天平勝宝四年(752)の大仏開眼は次のように記されている。
夏四月乙酉、盧舎那大仏像成、始開眼。是日、行二‐幸東大寺一。天皇親率二文武百官一、設斎大会。其儀一同二元日一。五位已上者、著二礼服一。六位已下者当色。請二僧一万一。既而雅楽寮及諸寺種々音楽、並咸来集。復有二王臣諸氏五節・久米儛・楯伏・蹋歌・袍袴等歌儛一。東西発レ声、分レ庭而奏。所レ作奇偉、不レ可二勝記一。仏法東帰、斎会之儀、未三嘗有二如レ此之盛一也。(続紀・孝謙天皇・天平勝宝四年四月)
大仏開眼(続日本紀・第十八、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img/3988577(46/53)をトリミング)
最後の「仏法東帰より、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛んなること有らざるなり。」の「仏法東帰」という表現は何を意味するか議論されている。「仏法東漸」、「仏法東流」などとは言うが、「東帰」の例は他に見えない。
仏教公伝の記事は欽明紀にある。
冬十月、百済聖明王 更名聖王。遣二西部姫氏達率怒唎斯致契等一、献二釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻一。別表、讃二流通礼拝功徳一云、是法於二諸法中一、最為二殊勝一。難レ解難レ入。周公・孔子、尚不レ能レ知。此法能生二無レ量無レ辺福徳果報一、乃至成二弁無上菩提一。譬下如人懐二随意宝一、逐レ所レ須レ用、盡依レ情、此妙法宝亦復然。祈願依レ情、無レ所レ乏。且夫遠自二天竺一、爰洎二三韓一、依レ教奉持、無レ不二尊敬一。由レ是、百済王臣明、謹遣二陪臣怒唎斯致契一、奉レ伝二帝国一、流二通畿内一。果二仏所レ記二我法東流一。」(注1)(欽明紀十三年十月)
この仏教公伝記事は、出典論の研究から、金光明最勝王経を下敷きに書かれたとされ、それは義浄によって長安3年(703)に漢訳されている。欽明13年(552)の公伝記事は、年次の策定からして日本書紀執筆時に考えられたものであるとされ、状況証拠を総合すると大宝2年(702)の遣唐使に加わり、養老2年(718)に帰国した僧、道慈(670頃~744)の手になるものであるとする説がほとんど定説になっている(注2)。そして、当時の末法思想に合うように、末法第一年目にあたる欽明13年に公伝したことにしたのだというのである(注3)。その552年からちょうど200年の節目に大仏開眼となっている。
そういう仮説的理屈の上に、「東帰」についても次のような考えが提出されている。
『日本書紀』の仏教公伝記事で道慈が『大般若波羅蜜多経』の「東北」を「東」へと改変したことは、仏教東漸を単なる仏教公伝の歴史的事実として表現するのみにとどまらず、極東に位置する「日本」への、仏教公伝の必然性を強調する目的があったと考えられるのである。さらに『続日本紀』の「東帰」も、「日本」への仏教伝来の必然性を強調し、かつ「日本」こそが仏法東漸の最終的な帰結地であることを表現したものであったと考えるのである。(宮﨑2022.29~30頁)(注4)
補足的に解説する。大般若波羅蜜多経・初分難聞功徳品に、「爾時舎利子白仏言。世尊。甚深般若波羅蜜多。仏滅度已後時後分後五百歳。於東北方広流布耶。仏言。舎利子。如是如是。甚深般若波羅蜜多。我滅度已後時後分後五百歳。於東北方当広流布。」とあるのを下敷きにして、欽明紀に「果仏所記我法東流。」と書いたとする。「日本」というのは「極東」なのだという意識からそうしているのだといい、続日本紀も同様に東の最果てに当たるから帰結するということで「東帰」と書いたのだとしている。
乱暴な議論である。続日本紀の書記官と日本書紀の書記官は別の人であり、参照しながら書いているとは思われない。日本書紀の仏教公伝記事は、多く金光明最勝王経をアンチョコとして修文されている。「果仏所記我法東流」だけは大般若波羅蜜多経によっているとされている。その大般若波羅蜜多経は玄奘三蔵の訳である(注5)。玄奘三蔵(600~664)は仏法を求めて西域を通って天竺(インド)に入り、東の中国へ帰ってきた。続日本紀の書記官は、仏法が東流したことに玄奘三蔵が大きく貢献していたことを常識として知っていたことであろう。「仏法東流」といった言い方は中国で慣用化している。似て非なる含蓄ある表現と考えるなら、「仏法東帰」は「仏法」を主語として仏法が東へ帰ってきた、東へ帰った、というのではなく、仏法を得て東へ帰ってきた、という意味であると考えられる。
日本人は天竺へ仏法を求めに行ったことはない。だからこの考えは棄却されるべきだというのは筋違いである。仏教東漸、仏教伝播という見地は世界史地図の視座に囚われている。世界の中で東アジアを閉ざしてみて、その中で「日本」は「東」だという認識があったと凝り固まっている(注6)。そもそも、この記事は仏教という信仰体系が風習のように伝わり広まったことを述べたものではない。
「仏法」はホトケノミノリ(注7)である。仏が説いた教えについて言っている。その教えはどのように伝わったかといえば、経典の形になってよその地へ伝授されて行っている。その次第が「東帰」していると書いてある。経典の形で東へ帰ってきたこととは、漢訳した仏教経典が成ったこととほとんど同じことである。サンスクリット語で書かれたものではチンプンカンプンで理解できず、受容されることはない。我が国に公伝した最初の記事でも「経論若干巻」が伝わってきている。書いたものがあるからそれを読んで尊び敬い伝え広めることができている。自習だけでは十分にできていないと思ったら、先生に解説してもらおうということになる。中高生が塾に通おうというのと同じである。誰か良い先生はいないだろうか。そうだ、鑑真和上に来てもらおう。
天宝二載、留学僧栄叡・業行等、白二和上一曰、仏法東流、至二於本国一。雖レ有二其教一、無二人伝授一。幸願、和上東遊興レ化。(続紀・淳仁天皇・天平宝字七年五月、鑑真和上物化)
「仏法東流して本国に至れり。其の教へ有りと雖も、人に伝授する無し。幸に願はくは、和上東遊して化を興さむことを」と言っている。「東流」、「東遊」とある「東」は方角のベクトルが「東」を向いていることを言っている。中国から見て「東」である。
一方、大仏開眼会における「仏法東帰……」という記述は、中国や朝鮮半島を含めたその漢字文化圏全体でのことを表している(注8)。本邦は東アジア世界に属している。ホトケノミノリを持って東に帰ってきて以来において、それはすなわち漢訳版のホトケノミノリを得て以来においてのことであるが、斎会の儀式でこれまでこの大仏開眼会のように盛んなことはなかった、と高らかに謳っているわけである。「東帰」と記して漢訳経典が得られたことを指すことは、大唐西域記の玄奘三蔵の苦労話を知っていればすぐわかることであろう。漢字世界はインドから見て「東」である。
玄奘三蔵像(鎌倉時代、平成12年度修理前、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0059123をトリミング)
大仏開眼会は、漢字文化圏全体で見ても破格なスケールの儀式であると言いたかった。開眼師として天竺から来た菩提僊那(704~760)のほか、咒願師として唐から来た道璿(702~760)も加わっている。道璿が、今まで見たことも聞いたこともないほど豪勢な式典だったと感想を漏らしていたら、それを聞いた続日本紀の書記官は、「仏法東帰、斎会之儀、未嘗有如此之盛也。」と書いて“正しく”記したということになる。玄奘三蔵から100年ぐらいにおいてのこと、「仏法の東帰してより、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛んなること有らざるなり。」、「「仏法もて東に帰りてより、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛りなるは有らず。」としている(注9)。
この“読み”について、見てきたようなことを言うな、というお叱りを受けるとしたら甘んじて受けよう。見てきたようなことを書くのが書記官の仕事であったに違いないからである。司馬遷、ヘロドトスも然りではないか。
(注)
(注1)この記事には、「是日……」と、だらだらと当時の崇仏と廃仏の状況が付随している。公伝記事が後から作られたものだとする理解からは、それはそれ、これはこれとして考えるべきことである。
(注2)井上1961.。皆川2012.は、井上氏の道慈『今光明最勝王経』将来説と道慈『日本書紀』仏教伝来記事筆録説の合わせ技に疑問を呈している。道慈以前に金光明最勝王経が舶来していた可能性があることと、僧尼令の規定から僧侶が「政務の一環である『日本書紀』の編纂に参画するようなことはありうるはずはなく」(178頁)、「学問僧として唐か新羅に留学した経験があり、後にその学業のために還俗、官人として登用された人」(180頁)が記事を書いたのだろうとしている。首肯できる見解である。皆川氏はそこで山田御方を候補に挙げているが、筆者は粟田真人であろうと推測する。根拠は今示さない。
(注3)吉田2012.に、「仏教伝来記事にはじまる『日本書紀』の仏教関係記事[は]……、全体として、一つの構想のもとに構成された記述になっている……。それは、「末法⇒廃仏⇒廃仏との戦い⇒仏法興隆」という劇的な展開をとっており、編者たちの綿密な構想のもとに構成されたものになっている。私は、これらの記述は創作史話と評価するのが妥当だと考えている。」(109頁)とある。薗田2016.には、「しかし考えてみるに、日本仏教の起源を説く仏教伝来記事を、事もあろうに仏教の衰滅を記し付ける末法第一年目に措定することがあるだろうか。」(34頁) と素朴な疑問が吐露されている。日本仏教の歴史記述がニヒルなドラマツルギーを好み選んだ謎は解けていない。
(注4)また、大谷大学博物館で「2022年度特別展 仏法東帰ー大仏開眼へのみちー」(2022年10月11日~11月28日)が開催されているという。解説動画(https://www.youtube.com/watch?v=MNG9uJKYkIw&t=372s)参照。
展覧会チラシ表面
(注5)和銅五年長屋王願経(文化遺産オンライン)(奈良時代、712年)を参照されたい。
(注6)「日出処天子致二書日没処天子一無レ恙云云。」(隋書・倭国伝)などとあるのも、東アジア世界内における「日本」人の「東」意識の表れなのだとされ、だからこそ「日本」と自称していると錯覚されている。万葉集の表記にある「日本」は、「倭」、「山跡」同様ヤマトとしか訓まない。ヤマトと自称していた。
(注7)「於レ是汝父多須那為二橘豊日天皇一、出家、恭二‐敬仏法一。」(推古紀十四年五月)とあるのは、お経を唱えたことを言っている。多須那は字を読む勉強をしたらしい。すらすら読めるようになったか定かではないが、門前の小僧とて習わぬ経を読むことはできるようになるものである。「於磯城嶋宮御宇天皇十三年中。百済明王、奉レ伝二仏法於我大倭一。」(孝徳紀大化元年八月)とあるのは、欽明紀を承けている。聖明王は仏法はすごいぞと言っているが、具体的内容を伝授したわけではなく、「経論若干巻」に書いてあるからと送ってよこしたのである。
(注8)これまで「仏法東帰」という見慣れない字面を「仏法東流」と同様に、ないしはその拡張義と誤解していた。直木1990.は、「仏法が日本に伝来して以後、斎会(僧侶に食事を供養する法会)としていまだかつてこのように盛大なものはなかった。」(199頁、傍線筆者)と訳している。
(注9)玄奘三蔵から教えを受けた道昭の弟子が行基で、その高弟の景静は都講として開眼会に参列している。
(引用・参考文献)
井上1961. 井上薫『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館、昭和36年。
勝浦2004. 勝浦令子「『金光明最勝王経』の舶載時期」続日本紀研究会編『続日本紀の諸相』塙書房、2004年。
薗田2016. 薗田香融『日本古代仏教の伝来と受容』塙書房、2016年。
直木1990. 直木孝次郎他訳注『続日本紀2』平凡社(東洋文庫)、1988年。
皆川2012. 皆川完一『正倉院文書と古代中世史料の研究』吉川弘文館、2012年。
宮﨑2022. 宮﨑健司「「仏法東帰」考─大仏開眼の道程─」『大谷大學研究年報』第74集、令和4(2022)年6月。
吉田2012. 吉田一彦『仏教伝来の研究』吉川弘文館、2012年。(「『日本書紀』仏教伝来記事と末法思想」『人間文化研究』第7・9・10・11・13号、名古屋市立大学、2007年6月・2008年6月・同12月・2009年6月・2010年6月。名古屋市立大学学術機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1124/00000180/~/00000211/・/00000238/・/00000252/・/00000296/)
※2022年11月9日に(注5)を追記した。写経所で「新訳」がもてはやされるのは当たり前ではないかと指摘を受けた。
夏四月乙酉、盧舎那大仏像成、始開眼。是日、行二‐幸東大寺一。天皇親率二文武百官一、設斎大会。其儀一同二元日一。五位已上者、著二礼服一。六位已下者当色。請二僧一万一。既而雅楽寮及諸寺種々音楽、並咸来集。復有二王臣諸氏五節・久米儛・楯伏・蹋歌・袍袴等歌儛一。東西発レ声、分レ庭而奏。所レ作奇偉、不レ可二勝記一。仏法東帰、斎会之儀、未三嘗有二如レ此之盛一也。(続紀・孝謙天皇・天平勝宝四年四月)
大仏開眼(続日本紀・第十八、国立公文書館デジタルアーカイブhttps://www.digital.archives.go.jp/img/3988577(46/53)をトリミング)
最後の「仏法東帰より、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛んなること有らざるなり。」の「仏法東帰」という表現は何を意味するか議論されている。「仏法東漸」、「仏法東流」などとは言うが、「東帰」の例は他に見えない。
仏教公伝の記事は欽明紀にある。
冬十月、百済聖明王 更名聖王。遣二西部姫氏達率怒唎斯致契等一、献二釈迦仏金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻一。別表、讃二流通礼拝功徳一云、是法於二諸法中一、最為二殊勝一。難レ解難レ入。周公・孔子、尚不レ能レ知。此法能生二無レ量無レ辺福徳果報一、乃至成二弁無上菩提一。譬下如人懐二随意宝一、逐レ所レ須レ用、盡依レ情、此妙法宝亦復然。祈願依レ情、無レ所レ乏。且夫遠自二天竺一、爰洎二三韓一、依レ教奉持、無レ不二尊敬一。由レ是、百済王臣明、謹遣二陪臣怒唎斯致契一、奉レ伝二帝国一、流二通畿内一。果二仏所レ記二我法東流一。」(注1)(欽明紀十三年十月)
この仏教公伝記事は、出典論の研究から、金光明最勝王経を下敷きに書かれたとされ、それは義浄によって長安3年(703)に漢訳されている。欽明13年(552)の公伝記事は、年次の策定からして日本書紀執筆時に考えられたものであるとされ、状況証拠を総合すると大宝2年(702)の遣唐使に加わり、養老2年(718)に帰国した僧、道慈(670頃~744)の手になるものであるとする説がほとんど定説になっている(注2)。そして、当時の末法思想に合うように、末法第一年目にあたる欽明13年に公伝したことにしたのだというのである(注3)。その552年からちょうど200年の節目に大仏開眼となっている。
そういう仮説的理屈の上に、「東帰」についても次のような考えが提出されている。
『日本書紀』の仏教公伝記事で道慈が『大般若波羅蜜多経』の「東北」を「東」へと改変したことは、仏教東漸を単なる仏教公伝の歴史的事実として表現するのみにとどまらず、極東に位置する「日本」への、仏教公伝の必然性を強調する目的があったと考えられるのである。さらに『続日本紀』の「東帰」も、「日本」への仏教伝来の必然性を強調し、かつ「日本」こそが仏法東漸の最終的な帰結地であることを表現したものであったと考えるのである。(宮﨑2022.29~30頁)(注4)
補足的に解説する。大般若波羅蜜多経・初分難聞功徳品に、「爾時舎利子白仏言。世尊。甚深般若波羅蜜多。仏滅度已後時後分後五百歳。於東北方広流布耶。仏言。舎利子。如是如是。甚深般若波羅蜜多。我滅度已後時後分後五百歳。於東北方当広流布。」とあるのを下敷きにして、欽明紀に「果仏所記我法東流。」と書いたとする。「日本」というのは「極東」なのだという意識からそうしているのだといい、続日本紀も同様に東の最果てに当たるから帰結するということで「東帰」と書いたのだとしている。
乱暴な議論である。続日本紀の書記官と日本書紀の書記官は別の人であり、参照しながら書いているとは思われない。日本書紀の仏教公伝記事は、多く金光明最勝王経をアンチョコとして修文されている。「果仏所記我法東流」だけは大般若波羅蜜多経によっているとされている。その大般若波羅蜜多経は玄奘三蔵の訳である(注5)。玄奘三蔵(600~664)は仏法を求めて西域を通って天竺(インド)に入り、東の中国へ帰ってきた。続日本紀の書記官は、仏法が東流したことに玄奘三蔵が大きく貢献していたことを常識として知っていたことであろう。「仏法東流」といった言い方は中国で慣用化している。似て非なる含蓄ある表現と考えるなら、「仏法東帰」は「仏法」を主語として仏法が東へ帰ってきた、東へ帰った、というのではなく、仏法を得て東へ帰ってきた、という意味であると考えられる。
日本人は天竺へ仏法を求めに行ったことはない。だからこの考えは棄却されるべきだというのは筋違いである。仏教東漸、仏教伝播という見地は世界史地図の視座に囚われている。世界の中で東アジアを閉ざしてみて、その中で「日本」は「東」だという認識があったと凝り固まっている(注6)。そもそも、この記事は仏教という信仰体系が風習のように伝わり広まったことを述べたものではない。
「仏法」はホトケノミノリ(注7)である。仏が説いた教えについて言っている。その教えはどのように伝わったかといえば、経典の形になってよその地へ伝授されて行っている。その次第が「東帰」していると書いてある。経典の形で東へ帰ってきたこととは、漢訳した仏教経典が成ったこととほとんど同じことである。サンスクリット語で書かれたものではチンプンカンプンで理解できず、受容されることはない。我が国に公伝した最初の記事でも「経論若干巻」が伝わってきている。書いたものがあるからそれを読んで尊び敬い伝え広めることができている。自習だけでは十分にできていないと思ったら、先生に解説してもらおうということになる。中高生が塾に通おうというのと同じである。誰か良い先生はいないだろうか。そうだ、鑑真和上に来てもらおう。
天宝二載、留学僧栄叡・業行等、白二和上一曰、仏法東流、至二於本国一。雖レ有二其教一、無二人伝授一。幸願、和上東遊興レ化。(続紀・淳仁天皇・天平宝字七年五月、鑑真和上物化)
「仏法東流して本国に至れり。其の教へ有りと雖も、人に伝授する無し。幸に願はくは、和上東遊して化を興さむことを」と言っている。「東流」、「東遊」とある「東」は方角のベクトルが「東」を向いていることを言っている。中国から見て「東」である。
一方、大仏開眼会における「仏法東帰……」という記述は、中国や朝鮮半島を含めたその漢字文化圏全体でのことを表している(注8)。本邦は東アジア世界に属している。ホトケノミノリを持って東に帰ってきて以来において、それはすなわち漢訳版のホトケノミノリを得て以来においてのことであるが、斎会の儀式でこれまでこの大仏開眼会のように盛んなことはなかった、と高らかに謳っているわけである。「東帰」と記して漢訳経典が得られたことを指すことは、大唐西域記の玄奘三蔵の苦労話を知っていればすぐわかることであろう。漢字世界はインドから見て「東」である。
玄奘三蔵像(鎌倉時代、平成12年度修理前、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0059123をトリミング)
大仏開眼会は、漢字文化圏全体で見ても破格なスケールの儀式であると言いたかった。開眼師として天竺から来た菩提僊那(704~760)のほか、咒願師として唐から来た道璿(702~760)も加わっている。道璿が、今まで見たことも聞いたこともないほど豪勢な式典だったと感想を漏らしていたら、それを聞いた続日本紀の書記官は、「仏法東帰、斎会之儀、未嘗有如此之盛也。」と書いて“正しく”記したということになる。玄奘三蔵から100年ぐらいにおいてのこと、「仏法の東帰してより、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛んなること有らざるなり。」、「「仏法もて東に帰りてより、斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛りなるは有らず。」としている(注9)。
この“読み”について、見てきたようなことを言うな、というお叱りを受けるとしたら甘んじて受けよう。見てきたようなことを書くのが書記官の仕事であったに違いないからである。司馬遷、ヘロドトスも然りではないか。
(注)
(注1)この記事には、「是日……」と、だらだらと当時の崇仏と廃仏の状況が付随している。公伝記事が後から作られたものだとする理解からは、それはそれ、これはこれとして考えるべきことである。
(注2)井上1961.。皆川2012.は、井上氏の道慈『今光明最勝王経』将来説と道慈『日本書紀』仏教伝来記事筆録説の合わせ技に疑問を呈している。道慈以前に金光明最勝王経が舶来していた可能性があることと、僧尼令の規定から僧侶が「政務の一環である『日本書紀』の編纂に参画するようなことはありうるはずはなく」(178頁)、「学問僧として唐か新羅に留学した経験があり、後にその学業のために還俗、官人として登用された人」(180頁)が記事を書いたのだろうとしている。首肯できる見解である。皆川氏はそこで山田御方を候補に挙げているが、筆者は粟田真人であろうと推測する。根拠は今示さない。
(注3)吉田2012.に、「仏教伝来記事にはじまる『日本書紀』の仏教関係記事[は]……、全体として、一つの構想のもとに構成された記述になっている……。それは、「末法⇒廃仏⇒廃仏との戦い⇒仏法興隆」という劇的な展開をとっており、編者たちの綿密な構想のもとに構成されたものになっている。私は、これらの記述は創作史話と評価するのが妥当だと考えている。」(109頁)とある。薗田2016.には、「しかし考えてみるに、日本仏教の起源を説く仏教伝来記事を、事もあろうに仏教の衰滅を記し付ける末法第一年目に措定することがあるだろうか。」(34頁) と素朴な疑問が吐露されている。日本仏教の歴史記述がニヒルなドラマツルギーを好み選んだ謎は解けていない。
(注4)また、大谷大学博物館で「2022年度特別展 仏法東帰ー大仏開眼へのみちー」(2022年10月11日~11月28日)が開催されているという。解説動画(https://www.youtube.com/watch?v=MNG9uJKYkIw&t=372s)参照。
展覧会チラシ表面
(注5)和銅五年長屋王願経(文化遺産オンライン)(奈良時代、712年)を参照されたい。
(注6)「日出処天子致二書日没処天子一無レ恙云云。」(隋書・倭国伝)などとあるのも、東アジア世界内における「日本」人の「東」意識の表れなのだとされ、だからこそ「日本」と自称していると錯覚されている。万葉集の表記にある「日本」は、「倭」、「山跡」同様ヤマトとしか訓まない。ヤマトと自称していた。
(注7)「於レ是汝父多須那為二橘豊日天皇一、出家、恭二‐敬仏法一。」(推古紀十四年五月)とあるのは、お経を唱えたことを言っている。多須那は字を読む勉強をしたらしい。すらすら読めるようになったか定かではないが、門前の小僧とて習わぬ経を読むことはできるようになるものである。「於磯城嶋宮御宇天皇十三年中。百済明王、奉レ伝二仏法於我大倭一。」(孝徳紀大化元年八月)とあるのは、欽明紀を承けている。聖明王は仏法はすごいぞと言っているが、具体的内容を伝授したわけではなく、「経論若干巻」に書いてあるからと送ってよこしたのである。
(注8)これまで「仏法東帰」という見慣れない字面を「仏法東流」と同様に、ないしはその拡張義と誤解していた。直木1990.は、「仏法が日本に伝来して以後、斎会(僧侶に食事を供養する法会)としていまだかつてこのように盛大なものはなかった。」(199頁、傍線筆者)と訳している。
(注9)玄奘三蔵から教えを受けた道昭の弟子が行基で、その高弟の景静は都講として開眼会に参列している。
(引用・参考文献)
井上1961. 井上薫『日本古代の政治と宗教』吉川弘文館、昭和36年。
勝浦2004. 勝浦令子「『金光明最勝王経』の舶載時期」続日本紀研究会編『続日本紀の諸相』塙書房、2004年。
薗田2016. 薗田香融『日本古代仏教の伝来と受容』塙書房、2016年。
直木1990. 直木孝次郎他訳注『続日本紀2』平凡社(東洋文庫)、1988年。
皆川2012. 皆川完一『正倉院文書と古代中世史料の研究』吉川弘文館、2012年。
宮﨑2022. 宮﨑健司「「仏法東帰」考─大仏開眼の道程─」『大谷大學研究年報』第74集、令和4(2022)年6月。
吉田2012. 吉田一彦『仏教伝来の研究』吉川弘文館、2012年。(「『日本書紀』仏教伝来記事と末法思想」『人間文化研究』第7・9・10・11・13号、名古屋市立大学、2007年6月・2008年6月・同12月・2009年6月・2010年6月。名古屋市立大学学術機関リポジトリhttp://id.nii.ac.jp/1124/00000180/~/00000211/・/00000238/・/00000252/・/00000296/)
※2022年11月9日に(注5)を追記した。写経所で「新訳」がもてはやされるのは当たり前ではないかと指摘を受けた。