古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

古事記の「天津日高日子」・「虚空津日高」の「日高」はヒコと訓むべき論

2017年12月18日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 天孫の名は、「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命」(記上)、略して「天津日高日子番能邇々芸命」、さらに略してホノニニギの、「天津日高日子」部分を何と訓むかについては議論がある。日本書紀に、「天津彦々」にあわせてアマツヒコヒコと訓む説と、「高」字は「高天原」にあるようにタカと訓みたいから、アマツヒタカヒコと訓むべきだとする説である。ホノニニギの子に当たる「虚空津日高」(記上)についても、紀には「虚空彦」(神代紀第十段一書第一)とあるからソラツヒコと訓むべきか、ソラツヒタカであろうとする説がある。
 新編全集本古事記に、「天津日高日子」、「虚空津日高」の「高」について、タカと訓んでいる。「虚空津日高」の名義について、「日を仰ぎ見る如く貴い、中空なる神の意。ソラツヒコと読むのが通説だが、『記伝』に従い、「高」の字のままにソラツヒタカと読む……。火遠理命は天津日高日子穂々手見命とも呼ばれる……。「日高」は、天空の日を高く仰ぎ見る如く貴い、という意の称辞。「天津日高(あまつひたか)」と「虚空津日高(そらつひたか)」とは、ヒタカを核心として、アメ・ソラを冠したもの。天に属するという正統性を示す時にはアメを冠するのであり、ソラは地上世界との相互的なかかわりにおいて呼ぶ時に用いると考えられる。今、ソラを冠するのは、降ってきた高千穂の地に宮を構えているからである。後に「日子穂々手見命は、高千穂の宮に坐すこと……」とあるとおり……。これを陸地からあおいでソラという。」(126頁頭注)、「天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇々芸命」の名義について、「……通説では、「天津日高」の「高」を音仮名コとしてアマツヒコと読むが、『書紀』神代下の「天津彦」に強いて合せたに過ぎず、『記』で、訓字の連続中に特別の配慮もなく音仮名「高」をはさむことは、考えにくい。」(113頁頭注)としている。「高目郎女」(応神記)についても、「「高目」は『書紀』応神二年三月の「澇来田(こむくた)皇女」に合せてコムクタと読まれたのに従った。ただし、『記』の用字法からいえば、タカメと読むべきか。」(同257頁頭注)とある。また、「丸高王」(継体記)についても、「「丸高」は、『書紀』継体元年三月の「椀子(まりこ)皇子」を参照して、マロコと読むのが通説だが、『記』の用字法に即してマロタカと読む。」(同373頁頭注)とある。狷介なことである(注1)
 本居宣長・古事記伝に、記の「高」字をタカと訓んでいる。「……此ノ御名を日本紀には、天津彦々云々とあるを以て、此ノ日高を、比古(ヒコ)と訓べしと云人あれど、こゝは天ノ字より子ノ字までは、皆訓なるに、高ノ字一ツのみ音に訓べき理りなし、海神ノ段の日高も同じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/346(367/600))、「虚空津日高と称(マヲ)す所以(ユヱ)は、虚空(ソラ)は、天(アメ)と地(クニ)との中間(アヒダ)なる故に、天津日高に亞(ツギ)て尊(タフト)み申す御称(ミナ)なるべし、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/346(428/600))とある。
 整理すると、記では、「高」字はタカと訓む例が多いこと、「天津日」と書き分ける理由がわからないこと、タカ(高)の訓義を当てると天空の日を仰ぎ見るようで貴く感じられること、といった理由でタカと訓みたいと考えたようである。
 けれども、早く金石文から「高」字についてコ(甲類)と訓むべき音仮名が使われている。記紀や万葉集にも用例がある。

 高志国(記上) コシノクニ
 丸高王(記下) マルコノミコ(マロコノミコ)
 越蝦夷伊高岐那(天武紀十一年四月条) コシノエミシイコキナ
 高麗加西溢(天寿国刺繍帳銘) コマノカセイ
 高麗〈古万〉(廿巻本和名抄) コマ

 「高麗」と記してコマと読むことに通行しているが、どうしてそう読むのか未詳である。越(こし)の国のことを「高志国」と記されている点について、「高志」はコシとしか訓めないから確かと言える。記にはほかに、「高田」と書いてアゲタと訓む例もあり、ヤマトコトバの音にどのように文字を当てるかに苦心惨憺している。漢字にどのようにヤマトコトバを当てるかに努力したわけではない(注2)
 また、「そら(空)」という語について、白川1995.に、「「あめ」と「つち」との中間の、空漠としたところをいう。隆起することを「そり」といい、ソはともに甲類であるから、同根の語であろう。天空を意味するが、また不安定な状態をいうのにも用いる。空は茫漠としており、もと実体のないもの、真実性のないものの意から、虚(そら)の意となる。中途半端なことを「そら」「そらぢ」という。」(441頁)とする。時代別国語大辞典には、「①空。空中。天。……②ぼんやりしたこと。心が虚脱状態にあること。よりどころのないこと。……③心地。……④表・上の意か。……」(407頁)の語意をあげている。本居宣長が考えるように、アメ(天)のつぎにソラ(虚空)を尊ぶべきものとして言葉が捉えられている様子はない。皇太子がソラでアメにつぐとするから、皇太子という地位は安定したものではなく、立てられていたとしても天皇の崩御後に豪族たちが反旗を翻したら、位を継ぐことができないでいた。それを表わそうとして、茫漠たることをもってソラツヒコと言っているというのはブラックユーモアに過ぎる。少なくとも、「虚空津日高」のソラを、天上世界と「地上世界との相互的なかかわりにおいて呼ぶ時に用いる」言葉であるとは認めがたい。上代にそのような用例はない。現代でもそのようには使われていない。天皇陛下に対して空皇陛下と皇嗣様を呼んでいない。
 筆者は、当該「高」をコ(甲類)と訓んで正しいと考える。それも、本居宣長が紀の「彦々」に当たるヒコヒコを「日高日子」と書き分ける必要性を認めていない点に反対して、必要であると考えている。上代語に、ヒコ(ヒ・コは甲類)に二義あるからである。第一は、彦と記される男子の称である。第二は、孫と記される grandchild のことである。

 彦 比々古(ひひこ)(新撰字鏡)
 彦舅、此には比古尼(ひこぢ)と云ふ。(神代紀第一段一書第三)
 孫 爾雅に云はく、子の子を孫〈尊反、和名無萬古(むまご)〉と為すといふ、一に〈比古(ひこ)〉と云ふ。(廿巻本和名抄)
 孫 音尊、ムマコ、鄙語云ヒコ(観智院本名義抄)
 曽孫 爾雅に云はく、孫の子を曽孫〈曽疎也。和名比々古(ひひこ)〉と為すといふ。(和名抄)
左: 御巫本日本書紀私記(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1191604(11/86))、右:観智院本名義抄(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2586897(74/79))
 時代別国語大辞典に、「ひこ(ヒ・コは甲類)[彦・日子](名)男子のこと。……【考】「男子」(記神代)「男王」(記孝霊)はヒコミコと訓まれているが、ヒコが男子の意味で独立して使われることがあったかどうか疑わしい。多くは男神の名につけられている。これにはヒコが上につく形の方が古いという。ヒは、ヒメ・ヒトのヒと同じ。コは子の意。」(607頁)とある。「独立して」というニュアンスは境目がないから、「男星(ひこぼし)」(万2052)のような例は認められている。また、同書には、「ひこ(ヒ・コは甲類)[孫](名)孫。子孫。……【考】……前項ヒコと関係が深い語と思われる。」(608頁)とある。筆者は、関係は深いかもしれないが、ヒコ(彦)は男性、ヒメ(姫)は女性なら、女の孫はどうなるのか戸惑ってしまう。また、同書では、「ひこえ(ヒ・コは甲類、エは乙類)[孫枝](名)枝からさらに分かれた細枝、あるいは梢。ヒコは孫(ヒコ)で、分出・派生したものの意か。」(同頁)をあげている。新撰字鏡に、「杪 亡少弥少二反、上、木末也、木細枝也、梢也、木高也、木乃枝、又比古江(ひこえ)」とある。
 杪のヒコエを孫枝ととる考えに納得できない。新撰字鏡には、「荑 往芳以脂二反、平、梓也、紛也、死木更生也、比古波江(ひこばえ)、又山阿良々支(やまあららぎ)」とある。刈り取った稲からさらに青い茎を出しているのはひこばえである。山で柴刈りして、刈られた脇から新しい枝を出していく伐採と萌芽の跡が里山の光景であった。カツラのように自らひこばえを成長させて株立ちしやすい樹種もある。そのヒコエ、ヒコバエを、子を飛ばして grandchild の意と捉えることはできない。実生は子と考えられ、実生のさらに実生が孫のはずである。納得の行かないことは言葉に通用しない。実生が受粉によること、植物にも雌雄があることがわかっていて、子が生まれるには必ず母親の膨れるお腹が必要で、それを経ずに新芽が出ている点をもって男のみによる繁殖力を見たのであろう。したがって、ヒコエ、ヒコバエとは、彦枝、彦生えの意であると捉えられていたと考えられる。ヒコ(孫)とヒコ(彦)とでは、明らかに異なる点を持っている。
 太安万侶は、その両者を並び立たせた語を名前としていると認識して、仮名書きに書き分けたのではないか。すなわち、「天津日高日子」の訓義は、アマ(天)+ツ(助詞)+ヒコ(孫)+ヒコ(彦)の意、「虚空津日高」の訓義は、ソラ(虚空)+ツ(助詞)+ヒコ(孫)の意である。紀には、海神に報告するのに、「虚空彦といふ者か。」(神代紀第十段一書第一)とありながら、続く「一云」に、「吾は是天神(あまつかみ)の孫(みま)なり。」と火火出見尊自身が答えている。ミマは高貴な方の grandchild、あるいは、descendant ということになる。つまり、ソラツヒコとは、「虚空孫」と記した方が適切らしいと主張しているのである。このヒコ(「彦」と「孫」)には、上代に確かな証拠はないものの、平安時代以降の声点の付され方からアクセントの違いが見えてくる(注3)(注4)

 長髄彦
  奈加須祢乃比古 平平平上平上上(私記丙本・120頁)
 可美葦牙彦舅尊
  ウマシアシカヒヒコチ 平平平上上平平上上平(兼方本巻一・上の10頁)
  ウマシアシカヒヒコチ 平平平○○○○上上平(兼夏本巻一・一の10頁)
 彦舅
  比古尼 上上平(兼方本巻一・上の11頁)
  比古尼 上上○(兼夏本巻一・一の10頁)
  比古尓 上上上(御巫本私記・158頁)
 陽神
  ヒコかみ 上上○○(兼方本巻一・上の16頁)
 男神
  比古加見 上上上上(御巫本私記・174頁)
 天津彦根(命)
  アマツヒコネ ○○平上上平(兼方本巻一・上の64頁)
  あまツヒコネ ○○平上上平(兼夏本巻一・一の95頁)
 活津彦根(命)
  イクツヒコネ ○○上上上平(兼方本巻一・上の64頁)
  イクつヒコネ ○○上上上平(兼夏本巻一・一の81頁)
 天稚彦
  安女和加比古 平上平平上平(御巫本私記・196頁)
 味耜高彦根(紀2歌謡)
  阿泥素企多伽避顧祢 上上上平平平上平平(兼方本巻二・下の28頁、兼夏本巻二・二の32頁、宮内庁本巻二・一の34頁)
  阿泥素企多伽避顧祢 上上上上平平上上平(御巫本私記・202頁)
 彦狭知(神)
  比古左茸里 上上上平○(最初の上は別に東点、最後の○は別に徳点有るか、御巫本私記・207頁)
 光彦
  天留比古 平上上平(御巫本私記・210頁)
 彦波瀲武鸕鷀草葺不合(尊)
  ヒコナキサタケウカヤフキアハセス 上上平平平平平平平上上平平平上平(兼夏本巻二・二の88頁)
 磯城津彦玉手看少子也
  志岐津比己太末氐美乃乎止牟須女奈利 上上上上上平平平平平平平平上上上平(私記丙本・137頁)
 太足彦忍代別
  乎保太良志比古乎志々呂和介 ○平○上上上上上上上上上上(私記丙本・152頁)
 弟彦公
  乎止比古乃美古 ○平平平平上平(最後の平は東点寄りか、私記丙本・155頁)
 彦人大兄
  ヒコトのオヒネ 上上上○上上平(兼右本巻八・一の258頁)
 彦主人(王)
  ヒコミテミ 上上上上平(兼右本巻十七・二の165頁)
 石斛)
  須久奈比古乃久須祢 平平平上上上上上上(和名抄・草類百廿一)
  須久奈比古乃久須祢 平平平上上上上上上(医心方巻一・102頁)
 蘖
  比古波衣 上上上上(和名抄・木具百廿八)
 ▲(薩の下に木)
  ヒコバエ 上上上平(名義抄・仏下本九一)
 荑
  ヒコバエ 上上上平(名義抄・僧上四〇)
 牽牛
  ヒコボシ 上上上○(名義抄・仏下末一)
 河鼓
  ヒコボシ 上上平平(名義抄・僧中六九)
 孫
  比古 上平(名義抄・法下一四〇)
 曽孫
  比々古 上上平(和名抄・子孫類十)
 蓬蔂
  伊致寐姑 平平上平(宮内庁本巻十四・二の58頁、前田本巻十四・93頁、兼右本巻十四・二の51頁)
 山彦
  やまひこ ○○上平(古今集・393頁)
 天彦
  あまひこ 平平上平(古今集・14頁)
 越
  こし 平平(古今集・108頁)
 高麗
  コマ 平平(前田本巻十四・83頁)
 高麗宮知
  コマノミヤチ 平平○○○○(私記甲本・45頁)

 概して、「彦」は上上、「孫」は上平の加点がある。
 「蓬蔂」をイチビコと訓む例は、「蓬蔂、此云伊致寐姑。」(雄略紀九年七月)の訓注にある。大系本日本書紀の注に、「イチビコのはびこっている丘である誉田陵、の意か。古訓イチビコは、新撰字鏡に「苺、苺子也、一比古」とあり、また「茥、実似莓、覆盆、一比古」とある。一説に蓬蔂は小地名で、誉田(地名)の諸陵墓の中で蓬蔂丘の陵の意という。」((三)65頁)とある。ヘビイチゴが累積的に蔓延っていたとでもいうことであろうか。その場合、ヒコは男子の称の「彦」よりも子孫累々の「孫」の意と捉えられよう。また、木霊の意味の山彦、天彦においても、大声をあげたのがしばらく遅れて小さく響いてくることから、ヒコは本当は「孫」の意であると考えることができる。両者のヒコが上平のアクセントを記している点は、仮説の正しさを示すものと考える(注5)
 「高」字は、音に平声豪韻である。高山1981.に、「漢語のアクセント型形成にその漢字の原音声調が関与したという指摘もあるように、漢字音摂取の当初においては、声調のごとき超分節的要素も、字音を構成する有機的成分として把握され受け入れられて来たようであり、また、平安時代の中央の知識層が漢字音を原音にかなり忠実に―その声調をも含めて―学習・伝承して来たことは、今に残る多くの文献資料の教えるところである。」(13頁)とある。 日本書紀の歌謡を調査し、音仮名の原音声調とアクセントとの相互の関連をみている。文字連続が作りだす凹凸のパタンは、日本書紀の巻三、巻二十四~巻二十七においてよく似ており、日本語の低平調の音節に漢字音の平声の調節の文字が、高い部分を有する音節には上声・去声の調類の漢字を当てた蓋然性が高いと結論されている。古事記には声注が付された字があり、ヤマトコトバの記述化に当たってアクセントを意識した音仮名利用を行った可能性がある(注6)
 ここでは、「天津日高」と「虚空津日高」の「高」字が音仮名の可能性についてのみ検討している。太安万侶は、「彦」ではなく「孫」であることを示そうとして、アクセントを指定するため、ヒコに「日高」字を用いたように感じられる。コ甲類に主用の音仮名「古」でなく、「高」字を選んだ理由としては、第一に、「古」が上声麌韻である点があげられる。古事記にコ甲類として用いられる字は、「古」141例、「高」21例、「故」1例である。「古」字の例としては、「毘古」、「比古」などに多用されている。「高」字は、「高志」9例、「天津日高」7例、「虚空津日高」3例、「高目郎女」1例、「丸高王」1例である。「故」は歌謡中に「故志能久邇々(こしのくにに)」(記2)の1例である。地名の越(「高志」)の表記に書き換えたものである。「故」字は去声遇韻である(注7)
 そして第二に、字義に従ったのかもしれない。「日高」という字面を見れば、お日様が高いところにあることを意味する。いちばん高いところにお日様がある時間は、午(うま)の刻である。天孫降臨の説話に、天津日高日子番能邇々芸命(天津彦彦火瓊瓊杵尊)は、馬に乗っているお姿として提示されている。その話に登場する猿田毘古神(さるたびこのかみ)(猨田彦神)とは猿轡から名づけられた馬の轡のこと、天宇受売命(あめのうずねのみこと)(天鈿女命)とは、馬具の雲珠(うず)のことをモチーフにしていると考えられる(注8)。身長の高さを比べて背伸びしてみても、ドングリの背比べである。異次元の高さの謂いが馬に乗った人の高さである。高天原の高さなのか、天の岩位(いはくら)の高さなのか検討が必要であるが、高いところから天降りしている。「天孫(あめみま)」なのだから、「天津日高日子」はアマ(天)+ツ(助詞)+ヒコ(孫)+ヒコ(彦)の意であろう。
 さらにまた、海宮遊幸の説話に、虚空津日高は、井戸の真上にいて井の底の水に「光(かげ)」が映っていて、驚きをもって存在が知られることとなっている。「光」という字をもって上代にカゲと訓んでいるのは、上代語にそのように捉えられていたからである。紀には「影」ともある。それが樹上の姿にせよ、太陽のきらめきにせよ、真上でなければ井戸の底の水面に映って見えることはない。真上に太陽があるのは午の刻である。いちばん高い。字義は二次的な理由かもしれないが、誤謬の起らない工夫が施されている。「日高」はヒコ(孫)と訓むべきで、ヒタカと訓んでは台無しである。
 以上、古事記の「天津日高日子」・「虚空津日高」の「日高」はヒコと訓むべきであることを論じた。

(注)
(注1)「虚空津日高」をソラツヒタカと訓んで訓義を成すか、疑問とせざるを得ない。ソラの原義は、何ものにも属さず、何ものもうちに含まない部分の、漠とした宙ぶらりんを指している。空中のうちで高いところ、成層圏以下のうちの高いところとする解釈が上代に行われたとは、なかなかに考えにくい。「高」を「高知る」といった語に用いる美称と捉えることもできなくはないが、美称が冠されずに接尾辞的に後ろへ回る理由は不明である。また、「澇来田(こむくた)皇女」と同一人物と考えられる「高目郎女」をタカメノイラツメ、「椀子皇子」と同一人物と目される「丸高王」をマロタカノミコと読むべき理由は呈されていない。
 なお、日本書紀古訓に、「椀子」はマリコとある。日本書紀私記甲本に、「マリコ」に「平平上」の声点が見られる。ただし、マリコをマリ(椀)+コ(籠)の意と捉えるなら、コ(籠)は「平」(和名抄、名義抄)である。
 矢島1990.に、用字を検証された結果、訓みと意味との両面で、本居宣長・古事記伝の考えを是とし、アマツヒダカヒコと訓むのがふさわしいとし、新校古事記に踏襲されている。(注4)に触れる大脇2004.に、皇位継承者として独特の意味づけをしたものとして「日高」と書き、ヒコと訓むのが良いとしている。
(注2)記序に、「然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不心、全以音連者、事趣更長。是以今、或一句之中、交-用音訓、或一事之内、全以訓録。即、辞理叵見、以注明、意況易解、更非注。」とある。
(注3)実際にどのようにアクセントをつけて読まれていたかについては、音韻史に当たられたい。ここでは、声点の付された資料を列挙している。『日本語アクセント史総合資料』、ならびに鈴木豊氏の諸論を多とする。声点を調べるのに用いた参考文献は以下のとおりである。頁記入のあるものは、当該出典書籍のものである。
 兼方本:京都国立博物館編『京都国立博物館所蔵 国宝 吉田本日本書紀 神代巻 上・下』勉誠出版、2014年。
 兼夏本:天理大学附属天理図書館編『新天理図書館善本叢書第2・3巻 日本書紀 乾元本一・二』八木書店、2015年。
 兼右本:天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書和書之部第54・55巻 日本書紀 兼右本一・二』八木書店、1983年。
 宮内庁本:『宮内庁書陵部本影印集成1・2 日本書紀一・二』八木書店、2006年。
 前田本:財団法人前田育徳会尊経閣文庫編『尊経閣善本影印集成26 日本書紀』八木書店、平成14年。
 御巫本私記:『神宮古典叢書影印叢刊2 古事記 日本書紀(下)』八木書店、昭和57年。
 私記甲本・丙本:黒板勝美編『改訂増補 国史大系8 日本書紀私記・釈日本紀・日本逸史』吉川弘文館、昭和40年。
 和名抄:馬淵和夫編著『十巻本系古写本の影印対照』勉誠出版、2008年。国立歴史民俗博物館館蔵史料編集会編『国立歴史民俗博物館蔵貴重典籍叢書 文学篇 第二十二巻〈辞書〉』臨川書店、1999年。
 名義抄:正宗敦夫校訂『類聚名義抄』風間書房、昭和50年。天理図書館善本叢書和書之部編集委員会編『天理図書館善本叢書和書之部第32~34巻 類聚名義抄観智院本 仏・法・僧』八木書店、1976年。『新天理図書館善本叢書 第9~11巻』八木書店、2018年。
 医心方:丹波康頼『医心方一 半井家本井心方(1)』オリエント出版社、1991年。
 古今集:秋永一枝『古今和歌集声点本の研究 索引篇』校倉書房、1974年。
(注4)大脇2004.に、「天照大御神から直接生まれた忍穂耳命は「太子」だが、日向三代の御子は、孫・曽孫・玄孫で、直接天照大御神から生まれた御子ではないから……、太田[1992.]も述べているように、日「子」と書いてもよいのに、「高」という字を用いたことは、天照大御神から産まれた御子との区別をつけた結果であり、天照大御神の血統に連なった「高天原」の御子という「特定の皇孫」を意識したものであろう。」(31頁)とある。筆者は、ヒコ(彦)とヒコ(孫)とが別語であるからそれを太安万侶は示したものと考える。皇位継承者として独特な意味づけを示すために「日」と記したとは考えにくい。「丸高王」は皇位を継承していない。
(注5)奥村1995.に、「彦(ヒコ)=寐姑〔去平〕(5 18・入(イリ)~)、比古〔平上去 上〕⦅(訓)13・~舅(ヂ)⦆」(278頁)という項が立てられている。筆者の考えは異なり、「彦(ヒコ)」≠「孫(ヒコ)=寐姑」となる。
(注6)古事記には「上」、「去」といった声点が18例ある。いくつか例をあげる。

 豊雲野神(とよくもののかみ。「雲(くも)」は訓字である。)
 宇比地邇神(うひぢにのかみ。「邇」は上声紙韻である。)
 須比智邇神(すひぢにのかみ。同じ「邇」に違う指定である。)
 愛比売 愛比売(えひめ。「愛」は去声隊韻である。)

 文章が楽譜化していて、指示に従って歌うように記号が付されているらしい。稗田阿礼の誦んだのを再現しようということであろうか。語構成を区切るために付けられた、あるいは、男女の神を見分けるために付けられたとする説が行われている。この点については稿を改めて論ずる。
(注7)平声豪韻の漢字を音仮名に用いる際に、アクセントを考慮した字の配され方があるか検討したいところである。古事記では、「毛(も、モは甲類)」、「刀(と、トは甲類)」が見られ、その字は日本書紀でも使われている。ただし、記では、モに甲乙の違いを認めており、モ甲類に音仮名は「毛」字に限られる。古事記においてモ甲類にアクセントを考慮しようとする意思があるなら、別の音仮名を用意してもいいかと思われる。モで見られるのは、他に「母(も、モは乙類)」である。日本書紀では他に「褒(ほ)」が見られる。「刀」と「褒」字について声点を眺めると、アクセントを考慮した字が配されているとは断定できない。下にあげた「刀」の上から5例が古事記である。日本書紀には筆録者に2群あることが知られており、それによって「刀」や「褒」字にも意識が変わっているのか、さらに研究の進むことを期待する。

 麻刀比(惑→失意)
  古々路万都比 平平平平上平(前田本和名抄・病類廿一)
 布刀玉命
  太玉命 平平○(兼方本巻一・上の77頁、兼夏本巻一・一の98頁)
 布刀詔戸(太諄辞)
  フトノリト 平平上上上(兼方本巻一・上の89頁)
  布斗能理斗 平平上上上(兼方本巻一・上の94頁)
 荒河刀弁
  荒河戸畔 上上上平(兼右本巻五・一の100頁)
 苅羽田刀弁
  苅幡戸辺 上上○上(兼右本巻六・一の165頁)
 布刀磨尓 平平上上(兼方本巻一・上の22頁)
 佐烏刀利珥 平平平上上(前田本巻十一・11頁)
 波刀能 平平平(宮内庁本巻十三・一の243頁)

 於褒婀娜武智 平平上上上上(兼方本巻一・上の22頁)
 騰褒屢 平平上(兼方本巻二・下の19頁)
     平平○(宮内庁本巻二・一の24頁)
 褒能須素里 平平上上平(兼方本巻二・下の21頁)
 褒倍 平平(兼方本巻二・下の62頁)
 曽褒里能耶麻 上上平平平平(兼方本巻二・下の63頁)
 褒那之阿餓利 平平平上上上(兼右本巻八・一の268頁)
 褒武多 平平平(兼右本巻十・一の336頁)
 之褒珥椰枳 上平上上平(兼右本巻十・一の362頁))
 於褒企彌烏 平平上上上(宮内庁本巻十三・1の243頁)

(注8)拙稿「猿田毘古神と猿女君」参照。

(引用・参考文献、アクセントに関しては(注3)に記した。)
太田1992. 太田善麿「「天津日高」小考」『梅澤伊勢三先生追悼 記紀論集』続群書類従完成会、1992年。
大脇2004. 大脇由紀子『古事記説話形成の研究』おうふう、2004年。
奥村1995. 奥村三雄『日本語アクセント史研究』風間書房、平成7年。
時代別国語大辞典 上代語辞典編修委員会編『時代別国語大辞典 上代編』三省堂、1967年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『新校古事記』おうふう、2015年。
新編全集本古事記 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
高山1981. 高山倫明「原音声調から観た日本書紀音仮名表記試論」『語文研究』第51号、九州大学国語国文学会、昭和56年6月。九大コレクションhttps://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/opac_download_md/12058/p013.pdf
『日本語アクセント史総合資料』 秋永一枝・上野和昭・坂本清恵・佐藤栄作・鈴木豊編『日本語アクセント史総合資料 索引篇・研究篇』東京堂出版、1997・1998年。
矢嶋1990. 矢嶋泉「「天津日高」をめぐって」『青山学院大学文学部紀要』第31号、1990年。

※本稿は、2017年12月稿を2018年2月に改稿したものを2020年8月に整理したものである。

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