古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考

2022年10月23日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 万葉集では、柿本人麻呂作の38番歌と45番歌で、「神ながら 神さびせすと」という言い回しがある。

  (吉野の宮にいでます時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌)
 やすみしし わご大君 神ながら 神さびせすと 吉野川 たぎつ河内に 高殿を 高知りまして 登り立ち 国見をせせば たたなはる 青垣山あをかきやま 山神やまつみの まつ御調みつきと 春へは 花かざし持ち 秋立てば 黄葉もみちかざせり 一に云はく、黄葉もみちばかざし ふ 川の神も 大御食おほみけに 仕へ奉ると かみつ瀬に 鵜川うかはを立ち しもつ瀬に 小網さでさし渡す 山川も りて仕ふる 神の御代みよかも(万38)
  軽皇子の安騎あきの野に宿りましし時に、柿本朝臣人麻呂の作る歌
 やすみしし わご大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと ふとかす みやこを置きて 隠口こもりくの 泊瀬はつせの山は 真木まき立つ 荒山道あらやまみちを いはが根 禁樹さへき押しなべ 坂鳥の 朝越えまして 玉かぎる 夕去り来れば み雪降る 安騎あきの大野に 旗すすき 小竹しのを押しなべ 草枕 旅宿りせす いにしへ思ひて(万45)

 万38番歌は万36番歌の前に書かれている題詞「幸于吉野宮之時、柿本朝臣人麻呂作歌」の第二長歌である。
 「神ながら 神さびせすと」という言い方は、神としてまさに、神にふさわしい振る舞いをする、という意味であると解されてきた(注1)。この場合、上に冠る語がその主語となり、「(やすみしし)吾ご大君」が神憑りしている、神としての地位に就いている、神の状態にあるものと捉えられている。それが通説となっていて、天皇が神になっている、あるいは、神扱いされているということに当たるから、天皇の神格化が起こっていたという言説へと展開している。本稿では、その理解の誤りについて検討する。柿本人麻呂が天皇を神格化した表現などどこにもないという解釈である。
 「神ながら」という句は、万38番の長歌に続く反歌にも見える。

 山川も 依りて仕ふる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも(万39)

 鹿持雅澄・万葉集古義に、「[初めの]二句は神長柄カムナガラの句へ直に続て意得べからず、第四句へつゞけて聞べし、山神河神までもより来てつかへ給ふ、その瀧つ河内の意なり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1127501/226、漢字の旧字体は改めた)とある(注2)。これは尤もな見解である。
 時代別国語大辞典に、「かむながら[神在随](副)神意のままに。ナは連体格の助詞、カラは本性・性格を示す名詞であろう。全体として副詞的に機能しながら、構成要素としてのカムが、独立に連体修飾語を受け、名詞としての性格を残している例もある。」(223頁)と解説されている。
 古典基礎語辞典は、カムナガラの語釈として、「神の本性そのままに。神でおありになるままに。神にましますままに。」(382頁、この項、白井清子) とし、万45・4258番歌を用例に引いている。しかるに、「神の本性そのままに」と「神でおありになるままに」、「神にましますままに」は意味が違う。「神の本性そのままに」とは、「神の本性そのままに」何かがあらわれていると推定されるが、「神でおありになるままに」や「神にましますままに」では、何かが「神でおありになる、そのままに」、何かが「神にまします、そのままに」という意になる。神の血筋・素性・性質を被って何かが顕現しているのであって、すでに神と同一化していてその発露として神らしく振舞うということではない。
 誤解していることはカムサブという語の解釈に透けて見える。時代別国語大辞典に、「かむさぶ[神古・神成](動上二)カミに接尾語サブの接した語。①神々しい様子を呈する。古色を帯びて神秘的な様子が見える。植物・土地・岩などに多く用い、この意に用いることがもっとも多い。……②古びたものが神々しい様子を呈するところからいったものであるが、人間に用いて、単に老いている意となる。……③神にふさわしい振舞いをする。……【考】木や岩や山や森を叙述するのにこの語を多く用いるのは、それらが神のある所と感ぜられたためである。サブは古びるの意が原義で、それから、それらしく振舞う・それらしく見えるの意になった。カムブ・カムシムの語もほぼ同意と考えられる。カミサブの例も見える。」(222頁)とある。しかし、①②と③とでは語の理解に逆転が起こっている。
 この点が十分に理解されないまま混同、あるいは混用するものとしているため、議論が前進していない(注3)
 カムサブという語に木や岩や山や森を表すのに使うことが多いのは、神がある所と考えられたからではなく、時が経過してそういう状態にあることを強調できる対象だからであろう。①②にも共通する要素である。変わらずにあるものとして見えたのである。②の、人について考えるなら、人は時が経過すると老いるから、その老いた状態をカムサブと言っている。①の不変なるものとは反対の様相を示すが、語義にある、時が経過した状態のこととしては同じことを指している。ここに、③の、神にふさわしい振舞いをする、という要素は介入しえない。



 時代別国語大辞典の誤解は、カムカラという語にも見られる。「かむから[神随](名)神の性格。神の性格のゆえ。副詞的な意味をもってのみ使われる。カラは国カラ・山カラ・川カラなどのカラと同じく、本性・性質を意味する語であるが、理由を表わす形式名詞に近づいている。」(222頁)としている。誤解の陥穽を広げていっている。あげている用例は次のとおりである。

 射水川いみづがは い行きめぐれる 玉匣たまくしげ 二上山ふたがみやまは 春花の 咲ける盛りに 秋の葉の にほへる時に 出で立ちて 振りけ見れば 神からや〔可牟加良夜〕 許多そこば貴き 山からや 見が欲しからむ ……(万3985)
 立山たちやまに 降り置ける雪を 常夏とこなつに 見れども飽かず 神からならし〔加武賀良奈良之〕」(万4001)
  そらみつ 大和の国は 神からか〔可无可良可〕 ありがほしき 国からか 住みがほしき ありがほしき国は 蜻蛉島あきづしま大和やまと(琴歌譜12)
 …… 泉の川に 持ち越せる 真木の嬬手つまでを もも足らず いかだに作り のぼすらむ いそはく見れば 神からならし〔神随尓有之〕(万50)
 蜻島あきづしま 大和やまとの国は 神からと〔神柄と〕 こと挙げせぬ国 ……(万3250)

 カハカラの項では「川の性質。川そのもののもっている本性。」(207頁)、クニカラの項には「国柄」という漢字を当てて「国の備えている性格。」(264頁)と説明している。それで完結して誤謬は生まれていない。カムカラも同様に扱い、神の備えている性格のことと解すれば、時間の経過にかかわらず常にある性格のことを言っているとわかる。そのような常態的なことがらとは、常に同じように言葉を使って言い回すときに用いられていることを指しているのだと解されよう。皆が納得する形で一定の言い回しを獲得したら、安定的にずっとそう言い続けるから、それはまるで神がそこに宿っているかのようだと戯れに表しているわけである。「神からや」、「神からならし」、「神からか」と助詞、助動詞を伴って曖昧な表現になっているのは、言ってみればそういうことになるでしょう、と投げかける態度で表明しているからである。万3250番歌に「神からと」あるのは、呼び慣わされて通念となっていることを示している。
 カムカラの間に連体助詞のナが入る形が上述の万39番歌に見える「神ながら」であり、同じ意味である。

 山川も 依りて奉れる 神ながら たぎつ河内に 船出せすかも〔山川毛因而奉流神長柄多藝津河内尓船出為加母〕(万39)
 山も依り、川も依り、奉るように、そういう言い回しはまるで神の本性であるかのようですが、ヨヨと流れ走る川の内へと船をお出しになるのでしょうか、そういうことなのでしょう。

 かかり方は古義の指摘するとおりである。そして、二句目はマツレルと訓まれなければならない(注4)。山は山の御調(みつき)、川は川の御調を奉るからである。

 「依る」のヨは乙類、ヨシノ(吉野)のヨも乙類、ヨシノはヨ(代)+シノ(篠)と捉えた時のヨも乙類、篠はフシ(節)に接続してヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものとしてあり、シノ(篠)と呼ばれる竹類はカハ(皮)をつけたままでつながっていて、だから吉野の情景を表すのにカハ(河)が多用されている。ヨヨは水の溢れ流れるさまを表す擬態語である(注5)。そして、御調を苴(つと)にして奉る際、包装用に竹の皮を使ってくるんだ。
「シノ」(ヤダケ)



 「神ながら 神さびせすと」について用例ごとに具体的に検証してみよう。
 万3985番歌は、「玉匣たまくしげ 二上山ふたがみやま」を歌っている。貴重な櫛の入った箱には蓋がついており、そのフタの音がフタガミヤマ(二上山)にかかっている。時間の経過にかかわらずそういう形容を頂く山の名なのだからだろうか、はなはだ貴い、と言っていて、蓋を開けた箱の底(そこ)に櫛が納められているから、ソコバタフトキと洒落を言っている。カムカラ(ヤ)という語は、言葉遊びの次元でうまいことできていると言うための表現である。そして、ヤマカラ(ヤ)についても、蓋がついている山だというからか、人情として開けて中を見たくなる、と言っている。万4001番歌では、万年雪の性質、時間の経過にかかわらずにあることを、「神から」なことだと形容している。琴歌譜の例は、「そらみつ 大和の国」という常套句、コロケーションを「神から」なものとみて、いつもそうあるからアリ(有)を起こすための枕詞的用法になっている。言い出したら必ずつづけて口を突いて出てくるのは「神」のなせる業だと開き直っているのである。万50番歌は、通説に、「神ながらにあらし」と訓まれている。解釈としては同じである。枕詞「もも足らず」は百に足りないイ(ソ)(五十)を導くから、そのイ音をもつイカダ(筏)にかかっているのと並んで、イソ音をもつイソハク(勤)様子に反映していることを常なることであると見て、「神ながら」(「神から」)であると形容している。万3250番歌では、「蜻島あきづしま」はヤマトにかかる枕詞として常にあるから、そんなヤマトノクニという(国情や国体ではなく)言葉について、もはや議論の余地はない、とり立てて論う必要はない、だから「こと挙げせぬ国」であると言っている。「蜻島あきづしま 大和やまとの国」というコロケーションが行われている様子について、「神から」なことだと形容しているばかりである(注6)
 「神ながら 神さびせすと」という句も、上の検討の延長線上に考えられようから、対象そのものを表す言葉ではなく、対象について表した、その表し方について表した、メタレベルでの形容であり、一連の歌の流れのなかにあっては、投入された挿入句に当たると考えられる。だからこそ長歌において現れている。万葉集の特に長歌の表現方法では、尻取り式に数珠つなぎの連綿的な修飾が多く用いられ、この場合も同様である。上からかかり、下へとかかって、言葉遊びを遊んでいる。
 では、なぜ「神ながら 神さびせすと」と投入されているのだろうか。「~と」と引用符としてあるのだから、すぐ次に続く句にかかるはずである。だが、「~と」とあるなら動詞に続くとも思われて、現状では次のようにかかると解されている。

 ほぼ同じように使われたと考えられる同じ人麻呂の用例なのに、かかり方が違っている。今までの理解は誤っているということである。筆者は、次のようにかかっていると考える。

 万38番歌において、「神ながら 神さびせすと」が「吉野川」にかかる理由は、ヨシノなる言葉を、ヨ(節)+シノ(篠)と聞き分けて、それがヨ+ヨ+ヨ+ヨ+ヨ+……なるものであるとする頓智に捉え、代々続いてきてこれからも続くことを言い表していると考えて、そのような言葉が地名にあらわれている(注7)ことが、古くからずっとそうであったように、神が定めた性質によっているかのように所与のものだということを言いたいがため、「神ながら 神さびせすと」という定型句(注8)を差し挟んでいるわけである。
 したがって、結句に「神の御代かも」とあるのは、ヨシノなる名を負っている土地だから、神代の昔からあって、同じ状況が今も続いているものとし、そのことの不思議さを示そうとして「かも」と詠嘆している。地名の解釈、それもこじつけととれるものだから、「かも」とでも付けておくしかないのである。



 万45番歌は、「軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌」で、軽皇子がイニシエーションのために出掛けた時の歌である。応神天皇がそうであったように、自らの名を確認するために出掛けている(注9)。呼ばれるものとしての名に加えて、呼ぶものとしての名を自ら獲得することが課題であった。今日的解釈でいえば、青年心理学におけるアイデンティティの獲得作業である。安騎の野歌群は、軽皇子が自らの名を自らのものとして受け止めて、自ら発するに足る力を得る機会であった。すなわち、軽皇子と呼ばれているのがどういう意味なのか自ら悟ったのである。カル(軽)なのだから、野に出かけて、草をカル(刈)ことが行われた。名に負う存在として自ら名を体現することが求められたのである。古代において、名に負う存在が社会的人格として認められ、名に負うことで人はコト(事)がコト(言)となり、社会的存在となる。安騎の野の巡幸も、成年式として仕組まれており、カル(軽)の皇子と名に負っているから、カル(刈)ことが成年式の第一目標であった。だから、「軽皇子宿于安騎野」こと、すなわち、野宿をしに出掛け、草を刈って庵(蘆)を作ったのであった。
 万45番歌において、「神ながら 神さびせすと」が「太敷かす」にかかっている。万36番歌に、「…… 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ……」とあり、宮を建造するのに太い柱を設置することをいう言葉である(注10)。一般の住居ではないから太い柱を使うのである。庶民は竪穴式住居に暮らしていた。細い柱をたくさん並べ立てて茅(かや)をめぐらせて土座に筵を敷いて生活空間としていた。対して宮とするところは高床式に建てており、板張りの床が宙に浮いている。太い柱を直立させているからできるのである。そんなことをしている場所はミヤコである。ミヤコという語は、ミヤ(御屋・御舎)のあるところという意味で、ミヤとは、天皇の住居とともに神社のことも指す。同様に高床式建築である。「太敷かす みやこ」という句は、形容として当たり前である。万45番歌においては、「神ながら 神さびせすと」の前にも「やすみしし わご大君」、「高照らす 日の皇子」と、当然の形容のほどこされた常套句が並んでいる。言葉の表現の上で当たり前に飾られる句をうけて、同様の当たり前の形容が行われる句を導いている。長歌において言葉をあやなすのに、尻取り式の数珠つなぎであえてだらだらと冗漫に歌い続けようとしている。そうしたいから、「神ながら 神さびせすと」というメタ・メッセージを咬ませているのである。
 以上が「神ながら 神さびせすと」という修辞表現の本質である。古くからずっとそうであったように、神が定めた性質によっているかのように、という意味合いを示すことで、歌の作者、歌い手である人麻呂は、言辞の責任を負うことなく済ますことができた。方便的な挿入文句ということもできよう。 
 類似する形の「神ながら 神……」という例も、「神ながら 神さびせすと」の修辞表現と同相である。

  筑前国怡土郡深江の村子負こふの原に、海に臨める丘の上に、二つの石有り。大きなるは長さ一尺二寸六分、めぐり一尺八寸六分、重さ十八斤五両、小さきは長さ一尺一寸、囲一尺八寸、重さ十六斤十両、並皆ともに楕円にして、かたちは鶏の子の如し。其の美好うるはしきはあげつらふにふべからず。所謂いはゆる径尺のたま是なり。或に云はく、此の二つの石は肥前国彼杵郡平敷の石なり、うらに当りて取れりといふ。深江の駅家うまやを去ること二十許里さとばかりにして、路のほとりに近く在り。公私の徃来に、馬より下りて跪拝せずといふこと莫し。古老相伝へて曰はく、「徃者いにしへ息長足日女命、新羅国を征討ことむけたまひし時に、ふたつの石をちて、御袖の中に挿着さしはさみて、鎮懐しづめと為たまふ。実は是、御裳みもの中なり。所以ゆゑ、行く人此の石を敬拜す」といふ。乃ち歌を作りて曰はく、
 かけまくは あやにかしこし 足日女たらしひめ 神のみこと 韓国からくにを 向け平らげて 御心を 鎮めたまふと い取らして いはひたまひし 真珠またまなす 二つの石を 世の人に 示したまひて 万代に 言ひ継ぐがねと わたの底 沖つ深江の 海上うなかみの 子負こふの原に 御手みてづから 置かしたまひて 神ながら 神さびいます 奇魂くしみたま 今のをつつに 貴きろかむ(万813)
  弓削皇子のかみあがりましし時に置始東人おきそのあづまひとの作る歌一首并せて短歌
 やすみしし 吾ご大君 高照らす 日の皇子みこ ひさかたの 天つ宮に 神ながら 神といませば そこをしも あやに畏み 昼はも 日のことごと 夜はも のことごと 伏し嘆けど 飽き足らぬかも(万204)

 万813番歌は神功皇后ゆかりの鎮懐石の話をしている。ここで「神ながら 神さび座す」は、昔の神功皇后代の事跡のことだから古くなっているとして言っているのではない。石があるのが深江の村の子負こふの原だからである。どうしてそこにあるかについて、題詞の「或」に、ウラ(占)に当たったから取って来たとしている。地名の「深江」は、江が陸に深く入り込んでいるところのことを想起させ、そのようなところはウラ(浦)と呼ばれていた。確かに当たっている。コフというところは元からあった地名である。神功皇后が産まれないようにしていた子に負う名にふさわしいところであった。偶然の一致に違いないのであるが、神が配剤したかのように受けとられた、ないしはそう受けとるように志向したのであった。そう受けとることは、言=事であるとする、筆者の提唱する言霊信仰において理にかなうことであった。だから、そんな言葉上の一致に対して、「神ながら 神さび座す」と形容しているのである。
 万204番歌の「やすみしし 吾ご大君」、「高照らす 日の皇子」、「ひさかたの 天つ宮」はそれぞれコロケーションである。昔からそう言われてきており、これからもずっとそう言われてゆくことであろう。それはまるで神が定めた性質であるかのようであるということを解説するために、「神ながら 神といませば」と投入している。そのように、言葉の表現がずっと続くように、事柄においても昼夜問わずにずっと五体投地して嘆いても、気持ちが収まることはない、と言っている。言=事であるとする、筆者の提唱する言霊信仰においてそうであると歌っているわけである。今日言われているような、この世に現前している天皇等を神格化して、あなた様は神のような存在だなどと言うものではなかったのである(注11)



 これまでに触れてきていない「神ながら」の例は次のとおりである。

①…… 天雲の 八重かき別きて 一に云はく、天雲の八重雲別けて 神下かむくだし いませまつりし 高照らす 日の皇子は 飛ぶ鳥の きよみの宮に 神ながら〔神随〕 ふと敷きまして すめろきの 敷きます国と 天の原 岩門いはとを開き 神上かむあがり 上り座しぬ ……(万167)
②…… 渡会わたらひの いつきの宮ゆ 神風に い吹き惑はし 天雲を 日の目も見せず 常闇とこやみに 覆ひたまひて 定めてし 瑞穂の国を 神ながら〔神随〕 太敷きまして やすみしし わご大君の 天の下 申したまへば 万代に しかしもあらむと 一に云はく、かくもあらむと ……(万199)
③…… ことさへく 百済の原ゆ 神葬かむはふり 葬りいまして あさもよし 城上きのへの宮を 常宮とこみやと 高くし奉りて 神ながら〔神随〕 鎮まりましぬ 然れども わご大君の 万代よろづよと 思ほしめして 作らしし 香具山の宮 万代に 過ぎむと思へや ……(万199)
④…… 今の世の 人もことごと 目の前に 見たり知りたり 人さはに 満ちてはあれども 高光る 日の朝廷みかど 神ながら〔神奈我良〕 めでの盛りに 天の下 まをしたまひし 家の子と 撰ひたまひて ……(万894)
⑤やすみしし わご大君の 神ながら〔神随〕 高知ろしめす 印南野いなみのの 大海おほみの原の ……(万938)
⑥葦原の 瑞穂の国は 神ながら〔神在随〕 言挙げせぬ国 ……(万3253)
⑦朝日さし 背向そがひに見ゆる 神ながら〔可無奈我良〕 御名みなに帯ばせる 白雲の 千重ちへを押し別け あまそそり 高き立山たちやま ……(万4003)
立山たちやまに 降り置ける雪の 常夏に ずてわたるは 神ながらとそ〔可無奈我良等曽〕(万4004)
⑨…… 天地あめつちの 神相珍あひうづなひ 皇御祖すめろきの 御霊みたま助けて 遠き代に かかりしことを が御代に 顕はしてあれば す国は 栄えむものと 神ながら〔可牟奈我良〕 思ほしめして もののふの 八十伴やそともを 服従まつろへの 向けのまにまに ……(万4094)
蜻蛉島あきづしま 大和の国を 天雲に 磐船いはふね浮かべ ともに 真櫂まかいしじ貫き い漕ぎつつ 国見しして 天降あもりまし はらことむけ 千代かさね いやぎに 知らしける 天の日継と 神ながら〔神奈我良〕 わご大君の 天の下 治めたまへば ……(万4254)
⑪あしひきの 八峰やつをの上の つがの木の いやぎに 松が根の 絶ゆることなく あをによし 奈良の都に 万代に 国知らさむと やすみしし わご大君の 神ながら〔神奈我良〕 思ほしめして 豊宴とよのあかり 今日けふの日は ……(万4266)
天皇すめろきの 遠き御代にも 押し照る 難波の国に 天の下 知らしめしきと 今のに 絶えず言ひつつ かけまくも あやにかしこし 神ながら〔可武奈我良〕 わご大君の うち靡く 春の初めは ……(万4360)

 ここまでの検討から予想される点は、第一に、「神ながら」は挿入句だから括弧に入れて解釈して意が通ずること、第二に、時間の経過を感じさせずにいつでも成立する当然のことを「神ながら」と言い表していること、第三に、時間軸にフラットなことを「神ながら」というのだから、言葉としてかなうのは言い慣わされているコロケーションであることが多いことである。
 ①②の例は、「太敷きまして」を導いている。すでに見た万45番歌の例と同じである。①に「飛ぶ鳥の 浄の宮に 神ながら 太敷きまして」とあるのは、「飛ぶ鳥の」はアスカ(飛鳥)を導く枕詞で、空を「飛ぶ鳥」が「宮」を作るのであれば、木の上の高いところに巣を作るであろうから、糞尿は下へ落ちて巣は「浄の宮」に保たれる、それと同じように人が作るなら、高床式にするから宮柱を「太敷きまして」ということにつながるのである。成り行きとして当然のことを述べているから、「神ながら」という評価語を投入しているのである。②に「瑞穂の国を 神ながら 太敷きまして」とあるのも、豊葦原瑞穂の国と呼ばれるように、湿地に生息するアシのようなイネ科植物の繁茂するところに居住する建物を建てるとなると、高床式にする必要があったから、当然の成り行きとしてつながると言いながらに述べているのである。 
 ⑥の例は、すでに見た万3250番歌と同様に解される。「葦原の 瑞穂の国」はコロケーションである。⑤の例は、「やすみしし わご大君」というコロケーションをもって「神ながら」を誘引している。⑩も枕詞を伴うコロケーションが「いや嗣ぎ継ぎに」とばかりに登場している。直接的に「神ながら」という語を引き出しているのは、「(いや嗣ぎ継ぎに 知らし来る) 天の日継」であろう。天孫降臨神話に知られるように、為政者は天から降りてきて代々受け継いで統治しているのであるが、どんどん代替わりして続いていく様はお日様が毎日くり返し出てくるのと同じであるのだけれども、その当の為政者のことを指して「天の日継」という言い方を、いつからともなくものすごく昔からしてきており、まさに当を得ていて神の行いであるとさえ言えることであると評されようからということで「神ながら」という語を挿入している。
 ⑦⑧の例は、「立山たちやま」についての歌で、題詞に「敬‐和立山賦一首并二絶」とある。すでに触れた万4001番歌と同様に解される。山が寝ていないで立っているという名のとおり、朝日が当たらずに陰になる背中(「背向そがひ」)を見せているのである。神の山ということではなく、「立山たちやま」とうまく名づけられていて、時間の経過にかかわらずそういうことになっていて、名は体を表し、コト(言)はコト(事)と同一なのである。そこで、「神ながら」と評されている。万年雪が残るのは、時間の経過を感じさせない証明にもなるから、「神ながら」と評していたことは正しいことであったとして、悦に入って「とそ」と加えている。
 ⑨の例は、題詞に「賀陸奥国出金詔書歌一首并短歌」とあり、天保感宝元年四月一日の詔(続紀12詔)を聞いての歌である。東大寺の大仏に貼る金箔とする金が産出したことを喜んだ天皇の詔勅をまとめたのが、「天地の 神相珍なひ …… 食す国は 栄えむもの」の部分である。そう、「神ながら」天皇が「思ほしめして」、という構成になっている。対馬で金が産出したこと(文武二年、大宝元年)、武蔵で銅が産出したこと(和銅元年)を「遠き代に かかりしこと」としていて、金が出たのは単なる資源確保に限られずに治世における祥瑞だからきっと栄えるだろうと自賛を始めている。祥瑞の思想に従い、そう思うのは当然のことだから、「神ながら」にお思いになるのである。天皇が神なのではなく、当然の成り行きとして、自明のこととして、そう思うとしている。
 ⑪の例も、詔に対する歌である。題詞に、「為詔、儲作歌一首并短歌」とあり、宴の席で天皇が歌を望まれたのに応じて、前もって用意しておいた歌を披露している。参加費無料の宴会に招かれていれば、天皇の統治を讃美するこのような歌も歌われよう。「やすみしし わご大君」が「万代に 国知らさむと」「思ほしめ」すことは「神ながら」のことである。なぜなら、決まり文句ばかりで構成されているからである。「あしひきの 八峰」、「栂の木の いや継ぎ継ぎに」、「松が根の 絶ゆることなく」、「あをによし 奈良の都」と続いている。決まり文句で決まっていることだから、当然の成り行きとして統治していてよいのであり、臣下はお仕えするのがこれまた当然であって、今日は宴だから楽しく過ごして笑い合っているのであって、なんとすばらしいことだろう、と言っている。 
 ④の例は、人はたくさんいるけれど、「高光る 日の朝廷」は「愛の盛りに」よく目立つ言っている。天皇のことを「高光る 日の朝廷」と言っているのだから、太陽ほどに光っていたらまぶしくてよく目立つのは当たり前なのである。言葉上における理の当然について、「神ながら」と評する語を投入している。天皇が神になっているわけではない。
 残る③の例は挽歌の例である。「城上の宮を 常宮と 高く奉りて 神ながら 鎮まりましぬ」と殯宮のことを言っている。殯宮を土座にするはずはなく、いつまでも住み続けられるようにという観点からも高床式に作られるが、生きている人の住処ではないから物音もせずに寝静まった状態になっていると述べている。「神ながら」という語は、次項で示すとおり、亡くなって「神」になっていることに対応した使い方である。



 以上の検証によって、上代においては、天皇を神として位置づけることはなかったと言える。そもそも天皇を神として位置づけていたかどうかを探るのに、万葉集のみをもって人々の認識を見ていこうとするのは離れ業であった。方法論的に強引で無理がある。
 次に検討する「大君は 神にしませば」の例も、現行の説では、「いずれも下三句にうたわれる行為を人為を超えた神ゆえの偉業として称揚し、「大君」を賛美する。」(菊地義裕「おおきみはかみにしませば」国学院大学デジタルミュージアム『万葉神事語辞典』資料ID31785、http://jmapps.ne.jp/kokugakuin/det.html?data_id=31785)とされるが(注12)、誤りである。

  (弓削皇子薨時、置始東人作歌一首并短歌
  反歌一首
①大君は 神にしませば 天雲の 五百重いほへが下に かくりたまひぬ(万205)
  天皇御‐遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首
②大君は 神にしませば 天雲の いかづちの上に いほらせるかも(万235)
   右或本云、献忍壁皇子也。其歌曰、
③大君は 神にしませば 雲隠くもがくる 雷山に 宮敷きいます(万235或本)
  (長皇子遊猟路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
  或本反歌一首
④大君は 神にしませば 真木まきの立つ 荒山中あらやまなかに 海を成すかも(万241)
  壬申年之乱平定以後歌二首
⑤大君は 神にしませば 赤駒の 腹這ふ田居たゐを 都と成しつ(万4260)
   右一首、大将軍贈右大臣大伴卿作
⑥大君は 神にしませば 水鳥の すだく水沼みぬまを 都と成しつ(万4261)作者未
   右件二首、天平勝宝四年二月二日聞之、即載於茲也。

 ①は挽歌である。大君(弓削皇子(ゆげのおほきみ))は神にあらせられますので、お隠れになっていらっしゃる、と言っている。現行の説では例外の例とされている。しかし、人が神になることを亡くなること、薨去することと捉えて不自然なところはない。他の例もそのように読める。
 ②の題詞にある「天皇」が誰のことを指すか、定まっていない。この歌には左注があり、「右或本云、献忍壁皇子也。其歌曰、」として③の歌が記されている。③の「或本歌」では、「雲隠る」と死者表現がある。この歌は忍壁皇子のための挽歌と理解できる。そして、その忍壁皇子の亡くなった時に、②の歌が歌われたと示すために上の左注が記されている。すなわち、忍壁皇子が亡くなった時に詠まれた挽歌には二首あり、②の歌は「献」じたものであるということになる。その題詞には、「天皇御‐遊雷岳之時柿本朝臣人麻呂作歌一首」となっている。状況の可能性として、雷岳で営まれた忍壁皇子の殯に「天皇」自身は行っていないが、代理を立て、柿本人麻呂に挽歌を歌わせたものが②の歌であると考えられる(注13)。「御遊」とは、殯の時の振る舞いを指している。古事記では天若日子の殯の様子を「……如此かく行ひ定めて、日八日ひやうか夜八夜よやよ以て、遊びき。」(記上)と表している。記録には「五月丙戌、三品忍壁皇子かむあがりましぬ。使を遣はして喪の事を監護みまもらしむ。」(続紀・文武天皇・慶雲二年五月)とある。天皇の御名代として代行しているから、忍壁皇子の葬儀に名を列ねているのはあくまでも天皇である。そして、柿本人麻呂に歌を作らせるなり、勝手に人麻呂が歌を作るなりしていたということであろう。したがって、題詞の「天皇」は文武天皇、②の歌中の「大君」は③同様、忍壁皇子に当たる。「挽歌」の部類に入れられずに「雑歌」の、それも巻第三の巻頭を飾っているのは、エディターが作歌の事情をよくは把握していなかったからであろう。それでも関連記事を付け足しておいたから、いま誤ることなく理解することができた。
 ⑤については、壬申の乱後のこととて、通説では「大君」を天武天皇のこと、「都」は飛鳥浄御原宮、または後に開かれた藤原宮のことと考えられている。けれども、壬申の乱に功績があった大将軍にして、それによって右大臣を贈られている大伴卿として名を伏せられている人に歌を歌わせるのであれば、「大君」といえば亡くなっている天智天皇のこと、「都」は近江大津宮のことと考えるのが正当であろう。生前からほとんど死者のような考え方をして乗馬の進めないところへ遷都したが、ようやく飛鳥の地へと還ることができた。それはすべて戦に勝利したからである、と誇っているのである。鐙(あぶみ)と近江(あふみ)とのウィットを楽しむべき歌である。⑥はその趣向に応じた歌が追和されたもので、水鳥が集まり騒ぐようなところへ遷都したとあるのは、水鳥の蹼(みづかき)と瑞垣(みづかき)とのウィットを楽しむべき歌なのである(注14)
 ④は②③と同じく「雑歌」に入れられている。「長皇子遊猟路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌」として万239番の長歌と万240番の短歌があり、万240番歌の前には「反歌一首」と記されている。その二首で完結していると思われるところへ、④の241番歌が、「或本反歌一首」として付け加えられている。底本で「反歌」が二首あったことは想定されていないように、両者は同時に歌われたとは思われない様変わりぶりを示している。

  長皇子遊猟路池之時、柿本朝臣人麻呂作歌一首并短歌
 やすみしし わご大君 高光る 吾が日の皇子の 馬めて みかり立たせる 弱薦わかこも猟路かりぢの小野に 猪鹿ししこそば い這ひをろがめ 鶉こそ い這ひもとほ猪鹿ししじもの い這ひ拝み 鶉なす い這ひ廻り かしこみと 仕へ奉りて ひさかたの あめ見るごとく まそ鏡 あふぎて見れど 春草の いやめづらしき わご大君かも(万239)
  反歌一首
 ひさかたの あまゆく月を 網に刺し わご大君は きぬがさにせり(万240)
  或本反歌一首
④大君は 神にしませば 真木の立つ 荒山中に 海を成すかも(万241)

 万239番歌に作者から長皇子への視線は「仰ぎ見」るもので、歌の主眼として歌われている。万240番の短歌も同様の視点から見ている。万241番歌と万239番歌とのつながりは、題詞の「池」を「海」に見立てたという解釈にしかない(注15)。どういう構成の歌群であるか、検討が必要である。
 題詞に設定される場面については、長皇子が猟路の池というところに遊猟に来ているものと捉え、そのとき、柿本人麻呂が歌を作ったのだと考えられている。けれども、その地は所在は知られていない。

 遠つ人 猟道の池に 住む鳥の 立ちても居ても 君をしそ思ふ (万3089)

 同じカリヂの詠まれた歌である。雁(かり)とかけて使われている。遠いところへ行くから「遠つ人」と比喩に使われている。万239番歌の題詞はその見地から読み直されなければならないであろう。西宮1984.は、「遊猟路池」は、「遊猟」の「遊」だから、イデマスとは訓まず、アソビタマフと訓むべきとしている(30頁)。雁とかけているとするならば、「猟路池」に「遊」びに来ているのは、雁なのではないかと推測される。人間が行う狩猟の対象である四足獣の「猪鹿しし」と、なぜか鳥類では小型の飛翔しない「鶉」が登場している。飛ばない者が「仰ぎ見」ている歌として成り立っている。すなわち、長皇子は長い死出の旅路に就いたということである。残された者は飛ぶことはない。長皇子は雁になぞらえられて歌に詠まれている。「遊びたまふ」は②同様、殯宮儀礼のことを言っている。
 長皇子が亡くなった時の挽歌なのである。殯のことはその造作物からアラキ(アラ(荒・粗)+キ(棺))という。アラキのキは乙類で、キ(城)、キ(木)と同音である。④にある「真木の立つ荒山」とはアラキを指すと考えられる。その儀礼行為からはモガリ(モアガリ(喪上)の約)と呼ばれた。そこに「海」を作るとはどういうことかといえば、行われる行事、モガリが、モガリ(モ(藻)+カリ(刈))と同音で、藻刈りは海で行われるからである。「猟路池」とは、遠く旅立つ前にちょっと羽を休めるお休み処、殯の場のことを譬えたものである。雁はカリヂノイケに仮に居て、そこからマカリ出ていく。マカル(罷)という語には、退出する、遠い彼方へ去る、の意のほかに、死ぬ、の意がある。

 楽浪ささなみの 志賀津の子らが 罷道の 川瀬の道を 見ればさぶしも(万218)

 マカリヂ(罷路)という言い方は、マ(真)+カリヂ(猟路)に、そして、マ(真)+カリ(雁)+ヂ(路)に聞える。カリ(雁)+ヂ(路)としてほんまものなのは、鵜のように列島内を移動することではなく、海を渡ることだから、「池」を「海」としたと歌っている。
 一方、万240番歌で月を刺網に捕まえてきぬがさにしているというのは、雁が高く飛んで渡っていく時に、周囲を照らしてよく見えるようにしているということである。殯宮において棺を覆うきぬがさを天空に見立てたのである。大きく張った霞網に月がかかっているのは、地上にたたずむ猪鹿や鶉、これは残された我々人間のことを譬えたものであるが、それらから見ればただ「仰ぎ見」るだけの別世界のことだという言い分である。
 以上から、①~⑥までのすべての「大君は 神にしませば」の用例で、大君はお亡くなりになって神になられたので、大君はお亡くなりになって神になられるのと同然の状態であったので、の意に解されると理解される(注16)。「神ながら 神さびせすと」などの言葉遊び的形容ともども天皇の神格化を表すものではなく、日本古代に天皇即神の観念が定着していたことはなかったと結論づけられる(注17)

(注)
(注1)近年の通釈書でも、多田2009.に「さながらの神として神々しさをお示しなさるとて、」(51頁)、新大系文庫本万葉集に「神の御心まかせに、神らしく振る舞われるべく、」(83頁)と訳されている。
(注2)澤瀉1957.に、古義の説は、「萬葉ぶりを会得しない誤解である。……人麻呂独特の省略的な語法を用ゐたものである。」(296頁、漢字の旧字体は改めた)と誤解している。
(注3)村島2003b.は、「上代の〈名詞─ナガラ〉は、ある動作・状態をとる動作主体の様子をふさわしいと判断した表現主体の判定を表す表現であったと推定される。これは、ある動作・状態をとる動作主体の〈それらしさ・ふさわしさ〉を形容する表現であったと言い換えることができるだろう。」(17頁)とし、品田2007.は、「上代語ナガラには、①名詞に下接する用法 ②動詞に下接する方法 の二つがあり、さらに前者には、①ⅰ上接する名詞が主語と同一の対象を指示する場合 ①ⅱ上接する名詞が主語と異なる対象を指示する場合 に分かれる。」(14頁)として議論している。品田2018.も同様。
 現代語の例を作って理解の助けとしたい。

 五回裏の足をからめた猛攻は、敵ながら、あっぱれであった。
 経済的事情により、昼間は本業を続けながら、夜勤のバイトを始めた。
 特に自分の文章に自信があるわけではないが、我ながら、うまく書けたと思う。
 私は、鳥の糞をモーニングの肩に付けながら、娘の結婚式に出席した。
 部長の恐縮ぶりは、さながら、閻魔王の前に引き出された極悪人のようだった。 

 その品詞や意味がどのようなものであれ、ここに意図的に記したように、読点をもって括られる言葉である。~(ナ+)カラによって表されるのは、~そのものではなく、~の性質・本性・特性といった抽象化が施されている。名詞のカラ(柄)が、植物そのものではなく、それを支える茎、幹を指したり、器物の本体ではなく、それに付いていて本体を操作する柄(え)であったり、生身の人それ自体ではなく、人がつづいていく血縁のことを示しているのは、言葉の意味としてパラレルになっていてわかりやすい。その点に比重が置かれると、~(ナ+)カラという言葉は、評価という価値観を(積極的に表すか否かは別として)有するに至る。つまり、同じ文中に置かれたとしても、その部分はメタ化されている。メタ・メッセージとメッセージとは階梯が異なるから、同じ次元におしなべて解そうとすると混乱を来す。「神ながら」という語の理解不足を招いたのはそのためであろう。
(注4)万38番の長歌も、「りてまつれる 神の御代みよかも〔依弖奉流神乃御代鴨〕」と訓まれなければならない。

(注5)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。以下同様。
(注6)今日、通説となっているコトアゲ論は根本的に誤っている。拙稿「「言挙げ」の本質について」参照。
(注7)この点は、上代において地名がどのように捉えられていたかという観点からも注目に値する。今日の人が地名を創作するようなことは基本的にはなかった。(「天皇、此を改め、名けて長津と曰ふ。」(斉明紀七年三月)は例外である。)地名はすでにあって、その命名の理由づけは後から取ってつけたように行うこと(例えば「久須婆くすば」=「屎褌くそばかま」(崇神記))はできても、語源を繙いているという意識はなかったらしいということである。
(注8)人麻呂の2例しか見られないから定型化していないとの批判もあろうが、人麻呂は言葉のまとまりとして「神ながら 神さびせすと」という形に定めている。
(注9)拙稿「安騎の野の歌、「東野炎立所見而反見為者月西渡」(万48)について」参照。
(注10)菊地2006.に、「フトシク(フトタカシク[万928])の表現は、宮殿を壮大に造営する意の賛美表現としての使用であるが、シクの語は「宮柱」を立てることによってその地を占有する、領有することを原義としている。」(33頁)としつつ、宮殿の造営に関する賛美表現と、神話的な発想にもとづく統治の表現とする二つの用法が混在しているとしている。
(注11)天皇を神格化した表現が万葉集で、特に柿本人麻呂によって獲得されたとする見解が、伊藤博氏の主張を超克する形で神野志隆光氏によって行われている。神野志1992.は、「「すめろき」「神」←→「おほきみ」(「うつそ(せ)み」)と解すべき……[で]、
 すめろきの─神(のみこと)(二九、三二二、四〇九四等、一二例)
       遠(き)御代(四二〇五、四三六〇)
 おほきみの─任けのまにまに(三六九等、二八例)
       みことかしこみ(三六八等、八例)
と、「すめろきの」に「任けのまにまに」がつづかず、「おほきみの─神のみこと」となることも原則としてなく、いわば、相互排除的に表現としてなりたつ所以を納得しうるのでもある。」 (137頁)と前提を確認しておきながら、長い形而上学的誤認を経て、天皇即神の表現が獲得されるに至っていて人麻呂はすごいのだと曲解している。
(注12)菊地2006.参照。
(注13)西宮1984.に、「「いほりせるかも」とある廬スは、仮宮を建て、一時的に住まうことであり、場所は雷の岡という聖地であり、……この行為は「非日常的な聖なる世界でのわざ」を意味しているのであり、古代ではそれをアソビの語で表現した」(18頁)とある。
(注14)拙稿「「大君は神にしませば」歌(万4260・4261)の語用論的解釈」参照。
(注15)遠山1998.の、「長歌とのあいだに違和感をもたらす。」(145頁)という見方は、窪田1948.の、「此の歌を前の歌に較べると、長歌との関係が稀薄になり、有機的な微妙な味ひが減つて来る」(22頁、漢字の旧字体は改めた)を受けたものである。窪田氏は、「或本」反歌を「初稿」と解している。伊藤1975.は、「二つ[万240・241]とも長歌によく対応する」(21頁)として「或本反歌」を原案であるとするが、表面的にはよく対応していると感じられない。
(注16)荒木田久老・万葉考槻乃落葉(別記)に、オホキミとスメロギとの区別を記し、「須米呂岐スメロギとは、遠祖ミオヤの天皇を申し奉る称」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970574/90、漢字の旧字体は改めた)としている。万葉集に「すめろきの神(のみこと)」(万29・230・322・443・1047・1133・2508・4089・4094・4098・4111・4465)とあるのは、それがずいぶん昔に鬼籍に入られた人だからである。これまで問題にしてきた「おほきみとは、当代天皇より、皇子、諸王までを申称」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/970574/89、漢字の旧字体は改めた)であって生きた存在である。そのオホキミに「神」という語が下接するから誤解が生じていた。しかし、「おほきみかみ」という形でつづく例はない。見てきたとおり、「おほきみかみにしませば」の例は、生きているはずのオホキミはどうかというと、亡くなられて神になられているから、という意で使っている。また、「おほきみ神ながら」とつづく例(万938・4266)は必ずカムと発音していて、「おほきみのかみ」+「ながら」ではなく、「おほきみの」+「かむながら」の構成である。縁起でもない気分を与えることは慎まれていたと考えられる。
(注17)続日本紀宣命に、「神ながら」は19例を数える。用字としては、「随神」(1・3・4・5(3例)・6・9・14・23(2例)詔)、「神随」(4・14詔)、「神奈我良母」(13(3例)詔)、「神奈賀良母」(19・54詔)、「神奈我良」(59詔)となっている。
 本居宣長・続紀歴朝詔詞解に、「天皇の御事には、何事にも、神ながら云々と申すことにて、萬葉の哥にもいと多し、天皇は、現御神と申て、まことに神にましますが故に、神にて坐ますまゝに物し給ふよし也、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/933886/12、仮名の合字は改めた)と今日に至る誤った通説が述べられている。
 「神奈我良母」と記されているところから、カム(神)+ナ(連体助詞)+ガラ(柄)という語構成が忘れられていたとする意見がある。見てきたとおり、「神ながら」は、神の本性そのままにいつものこととして、時と場の制約を受けずに当然の成り行きとして、という意を表していた。いつでも必ず常套的にそうなるということは、歴史的に長い間にわたってそうであったしこれからもそうであると考えて誤りではない。つまり、カム(神)+ナガ(長)+ラ(接尾語)と解することも大同小異のことである。語源に基づいて義を彫塑するのではなく、コンテキストのなかで膨らみを持つものとして見渡していかなければならない。言葉は使われているから言葉である。
 用法としては、「神ながら(も)思ほしめす」、「神ながら(も)思ほしめさく」、「神ながら(も)思ほします」、「神ながら(も)思ほしまして(なも)」、「神ながら思ほしまさく」の形をとり、自然と思われる、の意を表している。宣命の最初の例に見れば、「……となも、神ながら思ほしめさくと、詔りたまふ天皇が大命を、諸聞きたまへと詔る。」(1詔)は、……であることは、理の当然のことだから自然と思われることであると、それを皆に言って聞かせているのがこの天皇の言葉だからよく聞きなさい、というようにだらだらとねちっこくつづく話し言葉の間に入れる挿句的なもの言いである。
 例外は1例、光仁天皇が桓武天皇に譲位する天応元年(781)四月の、「神ながら知らしめす〔神奈我良所知食〕」(59詔)で、自然とうまいこと知行する、という意を表している。天皇は、この子は幼い時から仁孝に厚かったから、王となってもうまく統治するだろうというのである。この例外的な用法は延喜式・祝詞・遷-却祟神の2例にも転用されている。「……天の御舎みあらかの内に坐す皇神等すめがみたちは、荒びたまひたけびたまふ事なくして、高天の原に始めし事を神ながらも知ろしめして〔神奈我良所知食〕、神直かむなほび・大直おほなほびに直したまひて、……」、「……山川の広く清きところに遷り出でまして、神ながら鎮まりませと〔神奈我良鎮坐世止称辞たたへごとへまつらく……」。
 なお、推古紀八年是歳条の新羅と任那の和睦の誓いに、「天上あめに神します。つちに天皇有します。是の二神ふたはしらのかみきたまひては、いづこにか亦畏きこと有らむや。今より以後のち、相攻むること有らじ。また船柂ふなかぢを乾さず、歳ごとに必ずまうこむ」と上表文を奏っている。しかし、倭の軍が引き上げると、すぐに新羅は任那に侵攻している。天皇は神扱いしておけば兵を引くのだと侮られたということらしい。 

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品田2018. 品田悦一「古代における天皇神格化の真相─文武天皇即位宣命をめぐって─」芳賀紀雄監修、鉄野昌弘・奥村和美編『萬葉集研究 第三十九冊』塙書房、令和元年。
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吉井1990. 吉井巖『萬葉集への視覚』和泉書院、1990年。

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