古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

万1895の「幸命在」の訓―垂仁記の沙本毘売命と天皇との問答における「命」字を参照しながら―

2020年01月05日 | 古事記・日本書紀・万葉集


 万1895は、次のように訓まれて解されている。

 春去れば まづ三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後(のち)にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも)〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)

 春になればまず咲く、サキクサのように、幸くあつたなら、後にも逢おうよ。恋をするなよ、わが妻よ。(全註釈73頁)
 春になるとまづ咲くといふ名のやうに、さきく、無事でゐたならば、後にも逢はう。だからそんなに恋しく思ふな。吾が妹よ。(注釈105頁)
 春になるとまず咲くさきくさのように、幸(さき)くあったら、後にも逢おう。そんなに恋うてはいけない、我が妹(いも)よ。(新大系438頁)
 春になるとまず咲くさいぐさのように、さいわい命さえ無事であるならまた後(のち)にも逢うことができよう。そんなに恋い焦れないでおくれ。お前。(古典集成41頁)
 春になると まず咲くさきくさの 幸(さき)くさえあったら あとでも逢(あ)えよう そう恋しがるなよおまえ(新編全集47頁)
 命さえ長らえているならばきっと後で逢うことができよう。あまり恋に心を苦しめるな、吾妹よ。(古典大系68~69頁)
 春になると真っ先に咲く三枝のように事もなく幸(さき)くあるなら、また後にも逢おう。そんなに恋しがるな。あなたよ。(全解51頁)
 春になるとまず最初に咲く三枝のように 幸(さき)く―無事であったら将来にも逢おう。 恋しく思わないでほしい。わが愛する妻よ。(全注132頁)
 春になると真っ先に咲く三枝のようにさきく(無事で)いたら、後に逢うこともあろう。恋に苦しむな吾妹よ。(全訳注原文付321頁)

 この歌は、万葉集の修辞法の「二重の序」としてとり上げられることがある。伊藤1976.には次のように考えられている。

 春去れば まづ三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらば 後(のち)にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも)〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)
 春になるといつもまっさきに咲く、その三枝というではないが、達者でいたら、将来、ナニハサテオイテモマッサキニ逢おうぞ、だから、そんなに恋い焦れるな。(伊藤1976.7頁)

 これは「二重の序」であるとみたうえでの拡大解釈である。そして、論理矛盾を引き起こしている。「後にも逢はむ」を「まづさき」の意と絡めてしまうと、その季節は「春」のことなのかという疑念が生じる。四句目の「後にも逢はむ」に掛け詞の掛かりが見られず、同形反復や同語反復も見受けられない。三句目までで説き起こしておいて、四・五句目を対置的に承けているとしか考えられない。時間的な先後、サキ←→ノチの対比によった言い回しと解される。この歌の主意である「な恋ひそ吾妹」をはっきりと伝えたい。歌の上の方でごちゃごちゃ掛かりながら、最後に言うことへとなだれ込んでいる。
 この歌を「二重の序」とする捉え方には、稲岡2011.も与している(注1)。そして、「幸くありて」と訓んで次のように解している。

 春(はる)されば まづ三枝(さきくさ)の 幸(さき)くありて 後(のち)にも逢(あ)はむ な恋(こ)ひそ吾妹(わぎも)〔春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹〕(万1895)
 春になるとまず咲く三枝のように、幸く(つつがなく)過ごしてまた後にきっと逢おう。だから徒らに恋しがらないでほしい、妻よ。」(和歌大系26頁)

 「○幸くありて―旧訓サキクアラバが諸注にも採られているが結句との照応を考えサキクアリテとする説(大浦誠士)が良い。」(和歌大系26頁脚注)としている(注2)
 一方、集中に「幸」とある場合、万5・191・196・295・315・322にイデマシ(幸、幸行、行幸)、万531・543・1032にミユキ(御幸、行幸)のほかは、サキクと訓み、その例は多い。「雖幸有(さきくあれど)」(万30)、「真幸有者(まさきくあれば)」(万141・288)、「間幸座与(まさきくいませと)」(万443)、「幸也吾君(さきくやあがきみ)」(万641)、「命幸(いのちさきく)」(万1142)、「幸在待(さきくありまて)」(万1668)、「幸来座跡(さきくきませと)」(万2069)、「幸座(さきくいますと)」(万2384)、「幸有者(さきくあらば)」(万3240・3241)、「言幸(ことさきく)」(万3253)、「真幸而(まさきくて)」(万3538)とある。
 これらサキクと訓む例は、「幸」の一字でサキクと訓んでいる。そんななか、万1895の「幸命」をサキクと訓むのであろうか。「幸命」の「命」字を life の意に解しているようであるが疑問である。集中で「命」字はミコト、イノチと訓むのが通例である。

 命をし 幸くよけむと 石走(いはばし)る 垂水(たるみ)の水を むすびて飲みつ〔命幸久吉石流垂水々乎結飲都〕(万1142)
 命(いのち)幸く 久しくよけむ 石走(いはばし)る 垂水(たるみ)の水を むすびて飲みつ〔命幸久吉石流垂水々乎結飲都〕(万1142)

 万1142は、一・二句目をどう句切るかで訓みが分かれるところである。それでもいずれにせよ、「命幸」をイノチ、サキクと丁寧に訓んでいる。万1895に「幸命」を熟語的にサキクとのみ訓むことには違和感がある。といって
、万1895の「春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹」の「幸命在」の「命」字をミコト、イノチのいずれにも訓むことはできない。他の用法を考慮する必要がある。



 古事記に1例ではあるが、「命」字を「令」字に通用し、使役形に使っていると見ることができる。垂仁記の記述である(注3)

 亦天皇、命詔其后言、「凡子名必母名、何称是子之御名」。(垂仁記)
 又命詔、「何為日足奉」。(垂仁記)

 亦天皇、其の后に詔(の)ら命(し)めたまひて言はく、「……」。
 又、詔ら命(し)めたまはく、「……」。

 現行の注釈書では、「亦(また)天皇、其の后に命詔(みことの)りして言はく、「……」」のように訓んでいる。また、白川1995.に、「〔記〕には使役の語にすべて「令」を用いる。」(401頁)とあるが、本居宣長・古事記伝では、「命詔」をノラシメタマハク、ノラシメタマヘルニと訓んでいる。そして、「○命詔、命ノ字は令の誤ならむと、師の云れたる、然るべし、上にも、令天皇ニとある令の如し、【此(ココ)は、直(タダ)に詔ふには非ず、御使して伝へ詔ふなれば、令とあるべきなり、天皇命(スメラミコト)と書ることも、上巻にあれと、此(ココ)は然には非じ、また詔を命詔とも云べけれど、然にもあらじ、】下文の命詔も同じ、」(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1920821(58/577)、漢字の旧字体等は改めた。)と解説している。
 この使い方が有りなのは、「命AB」が使役を含む言い方、Aに命じてBせしむ、の意に使われているからである。容易に命じられているのだから、命じる相手は相対的に身分が低いかとても仲のいい間柄の人であろう。

 公、之れを聞きて怒り、命じて其の人を黜(しりぞ)けしむ。〔公聞之怒、命黜其人。〕(世説新語・黜免第二十八)
 聊か故人に命じて之れを書せしめ〔聊命故人之〕(陶淵明・飲酒二十首序)
 葛城襲津彦の孫玉田宿禰に命(おほ)せて、瑞歯別天皇の殯(みもがり)を主(つかさど)らしむ。〔命葛城襲津彦之孫玉田宿禰、主瑞歯別天皇之殯。〕(允恭紀五年七月)
 屯倉首、命(ことおほ)せて竈傍(かまわき)に居(す)ゑて、左右(こなたかなた)に秉燭(ひとも)さしむ。〔屯倉首命居竈傍、左右秉燭。〕(顕宗即位前紀)
 有司(つかさ)に命(みことのり)して、其の玉を得し由(よし)を推(かむが)へ問はしめたまふ。〔命有司、推-問其玉所得之由。〕(仁徳紀四十年是歳)
 虞人(やまのつかさ)に命(みことのり)して獣(しし)駈(か)らしめたまふ。〔命虞人獣。〕(雄略紀四年八月)

 垂仁記の例は、天皇と、沙本毘古王(さほびこのおほきみ)の稲城に逃げ入ってしまった后(沙本毘売命(さほびめのみこと))との間の問答である。天皇と后との間には距離があって、直接言っているのではない。託(ことづけ)て伝えている。戦闘状態で籠城中の后に伝えるのだから、軍隊にいる斥候なりに「詔」を代わりに言わせている。
 天皇と后との間の問答は状況を変えながら4対話されている。それらをみると、天皇は、最初が「詔」((2))、2・3回目が「命詔」((3)と(5))、4回目が「問」((7))によって発語している。稲城のなかにいる后と、それを包囲している陣にいる天皇は、離れたところにいる。物理的な距離を心理的な距離と交えながら表している。

 (1)令白天皇、「若此御子矣、天皇之御子所思看者、可治賜」。
 (2)於是天皇詔、「雖其兄、猶不其后」。
 (3)亦天皇命詔其后言、「凡子名必母名、何称是子之御名」。
 (4)爾答白、「今当火焼稲城之時而火中所生、故其御名宜本牟智和気御子」。
 (5)又命詔、「何為日足奉」。
 (6)答白、「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉」。
 (7)又問其后曰、「汝所堅之美豆能小佩者、誰解」。
 (8)答白、「旦波比古多多須美智宇斯王之女、名兄比売・弟比売、茲二女王、浄公民、故宜使也」。

 (1)は后側から発している。「令白」めなくてはならないほど離れている。使者を立てて天皇のところまで行かせて言いたいことを言っている。(2)は「詔」だけしている。その兄は怨むがやはり后は愛しいと言っている。この言葉は后までは聞こえていないであろう。自軍内での独り言である。敵方に聞かせるような内容ではない。だから、「故、即有后之心。」と注釈が続いている。
 次の場面で天皇は、(3)と(5)においてきちんと后に聞いてもらうように言っている。遠いから使者が立った。それが「命詔」である。(4)と(6)は后が、その遣わされた使者の問いに答えている。使者は后の前に来ているから「答曰」でいい。(6)に続き、「故、随其后白、以日足奉也。」という経過説明があって、(7)へとつながっている。時間が経って稲城包囲網はどうなったか。(4)に、「今当火焼稲城之時」とあるから稲城に火が放たれて少しずつ延焼して行っているのであろう。天皇側は猛攻するわけではなかったが、火が回ってきても最後まで降伏しなかった。だから、最終的に、「然、遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦従也。」ということになっている。死因はともに焼死ということになる。投降すれば助かった命であるし、反撃する手立てもなかったのに、そうはしなかった。周りから焼けていくから包囲網は当初よりもずっと狭くなっていて、天皇と后との間の距離は物理的に近づいていた。したがって、(6)と(7)とで「問其后曰」、「答白」という言い回しになっている。呼びかければ直接聞えて直接答えられた。その内容も、「汝所堅之美豆能小帒」の話になっていて、ふぐりの話までしている(注4)。男女間の濃密な関係の相談である。天皇と后という立場でもって戻ってほしいと願うのではなく、男と女の関係としてどうだろうかと恋慕している。しかし、下働きの女を使えと、やんわり返されてしまった。后は反乱を起こしたその兄のほうに最後まで従った。
 これほどまできちんと書き分けられている。「命詔」という書き方は、それなりの含意があってのことであり、「命詔」を熟語的にミコトノリスと捉えることは誤りである。本居宣長・古事記伝の訓みは正しかった。

 三

 さて、以上から敷衍して万1895の「命」字を考えてみると、「在」であるようにと非常に仲良しの「吾妹」に「命」じているのだと理解できる。すなわち、訓みは、使役の助動詞シムの命令形、シメと訓むことが適当である。シムの命令形シメが歌にあらわれている例は、万葉集中に垣間見られる(注5)

 佐保過ぎて 寧楽(なら)の手向(たむけ)に 置く幣は 妹を目離(か)れず 相見しめとそ〔佐保過而寧楽乃手祭尒置幣者妹乎目不離相見染跡衣〕(万300)
 布施(ふせ)置きて 吾は乞ひ祷(の)む 欺かず 直(ただ)に率(ゐ)行きて 天道(あまぢ)知らしめ〔布施於吉弖吾波許比能武阿射無加受多太尒率去弖阿麻治思良之米〕(万906)
 …… 上つ瀬の 鮎を食はしめ 下つ瀬の 鮎を食はしめ 麗(くは)し妹に 鮎を惜しみ 麗し妹に 鮎を惜しみ ……〔……上瀬之年魚矣令咋下瀬之鮎矣令咋麗妹尒鮎遠惜……〕(万3330)
 伊香保ろに 天雲(あまくも)い継ぎ かぬまづく 人とおたはふ いざ寝しめとら〔伊香保呂尒安麻久母伊都藝可努麻豆久比等登於多波布伊射祢志米刀羅〕(万3409)
 岩の上(へ)に い懸(かか)る雲の かのまづく 人そおたはふ いざ寝しめとら〔伊波能倍尒伊可賀流久毛能可努麻豆久比等曽於多波布伊射祢之賣刀良〕(万3518)
 …… 月立たば 時もかはさず なでしこが 花の盛りに 相見しめとそ〔……都奇多々婆等伎毛可波佐受奈泥之故我波奈乃佐可里尒阿比見之米等曽〕(万4008)
 霍公鳥 夜鳴きをしつつ 我が背子を 安眠(やすい)な寝しめ ゆめ情(こころ)あれ〔霍公鳥夜喧乎為管和我世兒乎安宿勿令寐由米情在〕(万4179)
 平(たひら)けく天皇(すめら)が朝廷(みかど)に伊加志夜久波叡(いかしやくはえ)の如(ごと)く仕(つか)へ奉(まつ)り佐加叡志米(さかえしめ)賜(たま)へと称辞(たたへこと)竟(を)へ奉(まつ)らくと白(まを)す(延喜式・祝詞・春日祭)

 万1895の「命」を助動詞シムの命令形と訓むと、読み添えではないから訓み方にブレはなく、しかも三句目が字足らずから解放される。三句目で切れて四句目でも切れ、言い聞かせている歌である。万4179の例のように、命令形シメが歌の中間にある場合、それまでに言ってきたことと同等のことを、後ろの句も言っている。万1895に当てはまる。

 春去先三枝幸命在後相莫戀吾妹
 春去れば まづ三枝(さきくさ)の 幸(さき)くあらしめ 後(のち)にも逢はむ な恋ひそ吾妹(わぎも)
 春になるとまず咲くさきくさのように、幸(さき)くあるようにしなさい。後にも逢いましょうぞ。そんなに恋い焦がれては身に毒というものです、我が妹(いも)よ。

(注)
(注1)稲岡2001.では、「五七の二句あるいは五七五の三句(もっと長い場合は、二四五六歌のように四句のこともある)にわたる序詞を譬喩として、恋の「思い」を立ち上がらせることは、人麻呂が特に力を入れて開発した<文字の歌>の修辞技法(レトリック)だったと考えられる。」(180頁)としている。枕詞が被枕詞を導いて全体で序詞となってつづく言葉を導いている例や、小序が下の言葉を導いて全体で序詞としてさらに下の言葉を導くといった、雨垂れ式の修飾関係一式と同様に「二重の序」も理解している。しかし、「二重の序」の本質は言葉の連なりが下へ下へと続くばかりか、最後からまた最初へと循環している点にある。文字に書いて作ったのではなく、歌いながら自ら輪唱するように作られている。木霊するような歌であって、口に歌われることによってこそ生まれるものであると考える。拙稿「万葉集の修辞法、「二重の序」について」参照。
(注2)大浦2001.は、万1895について、「幸くあらば」と訓むことに否定的で、「幸くありて」と訓むべきと主張する。原文は「幸命在」で、「ば」が読み添えであるから他の可能性を考えるべきであるとしている。その整理に、「(ま)幸く」は、A《「(ま)幸く」+仮定表現》、B《「(ま)幸く」+命令表現》》、C《「(ま)幸く」+願望・意志表現》、D1《「(ま)幸く」+「て」……「む」》、D2《「(ま)幸く」+「て」……命令表現》、Eその他、と類型化している。そして、「人麻呂歌集略体歌において(塙本の訓によれば)「ば」の無表記例が三三例、表記例が一三例であるのに対し、「て」は無表記例が六二例、表記例が一例と、読み添えの数においても率においても、「て」の読み添えが「ば」の読み添えを大きく凌ぐことから考えて、「幸くありて後にも逢はむ」と訓む可能性も否定できないのである。むしろそう訓んだ方が、結句で「な恋ひそ我妹」と自分を恋しがる妹をたしなめ慰める内容と整合性を持つのではなかろうか。……後世の羈旅歌では「幸く」がかなり強固な類型を以て歌われる……。比較的用例の多い、《「(ま)幸く」+命令表現》の形式とその変形としての《「幸く」+願望・意志表現》の形式の他、《「(ま)幸く」+「て」》の形式では、残る者の立場から歌われる場合には《「(ま)幸く」+「て」~命令表現》の形式を取るのに対して、旅ゆく者の立場から歌われる場合には《「(ま)幸く」+「て」~「む」》の形式を取るというように、かなり明確にその用法の類型を導くことができるのである。」(36頁)と検証している。以上、大浦2001.の行論を引いた。
(注3)垂仁記の該当部分は、次のように訓むことができる。
 爾くして天皇、「吾は殆(ほとほと)に欺(あざむ)かえつるかも」と詔(の)りたまひて、乃ち軍(いくさ)を興(おこ)して沙本毘古王を撃つ時、其の王(みこ)、稲城(いなき)を作りて待ち戦ふ。此の時、沙本毘売命、其の兄(え)に得(え)忍びずて、後門(しりつと)より逃げ出でて、其の稲城に納(い)りぬ。此の時、其の后、妊身(はら)みませり。
 是に天皇、其の后の懐妊(はら)みませるを忍(しの)びず、及(また)愛(え)の重(へ)三年(みとせ)に至(いた)ります。故(かれ)、廻(めぐ)れる其の軍、急(すむや)けくは攻迫(せ)めず。如此(かく)逗留(とどこほ)れる間に、其の妊(はら)める御子既に産(あ)れます。故、其の御子を出して、稲城の外(と)に置きて、天皇に白(まを)さ令(し)むらく、「若し此の御子を天皇の御子と思ほし看(め)さば、治め賜ふべし」とまをさしむ。是に、天皇、「其の兄(せ)を怨むれども、猶愛(え)なる其の后を得(え)忍びず」と詔りたまふ。故、即ち、后を得たまふ心有り。是を以て軍士(いくさびと)の中に力士(ちからびと)の軽捷(はや)きを選(え)り聚めて宣(の)りたまはく、「其の御子を取らむ時に、乃ち其の母王(ははみこ)を掠(かそ)ひ取れ。髪にもあれ手にもあれ、取り獲(え)む随(まにま)に掬みて控(ひ)き出すべし」とのりたまふ。……
 亦、天皇、其の后に詔(の)ら命(し)めて言はく、「凡そ子の名は必ず母の名(なづ)くるを、何(いか)にか是の子の御名(みな)を称(い)はむ」といふ。爾くして答へて白さく、「今、火の稲城を焼く時に当りて火中(ほなか)に生(あ)れましぬ。故、其の御名は本牟智和気御子(ほむちわけのみこ)と称(い)ふべし」とまをす。又、詔(の)ら命(し)めたまはく、「何(いか)に為(し)て日(ひ)足(た)し奉らむ」とのらしめたまへば、答へて白さく、「御母(みおも)を取り、大湯坐(おほゆゑ)・若湯坐(わかゆゑ)を定めて、日足し奉るべし」とまをす。故、其の后の白す随に日足し奉りき。
 又、其の后を問ひて曰く、「汝(な)の堅(かた)めしみづの小帒(をふくろ)は誰かも解かむ」といへば、答へて白さく、「旦波比古多々須美智宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)の女(むすめ)、名(な)は兄比売(えひめ)・弟比売(おとひめ)、玆の二(ふたはしら)の女王(おほきみ)、浄き公民(おほみたから)なり。故、使ふべし」とまをす。然(しか)して、遂に其の沙本比古王を殺し、其のいろ妹(も)も亦、従ひき。
(注4)
左:「小帒」、右:「負帒」(真福寺本古事記、中巻と上巻、国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184138(23/57)とhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1184132(22/46)をそれぞれトリミング)
 「汝所堅之美豆能小帒」とある。「帒」字は真福寺本、兼永筆本にいずれにもそうある。「小佩」と見てヲヒモと訓むのが趨勢であるが、新校古事記に「小帒」をコフクロと訓んでいる。小さいながらヲ(雄・男・夫)である基であるから、ヲフクロと訓むべきと考える。陰嚢のことである。「汝()」でなければ性欲の処理に困ると言ったところ、商売女ではない「浄公民」を「宜使也」と返されている。「名()」は「旦波比古多々須美智宇斯王(たにはのひこたたすみちのうしのみこ)」の娘である。訓字では、丹波彦縦道大人王の意であろうか。「浄」字は記中にこの1例に限られる。多く仏教語に用いられた。戒律を遵守して道を正しているということを表しているものと考えられる。ヲ(雄・男・夫)と同音のヲ(峰)の対がタニ(谷)であり、そこからタニハが持って来られているか。タタスは陰茎を「立たす」、ミチ(ミは甲類)は精液を「満ち」、ウシは「大人」とも記されるからであろう。睾丸が2つあるから「兄比売・弟比売、玆二女王」を使うようにと言っているようである。そんなラインまで話は行っていつつ行き違っている。「然」はシカレドモ、シカアレドモと逆接に訓んで、攻撃を引き延ばしたけれども、の意と解する説は誤りである。セックスの話まで公言しても断られているのである。シカシテ、と時間的な前後を示して、「遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦従也。」と話が終っている。
(注5)漢文訓読に、使役形にシムと訓む例は平安時代以降に続いている。平安時代以降、命令形は和文にシメヨ、漢文訓読にシメと区別されている。今日に至っては、シムは漢文訓読に始まったかと感じられるかもしれないが、ヤマトコトバを漢文訓読が踏襲したものである。
色葉字類抄(国会図書館デジタルコレクションhttp://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186813(76/126)をトリミング)

(引用文献)
伊藤1976. 伊藤博『萬葉集の表現と方法 下 古代和歌史研究6』塙書房、昭和51年。
稲岡2001. 稲岡耕二『人麻呂の工房』塙書房、2011年。
大浦2001. 大浦誠士「有間皇子自傷歌の表現とその質」『萬葉』第178号、平成13年9月(『万葉集の様式と表現―伝達可能な造形としての〈心〉―』(笠間書院、2008年)所収)。
古典集成 青木生子・井出至・伊藤博・清水克彦・橋本四郎校注『新潮古典文学集成 萬葉集三』新潮社、昭和55年。
古典大系 高木市之助・五味智英・大野晋校注『日本古典文学大系6 萬葉集三』岩波書店、昭和35年。
白川1995. 白川静『字訓 普及版』平凡社、1995年。
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉『新校古事記』おうふう、2015年。
新大系 佐竹昭広・山田英雄・工藤力男・大谷雅夫・山崎福之校注『新日本古典文学大系2 萬葉集二』岩波書店、2000年。
新編全集 小島憲之・木下正俊・東野治之校注訳『新編日本文学全集8 萬葉集③』小学館、1995年。
全解 多田一臣訳注『万葉集全解4』筑摩書房、2009年。
全注 阿蘇瑞枝『萬葉集全注 巻第十』有斐閣、平成元年。
全註釈 武田祐吉『増訂萬葉集全註釋 八』角川書店、昭和31年。
全訳注原文付 中西進校注『万葉集全訳注原文付(二)』講談社(講談社文庫)、1980年。
注釈 澤瀉久孝『萬葉集注釋卷第十』中央公論社、昭和37年。
和歌大系 稲岡耕二『和歌文学大系3 萬葉集(三)』明治書院、平成18年。

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