古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

無目堅間(まなしかたま)とは 其の二

2017年11月22日 | 古事記・日本書紀・万葉集
(承前)
 その先生、塩土神(塩土老翁、塩筒老翁)は、通説に、シホ(潮)+ツ(助詞)+チ(霊)の意で、潮流をつかさどる神と捉えられている。大系本日本書紀に、「椎・土はツチと訓むのが普通であるが、筒はツツとだけ訓むのが普通。ツツは、粒の意から火花・星粒の意を表わす(イハツツノヲ・ウハツツノヲ・ナカツツノヲなど例がある)から、シホツツと訓めば、潮と星の神ということになる。これも航海に関係が深いから、或いは、古くはシホツツであったのかもしれない。椎も土もツツと訓める。しかし、シホツチ即ち潮ツ霊(チ)がもとでシホツツへと転化したとも考えうる。海路の神が老翁として登場するのは、そうした豊富な知識と経験とを持つ者としては、老翁に及ぶものが無かったからであろう。」(151頁)とある(注10)
 この通説は疑問である。シホというヤマトコトバには、古典基礎語辞典の「しほ シオ【潮・汐・塩】」の項に、「解説」として、「シホには、①満ち干する海水、②食塩、という二つの意味がある。上代における①と②の表記は、『日本書紀』では、①を「潮」、②を「塩」と書き分けている(海路の神と考えられるシホツチノヲヂを「塩土老翁」「塩筒老翁」と表記する例のみが例外)。『古事記』や祝詞では、「潮」の字は一切用いず、①も②「塩」と表記する。『万葉集』では、①を「潮」と表記する例と、「塩」と表記する例とがある。ただし、②を「潮」と表記することはない。なお、シホという語形をもつ語には、①②のほかに布を染料にひたす回数、という意味のシホ(入)がある。潮の満ち干によって、海浜や岩礁などが海中に没したり、姿を現したりを繰り返す。この現象は布が染料に浸されたり、染料から出されたりの繰り返しとよく似ていることから連想して、この意が生じた可能性がある。そうであれば、染色関係のシホ(入)も潮・塩と語源が同じということになる。」(604頁、この項、北川和秀)とある(注11)
 ①の満ち干する海水、の意味によって、瀬戸のようなところで潮流が速くなるため、潮流の意味に使われている。日本書紀のシホツチノヲヂにその意味を適用して考えるのは、臆説から生れた例外的解釈であろう。「塩土老翁」、「塩筒老翁」の「塩」が、②の食塩の意味と解釈されることを日本書紀の書記官は願っている。海路の神と決めてかかっていることが誤解を生んでいる。話はもっと単純であろう。満ち干する海水のことを直接表して「塩土老翁」、「塩筒老翁」である。満ち(ミは甲類)ることを知っているから同音の道(みち、ミは甲類)に通じて導くのである。

 三名部(みなべ)の浦 潮な満ちそね 鹿島なる 釣りする海人(あま)を 見て帰り来(こ)む(万1669)
 堀江より 朝潮満ちに 寄る木糞(こつみ) 貝にありせば 裹(つと)にせましを(万4396)
 …… 天の原 振り放け見れば 照る月も 満ち欠けしけり ……(万4160)
 世間(よのなか)は 空しきものと 有らむとそ この照る月は 満ち闕(か)けしける(万442)
 時に孕月(うむがつき)已に満ちて、産(こう)む期(とき)方(みざかり)に急(せま)りぬ。(神代紀第十段一書第三)
 此の塩の盈(み)ち乾るが如(ごと)盈ち乾よ。(応神記)
 
 老人である点は、本当に満ち干するかどうかを検証している者として、製品の安全性検査を無資格の若造が行ったのと、70年繰り返した老人とでは、どちらが説得力を持つかの違いである。そして、「塩筒老翁」のツツも、筒のように丸いもの、すなわち、潮の満ち干と関係が深いと知られている月の満ち欠けのうちの満月のこと、それはほぼ大潮の日に当たり、潮が引いた時にはふだんは渡れない島まで歩いて行くことができるように道が通じ、そしてまた、潮の満ち方も激しくて、ふだんなら水が来ないところまで来て歩いて行く道が消えてしまうから、そうなる前に進まないで待機しておくことを教えてくれる。これこそ、道をよく知っている人ということになる(注12)。航海神として位置づけようにも、いくら堅めに作っても、海峡どころか川の瀬すら渡るに渡れない籠船なのだから否定されよう。船乗りが陸に上がってすることは、あちこちの港で女を作ることだけである。
 「塩土老翁」の元来の仕事は、塩の生産者が想定されていたと考える。古代の製塩法としては、藻塩法や製塩土器による方法が知られている。塩田を作って採鹹する方法は、「塩浜」という用語が平安時代の9世紀に見えることからそれ以降のことと考えられている。筆者は、このように、技術的発達過程に生産方法の変遷を単線的に捉えることに疑念を覚える。結果的に塩が得られれば、どのような方法が用いられても構わない。それぞれの時代で、大量生産にどのような手法が採られたかに過ぎないことをもって、技術発展の結果と考えるのは、近代工業の見方に毒されていると言わざるを得ない。
 上述の古典基礎語辞典にあるとおり、シホという語は、古くから、染め物仕事に何回染色液に浸したかを数える助数詞として用いられている。紅花染めなどによく知られるとおり、染色回数を重ねるにしたがって驚くほど色の深みは増していく。その場合、後代に「入」という字を当てている。「八塩折(やしほをり)の酒」(記上)、「八醞酒(やしほをりのさけ)」(神代紀第八段本文)、「紅の八塩(やしほ)の衣」(万2623)、「八しほの色」(万3703)、「八塩に染めて」(万4156)とある(注13)。上書に、潮の満ち干による海浜や岩礁の出没との連想が働いたとする説の所以である。しかし、そのレベルでは言葉の本来を考えるに甘い。塩(salt)との関連性がつかめていない。塩の“発見”は、本邦の場合、雨が多いから、雨のかからない洞窟状地形の岩場に、大潮の満潮時にだけ海水がかかって小さな潮だまりができ、それ以外の時は引いていた結果、わずかずつ塩の結晶が作られるところがあった。干上がってはまた大潮となり、わずかに波がかかって海水が取り残されるということが何度も繰り返されて、結晶が積み重なって塩が得られた。これが“塩の発見”であるという説がある。この現象を目にした人が、塩を獲得、利用し、シホというヤマトコトバを案出したと考えると、染色に色が少しずつ濃くなっていくことは、満ち干する海水によって利用可能なものへと塩が析出していく様子と同じことと認識されるに至り、概念が深まって固定化、固着化するのである。結晶や色彩だけにである。さらに染色の色止めにも塩は用いられることがある。切っても切れない関係にあるから、同じ言葉で表されている。一つの言葉の確立過程が垣間見られる。
 紀の「塩土老翁」なる“命名”は、同様の過程となる塩生産の作業を、彼が行っていたことを表すと考える。塩を含んだ土を採取して集め、食塩を作り出す方法である。広山1990.に、「塩尻法」とする略奪的な採鹹による製塩法が唱えられている。塩分を十分に含んだ海岸の砂を集めてきて、それに海水をかけて鹹水を得、製塩土器などで煮詰めて塩を製造した。何べんも何べんも行ってはじめてまとまった塩を製することができる。染織の「入」に同じである。何べんも繰り返しているのだから、そんな「塩土」を扱う塩作りの職人さんは「老翁」と称されるに正しい。彦火火出見尊が来ていたのは、ウミヘタ(「海辺」・「海畔」・「海浜」)である。何ら特徴がないところだから、ポツンと一人たたずむ情景にかなっている。塩尻法を行う人は、塩を含んだ砂をたくさん集めて来ては再び浜に戻しておく。そうして満潮時に海水に再度浸って塩を含んだらまた取りに行く。集砂、溶出、乾燥、撒砂、浸潮、集砂、……を繰り返す。
 塩作りをするようなところで、彦火火出見尊がさまよって茫然自失して泣いている。打ちしおれてしくしく泣いていたらしい。シクシクかどうか明記はないが、砂浜の海浜である。波はシク(及・頻・如・茂)ものである。後から後から追いついて前のものに重なる。

 暁(あかとき)の 夢(いめ)に見えつつ 梶島の 磯越す波の 頻(し)きてし思ほゆ(万1729)
 住吉(すみのえ)の 岸の浦廻(うらみ)に 頻(し)く浪の しばしば妹を 見む縁(よし)もがも(万2735)
 …… 朝凪に 千重(ちへ)波寄せ 夕凪に 五百重(いほへ)波寄す 辺つ波の いやしくしくに 月にけに 日に日に見とも ……(万931)
 夢(いめ)のみに 継げてし見ゆる 小竹島(しのしま)の 磯越す波の しくしく思ほゆ(万1236)
 君は来ず 吾は故無く 立つ浪の しくしくわびし かくて来(こ)じとや(万3026)
 …… 朝凪に 満ち来る潮の 夕凪に 寄せ来る波の その潮の いやますますに その波の いやしくしくに ……(万3243)
 苅薦(かりこも)の 一重を敷きて さ寝れども 君とし寝れば 寒けくもなし(万2520)
 玉戈(たまほこ)の 道行き疲れ 稲莚(いなむしろ) 敷きても君を 見むよしもがも(万2643)
 さし焼かむ 小屋(をや)の醜屋(しこや)に かき棄(う)てむ 破薦(やれこも)を敷きて うら折らむ 醜(しこ)の醜手を さし交(か)へて 寝(ぬ)らむ君ゆゑ ……(万3270)

 万葉集の波の例では、波打ち際で次から次へ波が重なりあっては倒れていく様子を描いている。しきりに波が打ち寄せてはそれを繰り返している。シクシクという語になるばかりでなく、万2735番歌では「しばしば」、万931番歌では「日に日に」、万3243番歌では「ますます」という畳語も伴っている。言葉が畳みかけられている。そんな畳とは、敷物である。シク(敷・領)という語は、シク(及・如・頻・茂)に同根の語である。万2643番歌では、「敷き」が「頻き」と掛けられている。何度もあなたのことを見ましょうと言っている。単にシキ(敷)だけで敷物の意を表す名詞となることがある。和名抄に、「履屧 野王案に曰く、屧〈思協反、久都和良(くつわら)、一に久都乃之岐(くつのしき)と云ふ〉は履の中廌也といふ。楊氏漢語抄に云はく、履は一に履苴〈七余反、又、苞苴は厨膳具に見ゆ〉と云ふといふ。」とある。靴の中敷きを指している。一般に敷物を敷くのは、土座形式の庶民の住居にあっては共寝することが連想され、男女の交わりを歌うことにつながる。手足その他を交わすのである。
敷物(トラとクマ、村上貞助筆・東韃地方紀行「舩廬中置酒」(文化8年(1811)、国立公文書館蔵)
 シクシク泣いていて、シクシク波が打ち寄せている。最終的に、敷物の畳のことが取り沙汰されている。「みちの皮の畳八重を敷き、亦絁畳(きぬたたみ)八重を其の上に敷き」(記上)、「海驢(みち)の皮八重を舗設(し)きて」(紀一書第三)とある。海驢と記すミチとは、アシカのことである。比喩的な意味を含めてミチ(御路・路)に迷っていた彦火火出見尊の話として、ヤマトコトバに循環して述べられている。記紀の伝承は、辞書としての機能を担っている。
 塩尻法を行うために海浜の砂を集めたり、また戻したりするためには、砂を運ばなければならない。土砂を運ぶには、畚(もっこ、ふご)が用いられたと考えられる。畚と呼ばれるものには、縄を編んで作られるものがよく見られる(注14)。ただし、モッコという語は、モツ(持)+コ(籠)の意とされている。利用法による命名で、材料や製造法による命名ではない。竹の編み籠で作られていてもかまわない。アジカは最有力候補である。アシカの話につながることだから、縦長の竹籠のアジカに肩紐を付けたものかもしれない。縦横縦横に交差させて組んでいく。そういった籠を作る技術を備えていたから、すぐに「無目堅間」を作ることができた。ふだんの籠作りの手際でパパッと作りあげられるのである。
 塩土老翁が示しているのは、ウマシミチ(味御路)(記)、ウマシヲハマ(可怜小汀)(紀)である。海神の宮へとつづくところである。ウマシはおいしいの意から、感じがよいといった意に用いられているとされている。「怜𪫧(うま)し国」(万2)、「美麗(うま)し物」(万3821、別訓にクハシモノ)、「うましもの」(万2750)などとある。十分な満足感が得られることを表しているように見受けられる。記の、ウマシミチは、進路に困っていた彦火火出見尊に納得感のあることを示す。一方、ウマシヲハマは、泣いている海辺の浜とは別世界の浜を表そうと努めた表現であろう。
 ヲハマ(小汀)のヲは接頭語とされている。

 初め大己貴神の、国平(む)けしときに、出雲国の五十狭狭(いささ)の小汀(をはま)に行到(ゆきま)して、飲食(みをし)せむとす。(神代紀第八段一書第六)
 是を以て、此の二の神、出雲国の伊耶佐(いざさ)の小浜(をはま)に降り到りて、十掬(とつか)の剣を抜き、逆(さかしま)に浪の穂に刺し立て、……(記上)
 大崎の 神の小浜は 狭(せば)けども 百船人の 過ぐといはなくに(万1023)

 ウマシと冠せられる形容は、ウマ(午)+シ(方角)の意を含んでいるのであろう。午の方角は、上述した影面(かげとも)、南に当たる。説文に、「南 艸木、南方に至りて枝任(しじん)有る也」とある。漢字本来の成り立ちは別にして、草木が太陽の方角の南を向いて枝葉を茂らせることと受け取られた可能性が高い。海神の宮の門前の井戸の脇に生えているカツラの木は、「枝葉(えだは)扶疏(しきも)し。」(神代紀第十段本文)とあるとおりである。海神の宮は、南方にあると設定されているらしい。南(みなみ、ミはともに甲類)とは、ミ(御)+ナミ(波、ミは甲類)と聞こえ、シクシク寄せてくるものである。
 名義抄に、ミナミと訓する字に、南、陽、离、離を載せる。離とあるのは、周髀算経によるもので、また、易経に八卦の一(☲)、方位は南方に当てる。易経・離に、「明(めい)両(ふた)たび作(おこ)るは離なり。(明両作離。)」とある。斉明紀の伊吉連博得書(いきのむらじはかとこがふみ)に、「明(みなみ)」(斉明七年五月)とある。名義抄に、「离 刃支反、ウラナフ、又音離、ミナミ」とある。易の話だから占いのことである。いま、彦火火出見尊は、どうしたらいいかと先を案じて塩土老翁に占ってもらっている。筮竹も亀の甲も見つからない何もない砂浜で占う材料としては、塩作りに集砂するときに混ざってくる貝が候補である。浜にあたりまえにいるハマグリを使ったのであろう。貝合わせと呼ばれるようになった貝覆いである。貝覆いとは、貝(かひ、ヒは甲類)の交(かひ、ヒは甲類)たることを語学的に論証する遊び、兼、占いである。江戸時代に記された黒川道祐・雍州府志には、ルールとして、1年の日数に同じ360個のハマグリの貝殻を2つに分けて、一方を地貝(ぢがひ)、他方を出貝(だしがひ)と称し、地貝は自分の席の前に内側を下に伏せて並べ、出貝は内側を上にして1個ずつ出していって、これだと思う地貝を取って合わせて見て、合ったらその貝を取って数を競うことが記されている。貝の内側に源氏絵などを描いて見分けがつきやすくする工芸品へと進化している(注15)
ハマグリ(千葉産、市場流通品)
貝桶(源氏絵彩色貝桶、江戸時代、17世紀、東博展示品)
貝合せ図(喜田川歌麿(?~1806)・潮干のつと、彩色摺狂歌絵本、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1288344/10)
 貝合せについての時代考証に、物合せの歌会に使う貝合せと、二枚貝の貝殻を使ったトランプの神経衰弱に似た貝覆いの2種があったと言われている。その先後について、文献に現われたところをもって、堤中納言物語に「貝合」の段が見られるから先んじてあり、対する貝覆いは平安時代中期ごろから始まってやがて貝合せとも呼ばれるようになったと考えられている。筆者は、この両者は趣向がまったく別なので、別個のものと考える。“遊び”のレベルでは、誰にでも受け入れられる貝覆いの方が古くからあったと推測する。むろん、ルールとして、貝殻の数をいくつに設定するかといった点は、後代の定めであろう。何のことはない。焼き蛤を2人で2つ食べて、残骸の貝殻を靭帯で引きちぎれば、4つの半片、すなわち、片身ができる。それぞれの片身ずつを別に置き、1つ取って番いはどれかと問うことだけでゲームが始められる。当てっこ遊びである。人類にとって、きわめて原初的な遊びとして成立すると考える。いま、カタミ(笭箐・筐)の話、マナシカタマの話をしている。二枚貝のハマグリの貝殻は対称性を持っており、カタミ(片身)にカタミニ(互)になっている。どの片身の貝殻とどの片身の貝殻が合わさるものなのか、ぴちっと合えば「無目(まなし)」カタミになろうが、合わなければ「有目(まあり)」カタミになってしまう。それと同じように、竹を使って交差させて組みあげた籠に入れて流した、それが海宮遊幸章の話なのである。
 言葉遊びにハマグリがグリハマと転倒して使われているのも、交(かひ)の語義に基づく。甲と乙の2つのものが互いに入れ違うことを示したいためである。グリハマとは、ちぐはぐなこと、物事が食い違って齟齬することを言う。南の浜にいるハマグリは、暖かいからこちらの常識とは真逆の、反転世界が繰り広げられているという想定である。同じ籠であっても、船として沈んで行ったら中にいたら死んでしまうと思うかもしれないが、漁師はそれを生け簀として活用している。発想の転換が起きている(注16)
生け簀(近代、横須賀市自然・人文博物館蔵、http://www.museum.yokosuka.kanagawa.jp/archives/document/5768)
 ハマグリは、史記・天官書に、「海旁蜃気象楼台、広野気成宮閥。」とあり、はまぐり能く気を吐いて楼台をなす、という諺になっている。筆者は、この俗信は、古く伝えられたものであったと考える。蜃気楼現象で海神の宮が現れている(注17)。つまり、ウマシヲハマとは、グリハマのことである。食い違いを正当化するようなものの考え方が行われる世界である。女房詞にハマグリのことをオハマと言うが、ひょっとすると上代から用いられ、その場合、ハマであった可能性がある。ウマシヲハマとはハマグリのお吸い物か何かが美味しかったということから発想したことであろう。
染付蜃気楼図稜花大皿(江戸時代、19世紀、東博展示品)
 以上、ヤマトコトバの数珠つながりの円環的説明をみてきた。記紀の海宮行幸の説話は、どうしたらよいかわからなくなったときには、同じ籠の利用法でも農民と漁民で異なるように、視点を変えてみてみれば、進むべき道が見えてくるという話に展開されている。籠に乗って船出すれば、籠は沈んで乗客は死んでしまうと思うかもしれないが、魚類水族は魚籃の中、生簀の中に生きている。逆に水からあげると中の魚は死んでしまう。そんな気宇壮大な比喩話を作りあげた頭脳には脱帽させられる。きっと仏教の唱えるたとえ話を聞き知って、それは実はヤマトコトバに、すでに自己言及的に語り尽くされていたことであると諭したものなのであろう。筆者には、厩戸皇子(聖徳太子)の教えに違いないと思えるものである。

(注)
(注1)丹鶴本ほかの写本に、「大目鹿籠」となっている。オホマコと訓むべきであろう。日本書紀撰上当初、複数本あり、この個所には「麁」と「鹿」の2通りがあって、ともに“意味のある”用字であったことは、以下に述べてある。
(注2)鳥取県埋蔵文化財センター2005.参照。
(注3)柳田1989.に、海の向こうの異界へ行く話を一括した議論がある。「……人が海底の異郷に入って行く発端には、有心無心のいろいろの動機があったけれども、ともかくもそこを訪れるということは特権であり、必ず非凡の幸福をもたらさずには終らなかった、ということがこの説話の、最初からの要件であったように私には考えられる。そうして人間の想像力が有限であったためか、その結果の幸福というものにも、昔から一定の型があって、永い間にもさほど種類をふやしてはいない。これがまた一つの東方の特徴を、見つけ出す手掛りになるのではないかと思う。」(74~75頁)とある。海底のこととして考えている。話(咄・噺・譚)が一定の型にまとまって見えるのは、最初に作られた話に沿ってアレンジしたからであろう。最初に創話した人にはある大きな目標があった。筆者は、それを解き明かそうとしている。すなわち、ヤマトコトバをもってまわって解説しているのが、記紀の説話の主旨である。話の成り行きがどうしてそうなっているのかは、ヤマトコトバのなぞなぞ的、頓智的なからくり上、必然的にそうなっているのである。無文字時代に言葉を周知するために、頭のいい人が考案したのが、辞書としての記紀説話なのである。民族の想念にステレオタイプを見出して、構造主義で全部解釈できると言ったり、比較神話学なり比較民俗学を打ち立てようとする野望は潰え去るであろう。なぜなら、それぞれの民族で言葉は異なるからである。ワタツミとポセイドンとに共通項がある点は、海に対して人類が何かを考えたから生れているが、その内容はかなり異なる。塩土老翁に当たる役柄を、他の民族でどのように表しているのか、筆者は不勉強で知らない。
(注4)動物学に、春から秋に鹿の子模様が現れる点は、木漏れ日に似せて捕食者に気づかれにくくするためであると説明されている。鹿の子模様の絞り染めについては、「纈(ゆはた)十九匹(とをあまりここのむら)」(天智紀六年閏十一月)、「纈 下列反、入、帛を結ひ染むを以て色を得る也。由波太(ゆはた)」(新撰字鏡)とある。
(注5)漆塗りを完璧にこなせば、水は浸入してこない。しかし、その場合、鹿の子模様の連想は生まれないから、ここでは考えない。
(注6)百姓伝記202頁。
(注7)イザルと呼ばれた笊(ざる)が、目の粗い編み方を示すものとすると、紀一書第一に提示された「大目麁籠」は、再度、漁撈(いざる)にチャレンジすることを示唆しているのかもしれない。魚籃のことをビクと呼ぶが、もともとは運搬具のフゴ類のことを指していたともされている。籠の名称については、その編み方ばかりでなく、用途なり、人の扱い方から命名されることもあったであろうし、地域によってもさまざまに呼ばれており、また、漢字の意味との一貫性を求めることも難しい。言葉とモノとの関係において、とても厄介な部類に入る。
(注8)カタミ(笭箐・筐)という語は、中古以降の歌に、「難み」、「形見」などにかけて用いられている。上代に、「難(かたみ、ミは甲類)」、「形見(かたみ、ミは甲類)」であり、音が異なる。万葉集に籠のカタミと関連させて歌われたものは見られない。
(注9)船の影としての要件を満たせば、この話の筋立てに合致する。したがって、一書第四に、「我が王の駿馬は、一尋鰐魚(ひとひろわに)なり。」とあって、鹿毛の馬に代ってワニが登場している。還り来たるときには、各書にワニは登場しているから、それに先んじて追従している。なぜワニが抜擢されているかについては別に論ずる。
(注10)新編全集本古事記に、「シホ(塩)+ツ(の)+チ(霊)。「塩」は潮、つまり潮流をつかさどる神。火遠理命に対して「御路」すなわち潮路を教える。」(126頁)、新編全集本日本書紀に、「潮ツ霊(ち)の意で、潮流をつかさどる神。海路の案内者として以後も登場する。」(146頁)とある。
(注11)一方、ウシホと言えば、廿巻本和名抄に、「四声字苑に云はく、海水の朝夕に来去りて波の涌く也。直遥反、又淖〈和名宇之保(うしほ)〉に作るといふ。周処の風土記に云はく、海神、天に上朝し、鰌鯨迎送す。海神、穴に出入し、水を進退せしめて潮と為(す)。又抱朴子に云はく、天河と地河海水、相博撃し、五水、相盪激し涌きて潮と成るといふ。」とある。①海水、②満ち干する海水面のこと、③塩の意になる。塩土神(塩土老翁、塩筒老翁)をシホツチヲヂなどと訓んだ形跡はない。
(注12)人の知らないことを知っていることは、よく知っていることであるが、人の知っていることが必ずしも常にはそうと限らないことを知っていることは、とてもよく知っていることである。ソクラテスのいわゆる「無知の知」は、「つまり、わたしは、知らないことは知らないと思う、ただそれだけのことで、まさっているらしいのです。」(ソクラテスの弁明419頁)である。無目堅間を考えて実作してしまった塩土老翁は、実践的な哲学者である。根本の思想に何が違うかを思索すれば、深淵な世界へ導かれる。世界のすべてを語ること、それが言葉(ヤマトコトバ)に託されている。筆者は常にそれを一周まわって追い求めている。
(注11)「八塩折の紐小刀(ひもかたな)」(垂仁記)とあるのは、焼入れ、焼戻し、焼なまし、焼ならしといった鍛冶屋仕事を丹念に行った短刀のことをいうのであろう。折り返して叩くことから「折」字が用いられているとするならば、「八塩折の酒」という酒の醸造表現にも、何か折り返すように受け取れる仕草があったのかもしれない。後考を俟つ。
(注12)百姓伝記に、「一、もつこ、なわにてあミ用る。わらをよくうちて、なわをほそくないたるにてあミてつかふへし。田畠の土を持運ひ、同こやしの品々を荷ふものなり。また五月、苗取、うへ田に運ひ、五穀をかりとり家路にはこぶに用る。何国にも用る事なれとも、大籠・大ぼらより手廻しあしく、損し安し。さし合に二人して荷ふ大もつこ、またふかき処より高き処へ土をはね上る小もつこ、何も大小あれとも、拵やう同事なり。遠き処へ土をはねるにハ徳多きものなり。」(208頁)とある。
 なお、百姓伝記には、ほかにも、「一、かけいちこの事、わらを小手に取、ほそなわを以あむものなり。こやしの品々を入、くびにかけ、植田井畠作毛のうねをあるきて置物也。重四五貫目入程にこしらへよ。さやうなるこやしをするにハ、あらしこ前にハわらにてあミたる腹あてをしたるがよし。」(209頁)、「一、小籠の事、耕作の時分に農人・あらしこ手ことに持か、またハ腰に結付、田畠にて取たる草を入、一処へあつめたるかよし。春夏雨気の節、取たる草を畠に置てハ、其儘おきかへる。田の草ハ取てをしまげ、どろのそこにふ、其儘くさるといへとも、根つよ草ハ共まゝはへ付ク。さやうなる類の草を、籠に入て陸地にあげ、日にさらしすつへし。根をたやすの道理なり。竹を以小目に四つ目籠に作り用る。田の草を取時ハ、せをふたるかよし。こしにつけてハさまたげ多し。また大きなるものハ作毛にあたりて損し、ついゑあり。」(209~210頁)など、農具としての籠の効用が説かれている。
キャスター付(?)の籠(北区ふるさと農家体験館展示品)
(注15)江馬1978.143~145頁参照。
(注16)延縄漁業に用いられる浮子(うき)は、桶を使っている。地上では水を入れるものが、海上では水は外、中に空気が入っている。
(注17)拙稿「ヒルコ論」参照。

(引用・参考文献)
江馬1978. 江馬務『江馬務著作集 第十一巻』中央公論社、昭和53年、
古典基礎語辞典 大野晋編『古典基礎語辞典』角川学芸出版、2011年。
新編全集本古事記 神野志隆光・山口佳紀校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
新編全集本日本書紀 小島憲之・直木孝次郎・西宮一民・蔵中進・毛利正守校注・訳『新編日本古典文学全集2 日本書紀①』小学館、1994年。
ソクラテスの弁明 プラトン著、田中美知太郎訳「ソクラテスの弁明」『世界の名著6 プラトンⅡ』中央公論社、昭和41年。
大系本日本書紀 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注『日本書紀(一)』岩波書店(ワイド版岩波文庫)、2003年。
鳥取県埋蔵文化財センター2005. 『鳥取県埋蔵文化財センター調査報告書8 青谷上寺地遺跡出土品調査研究報告1 木製容器・かご』鳥取県埋蔵文化財センター、2005年。
名久井2015. 名久井文明「現代籠作り技術の起源─民俗考古学からの探究【二】─」『民具マンスリー』第48巻8号、神奈川大学日本常民文化研究所、2015年11月。
百姓伝記 岡光夫・守田志郎校注・解説『日本農書全書16 百姓伝記 巻一~七』農山漁村文化協会、昭和54年。
広山1990. 広山尭道『塩の日本史 第二版』雄山閣出版、平成2年。
柳田1989. 柳田国男「海神宮考」『柳田國男全集Ⅰ』筑摩書房(ちくま文庫)、1989年。

(Summary)
In the story of "Umisatiyamasati", "Hikofofodemi-nö-mikötö" young star lost the fish-hook and could not return it, so he wept at the beach. "Sifotuwodi" old man appeared there and told him, ‘if you go on a special basket boat, called the "Manasikatama", you will have a nice coastal road so if you proceed there you will reach the palace of the sea deity and meet a daughter who takes care of everything.’
In this paper, we examine what called the "Manasikatama" is, and eventually why the story of "Umisatiyamasati" was spoken, by reading written Yamato Kotoba exactly.

※本稿は、2017年11月稿を、2021年8月に整理したものである。

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