古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

無目堅間(まなしかたま)とは 其の一

2017年11月19日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 海幸と山幸の話は、全体が三つの場面からなる。最初が海幸彦と山幸彦による釣針をめぐる兄弟喧嘩、次に山幸彦が海神の宮を訪問する話で、この二つが絡み合って一つの流れを作っている。最後が豊玉毘売(とよたまびめ)の出産の話で、これは鵜葺草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の誕生話としてその後に続いている。本稿では、山幸彦である彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)が、とりかえっこしたもとの釣針を返せずに責められてどうしたものかと嘆いていた時、海辺で塩椎神(塩土老翁)に出会い、海神の宮へ行ったらどうにかなると教えられて行く箇所を扱う。わけても、載せられた乗り物について検討する。

 是に其の弟、泣き患へて海辺(うみへ)に居(ゐ)ましし時、塩椎神(しほつちのかみ)来りて、問ひて曰く、「何(いか)にぞ虚空津日高(そらつひこ)の泣き患へたまふる所由(ゆゑ)は」といふ。答へて言はく、「我と兄と鉤(ち)を易へて、其の鉤を失ひつ。是に其の鉤を乞ふ故に、多くの鉤を償へども受けずて、猶其の本の鉤を得むと欲ふと云ひき。故、泣き患ふぞ」といふ。爾に塩椎神の云はく、「我、汝(いまし)命(みこと)の為に善き議(はかりこと)を作(せ)む」といふ。即ち無間勝間(まなしかつま)の小船(をぶね)を造り、其の船に載せて、教へて曰く、「我、其の船を押し流さば、差(やや)暫(しま)し往(い)でませ。味(うま)し御路(みち)有らむ。乃ち其の道に乗りて往でまさば、魚鱗(いろこ)の如(ごと)造れる宮室(みや)、其れ綿津見神(わたつみのかみ)の宮ぞ。其の神の御門(みかど)に到らば、傍(かたへ)の井(ゐ)の上(へ)に湯津香木(ゆつかつらのき)有らむ。故、其の木の上に坐(いま)さば、其の海神(わたつみのかみ)の女(むすめ)、見て相(あひ)議(はか)らむぞ」といふ。香木を訓みて加都良(かつら)と訓む。木なり。(記上)
 故、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)、憂へ苦びますこと甚深(ふか)し。行きつつ海畔(うみへた)に吟(さまよ)ひたまふ。時に塩土老翁(しほつつのをじ)に逢ふ。老翁問ひて曰(まを)さく、「何の故ぞ此(ここ)に在(ま)しまして愁へたまへるや」とまをす。対ふるに事の本末(あるかたち)を以てす。老翁の曰さく、「復(また)な憂へましそ。吾当(まさ)に汝(いましみこと)の為に計(たばか)らむ」とまをして、乃ち無目籠(まなしかたま)を作りて、彦火火出見尊を籠(かたま)の中(なか)に内(い)れて、海に沈む。即ち自然(おのづから)に可怜小汀(うましをはま)可怜、此には于麻師(うまし)と云ふ。汀、此には波麻(はま)と云ふ。有り。是に、籠を棄てて遊行(い)でます。忽に海神の宮に至りたまふ。(神代紀第十段本文)
 是に、彦火火出見尊、求めらゆるを知らず。但(ただ)憂へ吟ふことのみ有(ま)す。乃ち行きつつ海辺に至りて、彷徨(たたず)み嗟嘆(なげ)きます。時に一(ひとり)の長老(おきな)有りて、忽然(たちまち)にして至る。自ら塩土老翁と称(なの)る。乃ち問ひて曰(まを)さく、「君は是(これ)誰者(たれ)ぞ。何の故か此処(ここ)に患へます」とまをす。彦火火出見尊、具(つぶさ)に其の事(あるかたち)を言(のたま)ふ。老翁、即ち嚢(ふくろ)の中の玄櫛(くろくし)を取りて地(つち)に投げしかば、五百箇(いほつ)竹林(たかはら)に化成(な)りぬ。因りて其の竹を取りて、大目麁籠(おほまあらこ)を作りて、火火出見尊を籠の中に内れまつりて、海に投(い)る。一に云はく、無目堅間(まなしかたま)を以て浮木(うけき)に為(つく)りて、細縄(ほそなは)を以て火火出見尊を繫(ゆ)ひ著(つ)けまつりて沈む。所謂(いはゆる)堅間(かたま)は、是今の竹の籠(こ)なりといふ。時に、海(わた)の底に自づからに可怜小汀(うましをはま)有り。乃ち汀(はま)の尋(まにま)に進(い)でます。忽に海神(わたつみ)豊玉彦(とよたまびこ)の宮に到ります。(神代紀第十段一書第一)
 是の時に、弟(おとのみこと)、海浜(うみへた)に往(ゆ)きて、低(うなだ)れて徊(めぐ)りて愁へ吟(さまよ)ふ。時に川鴈(かはかり)有りて、羂(わな)に嬰(かか)りて困厄(たしな)む。即ち憐心(あはれとおもふみこころ)を起して、解き放ち去る。須臾(しばらく)ありて、塩土老翁有りて来(まうき)て、乃ち無目堅間(まなしかたま)の小船(をぶね)を作りて、火火出見尊を載せまつりて、海の中に推し放つ。則ち自然(おのづから)沈み去る。忽に可怜御路(うましみち)有り。故、路の尋(まにま)に往(い)でます。自づからに海神の宮に至りたまふ。是の時に、海神、自ら迎へて延(ひ)き入れて、乃ち海驢(みち)の皮八重を舗設(し)きて、其の上に坐(す)ゑたてまつらしむ。(神代紀第十段一書第三)
 弟(おとのみこと)、愁へ吟(さまよ)ひて海辺に在(ま)す。時に塩筒老翁(しほつつのをぢ)に遇ふ。老翁問ひて曰く、「何の故ぞ、若此(かく)愁へます」といふ。火折尊(ほおりのみこと)、対へて曰(のたま)はく、云々(しかしかいへり)。老翁の曰(まを)さく、「復な憂へたまひぞ。吾、計(たばか)らむ」とまをす。計りて曰さく、「海神の乗る駿馬(すぐれたるうま)は、八尋鰐(やひろわに)なり。是(これ)其の鰭背(はた)を竪(た)てて、橘の小戸(をど)に在り。吾当に彼者(かれ)と共に策(はか)らむ」とまをして、乃ち火折尊を将(ゐ)て、共に往きて見る。是の時に、鰐魚(わに)策りて曰く、「吾は八日(やか)の以後(のち)に、方(まさ)に天孫(あめみま)を海宮(わたつみのみや)に致しまつりてむ。唯し我が王(きみ)の駿馬は、一尋鰐魚(ひとひろわに)なり。是当に一日(ひとひ)の内に、必ず致し奉(たてまつ)りてむ。故、今、我(やつかれ)帰りて、彼をして出で来しむ。彼に乗りて海に入りたまへ。海に入りたまはむ時に、海の中に自づからに可怜小汀(うましをはま)有らむ。其の汀の随(まにま)に進(い)でまさば、必ず我が王(きみ)の宮に至りまさむ。宮の門(かど)の井の上(ほとり)に、当に湯津杜樹(ゆつかつら)有るべし。其の樹の上に就(ゆ)きて居(ま)しませ」とまをす。言(まを)すこと訖りて即ち海(わたなか)に入りて去る。故、天孫、鰐の所言(まをし)の随(まま)に留り居(ま)して、相待つこと已に八日(やうか)なり。久しくして方(まさ)に一尋鰐有りて来(きた)る。因りて乗りて海(わたなか)に入る。毎(ことごと)に前(さき)の鰐の教(をしへ)に遵(したが)ふ。(神代紀第十段一書第四)

 兄の火照命(ほでりのみこと)(火酸芹命(ほすせりのみこと)、海幸彦(うみさちびこ))は海の漁師として、鰭(はた)の広物・鰭の狭物(さもの)を取り、弟の火遠理命(ほをりのみこと)(彦火火出見命(ひこほほでみのみこと)、火折尊(ほのをりのみこと)、山幸彦(やまさちびこ))は山の猟師として、毛の麁物(あらもの)・毛の柔物(にこもの)を取っていた。あるとき、火遠理命が兄の火照命に、各自のさちを交換して使ってみたいと言った。しかし、三度言ったが聞き入れられなかった。それでも、最後にはやっと交換してくれた。ところが、火遠理命が海さちで魚釣りをしても、まったく一匹も獲れないどころか、鉤(ち)(釣針)を海に失くしてしまった。兄の火照命は、鉤を返して欲しくなって、各のさちを返そうと言ったが、弟の火遠理命は一匹も釣れないばかりか海に失くしたと答えた。しかし、兄は返せ返せと責めたてたので、弟は腰に帯びた十拳剣(とつかのつるぎ)を材料にして、リサイクル製造した五百個、千個の鉤を作って償おうとした。けれども、兄のほうは、もとの鉤でなければ駄目だと責めたてた。
 弟は泣いて嘆き、海辺に佇んでいたところ、塩椎神(しほつちのかみ)(塩土老翁(しほつちのをぢ))が現れて、善後策を教えてくれる。それによると、籠製の小船に乗ってしばらく行くと、素敵な道があるからその道なりに進めば、鱗のように作ってある海神(わたつみ)の宮に到るから、その門の傍の井戸のところにある神聖な香木(かつら)の木の上に座っていれば、海神の娘が発見して万事取り計らってくれるというのであった。そのとおりにしていくと、そのとおりになっていった。
 海神の宮へ行く行程において、教えてくれた塩椎神の言葉をみると、海に乗り出していく時の乗り物が特徴的である。

 即造無間勝間之小船(まなしかつまのをぶね)、載其船以、(記)
 乃作無目籠(まなしかたま)、内彦火火出見尊於籠(かたま)中、沈之于海。(紀本文)
 因取其竹、作大目麁籠(おほまあらこ)、内火火出見尊於籠(こ)中、投之于海。(紀一書第一)
 以無目堅間(まなしかたま)、為浮木、以細縄著火火出見尊、而沈之。(紀一書第一一云)
 乃作無目堅間小船(まなしかたまのをぶね)、載火火出見尊、推-放於海中。則自然沈去。(紀一書第三)
 久之方有一尋鰐(ひとひろわに)来。因乗而入海。(紀一書第四)

 紀一書第二はいきなり海神の宮の話になっていて記載がない。第四を除くと籠類に乗っていくことになっている。一書第一だけ「大目麁籠」という目のあらい籠である(注1)。浮かすのか沈ますのか検討が必要であるが、目がないほどに堅く編んだ籠でないと船へと連想が向かいにくい。海において、船以外の乗り物としては、今でこそ潜水艦が考えられるが、一書第四の「鰐」や海のトリトンのイルカぐらいしか思いつかない。そこで、乗り物として架空するために、「無間勝間(まなしかつま)」、「無目堅間(まなしかたま)」などと強調しているのであろう。逆に、「大目麁籠(おほまあらこ)」とあるのは、実体的には籠なのだから、どんなに目をつめても水は浸入してきて沈んでいくことが知れていると主張しているように思われる。マナシカタマという言い方を、音声として際立たせるための方便として示されているのではないか。だからこそ、一書第一には、「一云」という別伝がすぐ付け加えられて、「無目堅間」であると言っているのであろう。
 話として、籠(こ、コは甲類)が重要である。人類が、籠を編んで作った例は古い。本邦では、縄文のポシェットとして有名なものが漆塗りのおかげで残っている。また、弥生時代の青谷上寺地遺跡からは、多数の籠が出土している。本体の編み方だけでも、左撚りのヨコ添えもじり編み、右撚りのヨコ添えもじり編み、1本超1本潜1本送、2本超2本潜1本送で飛び目が左上がりになるもの、2本超2本潜1本送で飛び目が右上がりになるもの、木目ござ目編み、六ツ目編み、右撚りのもじり編み、コイリングなどさまざまである。縁の部分の処理も種々ある。ヒゴの材料には、タケ、マタタビ、ヤナギ、アケビ、フジカヅラの仲間などが確認されている(注2)。さらに鋭く考えるならば、籠ははたして“編む”とだけ表現して表現し尽くされるものなのか、という議論もある。名久井2015.に、「籠作りの二大技術について「編む」「組む」という呼称を使い分け」(21頁)るものとして検討され、その「二大技術は1万年を超える縄紋時代草創期にはすでに普及しており、途切れることなく受け継がれて現代民俗例に至っていることが理解される。」(24頁)という。いま俎上にのぼっている彦火火出見尊を載せた小船は、紀一書第一にあるとおり竹籠を用いて「組む」ことを中心としてできあがっている。その「組む」際の隙間のとり方が問題視されている。
 籠にはさまざまなバリエーションがある。逆言すれば、至極当たり前に日常生活に籠が用いられていた。そのとき、マナシカタマ(マナシカツマ)なる言い方が行われている。間に隙間がないように密に組織されたのは確かであろうが、それをわざわざマナシカタマ(マナシカツマ)と表現している。6音にも及ぶヤマトコトバの単語は珍しい。おそらく、この話(咄・噺・譚)のためにつくられた造語であろう。何かを表したいから、殊更につくられたと考えられる。
 従前の解説を示す。本居宣長・古事記伝には、「こ[无間勝間]はの、アメる竹と竹との間カタシマりて、目の無きを云り、【中巻に八目之荒籠ヤツメノアラコ、書紀に大目麁籠オホメノアラコ、など云るは、目のアラきを云り、さて加多麻カタマと云を、凡ての古名と心得て、右の麁籠アラコなどをさへに、アラカタマ○○○○○と訓は非なり、麁きをかたまとは云べき由なし、と云ぞ、本より総名スベナにはありける、ハコと云も、布多許フタコツヾマりたるにて、もとフタのあるの名なり、これらにても、スベての名はなりしことを知ルベし、】萬葉十二……に、玉勝間タマガツマとあるも、此物なり、……和名抄に……ある賀太美カタミは、加多麻カタマの転りたるなり、」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920805/423、漢字の旧字体は改めた。)とある。ハコ(箱・函・篋・筐)の語源がフタ(蓋)+コ(籠)であるといった独創的な解釈がみられる。和名抄の引く漢語抄に云うカタミがカタマの転なのか、カタマがカタミの転なのか、不明である。
 新編全集本古事記に、「「無間勝間」は、編んだ竹と竹との間が堅く締まって、隙間がない籠をいう。それを船として用いたのであり、船の形に作ったのではない。これを、潮路に乗せるのであり、漕いで行くわけではない。『書紀』にはこれを海に沈めるとあり、『記』とは異なっている点、注意される。」(126頁)、「潮の流れに乗ってそのまま行く。海神の宮は海の彼方にあると受け取られる。」(127頁)とある。校注者の憶測が展開されている。記に、「潮路」であるとは書かれていない。そもそも漂流して自動的に海神の宮にたどりつくという発想は、手がかりのないまま海辺で泣き患いている虚空津日高に、手がかりがなくて大丈夫とする言い聞かせになってしまい、“世界”に展開が見られない。ストーリー性がなくなって“文学的”に破綻していることになる。その後の話に、「海神悉召集海之大小魚……」と出てくる。魚がいるのは潮路の末の海の彼方の補堕落や唐天竺など、陸上ではない。海の中に決まっている。素人にもわかる。素人、子どもがわかる話でなければ後世へ言い伝わることはなかったであろう(注3)
 わざとらしい造語のマナシカタマという音を聞いて、マナ(愛)+シカ(鹿)+タマ(玉)のことと捉えれば、とても愛玩するにいとおしいほどの洒落たデザインの着物の、鹿の子絞りの施されたものと思える。マナは接頭語で、いとしさ、かわいさを表す褒め言葉として用いられることが多い。「天の真名井(まなゐ)」(記上・神代紀第六段本文)、「去来(いざ)の真名井(まなゐ)」(神代紀第六段一書第一)、「真名鹿(まなか)の皮(かは)」(神代紀第七段一書第一)、「愛子(まなこ)」(万3339)などとある。鹿の子絞りは、絞り染めの紋様である。染めるときに糸でぐるぐると縛っておいて、その部分を染め残してもとの布帛の色、通常は白い色をとどめて図柄に描いていく。鹿の子とは、シカの子どもに特徴的に見えるバンビの白い斑点模様を言い表す。季節で変わる模様だから大人のシカにも見られるが、シカの子が生まれるのは春だから、必ず鹿の子模様があることでその名があるらしい(注4)。染色に際しての括り方によって、大から小までさまざまな大きさの鹿の子模様を作ることができる。「無目籠」とあるところからは、小さな斑紋を密にいっぱいにして、粒が泡立つかのように施したものが連想される。確かに、「無目堅間」として作ったものを「小船」と称しても、水に浮かべれば必ず隙間から泡の如く水が入ってくる。材質によってどこまで沈むかに違いはあっても、ブクブクと水が入ってくることに違いはない。バンビのことは、和名抄に、「麑〈音は迷、字は亦、麛に作る。加呉(かこ)〉」とある。
鹿の子模様
 無間勝間(無目籠、無目堅間)と鹿の子模様とを結びつける必然性が見えてくる。マナシカタマと称される籠を、「小船」に設えている。編み籠は、どんなに緻密に編んだところで、水は通る(注5)。通るから、笊(ざる)類として用いられている。お米を研いだり、蒸し器のなかに入れることもある。船舶に用いられることは通常ない。船は、丸木を刳ったものから始まり、木を組み合わせた船、「同船は、母慮紀舟(もろきふね)といふ。」(皇極紀元年八月)という諸木船の意であるものへと展開する。また、葦を使い束ねて浮かせた「葦船(あしふね)」(記上)・「葦船(あしのふね)」(神代紀第四段一書第一)もある。この部分の記紀の話は、沈みつつある物として語られている。海神の宮は、海中にある。
 ではどうやってそこへ行くのか。「小船」に見立てているのだから、漕いでいく。小船だから帆船ではない。誰が漕ぐのか。カコである。水手(水夫)(かこ、コは甲類)は、和名抄に、「水手 日本紀私記に云はく、水手〈加古(かこ)、今案ずるに加古(かこ)は鹿子の義、本書の注に見ゆ〉といふ。」とある。櫂を取る人、船の漕ぎ手である。船の乗組員のことは、総じて「かこかんどり」ということがある。カンドリは舵取(かぢとり)の転である。かいやかじに楫、檝、櫂、梶といった字があり、板の形状も似ており、和船が洗練されるにつれ、機能が一体化してきて混乱が生じたと推測される。いずれにせよ、駆動と操縦の両者があってはじめて船は動く。神社の名にパラレルとなる例が知られる。香取神宮のことをカンドリといい、祭神は経津主神(ふつぬしのかみ)である。武甕椎神(たけみかづちのかみ)を祭神とする鹿島神宮とセットで語られることが多い。鹿島・香取の両神が勧請されて奈良の都に春日大社は造営された。いま、彦火火出見尊は新しい境地へと旅立ちをしようとしている。“鹿島立ち”すべき時に至っている。つまり、カコ(水手・水夫)とカコ(鹿子)とは同じ音であって、同じ言葉なのだから、同じ意味内容を表す。それが無文字文化に暮らす人々の共通認識である。言葉の概念として、同一であることの証明が、マナシカタマなる語の創案によって確定している。頓知の極みと言える。
模造 金銅製帯金具(昭和時代、20世紀、東博展示品、原品:福岡県飯塚市櫨山古墳出土、古墳時代、5世紀)
 同音の鉸具(かこ、コは甲類)とは、腰帯や甲冑、鞍、鐙などの革のベルトをかけてとめる金具、バックルのことである。和名抄には、「鉸具 楊氏漢語抄に云はく、鉸具〈上の音は古巧反、一音に教、此の間に賀古(かこ)と云ふ。今案ずるに唐令に所謂、玉鈎は是也。已上は上文に見ゆ〉は腰帯及び鞍具の、銅を以て革に属くる也といふ。」とある。銅製で革に取り付けたバックルによって帯が止められている。機能するには、鉸具と、皮革に開いた穴のベルトによっている。革に穴がポツンポツンと開く様は、鹿の子模様ということになる。カコ(鉸具)はカコ(鹿子)によってはじめて役立ち、ズボンを釣って止めている。今、彦火火出見尊(山幸彦)は、釣りがうまくいかずに釣針をなくして途方に暮れている。褌が緩んで海辺を彷徨っていたらしい。ウミヘタと言うのだから、海を釣り支える蔕(へた)という謂いなのであろう。漕ぎ出すことで蔕を離れて臍の緒がとれて独り立ちすることになる。カコによって事態は好転するという話に創られている。
 古辞書類に、籠の名称を見る。

 篅 時規・市縁二反、舟笥也、小筐也、又蕇に作る、志太美(したみ)、又阿自加(あじか)、又伊佐留(いざる)(新撰字鏡)
 𥫥 徒本反、穀を盛りし竹の器也、■(竹冠に園)也、篅也、志太弥(したみ)、又伊佐留(いざる)(新撰字鏡)
 籔䈹 二同◆(竹冠に伯)反、亦同蘇后反、上、米を漉す器也、志太弥(したみ)(新撰字鏡) 
 漉𣿍 二同淥字同、力六反、渇也、涸也、盡也、滲也、志太牟(したむ)、又弥豆不留比(みづふるひ)、又須久不(すくふ)、又与祢須久不(よねすくふ)、又▲(ム+大+氺)漉也、▼(サンズイ偏にム+大+氺、𣸷の異体字カ)也(新撰字鏡)
爐鑪 魯都反、炎を盛る器也、鑪字、火呂、又加々利(かがり)(新撰字鏡)
 籠 唐韻に云はく、籠〈盧紅反、一音に龍、又力董反、古(こ)〉は竹の器也といふ。(和名抄)
 笭箐 四声字苑に云はく、笭箐〈零青の二音、漢語抄に加太美(かたみ)と云ふ〉は小さき籠也といふ。(和名抄)
 籮 考声切韵に云はく、江南の人、筐の底は方にして上は円なる者を謂ひて籮〈音は羅、之太美(したみ)〉と為(す)といふ。(和名抄)
 䈪 方言注に云はく、䈪は形小さくて高く、江東に呼びて䈪〈呼撃反、漢語抄に阿自賀(あじか)と云ふ〉と為(す)といふ。今案ずるに又簣字を用ゆ。史記に見ゆ。(和名抄)
 箄 四声字苑に云はく、箄〈博継反、漢語抄に飯箄、以比之太美(いひしたみ)と云ふ〉は甑底を蔽ふ竹筐也といふ。(和名抄)
 篝 説文に云はく、篝〈古侯反、加々利(かがり)〉は竹の器也といふ。(和名抄)
 篝火 漢書陳勝伝に云はく、夜篝火〈師説に比乎加々利迩須(ひをかがりにす)と云ふ。今案ずるに漁者、鉄を以て篝を作り、火を盛りて水を照らす者の名、之れ此の類か〉といふ。(廿巻本和名抄)
 笊籬 弁色立成に云はく、笊籬〈楊氏漢語抄に无岐須久比(むぎすくひ)といふ。唐韻に上は側教反、去声の軽、下の音は離〉は麦索を煮る籠也、竹を以て編みて之れと為(す)といふ。(和名抄)

 語彙の検討に当たって、一語一語が物品と一対一対応するとは限らない点を指摘しておく。その命名も、編み方(組み方)、用途、扱い方など、多方面に由来しよう。さらに、民俗用語には多様であり、作られた籠の用途を流用することや、実際の利用に大きさの境界を設けることも無用化している。何のために作られているか。使うためである。ハンバーグを作るためにひき肉を捏ねるとき、ボールでやってもパットでやっても食器でやってもトレイでやっても机の上にラップを敷いた上でやっても構わない。最終的に食べられればそれでいい。さまざまな籠が作られてあれば、農作業に出掛ける時に思ったものが見つからなければ違うものを持参して、用が足せればそれで済んでしまう。言葉においても、厳密な定義などできない。それでも、一応の目安のように言葉は構成されているので、ひとつずつ検討していくことには意味がある。
蓧・簣・畚・籠(中村惕斎・訓蒙図彙・巻第十・器用三、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569347/8)
筲・籃(同・巻十一・器用四、同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569348/17)
「古(こ)」類(曽占春他・成形図説・巻之十四(同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569438/34~35)
篅・簍・𥫱・蓧・簣・畚(寺島良安・和漢三才図会・巻第三十五農具、同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569720/14~15)
篽・笭筲(同・巻第二十三漁猟具、同http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2569715/53)
 アジカは、縦横の幅は狭くて高さのある竹籠である。たとえば、民俗用語に背負子ではないカルイやイジコ、コダスなどと呼ばれる背負い籠は、高さのある籠に担い紐をつけて背中に背負うことに用いられている。「簣」字は、中国で土を盛る器とされたため、もっこ(畚)と混同されている。百姓伝記・巻五・農具小荷駄具揃に、「あぢかの事、竹のへいを以、大きなる籠に作り、ふちをもつよく巻、せをい縄をつけ、こしらゆる、四つ目に組たるハ悪し、目かごのことくに竹の上皮斗を以つくりたるかつよし、是に、田に置くこやしを入せをい、また苗を入てせをい、草をかり入持運ひ、秋ハな・大こんをこぎとり、家路に運ぶ道具なり。男女ともに持あるくに自由あり。」(注6)とある。
アジカ(国際常民文化研究機構 国際研究フォーラム「Homo material ─人と民具と暮らしの国際比較─」チラシhttp://icfcs.kanagawa-u.ac.jp/management/symposium/s8220f0000000rvz-att/NEW_2015_forum.pdfをトリミング)
 時に三蔵親(み)づから簣(あしか)・畚(かゝり)を負ひて、甎石(せんせき)を担(にな)ひ運(はこ)ぶ。(興福寺本三蔵法師伝・巻七)

 カガリとは、綴(かが)って作った籠という意味であろう。糸・紐・縄・ひごなどを、互い違いに組んでいって合せた器である。和名抄に見える「竹器」は香を服に焚きこめるためのもので、金属製のものもある。和名抄・薫香具には、「薫籠 方言注に云はく、火籠〈多岐毛乃々古(たきもののこ)〉は今、薫籠也といふ。」とある。鵜飼など漁撈や客船、薪能で灯火用に用いるものは、火床となるから必ず鉄製である。
カガリ(小松茂美編『日本の絵巻10 葉月物語絵巻 枕草子絵詞 隆房卿艶詞絵巻』中央公論社、昭和63年、表紙カバーをトリミング)
篝火(渓斎英泉(1791~1848)「岐阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼舩」横大判錦絵、江戸時代、19世紀、東博展示品)
 此の時に当りて、綴(かが)れる旒(はたあし)の若く然なり。(雄略紀八年二月)
 婦負川(めひがは)の 早き瀬ごとに 篝(かがり)さし 八十伴(やそとも)の緒(を)は 鵜川(うかは)立ちけり(万4023)

 イザルは、ザル(笊)の意であろう。用途として、和名抄にあるような蕎麦を入れて茹で温めるときに使う、竹製の器で、最後に湯切りすることもできる。今日ラーメン店でお目にかかるものにはステンレス製のものが多い。籤(ひご)で編んだ目の細かい籠である。そして、イザルという語は、漁をすることも指す。
イザル(?)
 海原の 沖辺(おきへ)に灯(とも)し 漁(いざ)る火は 明かして灯せ 大和島見む(万3648)
 海少女(あまをとめ) 漁り焚く火の おぼほしく 都努(つの)の松原 思ほゆるかも(万3899)
 …… 大御食(おほみけ)に 仕へ奉ると 遠近(をちこち)に 漁(いざ)り釣りけり そきだくも ……(万4360)

 さち易をして漁をしようとして失敗し、逆に鉤を失ったのが、「行吟海畔」、「行至海辺、彷徨嗟嘆」、「往海辺、低佪愁吟」、「愁吟在海浜」の原因であった。イザルといい、カガリといい、陸上で用いられる言葉と漁撈で海上等に用いられる言葉とには差異がみられる(注7)。そして、アジカという語についても関連語が見える。日本の水族館で芸を披露しているのはアシカである。このアシカの古語は、ミチ(海驢)である。和名抄に、「葦鹿 本朝式に云はく、葦鹿皮〈阿之賀(あしか)は陸奥・出羽の交易雑物中に見ゆ、本文未だ詳らかならず〉といふ。」、神代紀第十段一書第三の訓注に、「海驢、此には美知(みち)と云ふ。」とある。基本的に綿毛のない毛皮を敷物にしているだけで、動物自体を目にすることはない。表記からは、鹿の一種にして茣蓙にできる程度のものと思われたようである。記に、「美智皮之畳(みちのかはのたたみ)」、紀一書第三に、「海驢皮八重(みちのかはやへ)」と記され、彦火火出見尊(虚空津日高)が海神の宮に招き入れられ厚遇を受けるとき、着座の敷物に用いられている。
アシカショー(新江ノ島水族館)
 カタミは、和名抄に、「笭箐」とある。小さな籠のことである。この語の由来として考えられるものに、カタムという下二段活用の動詞があげられる。柔らかいものをきちっと堅く作りあげることである。けれども、これに対する自動詞は、カタマルという四段動詞が古くからある。カタミという形に転じにくい。他の考えとしては、カタミ(片身)という体の左右どちらか半分のこと、それはまた衣服にも通じる語や、その展開したカタミニ(互)という副詞があげられる。カタミニ(互)は、同一のことを交互に行うさまをいい、かわるがわるの意味である。これは籠を編むとき、名久井氏の呼び方に組むとき、互い違いに竹をめぐらせていくことを示していると言える。笭箐や筐という字を当てるカタミを言葉どおりに受け取ると、四ツ目編みのテクスチャーのものということになる。「幸易へ」の部分で、神代紀第十段一書第一に、「時に兄弟(このかみおとと)、互(かたみ)に其の幸を易へむと欲(おもほ)す。」、記に、「其の兄火照命、各(かたみ)にさちを易へて用ゐむと謂ふ……」とある。記の「各」のカタミニの訓は古事記伝に採られたもので、紀の「互」のカタミニは大系本日本書紀に採られている。話のはじめからカタミの話だったのである。片身に、の意味によって、ミは乙類である。語源的にそうであると決めてかかることはできないものの、言葉の洒落としてそのように理解が可能であり、そのように理解したのがこの塩土老翁の話であろう。無目堅間に限りなく近い代物である。「無目籠」は、鴨脚本日本書紀に「マナシカタミ」、御巫本日本書紀私記に「末奈之加太美(まなしかたみ)」と訓が付けられている(注8)
 マナシカタマとは、船でも盥(たらい)船でもなく、船のような形に作った竹の籠である。つまり、船の肖像、ポートレイトである。影(かげ、ゲは乙類)と言っていい。この影の概念は重要である。カゲ(ゲは乙類)という言葉には、鹿毛(かげ)がある。和名抄に、「騧馬 爾雅注に云はく、騧〈音は花、漢語抄に云はく、騧馬は鹿毛也といふ〉は浅黄色の馬也といふ。」とある。まるでシカのような毛のウマであるというのである。この話に出ているアシカは、和名抄に「葦鹿」とあって、シカの影のような存在である。昔は毛が生えていたのかもしれないが、使い古されて毛が抜けてしまったと想定すると、鹿毛の影ということになる。そして、影面(かげとも)とは、背面(そとも)の対、日の光に向かう方向のこと、南の方角を言う。後述する(注9)
 そもそも、いま、彦火火出見尊は、鉤を返せずに責め立てられ、どうしたら良いか、今後の行く先について思い悩んでいる。道に迷っている。海辺で嘆き泣き、さまよっていたら、道先案内人たる塩椎神(塩土老翁、塩筒老翁)が現れて、行くべきところを示してくれている。その進んだ先は海神の宮で、それが正しい道なのかは当面不明であるものの、そういう話になっていて、最終的には正しい道であったとわかることになる。
 ミチ(道・路)という言葉は、ミ(接頭語)+チ(道・方向の意)の語構成から成るとされている。通路の意から、特定の方面、方法、人の進むべき正しい行路、学問・芸能・武術・医術・仏道などの修行の道程、人々が往来するから世間の慣習の意へと展開している。

 世の中の 遊びの道に すすしくは 酔泣(ゑひなき)するに あるべくあるらし(万347)
 …… かくばかり 術(すべ)無きものか 世間(よのなか)の道(万892)
 吾(わ)が後に 生れむ人は 我(わ)が如く 恋する道に 遇(あ)ひこすなゆめ(万2375)
 うつせみは 数無き身なり 山川の 清(さや)けき見つつ 道を尋ねな(万4468)
 渡る日の 影に競(きほ)ひて 尋ねてな 清(きよ)きその道 またも遇(あ)はむため(万4469)
 二(ふたはしら)の神、見(みそなは)して学(なら)ひて、即ち交(とつぎ)の道を得つ。(神代紀第四段一書第六)
 此(これ)より始めて養蚕(こがひ)の道有り。(神代紀第五段一書第十一)
 其の病を療(をさ)むる方(みち)を定む。(神代紀第八段一書第六)
 朋友(ともがき)の道、理(ことわり)相弔(と)ふべし。(神代紀第九段本文)
 皆学びて業(みち)を成しつ。(推古紀十年十月)
 若し国家(あめのした)に利(かが)あらしめ百姓(おほみたから)を寛(ゆたか)にする術(みち)有らば、闕(みかど)に詣でて親(みづか)ら申せ。(天武紀九年十一月)
 此の人、深く薬方(くすりのみち)を知れり。(允恭記)
 
 包括概念としてのミチを考慮すると、彦火火出見尊が進むべき道について悩んでいたことを、塩土老翁は進路指導してくれたということになる。
(つづく)

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