万葉集巻六の山部赤人の吉野での作歌は、いわゆる「吉野讃歌」(注1)として捉えられている。
山部宿禰赤人の作る歌二首 并せて短歌
やすみしし わご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠り 川次の 清き河内そ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いやますますに この川の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ(万923)
反歌二首
み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも(万924)
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥数鳴く(万925)
やすみしし わご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝猟に 鹿猪踏み起し 夕狩に 鳥踏み立て 馬並めて 御猟そ立たす 春の茂野に(万926)
反歌一首
あしひきの 山にも野にも 御猟人 得物矢手挟み 騒きてあり見ゆ(万927)
右は先後を審かにせず。但便を以ての故に此の次に載す。
山部宿祢赤人作謌二首并短歌
八隅知之和期大王乃高知為芳野宮者立名附青垣隠河次乃清河内曽春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之弥益々尓此河之絶事無百石木能大宮人者常将通
反謌二首
三吉野乃象山際乃木末尓波幾許毛散和口鳥之聲可聞
烏玉之夜之深去者久木生留清河原尓知鳥數鳴
安見知之和期大王波見吉野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射目立渡朝獦
尓十六履起之夕狩尓十里蹋立馬並而御獦曽立為春之茂野尓
反謌一首
足引之山毛野毛御獦人得物矢手挟散動而有所見
右不審先後但以便故載於此次
万923番の長歌は、柿本人麻呂の「吉野宮に幸す時、柿本人麻呂の作る歌」(万36~39)と非常によく似ていると言われている。山部赤人には、「八年丙子の夏六月、吉野の離宮に幸す時に、山部宿禰赤人の、詔に応へて作る歌一首 并せて短歌」(万1005~1006)があり、それも人麻呂の歌によく似ている。「応レ詔」とある場合、常套句を並べて追従を述べることは考えられることである。また、万923番歌の前に記載の笠金村の歌、「神亀二年乙丑の夏五月、芳野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首 并せて短歌」(万920~922)にも似ている。万927番歌の左注に、「以レ便故載二於此次一」とある「此」は笠金村の歌のことを言っている。「右不レ審二先後一」とあるのは、万923~925番歌と万926~927番歌のどちらが先だったかわからないという意味である。そして、万923番歌が笠金村の歌に似ているから、それを便りとしてこのような順次で載せるとしている(注2)。「此次」とある「次」字は歌句中に見える。「河次」である。
このカハナミという語が理解されていない。万926番歌に、ウマナメテ(馬並めて〔馬並而〕)とあるのに対比されよう。馬を並べるとは馬を縦列させて連なることではなく、横列に並ぶことである。そのままカハナミに当てはめればわかるように、川が何本も並行して流れていることを言っている。
…… 国はしも 多にあれども 里はしも 多にあれども 山並の 宜しき国と 川次の 立ち合ふ郷と ……(万1050)
東京でいえば、江戸川、中川、荒川、隅田川はその関係にある。もちろん、山部赤人は叙景の歌を歌っているわけではない。なぜなら、柿本人麻呂や笠金村の歌に似すぎているからである(注3)。「応レ詔作歌」でもない。なのにそれほどまで踏襲した歌を歌う理由としては、パロディである可能性がある(注4)。そう考えてみれば至極簡単なことに気づかされる。「川」という字である。縦のラインが横に三本並んでいる。そういう状態を謂わんとして、カハナミという語を使っているのであろうと直感させられる。
万926番の長歌とその反歌、万927番の短歌の関係はよくわかる。「馬並めて」の狩りの歌が展開して行っている(注5)。反して、万923番の長歌とその反歌、万924・925番の短歌の関係はよくわからない。「川次の」の歌が展開して鳥の歌になっている(注6)。筆者は、カハナミは縦に線を刻むことであると考えている。すなわち、数えることである。
水の上に 数書く如き 吾が命 妹に逢はむと 祈誓つるかも(万2433)
数を数えるときには地面に線をつけたり、木簡などの上に墨で書いたりした。それ以外には、数取りのために棒や串などを用いる方法もある。物一個一個に合わせて棒を置いていって一対一対応させて数えた。数が多くなる時には別の置き方をするが、基本的には線を刻むのと同じで最初に棒を縦に向けて置き、それと平行に置いていく。「川」という字になるようにしていくわけである。この数取りのための棒のことを籌、また、籌木という。
…… 山とつもれる しきたへの 枕の塵も ひとりねの 数にしとらば 尽きぬべし ……(蜻蛉日記・上)
あしたづの 齢しあらば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてむ(紫式部日記10歌)
冬の御扇を数にとりて、一百遍づつぞ念じ申させ給ける。(大鏡・道長下)
合籌壱具〈木叉〉(大安寺伽藍縁起并流記資財帳、天平一九年(747)二月十一日)
芳春烟草早朝晴 使客乗レ興出二前庭一 廻杖飛レ空疑二初月一 奔毬転レ地似二流星一 左擬右承当門競 分行群踏虬雷声 大呼伐レ皷催レ籌急 観者猶嫌都易レ成(経国集巻十一、太上天皇・七言 早春観二打毬一〈使三渤海客奏二此楽一〉一首)
細長い串状の棒である。木簡を割ったような形である。それは別の目的にも用いられた。投壺の矢に用いられている。和名抄に、「投壺 投壺経に云はく、投壺〈内典に豆保宇知と云ひ、一に都保奈介と云ふ〉は古礼なり、壺の長さ一尺二寸二分、籌の長さ一尺二寸といふ。〈籌は即ち投壺の矢の名なり、同経に見ゆ〉」とある。そしてまた、大便を拭うための糞箆としても使われている。藤原京跡、平城宮跡からも出土している。ところで、便所はどこにあったか。言葉はきちんと伝えてくれている。厠と呼ばれているように川で用を足していた。水洗便所である。ここに、カハナミという語の巧みさが見て取れよう。赤人は籌木の歌を歌っているのである。数取りの棒だから、カハナミの長歌に対してトリ(取、鳥)の短歌が并さっている(注7)。
又大門ノワキノ河屋ノシドケナキ、モタイナキコト也。籌ノヒシトチリタル、ミグルシキ事也。(高弁述・却癈忘記・上)
屙ノ後籌ヲ使ヒ、アルヒハ紙ヲ使フ。ソノノチ水辺ニイタリテ洗浄スル。……厠籌ヲモテ地面ヲ劃スルコトナカレ。屙屎退後、スヘカラク使籌スヘシ。マタカミヲモチヰル法アリ。故紙ヲモチヰルヘカラス。字ヲカキタラン紙モチヰルヘカラス。浄籌触籌ワキマフヘシ。籌ハナカサ八寸ニツクリテ三角ナリ。フトサハ手ノ拇指ノ大ナリ。漆ニテヌレルモアリ、未漆ナルモアリ。触ハ籌斗ニナケオキ、浄ハモトヨリ籌架ニアリ。籌架ハ槽ノマヘノ版頭ノホトリニオケリ。使籌・使紙ノノチ、洗浄スル法ハ、……(道元・正法眼蔵・洗浄)
籌木の使用法(「歴史の風~福岡文化財だより~」Vol.29 2020年10月号、https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/news/detail/280)
み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも(万924)
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥数鳴く(万925)
エレファントのことを「象」とヤマトコトバに言ったのは、その牙に木目模様(橒)のあることと絡めてのことである。骨角器を用いて模様を刻むこと、また骨角器に模様を刻むことをしていたから、その元祖のような象牙の持ち主をしてキサと呼んでいる(注8)。しかも、象の牙は左右に並んで二本伸びている。ノノなる字は巜のように川のことを言っていると見える。「象山の際」にあるのは、山と山のマということは谷になっていて、小さかろうが川が流れているであろう。「木末」には、濡れること、塗れることの連想が効いている。川があれば濡れるし、また、籌木に何を塗りつけているかはお察しのとおりであろう。漆のようにも見えるねばねばしたものである。さっきまで数取りの棒だと思っていたものが別の用途で用いられ、たくさん捨てられている。数取りの棒だけに、その数を数えると、トリ、トリ、トリ、……とたくさんの鳥が騒ぐように泣いている声がするのかなあ、と厠の歌が歌われているのである。
左:アジアゾウ(オス、在りし日のアティ号、東京zooネットhttps://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ueno&link_num=26372)、中:キササゲの莢実、右:籌木(鴻臚館トイレ遺構SK1124出土、福岡市埋蔵文化財センター「保存処理の成果(平成21年度)」https://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/preservation/21.html)
二十巻本和名抄に、「楸 唐韻に云はく、楸〈音は秋、漢語抄に比佐木と云ふ〉は木の名なりといふ。」とある。このヒサギについて、アカメガシワとする説とキササゲとする説があげられている(注9)。これはキササゲであろう。季語の問題ではなく、キササゲの実のつき方が何本も並んで垂れさがることを言っている。キササゲの莢実の垂れさがるのを川の字に並んだ籌木に見立てた。葉が枯れても久しく莢実を残しており、割れてもがわばかりをとどめる。よって、どれぐらい久しいか日数を数えるのにちょうどいい数取りの棒ではないかと想念している。次の歌では思い人が来る日を数えるのに白玉を使っている。
…… 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白玉 辺つ波の 寄する白玉 求むとそ 君が来まさぬ 拾ふとそ 君は来まさぬ 久にあらば 今七日ばかり 早くあらば 今二日ばかり あらむとそ 君は聞しし な恋ひそ吾妹(万3318)
万925番歌では、清き川原であろうはずが夜陰に乗じて用を足すものがいる。そして、数取りの棒だと称されるものが捨てられている。原文に「數」字が使われてシバ鳴くと訓まれている点は注目されるべきである。「千鳥〔知鳥〕」と千本も籌木が使われている。未使用のものを浄籌、使用したものを触籌と言ったという。キササゲの莢を採って糞箆にして清き川原に捨てているというのである。
筆者は、ここに、アララギ派が「名歌」に見ていた光景とは別のものを見ている。また、万葉集研究者の見たがっていた祭儀性や讃歌性を見ることもない。
(注)
(注1)清水1976.、坂本1986.、高松2007.、鈴木2017.、土佐2020.などに通称されている。
(注2)吉井1984.にそうした解釈が見られる。
鈴木2017.はこの左注を詳細に分析しているが、左注の字句にとらわれて歌の解釈の前提を推断するという逸脱をおかしている。「この「不審先後」の注記は、編者が当該二歌群[万923~925番歌と万926~927番歌]両方の作歌年次を知らなかったという事情を示すと共に、少なくとも編者は、二歌群を不可分の一体とは見ていなかったことを物語るのである。」(25頁)、「当該左注は、「右(当該二歌群)」は、「先後審らかならず(いずれも作歌年次が不明である為、時間的な前後関係は知り得ない)」が、「便を以て(歌の内容が金村歌に近いという事情を斟酌して)」この順番で掲載した、ということであったと考える。」(26~27頁)としている。
本稿でみているように、「山部宿祢赤人作謌二首并短歌」は万923~927番歌は一群の歌であり、左注が題詞を超えて枠組みを設置することはない。「不レ審二先後一」と言っているだけで、作歌年次の不明を指摘するものではない。万926番歌の狩りの歌に「春の茂野に」とあるからそれは春にしか詠み得ないと捉えて別の行幸時の作であるとしていては、何のための題詞一括記載なのかわからなくなる。
「以レ便」の「便」を、便宜上、便宜的と取る説と、たより、てがかりと取る説があるとされている。この二つの説の違いは曖昧で、笠金村の歌に似ているからそれを「便」として「載二於此次一」せた結果このようになったと言っている。左注の人の筆はふるっていて、「以レ便故載二於此次一」としている。「故」と記す自信はどこから生まれてくるのか。それは、万924~925番歌が「便」(大便)の歌だからである。和名抄に、「屎 野王案に、糞〈府悶反、久曽、又、糞土は塵土類に見ゆ〉は屎なりとす。説文に云はく、屎〈音は矢、字は亦、𡱁に作る。今案ふるに俗人、牛馬犬等の糞を呼びて弓矢の矢の如しとよぶは、是れ𡱁の訛れるなり〉は大便なりといふ。」とある。わかる人にはわかる籌木の歌をカモフラージュするためにそれ以外の歌は歌われている。
(注3)やすみしし わご大君の 聞し食す 天の下に 国はしも 多にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 滝の都は 見れど飽かぬかも(万36、柿本人麻呂)
あしひきの み山もさやに 落ち激つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆること無く 万代に かくしもがもと 天地の 神をそ祈る 畏くあれども(万920、笠金村)
(注4)吉野宮への行幸が聖武天皇に復活されているのだから、歌は吉野のことを讃美しているはず、赤人の叙景はすなわち讃美であったはずであるとする先入観があり、ドグマ化してそこから出ることができていない。
(注5)坂本1976.は、本来なら吉野について歌われるはずの「見れど飽かぬかも」という儀礼的讃美詞章が、「み吉野の 秋津の小野の〔見吉野乃飽津之小野笶〕」と表記の上に隠微な形で拒絶しているとする。
(注6)この点について探究した議論は管見に入らない。かつて、島木1925.が赤人の短歌、万924・925番歌を高く称賛したことがあり、そのとき、万923番の長歌からは切り離されて考えられた。万葉集研究では、長歌に短歌が并せて歌われているから切り離して考えてはならないとしているが、解釈には完遂されていない。
(注7)トリ(取)とトリ(鳥)はアクセントを異にするからこの解釈は成り立たないとする理屈は、洒落のわからぬナンセンスなものである。センスの粋を極めたものが歌であった。トリ(取)とトリ(鳥)の洒落の例には、額田王の春秋競憐歌がある。拙稿「額田王の春秋競憐歌について─万葉集16番歌─」参照。
(注8)「象」、「橒」のキの甲乙は不明であるが、「刻む」、「牙」のキは甲類である。
(注9)万葉集にヒサキを歌った歌はほかに三首ある。
去年咲きし 久木今咲く いたづらに 地にや落ちむ 見る人なしに(万1863)
この歌は「春雑歌」に分類されている。だからと言って春に咲く花木であると考えるのは単純にすぎる。時季外れの今、はやくも狂い咲きしているから「いたづらに地に落ち」るであろうと言っている。久木というのだから久しく時間が経過せずに咲いては困るのである。言葉と事柄とは同じであるとする言霊信仰に基づいた考え方によっている。そしてまた、それがイタヅラ(板面)に利用可能な材だからと戯れ詠んでいると考えられる。延喜式に、「楸の版二枚。〈各長さ一尺二寸、広さ七寸、厚さ六分。」(大学寮・釈奠条)などとあり、楸の材で版を作って祝文を書き、釈奠の儀式が終われば焼却された。
波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 久しくなりぬ 君に逢はずして(万2753)
度会の 大川の辺の 若歴木 吾が久ならば 妹恋ひむかも(万3127)
木を考えるときに花期を問うことにほとんど意味はない。上の二首も樹種などどうでもよい言葉遊びの歌である。植物名としては実用途から捉えられたものがある。木下2010.はアカメガシワを推している。材は軽く、下駄材、薪炭材、キクラゲの榾木などに用いられる。他方、キササゲは材が腐りにくいから「久木」の意にかなうとする説もある。同じように材は軽く、中国で「梓」字を用い、版木に用いられることで知られる。図書を出版することを上梓と言っている。百万塔陀羅尼の木版印刷に再版をくり返したが、銅凸版との説もある。本邦では版木にはサクラを使うことが多い。正倉院文書の「楸木瑟」の材はわからない。
また、染紙に「比佐木紙」(正倉院文書・天平三年八月十日「写経目録」)、「比佐宜染」(同・天平六年五月一日「造佛所作物帳」)、「楸紙」(同・天平宝字三年十月二十四日「上馬養雑紙注文」)などとある。前田1983.はじめ一般にアカメガシワの葉を使ったものとされているが、キササゲの葉も草木染めができる。造佛所作物帳の記事は椿灰につづいている。
買椿灰八十五斛二斗〈七十三斛九斗、斗別四文、十一斛三斗、斗別三文、〉
直銭三貫二百九十五文
採木芙蓉胡桃皮楸葉等人功直并運車駄賃料銭一貫七百廿八文
前田1983.は、この記事の最後の行を引いて「胡桃」について、「胡桃樹皮の灰汁媒染による褐色はその中に仄かな紫色を含み、他の樹皮や紫染の灰汁媒染による黄褐色に比して著しい特徴があって美しい。」(479頁)とし、また「木芙蓉」は、「灰汁媒染では黄褐色で、鉄媒染では鼠色を呈する。天平時代の染紙は写経用であるから、……楸[赤芽槲]と共に灰汁媒染であったのは明らかである。」(485~486頁)としている。また、久米1995.は、「ひさぎのかみ[楸紙]」をアカメガシワ(赤芽柏)の葉や皮の煎汁で染めた紙とし、「無媒染でも染まるが、灰汁媒染すると、茶色の木蘭色となり、これは仏門の好む色であった。また鉄媒染すると濃い紫色になる。」(283頁)とする。ただし、最初の行にある椿灰はアルミ媒染に使用する。関連事項として考えると、木芙蓉は花の終った茎葉を刻み煎じて染液とし、アルミ媒染で黄茶色から金茶色に染まる。胡桃皮は樹皮か果皮か不明ながらアルミ媒染で黄味の茶色ややや赤味の薄茶色に染まる。楸葉がキササゲの葉とするとアルミ媒染で黄色に染まる(以上、山崎2012a.同2012b.による。)。アカメガシワがアルミ媒染に何色となるか山崎2012a.に記載はない。
使われている言葉の性質をみると、万葉歌に言っているのは久しいこと、日数の経過していることであり、それを数えるための数取りの棒としてキササゲの莢を使ったと捉えることがふさわしいであろうと考える。言葉に対する扱いは科学的に証明されることを期待されてはおらず、ずっとストレートであったと思われる。
(引用・参考文献)
伊藤1976. 伊藤博『万葉集の表現と方法 下』塙書房、昭和51年。
伊藤1996. 伊藤博『萬葉集釈注三』集英社、1996年。
大田区立郷土博物館1996. 大田区立郷土博物館編『考古学トイレ考』同発行、平成8年。
尾崎1960. 尾崎暢殃『山部赤人の研究』明治書院、昭和35年。
木下2010. 木下武司『万葉植物文化誌』八坂書房、2010年。
久米1995. 久米康生『和紙文化辞典』わかみ堂、1995年。
黒崎2009. 黒崎直『水洗トイレは古代にもあった─トイレ考古学入門─』吉川弘文館、2009年。
坂本1976. 坂本信幸「赤人の吉野」『萬葉』第93号、昭和51年12月。学会誌『萬葉』アーカイブhttp://manyoug.jp/memoir/1976
坂本1986. 坂本信幸「赤人の吉野讃歌(巻六・九二三~九二七)」『国文学 解釈と鑑 賞』第51巻第2号、至文堂、1986年2月。奈良女子大学学術情報センターhttp://hdl.handle.net/10935/1072
清水1976. 清水克彦「赤人の吉野讃歌」『万葉論集 第二』桜楓社、1980年。(「赤人の吉野讃歌─作歌年月不審の作群について─」『萬葉』第91号、萬葉学会、昭和51年3月。http://manyoug.jp/memoir/1976)
島木1925. 島木赤彦『萬葉集の鑑賞及び其批評 前編』岩波書店、大正14年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954264
鈴木2017. 鈴木崇大「山部赤人「吉野讃歌」(巻六・九二三~九二七)の左注」『高岡市万葉歴史館紀要』第27号、2017年3月。
高松2001. 高松寿夫「赤人の吉野讃歌」神野志隆光・坂本信幸企画・監修『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
高松2007. 高松寿夫『上代和歌史の研究』新典社、平成19年。
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。
日本史色彩事典 丸山伸彦編『日本史色彩事典』吉川弘文館、2012年。
前田1983. 前田千寸著、上村六郎監修復刻『日本色彩文化史』岩波書店、1983年。
山崎2012a. 山崎青樹『草木染染料植物図鑑1─日本の身近な染料植物120─』美術出版社、2012年。
山崎2012b. 山崎青樹『草木染染料植物図鑑2─日本の身近な染料植物120─』美術出版社、2012年。
吉井1984. 吉井巌『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。
(English Summary)
Yamabe-no-Akahito (山部赤人)'s poems about Yoshino, Manyoshu No. 923 to 927 in Vol.6, have been considered to be what praise Yoshino. However, No. 923 choka poem is a humorous and imitative poem, which makes us feel that it is a guide to a parody. This article will show us that the two tanka poems which are said to be good, Manyoshu No. 924 and 925, are poems about ancient toilet paper, and that "久木" is a catalpa ovata (木大角豆).
※本稿は、2021年8月稿を2023年7月にルビ化したものである。
山部宿禰赤人の作る歌二首 并せて短歌
やすみしし わご大君の 高知らす 吉野の宮は たたなづく 青垣隠り 川次の 清き河内そ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ち渡る その山の いやますますに この川の 絶ゆること無く ももしきの 大宮人は 常に通はむ(万923)
反歌二首
み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも(万924)
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥数鳴く(万925)
やすみしし わご大君は み吉野の 秋津の小野の 野の上には 跡見据ゑ置きて み山には 射目立て渡し 朝猟に 鹿猪踏み起し 夕狩に 鳥踏み立て 馬並めて 御猟そ立たす 春の茂野に(万926)
反歌一首
あしひきの 山にも野にも 御猟人 得物矢手挟み 騒きてあり見ゆ(万927)
右は先後を審かにせず。但便を以ての故に此の次に載す。
山部宿祢赤人作謌二首并短歌
八隅知之和期大王乃高知為芳野宮者立名附青垣隠河次乃清河内曽春部者花咲乎遠里秋去者霧立渡其山之弥益々尓此河之絶事無百石木能大宮人者常将通
反謌二首
三吉野乃象山際乃木末尓波幾許毛散和口鳥之聲可聞
烏玉之夜之深去者久木生留清河原尓知鳥數鳴
安見知之和期大王波見吉野乃飽津之小野笶野上者跡見居置而御山者射目立渡朝獦
尓十六履起之夕狩尓十里蹋立馬並而御獦曽立為春之茂野尓
反謌一首
足引之山毛野毛御獦人得物矢手挟散動而有所見
右不審先後但以便故載於此次
万923番の長歌は、柿本人麻呂の「吉野宮に幸す時、柿本人麻呂の作る歌」(万36~39)と非常によく似ていると言われている。山部赤人には、「八年丙子の夏六月、吉野の離宮に幸す時に、山部宿禰赤人の、詔に応へて作る歌一首 并せて短歌」(万1005~1006)があり、それも人麻呂の歌によく似ている。「応レ詔」とある場合、常套句を並べて追従を述べることは考えられることである。また、万923番歌の前に記載の笠金村の歌、「神亀二年乙丑の夏五月、芳野の離宮に幸す時に、笠朝臣金村の作る歌一首 并せて短歌」(万920~922)にも似ている。万927番歌の左注に、「以レ便故載二於此次一」とある「此」は笠金村の歌のことを言っている。「右不レ審二先後一」とあるのは、万923~925番歌と万926~927番歌のどちらが先だったかわからないという意味である。そして、万923番歌が笠金村の歌に似ているから、それを便りとしてこのような順次で載せるとしている(注2)。「此次」とある「次」字は歌句中に見える。「河次」である。
このカハナミという語が理解されていない。万926番歌に、ウマナメテ(馬並めて〔馬並而〕)とあるのに対比されよう。馬を並べるとは馬を縦列させて連なることではなく、横列に並ぶことである。そのままカハナミに当てはめればわかるように、川が何本も並行して流れていることを言っている。
…… 国はしも 多にあれども 里はしも 多にあれども 山並の 宜しき国と 川次の 立ち合ふ郷と ……(万1050)
東京でいえば、江戸川、中川、荒川、隅田川はその関係にある。もちろん、山部赤人は叙景の歌を歌っているわけではない。なぜなら、柿本人麻呂や笠金村の歌に似すぎているからである(注3)。「応レ詔作歌」でもない。なのにそれほどまで踏襲した歌を歌う理由としては、パロディである可能性がある(注4)。そう考えてみれば至極簡単なことに気づかされる。「川」という字である。縦のラインが横に三本並んでいる。そういう状態を謂わんとして、カハナミという語を使っているのであろうと直感させられる。
万926番の長歌とその反歌、万927番の短歌の関係はよくわかる。「馬並めて」の狩りの歌が展開して行っている(注5)。反して、万923番の長歌とその反歌、万924・925番の短歌の関係はよくわからない。「川次の」の歌が展開して鳥の歌になっている(注6)。筆者は、カハナミは縦に線を刻むことであると考えている。すなわち、数えることである。
水の上に 数書く如き 吾が命 妹に逢はむと 祈誓つるかも(万2433)
数を数えるときには地面に線をつけたり、木簡などの上に墨で書いたりした。それ以外には、数取りのために棒や串などを用いる方法もある。物一個一個に合わせて棒を置いていって一対一対応させて数えた。数が多くなる時には別の置き方をするが、基本的には線を刻むのと同じで最初に棒を縦に向けて置き、それと平行に置いていく。「川」という字になるようにしていくわけである。この数取りのための棒のことを籌、また、籌木という。
…… 山とつもれる しきたへの 枕の塵も ひとりねの 数にしとらば 尽きぬべし ……(蜻蛉日記・上)
あしたづの 齢しあらば 君が代の 千歳の数も かぞへとりてむ(紫式部日記10歌)
冬の御扇を数にとりて、一百遍づつぞ念じ申させ給ける。(大鏡・道長下)
合籌壱具〈木叉〉(大安寺伽藍縁起并流記資財帳、天平一九年(747)二月十一日)
芳春烟草早朝晴 使客乗レ興出二前庭一 廻杖飛レ空疑二初月一 奔毬転レ地似二流星一 左擬右承当門競 分行群踏虬雷声 大呼伐レ皷催レ籌急 観者猶嫌都易レ成(経国集巻十一、太上天皇・七言 早春観二打毬一〈使三渤海客奏二此楽一〉一首)
細長い串状の棒である。木簡を割ったような形である。それは別の目的にも用いられた。投壺の矢に用いられている。和名抄に、「投壺 投壺経に云はく、投壺〈内典に豆保宇知と云ひ、一に都保奈介と云ふ〉は古礼なり、壺の長さ一尺二寸二分、籌の長さ一尺二寸といふ。〈籌は即ち投壺の矢の名なり、同経に見ゆ〉」とある。そしてまた、大便を拭うための糞箆としても使われている。藤原京跡、平城宮跡からも出土している。ところで、便所はどこにあったか。言葉はきちんと伝えてくれている。厠と呼ばれているように川で用を足していた。水洗便所である。ここに、カハナミという語の巧みさが見て取れよう。赤人は籌木の歌を歌っているのである。数取りの棒だから、カハナミの長歌に対してトリ(取、鳥)の短歌が并さっている(注7)。
又大門ノワキノ河屋ノシドケナキ、モタイナキコト也。籌ノヒシトチリタル、ミグルシキ事也。(高弁述・却癈忘記・上)
屙ノ後籌ヲ使ヒ、アルヒハ紙ヲ使フ。ソノノチ水辺ニイタリテ洗浄スル。……厠籌ヲモテ地面ヲ劃スルコトナカレ。屙屎退後、スヘカラク使籌スヘシ。マタカミヲモチヰル法アリ。故紙ヲモチヰルヘカラス。字ヲカキタラン紙モチヰルヘカラス。浄籌触籌ワキマフヘシ。籌ハナカサ八寸ニツクリテ三角ナリ。フトサハ手ノ拇指ノ大ナリ。漆ニテヌレルモアリ、未漆ナルモアリ。触ハ籌斗ニナケオキ、浄ハモトヨリ籌架ニアリ。籌架ハ槽ノマヘノ版頭ノホトリニオケリ。使籌・使紙ノノチ、洗浄スル法ハ、……(道元・正法眼蔵・洗浄)
籌木の使用法(「歴史の風~福岡文化財だより~」Vol.29 2020年10月号、https://bunkazai.city.fukuoka.lg.jp/news/detail/280)
み吉野の 象山の際の 木末には ここだも騒く 鳥の声かも(万924)
ぬばたまの 夜の更けゆけば 久木生ふる 清き川原に 千鳥数鳴く(万925)
エレファントのことを「象」とヤマトコトバに言ったのは、その牙に木目模様(橒)のあることと絡めてのことである。骨角器を用いて模様を刻むこと、また骨角器に模様を刻むことをしていたから、その元祖のような象牙の持ち主をしてキサと呼んでいる(注8)。しかも、象の牙は左右に並んで二本伸びている。ノノなる字は巜のように川のことを言っていると見える。「象山の際」にあるのは、山と山のマということは谷になっていて、小さかろうが川が流れているであろう。「木末」には、濡れること、塗れることの連想が効いている。川があれば濡れるし、また、籌木に何を塗りつけているかはお察しのとおりであろう。漆のようにも見えるねばねばしたものである。さっきまで数取りの棒だと思っていたものが別の用途で用いられ、たくさん捨てられている。数取りの棒だけに、その数を数えると、トリ、トリ、トリ、……とたくさんの鳥が騒ぐように泣いている声がするのかなあ、と厠の歌が歌われているのである。
左:アジアゾウ(オス、在りし日のアティ号、東京zooネットhttps://www.tokyo-zoo.net/topic/topics_detail?kind=news&inst=ueno&link_num=26372)、中:キササゲの莢実、右:籌木(鴻臚館トイレ遺構SK1124出土、福岡市埋蔵文化財センター「保存処理の成果(平成21年度)」https://www.city.fukuoka.lg.jp/maibun/html/preservation/21.html)
二十巻本和名抄に、「楸 唐韻に云はく、楸〈音は秋、漢語抄に比佐木と云ふ〉は木の名なりといふ。」とある。このヒサギについて、アカメガシワとする説とキササゲとする説があげられている(注9)。これはキササゲであろう。季語の問題ではなく、キササゲの実のつき方が何本も並んで垂れさがることを言っている。キササゲの莢実の垂れさがるのを川の字に並んだ籌木に見立てた。葉が枯れても久しく莢実を残しており、割れてもがわばかりをとどめる。よって、どれぐらい久しいか日数を数えるのにちょうどいい数取りの棒ではないかと想念している。次の歌では思い人が来る日を数えるのに白玉を使っている。
…… 汝が待つ君は 沖つ波 来寄る白玉 辺つ波の 寄する白玉 求むとそ 君が来まさぬ 拾ふとそ 君は来まさぬ 久にあらば 今七日ばかり 早くあらば 今二日ばかり あらむとそ 君は聞しし な恋ひそ吾妹(万3318)
万925番歌では、清き川原であろうはずが夜陰に乗じて用を足すものがいる。そして、数取りの棒だと称されるものが捨てられている。原文に「數」字が使われてシバ鳴くと訓まれている点は注目されるべきである。「千鳥〔知鳥〕」と千本も籌木が使われている。未使用のものを浄籌、使用したものを触籌と言ったという。キササゲの莢を採って糞箆にして清き川原に捨てているというのである。
筆者は、ここに、アララギ派が「名歌」に見ていた光景とは別のものを見ている。また、万葉集研究者の見たがっていた祭儀性や讃歌性を見ることもない。
(注)
(注1)清水1976.、坂本1986.、高松2007.、鈴木2017.、土佐2020.などに通称されている。
(注2)吉井1984.にそうした解釈が見られる。
鈴木2017.はこの左注を詳細に分析しているが、左注の字句にとらわれて歌の解釈の前提を推断するという逸脱をおかしている。「この「不審先後」の注記は、編者が当該二歌群[万923~925番歌と万926~927番歌]両方の作歌年次を知らなかったという事情を示すと共に、少なくとも編者は、二歌群を不可分の一体とは見ていなかったことを物語るのである。」(25頁)、「当該左注は、「右(当該二歌群)」は、「先後審らかならず(いずれも作歌年次が不明である為、時間的な前後関係は知り得ない)」が、「便を以て(歌の内容が金村歌に近いという事情を斟酌して)」この順番で掲載した、ということであったと考える。」(26~27頁)としている。
本稿でみているように、「山部宿祢赤人作謌二首并短歌」は万923~927番歌は一群の歌であり、左注が題詞を超えて枠組みを設置することはない。「不レ審二先後一」と言っているだけで、作歌年次の不明を指摘するものではない。万926番歌の狩りの歌に「春の茂野に」とあるからそれは春にしか詠み得ないと捉えて別の行幸時の作であるとしていては、何のための題詞一括記載なのかわからなくなる。
「以レ便」の「便」を、便宜上、便宜的と取る説と、たより、てがかりと取る説があるとされている。この二つの説の違いは曖昧で、笠金村の歌に似ているからそれを「便」として「載二於此次一」せた結果このようになったと言っている。左注の人の筆はふるっていて、「以レ便故載二於此次一」としている。「故」と記す自信はどこから生まれてくるのか。それは、万924~925番歌が「便」(大便)の歌だからである。和名抄に、「屎 野王案に、糞〈府悶反、久曽、又、糞土は塵土類に見ゆ〉は屎なりとす。説文に云はく、屎〈音は矢、字は亦、𡱁に作る。今案ふるに俗人、牛馬犬等の糞を呼びて弓矢の矢の如しとよぶは、是れ𡱁の訛れるなり〉は大便なりといふ。」とある。わかる人にはわかる籌木の歌をカモフラージュするためにそれ以外の歌は歌われている。
(注3)やすみしし わご大君の 聞し食す 天の下に 国はしも 多にあれども 山川の 清き河内と 御心を 吉野の国の 花散らふ 秋津の野辺に 宮柱 太敷きませば ももしきの 大宮人は 船並めて 朝川渡る 舟競ひ 夕川渡る この川の 絶ゆることなく この山の いや高知らす 水激つ 滝の都は 見れど飽かぬかも(万36、柿本人麻呂)
あしひきの み山もさやに 落ち激つ 吉野の川の 川の瀬の 清きを見れば 上辺には 千鳥数鳴く 下辺には かはづ妻呼ぶ ももしきの 大宮人も をちこちに 繁にしあれば 見るごとに あやに乏しみ 玉葛 絶ゆること無く 万代に かくしもがもと 天地の 神をそ祈る 畏くあれども(万920、笠金村)
(注4)吉野宮への行幸が聖武天皇に復活されているのだから、歌は吉野のことを讃美しているはず、赤人の叙景はすなわち讃美であったはずであるとする先入観があり、ドグマ化してそこから出ることができていない。
(注5)坂本1976.は、本来なら吉野について歌われるはずの「見れど飽かぬかも」という儀礼的讃美詞章が、「み吉野の 秋津の小野の〔見吉野乃飽津之小野笶〕」と表記の上に隠微な形で拒絶しているとする。
(注6)この点について探究した議論は管見に入らない。かつて、島木1925.が赤人の短歌、万924・925番歌を高く称賛したことがあり、そのとき、万923番の長歌からは切り離されて考えられた。万葉集研究では、長歌に短歌が并せて歌われているから切り離して考えてはならないとしているが、解釈には完遂されていない。
(注7)トリ(取)とトリ(鳥)はアクセントを異にするからこの解釈は成り立たないとする理屈は、洒落のわからぬナンセンスなものである。センスの粋を極めたものが歌であった。トリ(取)とトリ(鳥)の洒落の例には、額田王の春秋競憐歌がある。拙稿「額田王の春秋競憐歌について─万葉集16番歌─」参照。
(注8)「象」、「橒」のキの甲乙は不明であるが、「刻む」、「牙」のキは甲類である。
(注9)万葉集にヒサキを歌った歌はほかに三首ある。
去年咲きし 久木今咲く いたづらに 地にや落ちむ 見る人なしに(万1863)
この歌は「春雑歌」に分類されている。だからと言って春に咲く花木であると考えるのは単純にすぎる。時季外れの今、はやくも狂い咲きしているから「いたづらに地に落ち」るであろうと言っている。久木というのだから久しく時間が経過せずに咲いては困るのである。言葉と事柄とは同じであるとする言霊信仰に基づいた考え方によっている。そしてまた、それがイタヅラ(板面)に利用可能な材だからと戯れ詠んでいると考えられる。延喜式に、「楸の版二枚。〈各長さ一尺二寸、広さ七寸、厚さ六分。」(大学寮・釈奠条)などとあり、楸の材で版を作って祝文を書き、釈奠の儀式が終われば焼却された。
波の間ゆ 見ゆる小島の 浜久木 久しくなりぬ 君に逢はずして(万2753)
度会の 大川の辺の 若歴木 吾が久ならば 妹恋ひむかも(万3127)
木を考えるときに花期を問うことにほとんど意味はない。上の二首も樹種などどうでもよい言葉遊びの歌である。植物名としては実用途から捉えられたものがある。木下2010.はアカメガシワを推している。材は軽く、下駄材、薪炭材、キクラゲの榾木などに用いられる。他方、キササゲは材が腐りにくいから「久木」の意にかなうとする説もある。同じように材は軽く、中国で「梓」字を用い、版木に用いられることで知られる。図書を出版することを上梓と言っている。百万塔陀羅尼の木版印刷に再版をくり返したが、銅凸版との説もある。本邦では版木にはサクラを使うことが多い。正倉院文書の「楸木瑟」の材はわからない。
また、染紙に「比佐木紙」(正倉院文書・天平三年八月十日「写経目録」)、「比佐宜染」(同・天平六年五月一日「造佛所作物帳」)、「楸紙」(同・天平宝字三年十月二十四日「上馬養雑紙注文」)などとある。前田1983.はじめ一般にアカメガシワの葉を使ったものとされているが、キササゲの葉も草木染めができる。造佛所作物帳の記事は椿灰につづいている。
買椿灰八十五斛二斗〈七十三斛九斗、斗別四文、十一斛三斗、斗別三文、〉
直銭三貫二百九十五文
採木芙蓉胡桃皮楸葉等人功直并運車駄賃料銭一貫七百廿八文
前田1983.は、この記事の最後の行を引いて「胡桃」について、「胡桃樹皮の灰汁媒染による褐色はその中に仄かな紫色を含み、他の樹皮や紫染の灰汁媒染による黄褐色に比して著しい特徴があって美しい。」(479頁)とし、また「木芙蓉」は、「灰汁媒染では黄褐色で、鉄媒染では鼠色を呈する。天平時代の染紙は写経用であるから、……楸[赤芽槲]と共に灰汁媒染であったのは明らかである。」(485~486頁)としている。また、久米1995.は、「ひさぎのかみ[楸紙]」をアカメガシワ(赤芽柏)の葉や皮の煎汁で染めた紙とし、「無媒染でも染まるが、灰汁媒染すると、茶色の木蘭色となり、これは仏門の好む色であった。また鉄媒染すると濃い紫色になる。」(283頁)とする。ただし、最初の行にある椿灰はアルミ媒染に使用する。関連事項として考えると、木芙蓉は花の終った茎葉を刻み煎じて染液とし、アルミ媒染で黄茶色から金茶色に染まる。胡桃皮は樹皮か果皮か不明ながらアルミ媒染で黄味の茶色ややや赤味の薄茶色に染まる。楸葉がキササゲの葉とするとアルミ媒染で黄色に染まる(以上、山崎2012a.同2012b.による。)。アカメガシワがアルミ媒染に何色となるか山崎2012a.に記載はない。
使われている言葉の性質をみると、万葉歌に言っているのは久しいこと、日数の経過していることであり、それを数えるための数取りの棒としてキササゲの莢を使ったと捉えることがふさわしいであろうと考える。言葉に対する扱いは科学的に証明されることを期待されてはおらず、ずっとストレートであったと思われる。
(引用・参考文献)
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尾崎1960. 尾崎暢殃『山部赤人の研究』明治書院、昭和35年。
木下2010. 木下武司『万葉植物文化誌』八坂書房、2010年。
久米1995. 久米康生『和紙文化辞典』わかみ堂、1995年。
黒崎2009. 黒崎直『水洗トイレは古代にもあった─トイレ考古学入門─』吉川弘文館、2009年。
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清水1976. 清水克彦「赤人の吉野讃歌」『万葉論集 第二』桜楓社、1980年。(「赤人の吉野讃歌─作歌年月不審の作群について─」『萬葉』第91号、萬葉学会、昭和51年3月。http://manyoug.jp/memoir/1976)
島木1925. 島木赤彦『萬葉集の鑑賞及び其批評 前編』岩波書店、大正14年。国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/954264
鈴木2017. 鈴木崇大「山部赤人「吉野讃歌」(巻六・九二三~九二七)の左注」『高岡市万葉歴史館紀要』第27号、2017年3月。
高松2001. 高松寿夫「赤人の吉野讃歌」神野志隆光・坂本信幸企画・監修『セミナー万葉の歌人と作品 第七巻 山部赤人・高橋虫麻呂』和泉書院、2001年。
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土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。
日本史色彩事典 丸山伸彦編『日本史色彩事典』吉川弘文館、2012年。
前田1983. 前田千寸著、上村六郎監修復刻『日本色彩文化史』岩波書店、1983年。
山崎2012a. 山崎青樹『草木染染料植物図鑑1─日本の身近な染料植物120─』美術出版社、2012年。
山崎2012b. 山崎青樹『草木染染料植物図鑑2─日本の身近な染料植物120─』美術出版社、2012年。
吉井1984. 吉井巌『萬葉集全注 巻第六』有斐閣、昭和59年。
(English Summary)
Yamabe-no-Akahito (山部赤人)'s poems about Yoshino, Manyoshu No. 923 to 927 in Vol.6, have been considered to be what praise Yoshino. However, No. 923 choka poem is a humorous and imitative poem, which makes us feel that it is a guide to a parody. This article will show us that the two tanka poems which are said to be good, Manyoshu No. 924 and 925, are poems about ancient toilet paper, and that "久木" is a catalpa ovata (木大角豆).
※本稿は、2021年8月稿を2023年7月にルビ化したものである。