海神の宮の門
記紀の海幸・山幸の話では、釣針をなくして返せず、代わりのものではなくもとの鉤を返せと責め立てられて、山幸彦は途方に暮れて海辺をさ迷うことになっている。話の第二段落では、山幸彦こと火遠理命(彦火火出見尊)が泣き嘆いて海辺に佇んでいたところ、塩椎神(塩土老翁)が現れて善後策を教えてくれている。それによると、籠製の小船に乗ってしばらく行くと、素敵な道があるからその道なりに進めば、鱗のように作ってある海神(わたつみ)の宮に到るから、その門の傍らの井戸のところに生えている神聖な香木(杜樹)(かつら)の木の下、ないしは上にのぼって座っていれば、海神の娘が見つけて万事取り計らってくれるということであった。
本稿では、海神の宮の門のところの状況として、どうして井戸があってカツラの木が生えているのか考える。このような検討は、管見ではあるが今日まで行われていない。話としてそういう設定になっているからそれ以上のものではないと等閑視されてきたようである。海神の宮という設定は、ある種ファンタジーのように捉えられている。現代では、絵本、ライトノベル、アミメ、マンガ、ゲーム、映画など、さまざまな表現伝達の手段があり、架空の話を創作することは卑近に行われている。ひとつの世界を構築するのに、物語の設定を中世世界に求めて足ることがある。しかし、無文字文化時代に話をする際、想定しえない状況を語り継ぐことは困難である。古代には言葉によるしかなく、それも、文字を持たない言葉であった。“歴史”の裏付けを頼る担保が得られない。それなのに、人々の間に流布した話として、記紀に筆記されて残ることとなった。言葉だけで聞き手にヴィヴィッドに映ったから、記憶に残り、他の人へ伝えていくことへつながっている。海神の宮など誰も見たことがないのに、違和感なくお話に入り込むことができた。言葉の力が発揮された結果である。どんな仕掛けが施されていたのか、ヤマトコトバのからくりを見なければならない。
……[塩椎神(しほつちのかみ)]教へて曰ひしく、「我其の船を押し流さば、差(やや)暫(しま)し往(ゆ)け。味(うま)し御路(みち)有らむ。乃ち其の道に乗りて往かば、魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや)、其れ綿津見神(わたつみのかみ)の宮ぞ。其の神の御門(みかど)に到らば、傍(かたへ)の井(ゐ)の上(へ)に湯津香木(ゆつかつら)有らむ。故、其の木の上に坐(ま)さば、其の海神(わたつみ)の女(むすめ)、見て相議(はか)らむぞ」といひき。〈香木を訓みて加都良(かつら)と云ふ。木なり。〉故、教(をしへ)の随(まにま)に少し行くに、備(つぶ)さに其の言(こと)の如し。即ち、其の香木(かつら)に登りて坐しき。爾に、海神の女、豊玉毘売(とよたまびめ)の従婢(まかたち)、玉器(たまもひ)を持ちて水を酌まむとする時に、井に光(かげ)有り。仰(あふ)ぎ見れば、麗(うるは)しき壮夫(をとこ)有り。〈壮夫を訓みて遠登古(をとこ)と云ふ。下此れに效へ。〉甚(いと)異奇(あや)しと以為(おも)ひき。爾に火遠理命(ほをりのみこと)、其の婢(まかたち)を見て、水を得まく欲しと乞はしき。婢、乃ち水を酌み、玉器に入れて貢進(たてまつ)りき。爾に、水を飲まさずて、御頸(みくび)の璵(たま)を解きて、口に含(ふふ)みて其の玉器に唾(つは)き入れたまひき。是に、其の璵、器(もひ)に著きて、婢、璵を離つこと得ず。故、璵を著ける任(まにま)に、豊玉毘売命に進(たてまつ)りき。爾に其の璵を見て、婢に問ひて曰く、「若(も)し、人、門(かど)の外(と)に有りや」といふ。答へて曰く、「人有りて、我が井の上(へ)の香木(かつら)の上(うへ)に坐す。甚(いと)麗しき壮夫ぞ。我が王(きみ)に益して甚貴(たふと)し。(記上)
……忽に海神の宮に至りたまふ。其の宮は、雉堞(たかがきひめがき)整頓(ととのへそなは)りて、台宇(たかどのや)玲瓏(てりかかや)けり。門(かど)の前に一(ひとつ)の井有り。井の上(ほとり)に一の湯津杜樹(ゆつかつらのき)有り。枝葉(えだは)扶疏(しきも)し。時に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、其の樹(こ)の下(もと)に就(ゆ)きて、徒倚(よろほ)ひ彷徨(たたず)みたまふ。良(やや)久しくして一の美人(をとめ)有りて、闥(とびら)を排(おしひら)きて出づ。遂に玉鋺(たまのまり)を以て、来りて当(まさ)に水を汲まむとす。因りて挙目(あふ)ぎて視(みそなは)す。乃ち驚きて還り入りて、其の父母(かぞいろは)に白(まを)して曰(まを)さく、「一の希客者(めずらしきひと)有(ま)します。門(かど)の前の樹の下(もと)に在(ま)す」とまをす。(神代紀第十段本文)
……忽ちに海神(わたつみ)豊玉彦(とよたまひこ)の宮に到ります。其の宮は城闕(かきや)崇華(たかくかざ)り、楼台(たかどのうてな)壮(さか)り麗(うるは)し。門の外に井有り。井の傍(ほとり)に杜樹(かつらのき)有り。乃ち樹の下に就(つ)きて立ちたまふ。良久(ややひさ)に一の美人有り。容貌(かほ)世に絶(すぐ)れたり。侍者(まかたち)群れ従ひて、内よりして出づ。将に玉壼(たまのつぼ)を以て水を汲む。仰ぎて火火出見尊を見つ。便ち驚き還りて、其の父(かぞ)の神に白して曰さく、「門の前の井の辺(かたはら)の樹の下に、一の貴客(よきまらうと)有(ま)す。骨法(かたち)常(ただひと)に非ず。若し天(あめ)より降れらば天垢(あまつかほ)有るべし。地(つち)より来(のぼ)れらば、地垢(つちのかほ)有るべし。実(まこと)に是(これ)妙美(まぐは)し。虚空彦(そらつひこ)といふ者か」とまをす。一に云はく、豊玉姫の侍者(まかたち)、玉瓶(たまのつるべ)を以て水を汲む。終に満つること能はず。俯して井の中を視(み)れば、倒(さかしま)に人の咲(ゑ)める顔映(て)れり。因りて仰ぎ観れば、一(ひとはしら)の麗(かほよ)き神有(ま)して、杜樹(かつらのき)に倚(よりた)てり。故、還り入りて其の王(みこ)に白(まを)すといふ。(神代紀第十段一書第一)
一書に曰く、門の前に一の好井(しみづ)有り。井の上(ほとり)に百枝(ももえ)の杜樹(かつらのき)有り。故、彦火火出見尊、跳りて其の樹に昇りて立ちたまふ。時に、海神の女豊玉姫、手に玉鋺(たまのまり)を持ちて、来りて将(まさ)に水を汲まむとす。正(まさ)に人影(ひとかげ)の、井の中に在るを見て、乃ち仰ぎて視る。驚きて鋺(まり)を墜(おと)しつ。鋺既に破砕(われくだ)けぬるに、顧(かへり)みずして還り入りて、父母(かぞいろは)に謂(かた)りて曰く、「妾(やつこ)、一人(ひとりのひと)の、井の辺(かたはら)の樹の上(うへ)に在(ま)すを見つ。顔色(かほ)甚だ美(よ)く、容貌(かたち)且(また)閑(みや)びたり。殆(ほとほど)に常之人(ただひと)に非ず」といふ。(神代紀第十段一書第二)
是の時に、鰐魚(わに)策(はか)りて曰く、「……必ず我が王の宮に至りまさむ。宮の門の井の上(ほとり)に、当(まさ)に湯津杜樹(ゆつかつら)有るべし。其の樹(き)の上(うへ)に就(ゆ)きて居(ま)しませ」とまをす。……時に豊玉姫の侍者(まかたち)有りて、玉鋺(たまのまり)を持ちて当に井の水を汲まむとするに、人影(ひとのかげ)の水底(みなそこ)に在るを見て、酌み取ること得ず。因りて仰ぎて天孫(あめみま)を見つ。即ち入りて其の王に告げて曰く、「吾(やつかれ)、我が王(おほきみ)を独(ひとり)能く絶麗(すぐれてかほよ)くましますと謂(おも)ひき。今一(ひとり)の客(まらうと)有り。弥復遠(おほく)勝(まさ)りまつれり」といふ。(神代紀第十段一書第四)
海神の宮の情景は、門があって井戸があってカツラの木が生えているようである。記紀の諸伝にその位置関係を整理すると次のようになる。
門 井 カツラ
記 到二其神御門一者、傍之井上、有二湯津香木一……〈訓二香木一云二加都良一、木〉
紀本文 門前有二一井一、 井上有二一湯津杜樹一、枝葉扶疏。……就二其樹下一、徙倚彷徨。
紀一書第一 門外有レ井。井傍有二杜樹一。乃就二樹下一立之。
紀一書第二 門前有二一好井一。井上有二百枝杜樹一。……跳昇二其樹一而立之。
紀一書第四 宮門井上、当レ有二湯津杜樹一。宜就二其樹上一而居之。
紀一書第三には情景描写はない。他の5伝はほぼ同様である。門のところに井戸があってそのそばにカツラの木が生えている。
カツラの木
登場するカツラの木については、樹種として何か、定めがたいところがある(注1)。和名抄に、「楓 兼名苑に云はく、楓〈音は風〉は一名に▼(𣜉の至の代わりに半)〈音は◇(▼字の偏が手偏)、乎加豆良(をかつら)〉といふ。爾雅に云はく、脂有りて香る、之れを謂ひて楓といふ。」、「桂 兼名苑に云はく、桂〈音は桂〉は一名に梫〈音は寑、女加都良(めかつら)〉といふ。」とある。説文に、「杜 甘棠(やまなし)也」とし、「棠 牡を棠と曰ひ、牝を杜と曰ふ」とある。いずれにせよ雌雄異株を表すようである。この海神の宮の門前の井戸そばにあるカツラは、何の木か。第一の候補として、カツラ科の落葉樹で、株立ちしながら大きくなって高さが30mにもなる高木があげられる。雌雄異株で丸みを帯びたハート形の葉が印象的である。材としては狂いが少なく、家具や彫刻、碁盤などに使われている。葉は抹香に利用される。葵祭では、フタバアオイとともに枝葉を牛車の御簾に飾っている。カツラ科は、系統のよくわからないことで有名で、原始的な科とされている。
第二の候補として、中国に桂の字を当てるニッケイ、また、モクセイがあげられる。淮南子に、月の中に桂の木と蟾蜍(ひきがえる)がいるという伝説を載せている。以来、中国では盛んに行われている(注2)。この考え方は本邦にも古く伝えられ、イザナキ・イザナミの黄泉がえりの話に影響しているかともされ、また、ツクヨミの説話とも響きあって月の満ち欠けの甦りの考えに結びついている。神格化ばかりでなく、万葉集では「月人(つきひと)」、「月読壮士(つくよみをとこ)」など擬人化もみられる。晦(つごもり)とは月籠りの約で、月末ないし晦日のことである。晦で月が消失しないのは、月が尽(盡)きると言っても、字の下部に皿がついていて受け止める、と解されていたかも知れない。水(?)が月と皿を行ったり来たりする。復活の聖水に当たる変若水(おちみず)伝説も、大陸に通じるものであるとされている。一度隠れこもって変身し、パワーアップして再生するというストーリーである(注3)。
目には見て 手には取らえぬ 月の内(うち)の 楓(かつら)の如き 妹(いも)をいかにせむ(万632)
黄葉(もみち)する 時になるらし 月人(つきひと)の 楓の枝の 色づく見れば(万2202)
天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読(つくよみ)の 持てる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉(まつ)りて 変若(をち)得てしかも(万3245)
天の原 い行きて射むと 白檀(しらまゆみ) ひきて隠せる 月読壮士(万2051)
筆者は、ここで説話化されているカツラは、上の2つの樹木の要素をともに取り込んだものではないかと考える(注4)。話として、彦火火出見尊(火照命)の精神(気分?)の復活劇であり、また、井戸そばの水気たっぷりの場所を提供してくれている。両者とも香りに関係し、抹香にすることもあり、秋の花のかぐわしい樹木である。そして、カツラ科のカツラは水気を好み、川岸や池のほとりなどで株立ち状の大木へと成長する。だから井戸のあるところにカツラの木が生えていて不思議はない。むろん、他の木が生えていてもいいのに殊更にカツラの木を押してくる。何か謂れのようなものがあったと考えられる。それは中国の伝説にのみ由来するものではなく、ヤマトコトバファーストの人たちに楽しまれ親しまれるものであったろう。そうでなければ人々の間に広まらない。
月のなかに蟾蜍がいて、月が欠けるのを蟾蜍が食べていると考える説もある。字の形から言えば、月の桂を蛙が食べて圭(かど)の字が移動しているといえる。記紀とも、カツラの木は門(かど)のところに生えていた。カエルは、月の見えにくい薄暮の夕方や朝方によく鳴くといわれている。「かへる」の名称は、卵が孵るからとされているが、卵生の生き物はカエルに限らず、いかにもあやしい説である。それでも、オタマジャクシからナマズになるのではなく、手足が生えてきて変態するところに印象づけられているとも思える。別名の「かはず」は、川の水が滴り落ちて生まれた生き物のこととされる。「楓」字を常用とする「かへで」いう木の名は、葉の形がカエル(カヘル)の手のようだからという。そして、秋にはみごとに紅(黄)葉し、変態を遂げている。カツラの木も黄葉が美しい。記では、カツラに「楓」字を当てている。
カツラ(左:北海道某所、中:黄葉、右:木肌)
記・紀本文・紀一書第四の3伝で、「湯津」と冠している。カツラの木が記紀に登場しているのは、天若日子(天稚彦)(あめわかひこ)の説話に先行する。記や神代紀第九段では、高天原(たかまのはら)から地上世界を征服しに行く先駆け役の天若日子(天稚彦)が、国神(くにつかみ)の娘と懇ろになって反旗を翻す話がある。高天原側は雉を偵察に行かせる。
故、爾に鳴女(なきめ)、天より降(くだ)り到りて、天若日子の門(かど)の湯津楓(ゆつかつら)の上(うへ)に居(を)りて、委曲(まつばひら)に天つ神の詔命(おほみこと)の如(ごと)言(の)りき。爾に天佐具売(あめのさぐめ)、此の鳥の言(のりこと)を聞きて、天若日子に語りて言ひしく、「此の鳥は、其の鳴く音(おと)甚(いと)悪し。故、射殺すべし」と云ひ進むるに、即ち天若日子、天つ神の賜へる天のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。(記上)
其の雉(きぎし)飛び降りて、天稚彦(あめわかひこ)が門(かど)の前(まへ)に植(た)てる植、此には多底屢(たてる)と云ふ。湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すゑ)に止(を)り。杜木、此には可豆邏(かつら)と云ふ。時に天探女(あまのさぐめ)天探女、此には阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)と云ふ。見て、天稚彦に謂(かた)りて曰く、「奇(めづら)しき鳥来て杜(かつら)の杪に居(を)り」といふ。(神代紀第九段本文)
其の雉飛び下(くだ)りて、天稚彦が門の前の湯津杜樹(ゆつかつら)の杪に居(を)り、鳴きて曰く、「天稚彦、何の故ぞ八年の間(ころ)、未だ復命(かへりこと)有(まを)さぬ」といふ。時に国神有り。天探女と号(なづ)く。其の雉を見て曰く、「鳴声(ねなき)悪(あや)しき鳥、此の樹の上(すゑ)に在(を)り。射(いころ)しつべし」といふ。(神代紀第九段一書第一)
カツラの木を植え据えたらその梢にキジが坐りにきた、という洒落を表している。雉(きぎし、キ・ギは甲類)が「来(き、キは甲類)し」こととなっている。記と紀一書第一に、雉の鳴き声の悪いことをとりあげている。キジの鳴き声は、ケンやホロロと聞かれたことがあるが、キギスという呼び名からは、キ、ギと聞かれた可能性もある。そして、それら甲類のキやギについては、どちらかといえば汚い声と認められたのではないか。キーキー、キシキシ、キリキリと刮(きさ)ぐような音ではないかと推測される。刮ぐとは、こそぎ削ることで、記に「岐佐宜集而(きさげあつめて)」とあり、キは甲類である。そのキサグが擬音語に発していて、その音にキーキーといった音が仮定されるなら、それらはキ(甲類)と捉えられていた可能性が高い。中古に見られる「軋(きし)む」という語が上代に遡る場合には、キは甲類であろうと推定される。「聞(聴)く」という語もキ(甲類)である。耳に鋭いことを示す所以かと思われる。
湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すゑ)
そんな雉が末端のスヱに止まっている。スヱという語には、末(季節なら季、子孫なら裔)、陶(須恵器)、下二段の動詞「据う」の活用形がある。スヱは、おしまいの、坐りのいい、動かないといった意味である。白川1995.は、「「すゑ」という音の語には、末と陶と須恵と「据(す)う」としかなく、その間に何らかの関係があるかも知れない。陵墓の周辺に据えたものを陶(すえもの)とよんだ。」(427頁)とし、何かを推察している。おそらく、「すゑ」という言葉には、いよいよもって最終的なおさまるところへおさまったという感覚が含まれているということなのではないか。そのようにほのめかされていると思われる。須恵器の画期的な特徴は、高温還元焼成の結果、中に入れた液体が容器から浸み出さず減らない点である。縄文土器、弥生土器、土師器と長い期間、どうしたらいいか思案工夫を重ねてきた。浸み出さない究極の土器が完成したと喜んだのであろう。最大の喜びは、大切な液体、酒の甕(かめ、メは乙類)にもってこいの点である。お酒は口で噛んで作られていた。すでに噛んでしまったものを入れておき、発酵させているから、動詞「噛む」の已然形カメ(メは乙類)をもって名詞とされ、納得がいった言葉として世に送り出されているようである。「据う」の已然形「すゑ」とは、適所に安定的に常置してしまったという意味に捉えられる。長いものの末端のところ、「本(もと)」に対していう「末(すゑ)」も、行き止まりの最終到達点的な意味合いがある。季節の移り変わりで表す「季(すゑ)」は、「孟(はじめ)」、「仲(なか)」につづく最後の段階である。「季春」の次は、「孟夏」へとよみがえっている。
甕を据えた建物(平城宮造酒司、玉田2013.2頁)
須恵器の製作に当たっては、粘土紐を螺旋に積み重ねたものを轆轤を使って成形する。瓦に同じで、瓦は円筒状にかたどったものを紐で切って1枚としている。それまでは、確かに丸い器を作っていたが、轆轤で仕上げた完全な円ではなかった。技術の末を見る思いがしたことであろう。輪(わ)の完成である。記に、「鳴女(なきめ)」は「居(を)り」、紀に、「雉」は、「止(を)り」、「居(を)り」と訓んでいる。このラ変動詞がどうして生まれたかは不明であるが、「居(ゐ)る」にほとんど同義ながら他者の行為に使う場合、軽蔑の意を込めるところがある。天若日子(天稚彦)の話に、門(かど)とカツラの木は出てくるが、井(ゐ)は登場しない。そのことと「居(ゐ)る」ことにならないことは、関連があるのではないか。門番役も天探女、後の呼称はアマノジャクである。本稿でとりあげている海神の宮の話に、井(ゐ)が設定されているから「居(ゐ)る」ことになっていて、言葉の上で潤滑作用が働いていると考える。
ユツカツラのユツは「斎(ゆ)つ」、神聖な、という意味とされている。時代別国語大辞典に、「ゆ【斎】 形状言。ユ~・ユツ~の形で接頭語的に用いられ、斎(い)み清めた・神聖なの意を添えて美称をなし、またユニシ・ユマフ・ユマハルなどの語幹となっている。……同様の意のイがあり、それにも厳(イツ)という形がある。斎(ユ)ムはまたイムともいう。……イ・ユを冠する語は大体㋑植物名 (イ笹・イ槻・イツ橿・イツ柴・イツ藻、ユ笹・ユ槻・ユツ楓(カツラ)・ユツ真(マ)椿・ユツ五百篁(イホタカムラ))と、㋺神のために用意されたもの(イ籬・イクシ・イ杙(クヒ)・イツ瓫(ヘ)、ユ庭・ユ鍬・ユ甕(カ)・ユツツマ櫛)とにほぼ限定できる。㋑でも㋺でも、神のものとして清められ斎(いわ)われた意に解せるが、そこから㋑は神の物のように美しく繁茂したの意に、㋺は清らかなものの意に、すなわち美称として用いられる経路が開かれている。元来神に関連のある、信仰的価値に対して与えられたほめ詞が美称となることは、接頭語ミにおいても著しい……。」(776頁)と説明する(注5)。
㋑の植物名では、例えば、カラタチのような葉を落としても平気でいる植物は、繁茂しないからユツカラタチにはならないらしい。けれども、樹種によって神聖視された木なのかどうかではなく、当該樹木について該当するかどうか1本1本の個々の姿による(注6)。人里離れた山奥のほとんど誰も目にすることのない木が聖なる木であるかどうか、目にしないものに sacred もなにもない。何かしらの因縁によって、聖なる木か俗なる木かは決まる。いま、海神の宮の話をしている。誰も目にしたことのない場所の想像上のカツラの木について、聖なる木であると考えようとしている。それが相手に通じるということは、相手がユツカツラという音を耳にして、なるほどそうだと共感したということであろう。近代の教育とは異なり、そういう話なのだから分かりなさい、という高圧的な押し付けをもってしては、納得がいかない人には理解されず、記憶に残らず、伝承されない。
ユツカツラという言い方をする点は留意されるべきである。ユ(斎)という語が接頭語として冠する場合、ユ~と付く場合と、ユツ~と付く場合の2通りがある。
ゆ槻(つき)(「弓槻」(万2353)、固有名詞の山名とみる説もある。)
弓月岳(ゆつきがたけ)(山名、「由槻我高」(万1087)・「弓月高」(万1088)・「弓月我高」(万1816))
斎庭(ゆには)(神代紀第九段一書第二)
ゆ小竹(ささ)(「湯小竹」(万2336))
斎(ゆ)つ真椿(「由都麻都婆岐」(仁徳記、記57))
ゆつ磐群(いはむら)(「湯都磐村」(万22))
ゆつ爪櫛(つまくし)(「湯都爪櫛」(記上、神代紀第五段一書第六))
なぜ助詞のツが入るのか、両者に違いを引き起こす理由は知られていない。筆者は、語呂であると考える。イを冠する語のイツモ(厳藻)については、地名のイツモ(出雲)を連想させる駄洒落のネタとされている(注7)。ユツカツラにツの入る所以を語呂合わせと想定すると、ユツカ(弓柄)+ツラ(蔓)という音が聞き取れる。弓柄を左手(弓手)で握り、矢を右手にして番えて弦を引き絞って狙いを定める。弓張月というように、月との関係も指摘可能である。月の中にカツラの木があるという話が中国から伝わっている。蟾蜍がいるというのも、カエルが跳ねるように弓が撥ねるからと納得される。
鬘や老懸とのこと
カツラは、桂の木のことであるが、ウィッグ(付け髪)のカツラ(鬘、カヅラとも)や、髪飾りのカツラ(蘰、カヅラとも)と音が通じている。鬘と関係があって弓を射る体勢をとっている人は、門番の人であろう。随身門に飾られている矢大臣である。神社の随身門は一説に、仏閣の仁王門に倣って後代に作られたとされている。真偽は不明である。仏教の仁王もインド発祥ではなく、中国の辟邪の思想から生れて本邦にもたらされている。古く法隆寺中門の例などがあるが、儀軌によって仁王像が置かれたのではない。仁王が抵抗なく自然に受け入れられたことは、かえって、本邦の人々にも受け容れる素地が存在していたことを物語るように思われる。
矢大臣とは、神道大辞典に、「神門の左右に安置せらるる神像。闕腋の袍を著し、巻纓の冠を著け、剣を佩き弓箭を帯する故に其の称がある。豊石窓神・櫛石窓神をいふとも云ひ、また天孫降臨の時、天ノ忍日ノ命・天津久米ノ命の二人、天ノ石靭(いはゆき)を取り、頭椎(かふつち)の太刀を佩き、天波士弓(あめのはじゆみ)を取持ち、天真鹿児矢(あまのまかごや)を手挟み、御先に立て奉仕せし状を写したものとも云ふ。蓋し随身の形像か。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913359/222、漢字の旧字体は改めた。)とある。また、随身門(ずゐじんもん)は、同じく、「正面三間の門で両脇間に随身像を置く建物。随身とは俗に矢大臣、左大臣といひ、剱を帯し矢を負うた衛門の姿を示す。或は豊磐間戸、奇磐間戸の二神と伝ふ。……中世以降随身に替ふるに仁王を以てした例も甚だ多い。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913348/184)とある。
随身は、警護のためのSP、ガードマンである。外出時の警護と、家宅の警備の役目がある。随身を常駐させて、門を守っている。その意味の確からしさはヤマトコトバに検証される。看督長(かどのをさ、かどのをさし)の存在である。平安時代、検非違使の下級職員で、獄舎の守護、犯人の追捕、京中の取り締まりに当たっている。その由縁は定かではないが、弓と太刀をもって警戒、警護に当たるのは、衛府にまとめられる以前からいた兵衛、衛士に同じである。
左:門脇の衛士(法然上人伝絵巻・巻8、紙本着色、鎌倉時代、14世紀、松永安左エ門氏寄贈、東京国立博物館研究情報アーカイブズhttps://webarchives.tnm.jp/imgsearch/show/C0083204をトリミング)、右:随身像(圓鍔勝三作、山王日枝神社)
カドノヲサ(看督長)というのだから、カド(門)を番して警護に当たる人として納得しやすい。看督長という漢語に、ヤマトコトバに既存の、あるいはヤマトコトバとして構成されたカドノヲサという言葉を当てたと考えるのが妥当であろう。すなわち、神社の随身門なる名称として伝わる門を、守護する形で据えられている矢大臣に同じである。実際の警備兵と、彫像とを同一視して良いかとの疑問も生まれようが、いま問題にしているのは言葉である。言葉とは観念である。頭の中で識別区分して理解するために取られたカテゴリーを問うている。
矢大臣に造形化されている随身の姿は、武官の姿のうちでも正装し、威儀をただしたものである。冠に付けられて顔の左右を覆いかける緌(おいかけ)が特徴的である。和名抄に、「緌 兼名苑に云はく、緌〈儒誰反、蕤と同じ〉は一に老繋〈和名は冠乃乎(かがふりのを)、一に保々須介(ほほすけ)と云ふ。又於以加計(おいかけ)と云ふ。或説に老人髻落ちて、此れを以て冠を繋ぎ墜ちざらしむ、故に老繋と名づく也と云ふ。今老少を論ぜず、武官皆之れを用ゐる。〉と名づくといふ。」とある(注8)。衣服令・武官礼服条に、「皂緌」とあって、令集解に、「古記云。緌。謂此間俗意以可気(おいかけ)也。」とある。必需品とされて着けている。針金の輪に黒い馬の尾の毛を、末広がりに扇形にして編み付けている。老懸、老繋とも書く。着けると頬のところに当たるから「ほほすけ」ともいい、また、「釜取(かまとり)」、「鍋取(なべとり)」とも言う。キッチン用品のミトンのようなものと捉えられたらしい。ホホスケという呼び方のスケは、ノキスケ(軒)(注9)というように、覆うように先に伸びていることを表す語である。主人公は、紀に、彦火火出見尊と称されている。ホホ(頬)+デ(出)+ミ(見)と解するなら、緌によって頬を際立たせて目を光らせる武官、とりわけ随身像をイメージした命名と跡づけられる。
オイカケに、老いて髪が薄くなったことと絡めて面白がられている。その役目は、ウィッグと同様ということである。ウィッグは、鬘(かつら)である。だから、カツラの木が門のところに生えている。門は守衛さんが常駐し、または、それをかたどって随身門に矢大臣が鎮座している。随身は緌を着けていて、オイカケている。定年後の再就職で雇われているのが門番である。完全に老いてしまったら使い物にならないが、老いかけである。ふだんは暇を持て余す閑職で、適ごろの役目である。そんな門のところには、鬘と音が通じるカツラの木がふさわしい。葵祭の飾りにカツラの枝葉を鬘にするのは、祭の路頭の儀において、近衛使や検非違使が活躍することから起こった風習と推測される(注10)。
和名抄に、「髲 釈名に云はく、髲〈音は被、加都良(かづら)、俗に鬘の字を用ゐるが非ざる也。鬘は花鬘、花鬘は伽藍具に見ゆ〉は髪の少なき者、其の髪助けらるる所以也といふ。」とある。古典基礎語辞典の「かづら」の項に、「葛」・「蔓」・「鬘」の字をあげ説明している。「語釈」に、「①カミ(髪)ツラ(蔓)の約(kami+tura→kamtura→kandura→kadura)。古来、蔓草や植物を体や頭に巻きつけて物忌みしたことから、頭につける髪飾りをカヅラという。上代には青柳・あやめぐさ・稲・羽根・花橘(はなたちばな)・蓬(よもぎ)などいろいろのものが使われた。山葛・玉葛・花葛などもある。中古になると、賀茂神社の葵祭に、葵と桂をいっしょに髪や冠に挿し、また、社殿に飾ったりした。これを「もろかつら」という。……②蔓草の総称。信仰上の習俗として、髪飾りに蔓性植物を使用することから、蔓草全般をカヅラと呼ぶようになった。主に「葛」「蔓」と書く。……③薄くなった頭髪を補うためのつけ毛。かもじ。今はカツラという。主に「鬘」と書く。」(353頁、この項、赤間淳子。)とある。①の解釈のみに、カミ(髪)+ツラ(蔓)の約とされている。ヤマトコトバは用をもって名としていることが多く、①~③のすべてに通用する。意味の分別の仕方が今日の考えと異なるだけで、同じものと考えられていたから1つの言葉で簡潔にまとめられる。辞書では上代にカヅラと第二音を濁音とみるものが多い(注11)。中古、中世にその傾向にあるが、万葉集の仮名書きに、「加豆良」(万825・4035)、「可豆良」(万817・840・4086)、「可都良」(万3993)、「可頭良」(万4101)とある。「都」・「頭」は清音(ツ)、濁音(ヅ)ともに用いられている。筆者は、髪飾りに蔓を添えるものと、ウィッグとしてのものとを、同じ概念(言葉)として捉えたため、カヅラと音が濁らせて少し貶めた俗語が起きて広まったのではないかと考える。例えば、「小(ちひ)さし」からチビという語が作られたようにである。つまり、カツラ、カヅラのいずれも使われていた、ないしは、両語は洒落として通じ合うと思念されていたと考える。
カヅラのもともととろくろ
髪飾りまたはウィッグについて、記紀に先行する説話がある。伊耶那岐命(いざなきのみこと)(伊奘諾尊)が黄泉の国から逃げ帰る途中、伊耶那美命(いざなみのみこと)(伊奘冉尊)側の追手、予母都志許売(よもつしこめ)(泉津醜女)の気を逸らすために鬘を投げている。
伊耶那岐命(いざなきのみこと)、黒御鬘(くろみかづら)を取りて投げ棄(う)てたまへば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)る。是を[予母都志許売(よもつしこめ)ガ]摭(ひり)ひ食む間(あひだ)に逃げ行きき。猶追ふ。(記上)
剣を抜きて背(しりへで)に揮(ふ)きつつ逃ぐ。因りて、黒鬘(くろきみかづら)を投げたまふ。此即ち蒲陶(えびかづら)に化成(な)る。醜女(しこめ)、見て採りて噉(は)む。噉み了(をは)りて則ち更(また)追ふ。(紀)
他に櫛や桃を投げて追手から逃れることになる(注12)。
黒い鬘が葡萄に変わったという話で、エビカヅラと呼ぶ点は、本居宣長・古事記伝に、「或人ノ云ク、此ノ物鬚(ヒゲ)ありて蝦(エビ)に似たる蔓草なる故に然(シカ)名くと云り、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/145)とあり類推が働いている。この鬚のあり様は、顎鬚ではなく、頬鬚を言っているのであろう。エビは左右に2本、鬚が巻いている。ツラ(面)にツラ(蔓)がある。武官の着ける緌に同じである。ノブドウ、ヤマブドウ、エビヅルなどの候補があるが、葉と対生して巻きひげが生えて絡みつく。そしてまた、ブドウ類の実が熟すときの色の変化と、魚介のエビを茹でたり焼いたりしたときの色の変化とを近似的に捉えたものであろう。中身よりも皮や甲羅のほうが変化が大きい。黒鬘を投げたというのも、残った中身は禿頭で肌色に光っていたことを言い表すようである。エビはブラックタイガーでさえ、茹でるとピンク色になる。カツラの木の黄葉に類推は働いている。わざわざ「黒鬘」と断っている(注13)。
エビカヅラ(2017年11月)
桂剥きの妙技(Hiroyuki Morishima様「『桂剥き (Katsura Muki)』鉄板懐石 染乃井」(浅沼学料理長)https://www.youtube.com/watch?v=dnwDZZLa8cA)
カツラないしカヅラという語は、表に現れているところに変化が起こるもの、そして、皮が剥がれるものとする性質を有するものとわかる。大根に桂剥きという技法がある。円周を薄く削ぐように包丁を入れる。その桂剥きにして薄い皮状のものを重ね、細く切って千切りとする。刺身のつまができる。すなわち、桂剥きとは、大根のすべてを皮だと思って永遠に剥き続けることである。脇役のつまを作っている。白髪大根とも呼ばれる。カハ(皮)にあるべき髪が禿げて抜けているのは、桂剥きが起こっているからである。カツラの木は樹皮が自ら剥がれていく木であり、また、水気を好んでカハ(川)の側によく生えていることはその考えに導くものである。白髪ばかりというのも、桂剥きの結果のような老い方である。川上2006.に、「桂剥き大根は……意外にも明治時代に登場した料理の技法だった」(387頁)としながら、江戸時代の料理本に見られる「かつら料理」が何か定められないとする。筆者は、「かつらとは細切りのことのような気がする」(386頁)とする点に賛同する。カツラという不思議な名を冠するところは、カツラ(カヅラ)という植物か、カツラ(カヅラ)という髪飾り、ウィッグ類と関係があると見立てたとからであろう。
カツラの木は狂いの少ない優良材である。家具や仏像、碁盤、将棋盤などに使われる。木地師の腕の見せどころである。刳り物にしようと発想するなら、当然そこでは轆轤が使われる。和名抄・造作具に、「轆轤 四声字苑に云はく、轆轤〈鹿盧の二音、俗に六路(ろくろ)と云ふ〉は円く木を転がす機也といふ。」、「鋋 楊氏漢語抄に云はく、鋋〈辞恋反、又市連反、路久魯賀奈(ろくろがな)〉は轆轤の截る刀也といふ。」とある。轆轤で回転させ、轆轤鉋でどんどんえぐっていくと、上手に丸く削れて器ができる。狂いが生じないから割れることも少ない。轆轤の回転運動で鉋が薄く挽いていくところに、かつら剥きという表現の妥当性を見ることができる。轆轤挽きしたカツラ材の遺品としては、百万塔の相輪部分がある(注14)。細かい細工で多重の輪を描き、塔本体へとすっぽりとかぶせられるキャップになっている。塔の鬘である。
百万塔(木造、奈良時代、宝亀元年(770年)、山越保子氏寄贈、東博展示品)
轆轤は、回転運動をする機械の総称である。ロクロは、漢字の音読みをもって通用している。円運動をする。橋本1979.の整理によれば、使用目的に、(1)動力の補助をなすもの、(2)円い焼物・挽物をつくる工作器具があり、軸の据え方に(1)縦軸、(2)横軸がある。
(同書24頁)
いまとりあげている工作機械の轆轤は、表の下部に当たる。本邦にいつからあるかについては、轆轤自体の残存例、出土例はなくても、轆轤挽きした木製品が見られることから古墳時代前期には使われているとされる(注15)。天若日子の記事に、雉がキーキー鳴いていたように解釈したが、木工で轆轤挽きする際も、鉋を当てるとキーキーと音が出る。「音」をオトと訓む理由について、新編全集本古事記に、「『記』では「音」はオト、「声」はコヱを表すのが原則。上代語では、生物の声であっても、単に無意味な音響として聞く時にはオトという。」(102頁)とある。古典基礎語辞典の「おと【音】」の項の「解説」に、「聞こえるものの響きや動物の発する音声。聴覚に届くことが意味の中心なので、音量的には大きな音声であることが多い。」(240頁、この項、筒井ゆみ子。)とあるのが正解であろう。キジの鳴き声が、轆轤挽きの音のようにキーキーと大きな音で聞こえたということである。その場面では、門(かど)とカツラが設定されていた。カツラの木は狂いの少ない轆轤挽きしやすい材であり、また、門は枢戸である。
今日、門の開閉は蝶番金物で行われることが多いが、古く扉は枢戸(くるるど)になっている。枢は、扉を軸によって垂直に支える装置である。下の蹴放(けはなし)ないし唐居敷と、上の楣(まぐさ)に穴を穿って軸受となる戸まらとし、そこへ軸元框(かまち)の上下の端に突起となる戸臍(とぼそ)をつけた門扉をはめ据えている。門と扉との関係は、門柱に添わせる形で別仕立ての方立(ほうだて)を付けており、躯体とは別個で門扉が閉ざされる構造になっている。この枢戸は、戸臍と戸まらによって支えられて成り立っている。雌雄がなければ成り立たない。カツラの木に雌雄がある点と重なる特徴である。
良久有二一美人一、排レ闥而出。(神代紀第十段本文)
闥の字は、小さい門のことをいうとされている。外開きらしい。大門の横に小さな片開きの門がついているものをいうのであろうか。ずいぶん凝った造りになっている。枢のおかげである。戸の回転が滑らかにできることは、門(かど)が門(かど)として機能することに他ならない。轆轤を使って軸部分が正円に刳ったり尖らせたりされていたか、あるいは、轆轤と同じように回転運動をすることで機能している点が強調されている。不思議さに見入っているらしい。家の領域の先端としての「稜・角(かど)」、才気ある興趣を示すところとしての「才(かど)」であるといえる「門(かど)」となっている。開けたり閉めたり、開いたり閉ざしたりがキーキー鳴りながらうまい具合にできている。キーキー鳴る轆轤のことが身近に感じられるからくりが、家の門口に据えられてあった。
左:家形埴輪の戸ぼそ(江野2012.49頁)、中:飛鳥川原宮の唐居敷(奈良文化財研究所飛鳥資料館HP、http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA2/ASUKAMIYA/kawaharagu.html)、右:枢戸(金沢文庫称名寺)
以上が、海幸・山幸の話の第二場面、海神の宮の門の前に井戸があって側に神聖なカツラの木が生い茂っていることの所以である。お決まりの状況設定が行われていて、誰の耳にもそのとおりであろうと受け取れるものであった。言葉が自己循環的に使用されて説話の舞台が整えられている。このように、記紀の説話は必然性をもって語られている。いわばヤマトコトバの用例として、記紀の話は作られている。辞書を繰って確かめるかのような文章が続いている。そういう言葉なのだから、そういう話になるよね、という当たり前を、人々に語りかけ、聞いた側も確かにその通りだね、と得心が行き、次の人に伝えていくことになっている。これが無文字文化の言葉の智恵である。記紀の説話を“読む”という作業は、事程左様に深いものである。その後の話の展開については、稿を改めて論じる。
(注)
(注1)大系本日本書紀に、「杜木は、カツラ。多く門前に植えた。天神の降下する際に、カツラの木に降下し、またカツラの側に立つことが多い。杜は、説文に「甘棠(やまなし)」、爾雅に「杜、赤棠、白者棠〈棠色異、異二其名一〉」、「杜、甘棠〈今之杜梨〉」とあり、名義抄にはユヅリハの訓がある。杜木をカツラと訓むのは、桂と杜との誤用によるらしい。甘棠とは別のもの。」((一)113頁)とある。当たり前のことであるが、ヤマトコトバを記述するに当たって漢字を利用したにすぎない。漢字が表す中国の樹種や魚種に、本邦と異なることが多いのは、よくわからずに間違えたのではなく、それぞれの種を表すヤマトコトバにこの字を当てようとヤマトの人が決めたからそういうことになっている。一種の国字と考えれば了解されやすいであろう。
当時権威ある漢漢辞典は、説文や玉篇である。説文には、「梫 桂也」、「桂 江南木、百薬之長」、「棠 牡曰レ棠、牝曰レ杜」、「杜 甘棠也」、「楓 木也、厚葉弱枝善揺、一名𣠞」と書いてある。いま、株立ちして高くそびえたつカツラの木が門(かど)のところに生えている。それを表現したい。門は出入りするところであるが、稀に出入りを拒むところでもある。杜絶することのある場所で、まもるところ、まもるとはマ(目)+モル(守)の意である。新撰字鏡に、「杜 𢾖字同、徒古反、塞也、閑塞也、歰也、毛利(もり)、又佐加木(さかき)」とある。神さまがいらっしゃるところは、樹木の茂ったモリ(杜・森)である。やがてそれとわかる建物を造ったものはヤシロ(社)である。木偏が礻偏にかわっても、地主を祀る土盛りを表す「土」字形があってわかりやすい。ヤマトコトバにわかりやすいように、「杜」字にモリと、いわゆる和訓を行っている。
モリは、鎮守の森のように神域とされている。本邦の古い祭礼形式では、小さな土盛りに木を植えたり竹笹の類を刺すなどし、それをモリと呼んだ。神の宿るところの意味で、結界をむすんで入れないように杜絶する。今日でも地鎮祭にみられる。ふつうの地と区別するために杜や社の字を用いた。地の字は平らにのびた土地を表す。その上に、土盛りをきちんと行ったところが境界の役割を担って正しいと知れる。土+土=圭である。圭はカド(稜)のこと、カド(門)は家のかどである。ふだんは自由に通れるのに、非常の際や不審者、敵対者は通行を断られる。急にとげとげしくかどだてて咎められる。そこに木を植えたのだから、樹種がカツラであったら「桂」字はカツラと訓むことになる。「桂」字が中国にモクセイやゲッケイジュ、ニッケイに当たることとは無関係で構わない。ヤマトコトバファーストで編まれている。
(注2)楠山1979.に、「月中に兎が住むという所伝は、早く『楚辞』天問にあるが、その兎が仙薬を擣いているとすることは、晋の傅玄の作という「擬天問」あたりが初出らしい。おそらく頭初は、月の陰影を空想して、或は蟾蜍といい、或は兎と称したのであるが、その後姮娥奔月の物語が流行するようになって、その兎に薬擣きをさせるようになったのではなかろうか。一方、月の桂の物語は、同じく晋の虞喜の「安天論」に見える。「擬天問」と「安天論」と、ともに『太平御覧』巻四所引の資料であって、その信憑性には問題もあるが、いずれにせよその所伝の、おそくとも六朝初期に遡ることは確かなようである。」(319頁)と解説されている。
(注3)井上2016.に、「「変若水」の思想は、どうやら日月とともに普段(ママ)に更生される力の信仰から出たのではなく、もっと表層の、知識人の神仙思想受容という基盤のうえに組み立てられた。……『万葉集』ではなぜ仙薬ではなく、「変若水」なのか。それは[元正天皇が行幸した]養老の醴泉を「変若水」と見立てたからであろう。」(280頁)と考証がある。行幸した養老の滝、あるいはその近くの泉をもって変若水と捉えられているようであるが、固有名詞の普通名詞化としてあるなら、言葉が一般化の影をとどめない点に不審が残る。養老の滝は、今日、一条の滝となって流れている。ヲチ(条)としてある。ヲチ(条)+ミヅ(水)である。つまり、ヲチミヅ(変若水)という言葉が先にあって、それを知っている人が養老の滝を目にすれば、なるほど養老の滝の水はヲチミヅ(条水)なのだから霊験あらたかなヲチミヅ(変若水)であると理解されたであろう。元正天皇とて、同じヤマトコトバを胸に生きている。目にしたとき、喜んで「見立てた」に違いない。そして改元している。これは、「表層の、知識人」に限られる事柄ではない。中国の神仙思想の影響が事の発端としてあったにせよ、受容する際に、ヲチミヅというヤマトコトバとして受け止めている。ヲチ(変若・復)という言葉は、ヲトコ(男・壮士)、ヲトメ(乙女・処女)と同根の語とされている。ヤマトコトバである。
いま、火遠命(彦火火出見尊)の復活劇として話を展開しようとしている。それに一役も二役も買うのが、海辺にいた塩椎神(塩土老翁・塩筒老翁)である。シホツチノヲヂがどうしてヲヂなのかについて、年長者がよく道を知っているからである点は、拙稿「無目堅間(まなしかたま)とは」に述べた。その「老翁」をどうしてヲヂと言うかについて、新編全集本日本書紀に、「一般に「老」は年齢的に「大」なのでオホ・オとア行のオで呼ばれるはずであるが、これを「少・若」の意のワ行のヲでヲヂ(小父)と呼んでいるのは、「老翁」を親しんでの気持ちからか。」(①146頁)とある。オホヂから転じたオヂ(祖父)とは別語である。父や母の兄弟のことを指すヲヂ(叔父・伯父・……)という語もある。オバ(叔母・伯母・……)の対語である。古典基礎語辞典に、「年老いた男性の意のヲヂの仮名遣いは「を」であり、年老いた女性の意のオバの仮名遣いは「お」で相違している。事例が少ないので断定しがたいが、何らかの混乱によるものと思われる。」(1363頁、この項、金子陽子。)とある。
筆者は、海幸・山幸の話における塩土老翁の役割を見るに、復活(ヲチ)の力を授ける知恵を有する存在として認めたかったからと考える。そのために、海の彼方の遠いところ、ヲチ(遠)なる海神の宮へ訪問することが要件として与えられている。かわいい子には旅をさせよである。ただし、その旅は本物でなければならない。モンテーニュ1965.に、「誰かがソクラテスに向かって、誰それは旅をしても少しもよくなっていない、と言うと、「そうだろうとも。あの人はあの人自身を一緒に持って出かけたのだから」と言った。」(52頁)とある。ヲチ(復活)できるようヲチ(遠方)へ生かせた人は、ヲヂ(老翁)であったという語りである。ヤマトコトバとして、オバと対になっていないと音韻に“合理性”を求めるようでは、上代人の知恵から遠ざかってしまう。今日のことは詳しくないのに、昨日よりヲチ(以前)のことや明日よりヲチ(以後)のことをなぜか知っていて、ヲチ(復活)のできない固陋さを煙に巻くのが、社会におけるおじさんの役目である。教育社会学に、近代における子どもの抱えるディレンマと「社会的オジ」の諸相についての論考が、亀山2001.にある。ヤマトコトバにヲヂとしてすでに造形されており、ヲヂ力の提示は塩土老翁の説話に尽くされている。海幸・山幸の話がこの部分で唐突に塩土老翁が登場して違和感なく語られているのは、すでに「社会的オジ」の存在が定着していたからであろう。塩土老翁は時間を超越した存在といえる。
(注4)『広辞苑 第六版』は、江戸時代に渡来したとされるフウの古名として、「若楓」(万1359)を用例に載せている。決定的な同定はできないようである。また、真福寺本古事記の割注部分は、「訓香木云加都良木」となっている。カツラギ(キ・ギは乙類)と続けて訓む可能性もあるが、地名の葛城(かづらき、ギは乙類)との関連が筆者には今のところ理解できない。通説にしたがって「カツラと云ふ、木なり」としておく。
(注5)本居宣長・古事記伝に、「○湯津楓(ユツカツラ)、湯津(ユツ)は五百箇(イホツ)にて、……此(ココ)は枝の繁きを云、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/321)とある。ユツに「斎つ」の意を認めていない。
(注6)古代に“聖樹”の存在したとする説がある。しかし、巨樹にシンボルとなることがどういうことか、議論は曖昧である。象徴としての樹木という考え方が、トーテミズムによるものなのか、あまりの大きさに仰天して称賛するものなのか、ランドマークとされたものなのか、詳しく検証されているわけではない。例えば、三宅2016.には、「『古事記』『日本書紀』『風土記』の巨樹伝承から、巨樹は伐採された後も呪力が継承され、船・塩・琴・新羅の猪名部・仏像といった異界とのつながりがあるものに転用されると観念されていた。」(35頁)とある。大きな木を切り倒して材としていろいろな用途に使うことができるのは、当たり前のことである。「呪力」を持っていて「異界」とつながると「観念」されていたとして、それはヤマトコトバに何と呼び、何と書かれているのか、記紀や風土記に不明である。現代人の頭の中だけでの再構成に思われる。
また、辰巳2015.178~179頁には、「海石榴市(つばいち)の名の由来は、市を象徴する艶やかな緑の葉をもつ椿にあり」、「阿斗桑市(あとくはのいち)」は「桑をシンボルとしていたことは確かで」あり、「餌香市(えがいち)では橘が聖樹だったと雄略紀にみえ」るとする。市は常設ではなくテントを建てて行われ、終わったら完全撤収していたと考えられる。目印に木を利用したに過ぎない。木を中心に露店を開くと決めたら、いかに中心の人通りの多いところで出店するかに売り上げはかかってくる。紀に、「天皇、歯田根命(はたねのみこと)をして、資財(たからもの)を露(あらは)に餌香市辺(ゑかのいちべ)の橘の本(もと)の土(ところ)に置かしむ。」(雄略紀十三年三月)とある。大系本日本書紀に、「古代の市は露店であるため、樹蔭を必要としたらしい。」((三)71頁)とある。
(注7)拙稿「出雲神話は、イツモという音をもととす」参照。
(注8)和名抄のオイカケの語説の真偽は不明である。言葉なのだから、立法の主旨や用語の定義にその正しさが求められる一方、大喜利の洒落や頓知、謎掛けに用いられることも重要である。言葉の持つ“大喜利”性を排除し、利用法ばかりを重視する職業は、近い将来ロボットに取って代わられる。言葉において、言葉自身の正否を問い求めることは、ゲーデルのいう不完全性に陥る。それを逆手にとって循環的に解説を試みるほどに、ヤマトコトバは“遊び”作られていると考える。
神祇拾遺に、「閽神 件神、或ハ門閽神ト云。或ハ善神王ト云。或随身ト云。或門客トモ云テ、由来コト不レ明レバ、人々モ難二心得一シテ、徒ニ過コト也。共ニ高木神ノ御子ナレバ、其寄モ尋常ナルベカラズ。神代ノ昔、天孫ヲ下奉ントシテ、左右ニ添申サルヽ忍日来目ノ二神ヲ模(手偏)タルコト也。仍手ニ弓ヲ取リ、背ニ岩靫ノ形アル。天神ノ外安置無益ノコトナルベシ。」(『続群書類従第三輯上』76頁。漢字の旧字体、仮名などは適宜改め、返り点を付した。)、神社一覧・第一に、「問、閽神ハ何ノ義ゾヤ 答、門守也、凡千木、加二棟木一、閽神等ハ其神ニ応ジテ立ベキ事也。中国ノ俗ノ是ヲ門客人(カドマラウド)ト云ヘリ。衣冠ノ体、黒赤ノ色、五位上ノ装束ニシテ緌ヲシ、矢籠ヲ負、弓矢ヲ持セタリ、是誤也ト云々。仇々シク難レ云。」(『続々群書類従第一』233頁。同上変更有り。)とある。
(注9)新撰字鏡に、「枌◆(枌の刀の代わりに力) 二形作、符分反、楡也、須木(すき)、又屋乃衣豆利(やのえつり)、又乃木須介(のきすけ)」とある。和名抄に、「棉梠 文選に云はく、鏤檻文㮰〈音は琵、一音に篦、師説に文㮰は賀佐礼留乃岐須介(かざれるのきすけ)〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、棉梠〈綿呂の二音、和音は上に同じ〉は一に萑梠と云ふといふ。」とある。垂木の先の横木である。
(注10)桂女(かつらめ)と呼ばれた人がいる。山城国の桂の里に古くから住み、巫女(みこ)的な役目をかってでた人たちであった。京の貴族宅に出産などの祝い事がある時や、出陣などの運命のかかる時に出向いて行って祝詞をあげたり、婚礼の行列を賑やかすのに新婦の輿を先導したりした。普段は独特な風情で頭を布で覆い、鮎や飴などを売り歩いたとされている。女系相続で明治維新に至ったという。
謎の風俗としか言えないながら、新婦の先導役を果たす点は随身の女性版とも考えられる。頭を布で包んで前に結んで両サイドへ緒に垂れる奇妙な頭巾姿は、緌(おいかけ)に相当するものかも知れない。老いかけた女性だから頭をくるんでいるのであろうという次第である。男女に随身が必要とされることは、井戸のそばに生えているカツラの木が、どのような植物か同定しきれないにつけ、雌雄異株の性質を持つと解説されているからということになる。
能や歌舞伎の小道具、鬘桶は、円筒形の黒漆塗りの桶で、舞台上では腰掛けに使われている。よく似た八角形のものが、貝桶である。老いかけの塩土老翁は、火照命(彦火火出見尊)の行く末を占うように導いた。そんな話の経緯を聞き及ぶにつけ、古く葛野(かどの)と呼ばれた地の、桂(かつら)と呼ばれたところの人は、塩土老翁の真似事のような振る舞いをして生計を立てることとなったのではないか。門付しているのは、門守神(かどもりのかみ)としての随身に対応し、鮎を売り歩いたのは鮎が占いの魚とされたから、飴(あめ、メは乙類)については、すでにきちんと編んでしまった籠、無目堅間(まなしかたま)を強調する語としての、「編む」の已然形「あめ(メは乙類)」と音が通じるからであったのではないか。
この仮説が了解の内に入るなら、風俗に先駆けてヤマトコトバが存在した、すなわち、ヤマトコトバというテキストの具現化が、まるで物語を絵画化するかのように、ヤマトに暮らす人のなりわいに転じていたことを意味する。それは決して不思議なことではない。上代の無文字文化に生きた人々にとっては、言葉と事柄とは不可分のこと、いわゆる言霊信仰の真髄の発露と考えられるからである。
(注11)岩波古語辞典、古典基礎語辞典、白川1995.角川古語大辞典、中田1983.もカヅラとする。日本国語大辞典は、カツラの項にあげてカヅラとも言うとしている。
(注12)坂下2002.に、「黄泉醜女の「摭食」を、「摘(つ)み取って、食べた」とするのではなく、むしろ「摘(つま)みつつ食べた」と解するべきだと考える。」(52頁)とある。確かに一粒一粒摘んで食べたことに相違はないが、「こんにちわれわれが「ぶどう」を食する」(53頁)のと同じように、無作為に連続してつまみ食いしていったのではなかろう。万葉集に、海岸で「玉」や「貝」を拾うときにヒリフと表現されているのは、手指を使って1つ1つ摘んでいくものである。その際、自ずと美しいもの、珍しいものを選んで、それだけをチョイスする行為になっている。言い換えれば、選ばずに捨てるものがたくさんある。エビカヅラノミにおいても、黒御鬘(くろみかづら)の色変化(禿頭のピンク色→黒髪色)に対照的な点、熟すときに一律には熟さずに色が変わって行っている点を指して言っていると考えられる。黒御鬘は投げられているから、それの変化した蒲子(えびかづらのみ)は地面に落ちており、その房のなかには、黒く熟しているものもあれば、まだ食べ頃ではない薄紅色のものも含まれているから、熟したものだけを選んでつまみ食いをしている。それを「摭ひ食」んでいる。以上のことから、古代のウィッグとしての鬘は、いくつかの黒髪の房を束にして頭に装着したものであったと推測される。
(注13)本居宣長・古事記伝に、「此(ココ)に黒(クロ)とあるは、色以(モ)て云フなるべけれど、何物にて如何(イカ)ニ作(ツク)れりとも知がたし、……蒲子(エビノミ)の成れるに就(ツキ)て思へば、此ノ鬘のさま、蒲萄葛(エビカヅラ)に似て、玉を垂(タレ)たるが、彼実(カノミ)のなれる形(サマ)にや似たりけむ、色の黒かりけむも、彼ノ実(ミ)によしあるにや、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/145)とある。
(注14)金子1991.に、「百萬塔の用材は単純な塔身部がヒノキを、細かな工作を要する相輪部が、サクラ属やサカキ、センダンなどを用い、いずれも大径木を挽いている。」(93頁)とある。
(注15)須藤2010.参照。須恵器の製作では、轆轤により成形された。そのあり様は、木立2017.に、蹴ロクロではなく手回しロクロであったと整理されている。なお、轆轤(ろくろ)という言葉については、話の後段にある虚空津日高(虚空彦(そらつひこ))と深くかかわってくる。稿を改めて論ずる。
(引用・参考文献)
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(English Summary)
A Study on the Setting of the Sea Palace in Narrative of Koziki and Nihon Shoki
In this paper, we will consider the setting about the palace gate of the sea deity in narrative of Koziki and Nihon Shoki. Why is there a well in front of the gate of the sea palace, and the ‘Katsura' tree grows? Such research has not been done so far. However, in the era when we did not possess writing, we passed down only the contents that one can imagine each other with only spoken words. In other words, it can be said that the setting itself of the situation of anecdote represents that concept. In so-called Japanese myths, we must recognize that the story is progressing while defining words in words.
※本稿は、2017年12月稿、ならびに2018年1月稿を2020年8月に整理したものである。
記紀の海幸・山幸の話では、釣針をなくして返せず、代わりのものではなくもとの鉤を返せと責め立てられて、山幸彦は途方に暮れて海辺をさ迷うことになっている。話の第二段落では、山幸彦こと火遠理命(彦火火出見尊)が泣き嘆いて海辺に佇んでいたところ、塩椎神(塩土老翁)が現れて善後策を教えてくれている。それによると、籠製の小船に乗ってしばらく行くと、素敵な道があるからその道なりに進めば、鱗のように作ってある海神(わたつみ)の宮に到るから、その門の傍らの井戸のところに生えている神聖な香木(杜樹)(かつら)の木の下、ないしは上にのぼって座っていれば、海神の娘が見つけて万事取り計らってくれるということであった。
本稿では、海神の宮の門のところの状況として、どうして井戸があってカツラの木が生えているのか考える。このような検討は、管見ではあるが今日まで行われていない。話としてそういう設定になっているからそれ以上のものではないと等閑視されてきたようである。海神の宮という設定は、ある種ファンタジーのように捉えられている。現代では、絵本、ライトノベル、アミメ、マンガ、ゲーム、映画など、さまざまな表現伝達の手段があり、架空の話を創作することは卑近に行われている。ひとつの世界を構築するのに、物語の設定を中世世界に求めて足ることがある。しかし、無文字文化時代に話をする際、想定しえない状況を語り継ぐことは困難である。古代には言葉によるしかなく、それも、文字を持たない言葉であった。“歴史”の裏付けを頼る担保が得られない。それなのに、人々の間に流布した話として、記紀に筆記されて残ることとなった。言葉だけで聞き手にヴィヴィッドに映ったから、記憶に残り、他の人へ伝えていくことへつながっている。海神の宮など誰も見たことがないのに、違和感なくお話に入り込むことができた。言葉の力が発揮された結果である。どんな仕掛けが施されていたのか、ヤマトコトバのからくりを見なければならない。
……[塩椎神(しほつちのかみ)]教へて曰ひしく、「我其の船を押し流さば、差(やや)暫(しま)し往(ゆ)け。味(うま)し御路(みち)有らむ。乃ち其の道に乗りて往かば、魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや)、其れ綿津見神(わたつみのかみ)の宮ぞ。其の神の御門(みかど)に到らば、傍(かたへ)の井(ゐ)の上(へ)に湯津香木(ゆつかつら)有らむ。故、其の木の上に坐(ま)さば、其の海神(わたつみ)の女(むすめ)、見て相議(はか)らむぞ」といひき。〈香木を訓みて加都良(かつら)と云ふ。木なり。〉故、教(をしへ)の随(まにま)に少し行くに、備(つぶ)さに其の言(こと)の如し。即ち、其の香木(かつら)に登りて坐しき。爾に、海神の女、豊玉毘売(とよたまびめ)の従婢(まかたち)、玉器(たまもひ)を持ちて水を酌まむとする時に、井に光(かげ)有り。仰(あふ)ぎ見れば、麗(うるは)しき壮夫(をとこ)有り。〈壮夫を訓みて遠登古(をとこ)と云ふ。下此れに效へ。〉甚(いと)異奇(あや)しと以為(おも)ひき。爾に火遠理命(ほをりのみこと)、其の婢(まかたち)を見て、水を得まく欲しと乞はしき。婢、乃ち水を酌み、玉器に入れて貢進(たてまつ)りき。爾に、水を飲まさずて、御頸(みくび)の璵(たま)を解きて、口に含(ふふ)みて其の玉器に唾(つは)き入れたまひき。是に、其の璵、器(もひ)に著きて、婢、璵を離つこと得ず。故、璵を著ける任(まにま)に、豊玉毘売命に進(たてまつ)りき。爾に其の璵を見て、婢に問ひて曰く、「若(も)し、人、門(かど)の外(と)に有りや」といふ。答へて曰く、「人有りて、我が井の上(へ)の香木(かつら)の上(うへ)に坐す。甚(いと)麗しき壮夫ぞ。我が王(きみ)に益して甚貴(たふと)し。(記上)
……忽に海神の宮に至りたまふ。其の宮は、雉堞(たかがきひめがき)整頓(ととのへそなは)りて、台宇(たかどのや)玲瓏(てりかかや)けり。門(かど)の前に一(ひとつ)の井有り。井の上(ほとり)に一の湯津杜樹(ゆつかつらのき)有り。枝葉(えだは)扶疏(しきも)し。時に彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、其の樹(こ)の下(もと)に就(ゆ)きて、徒倚(よろほ)ひ彷徨(たたず)みたまふ。良(やや)久しくして一の美人(をとめ)有りて、闥(とびら)を排(おしひら)きて出づ。遂に玉鋺(たまのまり)を以て、来りて当(まさ)に水を汲まむとす。因りて挙目(あふ)ぎて視(みそなは)す。乃ち驚きて還り入りて、其の父母(かぞいろは)に白(まを)して曰(まを)さく、「一の希客者(めずらしきひと)有(ま)します。門(かど)の前の樹の下(もと)に在(ま)す」とまをす。(神代紀第十段本文)
……忽ちに海神(わたつみ)豊玉彦(とよたまひこ)の宮に到ります。其の宮は城闕(かきや)崇華(たかくかざ)り、楼台(たかどのうてな)壮(さか)り麗(うるは)し。門の外に井有り。井の傍(ほとり)に杜樹(かつらのき)有り。乃ち樹の下に就(つ)きて立ちたまふ。良久(ややひさ)に一の美人有り。容貌(かほ)世に絶(すぐ)れたり。侍者(まかたち)群れ従ひて、内よりして出づ。将に玉壼(たまのつぼ)を以て水を汲む。仰ぎて火火出見尊を見つ。便ち驚き還りて、其の父(かぞ)の神に白して曰さく、「門の前の井の辺(かたはら)の樹の下に、一の貴客(よきまらうと)有(ま)す。骨法(かたち)常(ただひと)に非ず。若し天(あめ)より降れらば天垢(あまつかほ)有るべし。地(つち)より来(のぼ)れらば、地垢(つちのかほ)有るべし。実(まこと)に是(これ)妙美(まぐは)し。虚空彦(そらつひこ)といふ者か」とまをす。一に云はく、豊玉姫の侍者(まかたち)、玉瓶(たまのつるべ)を以て水を汲む。終に満つること能はず。俯して井の中を視(み)れば、倒(さかしま)に人の咲(ゑ)める顔映(て)れり。因りて仰ぎ観れば、一(ひとはしら)の麗(かほよ)き神有(ま)して、杜樹(かつらのき)に倚(よりた)てり。故、還り入りて其の王(みこ)に白(まを)すといふ。(神代紀第十段一書第一)
一書に曰く、門の前に一の好井(しみづ)有り。井の上(ほとり)に百枝(ももえ)の杜樹(かつらのき)有り。故、彦火火出見尊、跳りて其の樹に昇りて立ちたまふ。時に、海神の女豊玉姫、手に玉鋺(たまのまり)を持ちて、来りて将(まさ)に水を汲まむとす。正(まさ)に人影(ひとかげ)の、井の中に在るを見て、乃ち仰ぎて視る。驚きて鋺(まり)を墜(おと)しつ。鋺既に破砕(われくだ)けぬるに、顧(かへり)みずして還り入りて、父母(かぞいろは)に謂(かた)りて曰く、「妾(やつこ)、一人(ひとりのひと)の、井の辺(かたはら)の樹の上(うへ)に在(ま)すを見つ。顔色(かほ)甚だ美(よ)く、容貌(かたち)且(また)閑(みや)びたり。殆(ほとほど)に常之人(ただひと)に非ず」といふ。(神代紀第十段一書第二)
是の時に、鰐魚(わに)策(はか)りて曰く、「……必ず我が王の宮に至りまさむ。宮の門の井の上(ほとり)に、当(まさ)に湯津杜樹(ゆつかつら)有るべし。其の樹(き)の上(うへ)に就(ゆ)きて居(ま)しませ」とまをす。……時に豊玉姫の侍者(まかたち)有りて、玉鋺(たまのまり)を持ちて当に井の水を汲まむとするに、人影(ひとのかげ)の水底(みなそこ)に在るを見て、酌み取ること得ず。因りて仰ぎて天孫(あめみま)を見つ。即ち入りて其の王に告げて曰く、「吾(やつかれ)、我が王(おほきみ)を独(ひとり)能く絶麗(すぐれてかほよ)くましますと謂(おも)ひき。今一(ひとり)の客(まらうと)有り。弥復遠(おほく)勝(まさ)りまつれり」といふ。(神代紀第十段一書第四)
海神の宮の情景は、門があって井戸があってカツラの木が生えているようである。記紀の諸伝にその位置関係を整理すると次のようになる。
門 井 カツラ
記 到二其神御門一者、傍之井上、有二湯津香木一……〈訓二香木一云二加都良一、木〉
紀本文 門前有二一井一、 井上有二一湯津杜樹一、枝葉扶疏。……就二其樹下一、徙倚彷徨。
紀一書第一 門外有レ井。井傍有二杜樹一。乃就二樹下一立之。
紀一書第二 門前有二一好井一。井上有二百枝杜樹一。……跳昇二其樹一而立之。
紀一書第四 宮門井上、当レ有二湯津杜樹一。宜就二其樹上一而居之。
紀一書第三には情景描写はない。他の5伝はほぼ同様である。門のところに井戸があってそのそばにカツラの木が生えている。
カツラの木
登場するカツラの木については、樹種として何か、定めがたいところがある(注1)。和名抄に、「楓 兼名苑に云はく、楓〈音は風〉は一名に▼(𣜉の至の代わりに半)〈音は◇(▼字の偏が手偏)、乎加豆良(をかつら)〉といふ。爾雅に云はく、脂有りて香る、之れを謂ひて楓といふ。」、「桂 兼名苑に云はく、桂〈音は桂〉は一名に梫〈音は寑、女加都良(めかつら)〉といふ。」とある。説文に、「杜 甘棠(やまなし)也」とし、「棠 牡を棠と曰ひ、牝を杜と曰ふ」とある。いずれにせよ雌雄異株を表すようである。この海神の宮の門前の井戸そばにあるカツラは、何の木か。第一の候補として、カツラ科の落葉樹で、株立ちしながら大きくなって高さが30mにもなる高木があげられる。雌雄異株で丸みを帯びたハート形の葉が印象的である。材としては狂いが少なく、家具や彫刻、碁盤などに使われている。葉は抹香に利用される。葵祭では、フタバアオイとともに枝葉を牛車の御簾に飾っている。カツラ科は、系統のよくわからないことで有名で、原始的な科とされている。
第二の候補として、中国に桂の字を当てるニッケイ、また、モクセイがあげられる。淮南子に、月の中に桂の木と蟾蜍(ひきがえる)がいるという伝説を載せている。以来、中国では盛んに行われている(注2)。この考え方は本邦にも古く伝えられ、イザナキ・イザナミの黄泉がえりの話に影響しているかともされ、また、ツクヨミの説話とも響きあって月の満ち欠けの甦りの考えに結びついている。神格化ばかりでなく、万葉集では「月人(つきひと)」、「月読壮士(つくよみをとこ)」など擬人化もみられる。晦(つごもり)とは月籠りの約で、月末ないし晦日のことである。晦で月が消失しないのは、月が尽(盡)きると言っても、字の下部に皿がついていて受け止める、と解されていたかも知れない。水(?)が月と皿を行ったり来たりする。復活の聖水に当たる変若水(おちみず)伝説も、大陸に通じるものであるとされている。一度隠れこもって変身し、パワーアップして再生するというストーリーである(注3)。
目には見て 手には取らえぬ 月の内(うち)の 楓(かつら)の如き 妹(いも)をいかにせむ(万632)
黄葉(もみち)する 時になるらし 月人(つきひと)の 楓の枝の 色づく見れば(万2202)
天橋(あまはし)も 長くもがも 高山も 高くもがも 月読(つくよみ)の 持てる変若水(をちみづ) い取り来て 君に奉(まつ)りて 変若(をち)得てしかも(万3245)
天の原 い行きて射むと 白檀(しらまゆみ) ひきて隠せる 月読壮士(万2051)
筆者は、ここで説話化されているカツラは、上の2つの樹木の要素をともに取り込んだものではないかと考える(注4)。話として、彦火火出見尊(火照命)の精神(気分?)の復活劇であり、また、井戸そばの水気たっぷりの場所を提供してくれている。両者とも香りに関係し、抹香にすることもあり、秋の花のかぐわしい樹木である。そして、カツラ科のカツラは水気を好み、川岸や池のほとりなどで株立ち状の大木へと成長する。だから井戸のあるところにカツラの木が生えていて不思議はない。むろん、他の木が生えていてもいいのに殊更にカツラの木を押してくる。何か謂れのようなものがあったと考えられる。それは中国の伝説にのみ由来するものではなく、ヤマトコトバファーストの人たちに楽しまれ親しまれるものであったろう。そうでなければ人々の間に広まらない。
月のなかに蟾蜍がいて、月が欠けるのを蟾蜍が食べていると考える説もある。字の形から言えば、月の桂を蛙が食べて圭(かど)の字が移動しているといえる。記紀とも、カツラの木は門(かど)のところに生えていた。カエルは、月の見えにくい薄暮の夕方や朝方によく鳴くといわれている。「かへる」の名称は、卵が孵るからとされているが、卵生の生き物はカエルに限らず、いかにもあやしい説である。それでも、オタマジャクシからナマズになるのではなく、手足が生えてきて変態するところに印象づけられているとも思える。別名の「かはず」は、川の水が滴り落ちて生まれた生き物のこととされる。「楓」字を常用とする「かへで」いう木の名は、葉の形がカエル(カヘル)の手のようだからという。そして、秋にはみごとに紅(黄)葉し、変態を遂げている。カツラの木も黄葉が美しい。記では、カツラに「楓」字を当てている。



記・紀本文・紀一書第四の3伝で、「湯津」と冠している。カツラの木が記紀に登場しているのは、天若日子(天稚彦)(あめわかひこ)の説話に先行する。記や神代紀第九段では、高天原(たかまのはら)から地上世界を征服しに行く先駆け役の天若日子(天稚彦)が、国神(くにつかみ)の娘と懇ろになって反旗を翻す話がある。高天原側は雉を偵察に行かせる。
故、爾に鳴女(なきめ)、天より降(くだ)り到りて、天若日子の門(かど)の湯津楓(ゆつかつら)の上(うへ)に居(を)りて、委曲(まつばひら)に天つ神の詔命(おほみこと)の如(ごと)言(の)りき。爾に天佐具売(あめのさぐめ)、此の鳥の言(のりこと)を聞きて、天若日子に語りて言ひしく、「此の鳥は、其の鳴く音(おと)甚(いと)悪し。故、射殺すべし」と云ひ進むるに、即ち天若日子、天つ神の賜へる天のはじ弓・天のかく矢を持ちて、其の雉(きぎし)を射殺しき。(記上)
其の雉(きぎし)飛び降りて、天稚彦(あめわかひこ)が門(かど)の前(まへ)に植(た)てる植、此には多底屢(たてる)と云ふ。湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すゑ)に止(を)り。杜木、此には可豆邏(かつら)と云ふ。時に天探女(あまのさぐめ)天探女、此には阿麻能左愚謎(あまのさぐめ)と云ふ。見て、天稚彦に謂(かた)りて曰く、「奇(めづら)しき鳥来て杜(かつら)の杪に居(を)り」といふ。(神代紀第九段本文)
其の雉飛び下(くだ)りて、天稚彦が門の前の湯津杜樹(ゆつかつら)の杪に居(を)り、鳴きて曰く、「天稚彦、何の故ぞ八年の間(ころ)、未だ復命(かへりこと)有(まを)さぬ」といふ。時に国神有り。天探女と号(なづ)く。其の雉を見て曰く、「鳴声(ねなき)悪(あや)しき鳥、此の樹の上(すゑ)に在(を)り。射(いころ)しつべし」といふ。(神代紀第九段一書第一)
カツラの木を植え据えたらその梢にキジが坐りにきた、という洒落を表している。雉(きぎし、キ・ギは甲類)が「来(き、キは甲類)し」こととなっている。記と紀一書第一に、雉の鳴き声の悪いことをとりあげている。キジの鳴き声は、ケンやホロロと聞かれたことがあるが、キギスという呼び名からは、キ、ギと聞かれた可能性もある。そして、それら甲類のキやギについては、どちらかといえば汚い声と認められたのではないか。キーキー、キシキシ、キリキリと刮(きさ)ぐような音ではないかと推測される。刮ぐとは、こそぎ削ることで、記に「岐佐宜集而(きさげあつめて)」とあり、キは甲類である。そのキサグが擬音語に発していて、その音にキーキーといった音が仮定されるなら、それらはキ(甲類)と捉えられていた可能性が高い。中古に見られる「軋(きし)む」という語が上代に遡る場合には、キは甲類であろうと推定される。「聞(聴)く」という語もキ(甲類)である。耳に鋭いことを示す所以かと思われる。
湯津杜木(ゆつかつら)の杪(すゑ)
そんな雉が末端のスヱに止まっている。スヱという語には、末(季節なら季、子孫なら裔)、陶(須恵器)、下二段の動詞「据う」の活用形がある。スヱは、おしまいの、坐りのいい、動かないといった意味である。白川1995.は、「「すゑ」という音の語には、末と陶と須恵と「据(す)う」としかなく、その間に何らかの関係があるかも知れない。陵墓の周辺に据えたものを陶(すえもの)とよんだ。」(427頁)とし、何かを推察している。おそらく、「すゑ」という言葉には、いよいよもって最終的なおさまるところへおさまったという感覚が含まれているということなのではないか。そのようにほのめかされていると思われる。須恵器の画期的な特徴は、高温還元焼成の結果、中に入れた液体が容器から浸み出さず減らない点である。縄文土器、弥生土器、土師器と長い期間、どうしたらいいか思案工夫を重ねてきた。浸み出さない究極の土器が完成したと喜んだのであろう。最大の喜びは、大切な液体、酒の甕(かめ、メは乙類)にもってこいの点である。お酒は口で噛んで作られていた。すでに噛んでしまったものを入れておき、発酵させているから、動詞「噛む」の已然形カメ(メは乙類)をもって名詞とされ、納得がいった言葉として世に送り出されているようである。「据う」の已然形「すゑ」とは、適所に安定的に常置してしまったという意味に捉えられる。長いものの末端のところ、「本(もと)」に対していう「末(すゑ)」も、行き止まりの最終到達点的な意味合いがある。季節の移り変わりで表す「季(すゑ)」は、「孟(はじめ)」、「仲(なか)」につづく最後の段階である。「季春」の次は、「孟夏」へとよみがえっている。

須恵器の製作に当たっては、粘土紐を螺旋に積み重ねたものを轆轤を使って成形する。瓦に同じで、瓦は円筒状にかたどったものを紐で切って1枚としている。それまでは、確かに丸い器を作っていたが、轆轤で仕上げた完全な円ではなかった。技術の末を見る思いがしたことであろう。輪(わ)の完成である。記に、「鳴女(なきめ)」は「居(を)り」、紀に、「雉」は、「止(を)り」、「居(を)り」と訓んでいる。このラ変動詞がどうして生まれたかは不明であるが、「居(ゐ)る」にほとんど同義ながら他者の行為に使う場合、軽蔑の意を込めるところがある。天若日子(天稚彦)の話に、門(かど)とカツラの木は出てくるが、井(ゐ)は登場しない。そのことと「居(ゐ)る」ことにならないことは、関連があるのではないか。門番役も天探女、後の呼称はアマノジャクである。本稿でとりあげている海神の宮の話に、井(ゐ)が設定されているから「居(ゐ)る」ことになっていて、言葉の上で潤滑作用が働いていると考える。
ユツカツラのユツは「斎(ゆ)つ」、神聖な、という意味とされている。時代別国語大辞典に、「ゆ【斎】 形状言。ユ~・ユツ~の形で接頭語的に用いられ、斎(い)み清めた・神聖なの意を添えて美称をなし、またユニシ・ユマフ・ユマハルなどの語幹となっている。……同様の意のイがあり、それにも厳(イツ)という形がある。斎(ユ)ムはまたイムともいう。……イ・ユを冠する語は大体㋑植物名 (イ笹・イ槻・イツ橿・イツ柴・イツ藻、ユ笹・ユ槻・ユツ楓(カツラ)・ユツ真(マ)椿・ユツ五百篁(イホタカムラ))と、㋺神のために用意されたもの(イ籬・イクシ・イ杙(クヒ)・イツ瓫(ヘ)、ユ庭・ユ鍬・ユ甕(カ)・ユツツマ櫛)とにほぼ限定できる。㋑でも㋺でも、神のものとして清められ斎(いわ)われた意に解せるが、そこから㋑は神の物のように美しく繁茂したの意に、㋺は清らかなものの意に、すなわち美称として用いられる経路が開かれている。元来神に関連のある、信仰的価値に対して与えられたほめ詞が美称となることは、接頭語ミにおいても著しい……。」(776頁)と説明する(注5)。
㋑の植物名では、例えば、カラタチのような葉を落としても平気でいる植物は、繁茂しないからユツカラタチにはならないらしい。けれども、樹種によって神聖視された木なのかどうかではなく、当該樹木について該当するかどうか1本1本の個々の姿による(注6)。人里離れた山奥のほとんど誰も目にすることのない木が聖なる木であるかどうか、目にしないものに sacred もなにもない。何かしらの因縁によって、聖なる木か俗なる木かは決まる。いま、海神の宮の話をしている。誰も目にしたことのない場所の想像上のカツラの木について、聖なる木であると考えようとしている。それが相手に通じるということは、相手がユツカツラという音を耳にして、なるほどそうだと共感したということであろう。近代の教育とは異なり、そういう話なのだから分かりなさい、という高圧的な押し付けをもってしては、納得がいかない人には理解されず、記憶に残らず、伝承されない。
ユツカツラという言い方をする点は留意されるべきである。ユ(斎)という語が接頭語として冠する場合、ユ~と付く場合と、ユツ~と付く場合の2通りがある。
ゆ槻(つき)(「弓槻」(万2353)、固有名詞の山名とみる説もある。)
弓月岳(ゆつきがたけ)(山名、「由槻我高」(万1087)・「弓月高」(万1088)・「弓月我高」(万1816))
斎庭(ゆには)(神代紀第九段一書第二)
ゆ小竹(ささ)(「湯小竹」(万2336))
斎(ゆ)つ真椿(「由都麻都婆岐」(仁徳記、記57))
ゆつ磐群(いはむら)(「湯都磐村」(万22))
ゆつ爪櫛(つまくし)(「湯都爪櫛」(記上、神代紀第五段一書第六))
なぜ助詞のツが入るのか、両者に違いを引き起こす理由は知られていない。筆者は、語呂であると考える。イを冠する語のイツモ(厳藻)については、地名のイツモ(出雲)を連想させる駄洒落のネタとされている(注7)。ユツカツラにツの入る所以を語呂合わせと想定すると、ユツカ(弓柄)+ツラ(蔓)という音が聞き取れる。弓柄を左手(弓手)で握り、矢を右手にして番えて弦を引き絞って狙いを定める。弓張月というように、月との関係も指摘可能である。月の中にカツラの木があるという話が中国から伝わっている。蟾蜍がいるというのも、カエルが跳ねるように弓が撥ねるからと納得される。
鬘や老懸とのこと
カツラは、桂の木のことであるが、ウィッグ(付け髪)のカツラ(鬘、カヅラとも)や、髪飾りのカツラ(蘰、カヅラとも)と音が通じている。鬘と関係があって弓を射る体勢をとっている人は、門番の人であろう。随身門に飾られている矢大臣である。神社の随身門は一説に、仏閣の仁王門に倣って後代に作られたとされている。真偽は不明である。仏教の仁王もインド発祥ではなく、中国の辟邪の思想から生れて本邦にもたらされている。古く法隆寺中門の例などがあるが、儀軌によって仁王像が置かれたのではない。仁王が抵抗なく自然に受け入れられたことは、かえって、本邦の人々にも受け容れる素地が存在していたことを物語るように思われる。
矢大臣とは、神道大辞典に、「神門の左右に安置せらるる神像。闕腋の袍を著し、巻纓の冠を著け、剣を佩き弓箭を帯する故に其の称がある。豊石窓神・櫛石窓神をいふとも云ひ、また天孫降臨の時、天ノ忍日ノ命・天津久米ノ命の二人、天ノ石靭(いはゆき)を取り、頭椎(かふつち)の太刀を佩き、天波士弓(あめのはじゆみ)を取持ち、天真鹿児矢(あまのまかごや)を手挟み、御先に立て奉仕せし状を写したものとも云ふ。蓋し随身の形像か。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913359/222、漢字の旧字体は改めた。)とある。また、随身門(ずゐじんもん)は、同じく、「正面三間の門で両脇間に随身像を置く建物。随身とは俗に矢大臣、左大臣といひ、剱を帯し矢を負うた衛門の姿を示す。或は豊磐間戸、奇磐間戸の二神と伝ふ。……中世以降随身に替ふるに仁王を以てした例も甚だ多い。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1913348/184)とある。
随身は、警護のためのSP、ガードマンである。外出時の警護と、家宅の警備の役目がある。随身を常駐させて、門を守っている。その意味の確からしさはヤマトコトバに検証される。看督長(かどのをさ、かどのをさし)の存在である。平安時代、検非違使の下級職員で、獄舎の守護、犯人の追捕、京中の取り締まりに当たっている。その由縁は定かではないが、弓と太刀をもって警戒、警護に当たるのは、衛府にまとめられる以前からいた兵衛、衛士に同じである。


カドノヲサ(看督長)というのだから、カド(門)を番して警護に当たる人として納得しやすい。看督長という漢語に、ヤマトコトバに既存の、あるいはヤマトコトバとして構成されたカドノヲサという言葉を当てたと考えるのが妥当であろう。すなわち、神社の随身門なる名称として伝わる門を、守護する形で据えられている矢大臣に同じである。実際の警備兵と、彫像とを同一視して良いかとの疑問も生まれようが、いま問題にしているのは言葉である。言葉とは観念である。頭の中で識別区分して理解するために取られたカテゴリーを問うている。
矢大臣に造形化されている随身の姿は、武官の姿のうちでも正装し、威儀をただしたものである。冠に付けられて顔の左右を覆いかける緌(おいかけ)が特徴的である。和名抄に、「緌 兼名苑に云はく、緌〈儒誰反、蕤と同じ〉は一に老繋〈和名は冠乃乎(かがふりのを)、一に保々須介(ほほすけ)と云ふ。又於以加計(おいかけ)と云ふ。或説に老人髻落ちて、此れを以て冠を繋ぎ墜ちざらしむ、故に老繋と名づく也と云ふ。今老少を論ぜず、武官皆之れを用ゐる。〉と名づくといふ。」とある(注8)。衣服令・武官礼服条に、「皂緌」とあって、令集解に、「古記云。緌。謂此間俗意以可気(おいかけ)也。」とある。必需品とされて着けている。針金の輪に黒い馬の尾の毛を、末広がりに扇形にして編み付けている。老懸、老繋とも書く。着けると頬のところに当たるから「ほほすけ」ともいい、また、「釜取(かまとり)」、「鍋取(なべとり)」とも言う。キッチン用品のミトンのようなものと捉えられたらしい。ホホスケという呼び方のスケは、ノキスケ(軒)(注9)というように、覆うように先に伸びていることを表す語である。主人公は、紀に、彦火火出見尊と称されている。ホホ(頬)+デ(出)+ミ(見)と解するなら、緌によって頬を際立たせて目を光らせる武官、とりわけ随身像をイメージした命名と跡づけられる。
オイカケに、老いて髪が薄くなったことと絡めて面白がられている。その役目は、ウィッグと同様ということである。ウィッグは、鬘(かつら)である。だから、カツラの木が門のところに生えている。門は守衛さんが常駐し、または、それをかたどって随身門に矢大臣が鎮座している。随身は緌を着けていて、オイカケている。定年後の再就職で雇われているのが門番である。完全に老いてしまったら使い物にならないが、老いかけである。ふだんは暇を持て余す閑職で、適ごろの役目である。そんな門のところには、鬘と音が通じるカツラの木がふさわしい。葵祭の飾りにカツラの枝葉を鬘にするのは、祭の路頭の儀において、近衛使や検非違使が活躍することから起こった風習と推測される(注10)。
和名抄に、「髲 釈名に云はく、髲〈音は被、加都良(かづら)、俗に鬘の字を用ゐるが非ざる也。鬘は花鬘、花鬘は伽藍具に見ゆ〉は髪の少なき者、其の髪助けらるる所以也といふ。」とある。古典基礎語辞典の「かづら」の項に、「葛」・「蔓」・「鬘」の字をあげ説明している。「語釈」に、「①カミ(髪)ツラ(蔓)の約(kami+tura→kamtura→kandura→kadura)。古来、蔓草や植物を体や頭に巻きつけて物忌みしたことから、頭につける髪飾りをカヅラという。上代には青柳・あやめぐさ・稲・羽根・花橘(はなたちばな)・蓬(よもぎ)などいろいろのものが使われた。山葛・玉葛・花葛などもある。中古になると、賀茂神社の葵祭に、葵と桂をいっしょに髪や冠に挿し、また、社殿に飾ったりした。これを「もろかつら」という。……②蔓草の総称。信仰上の習俗として、髪飾りに蔓性植物を使用することから、蔓草全般をカヅラと呼ぶようになった。主に「葛」「蔓」と書く。……③薄くなった頭髪を補うためのつけ毛。かもじ。今はカツラという。主に「鬘」と書く。」(353頁、この項、赤間淳子。)とある。①の解釈のみに、カミ(髪)+ツラ(蔓)の約とされている。ヤマトコトバは用をもって名としていることが多く、①~③のすべてに通用する。意味の分別の仕方が今日の考えと異なるだけで、同じものと考えられていたから1つの言葉で簡潔にまとめられる。辞書では上代にカヅラと第二音を濁音とみるものが多い(注11)。中古、中世にその傾向にあるが、万葉集の仮名書きに、「加豆良」(万825・4035)、「可豆良」(万817・840・4086)、「可都良」(万3993)、「可頭良」(万4101)とある。「都」・「頭」は清音(ツ)、濁音(ヅ)ともに用いられている。筆者は、髪飾りに蔓を添えるものと、ウィッグとしてのものとを、同じ概念(言葉)として捉えたため、カヅラと音が濁らせて少し貶めた俗語が起きて広まったのではないかと考える。例えば、「小(ちひ)さし」からチビという語が作られたようにである。つまり、カツラ、カヅラのいずれも使われていた、ないしは、両語は洒落として通じ合うと思念されていたと考える。
カヅラのもともととろくろ
髪飾りまたはウィッグについて、記紀に先行する説話がある。伊耶那岐命(いざなきのみこと)(伊奘諾尊)が黄泉の国から逃げ帰る途中、伊耶那美命(いざなみのみこと)(伊奘冉尊)側の追手、予母都志許売(よもつしこめ)(泉津醜女)の気を逸らすために鬘を投げている。
伊耶那岐命(いざなきのみこと)、黒御鬘(くろみかづら)を取りて投げ棄(う)てたまへば、乃ち蒲子(えびかづらのみ)生(な)る。是を[予母都志許売(よもつしこめ)ガ]摭(ひり)ひ食む間(あひだ)に逃げ行きき。猶追ふ。(記上)
剣を抜きて背(しりへで)に揮(ふ)きつつ逃ぐ。因りて、黒鬘(くろきみかづら)を投げたまふ。此即ち蒲陶(えびかづら)に化成(な)る。醜女(しこめ)、見て採りて噉(は)む。噉み了(をは)りて則ち更(また)追ふ。(紀)
他に櫛や桃を投げて追手から逃れることになる(注12)。
黒い鬘が葡萄に変わったという話で、エビカヅラと呼ぶ点は、本居宣長・古事記伝に、「或人ノ云ク、此ノ物鬚(ヒゲ)ありて蝦(エビ)に似たる蔓草なる故に然(シカ)名くと云り、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/145)とあり類推が働いている。この鬚のあり様は、顎鬚ではなく、頬鬚を言っているのであろう。エビは左右に2本、鬚が巻いている。ツラ(面)にツラ(蔓)がある。武官の着ける緌に同じである。ノブドウ、ヤマブドウ、エビヅルなどの候補があるが、葉と対生して巻きひげが生えて絡みつく。そしてまた、ブドウ類の実が熟すときの色の変化と、魚介のエビを茹でたり焼いたりしたときの色の変化とを近似的に捉えたものであろう。中身よりも皮や甲羅のほうが変化が大きい。黒鬘を投げたというのも、残った中身は禿頭で肌色に光っていたことを言い表すようである。エビはブラックタイガーでさえ、茹でるとピンク色になる。カツラの木の黄葉に類推は働いている。わざわざ「黒鬘」と断っている(注13)。


カツラないしカヅラという語は、表に現れているところに変化が起こるもの、そして、皮が剥がれるものとする性質を有するものとわかる。大根に桂剥きという技法がある。円周を薄く削ぐように包丁を入れる。その桂剥きにして薄い皮状のものを重ね、細く切って千切りとする。刺身のつまができる。すなわち、桂剥きとは、大根のすべてを皮だと思って永遠に剥き続けることである。脇役のつまを作っている。白髪大根とも呼ばれる。カハ(皮)にあるべき髪が禿げて抜けているのは、桂剥きが起こっているからである。カツラの木は樹皮が自ら剥がれていく木であり、また、水気を好んでカハ(川)の側によく生えていることはその考えに導くものである。白髪ばかりというのも、桂剥きの結果のような老い方である。川上2006.に、「桂剥き大根は……意外にも明治時代に登場した料理の技法だった」(387頁)としながら、江戸時代の料理本に見られる「かつら料理」が何か定められないとする。筆者は、「かつらとは細切りのことのような気がする」(386頁)とする点に賛同する。カツラという不思議な名を冠するところは、カツラ(カヅラ)という植物か、カツラ(カヅラ)という髪飾り、ウィッグ類と関係があると見立てたとからであろう。
カツラの木は狂いの少ない優良材である。家具や仏像、碁盤、将棋盤などに使われる。木地師の腕の見せどころである。刳り物にしようと発想するなら、当然そこでは轆轤が使われる。和名抄・造作具に、「轆轤 四声字苑に云はく、轆轤〈鹿盧の二音、俗に六路(ろくろ)と云ふ〉は円く木を転がす機也といふ。」、「鋋 楊氏漢語抄に云はく、鋋〈辞恋反、又市連反、路久魯賀奈(ろくろがな)〉は轆轤の截る刀也といふ。」とある。轆轤で回転させ、轆轤鉋でどんどんえぐっていくと、上手に丸く削れて器ができる。狂いが生じないから割れることも少ない。轆轤の回転運動で鉋が薄く挽いていくところに、かつら剥きという表現の妥当性を見ることができる。轆轤挽きしたカツラ材の遺品としては、百万塔の相輪部分がある(注14)。細かい細工で多重の輪を描き、塔本体へとすっぽりとかぶせられるキャップになっている。塔の鬘である。

轆轤は、回転運動をする機械の総称である。ロクロは、漢字の音読みをもって通用している。円運動をする。橋本1979.の整理によれば、使用目的に、(1)動力の補助をなすもの、(2)円い焼物・挽物をつくる工作器具があり、軸の据え方に(1)縦軸、(2)横軸がある。

いまとりあげている工作機械の轆轤は、表の下部に当たる。本邦にいつからあるかについては、轆轤自体の残存例、出土例はなくても、轆轤挽きした木製品が見られることから古墳時代前期には使われているとされる(注15)。天若日子の記事に、雉がキーキー鳴いていたように解釈したが、木工で轆轤挽きする際も、鉋を当てるとキーキーと音が出る。「音」をオトと訓む理由について、新編全集本古事記に、「『記』では「音」はオト、「声」はコヱを表すのが原則。上代語では、生物の声であっても、単に無意味な音響として聞く時にはオトという。」(102頁)とある。古典基礎語辞典の「おと【音】」の項の「解説」に、「聞こえるものの響きや動物の発する音声。聴覚に届くことが意味の中心なので、音量的には大きな音声であることが多い。」(240頁、この項、筒井ゆみ子。)とあるのが正解であろう。キジの鳴き声が、轆轤挽きの音のようにキーキーと大きな音で聞こえたということである。その場面では、門(かど)とカツラが設定されていた。カツラの木は狂いの少ない轆轤挽きしやすい材であり、また、門は枢戸である。
今日、門の開閉は蝶番金物で行われることが多いが、古く扉は枢戸(くるるど)になっている。枢は、扉を軸によって垂直に支える装置である。下の蹴放(けはなし)ないし唐居敷と、上の楣(まぐさ)に穴を穿って軸受となる戸まらとし、そこへ軸元框(かまち)の上下の端に突起となる戸臍(とぼそ)をつけた門扉をはめ据えている。門と扉との関係は、門柱に添わせる形で別仕立ての方立(ほうだて)を付けており、躯体とは別個で門扉が閉ざされる構造になっている。この枢戸は、戸臍と戸まらによって支えられて成り立っている。雌雄がなければ成り立たない。カツラの木に雌雄がある点と重なる特徴である。
良久有二一美人一、排レ闥而出。(神代紀第十段本文)
闥の字は、小さい門のことをいうとされている。外開きらしい。大門の横に小さな片開きの門がついているものをいうのであろうか。ずいぶん凝った造りになっている。枢のおかげである。戸の回転が滑らかにできることは、門(かど)が門(かど)として機能することに他ならない。轆轤を使って軸部分が正円に刳ったり尖らせたりされていたか、あるいは、轆轤と同じように回転運動をすることで機能している点が強調されている。不思議さに見入っているらしい。家の領域の先端としての「稜・角(かど)」、才気ある興趣を示すところとしての「才(かど)」であるといえる「門(かど)」となっている。開けたり閉めたり、開いたり閉ざしたりがキーキー鳴りながらうまい具合にできている。キーキー鳴る轆轤のことが身近に感じられるからくりが、家の門口に据えられてあった。



以上が、海幸・山幸の話の第二場面、海神の宮の門の前に井戸があって側に神聖なカツラの木が生い茂っていることの所以である。お決まりの状況設定が行われていて、誰の耳にもそのとおりであろうと受け取れるものであった。言葉が自己循環的に使用されて説話の舞台が整えられている。このように、記紀の説話は必然性をもって語られている。いわばヤマトコトバの用例として、記紀の話は作られている。辞書を繰って確かめるかのような文章が続いている。そういう言葉なのだから、そういう話になるよね、という当たり前を、人々に語りかけ、聞いた側も確かにその通りだね、と得心が行き、次の人に伝えていくことになっている。これが無文字文化の言葉の智恵である。記紀の説話を“読む”という作業は、事程左様に深いものである。その後の話の展開については、稿を改めて論じる。
(注)
(注1)大系本日本書紀に、「杜木は、カツラ。多く門前に植えた。天神の降下する際に、カツラの木に降下し、またカツラの側に立つことが多い。杜は、説文に「甘棠(やまなし)」、爾雅に「杜、赤棠、白者棠〈棠色異、異二其名一〉」、「杜、甘棠〈今之杜梨〉」とあり、名義抄にはユヅリハの訓がある。杜木をカツラと訓むのは、桂と杜との誤用によるらしい。甘棠とは別のもの。」((一)113頁)とある。当たり前のことであるが、ヤマトコトバを記述するに当たって漢字を利用したにすぎない。漢字が表す中国の樹種や魚種に、本邦と異なることが多いのは、よくわからずに間違えたのではなく、それぞれの種を表すヤマトコトバにこの字を当てようとヤマトの人が決めたからそういうことになっている。一種の国字と考えれば了解されやすいであろう。
当時権威ある漢漢辞典は、説文や玉篇である。説文には、「梫 桂也」、「桂 江南木、百薬之長」、「棠 牡曰レ棠、牝曰レ杜」、「杜 甘棠也」、「楓 木也、厚葉弱枝善揺、一名𣠞」と書いてある。いま、株立ちして高くそびえたつカツラの木が門(かど)のところに生えている。それを表現したい。門は出入りするところであるが、稀に出入りを拒むところでもある。杜絶することのある場所で、まもるところ、まもるとはマ(目)+モル(守)の意である。新撰字鏡に、「杜 𢾖字同、徒古反、塞也、閑塞也、歰也、毛利(もり)、又佐加木(さかき)」とある。神さまがいらっしゃるところは、樹木の茂ったモリ(杜・森)である。やがてそれとわかる建物を造ったものはヤシロ(社)である。木偏が礻偏にかわっても、地主を祀る土盛りを表す「土」字形があってわかりやすい。ヤマトコトバにわかりやすいように、「杜」字にモリと、いわゆる和訓を行っている。
モリは、鎮守の森のように神域とされている。本邦の古い祭礼形式では、小さな土盛りに木を植えたり竹笹の類を刺すなどし、それをモリと呼んだ。神の宿るところの意味で、結界をむすんで入れないように杜絶する。今日でも地鎮祭にみられる。ふつうの地と区別するために杜や社の字を用いた。地の字は平らにのびた土地を表す。その上に、土盛りをきちんと行ったところが境界の役割を担って正しいと知れる。土+土=圭である。圭はカド(稜)のこと、カド(門)は家のかどである。ふだんは自由に通れるのに、非常の際や不審者、敵対者は通行を断られる。急にとげとげしくかどだてて咎められる。そこに木を植えたのだから、樹種がカツラであったら「桂」字はカツラと訓むことになる。「桂」字が中国にモクセイやゲッケイジュ、ニッケイに当たることとは無関係で構わない。ヤマトコトバファーストで編まれている。
(注2)楠山1979.に、「月中に兎が住むという所伝は、早く『楚辞』天問にあるが、その兎が仙薬を擣いているとすることは、晋の傅玄の作という「擬天問」あたりが初出らしい。おそらく頭初は、月の陰影を空想して、或は蟾蜍といい、或は兎と称したのであるが、その後姮娥奔月の物語が流行するようになって、その兎に薬擣きをさせるようになったのではなかろうか。一方、月の桂の物語は、同じく晋の虞喜の「安天論」に見える。「擬天問」と「安天論」と、ともに『太平御覧』巻四所引の資料であって、その信憑性には問題もあるが、いずれにせよその所伝の、おそくとも六朝初期に遡ることは確かなようである。」(319頁)と解説されている。
(注3)井上2016.に、「「変若水」の思想は、どうやら日月とともに普段(ママ)に更生される力の信仰から出たのではなく、もっと表層の、知識人の神仙思想受容という基盤のうえに組み立てられた。……『万葉集』ではなぜ仙薬ではなく、「変若水」なのか。それは[元正天皇が行幸した]養老の醴泉を「変若水」と見立てたからであろう。」(280頁)と考証がある。行幸した養老の滝、あるいはその近くの泉をもって変若水と捉えられているようであるが、固有名詞の普通名詞化としてあるなら、言葉が一般化の影をとどめない点に不審が残る。養老の滝は、今日、一条の滝となって流れている。ヲチ(条)としてある。ヲチ(条)+ミヅ(水)である。つまり、ヲチミヅ(変若水)という言葉が先にあって、それを知っている人が養老の滝を目にすれば、なるほど養老の滝の水はヲチミヅ(条水)なのだから霊験あらたかなヲチミヅ(変若水)であると理解されたであろう。元正天皇とて、同じヤマトコトバを胸に生きている。目にしたとき、喜んで「見立てた」に違いない。そして改元している。これは、「表層の、知識人」に限られる事柄ではない。中国の神仙思想の影響が事の発端としてあったにせよ、受容する際に、ヲチミヅというヤマトコトバとして受け止めている。ヲチ(変若・復)という言葉は、ヲトコ(男・壮士)、ヲトメ(乙女・処女)と同根の語とされている。ヤマトコトバである。
いま、火遠命(彦火火出見尊)の復活劇として話を展開しようとしている。それに一役も二役も買うのが、海辺にいた塩椎神(塩土老翁・塩筒老翁)である。シホツチノヲヂがどうしてヲヂなのかについて、年長者がよく道を知っているからである点は、拙稿「無目堅間(まなしかたま)とは」に述べた。その「老翁」をどうしてヲヂと言うかについて、新編全集本日本書紀に、「一般に「老」は年齢的に「大」なのでオホ・オとア行のオで呼ばれるはずであるが、これを「少・若」の意のワ行のヲでヲヂ(小父)と呼んでいるのは、「老翁」を親しんでの気持ちからか。」(①146頁)とある。オホヂから転じたオヂ(祖父)とは別語である。父や母の兄弟のことを指すヲヂ(叔父・伯父・……)という語もある。オバ(叔母・伯母・……)の対語である。古典基礎語辞典に、「年老いた男性の意のヲヂの仮名遣いは「を」であり、年老いた女性の意のオバの仮名遣いは「お」で相違している。事例が少ないので断定しがたいが、何らかの混乱によるものと思われる。」(1363頁、この項、金子陽子。)とある。
筆者は、海幸・山幸の話における塩土老翁の役割を見るに、復活(ヲチ)の力を授ける知恵を有する存在として認めたかったからと考える。そのために、海の彼方の遠いところ、ヲチ(遠)なる海神の宮へ訪問することが要件として与えられている。かわいい子には旅をさせよである。ただし、その旅は本物でなければならない。モンテーニュ1965.に、「誰かがソクラテスに向かって、誰それは旅をしても少しもよくなっていない、と言うと、「そうだろうとも。あの人はあの人自身を一緒に持って出かけたのだから」と言った。」(52頁)とある。ヲチ(復活)できるようヲチ(遠方)へ生かせた人は、ヲヂ(老翁)であったという語りである。ヤマトコトバとして、オバと対になっていないと音韻に“合理性”を求めるようでは、上代人の知恵から遠ざかってしまう。今日のことは詳しくないのに、昨日よりヲチ(以前)のことや明日よりヲチ(以後)のことをなぜか知っていて、ヲチ(復活)のできない固陋さを煙に巻くのが、社会におけるおじさんの役目である。教育社会学に、近代における子どもの抱えるディレンマと「社会的オジ」の諸相についての論考が、亀山2001.にある。ヤマトコトバにヲヂとしてすでに造形されており、ヲヂ力の提示は塩土老翁の説話に尽くされている。海幸・山幸の話がこの部分で唐突に塩土老翁が登場して違和感なく語られているのは、すでに「社会的オジ」の存在が定着していたからであろう。塩土老翁は時間を超越した存在といえる。
(注4)『広辞苑 第六版』は、江戸時代に渡来したとされるフウの古名として、「若楓」(万1359)を用例に載せている。決定的な同定はできないようである。また、真福寺本古事記の割注部分は、「訓香木云加都良木」となっている。カツラギ(キ・ギは乙類)と続けて訓む可能性もあるが、地名の葛城(かづらき、ギは乙類)との関連が筆者には今のところ理解できない。通説にしたがって「カツラと云ふ、木なり」としておく。
(注5)本居宣長・古事記伝に、「○湯津楓(ユツカツラ)、湯津(ユツ)は五百箇(イホツ)にて、……此(ココ)は枝の繁きを云、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/321)とある。ユツに「斎つ」の意を認めていない。
(注6)古代に“聖樹”の存在したとする説がある。しかし、巨樹にシンボルとなることがどういうことか、議論は曖昧である。象徴としての樹木という考え方が、トーテミズムによるものなのか、あまりの大きさに仰天して称賛するものなのか、ランドマークとされたものなのか、詳しく検証されているわけではない。例えば、三宅2016.には、「『古事記』『日本書紀』『風土記』の巨樹伝承から、巨樹は伐採された後も呪力が継承され、船・塩・琴・新羅の猪名部・仏像といった異界とのつながりがあるものに転用されると観念されていた。」(35頁)とある。大きな木を切り倒して材としていろいろな用途に使うことができるのは、当たり前のことである。「呪力」を持っていて「異界」とつながると「観念」されていたとして、それはヤマトコトバに何と呼び、何と書かれているのか、記紀や風土記に不明である。現代人の頭の中だけでの再構成に思われる。
また、辰巳2015.178~179頁には、「海石榴市(つばいち)の名の由来は、市を象徴する艶やかな緑の葉をもつ椿にあり」、「阿斗桑市(あとくはのいち)」は「桑をシンボルとしていたことは確かで」あり、「餌香市(えがいち)では橘が聖樹だったと雄略紀にみえ」るとする。市は常設ではなくテントを建てて行われ、終わったら完全撤収していたと考えられる。目印に木を利用したに過ぎない。木を中心に露店を開くと決めたら、いかに中心の人通りの多いところで出店するかに売り上げはかかってくる。紀に、「天皇、歯田根命(はたねのみこと)をして、資財(たからもの)を露(あらは)に餌香市辺(ゑかのいちべ)の橘の本(もと)の土(ところ)に置かしむ。」(雄略紀十三年三月)とある。大系本日本書紀に、「古代の市は露店であるため、樹蔭を必要としたらしい。」((三)71頁)とある。
(注7)拙稿「出雲神話は、イツモという音をもととす」参照。
(注8)和名抄のオイカケの語説の真偽は不明である。言葉なのだから、立法の主旨や用語の定義にその正しさが求められる一方、大喜利の洒落や頓知、謎掛けに用いられることも重要である。言葉の持つ“大喜利”性を排除し、利用法ばかりを重視する職業は、近い将来ロボットに取って代わられる。言葉において、言葉自身の正否を問い求めることは、ゲーデルのいう不完全性に陥る。それを逆手にとって循環的に解説を試みるほどに、ヤマトコトバは“遊び”作られていると考える。
神祇拾遺に、「閽神 件神、或ハ門閽神ト云。或ハ善神王ト云。或随身ト云。或門客トモ云テ、由来コト不レ明レバ、人々モ難二心得一シテ、徒ニ過コト也。共ニ高木神ノ御子ナレバ、其寄モ尋常ナルベカラズ。神代ノ昔、天孫ヲ下奉ントシテ、左右ニ添申サルヽ忍日来目ノ二神ヲ模(手偏)タルコト也。仍手ニ弓ヲ取リ、背ニ岩靫ノ形アル。天神ノ外安置無益ノコトナルベシ。」(『続群書類従第三輯上』76頁。漢字の旧字体、仮名などは適宜改め、返り点を付した。)、神社一覧・第一に、「問、閽神ハ何ノ義ゾヤ 答、門守也、凡千木、加二棟木一、閽神等ハ其神ニ応ジテ立ベキ事也。中国ノ俗ノ是ヲ門客人(カドマラウド)ト云ヘリ。衣冠ノ体、黒赤ノ色、五位上ノ装束ニシテ緌ヲシ、矢籠ヲ負、弓矢ヲ持セタリ、是誤也ト云々。仇々シク難レ云。」(『続々群書類従第一』233頁。同上変更有り。)とある。
(注9)新撰字鏡に、「枌◆(枌の刀の代わりに力) 二形作、符分反、楡也、須木(すき)、又屋乃衣豆利(やのえつり)、又乃木須介(のきすけ)」とある。和名抄に、「棉梠 文選に云はく、鏤檻文㮰〈音は琵、一音に篦、師説に文㮰は賀佐礼留乃岐須介(かざれるのきすけ)〉といふ。楊氏漢語抄に云はく、棉梠〈綿呂の二音、和音は上に同じ〉は一に萑梠と云ふといふ。」とある。垂木の先の横木である。
(注10)桂女(かつらめ)と呼ばれた人がいる。山城国の桂の里に古くから住み、巫女(みこ)的な役目をかってでた人たちであった。京の貴族宅に出産などの祝い事がある時や、出陣などの運命のかかる時に出向いて行って祝詞をあげたり、婚礼の行列を賑やかすのに新婦の輿を先導したりした。普段は独特な風情で頭を布で覆い、鮎や飴などを売り歩いたとされている。女系相続で明治維新に至ったという。
謎の風俗としか言えないながら、新婦の先導役を果たす点は随身の女性版とも考えられる。頭を布で包んで前に結んで両サイドへ緒に垂れる奇妙な頭巾姿は、緌(おいかけ)に相当するものかも知れない。老いかけた女性だから頭をくるんでいるのであろうという次第である。男女に随身が必要とされることは、井戸のそばに生えているカツラの木が、どのような植物か同定しきれないにつけ、雌雄異株の性質を持つと解説されているからということになる。
能や歌舞伎の小道具、鬘桶は、円筒形の黒漆塗りの桶で、舞台上では腰掛けに使われている。よく似た八角形のものが、貝桶である。老いかけの塩土老翁は、火照命(彦火火出見尊)の行く末を占うように導いた。そんな話の経緯を聞き及ぶにつけ、古く葛野(かどの)と呼ばれた地の、桂(かつら)と呼ばれたところの人は、塩土老翁の真似事のような振る舞いをして生計を立てることとなったのではないか。門付しているのは、門守神(かどもりのかみ)としての随身に対応し、鮎を売り歩いたのは鮎が占いの魚とされたから、飴(あめ、メは乙類)については、すでにきちんと編んでしまった籠、無目堅間(まなしかたま)を強調する語としての、「編む」の已然形「あめ(メは乙類)」と音が通じるからであったのではないか。
この仮説が了解の内に入るなら、風俗に先駆けてヤマトコトバが存在した、すなわち、ヤマトコトバというテキストの具現化が、まるで物語を絵画化するかのように、ヤマトに暮らす人のなりわいに転じていたことを意味する。それは決して不思議なことではない。上代の無文字文化に生きた人々にとっては、言葉と事柄とは不可分のこと、いわゆる言霊信仰の真髄の発露と考えられるからである。
(注11)岩波古語辞典、古典基礎語辞典、白川1995.角川古語大辞典、中田1983.もカヅラとする。日本国語大辞典は、カツラの項にあげてカヅラとも言うとしている。
(注12)坂下2002.に、「黄泉醜女の「摭食」を、「摘(つ)み取って、食べた」とするのではなく、むしろ「摘(つま)みつつ食べた」と解するべきだと考える。」(52頁)とある。確かに一粒一粒摘んで食べたことに相違はないが、「こんにちわれわれが「ぶどう」を食する」(53頁)のと同じように、無作為に連続してつまみ食いしていったのではなかろう。万葉集に、海岸で「玉」や「貝」を拾うときにヒリフと表現されているのは、手指を使って1つ1つ摘んでいくものである。その際、自ずと美しいもの、珍しいものを選んで、それだけをチョイスする行為になっている。言い換えれば、選ばずに捨てるものがたくさんある。エビカヅラノミにおいても、黒御鬘(くろみかづら)の色変化(禿頭のピンク色→黒髪色)に対照的な点、熟すときに一律には熟さずに色が変わって行っている点を指して言っていると考えられる。黒御鬘は投げられているから、それの変化した蒲子(えびかづらのみ)は地面に落ちており、その房のなかには、黒く熟しているものもあれば、まだ食べ頃ではない薄紅色のものも含まれているから、熟したものだけを選んでつまみ食いをしている。それを「摭ひ食」んでいる。以上のことから、古代のウィッグとしての鬘は、いくつかの黒髪の房を束にして頭に装着したものであったと推測される。
(注13)本居宣長・古事記伝に、「此(ココ)に黒(クロ)とあるは、色以(モ)て云フなるべけれど、何物にて如何(イカ)ニ作(ツク)れりとも知がたし、……蒲子(エビノミ)の成れるに就(ツキ)て思へば、此ノ鬘のさま、蒲萄葛(エビカヅラ)に似て、玉を垂(タレ)たるが、彼実(カノミ)のなれる形(サマ)にや似たりけむ、色の黒かりけむも、彼ノ実(ミ)によしあるにや、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/145)とある。
(注14)金子1991.に、「百萬塔の用材は単純な塔身部がヒノキを、細かな工作を要する相輪部が、サクラ属やサカキ、センダンなどを用い、いずれも大径木を挽いている。」(93頁)とある。
(注15)須藤2010.参照。須恵器の製作では、轆轤により成形された。そのあり様は、木立2017.に、蹴ロクロではなく手回しロクロであったと整理されている。なお、轆轤(ろくろ)という言葉については、話の後段にある虚空津日高(虚空彦(そらつひこ))と深くかかわってくる。稿を改めて論ずる。
(引用・参考文献)
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(English Summary)
A Study on the Setting of the Sea Palace in Narrative of Koziki and Nihon Shoki
In this paper, we will consider the setting about the palace gate of the sea deity in narrative of Koziki and Nihon Shoki. Why is there a well in front of the gate of the sea palace, and the ‘Katsura' tree grows? Such research has not been done so far. However, in the era when we did not possess writing, we passed down only the contents that one can imagine each other with only spoken words. In other words, it can be said that the setting itself of the situation of anecdote represents that concept. In so-called Japanese myths, we must recognize that the story is progressing while defining words in words.
※本稿は、2017年12月稿、ならびに2018年1月稿を2020年8月に整理したものである。