古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

額田王の三輪山の歌と井戸王の綜麻形の歌 其の一

2021年09月06日 | 古事記・日本書紀・万葉集
はじめに

 万17~19番歌は、近江遷都時の三輪山の歌として知られている。原文ならびに新編全集本萬葉集による訓、現代語訳を記す。
  額田王下近江國時作歌井戸王即和歌
 味酒三輪乃山青丹吉奈良能山乃山際伊隠萬代道隈伊積流萬代介委曲毛見管行武雄數毛見放武八萬雄情無雲乃隱障倍之也
  反歌
 三輪山乎然毛隠賀雲谷裳情有南畝可苦佐布倍思哉
  右二首歌山上憶良大夫類聚歌林曰遷都近江國時御覧三輪山御歌焉日本書紀曰六年丙寅春三月辛酉朔己卯遷都于近江
 綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
  右一首歌今案不似和歌但舊本載于此次故以猶載焉
  額田王、近江国あふみのくにくだる時に作る歌、井戸王ゐのへのおほきみすなはこたふる歌
 味酒うまさけ 三輪みわの山 あをによし 奈良ならの山の 山のに いかくるまで 道のくま いもるまでに つばらにも 見つつかむを しばしばも 見放みさけむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(万17)
  反歌
 三輪山みわやまを しかも隠すか 雲だにも 心あらなも 隠さふべしや(万18)
  右の二首の歌は、山上憶良大夫やまのうへのおくらだいぶ類聚歌林るいじうかりんいはく、「都を近江国にうつす時に、三輪山を御覧みそこなは御歌みうたなり」といふ。日本書紀にほんしょきいはく、「六年丙寅へいいんの春三月、辛酉しんいうつきたち己卯きぼうに、都を近江あふみうつす」といふ。
 綜麻へそかたの 林のさきの さ野榛のはりの きぬに付くなす 目に付く(万19)
(訳)
  額田王が近江国おうみのくにに下った時に作った歌、そして井戸王いのへのおおきみがすぐ唱和した歌
 (うまさけ) みわやまを (あをによし) 奈良ならの山の 山の向こうに 隠れるまで 道の曲り角が 幾重いくえにも重なるまで 存分に 見続けて行きたいのに 幾たびも ながめたい山だのに つれなくも 雲が 隠してよいものか
  反歌
三輪山みわやまを そんなにも隠すことか せめて雲だけでも この気持ちを察してほしい 隠してよいものか
  右の二首の歌は、山上憶良大夫やまのうえのおくらだいぶ類聚歌林るいじゅうかりんに、「近江国おうみのくにに遷都した時、三輪山をご覧になって天智天皇が詠まれたお歌である」とある。日本書紀には、「天智天皇の六年三月十九日、近江に遷都した」とある。
 綜麻形へそかたの 林の端の はりの木が 服によくつくように よく目につくわが君ですね
  右の一首の歌は、今考えてみると、唱和の歌らしくない。ただし、旧本にこの順序に載せてあるので、やはりここに載せておく。

 これらの歌は左注にもあるように、天智天皇が近江へ遷都したときに歌われた歌とされている。都を大和から遷したのは、その4年前、天智二年(663)八月二十八日、白村江の海戦に敗れて以降の情勢による。当時、朝鮮半島では、百済・新羅・高句麗の三国が鼎立していた。そこへ中国の大帝国、唐(618~907)が侵攻を図る。第一ラウンドは、前王朝の隋(589~618)同様、 陸続きの北方から高句麗へ遠征する。何度か失敗を繰り返した後、第二ラウンドとなる。高句麗の背後で結託している百済を先に攻めようというのである。そして唐は、三国のなかでもっとも遠い新羅と連合し、百済を挟み打ちにする。百済は新羅の陸軍、唐の海軍に蹂躙されて都は陥落、倭に人質として留まっていた王子の返還と援軍を要請してくる。倭は、百済救援のために大軍を朝鮮半島に送った。時に唐の海軍は百済の心臓部に迫り、白村江、今の錦江河口、群山付近に陣取っていた。倭の海軍は唐の大艦隊に向かって突撃していく。そしてあっけなく敗れた。百済の要人ともども敗走し、海峡を列島へと渡ったのであった(注1)
 以降、倭国は朝鮮半島の緊張状態の下に、東アジア世界の一員としてあることを意識した政策がとられた。九州には防人を置き、西日本各地に山城を築いたうえ、近江の地へ遷都している。遷都の理由としては、諸説あげられているが帰一するところがない。白村江の敗戦によって首都防衛のために一国城塞となるようにしたもの、戦勝国である唐の要求による、交通上の要衝で高句麗との連絡や蝦夷を意識したもの、渡来人が多く居住していて米や木材等生産力が高かった、近江に移住していた亡命百済貴族を重用して律令国家の官僚体制を整えるため、藤原氏、息長氏との関係や旧勢力と新興勢力の対立、飛鳥の地における再開発の頭打ちとなって生産力が低下したため、近江にも大王家の基盤を求めたため、外国使節が幾度も訪れた飛鳥は情報が知れ渡っていて危険である、秦の始皇帝の真似をして水徳を主張して水の都を建設したなどといった説があり、それらの複合したものであるとも唱えられている(注2)
 気持ち的には仕方なく近江へ遷都している。そのような状況下で歌われたのが「額田王下近江国時作歌、井戸王即和歌」である。万17番の長歌は、対句が漸次崩れながら進行する形態をとっている。最後の五・三・七音の終わり方は初期万葉の歌によく見られる。急迫した歌い口が印象的である。万18番歌は、一説によると内容的にほとんど変わっていないので、万17番歌と同じときに作られた歌が一緒に伝えられたにすぎず、「反歌」というにはふさわしくないという。四句目の「心あらなも」のナモは、未然形について願望を表す助詞ナムの古い形で、心があってくれよ、の意とされる。
 近江遷都に際して三輪山が歌われている理由については、ヤマトの国作りの神として崇められていたからという説から単なる叙景と捉える説までバリエーションがある。いずれにせよ公の席において歌われていて、初期万葉の原則どおり、宮廷社会全体の総意となっていたと考えられる。あるいはそうあるべきと捉えられていた。万19番歌は、左注の人の指摘にあるとおり、和した歌とは考えることが難しいと思われている。一句目の「綜麻形」のヘソは紡いだ麻糸を巻いた巻子のことで、三輪山伝説と関係して三輪山の異名であるとする説もある。以前はハギの事かともされた「さ野榛」は、今ではハンノキのことと収まっている。また、五句目の「我が背」は天皇のことか、三輪山の祭神のことかと分かれている。さらには、万19番歌は一連の歌ではないものとして完全に除外して考える一派もある。万17・18番歌についても、儀礼歌であるとも抒情歌であるとも解釈され、かなり振れが大きい。歌われたのがいつ、どこでなのかについても旅の途中であるとも近江到着後であるとも出立以前であるとも説かれている。それは、なぜ三輪山が歌われているかに関わってくることであるが、議論は錯綜し定説は得られていない(注3)

東アジア情勢と倭国の対応

 万17~19番歌は、歌が歌われた現場がどこであれ、近江への遷都にまつわる歌である。どうして遷都するに至ったかについては国際情勢にかかわる。当時の東アジア圏の中心は世界帝国、唐である。唐の支配原理は、中国と夷狄とを差別して考える中華思想と、夷狄を皇帝の徳によって統合する王化思想とを弁証法的にまとめたものである。正州と呼ばれる中国本土を中心にして、その周辺は正州を守る都護府、さらに君臣関係を結ぶ冊封国、貢ぎ物を献上させる朝貢国というように支配地は同心円構造をとる。漢の時代の版図に倣ってモンゴル、チベット、中央アジアへも遠征している。ところが、漢代に楽浪など四郡(注4)を設けていた朝鮮半島が反抗していて支配体制が築けずにいた。半島の、中国からいちばん遠い新羅は、高句麗や百済の攻撃を受けていたから唐に服属する冊封国となって生き残る道を選んだ。唐は新羅と同盟して先に百済を滅ぼすことになる。最終的な戦いが白村江の海戦であった。百済の残党ならびに倭は大敗する。百済の地がいったん唐の領土、かつての楽浪郡のような位置づけと目されるに至っている。
 倭国にはたくさんの使者が各国から来ている。唐と新羅に滅ぼされそうな高句麗からは援軍の要請、新羅からは国交を正常化させて大国唐に対抗しようとする使節、そして最大の使節団は、唐の支配下に入った百済、すなわち唐領百済からのものであった。この、唐領百済を暫定統治する将軍からの使節団が何をしに倭国を訪れたのか、はっきりした記録は残されていない。日本書紀を見ると長期滞在型の派遣が多い。
 最初は敗戦の翌年、天智三年(664)のことである。

 夏五月の戊申の朔にして甲子に、百済の鎮将(いくさのきみ)劉仁願(りうじんぐゑん)、朝散大夫(てうさんだいぶ)郭務悰(くわくむそう)等を遣(まだ)して、表函(ふみはこ)と献物(みつき)とを進(たてまつ)る。(天智紀三年五月)
 冬十月の乙亥の朔に、郭務僚等を発(た)て遣す勅(みことのり)を宣(の)たまふ。是の日に、中臣内臣(なかとみのうちつまへつきみ)、沙門(ほふし)智祥(ちじゃう)を遣(つかは)して、物を郭務悰に賜ふ。戊寅に、郭務悰等に饗(あへ)賜ふ。(天智紀三年十年)
 十二月の甲戌の朔にして乙酉に、郭務悰等罷り帰りぬ。(天智紀三年十二月)

 「百済鎮将」とは百済の占領軍司令官のこと、「朝散大夫」とは唐の官名であり、外務次官のようなものであろうか。「表函」なるものに何が入っていたかが重要である。この一行は大宰府に長く留まり、五月十七日に来て帰ったのは十二月十二日であった。のろし台であるとぶひや水城(みづき)が設けられたのはその歳のことである。

 是歳、対馬島(つしま)・壱岐島・筑紫国等に、防人と烽(すすみ)とを置く。又、筑紫に、大堤(おほつつみ)を築(つ)きて水を貯へ、名(なづ)けて水城(みづき)と曰ふ。(天智紀三年是歳)

 水城は大宰府の北西側に長い堀を築いたことを言っている。使節が都へ来た様子はない(注5)。すると、水城は使節団の目の前で造られている。指導を受けて造られたとしか考えられない。中国では隋代に大運河を開整している。その距離は倭国を縦断して余りある。
 十月一日の「勅」は、水城の工事に関係するもので、だいたいできあがったら後はこちらでできます、ありがとうございました、もう帰っていいですよ、という勅であろう。総理大臣の中臣鎌足から褒美も出、送別会も開かれている。郭務悰は親切で、完成を見届けるまで残っていたらしい。この関係は内政干渉的な屈辱外交とは決めつけられない。新羅のように唐との間で冊封関係に入ったわけではない。仮にそうなれば唐側にも史料が残る。唐側の一回目の使節は百済の鎮将劉仁願から出ている。中国との外交関係は、推古朝の隋との交渉以来、朝貢関係にあり、遣唐使によって守られている。今後とも今までどおりの関係を続けるべく、倭は唐領百済と間で密約を結んだのではないか。最初に使節団が奉った「表函」には、軍事、外交、内政面において、手取り足取り指導する内容の親書が入っていたと考えられる。百済を占領する唐にとっての最大の敵は、同盟を結んで戦ってともに戦勝した相手、新羅である。百済の地を治めるのはどちらか、いまだ共通の敵、高句麗があったとしても戦勝と同時に亀裂が入る。そこで唐は倭との間で同盟関係を築きたかった。倭はすぐに呑んで水城建設の現場監督になってもらっている。
 二回目の使節は翌年、唐の本国から来訪し、都まで上るお膳立てが整っている。

 九月の庚午の朔にして壬辰に、唐国、朝散大夫沂州司馬(きしうのしば)上柱国(しゃうちうこく)劉徳高(りうとくかう)等を遣す。等と謂ふは、右戎衛郎将(いうじゅゑいらうしゃう)上柱国百済禰軍(くだらのねぐん)・朝散大夫柱国郭務悰をいふ。凡(すべ)て二百五十四人。七月二十八日に対馬に至り、九月二十日に筑紫に至る。二十二日に表函(ふみひつ)を進る。(天智紀四年九月)
 冬十月の己亥の朔にして己酉に、大きに菟道に閲(けみ)す。(天智紀四年十月)
 十一月の己巳の朔にして辛巳に、劉徳高等に饗(あへ)賜ふ。(天智紀四年十一月)
 十二月の戊戌の朔にして辛亥に、物を劉徳高等に賜ふ。是の月に、劉徳高等罷り帰りぬ。(天智紀四年十二月)
 是歳、小錦(せうきむ)守君大石(もりのきみのおほいは)等を大唐(もろこし)に遣すと、云々(しかしかいふ)。等と謂ふは、小山(せうせん)坂合部連石積(さいかひべのむらじいはつみ)・大乙(だいおつ)吉士岐弥(きしのきみ)・吉士針間(きしのはりま)をいふ。蓋し唐の使人を送るか。(天智紀四年是歳)

 さらに三回目は、天智六年(667)にやってくる。

 十一月の丁巳の朔にして乙丑に、百済の鎮将劉仁願、熊津都督府(ゆうしんのととくふ)熊山県令(ゆうせんのくゑんのれい)上柱国司馬法聡(しばはふそう)等を遣して、大山下境部連石積等を筑紫都督府(つくしのおほみこともちのつかさ)に送る。己巳に、司馬法聡等罷り帰る。小山下(せうせんげ)伊吉連博徳(いきのむらじはかとこ)・大乙下(だいおつげ)笠臣諸石(かのおみもろいは)を以て、送使(おくるつかひ)とす。(天智紀六年十一月)

 大宰府で実務会談をしてすぐ帰っており、倭国側から外交官が派遣されており、使者の伊吉博徳は、翌七年(668)一月二十三日に「服命」(復命)している。天智十年(671)には、亡命百済官僚の叙位や軍事指導にかかると思われる来訪がある。

 辛亥に、百済の鎮将劉仁願、李守真(りしゅしん)等を遣して表(ふみ)上(たてまつ)る。(天智紀十年正月)
 二月の戊辰の朔にして庚寅に、百済、台久用善(だいくようぜん)等を遣して調(みつき)進る。(天智紀十年二月)
 庚辰に、百済、羿真子(げいしんし)等を遣して調る。(天智紀十年六月是月)
 秋七月の丙申の朔にして丙午に、唐人(もろこしびと)李守真等、百済の使人等、並に罷り帰りぬ。(天智紀十年六月)

 その後の記事は、高句麗の滅亡(668)以降の情勢の変化を受けて局面が変わっている。新羅が唐に反目を明確にするのは670年以降である。676年には旧百済領から唐の勢力を駆逐し、半島南部はすべて新羅の支配となっている。倭への使者は援軍や武器の支援要請へと変っていったが、国内では天智天皇は亡くなって外交対応どころではなくなっている。

 十一月の甲午の朔にして癸卯に、対馬国司、使を筑紫大宰府(つくしのおほきみこともちのつかさ)に遣して言さく、「月生(た)ちて二日、沙門(ほふし)道久(だうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝娑婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといは)、四人(よたり)、唐より来りて曰さく、『唐国(もろこし)の使人郭務悰等六百人、送使沙宅孫登(さたくそんとう)等一千四百人、総合(す)べて二千人、船四十七隻に乗りて、倶に比智嶋(ひちしま)に泊りて、相謂(かた)りて曰く、今吾輩(われら)が人船、数衆し。忽然(たちまち)に彼(かしこ)に到らば、恐るらくは彼の防人、驚き駭(とよ)みて射戦はむといふ。乃ち道久等を遣して、預め稍(やうやく)に来朝(まうけ)る意(こころ)を披(ひら)き陳(まを)さしむ』とまをす」とまをす。(天智紀十年十一月)
 元年の春三月の壬辰の朔にして己酉に、内小七位(うちのすなきななつのくらゐ)阿曇連稲敷(あずみのむらじいなしき)を筑紫に遣して、天皇の喪を郭務悰等に告げしむ。是に郭務悰等、咸(ことごとく)に喪服(あさのころも)を著て、三遍(みたび)挙哀(みねたてまつ)る、東に向ひて稽首(をが)む。壬子に、郭務悰等、再拝(をが)みて、書函(ふみはこ)と信物(くにつもの)とを進る。(天武紀元年三月)
 夏五月の辛卯の朔にして壬寅に、甲冑(よろひかぶと)弓矢(ゆみや)を以て郭務悰等に賜ふ。是の日に郭務悰等に賜ふ物は、総合て絁(ふとぎぬ)一千六百七十三匹(むら)・布二千八百五十二端(むら)・綿六百六十六斤(はかり)。……庚申に、郭務悰等罷り帰りぬ。(天武紀元年五月)

 十一月の総勢二千人、船四十七隻の来航の時、天智天皇は病床にあった。天智天皇の息子、大友皇子がかつて藤原鎌足が地位に就いていた太政大臣にあったが、すでに皇太弟の大海人皇子は近江宮を去っていた。翌年両者は壬申の乱に争い、大海人皇子が勝利して天武天皇となる。
 天智天皇の時代に倭は唐に敵対していたわけではない。遣唐使も従来どおり派遣されていた。有能な官僚には亡命百済人も多かった可能性が高く、しかも百済を占領した唐は、当初は略奪を行ったように記録があるものの、抵抗が続くので占領政策を変更したようである。反乱を起こす者には徹底した弾圧を加えつつ、降伏した者には融和政策をとっていった。百済人を官人として登用し、百済の残党を打ち破ったのも百済の降将であった。百済の鎮将劉仁願はもとは唐人であるかもしれないが、百済の代表者と見なされていたのであろう。
 それは案外早い段階からで、さまざまな軍事技術を教えるとともに、亡命百済人を重く用いるように要請してきたと推測される。天智四年二月是月条に、「百済国の官位の階級を勘校(かむが)ふ。」とあって、どのように融和させるか考えており、そのときすでに百姓四百人余りを近江に植民させている。翌五年の冬には、二千人余りを東国へ植民させている。その記事に、「三歳に至るまでに、並びに官(おほやけ)の食(いひ)を賜へり。」とあって無料で給食させている。至れり尽くせりの優遇は、百済の鎮将劉仁願の指図であったろう(注6)し、それに対して大きな混乱も生じていない。
 近江遷都の理由について、筆者は、百済を占領した唐との交渉に関わることとして捉えている。政治的、経済的理由が背景にあったことは否めないが、積極的な理由を求めきれるものではない。それら現実問題とは異次元の、観念的なレベルで検討しなければならない。筆者は、ヤマトコトバに「楽浪(ささなみ)の」に当たる地が、唐領百済に迎合するという意味で求められたと考えている(注7)。関わりの中心は百済の鎮将劉仁願であった。漢代に中国が朝鮮半島に版図を広げたときに置かれたのは、楽浪郡である。漢書・地理志に、「夫れ楽浪海中に倭人有り,分れて百余国を為す。歳時を以て来り献見すと云ふ。」とある。倭が意識する中国出張所は「楽浪」であり、それをヤマトコトバにササナミと訓んでいる。そこで、ささなみしか起らない浪の静かなところ、それは湖である琵琶湖にほかならないから、そんな枕詞に冠される「志賀(しが)」の地が求められたのであろう。上代の人はヤマトコトバでものを考えている。
 唐領百済の軍事的、技術的、文化的な指示、支援に対して、天智朝の政治はそれを観念のレベルへ翻訳して動いていった。近江に住まわせた百済からの渡来人は、兵法や医術をはじめ進んだ技術や文化を持ち、行政の運営方法を知っていて、新しい国作りに欠かせない人材であったことは疑えない。けれども、急進派勢力の意向から近江遷都を遂行したり、天智天皇が政策の優位性を考えて近江遷都を断行したようには見えない。唐領百済からの意向におもねるように決まっていったようである。保守派との間に紛争が起きていないのは、彼らと交わした密約の条件が、敗戦国なら強いられてやむないであろう大きな負担などほとんどなかったからであろう。

近江遷都と夜の酒宴

 近江遷都の記述は次のとおりである。

 是の冬に、京都(みやこ)の鼠、近江(あふみのくに)に向きて移る。(天智紀五年)
 三月の辛酉の朔にして己卯に、都を近江に遷す。是の時に、天下(あめのした)の百姓(おほみたから)、都遷すことを願はずして、諷(そ)へ諫(あざむ)く者多し。童謡(わざうた)亦衆(おほ)し。日々夜々(ひるよる)失火(みづながれ)の処多し。(天智紀六年三月)
 八月に、皇太子(ひつぎのみこ)、倭(やまと)の京(みやこ)に幸(いでま)す。(天智紀六年八月)
 七年の春正月の丙戌の朔にして戊子に、皇太子(ひつぎのみこ)即天皇位(あまつひつぎしろしめ)す。或本に云はく、六年の歳次丁卯(ひのとのうにやどるとし)の三月に位(みくらゐ)に即きたまふ。壬辰に、群臣(まへつきみたち)に内裏(おほうち)に宴(とよのあかり)したまふ。(天智紀七年正月)

 割注に、六年三月即位説が記されているが、本文上、皇統譜は七年二月条に記されている。

 二月の丙辰の朔にして戊寅に、古人大兄皇子の女、倭姫王(やまとのひめおほきみ)を立てて皇后(きさき)とす。遂に四(よはしら)の嬪(みめ)を納(めしい)る。蘇我山田石川麻呂大臣の女有り、遠智娘(をちのいらつめ)と曰ふ。或本に云はく、美濃津子娘(みのつこのいらつめ)といふ。一(ひとり)の男(ひこみこ)・二の女(ひめみこ)を生めり。其の一を大田皇女と曰ふ。其の二を鸕野皇女(うののひめみこ)と曰ふ。天下を有(しらし)むるに及(いた)りて飛鳥浄御原宮に居(ま)します。後に宮を藤原に移す。其の三を建皇子(たけるのみこ)と曰ふ。唖(おふし)にして語(まことと)ふこと能はず。或本に云はく、遠智娘、一の男・二の女を生めり。其の一を建皇子と曰ふ。其の二を大田皇女と曰ふ。其の三を鸕野皇女と曰ふ。或本に云はく、蘇我山田麻呂大臣の女を芽淳娘(ちぬのいらつめ)と曰ふ。大田皇女と娑羅々皇女(さららのひめみこ)とを生めりといふ。次に遠智娘の弟(いろど)有り、姪娘(めひのいらつめ)と曰ふ。御名部皇女(みなべのひめみこ)と阿陪皇女(あへのひめみこ)とを生めり。阿陪皇女、天下を有むるに及りて、藤原宮に居す。後に都を乃楽(なら)に移す。或本に云はく、姪娘を名けて桜井娘(さくらゐのいらつめ)と曰ふ。次に阿倍倉梯麻呂大臣の女有り、橘娘(たちばなのいらつめ)と曰ふ。飛鳥皇女と新田部皇女とを生めり。次に蘇我赤兄大臣の女有り、常陸娘と曰ふ。山辺皇女(やまのへのひめみこ)を生めり。又宮人(めしをみな)の、男(ひこみこ)女(ひめみこ)を生める者四人有り。忍海造小龍(おしぬみのみやつこをたつ)が女有り、色夫古娘(しこぶこのいらつめ)と曰ふ。一の男と二の女を生めり。其の一を大江皇女(おほえのひめみこ)と曰ふ。其の二を川嶋皇子と曰ふ。其の三を泉皇女と曰ふ。又栗隈首徳万(くるくまのおびととこまろ)が女有り、黒媛娘(くろめのいらつめ)と曰ふ。水主皇女(もひとりのひめみこ)を生めり。又越道君伊羅都売(こしのみちのきみいらつめ)有り、施基皇子(しきのみこ)を生めり。又伊賀采女宅子娘(いがのうねめやかこのいらつめ)有り、伊賀皇子(いがのみこ)を生めり。後の字(みな)を大友皇子(おほとものみこ)と曰ふ。(天智紀七年二月)

 六年三月に天皇や側近たち一行が先に近江入りして形式的には遷都していたが、群臣たちが従わずになお留まるものがいたため八月に旧都に早く来るようにと催促に出かけ、七年正月に即位式を行って、二月に立后している。
 万17番歌の前にある題詞には、「額田王下近江国時作歌」と書かれてある。したがって歌が歌われた状況は、額田王を含む諸王や群臣、後宮に仕える人たちの一行が大和から近江の新しい都に到着してからのこと、先に近江宮に入っていた天智天皇と一緒になって開かれた宴の席上であったろう。万17番歌の額田王の長歌には口承性が指摘されていて、文字で書いて作ったものではないと考えられている。あたかも近江下向の最中の旅路で歌われたかのように錯覚する人までいるが、「額田王近江国時作歌」とは書いていない。また、「天皇近江国時額田王作歌」とも書いていない。天皇の名が見えない以上、旅路で額田王が歌い出したものではない。額田王は天皇に仕える身であった。時に代詠、代作を指摘されるほど、天皇位にある人のために、そのスポークスマンとして歌を歌っている。その歌詠みが天皇もいないところで公的な歌、初期万葉に「雑歌」と分類される歌を歌うことはまず考えられない。もちろん日々の鍛練は大事であるから一人ごちていることはあったろう。しかし、そういうものは日記に記すような形でなければ残らない。ノートに書きつけるとなると口承性は生まれてこない。額田王は近江宮に到着して天皇の御前に出たときに、旅の途中の様子を歌うように命じられて歌ったものと推定される。当然ながら、特定のある意思、政治的なメッセージを伝えるためにである(注8)
 額田王の長歌の出だしは、三輪山にまつわる歌謡を踏まえている。崇神紀八年十二月条には二つの歌が記されている。初めが諸大夫の歌で、それに天皇が和えた形になっている。

 味酒 三輪の殿の 朝門(あさと)にも 出でて行(ゆ)かな 三輪の殿門を(紀16)
 味酒 三輪の殿の 朝門にも 押し開(びら)かね 三輪の殿門を(紀17)

 歌の意味は、夜通しの酒盛りのあとで、三輪の社殿の朝門が開くときにでも出ていきたいものだ。そうそう、三輪の社殿の朝門のときにでも押し開いていくがいい、というものである。当時の人々にはお馴染みの、定番の酒宴の歌であったに違いない。額田王が「味酒 三輪……」と歌い出したのは、それが夜の宴の席であったことを物語っている。そんな夜の宴席について、紀は雄弁に語っている。天智七年正月七日の「宴」である。
 額田王は、政府のスポークスマンだから、人心の掌握安定を図ることを目的として歌を歌う。ただし、一般民(百姓)に対して歌うのではなく、あくまでも宮廷の中で、宮廷の人に対して歌を歌う。群臣たちを精神的に統率するために歌われたのが政治的メッセージである初期万葉の雑歌である。天智七年正月七日の宴は、即位式の後で行われた晩餐会と位置づけられよう。なおも近江遷都に抵抗感を抱いていた群臣がいたかもしれず、不満をなだめる効果も求めたものと考えられる。それを、崇神紀に伝えられる 「味酒 三輪の殿の ……」という君臣唱和の歌の形式をもって表現しようとした。
 崇神紀の紀16・17番歌謡は、ただその時の宴席の歌という意味で把握されていたわけではない。紀によると、崇神五年から疫病がはやり、人口が半減したと伝えている。逃亡者や反乱者も絶えなかった。そこで天皇は占いをして何が原因なのかを調べようとした。すると、倭迹迹日百襲姫命(やまとととびももそひめのみこと)が神憑りして神の声、「我は是、倭国の域(さかひ)の内に所居(を)る神、名を大物主神と為(い)ふ」を聞き、託宣に従って祭ったがなお効果がなかった。さらに天皇および三人の夢の裏(うち)に大物主神の子である大田田根子(おほたたねこ)を以て祭るようにとお告げがあった。大田田根子は大物主神と活玉依媛(いくたまよりひめ)との間に生まれた子であった。そのとおりお祭りすると七年になって疫病は終息に向かい、穀物も豊かに実った。
 それを受けて翌八年に大神(おほみわ)、すなわち大物主神に奉る「掌酒(さかびと)」、醸造者を定めた。三輪の名の由来は神酒(みわ)にあると考えている。今でも大神神社には大きな酒樽がたくさん奉納されている。その年の冬にできあがった酒を天皇に献った。そのときに歌が歌われている(注9)

 此の神酒(みき)は 我が神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸(か)みし神酒 幾久(いくひさ) 幾久(紀15)

その御神酒で酒宴が開かれて、「味酒 三輪の殿の ……」の歌が唱和されたのであった。危機から脱出して国が再生していくための新しい門出の歌となっている。
 額田王の歌が歌われたときも、白村江の敗戦によって戦死者も多数出たであろうし、九州で陣を構えた朝倉宮でも疫病がはやって斉明天皇まで亡くなった記事があり、人口が減少した状況は似ていたのであろう。さらに近江遷都に対して人心の乱れもあったことは、天智紀六年三月条に記されるとおりである。
 民衆の反対を押し切った遷都において、最も懸念される点は、新たな国作りを目指すのに、「倭成す大物主」、つまり、ヤマトの国作りの神(注10)、三輪山から離れることへの疑問であった。その力に与りたいはずなのに、どうして見えないところへ行くのか。その疑問は自作自演であるかもしれないながら不安を喚んでいて、それに対する説明のために歌が歌われている。

万17・18番歌と国際感覚

 万17・18番歌は三輪山が見えなくなることを惜しんでばかりいる。気持ちとしては群臣とも百姓とも同じであると言っている。言い伝えを信じている同朋である。国の復興のシンボルから離れて、新しい国作りはうまくいくのだろうかという不安に共感している。天皇自身、好んで遷都したわけではなく、唐領百済の防衛協力の一環として遷都した。白村江の大敗から目を逸らすことができず、国を刷新していくことが必要で、新しい国作りにチャレンジしていくことが時代の要請であった。宮廷人なら誰しも頭ではわかっていたことであろうが、これまでの常識、伝承への信仰から心のなかに不安がくすぶり続ける。改革は痛みを伴うものである。
 個人的にも不利益と感じた宮廷人も多かったに違いない。なかには天皇はもはや倭の国の人ではないと感じた人もいたかもしれない(注11)。多くの宮廷人は、天皇との間に距離が生まれていることを感じていた。その距離とは、近江の新都と大和の旧都という地理的な距離でもあり、先に新都に引っ越していた天皇と、大和に残っていたその他の宮廷人との間の時間的な距離でもあった。
 当時の宮廷社会は、豪族連合の形を変え、天皇を中心とした集権的な体制へと変化していく途上にあった。ちょうど遠心分離器にかけたように、中心の天皇と周縁の豪族との間に隔たりが生じ始めていた。百済人官僚の出現によってさらに拍車がかかっていく。その乖離状態をもう一度近づけ、国の再興に一致団結して取り組むためには、三輪山憧憬の歌が必要とされた。
 歌の歌い手は額田王であり、政権の主張をプロパガンダするものであったろう。すなわち、天皇を代詠する立場に立つ。天智天皇は皇太子時代、白村江の戦いへと赴く船上で大和三山の歌(万13~15)を歌って戦意を高揚させていた(注12)。その際、伝承に聞くアマテラス・スサノヲ・ツクヨミの三神と大和三山の天の香具山・畝傍山・耳成山とを鼎立的に考えてそれらから倭・百済・新羅の三者関係を説いていた。三貴子は分治に当たっては、記紀それぞれの書により若干の違いがあるが、整理するとおおむね次のようになる。

 異同はあるものの、天照大神が日の象徴、月読尊が月の象徴であったことは確かであろう。そして、記や神代紀第六段一書第十一には素戔嗚尊は海原を治めたことになっている。アマテラスが日神、ツクヨミが月神、スサノヲが海神(わたつみ)を表象している。極東情勢は白村江の戦い以降、また、高句麗の滅亡によって情勢が大きく変化する。連携する必要を持たなくなった新羅と唐が反目するに至る。

 遷都によって三輪山から引き離される原因は、対外情勢、朝鮮半島情勢である。ツクヨミ、月神は、「日に配(なら)ぶ」存在として意識されている。すなわち、ナラぶものが出てきて倭は大切なものが見えなくなっている。「奈良(なら)の山」が「三輪山」を隠しているのである。スサノヲは海神に当たるが、海神(わたつみ)は「渡る」ものの神だから、それぞれの海にいてその地方の海・雨・雲・水を司る。その海神が司っている「雲」までも「三輪山」を隠そうとしている。
 国作りの神の座します三輪山を、恐れ多くも「日に配ぶ」ほどのはずであるツクヨミ的存在、新羅が「奈良の山」となって手前に立ちはだかっていて見えなくしている。「平(なら)」であるはずの山が隠すなんておかしなことだと訴えている。平城と書いてナラと訓む理由はナラス(平)義に由来する。額田王の歌では、枕詞「あをによし」を伴っている。枕詞の意味は未詳ながら、青い顔料が得られる場所との説がある。ヤマトはアマテラス、日神の国、赤く明るく輝いているはずが、青いものに引けを取っていてやるせない。そのうえに、百済を治める唐の軍に当たる「海神」の生んだ「雲」までも見えなくしかねない。これら額田王の歌は、中大兄の三山歌(万13~15)を踏まえた歌と考えられ、そこでは、「海神の 豊旗雲に」(万15)と形容されていた。雲は、湧いたり動いたり消えたりする不安足なもの、訳のわからない、実態のつかめないものである。それが大きく垂れ込めている。
 新羅ばかりでなく百済(唐領)までも国作りの神である「三輪山」が見えないところへ追いやろうとしているのか、との嘆きが聞えている。国際情勢を準えたもの言いである。なにしろ雲が晴れたからといって、遠い近江の地からでは三輪山は見えようはずがない。万18番歌では奈良の山は歌の文句から消えてしまい、雲のことばかり気にしている。そのうえ雲に対して誂え、揉み手している。

 味酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の際に い隠るまで 道の隈 い積るまでに つばらにも 見つつ行かむを しばしばも 見放けむ山を 心なく 雲の 隠さふべしや(万17)
(大意)大物主神の座す三輪山よ、新羅のせいで姿が隠れるまで、紆余曲折があって見えなくなるまで、しっかりとヤマトを立て直したいのに、何度もそれを願っていろいろと画策しているのに、唐はヤマトの心情を察することなく、遷都を当然のこととしているが、そうではないだろう。
 三輪山を しかも隠すか 雲だにも 情(こころ)あらなも 隠さふべしや(万18)
(大意)国作りの神の座す三輪山をそのように本当に隠すのか。新羅は仕方ないにしても、同盟を結んだ唐までも遷都させようとしているのか。せめて唐だけでも配慮する心があってくれたらなあ。三輪山を隠し続ける遷都はどうしても必要なことか、いやいやそうではないだろう。

 文法上、最後のヤは反語を表す。隠すべきではないだろう、と言っている。万17番歌は、周縁の宮廷人から中心にいる天皇への問いかけである。前半では、白村江の敗戦などいろいろ多難の時代であり、新羅にはいま、時の力があって倭国を揺るがせているけれど、天皇に対する忠誠の気持ちは変わらないと歌っている。後半では、唐領百済の意向に沿う形の遷都は、まったくもってやるせないものがあると歌っている。 
 万18番歌は、同じテーマを天皇から周辺の宮廷人へ向かって歌っている。「しかも隠すか 雲だにも」と畳みかける助詞のモによって、前の長歌にあった家臣の訴えを聞いて同感であることを強調している。遷都が楽浪にゆかりの唐領百済へのおもねりであったことがわかる。「情あらなも」のナモは願望を表す助詞である。ナの一語で示すよりも遠慮気味に、不可能かと思いつつ希望している表現である。この遷都は、外交交渉によるものではなく、忖度であったことを言っている。それでも宮廷内にアピールする力はあったのであろう。崇神天皇時代の味酒の歌は、諸大夫と天皇との唱和の歌であった。この二首はそれに似せた、額田王の一人芝居による君臣唱和の歌である。
 白村江の敗戦と多大な犠牲から新しい国作りが求められた。国作りのためには、言い伝えに従えば、国作りの神である三輪山が必要とされるわけであるが、それが見えない地へ行って大丈夫なのか、いやいや大丈夫なのだ、という歌が政府の公式見解として額田王に歌われている。長歌と反歌の連作は、同じ事柄を立場を変えて歌っているものであろう(注13)。万17番歌では「雲」に「心」はないが、万18番歌では「雲」に「心」があって欲しいと変えている。けれども歌全体の調子は一様である。言い伝えのなかに思考していた人々に新しい国作りプランを訴えるのに、伝承に国作りと言えば三輪山ブランドを外すわけにはいかず、それを抜きにしては語れないからであった(注14)。結果、主体性を欠いた遷都であることを示しており、敗戦を引きずった暗いムードの漂うものになっている。

井戸王歌と三輪山伝説

 今日まで、井戸王の歌は、額田王の歌の反歌と考えられるには十分に至っていない。しかし、題詞には「額田王下近江国時作歌、井戸王即和歌」と書いてある。この題詞は正しい。そう言い切れるのは、題詞に「即」という字が入っているからである(注15)。臨場感あふれる字である。井戸王という人は、額田王が歌ったのにすかさず和えたのである。左注の人が「不和歌」と言っているが、題詞自体に偽りはない。単に同じときに詠まれたというだけでなく、三首セットの歌である。なぜなら、上にみた万17・18番歌だけでは、もやもや感はぬぐえないからである。国作りの神である大物主神を祭っている三輪山を離れてどうして新しい国作りが可能なのか、古代人の思考に訴えるに十分ではない。
 万19番歌の語句に、つとに三輪山との関係が指摘されている。「綜麻形」、「さ野榛(針)」、「衣に着く」といった表現は三輪山伝承にゆかりある表現と見なされている。紡績や染色に関係する言葉が登場するから、衣料関係にたずさわる女性の詠んだ歌と見て確かなようである。「榛」はハンノキのこととされている。古代では、実や樹皮などを煮出し、各種媒染剤を用いてさまざまな色に染めあげたようである。しかし、この議論の問題点は、印象論的には三輪山伝承につながりがありそうでも、具体的につながっているとまだ確かめられていないところである。決定打に乏しいのである。結局、なぜ三輪山なのかについて、踏み込むことができておらず、万17・18番歌との連動性が見極められていない。
 三輪山伝承は次のようなものである。

 此の意富多多泥古(おほたたねこ)と謂ふ人を、神の子と知れる所以は、上に云へる活玉依毘売(いくたまよりびめ)、其の容姿端正(かほよ)かりき。是に壮夫(をとこ)有り。其の形姿威儀(かほすがた)、時に比(たぐひ)無し。夜半之時(よなか)に、儵忽(たちまち)に到来(き)つ。故、相感(め)でて共婚(まぐは)ひして共住(す)める間に、未だ幾時(いくだ)も経(あ)らねば、其の美人(をとめ)妊身(はら)みぬ。爾に父母其の妊身(はら)みし事を恠(あや)しみて、其の女に問ひて曰ひしく、「汝(な)は自(おのづか)ら妊めり。夫(を)无(な)きに何由(いか)にして妊身(はら)める」といへば、答へて曰ひしく、「麗美(うるは)しき壮夫(をとこ)有り。其の姓名(な)も知らず。夕(よ)毎(ごと)に到来(き)て、共住める間に、自然(おのづか)ら懐妊(はら)みぬ」といひき。
 是を以て其の父母、其の人を知らむと欲ひきて、其の女に誨(をし)へて曰ひしく、「赤土(はに)以て床前(とこのへ)に散し、閇蘇(へそ)の紡麻(うみを)を針に貫きて、其の衣の襴(すそ)に刺せ」といひき。故、教の如くして旦時(あした)に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴(かぎあな)より控(ひ)き通り出で、唯(ただ)遺れる麻は三勾(みわ)のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状(さま)を知りて、糸に従(よ)りて尋ね行けば、美和山(みわやま)に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子と知りぬ。故、其の麻の三勾遺れるに因りて、其地(そこ)を名づけて美和と謂ふ也。(崇神記)

 三輪山がミワヤマと言われるに至った地名譚が語られている。三輪山がミワと名付けられた経緯については、もとより不明である。“話(話・噺・譚)”のレベルにおいてそう言われ、そう知られている。鞠状の「閇蘇(へそ)」の「紡麻(うみを)」が伸びていって「三勾(みわ)」残ったという話である。「赤土(はに)」をしるしになるように散しておいて、績み麻につける工夫が行われている。「鉤穴(かぎあな)」を通って出て行っている。その輪から逆に手繰って行ったら、三輪山の「神の社」にたどり着いた。大神神社は、今日でも三輪山自体をご神体としており、本殿はない。つまり、元のヘソのところがミワ(三勾)、向こう側もミワ(三輪)ということである。両サイドで釣り合いが取れている。
ヘソ(岩手県紫波郡紫波町船久保、昭和44年頃、日本民家園展示品)
 「閇蘇(へそ)」は、績んだ麻(を)を鞠のように巻かれてある状態のものをいう。これがそのまま糸として織物に使われるわけではなく、撚りをつけて糸としていく。手間暇のかかる糸製造の半製品がヘソである。績んだ麻を指に巻きつけていってヘソの形にする。左手親指に十巻きほど真横に巻き、次は斜めに十数回ずつ方向を変えながら巻いていき、形を見ては巻いたものを指の先へずらしながら全体に大きくしていく(注16)
 巻き始めは、麻笥(をけ)にまとめ容れておいた績んだ麻を筵などの上に放り出し、端の三(?)つの輪を見つけて親指に巻き、その周りにくるくると巻いていく。ヘソにはミワの要素があらかじめ内在していたということであろう。そして、次に撚りをかけるために麻を引き出すのには、ヘソの内側の糸口(まだ「糸(絲)」ではないが)から引いていく。引いていく時、転がって行かないところが好都合である。和名抄に、「巻子 楊氏漢語抄に云はく、巻子〈閇蘇(へそ)、今案ふるに本文未だ詳らかならず。但し、閭巷に伝へる所、麻を續[=績]みて円く巻く名也〉といふ。」とある。三輪山伝説では、ヘソから出て行った紡麻を手繰って行って三輪山の社にたどり着いている(注17)
 深い観察に基づいてヘソと呼んでいる。動物の臍に同じということである。胞衣(えな)の内側へ引かれて胎児に至っている。その腸(わた)のような緒(を)のようなつながりが臍(へそ)という。腸(わた)のようなものが繰られている。ワタクリによってワ(輪)+タクリ(手繰)をしたという洒落であろう。活玉依毘売の身籠った理由を探る話である。母胎と胎児とは臍の緒を通して栄養が送られている。臍の緒は撚れるようになっている。だからこそ、「閇蘇」が話にのぼっている。順当で違和感がない。そしてその時、「赤土(はに)」で着色されている。臍が臍だと知れるとき、それは出産のときであるが、血のような赤い色が選ばれなければ“話”にならない。
胞衣図(刑死者解剖図、1800年、1842年複写、東洋文庫ミュージアムデジタルブック展示品)
 万19番歌では、ヘソそのものではなく、「綜麻形(へそがた)」と言っている。績んだ麻を巻いた「閇蘇」か、動物の臍かを分別するのではなく、その形に注目が行っている。船の櫓臍の場合、出臍になっている。この出臍の形のことを指して、ヘソガタと言っている(注18)。櫓臍は擬宝珠の如くろくろ成型されたように左右対称にできている。だから三輪山の形のことを言っていて、前の額田王の三輪山の歌に「即和歌」となっている。
 万19番歌に、「狭野榛(さのはり)」とある。和名抄に、「榛 唐韻に云はく、榛〈秦の軽音、字は亦樼に作る。波之波美(はしばみ)〉は榛栗也といふ。」、新撰字鏡に、「榛 士巾反。藂生木曰榛、草藂生曰薄。波自波弥(はしばみ)」とある。これらハシバミは、実を食用にしたものである。ヘーゼルナッツはセイヨウハシバミの実である。万葉集中に「榛」はハリと訓まれてハンノキのことである。染色の材料に有用な植物である。ヤマトコトバに漢字を当てたものだから、「榛」をハリと訓むことが起きていてもそれはそれで正しい。「さ野榛」という言い方は類例が他にも見られる(注19)。そしてまた、榛原をハヒバラと訓むように、榛はハヒ、つまり、這うことを連想させるものである。
 樹木の同定を誤っていると考えるのは短絡的である。古代の人は植物学に分類しているのではない。有効性によって品定めしている。この場合、染料の材料になる点をもって考えている。榛の実、樹皮、葉を用い、アルミナ媒染では黄茶色に、銅媒染では黒味のある金茶色に、鉄媒染では緑味を帯びた鼠色に染められた。また幹材を用いるとアルカリ媒染では赤茶色、鉄媒染では紫味のある鼠色に染まる。いろいろな色に化ける染料のため重宝されたと思われる。使えるから名が付けられていて、さまざまな色が生まれるから樹種、名称に混乱が起きている。ハンノキかヤシャブシか、オオバヤシャブシかヒメヤシャブシか、マルバハンノキかケヤマハンノキか、それらは染め物にした時に異なる結果が生ずるのであればこだわる必要があるが、同じ結果、媒染剤による多様な結果が得られるのなら、上代人に植物分類学を適用するに及ぶまい(注20)
 さまざまな色に染めあがるから、一つの漢字にさまざまな名で呼ばれている。ハリノキが訛ってハンノキと言われているのかどうかも定かではない。カメレオンのようにその時々の情勢に合わせて移ろいゆく体制の新羅のことを暗示するに十分である。問題は色の出具合である。特に、銅媒染を使った色は黄海松茶色(きみるちゃいろ)、鉄媒染のものは海松色(みるいろ)と呼ばれている。海松は古代に食用とされた海藻である。それがなぜミルと呼ばれるかも定かでないが、榛で染めた色をミルと称していることは興味深い。三輪山を「見る」ことができないと嘆く歌に和して海松色を生み出す榛が思いつかれて歌われている。「見る」ことができなくてかまわないのは、海松色が欲しいのではなくて、アルミナ媒染の赤い色が求められているからである。アマテラスの国なのだから、赤く明るい色が望ましい。
 今日一般に行われている訓には、これらの混乱をあわせ飲むことができるほどには収拾がついていない。

 綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
 綜麻形(へそがた)の 林のさきの さ野榛の 衣(きぬ)に着く成す 目につく我が背

 「始」字をサキ、また、ハシとも訓まれている。「榛」がハンノキであるとすると、それは多く群生する。染色の材料を得るために植林され、また、畔にハザ(稲架)の目的で人工的に植えられたこともあった。湿地や川沿い、谷筋など、水気の多い地を好む樹木である。「林(はやし)」という語が生やすこと、映やすこと、囃すことの義から生まれた言葉である点からすると、植生地の端っこに植えられているのか不明である。植えているなら群生させてかまわない。また、「榛」が「衣に着く」といっても、ハンノキ林にわけ行ったらその実や葉の色が衣に染まるわけでもない。煮出したうえ、媒染剤を使わないと染め物にならない(注21)
 そして、「始」字をサキと訓む例は、集中に他に見られない。ハツ、ハジメ、ソメの三種類に限られて訓まれている(注22)
 すべてを三輪山伝説によるところと考えるなら、次のように訓むものと考えられる。

 綜麻形乃林始乃狭野榛能衣尓著成目尓都久和我勢
 綜麻形(へそがた)の 映(はや)しの始(そ)めの さの榛の 衣(きぬ)に着く成す 目につく我が背

 「榛」は、ハリであり、ハシバミであり、ハヒである。三輪山伝説に衣の裾に針を刺していたが、正体は蛇であったから、その衣はとても幅の狭いものであったろうと考えられる。そこに針を刺したのだから、サ(狭)+ノ(布、ノは甲類)+ハリ(針)ということになる(注23)。ハミ、また、クチハミは蛇の仲間、マムシのことをいい、和名抄に、「蝮 波美(はみ)」とある。確かに蛇は、端っこに食(は)むための口がついたもので、意味的に針に等しいことになる。ここに、榛なる植物が、ハリ(ハンノキ)をもハシバミをもハヒ(這)をも表すことが知れる。染料を示唆する点は、「始(そ)め」に引きずられる形で、さらに含意を持つものと考えられる。
 そして三輪山を持て囃した最初は、崇神天皇時代、疫病が流行って人がいなくなるかもしれないとの危機的状況に陥った時であった。そこで国作りの神であった大国主神を奉っていた三輪山祭祀を行った。伝説にあるように「閇蘇(へそ)」の「紡麻(うみを)」に針を通して夜な夜な訪れる神の衣に刺したことからであった。糸口から糸が出て行っていることと、伝承の端緒を開いていること、識別できるように「赤土(はに)」で着色していることから、「始」字はソメ(ソ・メはともに乙類)と訓むものと考えられる。ソメという語は、染剤にそめることと染められることで前とは違った新しい状態になることをいう同根の意を持った言葉である。三輪山を持て囃し始めたのにはそれが映えるように染めていなければならず、映えるように染められていたことが三輪山祭祀の始まり、なれそめということになる。同語反復的な“定義”が行われている。
 「赤土(はに)」で染めたら赤黄色になる。和名抄に、「埴 釈名に云はく、土黄にして細密なるを埴〈常職反、和名は波爾(はに)〉と曰ふといふ。」とある。また、「丹砂 考声切韻に云はく、丹砂〈丹の音は都寒反、迩(に)〉は朱砂に似て鮮明ならざる者也といふ。」とある。硫黄と水銀の化合した鉱物、辰砂(しんしゃ)のことである。同じく赤黄色の植物性染料に、ハニシがある。和名抄に、「黄櫨 文選注に云はく、櫨〈落胡反、波迩之(はにし)〉は今の黄櫨木也といふ。」とある。ハニシはまた、土師のこともいう。「土師連(はにしのむらじ)」(垂仁紀三十二年七月)とある。ハニシはどちらもハジとも言う。色によって言葉が同定されている。この赤黄色は、万19番歌の歌われたとき、井戸王ならびに額田王ほか、群臣はじめ列席者の目に止まるものであったと考えられる。
辰砂で彩られた古墳内部(桜井茶臼山古墳、『第29回奈良県立橿原考古学研究所公開講演会 東アジア王墓フォーラム 東アジアの王墓と桜井茶臼山古墳』平成22年、表紙をトリミング)
黄櫨染御袍(ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/黄櫨染御袍)
 即位の式典で天皇が着る服は、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)である。いま言うハゼノキ、黄櫨(はにし)の色に染めた袍(ほう)のことである。ハゼノキ(黄櫨)の黄色い芯材を煎じた汁に灰汁を用いたアルミナ媒染で染めた深い温かみのある黄色を下染めとし、それに蘇芳ないし紫草を上掛けして黄赤色にしたものである。ハニシ色の装束を身にまとって即位式に臨み、その後の夜の宴に歌が歌われている。新しい国作りをするのに国作りの神であるとされていた大国主神、別名、大物主神を奉る三輪山から離れていていいのか、いいのだ、との額田王の自問自答的な鼓舞に和する形で、すなわち、それらに覆いかぶさるように、絶対にいいのだと訴えるものとなっている。なぜなら、三輪山祭祀の理由の根幹であるヘソが、「目」の前に、「我が背」となって現れているからである。黄櫨染御袍をまとっている天皇は、まことにヘソではありませんか、新しい国作りに何の支障がありましょうや、というのである。
 ハニシによく似た色のことを本稿ではすでに見ている。榛摺(はりずり)のことをハニスリ、ハジスリとも言っていた。ハニ(赤土)、ハニシ(黄櫨)系統にハリ(榛)が成るかと言えば成る。梅の木と榛の皮を煎じた汁が赤色に染める染料として用いられていた。和漢三才図会に、「波牟乃木(はんのき) 正字未だ詳らかならず △按ずるに波牟乃木は山中に生ず。高きは二三丈、葉は栗に似て輭(やはらか)く、花は亦、栗の花に似て褐色、実は杉の実に似て、其の木肌、心は白色、日に見(まみ)えれば則ち赤に変ず。今、染家(そめものや)、梅の木の煎汁を用ゐて中に此の木の屑を投じて宿を経て以て赤色に染む。」とある(注24)。京都の愛宕神社の参道で、当地の水尾女(みづをめ)がシキミを売るのに赤い前垂れを着けていたのはそれによるという。この染色方法は古代に発祥していると推測する。媒染剤も灰汁ばかりで済むようである。榛(ハンノキ)の心材は、白木である。新羅を思わせる。日に当たると赤くなるということは、日神、アマテラスの栄光があれば赤く色変化する。だから、新しい国作りをしようというのである。そしてまた、ハゼという語には、魚のハゼ(鯊)もある。背鰭に糸状に伸びた種がいて、イトヒキハゼと呼ばれている。針につけた績み麻が伸びていっている様子を連想させる。漁獲したときに、口をパクパクさせて噛みつく習性があり、テカミ(手噛)との別称も持つ。クチハミ(蛇、蝮)のことと対照させて面白がっていたものと思われる。
 これらのヤマトコトバの体系のなかで、井戸王の万19番歌は躍動している。

 綜麻の形をした三輪山を持て囃すようになったなれそめは、綜麻がはっきり映えるように埴(はに)で染めたことによるのだが、その三輪山伝説に幅の狭い布のようなのが針そのものに見えるくちはみ(蛇)が這っていって三輪山へと導いた、それはハシバミとも呼ばれてふさわしいもので、ハンノキのことをハリともハシバミともハヒとも呼ばれて紛らわしいのは、三輪山伝説によるようです。それを衣に刺したら外れずにくっついたように赤黄色としてよくわかるものでした。そんな赤黄色の黄櫨(はにし)染のお召し物を着て目立っている我が天皇よ。なにしろ天皇は中大兄と呼ばれるように、おなかの臍を名に負っていらっしゃって目立っていらっしゃいますから、まさに三輪山は現人神としてここに現れてお出でになっているということですね。

 歌を歌ったのは井戸王(ゐのへのおほきみ)である。歌の内容に関わるから、出自のはっきりしない人であってもきちんと記されているのであろう。ヰノヘという語で考えられるのは、第一に、井戸近くの仕事を示唆するためと考えられる。「綜麻形」、「さ野榛」、「衣に著く」といった語が散りばめられており、染織関係に携わっていた人物と見受けられる。第二に、井戸の側でのおしゃべり、いわゆる井戸端会議のようなことと関係するのではないか。左注に、「右一首歌、今案不和歌。但旧本載于此次。故以猶載焉。」とあるのは、今となってはよくわからないと表明するものであるが、いかにもわざとらしい注記である。本当にわからないから注記されているのか、それともわからないふりをして注記されているのか、検討を要する。後者の可能性が高いのは、井戸端会議の産物はえてしてちょっとした軽口を含むものだからである。
 井戸の上(へ、ヘは乙類)にあるものは何か。井戸の機構にすぐれたものは車井戸である。滑車がついて力がなくとも持ち上げることができた。染色にたずさわる作業場で女性が活躍していたとしたら、女手にも水汲みがしやすい工夫として設置されていたであろう。その滑車のことは「蝉(せみ)」と呼ばれた。船具の帆先につく滑車もそう呼ばれている。空中に蝉が止まっている。ヤマトコトバに直せば、ウツセミ(虚蝉、空蝉)である。ウツセミという語はウツシオミ(現し臣)の約と考えられている。天皇のことを神に対して現人神というのは、神という鋳型にうつしとられた像だという考え方である。「蝉」という語は、セ(背)+ミ(身)のことと考えられる。成虫に脱皮するとき、背から身が出て行っていて、まったく鋳型からうつしとられたような形になっている(注25)。「我が背」という呼びかけが正しいのは、「蝉」という語が証明する。
 黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)は、黄櫨染御袍(はにしそめのみうへのきぬ)と呼ばれたのであろうか。即位式にいつから着用されるようになったか知れないが、記録としては嵯峨天皇の時に明文化してある(注26)。筆者は天智天皇が先駆と想定する。天智天皇は斉明天皇崩御の後、「素服(あさものみそ)」を着て「称制(まつりごときこしめす)」していた。称制とは、天皇の位に就かないまま政治を司ることである。天智天皇は近江大津宮に遷都後に即位している。「素服」はまた、「藤衣(ふぢころも)」とも呼ばれる。名の理由は不明ながら、蔓が這い伸びるところから生成りの灰色を示すものかもしれない。ハヒ(這)だからハヒ(灰)であって、ハヒ(榛)のことが思い浮かぶ。そんな灰色の器は須恵器のことで、その対義的な色の器は土師器である。古墳時代から奈良時代にかけて、二大焼物の称である。だから、素服から黄櫨染御袍に変わったことをうまく言い当てて歌が歌われている。
 彼は、中大兄と呼ばれていた。その理由は、皇極・斉明天皇が、自らを神功皇后に擬えて、子を応神天皇に当たるものと言い伝えどおりに朝鮮出兵など企図していたからである。ナカノオホエとは、お腹のナカであって、そこにある大いなるエ(ye)といえば、臍以外のなにものでもない(注27)。すなわち、黄櫨染御袍(こうろぜんのごほう)とは胞衣(えな)のことだと見ている。このようなことをわいわい言い合っていて、後で知れた時、「我が背」たる天皇の怒りの矛先が向かないようにするにはどうするか(注28)。万葉集の編纂者は左注に書いた。「右一首歌、今案不和歌。但旧本載于此次。故以猶載焉。」である。私は知らないが、そう載っているからそのままに載せるというのである。同時代資料としてこれほど価値の高いものはない。
 井戸王は外交交渉自体は知らなかったと思われるが、その構図は心得ている。そして、遷都の名目、新しい国作りの可能なことを歌っている。裁縫・染色に従事する者までも、国家の一大事にあって即興的に和している。近江宮での夜の宴会は、総決起集会で幕を閉じたということである。額田王によって歌い出された一連の歌は、万19番歌の井戸王の歌をもって完結している。不満の解消から一歩進んで大同団結し、翼賛体制を成立させて歌い切られた。これで宮廷社会は再び一体化した。
 実際がどうであったかは別問題である。歌にできることは、宮廷社会の調和を回復するために人心の“予祝”行為ばかりである。宮廷社会の基盤自体を揺るがせているのは外国勢力である。当然ながら新羅にも唐領百済にもヤマトコトバの歌が通じるはずはなく、実効的には無力ではあるが、ヤマトコトバ共同体の内部の知の体系は保たれたということになる。歌は聞いてくれる人を前提にする。内向きのベクトルが働いている。
 万葉集の編者がこの万17~19番までの連作を採録した理由はすでに明らかになっている。宮廷社会の存立基盤を揺るがす思いも掛けない事柄、すなわち、外圧への対応としての遷都を歌った歌だからである。編者が歌を撰んだと思われる時期の天武朝は、近江朝を倒した政権であった。題詞に「近江国時」(注29)とあるように近江京については低い評価であるが、自由に話すことができた。
 当時、朝鮮半島情勢は急展開している。唐の半島戦略の第三ラウンドは対高句麗に対して新羅とともに挟撃するもので、668年に滅亡する。ところが一転して第四ラウンドには、新羅が半島から唐の勢力を追い出しにかかり、676年にほぼ統一して唐は撤退する。これをもって倭にとっての朝鮮半島の緊張は一挙に解消した。一方、倭も672年の壬申の乱を経て、まったく新しい政権が誕生したかのように装っている。外交政策にも使え、実際、渡来人に頼らずとも律令国家の運営ができるという安心感も広がっていったのであろうし、優遇されていた渡来人も急速に同化していく傾向にあったのではないか。すでに本国の百済も高句麗もなくなっており、待遇も悪くないのだから帰ることは考えなくなり、ヤマトの言葉を覚えていったということであろう。
(つづく)

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