古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

十巻本和名類聚抄 翻刻と訓読 〈はじめに〉・〈凡例〉・〈序〉・〈目次〉

2022年02月02日 | 和名類聚抄
〈はじめに〉
 和名類聚抄は、本邦における本格的な辞書の嚆矢とされる。源順(911~983)の撰述によって承平四年(935)に成っている。この書物をいかに捉えるかが問題である。対象として国語研究資料としたり、平安文化や音韻研究の参考にすることも大いに役立つものである。と同時に、彼が一つ一つの言葉をどのように頭に思い浮かべながら書き記したかがわかるなら、それをフィルターにして平安時代前期の日本語の体系までも概観できる。基本的に類書形式に編まれた国語辞典であり、漢和辞典ではない。彼はバイリンガルではなく、ほぼヤマトコトバで物を考えていた。漢字ばかりで書いてある本文を彼の考えたであろう(依頼主の勤子内親王がそうよむことを期待したであろう)ように訓読することこそ、一語一語の意味ばかりでなく、観念の体系としての日本語理解に資するところとなる。
 伝本しか伝わっておらず、諸本の間に異動があるため、どれが源順の書いた書きっぷりに近いのか検討を要する。これまでは、どちらかといえば知識の正確さを重視するあまり、彼の意図とは必ずしも一致しない解釈が施される傾向があった。筆者が読み取りたいのは彼の物の考え方であり、それぞれの言葉をいかにカテゴライズして納得しようとしていたかである。引用書の記述と合わないと見える箇所も、和名類聚抄の写本段階での誤写ではなく、源順自身が勘違いしていたり、意図的に誤った可能性も考慮に入れるべきなのである。現代の国語辞書に新解さんの謎を探ることは、言葉というものについてより深く理解するうえで重要なことである。そこで、私訓においては、従来の漢語的な訓み方にとらわれずに奔放な趣向を試みた。
 辞書なのだから、意味がわかることが第一なのはそのとおりである。新撰字鏡と比べて圧倒的に網羅的であり、使い勝手がいいと思われ、後代にも大きな影響を与えている。繙いた人がどう読んだかについてはそれはそれとして課題であるが、後代のことについては考察の対象から省く。筆者の関心は上代語にある。万葉集に「左右」と書いてあるのを何と訓んだら良いのか思いあぐねたとされる(注1)源順が、それぞれの言葉をどのように把握していたか、そのことにこそ興味がある。したがって、本文校訂においてさえ、これまで誤写と思われてきた字を採ったり、また私訓においてむやみな訓読を施すこともある。可能性の文献として和名類聚抄を捉えたい。大いなるヤマトコトバを明らかにする可能性である。
 そもそも和名類聚抄は、その序文に、醍醐天皇の第四公主、勤子内親王の教命によって撰述されたと記されている。内親王が利用するための辞書、百科事典、大人のための教草とならなければ用命を果さない。内親王に興味を持ってもらいながらわかるように書くために、努力を惜しむことはなかったであろう。ある字があって、その読み方がわからないとき辞書を引いて調べる。その字が指し示す事物、事柄を理解するためである。そのとき、源順自身が把握している説明をしても誤謬があるかもしれないから、伝わっている辞書、事典、詩文の注釈など、書物に書いてあることを引用する形で正確を期すように心掛けている。かといって、とことん正確さを追究するわけではない。世間一般で通行している言葉について、内親王がわかりやすいと思ってくれるように心掛けている。ある物の名について、どうしてそう呼ぶのか、そんなことを自分の考えも加えてしまうくだけた精神によって成立している。学者として禄を食んでいるわけではない20代前半の源順は適任であった。和名類聚抄は、大人のための日本語初学書と言えるのであろう。
 そういう次第であって、和名類聚抄を私訓した本稿は、それ自体アカデミックなものではない。ここにはロクでもない陥穽が潜んでいるから、本格的に研究しようとする場合、けっして拙稿を鵜吞みにすることなく諸本に当たって再検討されたい。ちなみに、源順はアカデミックを志向した人物ではなかったようである。万葉歌もアカデミックに作られていることはない。題詞や序などに理屈をこねた表記が散見されるものの、肝心の歌は歌うもので、声の文化に彩られており、誰もが聞いてわかるように作られている。聞いていて寝てしまう講義ではない。記紀に載るお話も学術用語で構成されてはいない。集まっている人にお話をし、それを聞いてその場でわかるものが原形である。そのために言葉(ヤマトコトバ)はあった。古墳のことをコフンと呼ぶのは現今の考古学に従っている。当時、ツカと呼んでいたことは巻第六に記されている。地面を突(築)(つ)いて作るからツカである。自然と身体が動くほど、言葉を肌感覚で理解していた。平安時代も奈良時代も飛鳥時代も古墳時代も、誰しも皆、あれはツカだと呼んでいた。御陵であればミサザキである(注2)。それが彼らの認識であり、観念なのであって、使い回されている日常用語ばかりで互いに理解し合っていた。筆者はその常識を確かめようとしているのであって、偉そうな学問を志向しない。例えて言うなら、当時行われていた言語活動は算数で、数学ではないのである。伝写して残った和名類聚抄は、足し算、引き算、鶴亀算、植木算の世界へようこそ、と我々を招いてくれている。
 念のために申し上げておくが、本文の校訂も私訓も、筆者が暫定的に蘇らせたつもりになっているものである。一朝一夕に“完成”させられるようなものではないから、折に触れて気づいたら修正を施していく。筆者の理解不足は多く、ケアレスミスもある。けれども、問題の根幹は、与えられた本文に対して“正しい”漢文訓読をすることにはないことも述べておきたい。源順がところどころ我流に行った漢作文を“読む”ことが目的である。彼が何を記そうと試みたのかに触れようとしなければ本末転倒である。すなわち、彼の、ないしはその時代の人の、頭の中を覗いてみようという次第である。
(注)
(注1)拙稿「和名抄の「梟」について」参照。
(注2)拙稿「仁徳天皇の名、オホサザキの秘密」参照。

〈凡例〉
 底本には、巻第一~第二の身体類十七の途中まで真福寺本(馬渕和夫編著『古写本和名類聚抄集成 第二部 十巻本系古写本の影印対照』勉誠出版、2008年)、巻第二の残りは高松宮本(館蔵史料編集会『国立歴史民俗博物館蔵 貴重典籍叢書 文学篇 第二十二巻〈辞書〉』臨川書店、1999年)、巻第三~巻第八は伊勢十巻本(馬渕、前掲書)、巻第九~巻第十は高松宮本の影印本を用い、尾州大須宝生院蔵倭名抄残篇(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536071)、大須本摸刻零本(早稲田大学古典籍総合データベースhttps://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho02/ho02_00256/index.html)を参照しつつ、他の影印本や京本(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2605646)、下総本(早稲田大学古典籍総合データベースhttps://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ho02/ho02_00399/index.html)と校合し、翻字にあたっては、狩谷棭齋・箋注倭名類聚抄(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126429)、林忠鵬『類聚抄の文献学的研究』(勉誠出版、平成14年)、国立国語研究所「二十巻本和名類聚抄〈古活字版〉」(日本語史研究用テキストデータ集https://www2.ninjal.ac.jp/textdb_dataset/kwrs/)を参考にしつつ、字体は底本になるべく沿うようにして太字で表し、割注部分は〈 〉に入れた。私訓においては適宜、新字体、通用字体、正字体を用いた。現存主要諸本と複製状況については、山田健三「『和名類聚抄 高山寺本』解題」『新天理図書館善本叢書 第七巻 和名類聚抄 高山寺本』(天理図書館出版部、2017年)を参照されたい。なお、以下の「序」について、名古屋市博物館本(名古屋市博物館編『名古屋市博物館資料叢書二 和名類聚抄』同発行、1992年)に大幅な異動があるが、当初の形から外れるかと考える。
左:尾州大須宝生院蔵倭名抄残篇(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536071/6)、右:狩谷望之写和名類聚抄(同https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2545186/13)

〈序〉
倭名類聚抄序
竊以延長第四公主柔德早樹淑姿如花呑湖陽於〓〔月偏に匋〕陂籠山陰於氣岸年纔七歲初謁先帝先帝以其姿貌言笑毎事都雅特鐘愛焉即賜御府箏手教授其譜公主天然聰高學不再問一二年間能究妙曲一三弦上更奏新聲自醍醐山陵雲愁水咽永辭魏闕之月不拂秦箏之塵時々慰幽閑者書畫之戲而己於是因點成蠅妙殆上屏風以筆廻鸞之能𡖋巧垂露漸辨八軆之字豫訪万物之名其教曰我聞思拾芥者好探義實期折桂者競採文華至于和名弃而不屑是故雖一百帙文舘詞林三十卷白氏事類而徒偹風月之興難决世俗之疑適可决其疑者辨色立成楊氏漢語抄大醫博士深根輔仁奉勅撰集和名本草山州員外刺史田公望日本紀私記等也然猶養老所傳楊説纔十部延喜所撰藥種只一端田氏私記一部三卷古語多載和名希存辨色立成十有八章與楊家説名異實同編録之間頗有長短其餘漢語抄不知何人撰世謂之甲書或呼爲業書甲則開口裒揚之名業是服膺誦習之義俗説兩端未詳其一矣又其所撰録名音義不見浮僞相交海峭爲䖣河魚爲𫚄祭樹爲榊澡器為楾等是也汝集彼數家之善説令我臨文無所疑焉㒒之先人幸忝公主之外戚故㒒得見其草隷之神妙㒒之老母𡖋陪公主之下風故㒒得蒙其松容之教命固辭不許遂用修撰或漢語抄之文或流俗人之説先舉本文正説各附出於其注若本文未詳則直舉辨色立成楊氏漢語抄日本紀私記或舉類聚國史萬葉集三代式等所用之假字水獸有葦鹿之名山鳥有稻負之號野草之中女郎花海苔之屬於期菜等是也至如於期菜者所謂六書法其五曰假借本無其字依聲託事者乎内典梵語𡖋復如是非無所據故以取之或復有以其音用于俗者雖非和名既是要用石名之礠石礬石香名之沉香淺香法師具之香爐錫杖畫師具之燕脂胡粉等是也或復有俗人知其訛謬不能改易者鮏訛為鮭榲讀如杉鍛冶之音誤渉鍜治蝙𧍗之名僞用蝛蛦等是也若此之類注加今案聊明故老之説略述閭巷之談摠而謂之欲近於俗便於事臨忽忘如指掌不欲異名別號義深旨廣有煩于披覽焉上舉天地中次人物下至草木勒成十卷々中分部々中分門廿四部百廿八門名曰和名類聚抄古人有言街談巷説猶有可採㒒雖誠淺學而所注緝皆出自前經舊史倭漢之書但刊謬補闕非才分所及内慙公主之照覽外愧賢智之盧胡耳
和名類聚抄 序
窃かに以ひみるに延長の第四公主は、柔徳早(つと)に樹ち、淑姿花の如く、湖陽を胸陂に呑み、山陰を気岸に籠む。年纔かに七歳にして、初めて先帝に謁す。先帝其の姿貌言笑の、事ある毎、都雅なるを以て特に鍾受す。即ち御府の箏を賜ひ、手づから其の譜を教授す。公主天然聡高にして、学びて再び問はず。一、二年の間に能く妙曲を究め、十三絃の上に更に新声を奏づ。醍醐の山陵に、雲、愁ひ、水、咽びてより、永く魏闕の月を辞し、秦箏の塵を払はず。時々幽閑を慰むるは、書画の戯れのみ。是に於きて点に因りて蠅を成すの妙、殆ど屏風に上し、筆を以て鸞を廻らすの能、亦、垂露に巧みなり。漸く八体の字を弁ち、予め万物の名を訪ぬ。其の教に曰はく、「我聞く拾芥を思ふ者は好みて義実を探り、折桂を期する者は競ひて文華を採る。和名に至りては、棄てて屑(もののかずともせ)ず。是の故に一百帙の文館詞林と三十巻の白氏事類と雖も、徒らに風月の興に備へて世俗の疑ひを決し難し。適(たまた)ま其の疑いを決すべき者は、弁色立成、楊氏漢語抄、大医博士深根輔仁の奉れる勅撰集和名本草、山州員外刺史田公望の日本紀私記等なり。然れども猶ほ養老に伝ふる所は楊説、纔かに十部、延喜に撰する所は薬種、只一端なり。田氏私記一部三巻は、古語は多く載すれども、和名は希にのみ存り。弁色立成十有八章は、楊家の説と、名は異にして実は同じ。編録の間、頗る長短有り。其の余の漢語抄は、何人の撰なるかを知れず。世、之れを甲書と謂ひ、或に呼びて業書と為。甲は則ち開口褒揚の名、業は是れ服膺誦習の義なり。俗説両端にして、未だ其の一なるを詳らかにせず。又、其の撰録する所の名、音義見(しめ)されず、浮偽相交はる。海蛸を䖣と為、河魚を𫚄と為、祭樹を榊と為、澡器を楾と為る等は是なり。汝、彼の数家の善説を集め、我をして文に臨みて疑ふ所無からしめよ」と。僕の先人、幸ひに公主の外戚たるを忝(かたじけな)くし、故に僕、其の草隷の神妙なるを見ること得つ。僕の老母、亦、公主の下風に陪(そ)ひ、故に僕、其の松容の教命を蒙るを得。固辞すれども許されず、遂に用て修撰す。或は漢話抄の文、或は流俗人の説あり、先づ本文正説を挙げ、各其の注に付け出す。若し本文、未だ詳らかならざれば、則ち直ちに弁色立成、楊氏漢語抄、日本紀私記を挙ぐ。或は類聚国史、万葉集、三代式等の用ゐる所の仮字を挙ぐ。水獣に葦鹿の名有り、山鳥に稲負の号有り、野草の中の女郎花、海苔の属の於期菜等は是なり。於期菜の如き者に至りては、所謂六書の法、其の五を仮借と曰ひ、本、其の字無く、声に依りて事を託す者か。内典梵語も、亦、復(また)是くの如し。拠る所無きに非ず、故に以て之を取る。或は復、其の音を以て俗に用ゐらるる者有り。和名に非ずと雖も、既に是れ要用せり。石名の磁石、礬石、香名の沈香、浅香、法師具の香炉、錫杖、画師具の燕脂、胡粉等は是なり。或は復、俗人其の訛謬を知りて、改易する能はざる者有り。鮏を訛りて鮭と為し、榲を読みて杉の如くす。鍛冶の音、誤りて鍜治に渉る。蝙𧍗の名、偽りて蝛蛦を用ゐる等は是なり。此くの若きの類、注に今案を加へ、聊か故老の説を明らかにし、略(ほぼ)閭巷の談を述ぶ。摠じて之を謂はば、俗に近く、事に便にして、忽忘に臨みて掌を指すが如くならむと欲す。名を異にし号を別にし、義深く旨広く、披覧に煩ひ有るを欲せず。上に天地を挙げ、中に人物を次ぎ、下に草木に至り、勒して十巻と成す。巻の中は部に分け、部の中は門に分け、二十四部百二十八門。名づけて和名類聚抄と曰ふ。古人、言へること有り、街談巷説にも猶ほ採るべき有りと。僕、誠に浅学なりと雖も、注緝する所は、皆、前経旧史倭漢の書より出づ。但し謬を刊(けづ)り闕を補ふは、才分の及ぶ所に非ず。内に公主の照覧に慙ぢ、外に賢智の盧胡を愧づるのみ。

〈目次〉
巻第一
 天地部第一
  景宿類一 風雨類二 神霊類三 水土類四 山石類五 田野類六
 人倫部第二
  男女類七 父母類八 兄弟類九 子孫類十 婚姻類十一 夫婦類十二
巻第二
 形体部第三
  頭面類十三 耳目類十四 鼻口類十五 毛髪類十六 身体類十七 臓腑類十八 手足類十九 茎垂類二十
 疾病部第四
  病類二十一 瘡類二十二
 術芸部第五
  射芸類二十三 射芸具二十四 雑芸類二十五 雑芸具二十六
巻第三
 居処部第六
  居宅類二十七 居宅具二十八 墻壁類二十九 墻壁具三十 門戸類三十一 門戸具三十二 道路類三十三 道路具三十四
 舟車部第七
  船類三十五 舟具三十六 車類三十七 車具三十八
 珍宝部第八
  金銀類三十九 玉石類四十
 布帛部第九
  錦綺類四十一 絹布類四十二
巻第四
 装束部第十
  冠帽類四十三 冠帽具四十四 衣服類四十五 衣服具四十六 腰帯具四十七 腰帯類四十八 履褥類四十九 履褥具五十
 飲食部第十一
  薬酒類五十一 水奬類五十二 飯餅類五十三 麹糵類五十四 酥蜜類五十五 果菜類五十六 魚鳥類五十七 塩梅類五十八
 器皿部第十二
  金器五十九 漆器六十 木器六十一 瓦器六十二 竹器六十三
 灯火部第十三
  灯火類六十四 灯火具六十五 灯火器六十六
巻第五
 調度部第十四
  仏塔具六十七 伽藍具六十八 僧房具六十九 祭祀具七十 文書具七十一 図絵具七十二 征戦具七十三 弓剣具七十四
  刑罰具七十五 鞍馬具七十六 鷹犬具七十七 畋猟具七十八 漁釣具七十九 農耕具八十 造作具八十一 木工具八十二
  細工具八十三 鍛冶具八十四
巻第六
 調度部下
  音楽具八十五 服玩具八十六 秤量具八十七 容飾具八十八 澡浴具八十九 厨膳具九十 薫香具九十一 裁縫具九十二
  染色具九十三 織機具九十四 蚕糸具九十五 屏障具九十六 坐臥具九十七 行旅具九十八 葬送具九十九
巻第七
 羽族部第十五
  鳥名百 鳥体百一
 毛群部第十六
  獣名百二 獣体百三
 牛馬部第十七
  牛馬類百四 牛馬毛百五 牛馬体百六 牛馬病百七
巻第八
 龍魚部第十八
  龍魚類百八 龍魚体百九
 亀貝部第十九
  亀貝類百十 亀貝体百十一
 虫豸部第二十
  虫名百十二 虫体百十三
巻第九
 稲穀部第二十一
  稲穀類百十四 稲穀具百十五
 菜蔬部第二十二
  蒜類百十六 藻類百十七 菜類百十八
 果蓏部第二十三
  果蓏類百十九 果蓏具百二十
巻第十
 草木部第二十四
  草類百二十一 苔類百二十二 蓮類百二十三 葛類百二十四
 草木部下
  竹類百二十五 竹具百二十六 木類百二十七 木具百二十八

この記事についてブログを書く
« 「大原の このいつ柴の い... | トップ | 和名抄の和訓のない項目について »