大化改新の詔には、祓除をする愚俗について言及がある。本稿では、それらを仔細に検討する。
大化二年三月の甲申の詔には、いわゆる薄葬令、旧俗の廃止、愚俗の改廃、馬の制の実施、市の管理、魚酒型労働の禁止といった条項が並び立つ。そのうちの愚俗の改廃を説く件において、「如二是等一類愚俗」として挙げているもののうち、「祓除」を含むものは、(1)widow が死別後10~20年経過した後に再婚し、一緒にその娘が初めて結婚する時に、夫婦となった人たちを妬んで祓除をすることが多いこと(下条の⑤)、(2)辺境から駆り出された伇民が、任期が終わって帰郷する日に路頭で急に病死したら、路頭の家の人はどうして自分の家の前で死なせたのかといって、その仲間を拘束して強引に祓除させるため、兄が死んでも弟は身柄を引き取らないことが多いこと(同⑧)、(3)川で溺死した人に出くわしたら、どうして溺れ死んだ人に会せたのかといって、その仲間を拘束して強引に祓除させるため、兄が溺れても弟は救わないことが多いこと(同⑨)、(4)伇民が路頭で炊飯をしたら、その前の家の人は、どうして自分の家の前で煮炊きをするのかといって強引に祓除をさせること(同⑩)、(5)人がよその家に甑を借りて炊飯したところ、たまたま甑が物に触れてひっくり返ったら、甑の持ち主はすぐに祓除をさせること(同⑪)、である。「如二是等一類愚俗」の「是」をうけている部分以降にも、馬の問題で起きている祓除がある。預かった馬が牝馬で、自分の家で身籠って仔馬を生んだら、祓除をさせて自分のものにしてしまうのだという(同⑫)。便宜的に条文に番号を振った。
①復(また)、見て見ずと言ひ、見ずして見たりと言ひ、聞きて聞かずと言ひ、聞かずして聞きたりと言ふもの有り。都(かつ)て正(まさ)しく語り正しく見ること無くして、巧みに詐(いつ)はる者多し。
②復、奴婢(をのこやつこめのこやつこ)有りて、主(あろじ)の貧しく困(たしな)めるを欺(あざむ)きて、自ら勢家(とめるいへ)に託(つ)きて、活(わたらひ)を求む。勢家、仍りて強(あなが)ちに留め買ひて、本主(もとのあろじ)に送らざる者多し。
③復、妻妾(めをみな)有りて、夫(をうと)の為に放(す)てられ、日を之(ゆ)き年を経て後に、他(ひと)に適(とつ)ぐは恒の理(ことわり)なり。而るを此の前夫(もとのをうと)、三四年(みとせよとせ)の後に、後夫(いまのをうと)の財物(たからもの)を貪り求めて、己が利(くほさ)とする者、甚だ衆し。
④復、勢(いきほひ)を恃(たの)む男(をのこ)有りて、浪(みだ)りに他(ひと)の女(むすめ)と要(ことむす)びて、未だ納(むか)へざる際(あひだ)に、女自らに人に適げらば、其の浪りに要びし者、嗔(いか)りて両(ふた)つの家の財物を求めて、己が利とする者、甚だ衆し。
⑤復、夫を亡(うしな)へる婦(め)有りて、若しは十年、廿年を経て、人に適(とつ)ぎて婦と為り、幷せて未だ嫁がざる女(むすめ)、始めて人に適ぐ時に、是に、斯の夫婦を妬みて、祓除(はらへ)せしむること多し。
⑥復、妻(め)の為に嫌はれ離たれし者有りて、特(ひとり)悩まさるるを慚愧(は)づるに由りて、強(あながち)に事瑕(ことさか)の婢(めのやつこ)とす。事瑕、此には居騰作柯(ことさか)と云ふ。
⑦復、屡(しばしば)己が婦を他(ひと)に姧(かだ)めりと嫌(うたが)ひて、好みて官司(つかさ)に向(ゆ)きて、決(ことわり)請(まを)すこと有り。仮使(たとひ)、明(あきらか)なる三(みやり)の證(あかしひと)を得とも、俱(とも)に顕(あらは)し陳(まを)さしめて、然(しかう)して後に諮(まを)すべし。詎(いかに)ぞ浪りに訴ふることを生(な)さむ。
⑧復、伇(つか)はるる辺畔(ほとりのくに)の民(おほみたから)有り、事了りて郷(くに)に還る日に、忽然(にはか)に得疾(やまひ)して路頭(みちのほとり)に臥死(し)ぬ。是に、路頭の家、乃ち謂(かた)りて曰く、「何の故か人をして余路(あがあたり)に死なしむる」といひて、因りて死にたる者の友伴(ともがき)を留めて、強に祓除せしむ。是に由りて、兄(このかみ)路に臥死ぬと雖(いふと)も、其の弟(おとと)収めざる者多し。
⑨復、百姓(おほみたから)有りて、河に溺(おぼほ)れ死ぬ。逢(みあ)へたる者、乃ち謂ひて曰く、「何の故か我に溺れたる人を遇(みあ)へしむる」といひて、因りて溺れたる者の友伴を留めて、強に祓除せしむ。是に由りて、兄河に溺れ死ぬと雖も、其の弟救はざる者衆し。
⑩復、伇(つか)はるる民有りて、路頭に炊(かし)き飯(は)む。是に、路頭の家、乃ち謂ひて曰く、「何の故か情(こころ)の任(まま)に余路(あがあたり)に炊き飯む」といひて、強に祓除せしむ。
⑪復、百姓有り、他(ひと)に就きて甑(こしき)を借りて炊き飯む。其の甑、物に触れて覆る。是に、甑の主、乃ち祓除せしむ。此等の如き類、愚俗(おろかひと)の染(なら)へる所なり。今悉(ことごとく)に除断(や)めて、復(ふたたびせ)しむること勿れ。
⑫復、百姓有りて、京(みやこ)に向(まうく)る日に臨みて、乗れる馬の、疲れ痩せて行かざることを恐りて、布二尋・麻二束を以て、参河・尾張、両(ふたつ)の国の人に送りて、雇ひて養飼(か)はしむ。乃ち京に入りぬ。郷に還る日に、鍬一口(ひとわ)を送る。而るに参河人等、養飼ふこと能はずして、翻りて痩せ死なしむ。若し是細馬(よきうま)ならば、貪(むさぼ)り愛(をし)むことを生(な)して、工(たくみ)に謾語(いつはりこと)を作(な)して、偸失(ぬす)まれたりと言ふ。若し是牝馬、己が家に孕めば、便ち秡除せしめて、遂に其の馬を奪ふ。飛聞(つてき)くこと是(かく)の如し。故(このゆゑ)に今、制(のり)を立てむ。凡そ路傍の国に馬を養はば、雇はるる人を将(ゐ)て、審(つばびらか)に村首(むらのおびと)首は長(をさ)なり。に告げて、方(まさ)に詶物(おくりもの)を授けよ。其の郷に還る日に、更に報(つぐのみ)を須(もち)ゐず。如し疲れ損へることを致さば、物得べからざれ。縦(も)し斯の詔に違(たが)へらば、将に重き罪科(おほ)せむ。(孝徳紀大化二年三月)
「復」ではじまる十二項目である。最初の「復」が承けているのは、直前の薄葬令ならびに葬儀に関する旧俗を指していると思われる。民間の日常生活上の諸問題をとり上げている。①~⑪のような「如二是等一類」はやめなさい、と言っている。
孝徳紀の「祓除」について、大系本に、「もと、罪の災気を除くための呪術をさし、のち転じて、その呪術の料物を犯罪者にださせること、また罰金を科することをいう。」(④283頁)、新編全集本に、「罪を犯した者に、その罪をつぐなうために料物を出させること。自分勝手に妬んでいるのに、妬みを起させた者を犯罪者にしているのである。」(③154頁)と注している。折口1996.には、「……新しく村へやつて来る婿・嫁いづれにも、私の税が課せられたのである。祓柱(ハラヘツモノ)を払ふのである。祓柱は結婚に限らないが、結婚に関しては、殊に注意しなくてはならない事である。此は、我々から考へれば、他所から来た者だからいぢめたり懲めたりして、村の者に対する事の様に思はれるが、昔の人の考へでは、村人となる祓の費用を、其等新来の男女に課した事なのである。……祓の為の課税といふ事は、御前のからだは他所の人として穢れを落し、村人として取り扱ふ為には、祓へをしなくてはならないのだ。その費用を出せ、と言ふ事である。」(233~234頁)とする考えがあり、(1)長期 widow が幸せになった問題(条文⑤)について引き合いに出されている。この折口説は汲むべきところもあるものの、溺死者や甑転覆問題の説明にはならない(注1)。
ハラヘ(「祓除」)という語については、古典基礎語辞典に、「はら・ふ ハラウ【払ふ・掃ふ・祓ふ】……穢(けが)れ、汚れ、妨げなどをすっかり除き去るのが原義。」(1004頁、この項、我妻多賀子)の名詞形と考えてよいのであろう。「払ふ」と「祓ふ」の違いについては、西宮1990.に、「四他―ハラフ(払)―一般的に物を払ふ 下二他―ハラフ(祓)―科料を差出し祓つ物を投棄て罪穢れを除去する。」(152頁)と総括されている。「「祓つ物」とは、罪や穢れを転移せしめた人形(ヒトガタ)の類を、村の川口や辻の境界に持参して投棄てて、罪や穢れを払ふのである。」(同頁)と解されている。四段活用の「払ふ」は、目の前に物理的に存在しているゴミ、塵・芥、ないし、露や霜を除き去ることから展開して、人を追い払って追放したり、敵対するものを払いのけて平定することにも用いられていると考えられる。対して下二段活用の「祓ふ」は、目の前にはない罪や穢れといった感情上の汚れたものを、「祓つ物」というシンボリックなものを目の前に現してそれを投げ棄てることで、精神の衛生を保つことにつなげている。すなわち、「祓ふ」という語は、想念において、アナロジカルな多重性を中に秘めていると認められる(注2)。
岩波古語辞典に、「はら・へ ハラエ【祓へ】……《……ヘはアヘ(合)の約。事の軽重に合わせる意。自己の犯した罪過や、受けた穢(けがれ)・災(わざわい)を無くすために、事の度合に応じて、相手や神に物を差し出して、罪過穢災をすっかり捨て去る意》」(1060頁)とする考え方は、修正して援用されるべきであろう。下二段活用のハラフ(祓)とは、祓つ物を払うことが疑似的行為に当たるから、本行為と疑似行為が重なり合わさっていて、アヘ(合)の声が混じり約されていると考えられるのである。ハラフ(払)とアフ(合)の約として下二段動詞が構成されている。その場合、事の軽重に合わせるのではなく、自分の身に付いている罪穢れを払うのに、目に見えない掃除機を使う。人形(ひとがた)に息を吹きかけることをしておいて、身代わりにそれを川に流してきれいになったと心を収めている。実と虚とが合わさっている。この語義的解釈は、ハラヘ(祓)という言葉の語源に基づくかは定かでないものの、当時の人の語義の理解にかなうであろうと推測される。
⑧~⑪について、神崎2016.に、「[⑨・⑪と⑧・⑩で]異なるのは、祓除を強要される者が、下級官人(百姓)か単なる役民(被役辺畔之民・被役之民)かという点にある。同じような事案でも、身分の差によって裁定に違いがあることを示しているのであろう。」(150頁)とする。筆者はそうではないと考える。神崎2016.において、⑫の問題も、「京師と地方との往還の途次に起きている点」(150頁)に注意すべきとするとおりであろう(注3)。この詔は皆、たとえばの例としてあげて天皇は発言している。⑧と⑩で伇(えだち)に駆り出された人を先にあげ、⑨と⑪で一般民のオホミタカラを後にあげている。それまではさほど多くはなかったけれど、律令制の先駆けとなる制度が敷かれて伇に駆り出される人が増えている。今日、外国人労働者が増加してゴミ出しのルールを守らないといった問題が起っているような事態が、大化改新で生じている。どこでいちばん問題となるかと言えば、伇に駆り出された人は往還を行き来するから、その周辺の人との間でトラブルになっている。そのようなわかりやすい例をまずあげておき、入管法の改正で問題が生じたとばかり捉えられては政府の失策だろうと悪口を言う輩が出てきそうだから、伇以外でも広く一般に、ふつうの人々の間でも溺死者や甑問題が起っているだろうと言っている。つまり、⑨と⑪は、⑧と⑩よりも数は少なかったと推測されるのである。
孝徳天皇の詔にある、「愚俗」以外の「祓除」、「若是牝馬、孕二於己家一、便使二秡除一、遂奪二其馬一。」(条文⑫)は、安易に解釈されるかもしれない。馬を預かってうまく飼えずにやせ衰えさせて死なせることがあると聞く。それが良馬だったら盗まれたと嘘をついて自分のものにすることがあると聞く。それが牝馬で子を宿したら祓除をさせて最後には奪ってしまうことがあると聞く、と言っている。馬のお産までさせられるとはたいへんな災厄を受けたことだから、持ち主に祓除をせよと迫って、その馬自体をもって対価として支払わせるということと捉えられかねない。自分自身の罪・穢れを祓うための祓つ物に「人形(ひとがた)」が用いられていたが、いま、馬自体が借金の形(かた)になってしまっているとするのである。しかし、その場合、罪や穢れの概念範疇とはかけ離れている。婚姻にまつわる「財物」の要求事項(条文③・④)があるのだから、そのように記せばよいのにそうしていない。古代に、人間に限っての話ではあるが、産穢の観念はなかったとされている(注4)。
一方の、「愚俗」の「祓除」についてはこのような単純な解釈は拒まれている。(1)長期に独り身であった widow が再婚して妬みが生じて災厄である(条文⑤)、(2)伇民の病死によって近所迷惑である(同⑧)、(3)溺死者との遭遇で不快感をもよおした(同⑨)、(4)伇民の路上炊飯は近所迷惑である(同⑩)、(5)貸した蒸し器が転倒したら壊れていなくても穢れたとする(同⑪)、ということで祓除をさせている。損害賠償を求めているのではなく、いちゃもんをつけて慰謝料を請求している感が強い。すべて勝手な言い分に聞こえる。どういうことであろうか。
そこで、ひとつひとつ、孝徳天皇が引き合いに出して言っている「祓除」の意味合いについて考えていく。
(1)については、他人がラブラブになることを快く思わないということはあり得ることである。それまで長らく男性と無縁であった母娘がともに結婚するという話を耳にした、それがきっかけとなって嫉妬の感情がめらめらと燃え上がった。あそこの家の母娘に幸せが訪れようことなど、想定外の出来事である。固定観念が崩れて気持ちが収まらないということである。感情が爆発し、関係もないのにその母娘のそれぞれの新婚家庭を訪れて、祓除を強要している。井戸端会議で噂話を聞きつけた低俗な輩がやっていることと思われる。内心で妬みに思うのと、面と向かって落とし前をつけろと言っていくのとでは次元が異なる。ネット上で誹謗中傷するのも良くないことだが、出張って金品を要求することが罷り通るというのも不思議なことである。
この記事以前に、婚姻をめぐって「財物」を要求する話が2つ載る。再掲する。
③復、妻妾有りて、夫の為に放てられ、日を之き年を経て後に、他に適ぐは恒の理なり。而るを此の前夫、三四年の後に、後夫の財物を貪り求めて、己が利とする者、甚だ衆し。
④復、勢を恃む男有りて、浪りに他の女と要びて、未だ納へざる際に、女自らに人に適げらば、其の浪りに要びし者、嗔りて両つの家の財物を求めて、己が利とする者、甚だ衆し。
これらの例は、今でいえば、民法の条文の間隙をぬったもので、脱法行為とでも呼べるものである。ちょっとした結婚詐欺である。だから、「財物(たからもの)」を求めると記されている。ここに、祓除を強要することはない。直接的な要求であって、精神的に掃除しなければならないことはないということであろう。単に権利を行使すると迫っている。
それ以外の祓除の強要の事例のうち、(2)伇民に病死者が出たらその連れに祓除をさせること、(3)一般に溺死者と出会わされたらその連れに祓除をさせること、(4)伇民が道端で炊飯したら断りもなく人の家の前で炊飯したなと言って祓除を強要すること、(5)一般に甑を貸して欲しいといわれて貸したところ、ちょっと何かに触れてその甑が転倒したら壊れていなくても祓除を強要してくることがあるといった例がまくし立てられている。なぜこれらが祓除(はらへ)の対象とされたのか。考えられるのは、古代に一般的であった祓除の通念が、何らかの混乱を来しているということなのではないか。
祓をしなければならない罪状については、古くからの言い伝えがある。神の怒りを買って仲哀天皇が死去した時のことである。
大幣神事(宇治市HP、https://www.city.uji.kyoto.jp/0000009928.html)
爾に驚き懼(お)ぢて、殯宮(もがりのみや)に坐(いま)せて、更に国の大ぬさを取りて、種種(くさぐさ)に生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・あ離(はなち)・溝埋(みぞうめ)・屎戸(くそへ)・上通下通婚(おやこたはけ)・馬婚(うまたはけ)・牛婚(うしたはけ)・鷄婚(とりたはけ)・犬婚(いぬたはけ)の罪の類を求めて、国の大祓(おほはらへ)を為(し)て、亦、建内宿禰、沙庭(さには)に居て、神の命(みこと)を請ひき。(仲哀記)
「罪類」とある。大化二年三月甲申詔にも「是等類」として列挙されていた。対応する表現であろう。すなわち、(1) widow とその娘の結婚のこと(条文⑤)は「上通下通婚」、(2)伇民の路上死(同⑧)は「生剥」、(3)溺死者(同⑨)は「逆剥」、(4)路上炊飯(同⑩)と(5)甑転倒(同⑪)は「屎戸」、また、牝馬の妊娠(同⑫)は「馬婚」に、それぞれ当たると言いがかりをつけて主張して、「祓除」を強要しているものと考えられる。「上通下通婚」の本来の義は、親子の近親相姦(自分の母を姦淫する、自分の子を姦淫する、妻とその母を姦淫する、妻とその娘を姦淫すること)の罪のことである。母の再婚、娘の結婚が同時に起ったことを妬んで、「上通下通婚」に当たると決めつけている。「生剥」は、動物を生きたままその皮を剥ぐ罪である。伇民が行旅中に死んだので、同伴者は近くから棺を用意して白装束に着替えさせようとしたと思われる。着ていた服を脱がせるから、それは生きたまま剥いだがために死んだに違いないと邪推している。「逆剥」は、通常とは反対に剥ぐことかとも言われているが、詳細は不明の語である。筆者の考えは次のようなものである。なめし皮を作るためには、殺傷後に皮を剥ぎ、肉は食用にしてありがたく頂いた。皮の方につき残っている血や肉は、川の水で洗い流す。それがふつうのやり方である。食肉獲得の副産物として、皮が得られて加工され、利用された。ところが、皮の商品価値ばかりが優先されて、肉を食べずに捨てたことがあったのではないか。命を粗末に扱う本末転倒のもったいない話で、神をも恐れぬ罪とされたのであろう。それを「逆剥」と称したと考える。ここでは溺死者を動物に見立て、川で殺したままに服を脱がせるほど、皮を剥ぐことに専念していると曲解している。「屎戸」は、祭場に屎を垂れる罪である。屎のもとは食べ物で、事もあろうに路上で炊事をして食事をする者は、排泄物を垂れることが目的であろうと準備罪を言い募っている。甑を覆らせれば、中のご飯は周囲にぶちまけられる。消化する前から「屎戸」していると言っている。「馬婚」は、馬との獣姦の罪である。預かった馬の妊娠は、獣姦があったからであろうと言いがかりをつけている。大化二年三月の甲申詔の「祓除」記事の第一義は、罪・穢れの概念を捻じ曲げて解釈して流行っている「愚俗」のあげつらいにある。
(2)と(3)の死者に関わる事柄において、祓除を強要するから兄が死んでも弟は知らん顔をすると述べられている。ここに兄弟のあいだの儒教的な悌の考えを言い含めようとの意図があったのか、なんとも言えない。これに似た事象に、百済の王子、翹岐(げうき)の例がある。
丙子に、翹岐が児(こ)死去(し)ぬ。是の時に、翹岐と妻(め)と、児の死にたることを畏(お)ぢ忌みて、果して喪に臨まず。凡そ百済・新羅の風俗(くにわざ)、死亡者(しにひと)有るときは、父母(かぞいろは)兄弟(あにおとと)夫婦(をうとめ)姉妹(いろねいろど)と雖(いふと)も、永(ひたす)ら自ら看ず。此を以て観れば、慈(うつくしび)無きが甚しきこと、豈(あに)禽獣(けだもの)に別(こと)ならむや。(皇極紀元年五月)
百済や新羅の風俗に、自分の子の死を悼む喪に臨まないのは、慈悲心がないからで、まるで獣と同じであると叙述されている。「風俗」をクニワザと訓んでいる。所変われば風俗は変わるものであると理解している。そのうえで、ではどうしようかというのが、大化政権の政策発表となっている。ヤマトにはヤマトの「風俗」に従うようにと、その規準を詔にしている。
すなわち、これら条文は、私的な“読み替え”による祓除を排除しようとする詔であったと考えられる。吉村2018.には、「改新詔において民衆に新たな賦課を決め、仕丁などとして都へ上らせる。当然のこととして、都と地方との交通を整備しておく必要がある。円滑に行なうには、これまでの異集団間に起きる祓除の強要などの習俗を禁止させねばならない。新政権にとっては、当然の措置である。こうした異集団間のトラブルを取り払わないと、民衆を王権に従属させることはできない。公民身分に編成していくうえで、必須の方法であろう。」(177頁)としている。確かにトラブルは困るけれど、トラブルがなくなれば良いということではなく、ひねくれたこじつけの解釈を禁じようとしている。そして、人々が身勝手な祓除を行っていた理由は、当否はともかく言い伝えに準拠していた。この点は注目されなければならない。伝承の読み替えに過ぎず、行為に独創性は見出せない。上代の人の思考は、言い伝えの枠組に呪縛されていたのである。
祓除は、その性質上、煩わしい感情からの解放を求めて行われていたものであったため、自分の感情にのみ身を任せて気に入らない人を追い払ったり、代償という形で対価を求めることにつながる。罪や穢れというものは、実体としてあるものではない。社会的に、あるいは個人的に、そう捉えたらそうなる。殺人を犯して犯罪とされるものも、戦場で敵兵を殺戮する際や、ヤクザ仲間のうちでは適用されない。相対的に決められるものとして、罪や穢れはある。誰がそれを決めるのか。中央集権的な国家体制を古代天皇制によって築き上げていく際には、天皇がそれを決める。個々別々に罪や穢れを定義されたり拡大解釈されては社会秩序が成り立たない。屁理屈をこねて精神衛生上よろしくないとしたり、招集された伇民に対して敵対的な感情を抱かれては社会は乱れてしまう。そういう内面化された秩序の統制を物語る記事として、「祓除」の愚俗記事は書き連ねられている。その「祓除」記事は、呪物の料物を対価として払わせる代金の多寡や、相手を犯罪者扱いにしたその罪過の程度を問うものではなく、人民の思想信条、この場合は屁理屈であるが、それを統制することに力点が置かれている。わざわざ「祓除」を問題にしていたのは、実際に当該事象が起っていたからではあろうが、道徳規範を身に着けさせて人心の平準化を図ることこそ、最も基本的な治安行政であると理解していたからであろう。
以上のことを踏まえたうえで、二年三月の甲申の詔全体を振り返ってみよう。
最初に葬儀に関する事項があり、第一部がいわゆる薄葬令、第二部が旧俗の廃止である。最後に、「此(かく)の如き旧(ふる)き俗(しわざ)、一(もはら)に皆悉(ことごとく)に断(や)めよ。(如此旧俗、一皆悉断。)」と説いている。それにつづいて、さまざまな習俗について述べている。吉村2018.はその内容を、「(a)①詐りの言葉への道徳的な訓戒、(b)②奴婢の権勢家への移住禁止、(c)③~⑦婚姻習俗への禁制法令、(d)⑧~⑪祓除に関わる習俗の禁止、(e)⑫上京時に使用する馬の飼育規制、という五項目になる。」(177頁)とまとめている。⑪の末尾に、「如是等類、愚俗所染。今悉除断、勿使復為。」と説いている。中途半端な箇所に戒めの言葉が載っていて、区切れは若干悪い。説諭的表現は、それまでのさまざまな事例を読み上げるところとは異なり、顔をあげてよくよく御覧じろと言っているように感じられる。したがって、「如此旧俗、一皆悉断。」と「如是等類、愚俗所染。今悉除断、勿使復為。」とはパラレルな表現であり、後者はより強調して説明的になっていると考えられる。
如此 旧俗、 一皆悉断。
如是等類、愚俗所染。今悉除断、勿使復為。
ところが、その「如是等類、愚俗所染。」部分は、今日、「如二是等一類、愚俗所レ染。」と解され、兼右本などから、「是等の如き類、愚俗(おろかひと)の染(なら)へる所なり。」と訓まれている。筆者は、奈良時代に「所」を漢文訓読のトコロと訓んだと確かめられないと考えている(注5)。そしてまた、意味的にみても、これらの事例は愚かな人たちが習わしにしていることである、という言い方は、文言として適切ではないと考える。現代語訳として、「このような類は、愚俗に染まったやり方である。」(新編全集本③157頁)とあるのは乱暴である(注6)。「愚俗」をオロカヒトと訓みながら、その低級な風俗も「愚俗」と解している。「愚俗(おろかなひと)」が「愚俗(おろかなわざ)」に「染」まるも何も、そのままではないか。「所」字をなぜ用いているのか、構文上、作文上で検討を要する。
「俗」字は、最初の説諭場面の「如此旧俗、一皆悉断。」に、「旧(ふる)き俗(しわざ)」と訓んでいる。ほかにも、「俗」字をシワザと訓む例はある。また、「俗」字には、トコロナラヒと訓む例もある。
俗(しわざ)漸(やうやく)に蔽(くら)くして寤(さ)めず。(継体紀二十四年二月、前田本左傍訓。右傍には「人々」とある。)
竊(ひそか)に恐らくは元元(おほみたから)、斯(これ)に由りて俗(ならひ)を生(な)し、此に藉(よ)りて驕(おごり)を成さむことを。(継体紀二十四年二月、前田本右傍に「常也」とある。)
或は国の俗(ところならひ)の用る所に随へるなり。(或随国俗所用也。)(大毘盧遮那仏経疏・巻第七)
それらを参考に考えると、この部分は、「如二是等一類愚俗、所染。」と解して、「是等の如き類の愚かなる俗(しわざ)は、所染(ところならひ)なり。」と訓むことができる。主語は、今まであげてきた数々の愚かしい仕業であり、それはトコロナラヒ、すなわち、辺鄙なところで局所的に行われている土俗であって、その場所の悪癖に染まったものであると言っている。だからそれらは禁止する。二度としないようにと言っている。翹岐が、自分の子が死んだ時に家族として喪にのぞまない姿勢は、禽獣レベルの悪しき習俗であると、紀の編者の筆に批判するのに精神は近しいものの、やりたいことは禁制である。大化新政権のもとで、そのような野蛮な振る舞いは禁止するといい、中央による一極集中を目指して天皇の解釈以外の解釈は認めない、と宣告している。中央集権的な国家体制を確立させようとする大化改新ならでは詔である。新しい政策が実施されて伇民が往来することが多くなり、その弊害として祓除の強要事件が起こっていることについて、それらは「愚俗(おろかなるしわざ)」にして「所染(ところならひ)」だから、中央の標準的なやり方に倣いなさいと言っている。結果的に、習俗として何が正しいかは、天皇の詔をもって決められることになっている。
視角を変えてみても、この訓のあり方は正しいと理解される。今日、学界全体において、大化改新の詔について、その成立、制作に疑問の声が上がっている。書紀編者による潤色、修文、述作であるとか、もとからあったものを漢文化して書き改めたとする説などである。しかし、漢文の記し方として、瀬間2015.にいう「訓読的思惟」(注7)を表すものがある。そこでは、榎本1992.榎本1993.を引きつつ、「何故於我使遇溺人。」(条文⑨)という書き方は、兼語式[主語+使役動詞+人+動詞]になっておらず、また、「復有妻妾、為夫被放、之日経年之後、適他恒理。」(条文③)、「復有為妻、被嫌離者、特由慚愧所悩。」(条文⑥)とあるのも、被動式[主語+被+施事者+動詞]の語順になっていない。さらに、「於」は、ヤマトコトバの格助詞「に」の表記として用いられていると指摘する。そのため、訓読文から漢文に書き起こしたとしか考えられないという。このような漢文“風”の書きっぷりは、瓢箪から駒のような話であるが、書き方において「所染(ところならひ)」である。本場の中国になくて、本邦においてしか通用しない。廃されるべき習わしを表記する際に、「所染(ところならひ)」的な倭習が行われている。本来あるべき姿から逸脱していることを、文章表現において“内部”から警告、示唆していると考えられるのである(注8)。
以上、大化改新の詔のうち、あまり顧みられることのない条文群について検討した。政治上の改革は痛みを伴う。昨今では、AIを駆使して管理社会化を実現し、社会主義を完成させていこうとする国家を目にするが、古代日本は、律令制の導入以前の段階として、大化改新の詔の連発によって人々の心に規範意識を植え付けて行っていた(注9)。ヤマトの国にもともとあった社会通念であるハラヘについて、それを受け継ぎながら統制して行っている。国家体制の盤石化には、実は、律令制の導入といった制度上の整備以上に、人心の一元化を図ることのほうが必須要件である(注10)。これによって、古代天皇制は人々の心のうちに定着が始まり、白村江の敗戦、壬申の乱を経ながら、天武朝期に至るに及び、今にいわば、一党独裁が進展することになっていったのである。
(注)
(注1)吉村2018.に、「これ[長期に独り身であった widow が再婚して妬みが生じて災厄であるとする話]は、夫との死別者(寡婦)と、初婚の事例である。前者は、すでに夫がいない……。しかも、一〇年二〇年ということなので、当時としても相当な時間が経過したことになる。後者は、初婚ではあるが、晩婚ということだろうか。こうした夫婦に対し、「妬み」が発生して、祓除を要求するという。……古代では、山・川辺・海浜・市など共同体(集落)と共同体が接した場で歌垣が行なわれていた。歌垣では、異集団間の男女が出会い、婚姻に発展することがあった……。異集団間の男女で行われた婚姻では、別の集団に入る場合に特別な儀礼が存在したかもしれない。そうした儀礼が、祓除として存在したことも十分想定できる。……[こ]の祓除については、異集団間の婚姻と考えておきたい。」(173~174頁)とある。折口説に与するものであるが、多くの婚姻は異集団間の交わりになるはずで、新参者は多数発生していたであろう。本条において、長期独身者の結婚に限り祓除を強要していることの説明につながらない。
(注2)ハラヘ(祓)という語義について、今日までのところ、決定的な解説が行われて定説化しているわけではない。日本史大事典に、「祓 はらえ 一般的には祓とは罪(つみ)・穢(けがれ)や災いなどを除き払う儀式、あるいは罪過を犯した者に罪を償わせるために物を出させることなどと規定されているが、この両者は別々のことではなく、本来一つのことの両側面を意味していたと考えられる。」(第五巻、882頁、この項山本幸司)とある。そのとおりではあろうが、語義的にそれをなぜハラヘと言ったのか、説かれていない。特に、記紀において、「祓」、「禊」、「祓禊」、「禊祓」、「祓除」、「解除」と用字が行われている点について、それをそれぞれ何と訓めばいいのか、意見の一致を見ていない。匝瑤2012.に、「祭祀の内容も、そして神話的な機能も禊も祓も同一の次元で捉えられており、禊は単に、水辺で行う事を意識する形容詞であると理解できる。……祓の祭祀の文脈で使われている限り、全て「はらへ」と読まれるべきであり、読まれてきていたであろう」(100頁)などとあるのは論外としても、そういった説が登場するほど、理解は深まっていないのが現状である。
新明解古語辞典に、西宮一民の補足がある。「はらへ〔祓へ〕 下二段のハラフの連用名詞形で、ハラヒは後世の形。本来、罪を犯した者に、贖物(あがもの)を出させて、罪を払わせる意であったが、奈良朝中期ごろ以降、罪ばかりではなく、穢れも払わせる対象になり、ハラヘといえば、「罪穢れ」を払うというように考えられるようになった。元来、罪と穢れとは別の観念であり、それを除去する動作を表わす言葉も、罪はハラフ(下二段)、穢れはミソク(四段)と別別にあった。それを後にはミソキハラフ、ミソキハラヘと熟合してしまうようになった。」(848頁)とする。西宮1990.は、「〇ミソキは、水によつて身を洗ひ清めて罪や穢れを除去すること 〇ハラヘは、度合に応じて、科料を差出し、また祓(はらへ)つ物を投棄てて、罪や穢れを除去すること といふ構図になつてゐる」(161頁)と主張し、「「罪や穢れを除去すること」が共通であるが、方法が異なるのであるから、両者区別できる」(153頁)とする。そして、古事記においては、「禊」字と「祓」字とはきちんと別して記されていると述べている(西宮1993.西宮1998.)。
大祓の要領
説文に、「祓 悪を除く祭也、示に从ひ友声」、新撰字鏡に、「解奏 波良戸祭(はらへまつり)」、「禊 戸系反、去、上巳祭也、又三月三日巳を得くるを上巳と為(す)、所言(いはゆる)美乃波良戸(みのはらへ)」(ミノハラヘ部分は校訂を経ている。)とある。後に律令時代、大祓は六月と十二月の月末に行われている。仲哀記でも、国家的祭祀として国の大祓が行われている。祭式としてハラヘが行われ、集団的祭祀として何を罪とし何を穢れとするか当然視されている。いま問題にしている大化二年三月の甲申詔のハラヘは、「強使二祓除一」と表されている。慰謝料請求の私裁判を開いているのと同じことになっている。
(注3)吉村2018.に、「どちらも死者は役民(えきみん)(役をつとめるために地元を離れて従事していた者)であるので、集団を異にする民衆であり、死者への穢れの問題と関係しているだろう。」(176頁)とする。折口説に近しいが、集団が同じである同じ村の人が病死したり、溺死した場合、死者への穢れは感じたのか、感じなかったのか、祓除は行われたのか行われなかったのか、といった疑問が生ずる。⑨・⑪条は、対象が「百姓(おほみたから)」とあるので、神崎2016.のいうとおり、「役民」には限られないものと考えられる。また、吉村2018.は、「ともに炊飯という火を使用する人々のことであり、穢れと関係すると思われる。当時の共同体(集団)には、地域の民が別火を忌む思想が存在していたのであろう。」(176頁)とする。自分の家の前は駄目で隣の家の前なら可であるように受け取ることのできる条文であり、また、火を焚くことが想定される甑をそもそも貸すことはあり得ないであろうと思われる。
(注4)成清2003.に、延喜式や弘仁式よりも以前の古代においては、「人間の出産を忌む「産穢」などはまだ成立しておらず、記紀神話などにたびたび登場する「産屋」も出産瞥見の禁忌を示すものと考えられるのではないだろうか。」(81~82頁)とある。
(注5)拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」参照。
(注6)井上1987.に、「これらはみな、愚かな人々の従ってきた習わしである。」(220頁)と訳している。けれども、愚かな人々を啓蒙、教化して賢い人にする気はない。宇治谷1988.に、「このようなことは愚かしい習わしである。」(177頁)と訳している。けれども、列挙したのは一部の者が犯している愚行である。そして、そのようなことは統治の及ぶ範囲ではするな(「今悉除断、勿レ使二復為一。」)と禁令を発しているのである。
(注7)瀬間2015.に、「漢語漢文で考え、文章を制作するのではなく、訓読語・訓読文で思惟し、それを漢語漢文の枠に当てはめる方法で表記がなされたもの……。比喩的に言うならば、この訓読的思惟の言語とは、漢語漢文とのクレオールと見なせるかもしれない。」(255頁)と説明されている。筆者は、ヤマトコトバの歴史において、文字を獲得して文章語が誕生したことが重要であると考える。大化改新時に、漢語を直輸入して口頭語に音読み語が通行していたとは認められない。クレオール化は起っていないと考える。母語の表記の問題と、外国語との混淆を混同してはならない。たとえば、近代にキリル文字を採用した諸民族があるが、それによってロシア語に母語が席捲されたわけではない。
(注8)もちろん、日本書紀のこの個所を書いた本人に意向を聞いてみなければ、本当のところはわからないものの、森博達のいう書紀区分のα群にありながら同様の書き方は散見され、榎本1993.に、「漢文の語法を棚上げすれば、それは従来にない表現とみることさえできる。」(166頁)、「日本語にそくした表現としては、それはそれで、もとよりなんら不都合はない。」(170頁)とあって、中国語に間違いであると知りつつヤマトの書き方で書いていると意識していた可能性は高いと言える。
(注9)孝徳天皇は細かい性格をしていたかと推測している。公地公民制、租庸調の税制、班田収授法といった思い切った改革はブレーンにより立案されたものであろう。新聞では政治面に当たる。対して祓除の強要事件の列挙は、禁止を呼び掛けているとはいえ、社会面に載るような記事である。藤氏家伝に、「然皇子器量不レ足三与謀二大事一」と紀にない文があるが、当たっているように思われる。
(注10)天武紀に、天皇の単なる会見のような詔が散見される。「群臣(まへつきみたち)・百寮(つかさつかさ)及び天下(あめのした)の人民(おほみたから)、諸悪(もろもろのあしきこと)を作(な)すこと莫(まな)。若し犯すこと有らば、事に随ひて罪せむ。」(天武紀四年二月)とある。国民は上から下まで、悪いことをするな。悪いことをしたら処罰する、と言っている。聖徳太子の遺勅に、「諸(もろもろ)の悪(あしきこと)をな作(せ)そ。諸の善(よきわざ)奉行(おこな)へ。」(舒明前紀)とあるのとは訳が違う。君たちはどう生きるか、それは君たちがよくよく考えて生きろ、というのではないのである。何が悪いことなのかは、すべて朕、天皇が決めることである。人々は、恐怖心を抱かされ、縮み上がりながら生きなければならなくなった。その発端となったのは、人民全般の「旧俗」や「愚俗」の細事についてまで及んだ、大化改新の甲申の詔であった。
(引用文献)
井上1987. 井上光貞『日本書紀 下』中央公論社、昭和62年。
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神崎2016. 神崎勝「大化改新の実像」『日本書紀研究』第三十一冊、塙書房、平成28年。
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
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日本史大事典 『日本史大事典 第五巻』平凡社、1993年。
吉村2018. 吉村武彦『大化改新を考える』岩波書店(岩波新書)、2018年。
大化二年三月の甲申の詔には、いわゆる薄葬令、旧俗の廃止、愚俗の改廃、馬の制の実施、市の管理、魚酒型労働の禁止といった条項が並び立つ。そのうちの愚俗の改廃を説く件において、「如二是等一類愚俗」として挙げているもののうち、「祓除」を含むものは、(1)widow が死別後10~20年経過した後に再婚し、一緒にその娘が初めて結婚する時に、夫婦となった人たちを妬んで祓除をすることが多いこと(下条の⑤)、(2)辺境から駆り出された伇民が、任期が終わって帰郷する日に路頭で急に病死したら、路頭の家の人はどうして自分の家の前で死なせたのかといって、その仲間を拘束して強引に祓除させるため、兄が死んでも弟は身柄を引き取らないことが多いこと(同⑧)、(3)川で溺死した人に出くわしたら、どうして溺れ死んだ人に会せたのかといって、その仲間を拘束して強引に祓除させるため、兄が溺れても弟は救わないことが多いこと(同⑨)、(4)伇民が路頭で炊飯をしたら、その前の家の人は、どうして自分の家の前で煮炊きをするのかといって強引に祓除をさせること(同⑩)、(5)人がよその家に甑を借りて炊飯したところ、たまたま甑が物に触れてひっくり返ったら、甑の持ち主はすぐに祓除をさせること(同⑪)、である。「如二是等一類愚俗」の「是」をうけている部分以降にも、馬の問題で起きている祓除がある。預かった馬が牝馬で、自分の家で身籠って仔馬を生んだら、祓除をさせて自分のものにしてしまうのだという(同⑫)。便宜的に条文に番号を振った。
①復(また)、見て見ずと言ひ、見ずして見たりと言ひ、聞きて聞かずと言ひ、聞かずして聞きたりと言ふもの有り。都(かつ)て正(まさ)しく語り正しく見ること無くして、巧みに詐(いつ)はる者多し。
②復、奴婢(をのこやつこめのこやつこ)有りて、主(あろじ)の貧しく困(たしな)めるを欺(あざむ)きて、自ら勢家(とめるいへ)に託(つ)きて、活(わたらひ)を求む。勢家、仍りて強(あなが)ちに留め買ひて、本主(もとのあろじ)に送らざる者多し。
③復、妻妾(めをみな)有りて、夫(をうと)の為に放(す)てられ、日を之(ゆ)き年を経て後に、他(ひと)に適(とつ)ぐは恒の理(ことわり)なり。而るを此の前夫(もとのをうと)、三四年(みとせよとせ)の後に、後夫(いまのをうと)の財物(たからもの)を貪り求めて、己が利(くほさ)とする者、甚だ衆し。
④復、勢(いきほひ)を恃(たの)む男(をのこ)有りて、浪(みだ)りに他(ひと)の女(むすめ)と要(ことむす)びて、未だ納(むか)へざる際(あひだ)に、女自らに人に適げらば、其の浪りに要びし者、嗔(いか)りて両(ふた)つの家の財物を求めて、己が利とする者、甚だ衆し。
⑤復、夫を亡(うしな)へる婦(め)有りて、若しは十年、廿年を経て、人に適(とつ)ぎて婦と為り、幷せて未だ嫁がざる女(むすめ)、始めて人に適ぐ時に、是に、斯の夫婦を妬みて、祓除(はらへ)せしむること多し。
⑥復、妻(め)の為に嫌はれ離たれし者有りて、特(ひとり)悩まさるるを慚愧(は)づるに由りて、強(あながち)に事瑕(ことさか)の婢(めのやつこ)とす。事瑕、此には居騰作柯(ことさか)と云ふ。
⑦復、屡(しばしば)己が婦を他(ひと)に姧(かだ)めりと嫌(うたが)ひて、好みて官司(つかさ)に向(ゆ)きて、決(ことわり)請(まを)すこと有り。仮使(たとひ)、明(あきらか)なる三(みやり)の證(あかしひと)を得とも、俱(とも)に顕(あらは)し陳(まを)さしめて、然(しかう)して後に諮(まを)すべし。詎(いかに)ぞ浪りに訴ふることを生(な)さむ。
⑧復、伇(つか)はるる辺畔(ほとりのくに)の民(おほみたから)有り、事了りて郷(くに)に還る日に、忽然(にはか)に得疾(やまひ)して路頭(みちのほとり)に臥死(し)ぬ。是に、路頭の家、乃ち謂(かた)りて曰く、「何の故か人をして余路(あがあたり)に死なしむる」といひて、因りて死にたる者の友伴(ともがき)を留めて、強に祓除せしむ。是に由りて、兄(このかみ)路に臥死ぬと雖(いふと)も、其の弟(おとと)収めざる者多し。
⑨復、百姓(おほみたから)有りて、河に溺(おぼほ)れ死ぬ。逢(みあ)へたる者、乃ち謂ひて曰く、「何の故か我に溺れたる人を遇(みあ)へしむる」といひて、因りて溺れたる者の友伴を留めて、強に祓除せしむ。是に由りて、兄河に溺れ死ぬと雖も、其の弟救はざる者衆し。
⑩復、伇(つか)はるる民有りて、路頭に炊(かし)き飯(は)む。是に、路頭の家、乃ち謂ひて曰く、「何の故か情(こころ)の任(まま)に余路(あがあたり)に炊き飯む」といひて、強に祓除せしむ。
⑪復、百姓有り、他(ひと)に就きて甑(こしき)を借りて炊き飯む。其の甑、物に触れて覆る。是に、甑の主、乃ち祓除せしむ。此等の如き類、愚俗(おろかひと)の染(なら)へる所なり。今悉(ことごとく)に除断(や)めて、復(ふたたびせ)しむること勿れ。
⑫復、百姓有りて、京(みやこ)に向(まうく)る日に臨みて、乗れる馬の、疲れ痩せて行かざることを恐りて、布二尋・麻二束を以て、参河・尾張、両(ふたつ)の国の人に送りて、雇ひて養飼(か)はしむ。乃ち京に入りぬ。郷に還る日に、鍬一口(ひとわ)を送る。而るに参河人等、養飼ふこと能はずして、翻りて痩せ死なしむ。若し是細馬(よきうま)ならば、貪(むさぼ)り愛(をし)むことを生(な)して、工(たくみ)に謾語(いつはりこと)を作(な)して、偸失(ぬす)まれたりと言ふ。若し是牝馬、己が家に孕めば、便ち秡除せしめて、遂に其の馬を奪ふ。飛聞(つてき)くこと是(かく)の如し。故(このゆゑ)に今、制(のり)を立てむ。凡そ路傍の国に馬を養はば、雇はるる人を将(ゐ)て、審(つばびらか)に村首(むらのおびと)首は長(をさ)なり。に告げて、方(まさ)に詶物(おくりもの)を授けよ。其の郷に還る日に、更に報(つぐのみ)を須(もち)ゐず。如し疲れ損へることを致さば、物得べからざれ。縦(も)し斯の詔に違(たが)へらば、将に重き罪科(おほ)せむ。(孝徳紀大化二年三月)
「復」ではじまる十二項目である。最初の「復」が承けているのは、直前の薄葬令ならびに葬儀に関する旧俗を指していると思われる。民間の日常生活上の諸問題をとり上げている。①~⑪のような「如二是等一類」はやめなさい、と言っている。
孝徳紀の「祓除」について、大系本に、「もと、罪の災気を除くための呪術をさし、のち転じて、その呪術の料物を犯罪者にださせること、また罰金を科することをいう。」(④283頁)、新編全集本に、「罪を犯した者に、その罪をつぐなうために料物を出させること。自分勝手に妬んでいるのに、妬みを起させた者を犯罪者にしているのである。」(③154頁)と注している。折口1996.には、「……新しく村へやつて来る婿・嫁いづれにも、私の税が課せられたのである。祓柱(ハラヘツモノ)を払ふのである。祓柱は結婚に限らないが、結婚に関しては、殊に注意しなくてはならない事である。此は、我々から考へれば、他所から来た者だからいぢめたり懲めたりして、村の者に対する事の様に思はれるが、昔の人の考へでは、村人となる祓の費用を、其等新来の男女に課した事なのである。……祓の為の課税といふ事は、御前のからだは他所の人として穢れを落し、村人として取り扱ふ為には、祓へをしなくてはならないのだ。その費用を出せ、と言ふ事である。」(233~234頁)とする考えがあり、(1)長期 widow が幸せになった問題(条文⑤)について引き合いに出されている。この折口説は汲むべきところもあるものの、溺死者や甑転覆問題の説明にはならない(注1)。
ハラヘ(「祓除」)という語については、古典基礎語辞典に、「はら・ふ ハラウ【払ふ・掃ふ・祓ふ】……穢(けが)れ、汚れ、妨げなどをすっかり除き去るのが原義。」(1004頁、この項、我妻多賀子)の名詞形と考えてよいのであろう。「払ふ」と「祓ふ」の違いについては、西宮1990.に、「四他―ハラフ(払)―一般的に物を払ふ 下二他―ハラフ(祓)―科料を差出し祓つ物を投棄て罪穢れを除去する。」(152頁)と総括されている。「「祓つ物」とは、罪や穢れを転移せしめた人形(ヒトガタ)の類を、村の川口や辻の境界に持参して投棄てて、罪や穢れを払ふのである。」(同頁)と解されている。四段活用の「払ふ」は、目の前に物理的に存在しているゴミ、塵・芥、ないし、露や霜を除き去ることから展開して、人を追い払って追放したり、敵対するものを払いのけて平定することにも用いられていると考えられる。対して下二段活用の「祓ふ」は、目の前にはない罪や穢れといった感情上の汚れたものを、「祓つ物」というシンボリックなものを目の前に現してそれを投げ棄てることで、精神の衛生を保つことにつなげている。すなわち、「祓ふ」という語は、想念において、アナロジカルな多重性を中に秘めていると認められる(注2)。
岩波古語辞典に、「はら・へ ハラエ【祓へ】……《……ヘはアヘ(合)の約。事の軽重に合わせる意。自己の犯した罪過や、受けた穢(けがれ)・災(わざわい)を無くすために、事の度合に応じて、相手や神に物を差し出して、罪過穢災をすっかり捨て去る意》」(1060頁)とする考え方は、修正して援用されるべきであろう。下二段活用のハラフ(祓)とは、祓つ物を払うことが疑似的行為に当たるから、本行為と疑似行為が重なり合わさっていて、アヘ(合)の声が混じり約されていると考えられるのである。ハラフ(払)とアフ(合)の約として下二段動詞が構成されている。その場合、事の軽重に合わせるのではなく、自分の身に付いている罪穢れを払うのに、目に見えない掃除機を使う。人形(ひとがた)に息を吹きかけることをしておいて、身代わりにそれを川に流してきれいになったと心を収めている。実と虚とが合わさっている。この語義的解釈は、ハラヘ(祓)という言葉の語源に基づくかは定かでないものの、当時の人の語義の理解にかなうであろうと推測される。
⑧~⑪について、神崎2016.に、「[⑨・⑪と⑧・⑩で]異なるのは、祓除を強要される者が、下級官人(百姓)か単なる役民(被役辺畔之民・被役之民)かという点にある。同じような事案でも、身分の差によって裁定に違いがあることを示しているのであろう。」(150頁)とする。筆者はそうではないと考える。神崎2016.において、⑫の問題も、「京師と地方との往還の途次に起きている点」(150頁)に注意すべきとするとおりであろう(注3)。この詔は皆、たとえばの例としてあげて天皇は発言している。⑧と⑩で伇(えだち)に駆り出された人を先にあげ、⑨と⑪で一般民のオホミタカラを後にあげている。それまではさほど多くはなかったけれど、律令制の先駆けとなる制度が敷かれて伇に駆り出される人が増えている。今日、外国人労働者が増加してゴミ出しのルールを守らないといった問題が起っているような事態が、大化改新で生じている。どこでいちばん問題となるかと言えば、伇に駆り出された人は往還を行き来するから、その周辺の人との間でトラブルになっている。そのようなわかりやすい例をまずあげておき、入管法の改正で問題が生じたとばかり捉えられては政府の失策だろうと悪口を言う輩が出てきそうだから、伇以外でも広く一般に、ふつうの人々の間でも溺死者や甑問題が起っているだろうと言っている。つまり、⑨と⑪は、⑧と⑩よりも数は少なかったと推測されるのである。
孝徳天皇の詔にある、「愚俗」以外の「祓除」、「若是牝馬、孕二於己家一、便使二秡除一、遂奪二其馬一。」(条文⑫)は、安易に解釈されるかもしれない。馬を預かってうまく飼えずにやせ衰えさせて死なせることがあると聞く。それが良馬だったら盗まれたと嘘をついて自分のものにすることがあると聞く。それが牝馬で子を宿したら祓除をさせて最後には奪ってしまうことがあると聞く、と言っている。馬のお産までさせられるとはたいへんな災厄を受けたことだから、持ち主に祓除をせよと迫って、その馬自体をもって対価として支払わせるということと捉えられかねない。自分自身の罪・穢れを祓うための祓つ物に「人形(ひとがた)」が用いられていたが、いま、馬自体が借金の形(かた)になってしまっているとするのである。しかし、その場合、罪や穢れの概念範疇とはかけ離れている。婚姻にまつわる「財物」の要求事項(条文③・④)があるのだから、そのように記せばよいのにそうしていない。古代に、人間に限っての話ではあるが、産穢の観念はなかったとされている(注4)。
一方の、「愚俗」の「祓除」についてはこのような単純な解釈は拒まれている。(1)長期に独り身であった widow が再婚して妬みが生じて災厄である(条文⑤)、(2)伇民の病死によって近所迷惑である(同⑧)、(3)溺死者との遭遇で不快感をもよおした(同⑨)、(4)伇民の路上炊飯は近所迷惑である(同⑩)、(5)貸した蒸し器が転倒したら壊れていなくても穢れたとする(同⑪)、ということで祓除をさせている。損害賠償を求めているのではなく、いちゃもんをつけて慰謝料を請求している感が強い。すべて勝手な言い分に聞こえる。どういうことであろうか。
そこで、ひとつひとつ、孝徳天皇が引き合いに出して言っている「祓除」の意味合いについて考えていく。
(1)については、他人がラブラブになることを快く思わないということはあり得ることである。それまで長らく男性と無縁であった母娘がともに結婚するという話を耳にした、それがきっかけとなって嫉妬の感情がめらめらと燃え上がった。あそこの家の母娘に幸せが訪れようことなど、想定外の出来事である。固定観念が崩れて気持ちが収まらないということである。感情が爆発し、関係もないのにその母娘のそれぞれの新婚家庭を訪れて、祓除を強要している。井戸端会議で噂話を聞きつけた低俗な輩がやっていることと思われる。内心で妬みに思うのと、面と向かって落とし前をつけろと言っていくのとでは次元が異なる。ネット上で誹謗中傷するのも良くないことだが、出張って金品を要求することが罷り通るというのも不思議なことである。
この記事以前に、婚姻をめぐって「財物」を要求する話が2つ載る。再掲する。
③復、妻妾有りて、夫の為に放てられ、日を之き年を経て後に、他に適ぐは恒の理なり。而るを此の前夫、三四年の後に、後夫の財物を貪り求めて、己が利とする者、甚だ衆し。
④復、勢を恃む男有りて、浪りに他の女と要びて、未だ納へざる際に、女自らに人に適げらば、其の浪りに要びし者、嗔りて両つの家の財物を求めて、己が利とする者、甚だ衆し。
これらの例は、今でいえば、民法の条文の間隙をぬったもので、脱法行為とでも呼べるものである。ちょっとした結婚詐欺である。だから、「財物(たからもの)」を求めると記されている。ここに、祓除を強要することはない。直接的な要求であって、精神的に掃除しなければならないことはないということであろう。単に権利を行使すると迫っている。
それ以外の祓除の強要の事例のうち、(2)伇民に病死者が出たらその連れに祓除をさせること、(3)一般に溺死者と出会わされたらその連れに祓除をさせること、(4)伇民が道端で炊飯したら断りもなく人の家の前で炊飯したなと言って祓除を強要すること、(5)一般に甑を貸して欲しいといわれて貸したところ、ちょっと何かに触れてその甑が転倒したら壊れていなくても祓除を強要してくることがあるといった例がまくし立てられている。なぜこれらが祓除(はらへ)の対象とされたのか。考えられるのは、古代に一般的であった祓除の通念が、何らかの混乱を来しているということなのではないか。
祓をしなければならない罪状については、古くからの言い伝えがある。神の怒りを買って仲哀天皇が死去した時のことである。
大幣神事(宇治市HP、https://www.city.uji.kyoto.jp/0000009928.html)
爾に驚き懼(お)ぢて、殯宮(もがりのみや)に坐(いま)せて、更に国の大ぬさを取りて、種種(くさぐさ)に生剥(いけはぎ)・逆剥(さかはぎ)・あ離(はなち)・溝埋(みぞうめ)・屎戸(くそへ)・上通下通婚(おやこたはけ)・馬婚(うまたはけ)・牛婚(うしたはけ)・鷄婚(とりたはけ)・犬婚(いぬたはけ)の罪の類を求めて、国の大祓(おほはらへ)を為(し)て、亦、建内宿禰、沙庭(さには)に居て、神の命(みこと)を請ひき。(仲哀記)
「罪類」とある。大化二年三月甲申詔にも「是等類」として列挙されていた。対応する表現であろう。すなわち、(1) widow とその娘の結婚のこと(条文⑤)は「上通下通婚」、(2)伇民の路上死(同⑧)は「生剥」、(3)溺死者(同⑨)は「逆剥」、(4)路上炊飯(同⑩)と(5)甑転倒(同⑪)は「屎戸」、また、牝馬の妊娠(同⑫)は「馬婚」に、それぞれ当たると言いがかりをつけて主張して、「祓除」を強要しているものと考えられる。「上通下通婚」の本来の義は、親子の近親相姦(自分の母を姦淫する、自分の子を姦淫する、妻とその母を姦淫する、妻とその娘を姦淫すること)の罪のことである。母の再婚、娘の結婚が同時に起ったことを妬んで、「上通下通婚」に当たると決めつけている。「生剥」は、動物を生きたままその皮を剥ぐ罪である。伇民が行旅中に死んだので、同伴者は近くから棺を用意して白装束に着替えさせようとしたと思われる。着ていた服を脱がせるから、それは生きたまま剥いだがために死んだに違いないと邪推している。「逆剥」は、通常とは反対に剥ぐことかとも言われているが、詳細は不明の語である。筆者の考えは次のようなものである。なめし皮を作るためには、殺傷後に皮を剥ぎ、肉は食用にしてありがたく頂いた。皮の方につき残っている血や肉は、川の水で洗い流す。それがふつうのやり方である。食肉獲得の副産物として、皮が得られて加工され、利用された。ところが、皮の商品価値ばかりが優先されて、肉を食べずに捨てたことがあったのではないか。命を粗末に扱う本末転倒のもったいない話で、神をも恐れぬ罪とされたのであろう。それを「逆剥」と称したと考える。ここでは溺死者を動物に見立て、川で殺したままに服を脱がせるほど、皮を剥ぐことに専念していると曲解している。「屎戸」は、祭場に屎を垂れる罪である。屎のもとは食べ物で、事もあろうに路上で炊事をして食事をする者は、排泄物を垂れることが目的であろうと準備罪を言い募っている。甑を覆らせれば、中のご飯は周囲にぶちまけられる。消化する前から「屎戸」していると言っている。「馬婚」は、馬との獣姦の罪である。預かった馬の妊娠は、獣姦があったからであろうと言いがかりをつけている。大化二年三月の甲申詔の「祓除」記事の第一義は、罪・穢れの概念を捻じ曲げて解釈して流行っている「愚俗」のあげつらいにある。
(2)と(3)の死者に関わる事柄において、祓除を強要するから兄が死んでも弟は知らん顔をすると述べられている。ここに兄弟のあいだの儒教的な悌の考えを言い含めようとの意図があったのか、なんとも言えない。これに似た事象に、百済の王子、翹岐(げうき)の例がある。
丙子に、翹岐が児(こ)死去(し)ぬ。是の時に、翹岐と妻(め)と、児の死にたることを畏(お)ぢ忌みて、果して喪に臨まず。凡そ百済・新羅の風俗(くにわざ)、死亡者(しにひと)有るときは、父母(かぞいろは)兄弟(あにおとと)夫婦(をうとめ)姉妹(いろねいろど)と雖(いふと)も、永(ひたす)ら自ら看ず。此を以て観れば、慈(うつくしび)無きが甚しきこと、豈(あに)禽獣(けだもの)に別(こと)ならむや。(皇極紀元年五月)
百済や新羅の風俗に、自分の子の死を悼む喪に臨まないのは、慈悲心がないからで、まるで獣と同じであると叙述されている。「風俗」をクニワザと訓んでいる。所変われば風俗は変わるものであると理解している。そのうえで、ではどうしようかというのが、大化政権の政策発表となっている。ヤマトにはヤマトの「風俗」に従うようにと、その規準を詔にしている。
すなわち、これら条文は、私的な“読み替え”による祓除を排除しようとする詔であったと考えられる。吉村2018.には、「改新詔において民衆に新たな賦課を決め、仕丁などとして都へ上らせる。当然のこととして、都と地方との交通を整備しておく必要がある。円滑に行なうには、これまでの異集団間に起きる祓除の強要などの習俗を禁止させねばならない。新政権にとっては、当然の措置である。こうした異集団間のトラブルを取り払わないと、民衆を王権に従属させることはできない。公民身分に編成していくうえで、必須の方法であろう。」(177頁)としている。確かにトラブルは困るけれど、トラブルがなくなれば良いということではなく、ひねくれたこじつけの解釈を禁じようとしている。そして、人々が身勝手な祓除を行っていた理由は、当否はともかく言い伝えに準拠していた。この点は注目されなければならない。伝承の読み替えに過ぎず、行為に独創性は見出せない。上代の人の思考は、言い伝えの枠組に呪縛されていたのである。
祓除は、その性質上、煩わしい感情からの解放を求めて行われていたものであったため、自分の感情にのみ身を任せて気に入らない人を追い払ったり、代償という形で対価を求めることにつながる。罪や穢れというものは、実体としてあるものではない。社会的に、あるいは個人的に、そう捉えたらそうなる。殺人を犯して犯罪とされるものも、戦場で敵兵を殺戮する際や、ヤクザ仲間のうちでは適用されない。相対的に決められるものとして、罪や穢れはある。誰がそれを決めるのか。中央集権的な国家体制を古代天皇制によって築き上げていく際には、天皇がそれを決める。個々別々に罪や穢れを定義されたり拡大解釈されては社会秩序が成り立たない。屁理屈をこねて精神衛生上よろしくないとしたり、招集された伇民に対して敵対的な感情を抱かれては社会は乱れてしまう。そういう内面化された秩序の統制を物語る記事として、「祓除」の愚俗記事は書き連ねられている。その「祓除」記事は、呪物の料物を対価として払わせる代金の多寡や、相手を犯罪者扱いにしたその罪過の程度を問うものではなく、人民の思想信条、この場合は屁理屈であるが、それを統制することに力点が置かれている。わざわざ「祓除」を問題にしていたのは、実際に当該事象が起っていたからではあろうが、道徳規範を身に着けさせて人心の平準化を図ることこそ、最も基本的な治安行政であると理解していたからであろう。
以上のことを踏まえたうえで、二年三月の甲申の詔全体を振り返ってみよう。
最初に葬儀に関する事項があり、第一部がいわゆる薄葬令、第二部が旧俗の廃止である。最後に、「此(かく)の如き旧(ふる)き俗(しわざ)、一(もはら)に皆悉(ことごとく)に断(や)めよ。(如此旧俗、一皆悉断。)」と説いている。それにつづいて、さまざまな習俗について述べている。吉村2018.はその内容を、「(a)①詐りの言葉への道徳的な訓戒、(b)②奴婢の権勢家への移住禁止、(c)③~⑦婚姻習俗への禁制法令、(d)⑧~⑪祓除に関わる習俗の禁止、(e)⑫上京時に使用する馬の飼育規制、という五項目になる。」(177頁)とまとめている。⑪の末尾に、「如是等類、愚俗所染。今悉除断、勿使復為。」と説いている。中途半端な箇所に戒めの言葉が載っていて、区切れは若干悪い。説諭的表現は、それまでのさまざまな事例を読み上げるところとは異なり、顔をあげてよくよく御覧じろと言っているように感じられる。したがって、「如此旧俗、一皆悉断。」と「如是等類、愚俗所染。今悉除断、勿使復為。」とはパラレルな表現であり、後者はより強調して説明的になっていると考えられる。
如此 旧俗、 一皆悉断。
如是等類、愚俗所染。今悉除断、勿使復為。
ところが、その「如是等類、愚俗所染。」部分は、今日、「如二是等一類、愚俗所レ染。」と解され、兼右本などから、「是等の如き類、愚俗(おろかひと)の染(なら)へる所なり。」と訓まれている。筆者は、奈良時代に「所」を漢文訓読のトコロと訓んだと確かめられないと考えている(注5)。そしてまた、意味的にみても、これらの事例は愚かな人たちが習わしにしていることである、という言い方は、文言として適切ではないと考える。現代語訳として、「このような類は、愚俗に染まったやり方である。」(新編全集本③157頁)とあるのは乱暴である(注6)。「愚俗」をオロカヒトと訓みながら、その低級な風俗も「愚俗」と解している。「愚俗(おろかなひと)」が「愚俗(おろかなわざ)」に「染」まるも何も、そのままではないか。「所」字をなぜ用いているのか、構文上、作文上で検討を要する。
「俗」字は、最初の説諭場面の「如此旧俗、一皆悉断。」に、「旧(ふる)き俗(しわざ)」と訓んでいる。ほかにも、「俗」字をシワザと訓む例はある。また、「俗」字には、トコロナラヒと訓む例もある。
俗(しわざ)漸(やうやく)に蔽(くら)くして寤(さ)めず。(継体紀二十四年二月、前田本左傍訓。右傍には「人々」とある。)
竊(ひそか)に恐らくは元元(おほみたから)、斯(これ)に由りて俗(ならひ)を生(な)し、此に藉(よ)りて驕(おごり)を成さむことを。(継体紀二十四年二月、前田本右傍に「常也」とある。)
或は国の俗(ところならひ)の用る所に随へるなり。(或随国俗所用也。)(大毘盧遮那仏経疏・巻第七)
それらを参考に考えると、この部分は、「如二是等一類愚俗、所染。」と解して、「是等の如き類の愚かなる俗(しわざ)は、所染(ところならひ)なり。」と訓むことができる。主語は、今まであげてきた数々の愚かしい仕業であり、それはトコロナラヒ、すなわち、辺鄙なところで局所的に行われている土俗であって、その場所の悪癖に染まったものであると言っている。だからそれらは禁止する。二度としないようにと言っている。翹岐が、自分の子が死んだ時に家族として喪にのぞまない姿勢は、禽獣レベルの悪しき習俗であると、紀の編者の筆に批判するのに精神は近しいものの、やりたいことは禁制である。大化新政権のもとで、そのような野蛮な振る舞いは禁止するといい、中央による一極集中を目指して天皇の解釈以外の解釈は認めない、と宣告している。中央集権的な国家体制を確立させようとする大化改新ならでは詔である。新しい政策が実施されて伇民が往来することが多くなり、その弊害として祓除の強要事件が起こっていることについて、それらは「愚俗(おろかなるしわざ)」にして「所染(ところならひ)」だから、中央の標準的なやり方に倣いなさいと言っている。結果的に、習俗として何が正しいかは、天皇の詔をもって決められることになっている。
視角を変えてみても、この訓のあり方は正しいと理解される。今日、学界全体において、大化改新の詔について、その成立、制作に疑問の声が上がっている。書紀編者による潤色、修文、述作であるとか、もとからあったものを漢文化して書き改めたとする説などである。しかし、漢文の記し方として、瀬間2015.にいう「訓読的思惟」(注7)を表すものがある。そこでは、榎本1992.榎本1993.を引きつつ、「何故於我使遇溺人。」(条文⑨)という書き方は、兼語式[主語+使役動詞+人+動詞]になっておらず、また、「復有妻妾、為夫被放、之日経年之後、適他恒理。」(条文③)、「復有為妻、被嫌離者、特由慚愧所悩。」(条文⑥)とあるのも、被動式[主語+被+施事者+動詞]の語順になっていない。さらに、「於」は、ヤマトコトバの格助詞「に」の表記として用いられていると指摘する。そのため、訓読文から漢文に書き起こしたとしか考えられないという。このような漢文“風”の書きっぷりは、瓢箪から駒のような話であるが、書き方において「所染(ところならひ)」である。本場の中国になくて、本邦においてしか通用しない。廃されるべき習わしを表記する際に、「所染(ところならひ)」的な倭習が行われている。本来あるべき姿から逸脱していることを、文章表現において“内部”から警告、示唆していると考えられるのである(注8)。
以上、大化改新の詔のうち、あまり顧みられることのない条文群について検討した。政治上の改革は痛みを伴う。昨今では、AIを駆使して管理社会化を実現し、社会主義を完成させていこうとする国家を目にするが、古代日本は、律令制の導入以前の段階として、大化改新の詔の連発によって人々の心に規範意識を植え付けて行っていた(注9)。ヤマトの国にもともとあった社会通念であるハラヘについて、それを受け継ぎながら統制して行っている。国家体制の盤石化には、実は、律令制の導入といった制度上の整備以上に、人心の一元化を図ることのほうが必須要件である(注10)。これによって、古代天皇制は人々の心のうちに定着が始まり、白村江の敗戦、壬申の乱を経ながら、天武朝期に至るに及び、今にいわば、一党独裁が進展することになっていったのである。
(注)
(注1)吉村2018.に、「これ[長期に独り身であった widow が再婚して妬みが生じて災厄であるとする話]は、夫との死別者(寡婦)と、初婚の事例である。前者は、すでに夫がいない……。しかも、一〇年二〇年ということなので、当時としても相当な時間が経過したことになる。後者は、初婚ではあるが、晩婚ということだろうか。こうした夫婦に対し、「妬み」が発生して、祓除を要求するという。……古代では、山・川辺・海浜・市など共同体(集落)と共同体が接した場で歌垣が行なわれていた。歌垣では、異集団間の男女が出会い、婚姻に発展することがあった……。異集団間の男女で行われた婚姻では、別の集団に入る場合に特別な儀礼が存在したかもしれない。そうした儀礼が、祓除として存在したことも十分想定できる。……[こ]の祓除については、異集団間の婚姻と考えておきたい。」(173~174頁)とある。折口説に与するものであるが、多くの婚姻は異集団間の交わりになるはずで、新参者は多数発生していたであろう。本条において、長期独身者の結婚に限り祓除を強要していることの説明につながらない。
(注2)ハラヘ(祓)という語義について、今日までのところ、決定的な解説が行われて定説化しているわけではない。日本史大事典に、「祓 はらえ 一般的には祓とは罪(つみ)・穢(けがれ)や災いなどを除き払う儀式、あるいは罪過を犯した者に罪を償わせるために物を出させることなどと規定されているが、この両者は別々のことではなく、本来一つのことの両側面を意味していたと考えられる。」(第五巻、882頁、この項山本幸司)とある。そのとおりではあろうが、語義的にそれをなぜハラヘと言ったのか、説かれていない。特に、記紀において、「祓」、「禊」、「祓禊」、「禊祓」、「祓除」、「解除」と用字が行われている点について、それをそれぞれ何と訓めばいいのか、意見の一致を見ていない。匝瑤2012.に、「祭祀の内容も、そして神話的な機能も禊も祓も同一の次元で捉えられており、禊は単に、水辺で行う事を意識する形容詞であると理解できる。……祓の祭祀の文脈で使われている限り、全て「はらへ」と読まれるべきであり、読まれてきていたであろう」(100頁)などとあるのは論外としても、そういった説が登場するほど、理解は深まっていないのが現状である。
新明解古語辞典に、西宮一民の補足がある。「はらへ〔祓へ〕 下二段のハラフの連用名詞形で、ハラヒは後世の形。本来、罪を犯した者に、贖物(あがもの)を出させて、罪を払わせる意であったが、奈良朝中期ごろ以降、罪ばかりではなく、穢れも払わせる対象になり、ハラヘといえば、「罪穢れ」を払うというように考えられるようになった。元来、罪と穢れとは別の観念であり、それを除去する動作を表わす言葉も、罪はハラフ(下二段)、穢れはミソク(四段)と別別にあった。それを後にはミソキハラフ、ミソキハラヘと熟合してしまうようになった。」(848頁)とする。西宮1990.は、「〇ミソキは、水によつて身を洗ひ清めて罪や穢れを除去すること 〇ハラヘは、度合に応じて、科料を差出し、また祓(はらへ)つ物を投棄てて、罪や穢れを除去すること といふ構図になつてゐる」(161頁)と主張し、「「罪や穢れを除去すること」が共通であるが、方法が異なるのであるから、両者区別できる」(153頁)とする。そして、古事記においては、「禊」字と「祓」字とはきちんと別して記されていると述べている(西宮1993.西宮1998.)。
大祓の要領
説文に、「祓 悪を除く祭也、示に从ひ友声」、新撰字鏡に、「解奏 波良戸祭(はらへまつり)」、「禊 戸系反、去、上巳祭也、又三月三日巳を得くるを上巳と為(す)、所言(いはゆる)美乃波良戸(みのはらへ)」(ミノハラヘ部分は校訂を経ている。)とある。後に律令時代、大祓は六月と十二月の月末に行われている。仲哀記でも、国家的祭祀として国の大祓が行われている。祭式としてハラヘが行われ、集団的祭祀として何を罪とし何を穢れとするか当然視されている。いま問題にしている大化二年三月の甲申詔のハラヘは、「強使二祓除一」と表されている。慰謝料請求の私裁判を開いているのと同じことになっている。
(注3)吉村2018.に、「どちらも死者は役民(えきみん)(役をつとめるために地元を離れて従事していた者)であるので、集団を異にする民衆であり、死者への穢れの問題と関係しているだろう。」(176頁)とする。折口説に近しいが、集団が同じである同じ村の人が病死したり、溺死した場合、死者への穢れは感じたのか、感じなかったのか、祓除は行われたのか行われなかったのか、といった疑問が生ずる。⑨・⑪条は、対象が「百姓(おほみたから)」とあるので、神崎2016.のいうとおり、「役民」には限られないものと考えられる。また、吉村2018.は、「ともに炊飯という火を使用する人々のことであり、穢れと関係すると思われる。当時の共同体(集団)には、地域の民が別火を忌む思想が存在していたのであろう。」(176頁)とする。自分の家の前は駄目で隣の家の前なら可であるように受け取ることのできる条文であり、また、火を焚くことが想定される甑をそもそも貸すことはあり得ないであろうと思われる。
(注4)成清2003.に、延喜式や弘仁式よりも以前の古代においては、「人間の出産を忌む「産穢」などはまだ成立しておらず、記紀神話などにたびたび登場する「産屋」も出産瞥見の禁忌を示すものと考えられるのではないだろうか。」(81~82頁)とある。
(注5)拙稿「上代における漢文訓読に由来する「所(ところ)」訓について」参照。
(注6)井上1987.に、「これらはみな、愚かな人々の従ってきた習わしである。」(220頁)と訳している。けれども、愚かな人々を啓蒙、教化して賢い人にする気はない。宇治谷1988.に、「このようなことは愚かしい習わしである。」(177頁)と訳している。けれども、列挙したのは一部の者が犯している愚行である。そして、そのようなことは統治の及ぶ範囲ではするな(「今悉除断、勿レ使二復為一。」)と禁令を発しているのである。
(注7)瀬間2015.に、「漢語漢文で考え、文章を制作するのではなく、訓読語・訓読文で思惟し、それを漢語漢文の枠に当てはめる方法で表記がなされたもの……。比喩的に言うならば、この訓読的思惟の言語とは、漢語漢文とのクレオールと見なせるかもしれない。」(255頁)と説明されている。筆者は、ヤマトコトバの歴史において、文字を獲得して文章語が誕生したことが重要であると考える。大化改新時に、漢語を直輸入して口頭語に音読み語が通行していたとは認められない。クレオール化は起っていないと考える。母語の表記の問題と、外国語との混淆を混同してはならない。たとえば、近代にキリル文字を採用した諸民族があるが、それによってロシア語に母語が席捲されたわけではない。
(注8)もちろん、日本書紀のこの個所を書いた本人に意向を聞いてみなければ、本当のところはわからないものの、森博達のいう書紀区分のα群にありながら同様の書き方は散見され、榎本1993.に、「漢文の語法を棚上げすれば、それは従来にない表現とみることさえできる。」(166頁)、「日本語にそくした表現としては、それはそれで、もとよりなんら不都合はない。」(170頁)とあって、中国語に間違いであると知りつつヤマトの書き方で書いていると意識していた可能性は高いと言える。
(注9)孝徳天皇は細かい性格をしていたかと推測している。公地公民制、租庸調の税制、班田収授法といった思い切った改革はブレーンにより立案されたものであろう。新聞では政治面に当たる。対して祓除の強要事件の列挙は、禁止を呼び掛けているとはいえ、社会面に載るような記事である。藤氏家伝に、「然皇子器量不レ足三与謀二大事一」と紀にない文があるが、当たっているように思われる。
(注10)天武紀に、天皇の単なる会見のような詔が散見される。「群臣(まへつきみたち)・百寮(つかさつかさ)及び天下(あめのした)の人民(おほみたから)、諸悪(もろもろのあしきこと)を作(な)すこと莫(まな)。若し犯すこと有らば、事に随ひて罪せむ。」(天武紀四年二月)とある。国民は上から下まで、悪いことをするな。悪いことをしたら処罰する、と言っている。聖徳太子の遺勅に、「諸(もろもろ)の悪(あしきこと)をな作(せ)そ。諸の善(よきわざ)奉行(おこな)へ。」(舒明前紀)とあるのとは訳が違う。君たちはどう生きるか、それは君たちがよくよく考えて生きろ、というのではないのである。何が悪いことなのかは、すべて朕、天皇が決めることである。人々は、恐怖心を抱かされ、縮み上がりながら生きなければならなくなった。その発端となったのは、人民全般の「旧俗」や「愚俗」の細事についてまで及んだ、大化改新の甲申の詔であった。
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