ほぼ全身髪の毛に包まれた大きな熊
神武記の熊野の件に、紀にはない大きな熊の話が載る。
故、神倭伊波礼毘古命[=神武天皇]、其地より廻り幸して、熊野村に到りし時、大熊、髪、出で入りて即ち失せぬ。爾くして、神倭伊波礼毘古命、倐忽に遠延為、及御軍皆遠延して伏しぬ。遠延の二字は音を以てす。此の時、熊野の高倉下 此は人の名そ。一の横刀を賷ちて、天つ神御子の伏せる地に到りて献りし時、天つ神御子、即ち寤め起きて、詔りたまはく、「長く寝ねつるかも」とのりたまひき。故、其の横刀を受け取りし時、其の熊野山の荒ぶる神、自づから皆切り仆さえき。爾くして、其の惑え伏せる御軍、悉く寤め起きき。(神武記)
左:「時大熊髪出入即失」、右:「化熊出爪天剣獲於高倉」(真福寺本古事記、国会図書館デジタルコレクション、左:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185383/6をトリミング、右:https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1185374/5~6をトリミング結合)
この話について、太安万侶はすでに序で触れている。
熊と化れるもの爪を出だして、天の剣、高倉に獲たまひき。(記序)
新編全集本古事記に、「熊が出てきたのは、ここが「熊野村」だからであろう。」(145頁)とある。原文は、諸本とも「大熊髪出入即失」とある。しかし、「髪」は「髣」の誤りと見て、あるいは「髪」字のままにホノカニと読むことが多く行われている。「大き熊、髣かに出で入りて、即ち失せき。」という訓は意味不明である(注1)。「出入」を人目につくところへの出入りと解釈することはできない。森から村へ出てきたら居り、村から森へ入ったら失せるはずのものである。「時大熊髣出即入失」とまで改変すべきなのか。あるいは、記序にある「爪」(注2)の話として、熊が威嚇してきたがすぐにいなくなったということか。しかし、「爪」と「髪」は違う。「爪」と関連しそうな点としては、文中にある「爲」字に冠としてあり、また、クマの爪は湾曲している。木登りや、針葉樹の樹皮の「クマはぎ」に用いている(注3)。我々はそれに似た道具を使う。潮干狩りに持っていくクマデである。話を要約していると思われる記序になぜか「爪」が持ち出されており、曲っていて利器となるものが印象づけられている。それを頭の片隅に置いて検討を進める。
クマデ(ガーデニング用、ダイソー商品)
クマ(熊)は、新撰字鏡に、「熊 〈胡弓反、久万〉」、和名抄に、「熊 陸詞切韻に云はく、熊〈音は雄、久万〉は獣の羆に似て小さきなりといふ。」とある。いわゆるツキノワグマである(注4)。ツキノワグマは、胸に月の形をした白い紋がある。それ以外は黒い毛で覆われている。体のほぼすべてが髪の毛のような色である。暑いとすぐに水浴びし、全身シャンプーした後のような姿を見せる。すなわち、原文の「出入」しているものは「髪」であろう。ほぼ全身が「髪」であるけれど、ほとんど「髪」は「出」ているけれども、まれに「入」ることがある。それは、白い月の輪の部分にフォーカスが絞られるときである。その三日月形の白色は、刃物が光っているように見立てられる。そして、クマは、なわばりの見回り行動を行うため、人々の暮らす「村」、神倭伊波礼毘古命の目にとまるところで髪の毛に当たるほぼ全身の黒い毛を「出入」させ、次のところを見張るためにすぐに「失」せたということであろう。なわばりの端まで来て後ろ足立ちになって大きく伸びをしてはまた帰っていくという行動をとっている。「髪出入」には、黒白の毛色となわばり行動の二重の意味が込められている。動物園では常同行動として観察される。
ツキノワグマ「髪出入」二態(上野動物園)
「為二遠延一」とは “do the ヲエ”
倐忽為二遠延一、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以レ音。
分注をもってヲエと記されている。ヲユは下二段動詞で、毒気に当てられて意識がなくなったり、病気などに悩まされて衰弱することをいう。
時に神、毒気を吐き、人物咸に瘁えぬ。(神武前紀戊午年六月)
是より、信濃坂を度る者、多に神の気を得て瘼え臥せり。(景行紀四十年是歳)
而るを人に困事へ、牛馬を飼牧ふ。(顕宗前紀清寧二年十一月)
新撰字鏡に、「瘁」という字は「疩 辞酔反、染病」とある。また、和名抄には「瘼臥 日本紀私記に瘼臥〈乎江不世理、瘼の音は莫〉と云ふ。」とあり、その字は新撰字鏡に「瘼 莫各反、入、病也」とある。
新編全集本古事記には、「ヲユは、毒気に当てられて意識朦朧もうろうとなるの意。原文で仮名表記するのは、訓字表記の困難な語であるため。」(145頁)とある。紀では、相当する箇所に「瘁」字がためらわずに用いられている。訓字表記が困難との考えは当たらない。例えば、瘁の字を使った時、ヲユと終止形になったり、ヲユルと連体形になったりといった別音に読まれる可能性が出てくる。それを避け、ヲエと読ませたいからであろう。
原文にある「為(爲)」の字の使い方は、チンするなどといった例に見られるように、名詞を動詞化するものである。三矢1925.に、「為」字の用法として、「(イ)将欲に通ずる者……(ロ)所に通ふ者……(ハ)目的を表す動詞として用ゐたるもの……(ニ)被役の義……(ホ)使役の義」につづいて、「(ヘ)動詞の補助語尾的に用ゐたるもの」という項目を立て、例をあげている。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085/55~58、漢字の旧字体は改め、句読点などは適宜変えた)
……須勢理毘売命、甚為二嫉妬一。(記上)
……神倭伊波礼毘古命、倐忽為二遠延一、……(神武記)
……枕二其后之御膝一、為二御寝一坐也。(垂仁記)
……答曰、既為二泥疑一也。(景行記)
……詔、為レ易レ刀。(景行記)
そして、「此等の「為」の字は、為無くても通ずべき中に、「遠延[をえ]」「泥疑[ねぎ]」など仮字がきなるは、語尾を書かざるより、其の動詞なるを明にする為には「為」の字を添ふる必要あり。「為嫉妬」は「性甚嫉妬」など書けば可なるも、国語には「モノネタミ」など名詞に云へば、其の語法より「為」を独立動詞に用ゐたるなるべく、「御寝」は、漢文にて動詞になれども、「ミネ」といへば名詞なるより、之を動詞にして下の「坐」に続けむとて「為」の字を加へたるなるべし。」(87頁)と解説している。さらに記に例を見る。
「然者、吾与汝、行二-廻-逢是天之御柱一而、為二美斗能麻具波比一。」(記上)
「悔哉、不二速来一、吾者為二黄泉戸喫一。……」(記上)
……為二神懸一而、掛二-出胸乳一、裳緒忍二-垂於番登二也。(記上)
……其女須勢理毘売出見、為二目合一而、相婚。(記上)
故、其夜者不レ合而、明日夜為二御合一也。(記上)
如レ此歌、即為二宇伎由比一而、……(記上)
爾、少女答曰、「吾勿レ言。唯為二詠歌一耳。」(崇神記)
故、今聞二高往鵠之音一、始為二阿藝登比一。(垂仁記)
爾、為二言挙一而詔、……(景行記)
「……亦、山河之物悉備設、為二宇礼豆玖一」、……(応神記)
ミトノマグハヒ、ウケユヒ、アギトヒ、ウレヅクなどと仮名書きの例が多い。
五番目の例では、前者の「合」は動詞、後者の「御合」は名詞である。すなわち、Therefore he didn’t have sex with her last night, and he did the sex tonight. と言っているようである。他の例でも、do “the ……”の形(the 嫉妬、the ヲエ、the 御寝、the ネギ、the 易刀、the ミトノマグハヒ、the 黄泉戸喫、the 神懸、the 目合、the ウケユヒ、the 詠歌、the アギトヒ、the 言挙、the ウレヅク)を「為」ると言いたいらしい。尋常ではない特別な程度の何事かをしている。
この do the ……の形として、動名詞的に使われる例は、「為レ楽」(記上)、「為レ漁」(記上)、「為レ釣」(神武記)、「為レ儛」(雄略記)、「為二名告一」(雄略記)、「為レ詠」(清寧記)なども挙げられよう。ただ、どこまでが動名詞か、補助動詞かといった峻別は難しく、そもそもが倭習なので不明瞭である。「釣る」と「釣りす」に別があるのは、上記の「為」のようないわば格調高い意味合いを持たせる意図からか、ツルという語が fishing に限られたものではないこととも関係があるのかも知れない。いずれにせよ、三矢氏の「(ヘ)動詞の補助語尾的に用ゐたるもの」は、むしろ、「為」の後に来る動名詞の意味合いを強調する点にこそ注目すべき語法といえよう。
神武記に「為二遠延一」とあって、訓注で「遠延二字以レ音」とまで断られてあるのは、太安万侶にとって、ヲエ(woye)という音が必須だから、そのように着実に訓ませたいがために行われた記述法である。筆者は、ここに、ヲとエ(ヤ行のエ)にまつわる洒落を見出す。
造成地クマノはツカ・ハカであることとヲ・エの関係
設定は熊野村である。クマノ(ノは甲類)という場所は、飛鳥時代において、クマという形状の野のようなところをいうと解され、捉えられていたのであろう。語源ではなく、語感においてである。新撰字鏡に、「堓 豆衣・居移二反、曲岸也。久万、又太乎利、又宇太乎利」とある。他との境界にあって、奥まった場所のことで、見えにくくなっているところをいう。道や川などが屈曲しているところ、曲り角のところである。「河隈〔箇波区莽〕」(仁徳紀三十年九月、紀53歌謡)、「道の隈〔道隈〕」(万17)などとある。ほとんど直角に曲っているから先が見えなくなる。一方、野という語は周囲よりも少し高いところで水がかりが悪い場所をいう。小高くて直角に曲っているような野とは何か。自然界は風化、浸食が進んでしまっているから、計画的、人工的に造らない限りなかなか出現しない。そのような特殊な地形として見られるものを我々は知っている。古墳である。方墳や、前方後円墳の前方墳部は「曲野」と呼ぶに値する。
考古学用語に使われる古墳は、ヤマトコトバでは塚、または墓である。白川1995.は、「つか〔冢・塚(塚)〕 土を小さくもりあげて死者を葬るところ。動詞の「築く」の名詞形である。「はか」は墓所としての意に重点があり、「つか」はその形状を主とする語である。墓を「つか」とよむこともあり、同義語である。」(500頁)とする。新撰字鏡に、「壟 力勇力隴二反、上、地之□山高大□也、塚也。豆加也」、和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ、豆賀〉は塚塋の地なりといふ。広雅に云はく、塚塋〈寵営の二音〉は葬地なりといふ。方言に云はく、墳〈扶云反〉、壟〈力腫反〉は並に塚の名なりといふ。」とある。俎上にあがっているヲエなる語のヲについて、ツカのことから連想すると、大刀の緒のことが思いつく。ツカは大刀の握り手部分、柄である。白川1995.に、「つか〔束・拳〕 手の指を握ったときの、四本の指のはばを「つか」という。「つかむ」「つかぬ」は、その動詞形である。それを単位として長さをはかり、八拳・十握のようにいう。また束ねて一括りとしたものを、十把一束のように助数詞に用いる。手で握ることから、剣の柄のところも柄という。短いところであるから、時に移して「つかのあひだ」、また「つかのま」という。」(500頁)とある。記に「横刀」と用字されている。大刀を佩く様子は、下げ緒をもって腰の左側で横方向へ帯び延びて行っていた。横刀の柄を掴むのは右手である。切れ味の鋭い刃によって敵に致命傷を負わせることができる。左手は、鯉口を切ったり、抜刀に当たって鞘を握ったりする。
左:大刀の緒(狩野晏川・山名義海模、石山寺縁起模本、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/E0055242をトリミング)、右:抜刀の様子(一遍聖絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2591576/17をトリミング)
一方、柄は本来、エ(ye)と訓む。クマなるもの、曲れるものを念頭にして野の草を刈るのなら、同じく鉄製の刃物である草刈り鎌のことが思い浮かぶ。草を根本から刈り取る際に効率がいい。移動の際は柄を腰帯の背中側に指して行った。刃は、切れ味もさることながら耐久性も求められる。石ころなどにぶつかったとしても刃が欠けないことが重要である。そして、刃に対して直角に備わる柄によって梃子の原理が働き、力が入り使いやすい。曲れる刃物である。横刀、小刀等の形状のものでは、柔弱な草を刈るには対象物が逃げていって使いづらい。刃に食まないからである。仕事が捗らない。ハカとは、埋葬場所のほか、仕事量の単位をいう語でもある。古典基礎語辞典の「はか【計・量・果】」の項の「解説」に、「ここまでと割り当てた労働の量。ハカは、ハカル(計る)・ハカナシ(果無し)・ハカバカシ(果果し)などの語根。ハカルは、分量を確かめること。ハカリ(計り)は、そのための見当や道具。ハカナシは、目当てとする確かなもののないさま。ハカバカシは、仕事の進行の目当てとする量が進む感じをいう。」(964頁、この項、依田瑞穂)とある。草刈り作業は、一般の右利き用の鎌であれば、左手で草の束を掴み、右手でハカを取っている。横刀とは「ツカ」が左右逆になる。そのうえ、「D」字のカーブする部分について、古代の平造形式の横刀ではカーブしている「 )」側が刃になっているが、鎌ではそれとは反対の「|」側が刃になっている(注5)。同じ鉄製の刃物の把手でも、横刀の場合はツカ、鎌の場合はエである。ツカ、ハカ両語は、墳墓と計量の両義がある言葉として対称関係に立っているわけである。築いて造った古墳に草がぼうぼうに生えてしまい、鎌の登場をお願いしたくなる理由はよくわかる。植生の遷移は、大略、造成地(裸地)→草原→陽樹林→陰樹林である。
左:刀(古墳時代終末期、御嶽塚10号墳出土)、中:鎌ほか(8~10世紀、武蔵国府関連遺跡出土)(いずれも府中市教育委員会所蔵、府中市郷土の森博物館展示品)、右:「鉈鎌」(世田谷区岡本民家園展示品)
この場面でハカという語がクローズアップされているのは、その直前の文章からの展開である。五瀬命は登美毘古と白肩津で戦ったとき、矢を受けて傷つき、日の御子は日に向かって戦うことは良くないからと南の熊野方面へ迂回することになった。しかし、途中で矢傷がもとで亡くなってしまった。そこでハカを作っている。
陵は、即ち紀国の竈山に在り。(神武記)
この文章の後に、冒頭にあげた熊野での大熊との遭遇の話になっている。「故、神倭伊波礼毘古命、従二其地一廻幸、到二熊野村一之時、大熊……」と続くのである。「故」という語は、原因、理由を承けて、だから〜と下に接続する。陵の話だから、ハカの話へと矛盾なくつながるのである。
太安万侶はヲエという語の音にこだわっている。稗田阿礼の語る鉄製品刃物の意味合いの洒落を正確に伝えたかったからということがわかる。神倭伊波礼毘古命方は征服が目的だから横刀としての機能を表したい。それを象徴するのは横刀のヲ(緒)である。ところが、熊野の荒ぶる土着神「大熊」は、その意味をエ(柄)に転化しかねない輩であった。それは、クマノ(ノは甲類)という言葉、その音に発端してすべての由来になっている。征服物語が草刈り譚に成りかけている。古墳の被葬者の立場に転じかねない。敗者に対して古墳は作られないという見方ではなく、自ら墓穴を掘るといった体のことである。墳丘上に一斉に生えた雑草を刈る仕事にまさにかり出され、疲れ切ってしまった。すなわち、月の輪印に象徴される鎌としての機能、エ(柄)が浮かび上がってきている。おかげで、ヲ→エさせられることとなった。登場人物も困るが、話者としても困ったことになっている。鎌なす熊には困ったものである。母音交替にて連携している(注6)。
罷ることと曲ること
ツキノワグマはクマ科の哺乳類で、体長は150cm程度になる。胸に三日月形の白斑が顕著に見られる。大きい体をしてグワーオと大きな恐い声を立てるが、元来、人を食べるために襲うことはない。木の実、葉、根、果物、どんぐり、ハチミツ、ハチノコ、昆虫、サナギ、魚などを好み、木にも上手に登って食べている。雑食性で、ホッキョクグマのような肉食獣ではない。人と遭遇したとき、ツキノワグマのほうが危害を加えられると感じ、威圧してきて戦いに臨んでくることがある。その示威行為が、「大熊髪出入即失」ということであろう。獣道を作ることとは、鎌をもって草を刈って来ることと同じであるという理屈である。そして、冬眠することもよく知られる。ツキノワグマに付き合っていると、神倭伊波礼毘古命軍も冬眠ということになる(注7)。
支配者の意向に従って出入りすることは、古語に「罷る」という。お言いつけによりまして罷り参じました、といった使い方は今日に残る。行く、来る、の謙譲語である。行ったり来たりする行為の主体が、命令者の下位に位置することを示している。熊野村の大熊は、神倭伊波礼毘古命軍に対して戦闘を仕掛けてきたわけではない。「出入」という不思議なパフォーマンスをしたにすぎない。神倭伊波礼毘古命軍は、少し前、瀬戸内海を進む時に、「槁根津日子」に遇っている(注8)。
故、其の国より上り幸しし時に、亀の甲に乗りて釣を為つつ打ち羽挙り来る人、速吸門に遇ふ。爾くして、喚び帰せて問はく、「汝は誰そ」ととふに、答へて曰はく、「僕は国つ神ぞ」といふ。又、問はく、「汝は海道を知れりや」ととふに、答へて曰はく、「能く知れり」といふ。又、問はく、「従ひて仕へ奉らむや」ととふに、答へて白さく、「仕へ奉らむ」とまをす。故、爾くして、槁機を指し渡し、其の御船に引き入れて、即ち名を賜ひて槁根津日子と号く。此は、倭国造等が祖ぞ。(神武記)
敵か味方かわからないとき、問答をして確かめることをする。記紀の伝承は口伝えの言い伝えである。言い伝えるということは話すことが前提条件である。話の内容も、話すという状況設定から始まっていると考えてよい。言葉を口に出して話すことによって話が始まる。話すことをしなければお話にならないのである(注9)。ところが、熊野村にさしかかった時、「大熊」はグワーオと吠え鳴いていた。話をしようにも恐くて話しかけることができない。問答せぬまま「即失」となった。わからず仕舞いである。槁根津日子も当初は得体が知れなかった。それでも奇妙な海の民と話し合うことができた。そして、「仕奉」ことを認め、言いつけどおりに船に引き入れて神倭伊波礼毘古命に仕えた(注10)。そして、海路の進軍が終わって用が済んだら、言いつけどおりに退出したのだろう。つまり、罷ることをした。
他方、「大熊」は、言いつけに従う従わないの意思を示さないまま「出入」したのである。その特徴は、胸の三日月形をした刃物様の白紋である。それ以外は、すべて真黒い「髪」の毛をしていた。すなわち、「大熊」のした「髪出入」とは、マカル(罷)ではなくマガル(曲)ことに値した。クマ(隈・曲・阿・堓)の意に符合している。罷という字と羆という字はよく似ている。羆ではなく熊であることは、曲ることとしてより深く理解される。羆の罒(网)は見えないことを表す。ヤマトの人にとって、ヒグマは皮は目にするが、生きているところを実見することはない。斉明紀四年条に、「是歳、越国守阿部引田臣比羅夫、粛慎を討ちて、生羆二つ・羆皮七十枚献る。」とあり、おそらく檻に入れられるなどして二頭連れて来られ、初めて目にして驚いた次第である。一方、ツキノワグマは、隈にいるとの洒落が常々行われていたとすれば、見え隠れしつつも見ることがあり、曲るところにいる曲れるものとの認識があったことだろう。曲ることは、「「まが」[=まがごと(禍言・禍事)]と同根で、正・直に対して不正・勾曲の意があり、邪曲のことをいう。」(白川1995.692頁)のである。困ったものに出たり入ったりされている。この洒落の成立の正当性は、鎌や横刀の素材がマカネ(鉄)である点、そして、その両者がこんがらがって見間違えていること、すなわち、マガフ(紛・乱)ことになっていることからも確かめられる。
神倭伊波礼毘古命の一行が、「遠延而伏」してしまったのは、この弓なりに曲った刃物に恐れをなし、あるいは、そのような形の刃物は大きな鎌のことだから刈られて薙ぎ倒されたこと、ないしは、一緒に冬眠する羽目になってしまったこと、または、耳元で大声をあげられて鼓膜が破れてしまったことを表す。ツキノワグマは木の洞や山の穴などに籠る。毒気に当てられたという意味には、精神的に引っ掛けられたということでもある。ツキノワグマの論理に翻弄されている。鎌の形が印のツキノワグマとは、グワーオと大きな声を立ててうるさい連中であるが、冬には勢いが衰えて穴に籠る。まさに、「あなかま」な奴らである。「囂」という語は、「あなかま」(ああ、うるさい)という口語慣用句として語幹のみで用いられる。まわりでうるさくされると、悩まされ、うんざりして、嫌になって、布団にくるまって寝てしまいたくなるものである。
寺島良安・和漢三才図会の熊の項に、「按ずるに、熊は深山の中に在り松前に出づる者最も多し。全体黒くして胸の上に白毛有りて偃月の如し。俗に月の輪と称す。常に手を以て之れを掩ふ。猟人、其の月の輪を窺ひ之れを刺せば則ち斃れ、若し然らずんば則ち刀鎗を挫く。其の強勢敵ふ可からざるなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569722/15を訓読)とある。ツキノワグマというのだから、いつまで寝ていたかと問われれば、月(キは乙類)が尽き(キは乙類)るまでである。月(moon)が尽きて、その月(month)、二月なら二月が終わる、ということである。復活する時、「詔『長寝乎』」とある「長」は、一カ月寝ていたことを示すものと思われる。動物のツキノワグマの冬眠(冬ごもり)は、一般に一カ月では済まないが、餌の有無によって期間は変わる。動物園で餌を与え続けた個体は冬眠せず、一年中見学することができる。古代においても、クマの生態に関する知識の上に、神倭伊波礼毘古命の一行がツキノワグマの「強勢」に力尽きることに加え、月が尽きることとして話が成立している。
そこへ、熊野の高倉下が横刀を神倭伊波礼毘古命に献上して、熊野の山の荒ぶる神は「自皆為二切仆一」れている。「自」とは、横刀を高倉下が振るうことによって切り倒されたことばかりか、熊が持っているツキノワの刃物文様がそのまま熊自身に向けられたという意味である。鎌の刃の形の「D」字の偃月模様が、月の巡りで細長い横刀形に転化している(注11)にもかかわらず、いつものクマデ方式に使ってしまい、刃と峰とを誤って自ずから傷を負ったという頓智である。目には目を、歯には歯を、刃物には刃物を、によって、熊野の山の神は鎮静化された。
音声言語=話し言葉の書記化
記序に、「化レ熊出レ爪、天剣獲二於高倉一。」とある。上述の頓智話を要約するとこのような一行に収まり、意味合いを汲みとることはできない。潮干狩りのクマデ vs. 天の剣のみで理解できる人はいない。本文の話の展開について行けば、洒落のおもしろさが伝わってくる。洒落は解説されるものではなく、すとんと腑に落ちて悟るものである。熊野村に古墳(ツカ・ハカ)はあるかと考古学に問うことはおよそナンセンスである。クマノという言葉、ヲエという言葉、その音に反応しなければ、口伝えに伝えられた口承の文芸(?)、無文字文化の精髄は理解できようはずがない。科学的実証が不可能であるとする見解はたかだか近代に起った思想上の断片にすぎない。古事記が科学の対象たりうるのかもまた不明である。稗田阿礼の誦み習わしたお話(噺・咄・譚)である。口から放たれた言葉群、毎度おなじみのばかばかしいお笑いである。それが、太安万侶の工夫によって、meta-poetical prose style で筆記されている。古事記の書記は、ユネスコの推進したそれとは目的において真逆であったことに気づかなければならない(注12)。
万葉歌や記紀歌謡の源流について、どこか他所のところに求めようとする向きがあったり、記紀神話の内容と他民族の神話を比較しようとする研究が見られる。しかるに、歌も話も言葉でできている。ヤマトコトバが未だ文字を獲得していないとき、ないし、ようやく獲得しつつある飛鳥時代に、言葉の環境はどのようなものであったか。歌も話もすべてヤマトコトバに立脚して作られている。と同時に、それらによってヤマトコトバは作られている。作ることの返し合い、折り返しによって音声言語=話し言葉は保たれていた。律令、続紀の時代に支配者層では読み書き能力が広がるが、それ以前の段階で、読み書きのできない人の間に大陸からの翻案はわずかにならあったかも知れないが、今日当たり前になっているカタカナ語の氾濫現象のようなことは起こりにくい。大陸からの移住者が多数いたとしても征服王朝をうち建てた形跡はなく、同化していったようで、ヤマトコトバを揺るがすことはなかったと思われる。ピジン・クレオール語のような状況下にはなく、「言趣向け和」(記上)すことをもってヤマトの国は成り立ち続けている。
記紀の記述の字面に漢籍の引用が見られても、記述定式と口頭陳述とは別物である。それでは人々に通じないから歌謡を一音一字で表したり、宣命体にしたりしている。そしてまた、今日の人に意味不明の枕詞の意味は、当時の人々の間で共有されていたに違いあるまい。今とは別世界の言語としてヤマトコトバは存立していた。漢文訓読からいわゆる和訓なる語を作ったということは、まず先にヤマトコトバが確かにあったことを如実に表している。納得ずくでしか言葉を作っていない。そうしなければ互いに通じることがない場面が生じてしまう。音声言語としては明らかな欠陥であり、失格ということになる。話しかける相手はただ聞いている。識字能力のない人相手に筆談はあり得ず、図解しようにもせいぜい数えるときに縦線を並べ書いたり、使い捨てられる簡単な地図を描く程度であったろう。寺子屋も勧学院もなく、聖徳太子の講話や南淵請安の教授も口頭で行われたと推測される。したがって、「上代文学」なるものはヤマトコトバの作り返し合いの場であるということができる。上代言語世界そのものが上代文学ということになる。そのヤマトコトバがいつからあったかは知る由もないが、縄文時代にはあっただろう。すでに語族としての民族は成立していた。記紀万葉が描いているのはヤマトコトバの創世記に当たる。当たり前の話であるが、創世記は創世時点では記されない。他民族との接触から民族としての自覚が進み、自意識が芽生えた時、当該言語によって語られる。そのとき記されるようになった記紀万葉の研究は、ヤマトコトバというチャンネルそのものへのアプローチにかかっているのである。
(注)
(注1)本居宣長・古事記伝は、「髴」説について、「若シ然らば所見といふべきを、出とあれば然は非じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/483)といい、「從レ山」の二字を誤写したとする説をとっている。西郷2005.も趣旨は同じである。新校古事記は、「僅少であることの比喩と見れば「髪」のままでも意味は通じる。」(277頁)として「髪に」と訓んでおり、多田2020.も従っている。中村2009.は、「髪」をクサと訓んで「「草」に同じ。山の草本。」(91頁)と解している。
(注2)「爪」字を「川(巛)」や「山」に改変する注釈書が多い。
(注3)宮崎2008.参照。クマはトラと違って爪を出し入れすることはできない。
(注4)ここに登場している「大熊」は、今日、北海道に生息するヒグマ(羆)の話ではない。新撰字鏡に、「羆 彼宜反、平、畜也。志久万〉」、二十巻本和名抄に、「羆 爾雅集注に云はく、羆〈音は碑、和名は之久萬〉は熊に似て黄白にして、又、猛烈に多力にして能く樹木を抜く者なりといふ。」とある。
(注5)「D」字形によって説明したが、周知のとおり、柄に近い方の身幅はすぼまらない。
(注6)ヲユに「困」(顕宗前紀清寧二年十一月)字を用いていることからクマ→コマルという隠喩としての洒落を見ているが、明文化されていないので是非は不明である。
(注7)クマと付き合ってしまったから冬眠的な「倐忽為二遠延一、及御軍皆遠延而伏。」ことになっているが、その付き合い方には食べ物のことも関係する。クマの真似をして毒キノコを食べて「遠延而伏」ことになったということであろう。拙稿「高倉下(たかくらじ)とは誰か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c7bcc8f5c9eacb3d08451693f082fc2f参照。
(注8)神武紀では椎根津彦の話として載る。後文に、兄磯城を討伐する策略を立てたことなどが述べられている。
其の年の冬十月の丁巳の朔にして辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門に至ります。時に一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、招せて、因りて問ひて曰はく、「汝は誰そ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名を珍彦と曰す。曲浦に釣魚す。天神の子来でますと聞く。故、即ち迎へ奉る」とまをす。又問ひて曰はく、「汝能く我が為に導きつかまつらむや」とのたまふ。対へて曰さく、「導きたてまつらむ」とまをす。天皇、勅をもて漁人に椎㰏が末を授し執へしめて、皇舟に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦とす。椎、此には辞毗と云ふ。此即ち倭直部が始祖なり。(神武前紀甲寅年十月)
途中の「故」字は、兼右本にコトニと振られており、特に、ことさらに、の意と考えられている。しかし、一般に紀ではカレと訓み、前文が原因・理由で、それを承けて、だから~と下に接続することが多い。珍彦は渦彦の意とされており、本来、珍彦というにふさわしい尊貴な天神の子がお越しになったと耳にしたから、私めウヅヒコはウヅヒコが渦に巻かれないように、この曲浦では渦彦として対処するのが適当でしょうとお教えするためにすぐに参上してまいりました、と解したほうが自然な流れであろう。
(注9)今日の都市生活者たちが挨拶を交わさずにいることが常態化しているのは、動物史的に見て奇異なことであろう。
(注10)多田2020.は、「サヲネツヒコの名は、渡された棹を伝って船に引き入れたゆえの命名とあるが、そうではなく、むしろ棹を自在に操ることのできる呪能をいうのだろう。」(245頁)としている。多田氏の「私解」である。槁根津日子は「乗二亀甲一為レ釣乍打羽挙来人」であった。棹は持っていない。棹をさして漕いでいるのは「御船」側である。それに従うかと聞いて従うと答えたから「指二-渡槁機一、引二-入其御船一」ている。槁根津日子が自らの棹を使って入り込んできたとしたら、彼は海賊である。
(注11)月の形の意味合いの転換はさまざまに受け取られたと考えられる。月が尽きると卒わるが、新しい意味合いを加えればよみがえることと捉えられる。新しい月が生れる。その新しい意味合いを加えるための魔法使いの道具が、この件では「横刀」であった。新しい魂を入れることは、枕詞で言えば「あらたまの」であり、「月」に掛かる。改まるからアラタマノであるとともに、「熊野山の荒ぶる神」の荒魂、粗霊からアラタマノかも知れない。枕詞は数多くの連想を重ね合わせた言語遊戯である。記にはそもそも何月条といった表記はない。紀にこの話は載らない。展開においても、神武前紀戊午年六月条に一括されており、月は改まっていない。とはいえ、「瘁」字を選択的に用いてヲエと訓ませている。「卒ふ」こととの関係を表したものかも知れない。古典基礎語辞典の「解説」に、「ヲフのヲは「緒」、フは「経」の意に発し、機織りで糸がすべてなくなる意が原義か。」(1367頁、この項、白井清子)とある。ヲユことがヲフ、つまり、鎌の柄から横刀の柄に代わって再出発した。卒業とは出発でもあり、征服物語に戻ることができたと謂わんとしていると解釈することも可能である。
(注12)中村2014.に、「文字の歴史は、人類史上で最も古い文字体系と考えられているシュメールの楔形文字やエジプトの象形文字でも、5500年ほどさかのぼることができる(Crystal 1997)。この5500年ほどの期間は、音声言語=話し言葉の歴史が200万年以上と考えられているのに比べて比較にならないほど短い期間である。……国連教育機関(UNESCO)が行っている調査によれば、今日でもいわゆる機能的識字能力(functional literacy)――日常生活に必要な読み書き能力――を持っていない人々の割合は、世界人口のおよそ25パーセント程度と推定されている(Carr-Hill 2008)。このように考えてみると、人類の長い歴史を通じて、読み書き能力が広く普及して社会全体で共有されるようになったのは、極めて新しいごく最近の文化的現象であることが理解できる。つまり、読み書き能力は、極端に言えば、楽器を演奏したり、自転車を乗り回したりするのと同じく、学習・訓練などの後天的な経験によって獲得されるスキル=技術なのである。このような意味では、……楽器や自転車に合わせて脳ができているのではないのと同様に、文字に合わせて脳ができているのではなく、むしろ、人の知覚・運動能力などの体の仕組みに合わせて文字がデザインされてきた、と考える方がもっともらしい感じがしてくるのではないだろうか。」(28~29頁)とある。無文字社会に暮らす人々を認知心理科学の対象に加え、さらなる比較研究が望まれる。人類が文字を獲得することによって得たもの(いわゆる文明)と、失ったものが何であったかについてより深く想い起すことができるだろう。
(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
多田2020. 多田一臣『古事記私解Ⅰ』花鳥社、2020年。
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
中村2014. 中村仁洋「読み書き能力の脳内機構」苧阪直行編『小説を愉しむ脳』新曜社、2014年。
三矢1925. 三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』文学社、1925年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085
宮崎2008. 宮崎学『クマのすむ山』偕成社、2008年。
※本稿は、2015年6月稿を2021年7月に加筆、修正し、2024年10月にさらに加筆(特に当該文章が、「陵即在二紀国之竈山一也。」に続いて「故」で始まっている点を指摘した部分が新しい。)し、ルビ形式にしたものである。
神武記の熊野の件に、紀にはない大きな熊の話が載る。
故、神倭伊波礼毘古命[=神武天皇]、其地より廻り幸して、熊野村に到りし時、大熊、髪、出で入りて即ち失せぬ。爾くして、神倭伊波礼毘古命、倐忽に遠延為、及御軍皆遠延して伏しぬ。遠延の二字は音を以てす。此の時、熊野の高倉下 此は人の名そ。一の横刀を賷ちて、天つ神御子の伏せる地に到りて献りし時、天つ神御子、即ち寤め起きて、詔りたまはく、「長く寝ねつるかも」とのりたまひき。故、其の横刀を受け取りし時、其の熊野山の荒ぶる神、自づから皆切り仆さえき。爾くして、其の惑え伏せる御軍、悉く寤め起きき。(神武記)
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この話について、太安万侶はすでに序で触れている。
熊と化れるもの爪を出だして、天の剣、高倉に獲たまひき。(記序)
新編全集本古事記に、「熊が出てきたのは、ここが「熊野村」だからであろう。」(145頁)とある。原文は、諸本とも「大熊髪出入即失」とある。しかし、「髪」は「髣」の誤りと見て、あるいは「髪」字のままにホノカニと読むことが多く行われている。「大き熊、髣かに出で入りて、即ち失せき。」という訓は意味不明である(注1)。「出入」を人目につくところへの出入りと解釈することはできない。森から村へ出てきたら居り、村から森へ入ったら失せるはずのものである。「時大熊髣出即入失」とまで改変すべきなのか。あるいは、記序にある「爪」(注2)の話として、熊が威嚇してきたがすぐにいなくなったということか。しかし、「爪」と「髪」は違う。「爪」と関連しそうな点としては、文中にある「爲」字に冠としてあり、また、クマの爪は湾曲している。木登りや、針葉樹の樹皮の「クマはぎ」に用いている(注3)。我々はそれに似た道具を使う。潮干狩りに持っていくクマデである。話を要約していると思われる記序になぜか「爪」が持ち出されており、曲っていて利器となるものが印象づけられている。それを頭の片隅に置いて検討を進める。
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クマ(熊)は、新撰字鏡に、「熊 〈胡弓反、久万〉」、和名抄に、「熊 陸詞切韻に云はく、熊〈音は雄、久万〉は獣の羆に似て小さきなりといふ。」とある。いわゆるツキノワグマである(注4)。ツキノワグマは、胸に月の形をした白い紋がある。それ以外は黒い毛で覆われている。体のほぼすべてが髪の毛のような色である。暑いとすぐに水浴びし、全身シャンプーした後のような姿を見せる。すなわち、原文の「出入」しているものは「髪」であろう。ほぼ全身が「髪」であるけれど、ほとんど「髪」は「出」ているけれども、まれに「入」ることがある。それは、白い月の輪の部分にフォーカスが絞られるときである。その三日月形の白色は、刃物が光っているように見立てられる。そして、クマは、なわばりの見回り行動を行うため、人々の暮らす「村」、神倭伊波礼毘古命の目にとまるところで髪の毛に当たるほぼ全身の黒い毛を「出入」させ、次のところを見張るためにすぐに「失」せたということであろう。なわばりの端まで来て後ろ足立ちになって大きく伸びをしてはまた帰っていくという行動をとっている。「髪出入」には、黒白の毛色となわばり行動の二重の意味が込められている。動物園では常同行動として観察される。
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「為二遠延一」とは “do the ヲエ”
倐忽為二遠延一、及御軍皆遠延而伏。遠延二字以レ音。
分注をもってヲエと記されている。ヲユは下二段動詞で、毒気に当てられて意識がなくなったり、病気などに悩まされて衰弱することをいう。
時に神、毒気を吐き、人物咸に瘁えぬ。(神武前紀戊午年六月)
是より、信濃坂を度る者、多に神の気を得て瘼え臥せり。(景行紀四十年是歳)
而るを人に困事へ、牛馬を飼牧ふ。(顕宗前紀清寧二年十一月)
新撰字鏡に、「瘁」という字は「疩 辞酔反、染病」とある。また、和名抄には「瘼臥 日本紀私記に瘼臥〈乎江不世理、瘼の音は莫〉と云ふ。」とあり、その字は新撰字鏡に「瘼 莫各反、入、病也」とある。
新編全集本古事記には、「ヲユは、毒気に当てられて意識朦朧もうろうとなるの意。原文で仮名表記するのは、訓字表記の困難な語であるため。」(145頁)とある。紀では、相当する箇所に「瘁」字がためらわずに用いられている。訓字表記が困難との考えは当たらない。例えば、瘁の字を使った時、ヲユと終止形になったり、ヲユルと連体形になったりといった別音に読まれる可能性が出てくる。それを避け、ヲエと読ませたいからであろう。
原文にある「為(爲)」の字の使い方は、チンするなどといった例に見られるように、名詞を動詞化するものである。三矢1925.に、「為」字の用法として、「(イ)将欲に通ずる者……(ロ)所に通ふ者……(ハ)目的を表す動詞として用ゐたるもの……(ニ)被役の義……(ホ)使役の義」につづいて、「(ヘ)動詞の補助語尾的に用ゐたるもの」という項目を立て、例をあげている。(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085/55~58、漢字の旧字体は改め、句読点などは適宜変えた)
……須勢理毘売命、甚為二嫉妬一。(記上)
……神倭伊波礼毘古命、倐忽為二遠延一、……(神武記)
……枕二其后之御膝一、為二御寝一坐也。(垂仁記)
……答曰、既為二泥疑一也。(景行記)
……詔、為レ易レ刀。(景行記)
そして、「此等の「為」の字は、為無くても通ずべき中に、「遠延[をえ]」「泥疑[ねぎ]」など仮字がきなるは、語尾を書かざるより、其の動詞なるを明にする為には「為」の字を添ふる必要あり。「為嫉妬」は「性甚嫉妬」など書けば可なるも、国語には「モノネタミ」など名詞に云へば、其の語法より「為」を独立動詞に用ゐたるなるべく、「御寝」は、漢文にて動詞になれども、「ミネ」といへば名詞なるより、之を動詞にして下の「坐」に続けむとて「為」の字を加へたるなるべし。」(87頁)と解説している。さらに記に例を見る。
「然者、吾与汝、行二-廻-逢是天之御柱一而、為二美斗能麻具波比一。」(記上)
「悔哉、不二速来一、吾者為二黄泉戸喫一。……」(記上)
……為二神懸一而、掛二-出胸乳一、裳緒忍二-垂於番登二也。(記上)
……其女須勢理毘売出見、為二目合一而、相婚。(記上)
故、其夜者不レ合而、明日夜為二御合一也。(記上)
如レ此歌、即為二宇伎由比一而、……(記上)
爾、少女答曰、「吾勿レ言。唯為二詠歌一耳。」(崇神記)
故、今聞二高往鵠之音一、始為二阿藝登比一。(垂仁記)
爾、為二言挙一而詔、……(景行記)
「……亦、山河之物悉備設、為二宇礼豆玖一」、……(応神記)
ミトノマグハヒ、ウケユヒ、アギトヒ、ウレヅクなどと仮名書きの例が多い。
五番目の例では、前者の「合」は動詞、後者の「御合」は名詞である。すなわち、Therefore he didn’t have sex with her last night, and he did the sex tonight. と言っているようである。他の例でも、do “the ……”の形(the 嫉妬、the ヲエ、the 御寝、the ネギ、the 易刀、the ミトノマグハヒ、the 黄泉戸喫、the 神懸、the 目合、the ウケユヒ、the 詠歌、the アギトヒ、the 言挙、the ウレヅク)を「為」ると言いたいらしい。尋常ではない特別な程度の何事かをしている。
この do the ……の形として、動名詞的に使われる例は、「為レ楽」(記上)、「為レ漁」(記上)、「為レ釣」(神武記)、「為レ儛」(雄略記)、「為二名告一」(雄略記)、「為レ詠」(清寧記)なども挙げられよう。ただ、どこまでが動名詞か、補助動詞かといった峻別は難しく、そもそもが倭習なので不明瞭である。「釣る」と「釣りす」に別があるのは、上記の「為」のようないわば格調高い意味合いを持たせる意図からか、ツルという語が fishing に限られたものではないこととも関係があるのかも知れない。いずれにせよ、三矢氏の「(ヘ)動詞の補助語尾的に用ゐたるもの」は、むしろ、「為」の後に来る動名詞の意味合いを強調する点にこそ注目すべき語法といえよう。
神武記に「為二遠延一」とあって、訓注で「遠延二字以レ音」とまで断られてあるのは、太安万侶にとって、ヲエ(woye)という音が必須だから、そのように着実に訓ませたいがために行われた記述法である。筆者は、ここに、ヲとエ(ヤ行のエ)にまつわる洒落を見出す。
造成地クマノはツカ・ハカであることとヲ・エの関係
設定は熊野村である。クマノ(ノは甲類)という場所は、飛鳥時代において、クマという形状の野のようなところをいうと解され、捉えられていたのであろう。語源ではなく、語感においてである。新撰字鏡に、「堓 豆衣・居移二反、曲岸也。久万、又太乎利、又宇太乎利」とある。他との境界にあって、奥まった場所のことで、見えにくくなっているところをいう。道や川などが屈曲しているところ、曲り角のところである。「河隈〔箇波区莽〕」(仁徳紀三十年九月、紀53歌謡)、「道の隈〔道隈〕」(万17)などとある。ほとんど直角に曲っているから先が見えなくなる。一方、野という語は周囲よりも少し高いところで水がかりが悪い場所をいう。小高くて直角に曲っているような野とは何か。自然界は風化、浸食が進んでしまっているから、計画的、人工的に造らない限りなかなか出現しない。そのような特殊な地形として見られるものを我々は知っている。古墳である。方墳や、前方後円墳の前方墳部は「曲野」と呼ぶに値する。
考古学用語に使われる古墳は、ヤマトコトバでは塚、または墓である。白川1995.は、「つか〔冢・塚(塚)〕 土を小さくもりあげて死者を葬るところ。動詞の「築く」の名詞形である。「はか」は墓所としての意に重点があり、「つか」はその形状を主とする語である。墓を「つか」とよむこともあり、同義語である。」(500頁)とする。新撰字鏡に、「壟 力勇力隴二反、上、地之□山高大□也、塚也。豆加也」、和名抄に、「墳墓 周礼注に云はく、墓〈莫故反、暮と同じ、豆賀〉は塚塋の地なりといふ。広雅に云はく、塚塋〈寵営の二音〉は葬地なりといふ。方言に云はく、墳〈扶云反〉、壟〈力腫反〉は並に塚の名なりといふ。」とある。俎上にあがっているヲエなる語のヲについて、ツカのことから連想すると、大刀の緒のことが思いつく。ツカは大刀の握り手部分、柄である。白川1995.に、「つか〔束・拳〕 手の指を握ったときの、四本の指のはばを「つか」という。「つかむ」「つかぬ」は、その動詞形である。それを単位として長さをはかり、八拳・十握のようにいう。また束ねて一括りとしたものを、十把一束のように助数詞に用いる。手で握ることから、剣の柄のところも柄という。短いところであるから、時に移して「つかのあひだ」、また「つかのま」という。」(500頁)とある。記に「横刀」と用字されている。大刀を佩く様子は、下げ緒をもって腰の左側で横方向へ帯び延びて行っていた。横刀の柄を掴むのは右手である。切れ味の鋭い刃によって敵に致命傷を負わせることができる。左手は、鯉口を切ったり、抜刀に当たって鞘を握ったりする。
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一方、柄は本来、エ(ye)と訓む。クマなるもの、曲れるものを念頭にして野の草を刈るのなら、同じく鉄製の刃物である草刈り鎌のことが思い浮かぶ。草を根本から刈り取る際に効率がいい。移動の際は柄を腰帯の背中側に指して行った。刃は、切れ味もさることながら耐久性も求められる。石ころなどにぶつかったとしても刃が欠けないことが重要である。そして、刃に対して直角に備わる柄によって梃子の原理が働き、力が入り使いやすい。曲れる刃物である。横刀、小刀等の形状のものでは、柔弱な草を刈るには対象物が逃げていって使いづらい。刃に食まないからである。仕事が捗らない。ハカとは、埋葬場所のほか、仕事量の単位をいう語でもある。古典基礎語辞典の「はか【計・量・果】」の項の「解説」に、「ここまでと割り当てた労働の量。ハカは、ハカル(計る)・ハカナシ(果無し)・ハカバカシ(果果し)などの語根。ハカルは、分量を確かめること。ハカリ(計り)は、そのための見当や道具。ハカナシは、目当てとする確かなもののないさま。ハカバカシは、仕事の進行の目当てとする量が進む感じをいう。」(964頁、この項、依田瑞穂)とある。草刈り作業は、一般の右利き用の鎌であれば、左手で草の束を掴み、右手でハカを取っている。横刀とは「ツカ」が左右逆になる。そのうえ、「D」字のカーブする部分について、古代の平造形式の横刀ではカーブしている「 )」側が刃になっているが、鎌ではそれとは反対の「|」側が刃になっている(注5)。同じ鉄製の刃物の把手でも、横刀の場合はツカ、鎌の場合はエである。ツカ、ハカ両語は、墳墓と計量の両義がある言葉として対称関係に立っているわけである。築いて造った古墳に草がぼうぼうに生えてしまい、鎌の登場をお願いしたくなる理由はよくわかる。植生の遷移は、大略、造成地(裸地)→草原→陽樹林→陰樹林である。
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この場面でハカという語がクローズアップされているのは、その直前の文章からの展開である。五瀬命は登美毘古と白肩津で戦ったとき、矢を受けて傷つき、日の御子は日に向かって戦うことは良くないからと南の熊野方面へ迂回することになった。しかし、途中で矢傷がもとで亡くなってしまった。そこでハカを作っている。
陵は、即ち紀国の竈山に在り。(神武記)
この文章の後に、冒頭にあげた熊野での大熊との遭遇の話になっている。「故、神倭伊波礼毘古命、従二其地一廻幸、到二熊野村一之時、大熊……」と続くのである。「故」という語は、原因、理由を承けて、だから〜と下に接続する。陵の話だから、ハカの話へと矛盾なくつながるのである。
太安万侶はヲエという語の音にこだわっている。稗田阿礼の語る鉄製品刃物の意味合いの洒落を正確に伝えたかったからということがわかる。神倭伊波礼毘古命方は征服が目的だから横刀としての機能を表したい。それを象徴するのは横刀のヲ(緒)である。ところが、熊野の荒ぶる土着神「大熊」は、その意味をエ(柄)に転化しかねない輩であった。それは、クマノ(ノは甲類)という言葉、その音に発端してすべての由来になっている。征服物語が草刈り譚に成りかけている。古墳の被葬者の立場に転じかねない。敗者に対して古墳は作られないという見方ではなく、自ら墓穴を掘るといった体のことである。墳丘上に一斉に生えた雑草を刈る仕事にまさにかり出され、疲れ切ってしまった。すなわち、月の輪印に象徴される鎌としての機能、エ(柄)が浮かび上がってきている。おかげで、ヲ→エさせられることとなった。登場人物も困るが、話者としても困ったことになっている。鎌なす熊には困ったものである。母音交替にて連携している(注6)。
罷ることと曲ること
ツキノワグマはクマ科の哺乳類で、体長は150cm程度になる。胸に三日月形の白斑が顕著に見られる。大きい体をしてグワーオと大きな恐い声を立てるが、元来、人を食べるために襲うことはない。木の実、葉、根、果物、どんぐり、ハチミツ、ハチノコ、昆虫、サナギ、魚などを好み、木にも上手に登って食べている。雑食性で、ホッキョクグマのような肉食獣ではない。人と遭遇したとき、ツキノワグマのほうが危害を加えられると感じ、威圧してきて戦いに臨んでくることがある。その示威行為が、「大熊髪出入即失」ということであろう。獣道を作ることとは、鎌をもって草を刈って来ることと同じであるという理屈である。そして、冬眠することもよく知られる。ツキノワグマに付き合っていると、神倭伊波礼毘古命軍も冬眠ということになる(注7)。
支配者の意向に従って出入りすることは、古語に「罷る」という。お言いつけによりまして罷り参じました、といった使い方は今日に残る。行く、来る、の謙譲語である。行ったり来たりする行為の主体が、命令者の下位に位置することを示している。熊野村の大熊は、神倭伊波礼毘古命軍に対して戦闘を仕掛けてきたわけではない。「出入」という不思議なパフォーマンスをしたにすぎない。神倭伊波礼毘古命軍は、少し前、瀬戸内海を進む時に、「槁根津日子」に遇っている(注8)。
故、其の国より上り幸しし時に、亀の甲に乗りて釣を為つつ打ち羽挙り来る人、速吸門に遇ふ。爾くして、喚び帰せて問はく、「汝は誰そ」ととふに、答へて曰はく、「僕は国つ神ぞ」といふ。又、問はく、「汝は海道を知れりや」ととふに、答へて曰はく、「能く知れり」といふ。又、問はく、「従ひて仕へ奉らむや」ととふに、答へて白さく、「仕へ奉らむ」とまをす。故、爾くして、槁機を指し渡し、其の御船に引き入れて、即ち名を賜ひて槁根津日子と号く。此は、倭国造等が祖ぞ。(神武記)
敵か味方かわからないとき、問答をして確かめることをする。記紀の伝承は口伝えの言い伝えである。言い伝えるということは話すことが前提条件である。話の内容も、話すという状況設定から始まっていると考えてよい。言葉を口に出して話すことによって話が始まる。話すことをしなければお話にならないのである(注9)。ところが、熊野村にさしかかった時、「大熊」はグワーオと吠え鳴いていた。話をしようにも恐くて話しかけることができない。問答せぬまま「即失」となった。わからず仕舞いである。槁根津日子も当初は得体が知れなかった。それでも奇妙な海の民と話し合うことができた。そして、「仕奉」ことを認め、言いつけどおりに船に引き入れて神倭伊波礼毘古命に仕えた(注10)。そして、海路の進軍が終わって用が済んだら、言いつけどおりに退出したのだろう。つまり、罷ることをした。
他方、「大熊」は、言いつけに従う従わないの意思を示さないまま「出入」したのである。その特徴は、胸の三日月形をした刃物様の白紋である。それ以外は、すべて真黒い「髪」の毛をしていた。すなわち、「大熊」のした「髪出入」とは、マカル(罷)ではなくマガル(曲)ことに値した。クマ(隈・曲・阿・堓)の意に符合している。罷という字と羆という字はよく似ている。羆ではなく熊であることは、曲ることとしてより深く理解される。羆の罒(网)は見えないことを表す。ヤマトの人にとって、ヒグマは皮は目にするが、生きているところを実見することはない。斉明紀四年条に、「是歳、越国守阿部引田臣比羅夫、粛慎を討ちて、生羆二つ・羆皮七十枚献る。」とあり、おそらく檻に入れられるなどして二頭連れて来られ、初めて目にして驚いた次第である。一方、ツキノワグマは、隈にいるとの洒落が常々行われていたとすれば、見え隠れしつつも見ることがあり、曲るところにいる曲れるものとの認識があったことだろう。曲ることは、「「まが」[=まがごと(禍言・禍事)]と同根で、正・直に対して不正・勾曲の意があり、邪曲のことをいう。」(白川1995.692頁)のである。困ったものに出たり入ったりされている。この洒落の成立の正当性は、鎌や横刀の素材がマカネ(鉄)である点、そして、その両者がこんがらがって見間違えていること、すなわち、マガフ(紛・乱)ことになっていることからも確かめられる。
神倭伊波礼毘古命の一行が、「遠延而伏」してしまったのは、この弓なりに曲った刃物に恐れをなし、あるいは、そのような形の刃物は大きな鎌のことだから刈られて薙ぎ倒されたこと、ないしは、一緒に冬眠する羽目になってしまったこと、または、耳元で大声をあげられて鼓膜が破れてしまったことを表す。ツキノワグマは木の洞や山の穴などに籠る。毒気に当てられたという意味には、精神的に引っ掛けられたということでもある。ツキノワグマの論理に翻弄されている。鎌の形が印のツキノワグマとは、グワーオと大きな声を立ててうるさい連中であるが、冬には勢いが衰えて穴に籠る。まさに、「あなかま」な奴らである。「囂」という語は、「あなかま」(ああ、うるさい)という口語慣用句として語幹のみで用いられる。まわりでうるさくされると、悩まされ、うんざりして、嫌になって、布団にくるまって寝てしまいたくなるものである。
寺島良安・和漢三才図会の熊の項に、「按ずるに、熊は深山の中に在り松前に出づる者最も多し。全体黒くして胸の上に白毛有りて偃月の如し。俗に月の輪と称す。常に手を以て之れを掩ふ。猟人、其の月の輪を窺ひ之れを刺せば則ち斃れ、若し然らずんば則ち刀鎗を挫く。其の強勢敵ふ可からざるなり。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569722/15を訓読)とある。ツキノワグマというのだから、いつまで寝ていたかと問われれば、月(キは乙類)が尽き(キは乙類)るまでである。月(moon)が尽きて、その月(month)、二月なら二月が終わる、ということである。復活する時、「詔『長寝乎』」とある「長」は、一カ月寝ていたことを示すものと思われる。動物のツキノワグマの冬眠(冬ごもり)は、一般に一カ月では済まないが、餌の有無によって期間は変わる。動物園で餌を与え続けた個体は冬眠せず、一年中見学することができる。古代においても、クマの生態に関する知識の上に、神倭伊波礼毘古命の一行がツキノワグマの「強勢」に力尽きることに加え、月が尽きることとして話が成立している。
そこへ、熊野の高倉下が横刀を神倭伊波礼毘古命に献上して、熊野の山の荒ぶる神は「自皆為二切仆一」れている。「自」とは、横刀を高倉下が振るうことによって切り倒されたことばかりか、熊が持っているツキノワの刃物文様がそのまま熊自身に向けられたという意味である。鎌の刃の形の「D」字の偃月模様が、月の巡りで細長い横刀形に転化している(注11)にもかかわらず、いつものクマデ方式に使ってしまい、刃と峰とを誤って自ずから傷を負ったという頓智である。目には目を、歯には歯を、刃物には刃物を、によって、熊野の山の神は鎮静化された。
音声言語=話し言葉の書記化
記序に、「化レ熊出レ爪、天剣獲二於高倉一。」とある。上述の頓智話を要約するとこのような一行に収まり、意味合いを汲みとることはできない。潮干狩りのクマデ vs. 天の剣のみで理解できる人はいない。本文の話の展開について行けば、洒落のおもしろさが伝わってくる。洒落は解説されるものではなく、すとんと腑に落ちて悟るものである。熊野村に古墳(ツカ・ハカ)はあるかと考古学に問うことはおよそナンセンスである。クマノという言葉、ヲエという言葉、その音に反応しなければ、口伝えに伝えられた口承の文芸(?)、無文字文化の精髄は理解できようはずがない。科学的実証が不可能であるとする見解はたかだか近代に起った思想上の断片にすぎない。古事記が科学の対象たりうるのかもまた不明である。稗田阿礼の誦み習わしたお話(噺・咄・譚)である。口から放たれた言葉群、毎度おなじみのばかばかしいお笑いである。それが、太安万侶の工夫によって、meta-poetical prose style で筆記されている。古事記の書記は、ユネスコの推進したそれとは目的において真逆であったことに気づかなければならない(注12)。
万葉歌や記紀歌謡の源流について、どこか他所のところに求めようとする向きがあったり、記紀神話の内容と他民族の神話を比較しようとする研究が見られる。しかるに、歌も話も言葉でできている。ヤマトコトバが未だ文字を獲得していないとき、ないし、ようやく獲得しつつある飛鳥時代に、言葉の環境はどのようなものであったか。歌も話もすべてヤマトコトバに立脚して作られている。と同時に、それらによってヤマトコトバは作られている。作ることの返し合い、折り返しによって音声言語=話し言葉は保たれていた。律令、続紀の時代に支配者層では読み書き能力が広がるが、それ以前の段階で、読み書きのできない人の間に大陸からの翻案はわずかにならあったかも知れないが、今日当たり前になっているカタカナ語の氾濫現象のようなことは起こりにくい。大陸からの移住者が多数いたとしても征服王朝をうち建てた形跡はなく、同化していったようで、ヤマトコトバを揺るがすことはなかったと思われる。ピジン・クレオール語のような状況下にはなく、「言趣向け和」(記上)すことをもってヤマトの国は成り立ち続けている。
記紀の記述の字面に漢籍の引用が見られても、記述定式と口頭陳述とは別物である。それでは人々に通じないから歌謡を一音一字で表したり、宣命体にしたりしている。そしてまた、今日の人に意味不明の枕詞の意味は、当時の人々の間で共有されていたに違いあるまい。今とは別世界の言語としてヤマトコトバは存立していた。漢文訓読からいわゆる和訓なる語を作ったということは、まず先にヤマトコトバが確かにあったことを如実に表している。納得ずくでしか言葉を作っていない。そうしなければ互いに通じることがない場面が生じてしまう。音声言語としては明らかな欠陥であり、失格ということになる。話しかける相手はただ聞いている。識字能力のない人相手に筆談はあり得ず、図解しようにもせいぜい数えるときに縦線を並べ書いたり、使い捨てられる簡単な地図を描く程度であったろう。寺子屋も勧学院もなく、聖徳太子の講話や南淵請安の教授も口頭で行われたと推測される。したがって、「上代文学」なるものはヤマトコトバの作り返し合いの場であるということができる。上代言語世界そのものが上代文学ということになる。そのヤマトコトバがいつからあったかは知る由もないが、縄文時代にはあっただろう。すでに語族としての民族は成立していた。記紀万葉が描いているのはヤマトコトバの創世記に当たる。当たり前の話であるが、創世記は創世時点では記されない。他民族との接触から民族としての自覚が進み、自意識が芽生えた時、当該言語によって語られる。そのとき記されるようになった記紀万葉の研究は、ヤマトコトバというチャンネルそのものへのアプローチにかかっているのである。
(注)
(注1)本居宣長・古事記伝は、「髴」説について、「若シ然らば所見といふべきを、出とあれば然は非じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/483)といい、「從レ山」の二字を誤写したとする説をとっている。西郷2005.も趣旨は同じである。新校古事記は、「僅少であることの比喩と見れば「髪」のままでも意味は通じる。」(277頁)として「髪に」と訓んでおり、多田2020.も従っている。中村2009.は、「髪」をクサと訓んで「「草」に同じ。山の草本。」(91頁)と解している。
(注2)「爪」字を「川(巛)」や「山」に改変する注釈書が多い。
(注3)宮崎2008.参照。クマはトラと違って爪を出し入れすることはできない。
(注4)ここに登場している「大熊」は、今日、北海道に生息するヒグマ(羆)の話ではない。新撰字鏡に、「羆 彼宜反、平、畜也。志久万〉」、二十巻本和名抄に、「羆 爾雅集注に云はく、羆〈音は碑、和名は之久萬〉は熊に似て黄白にして、又、猛烈に多力にして能く樹木を抜く者なりといふ。」とある。
(注5)「D」字形によって説明したが、周知のとおり、柄に近い方の身幅はすぼまらない。
(注6)ヲユに「困」(顕宗前紀清寧二年十一月)字を用いていることからクマ→コマルという隠喩としての洒落を見ているが、明文化されていないので是非は不明である。
(注7)クマと付き合ってしまったから冬眠的な「倐忽為二遠延一、及御軍皆遠延而伏。」ことになっているが、その付き合い方には食べ物のことも関係する。クマの真似をして毒キノコを食べて「遠延而伏」ことになったということであろう。拙稿「高倉下(たかくらじ)とは誰か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/c7bcc8f5c9eacb3d08451693f082fc2f参照。
(注8)神武紀では椎根津彦の話として載る。後文に、兄磯城を討伐する策略を立てたことなどが述べられている。
其の年の冬十月の丁巳の朔にして辛酉に、天皇、親ら諸の皇子・舟師を帥ゐて東を征ちたまふ。速吸之門に至ります。時に一の漁人有りて、艇に乗りて至れり。天皇、招せて、因りて問ひて曰はく、「汝は誰そ」とのたまふ。対へて曰さく、「臣は是国神なり。名を珍彦と曰す。曲浦に釣魚す。天神の子来でますと聞く。故、即ち迎へ奉る」とまをす。又問ひて曰はく、「汝能く我が為に導きつかまつらむや」とのたまふ。対へて曰さく、「導きたてまつらむ」とまをす。天皇、勅をもて漁人に椎㰏が末を授し執へしめて、皇舟に牽き納れて、海導者とす。乃ち特に名を賜ひて、椎根津彦とす。椎、此には辞毗と云ふ。此即ち倭直部が始祖なり。(神武前紀甲寅年十月)
途中の「故」字は、兼右本にコトニと振られており、特に、ことさらに、の意と考えられている。しかし、一般に紀ではカレと訓み、前文が原因・理由で、それを承けて、だから~と下に接続することが多い。珍彦は渦彦の意とされており、本来、珍彦というにふさわしい尊貴な天神の子がお越しになったと耳にしたから、私めウヅヒコはウヅヒコが渦に巻かれないように、この曲浦では渦彦として対処するのが適当でしょうとお教えするためにすぐに参上してまいりました、と解したほうが自然な流れであろう。
(注9)今日の都市生活者たちが挨拶を交わさずにいることが常態化しているのは、動物史的に見て奇異なことであろう。
(注10)多田2020.は、「サヲネツヒコの名は、渡された棹を伝って船に引き入れたゆえの命名とあるが、そうではなく、むしろ棹を自在に操ることのできる呪能をいうのだろう。」(245頁)としている。多田氏の「私解」である。槁根津日子は「乗二亀甲一為レ釣乍打羽挙来人」であった。棹は持っていない。棹をさして漕いでいるのは「御船」側である。それに従うかと聞いて従うと答えたから「指二-渡槁機一、引二-入其御船一」ている。槁根津日子が自らの棹を使って入り込んできたとしたら、彼は海賊である。
(注11)月の形の意味合いの転換はさまざまに受け取られたと考えられる。月が尽きると卒わるが、新しい意味合いを加えればよみがえることと捉えられる。新しい月が生れる。その新しい意味合いを加えるための魔法使いの道具が、この件では「横刀」であった。新しい魂を入れることは、枕詞で言えば「あらたまの」であり、「月」に掛かる。改まるからアラタマノであるとともに、「熊野山の荒ぶる神」の荒魂、粗霊からアラタマノかも知れない。枕詞は数多くの連想を重ね合わせた言語遊戯である。記にはそもそも何月条といった表記はない。紀にこの話は載らない。展開においても、神武前紀戊午年六月条に一括されており、月は改まっていない。とはいえ、「瘁」字を選択的に用いてヲエと訓ませている。「卒ふ」こととの関係を表したものかも知れない。古典基礎語辞典の「解説」に、「ヲフのヲは「緒」、フは「経」の意に発し、機織りで糸がすべてなくなる意が原義か。」(1367頁、この項、白井清子)とある。ヲユことがヲフ、つまり、鎌の柄から横刀の柄に代わって再出発した。卒業とは出発でもあり、征服物語に戻ることができたと謂わんとしていると解釈することも可能である。
(注12)中村2014.に、「文字の歴史は、人類史上で最も古い文字体系と考えられているシュメールの楔形文字やエジプトの象形文字でも、5500年ほどさかのぼることができる(Crystal 1997)。この5500年ほどの期間は、音声言語=話し言葉の歴史が200万年以上と考えられているのに比べて比較にならないほど短い期間である。……国連教育機関(UNESCO)が行っている調査によれば、今日でもいわゆる機能的識字能力(functional literacy)――日常生活に必要な読み書き能力――を持っていない人々の割合は、世界人口のおよそ25パーセント程度と推定されている(Carr-Hill 2008)。このように考えてみると、人類の長い歴史を通じて、読み書き能力が広く普及して社会全体で共有されるようになったのは、極めて新しいごく最近の文化的現象であることが理解できる。つまり、読み書き能力は、極端に言えば、楽器を演奏したり、自転車を乗り回したりするのと同じく、学習・訓練などの後天的な経験によって獲得されるスキル=技術なのである。このような意味では、……楽器や自転車に合わせて脳ができているのではないのと同様に、文字に合わせて脳ができているのではなく、むしろ、人の知覚・運動能力などの体の仕組みに合わせて文字がデザインされてきた、と考える方がもっともらしい感じがしてくるのではないだろうか。」(28~29頁)とある。無文字社会に暮らす人々を認知心理科学の対象に加え、さらなる比較研究が望まれる。人類が文字を獲得することによって得たもの(いわゆる文明)と、失ったものが何であったかについてより深く想い起すことができるだろう。
(引用・参考文献)
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
西郷2005. 西郷信綱『古事記注釈 第五巻』筑摩書房(ちくま学芸文庫)、2005年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
多田2020. 多田一臣『古事記私解Ⅰ』花鳥社、2020年。
中村2009. 中村啓信『新版古事記 現代語訳付き』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、平成21年。
中村2014. 中村仁洋「読み書き能力の脳内機構」苧阪直行編『小説を愉しむ脳』新曜社、2014年。
三矢1925. 三矢重松『古事記に於ける特殊なる訓法の研究』文学社、1925年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1870085
宮崎2008. 宮崎学『クマのすむ山』偕成社、2008年。
※本稿は、2015年6月稿を2021年7月に加筆、修正し、2024年10月にさらに加筆(特に当該文章が、「陵即在二紀国之竈山一也。」に続いて「故」で始まっている点を指摘した部分が新しい。)し、ルビ形式にしたものである。