万葉集巻五に、員外の人の歌が載る。員外とは員外官のこと、律令制で、令に定められた定員以外の官吏のこと、臨時雇いの役人のことである。大伴旅人の梅花歌三十二首に続いており、歌会の行われた宴の際の召使か何かと考えられる(注1)。参考のため、多田2009b.の訳を添える。
員外、故郷を思ふ歌両首〔員外思故郷歌兩首〕
我が盛り いたくくたちぬ 雲に飛ぶ 薬食むとも また変若ちめやも〔和我佐可理伊多久々多知奴久毛尓得夫久須利波武等母麻多遠知米也母〕(万847)
雲に飛ぶ 薬食むよは 都見ば いやしき我が身 また変若ちぬべし〔久毛尓得夫久須利波牟用波美也古弥婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之〕(万848)
番外、故郷を思う歌両首
わが命の盛りもすっかり衰えてしまった。雲の上まで飛び行くほどの仙薬を服したとしても、若さが戻ってくることなどどうしてあろう。
雲の上まで飛び行くほどの仙薬を服すよりは、都を一目見るなら、この賤老のわが身も再び若返るに違いない。(多田2009.239頁)
仙薬があって、「雲に飛ぶ」ことができるということになっている。抱朴子などに記述がみられるという(注2)。万葉集の歌の理解に、中国文学の知識を外注して解こうとしている。万葉集の歌そのものを、歌の詞に使われているヤマトコトバのありさまから理解しようと試みることから逃げている。その結果得られた解釈では、「思二故郷一」という題詞のもとに「両首」とまで断って緊密な関係にあるはずの二首の歌を、字句の連携しか見出せずにばらばらにしか理解できていない。問題となるのは、「雲に飛ぶ薬」とは何か、「変若つ」ということと整合性が保たれるか、「いやし」の意味はどういうことか、といった点である。
「雲に飛ぶ薬」は、それを飲めば空中を飛ぶことができるという仙薬のことであると考えられているが、我が国でそのようなものが実物として、また、観念として通行していたか、定かでない。「雲に飛ぶ薬」という言い方はここにあげた歌に限られていて、一般的な語彙にはなっていない。一般的になっていないということは、歌に歌っても聞く人はわからないということである。中国においても、空中を飛ぶことと若返りとが密接に関係することとして考えられていたわけではない。雲のように飛ぶからといって若返りにつながることは想念として考えにくい。老若を問わず鳥は飛び、老若を問わず人は飛ばない。
万葉集の歌は題詞によって枠組まれている。「故郷を思ふ」と掲げた歌が二首あるなら二首とも、「故郷を思ふ」ことと関係があるはずである。そんななか、「故郷」と「変若つ」ということの間、また、都を見たら若返るということと「故郷」との間はどのような関係になっているのか、まったくわかっていない。作者の「員外」を大伴旅人とする説では、都は平城京のこと、そこが彼の「故郷」で、今、遠く離れた筑紫の地で都を思っているものとされている。「いやしき我が身」(注3)は旅人が謙遜して言っているのだとされている。
これでは何もわからない。そもそも歌としておもしろくない。おもしろくないものは聞かれないから歌われず、歌われないから記録されない。記録されているということは当時の人たちが聞いておもしろくてよくわかるものであったのだろう。「員外」と題詞に明記されているのに大伴旅人のことだと邪推せず、素直に受け取ることが求められている。
大伴旅人作とする説の根拠としては、歌の文字法が旅人のそれに忠実である点、また、巻三所載の旅人の次の歌との近しさがあげられている。
わが盛り また変若ちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ(万331)
わが命の盛りがまた再び戻ってくることなど、どうしてあろう。ほとんど奈良の都を見ずに終わることになってしまうのだろうか。(多田2009a.280頁)(注4)
この歌を下敷きにして「員外」の歌は作られているように見える。その場合、同じ旅人が作る可能性もあるが、他の誰かが作る可能性もある。二首目の方に「いやしき我が身」とある「いやし」は、ひどく汚く貧しく、みすぼらしい、いやしい、の意で、蔑視や卑下の対象についていう言葉である。直接的に下賤の者、貧乏人のことを指すだけでなく、自分のことを卑下していう場合もある。「員外」=旅人説は後者の意にとっている。大久保1998.は、「員外」の歌に都と「いやし」との対比を見出している。金光明最勝王経音義に「鄙 伊也之」、新撰字鏡に「鄙 補鮪反、悪也、恥境也、野也、羞愧也。伊也志」と見え、「穢しきかな、鄙しきかな」(神代紀第五段一書第十一)ともあって、ヒナを表す「鄙」字を「いやし」と訓んでいる。都会風に洗練されたものと対極をなす意識から用いられた点を重視した用字であると指摘するのである(注5)。そこで、もともとは故郷である「奈良の都」にいた大伴旅人が大宰府に長くいて、「いやしき我が身」に成り下がっているというのである。
この捉え方は矛盾を孕んでいる。そういう考えを披露するとき、相手となるのは都にいる人たちであろう。都の人に対して鄙にいることが「いやし」いことになっていると自嘲的に言うことはできる。だが、同じ鄙の地、大宰府やその管轄地域にいる人たちの間で、自分は鄙にいて「いやし」いと言っても仕方がない。聞いている人たちも皆、「いやし」いことになってしまう。謙遜、卑下に当たらず、蔑視する選民思想のような驕りが感じられる。旅人は太宰帥という立場にある。こんな田舎は嫌だという素振りを見せたら、たちまち部下は離心してしまうだろう。歌詠みに来ているのではなく、仕事で赴任している。
「いやし」と聞けば、何はさておき、貧しいこと、身分が低いことと受け取られよう。「員外」の人が大宰府で臨時雇用した役人であるなら、その人が歌を詠むときに「いやしき我が身」と歌うことに不自然さはない。身分が低く貧しいその人が「故郷」でどういう境遇にあったか考えてみれば、「楚取る里長」(万892)に責め立てられている情景が思い浮かぶだろう(注6)。フルサト(故郷)という言葉からは、サト(里)でむちをフル(振)ことをされた辛い記憶がよみがえるのである。里長は徴税官の側面を持っていて、貧乏人から重い税を巻き上げていた。そのため食べるに事欠いた暮らしをしていた。つまりは、仙人が霞を食べて生きているようにひもじい暮らしを迫られていた。霞は「雲に飛ぶ」ものに打ってつけである。
ただこれだけの理解によって、歌の様相は大きく変わり、ものの見事にはっきりする。
員外、故郷を思ふ歌両首
役所で臨時雇いしている下働きのアルバイトが、ふるさとのことを思う歌、以下のふたつとも。
我が盛り いたくくたちぬ 雲に飛ぶ 薬食むとも また変若ちめやも(万847)
私は年の盛りを過ぎてひどく衰えました。だからといって若いころ故郷で暮らしていて、里長に責め立てられていたときのように霞を食べるとしてまた若返りたいかと言われれば、とんでもない、若返りたくなどありません。
雲に飛ぶ 薬食むよは 都見ば いやしき我が身 また変若ちぬべし(万848)
食うや食わずで、まるで仙人のように霞を食べるよりは、都を見たら、貧乏人でいやしく冴えない私とて、また若返ること間違いなしです。どうか都へ戻る時は一緒に連れて行ってください。
「思二故郷一」とは、故郷を思い出すと悪夢がよみがえるというものであった。地方の役所で下男として仕えるしかない身の上の人は、宴でも下働きをする「員外」の人である。都で採用されて大宰帥に任ぜられた大伴旅人に従って筑紫へ来たわけではなく、現地任官した人である。九州のどこか、その人の故郷へ帰れば、貧乏な小作人の家のまま、再びあの里長の責め立てが始まるから、とてもではないが若い時分の境遇には戻りたくない。貧乏人の身の上からすれば、そんなことよりも、どうか都へ連れて行って頂けたら、きっと若返るに違いない、そうして頂けませんか、と言っている。
この歌のおもしろみは、中国かぶれの仙人の考え方を耳にしているけれど、そもそもどうして若返りたいんだ、あんな過酷な生活へ逆戻りしろと言うのか、そんなことはまっぴら御免だ。仙薬とはまさに仙人が食べる霞のようなひもじいばかりのもの、定年だから故郷へ帰りなさいなんてむごいことを言わないで、都へ連れて行っておくんなさいまし、と懇願しているところにある。そして、「いやしき我が身」は、そんな在地の人の発言ならではの重さを持ってくる。「いやし」が貧しくていやしいことと、都から遠く離れて文化的にもいやしいことの二通りを兼ねることになっている。
従来の解釈で、「員外」とあるのに主人である大伴旅人の歌であると曲解していた。「雲に飛ぶ薬」を「空を飛ぶ薬」と無理に読み替えて霊験あらたかな仙薬のことと誤解していた。「いやし」の意味を、この歌と関係があるのか根拠も薄弱なままに、吉田宜に対する大伴旅人の謙遜と取り違えていた。
万葉集は歌われた歌を書き残したものである。題詞と歌が書いてあるなら、歌われた状況設定が枠組みとして記されていて、歌の理解に欠かせないことになっている。当たり前のことだが、その題詞が括る範囲は該当する歌に限られる。万葉集の編者はそうやって歌の内容がきちんと伝わるように書き記している。我々は、題詞と歌とを読むことだけで理解するように努め、そのまま受け取ることができる限りにおいては雑念なくそう受け取らなくてはならない。国語の読解の基本だからである。ところが、そうは受け取らずに枉げるにまかせて中国文学との関係を騒ぎ立て、大伴旅人の都への郷愁が歌にこめられているとあげつらい、梅花歌の宴の歌会と一連のもとに据えて推し量るようなことが行われてきた。研究者たちはいったい何がしたくて、何をしようとしてきたのだろうか。
(注)
(注1)多田氏は、今日有力視されている見方に従って、梅花の宴の歌の付録の意としている。通説では、この「員外」は、梅花歌三十二首以外の歌、あるいは、梅花宴に参加しなかった人の歌といった意味合いにとられている。この誤読には際限がなく、「「員外」は、つまらない歌の意。後世の例だが、『拾遺愚草』に「員外雑歌」とある。謙遜の辞。」(新編全集本49頁)とあったり、大伴旅人が卑下して称しているとする考えが横行している。原文の「文字表記からすれば、旅人と考えられる」(稲岡1976.334頁)など、理論的な補強まで得ている。藤原1985.は、「梅花歌丗二首」、「員外梅花歌両首」ならまだしも、内容が異なる歌に「員外」と記すはずはないと断じている。そこでは、歌の作者の役職名であるとしている。新大系本は、「「員外」は「いやしき我が身」(八四八)の表現がふさわしいような卑官の人。」としつつ、「旅人が卑官の立場に立って詠んだものと見られる。」(477頁)とみている。
しかし、梅花歌の宴で下働きに働いたアルバイトの歌を書き記すとき、採録者の旅人が「員外」を記したとすれば、すべての思惑は外れるであろう。歌のなかに「いやしき我が身」とあることにも自然とつながる。「員外」の人でなければ歌えない歌を歌っているのではないかと、まずは考えてみるべきではないか。
(注2)小島1964.には、「抱朴子にみえる、金丹を「黄帝服レ之、遂以昇仙」(金丹篇)、或は仙薬を得て「飛行長生」(仙薬篇)した記事(或は淮南子にみえる、不死の薬を盗んで月の世界に走つた姮娥の有名な話)などの、種々の記事によつたものとみるべきである。」(936~937頁、漢字の旧字体は改めた)とある。胡1998.には、「「雲に飛ぶ薬」の出典については、……神仙伝に見える淮南王の説話によるものであろう。歌のなか歌人は、仙薬より京師のほうがわが身を若返らせるに違いないと歌い、京師への思慕を最大限に誇張する。これは、もとより仙薬を否定するものではなく、仙薬を価値あるものとした上で更に京師を強調するためのレトリックであり、漢詩文によく見られる手法である。」(193頁)とある。新大系本には、「仙薬を服して昇天し、あるいは不老長寿を保ったという神仙説話に基づく。仙童から五色の丸薬をもらって服すると、胸に羽翼が生え、「軽挙すれば風雲を生じ、倏忽として万億を行く」(魏・文帝「郵仙」・芸文類聚・仙道)。」(477頁)とある。澤瀉1960.は、抱朴子の「服二神丹一、令下人寿無二窮已一、与二天地一相畢、乗レ雲駕レ龍上中-下太清上。」(内篇・金丹)を引いている(150頁)。
(注3)小島1964.に、「「いやしきあが身」も「微身」(遊仙窟に「卑微」、「賤客」の例があり、遊二於松浦河一序にも「微者」の例がみえる)などの飜訳語とみなすべきであらう。」(937頁、漢字の旧字体は改めた)とある。大久保1998.も謙遜表現であると考えられている。
(注4)この歌が歌われた背景については、拙稿「大宰府における長屋王の変関連歌(万328~335・955~956)について」参照。
(注5)新撰字鏡には他に、「傍下 鄙人也、諸人之下座人也、賤人也」、「侮 亡甫反、上、猶軽慢也、賤、伊也志、又阿奈止留、又志乃久」ともある。万葉集では、「賤しけど吾妹が屋戸し思ほゆるかも」(万1573)、「葎延ふいやしき屋戸も」(万4270)、「倭文手纏賤しき吾が故」(万1809)などとあり、みすぼらしい、貧しい、身分や地位が低い、の意に用いられている。「いやし」という語だけで、都鄙の対立によって雅ではないことを示す例は知られない。
(注6)貧乏の歌の代表格に山上憶良の貧窮問答歌がある。念のために引用しておく。
風雑り 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに 然とあらぬ ひげ掻き撫でて 我をおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 有りのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 我も作れるを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけ下がれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 竈には 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く 事も忘れて 鵼鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 云へるがごとく 楚取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道(万892)
(引用・参考文献)
稲岡1976. 稲岡耕二『万葉表記論』塙書房、昭和51年。
大久保1998. 大久保廣行『筑紫文学圏論 大伴旅人筑紫文学圏』笠間書院、平成10年。
澤瀉1960. 澤瀉久孝『萬葉集注釈第五巻』中央公論社、昭和35年。
胡1998. 胡志昂『奈良万葉と中国文学』笠間書院、1998年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中』塙書房、昭和39年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
多田2009a. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣『万葉集全解Ⅱ』筑摩書房、2009年。
谷口2000. 谷口孝介「吉田宜の書簡と歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻 大伴旅人・山上憶良』和泉書院、2000年。
中西1996. 中西進『中西進万葉論集 第五巻 万葉史の研究(下)』講談社、1996年。
藤原1985. 藤原芳男「梅花ノ歌と員外思二故郷一歌」『国語と国文学』第62巻第12号、昭和60年12月。
松田2015. 松田浩「梅花の宴歌群「員外」の歌─大伴旅人の〈書簡〉の中で読む─」『文学』第16巻第3号、岩波書店、2015年5月。
員外、故郷を思ふ歌両首〔員外思故郷歌兩首〕
我が盛り いたくくたちぬ 雲に飛ぶ 薬食むとも また変若ちめやも〔和我佐可理伊多久々多知奴久毛尓得夫久須利波武等母麻多遠知米也母〕(万847)
雲に飛ぶ 薬食むよは 都見ば いやしき我が身 また変若ちぬべし〔久毛尓得夫久須利波牟用波美也古弥婆伊夜之吉阿何微麻多越知奴倍之〕(万848)
番外、故郷を思う歌両首
わが命の盛りもすっかり衰えてしまった。雲の上まで飛び行くほどの仙薬を服したとしても、若さが戻ってくることなどどうしてあろう。
雲の上まで飛び行くほどの仙薬を服すよりは、都を一目見るなら、この賤老のわが身も再び若返るに違いない。(多田2009.239頁)
仙薬があって、「雲に飛ぶ」ことができるということになっている。抱朴子などに記述がみられるという(注2)。万葉集の歌の理解に、中国文学の知識を外注して解こうとしている。万葉集の歌そのものを、歌の詞に使われているヤマトコトバのありさまから理解しようと試みることから逃げている。その結果得られた解釈では、「思二故郷一」という題詞のもとに「両首」とまで断って緊密な関係にあるはずの二首の歌を、字句の連携しか見出せずにばらばらにしか理解できていない。問題となるのは、「雲に飛ぶ薬」とは何か、「変若つ」ということと整合性が保たれるか、「いやし」の意味はどういうことか、といった点である。
「雲に飛ぶ薬」は、それを飲めば空中を飛ぶことができるという仙薬のことであると考えられているが、我が国でそのようなものが実物として、また、観念として通行していたか、定かでない。「雲に飛ぶ薬」という言い方はここにあげた歌に限られていて、一般的な語彙にはなっていない。一般的になっていないということは、歌に歌っても聞く人はわからないということである。中国においても、空中を飛ぶことと若返りとが密接に関係することとして考えられていたわけではない。雲のように飛ぶからといって若返りにつながることは想念として考えにくい。老若を問わず鳥は飛び、老若を問わず人は飛ばない。
万葉集の歌は題詞によって枠組まれている。「故郷を思ふ」と掲げた歌が二首あるなら二首とも、「故郷を思ふ」ことと関係があるはずである。そんななか、「故郷」と「変若つ」ということの間、また、都を見たら若返るということと「故郷」との間はどのような関係になっているのか、まったくわかっていない。作者の「員外」を大伴旅人とする説では、都は平城京のこと、そこが彼の「故郷」で、今、遠く離れた筑紫の地で都を思っているものとされている。「いやしき我が身」(注3)は旅人が謙遜して言っているのだとされている。
これでは何もわからない。そもそも歌としておもしろくない。おもしろくないものは聞かれないから歌われず、歌われないから記録されない。記録されているということは当時の人たちが聞いておもしろくてよくわかるものであったのだろう。「員外」と題詞に明記されているのに大伴旅人のことだと邪推せず、素直に受け取ることが求められている。
大伴旅人作とする説の根拠としては、歌の文字法が旅人のそれに忠実である点、また、巻三所載の旅人の次の歌との近しさがあげられている。
わが盛り また変若ちめやも ほとほとに 奈良の都を 見ずかなりなむ(万331)
わが命の盛りがまた再び戻ってくることなど、どうしてあろう。ほとんど奈良の都を見ずに終わることになってしまうのだろうか。(多田2009a.280頁)(注4)
この歌を下敷きにして「員外」の歌は作られているように見える。その場合、同じ旅人が作る可能性もあるが、他の誰かが作る可能性もある。二首目の方に「いやしき我が身」とある「いやし」は、ひどく汚く貧しく、みすぼらしい、いやしい、の意で、蔑視や卑下の対象についていう言葉である。直接的に下賤の者、貧乏人のことを指すだけでなく、自分のことを卑下していう場合もある。「員外」=旅人説は後者の意にとっている。大久保1998.は、「員外」の歌に都と「いやし」との対比を見出している。金光明最勝王経音義に「鄙 伊也之」、新撰字鏡に「鄙 補鮪反、悪也、恥境也、野也、羞愧也。伊也志」と見え、「穢しきかな、鄙しきかな」(神代紀第五段一書第十一)ともあって、ヒナを表す「鄙」字を「いやし」と訓んでいる。都会風に洗練されたものと対極をなす意識から用いられた点を重視した用字であると指摘するのである(注5)。そこで、もともとは故郷である「奈良の都」にいた大伴旅人が大宰府に長くいて、「いやしき我が身」に成り下がっているというのである。
この捉え方は矛盾を孕んでいる。そういう考えを披露するとき、相手となるのは都にいる人たちであろう。都の人に対して鄙にいることが「いやし」いことになっていると自嘲的に言うことはできる。だが、同じ鄙の地、大宰府やその管轄地域にいる人たちの間で、自分は鄙にいて「いやし」いと言っても仕方がない。聞いている人たちも皆、「いやし」いことになってしまう。謙遜、卑下に当たらず、蔑視する選民思想のような驕りが感じられる。旅人は太宰帥という立場にある。こんな田舎は嫌だという素振りを見せたら、たちまち部下は離心してしまうだろう。歌詠みに来ているのではなく、仕事で赴任している。
「いやし」と聞けば、何はさておき、貧しいこと、身分が低いことと受け取られよう。「員外」の人が大宰府で臨時雇用した役人であるなら、その人が歌を詠むときに「いやしき我が身」と歌うことに不自然さはない。身分が低く貧しいその人が「故郷」でどういう境遇にあったか考えてみれば、「楚取る里長」(万892)に責め立てられている情景が思い浮かぶだろう(注6)。フルサト(故郷)という言葉からは、サト(里)でむちをフル(振)ことをされた辛い記憶がよみがえるのである。里長は徴税官の側面を持っていて、貧乏人から重い税を巻き上げていた。そのため食べるに事欠いた暮らしをしていた。つまりは、仙人が霞を食べて生きているようにひもじい暮らしを迫られていた。霞は「雲に飛ぶ」ものに打ってつけである。
ただこれだけの理解によって、歌の様相は大きく変わり、ものの見事にはっきりする。
員外、故郷を思ふ歌両首
役所で臨時雇いしている下働きのアルバイトが、ふるさとのことを思う歌、以下のふたつとも。
我が盛り いたくくたちぬ 雲に飛ぶ 薬食むとも また変若ちめやも(万847)
私は年の盛りを過ぎてひどく衰えました。だからといって若いころ故郷で暮らしていて、里長に責め立てられていたときのように霞を食べるとしてまた若返りたいかと言われれば、とんでもない、若返りたくなどありません。
雲に飛ぶ 薬食むよは 都見ば いやしき我が身 また変若ちぬべし(万848)
食うや食わずで、まるで仙人のように霞を食べるよりは、都を見たら、貧乏人でいやしく冴えない私とて、また若返ること間違いなしです。どうか都へ戻る時は一緒に連れて行ってください。
「思二故郷一」とは、故郷を思い出すと悪夢がよみがえるというものであった。地方の役所で下男として仕えるしかない身の上の人は、宴でも下働きをする「員外」の人である。都で採用されて大宰帥に任ぜられた大伴旅人に従って筑紫へ来たわけではなく、現地任官した人である。九州のどこか、その人の故郷へ帰れば、貧乏な小作人の家のまま、再びあの里長の責め立てが始まるから、とてもではないが若い時分の境遇には戻りたくない。貧乏人の身の上からすれば、そんなことよりも、どうか都へ連れて行って頂けたら、きっと若返るに違いない、そうして頂けませんか、と言っている。
この歌のおもしろみは、中国かぶれの仙人の考え方を耳にしているけれど、そもそもどうして若返りたいんだ、あんな過酷な生活へ逆戻りしろと言うのか、そんなことはまっぴら御免だ。仙薬とはまさに仙人が食べる霞のようなひもじいばかりのもの、定年だから故郷へ帰りなさいなんてむごいことを言わないで、都へ連れて行っておくんなさいまし、と懇願しているところにある。そして、「いやしき我が身」は、そんな在地の人の発言ならではの重さを持ってくる。「いやし」が貧しくていやしいことと、都から遠く離れて文化的にもいやしいことの二通りを兼ねることになっている。
従来の解釈で、「員外」とあるのに主人である大伴旅人の歌であると曲解していた。「雲に飛ぶ薬」を「空を飛ぶ薬」と無理に読み替えて霊験あらたかな仙薬のことと誤解していた。「いやし」の意味を、この歌と関係があるのか根拠も薄弱なままに、吉田宜に対する大伴旅人の謙遜と取り違えていた。
万葉集は歌われた歌を書き残したものである。題詞と歌が書いてあるなら、歌われた状況設定が枠組みとして記されていて、歌の理解に欠かせないことになっている。当たり前のことだが、その題詞が括る範囲は該当する歌に限られる。万葉集の編者はそうやって歌の内容がきちんと伝わるように書き記している。我々は、題詞と歌とを読むことだけで理解するように努め、そのまま受け取ることができる限りにおいては雑念なくそう受け取らなくてはならない。国語の読解の基本だからである。ところが、そうは受け取らずに枉げるにまかせて中国文学との関係を騒ぎ立て、大伴旅人の都への郷愁が歌にこめられているとあげつらい、梅花歌の宴の歌会と一連のもとに据えて推し量るようなことが行われてきた。研究者たちはいったい何がしたくて、何をしようとしてきたのだろうか。
(注)
(注1)多田氏は、今日有力視されている見方に従って、梅花の宴の歌の付録の意としている。通説では、この「員外」は、梅花歌三十二首以外の歌、あるいは、梅花宴に参加しなかった人の歌といった意味合いにとられている。この誤読には際限がなく、「「員外」は、つまらない歌の意。後世の例だが、『拾遺愚草』に「員外雑歌」とある。謙遜の辞。」(新編全集本49頁)とあったり、大伴旅人が卑下して称しているとする考えが横行している。原文の「文字表記からすれば、旅人と考えられる」(稲岡1976.334頁)など、理論的な補強まで得ている。藤原1985.は、「梅花歌丗二首」、「員外梅花歌両首」ならまだしも、内容が異なる歌に「員外」と記すはずはないと断じている。そこでは、歌の作者の役職名であるとしている。新大系本は、「「員外」は「いやしき我が身」(八四八)の表現がふさわしいような卑官の人。」としつつ、「旅人が卑官の立場に立って詠んだものと見られる。」(477頁)とみている。
しかし、梅花歌の宴で下働きに働いたアルバイトの歌を書き記すとき、採録者の旅人が「員外」を記したとすれば、すべての思惑は外れるであろう。歌のなかに「いやしき我が身」とあることにも自然とつながる。「員外」の人でなければ歌えない歌を歌っているのではないかと、まずは考えてみるべきではないか。
(注2)小島1964.には、「抱朴子にみえる、金丹を「黄帝服レ之、遂以昇仙」(金丹篇)、或は仙薬を得て「飛行長生」(仙薬篇)した記事(或は淮南子にみえる、不死の薬を盗んで月の世界に走つた姮娥の有名な話)などの、種々の記事によつたものとみるべきである。」(936~937頁、漢字の旧字体は改めた)とある。胡1998.には、「「雲に飛ぶ薬」の出典については、……神仙伝に見える淮南王の説話によるものであろう。歌のなか歌人は、仙薬より京師のほうがわが身を若返らせるに違いないと歌い、京師への思慕を最大限に誇張する。これは、もとより仙薬を否定するものではなく、仙薬を価値あるものとした上で更に京師を強調するためのレトリックであり、漢詩文によく見られる手法である。」(193頁)とある。新大系本には、「仙薬を服して昇天し、あるいは不老長寿を保ったという神仙説話に基づく。仙童から五色の丸薬をもらって服すると、胸に羽翼が生え、「軽挙すれば風雲を生じ、倏忽として万億を行く」(魏・文帝「郵仙」・芸文類聚・仙道)。」(477頁)とある。澤瀉1960.は、抱朴子の「服二神丹一、令下人寿無二窮已一、与二天地一相畢、乗レ雲駕レ龍上中-下太清上。」(内篇・金丹)を引いている(150頁)。
(注3)小島1964.に、「「いやしきあが身」も「微身」(遊仙窟に「卑微」、「賤客」の例があり、遊二於松浦河一序にも「微者」の例がみえる)などの飜訳語とみなすべきであらう。」(937頁、漢字の旧字体は改めた)とある。大久保1998.も謙遜表現であると考えられている。
(注4)この歌が歌われた背景については、拙稿「大宰府における長屋王の変関連歌(万328~335・955~956)について」参照。
(注5)新撰字鏡には他に、「傍下 鄙人也、諸人之下座人也、賤人也」、「侮 亡甫反、上、猶軽慢也、賤、伊也志、又阿奈止留、又志乃久」ともある。万葉集では、「賤しけど吾妹が屋戸し思ほゆるかも」(万1573)、「葎延ふいやしき屋戸も」(万4270)、「倭文手纏賤しき吾が故」(万1809)などとあり、みすぼらしい、貧しい、身分や地位が低い、の意に用いられている。「いやし」という語だけで、都鄙の対立によって雅ではないことを示す例は知られない。
(注6)貧乏の歌の代表格に山上憶良の貧窮問答歌がある。念のために引用しておく。
風雑り 雨降る夜の 雨雑り 雪降る夜は すべもなく 寒くしあれば 堅塩を 取りつづしろひ 糟湯酒 うちすすろひて しはぶかひ 鼻びしびしに 然とあらぬ ひげ掻き撫でて 我をおきて 人はあらじと 誇ろへど 寒くしあれば 麻衾 引き被り 布肩衣 有りのことごと 着襲へども 寒き夜すらを 我よりも 貧しき人の 父母は 飢ゑ寒ゆらむ 妻子どもは 乞ふ乞ふ泣くらむ この時は いかにしつつか 汝が世は渡る 天地は 広しといへど 我がためは 狭くやなりぬる 日月は 明しといへど 我がためは 照りやたまはぬ 人皆か 我のみや然る わくらばに 人とはあるを 人並に 我も作れるを 綿もなき 布肩衣の 海松のごと わわけ下がれる かかふのみ 肩にうち掛け 伏廬の 曲廬の内に 直土に 藁解き敷きて 父母は 枕の方に 妻子どもは 足の方に 囲み居て 憂へ吟ひ 竈には 火気吹き立てず 甑には 蜘蛛の巣かきて 飯炊く 事も忘れて 鵼鳥の のどよひ居るに いとのきて 短き物を 端切ると 云へるがごとく 楚取る 里長が声は 寝屋処まで 来立ち呼ばひぬ かくばかり すべなきものか 世間の道(万892)
(引用・参考文献)
稲岡1976. 稲岡耕二『万葉表記論』塙書房、昭和51年。
大久保1998. 大久保廣行『筑紫文学圏論 大伴旅人筑紫文学圏』笠間書院、平成10年。
澤瀉1960. 澤瀉久孝『萬葉集注釈第五巻』中央公論社、昭和35年。
胡1998. 胡志昂『奈良万葉と中国文学』笠間書院、1998年。
小島1964. 小島憲之『上代日本文学と中国文学 中』塙書房、昭和39年。
新大系本 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系1 萬葉集一』岩波書店、1999年。
新編全集本 小島憲之・木下正俊・東野治之校注・訳『新編日本古典文学全集7 萬葉集②』小学館、1995年。
多田2009a. 多田一臣『万葉集全解Ⅰ』筑摩書房、2009年。
多田2009b. 多田一臣『万葉集全解Ⅱ』筑摩書房、2009年。
谷口2000. 谷口孝介「吉田宜の書簡と歌」神野志隆光・坂本信幸編『セミナー万葉の歌人と作品 第四巻 大伴旅人・山上憶良』和泉書院、2000年。
中西1996. 中西進『中西進万葉論集 第五巻 万葉史の研究(下)』講談社、1996年。
藤原1985. 藤原芳男「梅花ノ歌と員外思二故郷一歌」『国語と国文学』第62巻第12号、昭和60年12月。
松田2015. 松田浩「梅花の宴歌群「員外」の歌─大伴旅人の〈書簡〉の中で読む─」『文学』第16巻第3号、岩波書店、2015年5月。