古事記は、稗田阿礼が口述したものを太安万侶の書いたものと言われながらも、この言い方にはかなり誤謬があるとされている。なかなか微妙なところであるが、その時、すでに書かれてあるものを稗田阿礼が読み上げるのを太安万侶が書き記したのか、太安万侶はすでに書いてあるものを目にしながら耳では稗田阿礼の口に出して言うのを聞きながら書いているのか、それとも稗田阿礼が口伝えに聞いたことを丸暗記していてそれを唱えるのを太安万侶が書きつけたのかなど、そのへんのところは今日までの研究でも実は明証には至っていない。
古事記には序文があり、古事記の成り立ちについて太安万侶自身が書いている。だから、上の経緯についてもそれを読めばわかるようになっているはずなのだが、きちんと読めていないところがある。手がかりとなるのは、稗田阿礼の才能について記されているところ(A)と、太安万侶が書くのに苦労したというところ(B)である。
A 是に、[天武]天皇詔したまはく、「朕聞く、諸の家の賷たる帝紀と本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加へたり。今の時に当りて、其の失を改めずは、未だ幾年を経ずして、其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、惟れ、帝紀を撰び録し、旧辞を討ね覈り、偽を削り実を定め、後葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年は是二十八。為人聡明くして、目に度り、口に誦へ、耳に拂ひ、心に勒む(注1)。即ち、阿礼に勅り語りたまひて、帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習はしめたまひき。(於是、天皇詔之、朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭。既違正實、多加虛偽。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故、惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削偽定實、欲流後葉。時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是廿八。為人聰明、度目誦口拂耳勒心。即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代舊辭。)
B 焉に、旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬き錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に[元明天皇ガ]詔したまはく、稗田阿礼が誦める勅り語りたまひし旧辞を撰び録して、献上れとのりたまへば、謹みて詔の旨の随に、子細に採り摭ひぬ。然れども、上古の時、言と意と並に朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於ては即ち難し。已に訓に因りて述ぶれば、詞は心に逮らず。全く音を以て連ぬれば、事の趣更に長し。是を以て、今、或るは一句の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或るは一事の内に、全く訓を以て録しぬ。即ち、辞の理の見え叵きは、注を以て明し、意の況の解り易きは更に注せず。亦、姓に於きて日下に玖沙訶と謂ひ、名に於きて帯の字に多羅斯と謂ふ。此如ある類は、本の随に改めず。(於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿礼所誦之勅語舊辭以獻上者、謹随詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以、今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。即、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。)(注2)
古事記が書かれてできあがったのは元明天皇の時であるが、それよりずいぶん前に、稗田阿礼は天武天皇から「誦習」させられている。この間の事情でも、何か書いてあるものを見ながら一人で諳誦に励んでいたのか、書いてあるものを見せられつつ読み聞かされて読み方を覚えていっているのか、空に覚えていることを口に出しているのを聞いて覚えていっているのか、受け取り方に違いがある(注3)。また、太安万侶は稗田阿礼の喋っているのをそのまま書くことに徹しようとしたのか、稗田阿礼の喋ることを聞きながら文献を校訂したのか、また、その時に稗田阿礼と文献との間でどちらを重んじて書いたのか、といった問題も起ち現れてくる。
Bの最後に「随レ本不レ改」とある。これを根拠に、本のまま改めなかったと書いてあるということは、何か本になるものがあったのだから、稗田阿礼が喋っているのを書き留めたのではなく、もともと資料として残されていたものをそのまま使ったということがわかり、暗唱しているのを聞き書きしているのではないとする指摘がある(注4)。この考えを突き詰めると、稗田阿礼の存在意義ははなはだしく失われる。資料があるのだから、稗田阿礼は訓み方の先生にすぎないことになる。古事記偽書説というのが流行した時期があったが、太安万侶の墓誌が発見されてかなり廃れた。古事記偽書説に似て、稗田阿礼不在説、ないしは、稗田阿礼大したことない説を唱えていることになる。いてもいなくても同じになるような人を大きく取り上げることはない(注5)。
「本の随に改めず。」としたところは、「此如ある類」である。近称の指示代名詞「此」は、その直前の「姓に於きて日下に玖沙訶と謂ひ、名に於きて帯の字に多羅斯と謂ふ。」部分を承けている(注6)。姓の表記は庚午年籍のような戸籍などに拠ったということを言っているのだろう。そこに「日下」や「帯」とあった。確かに物としてあるが、文章としてあるのではない。古事記に記されているすべてについて本となる資料があるのなら、稗田阿礼も太安万侶も、特別にしゃしゃり出て存在を誇示する必要はない。盲点を突いているようでいて、ふつうに見える全体像を見ていない指摘である。
また、稗田阿礼の人となりを記したところに、「度目誦口拂耳勒心。」とあるのを、通説では「目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す。」と訓み、目に見たものは口で読みあげ、耳に触れたものは心に記憶した、の意に解し(注7)、「「耳に払るれば」以下は、尋常でないほどの阿礼の記憶力を称めたものと解されるが、前半部分に「目に度れば」とあるから、ここは阿礼が文字資料を見ていたと考えるほかない。その資料こそが、……「天武紀」天武十年(六八一)三月条の詔に見える「帝紀」「旧辞」などの記録ではなかったか。」(多田2020.12頁)とするのが今日の大勢である。「原古事記」、「誦習本古事記」、「天武本古事記」などと呼ばれるものがあったと設定して考える向きが多い。だが、「度」をワタル、「勒」字をシルスと訓むことには抵抗がある。
「度」字は、古事記のなかでは確例として、仮名ド(甲類)としての使い方、ワタス、ワタルの意、また渡船場のワタリ、回数を表すタビと訓まれている。ワタルは海や川などの対岸へゆくこと、鳥や虫、日月などが空中をよぎること、時間が経過して生きてゆくことの意に用いられる。また、「恋ひわたる」、「思ひわたる」のように補助動詞的に用いられることもある。そんななか、視線に(文字が)横切る意味に考えて、「目に度る」、「目を度る」という言い方がされているとすれば、かなり奇異な表現である。真福寺本古事記の書写者もちょっと違うのではないかと感じたらしく、「度日」と書いている。なにしろ、文字が目に入って何と書いてあるのか口に出して答えることは、書記官である史や祝詞をあげる人でもできることであり、「聡明」と評するに値しない。別の訓み方が求められる。また、「勒」については、「心に勒す」で脳裏に焼き付ける意に用いていると思われるが、上代にそのような抽象的な用法は見られない。記序ではほかにヲサムと訓んでいて、日本書紀ではトトノフの訓がある。
通説の訓みでは「聡明」の説明につながらないのである。目→口、耳→心という単線の神経伝達にはおかしなところが現れる。心に留めたものは口に出さないのだろうか。さらには、心に留めたものは文字でメモしてそれを目で見て口に出していたとすると、すでに「撰録」は完了していたということになる。太安万侶は稗田阿礼の撰録に飽き足らず、自らの方法でやり直したということを言っているという可能性もなくはないが、その場合は違った書き方がされるであろう。
「聡明」さを語るときには、その人が持っている五感それぞれの優秀さを述べるものである。つまり、目、口、耳、心を取り上げるならそれらすべてを褒める。訓みとして、「目に度り、口に誦へ、耳に拂ひ、心に勒む」という形を提唱している(注1)。目は見て顔色や仕草などから見当をつける能力、口は大きな声で抑揚正しく言う能力、耳は聞くべきでないことは払いのけて正邪を分ける能力、心は整理して記憶し引き出しごとに引き出せる能力があったということであろう。
では、書いたものはなかったのだろうか。天武天皇は聞いていて、「諸の家の賷たる帝紀と本辞と、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ」状態にあると認知し受容している。「諸家之所賷帝紀及本辞」と言っていることについて、それがみな書物の形なのか、諸家の人々の口の上に存しているのかわからないが、そんなことには頓着しないで持っていると確信している(注8)。それらの内容はすでに真実と違っていて、たくさんの虚偽が加わったものになっている。だから、正しくしましょうということで、阿礼に勅語して、「誦二-習帝皇日継及先代旧辞一」している。
現代の我々にとっては、大いなる疑問が生じる。諸家が書物として持っていてそれが誤っているのなら、その間違いを直して正しい書物に作り直したらいいと思うのにそうしていない。「帝紀」とあるから少なくともその部分は書物としてあったと思われるが、「本辞」のほうは口の上に存していたということなのだろうか。それに対抗するゆえなのか、書物を作らないで「誦習」している。口に出して唱えるばかりなのである。
天武天皇は、「帝紀」を「撰録」して「旧辞」を「討覈」し、正しいものを後世に伝えようと考えていた。そして、稗田阿礼に対して「勅語」している(注9)。この「勅語」とは何か。幾通りかの可能性があげられる。この「勅語」は、天武天皇が書いてあるものの訓み方を口授している、天武天皇が良きに計らえ的に仰せつける意を表す、天武天皇が自ら諸資料を参照しながら口授している、天武天皇が諳んじて教えていて書いたものはなかった、などである。
天武天皇は諸資料を参照しながら口授しているのだとすると、それは撰録や討覈をしていることに当たり、後はまとめれば完成ということになるがそうはなっていなかった。そう簡単ではなかったことについて、太安万侶はどう書いたらいいか悩んだと漏らしている。とはいえ、書いてあるものの訓み方を専門職ではなく天皇が舎人に口授することはなさそうである(注10)。
「勅語」という言葉を仰せつける意とするのは、帝紀を撰録して旧辞を討覈し、正統な書物を作りなさい、というように言ったということである。もしそうなら、稗田阿礼が古事記を完成させていたであろうし、完成していないのであれば稗田阿礼は職務怠慢か、能力不足ということであって、とうてい「為人聡明」などと評されるはずはない。
書いてあるのは次の一行目のとおりである。「勅語阿礼令……」とあり、「勅語令阿礼……」ではない。「令」の位置が違う。
即勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代旧辞
「即、勅二-語阿礼一、令レ誦二-習帝皇日継及先代旧辞一。(即ち、阿礼に勅語し、帝皇日継及び先代旧辞を誦習させしむ。)」
即勅語令阿礼誦習帝皇日継及先代旧辞
「即、勅語、令三阿礼誦二-習帝皇日継及先代旧辞一。(即ち、勅語し、阿礼をして帝皇日継及び先代旧辞を誦習させしむ。)」
「即、勅四-語令三阿礼誦二-習帝皇日継及先代旧辞一。(即ち、阿礼をして帝皇日継及び先代旧辞を誦習させしめんと勅語す。)」
文章を読むことに徹するなら、天武天皇は、阿礼よ、よろしくな、と言ったのではないことになる。天皇が勅語した内容は、「帝皇日継及先代旧辞」である。「帝皇日継及先代旧辞」を稗田阿礼に勅語したのである。天皇が、例えば親や乳母、教育係などから話され教わり覚えている話を稗田阿礼に口授して聞かせた。勅り語たのである(注11)。稗田阿礼は聡明だから、そのすべてを理解して覚え、すらすらと誦み習わすに至っている(注12)。そう受け取るのが素直である。
しかし、現行の説では、そうは受け取られていない。西條1998.は、日本書紀の次の文と同等であろうと考えている(注13)。
……、以詔川嶋皇子・……・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。
「……、以詔二川嶋皇子・……・大山下平群臣子首一、令レ記二-定帝紀及上古諸事一。(川嶋皇子・……・大山下平群臣子首に詔し、帝紀及び上古の諸事を記定させしむ。)」(天武紀十年三月)
そうであろうか。この文は、「天皇御二-于大極殿一、」に続いている。天武天皇は大極殿にいる。それで以て階を降りたところの庭にいる川嶋皇子らに詔を下している。位置関係が確かだから川嶋皇子らに詔を下したことがわかる。そして、帝紀及び上古の諸事を記定させしめている。その後の文に、「大嶋・子首、親執レ筆以録焉。」とあり、この時に天皇の御前で書いている。となると、この時、その場で記定したということになる。だから、次のような文は意味が違うことになる。
……、以詔令川嶋皇子・……・大山下平群臣子首記定帝紀及上古諸事。
「……、以詔レ令三川嶋皇子・……・大山下平群臣子首記二-定帝紀及上古諸事一。(川嶋皇子・……・大山下平群臣子首をして帝紀及び上古の諸事を記定させしめんと詔す。)」
この紀の記事は、日本書紀を作るようにという詔であったと考えられている。天皇の本意としては、今度までに記定しておくようにと詔を下したのかもしれないが、家来たちはその場で記定しはじめてこんなものでどうでしょう、と見せていることになる。天皇の言葉に対してパフォーマンスとして事柄を対応させている。言=事であるとする思考、思想、信条にかなっている。言われたら態度で示そうよというのが当時の人たちの発想であった。もちろん、そのときだけで纂定作業が終わることはなく、持ち帰って仕事をすることになったであろうが。
言葉を理解することは、書いてある文字を訓むということ以上に実はなかなかに難しいことである(注14)。万葉集の歌が、無文字時代の反映として多重の意味を兼ね合わせて歌われて理解することが難しいのとどこか似ている。どういう修辞なのかよくよく理解しないと、表面的にわかったつもりでも内実をつかめていないことがある。序詞によって掛詞を得て本題へ変奏することばかりか、一つの言葉が異義に解されながら進行して完結してしまう対位法的な手法もある。そういうヤマトコトバの言葉づかいに慣れてよく理解するに至った時、それを「誦習」できているという。口頭言語の特長をきちんと認識していなければならず、文字を介しての意味理解とは頭脳の働かせ方が異なっている。一言でいえば、彼ら二人は共に声の文化のなかにいた人たちである(注15)。
天武天皇は自分が受け継いでいるものが正統な帝紀旧辞であると思っている。それが文字で書いてあるか、書いてあるのではなく憶えているだけかと言われれば、帝紀のほうは書いてあり、旧辞のほうは書いてはなくて憶えていたということなのではないか。全部書いてあるのなら、そもそもこのような発案の必要はない。書いてあるのが古代文字であまりにも訓みにくいというのであれば、古代文字と上代文字とをロゼッタストーンのように並べ書くこともできたであろうし、「賜姓曰日下」が訓みにくいというのであれば、傍に「訶婆奴袁多麻比弖玖沙訶等伊布」とすべてにルビをふる工夫をすれば済むとも気づいていたであろう。問題は、書いてあるものがあるかどうかということではなく、天武天皇がそれをすらすら読むことができたかということではないか。そもそも文字の読み書きに重きを置いているのであれば、稗田阿礼に限ることはなく、また、優先して誦習させることもないであろう。文字に書いてあっても読めない場合、それが正しいのか間違っているのか判断することもできない(注16)。だから、文字に書き起こすことではなく、誦習させることで正誤の判断がすぐつくようにしたと思われる。なぜなら、当時の言葉の本質は、音声言語にあったからである。詔の最初に「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辞、既違正実、多加虚偽。」とあった。「朕聞……」なのである。諸家が持っているというのなら、専制君主なのだから提出させてここは違うから改めよと言えばいいがそうはしていない。提出されても字が読めないのだからどうすることもできない。結果的に、諸家の持っている帝紀、本辞には誤りがあると「聞」いているとしか言えない。なにしろ、言い伝えに伝えられてきたことこそが正しいものであり、言葉としては音声言語なのである。正しさの判定は耳で聞いて行われる。よって、これからもそうして言い伝えに伝えていくことが大事だと思っており、稗田阿礼に誦習させて満足している。
時は流れ、元明天皇の御代になった。時の移ろいについて太安万侶は述べている。
然れども、運移り世異りて、未だ其の事を行ひたまはず。(然、運移世異、未レ行二其事一矣。)
「未行其事矣」について、何をしなかったのか明解を得ていない。「天皇崩坐て御世かはりにければ、撰録の事果し行はれずして、討覈ありし帝紀旧辞は、いたづらに阿礼が口にのこれりしなり、」(本居宣長・古事記伝、78頁、漢字の旧字体は改めた)とある。この説は今日まで引き継がれているが、上述のとおり、阿礼が口にして人々に口づてに伝えることしか天武天皇の念頭にはなかった。「いたづらに」という言い方は物事の一面しか見ていない。
「撰録帝紀、討覈旧辞」と分けている。Aの文の天武天皇の詔にある「帝紀」と「旧辞」との関係は、その前にある「帝紀」と「本辞」、後にある「帝皇日継」と「先代旧辞」と同じであろう。また、Bの文にある「先紀」と「旧辞」と本質的には同じであろう(注17)。それらを合体させて古事記は成っており、皇統譜と呼ばれるところが「帝紀」や「先紀」、それ以外の本文に当たるところが「旧辞」や「本辞」と考えられる。今読んでみて、皇統譜部分は書かれていないと継がれないような性格で、憶えていられそうにないものであるのに対し、それ以外の本文部分はお話として記憶されていたことを述べているような語り口でできている。
天武天皇が詔で述べていたことは、正しい言い伝え、すなわち、天武天皇が覚えている言い伝えを世に流布させることが目的であった。方法として、言い伝えは言い伝えとして稗田阿礼に覚えさせて広く言い伝えさせることを想定していた。ところが、時が流れて書契の時代に突入した(注18)。言葉との向き合い方が変化して、文字を介して伝達されるようになっている。漢籍の知識も重んじられることとなり、稗田阿礼の話に耳を傾ける人はいなくなった。だから、正しい言い伝えを伝えていくということが、未だ行われない状態になっていると太安万侶は見ているのである。それが「未行其事矣」である。「運移世異」しない時、つまり、天武天皇の時代には、「其事」、つまり、フルゴトの真実を語り継ぐことは稗田阿礼の口述によって行われていた。「然」に直接続いて「未行其言矣」とあるのではなく、「運移世異」を挟むのには訳があったということである。
なぜ文字化しないで稗田阿礼に口頭伝授させようとしたのか。くり返しになるが、無文字時代には言い伝えていくこと、口頭言語こそが真なる言葉だったからである。音声による言葉がより正しいものと考えられた(注19)。ヤマトが版図を広げる際にも、「言向け和平す」ことが当たり前のこととされていた。ヤマトコトバ人の住むところ、それがヤマトの国なのである。ヤマトコトバで言って、なるほどそういうことかと納得させてしまうこと、ヤマトコトバという言語体系の、体系的な理解をもって政治的にまでも絡めとってしまうこと、それがヤマト朝廷の政である。言=事であるという思想は無文字時代の言葉のあり方において成り立つ。そして、言葉は音なのだから、同じ音の言葉は同じ事柄を表すものと認識される志向性を持っており、万葉集を見ればわかるように、駄洒落を含めたさまざまなレトリックを胎動させるもととなっている。それが当時の言葉のあり方であり、契約書や和平文書をもって服属させていたわけではない。マツリゴト(政)とは祭ごとのこと、祭政一致状況を示唆する言葉であると語られることが多い。この説明は事情の半分しか説いていない。マツリゴト(政)とはマツリ言のこと、言葉─口頭語─を制したものが国を制した時代であった。
ところが、律令制の時代になると様相が変わってくる。文字文化の到来である。「運移り世異りて」、新しい時代に合った形で天武天皇の意向は実現されることが求められた。太安万侶の出番ということになる。Aで「撰二-録帝紀一、討二-覈旧辞一」とあったものが、Bで「詔二臣安万侶一、撰二-録稗田阿礼所レ誦之勅語旧辞一以献上」と、「帝紀」ではなく「旧辞」が「撰録」の対象となっている(注20)。天武天皇が稗田阿礼に口頭で教え込んで上手に諳唱していた旧辞部分も文字化する必要があると元明天皇が考えたということである。
以上のように、無文字時代から文字時代への転変について考慮に入れることで、古事記序文の意味合いははじめて定まる。稗田阿礼や太安万侶は、時代の変化にもまれた存在であった。そして、稗田阿礼が口頭において巧みな語り口で喋っている「旧辞」部分を、太安万侶は苦労して、漢字を音訓両刀使いにして、時には声点まで施しながら文字に落とし込み、「帝紀」部分を皇統譜としてあげつつそれに連続させて古事記は完成したのであった(注21)。
(注)
(注1)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a7935d72e3cc5c53d815d19bed798fae参照。
(注2)「一定した訓読文を復元することは、それ自体不可能である」(築島2015.27頁)である。とはいえ、訓読によってわれわれは理解することができるので掲げている。太安万侶が考えたところへ近づきたいからである。
(注3)今日の研究者間では、耳で聞いたことを空で覚えて口に唱えたとする見方は、可能性からして排除されることがある。金井2022.参照。
(注4)「「本のまにまに」と言っていることから、阿礼誦習本は、文字で記された「文献」(文字資料)であったことが明らかである。」(西宮1979.24頁)とある。先入観から「明らか」としている。
(注5)通説では、正しく訓むことは容易なことではないから必要だとする考えなのであろうが、ならばどうして稗田阿礼である必要があるのか、他の文字の読める人、史のような人ではいけないのか、説明されていない。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「如レ此之類とは、まづは長谷春日飛鳥三枝などなり、なほこのたぐひのみならず、地名神名など、多くは古来書ならへる字のまゝに記せり、」(83頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
「如此」の例を古事記内に探ると50例以上見つかる。「如此」はカク、カクノゴトクと訓まれる。いずれにせよ近称を指示している。次の例では、「此」は前の文を承けていて、喪屋を作って各々の役割分担を決めたことを指している。だから、「如此行定」とあって通じるのである。「此」はそれ以前を承けていない。
故、天若日子が妻、下照比売が哭く声、風と響みて天に到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神と其の妻子と、聞きて降り来て哭き悲しぶ。乃ち其処に喪屋を作りて、河鴈をきさり持と為、鷺を掃持と為、翠鳥を御食人と為、雀を碓女と為、雉を哭女と為。此の如く行ひ定めて、日八日夜八夜以て遊びき。(故、天若日子之妻・下照比賣之哭聲、與風響到天。於是在天、天若日子之父・天津國玉神、及其妻子聞而、降來哭悲、乃於其處作喪屋而、河雁爲岐佐理持自岐下三字以音、鷺爲掃持、翠鳥爲御食人、雀爲碓女、雉爲哭女、如此行定而、日八日夜八夜遊也。)(記上)
(注7)倉野1973.は、文選・孔融「薦二禰衡一表」の「竊見、処士平原禰衡、年二十四、字正平、淑質貞亮、英才卓躒、初涉二芸文一、升レ堂覩レ奥。目所二一見一、輙誦二於口一、耳所二暫聞一、不レ忘二於心一。」に拠ったものと思われるとしている(186頁)。西郷2005.は、「記序はそれを形式としてとりこんだわけで、したがってこれらの句は額面どおりに取るとかえっておかしなことになる。」(71頁)としている。だが、字句が入れ替わっているのだから、額面どおりに解して通じるのであればそう取るのがよいだろう。
(注8)「賷」字は「齎」の異体字である。この字を、モタラス、持参することととる説がある(西條1998.46~48頁)。説文に、「齎 持ち遺るなり、貝に从び齊声」とある。死者の棺に副葬品を入れて埋葬することを齎送と言った。持って行くことに重きを置くのではなく、その人が所有している良いものを他の人へ贈ることに重きを置く言葉と考えられる。モチ(持)+アリ(有)の約と思われるモタルという訓みが妥当であろう。古事記には他に一例ある。
此の時、熊野の高倉下〈此は人の名ぞ〉、一ふりの横刀を賷たりて、天神の御子の伏せる地に到りて献りし時、天神の御子、即ち寤め起きて、詔はく、……(此時、熊野之高倉下〈此者人名〉賷一横刀、到於天神御子之伏地而献之時、天神御子即寤起、詔、……)(神武記)
「諸家之所賷帝紀及本辞」は、「所レ賷」とあるのだから受身形である。諸家は今持っているのだが、その帝紀、本辞という良いものは与えられたものなのである。朝廷に提出した、の意に解するのは倒錯である。朝廷から下賜されていると考えるべきである。もともとは朝廷にあった帝紀、本辞が分配されていることを言っている。その場合、書いたものが分たれているのか、暗記したものが分たれているのか、「賷」だけではわからない。「帝紀」とあるから書いたものがあるらしいと思われるが、モツ(持)という語は「御言持ち」というように言葉を持っていることも表す。
(注9)山田1935.が、「勅語阿礼令誦習 ……舎人などの身分の卑しい人に勅したまふことは、尋常一様の事でなく、意外に大事件であることを示すものである。」(155頁、漢字の旧字体は改めた)とするように、相手によって「詔」、「勅」、「勅語」というようにして、何か変わりがあるようにとる見方がある。もしそうなら、和語として何と呼ぶ行為であったか明らかになっているはずであろう。
(注10)敏達紀元年条には、高麗の表䟽を史が読めなかったので敏達天皇が叱責した記事がある。そこでも、上表文を読んだのは王辰爾であって敏達天皇ではない。
(注11)平田篤胤・古史徴開題記に、「勅語とは、天皇の大御口づから、勅ひ語ませる由なり。……其は帝皇の日継の紀と、先代旧辞の書に、正実に齟齬る字を配たるを改め、天皇の思ひ得ませる字を新に配て、勅ひ語ませるなり。」(128頁、漢字の旧字体は改めた)とある。「勅語」という語は、天皇が阿礼に帝皇日継や先代旧辞を直接口述して誦習させたこととしている。ただし、それは、書いてあるものを天皇が見ながら口に出して教えたもののとしている。
この考え方は、今日、本居宣長・古事記伝の第二案とされているものによっているという。Bの文にある「勅語」の説明で、「もと此勅語は、唯に此事を詔ひ属しのみにはあらずて、彼天皇【天武】の大御口づから、此旧辞を諷誦坐て、其を阿礼に聴取しめて、諷誦坐大御言のまゝを、誦うつし習はしめ賜へるにもあるべし、【若然らずば、此処には殊に勅語のとことわるべきにあらねばなり、されど余の古書どもにも、勅語とはたゞ大御口づから詔ひつくるを云る例なれば、上には唯其意に注しおきつるなり、】(80頁、漢字の旧字体は改めた)とあるところという。
では、第一案の方はというと、Aの文にある「勅語」の説明で、「勅語は、天皇の大御口づから詔ひ属るなり、【有司をして伝へ宣しめ、又は書にかけるなどをも、たゞ勅とはいへども、そは勅語とはいはず、】かくて此はなほ殊なる意も有べきか、其は下にいふべし、令二誦_習一とは、旧記の本をはなれて、そらに誦うかべて、其語をしば\/口なれしむるをいふなり、抑直に書には撰録しめずして、先かく人の口に移して、つら\/誦習はしめ賜ふは、語を重みしたまふが故なり、」(77頁、漢字の旧字体は改めた)とあるところという。阿礼に誦習しなさいと命令する時に、役人を介して、あるいは文書をもって命ずるのではなく、直接申しつけることを「勅語」というのだとしている。
近年はもっぱら誦習しなさいと直接命令したとする説が優勢である。一方、旧辞のすべてを天皇が阿礼に語ったとする説は、徳田1969.や志水1997.に見られる。徳田氏は、「「詔二阿礼一」といわずに「勅二語阿礼一」といったのは阿礼に語りなさったことを意味する。「語る」は節奏を帯びた話し方である。」(32頁)としている。志水氏は、「勅語」の他の用例、養老公式令奏事式条、続紀・天平宝字二年八月二十五日条、霊異記・下・第三十七縁、続後紀・承和三年五月十二日条のすべての例で「「勅語」は天皇が口頭で発した言葉の内容自体を意味すると判断できる」(92頁)とし、「勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞」は、「天皇が阿礼に自ら内容を語って「帝皇日継」と「先代旧辞」とを誦み習わせた」(同頁)と理解されるとしている。これに対して、西條1998.は、「勅語の内容は口頭で発せられるみことのりとみるべきであり成り立たない。」(65頁)と批判している。西條氏がみことのりという言葉をどのような意味で使っているのか不明ながら、ミコトノリはミコト(御言)+ノリ(宣)の意で、天子の仰せごとのことである。天皇が「……」曰はく、とただ言った場合はノタマハクと訓まれる。ミコトノリはもう少し重みのあるものを指すのだろう。ここで天武天皇は、帝皇日継と先代旧辞を一言一句違いがないように稗田阿礼に教え込ませようとしている。天皇は、「既違正実、多加虚偽」を問題視し、「当今之時不改其失、未経幾年其旨欲滅」と憂え、「削偽定実、欲流後葉」を目指している。非常に大事に考えていて、間違いがないように慎重に取り扱っているのだから、それは確実にミコトノリである。
(注12)次田1924.に、「文字を使用する事は、既にそれより古くから行はれてゐて、皇室や諸家の旧紀が幾らも存在した当時に、わざ\/諳誦せしめられる必要のある筈はない。是は平田篤胤以来既に定説となつて居るやうに、古記録が特殊の文字使用法によったものであつて、随分訓み悪いものあったから、その訓み方を、記憶の能かつた阿礼に、誦み習はしめられたものと解すべきである。」(8頁、漢字の旧字体は改めた)とある。この考え方は文字を持つ文明が文字を持たない文化よりも優れているという偏見の上に立っている。文字を持たずに行われる言語活動に、我々の与り知らぬゆたかな世界があったことに思い致すことができていない。
(注13)西條氏は、「勅語」を平田篤胤の言うように「勅ひ語」ることであるとするなら、次のような構文で書かれるべきであるという(49頁)。
勅語帝皇日継及先代旧辞於阿礼、令誦習其勅語。
簡潔を旨とした人たちはダブるように書き記す傾向にはない。天皇は聞いていて、「諸家之所賷帝紀及本辞」に誤りがあると認めている。この部分は、「朕聞けらく、諸の家の賷たる帝紀と本辞と、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふときけり。」などと訓まれている。ただし、同時代の大唐三蔵玄奘法師表啓古点の用法から、ト、トキケリなどの呼応語を読み添えないのが古用の姿であると指摘されている(小林2022.45~46頁)。呼応語を従える訓みでは、各家にある帝紀や本辞は早くも間違っていて、嘘偽りを加えた形になっていると、役人から上奏があって天皇は聞いた、と受け取ることもできてしまう。そこには小さな矛盾が生まれる。役人が違うとわかるのであれば、役人が対処することで問題は解決する。通常の行政機関に担当部署がないとしても、特任の部署を設ければ対処可能である。天皇が舎人に「勅語」して命じるようなことにはならないだろう。
誰かがフルゴトを語っているのを天皇が聞いたのであろう。そして、記憶しているのと少し違うと思った。どちらが正しいかは明らかである。天皇が理解していることが「帝皇日継及先代旧辞」の正しいもの、本当のものである。だからすべからく改めさせようと志している。「其勅語」などという言葉が指示的、再帰的に現れることはあり得ない。想定としてなら、次のように冗漫に記されることが仮説される。二行目に簡略化したものを書いた。
勅語帝皇日継及先代旧辞於阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。
勅語…………………………阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。
これは古事記の形である。
天皇と阿礼は何をやっているのか。口述と唱和である。天皇は自分が憶えていることを語り、それを阿礼に覚えさせ、言葉どおりに答え返せるようにしていっている。何度もくり返してできるようになる。阿礼が聡明でなかったら、面倒くさくてしびれを切らしていたことであろう。
(注14)言葉というものは順序立てて理解していくのではなく、ある日ある時パッとわかる。その言葉について一斉に全部理解する。アウグスティヌス的言語観に対するウィトゲンシュタインの批判を参照されたい。
(注15)日本書紀の記述になるが、舒明前紀に推古天皇の遺勅について、山背大兄王が聞いて憶えている内容と、豪族たちが(間接的に)聞いたとしている内容が少し違うということで、揉める場面がある。遺言書を書いておけば問題は生じないはずだと思われようが、識字が行われていない時代にあるはずはない。漢字は漢籍や仏典の形でもっと早い段階でもたらされているが、一般に行われているかといえばそうではない。鉄剣銘などに散見され、菟道稚郎子や聖徳太子(厩戸皇子)、史など専門官吏や僧侶たちが使いこなしてはいるものの、広く寺子屋で教えられるといったことはなかった。今日的な感覚からは、識字教育は知識を得るうえで第一歩であると考えられるが、当時そのようなことはなかった。すべてをヤマトコトバのなかで習得できるようになっていたからである。渡来人がもたらした新技術は、いわゆる和訓という言葉を作ることで納得、了解されるようにヤマトコトバが構成されていた。
一例として織機のことをあげる。高機は中国から伝えられた新技術である。機というモノと、その作り方、使い方、また、材料とする絹についての諸知識も伝えられている。実践的技術だから職工さんも渡来している。おそらくその伝来によって機というヤマトコトバは作られたのであろう。これは何か、とヤマトの人が聞いた時、「キ」と言っても誰もわからない。知恵のある人がいて、それをハタと名づけた。できあがるものは旗(幡)のような大きな布帛である。使う時には緯糸を入れた小さな杼 shuttle を左かと思えば右へと走らせる。ハタ(将、当)……や、ハタ(将、当)……や、をリズミカルにくり返すのである。左右についた魚の脇びれのこと、鰭とも関連する言葉であろう。地機(腰機)では、経糸を叩くのに管大杼と筬の両方を使う。一方、高機の場合、機の枠の中に経巻具だけでなく布巻具までも収めてテンションを一定とし、織りの作業を枠の端で囲っている。経糸が切れにくい絹だから効率的になるものでもあり、経糸を叩くのに筬ばかりを使って、まさに機械的に織り進めていく。筬が緯糸を叩いてはパタパタと音がする。擬声語まで含めてモノの名が理解できるようになっている。人生のすべては耳学問で通用した時代であった。聞いてわかることがすなわちわかることだった。
(注16)文字に書いてあっても読み間違える可能性がある場合も、やはり正しいか間違っているか判断できないのであるが、主眼ではないと考える。字面の校異、訂正、注を付すことで済むようなことは、大仰に問題とするに当たらない。
西郷2005.に、「古伝承が「正実」な古伝承としての面目と権威を真に保つには、口に誦するという形式を経なければならなかった。」(73頁)、多田2020.に、「フルコトとは、権威ある固定的な言い回しをもつ詞章のことであったが、それが韻律をもち、比喩や繰り返し(対句)の多用される表現であったことは、その原型が伝承世界の語りごとの場にあったことを示している。語りごとの言葉は、祭式など特定の場で口誦されることを前提とするから、はじめから文字言語の世界とは相容れない性質をもっていた。」(13頁)とある。大いなる誤解である。一例をあげて説明する。倭建命が若かりし時、名を小碓命と言った。天皇がその兄の大碓命が大御食に参上しないことを問い、「ねぎ教え覚せ」と命じた。このネギはいたわる、ねぎらう、の意である。小碓命はその言葉どおり、大碓命をネギした。これは「麻採 祢具」(新撰字鏡)の意で、麻を伐採するように手足をもぎ取った。拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/42b91b8f45b343169823f78564c19e54参照。
今日でも繊維用に大麻を採取するとき、伸びた茎数本を手に握り、根が切れるように傾けながら勢いをつけて引きちぎっている。地面上の茎部分を余さず繊維とすることができ、きわめて効率のいいやり方である。一つの音にいたわることと麻を採取することの二つの意味があり、その両義をもって話ができあがっている時、抑揚をつけながら、時には変な声音を交えつつ、口で喋るのを聞いたほうが理解しやすい。このような洒落がフルゴトにはふんだんに含まれており、それは普段使いの伝承であって特定の祭式や権威とは無関係である。なぜそんな洒落が含まれているのか。言葉を口にする側でも、耳にする側でも、おもしろいと思えるからである。言語活動としてそれ自体おもしろいと思えるから、自動的、自発的、継続的に言い伝えが行われた。文字文化時代の科学的な頭脳からすればおもしろいと思われないかもしれないが、上代の人たちの頓智を志向し、嗜好とする、思考様式に合致していた。どのように麻を採ればいいのか、ありがとうと思いながら手足をもぎ取るかのようにギュッと引っ張るのである。ヤマトコトバだけで伝えることができている。
(注17)上表文形式の文章を下敷きにして恰好をつけた文体に仕上げられており、巧みな対句形式となっているわけだが、「帝紀」と「旧辞」といった対句には意味があるようである。アンチョコに用いた上表形式のもとは「上五経正義表」であると突き止められている。そこに対句形式があるから無理やりに当てはめたとは言えないだろう。むしろ反対に、うまい具合に対句形式の文章を「上五経正義表」に発見したから、それを例文に用いて「帝紀」と「旧辞」という二つのものについて書き上げたと考えるほうが理にかなっている。なお、対句というものをどう捉えるのかはとり方による。西郷2005.は、「対句であるから、撰録討覈は帝紀と旧辞の双方にかかる。」(67頁)としている。
髙橋2021.は、「「五経正義」の二度の編纂の経緯が、『古事記』の編纂経緯に近似していたということが、太安萬侶が『古事記』序文の骨子として「上五経正義表」に依拠した理由として挙げられよう。」(150頁)と指摘していて興味深い。上代の人の考え方として、無文字文化の思考様式である類推思考が貫徹されている。文章を真似るには、その文章が綴られた背景が一致しているからこそ踏襲して正しいのであり、確かに似ていると言えるものと思っていたのであろう。なお、髙橋氏は、「上五経正義表」に依拠とした理由を、古事記の読み手が天皇であったからとし、太安万侶は上表文の形態を持つ序文を付すことで、古事記を天皇が読む書物として位置づけようとしていたとしている。しかし、太安万侶の意思なのではなく、元明天皇が書物の形式にしてほしいと詔を下しているからそうしているのである。「詔臣安万侶、撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞以献上者、謹随詔旨、子細採摭。」ときちんと記されている。
なぜ「上五経正義表」に拠ったものを「序并」として「古事記 上巻」に組み込んでしまっているのかといえば、はじめて見る人がこれは何かと思ったとき、事の次第から始まっているからわかると思ったからである。本文と序とが切り離せないように改行もせずに続けざまに文字を書き連ねておけば、読み始めた人は、まず、これは何かという枠組みから入ることになって必ず付いて回り、誤ることはない。そもそも稗田阿礼に誦習させる契機となったのは、天武天皇が、昔のことについてフェイクのとんでも本があるらしいと危機感を抱いたからであった。この序文を載せずに、あるいは本文から外れて散逸してしまったとしたら、太安万侶が苦心して書いた古事記もとんでも本の一種として扱われかねない。そうならないように、五経正義の添付書類であった「上五経正義表」をアンチョコにして作成した「序」を「古事記 上巻」の本文の冒頭にドッキングさせている。漢籍の「表」と「序」とを混同しているといった批判から、古事記自体を疑わしいものであるともされることがあったが、「表」と書いたら添付資料にしなければならないから「序」にしたまでである。「上表文の形式・文辞を踏まえて序文が書かれていることと、序文が上表文そのものであるということの間には、容易には超えがたい距離があるといわねばなるまい。」(矢嶋2010.118頁)。なにしろ、漢籍をしたためているのではなく和文という新しいジャンルのものを書いている。
太安万侶は、詔の随に書き上げたのであり、その次第がわかるようにしておいたのだった。自分の意見のようなものを差しはさまず、主観的な評価などは一切差し挟まないことをモットーとしている。万葉歌人のように気持ちを歌うことも、批評的な言辞を史書に紛れ込ませることもしない。今日的な言い方で言えば、文学の人でも歴史学の人でもなくて、国語学の人だったと言えるのであろう。そういう人物だと元明天皇は見抜いて、太安万侶に白羽の矢を当てたものと思われる。旧辞について稗田阿礼が喋ることをそのまま書き起こすことが求められていた。
(注18)古語拾遺に、「蓋し聞く、上古の世に未だ文字有らざるときに、貴賤・老少、口口に相伝へ、前言・往行存ちて忘れず。書契より以来、古を談ることを好まず。浮華競ひ興りて、還、旧老を嗤ふ。遂に人をして世を歴て弥新にせしめ、事をして代を逐ひて変改せしむ。顧みて故実を問ふに、根源を識ること靡し。」とある。
(注19)無文字文化のなかにいる人にとってそうであったということで、パロールを優位に位置づけるといった言語学の議論とは関係ない。音声によっていれば、注16にあげた景行記のネギの話も正しく伝わる。書いてあるばかりだとなかなか伝わらない。
(注20)「撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞」とあり、「帝紀」が見えない点について、ここの「旧辞」はやはり「旧辞」ばかりであるとする説のほか、「帝紀」も含蓄した省文であって今日では主流である。そのような見方をする倉野憲司氏に対し、太田1991.は疑いの目を向けている。
筆者は、「惜旧辞之誤忤、正先紀之謬錯」の「先紀」は「帝紀」のこととする説をとる。また、「撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞」の「旧辞」は「旧辞」のことだけととる。「帝紀」は「紀」とあるから天武天皇時代に文章化、書記化されていた。「旧辞」は稗田阿礼が諳誦していた形で残っていたから元明天皇はそれを文章化することを命じた。両者はともにフルゴト、いにしえのことであり、分けるものではないから一体化して列し並べて記述し、古事記として成ったものと考える。古事記を読みわたした時、皇統譜部分はああいうものとして帝紀、お話の部分はこういうものとして旧辞であると捉えられる。
(注21)お話に当たる「旧辞」部分について、天武天皇は稗田阿礼に憶えていることを語って伝えたのであって、書いたものを見ていたわけではないと考える。ひょっとすると「諸家」には書いたものがあったかもしれないが、あったとしても間違いだらけで良くないと天皇は考えていた。支配者の頭の中にあることが唯一正しいとする考え方は、専制君主のあり方として常変わりないことである。一方、天皇の系譜にまつわるところの「帝紀」部分は、書いてあるものがあったと思われる。鉄剣や仏像の銘文にあるようなつまらない記事である。オチがないから話(咄・噺・譚)にならない。これをも稗田阿礼は諳んじられるようになっていたのか、わからない。
(引用・参考文献)
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古事記には序文があり、古事記の成り立ちについて太安万侶自身が書いている。だから、上の経緯についてもそれを読めばわかるようになっているはずなのだが、きちんと読めていないところがある。手がかりとなるのは、稗田阿礼の才能について記されているところ(A)と、太安万侶が書くのに苦労したというところ(B)である。
A 是に、[天武]天皇詔したまはく、「朕聞く、諸の家の賷たる帝紀と本辞、既に正実に違ひ、多く虚偽を加へたり。今の時に当りて、其の失を改めずは、未だ幾年を経ずして、其の旨滅びなむとす。斯れ乃ち、邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、惟れ、帝紀を撰び録し、旧辞を討ね覈り、偽を削り実を定め、後葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。時に舎人有り。姓は稗田、名は阿礼、年は是二十八。為人聡明くして、目に度り、口に誦へ、耳に拂ひ、心に勒む(注1)。即ち、阿礼に勅り語りたまひて、帝皇の日継と先代の旧辞とを誦み習はしめたまひき。(於是、天皇詔之、朕聞、諸家之所賷帝紀及本辭。既違正實、多加虛偽。當今之時不改其失、未經幾年其旨欲滅。斯乃、邦家之經緯、王化之鴻基焉。故、惟、撰錄帝紀、討覈舊辭、削偽定實、欲流後葉。時有舎人。姓稗田、名阿礼、年是廿八。為人聰明、度目誦口拂耳勒心。即、勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代舊辭。)
B 焉に、旧辞の誤り忤へるを惜しみ、先紀の謬き錯れるを正さむとして、和銅四年九月十八日を以て、臣安万侶に[元明天皇ガ]詔したまはく、稗田阿礼が誦める勅り語りたまひし旧辞を撰び録して、献上れとのりたまへば、謹みて詔の旨の随に、子細に採り摭ひぬ。然れども、上古の時、言と意と並に朴にして、文を敷き句を構ふること、字に於ては即ち難し。已に訓に因りて述ぶれば、詞は心に逮らず。全く音を以て連ぬれば、事の趣更に長し。是を以て、今、或るは一句の中に、音と訓とを交へ用ゐ、或るは一事の内に、全く訓を以て録しぬ。即ち、辞の理の見え叵きは、注を以て明し、意の況の解り易きは更に注せず。亦、姓に於きて日下に玖沙訶と謂ひ、名に於きて帯の字に多羅斯と謂ふ。此如ある類は、本の随に改めず。(於焉、惜舊辭之誤忤、正先紀之謬錯、以和銅四年九月十八日、詔臣安萬侶、撰錄稗田阿礼所誦之勅語舊辭以獻上者、謹随詔旨、子細採摭。然、上古之時、言意並朴、敷文構句、於字即難。已因訓述者、詞不逮心、全以音連者、事趣更長。是以、今、或一句之中、交用音訓、或一事之內、全以訓錄。即、辭理叵見、以注明、意況易解、更非注。亦、於姓日下謂玖沙訶、於名帯字謂多羅斯、如此之類、随本不改。)(注2)
古事記が書かれてできあがったのは元明天皇の時であるが、それよりずいぶん前に、稗田阿礼は天武天皇から「誦習」させられている。この間の事情でも、何か書いてあるものを見ながら一人で諳誦に励んでいたのか、書いてあるものを見せられつつ読み聞かされて読み方を覚えていっているのか、空に覚えていることを口に出しているのを聞いて覚えていっているのか、受け取り方に違いがある(注3)。また、太安万侶は稗田阿礼の喋っているのをそのまま書くことに徹しようとしたのか、稗田阿礼の喋ることを聞きながら文献を校訂したのか、また、その時に稗田阿礼と文献との間でどちらを重んじて書いたのか、といった問題も起ち現れてくる。
Bの最後に「随レ本不レ改」とある。これを根拠に、本のまま改めなかったと書いてあるということは、何か本になるものがあったのだから、稗田阿礼が喋っているのを書き留めたのではなく、もともと資料として残されていたものをそのまま使ったということがわかり、暗唱しているのを聞き書きしているのではないとする指摘がある(注4)。この考えを突き詰めると、稗田阿礼の存在意義ははなはだしく失われる。資料があるのだから、稗田阿礼は訓み方の先生にすぎないことになる。古事記偽書説というのが流行した時期があったが、太安万侶の墓誌が発見されてかなり廃れた。古事記偽書説に似て、稗田阿礼不在説、ないしは、稗田阿礼大したことない説を唱えていることになる。いてもいなくても同じになるような人を大きく取り上げることはない(注5)。
「本の随に改めず。」としたところは、「此如ある類」である。近称の指示代名詞「此」は、その直前の「姓に於きて日下に玖沙訶と謂ひ、名に於きて帯の字に多羅斯と謂ふ。」部分を承けている(注6)。姓の表記は庚午年籍のような戸籍などに拠ったということを言っているのだろう。そこに「日下」や「帯」とあった。確かに物としてあるが、文章としてあるのではない。古事記に記されているすべてについて本となる資料があるのなら、稗田阿礼も太安万侶も、特別にしゃしゃり出て存在を誇示する必要はない。盲点を突いているようでいて、ふつうに見える全体像を見ていない指摘である。
また、稗田阿礼の人となりを記したところに、「度目誦口拂耳勒心。」とあるのを、通説では「目に度れば口に誦み、耳に払るれば心に勒す。」と訓み、目に見たものは口で読みあげ、耳に触れたものは心に記憶した、の意に解し(注7)、「「耳に払るれば」以下は、尋常でないほどの阿礼の記憶力を称めたものと解されるが、前半部分に「目に度れば」とあるから、ここは阿礼が文字資料を見ていたと考えるほかない。その資料こそが、……「天武紀」天武十年(六八一)三月条の詔に見える「帝紀」「旧辞」などの記録ではなかったか。」(多田2020.12頁)とするのが今日の大勢である。「原古事記」、「誦習本古事記」、「天武本古事記」などと呼ばれるものがあったと設定して考える向きが多い。だが、「度」をワタル、「勒」字をシルスと訓むことには抵抗がある。
「度」字は、古事記のなかでは確例として、仮名ド(甲類)としての使い方、ワタス、ワタルの意、また渡船場のワタリ、回数を表すタビと訓まれている。ワタルは海や川などの対岸へゆくこと、鳥や虫、日月などが空中をよぎること、時間が経過して生きてゆくことの意に用いられる。また、「恋ひわたる」、「思ひわたる」のように補助動詞的に用いられることもある。そんななか、視線に(文字が)横切る意味に考えて、「目に度る」、「目を度る」という言い方がされているとすれば、かなり奇異な表現である。真福寺本古事記の書写者もちょっと違うのではないかと感じたらしく、「度日」と書いている。なにしろ、文字が目に入って何と書いてあるのか口に出して答えることは、書記官である史や祝詞をあげる人でもできることであり、「聡明」と評するに値しない。別の訓み方が求められる。また、「勒」については、「心に勒す」で脳裏に焼き付ける意に用いていると思われるが、上代にそのような抽象的な用法は見られない。記序ではほかにヲサムと訓んでいて、日本書紀ではトトノフの訓がある。
通説の訓みでは「聡明」の説明につながらないのである。目→口、耳→心という単線の神経伝達にはおかしなところが現れる。心に留めたものは口に出さないのだろうか。さらには、心に留めたものは文字でメモしてそれを目で見て口に出していたとすると、すでに「撰録」は完了していたということになる。太安万侶は稗田阿礼の撰録に飽き足らず、自らの方法でやり直したということを言っているという可能性もなくはないが、その場合は違った書き方がされるであろう。
「聡明」さを語るときには、その人が持っている五感それぞれの優秀さを述べるものである。つまり、目、口、耳、心を取り上げるならそれらすべてを褒める。訓みとして、「目に度り、口に誦へ、耳に拂ひ、心に勒む」という形を提唱している(注1)。目は見て顔色や仕草などから見当をつける能力、口は大きな声で抑揚正しく言う能力、耳は聞くべきでないことは払いのけて正邪を分ける能力、心は整理して記憶し引き出しごとに引き出せる能力があったということであろう。
では、書いたものはなかったのだろうか。天武天皇は聞いていて、「諸の家の賷たる帝紀と本辞と、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふ」状態にあると認知し受容している。「諸家之所賷帝紀及本辞」と言っていることについて、それがみな書物の形なのか、諸家の人々の口の上に存しているのかわからないが、そんなことには頓着しないで持っていると確信している(注8)。それらの内容はすでに真実と違っていて、たくさんの虚偽が加わったものになっている。だから、正しくしましょうということで、阿礼に勅語して、「誦二-習帝皇日継及先代旧辞一」している。
現代の我々にとっては、大いなる疑問が生じる。諸家が書物として持っていてそれが誤っているのなら、その間違いを直して正しい書物に作り直したらいいと思うのにそうしていない。「帝紀」とあるから少なくともその部分は書物としてあったと思われるが、「本辞」のほうは口の上に存していたということなのだろうか。それに対抗するゆえなのか、書物を作らないで「誦習」している。口に出して唱えるばかりなのである。
天武天皇は、「帝紀」を「撰録」して「旧辞」を「討覈」し、正しいものを後世に伝えようと考えていた。そして、稗田阿礼に対して「勅語」している(注9)。この「勅語」とは何か。幾通りかの可能性があげられる。この「勅語」は、天武天皇が書いてあるものの訓み方を口授している、天武天皇が良きに計らえ的に仰せつける意を表す、天武天皇が自ら諸資料を参照しながら口授している、天武天皇が諳んじて教えていて書いたものはなかった、などである。
天武天皇は諸資料を参照しながら口授しているのだとすると、それは撰録や討覈をしていることに当たり、後はまとめれば完成ということになるがそうはなっていなかった。そう簡単ではなかったことについて、太安万侶はどう書いたらいいか悩んだと漏らしている。とはいえ、書いてあるものの訓み方を専門職ではなく天皇が舎人に口授することはなさそうである(注10)。
「勅語」という言葉を仰せつける意とするのは、帝紀を撰録して旧辞を討覈し、正統な書物を作りなさい、というように言ったということである。もしそうなら、稗田阿礼が古事記を完成させていたであろうし、完成していないのであれば稗田阿礼は職務怠慢か、能力不足ということであって、とうてい「為人聡明」などと評されるはずはない。
書いてあるのは次の一行目のとおりである。「勅語阿礼令……」とあり、「勅語令阿礼……」ではない。「令」の位置が違う。
即勅語阿礼令誦習帝皇日継及先代旧辞
「即、勅二-語阿礼一、令レ誦二-習帝皇日継及先代旧辞一。(即ち、阿礼に勅語し、帝皇日継及び先代旧辞を誦習させしむ。)」
即勅語令阿礼誦習帝皇日継及先代旧辞
「即、勅語、令三阿礼誦二-習帝皇日継及先代旧辞一。(即ち、勅語し、阿礼をして帝皇日継及び先代旧辞を誦習させしむ。)」
「即、勅四-語令三阿礼誦二-習帝皇日継及先代旧辞一。(即ち、阿礼をして帝皇日継及び先代旧辞を誦習させしめんと勅語す。)」
文章を読むことに徹するなら、天武天皇は、阿礼よ、よろしくな、と言ったのではないことになる。天皇が勅語した内容は、「帝皇日継及先代旧辞」である。「帝皇日継及先代旧辞」を稗田阿礼に勅語したのである。天皇が、例えば親や乳母、教育係などから話され教わり覚えている話を稗田阿礼に口授して聞かせた。勅り語たのである(注11)。稗田阿礼は聡明だから、そのすべてを理解して覚え、すらすらと誦み習わすに至っている(注12)。そう受け取るのが素直である。
しかし、現行の説では、そうは受け取られていない。西條1998.は、日本書紀の次の文と同等であろうと考えている(注13)。
……、以詔川嶋皇子・……・大山下平群臣子首、令記定帝紀及上古諸事。
「……、以詔二川嶋皇子・……・大山下平群臣子首一、令レ記二-定帝紀及上古諸事一。(川嶋皇子・……・大山下平群臣子首に詔し、帝紀及び上古の諸事を記定させしむ。)」(天武紀十年三月)
そうであろうか。この文は、「天皇御二-于大極殿一、」に続いている。天武天皇は大極殿にいる。それで以て階を降りたところの庭にいる川嶋皇子らに詔を下している。位置関係が確かだから川嶋皇子らに詔を下したことがわかる。そして、帝紀及び上古の諸事を記定させしめている。その後の文に、「大嶋・子首、親執レ筆以録焉。」とあり、この時に天皇の御前で書いている。となると、この時、その場で記定したということになる。だから、次のような文は意味が違うことになる。
……、以詔令川嶋皇子・……・大山下平群臣子首記定帝紀及上古諸事。
「……、以詔レ令三川嶋皇子・……・大山下平群臣子首記二-定帝紀及上古諸事一。(川嶋皇子・……・大山下平群臣子首をして帝紀及び上古の諸事を記定させしめんと詔す。)」
この紀の記事は、日本書紀を作るようにという詔であったと考えられている。天皇の本意としては、今度までに記定しておくようにと詔を下したのかもしれないが、家来たちはその場で記定しはじめてこんなものでどうでしょう、と見せていることになる。天皇の言葉に対してパフォーマンスとして事柄を対応させている。言=事であるとする思考、思想、信条にかなっている。言われたら態度で示そうよというのが当時の人たちの発想であった。もちろん、そのときだけで纂定作業が終わることはなく、持ち帰って仕事をすることになったであろうが。
言葉を理解することは、書いてある文字を訓むということ以上に実はなかなかに難しいことである(注14)。万葉集の歌が、無文字時代の反映として多重の意味を兼ね合わせて歌われて理解することが難しいのとどこか似ている。どういう修辞なのかよくよく理解しないと、表面的にわかったつもりでも内実をつかめていないことがある。序詞によって掛詞を得て本題へ変奏することばかりか、一つの言葉が異義に解されながら進行して完結してしまう対位法的な手法もある。そういうヤマトコトバの言葉づかいに慣れてよく理解するに至った時、それを「誦習」できているという。口頭言語の特長をきちんと認識していなければならず、文字を介しての意味理解とは頭脳の働かせ方が異なっている。一言でいえば、彼ら二人は共に声の文化のなかにいた人たちである(注15)。
天武天皇は自分が受け継いでいるものが正統な帝紀旧辞であると思っている。それが文字で書いてあるか、書いてあるのではなく憶えているだけかと言われれば、帝紀のほうは書いてあり、旧辞のほうは書いてはなくて憶えていたということなのではないか。全部書いてあるのなら、そもそもこのような発案の必要はない。書いてあるのが古代文字であまりにも訓みにくいというのであれば、古代文字と上代文字とをロゼッタストーンのように並べ書くこともできたであろうし、「賜姓曰日下」が訓みにくいというのであれば、傍に「訶婆奴袁多麻比弖玖沙訶等伊布」とすべてにルビをふる工夫をすれば済むとも気づいていたであろう。問題は、書いてあるものがあるかどうかということではなく、天武天皇がそれをすらすら読むことができたかということではないか。そもそも文字の読み書きに重きを置いているのであれば、稗田阿礼に限ることはなく、また、優先して誦習させることもないであろう。文字に書いてあっても読めない場合、それが正しいのか間違っているのか判断することもできない(注16)。だから、文字に書き起こすことではなく、誦習させることで正誤の判断がすぐつくようにしたと思われる。なぜなら、当時の言葉の本質は、音声言語にあったからである。詔の最初に「朕聞、諸家之所賷帝紀及本辞、既違正実、多加虚偽。」とあった。「朕聞……」なのである。諸家が持っているというのなら、専制君主なのだから提出させてここは違うから改めよと言えばいいがそうはしていない。提出されても字が読めないのだからどうすることもできない。結果的に、諸家の持っている帝紀、本辞には誤りがあると「聞」いているとしか言えない。なにしろ、言い伝えに伝えられてきたことこそが正しいものであり、言葉としては音声言語なのである。正しさの判定は耳で聞いて行われる。よって、これからもそうして言い伝えに伝えていくことが大事だと思っており、稗田阿礼に誦習させて満足している。
時は流れ、元明天皇の御代になった。時の移ろいについて太安万侶は述べている。
然れども、運移り世異りて、未だ其の事を行ひたまはず。(然、運移世異、未レ行二其事一矣。)
「未行其事矣」について、何をしなかったのか明解を得ていない。「天皇崩坐て御世かはりにければ、撰録の事果し行はれずして、討覈ありし帝紀旧辞は、いたづらに阿礼が口にのこれりしなり、」(本居宣長・古事記伝、78頁、漢字の旧字体は改めた)とある。この説は今日まで引き継がれているが、上述のとおり、阿礼が口にして人々に口づてに伝えることしか天武天皇の念頭にはなかった。「いたづらに」という言い方は物事の一面しか見ていない。
「撰録帝紀、討覈旧辞」と分けている。Aの文の天武天皇の詔にある「帝紀」と「旧辞」との関係は、その前にある「帝紀」と「本辞」、後にある「帝皇日継」と「先代旧辞」と同じであろう。また、Bの文にある「先紀」と「旧辞」と本質的には同じであろう(注17)。それらを合体させて古事記は成っており、皇統譜と呼ばれるところが「帝紀」や「先紀」、それ以外の本文に当たるところが「旧辞」や「本辞」と考えられる。今読んでみて、皇統譜部分は書かれていないと継がれないような性格で、憶えていられそうにないものであるのに対し、それ以外の本文部分はお話として記憶されていたことを述べているような語り口でできている。
天武天皇が詔で述べていたことは、正しい言い伝え、すなわち、天武天皇が覚えている言い伝えを世に流布させることが目的であった。方法として、言い伝えは言い伝えとして稗田阿礼に覚えさせて広く言い伝えさせることを想定していた。ところが、時が流れて書契の時代に突入した(注18)。言葉との向き合い方が変化して、文字を介して伝達されるようになっている。漢籍の知識も重んじられることとなり、稗田阿礼の話に耳を傾ける人はいなくなった。だから、正しい言い伝えを伝えていくということが、未だ行われない状態になっていると太安万侶は見ているのである。それが「未行其事矣」である。「運移世異」しない時、つまり、天武天皇の時代には、「其事」、つまり、フルゴトの真実を語り継ぐことは稗田阿礼の口述によって行われていた。「然」に直接続いて「未行其言矣」とあるのではなく、「運移世異」を挟むのには訳があったということである。
なぜ文字化しないで稗田阿礼に口頭伝授させようとしたのか。くり返しになるが、無文字時代には言い伝えていくこと、口頭言語こそが真なる言葉だったからである。音声による言葉がより正しいものと考えられた(注19)。ヤマトが版図を広げる際にも、「言向け和平す」ことが当たり前のこととされていた。ヤマトコトバ人の住むところ、それがヤマトの国なのである。ヤマトコトバで言って、なるほどそういうことかと納得させてしまうこと、ヤマトコトバという言語体系の、体系的な理解をもって政治的にまでも絡めとってしまうこと、それがヤマト朝廷の政である。言=事であるという思想は無文字時代の言葉のあり方において成り立つ。そして、言葉は音なのだから、同じ音の言葉は同じ事柄を表すものと認識される志向性を持っており、万葉集を見ればわかるように、駄洒落を含めたさまざまなレトリックを胎動させるもととなっている。それが当時の言葉のあり方であり、契約書や和平文書をもって服属させていたわけではない。マツリゴト(政)とは祭ごとのこと、祭政一致状況を示唆する言葉であると語られることが多い。この説明は事情の半分しか説いていない。マツリゴト(政)とはマツリ言のこと、言葉─口頭語─を制したものが国を制した時代であった。
ところが、律令制の時代になると様相が変わってくる。文字文化の到来である。「運移り世異りて」、新しい時代に合った形で天武天皇の意向は実現されることが求められた。太安万侶の出番ということになる。Aで「撰二-録帝紀一、討二-覈旧辞一」とあったものが、Bで「詔二臣安万侶一、撰二-録稗田阿礼所レ誦之勅語旧辞一以献上」と、「帝紀」ではなく「旧辞」が「撰録」の対象となっている(注20)。天武天皇が稗田阿礼に口頭で教え込んで上手に諳唱していた旧辞部分も文字化する必要があると元明天皇が考えたということである。
以上のように、無文字時代から文字時代への転変について考慮に入れることで、古事記序文の意味合いははじめて定まる。稗田阿礼や太安万侶は、時代の変化にもまれた存在であった。そして、稗田阿礼が口頭において巧みな語り口で喋っている「旧辞」部分を、太安万侶は苦労して、漢字を音訓両刀使いにして、時には声点まで施しながら文字に落とし込み、「帝紀」部分を皇統譜としてあげつつそれに連続させて古事記は完成したのであった(注21)。
(注)
(注1)拙稿「稗田阿礼の人物評「度目誦口拂耳勒心」の訓みについて─「諳誦説」の立場から─」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/a7935d72e3cc5c53d815d19bed798fae参照。
(注2)「一定した訓読文を復元することは、それ自体不可能である」(築島2015.27頁)である。とはいえ、訓読によってわれわれは理解することができるので掲げている。太安万侶が考えたところへ近づきたいからである。
(注3)今日の研究者間では、耳で聞いたことを空で覚えて口に唱えたとする見方は、可能性からして排除されることがある。金井2022.参照。
(注4)「「本のまにまに」と言っていることから、阿礼誦習本は、文字で記された「文献」(文字資料)であったことが明らかである。」(西宮1979.24頁)とある。先入観から「明らか」としている。
(注5)通説では、正しく訓むことは容易なことではないから必要だとする考えなのであろうが、ならばどうして稗田阿礼である必要があるのか、他の文字の読める人、史のような人ではいけないのか、説明されていない。
(注6)本居宣長・古事記伝に、「如レ此之類とは、まづは長谷春日飛鳥三枝などなり、なほこのたぐひのみならず、地名神名など、多くは古来書ならへる字のまゝに記せり、」(83頁、漢字の旧字体は改めた)とある。
「如此」の例を古事記内に探ると50例以上見つかる。「如此」はカク、カクノゴトクと訓まれる。いずれにせよ近称を指示している。次の例では、「此」は前の文を承けていて、喪屋を作って各々の役割分担を決めたことを指している。だから、「如此行定」とあって通じるのである。「此」はそれ以前を承けていない。
故、天若日子が妻、下照比売が哭く声、風と響みて天に到りき。是に、天に在る天若日子が父、天津国玉神と其の妻子と、聞きて降り来て哭き悲しぶ。乃ち其処に喪屋を作りて、河鴈をきさり持と為、鷺を掃持と為、翠鳥を御食人と為、雀を碓女と為、雉を哭女と為。此の如く行ひ定めて、日八日夜八夜以て遊びき。(故、天若日子之妻・下照比賣之哭聲、與風響到天。於是在天、天若日子之父・天津國玉神、及其妻子聞而、降來哭悲、乃於其處作喪屋而、河雁爲岐佐理持自岐下三字以音、鷺爲掃持、翠鳥爲御食人、雀爲碓女、雉爲哭女、如此行定而、日八日夜八夜遊也。)(記上)
(注7)倉野1973.は、文選・孔融「薦二禰衡一表」の「竊見、処士平原禰衡、年二十四、字正平、淑質貞亮、英才卓躒、初涉二芸文一、升レ堂覩レ奥。目所二一見一、輙誦二於口一、耳所二暫聞一、不レ忘二於心一。」に拠ったものと思われるとしている(186頁)。西郷2005.は、「記序はそれを形式としてとりこんだわけで、したがってこれらの句は額面どおりに取るとかえっておかしなことになる。」(71頁)としている。だが、字句が入れ替わっているのだから、額面どおりに解して通じるのであればそう取るのがよいだろう。
(注8)「賷」字は「齎」の異体字である。この字を、モタラス、持参することととる説がある(西條1998.46~48頁)。説文に、「齎 持ち遺るなり、貝に从び齊声」とある。死者の棺に副葬品を入れて埋葬することを齎送と言った。持って行くことに重きを置くのではなく、その人が所有している良いものを他の人へ贈ることに重きを置く言葉と考えられる。モチ(持)+アリ(有)の約と思われるモタルという訓みが妥当であろう。古事記には他に一例ある。
此の時、熊野の高倉下〈此は人の名ぞ〉、一ふりの横刀を賷たりて、天神の御子の伏せる地に到りて献りし時、天神の御子、即ち寤め起きて、詔はく、……(此時、熊野之高倉下〈此者人名〉賷一横刀、到於天神御子之伏地而献之時、天神御子即寤起、詔、……)(神武記)
「諸家之所賷帝紀及本辞」は、「所レ賷」とあるのだから受身形である。諸家は今持っているのだが、その帝紀、本辞という良いものは与えられたものなのである。朝廷に提出した、の意に解するのは倒錯である。朝廷から下賜されていると考えるべきである。もともとは朝廷にあった帝紀、本辞が分配されていることを言っている。その場合、書いたものが分たれているのか、暗記したものが分たれているのか、「賷」だけではわからない。「帝紀」とあるから書いたものがあるらしいと思われるが、モツ(持)という語は「御言持ち」というように言葉を持っていることも表す。
(注9)山田1935.が、「勅語阿礼令誦習 ……舎人などの身分の卑しい人に勅したまふことは、尋常一様の事でなく、意外に大事件であることを示すものである。」(155頁、漢字の旧字体は改めた)とするように、相手によって「詔」、「勅」、「勅語」というようにして、何か変わりがあるようにとる見方がある。もしそうなら、和語として何と呼ぶ行為であったか明らかになっているはずであろう。
(注10)敏達紀元年条には、高麗の表䟽を史が読めなかったので敏達天皇が叱責した記事がある。そこでも、上表文を読んだのは王辰爾であって敏達天皇ではない。
(注11)平田篤胤・古史徴開題記に、「勅語とは、天皇の大御口づから、勅ひ語ませる由なり。……其は帝皇の日継の紀と、先代旧辞の書に、正実に齟齬る字を配たるを改め、天皇の思ひ得ませる字を新に配て、勅ひ語ませるなり。」(128頁、漢字の旧字体は改めた)とある。「勅語」という語は、天皇が阿礼に帝皇日継や先代旧辞を直接口述して誦習させたこととしている。ただし、それは、書いてあるものを天皇が見ながら口に出して教えたもののとしている。
この考え方は、今日、本居宣長・古事記伝の第二案とされているものによっているという。Bの文にある「勅語」の説明で、「もと此勅語は、唯に此事を詔ひ属しのみにはあらずて、彼天皇【天武】の大御口づから、此旧辞を諷誦坐て、其を阿礼に聴取しめて、諷誦坐大御言のまゝを、誦うつし習はしめ賜へるにもあるべし、【若然らずば、此処には殊に勅語のとことわるべきにあらねばなり、されど余の古書どもにも、勅語とはたゞ大御口づから詔ひつくるを云る例なれば、上には唯其意に注しおきつるなり、】(80頁、漢字の旧字体は改めた)とあるところという。
では、第一案の方はというと、Aの文にある「勅語」の説明で、「勅語は、天皇の大御口づから詔ひ属るなり、【有司をして伝へ宣しめ、又は書にかけるなどをも、たゞ勅とはいへども、そは勅語とはいはず、】かくて此はなほ殊なる意も有べきか、其は下にいふべし、令二誦_習一とは、旧記の本をはなれて、そらに誦うかべて、其語をしば\/口なれしむるをいふなり、抑直に書には撰録しめずして、先かく人の口に移して、つら\/誦習はしめ賜ふは、語を重みしたまふが故なり、」(77頁、漢字の旧字体は改めた)とあるところという。阿礼に誦習しなさいと命令する時に、役人を介して、あるいは文書をもって命ずるのではなく、直接申しつけることを「勅語」というのだとしている。
近年はもっぱら誦習しなさいと直接命令したとする説が優勢である。一方、旧辞のすべてを天皇が阿礼に語ったとする説は、徳田1969.や志水1997.に見られる。徳田氏は、「「詔二阿礼一」といわずに「勅二語阿礼一」といったのは阿礼に語りなさったことを意味する。「語る」は節奏を帯びた話し方である。」(32頁)としている。志水氏は、「勅語」の他の用例、養老公式令奏事式条、続紀・天平宝字二年八月二十五日条、霊異記・下・第三十七縁、続後紀・承和三年五月十二日条のすべての例で「「勅語」は天皇が口頭で発した言葉の内容自体を意味すると判断できる」(92頁)とし、「勅語阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞」は、「天皇が阿礼に自ら内容を語って「帝皇日継」と「先代旧辞」とを誦み習わせた」(同頁)と理解されるとしている。これに対して、西條1998.は、「勅語の内容は口頭で発せられるみことのりとみるべきであり成り立たない。」(65頁)と批判している。西條氏がみことのりという言葉をどのような意味で使っているのか不明ながら、ミコトノリはミコト(御言)+ノリ(宣)の意で、天子の仰せごとのことである。天皇が「……」曰はく、とただ言った場合はノタマハクと訓まれる。ミコトノリはもう少し重みのあるものを指すのだろう。ここで天武天皇は、帝皇日継と先代旧辞を一言一句違いがないように稗田阿礼に教え込ませようとしている。天皇は、「既違正実、多加虚偽」を問題視し、「当今之時不改其失、未経幾年其旨欲滅」と憂え、「削偽定実、欲流後葉」を目指している。非常に大事に考えていて、間違いがないように慎重に取り扱っているのだから、それは確実にミコトノリである。
(注12)次田1924.に、「文字を使用する事は、既にそれより古くから行はれてゐて、皇室や諸家の旧紀が幾らも存在した当時に、わざ\/諳誦せしめられる必要のある筈はない。是は平田篤胤以来既に定説となつて居るやうに、古記録が特殊の文字使用法によったものであつて、随分訓み悪いものあったから、その訓み方を、記憶の能かつた阿礼に、誦み習はしめられたものと解すべきである。」(8頁、漢字の旧字体は改めた)とある。この考え方は文字を持つ文明が文字を持たない文化よりも優れているという偏見の上に立っている。文字を持たずに行われる言語活動に、我々の与り知らぬゆたかな世界があったことに思い致すことができていない。
(注13)西條氏は、「勅語」を平田篤胤の言うように「勅ひ語」ることであるとするなら、次のような構文で書かれるべきであるという(49頁)。
勅語帝皇日継及先代旧辞於阿礼、令誦習其勅語。
簡潔を旨とした人たちはダブるように書き記す傾向にはない。天皇は聞いていて、「諸家之所賷帝紀及本辞」に誤りがあると認めている。この部分は、「朕聞けらく、諸の家の賷たる帝紀と本辞と、既に正実に違ひ、多く虚偽を加ふときけり。」などと訓まれている。ただし、同時代の大唐三蔵玄奘法師表啓古点の用法から、ト、トキケリなどの呼応語を読み添えないのが古用の姿であると指摘されている(小林2022.45~46頁)。呼応語を従える訓みでは、各家にある帝紀や本辞は早くも間違っていて、嘘偽りを加えた形になっていると、役人から上奏があって天皇は聞いた、と受け取ることもできてしまう。そこには小さな矛盾が生まれる。役人が違うとわかるのであれば、役人が対処することで問題は解決する。通常の行政機関に担当部署がないとしても、特任の部署を設ければ対処可能である。天皇が舎人に「勅語」して命じるようなことにはならないだろう。
誰かがフルゴトを語っているのを天皇が聞いたのであろう。そして、記憶しているのと少し違うと思った。どちらが正しいかは明らかである。天皇が理解していることが「帝皇日継及先代旧辞」の正しいもの、本当のものである。だからすべからく改めさせようと志している。「其勅語」などという言葉が指示的、再帰的に現れることはあり得ない。想定としてなら、次のように冗漫に記されることが仮説される。二行目に簡略化したものを書いた。
勅語帝皇日継及先代旧辞於阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。
勅語…………………………阿礼、令誦習帝皇日継及先代旧辞。
これは古事記の形である。
天皇と阿礼は何をやっているのか。口述と唱和である。天皇は自分が憶えていることを語り、それを阿礼に覚えさせ、言葉どおりに答え返せるようにしていっている。何度もくり返してできるようになる。阿礼が聡明でなかったら、面倒くさくてしびれを切らしていたことであろう。
(注14)言葉というものは順序立てて理解していくのではなく、ある日ある時パッとわかる。その言葉について一斉に全部理解する。アウグスティヌス的言語観に対するウィトゲンシュタインの批判を参照されたい。
(注15)日本書紀の記述になるが、舒明前紀に推古天皇の遺勅について、山背大兄王が聞いて憶えている内容と、豪族たちが(間接的に)聞いたとしている内容が少し違うということで、揉める場面がある。遺言書を書いておけば問題は生じないはずだと思われようが、識字が行われていない時代にあるはずはない。漢字は漢籍や仏典の形でもっと早い段階でもたらされているが、一般に行われているかといえばそうではない。鉄剣銘などに散見され、菟道稚郎子や聖徳太子(厩戸皇子)、史など専門官吏や僧侶たちが使いこなしてはいるものの、広く寺子屋で教えられるといったことはなかった。今日的な感覚からは、識字教育は知識を得るうえで第一歩であると考えられるが、当時そのようなことはなかった。すべてをヤマトコトバのなかで習得できるようになっていたからである。渡来人がもたらした新技術は、いわゆる和訓という言葉を作ることで納得、了解されるようにヤマトコトバが構成されていた。
一例として織機のことをあげる。高機は中国から伝えられた新技術である。機というモノと、その作り方、使い方、また、材料とする絹についての諸知識も伝えられている。実践的技術だから職工さんも渡来している。おそらくその伝来によって機というヤマトコトバは作られたのであろう。これは何か、とヤマトの人が聞いた時、「キ」と言っても誰もわからない。知恵のある人がいて、それをハタと名づけた。できあがるものは旗(幡)のような大きな布帛である。使う時には緯糸を入れた小さな杼 shuttle を左かと思えば右へと走らせる。ハタ(将、当)……や、ハタ(将、当)……や、をリズミカルにくり返すのである。左右についた魚の脇びれのこと、鰭とも関連する言葉であろう。地機(腰機)では、経糸を叩くのに管大杼と筬の両方を使う。一方、高機の場合、機の枠の中に経巻具だけでなく布巻具までも収めてテンションを一定とし、織りの作業を枠の端で囲っている。経糸が切れにくい絹だから効率的になるものでもあり、経糸を叩くのに筬ばかりを使って、まさに機械的に織り進めていく。筬が緯糸を叩いてはパタパタと音がする。擬声語まで含めてモノの名が理解できるようになっている。人生のすべては耳学問で通用した時代であった。聞いてわかることがすなわちわかることだった。
(注16)文字に書いてあっても読み間違える可能性がある場合も、やはり正しいか間違っているか判断できないのであるが、主眼ではないと考える。字面の校異、訂正、注を付すことで済むようなことは、大仰に問題とするに当たらない。
西郷2005.に、「古伝承が「正実」な古伝承としての面目と権威を真に保つには、口に誦するという形式を経なければならなかった。」(73頁)、多田2020.に、「フルコトとは、権威ある固定的な言い回しをもつ詞章のことであったが、それが韻律をもち、比喩や繰り返し(対句)の多用される表現であったことは、その原型が伝承世界の語りごとの場にあったことを示している。語りごとの言葉は、祭式など特定の場で口誦されることを前提とするから、はじめから文字言語の世界とは相容れない性質をもっていた。」(13頁)とある。大いなる誤解である。一例をあげて説明する。倭建命が若かりし時、名を小碓命と言った。天皇がその兄の大碓命が大御食に参上しないことを問い、「ねぎ教え覚せ」と命じた。このネギはいたわる、ねぎらう、の意である。小碓命はその言葉どおり、大碓命をネギした。これは「麻採 祢具」(新撰字鏡)の意で、麻を伐採するように手足をもぎ取った。拙稿「上代語の「ねぐ(労)(ねぎ(泥疑))」と「をぐな(童男)」について」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/42b91b8f45b343169823f78564c19e54参照。
今日でも繊維用に大麻を採取するとき、伸びた茎数本を手に握り、根が切れるように傾けながら勢いをつけて引きちぎっている。地面上の茎部分を余さず繊維とすることができ、きわめて効率のいいやり方である。一つの音にいたわることと麻を採取することの二つの意味があり、その両義をもって話ができあがっている時、抑揚をつけながら、時には変な声音を交えつつ、口で喋るのを聞いたほうが理解しやすい。このような洒落がフルゴトにはふんだんに含まれており、それは普段使いの伝承であって特定の祭式や権威とは無関係である。なぜそんな洒落が含まれているのか。言葉を口にする側でも、耳にする側でも、おもしろいと思えるからである。言語活動としてそれ自体おもしろいと思えるから、自動的、自発的、継続的に言い伝えが行われた。文字文化時代の科学的な頭脳からすればおもしろいと思われないかもしれないが、上代の人たちの頓智を志向し、嗜好とする、思考様式に合致していた。どのように麻を採ればいいのか、ありがとうと思いながら手足をもぎ取るかのようにギュッと引っ張るのである。ヤマトコトバだけで伝えることができている。
(注17)上表文形式の文章を下敷きにして恰好をつけた文体に仕上げられており、巧みな対句形式となっているわけだが、「帝紀」と「旧辞」といった対句には意味があるようである。アンチョコに用いた上表形式のもとは「上五経正義表」であると突き止められている。そこに対句形式があるから無理やりに当てはめたとは言えないだろう。むしろ反対に、うまい具合に対句形式の文章を「上五経正義表」に発見したから、それを例文に用いて「帝紀」と「旧辞」という二つのものについて書き上げたと考えるほうが理にかなっている。なお、対句というものをどう捉えるのかはとり方による。西郷2005.は、「対句であるから、撰録討覈は帝紀と旧辞の双方にかかる。」(67頁)としている。
髙橋2021.は、「「五経正義」の二度の編纂の経緯が、『古事記』の編纂経緯に近似していたということが、太安萬侶が『古事記』序文の骨子として「上五経正義表」に依拠した理由として挙げられよう。」(150頁)と指摘していて興味深い。上代の人の考え方として、無文字文化の思考様式である類推思考が貫徹されている。文章を真似るには、その文章が綴られた背景が一致しているからこそ踏襲して正しいのであり、確かに似ていると言えるものと思っていたのであろう。なお、髙橋氏は、「上五経正義表」に依拠とした理由を、古事記の読み手が天皇であったからとし、太安万侶は上表文の形態を持つ序文を付すことで、古事記を天皇が読む書物として位置づけようとしていたとしている。しかし、太安万侶の意思なのではなく、元明天皇が書物の形式にしてほしいと詔を下しているからそうしているのである。「詔臣安万侶、撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞以献上者、謹随詔旨、子細採摭。」ときちんと記されている。
なぜ「上五経正義表」に拠ったものを「序并」として「古事記 上巻」に組み込んでしまっているのかといえば、はじめて見る人がこれは何かと思ったとき、事の次第から始まっているからわかると思ったからである。本文と序とが切り離せないように改行もせずに続けざまに文字を書き連ねておけば、読み始めた人は、まず、これは何かという枠組みから入ることになって必ず付いて回り、誤ることはない。そもそも稗田阿礼に誦習させる契機となったのは、天武天皇が、昔のことについてフェイクのとんでも本があるらしいと危機感を抱いたからであった。この序文を載せずに、あるいは本文から外れて散逸してしまったとしたら、太安万侶が苦心して書いた古事記もとんでも本の一種として扱われかねない。そうならないように、五経正義の添付書類であった「上五経正義表」をアンチョコにして作成した「序」を「古事記 上巻」の本文の冒頭にドッキングさせている。漢籍の「表」と「序」とを混同しているといった批判から、古事記自体を疑わしいものであるともされることがあったが、「表」と書いたら添付資料にしなければならないから「序」にしたまでである。「上表文の形式・文辞を踏まえて序文が書かれていることと、序文が上表文そのものであるということの間には、容易には超えがたい距離があるといわねばなるまい。」(矢嶋2010.118頁)。なにしろ、漢籍をしたためているのではなく和文という新しいジャンルのものを書いている。
太安万侶は、詔の随に書き上げたのであり、その次第がわかるようにしておいたのだった。自分の意見のようなものを差しはさまず、主観的な評価などは一切差し挟まないことをモットーとしている。万葉歌人のように気持ちを歌うことも、批評的な言辞を史書に紛れ込ませることもしない。今日的な言い方で言えば、文学の人でも歴史学の人でもなくて、国語学の人だったと言えるのであろう。そういう人物だと元明天皇は見抜いて、太安万侶に白羽の矢を当てたものと思われる。旧辞について稗田阿礼が喋ることをそのまま書き起こすことが求められていた。
(注18)古語拾遺に、「蓋し聞く、上古の世に未だ文字有らざるときに、貴賤・老少、口口に相伝へ、前言・往行存ちて忘れず。書契より以来、古を談ることを好まず。浮華競ひ興りて、還、旧老を嗤ふ。遂に人をして世を歴て弥新にせしめ、事をして代を逐ひて変改せしむ。顧みて故実を問ふに、根源を識ること靡し。」とある。
(注19)無文字文化のなかにいる人にとってそうであったということで、パロールを優位に位置づけるといった言語学の議論とは関係ない。音声によっていれば、注16にあげた景行記のネギの話も正しく伝わる。書いてあるばかりだとなかなか伝わらない。
(注20)「撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞」とあり、「帝紀」が見えない点について、ここの「旧辞」はやはり「旧辞」ばかりであるとする説のほか、「帝紀」も含蓄した省文であって今日では主流である。そのような見方をする倉野憲司氏に対し、太田1991.は疑いの目を向けている。
一体、かやうに帝紀をも含むやうに[倉野氏が]思ふのは、そのすぐ上に「借二旧辞之誤忤一、正二先紀之謬錯一、」とて旧辞・帝紀両方が挙げられてゐるといふことから誘導されるところも有るらしいが、此の「旧辞」・「先紀」は、天武天皇の段[A部分]では三出いづれも帝紀を初めに、旧辞を後に記したのに比し、こゝは旧辞から言ひ出してをり、又、「帝紀」をば、肝心の「帝」字を去つて「先紀」と書くであらうか、「先」は寧ろ「先代旧辞」の「先」ではなからうか、即ち、こゝは先代旧辞一つのみを言へばいゝところを、駢儷文ゆゑに二句にした、「先代旧辞」一つを「旧辞」・「先紀」と分けて書いただけなのである、畢竟「先紀」は「旧辞」の分身で実は一体ではなからうかと愚考する。かくの如く、余は、一段遡つて、「先紀」を「帝紀」・「帝皇日継」と同視して来た解をも疑つて、「勅語旧辞」は文字通り旧辞のみと為し、(「先紀」がやはり帝紀であつても、「旧辞」を先に書いてあることだけでも、帝紀省文説の一反証とならう。)古事記は旧辞に本づいて成つたと見るのである。もしも、それまで別々であつた帝紀と旧辞をこゝに至つて合一するといふやうな変つたことが行はれたのならば、何かその旨書きさうなもの、いや特筆して然るべきであるのに、一言半句の及ぶ所も無いではないか。「古事記」といふ名が「旧辞」の方を承けてゐることも、一般に認められてゐる。(但し書名は元来のものでないとも説かれるが。)著者[倉野氏]が「古事記の本文が帝皇日継と先代旧辞とから成つてゐる」から「勅語旧辞」には帝紀も含まれると言ふが如きは、本末顚倒の論法で、序の解釈を左右するに足りる程に、あゝいふものは帝紀、かういふものは旧辞と分け得る尺度は先入主以外には殆ど無い。(281~282頁)
筆者は、「惜旧辞之誤忤、正先紀之謬錯」の「先紀」は「帝紀」のこととする説をとる。また、「撰録稗田阿礼所誦之勅語旧辞」の「旧辞」は「旧辞」のことだけととる。「帝紀」は「紀」とあるから天武天皇時代に文章化、書記化されていた。「旧辞」は稗田阿礼が諳誦していた形で残っていたから元明天皇はそれを文章化することを命じた。両者はともにフルゴト、いにしえのことであり、分けるものではないから一体化して列し並べて記述し、古事記として成ったものと考える。古事記を読みわたした時、皇統譜部分はああいうものとして帝紀、お話の部分はこういうものとして旧辞であると捉えられる。
(注21)お話に当たる「旧辞」部分について、天武天皇は稗田阿礼に憶えていることを語って伝えたのであって、書いたものを見ていたわけではないと考える。ひょっとすると「諸家」には書いたものがあったかもしれないが、あったとしても間違いだらけで良くないと天皇は考えていた。支配者の頭の中にあることが唯一正しいとする考え方は、専制君主のあり方として常変わりないことである。一方、天皇の系譜にまつわるところの「帝紀」部分は、書いてあるものがあったと思われる。鉄剣や仏像の銘文にあるようなつまらない記事である。オチがないから話(咄・噺・譚)にならない。これをも稗田阿礼は諳んじられるようになっていたのか、わからない。
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