拙稿「「天の海に 雲の波立ち 月の船 星の林に 漕ぎ隠る見ゆ」(万1068)の解釈の誤りについて」で、七夕歌において「月の船」、すなわち上弦の月は明るすぎて、主役の牽牛、織女の光を打ち消すから雲間に隠れたのであるとする考えを述べた。万葉集ではほかに、「月人壮士(つきひとをとこ)」という言い方が七夕歌に5首行われている。西本願寺本に、「壮」字は「牡」とあるのを元暦校本などにより校訂しているが、諸本に大きな乱れはない。「月人壮士」はツキヒトヲトコ、また、「月読壮士」(注1)はツクヨミヲトコと訓んで間違いない。
本稿では、月を擬人化した言い方である「月人壮士」、「月人」も、輝きが明るすぎて、彦星と織姫の七月七日一夜限りの逢瀬を邪魔する存在であったのか検討する。以下、原文、訓読、通説によらない解釈の順で示し、細部の注釈を加える。従来の説について訓みに関わらない場合は特に引用を記さない。
夕星毛徃来天道及何時鹿仰而将待月人壯
夕星(ゆふつつ)も 通ふ天道(あまぢ)を 何時(いつ)までか 仰(あふ)ぎて待たむ 月人壮士(万2010・巻十・「秋雑歌・七夕」)
明るい宵の明星(金星)も通っていった天上の道を、輝いている月が通って没するのを天を仰いでいつまで待っていたらいいのだ。私たちは天空ショーを期待しているのに。
これまでの説に、「月人壮士」は牽牛のこととする説、また、人間の逢瀬が夜の月明かりを頼りとしていたために月の出を待って牽牛は織女のところへ行くとする説、月に向って牽牛(織女)が織女(牽牛)の現われるのを待つのを問うとする説、これは七夕歌ではなくて月の出を待つ歌であるとする説もある。陰暦七月七日は必ず上弦の月で、夕暮れ時に宵の明星が見えたとき、月は天上に輝いているものである。
勝俣2017.に、「万葉集の七夕歌を見てみると、当該歌を除く十六首十七例の「待つ」の用例のうち、地上の人間が「待つ」としたものは一首もなく、織女が七首七例、彦星が九首十例で、彦星が七夕の到来を「待つ」としたものが、一番多いのである。」(605頁)(注2)とあり、彦星が待つことをしていて月人壮士に呼びかけているとしている。しかし、「仰ぐ」は首を上に向けて高いところを見ることである。天空の彦星が天空の月に対して「仰ぐ」とはならないであろう。地上の人間が「待つ」例が他に見られないからと言って表現してはいけない理由にはならず(注3)、「妹」、「君」と言わない理由はそこにあるのではないか。
秋風之清夕天漢舟滂度月人壯子
秋風の 清(きよ)むる夕(ゆふへ) 天の川 舟漕ぎ渡る 月人壮士(万2043・巻十・「秋雑歌・七夕」)
秋風が大気を清める夕べに、天の川に船を漕いで渡っていく月人壮士よ。
この歌は一般に、「秋風の 清(きよ)き夕(ゆふへ)に」と訓まれている。万葉集において、「風」に対して「さやか」系統の語で形容した例がないから「きよし」系統で訓まれるべきと説明されている(注4)。しかし、そうなると、二句目までが風を言っていて、三句目からは渡河を言っていることになる。間に助詞「に」と訓み添えていなければ二句切れも考えられるが、かえって奇妙に連続していないことになっている。ここは、秋風は乾燥していて夜空がきれいに見えることを謂わんとしている。立秋を過ぎ、大陸からの風が吹き、上空は塵芥を清めて澄んだから、七夕の天空ショーにはもってこいということになっている。古代においても風向きはわかり、大陸からの風に七夕が大陸からもたらされた風流であることを通じさせようとしているのであろう。そして、月は空を渡り切って地平線に没し、すごくよく牽牛と織女の星が見えると歌っている。したがって、「清」は他動詞キヨムであると理解されよう。キヨム(清)の用例をあげておく。
…… ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和し 掃き清め〔波吉伎欲米〕 仕へまつりて ……(万4465)
有司(つかさ)、山背国の相楽郡(さがらかのこほり)にして、館(むろつみ)を起(た)てて浄(きよ)め治(はら)ひて、厚く相資(たす)け養へ。(欽明紀三十一年四月)
天原徃射跡白檀挽而隠在月人壯子
天の原 行(ゆ)きてか射むと 白真弓(しらまゆみ) 引きて隠(かく)せる 月人壮士(万2051・巻十・「秋雑歌・七夕」)(注5)
本来なら七夕なのだから天の川のはずのところ、勘違いして天の原に出かけて行って狩りに射ようとしゃしゃり出ては白真弓を引きしぼって肝心の星も天の川も見えなくしている明るい月には困ったものだ。
「隠在」にはカクセル、カクセリ、コモレル、カクレルといった訓が行われてきた。弓張月のことを言っているから、弓を隠し持っているという説は当たらず、狩りにおいて獲物に自身の姿を見えないようにしたとする意と解して、四段活用の「隠(かく)る」の命令形に状態化辞の助動詞「り」の連体形が接続したカクレル説が有力視され、上弦の月が午後10時頃に西の空に沈み隠れたことを言っているとされている。しかし、そう解すると、歌意の尻つぼみ感が強く、七夕歌であったか確かでなくなる。また、月が山の端にコモレルとするのはツゴモリ(晦)という語との関係からも違和感がある。
この歌を七夕歌として積極的に認めるに、冒頭に「天の川」ではなく「天の原」とあるところに妙趣とみる。月が明るくて天の川が見えない。月は勝手に天の原へ狩りに出ている。七夕なのに困ったものだとおとぼけの歌を歌っている。
於保夫祢尓麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登祜
大船に 真楫(まかぢ)しじ貫き 海原を 漕ぎ出て渡る 月人壮士(万3611・巻十五・「当レ所誦詠古歌・七夕歌一首」、右柿本朝臣人麻呂歌)
七夕は小さな星の小舟が川を行き交うものなのに、場違いな大きな船の両舷側に櫂をかけ貫いて海原を漕ぎ出して渡ろうとしている月人壮士よ、考え違いをしないでおくれ。全然星が見えないじゃないか。
天海月船浮桂梶懸而滂所見月人壯子
天の海に 月の船浮け 桂楫(かつらかぢ) 懸けて漕ぐ見ゆ 月人壮士(万2223・巻十・「秋雑歌・詠レ月」)
月人壮士が天上の海に月の船を浮かべ、轆轤挽きを連想させる桂の櫓をかけて漕いでいるのが見える。
この歌は「詠レ月」の歌で七夕とは関係がない。通説では、月に桂の木が生えているという中国の伝承(注6)を受けて「桂楫〔桂梶〕」としていると考えられている。しかし、仮にそれが本邦の人々に受け入れられたのだとしても、納得づくでなければ受け入れられなかったと考える。なぜなら、いつのまにか楫の材に転じているからである。「桂楫」という語は万葉集にこの一例の孤語である。他の例は懐風藻にある。文武天皇作に、「五言詠レ月 一首」(15)である。
月舟移二霧渚一 楓楫泛二霞浜一 台上澄流耀 酒中沈去輪
水下斜陰砕 樹落秋光新 独以二星間鏡一 還浮二雲漢津一
一・二句目に「月舟」、「楓楫」と出てきて語句がよく似ている。先後関係があるとするなら、万2223番歌が先で、漢詩は後であろう。あまりうまい作と思われない点は指摘されている(注7)。
万2223番歌にある「楫」は櫂のことか、櫓(艪)のことかが問題になる。筆者は、万3611番歌に「真楫しじ貫き」と呼ばれるものは櫂であると考える。両手をマテというように、ワンペアのセットの一揃えがマ(真)を表すから、「真楫」とあれば船の両側に「楫」のあるもの、すなわち、櫂である。一方、万2223番歌にある「桂楫〔桂梶〕」は一本のようである。
カツラの木は、「湯津楓(ゆつかつら)」(記上)、「湯津杜木(ゆつかつら)」(神代紀第九段本文)、「湯津杜樹(ゆつかつら)」(神代紀第九段一書第一)などと天若日子(天稚彦)の門のところや、「湯津香木(ゆつかつら)」(記上)、「湯津杜樹(ゆつかつら)」(神代紀第十段本文)、「杜樹(かつらのき)」(神代紀第十段一書第一)などと海神の宮門前の井のそばに生えていることが知られていた。それは門扉が枢戸で戸臍(とぼそ)と戸まらを組み合わせた構造をしていることから、上手に轆轤(注8)を使って丸く成形していることが求められ、カツラ剥きという包丁さばきが連想されていた。それは月の欠けていくことに通じるところのあり、カツラの木の材としての狂いのなさばかりか葉の丸さからの類推思考でもある。そしてまた、門に控える守衛の看督長(かどのおさ)が別名、矢大臣と称されて、弓矢を持っている姿も関係して弓張月が一連の観念のなかにおさまり、また、カツラの木が水気を好んで船に親近性があることから用いられているのであろう(注9)。
つまり、「月の船」と「桂楫」とは一つのセットになっている。両者は「懸」けてある。轆轤を使った枢構造のカヂとは、櫓のことである。船につけた櫓臍(櫓杭)に、入れ子の凹みをつけた櫓をはめてキーキー音をたてながら操る。轆轤挽きの音によく似ている。ここに「桂楫」なる表現が行われて、記紀の説話を十分に理解している人たちに認められ得ることとなっている。万2223番歌は、言葉の上で掛詞的に活用しているものである。
櫓臍と櫓(外した状態。歌舞伎座ギャラリー展示品)
黄葉為時尓成良之月人楓枝乃色付見者
黄葉(もみち)する 時になるらし 月人の 楓(かつら)の枝の 色づく見れば(万2202・巻十・「秋雑歌・詠二黄葉一」)
黄葉する時季になるらしい。月は丸葉の桂、丸葉の桂は月の、その枝ごとのように月が色づくのを見れば。
通説に、「見れば」の主語を「月人」として「月人の」の「の」を主格ととって、月人が見ると解され、天空上で月に住む人が月の中の桂樹が色づいたのを見れば、地上でも黄葉する時節になったらしいという意に解されている。しかし、この歌は仲秋の名月を歌ったものと考えられる。月人は満月の擬人化である。「月人の」の「の」は所有・所属を表し、月人の持つカツラの丸い葉、すなわち満月に黄赤く染まることを言っていて、それを今眺めていると、植物も黄葉する時候になったようだと風雅なもの言いをしている。「楓(かつら)の枝」とあって一枚の丸い葉ではない点は、十五夜の月ばかりでなくその前後の、十四日の月や十六夜も含めて黄色く色づいて見えたことを謂わんとしている(注10)。
以上見てきたように、万葉集において月を擬人化した「月人壮士」という言い方は、せいぜいが0~1等級程度の明るさの星をめでるべき七夕を台無しにする、-10等級(半月)と明るすぎる存在として捉えられていた。単に月を詠む場合に「月人壮士」、「月人」として使う場合にカツラとともに用いられているのは、カツラの葉の丸いことを満月に見立てたことによるところが基底にあることも理解された。
(注)
(注1)万葉集に「月読壮士」の例は2首見られる。
天尓座月讀壯子幣者将為今夜乃長者五百夜継許増
天に座(ま)す 月読壮士(つくよみをとこ) 幣(まひ)はせむ 今夜の長さ 五百夜(いほよ)継ぎこそ(万985・巻六・「湯原王月歌二首」)
三空徃月讀壯士夕不去目庭雖見因縁毛無
み空行く 月読壮士 夕去らず 目には見れども 寄る縁(よし)も無し(万1372・巻七・「寄レ月」)
万985番歌は月を歌った歌であるが、万1372番歌は月にことよせて片想いの男性に近づけないでいることを歌っている。これら「月読壮士」は「月人壮士」では表現としてふさわしくない。あくまでもヨム(読・数)ことにかこつけた歌である。月の形が日にちを数える術になっていたから、「五百夜継ぎ」や、「夕去らず」毎日毎日目にすると言っている。この「月読壮士」という語は、月読尊と月人壮士の合成語であろう。
月を擬人化するにあたって、万葉歌になぜ男性にしたのか不明である。他の伝承に必ず男性とされたか例が少なくて決定できるものではない。皇大神宮儀式帳に、「月読宮一院……次称二月読命一。御形馬乗男形。着二紫御衣一。金作帯大刀佩之。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559060/24に返り点を施した。)とあるのは、信仰の都合上、造形化したにすぎないように思われる。
(注2)巻十の七夕歌を数えたかと思われるが数が合わない。当然ながら、誰が待つかばかりか、何を待つかも問題になろう。直接相手を待つのではなく、「秋」になること(万2000・2005)や「日」を待つ(万2012)、「時」を待つ(万2053・2056・2092・2093)、「年」を待つ(万2055)、「み船」を待つ(万2082)、「白浪」の静まるのを待つ(万2085)、「須臾(しまし)」待つ(万2088)、「何時(いつしか)と」待つ(万2092)例なども見える。
(注3)「天の川 楫の音聞こゆ 彦星と 織女(たなばたつめ)と 今夕(こよひ)逢ふらしも」(万2029)、「彦星と 織女と 今夜逢ふ 天の川門に 波立つなゆめ」(万2040)の話者は地上の人であろう。
(注4)澤瀉1962.265頁参照。
(注5)「徃射跡」は旧訓にユキテヤイムト(類聚古集、西本願寺本)、ユキテヲイムトと間投助詞ヲを訓み添える説(武田1955.)、ユキテイテムト(全集本萬葉集)、イユキテイムト(中西1980.)とする説もある。筆者は、この歌は作者による想像の世界のことだから、古訓に似て疑問の意のカが投入されていると考える。天の原へ狩りに出かけているのだろうか、の意で、月人壯子の行為に疑問を投げかけているのである。
(注6)月のなかにカツラの木があるとする中国の伝承によった表現とする説で示される出典は、唐・段成式・酉陽雑俎の、「旧言、月中有桂、有蟾蜍。故異書言、月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創随合。人姓呉名剛、西河人。学仙有過、謫令伐樹。」(巻一・天咫)である。九世紀の例であるが、古くから言い伝えられてきていたもので、それが本邦へも伝えられていたとしている。かなり無理のある議論である。ほかには、芸文類聚・第四巻・歳時中・七月七日・隋江総・七夕詩に、「漢曲天楡冷 河辺月桂秋」とあるのを懐風藻・山田三方・七夕(53)に「金漢星楡冷 銀河月桂秋」と引くのを嚆矢とするかとされている。この「月桂」、「星楡」を月のなかに桂の木があり、星のなかに楡(にれ)の木があるとするという考えに基づくとするのも「旧言」にあったろうと憶測するばかりである。少なくとも船具材の樹種表現にはなり難い。万葉集ではカツラに「楓」字が3例、「桂」字が1例である。満月とカツラの黄葉との類似、星の光とニレの木のキクイムシのつけた痕との類似をもって漢語が作られていると思われてならない。
左:「月桂」(?)(落葉したカツラの葉)、右:「星楡」(?)(ウィキペディア、Ronnie Nijboer様「樹皮を剥がすと見つかるキクイムシの食痕」https://ja.wikipedia.org/wiki/ニレ)
(注7)江口2000.88頁参照。
(注8)和名抄に、「轆轤 四声字苑に云はく、轆轤〈鹿盧の二音、俗に六路(ろくろ)と云ふ〉は円転の木機也といふ。」、「鋋 漢語抄に云はく、鋋〈辞恋反、又市連反、路久魯賀奈(ろくろかな)〉は轆轤の裁る刀也といふ。」とある。木工用轆轤自体は出土例を見ないが、弥生時代中期以降に轆轤で製作されたと思しい高杯の例が見られるとされつつ、なおその技術導入については5世紀以降とも示唆されている。須藤2009.参照。ちなみに、杯(つき、キは甲類)は月(つき、キは乙類)とゆかりのない別語である。
(注9)拙稿「記紀にいわゆる海神の宮門について」参照。次の万632番歌の、月の内のカツラとは満月のような丸顔の女性を表している。
目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責
目には見て 手には取らえぬ 月の内(うち)の 楓(かつら)の如き 妹(いも)をいかにせむ(万632)
この歌は、湯原王が娘子に贈った歌二首の一で、贈り合いが十二首くり広げられるその第二番目の歌である。「うはへ無き ものかも人は 然ばかり 遠き家路を 帰さく思へば」(万631)と、尋ねて行って逢えずに帰る嘆きを歌った歌につづいている。
万632番歌の「~の内の~」という言い方は、同じ贈答歌群の湯原王の歌、「草枕 旅には妻を 率(ゐ)たれども 匣(くしげ)の内の 珠とこそ見れ」(万635)に見える。櫛笥のなかに珠を大切にしまい、自分が思うときに眺めて楽しむことを言っていて、人に見せびらかすことを言っていない。限定的なニュアンスをウチ(内)という言葉に込めている。
万632番歌の、「目には見て 手には取らえぬ」ものは「妹」である。今回帰されてしまったことを言いたいのだから、それを譬えた「(月の内の)楓(かつら)」なのであろうが、月の中のカツラの木のこととすると齟齬が生じる。「目には見て 手には取らえぬ」ものは、例えば伝承上、月には臼があったり、ウサギか蟾蜍がいたことにもなっている。それらを排除してなぜ「楓(かつら)」を持ち出しているのか、また、「目には見て 手には取らえぬ」ものはふつうに考えて「月」そのもののはずである。すると、ここでも湯原王はウチ(内)という言葉に凝った使い方をしていると考えられる。すなわち、「月」にも「楓」なる風情なるものに限って、そのようなあなたをどうしようか、と言っている。夜這いするとき、上空には月が輝くが、満月の日は月の出が日没直後、月の入りは日の出直前というように、一番長い時間一緒にいられることを願っての訪問になる。カツラの葉のように丸い満月のような丸顔のあなたのことが一番好きだから、満月の日にあなたのところへ夜這いしているのに逢ってくれなかった。どうしたらいいのだ、というのである。現代の世相に不倫相手へのお上手なメッセージと思えばわかりやすいかもしれない。
(注10)月と無関係にカツラの枝を女性に見立てた歌もある。そこに丸顔の童顔を見て取るべきか不明である。
向つ峰(を)の 若楓(わかかつら)の木 下枝(しづえ)取り 花待つい間(ま)に 嘆きつるかも(万1359)
(引用・参考文献)
江口2000. 江口孝夫『懐風藻』講談社(講談社学術文庫)、2000年。
澤瀉1962. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第十』中央公論社、昭和37年。
勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、平成29年。
須藤2009. 須藤護「古代の轆轤工と渡来人」『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第11号、2009年6月。龍谷大学図書館https://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/TD00102018
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『萬葉集三』小学館、昭和48年。
大系本懐風藻 小島憲之校注『日本古典文学大系69 懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』岩波書店、昭和39年。
武田1955. 武田祐吉『萬葉集全講 中』明治書院、昭和30年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注・原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
本稿では、月を擬人化した言い方である「月人壮士」、「月人」も、輝きが明るすぎて、彦星と織姫の七月七日一夜限りの逢瀬を邪魔する存在であったのか検討する。以下、原文、訓読、通説によらない解釈の順で示し、細部の注釈を加える。従来の説について訓みに関わらない場合は特に引用を記さない。
夕星毛徃来天道及何時鹿仰而将待月人壯
夕星(ゆふつつ)も 通ふ天道(あまぢ)を 何時(いつ)までか 仰(あふ)ぎて待たむ 月人壮士(万2010・巻十・「秋雑歌・七夕」)
明るい宵の明星(金星)も通っていった天上の道を、輝いている月が通って没するのを天を仰いでいつまで待っていたらいいのだ。私たちは天空ショーを期待しているのに。
これまでの説に、「月人壮士」は牽牛のこととする説、また、人間の逢瀬が夜の月明かりを頼りとしていたために月の出を待って牽牛は織女のところへ行くとする説、月に向って牽牛(織女)が織女(牽牛)の現われるのを待つのを問うとする説、これは七夕歌ではなくて月の出を待つ歌であるとする説もある。陰暦七月七日は必ず上弦の月で、夕暮れ時に宵の明星が見えたとき、月は天上に輝いているものである。
勝俣2017.に、「万葉集の七夕歌を見てみると、当該歌を除く十六首十七例の「待つ」の用例のうち、地上の人間が「待つ」としたものは一首もなく、織女が七首七例、彦星が九首十例で、彦星が七夕の到来を「待つ」としたものが、一番多いのである。」(605頁)(注2)とあり、彦星が待つことをしていて月人壮士に呼びかけているとしている。しかし、「仰ぐ」は首を上に向けて高いところを見ることである。天空の彦星が天空の月に対して「仰ぐ」とはならないであろう。地上の人間が「待つ」例が他に見られないからと言って表現してはいけない理由にはならず(注3)、「妹」、「君」と言わない理由はそこにあるのではないか。
秋風之清夕天漢舟滂度月人壯子
秋風の 清(きよ)むる夕(ゆふへ) 天の川 舟漕ぎ渡る 月人壮士(万2043・巻十・「秋雑歌・七夕」)
秋風が大気を清める夕べに、天の川に船を漕いで渡っていく月人壮士よ。
この歌は一般に、「秋風の 清(きよ)き夕(ゆふへ)に」と訓まれている。万葉集において、「風」に対して「さやか」系統の語で形容した例がないから「きよし」系統で訓まれるべきと説明されている(注4)。しかし、そうなると、二句目までが風を言っていて、三句目からは渡河を言っていることになる。間に助詞「に」と訓み添えていなければ二句切れも考えられるが、かえって奇妙に連続していないことになっている。ここは、秋風は乾燥していて夜空がきれいに見えることを謂わんとしている。立秋を過ぎ、大陸からの風が吹き、上空は塵芥を清めて澄んだから、七夕の天空ショーにはもってこいということになっている。古代においても風向きはわかり、大陸からの風に七夕が大陸からもたらされた風流であることを通じさせようとしているのであろう。そして、月は空を渡り切って地平線に没し、すごくよく牽牛と織女の星が見えると歌っている。したがって、「清」は他動詞キヨムであると理解されよう。キヨム(清)の用例をあげておく。
…… ちはやぶる 神を言向け まつろはぬ 人をも和し 掃き清め〔波吉伎欲米〕 仕へまつりて ……(万4465)
有司(つかさ)、山背国の相楽郡(さがらかのこほり)にして、館(むろつみ)を起(た)てて浄(きよ)め治(はら)ひて、厚く相資(たす)け養へ。(欽明紀三十一年四月)
天原徃射跡白檀挽而隠在月人壯子
天の原 行(ゆ)きてか射むと 白真弓(しらまゆみ) 引きて隠(かく)せる 月人壮士(万2051・巻十・「秋雑歌・七夕」)(注5)
本来なら七夕なのだから天の川のはずのところ、勘違いして天の原に出かけて行って狩りに射ようとしゃしゃり出ては白真弓を引きしぼって肝心の星も天の川も見えなくしている明るい月には困ったものだ。
「隠在」にはカクセル、カクセリ、コモレル、カクレルといった訓が行われてきた。弓張月のことを言っているから、弓を隠し持っているという説は当たらず、狩りにおいて獲物に自身の姿を見えないようにしたとする意と解して、四段活用の「隠(かく)る」の命令形に状態化辞の助動詞「り」の連体形が接続したカクレル説が有力視され、上弦の月が午後10時頃に西の空に沈み隠れたことを言っているとされている。しかし、そう解すると、歌意の尻つぼみ感が強く、七夕歌であったか確かでなくなる。また、月が山の端にコモレルとするのはツゴモリ(晦)という語との関係からも違和感がある。
この歌を七夕歌として積極的に認めるに、冒頭に「天の川」ではなく「天の原」とあるところに妙趣とみる。月が明るくて天の川が見えない。月は勝手に天の原へ狩りに出ている。七夕なのに困ったものだとおとぼけの歌を歌っている。
於保夫祢尓麻可治之自奴伎宇奈波良乎許藝弖天和多流月人乎登祜
大船に 真楫(まかぢ)しじ貫き 海原を 漕ぎ出て渡る 月人壮士(万3611・巻十五・「当レ所誦詠古歌・七夕歌一首」、右柿本朝臣人麻呂歌)
七夕は小さな星の小舟が川を行き交うものなのに、場違いな大きな船の両舷側に櫂をかけ貫いて海原を漕ぎ出して渡ろうとしている月人壮士よ、考え違いをしないでおくれ。全然星が見えないじゃないか。
天海月船浮桂梶懸而滂所見月人壯子
天の海に 月の船浮け 桂楫(かつらかぢ) 懸けて漕ぐ見ゆ 月人壮士(万2223・巻十・「秋雑歌・詠レ月」)
月人壮士が天上の海に月の船を浮かべ、轆轤挽きを連想させる桂の櫓をかけて漕いでいるのが見える。
この歌は「詠レ月」の歌で七夕とは関係がない。通説では、月に桂の木が生えているという中国の伝承(注6)を受けて「桂楫〔桂梶〕」としていると考えられている。しかし、仮にそれが本邦の人々に受け入れられたのだとしても、納得づくでなければ受け入れられなかったと考える。なぜなら、いつのまにか楫の材に転じているからである。「桂楫」という語は万葉集にこの一例の孤語である。他の例は懐風藻にある。文武天皇作に、「五言詠レ月 一首」(15)である。
月舟移二霧渚一 楓楫泛二霞浜一 台上澄流耀 酒中沈去輪
水下斜陰砕 樹落秋光新 独以二星間鏡一 還浮二雲漢津一
一・二句目に「月舟」、「楓楫」と出てきて語句がよく似ている。先後関係があるとするなら、万2223番歌が先で、漢詩は後であろう。あまりうまい作と思われない点は指摘されている(注7)。
万2223番歌にある「楫」は櫂のことか、櫓(艪)のことかが問題になる。筆者は、万3611番歌に「真楫しじ貫き」と呼ばれるものは櫂であると考える。両手をマテというように、ワンペアのセットの一揃えがマ(真)を表すから、「真楫」とあれば船の両側に「楫」のあるもの、すなわち、櫂である。一方、万2223番歌にある「桂楫〔桂梶〕」は一本のようである。
カツラの木は、「湯津楓(ゆつかつら)」(記上)、「湯津杜木(ゆつかつら)」(神代紀第九段本文)、「湯津杜樹(ゆつかつら)」(神代紀第九段一書第一)などと天若日子(天稚彦)の門のところや、「湯津香木(ゆつかつら)」(記上)、「湯津杜樹(ゆつかつら)」(神代紀第十段本文)、「杜樹(かつらのき)」(神代紀第十段一書第一)などと海神の宮門前の井のそばに生えていることが知られていた。それは門扉が枢戸で戸臍(とぼそ)と戸まらを組み合わせた構造をしていることから、上手に轆轤(注8)を使って丸く成形していることが求められ、カツラ剥きという包丁さばきが連想されていた。それは月の欠けていくことに通じるところのあり、カツラの木の材としての狂いのなさばかりか葉の丸さからの類推思考でもある。そしてまた、門に控える守衛の看督長(かどのおさ)が別名、矢大臣と称されて、弓矢を持っている姿も関係して弓張月が一連の観念のなかにおさまり、また、カツラの木が水気を好んで船に親近性があることから用いられているのであろう(注9)。
つまり、「月の船」と「桂楫」とは一つのセットになっている。両者は「懸」けてある。轆轤を使った枢構造のカヂとは、櫓のことである。船につけた櫓臍(櫓杭)に、入れ子の凹みをつけた櫓をはめてキーキー音をたてながら操る。轆轤挽きの音によく似ている。ここに「桂楫」なる表現が行われて、記紀の説話を十分に理解している人たちに認められ得ることとなっている。万2223番歌は、言葉の上で掛詞的に活用しているものである。
櫓臍と櫓(外した状態。歌舞伎座ギャラリー展示品)
黄葉為時尓成良之月人楓枝乃色付見者
黄葉(もみち)する 時になるらし 月人の 楓(かつら)の枝の 色づく見れば(万2202・巻十・「秋雑歌・詠二黄葉一」)
黄葉する時季になるらしい。月は丸葉の桂、丸葉の桂は月の、その枝ごとのように月が色づくのを見れば。
通説に、「見れば」の主語を「月人」として「月人の」の「の」を主格ととって、月人が見ると解され、天空上で月に住む人が月の中の桂樹が色づいたのを見れば、地上でも黄葉する時節になったらしいという意に解されている。しかし、この歌は仲秋の名月を歌ったものと考えられる。月人は満月の擬人化である。「月人の」の「の」は所有・所属を表し、月人の持つカツラの丸い葉、すなわち満月に黄赤く染まることを言っていて、それを今眺めていると、植物も黄葉する時候になったようだと風雅なもの言いをしている。「楓(かつら)の枝」とあって一枚の丸い葉ではない点は、十五夜の月ばかりでなくその前後の、十四日の月や十六夜も含めて黄色く色づいて見えたことを謂わんとしている(注10)。
以上見てきたように、万葉集において月を擬人化した「月人壮士」という言い方は、せいぜいが0~1等級程度の明るさの星をめでるべき七夕を台無しにする、-10等級(半月)と明るすぎる存在として捉えられていた。単に月を詠む場合に「月人壮士」、「月人」として使う場合にカツラとともに用いられているのは、カツラの葉の丸いことを満月に見立てたことによるところが基底にあることも理解された。
(注)
(注1)万葉集に「月読壮士」の例は2首見られる。
天尓座月讀壯子幣者将為今夜乃長者五百夜継許増
天に座(ま)す 月読壮士(つくよみをとこ) 幣(まひ)はせむ 今夜の長さ 五百夜(いほよ)継ぎこそ(万985・巻六・「湯原王月歌二首」)
三空徃月讀壯士夕不去目庭雖見因縁毛無
み空行く 月読壮士 夕去らず 目には見れども 寄る縁(よし)も無し(万1372・巻七・「寄レ月」)
万985番歌は月を歌った歌であるが、万1372番歌は月にことよせて片想いの男性に近づけないでいることを歌っている。これら「月読壮士」は「月人壮士」では表現としてふさわしくない。あくまでもヨム(読・数)ことにかこつけた歌である。月の形が日にちを数える術になっていたから、「五百夜継ぎ」や、「夕去らず」毎日毎日目にすると言っている。この「月読壮士」という語は、月読尊と月人壮士の合成語であろう。
月を擬人化するにあたって、万葉歌になぜ男性にしたのか不明である。他の伝承に必ず男性とされたか例が少なくて決定できるものではない。皇大神宮儀式帳に、「月読宮一院……次称二月読命一。御形馬乗男形。着二紫御衣一。金作帯大刀佩之。」(国会図書館デジタルコレクションhttps://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2559060/24に返り点を施した。)とあるのは、信仰の都合上、造形化したにすぎないように思われる。
(注2)巻十の七夕歌を数えたかと思われるが数が合わない。当然ながら、誰が待つかばかりか、何を待つかも問題になろう。直接相手を待つのではなく、「秋」になること(万2000・2005)や「日」を待つ(万2012)、「時」を待つ(万2053・2056・2092・2093)、「年」を待つ(万2055)、「み船」を待つ(万2082)、「白浪」の静まるのを待つ(万2085)、「須臾(しまし)」待つ(万2088)、「何時(いつしか)と」待つ(万2092)例なども見える。
(注3)「天の川 楫の音聞こゆ 彦星と 織女(たなばたつめ)と 今夕(こよひ)逢ふらしも」(万2029)、「彦星と 織女と 今夜逢ふ 天の川門に 波立つなゆめ」(万2040)の話者は地上の人であろう。
(注4)澤瀉1962.265頁参照。
(注5)「徃射跡」は旧訓にユキテヤイムト(類聚古集、西本願寺本)、ユキテヲイムトと間投助詞ヲを訓み添える説(武田1955.)、ユキテイテムト(全集本萬葉集)、イユキテイムト(中西1980.)とする説もある。筆者は、この歌は作者による想像の世界のことだから、古訓に似て疑問の意のカが投入されていると考える。天の原へ狩りに出かけているのだろうか、の意で、月人壯子の行為に疑問を投げかけているのである。
(注6)月のなかにカツラの木があるとする中国の伝承によった表現とする説で示される出典は、唐・段成式・酉陽雑俎の、「旧言、月中有桂、有蟾蜍。故異書言、月桂高五百丈、下有一人常斫之、樹創随合。人姓呉名剛、西河人。学仙有過、謫令伐樹。」(巻一・天咫)である。九世紀の例であるが、古くから言い伝えられてきていたもので、それが本邦へも伝えられていたとしている。かなり無理のある議論である。ほかには、芸文類聚・第四巻・歳時中・七月七日・隋江総・七夕詩に、「漢曲天楡冷 河辺月桂秋」とあるのを懐風藻・山田三方・七夕(53)に「金漢星楡冷 銀河月桂秋」と引くのを嚆矢とするかとされている。この「月桂」、「星楡」を月のなかに桂の木があり、星のなかに楡(にれ)の木があるとするという考えに基づくとするのも「旧言」にあったろうと憶測するばかりである。少なくとも船具材の樹種表現にはなり難い。万葉集ではカツラに「楓」字が3例、「桂」字が1例である。満月とカツラの黄葉との類似、星の光とニレの木のキクイムシのつけた痕との類似をもって漢語が作られていると思われてならない。
左:「月桂」(?)(落葉したカツラの葉)、右:「星楡」(?)(ウィキペディア、Ronnie Nijboer様「樹皮を剥がすと見つかるキクイムシの食痕」https://ja.wikipedia.org/wiki/ニレ)
(注7)江口2000.88頁参照。
(注8)和名抄に、「轆轤 四声字苑に云はく、轆轤〈鹿盧の二音、俗に六路(ろくろ)と云ふ〉は円転の木機也といふ。」、「鋋 漢語抄に云はく、鋋〈辞恋反、又市連反、路久魯賀奈(ろくろかな)〉は轆轤の裁る刀也といふ。」とある。木工用轆轤自体は出土例を見ないが、弥生時代中期以降に轆轤で製作されたと思しい高杯の例が見られるとされつつ、なおその技術導入については5世紀以降とも示唆されている。須藤2009.参照。ちなみに、杯(つき、キは甲類)は月(つき、キは乙類)とゆかりのない別語である。
(注9)拙稿「記紀にいわゆる海神の宮門について」参照。次の万632番歌の、月の内のカツラとは満月のような丸顔の女性を表している。
目二破見而手二破不所取月内之楓如妹乎奈何責
目には見て 手には取らえぬ 月の内(うち)の 楓(かつら)の如き 妹(いも)をいかにせむ(万632)
この歌は、湯原王が娘子に贈った歌二首の一で、贈り合いが十二首くり広げられるその第二番目の歌である。「うはへ無き ものかも人は 然ばかり 遠き家路を 帰さく思へば」(万631)と、尋ねて行って逢えずに帰る嘆きを歌った歌につづいている。
万632番歌の「~の内の~」という言い方は、同じ贈答歌群の湯原王の歌、「草枕 旅には妻を 率(ゐ)たれども 匣(くしげ)の内の 珠とこそ見れ」(万635)に見える。櫛笥のなかに珠を大切にしまい、自分が思うときに眺めて楽しむことを言っていて、人に見せびらかすことを言っていない。限定的なニュアンスをウチ(内)という言葉に込めている。
万632番歌の、「目には見て 手には取らえぬ」ものは「妹」である。今回帰されてしまったことを言いたいのだから、それを譬えた「(月の内の)楓(かつら)」なのであろうが、月の中のカツラの木のこととすると齟齬が生じる。「目には見て 手には取らえぬ」ものは、例えば伝承上、月には臼があったり、ウサギか蟾蜍がいたことにもなっている。それらを排除してなぜ「楓(かつら)」を持ち出しているのか、また、「目には見て 手には取らえぬ」ものはふつうに考えて「月」そのもののはずである。すると、ここでも湯原王はウチ(内)という言葉に凝った使い方をしていると考えられる。すなわち、「月」にも「楓」なる風情なるものに限って、そのようなあなたをどうしようか、と言っている。夜這いするとき、上空には月が輝くが、満月の日は月の出が日没直後、月の入りは日の出直前というように、一番長い時間一緒にいられることを願っての訪問になる。カツラの葉のように丸い満月のような丸顔のあなたのことが一番好きだから、満月の日にあなたのところへ夜這いしているのに逢ってくれなかった。どうしたらいいのだ、というのである。現代の世相に不倫相手へのお上手なメッセージと思えばわかりやすいかもしれない。
(注10)月と無関係にカツラの枝を女性に見立てた歌もある。そこに丸顔の童顔を見て取るべきか不明である。
向つ峰(を)の 若楓(わかかつら)の木 下枝(しづえ)取り 花待つい間(ま)に 嘆きつるかも(万1359)
(引用・参考文献)
江口2000. 江口孝夫『懐風藻』講談社(講談社学術文庫)、2000年。
澤瀉1962. 澤瀉久隆『萬葉集注釈 巻第十』中央公論社、昭和37年。
勝俣2017. 勝俣隆『上代日本の神話・伝説・万葉歌の解釈』おうふう、平成29年。
須藤2009. 須藤護「古代の轆轤工と渡来人」『龍谷大学国際社会文化研究所紀要』第11号、2009年6月。龍谷大学図書館https://opac.ryukoku.ac.jp/webopac/TD00102018
全集本萬葉集 小島憲之・木下正俊・佐竹昭広校注・訳『萬葉集三』小学館、昭和48年。
大系本懐風藻 小島憲之校注『日本古典文学大系69 懐風藻 文華秀麗集 本朝文粋』岩波書店、昭和39年。
武田1955. 武田祐吉『萬葉集全講 中』明治書院、昭和30年。
中西1980. 中西進『万葉集 全訳注・原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。