ヤマトコトバを表記するのに、漢字の音読みや訓読みを当て字として用いたものを、万葉仮名と呼んでいる。万葉集の歌は、原文で、「籠毛与 美籠母乳 布久思毛与 ……」(万1)と始まるが、「籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ ……」と現代に通じるように漢字仮名混じり文に改められている。最初の「籠」という字は意味を伝えても、次の「毛」という字はただ音を伝えるだけである。音読みのモウからモとよむ。この歌には、「根」という字の訓読みからネとよんでいる。前者を「音仮名」、後者を「訓仮名」と呼び、そろえて「万葉仮名」と称している。音を借りているだけで、字の意味はとらないという約束である。
本稿では、その「音仮名」と「訓仮名」の境界線にひそむ闇について考える。たくさんの万葉仮名があるから、本来ならたくさん考えなければならないところであるが、筆者は、“闇”について気づいた点を述べる。いわゆる音仮名といわれるものと、訓仮名といわれるものの境目の曖昧さについて見てみたい。考察するためのベースとして、矢島2011.に作成の、古事記において用いられている単音節を表す音仮名一覧表を用いる。矢島氏は、記に使われる音仮名の使用頻度に着目して考究されている。本稿では頻度については特に考慮せず、音仮名をただ網羅する。片仮名の後に甲乙とあるのは、上代特殊仮名遣いの区別を指している。
ア(阿)、イ(伊)、ウ(宇、汙)、エe(愛、亜)、オ(意、淤、於、隠)、カ(加、迦、訶、甲、賀、可)、ガ(賀、何、加、我)、キ甲(岐、吉、伎、棄)、ギ甲(芸、岐)、キ乙(紀、貴、幾、記、疑)、ギ乙(疑)、ク(久、玖)、グ(具)、ケ甲(祁)、ゲ甲(下、牙)、ケ乙(気)、ゲ乙(宜、気)、コ甲(古、高、故)、ゴ甲(胡)、コ乙(許)、ゴ乙(碁、其)、サ(佐、沙、左)、ザ(耶、奢)、シ(斯、志、師、紫、色、新、芝)、ジ(士、自)、ス(須、州、主、周)、ズ(受)、セ(勢、世)、ゼ(是)、ソ甲(蘓、宗、素)、ソ乙(曽)、ゾ乙(叙、存)、タ(多、当、他)、ダ(陁、㐌、太)、チ(知、智)、ヂ(遅、治、地、知)、ツ(都、豆)、ヅ(豆)、テ(弖、帝)、デ(伝、殿、弖)、ト甲(斗、刀、土、兎)、ド甲(度)、ト乙(登、等、杼)、ド乙(杼、縢、騰)、ナ(那)、ニ(迩、尓、仁)、ヌ(奴)、ネ(泥、祢、尼)、ノ甲(怒、濃、努)、ノ乙(能、乃)、ハ(波、婆、芳、貝)、バ(婆、波)、ヒ甲(比、卑)、ビ甲(毗)、ヒ乙(斐、肥)、ビ乙(備)、フ(布、賦)、ブ(夫、服)、ヘ甲(弊、幣、平)、ベ甲(弁)、ヘ乙(閇、倍)、ベ乙(倍)、ホ(富、本、番、菩、蕃、品)、ボ(煩)、マ(麻、摩)、ミ甲(美、弥)、ミ乙(微、味)、ム(牟、武、无)、メ甲(売、咩)、メ乙(米)、モ甲(毛)、モ乙(母、木)、ヤ(夜)、ユ(由)、エje(延)、ヨ甲(用)、ヨ乙(余、与、豫)、ラ(良、羅)、リ(理)、ル(流、琉、留)、レ(礼)、ロ甲(漏、路、楼、廬)、ロ乙(呂、侶)、ワ(和、丸)、ヰ(韋)、ヱ(恵)、ヲ(袁、遠)(注1)。
古事記には、この一覧表にある音仮名ばかりでなく、訓仮名といわれるものもある。万葉集と同様である。日本書紀の歌謡の場合、すべて音仮名で表記されていることになっている(注2)。必然的に、紀のほうが記よりも音仮名の種類は多い。そんななか、記にあって紀にはない音仮名もある。一覧表を基準にしてみると、次のようなものがあげられる。
エe(愛、亜)、オ(隠)、ガ(何)、キ甲(伎)、ギ甲(岐)、ゲ乙(宜)、コ甲(高)、ゴ乙(碁、其)、ザ(耶、奢)、ス(州)、ゼ(是)、ソ甲(宗)、ゾ乙(存)、タ(他)、ヂ(地)、デ(伝、殿)、ド乙(縢)、ノ乙(乃)、ビ甲(毗)、ホ(本、番、菩、蕃)、ム(无)、メ乙(米)、ル(琉)、ロ甲(路)、ワ(丸)、ヲ(袁)
このうち、音の清濁によっては紀に見られる例として、「伎」はギ甲類、「岐」はキ甲類でよんでいる。偏などの追加削除変更で紀に見られる例として、「州」に近い「洲」をスとよんでいる。そういった例を除き、記に特有の音仮名の文字をあげると次のような例がある。
「愛」、「亜」、「隠」、「何」、「宜」、「高」、「碁」、「其」、「耶」、「奢」、「是」、「宗」、「存」、「他」、「地」、「伝」、「殿」、「縢」、「乃」、「本」、「番」、「菩」、「蕃」、「无」、「米」、「路」、「丸」、「袁」
居酒屋看板
問題は、古事記には音仮名以外に訓仮名があり、解釈を混乱させる点である。今日、「坐・和民」と看板が出ていれば、それはきっと「The 和民」をもじった店名のつけ方であろう、だからタイトルバックに za・watami とあって、車座に坐って飲める居酒屋で、ざわざわ感が出ていて宴会にもってこいであろうとわかる。つまり、「坐」の字は音仮名でザとよむに違いないと思っている。ところが、記に「坐」は訓仮名であり、ヱとよむ。据える意味の自動詞形が座るだから、古語に「すゑ」、そこから頭を略してヱに当てている。「額田部湯坐連」(記上)という人名の、「湯坐」をユヱとよむ。貴人の出産の際、産湯をつかわせる仕事をする人の意味である。もし古事記に「坐和民」とあったら、「和民に坐(いま)しき」の可能性も高いが、「ヱヤマトノオホミタカラ」、ああヤマトの国の人民たちよ、の意かもしれないのである。
上に例外とした「洲」について、日本書紀にスとよむのは、紀のなかで音の表記に音仮名を採用している傾向から、字音からスとよんでいると思っている。「州」は紀でツである。そういう万葉仮名ということになっている。「汶洲王(もんすわう)」(雄略紀二十一年三月)、「弥州流(みつる)」(神功紀四十六年三月)、「州流須祇(つるすき)」(神功紀四十九年三月)、「州利即爾将軍(つりそにしゃうぐん)」(継体紀七年六月)、「州利即次将軍(つりそししゃうぐん)」(継体紀十年九月)などとある。けれども、ヤマトコトバに川の中洲をいう洲は、スである。紀でも人名表記の「日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)」(景行前紀)は、字訓づらをしている。「日」「葉」「媛」「命」、みな訓読みである。この人は、「日葉酢媛命」(垂仁紀十五年八月)と同一人物である。「洲」=「酢」をスとよむのは、「訓仮名」に当たるように思われてならない。ましてや、「洲」や「州」という字をスと古事記や万葉集などでよんだ場合、それをはたして「音仮名」であると言い切れるのか、疑問ということになる。
「す」看板(深川江戸資料館「江戸の看板」展展示品、木下大門氏蔵)
同じことは、記紀万葉に使われる「母」をモとよむ場合にもいえる。日本書紀では音仮名と言えても、古事記や万葉集では、母親のことを意味するオモというヤマトコトバに多くを負っているのかもしれない。漢字のよみ方のアンチョコ記憶法として、「母」→オモ→モという語呂合わせ記憶法があったかもしれないことは誰も否定できない。筆者は、ここに、「音訓仮名」という新しい概念定義を導入したい。音韻論にそういうことを論じたことがあるのか知らないが、漢字の成り立ちに関して会意兼形声文字というのがあるように、仮名に「音訓仮名」があって何ら不思議ではない。「洲(州)」という字が、字音(ス)と字訓(す)にたまたまであろうが一致をみて、ヤマトの人がそれに興味を持つことはけっして不自然なことではない。catalog に「型録」、dictionary に「字引く書也」と日本語を当てた先人のことを彷彿させる。
別の例をあげよう。「米」という字は、字音のメイからメとよむから音仮名であるとされている。けれども、ヤマトコトバにコメ(米、メは乙類)と呼ばれるものは、いつからコメと呼ばれるようになったのか。稲作が始まってからということであろうから、縄文時代晩期以降ということであろう。たかだか2000年ぐらいにすぎない言葉らしい。それでもコメと言っているからには、記に「米」とあるのが字音ばかりではなく、字訓のコメの後ろの発音に依っている可能性も捨てるわけにはいかない。紀ではメ乙類に「米」字は使われず、記には見られない「迷」字を使っている。太安万侶が何かを思って「迷」字を避けて「米」字を使ったのか、あるいは逆に、日本書紀編纂者が万葉集にも使われる「米」字を避けて「迷」字を使ったのか、聞いてみなければならない。日本書紀の音仮名指向からすれば、メ乙類に確実な字音でありつつ字訓ではない「迷」を意識的に選択したとも考えられる。
他の例として、「隠」という字は字音のオンからオとよむから音仮名であるとされている。けれども、ヤマトコトバにオニ(鬼)と呼ばれるものは、この「隠」の字音が言いづらいから on → oni というようになったとする説がある。和名抄に、「人神 周易に云はく、人神を鬼〈居偉反、和名は於邇(おに)。或説に云はく、於邇(おに)は隠奇(おんき)の訛れる也といふ。鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称す也〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は◆(「幾」字の「人」の代わりに鬼、魕の異体字)〈音は蟻、又、音は祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神の魂也といふ。」とある。語源というものはもはや辿ることはできない。辿ることはできないが、当時の人の語源感覚のようなものが垣間見られる。オニ(鬼)という言葉が「隠」という字と関わりがあると思って早くから馴染んでいたとするなら、ヤマトコトバのオニの頭一音をとってオとよむべく、仮名として使われたと考えることができる。その正否はわからないが、仮定の上ではこういった例は、やはり一種の「音訓仮名」であると認められることになる。以上は話の前座である(注3)。
筆者の主張は、文字→言葉というこれまでの議論に修正を迫るものである。古代の人は、考え方として、言葉(音)→文字として仮名文字を考え書いたのであろうと考える。ワープロソフトに慣れてしまうと、文字→言葉という枠組みから抜け出せなくなる。しかし、俳句を捻っている人を見ていると、ぼそぼそと口ずさみながら指を折って数えている。進行方向は、確実に言葉→文字である。それが推敲の段階になると、文字→言葉へと返ってくる。俳句の先生の添削は、その両方向を同時進行で行う高度な言語活動である。万葉仮名の研究は、書き表されたテキストを分析的に取り扱うため、文字→言葉ばかりを俎上に載せることになる。けれども、最初の、文字に写し取る段階では、言葉→文字の過程があったはずである。もともとは文字がなかったのだから間違いない。言葉と文字の間の往ったり来たりの思考を無視しては、古代の人々の言語活動に関して、総合的な全体像をうかがうことはできない(注4)。
紀歌謡の表記は、一字一音の音仮名表記に限られる。定説であり、その通りであろう。けれども、いろは47文字、あいうえお50音に、それが平らな音、上っていく音、下がっていく音などと声点のような意識があったとしても、1つの音シに、子、之、芝、伺、嗣、斯、志、思、時、詩、師、旨、指、始、施、絁、矢、玆、試、資、辞、尸といった数多くの漢字を用いたのはなぜであろうか。用いていけないのではないし方針は貫かれてはいる。ただし統制がとれていない。その点に着目しなければならない。言葉→文字のことを考えないと肩透かしをくらうことになる。
ここでは、「乃」と「杼」について考える。
「乃」の音は、呉音でナイ、漢音でダイである。これが、ヤマトコトバのノ乙類に当てられている。咍韻で上古音に nəŋ といった発音であったからとされている。大野1962.には、「乃は古層の仮名で、奈良時代を通じて常用され、平安時代では片仮名・平仮名の字原となつてゐる。……ノ乙の仮名に適する〔咍〕韻泥母の字の内で最も少画の普通字乃がノ乙の最古の常用仮名に用ゐられる様になつたのは不思議ではない。」(175頁。漢字旧字体は改めた。)とある。ノ乙類は、紀では、「能」、「廼」という字で表わしている。万葉集では、「乃」、「能」以外に、訓仮名として、「箆」、「笶」、「荷」といった字が用いられている。矢の柄のことを「の(ノ乙類)」といったことや、「荷(に)」の古形が「の(ノ乙類)」だからその字を当てている(注5)。
筆者は、日本書紀に「乃」字が見られない点に不審をいだいている。古事記や万葉集で頻りに登場する「乃」字が、日本書紀の歌謡表記で「音仮名」として採用されなかったのには、ノ乙類に確実な字音とは確定しきれないものと捉え、「乃」字を意識的に排除したとも考えられる。すなわち、古事記でノ乙類の「乃」字は、上に提示した「音訓仮名」に当たるものではないかと考える。ヤマトコトバの「の(ノ乙類)」とは、代表的な言葉として、連体助詞の「の(ノ乙類)」がある。岩波古語辞典の詳細な解説を用例を省いて引く。
の 「つ」「が」に比較して用例も多く、用法も広い。しかし、連体助詞としての「の」の最も基本的な意味は、「右の歌」「須磨の海人」などのように存在の場所を示すことにあると認められる。これは現代ならば「…にある」というところである。この用法から転じて、行為・生産の行なわれる場所を意味し、そこから転じて、生産者・作者を意味する用法が発展した。一方、存在する場所を示す用法から、所有する人を意味した。また、所有と所属とでは、力の関係は逆であるが、古代的心性の表現としては、所有することと所有されることとはしばしば混同されたので、「の」にも所有と並んで所属の用法が存在する。また、古代的心性においては、所属しているということは、その所属しているものの属性を保持していることでもあるので、「の」は、属性を持つことを示す用法を展開した。「あはれの鳥」は、「あはれ」に所在する鳥、つまり「あはれ」に所属する鳥であり、「あはれ」という属性を保有する鳥である。こうした属性を示す用法から、「一杯の濁れる酒」「千万の軍」など、体言を修飾限定する「の」の用法が発展し、さらに「朝露の如、タ霧の如」のように、「ごと」(同一の意)を修飾する用法もあらわれている。なお、存在の場所を示す「吉野の山」のような用法から、「大和の国」のように、命名・指名の用法(「…という」と訳される)が現われ、「わが背の君」のような資格を示す用法に広まった。このようにして、「の」は「…にある」意から起り、「…である」と属性を示す用法に広まり、「…という」と資格を示す用法を併せ持つようになった。(1443頁)
「古代的心性」について筆者も同意見である。その部分に次のような用例があげられている。
み船さす賤男の伴は川の瀬申せ(万4061)
初春のはつねの今日の玉箒手にとるからにゆらく玉の緒(万4493)
くれなゐの色も移ろひ(万4160)
聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれの鳥といはぬ時なし(万4089)
「賤男の伴」を「伴の賤男」と言い換えても言い換えられそうである。「今日のはつねの初春の」でもかまわない気がする。つまり、ノという助詞、「AのB」は、本来的に、含み含まれる関係で、「A⊃B」でありつつ、「A⊂B」であるようなことになっている。これは、相即、「A=B」であること、つまるところ、「すなわち」ということである。漢文では、「乃」という字を使うことがある。とすると、「乃」という字は、字音をもってノ乙類に当てた音仮名であるといえるばかりでなく、字訓をもってノ乙類に当てた訓仮名であるとも言えるのである。これを、筆者は上に「音訓仮名」と称した。
矢島2011.の、古事記の音仮名の複用の研究では、ノ乙類には、主用仮名の「能」字362例に対して、「乃」字3例は非-主用仮名とされ、「必ずしも理解が容易とはいいがたい面」のある個所に、文節の区切りとなる指標として「連体助詞ノと結合度の高い非-主用の「乃」に着目」(127頁)させるために置かれているとする。前提として、古事記では、連体助詞ノにほとんど「能」が使われているからという。
上で筆者は、連体助詞ノの究極的なあり方は、「AのB」が、「A⊃B」∧「A⊂B」⇒「A=B」であると考えた。記の用例は次の3例である。
「次、意富斗能地神。次、妹大斗乃弁神。(次に、意富斗能地神(おほどのぢのかみ)。次に、妹大斗乃弁神(おほとのべのかみ))。」(記上)
「阿麻陁牟加流乃袁登売(天(あま)だむ 軽(かる)の嬢子(をとめ))」(記83)
「麻岐牟久能比志呂乃美夜波阿佐比能比伝流美夜(纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮)」(記99)
第1例は、「此二神名亦以レ音。」と分注がついていながら、「大」字はオホと訓じているから、必ずしも「以レ音」ではない。わざとらしい洒落が効いている。矢島2011.は、「素知らぬふり」(271頁)と表現する。「意富斗能地神」の助詞ノに「能」、「大斗乃弁神」の助詞ノに「乃」とある。「乃」が純粋に「音」であるとは限られないことを示唆しつつ、「オホト⊃ベ(ヘ)」∧「オホト⊂ベ(ヘ)」⇒「オホト=ベ(ヘ)」であることを表しているのではないか(注6)。オホトノヘ(ホ、ノは乙類、ト・ヘは甲類)は、「大戸の重」、立派な戸の外のこと、ヘ甲類は隔てになるものの意である。大きな戸は隔てとなるものであるに決まっている。ト甲類(戸、門、外)とヘ甲類(重、辺)とは同義語関係にある。だから、「乃」字の本義に適っている。対するオホトノヂ(チ)は、「大戸の内」のことと捉えることができるが、その場合、ト(戸、外)とチ(内)とは反対語関係になるから、「乃」字の意に当たらず使いたくなくなる。
この伝でいくと、第2例目の「加流乃袁登売」とは、「カル⊃ヲトメ」∧「カル⊂ヲトメ」⇒「カル=ヲトメ」であると自明であることを、「乃」字によって表しているということになる。垂仁紀八十七年条に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)が歳をとったから、石上神宮の神宝を管掌することができなくなった。ついては、妹の大中姫命(おほなかつひめのみこと)よ、あなたが代わりを務めてくれ、と頼む場面がある。兄妹なのだから、どっこいどっこいで年老いている。大中姫命は、「吾は手弱女人(たをやめ)なり。何ぞ能く天神庫(あめのほくら)に登らむ」と言って固辞している。女性が年齢を重ねると、腕力が弱くなるばかりではなく、メタボな体型になって懸垂はできないということでもあろう。逆に言えば、若い未婚女性は身軽なのである。また、ヲトメという語は、特に宮廷に仕える若い官女のことにもいう。指図すればすぐに立ち働いてくれる女性である。腰の重い、なかなか言うことを聞かないお局様とは異なる。だから、言葉の上で、カルといえばヲトメが思い浮かび、ヲトメといえばカルが思い浮かぶ構図が成り立っている。「乃」字の本義に適っている。
第3例目の、「麻岐牟久能比志呂乃美夜」について、矢島2011.は、「<纏向の日代>=の=宮」ではなく、「纏向=の=<日代の宮>」(128頁)という固定、修飾する関係を示そうとしたものと推定されている。けれども、「夜麻志呂能都々紀能美夜(山代の筒木の宮)」(記62)という例があり、「<山代の筒木>=の=宮」なのか、「山代=の=<筒木の宮>」なのか、書き分けていない。そこでは太安万侶に固定する気がなかったといえばそれまでだが、そうなると、どうして「麻岐牟久能比志呂乃美夜」は固定したかったか説明されなければならない。反証に値する例であろう。
ここも上と同様に考えることができる。「ヒシロ⊃ミヤ」∧「ヒシロ⊂ミヤ」⇒「ヒシロ=ミヤ」である。神さまのいらっしゃるところは、ヤシロ(社、屋代)である。天皇、つまり、日の御子のいらっしゃるところは、ヒシロ(日代)である。それをミヤ(宮、御屋)とも称したから、両者は等価の語であって、互いに互いを説明する自問自答、互訓である。よって、助詞ノの本義に適った「乃」字を用いている。「ヒシロノミヤ(日代宮)」なる地名は、普通名詞の固有名詞化したもの、例えば、「京都」といっているのと同じである。「京の都」という場合、「京乃都」と記せば、太安万侶は我が意を得たりと慶ぶのではないかと思う。後ろに続く「阿佐比能比伝流美夜(朝日の日照る宮)」の場合、この部分の助詞ノは、「夕日の日照る宮」でもあり得て相即の関係にはならないから、「乃」字は用いずに「能」字を用いている。
この傾向が、古事記の他の「能」の用例の助詞ノにおいて、絶対に「A⊃B」∧「B⊂A」、よって「A=B」ではないのか、筆者は検証していない。古事記の表記論の方にご批判を賜わりたい。なお、万葉集の助詞ノの表記において、「乃」が使われる際、必ずしも相即の関係にはないことは、少し例をみればわかる。「奈加弭乃音為奈利(中弭(なかはず)の音すなり)」(万3)とある。音など、弓に限らずいくらでも転がっている。万葉集の「乃」字は、音仮名に堕している(注7)。
次に、「杼」について考える。呉音にヂョ、漢音にチョである。魚韻で dǐo のような発音がド乙類になる理由は、大野透1962.に、「杼は中間層の仮名である。〔魚〕韻舌音字が乙類オ列の仮名に適する様になつて、〔魚〕韻澄母では比較的少画で、古代では親しみ深い字であつた杼が、ド乙の常用仮名として用ゐられる様になつたのは不思議ではない。……杼の仮名の使用に漢韓の字音表記の影響は考へられない。」(172頁)と説明されている。古事記でどうしてわざわざそういう字を選んでいるのか、ひょっとして「音訓仮名」ではないかと疑ってかかってみる。「杼」の意味は、機織りに使う「梭(ひ、ヒは甲類)」である。杼(梭)とは、緯糸をおさめた道具である。張られた経糸を互い違いに上げ下げした間を、左に右に互い違いに通していって、織物を織りあげていく。和名抄に、「杼 通俗文に云はく、緯を受けるを䇡〈今案ずるに、即ち杼字也、比(ひ)〉と曰ふといふ。亦謂はく、之れを梭〈蘇禾反、莎と同じ〉といふ。説文に云はく、杼は機の緯(よこいと)を持する者也といふ。」とある。中に糸巻きが入っていて、船のような形をしている。
左:大きな杼(金沢千秋著、亀井協従挿絵・越能山都登、寛政12年(1800)、新潟県立図書館/新潟県立文書館・越後佐渡デジタルライブラリーhttps://opac.pref-lib.niigata.niigata.jp/darc/opac/switch-detail.do?idx=0(17/67)をトリミング)、右:梭の模型(3、滑石製機織具、群馬県前橋市上細井稲荷山古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
杼という道具を誰でも使うかといえば、そうでもない。機織りをする人しか手にすることはない。機織りができなければ嫁に行けないとされた地域もあるが、子だくさんであっても一家に何台も機があったとは考えにくい。特に、上質な布帛を織るためには熟練が必要である。専門の職工さんは、ハタ+オリの約から、ハトリと呼ばれている。「織部(はとりべ)」(応神紀二十二年九月)、「呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)」(応神紀三十七年二月)、「漢織(あやはとり)・呉織」(雄略紀十四年正月)、「……亦、呉服(くれはとり)の西素(さいそ)の二人を貢上(たてまつ)りき。」(応神記)などとある。ハトリのトは、仮名書きの例がないから甲乙を確定できないが、語構成からする音韻の法則から、トは乙類と推測されている。すると、ハトリという人は、ひょっとすると新種の「鳥(とり、トは乙類)」なのではないかと思えてくる(注8)。確かに、手先に操っている道具は杼である。新撰字鏡に、「杼䇡 同、除呂反、機持緯者絹織、比伊(ひい)」とあり、長く伸ばす音で示されていたこともあったらしい。上代のヒ(甲類)音は fi、いまに pi 音に近い。新撰字鏡のヒイは piː である。鳥が鳴いている。鳥が経糸の間を piːpiː 鳴きながら飛んでいる。仁徳記には、「売杼理(めどり(めとり))」(記66)とあり、女鳥王(めどりのひめみこ(めとりのひめみこ))の謂いである。鳥(とり)を仮名で表す際、「杼理」などと一度でも書いたことがあったら、その字面を見た人は、なるほどうまいこと書くなあと感心したことであろう。鳴き声のpiːpiː をも表している。そうなると、この「杼」という字は、はたして「音仮名」であると言い切れるか疑わしくなる。日本書紀では持統紀に、「土師連富杼(はじのむらじほど)」(持統紀五年十月)という人名がある。おそらくは「陰(ほど、ドは乙類)」というヤマトコトバの音のド乙類を「杼」字で表わそうとしたのであろうから、「音仮名」であると言って満足していて構わない。けれども、紀に「杼」字はここに限られる。古事記や万葉集には、「杼」字がたくさん出てくる。そして、ド乙類だけならまだしも、清音のト乙類に用いているケースがたびたび見られる。ピイピイ鳴く鳥が、アトリなのか、ニハツトリなのか、チドリなのか、ニホドリなのか、清濁どちらにでも対応可能な字音ヂョ、チョ両方を持っていることは当を得ている。このようなことを上代の人が考えたことがあったとしたら、それはもはや「音仮名」の範疇におさまると定め切ることはできない。「音訓仮名」であると主張したい。
纜(ともづな)の繰り出し(「器用貧乏な世界!」様「三方ローラーの修理」http://naock.jugem.jp/?eid=133)
ちなみに、機織りに使う杼は、船のような形をしていて、中の糸巻きから糸を出して行っている。糸は進行方向の後ろ側、船の船尾から出て行っていることに相当する。船尾から出すロープは、纜(艫綱、ともづな)である。船首が舳(へ)、船尾が艫(とも、トは乙類)である。上代語の接続助詞トモは、ト、ド、ドモなどと一緒に説明されている。再び、岩波古語辞典を用例を省いて引く。
とも 動詞型活用の終止形、形容詞型活用の連用形を承けて仮定条件を示し、下文に接続する助詞である。本来、指示する副詞の「と」と、不確実・不確定の意を表わす係助詞「も」の複合した語で、「と」が仮定の条件を指示し、それを「も」が承けて、「…ても」とその仮定条件すらも不確実であることを示す。その結果、終結部が、不確定判断で終止するものである。つまり、下に肯定の普通の終止が来ることはなく、放任とか、命令とか、意志、欲望、 推量、否定などの不確定な判断で終止する。なお、「既に…しているが…していても」と既に起ってしまった事を仮定形で述べる場合に使うこともある。この語法を修辞的仮定ということがある。……
ど・ども 活用語の已然形について逆接の既定条件を示す。これは、指示する副詞の「と」、またはその「と」に係助詞「も」のついた「とも」が已然形を承けて、条件を指示する用法が生じ、後にその「とも」の語頭が濁音化したものと思われる。「ど」と「ども」とのどちらが先に成立したかといえば、「ど」よりも「ども」の方が先に成立したものであろう。それは、この助詞は承ける用言の已然形の内容を否定する文章を導くのが役目であるから、そうした否定の役目を果すには、元来、指示する副詞の「と」だけでは不足で、その下に不確実・不確定・否定の意を表わす係助詞「も」を添える必要があったと思われるからである。それ故「ども」という濁音の語が成立した後になって、「も」が無くても逆接の条件を示しうるようになり、「ど」の形が成立したものであろう。……「ども」は已然形によって既に成立している条件から当然次に起る順当な結果とは逆の状態を導く。……当然、満足という結果が起るはずであるのに、「ども」が介入することによってその当然の結果を否定して、「不満足な今日だ」という句を導く。「ど」は「ども」と意味は全く同様である。(1455頁)
機織りの杼は、左に右に往き来することが繰り返される。右手から放たれたものを左手が受け取り、受け取ったらそれで終りではなく、足でもって綜絖を違えて経糸の上下を変え、今度は左手から右手方向へと反対に放つのである。これがほとんど永遠に続く。助詞のトモなどが、前にある已然形の言葉を承けつつそれを肯定するのではなく、逆になる言葉が続いていくのと同じ関係になる。反対へ送り返すのが杼なのだから、助詞ト・ドなどの用法と漢字「杼」とは対応関係にあると類推思考が働く。古事記の用例は、次の35例である。
蹈登杼呂許志(蹈み轟こし)(記上)
和杼理邇阿良米(我鳥にあらめ)(記3)
那杼理爾阿良牟遠(汝鳥にあらむを)(記3)
蘇邇杼理能(鴗鳥の)(記4)
袁佐閇比迦礼杼(緒さへ光れど)(記7)
袁登売杼母(媛女ども)(記15)
知杼理麻斯登々(千鳥真鵐)(記17)
那杼佐祁流斗米(など黥ける利目)(記17)
蠅伊呂杼(はへいろど(弟))(2)(神武記)
伊杼美(いどみ(挑))(崇神記)
阿礼波須礼杼(吾はすれど)(記27)
阿礼波意母閇杼(吾は思へど)(記27)
邇本杼理能(鳰鳥の)(記38)
美本杼理能(鳰鳥の)(記42)
伊耶古杼母(いざ子ども)(記43)
岐許延斯迦杼母(聞えしかども)(記45)
許々呂波母閇杼(心は思へど)(2)(記51)
意富々杼王(おほほどのみこ)(2)(応神記)
売杼理能(女鳥の)(記66)
佐賀斯祁杼(嶮しけど)(記70)
意富本杼王(おほほどのみこ)(允恭記)
志多杼比爾(下訪ひに)(記78)
加流袁登売杼母(軽嬢子ども)(記83)
阿加斯弖杼富礼(明して通れ)(記86)
都麻杼比(つまどひ(妻問))(雄略記)
袁杼比売(をどひめ)(3)(雄略記)
袁本杼命(をほどのみこと)(2)(継体記)
泥杼王(ねどのみこ)(欽明記)
須売伊呂杼(すめいろど)(欽明記)
助詞のド(ドモ)に6例、「鳥」に7例であり、また、piːpiː 鳴きそうな「子ども」、「軽嬢子ども」の例がそれぞれ見られる。計15例だけでは、古事記の「杼」の用字に上の類推が底辺にあったかどうか判断できない。他方、万葉集の歌の部分に使われる「杼」字では、助詞ト・ド(ドモ)に使われる例とそれ以外に使われる例は、それぞれ94例、69例であり(重出等は除く)、率にして57%ということになる。これを高い確率と捉えられるかについては、ヤマトコトバのト乙類、ド乙類全数を母数にして勘定しなけらばならない。ただ筆者は、この字を当初から選択的に用字した人の頭の中では、「音訓仮名」であったのではないかと考える。その後、ド乙類=「杼」と棒暗記した人にとっては、それは「音仮名」に堕したということであろう。
以上、万葉仮名の音仮名と訓仮名の間の闇について垣間見た。言葉を文字化する際に、奇妙な現象が起こった点について少しの例をあげた。あくまでも序論として垣間見たに過ぎない。なぞなぞのできる、洒落のわかる音韻論者の登場を俟ちたい。
ヤマトの人は、ヤマトコトバを熟成させておきながら文字を持たなかった。文字化しようとした時、よりによって隣国に表意兼表音文字の漢字を使う文明があり、それを借りることで文字化を達成した。そして、返り点を付けて外国語を読んでしまうことや、漢文風にヤマトコトバを表記することに成功している。日本書紀の漢文は、正格な漢文ではなく倭習であるといわれている。それは誤用というわけではない。ヤマトコトバを漢訳しようとしたのではなく、ヤマトコトバを表記して自民族に通用させようとしただけである。古事記や万葉集同様、何ら不都合なことはない。現在、記紀万葉を読む際には、ヤマトコトバを写し取った巧みさについて思いめぐらすことが大切である。往古の人たちの苦労を思うと頭が下がるばかりではないか。
(注)
(注1)矢島氏は、2音節以上の音仮名について別に検討している。古事記で地名のツクシ(筑紫)のことを「竺紫」と表しているのは、「竺」という2音節音仮名ツクによっている。当て字の意味を深謀すると面白いことがわかるが、本稿の主旨とは離れてしまうので別の機会に譲る。ここでは、いわゆる音仮名といわれるものと、訓仮名といわれるものの境目の曖昧さについて見てみたい。
(注2)なぜそうしたかについて、ここでは突っ込んだ議論は避ける。難訓とされる紀122番歌謡は明らかに訓仮名が混じっていると思うが、それについても別の機会に譲る。
(注3)オモ、コメ、オニといったヤマトコトバがいつ頃、どのように成り立ったかについてと、ヤマトコトバにおける漢字の文字採用との関係をも考慮しなくてはならない。朝鮮半島における吏読というよみ方のこともあわせて考えなければならないだろう。その際、ウマ(馬)という語がマ音の訛りでムマ、ウマと呼ばれたのだといった素朴な議論は排除されなければならない。ほとんどの人が文字を知らないなか、新しい言葉を根づかせるためには、地域を越えて皆が納得できる音を持った語でなければ浸透しない。そのためにどのような技を用いたのかについて研究することが大切である。道のりは遠く険しい。
(注4)科学的な態度から、存在するテキストから検証可能な次元でしか物事を考えなくなって久しい。ひと時代前には、上代語について不思議で奇抜な議論が繰り広げられ、それなりに成果としてあり、いくつかの辞書が残されている。この言葉の意味はもっと深いところにあるはずだ! というように、言葉について考えを究めようとする姿勢を放棄してはならない。それは“科学”ではないが、言葉は科学ではない。どこで、誰が、どのくらい、その言葉を使っているか、例えば、源氏物語で○○という言葉は△巻で使われるが、▽巻では使われないていない原因は何かといった問いは“科学”的研究である。ただし、やがてAIに取って代わられるものであろう。
研究者のなかには、研究のプライオリティを業績に関わる一大事とする傾向がある。しかし、相手は言葉である。戦前の日本では、ドイツ語を使う人が少なく、ドイツ語が科学の勉強のために必要とされた。けれども、ドイツへ行けば小学生でもドイツ語はできる。ヤマトコトバも同じで、今となっては、枕詞について感触すらほとんどわからなくなっているが、当時の人は子どもでもヤマトコトバを使っていた。その子どもでもできたことを、今の研究者が勉強して、新たにわかったからと言って純真から喜ぶのはともあれ、研究成果として得意になるのは何か違うのではないか。
古事記について、古代国家の正統性を謂わんとして構想されているといった議論がかまびすしい。しかし、古事記は基本的にお話である。話された音声言語がもとである。稗田阿礼が諳んじていた。ならばその真髄に迫るには、声として聞くのがいちばんの近道であろう。幸いなことに、中村2006.のCDがある。先入観なく聞いてみて、古事記は古代天皇制のために編纂されたものであるに違いないと思える人がどれほどいるのだろうか。皇統譜ばかりを聞くか、皇統譜を聞き流してお話部分を聞くか、常識的な聞き方をして頂きたい。話されていることだから、ねぇ、いまのところもう一回やって、というのはかまわないが、メモを取ってはならない。文字を持たず、“歴史”時代ではなかった。すべては story で、history ではなかった。だから逆に、言葉だけで口伝えに伝えることができた。換言すれば、小学生でもわかることしか残らない。それが古事記のお話である。
(注5)助詞のノについて、記紀万葉では「之」字をもって記されることがとても多く見られる。例えば、「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)」、「竺紫日向之高千穂之久士布流多気(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)」などとある。この「之」は正訓字とされ、万葉仮名の一覧表のノ乙類欄に、「之」字を見ることはない。シの「音仮名」とはされている。また、「者」字についても、助詞のハ(バ)とよんでいるけれど、一般には万葉仮名とはされていない。(例外的に、万732番歌に、「今時者四(今しはし)」とよんでいるケースのみ万葉仮名と捉えられている。)正訓字とは、「国」をクニ、「山」をヤマとよむのと同じく、漢字本来の意味にもとづくよみ方であるとされる。といって、「唐之長安之大雁塔」といった記し方を中国で漢文にしているのかよくわからない。和文の書き方として仮名的な発想に基づいて漢字を当てているように思われる。ヤマトコトバの文字化のために漢文を真似て用いたから倭習といった現象が起こっている。矢島2011.にも、「和語が前提とされているからこそ、しばしば漢文とは異なるシンタクスが現れると考えられる。」(256頁)とある。漢文訓読からヤマトコトバの助詞ノやハ、バが生れたのではなく、ヤマトコトバは大部分、もとからあり、またそのつど新しい言葉も作られ、さらに、漢文訓読から生れた語が加わった。ゴトシ(如)、イハク(曰)、シカリ(然)などである。助詞のノやハ(バ)はもともとあって、それを書き表わすために、漢文に見られた助辞の「之」や「者」、ほかにも「而(て)」や「耶(や)」の用法を無断で使ったのがヤマトの人たちである。筆者は「之」や「者」、「而」、「耶」も、「万葉仮名」であると考えたほうが古代の人の感覚に近いと考える。そうなると、概念規定において、大幅な変更を余儀なくされることになる。ちなみに、万葉仮名という概念以外の中古や中世の「仮名」として、「之(の)」は認められている。
(注6)矢島2011.では、「二神の名は、
意富=斗=能=地神
大 =斗=乃=弁神
という語構成であること、同時に神名の核は「斗(ト甲))」であることもしめされているのである。」(271頁)とあるが、食い足りない。反対に、
意富=斗=乃=地神
大 =斗=能=弁神
と記される可能性がなかったことこそ、「乃」が連体助詞ノに密接な字義となっていることによるものであったと考えられなくてはならない。
(注7)日本書紀では、「乃」字が使われず、代わりに「廼」字が用いられている。爾雅・釈詁に、「廼 乃也」、玉篇に、「廼 与レ乃同」、正字通に、「廼・乃 音義並同、故経伝雑二-用之一」とある。この「廼」(迺)の字は、紀にド乙類、ノ乙類の仮名として歌謡や訓注に用いられている。漢音にダイ、呉音にナイ、咍韻とされる。森博達氏の日本書紀巻別ではβ群にしか現れないので、「述作者」があまり気にしないで当てているものなのかもしれない。しかし、歌謡の音に当てる文字について、漢字の音を借りて書いた際に、後で読み返して誤謬が生じかねないままにしておくのは杜撰である。現代語の例であてにはならないかもしれないが、試験に受かったのは「運なの……」と「運など……」では、後に続く「……」の意味合いが正反対になる。運なのであったから授業についていけずに今は留年している、運などではなく実力であったから首席で卒業した、といった具合である。校閲の問題である。
句句廼馳(くくのち)(神代紀第五段本文)
贈廼夜覇餓岐廻(その八重垣ゑ)(紀1)
乙登多奈婆多廼(弟織女の)(紀2)
多磨廼弥素磨屢廼(玉の御統の)(紀2)
避奈菟謎廼(鄙つ女の)(紀3)
阿軻娜磨廼(赤玉の)(紀6)
飫悶廼奇(おものき)(神武前紀戊午年四月条)
比鄧誤廼伽瀰(魁帥(ひとごのかみ))(神武前紀戊午年八月条)
未廼那鶏句塢(実の無けくを)(紀7)
未廼於朋鶏句塢(実の多けくを)(紀7)
瀰菟破廼迷(罔象女(みつはのめ))(神武前紀戊午年九月条)
於佐箇廼(おさかの)(紀9)
比苔破易陪廼毛(人は云へども)(紀11)
曾廼餓毛苔(其のが本)(紀13)
飫迺餓烏塢(己が命(を)を)(紀18)
迺務(叩頭(のむ))(崇神紀十年九月条)
菟芸廼煩例屢(継ぎ登れる)(紀19)
珥倍廼利能(鳰鳥の)(紀29)
異枳廼倍呂之茂(いきどほろしも)(紀30)
枳虚曳之介廼(聞えしかど)(紀37)
瑳用廼虚烏(さ夜床を)(紀47)
謎廼利餓(雌鳥が)(紀59)
紀の「廼(迺)」字の「ノ乙類」に、古事記の「乃」字に一貫して見られた相即性の表明は見られない。ノ乙類とド乙類の両方に当てるぐらい適当といえる。
上に述べたとおり、筆者は、筆記するという作業に、言葉(音)→文字、と、文字→言葉という正反対の2つの側面が、あるときには離れて、あるときには表裏一体となって起きていると考えている。この日本書紀β群の筆録者は、言葉→文字として歌謡を書き記し、そのまま校閲せずに終了したのではないかと考える。「廼」と「迺」とが顧慮されずに混在していて、また、ノ乙類とド乙類とが同じ文字で表わされているのを見過ごしている。森博達氏の考究によると、日本書紀α群の歌謡は、唐代北方音によって音訳されて日本語の音韻が区別できるように工夫されているとする。ほかに、α群の漢文に倭習は少なく、正格漢文が多く、原史料の利用も透けて見えるという。そして、結論として、日本書紀α群の「述作者」は「渡来唐人」(森1999.173頁)ということとする。筆者は、「述作者」ではなく、「筆録者」に過ぎず、書いた後、校閲を受けたか受けていないかの違いではないかと考える。(β群とされる巻にも、α群で活躍した書き手が“追加記事”的に参加しているように思える部分が見える。また、拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎」の𣝅は、ウドである」参照。)なぜなら、歌謡にもヤマトコトバの洒落、それは、枕詞という、今となっては当の日本人さえ意味不明な言葉遣いを平気でやってのけているものを、外国人がいかにヤマトコトバに通暁したからといって、聞いた音を記すことはできても、己が力のみで作るのは至難の業であると思うからである。無文字文化の極度に発達したヤマトコトバは実にガラパゴス的でもあるし、オートロジックを目指してもいる。すなわち、ヤマトの人ファーストの産物であった。万葉集に、外国人や渡来一世の歌人がほとんど見られないことは、自国民中心主義ではなく、使っている言葉がなぞなぞ由来だからである。なぞなぞの経験は、ご承知のとおり、保育園、幼稚園から小学校低学年がピークである。その言語学習の時期に、ヤマトコトバ浸けの生活を送らなければ習得は難しい。少なくとも現代の文字文化のなかにあっては、大人になってからでは馬鹿馬鹿しくてできないものである。
(注8)「倭文織」をシツオリ、シツリの他に、シトリとよむ例が廿巻本和名抄の地名表記に見られる。だからシトリも鳥の一種だと考えることもできるかもしれない。ただ、筆者は、「倭文織」を積極的にシトリとよんでいない点に目が行く。紀や万葉集に、シツオリ、シツハタ、シツタマキなどとある。ハタオリ→ハトリというようには直結していっていない。古代の人はそこには“鳥”のことだと強く主張していないように思われるのである。それでも、織物の歴史はとても古いと推測され、そのことは、言葉の上でも、杼に当たるものがヒ甲類、綜絖に当たるものがヘ乙類(経)と一音節のごとく短い言葉であったことから確かめられる。ヒイと音を立てていたのか、ヘエと答えていたらしい原始機(それを機と呼んでいいのかわからないが)の復元を期待したい。命名に当たって、なぞなぞとして、日を経てもなかなか織り上がらないという洒落がいかほどか関与していたと考えている。シツオリは静かな織り、つまり、梭(杼)をそっとさし入れて静かに織っていったことらしい。アンギンか、招木を持たない尻もちをついた形の腰機かとも思われる。パタパタいうことはない。
(引用・参考文献)
大野1962. 大野透『萬葉仮名の研究―古代日本語の表記の研究―』明治書院、昭和37年。
中村2006. 中村吉右衛門朗読『古事記』新潮社、2006年。
矢島2011. 矢島泉『古事記の文字世界』吉川弘文館、2011年。
森1999. 森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か―』中央公論新社(中公新書)、1999年。
※本稿は、2017年1月稿を、2020年9月に改稿、整理したものである。
本稿では、その「音仮名」と「訓仮名」の境界線にひそむ闇について考える。たくさんの万葉仮名があるから、本来ならたくさん考えなければならないところであるが、筆者は、“闇”について気づいた点を述べる。いわゆる音仮名といわれるものと、訓仮名といわれるものの境目の曖昧さについて見てみたい。考察するためのベースとして、矢島2011.に作成の、古事記において用いられている単音節を表す音仮名一覧表を用いる。矢島氏は、記に使われる音仮名の使用頻度に着目して考究されている。本稿では頻度については特に考慮せず、音仮名をただ網羅する。片仮名の後に甲乙とあるのは、上代特殊仮名遣いの区別を指している。
ア(阿)、イ(伊)、ウ(宇、汙)、エe(愛、亜)、オ(意、淤、於、隠)、カ(加、迦、訶、甲、賀、可)、ガ(賀、何、加、我)、キ甲(岐、吉、伎、棄)、ギ甲(芸、岐)、キ乙(紀、貴、幾、記、疑)、ギ乙(疑)、ク(久、玖)、グ(具)、ケ甲(祁)、ゲ甲(下、牙)、ケ乙(気)、ゲ乙(宜、気)、コ甲(古、高、故)、ゴ甲(胡)、コ乙(許)、ゴ乙(碁、其)、サ(佐、沙、左)、ザ(耶、奢)、シ(斯、志、師、紫、色、新、芝)、ジ(士、自)、ス(須、州、主、周)、ズ(受)、セ(勢、世)、ゼ(是)、ソ甲(蘓、宗、素)、ソ乙(曽)、ゾ乙(叙、存)、タ(多、当、他)、ダ(陁、㐌、太)、チ(知、智)、ヂ(遅、治、地、知)、ツ(都、豆)、ヅ(豆)、テ(弖、帝)、デ(伝、殿、弖)、ト甲(斗、刀、土、兎)、ド甲(度)、ト乙(登、等、杼)、ド乙(杼、縢、騰)、ナ(那)、ニ(迩、尓、仁)、ヌ(奴)、ネ(泥、祢、尼)、ノ甲(怒、濃、努)、ノ乙(能、乃)、ハ(波、婆、芳、貝)、バ(婆、波)、ヒ甲(比、卑)、ビ甲(毗)、ヒ乙(斐、肥)、ビ乙(備)、フ(布、賦)、ブ(夫、服)、ヘ甲(弊、幣、平)、ベ甲(弁)、ヘ乙(閇、倍)、ベ乙(倍)、ホ(富、本、番、菩、蕃、品)、ボ(煩)、マ(麻、摩)、ミ甲(美、弥)、ミ乙(微、味)、ム(牟、武、无)、メ甲(売、咩)、メ乙(米)、モ甲(毛)、モ乙(母、木)、ヤ(夜)、ユ(由)、エje(延)、ヨ甲(用)、ヨ乙(余、与、豫)、ラ(良、羅)、リ(理)、ル(流、琉、留)、レ(礼)、ロ甲(漏、路、楼、廬)、ロ乙(呂、侶)、ワ(和、丸)、ヰ(韋)、ヱ(恵)、ヲ(袁、遠)(注1)。
古事記には、この一覧表にある音仮名ばかりでなく、訓仮名といわれるものもある。万葉集と同様である。日本書紀の歌謡の場合、すべて音仮名で表記されていることになっている(注2)。必然的に、紀のほうが記よりも音仮名の種類は多い。そんななか、記にあって紀にはない音仮名もある。一覧表を基準にしてみると、次のようなものがあげられる。
エe(愛、亜)、オ(隠)、ガ(何)、キ甲(伎)、ギ甲(岐)、ゲ乙(宜)、コ甲(高)、ゴ乙(碁、其)、ザ(耶、奢)、ス(州)、ゼ(是)、ソ甲(宗)、ゾ乙(存)、タ(他)、ヂ(地)、デ(伝、殿)、ド乙(縢)、ノ乙(乃)、ビ甲(毗)、ホ(本、番、菩、蕃)、ム(无)、メ乙(米)、ル(琉)、ロ甲(路)、ワ(丸)、ヲ(袁)
このうち、音の清濁によっては紀に見られる例として、「伎」はギ甲類、「岐」はキ甲類でよんでいる。偏などの追加削除変更で紀に見られる例として、「州」に近い「洲」をスとよんでいる。そういった例を除き、記に特有の音仮名の文字をあげると次のような例がある。
「愛」、「亜」、「隠」、「何」、「宜」、「高」、「碁」、「其」、「耶」、「奢」、「是」、「宗」、「存」、「他」、「地」、「伝」、「殿」、「縢」、「乃」、「本」、「番」、「菩」、「蕃」、「无」、「米」、「路」、「丸」、「袁」
居酒屋看板
問題は、古事記には音仮名以外に訓仮名があり、解釈を混乱させる点である。今日、「坐・和民」と看板が出ていれば、それはきっと「The 和民」をもじった店名のつけ方であろう、だからタイトルバックに za・watami とあって、車座に坐って飲める居酒屋で、ざわざわ感が出ていて宴会にもってこいであろうとわかる。つまり、「坐」の字は音仮名でザとよむに違いないと思っている。ところが、記に「坐」は訓仮名であり、ヱとよむ。据える意味の自動詞形が座るだから、古語に「すゑ」、そこから頭を略してヱに当てている。「額田部湯坐連」(記上)という人名の、「湯坐」をユヱとよむ。貴人の出産の際、産湯をつかわせる仕事をする人の意味である。もし古事記に「坐和民」とあったら、「和民に坐(いま)しき」の可能性も高いが、「ヱヤマトノオホミタカラ」、ああヤマトの国の人民たちよ、の意かもしれないのである。
上に例外とした「洲」について、日本書紀にスとよむのは、紀のなかで音の表記に音仮名を採用している傾向から、字音からスとよんでいると思っている。「州」は紀でツである。そういう万葉仮名ということになっている。「汶洲王(もんすわう)」(雄略紀二十一年三月)、「弥州流(みつる)」(神功紀四十六年三月)、「州流須祇(つるすき)」(神功紀四十九年三月)、「州利即爾将軍(つりそにしゃうぐん)」(継体紀七年六月)、「州利即次将軍(つりそししゃうぐん)」(継体紀十年九月)などとある。けれども、ヤマトコトバに川の中洲をいう洲は、スである。紀でも人名表記の「日葉洲媛命(ひばすひめのみこと)」(景行前紀)は、字訓づらをしている。「日」「葉」「媛」「命」、みな訓読みである。この人は、「日葉酢媛命」(垂仁紀十五年八月)と同一人物である。「洲」=「酢」をスとよむのは、「訓仮名」に当たるように思われてならない。ましてや、「洲」や「州」という字をスと古事記や万葉集などでよんだ場合、それをはたして「音仮名」であると言い切れるのか、疑問ということになる。
「す」看板(深川江戸資料館「江戸の看板」展展示品、木下大門氏蔵)
同じことは、記紀万葉に使われる「母」をモとよむ場合にもいえる。日本書紀では音仮名と言えても、古事記や万葉集では、母親のことを意味するオモというヤマトコトバに多くを負っているのかもしれない。漢字のよみ方のアンチョコ記憶法として、「母」→オモ→モという語呂合わせ記憶法があったかもしれないことは誰も否定できない。筆者は、ここに、「音訓仮名」という新しい概念定義を導入したい。音韻論にそういうことを論じたことがあるのか知らないが、漢字の成り立ちに関して会意兼形声文字というのがあるように、仮名に「音訓仮名」があって何ら不思議ではない。「洲(州)」という字が、字音(ス)と字訓(す)にたまたまであろうが一致をみて、ヤマトの人がそれに興味を持つことはけっして不自然なことではない。catalog に「型録」、dictionary に「字引く書也」と日本語を当てた先人のことを彷彿させる。
別の例をあげよう。「米」という字は、字音のメイからメとよむから音仮名であるとされている。けれども、ヤマトコトバにコメ(米、メは乙類)と呼ばれるものは、いつからコメと呼ばれるようになったのか。稲作が始まってからということであろうから、縄文時代晩期以降ということであろう。たかだか2000年ぐらいにすぎない言葉らしい。それでもコメと言っているからには、記に「米」とあるのが字音ばかりではなく、字訓のコメの後ろの発音に依っている可能性も捨てるわけにはいかない。紀ではメ乙類に「米」字は使われず、記には見られない「迷」字を使っている。太安万侶が何かを思って「迷」字を避けて「米」字を使ったのか、あるいは逆に、日本書紀編纂者が万葉集にも使われる「米」字を避けて「迷」字を使ったのか、聞いてみなければならない。日本書紀の音仮名指向からすれば、メ乙類に確実な字音でありつつ字訓ではない「迷」を意識的に選択したとも考えられる。
他の例として、「隠」という字は字音のオンからオとよむから音仮名であるとされている。けれども、ヤマトコトバにオニ(鬼)と呼ばれるものは、この「隠」の字音が言いづらいから on → oni というようになったとする説がある。和名抄に、「人神 周易に云はく、人神を鬼〈居偉反、和名は於邇(おに)。或説に云はく、於邇(おに)は隠奇(おんき)の訛れる也といふ。鬼は物の隠れて形を顕すを欲せざる故に以て称す也〉と曰ふといふ。唐韻に云はく、呉人は鬼と曰ひ、越人は◆(「幾」字の「人」の代わりに鬼、魕の異体字)〈音は蟻、又、音は祈〉と曰ふといふ。四声字苑に云はく、鬼は人の死にし神の魂也といふ。」とある。語源というものはもはや辿ることはできない。辿ることはできないが、当時の人の語源感覚のようなものが垣間見られる。オニ(鬼)という言葉が「隠」という字と関わりがあると思って早くから馴染んでいたとするなら、ヤマトコトバのオニの頭一音をとってオとよむべく、仮名として使われたと考えることができる。その正否はわからないが、仮定の上ではこういった例は、やはり一種の「音訓仮名」であると認められることになる。以上は話の前座である(注3)。
筆者の主張は、文字→言葉というこれまでの議論に修正を迫るものである。古代の人は、考え方として、言葉(音)→文字として仮名文字を考え書いたのであろうと考える。ワープロソフトに慣れてしまうと、文字→言葉という枠組みから抜け出せなくなる。しかし、俳句を捻っている人を見ていると、ぼそぼそと口ずさみながら指を折って数えている。進行方向は、確実に言葉→文字である。それが推敲の段階になると、文字→言葉へと返ってくる。俳句の先生の添削は、その両方向を同時進行で行う高度な言語活動である。万葉仮名の研究は、書き表されたテキストを分析的に取り扱うため、文字→言葉ばかりを俎上に載せることになる。けれども、最初の、文字に写し取る段階では、言葉→文字の過程があったはずである。もともとは文字がなかったのだから間違いない。言葉と文字の間の往ったり来たりの思考を無視しては、古代の人々の言語活動に関して、総合的な全体像をうかがうことはできない(注4)。
紀歌謡の表記は、一字一音の音仮名表記に限られる。定説であり、その通りであろう。けれども、いろは47文字、あいうえお50音に、それが平らな音、上っていく音、下がっていく音などと声点のような意識があったとしても、1つの音シに、子、之、芝、伺、嗣、斯、志、思、時、詩、師、旨、指、始、施、絁、矢、玆、試、資、辞、尸といった数多くの漢字を用いたのはなぜであろうか。用いていけないのではないし方針は貫かれてはいる。ただし統制がとれていない。その点に着目しなければならない。言葉→文字のことを考えないと肩透かしをくらうことになる。
ここでは、「乃」と「杼」について考える。
「乃」の音は、呉音でナイ、漢音でダイである。これが、ヤマトコトバのノ乙類に当てられている。咍韻で上古音に nəŋ といった発音であったからとされている。大野1962.には、「乃は古層の仮名で、奈良時代を通じて常用され、平安時代では片仮名・平仮名の字原となつてゐる。……ノ乙の仮名に適する〔咍〕韻泥母の字の内で最も少画の普通字乃がノ乙の最古の常用仮名に用ゐられる様になつたのは不思議ではない。」(175頁。漢字旧字体は改めた。)とある。ノ乙類は、紀では、「能」、「廼」という字で表わしている。万葉集では、「乃」、「能」以外に、訓仮名として、「箆」、「笶」、「荷」といった字が用いられている。矢の柄のことを「の(ノ乙類)」といったことや、「荷(に)」の古形が「の(ノ乙類)」だからその字を当てている(注5)。
筆者は、日本書紀に「乃」字が見られない点に不審をいだいている。古事記や万葉集で頻りに登場する「乃」字が、日本書紀の歌謡表記で「音仮名」として採用されなかったのには、ノ乙類に確実な字音とは確定しきれないものと捉え、「乃」字を意識的に排除したとも考えられる。すなわち、古事記でノ乙類の「乃」字は、上に提示した「音訓仮名」に当たるものではないかと考える。ヤマトコトバの「の(ノ乙類)」とは、代表的な言葉として、連体助詞の「の(ノ乙類)」がある。岩波古語辞典の詳細な解説を用例を省いて引く。
の 「つ」「が」に比較して用例も多く、用法も広い。しかし、連体助詞としての「の」の最も基本的な意味は、「右の歌」「須磨の海人」などのように存在の場所を示すことにあると認められる。これは現代ならば「…にある」というところである。この用法から転じて、行為・生産の行なわれる場所を意味し、そこから転じて、生産者・作者を意味する用法が発展した。一方、存在する場所を示す用法から、所有する人を意味した。また、所有と所属とでは、力の関係は逆であるが、古代的心性の表現としては、所有することと所有されることとはしばしば混同されたので、「の」にも所有と並んで所属の用法が存在する。また、古代的心性においては、所属しているということは、その所属しているものの属性を保持していることでもあるので、「の」は、属性を持つことを示す用法を展開した。「あはれの鳥」は、「あはれ」に所在する鳥、つまり「あはれ」に所属する鳥であり、「あはれ」という属性を保有する鳥である。こうした属性を示す用法から、「一杯の濁れる酒」「千万の軍」など、体言を修飾限定する「の」の用法が発展し、さらに「朝露の如、タ霧の如」のように、「ごと」(同一の意)を修飾する用法もあらわれている。なお、存在の場所を示す「吉野の山」のような用法から、「大和の国」のように、命名・指名の用法(「…という」と訳される)が現われ、「わが背の君」のような資格を示す用法に広まった。このようにして、「の」は「…にある」意から起り、「…である」と属性を示す用法に広まり、「…という」と資格を示す用法を併せ持つようになった。(1443頁)
「古代的心性」について筆者も同意見である。その部分に次のような用例があげられている。
み船さす賤男の伴は川の瀬申せ(万4061)
初春のはつねの今日の玉箒手にとるからにゆらく玉の緒(万4493)
くれなゐの色も移ろひ(万4160)
聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれの鳥といはぬ時なし(万4089)
「賤男の伴」を「伴の賤男」と言い換えても言い換えられそうである。「今日のはつねの初春の」でもかまわない気がする。つまり、ノという助詞、「AのB」は、本来的に、含み含まれる関係で、「A⊃B」でありつつ、「A⊂B」であるようなことになっている。これは、相即、「A=B」であること、つまるところ、「すなわち」ということである。漢文では、「乃」という字を使うことがある。とすると、「乃」という字は、字音をもってノ乙類に当てた音仮名であるといえるばかりでなく、字訓をもってノ乙類に当てた訓仮名であるとも言えるのである。これを、筆者は上に「音訓仮名」と称した。
矢島2011.の、古事記の音仮名の複用の研究では、ノ乙類には、主用仮名の「能」字362例に対して、「乃」字3例は非-主用仮名とされ、「必ずしも理解が容易とはいいがたい面」のある個所に、文節の区切りとなる指標として「連体助詞ノと結合度の高い非-主用の「乃」に着目」(127頁)させるために置かれているとする。前提として、古事記では、連体助詞ノにほとんど「能」が使われているからという。
上で筆者は、連体助詞ノの究極的なあり方は、「AのB」が、「A⊃B」∧「A⊂B」⇒「A=B」であると考えた。記の用例は次の3例である。
「次、意富斗能地神。次、妹大斗乃弁神。(次に、意富斗能地神(おほどのぢのかみ)。次に、妹大斗乃弁神(おほとのべのかみ))。」(記上)
「阿麻陁牟加流乃袁登売(天(あま)だむ 軽(かる)の嬢子(をとめ))」(記83)
「麻岐牟久能比志呂乃美夜波阿佐比能比伝流美夜(纏向の 日代の宮は 朝日の 日照る宮)」(記99)
第1例は、「此二神名亦以レ音。」と分注がついていながら、「大」字はオホと訓じているから、必ずしも「以レ音」ではない。わざとらしい洒落が効いている。矢島2011.は、「素知らぬふり」(271頁)と表現する。「意富斗能地神」の助詞ノに「能」、「大斗乃弁神」の助詞ノに「乃」とある。「乃」が純粋に「音」であるとは限られないことを示唆しつつ、「オホト⊃ベ(ヘ)」∧「オホト⊂ベ(ヘ)」⇒「オホト=ベ(ヘ)」であることを表しているのではないか(注6)。オホトノヘ(ホ、ノは乙類、ト・ヘは甲類)は、「大戸の重」、立派な戸の外のこと、ヘ甲類は隔てになるものの意である。大きな戸は隔てとなるものであるに決まっている。ト甲類(戸、門、外)とヘ甲類(重、辺)とは同義語関係にある。だから、「乃」字の本義に適っている。対するオホトノヂ(チ)は、「大戸の内」のことと捉えることができるが、その場合、ト(戸、外)とチ(内)とは反対語関係になるから、「乃」字の意に当たらず使いたくなくなる。
この伝でいくと、第2例目の「加流乃袁登売」とは、「カル⊃ヲトメ」∧「カル⊂ヲトメ」⇒「カル=ヲトメ」であると自明であることを、「乃」字によって表しているということになる。垂仁紀八十七年条に、五十瓊敷命(いにしきのみこと)が歳をとったから、石上神宮の神宝を管掌することができなくなった。ついては、妹の大中姫命(おほなかつひめのみこと)よ、あなたが代わりを務めてくれ、と頼む場面がある。兄妹なのだから、どっこいどっこいで年老いている。大中姫命は、「吾は手弱女人(たをやめ)なり。何ぞ能く天神庫(あめのほくら)に登らむ」と言って固辞している。女性が年齢を重ねると、腕力が弱くなるばかりではなく、メタボな体型になって懸垂はできないということでもあろう。逆に言えば、若い未婚女性は身軽なのである。また、ヲトメという語は、特に宮廷に仕える若い官女のことにもいう。指図すればすぐに立ち働いてくれる女性である。腰の重い、なかなか言うことを聞かないお局様とは異なる。だから、言葉の上で、カルといえばヲトメが思い浮かび、ヲトメといえばカルが思い浮かぶ構図が成り立っている。「乃」字の本義に適っている。
第3例目の、「麻岐牟久能比志呂乃美夜」について、矢島2011.は、「<纏向の日代>=の=宮」ではなく、「纏向=の=<日代の宮>」(128頁)という固定、修飾する関係を示そうとしたものと推定されている。けれども、「夜麻志呂能都々紀能美夜(山代の筒木の宮)」(記62)という例があり、「<山代の筒木>=の=宮」なのか、「山代=の=<筒木の宮>」なのか、書き分けていない。そこでは太安万侶に固定する気がなかったといえばそれまでだが、そうなると、どうして「麻岐牟久能比志呂乃美夜」は固定したかったか説明されなければならない。反証に値する例であろう。
ここも上と同様に考えることができる。「ヒシロ⊃ミヤ」∧「ヒシロ⊂ミヤ」⇒「ヒシロ=ミヤ」である。神さまのいらっしゃるところは、ヤシロ(社、屋代)である。天皇、つまり、日の御子のいらっしゃるところは、ヒシロ(日代)である。それをミヤ(宮、御屋)とも称したから、両者は等価の語であって、互いに互いを説明する自問自答、互訓である。よって、助詞ノの本義に適った「乃」字を用いている。「ヒシロノミヤ(日代宮)」なる地名は、普通名詞の固有名詞化したもの、例えば、「京都」といっているのと同じである。「京の都」という場合、「京乃都」と記せば、太安万侶は我が意を得たりと慶ぶのではないかと思う。後ろに続く「阿佐比能比伝流美夜(朝日の日照る宮)」の場合、この部分の助詞ノは、「夕日の日照る宮」でもあり得て相即の関係にはならないから、「乃」字は用いずに「能」字を用いている。
この傾向が、古事記の他の「能」の用例の助詞ノにおいて、絶対に「A⊃B」∧「B⊂A」、よって「A=B」ではないのか、筆者は検証していない。古事記の表記論の方にご批判を賜わりたい。なお、万葉集の助詞ノの表記において、「乃」が使われる際、必ずしも相即の関係にはないことは、少し例をみればわかる。「奈加弭乃音為奈利(中弭(なかはず)の音すなり)」(万3)とある。音など、弓に限らずいくらでも転がっている。万葉集の「乃」字は、音仮名に堕している(注7)。
次に、「杼」について考える。呉音にヂョ、漢音にチョである。魚韻で dǐo のような発音がド乙類になる理由は、大野透1962.に、「杼は中間層の仮名である。〔魚〕韻舌音字が乙類オ列の仮名に適する様になつて、〔魚〕韻澄母では比較的少画で、古代では親しみ深い字であつた杼が、ド乙の常用仮名として用ゐられる様になつたのは不思議ではない。……杼の仮名の使用に漢韓の字音表記の影響は考へられない。」(172頁)と説明されている。古事記でどうしてわざわざそういう字を選んでいるのか、ひょっとして「音訓仮名」ではないかと疑ってかかってみる。「杼」の意味は、機織りに使う「梭(ひ、ヒは甲類)」である。杼(梭)とは、緯糸をおさめた道具である。張られた経糸を互い違いに上げ下げした間を、左に右に互い違いに通していって、織物を織りあげていく。和名抄に、「杼 通俗文に云はく、緯を受けるを䇡〈今案ずるに、即ち杼字也、比(ひ)〉と曰ふといふ。亦謂はく、之れを梭〈蘇禾反、莎と同じ〉といふ。説文に云はく、杼は機の緯(よこいと)を持する者也といふ。」とある。中に糸巻きが入っていて、船のような形をしている。
左:大きな杼(金沢千秋著、亀井協従挿絵・越能山都登、寛政12年(1800)、新潟県立図書館/新潟県立文書館・越後佐渡デジタルライブラリーhttps://opac.pref-lib.niigata.niigata.jp/darc/opac/switch-detail.do?idx=0(17/67)をトリミング)、右:梭の模型(3、滑石製機織具、群馬県前橋市上細井稲荷山古墳出土、古墳時代、5世紀、東博展示品)
杼という道具を誰でも使うかといえば、そうでもない。機織りをする人しか手にすることはない。機織りができなければ嫁に行けないとされた地域もあるが、子だくさんであっても一家に何台も機があったとは考えにくい。特に、上質な布帛を織るためには熟練が必要である。専門の職工さんは、ハタ+オリの約から、ハトリと呼ばれている。「織部(はとりべ)」(応神紀二十二年九月)、「呉織(くれはとり)・穴織(あなはとり)」(応神紀三十七年二月)、「漢織(あやはとり)・呉織」(雄略紀十四年正月)、「……亦、呉服(くれはとり)の西素(さいそ)の二人を貢上(たてまつ)りき。」(応神記)などとある。ハトリのトは、仮名書きの例がないから甲乙を確定できないが、語構成からする音韻の法則から、トは乙類と推測されている。すると、ハトリという人は、ひょっとすると新種の「鳥(とり、トは乙類)」なのではないかと思えてくる(注8)。確かに、手先に操っている道具は杼である。新撰字鏡に、「杼䇡 同、除呂反、機持緯者絹織、比伊(ひい)」とあり、長く伸ばす音で示されていたこともあったらしい。上代のヒ(甲類)音は fi、いまに pi 音に近い。新撰字鏡のヒイは piː である。鳥が鳴いている。鳥が経糸の間を piːpiː 鳴きながら飛んでいる。仁徳記には、「売杼理(めどり(めとり))」(記66)とあり、女鳥王(めどりのひめみこ(めとりのひめみこ))の謂いである。鳥(とり)を仮名で表す際、「杼理」などと一度でも書いたことがあったら、その字面を見た人は、なるほどうまいこと書くなあと感心したことであろう。鳴き声のpiːpiː をも表している。そうなると、この「杼」という字は、はたして「音仮名」であると言い切れるか疑わしくなる。日本書紀では持統紀に、「土師連富杼(はじのむらじほど)」(持統紀五年十月)という人名がある。おそらくは「陰(ほど、ドは乙類)」というヤマトコトバの音のド乙類を「杼」字で表わそうとしたのであろうから、「音仮名」であると言って満足していて構わない。けれども、紀に「杼」字はここに限られる。古事記や万葉集には、「杼」字がたくさん出てくる。そして、ド乙類だけならまだしも、清音のト乙類に用いているケースがたびたび見られる。ピイピイ鳴く鳥が、アトリなのか、ニハツトリなのか、チドリなのか、ニホドリなのか、清濁どちらにでも対応可能な字音ヂョ、チョ両方を持っていることは当を得ている。このようなことを上代の人が考えたことがあったとしたら、それはもはや「音仮名」の範疇におさまると定め切ることはできない。「音訓仮名」であると主張したい。
纜(ともづな)の繰り出し(「器用貧乏な世界!」様「三方ローラーの修理」http://naock.jugem.jp/?eid=133)
ちなみに、機織りに使う杼は、船のような形をしていて、中の糸巻きから糸を出して行っている。糸は進行方向の後ろ側、船の船尾から出て行っていることに相当する。船尾から出すロープは、纜(艫綱、ともづな)である。船首が舳(へ)、船尾が艫(とも、トは乙類)である。上代語の接続助詞トモは、ト、ド、ドモなどと一緒に説明されている。再び、岩波古語辞典を用例を省いて引く。
とも 動詞型活用の終止形、形容詞型活用の連用形を承けて仮定条件を示し、下文に接続する助詞である。本来、指示する副詞の「と」と、不確実・不確定の意を表わす係助詞「も」の複合した語で、「と」が仮定の条件を指示し、それを「も」が承けて、「…ても」とその仮定条件すらも不確実であることを示す。その結果、終結部が、不確定判断で終止するものである。つまり、下に肯定の普通の終止が来ることはなく、放任とか、命令とか、意志、欲望、 推量、否定などの不確定な判断で終止する。なお、「既に…しているが…していても」と既に起ってしまった事を仮定形で述べる場合に使うこともある。この語法を修辞的仮定ということがある。……
ど・ども 活用語の已然形について逆接の既定条件を示す。これは、指示する副詞の「と」、またはその「と」に係助詞「も」のついた「とも」が已然形を承けて、条件を指示する用法が生じ、後にその「とも」の語頭が濁音化したものと思われる。「ど」と「ども」とのどちらが先に成立したかといえば、「ど」よりも「ども」の方が先に成立したものであろう。それは、この助詞は承ける用言の已然形の内容を否定する文章を導くのが役目であるから、そうした否定の役目を果すには、元来、指示する副詞の「と」だけでは不足で、その下に不確実・不確定・否定の意を表わす係助詞「も」を添える必要があったと思われるからである。それ故「ども」という濁音の語が成立した後になって、「も」が無くても逆接の条件を示しうるようになり、「ど」の形が成立したものであろう。……「ども」は已然形によって既に成立している条件から当然次に起る順当な結果とは逆の状態を導く。……当然、満足という結果が起るはずであるのに、「ども」が介入することによってその当然の結果を否定して、「不満足な今日だ」という句を導く。「ど」は「ども」と意味は全く同様である。(1455頁)
機織りの杼は、左に右に往き来することが繰り返される。右手から放たれたものを左手が受け取り、受け取ったらそれで終りではなく、足でもって綜絖を違えて経糸の上下を変え、今度は左手から右手方向へと反対に放つのである。これがほとんど永遠に続く。助詞のトモなどが、前にある已然形の言葉を承けつつそれを肯定するのではなく、逆になる言葉が続いていくのと同じ関係になる。反対へ送り返すのが杼なのだから、助詞ト・ドなどの用法と漢字「杼」とは対応関係にあると類推思考が働く。古事記の用例は、次の35例である。
蹈登杼呂許志(蹈み轟こし)(記上)
和杼理邇阿良米(我鳥にあらめ)(記3)
那杼理爾阿良牟遠(汝鳥にあらむを)(記3)
蘇邇杼理能(鴗鳥の)(記4)
袁佐閇比迦礼杼(緒さへ光れど)(記7)
袁登売杼母(媛女ども)(記15)
知杼理麻斯登々(千鳥真鵐)(記17)
那杼佐祁流斗米(など黥ける利目)(記17)
蠅伊呂杼(はへいろど(弟))(2)(神武記)
伊杼美(いどみ(挑))(崇神記)
阿礼波須礼杼(吾はすれど)(記27)
阿礼波意母閇杼(吾は思へど)(記27)
邇本杼理能(鳰鳥の)(記38)
美本杼理能(鳰鳥の)(記42)
伊耶古杼母(いざ子ども)(記43)
岐許延斯迦杼母(聞えしかども)(記45)
許々呂波母閇杼(心は思へど)(2)(記51)
意富々杼王(おほほどのみこ)(2)(応神記)
売杼理能(女鳥の)(記66)
佐賀斯祁杼(嶮しけど)(記70)
意富本杼王(おほほどのみこ)(允恭記)
志多杼比爾(下訪ひに)(記78)
加流袁登売杼母(軽嬢子ども)(記83)
阿加斯弖杼富礼(明して通れ)(記86)
都麻杼比(つまどひ(妻問))(雄略記)
袁杼比売(をどひめ)(3)(雄略記)
袁本杼命(をほどのみこと)(2)(継体記)
泥杼王(ねどのみこ)(欽明記)
須売伊呂杼(すめいろど)(欽明記)
助詞のド(ドモ)に6例、「鳥」に7例であり、また、piːpiː 鳴きそうな「子ども」、「軽嬢子ども」の例がそれぞれ見られる。計15例だけでは、古事記の「杼」の用字に上の類推が底辺にあったかどうか判断できない。他方、万葉集の歌の部分に使われる「杼」字では、助詞ト・ド(ドモ)に使われる例とそれ以外に使われる例は、それぞれ94例、69例であり(重出等は除く)、率にして57%ということになる。これを高い確率と捉えられるかについては、ヤマトコトバのト乙類、ド乙類全数を母数にして勘定しなけらばならない。ただ筆者は、この字を当初から選択的に用字した人の頭の中では、「音訓仮名」であったのではないかと考える。その後、ド乙類=「杼」と棒暗記した人にとっては、それは「音仮名」に堕したということであろう。
以上、万葉仮名の音仮名と訓仮名の間の闇について垣間見た。言葉を文字化する際に、奇妙な現象が起こった点について少しの例をあげた。あくまでも序論として垣間見たに過ぎない。なぞなぞのできる、洒落のわかる音韻論者の登場を俟ちたい。
ヤマトの人は、ヤマトコトバを熟成させておきながら文字を持たなかった。文字化しようとした時、よりによって隣国に表意兼表音文字の漢字を使う文明があり、それを借りることで文字化を達成した。そして、返り点を付けて外国語を読んでしまうことや、漢文風にヤマトコトバを表記することに成功している。日本書紀の漢文は、正格な漢文ではなく倭習であるといわれている。それは誤用というわけではない。ヤマトコトバを漢訳しようとしたのではなく、ヤマトコトバを表記して自民族に通用させようとしただけである。古事記や万葉集同様、何ら不都合なことはない。現在、記紀万葉を読む際には、ヤマトコトバを写し取った巧みさについて思いめぐらすことが大切である。往古の人たちの苦労を思うと頭が下がるばかりではないか。
(注)
(注1)矢島氏は、2音節以上の音仮名について別に検討している。古事記で地名のツクシ(筑紫)のことを「竺紫」と表しているのは、「竺」という2音節音仮名ツクによっている。当て字の意味を深謀すると面白いことがわかるが、本稿の主旨とは離れてしまうので別の機会に譲る。ここでは、いわゆる音仮名といわれるものと、訓仮名といわれるものの境目の曖昧さについて見てみたい。
(注2)なぜそうしたかについて、ここでは突っ込んだ議論は避ける。難訓とされる紀122番歌謡は明らかに訓仮名が混じっていると思うが、それについても別の機会に譲る。
(注3)オモ、コメ、オニといったヤマトコトバがいつ頃、どのように成り立ったかについてと、ヤマトコトバにおける漢字の文字採用との関係をも考慮しなくてはならない。朝鮮半島における吏読というよみ方のこともあわせて考えなければならないだろう。その際、ウマ(馬)という語がマ音の訛りでムマ、ウマと呼ばれたのだといった素朴な議論は排除されなければならない。ほとんどの人が文字を知らないなか、新しい言葉を根づかせるためには、地域を越えて皆が納得できる音を持った語でなければ浸透しない。そのためにどのような技を用いたのかについて研究することが大切である。道のりは遠く険しい。
(注4)科学的な態度から、存在するテキストから検証可能な次元でしか物事を考えなくなって久しい。ひと時代前には、上代語について不思議で奇抜な議論が繰り広げられ、それなりに成果としてあり、いくつかの辞書が残されている。この言葉の意味はもっと深いところにあるはずだ! というように、言葉について考えを究めようとする姿勢を放棄してはならない。それは“科学”ではないが、言葉は科学ではない。どこで、誰が、どのくらい、その言葉を使っているか、例えば、源氏物語で○○という言葉は△巻で使われるが、▽巻では使われないていない原因は何かといった問いは“科学”的研究である。ただし、やがてAIに取って代わられるものであろう。
研究者のなかには、研究のプライオリティを業績に関わる一大事とする傾向がある。しかし、相手は言葉である。戦前の日本では、ドイツ語を使う人が少なく、ドイツ語が科学の勉強のために必要とされた。けれども、ドイツへ行けば小学生でもドイツ語はできる。ヤマトコトバも同じで、今となっては、枕詞について感触すらほとんどわからなくなっているが、当時の人は子どもでもヤマトコトバを使っていた。その子どもでもできたことを、今の研究者が勉強して、新たにわかったからと言って純真から喜ぶのはともあれ、研究成果として得意になるのは何か違うのではないか。
古事記について、古代国家の正統性を謂わんとして構想されているといった議論がかまびすしい。しかし、古事記は基本的にお話である。話された音声言語がもとである。稗田阿礼が諳んじていた。ならばその真髄に迫るには、声として聞くのがいちばんの近道であろう。幸いなことに、中村2006.のCDがある。先入観なく聞いてみて、古事記は古代天皇制のために編纂されたものであるに違いないと思える人がどれほどいるのだろうか。皇統譜ばかりを聞くか、皇統譜を聞き流してお話部分を聞くか、常識的な聞き方をして頂きたい。話されていることだから、ねぇ、いまのところもう一回やって、というのはかまわないが、メモを取ってはならない。文字を持たず、“歴史”時代ではなかった。すべては story で、history ではなかった。だから逆に、言葉だけで口伝えに伝えることができた。換言すれば、小学生でもわかることしか残らない。それが古事記のお話である。
(注5)助詞のノについて、記紀万葉では「之」字をもって記されることがとても多く見られる。例えば、「八尺勾璁之五百津之美須麻流珠(やさかのまがたまのいほつのみすまるのたま)」、「竺紫日向之高千穂之久士布流多気(つくしのひむかのたかちほのくじふるたけ)」などとある。この「之」は正訓字とされ、万葉仮名の一覧表のノ乙類欄に、「之」字を見ることはない。シの「音仮名」とはされている。また、「者」字についても、助詞のハ(バ)とよんでいるけれど、一般には万葉仮名とはされていない。(例外的に、万732番歌に、「今時者四(今しはし)」とよんでいるケースのみ万葉仮名と捉えられている。)正訓字とは、「国」をクニ、「山」をヤマとよむのと同じく、漢字本来の意味にもとづくよみ方であるとされる。といって、「唐之長安之大雁塔」といった記し方を中国で漢文にしているのかよくわからない。和文の書き方として仮名的な発想に基づいて漢字を当てているように思われる。ヤマトコトバの文字化のために漢文を真似て用いたから倭習といった現象が起こっている。矢島2011.にも、「和語が前提とされているからこそ、しばしば漢文とは異なるシンタクスが現れると考えられる。」(256頁)とある。漢文訓読からヤマトコトバの助詞ノやハ、バが生れたのではなく、ヤマトコトバは大部分、もとからあり、またそのつど新しい言葉も作られ、さらに、漢文訓読から生れた語が加わった。ゴトシ(如)、イハク(曰)、シカリ(然)などである。助詞のノやハ(バ)はもともとあって、それを書き表わすために、漢文に見られた助辞の「之」や「者」、ほかにも「而(て)」や「耶(や)」の用法を無断で使ったのがヤマトの人たちである。筆者は「之」や「者」、「而」、「耶」も、「万葉仮名」であると考えたほうが古代の人の感覚に近いと考える。そうなると、概念規定において、大幅な変更を余儀なくされることになる。ちなみに、万葉仮名という概念以外の中古や中世の「仮名」として、「之(の)」は認められている。
(注6)矢島2011.では、「二神の名は、
意富=斗=能=地神
大 =斗=乃=弁神
という語構成であること、同時に神名の核は「斗(ト甲))」であることもしめされているのである。」(271頁)とあるが、食い足りない。反対に、
意富=斗=乃=地神
大 =斗=能=弁神
と記される可能性がなかったことこそ、「乃」が連体助詞ノに密接な字義となっていることによるものであったと考えられなくてはならない。
(注7)日本書紀では、「乃」字が使われず、代わりに「廼」字が用いられている。爾雅・釈詁に、「廼 乃也」、玉篇に、「廼 与レ乃同」、正字通に、「廼・乃 音義並同、故経伝雑二-用之一」とある。この「廼」(迺)の字は、紀にド乙類、ノ乙類の仮名として歌謡や訓注に用いられている。漢音にダイ、呉音にナイ、咍韻とされる。森博達氏の日本書紀巻別ではβ群にしか現れないので、「述作者」があまり気にしないで当てているものなのかもしれない。しかし、歌謡の音に当てる文字について、漢字の音を借りて書いた際に、後で読み返して誤謬が生じかねないままにしておくのは杜撰である。現代語の例であてにはならないかもしれないが、試験に受かったのは「運なの……」と「運など……」では、後に続く「……」の意味合いが正反対になる。運なのであったから授業についていけずに今は留年している、運などではなく実力であったから首席で卒業した、といった具合である。校閲の問題である。
句句廼馳(くくのち)(神代紀第五段本文)
贈廼夜覇餓岐廻(その八重垣ゑ)(紀1)
乙登多奈婆多廼(弟織女の)(紀2)
多磨廼弥素磨屢廼(玉の御統の)(紀2)
避奈菟謎廼(鄙つ女の)(紀3)
阿軻娜磨廼(赤玉の)(紀6)
飫悶廼奇(おものき)(神武前紀戊午年四月条)
比鄧誤廼伽瀰(魁帥(ひとごのかみ))(神武前紀戊午年八月条)
未廼那鶏句塢(実の無けくを)(紀7)
未廼於朋鶏句塢(実の多けくを)(紀7)
瀰菟破廼迷(罔象女(みつはのめ))(神武前紀戊午年九月条)
於佐箇廼(おさかの)(紀9)
比苔破易陪廼毛(人は云へども)(紀11)
曾廼餓毛苔(其のが本)(紀13)
飫迺餓烏塢(己が命(を)を)(紀18)
迺務(叩頭(のむ))(崇神紀十年九月条)
菟芸廼煩例屢(継ぎ登れる)(紀19)
珥倍廼利能(鳰鳥の)(紀29)
異枳廼倍呂之茂(いきどほろしも)(紀30)
枳虚曳之介廼(聞えしかど)(紀37)
瑳用廼虚烏(さ夜床を)(紀47)
謎廼利餓(雌鳥が)(紀59)
紀の「廼(迺)」字の「ノ乙類」に、古事記の「乃」字に一貫して見られた相即性の表明は見られない。ノ乙類とド乙類の両方に当てるぐらい適当といえる。
上に述べたとおり、筆者は、筆記するという作業に、言葉(音)→文字、と、文字→言葉という正反対の2つの側面が、あるときには離れて、あるときには表裏一体となって起きていると考えている。この日本書紀β群の筆録者は、言葉→文字として歌謡を書き記し、そのまま校閲せずに終了したのではないかと考える。「廼」と「迺」とが顧慮されずに混在していて、また、ノ乙類とド乙類とが同じ文字で表わされているのを見過ごしている。森博達氏の考究によると、日本書紀α群の歌謡は、唐代北方音によって音訳されて日本語の音韻が区別できるように工夫されているとする。ほかに、α群の漢文に倭習は少なく、正格漢文が多く、原史料の利用も透けて見えるという。そして、結論として、日本書紀α群の「述作者」は「渡来唐人」(森1999.173頁)ということとする。筆者は、「述作者」ではなく、「筆録者」に過ぎず、書いた後、校閲を受けたか受けていないかの違いではないかと考える。(β群とされる巻にも、α群で活躍した書き手が“追加記事”的に参加しているように思える部分が見える。また、拙稿「雄略即位前紀の分注「𣝅字、未詳。蓋是槻乎」の𣝅は、ウドである」参照。)なぜなら、歌謡にもヤマトコトバの洒落、それは、枕詞という、今となっては当の日本人さえ意味不明な言葉遣いを平気でやってのけているものを、外国人がいかにヤマトコトバに通暁したからといって、聞いた音を記すことはできても、己が力のみで作るのは至難の業であると思うからである。無文字文化の極度に発達したヤマトコトバは実にガラパゴス的でもあるし、オートロジックを目指してもいる。すなわち、ヤマトの人ファーストの産物であった。万葉集に、外国人や渡来一世の歌人がほとんど見られないことは、自国民中心主義ではなく、使っている言葉がなぞなぞ由来だからである。なぞなぞの経験は、ご承知のとおり、保育園、幼稚園から小学校低学年がピークである。その言語学習の時期に、ヤマトコトバ浸けの生活を送らなければ習得は難しい。少なくとも現代の文字文化のなかにあっては、大人になってからでは馬鹿馬鹿しくてできないものである。
(注8)「倭文織」をシツオリ、シツリの他に、シトリとよむ例が廿巻本和名抄の地名表記に見られる。だからシトリも鳥の一種だと考えることもできるかもしれない。ただ、筆者は、「倭文織」を積極的にシトリとよんでいない点に目が行く。紀や万葉集に、シツオリ、シツハタ、シツタマキなどとある。ハタオリ→ハトリというようには直結していっていない。古代の人はそこには“鳥”のことだと強く主張していないように思われるのである。それでも、織物の歴史はとても古いと推測され、そのことは、言葉の上でも、杼に当たるものがヒ甲類、綜絖に当たるものがヘ乙類(経)と一音節のごとく短い言葉であったことから確かめられる。ヒイと音を立てていたのか、ヘエと答えていたらしい原始機(それを機と呼んでいいのかわからないが)の復元を期待したい。命名に当たって、なぞなぞとして、日を経てもなかなか織り上がらないという洒落がいかほどか関与していたと考えている。シツオリは静かな織り、つまり、梭(杼)をそっとさし入れて静かに織っていったことらしい。アンギンか、招木を持たない尻もちをついた形の腰機かとも思われる。パタパタいうことはない。
(引用・参考文献)
大野1962. 大野透『萬葉仮名の研究―古代日本語の表記の研究―』明治書院、昭和37年。
中村2006. 中村吉右衛門朗読『古事記』新潮社、2006年。
矢島2011. 矢島泉『古事記の文字世界』吉川弘文館、2011年。
森1999. 森博達『日本書紀の謎を解く―述作者は誰か―』中央公論新社(中公新書)、1999年。
※本稿は、2017年1月稿を、2020年9月に改稿、整理したものである。