古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」考─「現つ神」、「わご大君 神の命の」の正しい理解によって─

2022年11月08日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 万葉集の「神」という語が天皇即神の表現として用いられていると考えられているなかに、「現つ神あき  かみ〔明津神〕」(万1050)と「わご大君 神のみことの〔吾皇神乃命乃〕」(万1053)という例がある。いずれの歌も巻第六の終わりあたりに位置し、田辺福麻呂たなべのさきまろの歌集の中にあった歌と注されている。これら二つの言葉はいまだ理解が行き届いていない。本稿ではその二つの語について正しく解し、つづいてそれらの語を使っている田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」を読み解く。

明神あきつかみ」の歌

  久邇くにあらたしきみやこむる歌二首あはせて短歌
 あきつ神 わご大君の〔明津神吾皇之〕 天の下 八島のうちに 国はしも さはにあれども 里はしも 多にあれども 山並みの よろしき国と 川並みの 立ち合ふ里と 山背やましろの 鹿背山かせやまに 宮柱 太敷ふとしき奉り 高知らす 布当ふたぎの宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥がとよむ 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺をかへしじに いはほには 花咲きををり あなおもしろ 布当の原 いとたふと 大宮所おほみやどころ うべしこそ わご大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも(万1050)

 アキツカミという語は万葉集中にこの一例しかなく、古事記には見られない。日本書紀には、「明神御宇日本天皇」(孝徳紀大化元年七月)、「明神御宇日本倭根子天皇」(同二年二月)、「明神御大八洲倭根子天皇」(天武紀十二年正月)と、詔のなかの文言の例がある。それらは、アキツカミアメノシタシラスヤマトノスメラミコト、アキツカミアメノシタシラスヤマトネコノスメラミコト、アキツカミオホヤシマシラスヤマトネコノスメラミコトと訓まれている(注1)
 アキツカミは、現実に姿を現している神のことをいうとされている。別に現人神あらひとがみともいい、人の形となって現れた神のことである(注2)

  みこ、対へて曰はく、「吾は是、現人神あらひとがみの子なり」とのたまふ。(景行紀四十年是歳)
 たきたかき人、対へて曰はく、「現人之神あらひとがみぞ。先づきみみななのれ。然して後にはむ」とのたまふ。(雄略紀四年二月)
  …… 懸けまくも ゆゆしかしこし 住吉すみのえの 現人神あらひとがみ〔荒人神〕 ふなに うしはきたまひ ……(万1020・1021)
 現人神 同[日本紀]私記に現人神〈阿良比度加美(あらひとがみ)〉と云ふ。(和名抄)

 紀のアキツカミの例で、アキツカミ、と、助詞「と」が訓み添えられている点はわかりやすい。孝徳天皇や天武天皇が皆に向かって発言する時に、自分のことを、現実に姿を現している神であるものとして、と断りながら述べ立てている。奥歯にものが挟まったような言い方になっているのは、言い方として少々憚られると思われていたからであろう。現実に姿を現している神として、と語意を説明している。ふつう神は姿を現わしたりしないからその裏返しである。
 表題の万葉集の例はこの事情に違背する。歌の作者は天皇ではない。天皇のような存在に向かって敬う形でアキツカミと呼びかけているものと捉えられている。天皇自身が詔でアキツカミ、と控え目に言っている時、こんなことはあり得ない。訓み方が間違っている。
 万1050番歌の原文は、「明津神吾皇之」で始まっている。西本願寺本古訓に、アキツカミ ワカスメロキノとなっている。スメロキは皇祖の天皇のこと、また、継いでいく皇統のことをいう(注3)。それをアガスメロキヨ(ワガスメロキヨ)と呼ぶ例として、次の歌がある。

 隠口こもりくの 泊瀬小国はつせをくにに よばひす わが皇祖すめろきよ〔吾天皇寸与〕 奥床おくとこに 母は寝たり 外床とどこに 父は寝たり 起き立たば 母知りぬべし 出でて行かば 父知りぬべし ぬばたまの 夜は明けゆきぬ 幾許ここだくも 思ふごとならぬ 隠妻こもりづまかも(万3312)

 原文に「天皇寸」とあるからスメロキとしか訓めないわけである。歌の内容からしても、古の雄略天皇の故事を思わせるものがある。皇祖的な天皇に対して親愛の情をもって呼びかけている。
 このような例を目にすると、万1050番歌において、「明津神吾皇之天下八嶋之中尓……」とあるのを、アキツカミワゴオホキミノアメノシタヤシマノウチニ……と訓むのは誤りであると悟られよう。歌では新しい久邇京(恭仁京)のことが歌われている。最終的に、尤もなことにわれらが大君はここに都を定められたに違いない、と言っている。歴史的に他の場所に都が置かれては遷されてきたし、今回も他の場所でも良いはずなのに特別に恭仁京に決めたことは正しいと言っている。都の周囲の情景を歌い、そこを都とした天皇の判断について歌っている。
 ところが、通説では二句目をワゴオホキミノ(ワガオホキミノ)と訓み、「高知らす」の主格となっているとしている(注4)。しかし、「八島」は「大八島国」(記上)、「大八洲国」(神代紀第四段本文)といった使い方を念頭に置いた言い方であろう。国作りの最初からという意味を含ませて時間的な広がりをもたせ、全土のことを語ろうとしている。「わご大君」と訓んで現天皇のことに限ってしまってはその点が浮かび上がらない。「吾皇之」はワガスメロキノと古訓どおりに訓むのが適している。同じく田辺福麻呂たなべのさきまろの歌集中にある万1047番歌は次のようになっている。

 やすみしし わご大君の 高敷かす やまとの国は 皇祖すめろきの 神の御代より〔皇祖乃神之御代自〕 敷きませる 国にしあれば ……(万1047)

 現在の天皇が宮柱も高く治められている倭の国は、祖先の神代の時代から治められている国なので、と言っている。皇祖を引き合いに出してその正統性、正しくは当然性を示している。
 万1050番歌においても、ワガスメロキということで、天皇の祖先のこと、時代を遡った世の始まりから説き起こして大げさなことを言っている。それに被る「明津神」は、現実に姿を現わした神という意味で使っているということになる。皇祖はすでにお亡くなりになっているからこそ「神」たる存在なのである。紀の詔の訓みにアキツカミ、と、「と」を伴っていた意味は、そういうものとして、の意味で、資格、条件を明示する点にあるが、万1050番歌に「と」を伴わずに許されるのは、過去に現れていて(「明つ」)、すでに亡くなっている(「神」)から、「と」と置く必要はないことになる。
 すなわち、その昔、現実に姿をあらわされたわれらが皇祖が、天の下の八島のうちに国はたくさんあるものだし、里もたくさんあるのだけれど、と、歌い出しに時代の長さ、世界の広さを示したうえで、今という時の、恭仁京という場所をクローズアップさせていっている。

万葉集における「皇」字と「皇祖すめろき」、「神のみこと」の歌

 万葉集において、歌句に「皇」字を用いている例は次のとおりである。現行の訓みをもって記している。

 皇子  ミコと訓む例   万45・49・50・52・162・167(3+1)・168・171・173・199(2+1)・204・239・261・420・478(2)・479・3234・3324
 大皇  オホキミと訓む例 万441・460・3234・3922・4056・4063・4064・4094(2)・4254・4266・4270・4272
 皇   オホキミと訓む例 万235・241・1047・1050・1053・1554・3325(スメラミコか)・4254・4260
 天皇  オホキミと訓む例 万79・543・948・1032・3291・4214・4331・4408
     スメロキと訓む例 万29・167・230・4360
     スメラと訓む例  万973
 天皇寸 スメロキと訓む例 万3312
 皇祖  スメロキと訓む例 万443・1047・2508
 皇祖神 スメロキと訓む例 万1133
 皇御祖 スメロキと訓む例 万4094
 皇神祖 スメロキと訓む例 万322・4111・4205
 皇神  スメカミと訓む例 万894(注5)
 皇都  ミヤコと訓む例  万4261

 「皇子」と書いてある場合、ミコとしか訓めないだろうからそう訓んで正しいと思われる。上にもあげた「天皇寸」はスメロとしか訓めないように添え字が行われている。「天皇」はオホキミ、スメロキの両用に訓んでいる。文脈から、現在の天皇のことなのか、その祖先のことなのか解している。祖先の意味を表意して、「皇祖」「皇祖神」「皇御祖」「皇神祖」と書いてあればスメロキと訓むものと察せられる。スメロキを仮名書きした例は10例、スメカミを仮名書き式に記した例は6例、スメラヘ・スメラミクサの仮名書きは各1例ある。「天皇」を両用に訓んでいるから、「皇」もオホキミとばかり訓むとは言えないはずであるが、万3325番歌の別訓以外、現状ではオホキミとばかり訓んでいる。文脈的理解が求められよう。以下、まず現在通行している訓み方を呈示し、検討を加えていく。

 わご大君 神のみことの〔吾皇神乃命乃〕 高知らす 布当ふたぎの宮は 百樹ももきなす 山はたかし 落ちたぎつ 瀬のも清し 鶯の 来鳴く春へは いはほには 山下光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は あまらふ 時雨しぐれをいたみ さつらふ 黄葉もみち散りつつ 八千年やちとせに れ付かしつつ 天の下 知らしめさむと 百代ももよにも 変るましじき 大宮所(万1053)

 原文に「吾皇神乃命乃……」とある万1053番歌は、通説に「わご大君の 神のみことの……」と訓まれている。しかし、「大君の 命かしこみ」という例は多く見られ、いま、「大君の命」というつながりの間に「神の」と挿入することは余計な形容であり、不可解に感じられる。万1050番歌のように、「わが皇祖すめろきの 神の命と……」と訓めないであろうか。「皇祖すめろきの 神のみこと」と訓んでいる例には次のようなものがある。

 高御座たかみくら あま日継ひつぎと 皇祖すめろきの 神のみことの〔須賣呂伎能可未能美許登能〕 きこす 国のまほらに 山をしも さはに多みと ……(万4089)
 葦原の 瑞穂の国を 天降あまくだり 知らしめしける 皇祖の 神の命の〔須賣呂伎能神乃美許等能〕 御代みよ重ね 天の日継と 知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方よもの国には(万4094)
 高御座 天の日継と 天の下 知らしめしける 皇祖の 神の命の〔須賣呂伎乃可未能美許等能〕 かしこくも 始めたまひて たふとくも 定めたまへる ……(万4098)
 ……石走いはばしる 淡海あふみの国の 楽浪さざなみの 大津の宮に 天の下 知らしめしけむ 皇祖の 神の命の〔天皇之神之御言能〕 大宮は 此処ここと聞けども 大殿は 此処ここと言へども ……(万29)
 皇祖の 神の命の〔皇神祖之神乃御言乃〕 敷きいます 国のことごと 湯はしも さはにあれども ……(万322)

 類似する「皇祖すめろきの 神の」の形をとるものに次のようなものがある。

 …… 何しかも もとなとぶらふ 聞けば のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き 皇祖すめろきの 神の御子の〔天皇之神之御子之〕 いでましの 手火たびの光そ 幾許ここだ照りたる(万230)
 天雲あまくもの 向伏むかふす国の ますらをと 言はるる人は 皇祖の 神の御門みかどに〔皇祖神之御門尓〕 に 立ちさもらひ 内の重に 仕へ奉りて ……(万443)
 皇祖の 神の宮人〔皇祖神之神宮人〕 ところづら いやとこしくに われかへり見む(万1133)
 皇祖の 神の御門を〔皇祖乃神御門乎〕 かしこみと 侍従さもらふ時に 逢へる君かも(万2508)
 かけまくも あやに畏し 皇祖の 神の大御代おほみよに〔皇神祖乃可見能大御世尓〕 田道間守たぢまもり 常世とこよに渡り 八矛やほこ持ち まゐ出来でこし時 時じくの かくの木の実を ……(万4111)

 類似する「神のみこと」の形等をとるものに次のようなものがある。

 …… 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知らしめす 神のみことと〔所知行神之命等〕 天雲あまくもの 八重かき別けて 一に云はく、天雲の 八重雲別けて 神下かむくだし いませまつりし(万167)
 ひさかたの 天の原より きたる 神の命〔生来神之命〕 奥山の 賢木さかきの枝に 白香しらか付け 木綿ゆふ取り付けて ……(万379)
 かけまくは あやに畏し 足日女たらしひめ 神の命〔可尾能弥許等〕 韓国からくにを 向けたひらげて ……(万813)
 いにしへの 神の時より〔神乃時従〕 逢ひけらし 今の心も つね忘らえず(万3290)

 反対に、通説で「大君」が「神」が絡む表現と思われているのは、上に否定された万1050番歌と、この万1053番歌、「大君は 神にしませば」の諸例、「神ながら わご大君」(万4254・4360)と続く例に限られる。「大君は 神にしませば」という言い回しは、皇子の挽歌やすでに亡くなられている天皇のことを指していること、ならびに、「神ながら わご大君」と使っている「神ながら」が挿入句であることについては別稿で述べた(注6)。現天皇=神であるとしていた通説は否定される。この万1053番歌も、「吾皇神乃命乃」は、ワガスメロキ カミノミコトノと訓まれるものと思われる。われらが皇祖、神となっているミコトが、という意味で、遠い神代の昔に、皇祖が宮殿を作った布当宮について、歌のなかで語っているものと推測される。何らかの謂れを語っているらしい。何を語っているか、以下考察する。

「久邇宮讃歌」

 田辺福麻呂の「久邇京讃歌」とされる歌について、改めて全体を通して見てゆこう。先に論じた万1050番歌から万1058番までの9首で構成される。第一・第二長歌それぞれに反歌二首・五首を伴っている。訓みの誤りを正して掲げる。

  久邇くにあらたしきみやこたたふる歌二首あはせて短歌
 あきつ神 わが皇祖すめろきの 天の下 八島のうちに 国はしも さはにあれども 里はしも 多にあれども 山並みの よろしき国と 川並みの 立ち合ふ里と 山背やましろの 鹿背山かせやまに 宮柱 太敷ふとしき奉り 高知らす 布当ふたぎの宮は 川近み 瀬の音ぞ清き 山近み 鳥がとよむ 秋されば 山もとどろに さを鹿は 妻呼び響め 春されば 岡辺をかへしじに いはほには 花咲きををり あなおもしろ 布当の原 いとたふと 大宮所おほみやどころ うべしこそ わご大君は 君ながら 聞かしたまひて さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも(万1050)
反歌二首
 三香みかの原 布当の野辺のへを 清みこそ 大宮所 一に云はく、此処ここしめ刺し 定めけらしも(万1051)
 山高く 川の瀬清し 百代まで かむしみ行かむ 大宮所(万1052)
 わが皇祖すめろき 神のみことの 高知らす 布当ふたぎの宮は 百樹ももきなす 山はたかし 落ちたぎつ 瀬のも清し 鶯の 来鳴く春へは いはほには 山下光り 錦なす 花咲きををり さを鹿の 妻呼ぶ秋は あまらふ 時雨しぐれをいたみ さつらふ 黄葉もみち散りつつ 八千年やちとせに れ付かしつつ 天の下 知らしめさむと 百代ももよにも 変るましじき 大宮所(万1053)
  反歌五首
 泉川いづみがは 行く瀬の水の 絶えばこそ 大宮所 移ろひ行かめ(万1054)
 布当山 山並やまなみ見れば 百代にも 変るましじき 大宮所(万1055)
 娘子をとめらが 續麻うみをくといふ 鹿背かせの山 時し行ければ 都となりぬ(万1056)
 鹿背の山 木立こだちを茂み 朝去らず 来鳴きとよもす うぐいすこゑ(万1057)
 狛山こまやまに 鳴く霍公鳥ほととぎす 泉川 渡りを遠み 此処ここに通はず 一に云はく、渡り遠みか 通はずあるらむ(万1058)
  (右の二十一首は、田辺福麻呂の歌集の中に出づ。(万1067左注))

  讃久邇新京歌二首并短歌
 明津神吾皇之天下八嶋之中尓國者霜多雖有里者霜澤尓雖有山並之宜國跡川次之立合郷跡山代乃鹿脊山際尓宮柱太敷奉高知為布當乃宮者河近見湍音叙清山近見鳥賀鳴慟秋去者山裳動響尓左男鹿者妻呼令響春去者岡邊裳繁尓巖者花開乎呼理痛𪫧怜布當乃原甚貴大宮處諾己曽吾大王者君之随所聞賜而刺竹乃大宮此跡定異等霜〕
  反謌二首
 三日原布當乃野邊清見社大宮處一云此跡標刺定異等霜
 山高来川乃湍清石百世左右神之味将徃大宮所 
 吾皇神乃命乃高所知布當乃宮者百樹成山者木高之落多藝都湍音毛清之鶯乃来鳴春部者巖者山下耀錦成花咲乎呼里左壮鹿乃妻呼秋者天霧合之具礼乎疾狭丹頬歴黄葉散乍八千年尓安礼衝之乍天下所知食跡百代尓母不可易大宮處
  反謌五首
 泉川徃瀬乃水之絶者許曽大宮地遷徃目
 布當山山並見者百代尓毛不可易大宮處
 𡢳嬬等之續麻繫云鹿脊之山時之徃者京師跡成宿
 鹿脊之山樹立矣繁三朝不去寸鳴響為鶯之音
 狛山尓鳴霍公鳥泉河渡乎遠見此間尓不通一云渡遠哉不通有武
 (右廿一首田邊福麿之歌集中出也)

 恭仁京を置いたあたりに「布当ふたぎ」という地名があり、「布当ふたぎの原」、「布当ふたぎの野辺」、「布当ふたぎの宮」、「布当ふたぎ山」と呼んでいる。そのフタギという音から、それは何かしら「ふたぐ」ところとして感じられたのであろう。地名の語源ではなく、地名から得られた語感から、そういうところであったに違いないと想像しているのである。上代の言霊信仰下においては、ことことであるとされ、名は体を表し、名に負えば名を体現する存在であると思うように志向されていた。
 「ふたぐ」とはフタ(蓋)をして外との接触を断つのが原義である。自動詞は「ふたがる」で、ふさがること、いっぱいになることを表わす。

 亦山にしき神有り。のらかだましき鬼有り。ちまたさいぎみちふたさはに人を苦びしむ。(景行紀四十年七月)

 いっぱいになることの類義語はすでに見ている。題詞に「讃」とあった。後述する。
 そんな「ふたぐ」ところとして人々の頭をよぎることと言えば、言い伝えに伝えられて人々が共通の認識として抱いているアマテラスの石屋隠いはやごもり(石窟閉いはやごもり)のことであろう。その近くの「あめやす河原かはら」(記上)・「天安河辺あまのやすのかはら」(神代紀第七段本文)に神々は参集してにぎわっている。
 第一長歌に「あなおもしろ〔痛𪫧怜〕」とある。石屋隠りの時、いろいろな神がさまざまなパフォーマンスをして何とかアマテラスに出てきてもらおうとした。最終的にはアメノウズメがヌードダンスを披露してとてもおもしろく、一同どっと笑い、アマテラスは何ごとかと石屋の戸を少し開けて覗き見た。そのとき、タヂカラヲが引っ張り出して世界は明るさを取り戻したのであった。この話は当時誰もが心得ていたものであろう。
 「八島のうちに〔八嶋之中尓〕」というのも古色蒼然としている。オホヤシマクニ(「大八島国」(記上)、「大八洲国」(神代紀第四段本文))という言い方は、イザナキ・イザナミによる国生みでの表現にあらわれている。そしてまた、ヤスノカハラは八洲の河原のこと、たくさんの洲が突き出る形でシマ(島)になっていることに通じるものである。八百万の神々はそれぞれの洲にいて、互いに喧嘩することなく済んでいる。
 「宮柱 太敷ふとしき奉り〔宮柱太敷奉〕」という言い方には疑問が呈されている。通常、「宮柱 太敷ふとしきまして」のように尊敬の意を表わすものである。ところが、ここでは謙譲の意になっている(注7)。これは、「布当の宮」なるものが古くからあったとすることによる。すなわち、神社の社としてのミヤ(御屋・宮)である。地域住民の奉仕によって造られる。神々が参集したヤスノカハラにおいても同じことが行われたと想像できるから、フタギの宮は奉仕によって造られたとされたのである。そんな事情を抱えたところへこのたび新たに遷都することとなり、神社であったフタギの宮は天皇の宮城へ意味転化している。
 「聞かしたまひて〔所聞賜而〕」とあるところ、「遷都の主宰者としての天皇の姿を著しく後退させている。」(吉井1984.284頁)と思われている。また、原文に「君之随」とある個所は、「君ながら」以外にも、「君がまに」と訓む説がある(注8)。これらの考えは歌の役割について見誤っている。筆者は、「君之随」という書き方からして、「君しながら」と訓むことが期待されていると考える。「神ながら」、「皇子ながら」、「山ながら」といった例が、~の本性によって、の意を表わすところ、助詞のシを挟むことで遠慮の気持ちを入れている。絶対君主に対して、君主の本性によって、などと面と向かって言えるものではない。もしや君主の御本性によってのことでしょうか、といった控え目な言い回しである。誰の意見を聞いたのかは書いてないのでわからず、そしてまた、そのようなことを歌に歌う必要もない。これらの歌は、聴衆に訴えかけて皆の心がやすまるように機能したのであろう。そういう理由でこの地へ遷都することになったのだと理解、納得した。そして不協和音は解消した。フタギ(布当)の宮には深い謂われがあり、なるほどそれだから大宮所にするのにもってこいであるとお認めになったのだろうと述べている。これまで見逃されてきたが、きちんと歌に歌われている。
 その感想を、「さす竹の 大宮此処ここと 定めけらしも〔刺竹乃大宮此跡定異等霜〕」と述べている。「さす竹の」という枕詞については、君、大宮、皇子、舎人壮(とねりをとこ)、節間(よ)隠(ごも)る、にかかるとされるものの、語義、かかり方とも不明とされている。この例のように「大宮」にかかるのは、宮を建設する場所に標識(しめ)として地面に竹杭を刺していたからでもあろうし、竹はヨ(乙類)という節(ふし)と節の間の空洞部分がつながっていく形で伸びていくものであり、まるで、ヨ(代、ヨは乙類)がつづくこと、天皇の御代が代々つづくことをよく表していると捉えられたのであろう。そこで、枕詞「さす竹の」は、「君」「大宮」「皇子」などにかかるとされて使われたと考えることができる(注9)
 フタギの宮の表現に、川→山、秋→春というように、一般的な表現とは順序が異なっている。作歌時期や場所からそうなったとする説(清水1980.146頁)もあるが、アマテラスの石屋隠りのことを想起すれば、「昼夜の相代あひかはるわきも知らず。」(神代紀第七段本文)とあるように、順序がわからなくなったことを思い出させる効果を狙ったものであろう。
 つまり、この万1050番歌は「布当の宮」の由来を語ったもので、新しく遷都された都の様子など詠ってはいないのである(注10)。反歌の二首も都に定めたことについてしか語っていない。天皇が都をこの地に定められたのは、そういう由緒によるのだと、都を褒めているのではなく都を讃えているのである。ホムとタタフとの違いは、対象をそのまま賛美することと、その対象に新しい名称を付けたりして言葉でいっぱいにあふれるばかりに称賛することの違いである(注11)。ここで歌っているのはフタギという名前にまつわる逸話である。そしてそこは「久邇新京」であると名づけられてたたえられている。事情は続日本紀に明記されている。

 十一月戊辰、右大臣橘宿禰諸兄奏さく、「此間ここ朝廷みかどいかなる名号を以てか万代よろづよに伝へむ」とまをす。天皇、みことのりして曰はく、「号けて、大養徳やまと恭仁大宮くにのおほみやとす」とのたまふ。(続紀・聖武天皇・天平十三年(741)十一月)

 福麻呂の歌は、「久邇新京」のありさまをそのままに歌っているのではなく、「久邇」に新たに造る都は由緒があって定めるにふさわしく、百代までもつづくであろう場所なのだと歌っている。歌の文句も「新京」の、例えば建物が軒を連ねているとか、市は人でごった返しているとかではなく、「大宮」のこと、その場所の風光明媚なことばかり歌っている。都にされてもされなくても変わらない風景である。古の「ふたぎ」の宮を歌いたいためだからで、その語義がいっぱいになるようにその名にまつわって讃えている。すなわち、そこは国の始まりからミヤとしてあったところであり、「大養徳やまと恭仁大宮くにのおほみや」とは倭国の大宮という意である。したがって、題詞にある「讃」はタタフと訓まれて正しい。
 第一反歌の万1051番歌では、広大な「三香の原」のうち、「布当の野辺」の部分が清らかだから、大宮所として定めたらしいよ、と言っている。原文に「清見社」とある部分、そこは清らかだからであることばかりか、キヨミ社という神社があるかのように思わせられる。すでにミヤがあった、ないしはその意味を内包していたことを予感させる筆記である。「布当の野辺」が実際問題として清らかだという言い分は、自然地理においてどういうことなのかわからない。けれども、言葉の上では、言い伝えに伝えられているアマテラスの石屋隠りにまつわることを物語っていて明らかなことになっている。最終的に神々は、汚れた対象であるスサノヲのヒゲと手足の爪を切り、お祓いをして、「神やらひやらひ」ている。だから清らかなところである。当時の人たちがフタギという名の地に感じていた“意味”である。
 第二反歌の万1052番歌では、清らかさについての後付けの説明をする歌になっている。久邇京というのだからクニ(国)のありさま、山があり川が流れていることが要件となる。そこはかつてお祓いをして清らかにしていたところである。そんな観念を支える自然環境は、山が高くて川が流れれば瀬となって速く流れるところである。実際に渓谷があって急流となっていたかどうかは別問題である。伝承されてきたスサノヲ追放の舞台として、清らかなところがイメージされている。「百代まで 神しみ行かむ 大宮所」とあるのは、伝承されてきた観念の世界において神々が行ってきた清らかなところは今日まで長く記憶されて保たれてきたように、現実の世界でもその清らかなところは今後百代経ってもそのまま続くであろうと言っており、そこはすなわち、観念世界でも現実世界でも「大宮所」であると言えるのである。
 長歌と反歌の関係としてふさわしく、互いに相補い合って一つのまとまりを示している。反歌の二首に「大宮所」がくり返されているのは、この歌群が、「大宮」の歌だからである。第一反歌の四句目に「一に云はく、此処ここしめ刺し」とあるのは、長歌の「さす竹の」を承けた作風である。「大宮」歌としてのわかりやすさを追求すれば、本歌のようになるであろう。

第二長歌と反歌五首

 第二長歌以降も「大宮」歌の性格は変わらない。ただ、もう少し具体的な地勢を述べようとしている。もちろん、景を叙したのではなくて、定型的なもの言いを当てはめているだけである。なお、長歌の「八千年尓安礼衝之乍」は、「八千年に 生れ付かしつつ」以外に、「八千に 生れ継がしつつ」と訓む説もあるものの、「衝」をツグと濁音化することには無理がある。
 反歌の一首目、万1054番歌は、「起りえない自然の変化を条件として永久不変を予祝した表現。」(吉井1984.290頁)とされている。なぜ水が絶えることが起こりえないかといえば、川の名が「泉川」だからである。イヅミとはイヅ(出)+ミ(水)の意で、イヅミガハと呼んでいる限りにおいて水は出るものと考えられていた。言(コト)=事(コト)であるとする言霊信仰の下に生きていた。言語遊戯(Sprachspiel)こそが万葉歌の真骨頂である。
 反歌の第二首、万1055番歌も同様である。「前歌の「川」に対し、「山」の形容を根拠に、久邇京の無窮を予祝している。」(伊藤1996.514頁)とされている。なぜそう言えるかといえば、布当山とはフタギ(塞)をモットーとする山であり、それが「山並」をもって連なっているところから考えると、まったくもって塞ぎの状態は完璧で盤石だからである。実際の地形上、反乱軍が攻めて来られないということではなく、言葉の上でそうだと言っているばかりである。蓋をされてタイムカプセルとなれば百代までも変わることはないということである(注12)
 反歌の第三首、万1056番歌の四句目、「時之往者」は、「時の行ければ」と訓む説もあるが、「時し行ければ」と訓む説が正しい。助詞シは、「…し…ば」の形をとることがとても多い。岩波古語辞典は、「これによれば、「し」は確定的・積極的な肯定的判断を強調する語ではない。むしろ基本的には、不確実・不明であるとする話し手の判断を表明する語と考えられる。従って、話し手の遠慮・卑下・謙退の気持を表わすところがあり、話し手が判断をきめつけずに、ゆるくやわらげて、婉曲に控え目に述べる態度を表明する語と思われる。」(1494頁)とし、用例に、「わが背子は物な思ほし事しあらば(事件デモアッタラ)火にも水にも吾無けなくに」(万506)を引いている。
 時が移ろっていまや皇城が完成している、というように、「時」を積極的、作為的に主張しているのではなく、もしや時間などが経過したためか皇城となっている、というほどの控え目な言い方をしている(注13)
 三句目までの序は実に的確である。麻を繊維として利用できるようになるためには、植物のアサを成育させ、刈り取ってきて束にして煮てから皮を剥ぎ、細く割いたものをつないで(「續む」)長いものにし、苧桶(をけ)にて湿らせたものを錘(つむ)などにより撚りをかけて紡軸に巻き取り、それを桛(かせ)に巻き上げる。そのまま放っておけば乾燥していくと同時に撚りが安定して糸はできあがる。桛から外すと輪状にまとまっていてそれを綛(かせ)といい、製品として次の工程(染めや織り)へと受け継がれる。續麻(うみを)を桛に懸けることは、とても手間と時間のかかる糸づくりの最後の段階である。苧續みや撚りかけほどに難しいものではないし、桛に巻き上げておけば後は自然乾燥によって糸となる。
(東村2004.6頁。東村2011.17頁(第13図)において一部整理されており、出典として①『信貴山縁起』、②『春日権現験記絵』、③④『越能山都登』が示されている)
 だから、「時し行ければ〔時之徃者〕」へとつづいている。助詞シの持つ控え目表現はここに生きてくる。時間さえ経過すれば都となるとの考えは、桛に巻き上げられたら糸が出来上がるのだという錯覚に等しい。その前段階として、栽培して刈り取り、蒸したり煮たりして皮を剥ぎ、績んでから撚りをかけていくという苦労に苦労を重ねる作業がある。都となったのには、そのような、目にすることのない前段階が控えていて、その時に見る土木建設工事ばかりで都は完成するものではないと言っている。すなわち、フタギの宮の伝承が控えているからこそそこは都となるのだと“正論”を述べている。「都と成りぬ」の助詞トは資格を表わしている。造成して都(のよう)にすることはできようが、都と(してふさわしく)することはできないのである。
 この「時」を意識した表現は、反歌の五首目に通じている。
 万1058番歌に霍公鳥が出ている。ホトトギスという語は、ほとんど時は過ぎる、の意にかけて用いられることがある(注14)。時間経過を歌う発想は、万1056番歌に予行演習されていたわけである。時間が経過するのは当たり前のことである。だが、第一長歌で、「大宮此処と定め」の主語は現天皇の聖武である。時間が経てばどこでも皇城となるということではなく、聖武天皇が決めたから、今のその時をもって成っている。歌ではその理由について歌っている。フタギという地名の音にかこつけて、フタグ(塞)ところ、天の石屋の言い伝えによってそこは神の参集するところ、ためにミヤが造られた、だからここは新しく都とするのにふさわしいのだといい、天皇もそういうことでお決めになられたのだろうと、「らしも」と推量している。続紀・天平十三年の「大養徳やまと恭仁大宮くにのおほみや」命名譚は、背後にある(古代的)“思想”を伴って人々に、少なくとも福麻呂のほか多くの宮廷社会の人に知れわたっていたということである。歌は歌い手と聞き手がともに歌意を納得、共有することで伝えられる。天皇の命名譚も、天皇が独り勝手にネーミングして広まらせたということではなく、だってそういうことだろうと、皆を納得させる力を持っていたから看過されることはなく、定着したのであった。
 ホトトギスという語から思い起こさせる、ほとんど時は過ぎること、最終段階だから必然だというイメージで決められてしまうことは、この歌群の全体的なモチーフにそぐわない。だから、ホトトギスは、声はすれど姿は見えず、ということにしておき、時間は経過していて期は熟していたが、自動的にそうなるのではなく、よくよく事情を悟られた聖武天皇が最終決断をされてここが都となっているのだということにしている。そしてまた、ホトトギスが通って来てしまうと、ほとんど時は過ぎることが重なって、時間がどんどん進んで行って止まらないから、「百代にも 変るましじき」(万1053・1055)と言えなくなってしまう。そういった意味合いを伝えたくて、霍公鳥は渡って来ないことになっている(注15)
 反歌の四首目、万1057番歌に「鹿背の山」が出ているのは前の歌を引き継ぐもので、「鶯」が出ているのは長歌にあるのを受けているとされている。あるいは、後の歌に出てくる「霍公鳥」に托卵を受ける鳥であると知られていたことも一因かもしれない。もっと積極的にそこに置かれた要因は、歌群を見渡してはじめてわかる。
 長歌と反歌は一つの歌意を相補い合って表わし、全体像を織りなしてあやなすものである。万1056~1058番歌は後から付け加えられたのではないかとも考えられている(注16)が、後付けの短歌を「反歌」とすることはないであろう(注17)。すでに見てきたように長歌はフタギの宮について語っている。石屋隠りの舞台となった天の安の川原に設けられたに違いないミヤのことである。アマテラスが籠り隠れていたのが再び現れて世界は明るくなった。そういう位置づけとして「布当の宮」=「久邇新京」は見定められている。そのことと対応するように、地理的配置としては、大極殿から東に「布当山」はあり、フタギ(塞)が取れて、すなわち、石屋の戸が開いて朝日が降りそそぐと見てとっている。そして、南に「鹿背の山」があり、木立が茂り、朝ごとにそこからウグイスが飛来して鳴くとしている。フタギが取れて日が「鹿背の山」に差していくことを言いたいから、毎朝のことでなければならない。対して「狛山」は西に当たる。一日の単位で考えるなら、ほとんど時は過ぎる時間帯に太陽は西にある。コマヤマという名は、高麗(こま)のことを思い起こさせ、倭国から見て海のかなたの西方に位置している。このように東→南→西の水を隔てた山を順に見渡していっている。反歌の流れとしても山の配置はそのようになっている(注18)。「布当の宮」=「久邇新京」から見回している。ぐるっと首を回している。言語遊戯の音遊びにおいては、クビ(ビは甲類)を意識させる鳥に登場願いたい。だから、ウグヒス(ヒは甲類)というクビの廻れるような名の鳥が来て鳴いて大騒ぎをしている歌が歌われている。「響もす」ほどだから大極殿にいても「声」は聞こえてくるのである。大極殿で何をしていたかは不明であるが、儀式ばっているなら正装で臨んでいることであろう。領(くび)のしつらえが特徴的な、袍(はう)を御召しになっているに違いあるまい。臣下も狩衣などであったろう。和名抄に、「衿 釈名に云はく、衿〈⾳は領、古呂⽑乃久⽐(ころものくび)〉は頸なり、頸を擁く所以なり、襟〈⾳は⾦〉は禁なり、前に交へて⾵寒きを禁(と)め禦(ふせ)く所以なりといふ。」とある。
 天皇は日の御子であり、アマテラスの末裔なのだから東→南→西の順に見渡して行くことは正しいことである。反歌は五首もあるが、みな従来の「反歌」の“定義”にかなうものである。
恭仁京復元地図(足利1973.41頁に筆者加筆)
 以上が田辺福麻呂の「久邇新京讃歌」の全貌である。ひたすらヤマトコトバにもとづいて歌われている。現代的視点から歌に発展性があるかないかという評価など、田辺福麻呂は意に介しはしない。万葉集の歌の良し悪しは、その歌が歌われたとき、その場において、いかに受けたかにかかっている。筆者には、大養徳やまと恭仁大宮くにのおほみやにおいて、よく心得ていて整った歌であるように感じられる。

(注)
(注1)公式令の詔書式に、「明神御宇日本天皇詔旨云云。咸聞。」、「明神御宇天皇詔旨云云。咸聞。」、「明神御大八州天皇詔旨云云。咸聞。」などと、天皇が詔を下す際の前言文句の書式が示されており、アラミカミトアメノシタシラスヒノモトノスベラガオホムゴトラマトソノコトソノコト。コトゴトクニキキタマヘ。などとも訓まれている。紀に見える表記はこれによる修文である(、また万葉集に同じ)と考えられているが、どちらが先なのか何を根拠に言えるのか不明である。紀と同様に助詞「と」を伴っている点は注目されるべきである。天皇は「明神」それ自体ではない。「明神」として、「明神」同然に、この国を領知する天皇がこれから言うからそれをよく聞きなさい、と前置きに言っているものである。
(注2)アキツカミという語が神を表わす場合には住吉大神についていうことが多く、天皇を敬っていう場合と用法を二分しているとされている。以下にも述べる神の特性、ふつうは神は姿を現わしたりしないところ、なぜアラヒトガミと言っているのか説明されていない。
(注3)本稿では、歌の訓読文においては原文にかかわらず、オホキミは「大君」、スメロキは「皇祖」と記した。
(注4)新編全集本萬葉集は、「遠つ神 我が大君」(万5)を同様とする(170頁)が、万5番歌のその部分は回想であり、現天皇を「我が大君(わご大君)」と呼んでいるのではなく、かつてお仕えし、すでに亡くなられて久しい天皇のことを、「遠つ神 わご大君」と言っているものと考える。「遠つ神」は万295番歌にも見え、やはり回想している。現天皇のことを天つ神の御子として遠い昔からつづく血統の形容とする枕詞とみる説があるが、時代別国語大辞典は認めておらず、「遠い昔の神。」(501頁)としている。

 霞立つ 長き春日の 暮れにける わづきも知らず むらぎもの 心を痛み ぬえこ鳥 うら泣け居れば 玉襷たまだすき 懸けのよろしく 遠つ神 わご大君の〔遠神吾大王乃〕 行幸いでましの 山越す風の 独り居る わが衣手に 朝夕あさよひに 返らひぬれば 大夫ますらをと 思へる我も 草枕 旅にしあれば 思ひ遣る たづきを知らに 網の浦の 海人処女あまをとめらが 焼く塩の 思ひそ焼くる 吾が下心(万5)
 住吉の 岸の松原 遠つ神 わご大君の〔遠神我王之〕 幸行しところ(万295)

(注5)スメカミと訓む例は他に次のものがある。皇室の祖先神、またその地域の最高位の神の意である。アキツカミと同様、スメカミでも住吉大神について呼ばれることがある。

 わご大君 ものな思ほし 皇神の〔須賣神乃〕 継ぎて賜へる 我なけなくに(万77)
 神代より 言ひ伝て来らく そらみつ 大和の国は 皇神の〔皇神能〕 厳しき国 言霊の 幸はふ国と 語り継ぎ 言ひ継がひけり ……(万894)
 ちはやぶる 鐘の岬を 過ぎぬとも 我れは忘れじ 志賀の皇神〔壮鹿之須賣神〕(万1230)
 …… 千年に 欠くることなく 万代に あり通はむと 山科の 石田の杜の 皇神に〔須馬神尓〕 幣取り向けて 我れは越え行く 逢坂山を(万3236)
 …… 神からや そこば貴き 山からや 見が欲しからむ 皇神の〔須賣可未能〕 裾廻の山の 渋谿の 崎の荒礒に ……(万3985)
 天離る 鄙に名懸かす 越の 国内ことごと 山はしも しじにあれども 川はしも 多に行けども 皇神の〔須賣加未能〕 領きいます 新川の その立山に ……(万4000)
 …… 我が来るまでに 平けく 親はいまさね つつみなく 妻は待たせと 住吉すみのえの が皇神に〔安我須賣可未尓〕 幣奉り 祈り申して 難波津に 船を浮け据ゑ ……(万4408)

(注6)拙稿「「神ながら 神さびせすと」・「大君は 神にしませば」考」・「「大君は神にしませば」歌(万4260・4261)の語用論的解釈」参照。
(注7)「太敷き奉り」が「天人感応」の理念に従うとする説は、塩沢2010.にある。塩沢氏は、「君之随所聞賜而」について、臣下の進言を聞き入れて都とを定めるという叙述は文選の西都賦、東都賦、西京賦に登場しているとし、さらに、「久邇宮讃歌」は「六合」の考え方を取り入れて、シンメトリックな調和の世界を歌ったものではないかとも述べている。
(注8)諸説については下田2005.参照。「君がまに」は「君がまにまに」の約であるという。多くの注釈書で、その「君」は橘諸兄のことを指すとしている。「わご大君は 君がまに 聞かしたまひて」で、聖武天皇は大君であられるままに臣下の橘諸兄の言葉をお聞きあそばして、の意であるといい、歴史的事実として聖武天皇が橘諸兄の言うことを聞き入れて遷都の地を決定したことを物語っているとされている。けれども、歌のなかでオホキミは天皇、キミは大臣というように立て続けに表示することがあるものか疑問である。歌が散文的“説明”に堕していることにもなる。
(注9)拙稿「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論」、「「吉野讃歌」は「吉野讃歌」ではない論補論」参照。
(注10)「久邇宮讃歌」は万葉集に他に2例3首ある。

  十五年癸未の秋八月十六日に、内舎人うどねり大伴宿禰家持の、久邇京くにのみやこたたへて作る歌一首
 今造る 久邇の都は 山川の さやけき見れば うべ知らすらし(万1037)
  三香原みかのはらあらたしき都を讃ふる歌一首 并せて短歌
 山背やましろの 久邇の都は 春されば 花咲きををり 秋されば 黄葉もみちばにほひ 帯ばせる 泉の川の 上つ瀬に 打橋渡し 淀瀬には 浮橋渡し ありがよひ 仕へまつらむ 万代までに(万3907)
  反歌
 たたなめて 泉の川の 水脈みを絶えず 仕へまつらむ 大宮所(万3908)
  右は、天平十三年二月に、右馬頭みぎのうまのかみ境部宿禰老麻呂さかひべのすくねおゆまろの作なり。

 やはり自然環境を歌っていて、建設された宮都のことは歌っていない。だからといって、花井2001.の、「自然の相が不変であるごとく都が永遠であることが予祝される。」(二〇頁)、渡部2001.の、「そこは今造られた宮であり、過去を持たない。」(9頁)などと考えるのは思い込みである。ヤマトコトバの考究によって克服されなければならない。
(注11)ホムとタタフの微妙な使い分けは用例に確認できる。

 因りて蜻蛉あきづめて、此のところなづけて蜻蛉野あきづのとす。(雄略紀四年八月)
 時に、勅して日臣命ひのおみのみことめて曰はく、「いましいさをしさありてまたいさみあり。また能くみちびきいさをし有り。是を以て、汝が名を改めて道臣みちのおみとす」とのたまふ。(神武前紀戊午年六月)
 時に多遅たぢの花、井の中に有り。因りて太子ひつぎのみこみなとす。多遅の花は、今の虎杖いたどりの花なり。かれ多遅比瑞歯別天皇たぢひのみつはわけのすめらみことたたまをす。(反正前紀)
 故、其の名を称へて、上宮厩戸豊聡耳太子かみつみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこと謂す。(推古紀元年)

 第1例のホムはアキヅをほめている。アキヅノをほめているのではない。第2例はヒノオミをほめている。改名してミチノオミとしたとき、ミチノオミとたたえたということになる。第3・4例は、その人たちに長い名前をつけてたたえている。対象に名を充満させることがタタフの意である。雑駁に言えば、よしよしと相手を認めるのがホムであり、新たに名前をつけて讃美するのがタタフである。
 万葉集で「讃」字が使われるのは、地名(「讃岐」)の例を除き、すでにあげた「久邇宮讃歌」とされる3歌群の題詞(万1050~、1037・3907~3908)に偏って現れている。天平十三年十一月記事にあるように恭仁京と名づけたたえたことの反映として、万葉集でもそう使われている。それ以外では、万338~350番歌の前にある題詞のみである。

  大宰帥大伴卿讃酒歌十三首

 「大宰帥大伴卿の酒をたたふる歌十三首」と訓むのが正しいであろう。酒を前にして、よしよし、いい子だ、とほめているのではなく、十三首もの歌を作り、言葉を弄して酒のことをほめそやしているのだからタタフの意に当たる。そのうちの一首では、「酒の名を ひじりおほせし 古の 大き聖の ことのよろしさ」(万339)と名づけてもいる。なお、「讃」字をタタフと訓むことに今日さして抵抗を感じないが、言葉をもって讃頌する意味でタタフと使われる例が少なかったのか、用例は多くない。名義抄では「頌」にのみタタフという訓がある。
(注12)評者に「予祝」と言われるが、時間的に今後ともそうあることをあらかじめ祝うという考えから歌に詠まれているのではない。言(コト)=事(コト)であるとすると、言葉としてそうであることはこれからもそうであろうから、事柄としてもそうであろうと言っている。期待を込めて願っているのではなく、論理的にそういうことになる、Q.E.D.と述べている。
(注13)上野2005.は、「時の往ければ」と訓み、この歌は「序に続く部分との大きな落差がおもしろいのである。そんな辺鄙な山でも、時が過ぎれば都になったというのである。」(236頁)としているが、どこでも都というわけではない。
(注14)拙稿「万葉集のホトトギス歌について」参照。ホトトギスを「時鳥」と記すこととの関連はわからない。
(注15)芳賀1986.に、「泉川の川幅の広さを述べ、その大きな景をも都の中に取りこんだ天皇の偉大さに対する讃美の念を余情とするものだろう。」(188頁)とある。このような解釈では、第五反歌は反歌とは見なされないだろう。
(注16)山崎1986.に、「新都の南西部の鹿背山、西部の狛山の愛すべき山容が泉川をはさんで相対し、川の流れも鳥の声も共に澄みとほる風趣を、福麻呂はさながらに新都への讃歌として感じたからであらう。」(251頁)として、捨てがたい風趣を三首の反歌として付け加えたのだとしている。伊藤1996.は、第五反歌は「残念なことに通って来ないという歌になってしまって、讃美にならない」けれども、「ここ鹿背山で一緒に鳴いてくれればよいのにと言った」(515頁)とするなら一応は通じるとしている。遠藤2004.は、「第三~第五反歌は、讃美の対象を京域「全体」に拡大させることによって、京域の広大さをも讃え(同時に帝業の偉大さのより強い讃美でもある)、それによって新京讃美の念が一層強いことを示すことによって新京讃歌全体の閉じ目とする。」(73頁)としている。
(注17)編纂者の誤解などから紛れこむことはありえようが、その場合、左注に断り書きが付されるケースも多いようである。精神史的傾向として、よくわからないことを断言してかかるようなことは少なかった時代だったと言えそうである。無理にでも何かを言わなければと強迫観念にかられている研究者の時代とは違う。
(注18)中国の天子南面の観念は、天皇は日の御子に当たるから受け入れられ易かったと考えられる。けれども、この第二長歌の反歌の発想は中国思想によるものではない。なぜなら、天子が南面すると臣下は北面してしまうからである。天皇と臣下が同じ視線で考えられるものでなければ、歌意に共感、共有は得られないことになり、歌として歌われない。日の道をたどって東→南→西へと目で追っているにすぎない。

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