る。漢語抄に都美(つみ)と云ふ〉は紡車の絲を収むる者也といふ。唐韻に云はく、紡〈芳両反、豆无久(つむぐ)〉は續[=績]む也といふ。蒋魴切韻に云はく、績〈則歴反、宇无(うむ)〉は麻苧を續む名也といふ。」とある。ここに、ツミと呼ばれたところから、それがツミ(罪、ミは甲類)であると洒落ていると考えられる。本当なら指先で手撚りしなければならないところを、手抜きの作業を犯している。「手末(たなすゑ)の才伎(てひと)」(雄略紀七年)とは、手の末の爪(つめ)自体が離れて道具化し、効率的に糸を撚ったり布を織ったりする手品師のような存在である。言霊信仰と呼ばれるヤマトコトバを大切に扱う人にとって、駄洒落レベルとはいえ言葉(音)は言葉(音)であるから、三輪山の紡錘形は紡錘車のツミによって撚られて積み上げられており、罪深い場所であると感じられたであろう。ツミ(積、ミは甲類)とも音が合っている。なお、ツミ(紡錘車)のミの甲乙は知られないものの、ツメ(爪、メは乙類)と関係するツム(摘)という動詞に関係する語ならば、その連用形ツミのミは甲類である。
三輪山は、紡錘車によって糸が撚りあげられた形をしている。三輪山伝説に、「三勾」残してすべては「至二三輪山一而留二神社一」まっている。そこで糸作りの工程はひと段落を迎える。紡錘車を使うのはそこまで、それで終っている。留まらせて、乾いてくるのを待ち、糸の撚りが安定すれば、今度は桛(かせ)にかけて巻き直される。つまり、此処(ここ、コはともに乙類)にあった麻(そ、ソは乙類)が終わって已んでいる。これは、漢字一文字で表せば、「卆」である。「九十」はヤマトコトバにココノソ(コはともに乙類、ソは甲類)である。また、上述の箄(したみ)に「下」のニュアンスがあった。説文に、「丅 底也。指事。下は篆文に丅なり」とあり、「底 山居也。一に曰く、下也と。广に从ひ氐声」ともある。米を研いで箄にあげて水を切ることも、濁り酒を漉して絞ることも、「下む」ことは底に至って山居することになる。いま、「閇蘇紡麻」は三輪山で山居している。三輪山が酒造と関係したり、此処の麻(ここのそ)が九十(ここのそ)となって、近称から中称へと転移し、あるいは前出の語句を受けて、「彼処(そこ、ソ・コは乙類)」にあるのは、「底(そこ、ソ・コは乙類)」に至りついたということである(注26)。語学的に言って、天才的な頓智、叡智である。
究極に到り着くこととは、月(つき、キは乙類)が満ちること、それは尽き(キは乙類)ることが満ちるという自己撞着的な表現になる。ミツ(満、ミは甲類)と同音がミツ(三、ミは甲類)、つまりミツキ(三月)の90日が表わされているし、同音のミツキ(御調、ミは甲類、キは乙類)、すなわち貢納品を示唆する。穢れを祓うために代償として貢ぎ物を神に差し出したことが、後に税として公のために朝廷に献上する物品となった。白川1995.に、「古くは祭祀の料として納入したもので、もとは宗教的な行為であった。」(724頁)とある。自己撞着までをも御破算で願いましてはにするのが、祓の本質ということになる(注27)。
西郷2005.は、崇神紀の記述から、「ここでは特に大物主が蛇身であったとあるのに目を留めたい。この点、古事記はそうハッキリとはいっていないものの、「戸の鉤穴」から外に出ていったというのは、このものがやはり蛇身であるのを暗示する。」(256頁)とする(注28)。雄略紀の次の記事にある蛇身は、大物主神を“表現”したものと考えるのが適当であろう。
天皇、少子部連蜾蠃(ちひさこべのむらじすがる)に詔して曰はく、「朕(われ)、三諸岳(みもろのをか)の神の形を見むと欲ふ。或に云はく、此の山の神をば大物主神と為(い)ふといふ。或に云はく、菟田(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)なりといふ。汝(いまし)、膂力人(ちからひと)に過ぎたり。自ら行きて捉(とらへゐ)て来(まうこ)」とのたまふ。蜾蠃、答へて曰(まを)さく、「試に往きて捉えむ」とまをす。乃ち三諸岳に登り、大蛇(をろち)を捉取(とら)へて天皇に示(み)せ奉る。天皇、斎戒(ものいみ)したまはず。其の雷(かみ)虺虺(ひかりひろめ)きて、目精(まなこ)赫赫(かがや)く。天皇、畏みたまひて、目を蔽ひて見たまはずして、殿中(おほとの)に却入(かく)れたまひぬ。岳に放たしめたまふ。仍りて改めて名を賜ひて雷(いかづち)とす。(雄略紀七年七月)
「白き猪と化れるは、……其の神の正身(むざね)」(景行記)、「形は我が子、実(むざね)は神人(かみ)にますこと」(景行紀四十年七月)、「主神(かむざね)の蛇(をろち)と化(な)れる」(景行紀四十年是歳)などといったムザネは、ミ(身)+サネ(核)の意とされている。三諸山、三輪山のムザネについて言及されることはない。表面上の見かけとして蛇がとぐろを巻いたように、紡錘車に撚り紡がれた糸が積み上がるようになっている。それを表現として使っている。古語にワダマル、ワダカマルという。新撰字鏡に、「蟠 扶園反、曲也、委也、鼠員虫也、屈也、為𪖇、字又𧑓▲(虫偏に員)也、志自万留(しじまる)、又和太万留(わだまる)」、和名抄に、「蟠 野王案に、蟠〈音は煩、訓は和太加末流(わだかまる)〉は龍蛇の臥す皃也とす。」とある。ワダマルという言い方は、ワ(輪)+タマル(貯・溜)という語呂からわかりやすい。残ったのは「三勾」だけで、すべて三輪山のほうに貯まっている。また、ワダカマルという言い方は、ワ(輪)+タカ(高)+マル(円)という語呂からわかりやすい。そして、本体が鉄でできているクルル鉤の形状は、蛇がとぐろを巻こうとしている様にもよく合致している。活玉依毘売は、残った「紡麻」の「三勾」から、輪を手繰って探しに行っている。ワ(輪)+タクリ(手繰)である。近世に木綿の製造工程で、綿繰(わたくり)という機械が用いられるが、それとは異なり、紡錘車によって糸を撚っていくことも、三輪山伝説の話からワタクリであると言えよう。
そのワタクリという語は、同音に腸抉(腸繰)がある。弓の矢に鏃に返し(返り)のついたものである。弓矢は、矢羽の仕掛けによってぶれずにまっすぐ飛ぶように回転が掛かっている。糸に撚りをかけるのと理屈は同じである。糸が糸として安定して丈夫なのは、撚りをかけていくとその撚りが戻ろうとする力が働くことによって、自ずと撚りが定まる仕掛けゆえである。腸抉の場合、刺さる時には回転が掛かって捩れながら刺さる。むやみに抜こうと引くと、返しが肉や内臓を傷つける。これはクルル鉤の原理にも同じである。鍵穴にちょうど合わさるように挿し入れ、捩じり回し、元のとおりに戻して引き抜かなければならない。鏃の返しの仕掛けは古く、石鏃の考古品にも見られる。
左:腸繰(伊勢貞丈・貞丈雑記・巻之十・弓矢之部、国文学資料館・日本古典籍ビューア http://codh.rois.ac.jp/iiif/iiif-curation-viewer/index.html?pages=100249523&pos=637&lang=jaをトリミング他)、右:石鏃(佐倉市下志津新田神楽場遺跡、小野良弘氏旧蔵、国学院大学博物館展示品)
糸の撚りが戻ることで安定するという語義は、言葉の上で、道徳的に悖ることと密接な関係にあるのだろう。白川1995.に、「「もとる」は曲◆(手偏に戾、捩の旧字)(きょくれい)、むりにまげねじらせること。正常に反して罪を得ることをいう。「もどる」は「◆(もぢ)る」「擬(もど)く」と同根の語で、「文(もどろ)く」系統の語であろうが、のち「もとる」と混じて「もどる」となった。「戾(もと)る」が「◆(もぢ)る」となるのと同様である。」(754頁)とある。腸抉の鏃の形は、三菱形に近く、三角形に尖ったオモダカやクワイの葉茎の形に相同している。一度刺されば引き抜こうとするほどに、鬼のように痛い矢、元に戻すのが耐えられない矢ということである。人道的に悖る、人でなしの武器である。漢字の「人」字に似るが、意味の上では人間らしさを失っている。人のようで人でないから人でなしであり、それは鬼という言い方が適切であろう。人神が祟り神となっている、とてつもなくいやらしい存在、厭わしい存在ということである。白川1995.に、「「いと」の語源は知られない。」(121頁)とあるが、筆者は、語源のことはともかく、上代に、忌み嫌う意味の「厭ふ」ことと「糸」とはニュアンスに関連があると感じられていたと考える。
糸作りの図(巻き返しか。画像石「曾参の母」、中国、後漢時代、1~2世紀、山東省嘉祥県出土、東博展示品)
紡錘車に撚りをかけた糸は、乾いたら桛(かせ)に巻き返す。桛とはH型をした木枠で、罪人を拘束する際に嵌めた枷(かせ)に形状、様態が同じなのでそう呼ばれたようである。罪の文脈がついて回っている。カセ(桛・枷)によって糸を巻き返すことは、ツミ(紡錘車・罪)を挽回するという意味合いを感じ取っていたのであろう。枕詞ミモロツクの例に、次のような歌がある。地名「鹿背山」の音、カセ(桛・枷)つながりで冠されているものと考えられる。
…… 三諸着く 鹿背山(かせやま)の際(ま)に 咲く花の 色めづらしく ……(万1059)
三諸つく 三輪山見れば 隠口(こもくり)の 始瀬(はつせ)の檜原(ひばら) 思ほゆるかも(万1095)
糸を桛からはずしてばらけないように捻りを加えたものが綛糸(かせいと)で、糸の染色はこの段階で行う。枷は凹型の板木2枚を使って首に巻くようにかけ、両者を固定して動きの取れない拘束具として使われた。本邦では縄で後ろ手に縛りあげる技術が巧みになり、近世にはそちらが常用された。腕に綛糸を巻き返す風情が、後ろ手でクロスしていると思えばいい。一方、首枷の例も見られる。そのなかに、連枷と呼ばれるものがある。2人を前後にいっぺんに拘束して搬送するのに用いられた。中国では異民族との戦いで奴隷として内地へ送る際、使われたようである。この「連枷」という語は、もともと農具の唐竿(からさお)のことも指した。説文に、「枷 柫(からさを)也、木に从ひ加声、淮南に之れを柍と謂ふ」、「柍 禾を撃つ連枷也。木に从ひ弗声」とある。和名抄に、「連枷 陸詞切韻に云はく、連枷〈音は加、賀良佐乎(からさを)〉は穀を打つ具也といふ。釈名に云はく、枷は加也、柄頭に加へ、穂を楇(う)〈陟爪反、打つ也〉ち穀を出す所以也といふ。或に曰く、枷三杖を羅(つら)ねて之れを用うといふ。」とある。和名抄に、拘束具の方は、「盤枷 唐令に云はく、若し鉗無き者は盤枷〈音は加、日本紀私記に久比加之(くびかし)と云ふ〉を著けよといふ。」とある。「鉗」は「釱」とも書くカナキのことを指す。農具の方は、民俗用語でクルリ棒、メグイ棒(回(めぐ)り棒)などとも呼ばれる。豆類の脱粒や麦などの芒落としに長く活躍した。古代はともかく、本邦の稲品種の脱穀には向かなかったようである。持ち手と叩き棒との間に軸が入っていて、車のようにくるくる回る仕掛けになっている。これを当時の人が、霊験あらたかな輪、ミ(御)+ワ(輪)とか、回転軸となるワ(輪)、それに巻きつける握り棒側のワ(輪)、叩き棒側のワ(輪)の3つのワから、ミ(三)+ワ(輪)と捉えたかどうかはわからないが、穀物を百叩きの刑に処するのに力の要らない優れものであると思えたことは首肯できよう(注29)。
左:連枷(拘束具)(因果関係様「中国酷刑(Chinese torture)その1-枷項-」http://blog-imgs-46.fc2.com/i/n/g/ingakankei/20100617093028f57.jpg)、右:連枷(脱穀具、唐竿)(須藤功『大絵馬ものがたり』第1巻、農文協ホームページhttp://www.ruralnet.or.jp/zensyu/ohema/contents.htm)
三輪山伝説の「床前」から「美和山」へ通り出て行ったのは「紡麻(うみを)」であった。三輪山の神は大物主神で、何か知れない鬼的存在である。万葉集の歌の用字の「鬼」は、一つもオニとは訓まない。モノ(万547・664・1350・1402・2578・2694・2717・2765・2780・2947)、シコ(万117・727・3062・3270(醜の意か))、「餓鬼(がき)」(万608・3840)、マ(万3250(魔の意か))とある。紀でも、「葦原中国の邪(あ)しき鬼(もの)を撥(はら)ひ平(む)けしめむ。」(神代紀第九段本文)とある(注30)。
三輪山に関する他の伝承も、同じモチーフを別の表現にして表した展開形であると知れる。
此間(ここ)に媛女(をとめ)有り。是、神の御子と謂ふ。其の神の御子と謂ふ所以は、三嶋の湟咋(みぞくひ)が女(むすめ)、名は勢夜陀多良比売(せやだたらひめ)、其の容姿(かたち)麗美(うるは)しきが故に、美和の大物主神、見感(みめ)でて、其の美人(をとめ)の大便(くそま)らむと為(せ)し時に、丹塗矢(にぬりや)と化りて、其の大便らむと為し溝より流れ下りて、其の美人のほとを突きき。爾に其の美人、驚きて、立ち走りていすすきき。乃ち、其の矢を将(も)ち来て、床の辺に置くに、忽ちに麗しき壮夫(をとこ)と成りき。即ち其の美人を娶りて生みし子の名は、富登多多良伊須須岐比売命(ほとたたらいすすきひめのみこと)、亦の名は、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)と謂ふ。是は、其のほとと云ふ事を悪みて、後に改めし名ぞ。故、是を以て神の御子と謂ふぞ。(神武記)
是の後、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめ)、大物主神の妻(みめ)と為る。然れども其の神常に昼は見えずして夜のみ来(みた)す。倭迹迹姫命、夫(せな)に語りて曰く、「君常に昼は見えたまはねば、分明(あきらか)に其の尊顔(みかほ)を視ること得ず。願はくは暫(しまし)留りたまへ。明旦(くつるあした)に、仰ぎて美麗(うるは)しき威儀(みすがた)を覲(み)たてまつらむと欲ふ」といふ。大神対へて曰はく、「言理(ことわり)灼然(いやちこ)なり。吾、明旦に汝が櫛笥(くしげ)に入りて居らむ。願はくは吾が形にな驚きましそ」とのたまふ。爰に倭迹迹姫命、心の裏(うち)に密に異(あやし)ぶ。明くるを待ちて櫛笥を見れば、遂(まこと)に美麗しき小蛇(をろち)有り。其の長さ大(ふと)さ衣紐(したひも)の如し。則ち驚きて叫啼(さけ)ぶ。時に大神恥ぢて、忽ちに人形(ひとのかた)に化りたまふ。其の妻に謂りて曰はく、「汝、忍びずして吾に羞(はぢみ)せつ。吾還りて汝に羞せむ」とのたまふ。仍りて大虚(おほぞら)を践(ほ)みて、御諸山に登ります。爰に倭迹迹姫命、仰ぎ見て、悔いて急居(つきう)。急居、此には菟岐于(つきう)と云ふ。則ち箸に陰(ほと)を撞きて薨(かむあが)りましぬ。乃ち大市(おほち)に葬りまつる。故、時の人、其の墓を号けて箸墓(はしのみはか)と謂ふ。是の墓は、日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに、人民(おほみたから)相踵(つ)ぎて、手逓伝(たごし)にして運ぶ。(崇神紀十年九月)
神武記に、「丹塗矢」とあるのは、腸抉の矢のことである。崇神紀に「櫛笥」に入っていたのは、クルル鉤に準えたくねった様の蛇である。「人形」となったとあるのは、人の形をして人ではない、人でなしの鬼の形容である。祓の行事では、古くから人の形に似せた形代を用いている。夏越の祓の茅の輪くぐりと並立する手法であった。人形代に息を吹きかけるなどし、それを流すことで穢れを“水に流す”のである。逆言すれば、水に流せる程度のことが、祓の対象の罪なのである。
木製人形代(袴狭遺跡、奈良~平安時代、兵庫県出石郡出石町、兵庫県教育委員会蔵、国学院大学博物館展示品)
和名抄・祭祀具に、「偶人 史記に云はく、土偶人・木偶人〈偶の音は五狗反、俗に比度加太(ひとがた)と云ふ〉は、野王案に、凡そ削り物を刻み人像と為(す)るを皆偶人と曰ふといふ。」とある。現在は紙製のものが使われているが、古くは木製の人形代が多く、出土例も多く見られる。その形は漢字の「人」字に似ているが、少し脚の間に広がりがあるばかりである。木簡の下部を割り削ったような形状に見える。ヒトガタと呼びながら、金銅仏などに型を取って作る際のリアルさを欠く。まず、腕の形象が表現されていない。しかし筆者は、それで良いのだと思う。人形は祓に使うのが目的だから、罪を背負った罪人として表されたのであろうと考える。罪人は、本邦に特有の拘束の仕方、縄を使って後ろ手に手を縛り上げられる。つまり、罪を祓うのが目的の人形に腕が示されていては、かえって意味がないことになってしまう。今日、使われている紙製のそれは、古代よりも意味を込める意識が薄らいだ代物といえよう。
以上が、三輪山伝説の語学的な考証である。ミワという言葉(音)は罪ある場所と解され、人々に祓の必要性を感じさせていた。そのミワという言葉(音)を話(咄・噺・譚)として展開したのが崇神記の三輪山伝説であり、神武記、崇神紀にバリエーションが見られた。言葉のやりくりとしていちばん出来のいい説話は、崇神記の三輪山伝説である。話(咄・噺・譚)のからくりのすべては、ヤマトコトバのなかにある。比較神話学や、漢訳仏典の表記法、東アジア世界に広がる似たプロットに由縁を探しても、三輪山伝説の理解にはほとんど役に立たない(注31)。なぜなら、当時のヤマトコトバに文字はなく、話(咄・噺・譚)として口づてに伝えるしかなかったからである。口づてに伝えるには、伝えたその場その場でなるほどと相手を納得に至らしめる手管、口管が必要である。納得が得られなければもはや覚えてはもらえず、次に伝えられることもない。お話にならないのである。そのためには、当の依って立つヤマトコトバにすがるしかない。すべては言葉のなかにある。話は言葉でできている。
(注)
(注1)荒川1991.に、「人類は前五〇〇〇年ごろまでには橇を手にしていた。丸木舟と並ぶ最古の運搬具である。……純粋の橇から車への移行。その動機としてよくあげられるのはコロ説である。……人類は経験的に、丸い棒を並べその上を走らせるならば容易に動かせることを知った。コロは滑り摩擦係数を減ずるとともに、コロが回転すれば摩擦はさらに小さくなる。ただ、橇が移動すると同時に、コロを車の前部に並べ換えねばならないという面倒がつきまとう。この面倒さを解消するために、コロが車体から離れずに一定位置で回転するよう工夫したのが最初の車であったと考えるのである。それゆえ、この仮説によると、最初の車輪は車軸と一体であったのであり、その後車輪は車軸から分離、車体に固定された車軸のまわりを回転する形式に改良された、と想定される。この改良によって、摩擦が小さくなったのに加えて、両輪が独立に回転可能となり、そのため車の方向の転換が楽になる。とくに機動性が求められる戦車には有効であったにちがいない。コロ説は一つの仮説であって、それを証明する資料を提示することはできない。といって、コロ説以上に説得力のある仮説を捜し当てることはできないので、私も、いまのところはコロ説に従っておきたい。」(16~17頁)とある。車以外の回転系の技術、紡錘車と轆轤についても言及されている。三輪山伝説について、本稿のとおり車輪と紡錘車をモチーフとしており、轆轤技術については、三輪山祭祀における陶邑の須恵器との関係が指摘されよう。言葉と技術とが相即的な関係にあるという、無文字文化であるなら当たり前のことが、現代の眼からも示されている。
(注2)荒川1993.に、「車の本格的な最初の改良は、シュメールに車が出現してからほぼ一〇〇〇年後、北メソポタミアに勢力を有していたミタンニ人が牛や驢馬よりも強力な馬を繋ぎ、そしてそれまでの円盤の車輪に代えて、輻(スポーク)つきの軽量な車輪を導入したときである。機動性に優れた戦車の追求から生まれたと考えられる。機動性ということでは、四輪車よりも小回りのきく二輪車が有利であるので戦車にはもっぱら二輪の馬車が使われた。軽戦車の出現である。」(15頁)とある。
本邦には牛車ばかりで、馬車の見られるのが明治維新に下る。乗用には二輪車ではなく飾り立てられた四輪の牛車が偏重されていた。荷車として石山寺縁起に見えるものも牛車である。どうしてそのような状況に置かれていたのか、とても興味深い課題である。本論とは別の事柄であるので深入りはしないものの、荒川1991.に、牛車や駕籠は「見栄をみたすための大道具」(144頁)であったこと、「急ぎの用ということでは騎馬があ」(139頁)ること、「労働事情[として]……過剰人口を抱いた国で……飼育や訓練に手間のかかる動物の利用に熱心にならなかった」(140頁)など、示唆に富む指摘が多くなされている。技術の歴史の一筋縄では説明できない不思議さを解き明かそうと試みている。
馭者の乗らない馬車の絵(長恨歌図屏風、筆者不詳、紙本金地着色、江戸時代、17世紀、東博展示品)
(注3)荒川1991.132頁を踏襲して、櫻井2012.に、「日本へ車の技術を伝えたのは、四~六世紀の高句麗からの渡来人であろうといわれている。大和王権の周辺に移り住んだ高句麗の工人たちが伝えた多くの新技術の一つに車もあったと考えられる。これは高句麗の古墳壁画に残る曲蓋式牛車と平安時代の牛車が外見や車の構造が似ているからである。」(2頁)とある。筆者には、日本の牛車が高句麗に由来するとの説に疑問が残る。通溝・舞踊塚古墳玄室奥左側の図は、狩猟図であり、牛車は幌付きの荷車である。そのような車は、牽引は馬ではあるが後漢の時代の画像石にも見られる。平安時代の貴族は、大陸に荷車であった幌付き牛車を乗用車にしたということであろうか。何が似ていて何が似ていないのか、論点がよくわからない。
左:舞踊塚古墳・狩猟図(수렵도<무용총>http://www.gwedu.net/technote7/board.php?board=koreanpainting&config=3&command=body&no=162&category=26)、中:陝北画像石墓 神木大保当画像石(後漢時代、看点快报https://kuaibao.qq.com/s/20191030A0K82X00?refer=spider)、右:三彩牛車・馭者(陶製、中国、唐時代、7世紀、横河民輔氏寄贈、東博展示品)
(注4)老子・無用第十一に、「卅(みそ)の輻(や)、一つの轂(こしき)を共(とも)にす。其の無に当りて車の用有り。埴(つち)を挻(こ)ねて以て器(うつわもの)を為(つく)る。其の無に当りて器の用有り。戸牖を鑿(うが)ちて以て室を為る。其の無に当りて室の用有り。故に有(う)の以て利と為(す)るは、無の以て用を為せばなり。」とある。阿部・山本ほか1966.は、「このような訳であるから、有すなわち存在するものが人々に利をもたらすのは、無すなわち存在しないもの隠れたるものが働きをなすからである。」(28頁)と無用の用について訳している。
老子のあげている例が、轂、土器、住まいであるのと、本稿で見渡した轂、甑、橧とがとてもよく対応している。そこには何らかの関係があるのか、祓という実質を伴わない“無用の用”的儀礼の意義にまで及ぶ事柄なのか、今のところ不明である。憲法十七条に、老子からの修辞に学んだ句が見える点に手掛かりが求められるかもしれない。後考を俟ちたい。(注23)参照。
(注5)樋口1987.に、次のようにある。今日の考古学上の通説とは異なる点があるかも知れないが、示唆の多い指摘である。
……東洋ではイネやオオムギの伝播に伴いで粒食が好まれた。中国新石器時代土器に袋形をなした三脚を有する鬲(れき)や底部に若干の小孔を穿った甑(こしき)、また鬲と甑を結合させた甗(こしき)などがあり、これは明らかに穀類を粒のまま蒸すのに使用したもので、それらは青銅器時代に入っても同形に鋳造盛用されている。このような穀物を蒸す技術は、米の流入と共に日本に伝わったらしく、弥生式土器の前期のものにすでに甑が存在している。わが国における甑(こしき)の用法は、この中に布で包んだり、篭・笊に入れた米を入れて固く蓋をし、火にかけて湯の沸き立っている甕や鉢形土器の上に載せ、水蒸気で蒸した。古墳時代には甑、釜、竈(移動性のもの)がセットになった遺物が存在し、蒸す方法が一層発達したことが知られる。甑の底の蒸気孔の上には木の葉(カシワ、シイ潤葉樹やサトイモ、ハスの葉、マコモ、アシなどの葉や竹の編物)を敷いた場合も多く、そのことからカシワは炊事の代名詞となりその専従者をかしわで[かしはで](膳部)とよぶようになったとする説もある。蒸す方法は古代の米の調理法の代表とされ蒸した米をいひとよんだ。(70~71頁)
和名抄にある「箄(いひしたみ)」とは、蒸すためのシタミということになる。甑の中にセットされたものを指している可能性も残る。延喜式に、「籮」をカタミと訓んでいる。和名抄に、「笭簀 四声字苑に云はく、笭簀〈零青の二音、漢語抄に加太美(かたみ)と云ふ〉は小さき籠也といふ。」とあるもので、用途の違いではなく大きさの違いということである。小林1964.に、延喜式にある「煠籠[(あふりこ)]は『内膳司式』にいう漉籠[(したみこ)]と同一のものかと推定される。漉籠もまた、ゆで餅をゆでる時に用いたものである。」(160頁)とある。今日、麺類の湯切りをする行為も、シタムということのようになっている。ただし、和名抄では、「烝」と「茹」は別項である。「烝」に、「火気の上へ行く也」と説明されており、もともとは水分の上下動のための調理用具をシタミと考えたと思うがどうなのであろうか。
今日、ふかしざるには、金属製でフレキシブルに大きさを変えることのできる商品が出ている。酒米を蒸すためのサルは、甑の底部に逆さまに伏せて入れて蒸気の通りを良くしながら米粒を落とさない仕掛け用のものである。蒸気の水分を「下」に通して「火気の上へ行く也」といえる。反対に、蒸すための笊としては、甑の大きさに合わせた竹籠を編んだものかとも思われる。和名抄の「籮(したみ)」の説明に、「底を方にして上の円なる者」とあった。そういった形に作った竹籠ならば、穴が一つの甑に落とし込んだとき、底の穴にすっぽりと納まって、蒸し上がった時、箄ごと取り出せて甑を洗う手間が要らない。竃に嵌め殺しの甕では甕を洗うことができない。あるいは、甑も洗わなかった可能性まである。廣岡2014.に、「[弥生時代の底部穿孔土器]の蒸し方では、土器内のコメを均一に蒸し上げることは期待できない。それが弥生時代の技術的な限界であったと理解してよいのではなかろうか。」(10頁)とあるものの、山口2002.に、「蒸気エネルギーは穀粒などの隙間をまんべんなく通るので変成を均質にし、エネルギー効率が高い、というメリットがある。」(64頁)とする。何段にも重ねられた蒸籠のどの段でも粽が作られている。試してみればわかることである。特に酒造にとっては、蒸すことによってデキストリンとなった米澱粉を糖化してその糖を酵母菌がアルコールに変えるという同時進行の離れ業に有効であるとされる。てきぱきと作業するには箄内蔵方式が良いように思われる。
竈に嵌め殺しで築かれた甕に常に水が張られて湯が沸いており、そこへ甑を載せるとすると、どちらも土器である甕と甑の間の隙間から湯気が逃げて行くから、コシキワラノハヒ(甑帯灰)というものが、甕と甑との間の隙間を埋めるためにあてがった藁の焦げではないかとの想定もできる。いずれ机上の論にすぎない。
液体を濾過(画像石、中国山東省嘉祥県出土、後漢時代、1~2世紀、東博展示品)
(つづく)