(承前)
(注)
(注1)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」参照。
(注2)仁藤1998.、森2003.、市2019.参照。
(注3)本来であれば先行研究を逐一紹介をすべきところであるが、議論が拡散していて要領を得ていないため、検討する際、随時とりあげることとする。
(注4)高久2012.参照。
(注5)国の使節ではないから追い返されたとする説もある。胡口1996.参照。奈良時代の天平年間に書かれた『海外国記』という書物の逸文には、「非二是天子使人一、百済鎮将私使。……人非二公使一、不レ令レ入レ京」とあって、正式の使節ではないから都入りできなかったとする。しかし、遣唐使において唐の国書をことごとく破棄していた時代の文献で内容を信用することはできない。なにしろ、直前に戦いに敗れた相手である。言うことを聞かずにいられると考えるのは無理がある。
(注6)田辺1983.参照。
(注7)拙稿「近江荒都歌について」参照。
(注8)「歌人」の恋を歌っているとの説もあるが、主観的な感想を歌っても仕方がない。口承段階の歌でそれが「相聞」に分類されない理由について不明と言わざるを得ない。共感する人がたくさんいなければ後世に残そうとは企られない。
(注9)記は歌を伴わず、話は簡潔である。
此の天皇の御世(みよ)に、伇病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(おほみたから)尽きなむとす。爾に天皇、愁へ歎きて、神牀(かむとこ)に坐(いま)しし夜(よ)、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰りたまひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以て、我が前(まへ)を祭らしめば、神の気(け)起らず、国も亦安平(たひ)らぎなむ」とのりたまふ。是を以て、駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(かふち)の美努村(みののむら)に其の人を見得て貢進(たてまつ)りき。
爾に天皇の問ひ賜はく、「汝(な)は誰(た)が子ぞ」ととひたまふに、答へて曰さく、「僕(あ)は大物主大神の、陶津耳命(すゑつみみのみこと)の女(むすめ)、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶りて生みし子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子、僕は意富多多泥古ぞ」と白(まを)しき。是に天皇、大きに歓びて詔(のりたま)はく、「天の下平らぎ、人民栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主(かむぬし)と為て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(をろが)み祭りき。又、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰せて、天の八十(やそ)びらかを作り、天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)の社を定め奉りき。又、宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に、赤き色の楯・矛を祭り、又、大坂神(おほさかのかみ)に、黒き色の楯・矛を祭り、又、坂之御尾神(さかのみをのかみ)と河瀬神(かはのせのかみ)とに、悉く遺し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りき。此に因りて、伇の気、悉く息(や)み、国家(あめのした)安平らぎき。(崇神記)
(注10)三輪山が国作りの神とされているのは、大国主神と少名毘古那神との二柱の神が国作りをしていたけれど、少名毘古那神が常世国へ渡ってしまったために大国主神が途方に暮れていたときに、海上を照らして近づく神がいて、言われるがままにそこへ奉ったからである。大国主神は大物主神ともいい、大和の大物主神は大国主神の和魂(にきみたま)と捉えられている。「美和(みわ)の大物主神」(神武記)ともある。
是に大国主神、愁へて告(の)らく、「吾独りして何(いか)にか能く此の国を作り得む。孰(いづ)れの神か吾と能く此の国を相作らむ」とのる。是の時に、海を光(てら)して依り来る神有り。其の神の言はく、「能く我が前を治(をさ)めば、吾能く共与(とも)に相作り成さむ。若し然らずは、国成り難けむ」といふ。爾くして、大国主神の曰く、「然らば、治め奉る状(かたち)は奈何(いか)に」といふ。答えて言はく、「吾をば倭の青垣(あをがき)の東(ひむかし)の山の上(うへ)にいつき奉れ」といふ。此は、御諸山(みもろやま)の上に坐(いま)す神ぞ。(記上)
(注11)中大兄については、「韓人(からひと)」であるとも呼ばれている。それが万19番歌の歌意の焦点にもなっている。拙稿「乙巳の変の三者問答について」参照。
(注12)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注13)反歌とは何かについて、長歌の内容を要約、反復、補足したり、角度を変えて歌ったものとする通説は従うに足りる。
(注14)土佐2020.に微妙にずれた見解が示されている。「……この「三輪山歌」は天智の意志に基づいて作られた「公的」な歌であったと考えられる。この歌は、祭祀では解決がつかない部分、すなわち人々の遷都に対する不満や反感を拾い上げ、「惜別」という情緒に変換することで代弁したものだったのではないだろうか。額田王は、大和に愛着を持つがゆえに近江遷都に後ろ向きにならざるを得ない人々の気持ちを、三輪山と別れたくないという歌によって代弁してみせたのである。そしてそれは結果的に遷都に対する不満や反感を緩和するという機能を担ったのであろう。そうした「情」へと働きかける機能こそ、祭祀と呪歌が持ちえなかった抒情歌特有の機能だったのである。この歌は一見すると遷都の意志に逆行するようであり、「歌と叡慮と相違也」(荷田春満『僻案抄』)と評されたりもするが、右に述べたように、実は遷都を円滑に進めるための手段だったのであり、祭祀の足らざる点を補完するものでもあったのである。当該歌は祭祀歌ではないにもかかわらず、むしろ祭祀歌ではないがゆえに、祭祀と組み合わされることで政治的役割を果たした。当該歌の表現が祭祀から逸脱するものでありながらもなお「三輪山」を主題化するのは、三輪山がこのとき国家的儀礼の「場」であったからであり、この歌が国家的意志を担った歌であったからであろう。歌の公的性格が、公的な「場」の主題化を要請したと見ることができる。」(289頁)
(注15)「即和」については、影山2017.参照。
(注16)文化庁文化財保護部1975.26~28頁のシナベソの作り方参照。績んだシナの先端を見つけるのはわけがなく、シナオミの最初に小さな輪が作られているところが目につくからとしている。三輪山伝説の「三勾」も、そんなヘソカキの実働経験に裏打ちされて人々の記憶に留まるところとなったものと考えられる。
(注17)ヘソガタを、ヘソという地名、今日の栗東市綣(へそ)、カタは細長い糸筋のこと、アガタ(県)の意、その方面のカタ(方)の意などといった説もある。績んだ麻を巻いたヘソも安定性を保つために出臍形に作ることが多い。
(注18)「真野(まの)の榛原」(万3801)とあり、海岸段丘上に生えていることをが、野の榛は特別に目立つことを表していると考えられる。
(注19)ハシバミが染料になるのか、筆者は知らない。
(注20)「摺」るとある。
古(いにしへ)に ありけむ人の 求めつつ 衣(きぬ)に摺りけむ 真野(まの)の榛原(はりはら)(万1166)
白菅(しらすげ)の 真野の榛原 心ゆも 思はぬ吾れし 衣(ころも)に摺りつ(万1354)
蓁揩(はりすり)の御衣(おほみそ)三具(よそひ)(天武紀朱鳥元年正月)
秦(はりすり)(養老令・衣服令・服色)
榛摺の帛の袍十三領(延喜式・縫殿寮式・鎮魂斎服)
これらをもって、ハンノキは摺れただけで着色すると考えるのは誤りである。山崎1981.に、「榛摺(はりずり) 版木を用いて榛の葉または果で模様をすった衣。はにすり、はじすりともいう。」(208頁)とある。また、衣服令の順序から推すと、その色については、庶民の服の色として黄茶色ではないかとしている(同頁)。灰汁を使ったアルミナ媒染で出る色である。
(注21)後続の助詞、助動詞の省略を含めて、ハツ(万420・1095・1560・1584・1593・1614・1651・1939・2216・2273・2276・3886・4171・4180・4189・4249・4252・4493)、ハジメ(万52・1530・3329・4160・4284・4516)、ソメ(万612・642・750・963・1332・1495・1869・2023・2178・2179・2194・2195・2211・2430・2488・2542・2650・2680・2899・3130)である。「始水逝」(万4217)の訓は定まらない。強引なことに、契沖・萬葉代匠記は「逝」は「迩」の誤写としてミヅハナニと訓み、万19番歌の「始」字をサキと訓んでいる。
(注22)「狭野榛」を「狭布針」とする解釈は、出所として記紀の三輪山伝説によっていると見なければ「和歌」たりえない。出雲風土記の国引き伝説の「狭布(さの)の稚国(わかくに)」や、清寧記に記される「針間国(はりまのくに)」が出雲国と大和国との縫い合わせによると見て取れること、顕宗紀の室寿ぎの「出雲は 新墾(にひはり)」、「常世(とこよ)たち」といった言葉に国作り伝承をにおわせるが、すでに国作り伝説のなかに結晶化されているものである。
(注23)山崎1989.によれば、室町時代の雑書集に、「唐茶染一伝〈北室伝〉 布一端ニ梅ヲコマカニワリテ水四升ヲ三升二煎テ 其汁ニテ百文目ホト入テ二升煎テ一返引 又スアイニハリノ木ノ皮ヲ少センシテ 但一アワニタスナリ 其中ヘツクルカ子〔鉄〕皿半分ホト入レテ一返引 其上カサ子テ山桃ノ汁二返引 其上椿ノアク一返引 又水ニテフリ上如此トモ色ウスクハ ススク水ニ石灰茶二服ホト入へシ」とあるという。
「唐茶」(二十番)と「生海松茶」(廿二番)(武藤康・諸色染手鑑、安永5年(1776)刊、国文学資料館、新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100271041/viewer/10をトリミング)
(注24)拙稿「一言主大神について」参照。
(注25)日本紀略・弘仁十一年二月一日の「詔曰云々。」条に記されている。
(注26)別訓に、ナカノオヒネというものがある。臍の捻り具合を示している。“正しい”別訓、別称である。
(注27)阿蘇2006.に、「いまだ皇太子の地位にあるとはいえ、天皇に等しい立場と権威をもって君臨し、近江遷都を定めた中大兄皇子に対し、「さ野榛の衣に著くなす目につくわが背」という表現はふさわしいとは思えない。」(99頁)とある。
(注28)「下(くだ)る」という言い方は、都から離れることを指す。奈良盆地の倭京を高く評価していることになるが、それを招いたのは白村江敗戦後の唐との関係からである。額田王の歌のなかで「雲」と言っていたものによる。「雲」が垂れこめて泣きの涙雨が降り「下る」ということであろう。
(引用・参考文献)
青木2009. 青木生子『青木生子著作集 補巻─萬葉にみる女・男─』おうふう、平成21年。
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義一 巻第一・巻第二』笠間書院、2006年。
市2019. 市大樹「躍動する飛鳥時代の都」吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編『古代の都─なぜ都は動いたのか─』岩波書店、2019年。
上野1987. 上野理「額田王の雑歌と遊宴」『国文学研究』第92集、早稲田大学国文学会、1987年6月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43225
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。
木村2007. 木村康平「額田王「三輪山の歌」─その二つの形について─」『帝京大学文學部紀要』第38号、2007年1月。http://hdl.handle.net/10682/578
胡口1996. 胡口靖夫『近江朝と渡来人─百済鬼室氏を中心として─』雄山閣、1996年。
佐竹2009. 佐竹昭広『佐竹昭広集 第三巻 民話の基層』岩波書店、2009年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、1994年。
高久2012. 高久健二「楽浪郡と三韓の交易システムの形成」『東アジア世界史研究センタ一年報』第6号、専修大学社会知性開発研究センター、2012年3月。https://core.ac.uk/download/pdf/71788129.pdf
田辺1983. 田辺昭三『よみがえる湖都─大津の宮時代を探る─』日本放送出版協会、昭和58年。
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。(土佐秀里「額田王「三輪山歌」の機能─天智朝における祭祀と歌─」『国文学研究』第141集、早稲田大学国文学会、2003年10月初出。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43871)
仁藤1998. 仁藤敦史『古代王権と都城』吉川弘文館、1998年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
文化庁文化財保護部1975. 文化庁文化財保護部編『民俗資料選集3 紡織習俗Ⅰ』財団法人国土地理協会、昭和50年。
1975身﨑1998. 身﨑壽『額田王─万葉歌人の誕生─』塙書房、1998年。
武笠2010. 武笠俊一「神を説得した歌の力について─三輪山惜別歌再考─」『人文論叢 三重大学人文学部文化学科研究紀要』第27号、2010年3月。三重大学学術機関リポジトリ研究教育成果コレクションhttp://hdl.handle.net/10076/11336
森2003. 森公章「倭国から日本へ」森公章編『日本の時代史3 倭国から日本へ』吉川弘文館、2003年。
山崎1981. 山崎青樹『草木染の事典』東京堂出版、昭和56年。
山崎1989. 山崎青樹『草木染 日本色名事典』美術出版社、1989年。
(English Summary)
The 17th to 19th poems of Manyoshu are written as being made when the capital was relocated to Omi. To date, the 19th poem has not been considered a series of poems, but it is possible to understand as the title says. In this article, we will be able to read even the international political situation by knowing how to read the poem correctly and the technique of vegetable dye. Then we will understand that these poems are historical materials of the first grade in the history of during the Emperor Tenchi era.
※本稿は、2021年9月稿の一部誤りを2025年1月に訂正したものである。
(注)
(注1)拙稿「熟田津の歌について─精緻な読解と史的意義の検討─」参照。
(注2)仁藤1998.、森2003.、市2019.参照。
(注3)本来であれば先行研究を逐一紹介をすべきところであるが、議論が拡散していて要領を得ていないため、検討する際、随時とりあげることとする。
(注4)高久2012.参照。
(注5)国の使節ではないから追い返されたとする説もある。胡口1996.参照。奈良時代の天平年間に書かれた『海外国記』という書物の逸文には、「非二是天子使人一、百済鎮将私使。……人非二公使一、不レ令レ入レ京」とあって、正式の使節ではないから都入りできなかったとする。しかし、遣唐使において唐の国書をことごとく破棄していた時代の文献で内容を信用することはできない。なにしろ、直前に戦いに敗れた相手である。言うことを聞かずにいられると考えるのは無理がある。
(注6)田辺1983.参照。
(注7)拙稿「近江荒都歌について」参照。
(注8)「歌人」の恋を歌っているとの説もあるが、主観的な感想を歌っても仕方がない。口承段階の歌でそれが「相聞」に分類されない理由について不明と言わざるを得ない。共感する人がたくさんいなければ後世に残そうとは企られない。
(注9)記は歌を伴わず、話は簡潔である。
此の天皇の御世(みよ)に、伇病(えやみ)多(さは)に起りて、人民(おほみたから)尽きなむとす。爾に天皇、愁へ歎きて、神牀(かむとこ)に坐(いま)しし夜(よ)、大物主大神(おほものぬしのおほかみ)、御夢(みいめ)に顕れて曰りたまひしく、「是は我が御心ぞ。故、意富多多泥古(おほたたねこ)を以て、我が前(まへ)を祭らしめば、神の気(け)起らず、国も亦安平(たひ)らぎなむ」とのりたまふ。是を以て、駅使(はゆまづかひ)を四方(よも)に班(あか)ちて、意富多多泥古と謂ふ人を求めたまひし時、河内(かふち)の美努村(みののむら)に其の人を見得て貢進(たてまつ)りき。
爾に天皇の問ひ賜はく、「汝(な)は誰(た)が子ぞ」ととひたまふに、答へて曰さく、「僕(あ)は大物主大神の、陶津耳命(すゑつみみのみこと)の女(むすめ)、活玉依毘売(いくたまよりびめ)を娶りて生みし子、名は櫛御方命(くしみかたのみこと)の子、飯肩巣見命(いひかたすみのみこと)の子、建甕槌命(たけみかづちのみこと)の子、僕は意富多多泥古ぞ」と白(まを)しき。是に天皇、大きに歓びて詔(のりたま)はく、「天の下平らぎ、人民栄えむ」とのりたまひて、即ち意富多多泥古命を以て神主(かむぬし)と為て、御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(おほみわのおほかみ)の前を拝(をろが)み祭りき。又、伊迦賀色許男命(いかがしこをのみこと)に仰せて、天の八十(やそ)びらかを作り、天神(あまつかみ)・地祇(くにつかみ)の社を定め奉りき。又、宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に、赤き色の楯・矛を祭り、又、大坂神(おほさかのかみ)に、黒き色の楯・矛を祭り、又、坂之御尾神(さかのみをのかみ)と河瀬神(かはのせのかみ)とに、悉く遺し忘るること無く幣帛(みてぐら)を奉りき。此に因りて、伇の気、悉く息(や)み、国家(あめのした)安平らぎき。(崇神記)
(注10)三輪山が国作りの神とされているのは、大国主神と少名毘古那神との二柱の神が国作りをしていたけれど、少名毘古那神が常世国へ渡ってしまったために大国主神が途方に暮れていたときに、海上を照らして近づく神がいて、言われるがままにそこへ奉ったからである。大国主神は大物主神ともいい、大和の大物主神は大国主神の和魂(にきみたま)と捉えられている。「美和(みわ)の大物主神」(神武記)ともある。
是に大国主神、愁へて告(の)らく、「吾独りして何(いか)にか能く此の国を作り得む。孰(いづ)れの神か吾と能く此の国を相作らむ」とのる。是の時に、海を光(てら)して依り来る神有り。其の神の言はく、「能く我が前を治(をさ)めば、吾能く共与(とも)に相作り成さむ。若し然らずは、国成り難けむ」といふ。爾くして、大国主神の曰く、「然らば、治め奉る状(かたち)は奈何(いか)に」といふ。答えて言はく、「吾をば倭の青垣(あをがき)の東(ひむかし)の山の上(うへ)にいつき奉れ」といふ。此は、御諸山(みもろやま)の上に坐(いま)す神ぞ。(記上)
(注11)中大兄については、「韓人(からひと)」であるとも呼ばれている。それが万19番歌の歌意の焦点にもなっている。拙稿「乙巳の変の三者問答について」参照。
(注12)拙稿「中大兄の三山歌について」参照。
(注13)反歌とは何かについて、長歌の内容を要約、反復、補足したり、角度を変えて歌ったものとする通説は従うに足りる。
(注14)土佐2020.に微妙にずれた見解が示されている。「……この「三輪山歌」は天智の意志に基づいて作られた「公的」な歌であったと考えられる。この歌は、祭祀では解決がつかない部分、すなわち人々の遷都に対する不満や反感を拾い上げ、「惜別」という情緒に変換することで代弁したものだったのではないだろうか。額田王は、大和に愛着を持つがゆえに近江遷都に後ろ向きにならざるを得ない人々の気持ちを、三輪山と別れたくないという歌によって代弁してみせたのである。そしてそれは結果的に遷都に対する不満や反感を緩和するという機能を担ったのであろう。そうした「情」へと働きかける機能こそ、祭祀と呪歌が持ちえなかった抒情歌特有の機能だったのである。この歌は一見すると遷都の意志に逆行するようであり、「歌と叡慮と相違也」(荷田春満『僻案抄』)と評されたりもするが、右に述べたように、実は遷都を円滑に進めるための手段だったのであり、祭祀の足らざる点を補完するものでもあったのである。当該歌は祭祀歌ではないにもかかわらず、むしろ祭祀歌ではないがゆえに、祭祀と組み合わされることで政治的役割を果たした。当該歌の表現が祭祀から逸脱するものでありながらもなお「三輪山」を主題化するのは、三輪山がこのとき国家的儀礼の「場」であったからであり、この歌が国家的意志を担った歌であったからであろう。歌の公的性格が、公的な「場」の主題化を要請したと見ることができる。」(289頁)
(注15)「即和」については、影山2017.参照。
(注16)文化庁文化財保護部1975.26~28頁のシナベソの作り方参照。績んだシナの先端を見つけるのはわけがなく、シナオミの最初に小さな輪が作られているところが目につくからとしている。三輪山伝説の「三勾」も、そんなヘソカキの実働経験に裏打ちされて人々の記憶に留まるところとなったものと考えられる。
(注17)ヘソガタを、ヘソという地名、今日の栗東市綣(へそ)、カタは細長い糸筋のこと、アガタ(県)の意、その方面のカタ(方)の意などといった説もある。績んだ麻を巻いたヘソも安定性を保つために出臍形に作ることが多い。
(注18)「真野(まの)の榛原」(万3801)とあり、海岸段丘上に生えていることをが、野の榛は特別に目立つことを表していると考えられる。
(注19)ハシバミが染料になるのか、筆者は知らない。
(注20)「摺」るとある。
古(いにしへ)に ありけむ人の 求めつつ 衣(きぬ)に摺りけむ 真野(まの)の榛原(はりはら)(万1166)
白菅(しらすげ)の 真野の榛原 心ゆも 思はぬ吾れし 衣(ころも)に摺りつ(万1354)
蓁揩(はりすり)の御衣(おほみそ)三具(よそひ)(天武紀朱鳥元年正月)
秦(はりすり)(養老令・衣服令・服色)
榛摺の帛の袍十三領(延喜式・縫殿寮式・鎮魂斎服)
これらをもって、ハンノキは摺れただけで着色すると考えるのは誤りである。山崎1981.に、「榛摺(はりずり) 版木を用いて榛の葉または果で模様をすった衣。はにすり、はじすりともいう。」(208頁)とある。また、衣服令の順序から推すと、その色については、庶民の服の色として黄茶色ではないかとしている(同頁)。灰汁を使ったアルミナ媒染で出る色である。
(注21)後続の助詞、助動詞の省略を含めて、ハツ(万420・1095・1560・1584・1593・1614・1651・1939・2216・2273・2276・3886・4171・4180・4189・4249・4252・4493)、ハジメ(万52・1530・3329・4160・4284・4516)、ソメ(万612・642・750・963・1332・1495・1869・2023・2178・2179・2194・2195・2211・2430・2488・2542・2650・2680・2899・3130)である。「始水逝」(万4217)の訓は定まらない。強引なことに、契沖・萬葉代匠記は「逝」は「迩」の誤写としてミヅハナニと訓み、万19番歌の「始」字をサキと訓んでいる。
(注22)「狭野榛」を「狭布針」とする解釈は、出所として記紀の三輪山伝説によっていると見なければ「和歌」たりえない。出雲風土記の国引き伝説の「狭布(さの)の稚国(わかくに)」や、清寧記に記される「針間国(はりまのくに)」が出雲国と大和国との縫い合わせによると見て取れること、顕宗紀の室寿ぎの「出雲は 新墾(にひはり)」、「常世(とこよ)たち」といった言葉に国作り伝承をにおわせるが、すでに国作り伝説のなかに結晶化されているものである。
(注23)山崎1989.によれば、室町時代の雑書集に、「唐茶染一伝〈北室伝〉 布一端ニ梅ヲコマカニワリテ水四升ヲ三升二煎テ 其汁ニテ百文目ホト入テ二升煎テ一返引 又スアイニハリノ木ノ皮ヲ少センシテ 但一アワニタスナリ 其中ヘツクルカ子〔鉄〕皿半分ホト入レテ一返引 其上カサ子テ山桃ノ汁二返引 其上椿ノアク一返引 又水ニテフリ上如此トモ色ウスクハ ススク水ニ石灰茶二服ホト入へシ」とあるという。
「唐茶」(二十番)と「生海松茶」(廿二番)(武藤康・諸色染手鑑、安永5年(1776)刊、国文学資料館、新日本古典籍総合データベースhttps://kotenseki.nijl.ac.jp/biblio/100271041/viewer/10をトリミング)
(注24)拙稿「一言主大神について」参照。
(注25)日本紀略・弘仁十一年二月一日の「詔曰云々。」条に記されている。
(注26)別訓に、ナカノオヒネというものがある。臍の捻り具合を示している。“正しい”別訓、別称である。
(注27)阿蘇2006.に、「いまだ皇太子の地位にあるとはいえ、天皇に等しい立場と権威をもって君臨し、近江遷都を定めた中大兄皇子に対し、「さ野榛の衣に著くなす目につくわが背」という表現はふさわしいとは思えない。」(99頁)とある。
(注28)「下(くだ)る」という言い方は、都から離れることを指す。奈良盆地の倭京を高く評価していることになるが、それを招いたのは白村江敗戦後の唐との関係からである。額田王の歌のなかで「雲」と言っていたものによる。「雲」が垂れこめて泣きの涙雨が降り「下る」ということであろう。
(引用・参考文献)
青木2009. 青木生子『青木生子著作集 補巻─萬葉にみる女・男─』おうふう、平成21年。
阿蘇2006. 阿蘇瑞枝『萬葉集全歌講義一 巻第一・巻第二』笠間書院、2006年。
市2019. 市大樹「躍動する飛鳥時代の都」吉村武彦・吉川真司・川尻秋生編『古代の都─なぜ都は動いたのか─』岩波書店、2019年。
上野1987. 上野理「額田王の雑歌と遊宴」『国文学研究』第92集、早稲田大学国文学会、1987年6月。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43225
影山2017. 影山尚之『歌のおこない─萬葉集と古代の韻文─』和泉書院、2017年。
木村2007. 木村康平「額田王「三輪山の歌」─その二つの形について─」『帝京大学文學部紀要』第38号、2007年1月。http://hdl.handle.net/10682/578
胡口1996. 胡口靖夫『近江朝と渡来人─百済鬼室氏を中心として─』雄山閣、1996年。
佐竹2009. 佐竹昭広『佐竹昭広集 第三巻 民話の基層』岩波書店、2009年。
新編全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集6 萬葉集①』小学館、1994年。
高久2012. 高久健二「楽浪郡と三韓の交易システムの形成」『東アジア世界史研究センタ一年報』第6号、専修大学社会知性開発研究センター、2012年3月。https://core.ac.uk/download/pdf/71788129.pdf
田辺1983. 田辺昭三『よみがえる湖都─大津の宮時代を探る─』日本放送出版協会、昭和58年。
土佐2020. 土佐秀里『律令国家と言語文化』汲古書院、令和2年。(土佐秀里「額田王「三輪山歌」の機能─天智朝における祭祀と歌─」『国文学研究』第141集、早稲田大学国文学会、2003年10月初出。早稲田大学リポジトリhttp://hdl.handle.net/2065/43871)
仁藤1998. 仁藤敦史『古代王権と都城』吉川弘文館、1998年。
廣岡2020. 廣岡義隆『萬葉形成通論』和泉書院、2020年。
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1975身﨑1998. 身﨑壽『額田王─万葉歌人の誕生─』塙書房、1998年。
武笠2010. 武笠俊一「神を説得した歌の力について─三輪山惜別歌再考─」『人文論叢 三重大学人文学部文化学科研究紀要』第27号、2010年3月。三重大学学術機関リポジトリ研究教育成果コレクションhttp://hdl.handle.net/10076/11336
森2003. 森公章「倭国から日本へ」森公章編『日本の時代史3 倭国から日本へ』吉川弘文館、2003年。
山崎1981. 山崎青樹『草木染の事典』東京堂出版、昭和56年。
山崎1989. 山崎青樹『草木染 日本色名事典』美術出版社、1989年。
(English Summary)
The 17th to 19th poems of Manyoshu are written as being made when the capital was relocated to Omi. To date, the 19th poem has not been considered a series of poems, but it is possible to understand as the title says. In this article, we will be able to read even the international political situation by knowing how to read the poem correctly and the technique of vegetable dye. Then we will understand that these poems are historical materials of the first grade in the history of during the Emperor Tenchi era.
※本稿は、2021年9月稿の一部誤りを2025年1月に訂正したものである。