古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

和名抄の和訓のない項目について

2022年02月04日 | 和名類聚抄
 十巻本の和名類聚抄のなかに、和訓を付さないまま項目があげられているものがある。音読をもって通称していて和訓がないとされるものが第一にある。外来語がカタカナ語として用いられるようなものと考えればいい例である(注1)

(1)旃檀 唐韻云旃檀〈仙壇二音此間云善短〉香木也内典云赤者謂之牛頭栴檀(巻第十)
   旃檀 唐韻に云はく、旃檀〈仙壇の二音、此の間に善短と云ふ〉は香木なりといふ。内典に云はく、赤き者は之れを牛頭栴檀と謂ふといふ。

 第二に、日本語として、もともとのヤマトコトバに歴としてあるにも関わらず記されていない項目がある。「和名」類聚抄をいうタイトルなのに、わかっている和名を載せないことは疑問とされている。当たり前すぎて載せていないと言えばそれまでなのだが、それでは「和名」類聚抄と銘打った点と矛盾している。わかるから略したのであろうという説が狩谷掖斎・箋注倭名類聚抄にある。「日月風人子顔目口毛身鳥」等の項目が和訓を載せていないのは、誰でも知っていて疑いようがないから略しているとしている(注2)。しかし、「星」に「保之(ほし)」、「雲」に「久毛(くも)」、「耳」に「美々(みみ)」、「鼻」に「波奈(はな)」という当たり前の和名が記されている。その差は何なのかがひっかかるわけだが、和名が記されていないことを事立てて問題とすることのほうが間違いなのではないかとする見方もある(注3)。他方、簡単な語に和名を付すか付さないかについての基準はあったはずで、典故主義に則った記載が行われているから、引書原典に訓が記されていなかったからとする説もある(注4)
 筆者は、そういう次元のことではないと考える。大人が大人のために作った辞書である。そして見逃してはならないのは、例示されている「日月風人子顔目口毛身鳥」の多くが巻第一・第二に記載の言葉である点である。編集方針が途中から変わっている可能性もある。辞書としての体裁をとるように傾いていったという意味である。逆に言えば、「日月風人子顔目口」あたりの書き方は、当時の人のものの考え方であり、近世以降、今日までの人のそれとは少し違うからなぜだかわからないのであろうと推測されるのである。和訓がない項目の語釈に記された文章は皆、一癖ある。

(2)日 造天地経云仏令宝応菩薩造日(巻第一)
   日 造天地経に云はく、仏は宝応菩薩をして日を造らしむといふ。
(3)月 造天地経云仏令吉祥菩薩造月(巻第一)
   月 造天地経に云はく、仏は吉祥菩薩をして月を造らしむといふ。

 巻第一のはじめから和名を記さない言葉が登場している。「日 太陽也〈音実訓比〉」などとないのは、小学生のための初学書ではないからであろう。大人のために書かれた書物に対するには、読者の側がセンスを磨かなくてはならない。
 日月は菩薩が造った。だが、それぞれは名の異なる菩薩であるという。宝応声菩薩は観音、日天子、宝吉祥菩薩は勢至、月天子と同義とされている。金堂に配されている仏像の、阿弥陀如来の脇侍は観音・勢至菩薩、薬師如来のそれは日光・月光菩薩であるというお約束になっている。観音、勢至は日光、月光に同じであって変幻したものである。仏の世界だから自在に変わっている。源順の工夫は、宝応声菩薩を宝応菩薩、宝吉祥菩薩を吉祥菩薩に略してわかりやすくした点にある。反切の類としてホウオウ(宝応)がヒになり、キツジヤウ(吉祥)がツキになるとしている。音の転としてあるだろうということである。大人のための辞書として作られている。

(4)風 春秋元命苞云陰陽怒而為風(巻第一)
   風 春秋元命苞に云はく、陰陽怒(いか)りて風と為るといふ。

 狩谷棭斎・箋注倭名類聚抄に、今に伝わる春秋元命苞にこの記述はないが、文選の注に引いているところと同じであるとしている。宋玉・風賦の、「谿谷に侵淫として盛に土囊の口より怒る。(侵淫谿谷盛怒於土囊之口)」の李善注に、「春秋元命包に曰はく、陰陽怒りて風と為。侵淫は漸く進なり。土囊は大穴なり。盛弘之荊州記に曰はく、宜都の佷山縣に山有り。山に穴有り、口の大きさ数尺、風井と為。土囊は当に此の類なるべし。(春秋元命包曰、陰陽怒而為風。侵淫漸進也。土囊大穴也。盛弘之荊州記曰、宜都佷山縣有山。山有穴口大数尺為風井。土囊当此之類也。)」とある。宋玉は、風がどこから起こるかというと、渓谷に土の囊があって口を開けていて怒り吐いているのがそれであると表現している。その解説にあるのが陰陽云々の文である。渓谷は山を浸食してできているから、山に日なたと日かげの部分が生まれる。陰陽に当たる。陰陽は、マークとして白と黒の虫が互いにくっついて丸くなった形をしている。
陰陽を表す太極図
 白かったり黒かったりする虫のようなものに、イカ(烏賊)がいる。白く透き通るような体なのに、怒ると墨を吐いて黒くなる。怒(いか)るからイカなのだが、巻第八では「䖝豸部」(虫豸部)ではなく「龜貝部」(亀貝部)にある。

烏賊 南越志云烏賊〈今案鳥賊並従魚作鷠鱡〈上音烏下疾得反〉亦作鰂見玉篇伊賀〉常自浮水上烏見以為死啄之乃巻取之故以名之(巻第八)
烏賊 南越志に云はく、烏賊〈今案ふるに鳥賊は並びに魚に従ひ鷠鱡〈上の音は烏、下は疾得反〉に作る、亦た鰂に作る、玉篇に見ゆ、伊賀(いか)〉は常に自ら水上に浮き、烏見て死にたりと以為(おも)ひ之れを啄まば乃ち之れを巻き取る。故に以て名づくといふ。

 あやしげな説を載せる南越志は佚書であるが、本草綱目に引かれている。烏賊が墨を吐くのは黒い烏を食べているからであるというわけである。そのイカは龜貝部にカテゴライズされている。䖝豸部のイカは陰陽のマークのそれであろう。そんな䖝が𠘨かんむりをともなって風となっている。
 その䖝は空中にいるはずである。今日ではタコと呼ばれることが多いイカノボリ(紙老鳶、紙鳶)である。風がなければのぼらない。𠘨をともなって凧という国字も作られている。

紙老鴟 弁色立成云紙老鴟〈此間云師労之〉以紙為鴟形乗風能飛一云紙鳶(巻第二)
紙老鴟 弁色立成に云はく、紙老鴟〈此の間に師労之(しらうし)と云ふ〉は紙を以て鴟の形に為り、風に乗り能く飛ぶといふ。一に紙鳶と云ふ。

 シラウシとは、ヤマトの人には白牛に聞える。牛の種類については巻第七に、「黄牛(あめうじ)」、「烏牛(まい)」、「𤘾牛(ほしまだら)」とある。真っ白な牛もいないことはないが、黒牛との対比で白牛を想定し、ホルスタインのような白に黒斑のものをシラウシと見て取ったと考えられる。ときどき墨を吐いて黒くなるというわけである。この紙老鴟こそ風の像ということになり、とてもわかりやすくなっている。なぜというに、イカノボリ(凧)を操るのには糸をうまく巻き取る必要がある。烏賊が、啄もうとする烏を巻き取って逆に食べてしまったようにである。糸を巻き取る道具は、桛(かせ)であり、巻かれた糸のことも綛(かせ)という。すなわち、カセ(桛)によってカゼ(風)の正体を把握できるのである。ここに、漢字の音義と和語の訓とが整合性を保ち、ヤマトコトバが“証明”されている。
 春秋元命苞に出ていた「怒」字をきちんと古語にイカルと訓まなければ、この頓智は理解に至らない。源順の考えに近づくことができないということである。彼がどこまで本気で説明していたか不明ながら、昔から存する言葉において、その語源説の正否を問うことはできない。大人の楽しみとして平安時代の初期にこのようななぞなぞ語りが行われていたことを見て取らなければ、当時の人がどのような人であったかという人間理解につながらない(注5)。谿谷にある土囊の口は洞穴のこと、この話は全部、法螺話なのだけれどね、と彼は言っているのかもしれない。 

(5)人 白虎通云人者男女惣名也(巻第一)
   人 白虎通に云はく、人は男女を惣(す)ぶる名なりといふ。

 紙や地面に人のことを図示する際、一人ずつ縦棒を書いたと思われる。|と|が互いに寄り合うことで人という字ができているように、男女は支え合いながら生きていくのだという説は巷間によく聞かれる。惣という字は、揔という字を誤ってできた字かと考えられている。揔はすべること、|と|とが並立しているところを窄(すぼ)めると人という漢字ができるし、二つの性を一(ひと)つにするのだからヒトと呼んで確かである。
 伝本に「惣」は真福寺本、高松宮本、下総本に見え、「揔」は京本、前田本に見える。源順自身がどちらの字を使ったかを推測するに、「惣」字、「揔」字とも可能性がある。「惣」字は「揔」字の後に使われるようになったと思われる。そのとき、「惣」を使うには選択的な理由があったであろう。男女のことに、字のなかにある「牛」が関わっているか不思議かもしれないが、ウシはウシハク(領)人のことを思わせる。里長のような人物が男女をすべることをしていた。戸籍が作られるようになっていた時代背景から理解できる。一方、「揔」字の場合、手を使って一つになろうとするを意味し、自由恋愛の盛んなころ、抱擁することを思わせて確からしく感じられる。ただ、そうなると、人という言葉が、性的なニュアンスを含んだものとなり、互いに意識して抱擁し合わない思春期の初め頃やそれ以前の子ども、また、倦怠期以降の壮年、老年の者は人ではないのかという疑問も起こる。いい疑問である。和名類聚抄の序には、源順が「延長第四公主」、醍醐天皇の第四皇女の勤子内親王の要請に応じて編纂したものであると記されている。妙齢な女性を念頭に書いているのだから、人が人としてあるのは、新たな生が男女の営みの賜物として続いているからなのだと伝えたい。そこで「男女揔名也」という文を引いて悦に入っていると考えられる。筆者は「揔」字原典説を唱えておく。

(6)子 孫愐云子〈即里反〉息也高祖本紀云呂公曰臣有息女願為箕箒妾(巻第一)
   子 孫愐に云はく、子〈即里反〉は息なりといふ。高祖本紀に云はく、呂公曰はく、臣に息ふく女(むすめ)有り、願はくは箕箒の妾と為さめといふといふ。

 「子は息なり」の意味は、利子を利息とも言うことから確かである。「子」字が十二支のネズミに当てられるのも、ネズミ算式に増える子の数のことによく当てはまる。誕生して生きて息をしている。説明に高祖本紀を引き、箕や箒を持ち出している。ふつう掃除をする下女のことをいうかとされているが、子息、息女に限って誤解すれば話が変わってくる。息を吹いて風を起こすこととかかわって箕や箒を使うのは、稲の脱穀作業である。籾殻や塵を払い取ってのけ玄米を得る。高いところから落として風により選別することもあり、同じ原理で唐箕は作られている。風で籾殻などは飛んで行く。これは息を吹きかけて飛ばすことと同じことである。息や風はヤマトコトバにシとも言い、息長鳥(しながどり)などと言っている。だから、脱穀作業に息女を迎え入れられたらどうかという意であると解釈できる。
 ムスメやムスコは、ムス(生)という語から成っている。ムスには同根の語とされるムス(蒸)という語があり、フカス(蒸)意である。湯気を通すことで、勢いよく熱気を吹かすことになっている。餅や酒米にするための蒸し調理が念頭にあったと考えられる。つまり、「息女」を訓んで「息ふく女(むすめ)」と理解できれば、わざとらしい同語反復的なもの言いだと気づく。なぞなぞの問いを解くヒントが隠されているとわかるのである。そして、このムス(生、蒸)という語と同根の語とされる語にムシ(虫)がある。「奴理能美(ぬりのみ)が養(か)へる虫、一度(ひとたび)は匐(は)ふ虫と為り、一度は殻(かひご)と為り、一度は飛ぶ鳥と為りて、三色(みくさ)に変る奇(あや)しき虫有り。」(仁徳記)とあるように、ムシの代表格に蚕がいた。カヒ(飼、養)+コ(児、子)でカヒゴと言い、また単にコとも呼んでいた。結局のところ、「息」は「子」なのだと納得することができる。史記の文章から、めぐりめぐって子のことをコと言うことがわかるなどというのははったりの解説であるが、漢語世界と日本語世界を弁別するのではなく、融合、習合させてより豊かな言語世界となるよう指向している。目的は和語を十分に理解することだから、それが漢籍に説明されるに如くはないのである。
箕を使って籾殻を飛ばす(福富草紙、兵庫県立歴史博物館蔵本、同ホームページhttps://rekihaku.pref.hyogo.lg.jp/collection/selection/zousi/をトリミング)

(7)目 釈名云目黙而内識(巻第二)
   目 釈名に云はく、目は黙(もだ)して内に識(しろしめ)すといふ。

 釈名・釈形体には、「目、黙也、黙而内識也」とあり、心に悟ることを表している。源順はおそらくあえて捻って略している。ここに書いてあることは、黙っていても目は口ほどに物を言うということではなく、一目瞭然、百聞は一見に如かず、の意の目の義である。質問して答えを聞かなくても、目が利く人であれば自ずと理解に至るということである。なかには目が利かない人もおり、おまえの目は節穴かという常套句でそしられる。節穴でない目を持つ人は、物事をよく知る人である。敬意をはらって「識」はシロシメスと訓むべきものであろう。なにしろ目という字の形には、内に白という字が隠れている。目の利く人なら見て取ることができる。だからシロシメスで正しい。
 黙っていてはわからないではないかというのは少し違う。黙っていると断っていることは、ヒントとして与えられているということで、訓が記されていないことは、これがそもそもなぞなぞであることを示している。「目」は「白」そのものではないから、シロシメスとシロシとの違いが目の機能であり、つまり、目はメスことに意義がある。だから、目はメと訓むのだとわかるようになっている。訓を付さないことは、なぞなぞの答えを記す野暮をしないためからであった。
 こういう興味深いなぞなぞの記された項目と、例えば「目 説文云目人眼也〈和名米〉」などという無味乾燥の表示とを比べてみれば、源順がふだんから慣れ親しんでいた思考の趣味、興味が浮かび上がってこよう。早急に答えを求めるための字引を作ったのではなく、問いを一緒に楽しもうよと呼びかけている姿が見てとれる。検索して出てきたことを組みあげて何かを言った気になっている情報化社会とは、明らかに違う世界に暮らしていた。

(8)口 野王案口〈苦后反〉所以言食也(巻第二)
   口 野王案に口〈苦后反〉は言ひ食ふ所以なりとす。

 鷹(たか)のことを百済に「倶知(くち)」と言ったとされている(注6)。鳥類としてのタカのことではなく、鷹狩に使うために飼い慣らした家畜のことである。鷹狩のために人間の飼育下に置かれるとき、少し馴化した性質に転ずる。湾曲した嘴はカットされて唇的でしかない口となっている。狩りの際に縄を解かれて飛ばされても必ず人間の手へと戻るように躾けられる。鷹飼いは、人から人へと渡る練習を施す。うまく出来たら餌袋、餌畚から鳩の心臓など、ご褒美が与えられる。野性を封印して過ごすことに甘んじるようになる。そんなクチのように、人から人へと渡り歩いて他愛もないお喋りをし、駄菓子などをもらって食べては日々を過ごす人は、クチと呼ばれて似つかわしい。顧野王・玉篇の「口」の項は佚していてこれ以上の言及があったかわからず、説文を引いたものである。この頓智クイズは、源順がオリジナルに考案したものではない。日本書紀に「穴穂部間人皇女」、天寿国繍帳の銘文に「孔部間人公主」という名として先例がある(注7)。名とは呼び名、呼ばれた名である。人口に膾炙したものだから、特にヒントを加える必要もなかったと思われる。

(9)身 唐韻云身〈式神反〉躬〈音弓又作躳軀音區訓与身同〉(巻第二)
   身 唐韻に云はく、身〈式神反〉は躬〈音は弓、又た躳に作る。躯の音は区、訓は身と同じ〉といふ。

 身体のことをいうミという言葉について、身は躬であり、躳とも作ると言い、軀であるとも述べ立てている。身は弓なりに曲っている。そして、身は呂、音楽用語に律呂と音階を表し、孔が順序良く開いている楽器は小角、管の笛(くだのふえ)、略して管(くだ)ともいう。管と呼ばれるものには、機織りの際に緯糸を巻いた梭(ひ)を入れて緯糸を送り出すシャトルがある。この管的存在としては、三輪山伝説に夜な夜な通ってきていた壮士のことが思い浮かぶ。弓なりになる体の三輪山伝説の壮士とは蛇の謂いであろう。身が區になっていると言うのも、説文に、「區 踦區、蔵め匿すなり。品に从ひ匸の中に在る。品は眾(衆)なり。(區 踦區、蔵匿也。从品在匸中。品眾也。)」とあり、樽や甕のなかに潜んでいると解され、それはすなわち、酒のことを言っているとわかる。三輪山伝説に、壮士は最終的に酒の神と崇められた。つまり、躬、躳、軀と漢字を掲げて示したいのは、それが巳(み)のことだと言いたいからである。
 この推論は検証が可能である。軀に見える區の品とは、シナである。シナ(品・階)とは階段状に上下がある坂、区別される質の上下のことである。「弓といへば品なきものを、梓弓、真弓、槻弓、品も求めず品も求めず」(神楽歌16)とあり、呂は背骨の象形で、床に伏して肘をついたとき、背骨の凹凸の連続は階段に見立てられる。躬、躳、軀はみな、身のシナのこと、つまり、サカ(坂)のことであり、サケ(酒)の古形サカのことを言っている。身は、酒の神の変化した巳に同じに訓んで正しいとわかるのである。
 以上、当面の課題であった和訓のない項目、日・月・風・人・子・目・口・身について検証した。それ以外にも如上の例とは毛色の違う形で和訓を提示していない語がある。和訓自体がなかったとするのが第三の種類である。

(10)昆孫 爾雅云来孫之子為昆孫〈昆後也今案六代孫也〉(巻第一)
   昆孫 爾雅に云はく、来孫の子を昆孫とすといふ。〈昆は後なり。今案ふるに六代の孫なり〉

 昆孫に当たる和語は、今日までも得られていない。「此間云」のように、当時、音読をもって呼ばれたとする説明もない。声に出してよみあげること、実用的に使われることがなかった語と考えられる。儒教的な家父長制に何代も続くことを目指す家族制度は、本邦では天皇家以外に持たなかったから、声に出してよみあげる機会は来なかった。観念としては理解できても話すことのない事情について、なにもわざわざ和語を作る必要もなく、なくて十分である(注8)
 また、第四に、音による通称が和訓化しているものがある。第一の「栴檀」の例のように「此間云」などとはなく、カタカナ語風とは括り切れない。

(11)頭巾 内典云世尊新剃頭髪以衣覆頭々巾之縁是也(巻第五)
   頭巾 内典に云はく、世尊、新たに頭髪を剃り衣を以て頭を覆ふといふ。頭巾の縁(ことのもと)は是れなり。

 僧坊具の項目である。和訓を注記に伴わず、音も書いていない。かといって、音読をそのまま和訓に流用したとか、よみあげることがなかった語というのでもない。ここにあげられている「頭巾」は、他の人が使うものではなくて僧侶特有の具であり、その由縁が述べられている。

頭巾 唐令云諸給時服冬則頭巾一枚(巻第四)
頭巾 唐令に云はく、諸そ時服に冬は則ち頭巾一枚を給へといふ。

 官人に給せられたものはヅキン(ヅキム)であり、仏者、修験者のものはトキン(トキム)と呼ばれている。世尊に遡ると解説にあるが、その点について歴史的に真であるかどうかなど、源順にとっても内親王にとっても不要な情報である。納得したいのは、僧侶は、頭を覆うのに、帽子ではなく布切れを巻きつけているという一点である。被るのではなくて着るのである。つるつるの頭を覆うのに、他のお肌の部分もつるつるだから、同じように衣として着ようということになっている。だから、トキム(ト(助詞)+キ(着)+ム(推量・意志))という。推して知るべしという指摘である。このジョークを伝えている相手は内親王である。高貴な女性を相手にさらりと身体の様子を述べている。源順は贅言を弄する野暮ではなかった。

(12)盥 説文云盥〈古満反与管同俗用手洗二字已上二物具見下澡浴具也〉澡手也(巻第四)
   盥 説文に云はく、盥〈古満反、管と同じ、俗に手洗の二字を用ゐる。已上の二物具は下の澡浴具に見ゆ〉は手を澡(あら)ふなりといふ。

 盥について、これも和訓を注記していない。けれども、その説明によって十分に和訓を知ることができる。我々は答えを知っている。タラヒという語の由来を紹介するのに、なぜか漢土の辞書、説文によって解説して和訓を示すのに十分となっている。ここで仮にわからない人がいても、「見下澡浴具也」によって答えを知ることができるようになっている。そのわからない人とは、ここの「盥 説文云盥澡手也」を、「盥 説文に盥(カン)は澡手(サウシュ)なりと云ふ。」と音読している人ではなかろうか。

盥 説文云盥〈音管一音貫楊氏漢語抄云澡手多良比俗用手洗二字〉澡手也字従臼水臨皿也(巻第六)
盥 説文に云はく、盥〈音は管、一音に貫、楊氏漢語抄に手を澡ふを多良比(たらひ)と云ひ、俗に手洗の二字を用ゐる〉は澡手なり、字は臼の水の皿に臨むに従ふなりといふ。

 和訓のなぞなぞ問題集である和名類聚抄には、答えのページも設けられていた(注9)
 これ以外にも類別すべき項目はあるかもしれないが、和名類聚抄を“読む”べき絶対的必要性について、これまで看過されてきた点について述べた。まとめると、和名類聚抄に和訓が示されていない項目にはいくつかの種類があること、そして、ヤマトコトバに和語があって常識的に知られているものに和訓が付されていないケースを筆頭に、さまざまに考え落ちの記述が行われていることが明らかとなった。当時の貴族階級において、なかでも勤子内親王にそれが示されなくても訓めることを前提としつつ、言い伝えに知られていることからも、また、漢語世界の文献を照らして見たときにも、自ずとそう訓むものだと納得できることが必定となっている。その深意を示したものが和名類聚抄なのである。頓智問題として提示されている。体裁としては辞書ながら、なぞなぞを解き明かす楽しみのための書という次第である。言葉の奥義を噛みしめて面白がることができるように編み上げられていると言える。そのことは、和名類聚抄の「序」に記されている。内親王の用命の最後にある「令我臨文無所疑焉」、意訳すると、私(内親王)が文字を目にするとき、和語との間に涌き出す疑問を何とかしてほしい、という願いに応えている。我々は和名類聚抄を辞書であるとばかり捉えているが、一般に公刊されることを目指して作られたものではなく、彼女一人のために作られている。漢詩文を作るのに漢語ばかり究めていないで、和語についても納得の行く手引きを拵えてほしいというぼやきを承けたものである。彼女の思いは、例えば源順が万葉集の訓み方を探る中でも感じていたものに共通するものであったろう。万葉集の戯書は氷山の一角である。ヤマトコトバの出来は記紀の説話に頓智、なぞなぞとして反映していて、それをもって話が構成されている。言葉との対応はそこに明瞭である。では、文字との対応はどうなのか。それを頓智、なぞなぞの文脈に簡潔に解説しようとした試みが和名類聚抄なのであった。ものの考え方、思考の枠組みが今日の我々とは違うことに留意しなければならない。
 狩谷棭斎はじめ多くの研究者は、和名類聚抄を対象として外側から見てきた。時代が下り、知識至上主義的な見方から精査して、その正誤を吟味するのに終始している。今日の研究に十巻本と二十巻本の先後を問うことは、外部からの視点以外のなにものでもない。そもそも、平安初期当時、漢詩文が学識をひけらかす場であったことのアンチテーゼとして和名類聚抄はできあがっている。そして、日常に使う和語について何かを語ることは、いったいに学問的であろうはずがない。一定の知識階級、識字能力を有する当時の大人が楽しめる国語辞書とは何か、それはそのまま言葉とは何かという問題につながる。今日の和名類聚抄“研究”においても、本来ならその点こそ最も顧慮されてしかるべきである。彼ら、彼女らが、ふだん使いに使う言葉をどのように捉えていたか、内側から読んで当時の人のものの考え方と一つになることができた時、はじめて“研究”は意味を成す。“読めた”と喜ぶに値する。すなわち、今日まで、和名類聚抄を“読む”研究は皆無であった。

(注)
(注1)馬渕2008.は、「和語化した漢語」として次のものを列挙している(168~169頁)。襖子、雲珠、錦鞋、院、痟𤸎、甲香、綺、箜篌、孔雀、琥珀、薰陸香、袈裟、碁局、甲、胡麻、犀、扠首、笇、慈石、紗、鉦鼓、猩々、箏、笙、青木香、笏、硨磲、麈尾、椶櫚、紙老鴟、雌黄、紫苑、蘇枋、癬、線鞋、詹糖香、栴檀、蒴藋、征箭、桃花石、𨣌酒、弾弓、鍮石、痔、帳、鎮子、鎚子、貂、天冠、燈心、斗、兎褐、褥、衲、房、帛、飛檐、翹、檜楚、篳篥、氷頭、琵琶、批把、檳榔、餢飳、屏繖、斑竹、版位、棒、方磬、魔鬼、幕、幕目、蜜、蜜蜂、楊、夜発、柚、游堈、流黄、羅、駱駝、林禽子、匳、櫺子、癭瘻、鱸、緑青、轆轤、鋋である。このうち、楊がはたしてヤウに由来してそれにキ(木)を後接させるために助詞ナでつなぎ、結果生まれた和語なのかわからない。また、貂については、「天」とあるのは仮名書きでテとばかり訓めばよく、古くはテ(手)と呼ばれていたであろうことは、拙稿「貂、あるいは手について」参照。
(注2)「又按、日月風人子顔目口毛身鳥皆不倭名、蓋是諸名、衆人所明知、無疑、故従略也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1126429/17)とある。
(注3)山田1992.。山田氏は、「結局シタガフ[源順]の「和名」とは、次の3つのレベルのものであったと考えられる。①歴史的概念としての和語 ②和語(共時的概念) ③漢語抄類などに典拠のある和訓(和訓に冠せられるマーカー)」(15~16頁)としている。興味深いことに、和「名」とは和「語」なのか、また、和「訓」なのか、言葉とは何なのか、という問題を露呈している。
(注4)大槻2019.。なお、大槻2019.は、狩谷棭斎のあげた例のうち、「顔」「鳥」は別項でその訓が触れられているからとして検討から除外している。筆者は、それ以外の「毛」が「毛髪類」のなかに項目として与えられていないことから除外する。項目としてあげられていないものについて和訓が付されていないことについて考えるなら、「衆人所明知、無疑、」ということになっていると定められよう。「故従略也、」ということではなく、源順の関心において焦点を結ばなかった結果であるという意味である。
(注5)現代語辞書に新解さんの謎を問うて感心し、なるほど言葉とは人が使うものなのだという肝心なことに思いを致すことから、言葉の研究、そして人間への理解は始まる。言葉は共時態として考察の対象となりつつ、通時態に動態として人々とともにうつりゆくものである。
(注6)「卌三年秋九月庚子朔、依網屯倉阿弭古、捕異鳥、献於天皇曰、臣毎張網捕鳥、未曾得是鳥之類。故奇而献之。天皇召酒君、示鳥曰、是何鳥矣。酒君対言、此鳥之類、多在百済。得馴而能従人、亦捷飛之掠諸鳥。百済俗号此鳥倶知。」是今時鷹也。乃授酒君養馴、未幾時而得馴。酒君則以韋緡其足、以小鈴其尾、居腕上、献于天皇。是日、幸百舌鳥野而遊猟。時雌雉多起、乃放鷹令捕、忽獲数十雉。是月、甫定鷹甘部、故時人号其養鷹之処、曰鷹甘邑也。」(仁徳紀四十三年九月)
(注7)拙稿「天寿国繍帳の銘文を内部から読む」参照。
(注8)ひょっとすると昆孫をコムソムなどと訓むことは推して知るべしと源順は言っているのかもしれないが、そう訓まれた用例は管見に入らない。
(注9)馬渕2008.に、「漢字訓読によって書かれた和語」として、「訓み方については傍証のないものもあり勝手に訓んでいるので異見も有ろうと思う。」(169頁)としつつあげている例は次のとおりである。赤毛=騂馬、麻毛=騮馬・騧馬、葦毛=騅、葦原蟹=蟛螖、打乱匣=巾箱、表袴=大口袴、押赤草=鴨頭草、歩板=板、搗布=海藻、門火=門燎、河苔=水苔、韓櫃=櫃、刈安草=黄草、栗毛=紫馬、小手=射韝、小櫃=櫃、鷲尻刺=藺、霜桃=冬桃、続松=松明、手洗=盥、斗帳=小帳、長櫃=櫃、庇刺車=長簷車、氷魚=𩵖、舟=槽、踏雪馬=驓馬、屏幔=斗、味気=齝、与女公=女妹、連銭葦毛=連䥫𩣭、尾袋=尾韜、女倍芝=女郎花、折櫃=櫃。

(引用・参考文献)
赤瀬川1999. 赤瀬川原平『新解さんの謎』文藝春秋(文春文庫)、1999年。
大槻2019. 大槻信『平安時代辞書論考─辞書と材料─』吉川弘文館、2019年。
福田1973. 福田定良『落語としての哲学』法政大学出版局、1973年。
馬渕2008. 馬渕和夫『古写本和名類聚抄集成 第一部 諸本解題・関連資料集及び語彙総集』勉誠出版、平成20年。
山田1992. 山田健三「順〈和名〉粗描」『日本語論究2 古典日本語と辞書』和泉書院、1992年。
コセリウ2014. E・コセリウ著、田中克彦訳『言語変化という問題─共時態・通時態・歴史─』岩波書店(岩波文庫)、2014年。

(English Summary)
Minamoto no Shitagafu has some place to explain words by wordplay in Wamyō Ruijushō. It sometimes took the form of a riddle question and dared not write the wamyō, Japanese name. In this paper, we will carefully examine how each word without a Japanese name was explained, and show that the ancient Japanese language tended to owe much to wordplay.

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