(承前)
ヤマタノヲロチ退治譚の語るところ
このように、新しく移入された鍛冶技術、あるいは、たたら製鉄法について、きわめて巧妙なヤマトコトバのなぞなぞが仕掛けられて説話として創り上げられている。嘘を吹く話であり、関連して地獄の様子が引き合いに出され、鞴や釘抜がもたらされたと語っている。鍛冶技術、製鉄技術を手に入れて、鋤や鍬の刃先を鋭利にすることができた。数量的にも人手に余さず渡ることが可能となり、開拓が嘘のように進んで山奥に新田が行われて箸(?)が流れてきている。当時の技術革新を記憶するうえで重要なテーマである。鍛冶とは使い古して駄目になった鉄製品を用いたリサイクル作業に過ぎないし、たたら製鉄では、U字形刃先をつけた鋤を使って掘る地面の砂鉄が原料になっている。嘘のように製品となるのは火力の成せる業、ウソブキにおかげである(注27)。製鉄→鍛冶へと技術が波及したのではなく、鍛冶→製鉄へと流れているらしいことがわかる(注28)。まさにたたらを踏むような事態になっている。
この説話の最後にも、鍛冶について典型例が示されている。「故、其の中の尾を切りし時に、御刀の刃、毀れき。爾くして怪しと思ひ御刀の前を以て刺し割きて見れば、つむ刃の大刀在り。」(記上)、「時に素戔嗚尊、乃ち所帯せる十拳剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。故、其の尾を割裂きて視せば、中に一の剣有り。」(神代紀第八段本文)とある。ヤマタノヲロチを切っていって尾を切ったとき、刃こぼれした。後に草薙剣と称されるものが出てきている。刃こぼれした部分を焼き直せば、一つの大刀を作ることができることに相当するという意味である。
鍛冶の技術は壊れたモノを蘇らせる。新しいのか古いのかわからない事態が生じている。たたら製鉄では砂鉄のような砂子が鉄鉱石のような岩石を砕くものへと変身する。そんな不可解な事態なのだから、荒唐無稽な話に仕立てることは理にかなっている。ヤマタノヲロチは何か、ないし、何を象徴しているかという視点でいえば、韓半島に行われていた大がかりな製鉄、特に鋳造を可能にする設備を指しているものと思われる。ヤマタノヲロチを退治する話として伝わっているが、「切二散其蛇一」(記上)、「寸斬二其蛇一」(紀本文)などとあるばかりで、殺したとは記されていない。相手は「可畏之神」(紀一書第二)でもあるし、話のための方便として、桟敷席のようなものが仮設されているばかりなのである(注29)。
ここに、ヤマタノヲロチの正体とは、「八支刀」であろうことが理解されよう。一つ枝分かれを欠いたものが石上神宮に残されている。七支刀である。その由緒は、日本書紀に明記されている(注30)。
……久氐等、千熊長彦に従ひて詣り。則ち七枝刀一口・七子鏡一面と種種の重宝を献る。仍りて啓して曰さく、「臣が国の西に水有り。源は谷那の鉄山より出づ。其の邈きこと七日行きて及らず。当に是の水を飲み、便に是の山の鉄を取りて、永に聖朝に奉らむ」とまをす。(神功紀五十二年九月)(注31)
全長74.8cm、鉄鋳造品である。鋳造品である点を留意の上、議論を先へ進める。神功紀の記事は、神功四十六年以降の朝鮮半島交渉記事である。四十六年三月、ヤマトは使者を卓淳、今のテグ(大邸)に送った。その王の話に、百済の久氐らが来て、百済王がヤマトへ朝貢したいから道を教えてほしいと言ってきた。そこで、まだヤマトとは通交したことはないけれど、海路は遠くて波浪は険しいから大きな船がないといけないと答えた。すると、では出直すことにしようと言った。それを聞いたヤマトの使者は、部下と卓淳の人とを百済に派遣して百済の王に謝意を伝えた。百済王は宝蔵を開いてたくさんの珍宝を見せ、必ず朝貢すると言った。その知らせを聞いたので、ヤマトの使者は帰還した。翌四十七年四月に、百済王は久氐らを使いとして朝貢した。その時、新羅の使いも来朝した。両国の貢物を検分すると、新羅のものは珍宝がたくさんあったが、百済のは貧しいものであった。久氐らに理由を尋ねると、朝貢途中に道に迷い、新羅に着いてしまい、監禁され、貢物はすり替えられて新羅のものとして来朝したのだという。そこで、四十九年三月に、噓つきの新羅を襲うべく卓淳へ軍をすすめ、他の二国にも参軍するように計らい、新羅を撃ち破った。現在の慶尚南道、慶尚北道、済州島の地は百済に付け、百済は永代にヤマトへ朝貢することを約した。その結果、五十二年九月の七支刀などの献上につながっている。
当初、百済王が宝蔵を開いてたくさんの珍宝を見せる前に、ヤマトの従者に一部の品を持たせている。
仍りて五色の綵絹各一匹と角の弓箭、并せて鉄鋌四十枚を以て爾波移に幣ふ。(神功紀四十六年三月)
この「鉄鋌」なるものは、今日、考古学に、鉄鋌と呼ばれるものとされている。この鉄鋌と七支刀は、本邦の鉄生産技術の埒外にある。鉄鋌は短冊状の薄い鉄板で、かつては鉄素材とみられていたが、炭素含有量が非常に低く、鍛造するのに向いていない。韓半島で古墳の副葬品として10の倍数枚ずつ出土していることから貨幣や僻邪具、祭祀具、また買地券であるともする説が提出されている。あれほど彼の地で有難がられている鉄鋌が使い物にならない。大仕掛けな嘘であると感じられたことであろう。
一方、石上神宮に伝わっている七支刀はこれまで鍛造品であると考えられていたが、鋳造品であることが明らかになっている(注32)。見た目がすごく、いかにも切れそうな気がするが、実際には鈍らで実用に値しない。けれども、鉄鋳造品は炭素含有率が高く、素材として鍛造することができる。すなわち、「八支刀」の一枝を欠いたとき、それは七支刀の出現であると同時に、欠いたものを鍛冶技術によって新たな一本の鋭利な刀、草薙剣を作ることができたのである。やがては独自の発展を遂げる日本刀の鍛造法の萌芽段階によって草薙剣は成っている。その威力は、ヨーロッパの大鎌のように草を刈ることができるほどであった。どこまでも嘘の本質を突くような内容である。肯定の否定の二重性がくり返されている(注33)。
本邦に技術移転された鉄器生産は、独自の発展を遂げている。すなわち、「著しい簡略化」(村上1998.90頁)をたどっている。弥生時代に鋳造の鉄戈が製作されたかに見えたが、鍛冶炉はむしろ簡素なものになっていく(注34)。結果、製鉄して鍛造することはあっても鋳造することはほとんど行われず、器形に一般化するのは南部鉄器を待つことになる。
鉄器生産の技術を移入するにあたり取捨選択があった。なまくらな鋳造刃物に必要性を感じずにプリミティブな鍛冶を中心に進むことにしたのである。近代では技術は一方向的に発展するものと考えられ、現代では技術革新によって需要が創出されている。それと異なり、前近代には必要は発明の母であるばかりでその逆ではなかった。ここで問題にしている古代の鉄器製造技術においても、鉄素材の需給は足りていたのではないかと推測される。素材が不足して困っていたのなら、いかに祭祀とはいえ古墳にリサイクル可能な鉄製品をたくさん副葬することはない。何とか理屈をつけて、例えば代わりに磨製石器で象って埋納すればよいでことあろうし、戦乱の時代であったなら刀剣や鎧、鏃は実際に使うために手元に置くと思われる。わざわざ盗掘の危険を冒す必要もない。
これらのことを総合すれば、韓半島の溶解炉(注35)にみられる鉄鋳造技術はすごいものかもしれないけれど、ヤマトの人たちは特に必要としないから受容しなかったのだと考えることができる。その次第について語っているのがヤマタノヲロチの話である。非常に手の込んだ説話が創られている。なぞなぞ的思考に与すれば、理路整然とした一話にまとめあげられていると見て取ることができる(注36)。そのことは、この説話が、多数の人によって最大公約数的に集約された結果として成っているのではなく、大天才一人が頭をひねることで出来上がっていることを予感させる(注37)。ヤマタノヲロチ退治の説話を創作した背景には、導入した、また、導入しなかった技術において、それに基づいた新しい生活様式について、無文字社会に暮らしている一般の人々に教え諭すための講話が求められていたからと考えられる。言葉の側から言えば、どう突いても論理学的に真であるようにヤマトコトバを編んでいっていると捉えることができる。ある偉くて賢い方が夢殿のようなところに籠って考案したものであろうと思われるのである。
以上、ヤマタノヲロチ退治の説話という嘘話について詳述した。
(注)
(注1)檜はヒノキ、楠はクスノキと呼称されて収まっている。
菅原道真が流されたのは、大宰府の榎社という。榎は「可愛の川上」のエと同音である。天満宮の鷽替神事といい、北野天神絵巻に描かれる地獄図といい、当該説話と近しい関係を予感させる。スサノヲの配流と川の流れとを、同じ流れとして考えすすめた結果かもしれない。飛鳥時代に、嘘をついた罪で大宰府に配流された人物として蘇我日向(身狭)がいる。蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑いありと讒言した。やがて無実であったと知れ、中大兄は後悔している。「即ち日向臣を筑紫大宰帥に拝す。世人相謂りて曰はく、「是隠流か」といふ。」(孝徳紀大化五年三月是月)とある。これら大宰府と「うそ(嘘・鷽)」との関係については、修正会とのかかわりなどにも及ぶ検討課題である。
(注2)さっぱりした味が好まれてあえてツバス、ワカシを刺身にして食べる風も見られる。出世魚の名は地域で違いがある。
(注3)拙稿「スサノヲはなぜ泣くのか」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3ee102433e708b0a08ee6c697b02da7f参照。
(注4)口をつぼめて息を吹く意の「うそ(嘯)」を別項としてあげている。
(注5)また、サルの鳴き声として、「[猴ノ]尚鳴き嘯く響聞え、其の身を獲覩ること能はず。旧本に云はく、是の歳に京を難波に移し、而して板蓋宮の墟と為らむ兆なりといふ。」(皇極紀四年正月)とある。
(注6)垂仁紀三十九年十月条に、「鍛、名は河上を喚して、大刀一千口を作らしむ。」とある。五十瓊敷命の茅渟菟砥川上宮に由来するとされているが、鍛冶と河上の関係は、ヤマタノヲロチの説話伝承にも通底するものがあるのだろう。
(注7)柳田1998.参照。
(注8)大阪府立弥生文化博物館2016.は、鉄器化は農具においては限定的で、伐採用の斧や装飾品製造用の各種工具にこそ重要視されたと見ている。弥生時代に中国・朝鮮半島から列島の隅々まで交易のネットワークができたとき、その中心に鉄があったとしている(40頁)。現代において産業のコメが半導体であるように、古代において宝物を生むコメが鉄であるという考えということであろうか。だから、鉄器そのものが権威のシンボルとなり、偉い人の墓である古墳に青銅鏡とともに中国製の鉄刀、鉄剣も副葬されたというが、筆者は疑問なしとしない。
(注9)ヤマタノヲロチは、民俗に以前から製鉄や刀鍛冶の守護神と考えられている。
(注10)本邦の鉄づくりは、初源期のごく短期間、鉄鉱石によっており、すぐに砂鉄へと転換していったと見られている。穴澤2003.参照。
(注11)鉄鋳造技術については、要領としては銅鋳造と同じと考えられるが、錆びやすい難点があるのに高温を維持して行う必要性が感じられない。羽釜などは土器による代用で間に合うからである。金銅仏がために銅鋳造は盛んであったが、やがて木造仏に金箔を漆で貼りつけることに代っている。
(注12)タタラという語は「蹈韝津」(神功紀五年三月)、和名抄に、「蹈鞴 日本紀私記に蹈鞴〈太々良、今案ふるに漢語抄に錧字を用ゐるは非ざるなり。唐韻に錧の音は貫、一音に管、車軸の頭鉄なり〉と云ふ。」などとある。蹈鞴は字から足動式であることを示すが、だからといって鞴が手動式であることは必ずしも示さない。排他的関係にあるとは記されていない。
(注13)天寿国繍帳の銘文に、「世間虚仮、唯仏是真」とあり、虚仮は内面と外面が一致しないこと、真実でないこと、嘘偽りのことである。
(注14)ヒカゲノカズラの胞子は、石松子と呼ばれ、傷に塗って血止めに利用されたことがあり、背中側からは血は出ず、腹側のみ血がにじんでいたという謂いかもしれない。
(注15)石田2013.に、「「地獄」という概念を日本の古い文献のなかに思想として納受した証左を見出すことは極めて困難である。」(33頁)としながら、崇峻即位前紀に「四天王」とある天は、六道思想によるものだから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界を意識していたに違いなく、また、維摩経義疏の巻中・二の弟子品に、「無沢地獄」とあり、それが無択地獄の誤りであるなら、無間地獄の別称であるから、死後の世界を考える際に地獄の観念が用いられていたのではないかと推測している。筆者も、記紀のヤマタノヲロチの鉄鉗性は、地獄思想の反映と考えており、記紀説話の多くを創作したと思しい聖徳太子らが、早くから地獄についての思想に馴染みがあったからこそこのような奇抜なストーリーが構想されたと推測している。
舌を抜く(板橋貫雄模、春日権現験記絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286816/12をトリミング)
(注16)和漢三才図会の図には箱形のものに羽口がついている。説明に狸の皮を用いるとある。タヌキが化かすという由縁は、嘯く器具に用いられているからかもしれない。
(注17)大槌烱屋鍛冶絵巻(室町時代末~江戸時代初期)の例が知られている。
(注18)毎年十一月八日、鍛冶屋の神を祭る鞴祭りが行われる。その際、みかんを配っている。果肉を含んだ薄い皮の部分を「ふくろ」と称することに由来するのかもしれない。
(注19)ヤマタノオロチ神話について、荒唐無稽に思われる大蛇の話の内実に接近しないまま、出雲の自然観念の象徴、稲作豊穣儀礼の反映、鉄生産集団の移動の証左、ペルセウス・アンドロメダ型神話の流入などといったあてがいの解釈が行われてきた。現代のものの考え方を古代に当てはめて解釈するのではなく、文化人類学のフィールドワークでパズルのピースのように文化の要素を嵌めていって一枚の絵を完成させることこそが求められている。あらぬ話をあえてわざわざ拵え、記紀神話なるものを創話した痕跡をたどることが課題なのである。
(注20)延喜式・斎宮式の斎宮忌詞の、「外の七言」に、「死を奈保留と称ひ、病を夜須美と称ひ、哭を塩垂と称ひ、血を阿世と称ひ、打を撫と称ひ、宍を菌と称ひ、墓を壌と称ふ。」とある。この七つの忌詞は、斎院式にも載り、遡って9世紀初頭の皇太神宮儀式帳には、「亦種々の事忌定め給ひき。人打つを奈津と云ひ、……如是一切の物の名、忌の道定め給ひき」とある。
(注21)『二宮叢典 後篇』106頁。
(注22)散斎・致斎の期間に、「其の言語は、死を直と称ひ、病を息と称ひ、哭を塩垂と称ひ、打を撫と称ひ、血を汗と称ひ、宍を菌と称ひ、墓を壌と称へ」とされている。
(注23)「其の斎月は、仏斎・清食に預り、喪を弔ひ、病を問ひ、宍を食ふこと得ざれ。亦刑殺を判らざれ。罪人を决罰せざれ。音楽を作さざれ。其の忌詞は、死を奈保留と称ひ、病を夜須彌と称ひ、哭を塩垂と称ひ、血を赤汁と称ひ、宍を菌と称へ。宍人の姓も亦同じ。」とある。
(注24)「足摩乳」「手摩乳」(紀)から撫でる意を容易にくみ取ることができるのに対して、「足名椎」「手名椎」からはそうと思われずに晩生の稲の精霊、早稲の精霊とする説(古典集成本古事記)、「畔な土」「田な土」とする説(川島1985.)「畔な+つ(連体助詞)+ち(神格)」、「田な+つ+ち」とする説(瀬間2015.)、また、名を問われたから「名」が含まれているとする考え(奥田2016.263頁)などが提出されている。
(注25)トネリコという木の名と、主人に仕える舎人との意味連関に関しては、舎人が「左右」である点において、語学的な意味からもトネリコが左右に枝を伸ばしていることが確かめられる。
(注26)次の歌の第二句目については、皸になることをカカルというとする説と、懸という語を示すとする説がある。獄卒者のする生業であるとの洒落であったのかもしれない。
稲搗けば かかる我が手を〔可加流安我手乎〕 今宵もか 殿の若子が 取りて嘆かむ(万3459)
(注27)朝岡1998.に、「要するに『鉄器時代』とは『鍛冶屋』の時代のことである」(3頁)とある。「我田引水」と笑われたとあるが、まことに真を突いている。
(注28)穴澤2003.25頁参照。
(注29)今日では差別的表現として使われない言葉に、「つんぼ桟敷」という語がある。用例としては江戸時代のものが見られる。桟敷とはそういうことのないように、よくよく見えてよくよく聞けるために設けられている。
(注30)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/21dc1a26b1fff042b89ad2c33aea8dce参照。
(注31)銘文に、「泰□四年□□月十六日丙午正陽造百練□七支刀□辟百兵宜供供侯王□□□□作」(表)、「先世以来未有此刃百済王世□奇生聖音為倭王旨造□示□世」(裏)とあり、積極的に読むと、「泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀帯辟百兵宜供供侯王□□□□作」、「先世以来未有此刃百済王世□奇生聖音故為倭王旨造〓(𫝊から寸を省く)示後世」(鈴木・河内2006.165頁)であるともされている。
(注32)鈴木・河内2006.参照。
七支刀復元品(河内國平氏復元、鋳造)
(注33)仲村・井上1982.参照。すごい→すごくない→すごい、と評価に肯定と否定が反転していくさまは、ひょっとこ面に見られる片目の開けつぶり、口の搾め開き、あるいはそれらの位置の左右反転をも示すものかもしれない。また、黒錆→白銀色→赤錆といった色変化にも照応するものかもしれない。
(注34)村上1998.は、その理由について、鍛冶技術の移転において必需品生産に関わる一般工人レベルにとどまり、技術全部を開放していなかったからといった技術的側面から考察している。しかし、事はそうスムーズに進むものではない。車の技術が伝えられてもせいぜい牛車や人力の荷車になる程度で、明治まで馬車はなく、駕籠が活躍したり、近代に人力車が発明されるほどに実情は定まらないものである。
青銅器では、鋳造品が銅鐸や銅矛など威信財、祭祀具であった。古代においてはやがて青銅の廬舎那仏をはじめとして仏像に作られ続けて行っている。鉄鋳造の行われにくかった理由を銅鋳造との比較から理解しようとし、銅鉱は産出するから得やすかったとして原料面から鉄と比較することは、砂鉄を原料として進んで行った歴史から見てできるものではない。鉄鋳造品としては脚のついた鍋、燈籠、梵鐘、護摩炉、湯屋用の大釜などに作られるもののその数は限られる。工人の技術レベルが権力と結びつくレベルでなかったと想定するのも、最初期に鉄鋳造品が見られた点でなぜ廃れたかを説明するに至らない。むろん、本当にミッシングリンクになっているかは、鉄が錆びて出土していないだけかもしれないから断定はできない。
筆者は、選択的技術移入は、人々の嗜好性のあらわれではないかと考える。鉄の羽釜は一生懸命に作る労力に比して錆びやすくて扱いにくい。土器で代用が可能であり、安価に作ることができる。扱いは鉄器と同じく洗浄後はよく乾かさねばならないものの、割れやすくても割れたら代わりのものに交換すれば済むことである。コンロの技術がはめごろしの竈であった点も、羽釜の土器指向を強めたものかもしれない。コンロにかけっぱなしで洗うことがないのである。また、食器に木製品がよく使われ、土器、それも使い捨てのカワラケも多用されていた。釉のかかった陶磁器が日常化する以前の話である。これらは経済性、実用性を考えつつの嗜好性であるが、鉄器を利器にばかり使いたがったのには他に訳があるようにも思われる。
鉄は、ヤマトコトバに一般にクロカネと呼ばれた。焼き上がりは黒錆を帯びている。研いで白銀色になる。それが錆びれば赤くなる。氏素性が黒いものとしてクロカネと思われた。言葉にクロカネと言いつつ、黒いときは実用に供しない嘘の産物である。対して、銅は緑青を帯びることがあっても、もともとはアカカネである。古代、アカキ心が尊ばれたから、象徴的に考える際にはアカカネが重んじられそうである。祭祀具に使うのに適っている。クロカネは利器に閉じ込めて使われればいいことになるだろう。語学的にみた人々の観念について感想を述べた。
(注35)慶州市隍城洞遺跡、忠清北道石帳里遺跡などに鋳造施設が確認されている。
(注36)スサノヲが鍛冶、製鉄の守護神かとされているヤマタノヲロチを退治し、名高い剣を手に入れたことは、製鉄技術の占有や出雲族の繁栄を示すものではないかという推測が行われてきた。設定が出雲の地である点は、それがイヅモという音によっており、ヤマトコトバの戯れのうちに通っているばかりである。モトコ、ヒ(乙類)という語が関与して場所が決められていると考える。拙稿「記紀万葉における「出雲」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/96226878ad05ea5bab34908c9f8315ea参照。出雲地方で後にたたら製鉄が盛んになったこともあって誤解が強まっている。今日までの遺跡調査において、製鉄の始まりとされる古墳時代後期の6世紀半ばの遺構は、吉備、筑紫地方に多く認められている。
(注37)古事記の神話をヤマト朝廷による机上の創作であるとする津田左右吉を批判する形で、和辻1962.が、「記紀の材料となった古い記録が官府の製作であったとしても、その内容までがただ少数の作者の頭脳から出たとは到底考えられない。」(104頁)、三浦2003.が、「どうみても、机上のでっち上げで書き上げられるような内容ではないと思います。」(214頁)と言っている。しかし、記紀の種本の可能性が高い天皇記・国記などが聖徳太子と蘇我馬子によって作られたとする記事(推古紀二十六年是歳)を信ずる限り、大天才が創作したからこのような様相になっていると考えるのが妥当であろう。少人数の頭脳によると考えられないと思うのは、彼らの頭の良さ、知恵深さに着いていけていないばかりであって、むしろ逆に、少人数、ひいては一人で考えなければこれほど手の込んだ創話に完結されることは不可能であろう。
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※本稿は、2012年9月、同10月、2013年10月稿をあわせて一編とし、大幅に加筆し改稿した2021年7月稿を2024年9月にルビ形式にしたものである。
ヤマタノヲロチ退治譚の語るところ
このように、新しく移入された鍛冶技術、あるいは、たたら製鉄法について、きわめて巧妙なヤマトコトバのなぞなぞが仕掛けられて説話として創り上げられている。嘘を吹く話であり、関連して地獄の様子が引き合いに出され、鞴や釘抜がもたらされたと語っている。鍛冶技術、製鉄技術を手に入れて、鋤や鍬の刃先を鋭利にすることができた。数量的にも人手に余さず渡ることが可能となり、開拓が嘘のように進んで山奥に新田が行われて箸(?)が流れてきている。当時の技術革新を記憶するうえで重要なテーマである。鍛冶とは使い古して駄目になった鉄製品を用いたリサイクル作業に過ぎないし、たたら製鉄では、U字形刃先をつけた鋤を使って掘る地面の砂鉄が原料になっている。嘘のように製品となるのは火力の成せる業、ウソブキにおかげである(注27)。製鉄→鍛冶へと技術が波及したのではなく、鍛冶→製鉄へと流れているらしいことがわかる(注28)。まさにたたらを踏むような事態になっている。
この説話の最後にも、鍛冶について典型例が示されている。「故、其の中の尾を切りし時に、御刀の刃、毀れき。爾くして怪しと思ひ御刀の前を以て刺し割きて見れば、つむ刃の大刀在り。」(記上)、「時に素戔嗚尊、乃ち所帯せる十拳剣を抜きて、寸に其の蛇を斬る。尾に至りて剣の刃少しき欠けぬ。故、其の尾を割裂きて視せば、中に一の剣有り。」(神代紀第八段本文)とある。ヤマタノヲロチを切っていって尾を切ったとき、刃こぼれした。後に草薙剣と称されるものが出てきている。刃こぼれした部分を焼き直せば、一つの大刀を作ることができることに相当するという意味である。
鍛冶の技術は壊れたモノを蘇らせる。新しいのか古いのかわからない事態が生じている。たたら製鉄では砂鉄のような砂子が鉄鉱石のような岩石を砕くものへと変身する。そんな不可解な事態なのだから、荒唐無稽な話に仕立てることは理にかなっている。ヤマタノヲロチは何か、ないし、何を象徴しているかという視点でいえば、韓半島に行われていた大がかりな製鉄、特に鋳造を可能にする設備を指しているものと思われる。ヤマタノヲロチを退治する話として伝わっているが、「切二散其蛇一」(記上)、「寸斬二其蛇一」(紀本文)などとあるばかりで、殺したとは記されていない。相手は「可畏之神」(紀一書第二)でもあるし、話のための方便として、桟敷席のようなものが仮設されているばかりなのである(注29)。
ここに、ヤマタノヲロチの正体とは、「八支刀」であろうことが理解されよう。一つ枝分かれを欠いたものが石上神宮に残されている。七支刀である。その由緒は、日本書紀に明記されている(注30)。
……久氐等、千熊長彦に従ひて詣り。則ち七枝刀一口・七子鏡一面と種種の重宝を献る。仍りて啓して曰さく、「臣が国の西に水有り。源は谷那の鉄山より出づ。其の邈きこと七日行きて及らず。当に是の水を飲み、便に是の山の鉄を取りて、永に聖朝に奉らむ」とまをす。(神功紀五十二年九月)(注31)
全長74.8cm、鉄鋳造品である。鋳造品である点を留意の上、議論を先へ進める。神功紀の記事は、神功四十六年以降の朝鮮半島交渉記事である。四十六年三月、ヤマトは使者を卓淳、今のテグ(大邸)に送った。その王の話に、百済の久氐らが来て、百済王がヤマトへ朝貢したいから道を教えてほしいと言ってきた。そこで、まだヤマトとは通交したことはないけれど、海路は遠くて波浪は険しいから大きな船がないといけないと答えた。すると、では出直すことにしようと言った。それを聞いたヤマトの使者は、部下と卓淳の人とを百済に派遣して百済の王に謝意を伝えた。百済王は宝蔵を開いてたくさんの珍宝を見せ、必ず朝貢すると言った。その知らせを聞いたので、ヤマトの使者は帰還した。翌四十七年四月に、百済王は久氐らを使いとして朝貢した。その時、新羅の使いも来朝した。両国の貢物を検分すると、新羅のものは珍宝がたくさんあったが、百済のは貧しいものであった。久氐らに理由を尋ねると、朝貢途中に道に迷い、新羅に着いてしまい、監禁され、貢物はすり替えられて新羅のものとして来朝したのだという。そこで、四十九年三月に、噓つきの新羅を襲うべく卓淳へ軍をすすめ、他の二国にも参軍するように計らい、新羅を撃ち破った。現在の慶尚南道、慶尚北道、済州島の地は百済に付け、百済は永代にヤマトへ朝貢することを約した。その結果、五十二年九月の七支刀などの献上につながっている。
当初、百済王が宝蔵を開いてたくさんの珍宝を見せる前に、ヤマトの従者に一部の品を持たせている。
仍りて五色の綵絹各一匹と角の弓箭、并せて鉄鋌四十枚を以て爾波移に幣ふ。(神功紀四十六年三月)
この「鉄鋌」なるものは、今日、考古学に、鉄鋌と呼ばれるものとされている。この鉄鋌と七支刀は、本邦の鉄生産技術の埒外にある。鉄鋌は短冊状の薄い鉄板で、かつては鉄素材とみられていたが、炭素含有量が非常に低く、鍛造するのに向いていない。韓半島で古墳の副葬品として10の倍数枚ずつ出土していることから貨幣や僻邪具、祭祀具、また買地券であるともする説が提出されている。あれほど彼の地で有難がられている鉄鋌が使い物にならない。大仕掛けな嘘であると感じられたことであろう。
一方、石上神宮に伝わっている七支刀はこれまで鍛造品であると考えられていたが、鋳造品であることが明らかになっている(注32)。見た目がすごく、いかにも切れそうな気がするが、実際には鈍らで実用に値しない。けれども、鉄鋳造品は炭素含有率が高く、素材として鍛造することができる。すなわち、「八支刀」の一枝を欠いたとき、それは七支刀の出現であると同時に、欠いたものを鍛冶技術によって新たな一本の鋭利な刀、草薙剣を作ることができたのである。やがては独自の発展を遂げる日本刀の鍛造法の萌芽段階によって草薙剣は成っている。その威力は、ヨーロッパの大鎌のように草を刈ることができるほどであった。どこまでも嘘の本質を突くような内容である。肯定の否定の二重性がくり返されている(注33)。
本邦に技術移転された鉄器生産は、独自の発展を遂げている。すなわち、「著しい簡略化」(村上1998.90頁)をたどっている。弥生時代に鋳造の鉄戈が製作されたかに見えたが、鍛冶炉はむしろ簡素なものになっていく(注34)。結果、製鉄して鍛造することはあっても鋳造することはほとんど行われず、器形に一般化するのは南部鉄器を待つことになる。
鉄器生産の技術を移入するにあたり取捨選択があった。なまくらな鋳造刃物に必要性を感じずにプリミティブな鍛冶を中心に進むことにしたのである。近代では技術は一方向的に発展するものと考えられ、現代では技術革新によって需要が創出されている。それと異なり、前近代には必要は発明の母であるばかりでその逆ではなかった。ここで問題にしている古代の鉄器製造技術においても、鉄素材の需給は足りていたのではないかと推測される。素材が不足して困っていたのなら、いかに祭祀とはいえ古墳にリサイクル可能な鉄製品をたくさん副葬することはない。何とか理屈をつけて、例えば代わりに磨製石器で象って埋納すればよいでことあろうし、戦乱の時代であったなら刀剣や鎧、鏃は実際に使うために手元に置くと思われる。わざわざ盗掘の危険を冒す必要もない。
これらのことを総合すれば、韓半島の溶解炉(注35)にみられる鉄鋳造技術はすごいものかもしれないけれど、ヤマトの人たちは特に必要としないから受容しなかったのだと考えることができる。その次第について語っているのがヤマタノヲロチの話である。非常に手の込んだ説話が創られている。なぞなぞ的思考に与すれば、理路整然とした一話にまとめあげられていると見て取ることができる(注36)。そのことは、この説話が、多数の人によって最大公約数的に集約された結果として成っているのではなく、大天才一人が頭をひねることで出来上がっていることを予感させる(注37)。ヤマタノヲロチ退治の説話を創作した背景には、導入した、また、導入しなかった技術において、それに基づいた新しい生活様式について、無文字社会に暮らしている一般の人々に教え諭すための講話が求められていたからと考えられる。言葉の側から言えば、どう突いても論理学的に真であるようにヤマトコトバを編んでいっていると捉えることができる。ある偉くて賢い方が夢殿のようなところに籠って考案したものであろうと思われるのである。
以上、ヤマタノヲロチ退治の説話という嘘話について詳述した。
(注)
(注1)檜はヒノキ、楠はクスノキと呼称されて収まっている。
菅原道真が流されたのは、大宰府の榎社という。榎は「可愛の川上」のエと同音である。天満宮の鷽替神事といい、北野天神絵巻に描かれる地獄図といい、当該説話と近しい関係を予感させる。スサノヲの配流と川の流れとを、同じ流れとして考えすすめた結果かもしれない。飛鳥時代に、嘘をついた罪で大宰府に配流された人物として蘇我日向(身狭)がいる。蘇我倉山田石川麻呂に謀反の疑いありと讒言した。やがて無実であったと知れ、中大兄は後悔している。「即ち日向臣を筑紫大宰帥に拝す。世人相謂りて曰はく、「是隠流か」といふ。」(孝徳紀大化五年三月是月)とある。これら大宰府と「うそ(嘘・鷽)」との関係については、修正会とのかかわりなどにも及ぶ検討課題である。
(注2)さっぱりした味が好まれてあえてツバス、ワカシを刺身にして食べる風も見られる。出世魚の名は地域で違いがある。
(注3)拙稿「スサノヲはなぜ泣くのか」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/3ee102433e708b0a08ee6c697b02da7f参照。
(注4)口をつぼめて息を吹く意の「うそ(嘯)」を別項としてあげている。
(注5)また、サルの鳴き声として、「[猴ノ]尚鳴き嘯く響聞え、其の身を獲覩ること能はず。旧本に云はく、是の歳に京を難波に移し、而して板蓋宮の墟と為らむ兆なりといふ。」(皇極紀四年正月)とある。
(注6)垂仁紀三十九年十月条に、「鍛、名は河上を喚して、大刀一千口を作らしむ。」とある。五十瓊敷命の茅渟菟砥川上宮に由来するとされているが、鍛冶と河上の関係は、ヤマタノヲロチの説話伝承にも通底するものがあるのだろう。
(注7)柳田1998.参照。
(注8)大阪府立弥生文化博物館2016.は、鉄器化は農具においては限定的で、伐採用の斧や装飾品製造用の各種工具にこそ重要視されたと見ている。弥生時代に中国・朝鮮半島から列島の隅々まで交易のネットワークができたとき、その中心に鉄があったとしている(40頁)。現代において産業のコメが半導体であるように、古代において宝物を生むコメが鉄であるという考えということであろうか。だから、鉄器そのものが権威のシンボルとなり、偉い人の墓である古墳に青銅鏡とともに中国製の鉄刀、鉄剣も副葬されたというが、筆者は疑問なしとしない。
(注9)ヤマタノヲロチは、民俗に以前から製鉄や刀鍛冶の守護神と考えられている。
(注10)本邦の鉄づくりは、初源期のごく短期間、鉄鉱石によっており、すぐに砂鉄へと転換していったと見られている。穴澤2003.参照。
(注11)鉄鋳造技術については、要領としては銅鋳造と同じと考えられるが、錆びやすい難点があるのに高温を維持して行う必要性が感じられない。羽釜などは土器による代用で間に合うからである。金銅仏がために銅鋳造は盛んであったが、やがて木造仏に金箔を漆で貼りつけることに代っている。
(注12)タタラという語は「蹈韝津」(神功紀五年三月)、和名抄に、「蹈鞴 日本紀私記に蹈鞴〈太々良、今案ふるに漢語抄に錧字を用ゐるは非ざるなり。唐韻に錧の音は貫、一音に管、車軸の頭鉄なり〉と云ふ。」などとある。蹈鞴は字から足動式であることを示すが、だからといって鞴が手動式であることは必ずしも示さない。排他的関係にあるとは記されていない。
(注13)天寿国繍帳の銘文に、「世間虚仮、唯仏是真」とあり、虚仮は内面と外面が一致しないこと、真実でないこと、嘘偽りのことである。
(注14)ヒカゲノカズラの胞子は、石松子と呼ばれ、傷に塗って血止めに利用されたことがあり、背中側からは血は出ず、腹側のみ血がにじんでいたという謂いかもしれない。
(注15)石田2013.に、「「地獄」という概念を日本の古い文献のなかに思想として納受した証左を見出すことは極めて困難である。」(33頁)としながら、崇峻即位前紀に「四天王」とある天は、六道思想によるものだから、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六つの世界を意識していたに違いなく、また、維摩経義疏の巻中・二の弟子品に、「無沢地獄」とあり、それが無択地獄の誤りであるなら、無間地獄の別称であるから、死後の世界を考える際に地獄の観念が用いられていたのではないかと推測している。筆者も、記紀のヤマタノヲロチの鉄鉗性は、地獄思想の反映と考えており、記紀説話の多くを創作したと思しい聖徳太子らが、早くから地獄についての思想に馴染みがあったからこそこのような奇抜なストーリーが構想されたと推測している。
舌を抜く(板橋貫雄模、春日権現験記絵模本、国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1286816/12をトリミング)
(注16)和漢三才図会の図には箱形のものに羽口がついている。説明に狸の皮を用いるとある。タヌキが化かすという由縁は、嘯く器具に用いられているからかもしれない。
(注17)大槌烱屋鍛冶絵巻(室町時代末~江戸時代初期)の例が知られている。
(注18)毎年十一月八日、鍛冶屋の神を祭る鞴祭りが行われる。その際、みかんを配っている。果肉を含んだ薄い皮の部分を「ふくろ」と称することに由来するのかもしれない。
(注19)ヤマタノオロチ神話について、荒唐無稽に思われる大蛇の話の内実に接近しないまま、出雲の自然観念の象徴、稲作豊穣儀礼の反映、鉄生産集団の移動の証左、ペルセウス・アンドロメダ型神話の流入などといったあてがいの解釈が行われてきた。現代のものの考え方を古代に当てはめて解釈するのではなく、文化人類学のフィールドワークでパズルのピースのように文化の要素を嵌めていって一枚の絵を完成させることこそが求められている。あらぬ話をあえてわざわざ拵え、記紀神話なるものを創話した痕跡をたどることが課題なのである。
(注20)延喜式・斎宮式の斎宮忌詞の、「外の七言」に、「死を奈保留と称ひ、病を夜須美と称ひ、哭を塩垂と称ひ、血を阿世と称ひ、打を撫と称ひ、宍を菌と称ひ、墓を壌と称ふ。」とある。この七つの忌詞は、斎院式にも載り、遡って9世紀初頭の皇太神宮儀式帳には、「亦種々の事忌定め給ひき。人打つを奈津と云ひ、……如是一切の物の名、忌の道定め給ひき」とある。
(注21)『二宮叢典 後篇』106頁。
(注22)散斎・致斎の期間に、「其の言語は、死を直と称ひ、病を息と称ひ、哭を塩垂と称ひ、打を撫と称ひ、血を汗と称ひ、宍を菌と称ひ、墓を壌と称へ」とされている。
(注23)「其の斎月は、仏斎・清食に預り、喪を弔ひ、病を問ひ、宍を食ふこと得ざれ。亦刑殺を判らざれ。罪人を决罰せざれ。音楽を作さざれ。其の忌詞は、死を奈保留と称ひ、病を夜須彌と称ひ、哭を塩垂と称ひ、血を赤汁と称ひ、宍を菌と称へ。宍人の姓も亦同じ。」とある。
(注24)「足摩乳」「手摩乳」(紀)から撫でる意を容易にくみ取ることができるのに対して、「足名椎」「手名椎」からはそうと思われずに晩生の稲の精霊、早稲の精霊とする説(古典集成本古事記)、「畔な土」「田な土」とする説(川島1985.)「畔な+つ(連体助詞)+ち(神格)」、「田な+つ+ち」とする説(瀬間2015.)、また、名を問われたから「名」が含まれているとする考え(奥田2016.263頁)などが提出されている。
(注25)トネリコという木の名と、主人に仕える舎人との意味連関に関しては、舎人が「左右」である点において、語学的な意味からもトネリコが左右に枝を伸ばしていることが確かめられる。
(注26)次の歌の第二句目については、皸になることをカカルというとする説と、懸という語を示すとする説がある。獄卒者のする生業であるとの洒落であったのかもしれない。
稲搗けば かかる我が手を〔可加流安我手乎〕 今宵もか 殿の若子が 取りて嘆かむ(万3459)
(注27)朝岡1998.に、「要するに『鉄器時代』とは『鍛冶屋』の時代のことである」(3頁)とある。「我田引水」と笑われたとあるが、まことに真を突いている。
(注28)穴澤2003.25頁参照。
(注29)今日では差別的表現として使われない言葉に、「つんぼ桟敷」という語がある。用例としては江戸時代のものが見られる。桟敷とはそういうことのないように、よくよく見えてよくよく聞けるために設けられている。
(注30)拙稿「「八雲立つ 出雲八重垣」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/21dc1a26b1fff042b89ad2c33aea8dce参照。
(注31)銘文に、「泰□四年□□月十六日丙午正陽造百練□七支刀□辟百兵宜供供侯王□□□□作」(表)、「先世以来未有此刃百済王世□奇生聖音為倭王旨造□示□世」(裏)とあり、積極的に読むと、「泰和四年十一月十六日丙午正陽造百練銕七支刀帯辟百兵宜供供侯王□□□□作」、「先世以来未有此刃百済王世□奇生聖音故為倭王旨造〓(𫝊から寸を省く)示後世」(鈴木・河内2006.165頁)であるともされている。
(注32)鈴木・河内2006.参照。
七支刀復元品(河内國平氏復元、鋳造)
(注33)仲村・井上1982.参照。すごい→すごくない→すごい、と評価に肯定と否定が反転していくさまは、ひょっとこ面に見られる片目の開けつぶり、口の搾め開き、あるいはそれらの位置の左右反転をも示すものかもしれない。また、黒錆→白銀色→赤錆といった色変化にも照応するものかもしれない。
(注34)村上1998.は、その理由について、鍛冶技術の移転において必需品生産に関わる一般工人レベルにとどまり、技術全部を開放していなかったからといった技術的側面から考察している。しかし、事はそうスムーズに進むものではない。車の技術が伝えられてもせいぜい牛車や人力の荷車になる程度で、明治まで馬車はなく、駕籠が活躍したり、近代に人力車が発明されるほどに実情は定まらないものである。
青銅器では、鋳造品が銅鐸や銅矛など威信財、祭祀具であった。古代においてはやがて青銅の廬舎那仏をはじめとして仏像に作られ続けて行っている。鉄鋳造の行われにくかった理由を銅鋳造との比較から理解しようとし、銅鉱は産出するから得やすかったとして原料面から鉄と比較することは、砂鉄を原料として進んで行った歴史から見てできるものではない。鉄鋳造品としては脚のついた鍋、燈籠、梵鐘、護摩炉、湯屋用の大釜などに作られるもののその数は限られる。工人の技術レベルが権力と結びつくレベルでなかったと想定するのも、最初期に鉄鋳造品が見られた点でなぜ廃れたかを説明するに至らない。むろん、本当にミッシングリンクになっているかは、鉄が錆びて出土していないだけかもしれないから断定はできない。
筆者は、選択的技術移入は、人々の嗜好性のあらわれではないかと考える。鉄の羽釜は一生懸命に作る労力に比して錆びやすくて扱いにくい。土器で代用が可能であり、安価に作ることができる。扱いは鉄器と同じく洗浄後はよく乾かさねばならないものの、割れやすくても割れたら代わりのものに交換すれば済むことである。コンロの技術がはめごろしの竈であった点も、羽釜の土器指向を強めたものかもしれない。コンロにかけっぱなしで洗うことがないのである。また、食器に木製品がよく使われ、土器、それも使い捨てのカワラケも多用されていた。釉のかかった陶磁器が日常化する以前の話である。これらは経済性、実用性を考えつつの嗜好性であるが、鉄器を利器にばかり使いたがったのには他に訳があるようにも思われる。
鉄は、ヤマトコトバに一般にクロカネと呼ばれた。焼き上がりは黒錆を帯びている。研いで白銀色になる。それが錆びれば赤くなる。氏素性が黒いものとしてクロカネと思われた。言葉にクロカネと言いつつ、黒いときは実用に供しない嘘の産物である。対して、銅は緑青を帯びることがあっても、もともとはアカカネである。古代、アカキ心が尊ばれたから、象徴的に考える際にはアカカネが重んじられそうである。祭祀具に使うのに適っている。クロカネは利器に閉じ込めて使われればいいことになるだろう。語学的にみた人々の観念について感想を述べた。
(注35)慶州市隍城洞遺跡、忠清北道石帳里遺跡などに鋳造施設が確認されている。
(注36)スサノヲが鍛冶、製鉄の守護神かとされているヤマタノヲロチを退治し、名高い剣を手に入れたことは、製鉄技術の占有や出雲族の繁栄を示すものではないかという推測が行われてきた。設定が出雲の地である点は、それがイヅモという音によっており、ヤマトコトバの戯れのうちに通っているばかりである。モトコ、ヒ(乙類)という語が関与して場所が決められていると考える。拙稿「記紀万葉における「出雲」とは何か」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/96226878ad05ea5bab34908c9f8315ea参照。出雲地方で後にたたら製鉄が盛んになったこともあって誤解が強まっている。今日までの遺跡調査において、製鉄の始まりとされる古墳時代後期の6世紀半ばの遺構は、吉備、筑紫地方に多く認められている。
(注37)古事記の神話をヤマト朝廷による机上の創作であるとする津田左右吉を批判する形で、和辻1962.が、「記紀の材料となった古い記録が官府の製作であったとしても、その内容までがただ少数の作者の頭脳から出たとは到底考えられない。」(104頁)、三浦2003.が、「どうみても、机上のでっち上げで書き上げられるような内容ではないと思います。」(214頁)と言っている。しかし、記紀の種本の可能性が高い天皇記・国記などが聖徳太子と蘇我馬子によって作られたとする記事(推古紀二十六年是歳)を信ずる限り、大天才が創作したからこのような様相になっていると考えるのが妥当であろう。少人数の頭脳によると考えられないと思うのは、彼らの頭の良さ、知恵深さに着いていけていないばかりであって、むしろ逆に、少人数、ひいては一人で考えなければこれほど手の込んだ創話に完結されることは不可能であろう。
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※本稿は、2012年9月、同10月、2013年10月稿をあわせて一編とし、大幅に加筆し改稿した2021年7月稿を2024年9月にルビ形式にしたものである。