垂仁紀三十四年に、天皇が山背に行幸して、その地で評判の綺戸辺(かむはたとべ)という美人を召し入れたという記事がある。
三十四年の春三月の乙丑の朔丙寅に、天皇、山背に幸(いでま)す。時に左右(もとこひと)奏(まを)して言(まを)さく、「此の国に佳人(かほよきをみな)有(はべ)り。綺戸辺(かむはたとべ)と曰(まを)す。姿形(かほかたち)美麗(よ)し。山背大避(やましろのおほさひ)が女(むすめ)なり」とまをす。天皇、茲(ここ)に、矛(みほこ)を執りて祈(うけ)ひて曰はく、「必ず其の佳人に遇はば、道路(みち)に瑞(みつ)見えよ」とのたまふ。行宮(かりみや)に至ります比(ころほひ)に、大亀(おほかめ)、河の中より出づ。天皇、矛を挙げて亀を剌したまふ。忽(たちまち)に石と化為(な)る。左右に謂(かた)りて曰はく、「此の物に因りて推(おしはか)るに、必ず験(しるし)有らむか」とのたまふ。仍りて綺戸辺を喚(め)して、後宮(うちつみや)に納(めしい)る。磐衝別命(いはつくわけのみここと)を生む。是は三尾君(みをのきみ)の始祖(はじめのおや)なり。是より先に、山背の苅幡戸辺(かりはたとべ)を娶したまふ。三(みたり)の男(ひこみこ)を生む。第一(みあに)を祖別命(おほぢわけのみこと)と曰(まを)す。第二(つぎ)を五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)と曰す。第三(つぎ)に膽武別命(いたるわけのみこと)と曰す。五十日足彦命、是子は石田君の始祖なり。(垂仁紀三十四年三月)
本文は、多くを熱田本によった。原文に、「山背大避」とある。一般には、記の「山背大国之大遅」を採って、紀本文に誤字・脱落があり、「山背大国不遅」と校訂されている(注1)。筆者は、記とは別の名義によって語られていると考える。以下検討する。
綺戸辺の名に関して、大系本日本書紀補注に、「綺は、文様が斜めになった織物をいう。従って、語源は斜行する蟹の機 (はた)、蟹繒(カニハタ)であろう。名義抄にはカムバタとあるから、kaniFata→kanFata→kambata という音変化であろう。また、和名抄に「似レ錦而薄者也〈加無波太〉」とあり、山城国相楽郡蟹幡郷(今、京都府相楽郡山城町綺田付近)を「加無波多」ともある。しかし新訳八十巻華厳経音義私記(奈良朝末)には「綺、加尼波多」とあるから、奈良朝ではカニハタが正しかったであろう。綺戸辺はこの辺の人であろう。記に弟苅羽田刀弁とある。開化記にも苅幡戸弁なる人名がみえ、このあたり、所伝が紛らわしい。」((二)353~354頁)とある(注2)。カムハタを音便形とし、もともとはカニハタのはずだからここもカニハタと訓むべきであるとの説が通行している。斜めに進む蟹のような機なるものを想定して語源とし、解釈するのは強引である。別に神機(かむはた)を語源とする説も見られる。
機は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)からなっている。蟹の斜行するような機とはどのようなものか、想像することは難しい。斜めの文様を蟹の横歩きに譬えた時、その見立てでカニハタと呼ぶことがあったとしても、それが語源であるとしてすべてを音転で説明しきれるか疑問である。紀の傍訓にカムハタとあるのは、それとは別の考え方をし、そう訓むことが正しいと認め、そう訓んでいるものと考えられる。
白地山菱文錦(沢田2014.№36図)
機は縦横に糸を交差させて織物を作り出す。上代に、「綺」がどのようなものであったかについては、実のところ謎としか言えない(注3)。有力な説に、文様を任意に浮かせた浮文錦のうち、平組織になる平地浮文錦のことを指すと考えられている。綺羅星の如しという言い方のとおり、綺は羅と同様に、薄地に仕上がった絹製品であったろう。平織の過程で浮き糸を生じさせて浮文様とした。実際に織っていく過程において機とのかかわりで名づけるとするなら、機が正確にきちんと平織りすることができずに、噛んでしまっている様子を見ていたのではないか。意図的に噛むようにして浮文様を作る機だからカムハタである。白川1995.に、「かむ〔嚼・醸(釀)〕 四段。歯でよく嚙んで咀嚼(そしゃく)する。酒を作るときにも、米を嚙み砕いて作ったので、醸造するときの「釀(か)む」意にも用いる。両者は同源の語である。類義語の「くふ」は食いついてくわえる意。「かむ」は歯を合せて動かすことをいう。」(254頁)とある。歯を合わせて動かすことは、ただ交差させるばかりではない。わかりやすい例として、牛の咀嚼する様子を見ていると、反芻も含めて顎を左右にずらしながら噛んでいる。臼歯に入る筋目が縦だから、横に擦るようにしている(注4)。そのように、整序的な上下動のみではない点が、「噛む」ことの真髄である。機織り時にも、上下している糸の整序が崩れて糸が飛びずれていく点に、噛んでいるかのように認められるわけである。それは、言葉を話すときに流暢にし損なって何度も言い直すことを、現代の口頭語に「噛む」ということに等しい(注5)。「綺」はカムハタと訓まれてしかるべきと理解でき、対して、正確に織られる単純の平織りの場合は、食(く)ふ機であるとでも思ったのではないか。
平地浮文織の概念図
この考えが正しいと言えるのは、この説話がウケヒ(祈・誓・誓約)にまつわる話だからである。ウケヒは古代の誓約を伴った占い法である。実際の事柄がどのようになるのか占うために、目の前のことでどうなるか仮定して言葉に発しておいて、将来を予想する(注6)。時に狩りの結果をもって事態の成り行きを占うことが行われた。「祈狩(うけひがり)」(神功紀元年二月)である。そのウケヒの代表例として、天照大神(天照大御神)と素戔嗚尊(須佐之男命)の「誓約(うけひ)」が名高い(注7)。
……「請ふ、姉と共に誓(うけ)はむ。夫れ誓約(うけひ)の中に……必ず当に子を生むべし。……」とのたまふ。是に、天照大神、乃ち素戔嗚尊の十握剣(とつかのつるぎ)を索(こ)ひ取りて、打ち折りて三段(みきだ)に為して、天真名井(あまのまない)に濯(ふりすす)ぎて、𪗾然(さがみ)に咀嚼(か)みて、吹き棄(う)つる気噴(いふき)の狭霧(さぎり)に生まるる神を、号けて田心姫(たこりひめ)と曰す。……既にして素戔嗚尊、天照大神の髻鬘(みいなだき)及び腕(たぶさ)に纏かせる、八坂瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)を乞ひ取りて、天真名井に濯ぎて、𪗾然に咀嚼みて、吹き棄つる気噴の狭霧に生まるる神を、号けまつりて正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)と曰す。(神代紀第六段本文)
故爾くして各(おのおの)天の安の河を中に置きて、うけふ時、天照大御神、先づ建速須佐之男命の佩ける十拳剣を乞ひ度(わた)して、三段(みきだ)に打ち折りて、ぬなとももゆらに天の真名井に振り滌(すす)ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹(いふき)の狭霧に成れる神の御名は、多紀理毘売命(たきりひめのみこと)。……速須佐之男命、天照大御神の左の御みづらに纏ける八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百津(いほつ)のみすまるの珠を乞ひ度して、ぬなとももゆらに、天の真名井に振り滌ぎて、さがみにかみて、於き吹つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほのみこと)。亦、右の御みづらに纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)。亦、御𦆅(みかづら)に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、天津日子根命(あまつひこのみこと)。又、左の御手に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、活津日子根命(いくつひこねのみこと)。亦、右の御手に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)。(記上)
「誓約」の際には、サガミニカム(𪗾然咀嚼)ことが行われた。前言して言葉にしておくことが本来のウケヒの姿であるが、このウケヒはその代替として、サガミニカムことが行われている。垂仁紀三十四年条でも、「祈(うけ)ひ」が行われている。だから、「綺」は絶対にカム(噛)ことと関係があるのである。カムハタである。そして、出てきたのは亀(かめ、メは乙類)である。動詞「噛む」の已然形に同音で、すでに噛んでしまったこと、つまりは、前言どおりなのだということを、もちろん洒落として表わしている。
垂仁紀三十七年条でも、ウケヒの話として作られながら、本当なら亀が出てきてコンニチハのどこが「吉」兆なのか知れたものではないのにそう決めてかかっている(注8)。それと同様に、須佐之男命(素戔嗚尊)はウケヒを行っていながら、占いの結果がどうであれ、自分に都合の好いように解釈し、勝った勝ったと勝ち誇っている。ウケヒの判定が適当なのである。
爾くして、速須佐之男命、天照大御神に白さく、「我が心、清く明きが故に、我が生める子は、手弱女(たわやめ)を得つ。此に因りて言はば、自づから我勝ちぬ」と云ひて、勝ちさびに、天照大御神の営田(つくりた)のあを離ち、其の溝を埋み、亦、其の大嘗(おほにへ)を聞し看(め)す殿に屎(くそ)まり散しき。(記上)
垂仁天皇のウケヒの性格とよく似ている。「因レ此言者、……」(記上)と「因二此物一而推之、……」(垂仁紀)とは同類の思考である。どのようにでも解釈し得るものを自分勝手に推量しているその考えを、周りの他の人に披歴してそのとおりであろうと強弁している。これによって考えるとそういうことになるだろう、と公言して憚らない。判断の仕方でどうにでも解釈できるのだから、言ったもの勝ちである。記では、その形容に、「勝ちさびに」とある。勝ち誇っているから、垂仁紀で、「矛(ほこ)」の話題になっている。白川1995.の「ほこる〔誇・矜〕」の項に、「矜(きょう)は今(きん)声。〔説文〕一四上に「矛(ほこ)の柄(え)なり」とする。……矜に矛(ほこ)を構えて威厳を示す意があるとすれば、そこから「矜(ほこ)る」の訓義を導くことができよう。矜を矛(ほこ)に従う字であるが、国語の「ほこる」は「ほこ」とは直接の関係はない。ただ同根の系列語と考えられたものか、矜の字を用いることが多い。」(676頁)とある。古代の人に同根という意識があったか定かではない。言葉は音でできている。同じ音が聞こえたら、もともとの語意がどうであろうと、また、たとえ文脈的に異なろうとも、両者になにかしら関係性を見出そうとする思いが芽生えることは、無文字時代の言語生活に当然のことであろう。
亀を見つけている。「比レ至二行宮一、大亀出二河中一。」とある。行宮(かりみや)に近づいてから亀を見つけて矛で突いたことになっている。そのような説明がなぜ必要なのか。そもそも何のために「幸二山背一」しているのか。天皇の行幸の目的として、狩りをすることがあった。この垂仁天皇の記事も、狩りが目的であったのだろう。狩りは、禽獣を捕まえるのがふつうである。白鳥や鶴、鴨、鹿、猪、雉、菟などである。和名抄で亀貝部に属する亀を狩りの獲物にした例は知られない。この記事では、矛を使って亀を刺している。変なカリ(狩)だから、カリミヤ(仮宮・行宮)の近くでのこととされている(注9)。そして、亀を刺したら石になったという。
右:石突、左:邪鬼(広目天立像、木造彩色截金、平安時代、12世紀、京都、浄瑠璃寺、東博展示品)
鐓(中国、戦国時代、前5~前3世紀、青銅、一部金銀象、東博展示品)
矛は、諸刃になった尖った刃をしていて、長い柄が付き、突き刺して用いられる。新撰字鏡に、「鉾 保己(ほこ)」、和名抄に、「戟 楊雄方言に云はく、戟〈九劇反、保己(ほこ)〉は或に之れを于と謂ひ、或に之れを戈〈古禾反〉と謂ふ。」、「矛 釈名に手戟を矛〈音謀、字亦鉾に作る。天保古(てほこ)〉と曰ひ、人の持たる也。」とある。長い柄を地面に立てるときには、柄の先を損じないように金属製の保護部材が取り付けられている。中国の青銅器では、平らなものを鐓(たい)、尖っているものを鐏(そん)と称している。本邦に、いずれも石突と呼ばれている。日葡辞書に、「Ixizzuqi. イシヅキ(石突) 杖,槍などの末端に取り付けてある鉄の金具.」(349頁)とある。長い柄のもとが石突でありつつ、刃で刺した亀が石に変じて石を突いた状態になっている。石突としてふさわしいから、「挙レ矛刺レ亀」したことは、矛の矛らしい様子を表していると知れる。ホコラシとは誇らし、つまり、勝ちさびにしてウケヒの定番であることになる。内容も勝ちさび的にウケヒの結果を好きなように解釈している。本当に瑞祥であったと認められるのか、実際のところは記されていない。結果は、「仍喚二綺戸辺一納二于後宮一」とあるばかりである。ウケヒの文言では、「必遇二佳人一、道路見レ瑞」とあった。必ず佳人に遇うのであれば道路で瑞祥が見える、と言っておいて、そのとおりになったのなら、ウケヒはまともに機能している。そのとおりにならずに逆の結果に終わっても、ウケヒはきちんと機能している。ところが実際は、亀を見つけて矛で刺したら石になっている。それを霊験あらたかであると捉える解釈は勝手である。瑞祥であると捉えることもできれば、そうでないと捉えることもできる。実際のところ、記事を読む限り、「佳人(かほよきひと)」に遭遇したのではなく、役人たちに探させて後宮に召し入れただけである。
矛と誇るとが言葉の上で何か関係があるかのように感じられて話が作られている。ウケヒにおいて、ホコという音に関係する言葉に、ホク(祝・祷(禱))という語がある。よい結果が得られますようにと、祝い事を言うことである。事=言とする言霊信仰の下では、言葉にすれば事柄も同じくなると思われていたから、祝い事を言うことは今日以上に意義あることであった。そして、そのホク(祝・祷)に反復・継続の接尾語がつけば、ホカフ(寿)となる。その連用形名詞のホカヒは、祝い事の意である(注10)。
…… 我を措(お)きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば ……(万892)
焼太刀の かど打ち放ち 大夫(ますらを)の 寿(ほ)く豊御酒に 吾れ酔(ゑ)ひにけり(万989)
時に中臣の遠祖(とほつおや)天児屋命(あまのこやねのみこと)、則ち以て神祝(かむほき)に祝(ほさ)きき。(神代紀第七段一書第二)
乃ち矢を取りて、呪(ほ)きて曰はく、(神代紀第九段一書第一)
……室寿(むろほき)して曰はく、……(顕宗前紀)
言寿き〈古語に許止保企(ことほき)と云ふ。寿詞と言へるは今の寿觴(さかほかひ)の詞の如し。〉(延喜式・祝詞・大殿祭(おほとのほかひ))
…… 少御神(すくなみかみ)の 神寿(かむほ)き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻(もとほ)し ……(記39)
祠 似慈似移二反、春祭也、継也、々猶食也、保加不(ほかふ)(新撰字鏡)
皇太后、觴(みさかづき)を挙(ささ)げて太子に寿(さかほかひ)したまふ。(神功紀十三年二月)
庚(はなひる)るは則ち祷言(ほかひこと)す(世俗諺文・上巻)
実際にはまだ起こっていない良いことを、そうなりますようにと願ってホクことをしている。それを繰り返すことがホカフことである。そうならなければ、言≠事となって嘘八百を並べていることになる。言葉が事柄から外れている。これは、ホカ(外)+イヒ(言)の約縮であるとも考え得る。言葉がそのように成り来ったということではなく、そのように理解して間違いではないしわかりやすいということである。ホカ(外)という語は、中心から外れているところ、ある境界の外側のところをいう。ホは、ハ(端)・ヘ(辺)の母音交替形とされる。カは、アリカ(在処)、スミカ(住処)など場所を表す。つまり、ホカ(外)はハタ(端)のことで、機(はた)に同音である。「綺戸辺(かむはたとべ)」という名は、ホカ的な名であると印象される。そして、別の形になることは、「異形(ほかしきかたち)」という。亀が石に変わっている。
門の外(ほか)に井有り。(神代紀第十段一書第一、東山御文庫本訓)
荒礒(ありそ)越し 外(ほか)行く波の 外心(ほかごころ) 吾れは思はじ 恋ひて死ぬとも(万2134)
損敗他形〈上滅也、敗沮也、他形は倭に保可之伎可多知(ほかしきかたち)、又異形〉(新訳華厳経音義私記)
「綺戸辺」の親の名は、熱田本に「山背大避(やましろのおほさひ)」と訓まれている。山背のヤマには、mountain の意のほかに、山陵、ツカ(塚・墳・墓)の意がある。シロは、代わりとなるもののことである。ツカ(墳墓)には同音にツカ(束・柄)がある。いま、矛という、掴むところばかり肥大している武器を手にしている。そして、「避」にサヒと傍訓がある。「障ひ(ヒは甲類)」の意で、鉏(さひ)と同音である。
…… 大刀(たち)ならば 呉(くれ)の真鉏(まさひ) ……(紀103)
鉏のなかでも大きな鉏にして、長い柄のついた物とは、矛である。だから、矛を持ち出してウケヒが行われている。
「綺」は、錦や綾のようなもので斜行文様のものであるとされていた。多色の錦に対して、綾は単色で、織り筋を斜めに出す。多色にして斜め文様をしているのが「綺」と捉えられていたのではないか。アヤの同音に感動詞のアヤがあり、その形容詞形はアヤシ(怪・奇)である。
綺 墟彼反、繒也、繍也、阿也(あや)(新撰字鏡)
綾〈紋附〉 野王案ずるに、綾〈音陵、阿夜(あや)には就[熟]線綾、長連綾、二足綾、花文綾平綾等名有り。〉は 綺に似て細き者也と曰ふ。考声切韻に云はく、紋〈音文〉は呉越に小綾を謂ふ也といふ。(和名抄)
…… 綾垣(あやかき)の ふはやが下に ……(記上)
是、神(あや)しき剣なり。(神代紀第八段本文)
奇(あや)しき鳥来て杜(かつら)の抄(すゑ)に居り。(神代紀第九段本文、丹鶴本訓)
乃ち金色(こがね)の霊(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。(神武前紀戊午年十二月)
…… 我が国は 常世にならむ 図(ふみ)負へる 神(あや)しき亀も 新代と 泉の河に ……(万50)
万50番歌原文の「神亀」は、クスシキカメともアヤシキカメとも訓める。甲羅の亀甲文の図様のことと考えると、ここはアヤシキと訓んで、綾織のことを連想させたほうが適切であろう。
亀が石になっている。石の甕(かめ)ということであろう。カメのメはいずれも乙類である。石の甕に水を入れておく。設定は山背国である。ヤマシロが山城の意に聞こえたなら、山城には水をいかに貯えておくかが喫緊の課題である。籠城するのに水がなくなったらおしまいである(注11)。そんな山城に亀が河の中から出てきて石甕になったとするなら、これほど幸いなことはない。だから、垂仁天皇の言に瑞祥としたのであろう。水があるのだから、「瑞(みづ)」があると言っている。水分のことは汁(しる)だから、霊験あらたかな験(しるし)であると洒落ている。
それが本当であるのは、山城を築くことは、戦闘時の要塞、すなわち、砦としての性格が強いことから証明される。日葡辞書に、「Toride.トリデ(砦) 本城の近所にある城,または,要塞で,その本城を一層よく守り,警備するためのもの。下(Ximo)ではDaxixiro(出し城)と言う.」(666頁)とある。戦略攻防において仮設的に構築されることも多い。トリデという音は、鳥手と聞こえる。鳥の手で水にかかわりがあって瑞なるもの、素敵なものと言えば、水掻き(蹼)があげられる。また、同音に、瑞垣がある。和名抄に、「蹼 尓雅集注に云はく、蹼〈音卜、美豆加岐(みづかき)〉は鳬雁の足指の間に幕有り、相連なり着く者也といふ。」、「瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に美豆加岐(みづかき)と云ふ。一に以賀岐(いがき)と云ふ。〉といふ。」とある。万葉集には、「少女(をとめ)らを 袖振山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけり吾れは」(万501・2415)とある。
左:瑞垣(天狗草紙(延暦寺本)、紙本着色、鎌倉時代、13世紀、東博展示品)、右:蹼(堀田禽譜・水禽・かもめ、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0063729をトリミング)
山の砦に木柵の垣根を立て囲い、その内側に兵士を配置して守った。斎垣ともいわれる瑞垣には隙間がなく、水も漏らさぬほどに堅牢な防御態勢が敷かれた。まことに水鳥の蹼に等しい。設定が山背なら、どう転んでも瑞祥に決まっていることになっている。そして、山背に築かれた山城の砦は、仮設の城だから仮宮に当たる。仮宮はふだんの宮から離れたところに作られる。離れていることはホカ(外)と言ったから、ホカツミヤに当たり、その対義語はウチツミヤ(内宮・後宮)である。綺戸辺はホカの地からウチへと納(めしい)れられた。
以上がヤマトコトバによってあやしくあやなされた綺戸辺にまつわる逸話である。現代の歴史学や神話学の観点からは、何を伝えようとしているのか一向にわからない。せいぜい、染織品として綺という織物が伝わっていたことぐらいしか見出せない。その際、わからない話、荒唐無稽な話が綴られているというのではなく、現代人の考え方の枠組みでは理解できない思考法が古代に厳然としてあったのであると、われわれ自身の固陋な考え方を反省すべきである。それは、無文字時代の人々の知恵が、われわれの追随を許さぬほどに深く豊かで、驚きの言語活動を行っていたことを示唆する。識字によって失った人類の可能性は測り知れない。
(注)
(注1)ほかにも、北野本の「石」字の右傍に、「白イ本」とあり、兼右本の「白石」字の左傍に、「イ无」とある。この部分を「白石」とする考えがある。新編全集本日本書紀に、「白は瑞祥。「白石」は美女の象徴であること、……[垂仁紀二年是歳条一云に、]「白石…美麗(かほよき)童女(をとめ)に化(な)りぬ」とあり、雄略紀二十二年七月条にも「大亀(かめ)を得たり。便(たちまち)に女に化為(な)る」とみえる。以上の神異譚は綺戸辺を神聖な女性として、天皇の妻たるにふさわしいことをいうため。」(①327頁)とする。古語拾遺に、「白猪(しろゐ)・白馬・白鶏(しろかけ)を献る。」(御歳神)とあるのも参考にされているものか。けれども、この話より前に苅幡戸辺が娶られているが、何の話も仕組まれていない。垂仁紀二年是歳条一云の分注記事では、「白石」(「神石」)は「美麗童女(かほよきをとめ)」に化けたが姿を消してしまって、「比売語曾社神(ひめごそのやしろのかみ)」となっている。ここに亀が石になったことが神異譚であるとしても、それはウケヒの話であり、亀が綺戸辺に成り代ったわけではない。
(注2)熱田本傍訓にカンハタトヘ、兼右本傍訓にカニハタトヘとある。
(注3)本邦において、どのような織物を綺と呼んだか、見本帳が残っているわけではないからわからない。正倉院文書に、経巻に「綺緒」、「綺帯」を用い、持統紀四年四月条に、朝服に「綺帯」の名称があることから、紐状の織物とする見解がある。その形状に、数色の糸を束ねて一縷としたものを緯糸に、絣様の横縞文様に織り上げたものとする説がある(日本染織辞典、染織事典)。一方、紀元前の中国の墓から出土する「綺」は、上代の染織品のうち、平地浮文織と称しているものに当たるので、それであるとする説がある(染と織の鑑賞基礎知識)。また、中国でも、綺の意味は時代により異なるともされ、漢代のものは菱形を主とした幾何学模様を斜行組織で織ったもので、唐代のものは二色の色緯糸で文様を表すものをいうという(原色染織大辞典)。
(注4)象の場合は、臼歯に横に筋目が入っているので顎を前後にずらしながら噛んでいる。本邦に、ナウマンゾウがいなくなって久しく、ヤマトコトバのカム(噛)には、人間に同じく縦の筋目のものを横にずらすことが念頭にあったと考えられる。つまり、カムハタ(綺)は、平織で緯糸を通すときに経糸を飛ばして浮模様を構成しているものと考えられる。
(注5)拙稿「古事記におけるウケヒについて」参照。
(注6)土橋1988.は、「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、A´ならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである。」(55~56頁)とする。
(注7)古事記の須佐之男命のウケヒにおいて、予測的仮定明言がないことを不審視する議論が行われている。拙稿「古事記におけるウケヒについて」参照。
(注8)亀を吉兆とする例は、「己卯、左京職、亀を献る。長さ五寸三分、闊(ひろ)さ四寸五分。其の背に文(ふみ)有りて云はく、「天王貴平知百年」といふ。(己卯、左京職献レ亀。長五寸三分、闊四寸五分。其背有レ文云、天王貴平知百年。)」(続紀・聖武天皇・天平元年六月)とある。この例をもって垂仁紀三十四年条に敷衍適用することには無理がある。一方は亀が石になっており、他方は亀の背におめでたい言葉が文字として浮かび上がっている。
(注9)紀に仮宮が設営されたとき、日本書紀の現代史に当たる天武・持統朝を除き、「行宮」(「離宮」、「行館」)の置かれたところには名がつけられることが多い。「高嶋宮(たかしまのみや)」(神武前紀乙卯年三月)、「京(みやこ)」(景行紀十二年九月)、「高屋宮(たかやのみや)」(景行紀十二年十一月)、「高田行宮(たかたのかりみや)」(景行紀十八年七月)、「笥飯宮(けひのみや)」(仲哀紀二年二月)、「耳梨行宮(みみなしのかりみや)」(推古紀九年五月)、「子代離宮(こしろのかりみや)」(孝徳紀大化二年二月)、「蝦蟇行宮(かはづのかりみや)」(大化二年九月是月)、「武庫行宮(むこのかりみや)」(大化三年十二月)、「倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)」(白雉四年是歳)、「石湯行宮(いはゆのかりみや)」(斉明紀七年正月)、「磐瀬行宮(いはせのかりみや)」(斉明紀七年三月)とある。引っ切りなしに遷都するのが常態であった。建築学的には、宮が掘っ立て柱形式だったからであろう。
(注10)万3885題詞に、「乞食者(ほかひびと)の詠(うた)二首」、和名抄に、「乞児 列子に云はく、齊に貧者有り、常に城市に乞ふ、乞児は天下の辱、是より過ぎたるは莫しといふ。〈楊氏漢語抄に云はく、乞索児、保加比々斗(ほかひびと)といふ。今案ずるに乞索児は即ち乞児、是也、和名、加多井(かたゐ)といふ。〉」とある。これらホカヒビトが物もらい、乞食の意なのは、祝言を言いながら人家の門に立って食べ物を乞うたからという。
(注11)河村誓真・築城記(1565年)に、「山城ノ事可レ然相見也。然共水無レ之ハ無レ詮候間。努々水ノ手遠はこしらへべからず。又水ノ有山をも尾ツゞキをホリ切。水ノ近所ノ大木ヲ切て。其後水の留事在レ之。能々水ヲ試て山を可レ拵也。人足等無躰にして聊爾ニ取カカリ不レ可レ然。返々出水之事肝要候條分別有ベシ。末代人数の命を延事は山城ノ徳と申也。城守も天下ノ覚ヲ蒙也。日夜辛労ヲ積テ可レ拵事肝心也。」(群書類従第23輯、297頁。漢字の旧字体は改めた。)とある。
(引用文献)
群書類従第23輯 塙保己一編『群書類従・第二十三輯 武家部』続群書類従完成会、昭和5年。
原色染織大辞典 坂倉寿郎・野村喜八・元井能・吉川清兵衛・吉田光邦監修『原色染織大辞典』淡交社、1977年。
沢田2014. 沢田むつ代「正倉院所在の法隆寺献納宝物染織品―錦と綾を中心に―」『正倉院紀要』第36号、平成26年。(http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Bulletin/Pdf?bno=0363039095)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集② 日本書紀①』小学館、1994年。
染織事典 中江克己『染織事典』泰流社、1987年。
染と織の鑑賞基礎知識 小笠原小枝『染と織の鑑賞基礎知識』至文堂、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
土橋1988. 土橋寛『日本古代の呪禱と説話―土橋寛論文集 下―』塙書房、平成元年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
日本染織辞典 上村六郎・辻合喜代太郎・辻村次郎編『日本染織辞典』東京堂出版、昭和53年。
三十四年の春三月の乙丑の朔丙寅に、天皇、山背に幸(いでま)す。時に左右(もとこひと)奏(まを)して言(まを)さく、「此の国に佳人(かほよきをみな)有(はべ)り。綺戸辺(かむはたとべ)と曰(まを)す。姿形(かほかたち)美麗(よ)し。山背大避(やましろのおほさひ)が女(むすめ)なり」とまをす。天皇、茲(ここ)に、矛(みほこ)を執りて祈(うけ)ひて曰はく、「必ず其の佳人に遇はば、道路(みち)に瑞(みつ)見えよ」とのたまふ。行宮(かりみや)に至ります比(ころほひ)に、大亀(おほかめ)、河の中より出づ。天皇、矛を挙げて亀を剌したまふ。忽(たちまち)に石と化為(な)る。左右に謂(かた)りて曰はく、「此の物に因りて推(おしはか)るに、必ず験(しるし)有らむか」とのたまふ。仍りて綺戸辺を喚(め)して、後宮(うちつみや)に納(めしい)る。磐衝別命(いはつくわけのみここと)を生む。是は三尾君(みをのきみ)の始祖(はじめのおや)なり。是より先に、山背の苅幡戸辺(かりはたとべ)を娶したまふ。三(みたり)の男(ひこみこ)を生む。第一(みあに)を祖別命(おほぢわけのみこと)と曰(まを)す。第二(つぎ)を五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)と曰す。第三(つぎ)に膽武別命(いたるわけのみこと)と曰す。五十日足彦命、是子は石田君の始祖なり。(垂仁紀三十四年三月)
本文は、多くを熱田本によった。原文に、「山背大避」とある。一般には、記の「山背大国之大遅」を採って、紀本文に誤字・脱落があり、「山背大国不遅」と校訂されている(注1)。筆者は、記とは別の名義によって語られていると考える。以下検討する。
綺戸辺の名に関して、大系本日本書紀補注に、「綺は、文様が斜めになった織物をいう。従って、語源は斜行する蟹の機 (はた)、蟹繒(カニハタ)であろう。名義抄にはカムバタとあるから、kaniFata→kanFata→kambata という音変化であろう。また、和名抄に「似レ錦而薄者也〈加無波太〉」とあり、山城国相楽郡蟹幡郷(今、京都府相楽郡山城町綺田付近)を「加無波多」ともある。しかし新訳八十巻華厳経音義私記(奈良朝末)には「綺、加尼波多」とあるから、奈良朝ではカニハタが正しかったであろう。綺戸辺はこの辺の人であろう。記に弟苅羽田刀弁とある。開化記にも苅幡戸弁なる人名がみえ、このあたり、所伝が紛らわしい。」((二)353~354頁)とある(注2)。カムハタを音便形とし、もともとはカニハタのはずだからここもカニハタと訓むべきであるとの説が通行している。斜めに進む蟹のような機なるものを想定して語源とし、解釈するのは強引である。別に神機(かむはた)を語源とする説も見られる。
機は、経糸(たていと)と緯糸(よこいと)からなっている。蟹の斜行するような機とはどのようなものか、想像することは難しい。斜めの文様を蟹の横歩きに譬えた時、その見立てでカニハタと呼ぶことがあったとしても、それが語源であるとしてすべてを音転で説明しきれるか疑問である。紀の傍訓にカムハタとあるのは、それとは別の考え方をし、そう訓むことが正しいと認め、そう訓んでいるものと考えられる。
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機は縦横に糸を交差させて織物を作り出す。上代に、「綺」がどのようなものであったかについては、実のところ謎としか言えない(注3)。有力な説に、文様を任意に浮かせた浮文錦のうち、平組織になる平地浮文錦のことを指すと考えられている。綺羅星の如しという言い方のとおり、綺は羅と同様に、薄地に仕上がった絹製品であったろう。平織の過程で浮き糸を生じさせて浮文様とした。実際に織っていく過程において機とのかかわりで名づけるとするなら、機が正確にきちんと平織りすることができずに、噛んでしまっている様子を見ていたのではないか。意図的に噛むようにして浮文様を作る機だからカムハタである。白川1995.に、「かむ〔嚼・醸(釀)〕 四段。歯でよく嚙んで咀嚼(そしゃく)する。酒を作るときにも、米を嚙み砕いて作ったので、醸造するときの「釀(か)む」意にも用いる。両者は同源の語である。類義語の「くふ」は食いついてくわえる意。「かむ」は歯を合せて動かすことをいう。」(254頁)とある。歯を合わせて動かすことは、ただ交差させるばかりではない。わかりやすい例として、牛の咀嚼する様子を見ていると、反芻も含めて顎を左右にずらしながら噛んでいる。臼歯に入る筋目が縦だから、横に擦るようにしている(注4)。そのように、整序的な上下動のみではない点が、「噛む」ことの真髄である。機織り時にも、上下している糸の整序が崩れて糸が飛びずれていく点に、噛んでいるかのように認められるわけである。それは、言葉を話すときに流暢にし損なって何度も言い直すことを、現代の口頭語に「噛む」ということに等しい(注5)。「綺」はカムハタと訓まれてしかるべきと理解でき、対して、正確に織られる単純の平織りの場合は、食(く)ふ機であるとでも思ったのではないか。
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この考えが正しいと言えるのは、この説話がウケヒ(祈・誓・誓約)にまつわる話だからである。ウケヒは古代の誓約を伴った占い法である。実際の事柄がどのようになるのか占うために、目の前のことでどうなるか仮定して言葉に発しておいて、将来を予想する(注6)。時に狩りの結果をもって事態の成り行きを占うことが行われた。「祈狩(うけひがり)」(神功紀元年二月)である。そのウケヒの代表例として、天照大神(天照大御神)と素戔嗚尊(須佐之男命)の「誓約(うけひ)」が名高い(注7)。
……「請ふ、姉と共に誓(うけ)はむ。夫れ誓約(うけひ)の中に……必ず当に子を生むべし。……」とのたまふ。是に、天照大神、乃ち素戔嗚尊の十握剣(とつかのつるぎ)を索(こ)ひ取りて、打ち折りて三段(みきだ)に為して、天真名井(あまのまない)に濯(ふりすす)ぎて、𪗾然(さがみ)に咀嚼(か)みて、吹き棄(う)つる気噴(いふき)の狭霧(さぎり)に生まるる神を、号けて田心姫(たこりひめ)と曰す。……既にして素戔嗚尊、天照大神の髻鬘(みいなだき)及び腕(たぶさ)に纏かせる、八坂瓊(やさかに)の五百箇(いほつ)の御統(みすまる)を乞ひ取りて、天真名井に濯ぎて、𪗾然に咀嚼みて、吹き棄つる気噴の狭霧に生まるる神を、号けまつりて正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊(まさかあかつかちはやひあまのおしほみみのみこと)と曰す。(神代紀第六段本文)
故爾くして各(おのおの)天の安の河を中に置きて、うけふ時、天照大御神、先づ建速須佐之男命の佩ける十拳剣を乞ひ度(わた)して、三段(みきだ)に打ち折りて、ぬなとももゆらに天の真名井に振り滌(すす)ぎて、さがみにかみて、吹き棄つる気吹(いふき)の狭霧に成れる神の御名は、多紀理毘売命(たきりひめのみこと)。……速須佐之男命、天照大御神の左の御みづらに纏ける八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百津(いほつ)のみすまるの珠を乞ひ度して、ぬなとももゆらに、天の真名井に振り滌ぎて、さがみにかみて、於き吹つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命(まさかつあかつかちはやひあめのおしほのみこと)。亦、右の御みづらに纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、天之菩卑能命(あめのほひのみこと)。亦、御𦆅(みかづら)に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、天津日子根命(あまつひこのみこと)。又、左の御手に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、活津日子根命(いくつひこねのみこと)。亦、右の御手に纏ける珠を乞ひ度して、さがみにかみて、吹き棄つる気吹の狭霧に成れる神の御名は、熊野久須毘命(くまのくすびのみこと)。(記上)
「誓約」の際には、サガミニカム(𪗾然咀嚼)ことが行われた。前言して言葉にしておくことが本来のウケヒの姿であるが、このウケヒはその代替として、サガミニカムことが行われている。垂仁紀三十四年条でも、「祈(うけ)ひ」が行われている。だから、「綺」は絶対にカム(噛)ことと関係があるのである。カムハタである。そして、出てきたのは亀(かめ、メは乙類)である。動詞「噛む」の已然形に同音で、すでに噛んでしまったこと、つまりは、前言どおりなのだということを、もちろん洒落として表わしている。
垂仁紀三十七年条でも、ウケヒの話として作られながら、本当なら亀が出てきてコンニチハのどこが「吉」兆なのか知れたものではないのにそう決めてかかっている(注8)。それと同様に、須佐之男命(素戔嗚尊)はウケヒを行っていながら、占いの結果がどうであれ、自分に都合の好いように解釈し、勝った勝ったと勝ち誇っている。ウケヒの判定が適当なのである。
爾くして、速須佐之男命、天照大御神に白さく、「我が心、清く明きが故に、我が生める子は、手弱女(たわやめ)を得つ。此に因りて言はば、自づから我勝ちぬ」と云ひて、勝ちさびに、天照大御神の営田(つくりた)のあを離ち、其の溝を埋み、亦、其の大嘗(おほにへ)を聞し看(め)す殿に屎(くそ)まり散しき。(記上)
垂仁天皇のウケヒの性格とよく似ている。「因レ此言者、……」(記上)と「因二此物一而推之、……」(垂仁紀)とは同類の思考である。どのようにでも解釈し得るものを自分勝手に推量しているその考えを、周りの他の人に披歴してそのとおりであろうと強弁している。これによって考えるとそういうことになるだろう、と公言して憚らない。判断の仕方でどうにでも解釈できるのだから、言ったもの勝ちである。記では、その形容に、「勝ちさびに」とある。勝ち誇っているから、垂仁紀で、「矛(ほこ)」の話題になっている。白川1995.の「ほこる〔誇・矜〕」の項に、「矜(きょう)は今(きん)声。〔説文〕一四上に「矛(ほこ)の柄(え)なり」とする。……矜に矛(ほこ)を構えて威厳を示す意があるとすれば、そこから「矜(ほこ)る」の訓義を導くことができよう。矜を矛(ほこ)に従う字であるが、国語の「ほこる」は「ほこ」とは直接の関係はない。ただ同根の系列語と考えられたものか、矜の字を用いることが多い。」(676頁)とある。古代の人に同根という意識があったか定かではない。言葉は音でできている。同じ音が聞こえたら、もともとの語意がどうであろうと、また、たとえ文脈的に異なろうとも、両者になにかしら関係性を見出そうとする思いが芽生えることは、無文字時代の言語生活に当然のことであろう。
亀を見つけている。「比レ至二行宮一、大亀出二河中一。」とある。行宮(かりみや)に近づいてから亀を見つけて矛で突いたことになっている。そのような説明がなぜ必要なのか。そもそも何のために「幸二山背一」しているのか。天皇の行幸の目的として、狩りをすることがあった。この垂仁天皇の記事も、狩りが目的であったのだろう。狩りは、禽獣を捕まえるのがふつうである。白鳥や鶴、鴨、鹿、猪、雉、菟などである。和名抄で亀貝部に属する亀を狩りの獲物にした例は知られない。この記事では、矛を使って亀を刺している。変なカリ(狩)だから、カリミヤ(仮宮・行宮)の近くでのこととされている(注9)。そして、亀を刺したら石になったという。
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矛は、諸刃になった尖った刃をしていて、長い柄が付き、突き刺して用いられる。新撰字鏡に、「鉾 保己(ほこ)」、和名抄に、「戟 楊雄方言に云はく、戟〈九劇反、保己(ほこ)〉は或に之れを于と謂ひ、或に之れを戈〈古禾反〉と謂ふ。」、「矛 釈名に手戟を矛〈音謀、字亦鉾に作る。天保古(てほこ)〉と曰ひ、人の持たる也。」とある。長い柄を地面に立てるときには、柄の先を損じないように金属製の保護部材が取り付けられている。中国の青銅器では、平らなものを鐓(たい)、尖っているものを鐏(そん)と称している。本邦に、いずれも石突と呼ばれている。日葡辞書に、「Ixizzuqi. イシヅキ(石突) 杖,槍などの末端に取り付けてある鉄の金具.」(349頁)とある。長い柄のもとが石突でありつつ、刃で刺した亀が石に変じて石を突いた状態になっている。石突としてふさわしいから、「挙レ矛刺レ亀」したことは、矛の矛らしい様子を表していると知れる。ホコラシとは誇らし、つまり、勝ちさびにしてウケヒの定番であることになる。内容も勝ちさび的にウケヒの結果を好きなように解釈している。本当に瑞祥であったと認められるのか、実際のところは記されていない。結果は、「仍喚二綺戸辺一納二于後宮一」とあるばかりである。ウケヒの文言では、「必遇二佳人一、道路見レ瑞」とあった。必ず佳人に遇うのであれば道路で瑞祥が見える、と言っておいて、そのとおりになったのなら、ウケヒはまともに機能している。そのとおりにならずに逆の結果に終わっても、ウケヒはきちんと機能している。ところが実際は、亀を見つけて矛で刺したら石になっている。それを霊験あらたかであると捉える解釈は勝手である。瑞祥であると捉えることもできれば、そうでないと捉えることもできる。実際のところ、記事を読む限り、「佳人(かほよきひと)」に遭遇したのではなく、役人たちに探させて後宮に召し入れただけである。
矛と誇るとが言葉の上で何か関係があるかのように感じられて話が作られている。ウケヒにおいて、ホコという音に関係する言葉に、ホク(祝・祷(禱))という語がある。よい結果が得られますようにと、祝い事を言うことである。事=言とする言霊信仰の下では、言葉にすれば事柄も同じくなると思われていたから、祝い事を言うことは今日以上に意義あることであった。そして、そのホク(祝・祷)に反復・継続の接尾語がつけば、ホカフ(寿)となる。その連用形名詞のホカヒは、祝い事の意である(注10)。
…… 我を措(お)きて 人は在らじと 誇ろへど 寒くしあれば ……(万892)
焼太刀の かど打ち放ち 大夫(ますらを)の 寿(ほ)く豊御酒に 吾れ酔(ゑ)ひにけり(万989)
時に中臣の遠祖(とほつおや)天児屋命(あまのこやねのみこと)、則ち以て神祝(かむほき)に祝(ほさ)きき。(神代紀第七段一書第二)
乃ち矢を取りて、呪(ほ)きて曰はく、(神代紀第九段一書第一)
……室寿(むろほき)して曰はく、……(顕宗前紀)
言寿き〈古語に許止保企(ことほき)と云ふ。寿詞と言へるは今の寿觴(さかほかひ)の詞の如し。〉(延喜式・祝詞・大殿祭(おほとのほかひ))
…… 少御神(すくなみかみ)の 神寿(かむほ)き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻(もとほ)し ……(記39)
祠 似慈似移二反、春祭也、継也、々猶食也、保加不(ほかふ)(新撰字鏡)
皇太后、觴(みさかづき)を挙(ささ)げて太子に寿(さかほかひ)したまふ。(神功紀十三年二月)
庚(はなひる)るは則ち祷言(ほかひこと)す(世俗諺文・上巻)
実際にはまだ起こっていない良いことを、そうなりますようにと願ってホクことをしている。それを繰り返すことがホカフことである。そうならなければ、言≠事となって嘘八百を並べていることになる。言葉が事柄から外れている。これは、ホカ(外)+イヒ(言)の約縮であるとも考え得る。言葉がそのように成り来ったということではなく、そのように理解して間違いではないしわかりやすいということである。ホカ(外)という語は、中心から外れているところ、ある境界の外側のところをいう。ホは、ハ(端)・ヘ(辺)の母音交替形とされる。カは、アリカ(在処)、スミカ(住処)など場所を表す。つまり、ホカ(外)はハタ(端)のことで、機(はた)に同音である。「綺戸辺(かむはたとべ)」という名は、ホカ的な名であると印象される。そして、別の形になることは、「異形(ほかしきかたち)」という。亀が石に変わっている。
門の外(ほか)に井有り。(神代紀第十段一書第一、東山御文庫本訓)
荒礒(ありそ)越し 外(ほか)行く波の 外心(ほかごころ) 吾れは思はじ 恋ひて死ぬとも(万2134)
損敗他形〈上滅也、敗沮也、他形は倭に保可之伎可多知(ほかしきかたち)、又異形〉(新訳華厳経音義私記)
「綺戸辺」の親の名は、熱田本に「山背大避(やましろのおほさひ)」と訓まれている。山背のヤマには、mountain の意のほかに、山陵、ツカ(塚・墳・墓)の意がある。シロは、代わりとなるもののことである。ツカ(墳墓)には同音にツカ(束・柄)がある。いま、矛という、掴むところばかり肥大している武器を手にしている。そして、「避」にサヒと傍訓がある。「障ひ(ヒは甲類)」の意で、鉏(さひ)と同音である。
…… 大刀(たち)ならば 呉(くれ)の真鉏(まさひ) ……(紀103)
鉏のなかでも大きな鉏にして、長い柄のついた物とは、矛である。だから、矛を持ち出してウケヒが行われている。
「綺」は、錦や綾のようなもので斜行文様のものであるとされていた。多色の錦に対して、綾は単色で、織り筋を斜めに出す。多色にして斜め文様をしているのが「綺」と捉えられていたのではないか。アヤの同音に感動詞のアヤがあり、その形容詞形はアヤシ(怪・奇)である。
綺 墟彼反、繒也、繍也、阿也(あや)(新撰字鏡)
綾〈紋附〉 野王案ずるに、綾〈音陵、阿夜(あや)には就[熟]線綾、長連綾、二足綾、花文綾平綾等名有り。〉は 綺に似て細き者也と曰ふ。考声切韻に云はく、紋〈音文〉は呉越に小綾を謂ふ也といふ。(和名抄)
…… 綾垣(あやかき)の ふはやが下に ……(記上)
是、神(あや)しき剣なり。(神代紀第八段本文)
奇(あや)しき鳥来て杜(かつら)の抄(すゑ)に居り。(神代紀第九段本文、丹鶴本訓)
乃ち金色(こがね)の霊(あや)しき鵄(とび)有りて、飛び来りて皇弓(みゆみ)の弭(はず)に止れり。(神武前紀戊午年十二月)
…… 我が国は 常世にならむ 図(ふみ)負へる 神(あや)しき亀も 新代と 泉の河に ……(万50)
万50番歌原文の「神亀」は、クスシキカメともアヤシキカメとも訓める。甲羅の亀甲文の図様のことと考えると、ここはアヤシキと訓んで、綾織のことを連想させたほうが適切であろう。
亀が石になっている。石の甕(かめ)ということであろう。カメのメはいずれも乙類である。石の甕に水を入れておく。設定は山背国である。ヤマシロが山城の意に聞こえたなら、山城には水をいかに貯えておくかが喫緊の課題である。籠城するのに水がなくなったらおしまいである(注11)。そんな山城に亀が河の中から出てきて石甕になったとするなら、これほど幸いなことはない。だから、垂仁天皇の言に瑞祥としたのであろう。水があるのだから、「瑞(みづ)」があると言っている。水分のことは汁(しる)だから、霊験あらたかな験(しるし)であると洒落ている。
それが本当であるのは、山城を築くことは、戦闘時の要塞、すなわち、砦としての性格が強いことから証明される。日葡辞書に、「Toride.トリデ(砦) 本城の近所にある城,または,要塞で,その本城を一層よく守り,警備するためのもの。下(Ximo)ではDaxixiro(出し城)と言う.」(666頁)とある。戦略攻防において仮設的に構築されることも多い。トリデという音は、鳥手と聞こえる。鳥の手で水にかかわりがあって瑞なるもの、素敵なものと言えば、水掻き(蹼)があげられる。また、同音に、瑞垣がある。和名抄に、「蹼 尓雅集注に云はく、蹼〈音卜、美豆加岐(みづかき)〉は鳬雁の足指の間に幕有り、相連なり着く者也といふ。」、「瑞籬 日本紀私記に云はく、瑞籬〈俗に美豆加岐(みづかき)と云ふ。一に以賀岐(いがき)と云ふ。〉といふ。」とある。万葉集には、「少女(をとめ)らを 袖振山の 瑞垣の 久しき時ゆ 思ひけり吾れは」(万501・2415)とある。
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山の砦に木柵の垣根を立て囲い、その内側に兵士を配置して守った。斎垣ともいわれる瑞垣には隙間がなく、水も漏らさぬほどに堅牢な防御態勢が敷かれた。まことに水鳥の蹼に等しい。設定が山背なら、どう転んでも瑞祥に決まっていることになっている。そして、山背に築かれた山城の砦は、仮設の城だから仮宮に当たる。仮宮はふだんの宮から離れたところに作られる。離れていることはホカ(外)と言ったから、ホカツミヤに当たり、その対義語はウチツミヤ(内宮・後宮)である。綺戸辺はホカの地からウチへと納(めしい)れられた。
以上がヤマトコトバによってあやしくあやなされた綺戸辺にまつわる逸話である。現代の歴史学や神話学の観点からは、何を伝えようとしているのか一向にわからない。せいぜい、染織品として綺という織物が伝わっていたことぐらいしか見出せない。その際、わからない話、荒唐無稽な話が綴られているというのではなく、現代人の考え方の枠組みでは理解できない思考法が古代に厳然としてあったのであると、われわれ自身の固陋な考え方を反省すべきである。それは、無文字時代の人々の知恵が、われわれの追随を許さぬほどに深く豊かで、驚きの言語活動を行っていたことを示唆する。識字によって失った人類の可能性は測り知れない。
(注)
(注1)ほかにも、北野本の「石」字の右傍に、「白イ本」とあり、兼右本の「白石」字の左傍に、「イ无」とある。この部分を「白石」とする考えがある。新編全集本日本書紀に、「白は瑞祥。「白石」は美女の象徴であること、……[垂仁紀二年是歳条一云に、]「白石…美麗(かほよき)童女(をとめ)に化(な)りぬ」とあり、雄略紀二十二年七月条にも「大亀(かめ)を得たり。便(たちまち)に女に化為(な)る」とみえる。以上の神異譚は綺戸辺を神聖な女性として、天皇の妻たるにふさわしいことをいうため。」(①327頁)とする。古語拾遺に、「白猪(しろゐ)・白馬・白鶏(しろかけ)を献る。」(御歳神)とあるのも参考にされているものか。けれども、この話より前に苅幡戸辺が娶られているが、何の話も仕組まれていない。垂仁紀二年是歳条一云の分注記事では、「白石」(「神石」)は「美麗童女(かほよきをとめ)」に化けたが姿を消してしまって、「比売語曾社神(ひめごそのやしろのかみ)」となっている。ここに亀が石になったことが神異譚であるとしても、それはウケヒの話であり、亀が綺戸辺に成り代ったわけではない。
(注2)熱田本傍訓にカンハタトヘ、兼右本傍訓にカニハタトヘとある。
(注3)本邦において、どのような織物を綺と呼んだか、見本帳が残っているわけではないからわからない。正倉院文書に、経巻に「綺緒」、「綺帯」を用い、持統紀四年四月条に、朝服に「綺帯」の名称があることから、紐状の織物とする見解がある。その形状に、数色の糸を束ねて一縷としたものを緯糸に、絣様の横縞文様に織り上げたものとする説がある(日本染織辞典、染織事典)。一方、紀元前の中国の墓から出土する「綺」は、上代の染織品のうち、平地浮文織と称しているものに当たるので、それであるとする説がある(染と織の鑑賞基礎知識)。また、中国でも、綺の意味は時代により異なるともされ、漢代のものは菱形を主とした幾何学模様を斜行組織で織ったもので、唐代のものは二色の色緯糸で文様を表すものをいうという(原色染織大辞典)。
(注4)象の場合は、臼歯に横に筋目が入っているので顎を前後にずらしながら噛んでいる。本邦に、ナウマンゾウがいなくなって久しく、ヤマトコトバのカム(噛)には、人間に同じく縦の筋目のものを横にずらすことが念頭にあったと考えられる。つまり、カムハタ(綺)は、平織で緯糸を通すときに経糸を飛ばして浮模様を構成しているものと考えられる。
(注5)拙稿「古事記におけるウケヒについて」参照。
(注6)土橋1988.は、「……ウケヒは過去・現在・未来の知ることのできない「真実」(「神意」ではない)を知るための卜占の方法として、また誓約(約束すること)を「真実」なものにするための方法として、実修される言語呪術であり、「もしAならば、A´ならむ」という形式は、「こう言えば、こうなる」という言霊信仰に基づく呪文の形式にほかならない。従来ウケヒを「真実」でなく、神意を知るための方法と解してきたのは、第一に呪術としての卜占の結果を神意の現われとする偏った宗教観念に災されたためであり、第二に「祈」「禱」などの漢字表記に惑わされたためである。」(55~56頁)とする。
(注7)古事記の須佐之男命のウケヒにおいて、予測的仮定明言がないことを不審視する議論が行われている。拙稿「古事記におけるウケヒについて」参照。
(注8)亀を吉兆とする例は、「己卯、左京職、亀を献る。長さ五寸三分、闊(ひろ)さ四寸五分。其の背に文(ふみ)有りて云はく、「天王貴平知百年」といふ。(己卯、左京職献レ亀。長五寸三分、闊四寸五分。其背有レ文云、天王貴平知百年。)」(続紀・聖武天皇・天平元年六月)とある。この例をもって垂仁紀三十四年条に敷衍適用することには無理がある。一方は亀が石になっており、他方は亀の背におめでたい言葉が文字として浮かび上がっている。
(注9)紀に仮宮が設営されたとき、日本書紀の現代史に当たる天武・持統朝を除き、「行宮」(「離宮」、「行館」)の置かれたところには名がつけられることが多い。「高嶋宮(たかしまのみや)」(神武前紀乙卯年三月)、「京(みやこ)」(景行紀十二年九月)、「高屋宮(たかやのみや)」(景行紀十二年十一月)、「高田行宮(たかたのかりみや)」(景行紀十八年七月)、「笥飯宮(けひのみや)」(仲哀紀二年二月)、「耳梨行宮(みみなしのかりみや)」(推古紀九年五月)、「子代離宮(こしろのかりみや)」(孝徳紀大化二年二月)、「蝦蟇行宮(かはづのかりみや)」(大化二年九月是月)、「武庫行宮(むこのかりみや)」(大化三年十二月)、「倭飛鳥河辺行宮(やまとのあすかのかはらのかりみや)」(白雉四年是歳)、「石湯行宮(いはゆのかりみや)」(斉明紀七年正月)、「磐瀬行宮(いはせのかりみや)」(斉明紀七年三月)とある。引っ切りなしに遷都するのが常態であった。建築学的には、宮が掘っ立て柱形式だったからであろう。
(注10)万3885題詞に、「乞食者(ほかひびと)の詠(うた)二首」、和名抄に、「乞児 列子に云はく、齊に貧者有り、常に城市に乞ふ、乞児は天下の辱、是より過ぎたるは莫しといふ。〈楊氏漢語抄に云はく、乞索児、保加比々斗(ほかひびと)といふ。今案ずるに乞索児は即ち乞児、是也、和名、加多井(かたゐ)といふ。〉」とある。これらホカヒビトが物もらい、乞食の意なのは、祝言を言いながら人家の門に立って食べ物を乞うたからという。
(注11)河村誓真・築城記(1565年)に、「山城ノ事可レ然相見也。然共水無レ之ハ無レ詮候間。努々水ノ手遠はこしらへべからず。又水ノ有山をも尾ツゞキをホリ切。水ノ近所ノ大木ヲ切て。其後水の留事在レ之。能々水ヲ試て山を可レ拵也。人足等無躰にして聊爾ニ取カカリ不レ可レ然。返々出水之事肝要候條分別有ベシ。末代人数の命を延事は山城ノ徳と申也。城守も天下ノ覚ヲ蒙也。日夜辛労ヲ積テ可レ拵事肝心也。」(群書類従第23輯、297頁。漢字の旧字体は改めた。)とある。
(引用文献)
群書類従第23輯 塙保己一編『群書類従・第二十三輯 武家部』続群書類従完成会、昭和5年。
原色染織大辞典 坂倉寿郎・野村喜八・元井能・吉川清兵衛・吉田光邦監修『原色染織大辞典』淡交社、1977年。
沢田2014. 沢田むつ代「正倉院所在の法隆寺献納宝物染織品―錦と綾を中心に―」『正倉院紀要』第36号、平成26年。(http://shosoin.kunaicho.go.jp/ja-JP/Bulletin/Pdf?bno=0363039095)
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集② 日本書紀①』小学館、1994年。
染織事典 中江克己『染織事典』泰流社、1987年。
染と織の鑑賞基礎知識 小笠原小枝『染と織の鑑賞基礎知識』至文堂、1998年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(二)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
土橋1988. 土橋寛『日本古代の呪禱と説話―土橋寛論文集 下―』塙書房、平成元年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳日葡辞書』岩波書店、1980年。
日本染織辞典 上村六郎・辻合喜代太郎・辻村次郎編『日本染織辞典』東京堂出版、昭和53年。